421 :
名無しさん@社会人:
子供のころの私は、寝床できく汽車の汽笛の音にいひしれぬ憧れを持ち、ほかの子供同様一度は鉄道の機関士に
なつてみたい夢を持つてゐたが、それ以上発展して、汽車きちがひになる機会には恵まれなかつた。今も昔も、
私がもつとも詩情を感じるのは、月並な話だが、船と港である。
このごろはピカピカの美しい電車が多くなつたが、汽車といふには、煤(すす)ぼけてガタガタしたところが
なければならない。さういふ真黒な、無味乾燥な、古い箪笥(たんす)のやうなきしみを立てる列車が、われわれが
眠つてゐるあひだも、大ぜいの旅客を載せて、窓々に明るい灯をともして、この日本のどこか知らない平野や
峡谷や海の近くなどいたるところを、一心に煙を吐いて、汽笛を長く引いて、走りまはつてゐる、といふので
なければならない。なかんづくロマンチックなのは機関区である。夜明けの空の下の機関区の眺めほど、ふしぎに
美しくパセティックなものはない。
三島由紀夫「汽車への郷愁」より
422 :
名無しさん@社会人:2011/05/29(日) 17:56:18.98
空に朝焼けの兆があれば、真黒な機関車や貨車の群が秘密の会合のやうに集ひ合ふ機関区の眺め、朝の最初の
冷たい光りに早くも敏感にしらじらと光り出す複雑な線路、そしてまだ灯つてゐる多くの灯火などは、一そう
悲劇的な美を帯びる。
かういふ美感、かういふ詩情は、一概に説き明すことがむづかしい。ともかくそこには古くなつた機械に対する
郷愁があることはまちがひがない。少くとも大正時代までは、人々は夜明けの機関区にも、今日のわれわれが
夜明けの空港に感じるやうな溌剌とした新らしい力の胎動を感じたにちがひない。大体、パリへ行くと気のつく
ことだが、パリでは地下鉄ですらすでに古ぼけてゐて、駅の出入口の意匠にも、鋳鉄の煩瑣な模様がついてゐる。
機械文明そのものの古びた趣は、ニューヨークでさへ高架鉄道によく見られたが、それもあらかた取り壊されて
しまつた。
機械といふものが、すべて明るく軽くなる時代に、機関区に群れつどふ機関車の、甲虫のやうな黒い重々しさが、
又われわれの郷愁をそそるのである。
三島由紀夫「汽車への郷愁」より
423 :
名無しさん@社会人:2011/05/29(日) 17:56:44.16
頼もしくて、鈍重で、力持ちで、その代り何らスマートなところのなかつた明治時代の偉傑の肖像画に似たものを、
古い機関車は持つてゐる。もつと古い機関車は堂々とシルクハットさへ冠つてゐた。
しかし夜明けの機関区の持つてゐる一種悲劇的な感じは、それのみによるものではない。産業革命以来、
近代機械文明の持つてゐたやみくもな進歩向上の精神と勤勉の精神を、それらの古ぼけた黒い機関車や貨車が、
未だにしつかりと肩に荷つてゐるといふ感じがするではないか。それはすでにそのままの形では、古くなつた
時代思潮ともいへるので、それを失つたと同時に、われわれはあの時代の無邪気な楽天主義も失つてしまつた。
しかし人間より機械は正直なもので、人間はそれを失つてゐるのに、シュッシュッ、ポッポッと煙をあげて
今にも走り出しさうな夜明けの機関車の姿には、いまだに古い勤勉と古い楽天主義がありありと生きてゐる。
それを見ることがわれわれの悲壮感をそそるともいへるだらう。
三島由紀夫「汽車への郷愁」より
424 :
名無しさん@社会人:2011/05/29(日) 17:57:12.52
そしてそこに、私は時代に取り残された無智なしかし力強い逞ましい老人の、仕事の前に煙草に火をつけて
一服してゐる、いかつい肩の影までも感じとるのである。
それは淋しい影である。しかしすべてが明るくなり、軽快になり、快適になり、スピードを増し、それで世の中が
よくなるかといへば、さうしたものでもあるまい。飛行機旅行の味気なさと金属的な疲労は、これを味はつた人なら、
誰もがよく知つてゐる。いつかは人々も、ただ早かれ、ただ便利であれ、といふやうな迷夢から、さめる日が
来るにちがひない。「早くて便利」といふ目標は、やはり同じ機械文明の進歩向上と勤勉の精神の帰結であるが、
そこにはもはや楽天主義はなく、機械が人間を圧服して勝利を占めてしまつた時代の影がある。だからわれわれは
蒸気機関車に、機械といふよりもむしろ、人間的な郷愁を持つのである。
三島由紀夫「汽車への郷愁」より