『構築主義の社会学』

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843名無しさん@社会人
10) 「構築主義の成熟のために」、『週刊読書人』第2385号、2001年5月4日
上野千鶴子編『構築主義とは何か』勁草書房、2800円
いい本だ。たとえば社会問題も歴史的事実も、文化人類学的報告の対象も、手に触ることができるモノのように転がっているわけではないという認識。
誰かが差別に苦しんで異議申し立てをするという行為と相即的に社会問題が浮上し、歴史的事件を物語るという行為と相即的に史実が構成されるという認識が熟成されていくとき、
われわれは、社会問題や史実という概念が当初から孕む繊細な存在論的揺れに一層敏感になる。
また、自分を病気だと感じること、自分の身体が女性または男性としての性同一性をもつと感じ、または感じないということのなかに、
「実在の反映」という機序とは異なる意味形成が作動しているという認識を獲得することは、言語や社会、文化などという媒介項がもつ重大な意味を改めて確認することでもあった。
構築主義がもたらした存在論の揺さぶりは、きわめて大きな射程をもっていた。それは間違いない。
844名無しさん@社会人:2005/07/24(日) 15:22:35
 だがあえていうなら、この本は少し遅きに逸した感がある。
現時点ではすでに、性差や史実や社会問題が社会的に構成されたものだ、という主張は一定の理解者をえ、
その立論を頭ごなしに否定する人が多数派だとは考えにくい。
確かに、分野によっては依然として実在論の牙城は頑丈に見え、構築主義の主張が繰り返される必要がなくなったというわけではない。
だが、構築主義は、ポストモダニズムなどの後ろ盾をえて、ある文脈で若干行きすぎを犯した感がある。
言語の媒介性に重きを置くということは、なにも「すべて」が概念装置の分節で決まるということを意味するものではなく、
身体の生理的位相をも一種の社会構成性のなかで料理し尽くすというのは、あざとい力業にすぎない。
しかも、たとえば「史実の構成的性格」という主張は、「ホロコーストの社会的構成」といった鬼子を生み出す可能性を抱えている。
より一般に、構築主義が目の敵にしてきた「本質主義」や「支配的言説」なるものも、一度として明確な定義が与えられたことはなく、
それは本書でも基本的に変わらない。論敵を単純化したうえで、自分の繊細さを誇るというパターンは、そろそろやめにしてはどうか。
「支配的言説」なるものの支配的性格が、力づく、脅迫、圧制としてしか現れないものではなく、
より大きな調整力や説得力のなせる技だという場合もあるのだという主張をすることは、頑迷な保守主義者の繰り言なのではない。
845名無しさん@社会人:2005/07/24(日) 15:23:53
 要するに、現時点で行われるべき作業は、かなりのインパクトを与えてきたことは紛れもない構築主義を、
今一度、より古典的な発想から眺め直し、ねばり強く両者のすりあわせを図るということにある。
確かにそれをなんとか試みようとする論文も掲載されている。
北田論文のなかでの「存在の金切り声」を聴こうという提言は、その試みに連なる。
また、編者の上野自身は「歯切れが悪い」と形容する中谷論文ではあるが、それは、その種のすりあわせに敏感な感性を示したものとして高く評価できる。
私は、すべてをご破算にしろといっているのではない。構築主義が単なるテーゼの連呼から、より慎重で微妙な立論に耐え抜くだけの「体力」を備えたものになれるかどうか、
それは、いま私が「すりあわせ」と呼んだ作業にどれだけ真剣になれるかにかかっている。それは構築主義の衰微ではなく、成熟なのである。

ttp://www.p.u-tokyo.ac.jp/~kanamori/Shohyo3.htm