宮台とひろゆきがロフトで対決!

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オマエモナーくらいしか言えない人が多い中、
誠実な答え返してくれてとても嬉しい感じ。

近代的な文脈としての大人の解釈というのは良く分かります。
そしてそれは良く聴かれますよね。それはその解釈を突き詰め
ていくと、とどのつまりは「個の自立」だってことになるからです。
でも個なんてそう簡単に成り立たせる事が出来ないってのは、
数々のファシズムに彩られた今世紀をみれば分かるわけです。
さて、ここで36に書かれた事は一見分かりそうで、少し疑問が
あります。日本では江戸時代以降、自分の意志を抑圧することが
求められたというのですが、西欧は違うのでしょうか?
ま、江戸以降に限らず、和をもって貴しをなすのは日本の
民族性ともいえるものです。そしてそれは西洋的な唯一神を
持たないで共同体において人間を生かす巧妙な構造をもっていた
といえ、中世から近世、そして近代化以降もキリスト教という
世界観をついに受け入れる事がなかったということからも、
今でも我々の心理に受け継がれている民族性ともいえると思います。
「とりあえず主張する個」というのは何処か退いた眼で観られるのは
確かですよね。その「主張する個」が共同体の利益や民族の歴史の
連続性に反するものである可能性が存在する以上、共同体の論理は
それを受け入れないのです。

さて、西欧はどうでしょう? もともと西欧の個人主義はむろん
キリスト教がその根底にありますよね。とりわけプロテスタンティズム
ですけど、神との契約によってなりたっている人間。その契約は
ユダヤ教のような民族、一族、いわゆる集団との契約ではなく、
その人間一個との契約なのです。神の前では誰しも独りであるわけです。
西欧の個人は意志の抑圧をされていないどころか、最高存在に
抑圧されまくっているわけですよね。でもそれだけでは無いんです。
プロテスタンティズムにおける最良の信仰は「自分の意志を持たないこと」
なんですよね。「良心に従え」というが人間の考える事は常に間違い
だってのがルターの言っていることです。だから人間は極力考えてはいけない
んです。
不思議ですね。個を主張する人間の根底にあるものは神への信頼
でしょう?しかし神への信頼があれば個を主張する必然性に疑問が出て来る
わけですよね。

長くなってしまって。。。
大人とは如何様なものか?でしたね(笑)。
近代的自我によって大人を語ることは僕は敢えてしません。
むしろ日本の民族性をとるんです。
しかし、近代的自我というものの育成に勤めて来た我々
というのは無視出来ませんよね?
結局、主張する個は迫害を甘受せねばならないということに
尽きるのではないでしょうか?
それはコバヤシヨシノリ的なプロフェッショナリズムという
道もあるかも知れませんし、とにかく迫害に耐えて結果を出す
ということですよね。そしてそれはなんらかの形で共同体に
参画するべきものでなければいけないのではないでしょうか?

主張する個が結果を出す。もしその結果が踏みにじられるという
事態があったとして、その問題は西欧とか日本とかに関係ないと
思うのです。