【ハタチの】JAL123便 墜落の真実 完結編10【夏です】

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126NASAしさん
週刊朝日7/15号読んだ。

【事故当時〜】
・「慶子さんがかわいい」と理由だけで高崎の病院につめかける人もいた。
 「たまたま事故に遭っただけ。私はスターじゃない。そっとしておいて」
・松江の病院に転移、退院後もマスコミの写真取材は過熱。
 一部の「ファン」とおぼしき人々によるストーカーまがいの行為に長く悩まされていた。
 自宅に嫌がらせの電話も頻繁にかかるようになり電話番号を変えたこともあった。
 昔の田舎の家は鍵なんてかけないから誰でも入ってくる状態。
 マスコミやら子供やら。
 ウロウロと自転車に乗った人がきたり東京の人もいた。
 手紙を持ってきたり違う服を着て何度も現れたりする人もいた。
 そんなことが事故後10年ぐらい続いた。
 「こんなことされるんなら、あの時お母さんらと一緒に自分も死んでたら良かった」
 と慶子さんはそう言ってたこともあった。
・中学生の頃、お昼時に家の近くの畑の方にばーっと走っていって大きい声で
 「お母さーん」と叫んでいたことがある。
 伯母が「大きい声で呼びなさい」と言ってあげた。そんなことが2、3回あった。
 「お母さん、今どこらへんまでいってるかなあ」と言ってたこともある。
 人工衛星みたいなのが見えるときがあるでしょう、そういうのを見て・・・

【近 況】
・02年秋に結婚式を挙げた。その後子供が1人生まれた。
 夫は年下の営業マンで、子供は色白でかわいらしい男の子である。
 育児が楽しくてしょうがない。仕事は辞めている。
・飛行機に乗ることは平気である。
 事故の後3年ぐらいはだめだったが、友達と乗るようになって今は抵抗がない。
 しかし123便事故の話しをすると落ち込むというかPTSDのような症状が出る。
・「マスコミの取材はこれからも絶対に受けない。何も喋らない」と前から決めている。
 いつまでも注目されるのは嫌だろうし、自分で手記を書くこともないだろう。