▽▲▽三島由紀夫の社会学▼△▼

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518名無しさん@社会人
(中略)
日本人は、相手(パートナア)といふ観念を持たない。武道の稽古の相手は敵手であるが、拳闘のスパーリングの
相手はスパーリング・パートナアなのである。すなはちパートを受持ち、或る役割を演ずる対等者である。
この観念のないことが、同性愛やサド・マゾヒズムの「関係」を解明することを困難にし、異性愛のアナロジーでしか
見られないまちがつた観察を流布させることになる。
(中略)
サディズムが特に男性的特質でもなく、マゾヒズムが特に女性的特質でもなく、男性の側に限つて云へば、
サディズムは男の理智的批評的分析的究理的側面に結びつき、マゾヒズムは男の肉体的行動的情感的英雄的側面と
結びつき易いことが察せられ、精神はサディズムの傾向をひそめ、肉体はマゾヒズムの傾向を内包すると
考へられるであらう。もつと通俗的に云へば、サディズムは好奇心で、マゾヒズムは度胸なのである。

三島由紀夫「All Japanese are perverse」より
519名無しさん@社会人:2012/01/10(火) 14:26:11.29
通例、サディズムは支配と統制と破壊の意志であり、マゾヒズムは忠誠と直接行動と自己破壊の傾向であるが、
性愛独特の逆説により、同時にこの逆をも内包する。(中略)サディズムもマゾヒズムも、いづれも他人を
道具視する「利用の性愛」であると同時に、一方又、いづれも、人間の自己放棄の根元的な二様のあらはれの
一つだからである。私がかう説明することによつて、政治学の領域に近づきつつあることを、すでに読者は
察せられたであらう。サド・マゾヒズムこそは、人間の性愛の、もっとも政治学的分野なのである。
因みにナルシシズムの直接的な延長上にマゾヒズムが位置することは多言を要しないが、もちろん、そのやうな
ナルシシズムは純肉体的ナルシシズムであつて、「身を隠したナルシシズム」すなはち知的精神的社会的
ナルシシズムは、往々サディズムへ傾くであらう。又、心理的マゾヒズムは、むしろナルシシズムの逆である。

三島由紀夫「All Japanese are perverse」より