1 :
名無しさん@社会人:
2 :
名無しさん@社会人:2010/09/10(金) 11:17:36
スキャンダルの特長は、その悪い噂一つのおかげで、当人の全部をひつくるめて悪者にしてしまふことである。
スキャンダルは、「あいつはかういふ欠点もあるが、かういふ美点もある」といふ形では、決して伝播しない。
「あいつは女たらしだ」「あいつは裏切者だ」――これで全部がおほはれてしまふ。
当人は否応なしに、「女たらし」や「裏切者」の権化になる。一度スキャンダルが伝播したが最後、世間では、
「彼は女たらしではあるが、几帳面な性格で、友達からの借金は必ず期日に返済した」とか、「彼は裏切者だが、
親孝行であつた」とか、さういふ折衷的な判断には、見向きもしなくなつてしまふのである。(中略)
マス・コミといふものが、近代的な大都会でも、十分、村八分を成立させるやうになつた。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栄養料理『ハウレンサウ』」より
3 :
名無しさん@社会人:2010/09/10(金) 11:19:03
遊び、娯楽、といふものは、むやみと新らしい刺戟を求めることでもなく、阿片常習者のやうな中毒症状を
呈することでもなく、お金を湯水のやうに使ふことでもなく、日なたぼつこでも、昼寝でも、昼飯でも、
散歩でも、現在自分のやつてゐることを最高に享楽する精神であり才能であらう。(略)プロ野球見物と
庭の水まきと、どつちが現在の自分にとつてもつともたのしいか、といふことに、自分の本当の判断を
働らかすことが、遊び上手の秘訣であらう。世間の流行におくれまいとか、話題をのがさぬやうにとか、
「お隣りが行くから家も」とか、「人が面白いと言つたから」とか、……さういふ理由で遊びを追求するのは、
人のための遊びであつて、自分のための娯楽ではないのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より
4 :
名無しさん@社会人:2010/09/10(金) 11:19:43
世の女性方は、たとへイギリス製の生地の背広を着こなした紳士の中にも、「ガーン!」「ガバッ!」
「ガシーン!」「バシーン!」などの擬音詞に充ちた低俗なアクションへの興味が息をひそめてゐることを、
知つておいて損はなからう。
男にとつては、いくつになつても、そんなに「バカバカしい」ことといふものはありえない。
「バカバカしい」といふ落着いた冷笑は、いつも本質的に女性的なものである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 いかもの料理『大人の赤本』」より
5 :
名無しさん@社会人:2010/09/10(金) 11:26:07
大体私は現在のオウナー・ドライヴァー全盛時代に背を向けて、絶対に自分の車を持たぬといふ主義を
堅持してゐる。何のために車を持つか?一刻も早く目的地へ到達するためだらう。ところが私の家から
都心までは、ラッシュ・アワーでも、バスと国電を使つて三十五分で確実に行くのに、車を利用すれば早くて
四十五分はかかる。これでもなほ車に乗るのは、どうかしてゐる。(中略)
電車なら、推理小説だのスポーツ新聞だのに読み耽つてゐるうちに、あつといふ間に目的地へ着いてしまふ。
一切あなたまかせだからイライラすることもないのである。
都会生活の真髄は能率とスピードだらう。車を持つこと、いやただタクシーに乗ることさへ、今や能率と
スピードに背馳しつつある。あとにのこる車の御利益と言つたら見栄だけだが、かう猫も杓子も車を持つやうに
なつたら、一向見栄にもならない。見栄にも実用にもならぬことに、どうしてお金を使はなければならないのだらう。
三島由紀夫「社会料理三島亭 クヮンヅメ料理『自動車ラッシュ』」より
6 :
名無しさん@社会人:2010/09/10(金) 11:27:27
よく人の家へ呼ばれて、家族の成長のアルバムなんかを見せられることがある。ところがこんなに退屈な
もてなしはない。人の家族の成長なんか面白くもなんともないからである。写真といふものには、へんな魔力がある。
みんなこれにだまされてゐるのである。ある家族が、自分の家族の成長の歴史を写真で見れば、なるほど
血湧き肉をどる面白さにちがひない。しかもそれが写真といふ物質だから、物質である以上、坐り心地のよい
椅子が誰にも坐り心地よく、美しいガラス器が誰が見ても美しいやうに、面白い写真といふものは、誰が見ても
面白からうといふ錯覚・誤解が生じる。そこでアルバムを人に見せることになるのであらう。(略)
大部分の写真は、不完全な主観の再現の手がかりにすぎない。それは山を映しても、ふるさとの懐しい山といふ
ものは映してくれない。ただ「ふるさとの懐しい山」を想ひ起す手がかりを提供してくれるにすぎない。
「ふるさとの懐しい山」といふものは、あくまでこちらの心の中にあるので、その点では、われわれ文士の
用ひる言葉といふやつのはうが、よほど正確な再現を可能にする。
三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より
7 :
名無しさん@社会人:2010/09/10(金) 11:28:19
いちばんいい例が赤ん坊の写真である。
他人の赤ん坊ほどグロテスクなものはなく、自分の赤ん坊ほど可愛いものはない。そして世間の親がみんな
さう思つてゐるのだから世話はない。
公園で乳母車を押した母親同士が出会つて、
「まあ、可愛い赤ちゃん」「まあ、お宅さまこそ。何て可愛らしいんでせう」などとお世辞を言ひ合ふが、
どちらも肚の中では、『なんてみつともない赤ん坊でせう。まるでカッパだわ。それに比べると、うちの
赤ん坊の可愛らしいこと!…(略)』さう思つてゐる。
カメラはこの「可愛い赤ん坊」を写すのである。実は、本当のことをいふと、カメラの写してゐるのは、
みつともないカッパみたいな未成熟の人間像にすぎないが、写真は、言葉も及ばないほど、「可愛い赤ん坊」の
手がかりを提供する。(略)かへすがへすも注意すべきことは、自分の赤ん坊の写真なんか、決して人に
見せるものではない、といふことである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より
8 :
名無しさん@社会人:2010/09/10(金) 11:32:53
私はこの世に生をうけてより、只の一度も赤い羽根を買つたことがない。そのシーズンの盛期に、大都会で、
赤い羽根をつけないで暮すといふ絶大のスリルが忘れられないからだ。赤い羽根をつけないで歩いてごらんなさい。
いたるところの街角で、諸君は、何ものかにつけ狙われてゐる不気味な眼差を感じ、交番の前をよけて通る
おたづね者の心境にひたることができる。自分は狙われてゐるのだといふ、こそばゆい、誇らしい気持に
陶然とすることができる。もし赤い羽根をつけて歩いてごらんなさい。誰もふりむいてもくれやしないから。
冗談はさておき、私は強制された慈善といふものがきらひなのである。(略)
駅の切符売場の前に女学生のセイラー服の垣根が出来てゐて、カミつくやうな、もつとも快適ならざるコーラスが、
「おねがひいたします。おねがひいたします」と連呼する。
私がその前を素通りすると、きこえよがしに、「あの人、ケチね」などといふ。
「アラ、心臓ね」「図々しいわね」と言はれたこともある。
三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より
9 :
名無しさん@社会人:2010/09/10(金) 11:33:27
これは尤も、通るときの私の態度も悪いので、なるべく悪びれずに堂々とその前をとほるのが、よほど鉄面皮に
見えるらしい。しかし、ただ胸を張つてその前を通るだけのことで、鉄面皮に見えるなら、それだけのことが
できない人は、単なる弱気から、あるひは恥かしさから、醵金箱(きよきんばこ)に十円玉を投じてゐるものと
思はれる。一体、弱気や恥かしさからの慈善行為といふものがあるものだらうか?それなら、人に弱気や
羞恥心を起させることを、この運動が目的にしてゐると云はれても、仕方がないぢやないか?
大体、弱気や恥かしさで、醵金箱にお金を入れる人種といふものは、善良なる市民である。電車で通勤する
人たちがその大半であつて、安サラリーの上に重税で苦しめられてゐる人たちである。さういふ人たちの善良な
やさしい魂を脅迫して、お金をとつて、赤い羽根をおしつける、といふやり方は、どこかまちがつてゐる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より
10 :
名無しさん@社会人:2010/09/10(金) 11:34:28
もつと弱気でない、もつと羞恥心の欠如した連中ほど、お金を持つてゐるに決つてゐるのだから、おんなじ
脅迫するなら、そつちからいただく方法を講じたらどうだらう。大体、私のやうに、赤い羽根諸嬢の前を
素通りすることで鉄面皮ぶつてゐる男などは甘いもので、もつと本当の鉄面皮は、ひよこひよこそんなところを
歩いてゐるひまなんぞなく、車からビルへ、ビルから車へと、ひたすら金儲けにいそがしいにちがひない。(中略)
本来なら、慈善事業とは、罪ほろぼしのお金で運営すべきものである。さんざん市民の膏血をしぼつて大儲けを
した実業家が、あんまり儲かつておそろしくなり、まさか夜中に貧乏人の家を一軒一軒たづねて、玄関口へ
コッソリお金を置いて逃げるのも大変だから、一括して、せめて今度は罪ほろぼしに、困つてゐる人を助けよう
といふ気で金を出す。これが慈善といふものだ。ところが日本の金持は、政治家にあげるお金はいくらでも
あるのに、社会事業や育英事業に出す金は一文もないといふ顔をしてゐる。(略)
三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より
11 :
名無しさん@社会人:2010/09/10(金) 11:34:52
ちつとも世間に迷惑をかけず、自分の労働で几帳面に仕入れたお金なんかは、世間へ返す必要は全然ないのである。
無意味な税金を沢山とられてゐる上に、たとへ十円でも、世間へ捨てる金があるべきではない。その上、赤い
羽根なんかもらつて、良心を休める必要もないので、そんな羽根をもらはなくても、ちやんと働らいてちやんと
獲得した金は、十分自分のたのしみに使つて、それで良心が休まつてゐる筈である。
さんざんアクドイことをして儲けた金こそ、不浄な金であるから、世間へ返さなければ、バチが当るといふ
ものである。(中略)
社会保障は、憲法上、国家の責務であつて、国が全責任を負ふべきであり、次にこれを補つて、大金持が金を
ふんだんに醵出すべきであり、あくまでこれが本筋である。しかし一筋縄では行かないのが世間で、(略)
助けられる立場にゐながら、人を助けたい人もある。赤い羽根も無用の強制をやめて、さういふ人たちを
対象に、静かに上品にやつたらいいと思ふ。
三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より
12 :
名無しさん@社会人:2010/09/10(金) 11:38:08
一体、「日本人が何をクリスマスなんて大さわぎをするんだ」といふ議論ほど、月並で言ひ古された議論はなく、
かういふ風にケチをつければ、日本へ輸入された外国の風習で、ケチをつけられないものはあるまい。もともと
クリスマスは宗教の風習化で、宗教のはうは有難く御遠慮申し上げて、何か遊ぶ口実になるたのしさうな
ハイカラな風習のはうだけいただかうといふところに、日本人の伝来の知恵がある。識者の言ふやうに、
日本人が外国人なみ(と云つてもごく少数の信心ぶかい外国人なみ)に、敬虔なるクリスマスをすごすやうな
国民なら、とつくの昔に一億あげてキリスト教に改宗してゐたであらう。ところが日本人の宗教に対する
抵抗精神はなかなかのもので、占領中マッカーサーがあれほど日本のキリスト教化を意図したにもかかはらず、
今以てキリスト教徒は人口の二パーセントに充たぬ実情である。そして肝腎のクリスマスは、商業主義の
ありつたけをつくした酒池肉林の無礼講、あたかも魔宴(サバト)の如きものになつてゐる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より
13 :
名無しさん@社会人:2010/09/10(金) 11:38:32
私は日本のクリスマスといふのは、日本にすつかり土着した、宗教臭のない、しかもハイカラなお祭なのだと
思つてゐる。オミコシをかついであばれまはる町内のお祭は、今日ではもう、ごく一部の人のたのしみになつて
しまつた。ミコシをかつぐ若い衆も年々少なくなり、しかもどこの町内でも、ミコシかつぎが愚連隊に占領
されるおそれがあるので、折角のオミコシを出さないところもふえて来た。
こんな町内のお祭以外には、紀元節も天長節も失つた民衆は、文化の日だのコドモの日だのといふ官製の
舌足らずの祭日を祝ふ気にはなれない。そこで全然官製臭のない唯一のお祭であるクリスマスをたのしむやうに
なつたのはもつともである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より
14 :
名無しさん@社会人:2010/09/10(金) 11:39:11
半可通の「文化人」がにやけたベレーをかぶつて、パリの貧乏生活の思ひ出をたのしむ巴里祭などより、
どれほどクリスマスのはうが威勢がよいかわからない。それに例の「ジングル・ベル」の音楽も、今では、
「ソーラン節」や「おてもやん」程度には普及してきたのである。(中略)
一昨々年は、ニューヨークで、三軒ほどの私宅によばれて、清教徒的クリスマス、インテリ的クリスマス、
デカダン的クリスマス、と三様のクリスマス・パーティーを味はつたが、清教徒的家庭的健康的クリスマスの
つまらなさはお話にならず、いい年をした大人が、合唱したり、遊戯をしたり、安物のプレゼントをもらつて
よろこんだりする、田舎教会的雰囲気は、とても私ごとき人間には堪へられるところではなかつた。よく外国へ
行つたら家庭に招かれて、家庭のクリスマスを味はふべきだ、などと言ふ人があるが、そんな話はマユツバ物である。
クリスマスを口実に、淡々と呑んだり踊つたりといふのが、世界共通の大人のクリスマスといふのだらう。
三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より
15 :
名無しさん@社会人:2010/09/10(金) 11:40:06
…クリスマスは、キリスト教においても、本当は異教起源のお祭で、ローマの冬至の祭、サトゥルヌス祭の
馬鹿さわぎに端を発し、収納祭の農業的行事であつた。それを考へると、日本人がクリスマスを、その正しい
起源においてとらへて、ただのバカさわぎに還元してしまつたといふ点では、日本人の直観力は大したものである。
しかも、誠心誠意、このバカさわぎ行事に身を捧げて、有楽町駅の階段に醜骸をさらすほど、古代ローマの神事に
忠実な例は、あんまり世界にも類例を見ないのである。これもキリスト教に毒されなかつた御利益といふべきか。
ところが私には、妙な気取りがあつて、祭のオミコシをかついだ経験から言ふのだからまちがひないが、日本の
祭のミコシなら、ねぢり鉢巻でかつぎまはつて、恥も外聞もかまはずにゐられるのに、クリスマスといふ
ハイカラなお祭には、そのハイカラが邪魔をして、どうもそこまで羽目を外す気にはならないのである。
日本にゐて外国の祭にウツツを抜かすといふことに、何となく抵抗を感じる。「クリスマス、クリスマス」と
喜ぶのが何だか気恥かしいのである。(略)
三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より
16 :
名無しさん@社会人:2010/09/10(金) 11:40:44
ところで文化人知識人といふヤカラは、安保デモではプラカードをかつぎ、巴里祭にはベレーをかぶり、
クリスマスには銀座のバア歩きもやるくせに、どうして、日本のオミコシをかつがうとしないのであらう。
そこのところが、どうしても私にはわからない。
多分ハイカラ知識人は肉体的に非力で、オミコシなんか重くてかつげないものだから、軽いプラカードを
かついでゐるのではなからうか。あれなら子供ミコシほどの目方もありはしない。
クリスマスも、日本の神事祭事に比べて、ただ目方が軽いから、ここまで普及したのではあるまいか。日本の
祭には、たのしいだけでなく、若い衆に苦行を強制する性格があるからである。お祭といふのは、本当はもつと
苦しいものである。苦しいからあばれるのである。もつとも、年末は丁度借金取の横行するシーズンで、
形のある重いオミコシよりも、無形の借金の重さを肩にかついで、やけつぱちで呑みまはりさわぎまはる
「苦シマス」が、日本的クリスマスの本質なのかもしれない。
三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より
17 :
名無しさん@社会人:2010/09/11(土) 12:20:38
この間伊豆の田舎の漁村へ取材に行つてゐて、その村のたつた一軒の宿に泊り、夕食に出された新鮮な魚が、
ほつぺたが落ちるほど美味しかつたが、一晩泊つてみてびつくりした。別に化物が出たといふ話ではない。
ここは昔ながらの旅籠屋で、襖一枚で隣室に接してゐるわけであるが、前の晩の寝不足を取り戻さうと思つて、
九時ごろ床についたのがいけなかつた。(中略)
又眠らうと寝返りを打つたとたん、隣りの部屋へドヤドヤと人が入つて来て、酒宴がはじまつた。と、それに
まじつてトランジスター・ラヂオの大音声の流行歌がはじまつたが、ラヂオをかけながらの酒宴といふのも
へんなものだと思ふうちに、それがもう一つ向うの部屋のものだとわかつた。
更に別の部屋からは、火のつくやうな赤ん坊の泣き声。……夜十時といふころ、宿全体が鷄小屋をつつついた
やうな騒ぎになつてしまつた。
三島由紀夫「プライヴァシィ」より
18 :
名無しさん@社会人:2010/09/11(土) 12:23:35
やつと静まつたのが十二時すぎだつたが、それがピタリと静まるといふのではない。しばらく音がしないで、
寝静まつたかなと思ふと、連中は風呂へ行つてゐたので、風呂からかへると、又寝る前に一トさわぎがある。
西瓜の話ばかりなので、商売は何の人だらうと思つたらあとできいたら果して西瓜商人であつた。
一時すぎにやつと眠りについて、朝五時をまはつたころ、村中にひびきわたるラウド・スピーカアの一声に
眠りを破られた。
「第八〇〇丸の乗組員の皆様、朝食の仕度ができましたから、船までとりに来て下さい」
それから間もなく静かになつて、又眠りに落ちこむと、今度はラヂオ体操がスピーカアから村中に放たれた。
三島由紀夫「プライヴァシィ」より
19 :
名無しさん@社会人:2010/09/11(土) 12:36:22
(中略)――かうして一日たち二日たつた。
最初の一夜は、「これは大変だ」と思つたのに、馴れといふものは怖ろしいものである。二日目にはもう隣室の
話し声は気にならず、トラックやバスの響きに眠りを破られることがなくなつた。三日目になると完全にコツを
おぼえ、宿中全員が寝静まらぬうちは眠らぬことにきめ、女中を呼ぶにも大音声を張りあげ、食事がおそい
ときは、「おそいぞ!」と怒鳴り、よその子供がバタバタ廊下をかけまはれば、「うるさいぞ!」と怒鳴つて、
夜寝不足ならば十分昼寝をし、ほぼ快適な生活を送れるやうになつた。
――それはさておき、かりにも都会で、プライヴァシィを重んずる「近代的」生活を、生活だと思ひ込んでゐる
人間には、人の迷惑などを考へずにのびのびと暮してゐるかういふ旧式の日本人の生活は、おどろくべきもので
あつた。都会なら、となりのうるさいラヂオを容赦しないが、ここではラヂオはすべて音の競争であつて、
隣りのラヂオがうるさかつたら、家のラヂオの音をもつと大きくすればそれですむのである。
三島由紀夫「プライヴァシィ」より
20 :
名無しさん@社会人:2010/09/11(土) 12:42:59
みんながそれに馴れ、何の苦痛も感じないなら、人間の生活はそれで十分なので、何も西洋のプライヴァシィを
真似なくてもいい。西洋の冷たい個室の、完全なプライヴァシィの保たれた生活の裏には、救ひやうのない
孤独がひそんでゐるのである。(中略)
そこへ行くと、日本の漁村の宿の明朗闊達はおどろくばかりで、人間が、他人の生活に無関心に暮すためには、
何も厚いコンクリートの壁で仕切るばかりが能ではなく、薄い襖一枚で筒抜けにして、免疫にしてしまつた
はうが賢明なのかもしれない。(略)
しかし、この昔風の旅籠屋が、襖一枚の生活を強制するのが、昔を偲ばせて奥床しいとは云ひながら、それが
そのまま昔風とは云ひがたい。何故なら、江戸時代には、人はもう少し小声で話したにちがひないし、怪音を
発するトランジスター・ラヂオなんか、持つてゐなかつたからである。
三島由紀夫「プライヴァシィ」より
21 :
名無しさん@社会人:2010/09/12(日) 13:57:56
Q:…リトルロックの黒人学生の排斥問題があるんですが……
三島:あの問題は全然国内問題でね、僕は人種的偏見といふ問題については、外から言ふべきぢやないと思ふんだね。
そりやアメリカ人のみんなに会つてみなければわかりませんよ。そして自分の心の中から完全に人種的偏見が
とり去られなければ、どんな政治的な手や法律的な手を打つたつてだめなんで、時間の問題ですね。
日本人の中には黒人がゐないんだから、この問題を感覚的に理解することができない。人種的偏見つていふのは
心理的な問題であつて、外から、民主主義国にそぐはなくてけしからんといふべき問題ぢやない。つまり歴史と
伝統の問題だからね。
三島由紀夫「三島由紀夫渡米みやげ話」より
22 :
名無しさん@社会人:2010/09/12(日) 17:20:24
私は別に美食家ではない。おいしいものは好きだけれども、場合によつてはまづいものも好きである。
美食しかできないといふ人は、たとへばローマの「トリマルキオーの饗宴」の主人公のやうに、退廃した人間である。
私は男といふものは、絹のパジャマでも軍隊毛布でも同じやうに平気で寝られる人間であるべきだと思ふ。
絹のパジャマでなくては眠れないといふ人間は、男ではない。
(中略)自衛隊の食事は一日三食二百六十円である。マキシムは一食一万円である。おほむね値段からすれば
百倍である。ではマキシムが百倍だけおいしかつたかといへば、そんなことはない。
自衛隊では自衛隊の食事が相応においしく、マキシムではマキシムの料理が相応においしかつただけのことである。
その場その場でどちらもおいしいと思ふのは私の胃が健康だからであり、そしてそれだけのことである。
三島由紀夫「美食について」より
23 :
名無しさん@社会人:2010/09/12(日) 17:22:00
(中略)人生経験を積むにつれて、いろんなものを食べる機会にぶつかる。
私はエジプトの鶏も、ギリシャのムサカも、…(略)…、タイ料理、インド料理……あらゆるものを食べた。
自衛隊では、縞蛇もガマ蛙も自分で料理して食べた。
しかしこんなものは、毎日ほしいときに食べられたら、別に珍味といふわけではあるまい。
その時、その環境に応じて、むやみにおいしく思はれるときも、まづい時もある。私が外交官になりたくないと
思ふのは、職業として毎日義務的に美食をするほど人生で辛いことはあるまいと思ふからである。
結婚して毎日ご馳走を幾皿も家庭で作らせる亭主を、美食家と思つて、自慢のタネにしてゐる女性は哀れである。
くりかへして言ふが、いはゆる美食家は退廃した人間であり、何を食はせても「うまい」「うまい」と喜んで
平らげる男、女から見たら物足りない男こそ、女性にとつて誇るべき亭主なのである。
三島由紀夫「美食について」より
24 :
名無しさん@社会人:2010/09/12(日) 17:47:13
おかまの美食って・・・
25 :
名無しさん@社会人:2010/09/13(月) 10:27:48
このごろでは先生が鞭を鳴らしながら授業でもしたら、「サーカスぢやあるまいし」と、忽ちPTAにいびり
出される始末になるが、むかしは先生は、ちやんと「教鞭」を持つてゐたものであつた。
私自身の小学校時代をかへりみるに、賞罰は実にはつきりしてゐた。しかし、そこには先生の人徳といふもので、
同じひどい目に会はされても、カラッとした人柄の先生にはいつまでもなつかしさが残り、陰気な固物の先生には
やはり面白くない記憶が残る。(中略)
そのうちに怖いのは先生よりも上級生といふ時代がはじまる。
そのころ鬼よりも怖かつたA先輩など、今会つても頭が上がらない。私の母校は敬礼のやかましい学校で、
一級上の上級生にでも挙手の礼を忘れたら、どやしつけられた。
…小説を書く奴なんか軟派だと言つて目をつけられてゐたから、運動部の猛者は殊に怖ろしかつた。私は
旧制高校の最上級生のとき、総務委員といふものになつて、運動部の予算をもすつかり握る権力を得てから、
はじめて彼らに復讐する快感を満喫したのである。
三島由紀夫「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より
26 :
名無しさん@社会人:2010/09/13(月) 10:30:20
…文学者としての自分を考へると、一般的に「文学を否定する」雰囲気があつたといふことは、自分の文学を
育てる上で、大へんなプラスになつたことはたしかである。
私は天才教育などといふアホなものを信じない。「何クソ」といふ気持を養はせるだけの力がなければ、
何事も育ちはしない。
現在の学校教育の実態にうとい私だが、ほぼ確実だと思はれることは、そこには軟派と硬派の区別もなくなり、
文学芸術を否定する空気もなければ、一方、スポーツ万能を否定する空気もないことだ。むりやり右へ行けと
言はれるから、あへて左へ行く勇気も生まれるので、西も東もわからぬ子どもに、「どつちへ行つてもいいよ」
と言へば、迷ひ児がふえるだけのことである。その意味で、丹頂鶴の日教組の極端な左翼教育も、私には、
失ふに惜しいもののやうな気がする。この行き方をもつと徹底させれば、反骨ある愛国少年を、却つて沢山
輩出させることになるのではないか。もつとも、そのための極左教育は反抗期の中学生時代からやつてもらひたいが。
三島由紀夫「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より
27 :
名無しさん@社会人:2010/09/13(月) 10:31:46
…自分の我意に対して、それを否定する力のあることを実感するほど、自我形成に役立つものはない。
猿蟹合戦ぢやあるまいし、「伸びろよ、伸びろよ、柿の種」と言つてみたところで、柿は伸びないのである。
万人向きのバランスのとれた教育、四方八方へ円満に能力をのばしてゆく教育、などといふものは、単なる
抽象的な夢であつて、子どもはそれぞれ未完成で、偏頗(へんぱ)な存在である。個性などといふものは、
はじめは醜い、ぶざまな恰好をしてゐるものだ。美しい個性を持つた子どもなどどこにも存在しないのである。
それが一度たわめられなければ真の個性にならないことも見易い道理で、そのためには、文学書ばかり
耽読してゐる子からはむりやりに本をとりあげて、尻を引つぱたいてスポーツをやらせ、スポーツにばかり
熱中してゐる子は、襟髪をつかんで図書館へぶち込み、強制的に本を読ませるやうにすべきである。
三島由紀夫「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より
28 :
名無しさん@社会人:2010/09/13(月) 10:33:09
かういふ強制力は、こまかい校則によつて規定することはもちろん、罰則のない法規もないのであるから、
妥当な罰則を設け、かつこの規則を実施する能力としては、先生にも、生徒を心服させるだけの腕力が要求される。
生徒の闇討ちをおそれて屈服するやうな先生には、先生の資格がないので、生徒はめつたに先生の知力なんかには
心服しないものである。さういふのは新制大学のころから、学生に知的虚栄心が目ざめて来てからの問題であつて、
大学教育といふものは、もつぱら知識の授受に尽き、もはや教育と呼ぶ必要はない。
ネリカン上がりが尊敬されるといふのも、少年の歪められた英雄主義であるが、ネリカンの生活が苛酷だといふ
伝説乃至事実が、どれだけこの英雄化を助けてゐるかわからない。どこの学校もネリカン並みになれば、
とりたててネリカン上がりが尊敬される理由もなくなるので、少年不良化の防止になるにちがひない。
三島由紀夫「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より
29 :
名無しさん@社会人:2010/09/13(月) 10:36:44
暗い陰惨で辛い生活をとほりぬけて来たといふ自信と誇りを、今の子どもは与へられなさすぎる。
「学園」といふ花園みたいな名称も偽善的だが、学校といふところを明るく楽しく、痴呆の天国みたいな
イメージに作り変へたのは、大きな失敗であつた。学校といふものには暗いイメージが多少必要なのである。
学校の建物も質素で汚ならしいことが必要で、何だつてこのごろの学校は、高級アパートみたいな外見を
とりたがるのかわからない。冷暖房装置などは以てのほかで、少なくとも中学校以上は、暖房装置も撤去すべきである。
かじかんだ手でノートをとるといふあのストイックな向学心の思ひ出を、これからの子どもはもう持たなく
なるのではないか。
…何事にも感覚的享受しかできない少年期には、「精神」に接するにも感覚的実感が要るのだ。その「精神」の
感覚的実感とは、要するに「非物質的感覚」であつて、寒さであり、オンボロ校舎であり、風の音であり、
たよるもののない感じであり、すべて眠たくなるやうな「生活の快適さ」と反対なものである。
三島由紀夫「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より
30 :
名無しさん@社会人:2010/09/13(月) 10:39:05
私は、一流商社のやうなツルツルした校舎へ毎朝吸込まれてゆく学生たちが、数年後サラリーマンとして又もや
ツルツルした大ビルディングへ毎朝吸込まれていくことを考へると、その一生が気の毒になる。オンボロ校舎の
精神的風格などを一生知らずに、ツルツルした表紙の週刊誌ばかり読み、団地生活をつづけてゆく人間が
かうして出来上がる。政府は政令を発して、学校建築に制約を加へるべきではないか。(中略)
こんなことを言つてゐるうちに、すべてはノスタルジアに彩られ、日清戦争の思ひ出話みたいになつて来たから、
ここらで筆を擱くことにする。
最後に、まじめな私見を言ふと、硬教育の復活もさることながら、現代の教育で絶対にまちがつてゐることが
一つある。それは古典主義教育の完全放棄である。
古典の暗誦は、決して捨ててはならない教育の根本であるのに、戦後の教育はそれを捨ててしまつた。
ヨーロッパでもアメリカでも、古典の暗誦だけはちやんとやつてゐる。これだけは、どうでもかうでも、
即刻復活すべし。
三島由紀夫「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より
31 :
名無しさん@社会人:2010/09/14(火) 10:50:50
女の声でもあんまり甲高いキンキン声は私はきらひだ。あれをきいてゐると、健康によくない。声に翳りがほしい。
いはばかあーつと照りつけたコンクリートの日向のやうな声はたまらないが、風が吹くたびに木かげと日向が
一瞬入れかはる。さういふしづかな、あまり鬱蒼と濃くない木影のやうな声が私は好きだ。
寒気のするもの天中軒雲月の声、バスガールの声、活動小屋の幕間放送の声、街頭の広告放送の声。
燻(くす)んだチョコレートいろの声も私は好きだ。さういふとむやみにむつかしくきこえるが、そこらで
自分の声をちつとも美しくないと思ひ込んでゐる女性のなかに、時折かういふ声を発見して、美しいなと
思ふことがある。(中略)
時と場合によつては、女の一言二言の声のひびきが、男の心境に重大な変化をもたらす。電話のむかうの声の
たゆたひが、男に多大の決心を強ひる。「まあ」といふ一言の千差万別!
三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より
32 :
名無しさん@社会人:2010/09/14(火) 10:52:45
声が何かの加減で嗄れてゐて、大事な場合の「まあ」が濁つてしまふことがあつても、それをごまかす小さな咳の
可愛らしさが、電話のむかうのつつましい女の様子をありありと
思ひ描かせることがある。
いくら声のいい人でも立てつづけに喋りちらされてはたまらない。そこで問題はおのづと声と言葉の関係に移る。
私はおしやべりな人は本当にきらひだ。自分がおしやべりだから、その反映を相手に見るやうな気持がして
きらひなのかとも思ふが、いくら私がおしやべりでも私は女のおしやべりには絶対にかなはない。(中略)
女のタイプライターのやうなお喋りがはじまると、私は目の前に女性といふ不可解な機械が立ちふさがるのを感じる。
尤も、友達として話相手になれるやうな女性は、大ていおしやべりであるし、教養があつてしかもおしやべりで
ない女など、まづ三十以下ではゐないと言つていい。黙りがちの女性はいかにも優雅にみえるが、ともすると
細雪のきあんちやんのやうな薄馬鹿である。
三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より
33 :
名無しさん@社会人:2010/09/14(火) 10:54:25
女はゆたかな感情の間を持つて、とぎれとぎれに、すこし沈んだ抑揚で、しかもギラギラしない明るさ賑やかさ
快活さの裏付けをもつて、大して意味のない、それでゐて気のきいた話し方をするやうな女がいい。批判、皮肉、
諷刺、かうした話題が女の口から洩れる時ほど、女が美しくみえなくなる時はない。痛烈骨を刺す諷刺なんてものは、
男に委せておけばいい。(中略)
私は妙にあの「ことよ」といふ言葉づかひが好きだ。口の中で小さな可愛らしい踵を踏むやうに、「ことよ」と
早口でいふのが本格である。私がやたらむしやらこの用法に接するやうになつたのは、亡妹が聖心女子学院に
ゐた時からで、聖心では何でもかんでも、行住座臥すべて「ことよ」である。
「そんなこと知らないことよ」
「そこまで行つてさしあげることよ」
「いいことよ」…(中略)
三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より
34 :
名無しさん@社会人:2010/09/14(火) 10:55:35
女の言葉づかひだけはどんな世の中になったても女らしくあつてほしい。襖ごしに、カアテンごしにきこえる
姉妹の対話、女の友達同志の対話、それを耳にしただけで女の世界のふしぎな豊かさ美しさ柔らかさ和やかさ
滑らかさ温かさが、女の世界の馥郁(ふくいく)たる香りが感じられるのでなければ、男どもは生きてゐることが
つまらない。襖ごしにこんな会話がきこえてきたら、世をはかなみたくなるではないか。
「さういふ実際的問題とは問題が別よ。もつと全宇宙的な……」
「さうよ。あんたの主張は理解できるわよ。しかし、何といふかなあ、さういふデリケートな
感覚的な没論理的な主張は……」
三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より
35 :
名無しさん@社会人:2010/09/14(火) 10:59:21
子供はよもや鯉幟(こひのぼり)を、形やデザインの面白さといふふうには見まい。小学校では五月の図画の時間に、
よく鯉幟の絵を描かされるが、子供の描く鯉幟はいづれも概念的で、青葉若葉に埋もれた家々の屋根高く、
緋鯉と真鯉が、地面と平行に景気よく風をはらんでゐる姿である。風がなくて、ダランとした鯉幟を描く子は、
よほどの問題児であると考へてよいが、どの子も、実際は、風がなくて垂れた鯉幟を見てゐるのに、絵に描くと
さうは描かない。ある意味では、垂れた鯉はリアリズムなのであるが、子供は、物事を典型的な、あるべき姿でしか
とらへようとしないのである。それに、垂れた鯉は本当の魚ではなくて、ただの布のオモチャだといふことを、
あからさまに証明してゐる。しかし風をはらんだ鯉は、ウソと本当、象徴と現実とを兼ねて、遊泳してゐるのである。
三島由紀夫「こひのぼり」より
36 :
名無しさん@社会人:2010/09/14(火) 11:00:50
(中略)
インドには、ヒンズー教の一つのあらはれとして、サクティ(エネルギーの意)崇拝といふのがあつて、
エネルギーは本来女性に属するものと考へられ、その神像は大地母神カリやドゥルガである。
日本の鯉幟に象徴されてゐるエネルギーはあくまで男性の活力であつて、武士階級の思想をあはらしてゐる。
農耕民族の神話時代の日本人は、天照大神をすべてのエネルギーの源泉と考へたのであるが、武士社会の
男性中心主義が、男性的活力を、ほがらかな明るい五月の空に、尚武の象徴としてひるがへしたのは当然である。
今のやうな女性の強力な時代には、そして日本男児がこれほど衰微した時代には、鯉幟なんか廃棄されても
よささうなものであるが、これに代る女性的活力の象徴としては、まさか、パンティーをひるがへすわけには行くまい。
三島由紀夫「こひのぼり」より
37 :
名無しさん@社会人:2010/09/15(水) 23:26:16
女性は抽象精神とは無縁の徒である。音楽と建築は女の手によつてろくなものはできず、
透明な抽象的構造をいつもべたべたな感受性でよごしてしまふ。
実際芸術の堕落は、すべて女性の社会進出から起つてゐる。女が何かつべこべいふと、
土性骨のすわらぬ男性芸術家が、いつも妥協し屈服して来たのだ。あのフェミニストらしき
フランスが、女に選挙権を与へるのをいつまでも渋つてゐたのは、フランスが芸術の
何たるかを知つてゐたからである。
道徳の堕落も亦、女性の側から起つてゐる。男性の仕事の能力を削減し、男性を性的存在に
しばりつけるやうな道徳が、女性の側から提唱され、アメリカの如きは女のおかげで
惨澹たる被害を蒙つてゐる。悪しき人間主義はいつも女性的なものである。男性固有の
道徳、ローマ人の道徳は、キリスト教によつて普遍的か人間道徳へと曲げられた。
そのとき道徳の堕落がはじまつた。道徳の中性化が起つたのである。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
38 :
名無しさん@社会人:2010/09/15(水) 23:27:21
一夫一婦制度のごときは、道徳の性別を無視した神話的こじつけである。女性はそれを固執する。
人間的立場から固執するのだ。女にかういふ拠点を与へたことが、男性の道徳を崩壊させ、
男はローマ人の廉潔を失つて、ウソをつくことをおぼえたのである。男はそのウソつきを
女から教はつた。キリスト教道徳は根本的に偽善を包んでゐる。それは道徳的目標を、
ありもしない普遍的人間性といふこと、神の前における人間の平等に置いてゐるからである。
これな反して、古代の異教世界においては、人間たれ、といふことは、男たれ、といふ
ことであつた。男は男性的美徳の発揚について道徳的責任があつた。なぜなら世界構造を
理解し、その構築に手を貸し、その支配を意志するのは男性の機能だからだ。男性から
かういふ誇りを失はせた結果が、道徳専門家たる地位を男性をして自ら捨てしめ、
道徳に対してつべこべ女の口を出させ、つひには今日の道徳的瓦解を招いたものと
私は考へる。一方からいふと、男は女の進出のおかげで、道徳的責任を免れたのである。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
39 :
名無しさん@社会人:2010/09/15(水) 23:28:28
(「危険な関係」の)ヴァルモンは、女性崇拝のあらゆる言辞を最高の誠実さを以てつらね、
女の心をとろかす甘言を総動員して、さて女が一度身を任せると、敝履(へいり)の如く
捨ててかへりみない。
…女に対する最大の侮蔑は、男性の欲望の本質の中にそなはつてゐる。女ぎらひの侮蔑などに
目くじら立てる女は、そのへんがおぼこなのである。
人間の文化はこの悲しみ(omne animal post coitum triste《なべての動物は性交のあとに
悲し》)、この無力感と死の予感、この感情の剰余物から生れたのである。したがつて
芸術に限らず、文化そのものがもともと贅沢な存在である。芸術家の余計者意識の根源は
そこにあるので、余計者たるに悩むことは、人間たるに悩むことと同然である。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
40 :
名無しさん@社会人:2010/09/15(水) 23:30:07
男は取り残される。快楽のあとに、姙娠の予感もなく、育児の希望もなく、取り残される。
この孤独が生産的な文化の母胎であつた。したがつて女性は、芸術ひろく文化の原体験を
味はふことができぬのである。
私は芸術家志望の女性に会ふと、女優か女声歌手になるのなら格別、女に天才といふものが
理論的にありえないといふことに、どうして気がつかないかと首をひねらざるをえない。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
41 :
名無しさん@社会人:2010/09/16(木) 17:45:14
息子が大きくなれば全学連にならぬかとおそれをののき、娘が大きくなれば悪い虫がつきはせぬかとひやひやする、
親の心配苦労をよそに、息子ども娘ども、
「お前の高校は処女が一割だつていふぜ」
「アラ、わりかしいい線行つてるわね」
などとほざき、オートバイのマフラーをはづして、市民の眠りをおどろかし、雨の日には転倒して頭の鉢を割り、
あわてた親が四輪車を買つてやれば、たちまち岸壁から海へどんぶり。山へ出かけては凍え死に、スキーへ
出かけては足を折る。身体髪膚、父母からもらつたものは一つもないかの如くである。
三島由紀夫「贋作東京二十不孝――井原西鶴」より
42 :
名無しさん@社会人:2010/09/16(木) 17:48:25
蔭では親のことを「あいつ」と呼び、働きのない親は出てゆけがしに扱はれ、働きのある親とは金だけのつながり。
いつも親に土産を買つてかへる今どきめづらしい孝行者と思へば、万引きの常習犯で、親が警察へ呼び出されて、
はじめてそれと知つてびつくり。これなどは罪の軽い方で、いつ息子に殺されるかと、枕を高くして寝られない
親もあり、こどもの持つてゐる凶器は、鉛筆削りのナイフといへども、こつそり刃引きをしておいたはうが
無難である。
日曜日も本に読みふける子は、あつといふ間にノイローゼになり、本を読まぬ子はテレビめくら。親父の代には
不良は不良でも、硬派の不良となると世間も認めたが、今は硬軟とりまぜの時代で、親の目には一向見当もつかず、
軟派とおもへばデモ隊で声を嗄らし、硬派とおもへばいつのまにやらプレイボーイとかになり下がり、娘が
「オレ」と言ひ、息子は「あのう……ぼく」と言ふ世の中。
三島由紀夫「贋作東京二十不孝――井原西鶴」より
43 :
名無しさん@社会人:2010/09/18(土) 19:49:00
機能主義といふと、バカに働き者らしく威勢よくきこえるけれども、その実、現代人のナマケ性にマッチして
ゐるやり方かもしれないのである。三度の食事も、コソコソと、昔なら男子禁制の台所の一隅で、リビング・
キッチンとやらのおちつかない合成樹脂の棚の上で、大いそぎですませる。さういふと働き者みたいだが、
私に言はせれば、そんなやり方は、御飯のたべ方を怠けてゐるのである。むかしの人は御飯をたべるのにも、
煩をいとはず、全身全霊をこめて作り且つ喰べた。(中略)
グッド・デザインとは、生活に対する一生けんめいな、こまごました、わづらはしい意慾と関心が薄れて来た
時代の産物である。さういふ関心をみんな機械が代用してくれる時代の産物である。
三島由紀夫「社会料理三島亭 アメリカ料理『グッド・デザイン』」より
44 :
名無しさん@社会人:2010/09/18(土) 19:51:54
ところで、西洋ではグッド・デザインも意味があるので、ルイ式の家具調度や、曾祖母ゆづりの食器一式に
飽きた人たちが、かういふ簡素なデザインに魅力を感じる意味もわかる。古くさい家具や食器に対する、
離れがたいなつかしさと同時に、不便な憎たらしさがつのつてくると、新デザインの家具や食器がほしくなるのも
わかる。はるかに快適で、便利で、使ひよい。明るく清潔で、手入れも面倒でない。
しかし日本では、そこらへんが微妙である。日本の家ほど機能主義的な家はないので、一間が寝室にも客間にも
居間にも茶の間にもなる。ナイフやフォークやスプーンの代りに、箸が二本あれば足りる。襖は、壁とドアを
兼用してゐる。作りつけのベッドの代りに、ふとんがあり、くたびれたらタタミの上へぢかに寝ころぶことも
できる。……機能主義やグッド・デザインの狙ひはとつくに卒業してゐるので、日本における西洋風とは、
最新のモダン・リビング、最新のグッド・デザインでも、旧来の日本風よりいくらか反機能的な生活形態を
いとなむことに他ならない。
三島由紀夫「社会料理三島亭 アメリカ料理『グッド・デザイン』」より
45 :
名無しさん@社会人:2010/09/18(土) 19:56:06
(中略)
日本人は、様式の統一といふことをやかましく云はない。スキヤ建築の座敷にテレビを置くなら、どうしても、
紫檀か何かの箱でなくちや納まらない箸だし、芸者屋の茶の間にテレビを置くなら、ツゲの箱かなんかでなくては
をかしいのに、平気で新式デザインのテレビを置いてゐる。日本座敷の縁側に、パイプを折り曲げた椅子なんかを
置いてゐる。かういふ様式無視は、明治以来の日本人の美意識欠如と進取の気象をよくあらはしてゐる。(中略)
(グッド・デザインは)あくまで商業的成功であつて、「革命」ではないのである。グッド・デザインの
販路拡大を、「革命」だと思つてるデザイナーがゐたら、よほど考へが甘いのである。何もないところを
占領するのは革命ではありません。
その上、その商業主義的成功は誤解を生む。西洋式生活は簡便で安いといふ誤解である。こんな誤解は戦前には
なかつた。あきらかにアメリカ占領後の現象である。
三島由紀夫「社会料理三島亭 アメリカ料理『グッド・デザイン』」より
46 :
名無しさん@社会人:2010/09/18(土) 19:58:05
西洋人の生活は、見かけ以上にしきたりに縛られてゐる。その点では日本以上である。その上、生活における
様式の統一といふことを重んじる。手術室のメスみたいなナイフを使はうと思へば、まづ家全体を手術室風に
デザインしなければならん。コタツに足をつつこんで、メス式ナイフで、トンカツをちよん切るなんて器用な
ことは、西洋人にはできない。(中略)
貧乏して裏長屋に住んでゐる詩人が、タバコだけは英国タバコを吸ふ。これが日本式ゼイタクであり、西洋への
あこがれといふダンディズムである。裏長屋ならシンセイを吸ふはうが、様式的統一に忠実であり、かつ
美的であるといふことが、どうしてもわからないのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 アメリカ料理『グッド・デザイン』」より
test
48 :
名無しさん@社会人:2010/09/19(日) 19:45:21
現代の若い人たちの特徴として、欲望の充足そのものをあまり重要なものとしてゐないのではないかと僕は思ふ。
それは欲望を充足してから後に、いつも「たしかこれだけではないはずだ」といふやうな飢餓の気持に襲はれて、
その感じの方が欲望の充足といふことよりも強く来てしまふんです。女の人に関しては、まだまだ欲望の
充足といふことは大問題かもしれないけれども、若い男にとつては欲望の充足だけが人生の大問題であるなんて
ことは、ほとんどないんぢやないかと思ふ。(中略)
今はさういふもの(性欲の満足)に対して、あまりにも近道が発達してゐるものだから、人間のかなり大事な
一つの仕事である生殖作用が、だんだん軽くなつてゐる。その一つの現はれがペッティングなどといふことに
なるんだけれども、これからますますかういふ傾向がひどくなるんぢやないかと思ふ。その結果、若い人たちの
性欲以外のいろいろな欲望に対する追求も、だんだんとねばりがなくなり、非常にニヒリスティックになる
といふことは言へると思ふ。
三島由紀夫「欲望の充足について」より
49 :
名無しさん@社会人:2010/09/19(日) 19:45:57
たとへば明治時代の立身出世主義のやうに一つの公認されてゐる社会的欲望が、大多数の人たちを動かして
ゐた時代もあるわけです。さうすると、社会的欲望の充足が、だれが見ても間違ひのない社会における完全な
勝利になる。さういふ時代には、あらゆる条件がそれに伴つて動いてゐたと思ふんです。たとへば上昇期の
資本主義の時代、さうして日本が近代国家として統一されて、まだ間もない時代、しかも恋愛の自由がまだ
完全にない時代――もちろんプロスティチュートはたくさんゐたし、さういふことの満足は幾らでも得られた
けれども、普通の恋愛がまだ非常に困難であつた時代、従つてたとひ男がプロスティチュートを買つても、
精神的に非常にストイックだつた時代、さういふ頃には、欲望の充足といふことは、みんな一つの大きな方向に
向つた大事業だつたといつていいと思ふ。だからさういふ立身出世主義みたいな世俗的なものの裏返しとしては、
あの時代は理想主義の時代だつたとも言へるかもしれない。
三島由紀夫「欲望の充足について」より
50 :
名無しさん@社会人:2010/09/19(日) 19:46:19
けれども今の時代は、普通の若い人たちの間で、必ずしもプロスティチュートでなくても、欲望の充足が非常に
簡単になつて来てゐる。その簡単になつて来たといふ背後には、逆にどうやつてもいろいろな社会的な欲望の
充足が困難になつて来たといふ事情も入つてゐると思ふ。たとへば今学校で子供たちに、将来何になりたいかと
聞いたならば、大臣になりたいなどといふ子供はあまりゐないだらうし、大将などはなくなつてしまつた
やうなものだし、みんなのなりたいものは、プロ野球の選手だとか映画俳優くらゐしかなくなつてしまつた。
さうして社会が一種の袋小路に入つてゐて、未来の日本の希望といふものもあまり見られないし、社会そのものが
今発展期にないといふことが、非常に概念的な言ひ方だけれども、簡単に欲望が満足させられてしまふ悲しさ、
空虚感に、ますます拍車をかけてゐるといふ感じがする。
三島由紀夫「欲望の充足について」より
51 :
名無しさん@社会人:2010/09/19(日) 19:46:58
そこで欲望の充足といふことは、ほかの項目にある刺激飢餓といふことに、すぐ引つかかつて来る。
ヒロポンとかパチンコとか麻雀とかに対する狂熱的な欲望も、みんなさういふところに入つて来ると思ふのです。
だから性欲なら性欲といふことを一つ考へても、それにいろいろな条件がからんで来るので、もし性欲が非常に
簡単に満足されるとすれば、何も性欲である必要はないんです。それはある場合においては賭事であつてもいいし、
目先の小さな刺激であつてもいいし、何でもいいわけです。つまり一つの欲望が非常に大事であるといふことに
なれば、ほかの欲望もみんな大事であると言へると思ふ。もし性欲の満足が非常に大事な問題であれば、ほかの
欲望もそれぞれ人生の中での大問題になる。一つの欲望の充足がくだらぬことになつてしまへば、ほかもみんな
くだらなくなつてしまふ。
三島由紀夫「欲望の充足について」より
52 :
名無しさん@社会人:2010/09/19(日) 19:47:32
それが両方から鏡のやうに相投射してゐるから、何も女の子を追つかけなくても、ヒロポンを打つてゐれば
いいといふことになる。さうしてヒロポンがこはいといふ人は麻雀をやつてゐればいいといふことになる。
さういふ点から見てみると、案外今の若い人には――それは新聞や雑誌の言ふやうに性道徳が乱れて
めちやくちやになつてゐるといふ部分もあるでせうけれども、一部分には何だか全然何も考へないでパチンコ
ばかりやつてゐて女の子とつき合ふこともない。ヒロポンなんか少し甚だしいけれども、一方では女の子と
ちつともつき合はないで麻雀ばかりやつて、うたた青春を過してゐるのも多いんぢやないか。従つてすべてに
欲望がなくなつた時代とも言へるんぢやないかと思ふ。
(談)
三島由紀夫「欲望の充足について」より
53 :
名無しさん@社会人:2010/09/21(火) 12:54:00
人間の恋愛は動物の恋愛と違つて、みな歴史、社会、環境、いろいろなものに制約されて
ゐるわけです。われわれが一つ恋愛をすると、その恋愛の中に全人類の歴史、全人類の
文化が反映してゐるのです。これは、われわれといふ存在が、ちやうど歴史の一端に
大ぜいの先祖と、大ぜいの文化の趨勢の上に生まれてきたのと同じに、今あなたないし
私のする恋愛も、決してひとりでまるで天から落ちかかつてくる隕石のやうに、恋愛が
始まるといふものではなく、みな何ものかに規約されてゐるといふことができます。
日本人の一番健康な恋愛らしきものが描かれてゐるのは「万葉集」ですが、「万葉集」の
恋といふのは、このヨーロッパ、ギリシャのやうな、哲学的背景を持つた恋愛ではありません。
ただ古い民族のすなほな肉体的欲望が、日本人のやさしい心持ちとか、繊細な生活感情の中に
溶け込んで、そこに、美しい別離の情とか、恋人に久しぶりに会つた喜びとか、
さういふものが素朴に、しかし正直に述べられてゐます。
三島由紀夫「新恋愛講座」より
54 :
名無しさん@社会人:2010/09/21(火) 12:54:48
「源氏物語」の「もののあはれ」といふ大きな主題、この「もののあはれ」の中には、
いろいろ仏教的な考へもないわけではないのですが、根本的には、日本人が恋愛をただ
感情の形でだけ浄化してきた、その一つの完成した形が見られます。
概して少年期には、年上の異性を愛するやうになります。
われわれは皆、好ききらひがあつて、どんな美人でも、ある人にとつては、ちつとも
魅力のない場合があり、どんな醜女でも、ある人の目から見ると、非常に魅力的な場合があるのです。
恋愛の嗜好といふのは、実は、だれでも先天的に持つてゐるものではないので、ある人に
とつては母親のイメージがあり、ある人にとつては、早く死んだお姉さんのイメージがある。
しかし異性のイメージはその人個人のみでなく、祖先から民族全体から、どこかに深く
積み重ねられたものがあつて、それがその人の心の中に出てくるといふことが言へるのです。
つまり、何かその原形がある。
三島由紀夫「新恋愛講座」より
55 :
名無しさん@社会人:2010/09/21(火) 12:56:09
人生が、自分のよい意図、正しい意図、美しい意図だけでは、どうにもならないといふことを
学んで、それに絶望して、だめになつてしまふ人は、人間としても伸びて行けない人だと
いはなければならない。それからまた、それですべてをあきらめてしまつて、自堕落に
一生を送らうといふ人、これはまた、人間としてゼロだといはなければならない。
ですから、けつきよく、人間が成長する途上で初恋の幻滅に会つても、それに打ちひしがれないで、
なほ積極的な態度で人生に向つていくといふ力強さ、さういふものが、試金石としての
初恋の値打だらうと思ひます。
恋愛は、相手の当人を特別な存在に見せ、たとひ、人から見て値打のないものでも、
自分にとつて世界中でかへがたいものに見せる心の働きです。
三島由紀夫「新恋愛講座」より
56 :
名無しさん@社会人:2010/09/21(火) 12:57:22
情熱は、人間の心の中で一番崇高な、一番価値のある感情で、情熱があればこそ人間は
生きていくかひがある。
私は恋愛といふものを、プルーストのやうに悲観的には考へてをりません。なぜなら、
恋愛が錯覚であるならば、人生も錯覚であるし、一人の女をあるひは一人の男を美しいと
思つて恋することは、人間が自分の仕事を美しいと思つて、それを熱愛して、一つの仕事を
完成するのと同じことです。
恋愛中には、恋人はお互ひに愛し合つた上でも、やはり千変万化の働きをしなければならない。
なぞのない恋人は魅力を失つてしまふのです。それはわれわれの幻想を描く力を失はせて
しまふからです。
人間同士の信頼感といふものは、恋愛のほんたうの要素ではありません。信頼感ならば、
友だち同士の友情の方が強いでせうし、また、長いこと連れ合つた夫婦の間の愛情も、
信頼感といふ点では恋愛よりずつと強いのです。恋愛は結局、わからないことがどこかに
ひそんでゐなければならない。
三島由紀夫「新恋愛講座」より
57 :
名無しさん@社会人:2010/09/21(火) 12:58:29
人間には心があるから、心で証拠を求めようとしても、からだで求められない。からだで
求めようとしても、心で求められない。かういふ、人間独特の分裂状態から、恋愛が
生まれてくる。それが、人間的なものの一つの特徴になるのであります。
そして情熱の法則は、自分で自分を裏切るといふふうに傾くもので、理性の法則とはまるで
違つてゐます。ですから、うそもうそでなくなる。真実も真実ではなくなつてしまふわけです。
よく、結婚したときに夫に向つて、自分の過去の恋人のことを全部告白してしまふ奥さんが
ありますが、これが誠実といふものかどうかは疑はしい。それによつて夫は、いつまでも
悩むことになるでせうし、彼女は、自分に誠実であつたことによつて、実は自分にだけ
誠実であつたことになるのです。すべて人間の愛の感情では、自分だけ誠実であるといふことが、
必ずしもその恋愛に誠実であるといふことにはならないといふ皮肉な法則があります。
…誠実さとは結局、自分の真心を押しつけることではなくて、むしろ自分を捨てて
相手のためを思ふことであり、そのためには、うそも誠実になつてくるのです。
三島由紀夫「新恋愛講座」より
58 :
名無しさん@社会人:2010/09/21(火) 13:02:46
生まれつき同性愛の人はゐない。なぜかといふと、性ホルモンと同性愛とは関係がないことが
わかつてきて、女性ホルモンの多い女性も十分同性愛になり得るし、女性ホルモンの
少ない女性も十分異性愛になり得る。そして、女らしい女性でも、同性愛に陥るし、
ごく生理的に男らしい男でも同性愛に陥ります。結局、フロイドが述べてゐるところの
心理的な、いろいろな錯綜から生じた一種の病気であつて、その原因に、快感が加はると、
その快感を習慣的に追ふことによつて、だんだん深みに落ちていくといふふうにいはれてゐます。
あくまでも同性愛のほかに広い世界があるといふことを忘れないで、育つていくことが
大事だと思います。若くてさういふ世界に誘惑された少年少女は、それだけが全世界だと
思ひがちですが、人生には、もつと広い世界があるといふことを忘れなければ、必ず
その広い世界へまた出ていくことができるのです。さう言ふと、私は何も解決を与へてない
やうですが、同性愛は、すべて心理的な原因ですから、心理的に自分で解決していくことです。
三島由紀夫「新恋愛講座」より
59 :
名無しさん@社会人:2010/09/21(火) 13:03:36
私の思ふのに、もし同性愛に対して欲求を持つた青少年がゐるならば、初めは思ふ存分
それに向つて突進したらいいでせう。
自分が自分の欲望を追求して、その欲望を突き抜けて、人生に対して同性愛といふものも
あるんだといふやうなのどかな気持で、もう一度自分を客観的に見るやうな余裕が持てる
ところまでいかなければ、どんな医者がどう言つても無理だと思ふのです。そして今
一般的には根治しがたい、不治の病のやうにいはれてゐる精神病の中でも、一番治しにくいのが
同性愛であつて、なぜならば、それは快感を伴ふから治りにくいのだといはれてゐるのですが、
さういふこととは別に、女性ならば女性であるといふ誇りを、男性ならば自分が男性である
といふ誇りを、いつでも持つてゐれば、決してゆがめられた、グロテスクな同性愛の底に
沈んでしまふといふことはあり得ないと思ひます。そして自分の本来の性の誇りが、
自然に彼を引き戻すであらうと私は思ひます。
三島由紀夫「新恋愛講座」より
60 :
名無しさん@社会人:2010/09/21(火) 13:04:17
人間は生まれてから年をとるまで、いつも嫉妬と親しい関係にあります。
嫉妬は必ず、ある瞬間にもせよ、負けた側の人間に生じるものであります。
嫉妬は愛の表現ではあるが、しかしむづかしい言ひ方をすると、愛するといふことの不可能の
表現だとも言へると思ひます。
盲腸炎にかかつた人でなければ盲腸といふものの痛みもわからない。また歯が痛んだことの
ある人でなければ、歯の痛みもわからない。それと同時に、嫉妬の苦しみも、自分が一度
味はつたことのある人でなければ、決してわからないのであります。
美しい愛情はやはり情熱と理性とが適当に折れあつてゐなければならない。
三島由紀夫「新恋愛講座」より
61 :
名無しさん@社会人:2010/09/21(火) 13:04:55
恋愛は完全に健康なもの、そして円満な人格、欠点のない人がら、さういふことものを
見きはめて愛するものではありません。結局、欠点を愛することになるのが恋愛の一般の
法則であり、その欠点ないし弱味は、ともすると人の同情をそそる形で現はれます。
相手の同情をよぶことが何かの効き目を持つのは根本法則ですが、相手に自分の与へてゐる
魅力がまづなければならない。魅力のないところに同情を持ちかけても、何もなりません。
三島由紀夫「新恋愛講座」より
62 :
名無しさん@社会人:2010/09/21(火) 13:05:26
性的な幻滅とか、性的な荒廃とか不良化とか堕落とかいふものは、実は、性そのものに
関する無知ではなくて、私には人間そのものに関する無知と、よく現代の社会の構造を
見きはめないといふ無知からくるもののやうに思はれる。
なぜ現代社会であんなに早く人間が動物的に成熟しながらも、結婚がだんだんおくれていく
傾向にあるか、これは現代社会の矛盾ですがしやうがない矛盾なのです。つまり性的結合は、
経済的独立が伴はなければ社会の公然たるものとして認められない。これが現代社会の
一つの鉄則と言つていいものです。もし経済的独立が伴はないで性的結合が行はれれば、
必ずそこにいろいろな不調和が生じる。そして無理に無理が重なつて、堕落と、おそらく
犯罪が待ちかまへてゐることになります。
三島由紀夫「新恋愛講座」より
63 :
名無しさん@社会人:2010/09/21(火) 13:08:30
男の秘訣は、女に対しては、からだの交渉を持つまでは、決して女の欲望を認めてはいけない
といふことです。あたかも、相手には欲望がないやうに、ふるまはなければなりません。
それは、女性の羞恥心を、悪く刺激することになるからです。少なくとも、処女は自分の
欲望を認められることを、大へんきらふものです。
世間には浮気を浮気としてやれる人と、本気でなくてはやれない人とがあります。そして
それは、必ずしも前者が不まじめな人間で、後者がまじめな人間だとは限りません。後者の中には、三人でも四人でも同時に愛するといふ
離れわざのできる人間もあるからです。
三島由紀夫「新恋愛講座」より
64 :
名無しさん@社会人:2010/09/22(水) 19:16:38
日劇のストリップ・ショウの特別席は、大てい外人の観光客で占められてゐるが、鬼をも
とりひしぐ顔つきの老婆と居並んで、ぽかんと口をあけてストリップを見てゐる老紳士ほど、
哀れな感じのするものはない。ああいふのを見ると、私はいつも、西洋人の夫婦を
支配してゐる或る「性の苛烈さ」を感じてしまふのである。尤も御当人の身にしてみれば、
鬼のごとき老妻に首根つこをつかまへられながらストリップを見るといふ、一種の
醍醐味があるのかもしれない。
三島由紀夫「西洋人の夫婦」より
男性は、安楽を100パーセント好きになれない動物だ。また、なつてはいけないのが男である。
裏切りは、かならずしも悪人と善人のあひだでおこるとはかぎらない。
世間ではどんなに英雄的に見える男でも、家庭では甲羅ぼしをするカメのやうなものである。
“男性を偶像化すべからず”職場での彼、デート中の彼から70%以上の魅力を
差し引いたものが、家庭での彼の姿。
三島由紀夫「あなたは現在の恋人と結婚しますか?」より
66 :
名無しさん@社会人:2010/09/26(日) 16:18:41
男のおしやれがはやつて、男性化粧品がよく売れ、床屋でマニキュアさせる男がふえた、といふことだが、
男が柔弱になるのは泰平の世の常であつて、大正時代にもポンペアン・クリームなどといふものを頬に塗つて、
薄化粧する男が多かつたし、江戸時代の春信の浮世絵なんかを見れば、男と女がまるで見分けがつかぬやうに
描かれてゐる。男が手や爪の美容に気をつかふのは、スペインの貴族の習慣で、そこでは手の美しい男で
なければ、女にもてなかつた。
私はこんな風潮一切がまちがつてゐると考へる人間である。男は粗衣によつてはじめて男性美を発揮できる。
ボロを着せてみて、はじめて男の値打がわかる、といふのが、男のおしやれの基本だと考へてゐる。
三島由紀夫「男のおしやれ」より
67 :
名無しさん@社会人:2010/09/26(日) 16:19:01
といふのは、男の魅力はあくまで剛健素朴にあるのであつて、それを引立たせるおしやれは、ボロであつても、
華美であつても、あくまで同じ値打同じ効果をもたらさなければならぬ。指環ひとつをとつてみても、節くれ
立つた、毛むくぢやらの指をしてゐてこそ、男の指環も引立つのだが、東洋人特有のスンナリした指の男が、
指環をはめてゐれば、いやらしいだけだ。
多少我田引水だが、日本の男のもつとも美しい服装は、剣道着だと私は考へてゐる。これこそ、素朴であつて、
しかも華美を兼ねてゐる。学生服をイカさない、といふのも、一部デザイナーの柔弱な偏見であつて、学生服が
ピタリと似合ふ学生でなければ、学生の値打はない。あれも素朴にして華美なる服装である。背広なんか犬に
喰はれてしまへ。世の中にこんなにみにくい、あほらしい服はない。商人服をありがたがつて着てゐる情ない
世界的風潮よ。タキシードも犬に喰はれてしまへ。私はタキシードの似合ふ日本人といふものを、ただの一人も
見たことがないのである。
三島由紀夫「男のおしやれ」より
68 :
名無しさん@社会人:2010/09/27(月) 20:14:50
少年期の特長は残酷さです。どんなにセンチメンタルにみえる少年にも、植物的な
残酷さがそなはつてゐる。少女も残酷です。やさしさといふものは、大人のずるさと
一緒にしか成長しないものです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 教師を内心バカにすべし」より
ワシントンは子供心に、ウソをついた場合のイヤな気持まで知つてゐたので、正直に
白状したのかもしれません。たいてい勇気ある行動といふものは、別の或るものへの
怖れから来てゐるもので、全然恐怖心のない人には、勇気の生れる余地がなくて、
さういふ人はただ無茶をやつてのけるだけの話です。
三島由紀夫「不道徳教育講座 大いにウソをつくべし」より
69 :
名無しさん@社会人:2010/09/27(月) 20:17:52
お節介は人生の衛生術の一つです。
お節介焼きには、一つの長所があつて、「人をいやがらせて、自らたのしむ」ことができ、
しかも万古不易の正義感に乗つかつて、それを安全に行使することができるのです。
人をいつもいやがらせて、自分は少しも傷つかないといふ人の人生は永遠にバラ色です。
なぜならお節介や忠告は、もつとも不道徳な快楽の一つだからです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 うんとお節介を焼くべし」より
現代では何かスキャンダルを餌にして太らない光栄といふものはほとんどありません。
世間には、外貌と内側の全然一致しない人もある。
三島由紀夫「不道徳教育講座 醜聞を利用すべし」より
70 :
名無しさん@社会人:2010/09/27(月) 20:19:38
友人を裏切らないと、家来にされてしまふといふ場合が往々にしてある。大へん永つづきした
美しい友情などといふやつを、よくしらべてみると、一方が主人で一方が家来のことが多い。
三島由紀夫「不道徳教育講座 友人を裏切るべし」より
世間で謙遜な人とほめられてゐるのはたいてい犠牲者です。
己惚れ屋にとつては、他人はみんな、自分の己惚れのための餌なのです。
恋愛から己惚れを差引いたら、どんなに味気ないものになつてしまふことでせう。
三島由紀夫「不道徳教育講座 できるだけ己惚れよ」より
71 :
名無しさん@社会人:2010/09/27(月) 20:20:14
どうでもいいことは流行に従ふべきで、流行とは、「どうでもいいものだ」ともいへませう。
流行は無邪気なほどよく、「考へない」流行ほど本当の流行なのです。白痴的、痴呆的流行ほど、
あとになつて、その時代の、美しい色彩となつて残るのである。
三島由紀夫「不道徳教育講座 流行に従ふべし」より
世間に尽きない誤解は、
「殺人そのもの」と、
「殺つちまへと叫ぶこと」
と、この二つのものの間に、ただ程度の差しか見ないことで、そこには実は非常な質の
相違がある。
三島由紀夫「不道徳教育講座 『殺つちまへ』と叫ぶべし」より
72 :
名無しさん@社会人:2010/09/27(月) 20:21:04
洋食作法を知つてゐたつて、別段品性や思想が向上するわけはないのです。
エチケットなどといふものは、俗の俗なるもので、その人の偉さとは何の関係もないのである。
三島由紀夫「不道徳教育講座 スープは音を立てて吸ふべし」より
全く自力でやつたと思つたことでも、自らそれと知らずに誰かを利用して成功したのであり、
誰にも身を売らないつもりでも、それと知らずに身を売つてゐるのが、現代社会といふものです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 美人の妹を利用すべし」より
73 :
名無しさん@社会人:2010/09/27(月) 20:24:45
男といふものは、もし相手の女が、彼の肉体だけを求めてゐたのだとわかると、一等自尊心を
鼓舞されて、大得意になるといふ妙なケダモノであります。
女の人が自分の体に対して抱いてゐる考へは、男とはよほどちがふらしい。その乳房、
そのウェイスト、その脚の魅力は、すべて「女たること」の展覧会みたいなものである。
美しければ美しいほど、彼女はそれを自分個人に属するものと考へず、何かますます
普遍的な、女一般に属するものと考へる。この点で、どんなに化粧に身をやつし、どんなに
鏡を眺めて暮しても、女は本質的にナルシスにはならない。ギリシアのナルシスは男であります。
三島由紀夫「不道徳教育講座 痴漢を歓迎すべし」より
人に恩を施すときは、小川に花を流すやうに施すべきで、施されたはうも、淡々と
忘れるべきである。これこそ君子(くんし)の交はりといふものだ。
三島由紀夫「不道徳教育講座 人の恩は忘れるべし」より
74 :
名無しさん@社会人:2010/09/27(月) 20:25:34
若いくせにひたすら平和主義に沈潜したりしてゐるのは、たいてい失恋常習者である。
およそ自慢のなかで、喧嘩自慢ほど罪のないものはない。
三島由紀夫「不道徳教育講座 喧嘩の自慢をすべし」より
「洗練された紳士」といふ種族は、必ず不道徳でありますから、お世辞の大家であつて、
「人間の真実」とか「人生の真相」とかいふものは、めつたに持ち出してはいけないものだ、
といふことを知つてゐます。ダイアモンドの首飾などを持つてゐる貴婦人は、そのオリジナルは
銀行にあづけ、寸分たがはぬ硝子玉のコピイを首にかけて出かけるのが慣例です。
人生の真実もこれと同じで、本物が必要になるのは十年にいつぺんか二十年にいつぺんぐらい。
あとはニセモノで通用するのです。それが世の中といふもので、しよつちゆう火の玉を抱いて
突進してゐては、自分がヤケドするばかりである。
三島由紀夫「不道徳教育講座 空お世話を並べるべし」より
75 :
名無しさん@社会人:2010/09/27(月) 20:26:10
男と女の一等厄介なちがひは、男にとつては精神と肉体がはつきり区別して意識されてゐるのに、
女にとつては精神と肉体がどこまで行つてもまざり合つてゐることである。
女性の最も高い精神も、最も低い精神も、いづれも肉体と不即不離の関係に立つ点で、
男の精神とはつきりちがつてゐる。いや、精神だの肉体だのといふ区別は、男だけの
問題なのであつて、女にとつては、それは一つものなのだ。
五百人の男と交はつた女は、心をも切り売りした哀れな娼婦になり、五百人の女と
交はつた男は、単なる放蕩者に止(とど)まつて、精神の領域では立派な尊敬すべき
男であるといふ事態も起り得る。
三島由紀夫「不道徳教育講座 いはゆる『よろめき』について」より
76 :
名無しさん@社会人:2010/09/27(月) 20:26:56
精神と肉体をどうしても分けることのできない女性の特有そのものを、仮に「罪」と
呼んだと考へればよい。そして一等厄介なことは、女性の最高の美徳も、最低の悪徳も、
この同じ宿命、同じ罪、同じ根から出てゐて、結局同じ形式をとるといふことです。
崇高な母性愛も、良人に対する献身的な美しい愛も、……それから「よろめき」も、
御用聞きとの高笑いも、……みんな同じ宿命から出てゐるといふところに、女性の
女性たる所以があります。
虚栄心、自尊心、独占欲、男性たることの対社会的プライド、男性としての能力に関する自負、
……かういふものはみんな社会的性質を帯びてゐて、これがみんな根こそぎにされた悩みが、
男の嫉妬を形づくります。男の嫉妬の本当のギリギリのところは、体面を傷つけられた
怒りだと断言してもよろしい。
三島由紀夫「不道徳教育講座 いはゆる『よろめき』について」より
77 :
名無しさん@社会人:2010/09/27(月) 20:27:39
戦争も大事件も、必ずしも高尚な動機や思想的対立から起るのではなく、ほんのちよつとした
まちがひから、十分起りうるのです。そして大思想や大哲学は、概して大した事件も
ひきおこさずに、カビが生えたまま死んでしまひます。
運命はその重大な主題を、実につまらない小さいものにおしかぶせてゐる場合があります。
そしてわれわれは、あとになつてみなければ、小さな落度が重大な結果につながつてゐたか
どうかを知ることができません。
人間の意志のはたらかないところで起る小さなまちがひが、やがては人間とその一生を
支配するといふふしぎは、本当は罪や悪や不道徳よりも、本質的におそろしい問題なのであります。
三島由紀夫「不道徳教育講座 0の恐怖」より
78 :
名無しさん@社会人:2010/09/27(月) 20:31:01
死者に対する賞賛には、何か冷酷な非人間的なものがあります。死者に対する悪口は、
これに反して、いかにも人間的です。悪口は死者の思ひ出を、いつまでも生きてゐる人間の
間に温めておくからです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 死後に悪口を言ふべし」より
ケチな人と附合つて安心なのは、かういふ人には、まづ、やたらと友だちに「金を貸してくれ」
などと持ちかけるダラシのないヤカラはゐないことです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 ケチをモットーにすべし」より
利口であらうとすることも人生のワナなら、バカであらうとすることも人生のワナであります。
そんな風に人間は「何かであらう」とすることなど、本当は出来るものではないらしい。
利口であらうとすればバカのワナに落ち込み、バカであらうとすれば利口のワナに落ち込み、
果てしもない堂々めぐりをかうしてくりかへすのが、多分人生なのでありませう。
三島由紀夫「不道徳教育講座 馬鹿は死ななきや……」より
79 :
名無しさん@社会人:2010/09/27(月) 20:31:49
告白癖のある友人ほどうるさいものはない。もてた話、失恋した話を長々ときかせる。
やたらと人に弱味をさらけ出す人間のことを、私は躊躇なく「無礼者」と呼びます。
それは社会的無礼であつて、われわれは自分の弱さをいやがる気持から人の長所を
みとめるのに、人も同じやうに弱いといふことを証明してくれるのは、無礼千万なのであります。
どんなに醜悪であらうと、自分の真実の姿を告白して、それによつて真実の姿をみとめてもらひ、
あはよくば真実の姿のままで愛してもらはうと考へるのは、甘い考へで、人生をなめて
かかつた考へです。
三島由紀夫「不道徳教育講座 告白するなかれ」より
80 :
名無しさん@社会人:2010/09/27(月) 20:32:32
北欧諸国で老人の自殺が多いのは何が原因かね。社会保障が行き届きすぎて、老人が何も
することがなくなつて、希望を失つて自殺するのである。
青年男女の自殺といふのはママゴトのやうなもので、一種のオッチョコチョイであり、
人生に関する無智から来る。
大体、男女といふものは、色事以外は、別種類の動物であつて、興味の持ち方から何から
ちがふし、トコトンまでわかり合ふといふわけには行かないのであるから、どこへも
男女同伴夫婦同伴などといふのは、人間心理をわきまへぬ野蛮人の風習である。
三島由紀夫「不道徳教育講座 日本及び日本人をほめるべし」より
81 :
名無しさん@社会人:2010/09/27(月) 20:33:06
どんな功利主義者も、策謀家も、自分に何の利害関係もない他人の失敗を笑ふ瞬間には、
ひどく無邪気になり、純真になります。誰でも人の好さが丸出しになり、目は子供つぽい
光りに充たされます。
友情はすべて嘲り合ひから生れる。
三島由紀夫「不道徳教育講座 人の失敗を笑ふべし」より
三千人と恋愛をした人が、一人と恋愛をした人に比べて、より多くについて知つてゐるとは
いへないのが、人生の面白味ですが、同時に、小説家のはうが読者より人生をよく知つてゐて、
人に道標を与へることができる、などといふのも完全な迷信です。小説家自身が人生に
アップアップしてゐるのであつて、それから木片につかまつて、一息ついてゐる姿が、
すなはち彼の小説を書いてゐる姿です。
三島由紀夫「不道徳教育講座 小説家を尊敬するなかれ」より
82 :
名無しさん@社会人:2010/09/27(月) 20:33:33
神経が疲労してゐるとき病的に性欲が昂進するのは、われわれが、経験上よく知つてゐる
ことである。これを「強烈な原始的性欲」とか、「本能の嵐」とかに見まちがへる人がゐたら、
よつぽどどうかしてゐるのである。これはむしろ本能から一等遠い状態です。
三島由紀夫「不道徳教育講座 性的ノイローゼ」より
怪力乱神は、どうもどこかに実在するらしい、といふのが私のカンである。
仕事をしてゐるときでも、ふと自分が怪力乱神の虜になつてゐると感じることがある。
しかしこの世に知性で割り切れぬことがあるのは、少しも知性の恥ではない。
三島由紀夫「不道徳教育講座 お化けの季節」より
83 :
名無しさん@社会人:2010/09/27(月) 20:36:57
人間対人間では、いつも勝つのは、情熱を持たない側の人間です。
あるひは、より少なく情熱を持つ側の人間です。
セールスマンの秘訣は決して売りたがらぬことだと言はれてゐる。人が押売りからものを
買ひたがらぬのは、人間の本能で、敗北者に対して、敗北者の売る物に対して、
魅力を感じないからであります。
人を待たせる立場の人は、勝利者であり成功者だが、必ずしも幸福な人間とはいへない。
駅の前の待ち人たちは、欠乏による幸福といふ人間の姿を、一等よくあらはしてゐると
いへませう。
三島由紀夫「不道徳教育講座 人を待たせるべし」より
84 :
名無しさん@社会人:2010/09/27(月) 20:37:52
いくら禿頭でも、独身の男といふものは、女性にとつて、或る可能性の権化にみえるらしい。
男にとつていかに独身のはうがトクであるかは、言ふを俟ちません。かく言ふ私でも、
結婚したとたんに、女性の読者からの手紙が激減してしまひました。
孤独感こそ男のディグニティーの根源であつて、これを失くしたら男ではないと言つてもいい。
子供が十人あらうが、女房が三人あらうが、いや、それならばますます、男は身辺に
孤独感を漂はしてゐなければならん。
…男はどこかに、孤独な岩みたいなところを持つてゐなくてはならない。
このごろは、ベタベタ自分の子供の自慢をする若い男がふえて来たが、かういふのは
どうも不潔でやりきれない。アメリカ人の風習の影響だらうが、誰にでも、やたらむしやうに
自分の子供の写真を見せたがる。かういふ男を見ると、私は、こいつは何だつて男性の威厳を
自ら失つて、人間生活に首までドップリひたつてやがるのか、と思つて腹立たしくなる。
「自分の子供が可愛い」などといふ感情はワイセツな感情であつて、人に示すべき
ものではないらしい。
三島由紀夫「不道徳教育講座 子持ちを隠すべし」より
85 :
名無しさん@社会人:2010/09/27(月) 20:38:29
日本も三等国か四等国か知らないが、そんなに、「どうせ私なんぞ」式外交ばかりやらないで、
たまにはゴテてみたらどうだらう。さうすることによつて、自分の何ほどかの力が
確認されるといふものであります。
三島由紀夫「不道徳教育講座 何かにつけてゴテるべし」より
現代は一方から他方を見ればみんなキチガヒであり、他方から、一方を見ればみんな
キチガヒである。これが現代の特性だ。
三島由紀夫「不道徳教育講座 痴呆症と赤シャツ」より
男が持つてゐる癒やしがたいセンチメンタリズムは、いつも自分の港を持つてゐたい
といふことです。世界中の港をほつつき歩いても最後に帰つて身心を休める港は、
故里の港一つしかない。
三島由紀夫「不道徳教育講座 恋人を交換すべし」より
86 :
名無しさん@社会人:2010/10/09(土) 13:35:31
想像力といふものは、多くは不満から生まれるものである。あるひは、退屈から生まれる
ものである。われわれが危急に際して行動に熱中し、生きることにすべての力を注いで
ゐるときには、想像力の余地をほとんど持つことがない。もし、想像力がノイローゼの
原因になるとすれば、空襲にさらされた戦争中の日本は、最もノイローゼの出にくい
状況であつた。
人生といふものは、死に身をすり寄せないと、そのほんたうの力も人間の生の粘り強さも、
示すことができないといふ仕組になつてゐる。ちやうど、ダイヤモンドのかたさをためすには、
合成された硬いルビーかサファイアとすり合さなければ、ダイヤモンドであることが
証明されないやうに、生のかたさをためすには、死のかたさにぶつからなければ証明されないのかもしれない。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
87 :
名無しさん@社会人:2010/10/09(土) 13:37:46
泰平無事が続くと、われわれはすぐ戦乱の思ひ出を忘れてしまひ、非常の事態のときに
男がどうあるべきかといふことを忘れてしまふ。金嬉老事件は小さな地方的な事件であるが、
日本もいつかあのやうな事件の非常に拡大された形で、われわれ全部が金嬉老の人質と
同じ身の上になるかもしれないのである。
危機を考へたくないといふことは、非常に女性的な思考である。なぜならば、女は愛し、
結婚し、子供を生み、子供を育てるために平和な巣が必要だからである。平和でありたい
といふ願いは、女の中では生活の必要なのであつて、その生活の必要のためには、何ものも
犠牲にされてよいのだ。
しかし、それは男の思考ではない。危機に備へるのが男であつて、女の平和を脅かす危機が
来るときに必要なのは男の力である。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
88 :
名無しさん@社会人:2010/10/09(土) 13:41:29
約束や信儀は、実は快楽主義のためにさへ守らなければならないのである。なぜなら
快楽は鳥の影のやうなもので、一度われわれがそれをつかみそこねたら永遠に飛びさつて
しまふからである。
私は昔から約束を守らない女性は、どんな美人であつても嫌ひである。なぜなら私の考へでは、
どんな快楽も信儀の上に成り立つといふ考へだからである。
伝統は守らなければ自然に破壊され、そして二度とまた戻つてはこない。
外国人の目には、すべて民族的な服装は美しい。しかし美しいのと、便利とは別である。
日本人は、わりに便利といふことに弱い国民である。
服装は強ひられるところに喜びがあるのである。強制されるところに美があるのである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
89 :
名無しさん@社会人:2010/10/09(土) 13:43:52
人間は、場合によつては、楽をすることのはうが苦しい場合がある。貧乏性に生まれた人間は、
一たび努力の義務をはづされると、とたんにキツネがおちたキツネつきのやうに、
身の扱ひに困つてしまふ。
人間の能力の百パーセントを出してゐるときに、むしろ、人間はいきいきとしてゐるといふ、
不思議な性格を持つてゐる。
社会全体のテンポが、早く走れる人間におそく走ることを要求し、おそく走る人間に早く
走ることを要求してゐるのである。
これが現代日本の社会のひづみの、おそらく根本原因である。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
90 :
名無しさん@社会人:2010/10/18(月) 10:50:38
音楽は生活必需品かといふと、人によつてちがふだらうが、私にとつては必ずしもさうではない。それは思考を
妨げるからだ。私には、音楽の鳴つてゐる部屋で物を考へるなど、狂気の沙汰としか思はれない。このごろの
青少年がジャズをききながら試験勉強をしてゐるのを見ると、私と別人種の感を新たにする。
では、音楽は休息の楽しみとして必要だらうか。私にとつては必ずしもさうではない。机に向かふのが仕事の私には、
休息とは、体を動かすことである。運動にはそれ自体のリズムがあつて、音楽を要しない。アメリカのジムなどで、
ムード・ミュージックを流してゐるところがあつたが、何だか運動に力が入らなくて困つた。
では、私にとつて音楽とは何なのだらうか。それは生活必需品でもなければ、休息の楽しみでもない。それは
誘惑なのである。
三島由紀夫「誘惑――音楽のとびら」より
91 :
名無しさん@社会人:2010/10/18(月) 10:50:54
むかし米軍占領時代に、家から三丁ばかり離れた大きな邸が接収されてゐて、週末といふと舞踏会が催ほされる
らしく、夜風に乗つてダンス音楽がかすかに流れてきて、食糧難時代の新米文士の仕事を攪乱したものだつた。
しかし、その音楽には、今そこにないものへの強烈な誘惑があつた。「今そこにないもの」を、音楽ほど強烈に
暗示し、そこへ向つて人を惹き寄せるものはない。もちろんただの幻である映画だつてさうかもしれない。
が、音楽のこの誘惑の力を借りてゐない映画はきはめて稀である。
「今そこにないもの」にもピンからキリまである。ピンは天国から、キリはつまらない観光的な熱帯の小島まである。
ピンは、人間精神の絶顛から、キリは性慾の満足まである。それに従つて、音楽にもピンからキリまであるわけだが、
かう考へると、音楽は生活必需品でなくても、人生の必需品、むしろその本質的なものとも思はれる。
「今そこにないものへの誘惑」にこそ、生の本質があるからである。
三島由紀夫「誘惑――音楽のとびら」より
八巻正治。氏の学歴は以下の通りです。
【学習歴の記録】
美幌幼稚園 卒園 美幌小学校 卒業 美幌中学校 卒業 美幌高校 卒業 ※高校は途中転入で、しかも不登校でした!
順天堂大学 体育学部 健康教育学専攻 卒 業 ※ガンガン勉強しました!
青山学院大学 第U文学部 教育学科 卒 業 ※幼稚園での教育実習も行いました!
東洋大学 第U文学部 教育学科 卒 業 ※養護学校の教員免許を取得しました!
立教大学・大学院 文学研究科:博士課程(前期) 教育学専攻 修 了 ※良き学師たちに巡り合えました!
カリフォルニア神学大学院日本校 博士課程 キリスト教神学 修 了 ※神様の深き愛の素晴らしさを学びました!
米ニューポート大学大学院 博士課程 教育学専攻 修 了 ※論文執筆に燃えました!--------------------------------------------------------------------------------
資 格
1973年03月19日 中学校教諭1級(千葉県教委 昭47中1普 第501号),高等学校教諭2級(昭47高2普 第427号) 教員免許状(保健体育)取得
1973年04月26日 衛生管理者免許状(第61号) 取得
1978年03月31日 養護学校教諭1級(東京都教育委員会 昭53養学1普 第132号) 教員免許状取得
1994年02月26日 『米セント・チャールズ大学(カリフォルニア神学大学院日本校:提携校)』より 『博士(宗教学)(Ph.D.)』 の学位を取得
93 :
名無しさん@社会人:2010/10/22(金) 11:37:56
私は別にかつての軍隊の讚美者でもなく、軍隊生活の経験も持たない身は、それについて論じる資格もないが、
大分前に、「きけ、わだつみの声」であつたか、その種の反戦映画を見て、いはん方ない反感を感じたおぼえがある。
たしかその映画では、フランス文学研究をたよりに、反戦傾向を示す学生や教師が、戦場へ狩り出され、
戦死した彼らのかたはらには、ボオドレエルだかヴェルレエヌだかの詩集の頁が、風にちぎれてゐるといふ
シーンがあつた。甚だしくバカバカしい印象が私に残つてゐる。ボオドレエルが墓の下で泣くであらう。
日本人がボオドレエルのために死ぬことはないので、どうせ兵隊が戦死するなら、祖国のために死んだはうが
論理的であり、人間は結局個人として死ぬ以上、おのれの死をジャスティファイする権利をもつてゐる。
三島由紀夫「『青春監獄』の序」より
94 :
名無しさん@社会人:2010/10/22(金) 11:38:35
絶対的に受身の抵抗のうちに、戦死しても犬のやうに殺されたといふ実感を自ら抱いて、死んでゆける人間は、
稀に見る聖人にちがひない。
私はすべてこの種の特殊すぎる物語に疑ひの目を向ける。兵隊であつて文学者あつた人の書くものも、一般人を
納得させるかもしれないが、私のやうな疑ぐり深い文士を納得させない。私の読みたいのは、動物学者の書いた
狼の物語ではなく、狼自身の書いた狼の物語なのである。
狼がどんなに嘘を並べても、狼の目に映つた事実であり嘘であれば、私は信じる。私は何も礼を失して、
宮崎氏を狼呼ばはりするのではない。しかし氏の著書は、或る見地から見て、実に貴重なのである。
三島由紀夫「『青春監獄』の序」より
95 :
名無しさん@社会人:2010/10/24(日) 11:02:47
新聞の持つてゐる社会的正義感といふものには、ときどき反撥を感じることがある。
だれでもみづから美徳の代表者を買つて出れば、サンザンな目に会ふのが当節で、新聞だけが、何の傷も負はずに
社会的正義の代表者たりうるはずがないからである。また、いろいろと虚偽の多い時代に、新聞が、子供も
読むものだといふので、ともすると家庭ダンラン趣味、事なかれの小市民趣味に美的倫理的基準を置くのも困る。
みにくいものは、みにくいままに報道してほしい。
戦争中の大本営発表以来、新聞は一たん信用をなくしたが、こんどあんなことがあるときは、新聞はこんどこそ、
最後までグヮンばつて抵抗するだらうといふことを我々は期待してゐる。この期待を裏切らないでほしい。
某紙の新聞批判に「新聞を愛すればこそ批判するのだ」と言訳がついてゐたが、いやしくも批評をするのに、
こんな言訳を要するやうな空気がもしあるならば、それを払拭されんことをのぞむ。
三島由紀夫「ありのままの報道を――私の新聞評」より
96 :
名無しさん@社会人:2010/10/25(月) 11:49:56
理想的な父親の教育とは、父子相伝の技術の教育であつた。そこに父親といふものの意味があつた。漁師の父親が、
息子に、縄のなひ方から、櫓のこぎ方、網の打ち方、などをだんだんに教へてやる。時には、わざと教へないで、
息子に危険を犯させて自得させる。そして父親の死後、息子は若かりし日の父親とそつくりの、村一番の、逞しい、
熟練した漁師になる。舟を漕いで沖に向ふとき、朝焼けの空の雲一つが、人の顔のやうに見え、その顔から、
父親のきびしい、しかし温かな面影を思ひ出す。……
これが本当の父子といふものだ。しかるに都市のインテリ階級は、息子に伝へるべき技術を何も持たぬ。上役に
おべんちやらを言ふ技術なんか、息子に教へるわけには行かない。私のやうに、都市インテリ階級の家に生れて、
その上、特殊な文筆業の、決して息子に伝へることのできない一代限りの技術で生活してゐる者はどうすれば
よいのか?
三島由紀夫「わが育児論」より
97 :
名無しさん@社会人:2010/10/25(月) 11:52:24
事業を持つてゐれば、事業を息子に継がせるための教育といふものもあらう。しかし、私は自分の息子が文筆業者に
なることを決して望まないのである。世俗の目からは収入(みいり)のいい職業だと思はれてゐるかもしれないが、
この職業の心の地獄を私はよく知つてゐるからだ。
そこで子供には普通の市民生活への道を歩ませたいのだが、そのためには家庭の環境が特殊すぎる。大体子供が
向上心を持つには、親が適度に貧乏であることが必要なのだが、むかしの日本では、貧富を問はず、子供(殊に
男児)に贅沢をさせない気風は徹底してゐた。私は貿易自由化の今でも、学生が、高価なスイス製の腕時計を
はめてゐたり、舶来の万年筆を使つてゐたりすると、言ひやうのない不愉快な感じをもつ。しかし今の子供は
昔とちがふ。(中略)今では、収入の多い親が、ムリヤリ経済的に子供を圧迫して、自分の古い儒教的倫理観を
満足させたところで、そんな不自然なことには、子供がついて行かないのである。
三島由紀夫「わが育児論」より
98 :
名無しさん@社会人:2010/10/25(月) 11:54:20
私は今六歳の女児と三歳の男児を持つてゐるが、女児が生れたとき、私は父親の最低限度の教育として、三つの
言葉を教へようと骨を折つた。それは、
「こんにちは」
「ありがたう」
「ごめんなさい」
の三つである。「こんにちは」は、「おはやう」「おやすみ」「ごきげんよう」「こんばんは」「さやうなら」
等々を含み、要するに日常の挨拶である。
「ありがたう」は、社会生活の要求する最低限度の言葉で、人に
何かをしてもらつたとき、人に何かをもらつたとき、必ず言ふべき言葉である。
「ごめんなさい」は、自分があやまちを犯したとき、素直に口をついて出るべき言葉である。
この三つが、大人になつてもスラリと出ない人間は、社会生活の不適格者になる。私は口やかましくこれだけを言ひ、
子供たちはどうやら言へるやうになつたが、言はないときは忘れずに寸時を措かずにこちらから催促する。
とにかく命令して言はせるのである。
三島由紀夫「わが育児論」より
99 :
名無しさん@社会人:2010/10/25(月) 11:58:57
それから、テレビをみんなで眺めながら黙つて食事をするこのごろの悪習慣は、私のもつとも嫌悪するところで
あるので、どんな面白い番組があつても、食事中はテレビを消させる。私は一週一回は必ず子供たちと夕食をとるが、
多忙な生活で、それ以上食事を共にすることができない。
子供たちの就寝時間は厳格に言ひ、大人の都合で遅寝をさせるやうなことも決してせず、まして子供のわがままで
時間をおくらせることもしない。休日といへども、同様である。子供を連れて出れば、必ず、就寝時間三十分前には
帰宅する。
子供のつくウソは、卑劣な、人を陥れるやうなウソを除いては、大目に見る。子供のウソは、子供の夢と
結びついてゐるからである。
三島由紀夫「わが育児論」より
子持ちを隠すべし
不道徳教育講座
101 :
名無しさん@社会人:2010/10/26(火) 10:51:15
私はショッピングが大きらひだ。店のなかをウロウロして、十軒も二十軒も東京中を歩いて、やつと一本の
ネクタイを買ふ人があるが、時間が惜しくてとてもあんな真似はできない。私の買物は即興詩みたいなものだ。
町を歩いてゐて、視界のはじつこのはうに、ちよつと気に入つたネクタイが目に入る。と間髪を入れずそれを
買ふのである。今のチャンスをのがしたら、その同じネクタイが気に入ることは二度とないだらうと感じるからだ。
(中略)
本当のお洒落といふのは、下着から靴下から靴から、すみずみまでのお洒落であらう。私は到底お洒落の資格はない。
せいぜいカラーに汚れのない白いワイシャツをいつも着てゐるぐらゐが私のお洒落であらう。靴下のことまで
考へるのは面倒くさい。しかしもし下着から靴下まで考へることが本当のお洒落ならば、もう一歩進んで、
自分の頭の中味まで考へてみることが、おそらく本当のお洒落であらう。
三島由紀夫「お洒落は面倒くさいが――私のおしやれ談義」より
102 :
名無しさん@社会人:2010/10/28(木) 12:12:57
このごろは、デモ見物に歩くことが多くなつた。デモの当事者からすれば、弥次馬は唾棄すべき存在だらうが、
かういふときには、一人ぐらゐ「見る人間」も必要である。鴨長明が洛中の屍体の数まで、自分手で数へあげて
ゐる態度は、学ぶべきだと思ふ。
新聞を見てもテレビを見ても、どうしても報道そのものに主観的態度が入つてゐるやうに思はれる。写真や映画は
正に実物そのものの筈だが、必ず主観的なアナウンスが入つてゐて、印象を混濁させる。かうなつてくると、
いはゆるマス・コミは却つて不便で、どうせ主観なら自分の主観、どうせ目なら自分の目を信ずる他はなくなるのだ。
私の目だつて大したことはないが、カメラのレンズよりは少しばかり精巧であらう。
三島由紀夫「同人雑記」より
103 :
名無しさん@社会人:2010/11/04(木) 20:01:32
左翼はいつも、より良き未来世界といふものを模索してゐる。いつもより良き未来社会へ向かつて我々は
進歩してゆくと考へてゐるのです。(中略)
ところがソビエトはご承知のやうな状態になつた。これは完全な官僚社会のみならず、その常套語を使へば、
帝国主義なのです。そして、かつて日本人が未来社会と思つたのが帝国主義になつてしまつた。もう
スターリン批判以来、日本人のソビエトに対する夢も崩れた。では、中共はどうか。中共はどうも日本人の
西洋崇拝から言ふと少し外れる処があつたんだけど、文化大革命といふことがあつたので、ますます日本人の
理想から遠くなつてしまつた。近頃は経済的には先進国になつてゐますので、その点でも、あらゆる後進国的な
ラディカルな革命のやり方でやれるものかどうかといふ疑問は幼稚園ぐらゐ出てゐれば大体分るわけです。
そこで未来社会の展望を失つたところに彼らの焦燥と彼らの一種の絶望感があることは確かなのです。
三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
104 :
名無しさん@社会人:2010/11/04(木) 20:03:18
それで、より良き彼らの本当の未来社会とは何であるか。皆さんは、「自由からの逃走」といふエーリッヒ・フロムの
本などをお読みになつたことがあるだらうと思ひますが、“われわれの窮屈に閉込められたこの自由といふ名の
下に於いて、人間が一種のフィクションに堕してしまつた社会”から何とか抜け出して、“自由な人間主義の
本当に実現される世界、しかもそこでは社会主義がその最も良いところを実現してゐるやうな社会”であります。
いはゆる、ヒューマニテリアン・ソシャリズムですが、完全な言論自由化の社会主義といふやうな、誰が考へても
実現不可能のやうな、より良き未来に向かつて進んで行かうと、それがまあ大体の左翼型のラディカルな革命の
行動の先にある未来国であると考へて良いと思ひます。(中略)
何も私は共産主義に対抗して生きてゐるわけではありません。別にそれを職業にしてゐる人間でもありません。
ですけれども彼らの考へにうつかり動かされ、蝕まれていつたならば、どういふ結果になるか目に見えてゐる。
三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
105 :
名無しさん@社会人:2010/11/04(木) 20:04:47
(中略)
私は未来といふものはないといふ考へなのです。未来などといふことを考へるからいけない。
(中略)我々はアメーバが触手を伸ばすやうに、闇の中を手探りで少し先の未来までは予測ができる。或ひは
来年くらゐまでは予測できるかもしれない。しかし、人間が予測されない闇の中を進んでゆくためには、その闇の
彼方にあるものを信ずるか、或ひはその闇といふものに対決して本当に自分の現在に生きるかといふことの
二つの選択を迫られてゐるといふのが私の考へ方の基本であります。
“未来に夢を賭ける”といふことは弱者のすることである。そして、自分をプロセスとしか感じられない人間の
することであります。(中略)
このやうな思考の中からは人間の円熟といふことも出て来なければ、人間の成熟といふ思考も絶対に出て来ない。
三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
106 :
名無しさん@社会人:2010/11/04(木) 20:05:57
実は、人間は未来に向かつて成熟してゆくものではないんです。それが人間といふ生き物の矛盾に充ちた
不思議なところです。人間といふものは“日々に生き、日々に死ぬ”以外に成熟の方法を知らないんです。
「葉隠」といふ本を御覧になつた方があるとみえて、笑つてゐる方がそこに居りますが、やはり死といふ事を
毎日毎日起り得る状況として捉へるところから人間の行動の根拠を発見して、そこにモラルを提示してゆく。
非常に極端な考へ方なのですが、あれ程生きる力を与へられた本を私は知りません。
あの思考には、未来が無いのです。我々は常識で考へて「未来がない」と言ふと、まるで破産宣告を受けた人間とか、
ガンの宣告を受けた人間のやうに考へますが、さうではなくて、私は、「青年にこそ未来がない」と、
私自身の考へから、経験から言へるのです。
三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
107 :
名無しさん@社会人:2010/11/04(木) 20:07:03
(中略)
そこで、何も未来を信じない時、人間の根拠は何かといふことを考へますと、次のやうになります。
未来を信じないといふことは今日に生きることですが、刹那主義の今日に生きるのではないのであつて、
今日の私、現在の私、今日の貴方、現在の貴方といふものには、背後に過去の無限の蓄積がある。
そして、長い文化と歴史と伝統が自分のところで止まつてゐるのであるから、自分が滅びる時は全て滅びる。
つまり、自分が支へてきた文化も伝統も歴史もみんな滅びるけれども、しかし老いてゆくのではないのです。
今、私が四十歳であつても、二十歳の人間も同じ様に考へてくれば、その人間が生きてゐる限り、その人間の
ところで文化は完結してゐる。その様にして終りと終りを繋げれば、そこに初めて未来が始まるのであります。
三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
108 :
名無しさん@社会人:2010/11/04(木) 20:11:42
われわれは自分が遠い遠い祖先から受け継いできた文化の集積の最後の成果であり、これこそ自分であるといふ
気持で以つて、全身に自分の歴史と伝統が籠つてゐるといふ気持を持たなければ、今日の仕事に完全な成熟といふ
ものを信じられないのではなからうか。或ひは、自分一個の現実性も信じられないのではなからうか。
自分は過程ではないのだ。道具ではないのだ。自分の背中に日本を背負ひ、日本の歴史と伝統と文化の全てを
背負つてゐるのだといふ気持に一人一人がなることが、それが即ち今日の行動の本になる。
(中略)「俺一人を見ろ!」とこれがニーチェの「この人を見よ」といふ思想の一つの核心でもありませう。
けれども、私は中学時代に「この人を見よ」といふのは「誰を見よ」といふのかと思つて先輩に聞きましたところ、
「ニーチェを見よ」といふことだと教へて貰ひ、私は世の中にこんなに自惚れの強い人間がゐるのかと驚いた
ことがあるのです。しかし、今になつて考へてみると、それは自惚れではないのであります。
三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
109 :
名無しさん@社会人:2010/11/04(木) 20:12:49
自分の中にすべての集積があり、それを大切にし、その魂の成熟を自分の大事な仕事にしてゆく。
しかし、そのかはり何時でも身を投げ出す覚悟で、それを毀さうとするものに対して戦ふ。(中略)
ここにこそ現在があり、歴史があり、伝統がある。彼らの貧相な、観念的な、非現実的な未来ではないものがある。
そこに自分の行動と日々のクリエーションの根拠を持つといふことが必要です。これは又、人間の行動の強さの
源泉にもなると思ふ。といふのは人間といふものは、それは果無い生命であります。
しかし、明日死ぬと思へば今日何かできる。そして、明日がないのだと思ふからこそ、今日何かができる
といふのは、人間の全力的表現であり、さうしなければ、私は人間として生きる価値がないのだと思ひます。
三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
110 :
名無しさん@社会人:2010/11/04(木) 20:15:30
本日ただ今の、これは禅にも通じますが、現在の一瞬間に全力表現を尽すことのできる民族が、その国民精神が
結果的には、本当に立派な未来を築いてゆくのだと思ひます。
しかし、その未来は何も自分の一瞬には関係ないのである。これは、日本国民全体がそれぞれの自分の文化と
伝統と歴史の自信を持つて今日を築きゆくところに、生命を賭けてゆくところにあるのです。
特攻隊の遺書にありますやうに、私が“後世を信ずる”といふのは“未来を信ずる”といふことではないと
思ふのです。ですから、“未来を信じない”といふことは、“後世を信じない”といふこととは違ふのであります。
私は未来は信じないけれども後世は信ずる。
特攻隊の立派な気持には万分の一にも及びませんが、私ばかりでなく、若い皆さんの一人一人がさういふ気持で
後輩を、又、自分の仕事ないし日々の行動の本を律してゆかれたならば、その力たるや恐るべきものがあると
思ひます。
三島由紀夫「日本の歴史と文化と伝統に立つて」より
111 :
名無しさん@社会人:2010/11/07(日) 12:07:38
三島:日本人はアジアでも特殊な民族で、外来文明に対する抵抗力はいちばん強いと思う。肺結核の黴菌に
対しても、清浄な空気の田舎から出てきた人は非常にかかりやすく、都会でもまれて免疫になっている人は
かかりにくいのと同じで、日本は外来文化の吹きだまりと言われているぐらいなので、抵抗力はアジアでいちばん強い。
インド人は依然としてサリーを着ている。インド人は外来文化に対して立派に抵抗している。日本人の男は
似合いもしないセビロを着、女はドレスを着ている。
皮相な観測をする外国人は、日本人は無節操で外来文化に対する抵抗力がないというが、そんなことはない。
似合わないセビロを着ていられるから抵抗力があるのだ。そういう恰好ができないということは、逆にいえば
抵抗力がないということだ。ガンジーが糸車で抵抗したのはそれを知っていたからだ。
三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より
112 :
名無しさん@社会人:2010/11/07(日) 12:08:45
三島:トインビーが言っているように、東南アジアから近東地方にかけての西洋文明の侵略に抵抗しえたのは
ガンジーの糸車である。もし、たとえ小さな機械でも、あれを機械に変えていれば、堤に穴があいたように、
そこからどっと西洋文明が入って来る。そして社会が改革され、経済が改革され、西洋人が教えたとおりにやっていく。
現に東南アジア諸国は西洋をまねて革命を起こそうとしているが、日本はその点、いつもぐずらぐずらしている。
明治維新だってしようがないからやったんだ。のらりくらりで、相手を受け入れても抵抗力を失わない。
これは自信を持っていいと思う。冷蔵庫やテレビをおいても、もう一つの世界を持っていける力がある。
人生をフィクションにする力は、日本人の大きな力だ。
三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より
113 :
名無しさん@社会人:2010/11/07(日) 12:09:48
三島:アメリカ人をご覧なさい。アメリカ人は六つの頃からセビロを着て、死ぬまでセビロを着なければならない。
ほかに着るものがない。人生をフィクションにする部分は一つもない。教会に行ってもプロテスタントの教会だから、
カソリックと違って飾り物やお祭があるわけでもない。
その一生は、人生のフィクションを味わうものがなにもないから、じつにさびしいものだろう。そうだから、
日本の文化に見られる人間精神の、純粋な結晶に、憧れを感じる。日本人はそれをケロっとして持っている。
自信を持っていい。
千:私もそれを考えて、ある席で言ったことがある。日本人は模倣性が強いというが、そんなことは考えなくともよい。
無意識のうちに外にいるときは洋服、畳の上にいるときは着物を着る。衣食住に関しては、外国人ができないことを
平然としてやれる。ですから、こういう機械文明の時代になっても、茶室で静かに自分の境地をさがし出すこともできる。
三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より
114 :
名無しさん@社会人:2010/11/07(日) 12:10:41
編集者:(中略)お茶事は演出するもの、フィクションである。しかも、それは歌舞伎の「先代萩」とか
「菅原伝授」とか、たとえ俳優がかわっても繰り返してなんべんでもやれるというものではない。
だから一期一会……。
千:一期一会はお茶から出ているんだが、べつにお茶だけに限らなくともいいでしょう。人間はおたがいに
生活に追われているから、一日の一瞬間でも、ほんとうに心からとけあってお茶事を構成していこう、そういう
解釈でいいんじゃないですか。今日会えば二度と会えなくても満足だという真剣勝負のような気持、そういう
気魄は当然あるべきだと思う。ただ、それを押しつけては、おたがいに窮屈になってしまうけれど。
三島:最高の快楽というのはそういうもんじゃないか。
現在の一瞬間を最高に楽しむ。非常にストイックな快楽ということになりますね。
三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より
115 :
名無しさん@社会人:2010/11/07(日) 12:11:32
千:瞬間瞬間をいかに満足するか。お茶を出す亭主はどういうようにすればお客さんに喜んでもらえるか、また
客のほうは、どうすれば雰囲気のなかに溶け込んで、自分というものが亭主に快く受け入れられるかという
瞬間的なふれあい、それは今言われたように、最高の快楽、和・敬・清・寂というものだろうと思う。
三島:たいへん教養のあるアメリカの婦人が、日本にきて、北鎌倉のあるお寺に行ってそこの高僧に会った。
春で庭に梅の花が咲いていた。その人は日本語ができないので、おそるおそる座敷に入って、端近に座った。
やがて和尚さんが現われてニッコリした。彼女もなにもわからないがニッコリした。その瞬間、彼女はここで
死んでもいいと思ったそうです。これまで五十何年間生きてきたけれども、自分が死んでもいいと思った瞬間は
あのときがはじめてだといっていたが、ここに道を求むる人ありという感じでした。(笑)
三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より
116 :
名無しさん@社会人:2010/11/07(日) 12:14:32
三島:(中略)これは古い言葉ですが、伝統芸術というのはおしなべて「捨身飼虎」の精神がほしいと思う。
身を捨てるということは、現代ではセビロを着ること、テレビを見ること、洗濯機を使うこと、地下鉄を乗ること、
これが現代の捨身。お茶はほんとうにおそろしいものですよという位置まで高めるのが飼虎。そうしなければ
いけないと思う。いま歌舞伎や能の人のやっていることは、虎が檻から勝手に出てしまって、自分では虎を
飼っていない人が多い。そこで身を捨てないで、着物、羽織、袴をはいても、虎がいないのでは人の心をつかめない。
お客さんは檻のなかに虎がいないことを知っている。(中略)
編集者:…お茶は虎だというのは非常に大切だと思います。盲蛇におじずで、虎を猫だと思っている人が多いから、
猫じゃなくて虎だということを知らせるのは伝統を守るために必要なことでしょう。外人を茶室に入れたら、
キチッと坐らせて、猫じゃなく虎だと思わせることは非常に必要なことですね。
三島:ますますこれから必要でしょう。総理大臣までチョロチョロしている世の中で、日本の凜然たるものを
持っているのは伝統文化だけだということになるかもしれないですね。
三島由紀夫
千宗室との対談「捨身飼虎」より
117 :
名無しさん@社会人:2010/11/11(木) 23:13:09
Q――現代のビジネスマンに要望することは?
三島由紀夫:私はね、商人といふのはきらひなんですよ。ですからね、万国博にも行つてゐないですよ。あれは
商人のお祭だから、武士は行かないんだといつてぐわんばつてゐるんです。
とはいひながらね、デパートだつて商人だしね、武士といへども、商人とつきあはざるを得ない、つらいところ
ですよね(笑)。武士だけやつてゐると、お米も食へなくなつちやふ。
かういふ世の中だから商人様全盛の世の中でしよ。ですけど、ぼく本人の中にはやつぱり武士の魂はあると思つてね。
商人の中にも銭屋五兵衛みたいな男もゐますしね。明治の政商でも、政治とかんでゐて、そこでやつぱり自分の
意気地を投げ打つといふ気持があつたと思ふんですよ。商人がきらひといふ意味は、商人を尊敬しないわけぢやない。
ただ一般に、商人には自己犠牲の精神がないからきらひなんです。
日本人といふのは、自己犠牲の精神がなくなつたら日本人ぢやないですよ。今の商人といふのはさういふ気持が
ないから本当のユダヤ人になつちやふだらうと思ふんです。
三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
118 :
名無しさん@社会人:2010/11/11(木) 23:14:33
資本といふのは、本質的にインターナショナルなものですよ。どんな国の、いかにも民族資本でもね、
インターナショナルな性質をもつてゐるのが資本だと思ふんですよ。ところがそつちの面ばかりが出てくるとね、
日本人の魂が商人道によつてをかされてきてゐると思ふ。そのお金本位、金権主義にをかされてゐるのがこはい。
私は、青年が金権主義といふものに反抗する気持がいちばんよくわかる。自分らが企業体の中で活躍するとき、
いかに武士の魂をもつてても、結局、金権主義、ご都合主義、さういふものによつてをかされていくといふのは、
青年として耐へがたいだらうと思ふ。それでボクは武士は武士として一人でぐわんばつてゐる。ところがボクもね、
扶持をくれないから浪人なんですよ。
三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
119 :
名無しさん@社会人:2010/11/11(木) 23:15:41
やつぱり日本人は身を殺して仁をなすといふ気持がなければだめなんだけど、これがね元禄時代と同じでね、
今、税法がモラルを崩壊させてゐるでしよ。あのころの侍がみんな藩のお金を平気で使つて飲み食ひする、
何をする、さういふことをしない人もゐますがね、当時から日本人はさういふ悪いところがあるんですよね、
公私混同みたいなところが。
とくにね戦後は税法のおかげで会社の交際費が自由に使へるとね、社長にいたるまで家族つれてすし屋に行くとか。
戦前は少なくともポケットマネーがありましたからね、重役クラスになりますと、金の使ひ方が公私混同して
ゐなかつたですよね。これは自分のこづかひといふけぢめがあつたでしよ。今何でも会社の伝票を切る、
かういふことがいちばん日本人全体のモラルを崩壊させてゐると思ふんです。
三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
120 :
名無しさん@社会人:2010/11/11(木) 23:16:57
外人記者なんかに会ひますとね、日本に軍国主義が復活してゐることを懸念してゐる。これは実はまちがひ
だつていふんです。
…といふのは武士道といふのを、日本人がわからなくなつてゐるからだ。武士道といふのは何かといふことを
外人に説明するとき、三つあるといふんです。
それはSelf-respect 自尊心ですね。次はSelf-responsibility 自己責任ですね。自己において責任が終了するといふ。
第三がSelf-sacrifice 自己犠牲ですね。この三つのうちどれをとつても武士ぢやないといふんですよ。
そしてね、軍国主義といふのは外国からきたものでね、このSelf-respect と、Self-responsibility はある
かもしれない。Self-sacrifice は欠けてゐると。かうなつたらアウシュビッツの収容所長だつてさうなんで、
自尊心はもつてゐた、責任観念はもつてゐた、ただねSelf-sacrifice といふものは外国にはないから、
だからさういふことになるといふふうに説明するんですよ。
三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
121 :
名無しさん@社会人:2010/11/11(木) 23:18:20
ですから本当に日本人が武士道にめざめれば、あなたがたが心配することは何もない。身を殺して仁をなすことが
武士道の極意だと説明するんです。その場合、欠けてゐるものは武士道のみならず、ことに商人に欠けてゐる。
そして、とにかく口では国家の再建をとなへ、日本精神をとなへ、自分の金は一文も出すのはいやだ。十円の金も
惜しい、全部会社の伝票、そんな精神ぢやだめなんだといふことですね。
(中略)自主防衛といふのは自分が苦しい思ひをするといふことがだれもわかつてない、まづ自分が犠牲を
はらふといふことがまづない。
三島由紀夫「武士道に欠ける現代のビジネス」より
122 :
名無しさん@社会人:2010/11/12(金) 12:30:06
Q――石原(慎太郎)氏に向かつて「自民党にはひつたら党を批判するな」といふあなたの論法。
…従属といふか、非常に暗いものを要求する、抵抗を押へるのではないか、と思ふのだが……。
三島由紀夫:抵抗は死に身になれ。抵抗はやれ。ただし遊び半分にやるな、といふことだ。たとへば抵抗は
楽しいものであるといふベ平連などの考へですね。あれが一番きらひなんです。ベ平連式の“抵抗”は、大衆に
アピールする。抵抗とは楽しい、抵抗とは手をつないでフランス・デモをやることだ、フォーク・ダンスを
やることだ、これが非常にいやなんです。抵抗はナマやさしいもんぢやない。血みどろで、死に身にならなきや
できないのが本当である。内部批判をする連中が、手柄顔で歩いてゐる。石原君のことぢやなく、世間一般ですよ。
共産党を内部批判すると英雄になる。公明党を内部批判すると英雄になる。自分の属してゐるものの内部批判
した男が英雄視される。こんな間違つたことはない。抵抗をもう少し暗いものにしなきやいかん。
三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
123 :
名無しさん@社会人:2010/11/12(金) 12:31:43
(中略)藩のきびしさは、いまの会社などとは、なるほど、くらべものにならないかもしれない。しかし、
そこに仕へるものの内面的なモラルといふものは同じだ。つまり、お前はこんな批判をしたから切腹ものだ、
首をはねる、なんて規則は外面的な規則でしよ。だけど自分は賊名を着せられてもあへてやるんだとか、あるひは
自分の中では内面的にそれを許さない、といふ場合に、人間はどういふ態度をとるべきか。その態度決定は
文化や伝統が規定すると思ふんです。(中略)
個人的な怨恨を巻きこまなければ、大きな抵抗は組織できない。さういふ組織がいけないといふのではない。(中略)
いまの日本は「公」と「私」の別がないやうな国、私益優先の国ですね。人命尊重以上の高い価値を持つたものは
なくなつた。それがいまの日本です。ですから「よど号」事件なんかでも、日本の政府は人命尊重以外には
何もいへない。日本には、それ以上の国是がないんだから。
三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
124 :
名無しさん@社会人:2010/11/12(金) 12:32:58
韓国でも北朝鮮でも国家意志といふものがあつたでせう。いまの日本には、国家意志などといふものはない。
石原君なんか、国家意志を持たうとするために政治家になつたのぢやないか。さういふ日本から脱却して――。
ぼくは、そのために彼を応援したのぢやないのか。だから石原君が私益優先みたいな社会の中で「私」と「公」を
混同するやうなものの考へ方だつたら、初めから矛盾ぢやないのか。あくまで公的なものだけを大切にするのが
彼の政治行為ではないのかと思ふのです。ぼくはむりやりにでも「公」と「私」を分けなきや政治行為なんて
できるものではないと思つてゐる。いまの若いもの、若い政治家が持つてゐる満たされないもやもやしたものを、
公的なものにすりかへてゐる。これは卑怯です。(中略)会社の帰りに、いつぱい飲みながらやる上役の悪口が、
いま日本中の世論といふものの原型になつちやつた。昔は、あんなもの私的なもので、上役とのいさかひは
その場で終はつた。翌日はケロッとしてゐたものだ。
三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
125 :
名無しさん@社会人:2010/11/12(金) 12:34:30
Q――士道とは何か。
三島由紀夫:山鹿素行の士道とか、吉田松陰のそれとか、士道にもいろいろあつてね。さう堅いことばかり
いつてゐるわけぢやない。「柔よく剛を制するの理(ことわり)をわきまふべし。しゐてつよからんと思へば、
かへつてよはきことあり。われつよければ、かれも又つよし」なんてのもある。こりや、ぼくのこといつてるの
かもわからんが……。
ぼくは、魂の問題といふことで「士道」といふ言葉を使つた。内面的なモラルといつてもいい。内面的なモラル
といふものは、自分が決めて自分がしばるものだ。それがなければ、精神なんてグニャグニャになつちやふ。
今日では、自分で自分をしばるといつたストイックな精神的態度を、だれも要求しなくなつた。
ストイックなのは損だと、だれもが考へてゐる。
三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
126 :
名無しさん@社会人:2010/11/12(金) 12:35:50
Q――「士道」といふもの、そもそもアナクロニズムではないのか。
三島由紀夫:ぼくは「士道」を、みんなに向かつて鼓舞するつもりはない。ストイックなものだから、一人が
さうであればいい。あるひは十人がなるかもしれないが、この巨大な社会の歯車の中で、一人がストイックになれば、
それがしだいに波及して順々に歯車が動いていくんぢやないか。さういふ気違ひみたいなヤツがゐないと、
日本、面白くないと思ひますね。
アナクロ? さうかもしれない。しかし、人間、どんな新しい身なりをしてゐても、一つだけ古いものを
持つてるのがダンディーぢやないのですか。精神的態度として。士道ていふのはダンディズムですよ。男の
“見伊達”といふか、さういふものですね。精神的な伊達ものですね。最新流行の服を着て、口に何十年か前の
古いパイプをくはへてゐるやうに、精神的にも一点、アナクロニズムが残つてゐるてのがダンディーなんですよ。
三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
127 :
名無しさん@社会人:2010/11/12(金) 12:39:02
Q――「士道」の復活は、現代において可能ですか。
三島由紀夫:ぼくはさういふふうに問題を考へてゐない。「士道」といふ言葉をいふのは、その言葉が、まるで
一滴のしづくのやうにその人の心にしたたつたら、自分で考へてごらんなさい――といふだけなんです。
「士道」といふものは、マスコミを通じて広まるやうな性質のものではない。われわれの心の中を探つてみると、
心のなかに持つてゐる自己規律に照らして、どこかやましいものがあるはずだ。やましいものがあれば、
士道に反してゐるのだと考へるべきだ。それが日本人だと思ふんです。なぜやましさを感じるか。それは
士道にもとつてるからなんです。士道つてそんなものではないか。一言でいへば、「士道」とは男の道ですよ。
三島由紀夫「『精神的ダンディズムですよ』――現代人のルール『士道』」より
128 :
名無しさん@社会人:2010/11/12(金) 16:51:48
いやに澄んだ高い声の、中性的なアナウンサーの乙リキにすました軽薄な「客観性」、
これこそ、ジャーナリズムのいはゆる「良心的客観性」の空虚ないやらしさを象徴してゐる。
この日本刀で人を斬れる時代が、早くやつて来ないかなあ。
私は外国でウサギの肉を食べたことがあるが、柔らかくて、わりに旨い。独特のクサ味を
調味料で除去すれば、うまいはうの肉に入る。ウサギにしろ、ニワトリにしろ、豚にしろ、
さらに牛にしろ、概して大人しい動物の肉はうまい部類に入る。
肉をまづくしよう。少なくとも俺一人の肉はまづくしてやらう。と私は断乎たる決意を
固めたのである。
三島由紀夫「日録(昭和42年)」より
129 :
名無しさん@社会人:2010/11/13(土) 13:08:35
一、二年前から、ミリタリー・ルックの流行を横目に見ながら、私は「今に見ていろ」と思つてゐた。男にとつて
最高のお洒落である軍服といふものを(もちろんそのパロディー《替唄》の意味でやつてゐることぐらゐは
私にもわかるが)およそ軍服には縁のないニヤけた長髪の、手足のひよろひよろした骨無しの蜘蛛男どもが、
得意げに着込んで、冒涜の限りを尽してゐるのが我慢ならなかつた。
本来、赤・金・緑などの派手な色調は、ピーコック・ルックを待つまでもなく、男の服飾の色彩である。しかし
それには条件がある。闘牛士の派手な服装が、もし彼らの男らしい死の職業といふ裏附がなかつたら、たちまち
世にもニヤけたものになるやうに、男が男本来の派手な色彩を身につけるには、それなりの条件や覚悟がある筈である。
その条件や覚悟のない男が、社会の一匹の羊であることを証明するグレイ・フランネル・スーツを身に着けるのである。
それは単に保身術、昆虫の保護色としての服装だ。しかるに軍服は昆虫で云へば警戒色で、色は原色で、まづ
目立たなければならないのである。
三島由紀夫「軍服を着る男の条件」より
130 :
名無しさん@社会人:2010/11/13(土) 13:11:09
そしてそれを着る条件とは、仕立てのよい軍服のなかにギッチリ詰つた、鍛へぬいた筋肉質の肉体であり、
それを着る覚悟とは、まさかのときは命を捨てる覚悟である。アメリカでは、将軍といへども、腹が出て来て
軍服が似合はなくなると免職になるさうだ。
自衛隊に一ヶ月みつちり体験入隊をして、心身共に鍛へた大学生の集まりであるわれわれの「楯の会」では、
その一ヶ月の卒業祝に、この制服を贈ることにしてゐる。まづ中味を調へ、次に制服といふわけだ。西武百貨店の
堤清二社長の厚意が得られて、ド・ゴール大統領の洋服をデザインした名デザイナー五十嵐九十九氏のデザインに
成るこの凛々しい軍服が「楯の会」の制服になつた。帽章は私自らがデザインした。町をこの制服を着た青年が
歩いてゐたら、どうかゆつくり目をとめて眺めていただきたい。
三島由紀夫「軍服を着る男の条件」より
131 :
名無しさん@社会人:2010/11/19(金) 13:01:18
「ぢや、一番ききたいことを一つだけきいたらどうだ」
少年は黙つてゐた。目尻にやや力が入つたかと見る間に、その目が私をあからさまに直視した。
「一番ききたいことはね、……先生はいつ死ぬんですか」
この質問は私の肺腑を刺した。
(中略)
しかし少年の質問の矢は私に刺さつたままで、やがて傷口が化膿した。(中略)
が、私は経験上、少年期といふものがどんなものであるかを多少知つてゐる。
少年といふものは独楽なのだ。廻りだしてもなかなか重心が定まらない。傾いたままどこへころがつてゆくか
わからない。何しろ一本足で立つてゐるのだから、不安定は自分でもよく知つてゐる。大人たちとちがふところは、
とにかく廻つてゐるといふことである。廻ることによつて漸く立上れるといふことである。廻らない独楽は
死んだ独楽だ。ぶざまに寝てゐるのがいやなら、どうしても廻らなければならない。
しかし独楽は、巧く行けば、澄む。独楽が澄んだときほど、物事が怖ろしい正確さに達するときはない。
三島由紀夫「独楽」より
132 :
名無しさん@社会人:2010/11/19(金) 13:02:34
いづれ又惰力を失つて傾いて転んで、廻転をやめることはわかつてゐるが、澄んでゐるあひだの独楽には、
何か不気味な能力が具はつてゐる。それはほとんど全能でありながら、自分の姿を完全に隠してしまつて
見せないのである。それはもはや独楽ではなくて、何か透明な兇器に似たものになつてゐる。しかも独楽自身は
それに気づかずに、軽やかに歌つてゐるのである。
私の少年期にも、さういふ瞬間があつたかもしれない。しかし記憶にはとどまらない。記憶にとどめてゐるのは、
それを見てしまつた大人のはうである。
自分の姿が澄んで消えてしまつたことに、そのとき独楽が気づいてゐないことも確実なら、その瞬間、何かが
自分と入れかはつたことに気がつかないのも確実である。
あの質問をしたとき、少年はたしかにそこにゐたのだが、多分少年の独楽は澄んでゐたから、少年はそこに
ゐなかつたことも確かだつた。今した質問を、次の瞬間には、少年は忘れてしまつてゐたかもしれない。
三島由紀夫「独楽」より
133 :
名無しさん@社会人:2010/11/19(金) 15:54:10
私が同志的結合といふことについて日頃考へてゐることは、自分の同志が目前で死ぬやうな事態が起つたとしても、
その死骸に縋(すが)つて泣く事ではなく、法廷においてさへ、彼は自分の知らない他人であると、証言出来る
ことであると思ふ。それは「非情の連帯」といふやうな精神の緊張を持続することによつてのみ可能である。
しかし、私はなにも死を以つてのみ同志あるひは同志愛の象徴とは考へない。また死を以つてのみ革命的な
行動の精華、成就とも考へるものではない。ただ真に内発的な激怒や行動だけが、ある目的のもとになされた行為の
有効性を持つのであるといふ考へ方だけは、私にとつて変ることのないものである。
死が自己の戦術、行動のなかで、ある目標を達するための手段として有効に行使されるのも、革命を意識するものに
とつては、けだし当然のことである。自らの行動によつてもたらされたところの最高の瞬間に、つまり、
劇的最高潮に、効果的に死が行使出来る保証があるならば、それは犬死ではない。
三島由紀夫「わが同志観」より
134 :
名無しさん@社会人:2010/11/19(金) 15:56:24
(中略)「われわれ」といふ集団の感覚の次元で行動し、同志的結合を持続する時、個人はすでに、超個人的契機を
掴んでゐることが前提になる。その超個人的契機とは、神のやうな個人に直結した形である場合と同時に、
神と個人とを繋ぐコミュニティのイメージが必要となつてくるのである。そこには、もはやニュートラルな
心情は崩壊してゐるのである。
人間は、このやうなコミュニティを媒介としてしか、つまり伝統的共同体を形づくるところの超個人的なもの――
絶対的な存在に接近することが出来ないといふ、逆説的な精神構造を持つてゐる。
その個人的契機は、多様であるが、その内的原因を探れば、遠く、古い価値と、それに繋がるところの
コミュニティの投影が必ずある。この投影こそが、内側の人間を外側の人間へ弾き出す力になるのである。
さう考へてゆくと、「われわれ」は危険ではあるが、誘惑に導く美しさが見えてきはしないか。この危険な誘ひに
私の興味は募る。しかしそれは、悲壮な自己陶酔と紙一重でなくて果して何であらうか。
三島由紀夫「わが同志観」より
135 :
名無しさん@社会人:2010/11/19(金) 15:57:18
私は、いやしくも盟約を交はして事を起す同志であれば、動機の深浅、運動経歴のキャリア、性格の相違等を、
ことさら問題にしようとは思はない。男と男が誓ひ、行動を起さうとする集団が、栄辱をそれぞれ等分するのは
当然である。
つまり、日常的な同志愛から出発しながら、いかにして、最終目的のために、目前の甘美な同志愛に耐へ抜く心の
強さを得られるか。同志的決起へと至る極限状況は、ある面において、倫理的憤激の最終的な責任を、自己に
負ふか、他者に負はせるか、といふ方向へ引き裂かれて行かざるを得ない。究極的に、自己に負ふとすれば、
自刃があり、他者に負はせるとすれば、制度自体の破壊に行きつくしかない。
そのやうなクオリティを見分ける判断力は、人間の弱さと強さとの問題でもある。
三島由紀夫「わが同志観」より
136 :
名無しさん@社会人:2010/11/22(月) 17:45:07
Q――つぎに東南アジアについてちよつと聞きます。インドも中共との交戦の経験を持つ国ですが、東南アジアと
日本との最大の相違点は、中共の脅威を感じてゐるのと感じてゐない点にあると思ひますが。
三島由紀夫:中共と国境を接してゐるといふ感じは、とても日本ではわからない。もし日本と中共とのあひだに
国境があつて向かう側に大砲が並んでたら、いまのんびりしてゐる連中でもすこしはきりつとするでせう。
まあ海でへだてられてゐますからね。もつともいまぢや、海なんてものはたいして役に立たないんだけれど。
ただ「見ぬもの清し」でせうな。
三島由紀夫「インドの印象」より
137 :
名無しさん@社会人:2010/11/22(月) 17:46:12
Q――日本人が中共をこはがらないのは一種の幻想的な“大平感”なんだらうけれど、日本にさういつた幻想が
あることも、また一つの現実ぢやないでせうか。
三島由紀夫:たしかにさうですね。幻想(イリュージョン)といへどもなにかの現実的条件によつて保たれてゐる。
ぼく自身は、日本にも中共の脅威はある、と感じてゐます。これは絶対に「事実(ファクト)」です。
しかし、日本人が中共に脅威を感じないといふことは「現実」です。「現実」とはぼくに言はせれば、事実と
イリュージョンとの合金です。「現実」をささへてゐる条件は、いはくいひがたしで、恐らく何万といふ条件が
あるでせう。海もあるし、長い中国との交流の歴史もあるし……。
ものを考へようとするとき、片方の「現実」を「事実」だけでぶちこはさうとしてもダメです。幻想をくだくには
幻想をもつてしなくつちや。ですからもし、ぼくが政治家だつたら……。
Q――「中共はこはくない」といふ幻想は、どうやつてくだきますか?
三島由紀夫:「中共はこはい」といふファクトではなく幻想をもつてですよ。
三島由紀夫「インドの印象」より
138 :
名無しさん@社会人:2010/11/22(月) 17:47:08
Q――寺院も寺院だが、信仰をする人々、つまりレリジョン・イン・アクションはどうでしたか。
三島由紀夫:これはもう……インドでは宗教が生きてゐます。あれだけ宗教がナマナマしく生きてゐる国は
見たことがありませんね。…
Q――実践を持つてゐる宗教は強いといふことぢやないですか。キリスト教を例にとつても、宗教改革いらい
プロテスタンティズムは、宗教とは人間の頭のなかの問題である、といつてきた。ところが、長い目で見ると
カトリシズムのはうが結局は強かつたといふやうな……。
三島由紀夫:さうです。現代の人間が、自分の良心の力だけで自己の魂にベルトを締めることができるかどうか。
人間は、目で見えるもの、なにか形のあるものに直面することによつて魂をゆすぶられるんです。だから
カトリックの荘厳な儀式、祭服、音楽、彫刻といつたものは大切です。ヒンズーも同様だが、生きてゐる宗教とは
そんなものなんですよ。プロテスタンティズムのやうなものは理論としてはりつぱだし、啓蒙主義の時代には
役立つたかもしれないが、いま宗教が復活するとすれば、あんな形では絶対に復活しませんね。…
三島由紀夫「インドの印象」より
139 :
名無しさん@社会人:2010/11/22(月) 17:52:04
Q――日本人のものの考へかたのなかで、絶対に日本以外には通用しないものがある、と感じませんでしたか。
三島由紀夫:…ぼくは外国に行くときは、必ず「ノー」といふ言葉を用意して行くんです。外国では「ノー」
といふのが三分の一秒でも五分の一秒でもおくれたら、あとで自分がえらいめにあふ。「ノー」といふべきときは
必ず「ノー」(大声で)と急いでいはなくちやならん。日本ぢや「ノー」といはなくても、あとでちやんと
始末がつきます。
Q――日本文化をどう思ひましたか。インドは、いはば日本文化の源流ですが。
三島由紀夫:昔から唐・天竺といはれてゐました。ぼくのいまの小説(豊饒の海)も、唐・天竺的な大きい
文化圏の上に立つたものを書きたいと思つてゐた。ところが唐が「唐くれなゐ」になつちやつたから、ハッハッ。
で、いまはもつぱら天竺を研究してゐます。日本文化の源流を求めりやみんな天竺へ行つてしまひますね。それは、もう、みんな
あすこにあります。
三島由紀夫「インドの印象」より
140 :
名無しさん@社会人:2010/12/01(水) 20:38:25
私が法廷で述べたことは、この映画の醜悪さは議論の余地がないこと、この映画の主題は(たとへば私の
映画「憂国」が、一定の政治状況下において、性が異常に美しく昂揚するのを描いたのとちやうど反対に)
一定の政治状況下において、性が極度に歪められ圧殺されるのを描いてゐること、性行為はそのやうな醜悪な
形でのみ描かれ、唯一の純情な恋人同士の間には性交が存在しないこと、能の居グセその他の様式を大胆に用ひ、
また長回しの技巧によつて、一時的な性的印象を政治的寓喩へ移行させる様式をはつきり意図してゐることであつた。
今も私のこのやうな考へに変はりはない。
すばらしく穢(きたな)らしい映画であるが、問題の米軍基地のそばを裸女が駆ける場面だけは、ふしぎに
美しい印象になつて残つてゐる。あそこには、何か壮烈なものがあつた。何もしひて、裸女を日本の象徴と
見立てなくても。
三島由紀夫「『黒い雪』裁判」より
141 :
名無しさん@社会人:2010/12/01(水) 20:42:07
(中略)私は事文化に関しては、あらゆる清掃、衛生といふ考へがきらひである。蠅のゐないところで、
おいしい料理が生まれるわけがない。アメリカ文化を貧しくさせたものは、清教徒主義と婦人団体であつて、
日本精神はもつともつと性に関して寛容なのである。日本文化の伝統は、性的な事柄に関する日本的寛容の下に
発展してきたものである。教育ママ的清潔主義(ミュゾフォビー)は、外来文化の皮相な影響であるから、
武智氏のいはゆる「民族主義」作品が、教育ママに死刑を宣告されることは、いかにもありさうな事態であつた。
そして、政治的にも、保守と革新が、仲よく手を握る分野は、かかる教育ママ的清潔衛生思想の分野であつて、
現下日本で、イデオロギーを越えたもつとも甘い超党派理念は「偽善」である。「黒い雪」に目クジラを立てた
婦人層の何割かは「清潔」な美濃部都知事には安心して投票したにちがひない。(中略)
三島由紀夫「『黒い雪』裁判」より
142 :
名無しさん@社会人:2010/12/01(水) 20:44:42
いくら「黒い雪」が穢らしくても、偽善よりはよほどマシである。映画も芸術の一種として、芸術のよいところは、
そこに呈示されてゐるものがすべてだといふことだ。芸術は、よかれあしかれ、露骨な顔をさらけ出してゐる。
それをつかまへて「お前は露骨だ」といふのはいけない。要するに、国家権力が人間の顔のよしあしを判断することは
遠慮すべきであるやうに、やはり芸術を判断するには遠慮がちであるべきである、といふのが私の考へである。
それが良識といふものであり、今度の判決はその良識を守つた。
この一線が守られないと、芸術に清潔なウットリするやうな美しさしか認めることのできない女性的暴力によつて、
いつかわが国の芸術は蹂躙されるにいたるであらう。われわれは、二度と西鶴や南北を生むことができなくなるであらう。
三島由紀夫「『黒い雪』裁判」より
143 :
名無しさん@社会人:2010/12/07(火) 11:10:06
私は大体笑ふことが好きであり、子供のころから「この子を映画へ連れてゆくと、突拍子もないところで
ケタケタ笑ひ出して、きまりわるい」とおとなにいはれた。徳大寺公英氏の思ひ出話によると、中学時代も、
教室でキャッキャッと一きは高い笑ひ声がするので、私がゐることがわかる、と先生がいつてゐたさうである。
おとなになつても、福田恆存氏の「キティ颱風」の招待日などには、拍手役ならぬ、笑声のサクラに狩り出された。
うしろのはうの席に、宮田重雄氏はじめ、笑ひの猛者がそろつてゐて、セリフの一言半句ごとに、声をそろへて
ゲラゲラ笑ふのである。するとそれにつられて笑ひ出すお客がある。福田氏は、新劇の観客層のシンネリムッツリを、
よほどおそれてゐたのである。
俳優のT君が、「君の貧弱な体格からすると、笑ひ声だけが大きくて不自然だから、後天的に自分で育成これ
つとめたものだらう」といつたが、これはマトをそれてゐる。私の肺活量はこれでも四千七百五十もある。
三島由紀夫「わが漫画」より
144 :
名無しさん@社会人:2010/12/07(火) 11:11:02
漫画は、かくて、私の生理衛生上必要不可欠のものである。をかしくない漫画はごめんだ。何が何でもをかしく
なくてはならぬ。おそろしく下品で、おそろしく知的、といふやうな漫画を私は愛する。
悩殺する、とか、笑殺する、とかいふ言葉は、実存主義ふうに解すると、相手を「物」にしていまふことだと思はれる。
「人を食ふ」といふのもこれに等しい。われわれは他人の人格を食ふことはできぬ。相手を単なる物、単なる
肉だと思ふから、食ふことができる。
漫画はだから「食はれる状態」をうまく作りあげねばならぬ。「物」になつてゐなければならぬ。
知的な漫画ほどこの即物性がいちじるしく、低級な漫画ほど、笑ひ話の物語性だの、教訓性だの、によりかかつてゐる。
下手な落語家は「をかしいお話」を語るにすぎないが、名人の落語家ほど、笑はれるべき対象を綿密に造形して、
話の中に「笑はれるべき物」を創造してゐるのである。
何もいはゆる、サイレント漫画が知的だといふのではない。
言葉がない代りに、社会の良風美俗に逆によりかかつてわからせてゐるやうな、不心得な漫画も散見する。
三島由紀夫「わが漫画」より
145 :
名無しさん@社会人:2010/12/07(火) 11:12:11
漫画は現代社会のもつともデスペレイトな部分、もつとも暗黒な部分につながつて、そこからダイナマイトを
仕入れて来なければならないのだ。あらゆる倒錯は漫画的であり、あらゆる漫画は幾分か倒錯的である。
そして倒錯的な漫画が、人を安心して笑はせるやうではまだ上等な漫画とはいへぬ。
日本の漫画がジャーナリズムにこびて、いはゆる社会的良識にドスンとあぐらをかいて、そこから風俗批評、
社会批評をやらかして、それを漫画家の使命だと思つてゐる人が少なくないのは、にがにがしいことである。
もつとも漫画的な状況とは、また永遠に漫画的状況とは、他人の家がダイナマイトで爆発するのをゲラゲラ笑つて
見てゐる人が、自分の家の床下でまさに別のダイナマイトが爆発しかかつてゐるのを、少しも知らないでゐる
といふ状況である。漫画は、この第二のダイナマイトを仕掛けるところに真の使命がある。
三島由紀夫「わが漫画」より
146 :
名無しさん@社会人:2010/12/07(火) 11:13:27
あんまりのんびりしてゐると、ほかならぬ漫画家自身が、右のやうな漫画を演じなければならぬことになりますぞ!
さて私も、かういふ商売をやつてゐて、何やかと漫画に描かれることが多い。この一文で、漫画家諸氏のお名前を
一つもあげなかつたのは、かかる職業上のおもんぱかりであるが、われわれ文士も「素人時評」といふやつは、
ほとほとにがにがしい、イヤ味なものだと思つてゐるのである。
小説書きでないやつに、小説なんてわかるものか!
漫画家でないやつに、漫画なんてわかつてたまるものか!
それでよろしい。
さて、一つの漫画は、小説家が、かういふ雑文をたのまれて、をかしくもない文章を、頭から湯気を立てて
書いてゐる、といふその状況である。
三島由紀夫「わが漫画」より
147 :
名無しさん@社会人:2010/12/11(土) 15:57:12
日本人の明治以来の重要な文化的偏見と思はれるのは、男色に関する偏見である。
江戸時代までにはかういふ偏見はなかつた。西欧では、男色といふ文化体験に宗教が対立して、宗教が人為的に、
永きにわたつてこの偏見を作り上げたのである。しかるに日本では明治時代に輸入されたピューリタニズムの
影響によつて、簡単に、ただその偏見が偏見として伝播して、奇妙な社会常識になつてしまつた。そして
元禄時代のその種の文化体験を簡単に忘れてしまつた。
男色は、男色にとどまるものでなく、文化の原体験ともいふべきもので、あらゆる文化あらゆる芸術には、
男色的なものが本質的にひそんでゐるのである。芸術におけるエローティッシュなものとは、男色的なものである。
そして宗教と芸術・文化の、もつとも先鋭な対立点がここにあるのに、それを忘れてしまつたのは、文化の
衰弱を招来する重要な原因の一つであつた。
三島由紀夫「偏見について思ふこと」より
148 :
名無しさん@社会人:2010/12/24(金) 12:56:22
政治問題に関する言論を規制しようとする動きがあるときには、必ず、これをカムフラージュするために、
道徳的偽装がとられ、あはせてエロティシズムや風俗一般に対する規制が行はれるのが通例である。(中略)
どんな保守的思想の持主である芸術家も、この観点から見られるときには、反体制的思想家と、五十歩百歩の目に
会はされることは、戦争中の記憶を想起すればすぐわかることである。
実際、国家が詩人を追放しようとするのは、きはめて賢明な政治判断であつて、プラトンはちやんとそれを知つてゐた。
政治に有効に利用できる芸術のエネルギー量はきはめて微弱であり、政治が効率百パーセント芸術を利用しえたと
考へるときには、もうその芸術は死物になつてゐて、何の効用も及ぼしてゐないといふ皮肉な現象は、ナチスのころも
見られたが、そんな微温的な手段をとるよりも、政治自体が芸術になり、(たとへ似而非芸術であつても、)
政治的行為が芸術的行為を完全に代用してしまへばすむことで、それが左右を問はず全体主義政治の核心である。
三島由紀夫「危険な芸術家」より
149 :
名無しさん@社会人:2010/12/24(金) 12:58:52
ただプラトンが完全に知つてをり、ナチスが不完全にしか知つてゐなかつたことは、次のやうな事実であり、
これはもちろん、日本の政治家が夢にも知らない事実である。
「(プラトンは、)芸術家を断罪する前に、まず彼にメリット勲章か何かのやうなできるだけ高い栄誉を
与へなければいけないと言つてゐる。すなはちプラトンは、今日ではほとんど誰も理解してゐないやうに
思はれること、つまり真に危険な芸術家とは『世にも稀な快い神聖な』偉大な芸術家であるといふことをはつきりと
理解してゐた。プラトンは、(中略)大きな悪は何らかの欠除に由来するのではなくてむしろ『本性の充実から
生じて来る』ものであり『弱い本性は、はなはだしく偉大な善も、はなはだしく偉大な悪も成し遂げることは
ほとんどできない』と信じてゐたのである」(「芸術と狂気」エドガー・ウィント著、高階秀爾訳)
三島由紀夫「危険な芸術家」より
150 :
名無しさん@社会人:2010/12/24(金) 13:00:35
何のことはない、日本の俚諺の「悪に強きは善にも」と変りがない考へだが、ここには政治と芸術との関係において、
非常に基本的な重要な考へが述べられてゐる。たとへばエレキは有害で、青少年に対して危険であり、
ベートーヴェンは有益で、何ら危険がないのみか人間性を高めるといふ考へは、近代的な文化主義の影響を
受けた考へであつて、ベートーヴェンのベの字もわからない俗物でも、かういふ議論は鵜呑みにするし、現代の
政府の文化政策もこの線を基本的に離れえないことは明白である。
しかし毒であり危険なのは音楽自体であつて、高尚なものほど毒も危険度も高いといふ考へは、ほとんど
理解されなくなつてゐる。政治と芸術の真の対立状況は実はそこにしかないのである。してみると日本には、
真の危険な芸術家は一人もゐないといふことになり、政府もそんなに心配する必要はなし、万事めでたしめでたし。
三島由紀夫「危険な芸術家」より
151 :
名無しさん@社会人:2011/01/03(月) 10:59:19
三島さんて多才ですね
152 :
名無しさん@社会人:2011/01/06(木) 11:41:32
端的只今の一念より外はこれなく候
一念々々と重ねて一生なり(葉隠)
新年に想ふのは「葉隠」の一章。マスコミが作る「ものの見方」にとらはれず自分の考へ方で生きていく勇気を
もちたい。一念一念といふのは、さういふことだし、その積み重ねが、私を私らしくするのだから……
三島由紀夫「真(まこと)を胸に――若さに生きよう」より
153 :
名無しさん@社会人:2011/01/17(月) 13:30:20
さしも世界に名高い日本の柔道も紅毛碧眼に名を成さしめる仕儀に相成つたが、剣道はまだまだ勝味がござる。
小生、先ごろ桑港(サンフランシスコ)に赴き、書肆(しよし)の一画に「柔道」と名付くる棚があつて、
数十冊の柔道書を並べたる一驚を喫したが、生憎剣道のはうは一冊もござらなんだ。もつとも加州大学には、
剣道四段の碧眼の偉丈夫あり、勝負を挑まれたが、いささか日本国の名誉を思うて、風邪にことよせ、試合は
御辞退申した。かかる例外あれど、概して泰西諸国においては、剣道の普及未だしの観あり、剣道はもつぱら
「羅生門」の名優三船敏郎氏の風車剣法によつてのみ名あり。
剣をたしなむときけば、泰西人はいささか畏怖の情をあらはし、時代錯誤的恐怖にからるるやと思(おぼし)く、
ここがつけ目と愚考いたしてござる。武士道は、禅と等しく、ますます神秘化されてこそ世界に活路もあれ、
ゆめゆめスポーツ化させることなかれ、といふが、小生の切なる忠言でござる。
三島由紀夫「剣、春風を切る――ただいま修業中」より
154 :
名無しさん@社会人:2011/01/24(月) 01:05:08
155 :
名無しさん@社会人:2011/01/26(水) 11:26:48
子供の遊びは無目的、それでいて真剣そのものでしょう。夕方、御飯になって遊びと
別れるときの、あの辛さ、ああいう辛さがなかったら、文学はビジネスにすぎなくなる。
御飯は生活です。誰でも御飯はたべなくちゃならない。しかし「御飯ですよ」と呼ばれるまで、
御飯の時間を忘れていられるような真剣な遊びを毎日みつけなくてはね。
市民というものは何を売っても、肉をひさぐことはしない。しかし芸術家というものは
それをどうしてもやらなければならないんですね。そこに市民と芸術家のちがいがある。
色気があり過ぎてもだめ、なさ過ぎてもだめだと思います。あまりあり過ぎると、
女蕩(たら)しになる。生活者になってしまうと思う。
生活者になれない程度の色気のなさ、そうかといって考古学者にもなれない色気のあり方、
そういう微妙なところで小説は書けて行くのではないか。
三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より
156 :
名無しさん@社会人:2011/01/26(水) 11:27:16
美は恐ろしいですよ。女も恐ろしいけど……。
ただ市民は美を恐ろしいと思わない人種だと思うんだが、やはり市民は電気冷蔵庫の
デザインが美しいとか、1951年型の自動車のデザインが美しいとか、そういう
怖ろしくない美しか理解しない。自分の生活を脅かすようなものを決して美しいと思うな、
というのが市民の修身です。やはり美に脅かされるということが芸術家で、市民になれない
最後の一線でしょう。
幸福というものは掴んだ瞬間になくなるからといって諦めるのは、卑怯だと思う。
大体、人体というこんな複雑な機械が故障なく動いてるということは幸福ですよ。
そのためには一億くらいの条件がそろわなければ、こんなことを喋っていられるコンディションに
ならないんだ。これはある意味で幸福だな。第一、人間は幸福でなければ生きていませんよ。
三島由紀夫
久米正雄・林房雄との対談「人生問答」より
社会学??
感想文でしょ。
158 :
名無しさん@社会人:2011/01/29(土) 15:36:17
僕は今でも吉田茂は偉い人だと思うけど、明治以降の日本の歴史で、あんなに日本人の
欺瞞をうまく成功させたのは、あの人だけでしょう。それはどこから学んだかというと、
イギリスですね。日本の政治家は少なくとも正義、真実あるいは誠実という顔をして
いなければならなかったのに、吉田茂の時代には国民全体が欺瞞の精神に味方をした。
あんなにアメリカ人をもてあそんだ人はいないよ。それにまたみごとに乗せることが
できたのは、イギリス的な教養が彼にあったからだけど、イギリス的な教養は日本の
昭和の歴史のなかでは、いつも無力だった。いつも国家主義者の怨嗟の的であり、
日和見主義、無力の良識、不決断の象徴であった。 ところが吉田茂は、そのイギリス的な
教養を逆に使って、欺瞞にうまく役立てた。これは近代史のなかで、面白い時代だと思う。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
159 :
名無しさん@社会人:2011/01/29(土) 15:36:35
あんなに日本人のなかで、欺瞞がうまくいった時代はなかったと思う。それからあとはだめです。
政治家がどんな欺瞞をやっても、国民がついてゆかない。国民の考えていることと、
欺瞞とがみごとに一致した時代はもうこないでしょう。今はただ欺瞞と腐敗があるだけで、
国民はだれもが味方をしていない。あなたも、そして僕も怒っているのは、それですよ。
欺瞞のまま、これからどこへゆくかということは心配でしょう。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
160 :
名無しさん@社会人:2011/01/29(土) 15:37:07
僕は最近、神風連を興味をもって調べたんだけど、あれは絶対に勝つ見込みがない戦争を
仕掛けたんだね。しかも日本刀だけしか使わない。鉄砲は外国からきたものだから、
汚れているといって使わない。熊本の鎮台に対して戦うんだ。初めは奇襲で少し勝つけど、
相手は鉄砲をもって攻めてくるから、所詮、勝負は決まってるわけだ。なぜ日本刀だけで、
負けると解ってる戦争をやったか。僕はね、それはやっぱり彼らがインテリゲンチャ
だったからだと思う。インテリゲンチャというものは、そういうものなんだね。つまり
計算して、こうだからやるというのは生活者の考え方なんだね。生活者の考えと、
インテリゲンチャの考えはいつも違うんだ。あなたがどっちの立場に徹するかということは
大問題だと思う。生活者に徹すれば、日本は価値のない国、戦争にも抵抗できないという
生活者の知恵でみるだろうね。神風連の事件は、生活者にはできないもので、日本の
近代インテリゲンチャの思想の源流なんです。あなたが芸術家であるか、生活者であるか
という分かれ目にぶつかったときには、必ずその矛盾が出てくる。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
161 :
名無しさん@社会人:2011/01/29(土) 15:37:31
言葉だけの思想的な主張ないしは思想的な説得力には、僕は昔から疑問をもっている。
腕力があり、剣があって、初めて自分の思想が貫かれるのだろう。最後に人間の顔と顔とが、
ぴたっとむかいあったときは、言葉は役に立たないと思う。やっぱりそのときには剣が
ものをいうだろうね。文筆業者はそこへゆくまでのことを一所懸命、言葉で考えてる
人間なんだけど、それで言葉が最終的に役に立つと思ったら間違いだと思う。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
戦後教育は、死ぬということを教えてないね。客観状勢がどうとかということは、ぼくは
必ずしも信じない。
…客観状勢が熟すのを待つというのは、ゲバラがいちばん嫌ったろう。革命の客観的
条件というのはないんだ、それを熟させるのが革命家だ、という考えだろう。それを
熟させるのは精神だよ。それがあれば、なにかがかもしだされてくる。
三島由紀夫
野坂昭如との対談「剣か花か」より
162 :
名無しさん@社会人:2011/01/30(日) 00:23:48
近代日本が西洋文明をとりいれた以上、アリの穴から堤防はくづれたのである。しかも、文明の継ぎ木が
奇妙な醜悪な和洋折衷をはやらせ、一例が応接間といふものを作り、西洋では引つ越しや旅行の留守にしか
使はない白麻のカバーをソファーにかける。私はさういふことがきらひだから、いすが西洋伝来のものである以上、
西洋の様式どほり、高価な西洋こつとうのいすにも、家ではカバーをかけない。
昔の日本には様式といふものがあり、西洋にも様式といふものがあつた。それは一つの文化が全生活を、
すみずみまでおほひつくす態様であり、そこでは、窓の形、食器の形、生活のどんな細かいものにも名前がついてゐた。
日本でも西洋でも窓の名称一つ一つが、その時代の文化の様式の色に染まつてゐた。さういふぐあひになつて、
はじめて文化の名に値するのであり、文化とは生活のすみずみまで潔癖に様式でおほひつくす力であるから、
すきや造りの一間にテレビがあつたりすることは許されないのである。
三島由紀夫「日本への信条」より
163 :
名無しさん@社会人:2011/01/30(日) 00:24:29
私はただ、畳にすわるよりいすにかけるはうが足が楽だからいすにかけ、さうすれば、テーブルも、じゆうたんも、
窓も、天井も、何から何まで西洋式でなければ、様式の統一感に欠けるから、今のやうな生活様式を選んだのである。
それといふのも、もし、私が純日本式生活様式を選ばうとしても、十八世紀に生きてゐれば楽にできたであらうが、
二十世紀の今では、様式の不統一のぶざまさに結局は悩まされることになるからである。
私にとつては、そのやうな、折衷主義の様式的混乱をつづける日本が日本だとはどうしても思へない。
また、一例が、能やカブキのやうなあれほどみごとな様式的美学を完成した日本人が、たんぜんでいすにかけて
テレビを見て平気でゐる日本人と、同じ人種だとはどうしても思へない。
こんなことをいふと、永井荷風流の現実逃避だと思はれようが、私の心の中では、過去のみならず、未来においても、
敏感で、潔癖で、生活の細目にいたるまで様式的統一を重んじ、ことばを精錬し、しかも新しさをしりぞけない
日本および日本人のイメージがあるのである。
三島由紀夫「日本への信条」より
164 :
名無しさん@社会人:2011/01/30(日) 00:24:49
そのためには、中途はんぱな、折衷的日本主義なんかは真つ平で、生つ粋の西洋か、生つ粋の日本を選ぶほかはないが、
生活上において、いくら生つ粋の西洋を選んでも安心な点は、肉体までは裏切れず、私はまぎれもない
日本人の顔をしてをり、まぎれもない日本語を使つてゐるのだ。つまり、私の西洋式生活は見かけであつて、
文士としての私の本質的な生活は、書斎で毎夜扱つてゐる「日本語」といふこの「生つ粋の日本」にあり、
これに比べたら、あとはみんな屁のやうなものなのである。
今さら、日本を愛するの、日本人を愛するの、といふのはキザにきこえ、愛するまでもなくことばを通じて、
われわれは日本につかまれてゐる。だから私は、日本語を大切にする。これを失つたら、日本人は魂を失ふことに
なるのである。戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言つた文学者があつたとは、驚くにたへたことである。
三島由紀夫「日本への信条」より
165 :
名無しさん@社会人:2011/01/30(日) 00:25:08
低開発国の貧しい国の愛国心は、自国をむりやり世界の大国と信じ込みたがるところに生れるが、かういふ
劣等感から生れた不自然な自己過信は、個人でもよく見られる例だ。私は日本および日本人は、すでにそれを
卒業してゐると考へてゐる。ただ無言の自信をもつて、偉ぶりもしないで、ドスンと構へてゐればいいのである。
さうすれば、向うからあいさつにやつてくる。貫禄といふものは、からゐばりでつくるものではない。
そして、この文化的混乱の果てに、いつか日本は、独特の繊細鋭敏な美的感覚を働かせて、様式的統一ある文化を
造り出し、すべて美の視点から、道徳、教育、芸術、武技、競技、作法、その他をみがき上げるにちがひない。
できぬことはない。かつて日本人は一度さういふものを持つてゐたのである。
三島由紀夫「日本への信条」より
167 :
名無しさん@社会人:2011/01/30(日) 10:34:18
168 :
名無しさん@社会人:2011/02/01(火) 14:06:03
剣道は柔道とともに、体力が必要であることはむろんであるが、柔道は一見強さうな人は実際に強いけれど、
剣道は見ただけでは分らず、合せてみてはじめて非常に強かつたりする“技のおもしろさ”がある。それに
スピードと鋭さがあるので僕の性にあつてゐる。また剣道は、男性的なスポーツで、そのなかには日本人の闘争本能を
うまく洗練させた一見美的なかたちがある。
西洋にもフェンシングといふ闘争本能を美化した格技があるが、本来、人間はこの闘争本能を抑圧したりすると
ねちつこくいぢわるになるが、闘争本能は闘争本能、美的なものに対する感受性はさういふものと、それぞれ
二つながら自己のなかで伸したいといふ気持があるものです。
さらに剣道には伝統といふものがある。稽古着にしたつて、いまわれわれが着てるものは、幕末の頃からすこしも
変つてゐない。また独特の礼儀作法があつて、スポーツといふよりか、何か祖先の記憶につながる――たとへば
相手の面をポーンと打つとき、その瞬間にさういふ記憶がよみがへるやうな感じがする。
三島由紀夫「文武両道」より
169 :
名無しさん@社会人:2011/02/01(火) 14:06:35
これがテニスなんかだと、自分の祖先のスポーツといふ気はしない。だから剣道ほど精神的に外来思想とうまく
合はない格技はないでせう。たとへば、共産主義とか、あるひはほかの思想でもいいが、西洋思想と剣道をうまく
くつつけようとしてもうまくくつつかない。共産党員で剣道をやつてゐる者があるかも知れないが、その人は
自分の中ですごい“ギャップ”を感じることでせう。僕は自分なりに小さい頃から日本の古典文学が非常に
好きでしたし、さういふ意味で、剣道をやつてゐても自分の思想との矛盾は感じない。
戦後、インテリ層の中で、「これで新らしい時代がきたんだ、これからはなんでも頭の勝負でやるんだ……」
といふ時代があつた。その頃僕は、僕を可愛がつてくれた故岸田国士先生に「これから文武両道の時代だ……」
といつてまはりの人に笑はれたことがある。当時、先生のまはりにゐた人達にしてみれば、新らしい時代が
きたといふのに、なんで古めかしいことをいふと思つたのでせう。
三島由紀夫「文武両道」より
170 :
名無しさん@社会人:2011/02/01(火) 14:07:21
元来、男は女よりバランスのくづれやすいものだと僕は思つてゐる。女は身体の真中に子宮があつて、そのまはりに
いろんな内蔵が安定してゐて、そのバランスは大地にしつかりと結びついてゐる。男は、いつもバランスを
とつてゐないと壊れやすく極めて危険な動物です。したがつてバランスをとるといふ考へからいけば、いつも
自分と反対のものを自分の中にとり入れなければいけない。(私はさういふ意味で文武両道といふ言葉をもち出した)。
さうすると、軍人は文学を知らなければならないし、文士は武道も、といふやうになる。実はそれが全人間的といふ
姿の一つの理想である。その点、むかしの軍人は漢学の教養もあり、語学などのレベルも高かつた。私はいま
二・二六事件の将校のことを研究してゐますが、当時の将校は実に高い教養の持主が多かつたと思ふ。末松太平と
いふ方の「私の昭和史」(みすず書房刊)なんかみると、実にすばらしい文章で、いまどきのかけ出しの作家などは
ちよつと足元にも及ばない。ああいふ立派な文章を書くには、よほどの教養が身につかなければ書けないものです。
三島由紀夫「文武両道」より
171 :
名無しさん@社会人:2011/02/01(火) 14:08:17
また、文士も、漢学を学び武道に励むといつた工合で、全人間的ないろいろな教養を身につけてゐた。ところが
大正に入り昭和になつてくると、この傾向はだんだんやせ細つてきてバランスが崩れ片輪になつてきた。そして
大東亜戦争の頃の日本人の人間像といふものは、一見非常に立派なやうですが、実際はバラバラであつた。
近代社会の毒を受けたかたちの人間が多かつた時代です。つまり先にいつた文武両道的な――自分に欠けたものを
いつも補ひたい気持、さういふ気持がなくなつてゐたのです。
最近はさらにかういふ考へ方がなくなつてゐる。また余裕もないだらう。環境も変り、いまの生活では、静かな部屋で
読者するといふこと自体何かぜいたくになつてゐる。子供がゐたり、テレビがうるさかつたり、なかなかわれわれの
生活環境はゆつくりと落ちつかせてくれない。
しかし、僕は思ふのだが本を読むにしても本当に読む気があれば必ず読めるものだ。とかくいまは無理をするといふ
ことを一般に避けるやうになつてきてゐる。
三島由紀夫「文武両道」より
172 :
名無しさん@社会人:2011/02/01(火) 14:09:19
そこで、またバランスのことにもどるが、一般に美といふ観点からも“バランス”は大事である。古いギリシャ人の
考へは、人間といふものは、神様がその言動や価値といふものをハカリでちやんと計つてゐて、一人一人の人間の中の
特性が、あまりきはだちすぎてゐると、神の領域にせまつてくる、として神様はピシャつと押へる。すべての面で、
このやうに一人一人の人間を神様はじつとみてゐるといふのですね。人間のこの行為をがう慢といつてゐた。
人間が神に対してあまりがう慢すぎるといふわけです。
このやうな考へ方は、当時ポリス(都市国家)といふ小さな社会で均衡を保つた政治生活をおくる必要から
生れたものと思ふが、なかなかおもしろい考へ方です。人間が知育偏重になれば知識だけが上がり、体育偏重になれば
体力だけがぐつと上がる。――これはバランスがくづれるもとで、神様はこのことを、蔭でみてゐて罰する。
だから理想的に美しい人間像といふのは、あくまで精神と肉体のバランスのとれた、文武両道にひいでたもので
なければないといふわけです。
三島由紀夫「文武両道」より
173 :
名無しさん@社会人:2011/02/02(水) 12:40:13
言ひ古されたことだが、一歩日本の外に出ると、多かれ少かれ、日本人は愛国者になる。先ごろハンブルクの
港見物をしてゐたら、灰色にかすむ港口から、巨大な黒い貨物船が、船尾に日の丸の旗をひるがへして、威風堂々と
入つて来るのを見た。私は感激措くあたはず、夢中でハンカチをふりまはしたが、日本船からは別に応答もなく、
まはりのドイツ人からうろんな目でながめられるにとどまつた。
これは実に単純な感情で、とやかう分析できるものではない。もちろん貨物船が巨大であつたことも大いに私を
満足させたのであつて、それがちつぽけな貧相な船であつたとしたら、私のハンカチのふり方も、多少内輪に
なつたことであらう。また、北ヨーロッパの陰鬱な空の下では、日の丸の鮮かさは無類であつて、日本人の素朴な
明るい心情が、そこから光りを放つてゐるやうだつた。
それでは私もその「素朴な明るい」日本人の一人かといふと、はなはだ疑はしい。私はひねくれ者のヘソ曲りであるし、
私の心情は時折明るさから程遠い。それは私が好んでひねくれてゐるのであり、好んで心情を暗くしてゐるのである。
三島由紀夫「日本人の誇り」より
174 :
名無しさん@社会人:2011/02/02(水) 12:41:43
これにもいろいろ複雑な事情があるが、小説家が外部世界の鏡にならうとすれば、そんなにいつも「素朴で明るい」
人間であるわけには行かない。しかし異国の港にひるがへる日の丸の旗を見ると、
「ああ、おれもいざとなればあそこへ帰れるのだな」
といふ安心感を持つことができる。いくらインテリぶつたつて、いくら芸術家ぶつたつて、いくら世界苦
(ヴエルトシユメルツ)にさいなまれてゐるふりをしたつて、結局、いつかは、あの明るさ、単純さ、素朴さと清明へ
帰ることができるんだな、と考へる。
いざとなればそこへ帰れるといふ安心感は、私の思想から徹底性を失はせてゐるかもしれない。しかしそんなことは
どうでもよいことだ。私は巣を持たない鳥であるよりも、巣を持つた鳥であるはうがよい。第一、どうあがいた
ところで、小説家として私の使つてゐる言葉は、日本語といふ歴然たる「巣鳥の言葉」である。
「いざとなればそこへ帰れる」といふことは、同時に、帰らない自由をも意味する。ここが大切なところだ。
帰る時期は各人の自由なのであつて、「いざとなれば帰れる」といふ安心感があればこそ、一生帰らない日本人が
ゐるのもふしぎはない。
三島由紀夫「日本人の誇り」より
175 :
名無しさん@社会人:2011/02/02(水) 12:42:13
私はこの安心感を大切にするのと同じぐらゐに、帰る時期と、帰る意思の自由とを大切にする。人に言はれて
帰るのはイヤだし、まして人のマネをして帰つたり、人に気兼ねして帰るのもイヤだ。すべての「日本へ帰れ」と
いふ叫びは、余計なお節介といふべきであり、私はあらゆる文化政策的な見地を嫌悪する。日本人が「ドイツへ帰れ」と
言はれたつて、はじめから無理なのであつて、どうせ帰るところは日本しかないのである。
私は十一世紀に源氏物語のやうな小説が書かれたことを、日本人として誇りに思ふ。中世の能楽を誇りに思ふ。
それから武士道のもつとも純粋な部分を誇りに思ふ。日露戦争当時の日本軍人の高潔な心情と、今次大戦の特攻隊を
誇りに思ふ。すべての日本人の繊細優美な感受性と、勇敢な気性との、たぐひ稀な結合を誇りに思ふ。この相反する
二つのものが、かくもみごとに一つの人格に統合された民族は稀である。……
しかし、右のやうな選択は、あくまで私個人の選択であつて、日本人の誇りの内容が命令され、統一され、
押しつけられることを私は好まない。
三島由紀夫「日本人の誇り」より
176 :
名無しさん@社会人:2011/02/02(水) 12:42:31
実のところ、一国の文化の特質といふものは、最善の部分にも最悪の部分にも、同じ割合であらはれるものであつて、
犯罪その他の暗黒面においてすら、この繊細な感受性と勇敢な気性との結合が、往々にして見られるのだ。
われわれの誇りとするところのものの構成要素は、しばしば、われわれの恥とするところのものの構成要素と
同じなのである。きはめて自意識の強い国民である日本人が、恥と誇りとの間をヒステリックに往復するのは、
理由のないことではない。
だからまた、私は、日本人の感情に溺れやすい気質、熱狂的な気質を誇りに思ふ。決して自己に満足しない
たえざる焦燥と、その焦燥に負けない楽天性とを誇りに思ふ。日本人がノイローゼにかかりにくいことを誇りに思ふ。
どこかになほ、ノーブル・サベッジ(高貴なる野蛮人)の面影を残してゐることを誇りに思ふ。そして、たえず
劣等感に責められるほどに鋭敏なその自意識を誇りに思ふ。
そしてこれらことごとくを日本人の恥と思ふ日本人がゐても、そんなことは一向に構はないのである。
三島由紀夫「日本人の誇り」より
177 :
名無しさん@社会人:2011/02/02(水) 20:05:42
男のやる仕事でもつとも荒つぽい、命を的にかけた仕事で、しかもこれほど優雅と美を本質とする仕事もめづらしい。
アメリカの埃くさい薄汚ないカウ・ボオイなどとちがつて、闘牛士は、宮廷人のやうな絹の華麗な衣裳をつけてゐる。
そしてその花やかな衣裳の下には、プロテクターはおろか、下着ひとつつけないのが闘牛士の心意気である。
男が色彩豊富なけんらんたる衣服を身につけてふさはしいのは、死と勇気と血潮に関はりあるときだけである。
流行歌手の裾模様なんか、唾棄すべきものである。
闘牛士は、危険によつて美しく、死によつていよいよ美しい。それこそ世間並の男が、いくら口惜しがつても
及ばぬところだ。
ガルシア・ロルカは、闘牛士イグナシオ・サンチェス・メヒーアスの死を悼んで、四章から成る哀切な長詩を書いた。
「誰一人お前を知らない。知る者はない。けれどもわたしはお前を歌う。
お前の横顔とお前の魅力を いつまでもわたしは歌う。
お前の判断力の著しい円熟ぶりを、
お前の死への欲求と 死の口の味はひを、
お前の男らしい陽気さが持っていた悲しみを。」(小海永二氏・羽出庭梟公氏共訳)
三島由紀夫「闘牛士の美」より
178 :
名無しさん@社会人:2011/02/04(金) 16:48:20
――二・二六事件に関してどう考へてゐるか。
三島:十一歳のとき起きたあの事件は、私にたいへん大きな精神的影響を与へた。私がいまも持つてゐる英雄崇拝と
ざせつ感は、すべてあの事件に由来するものです。いふまでもなく私は反乱軍といはれた青年将校の味方で、
のちに反乱軍として糾弾した本がたくさん出たが、さういふたぐひの本を読むと、ハラがたつて破つて捨てた
ほどですよ。その後の軍閥政治であの挙兵が逆用され、すつかり汚されてしまつたが、青年将校たちの行動は、
いはば昭和維新になりうる可能性を持つたものであり、救国の信念に基づく純粋なものでした。
それが反乱軍の汚名を冠せられたのは、陛下を取り巻く卑怯で臆病でずる賢い老臣どもの策謀であり、ひいては
それを受け入れられた陛下ご自身の責任です。
三島由紀夫「“人間天皇”批判――小説『英霊の声』が投げた波紋」より
179 :
名無しさん@社会人:2011/02/04(金) 16:49:54
――戦前の「天皇制国家」を唯一の国体と考へるのか。
三島:さうです。天皇が自ら人間宣言をなされてから、日本の国体は崩壊してしまつた。戦後のあらゆるモラルの
混乱はそれが原因です。なぜ、天皇が人間であつてはならぬのか。少なくともわれわれ日本人にとつて神の存在で
なければならないのか。このことをわかりやすく説明すれば、結局「愛」の問題になるのです。
近代国家はかつての農本主義から資本主義国家へ必然的に移行していく。これは避けられない。封建的制度は崩壊し、
近代的工業主義へ、そしていきつくところは、人生の絶望的状態である完全福祉国家とならざるをえないすう勢だ。
そして一方、国家が近代化すればするほど、個人と個人のつながりは希薄になり、冷たいものになるんですね。
かういふ近代的共同体のなかに生きる人間にとつては、愛は不可能になつてしまふ。
三島由紀夫「“人間天皇”批判――小説『英霊の声』が投げた波紋」より
180 :
名無しさん@社会人:2011/02/04(金) 16:51:39
たとへばAがBを愛したと信じても、かういふ社会では、確かめるすべをもたない。逆にBのAに対する愛にしても
さうです。つまり、近代的社会における愛は相互間だけでは成立しないといふことなのです。愛し合ふ二人の他に、
二人が共通にいだいてゐる第三者(媒体)のイメージ――いはば三角形の頂点がなければ、愛は永遠の懐疑に終はり、
ローレンスのいふ永遠に不可知論になつてしまふ。これはキリスト教の考へ方でもあるが、昔からわれわれ日本人には、
農本主義から生まれた「天皇」といふ三角形の頂点(神)のイメージがあり、一人々々が孤独に陥らない愛の原理を
持つてゐた。天皇はわれわれ日本人にとつて絶対的な媒体だつたんです。私は天皇制についてきかれるたびに、
いつも“お祭りは必要なのだから大切にすべきだ”と一言いつてたのは、さういふ意味です。
三島由紀夫「“人間天皇”批判――小説『英霊の声』が投げた波紋」より
181 :
名無しさん@社会人:2011/02/04(金) 17:20:10
――現在の皇室について。
三島:私はもちろん天皇主義者だが、そのなかでいふべきことは、はつきりいふのが本当の愛国者だと思ふ。
いまの皇室あり方は非常な危機を内包してゐます。(中略)
皇太子殿下も、たまには防衛大にお出かけになつて、愛国心に燃える青年に菊のタバコをおすすめになつたらどうか。
いまの一本のタバコが将来一億円に値するんです。皇室がたよれるのは結局彼らなんですよ。
陛下についてのご不幸は、まはりに争臣がゐなかつたことです。取り巻きの重臣はすべて英国で教育を受けた者ばかり。
英米の体制が悪いわけではないが、なぜか英国で教育を受けた日本人は日和見主義者で、現状維持にきふきふとする
弱い人間になつてしまふ。ただ一人、例外的人物は吉田茂氏で、占領時代の英米式体制のなかで、英国的思想を
逆用して抵抗したはじめての日本人として象徴的な人物でした。
第二に、青年層に接触される機会がなかつたことですね。(中略)もし、青年たちと接触があれば、あの事件
(二・二六事件)の底にはなにがあつたかわかつたはずだし、憂国の青年がいだいた真心をあんなに無残に
じうりんなさるはずがなかつたと思ふんです。
三島由紀夫「“人間天皇”批判――小説『英霊の声』が投げた波紋」より
182 :
名無しさん@社会人:2011/02/06(日) 13:09:44
Q――クール・セックス時代とか、モノ・セックス時代とかいはれてをりますが、青年は男らしいと思ひますか?
たとへば、童貞が激増してゐるといふやうなこと。
三島:童貞がふえてるといふことと、男らしさといふものとは、あまり関係がないんぢやない?
だけど、ボクサーの場合、童貞の選手は強いですね。セックスをやつてるひとは弱いですね。それか、セックスを
ずーつと前に知つちやつてね、セックスといふものが、そんなに固定観念になつてないひとは、強いですね。
男らしさ、といふことをいへばいまは、女とやつてる奴の方が、女らしくなつてるかもしれない。
(中略)男の方がどうしても女のロマンチックな趣味に合はせるやうになりますからね。これは昔から変はらない
ことだけれども、若い女といふものは、あんまり男らしい男は、好きぢやないですよ、こはくて。
だから、いまの青年が男らしくないとすれば、それは女のせゐですよ。そんなの汚ならしい、カッコ悪いと
いはれれば、仕方がないからさうしちやふ。
三島由紀夫「青年論――キミ自身の生きかたを考へるために」より
183 :
名無しさん@社会人:2011/02/06(日) 13:11:31
Q――青年にすすめたい本、十冊をあげて下さい。
三島:ゲーテの「ヘルマンとドロテア」、これは一番すすめたい。
それから、林房雄の「青年」もぜひ読んで欲しい。これは、ちよつと我田引水になるけれども、ぼくが最近書いた
「葉隠入門」。
若いひとにぜひ読んでもらひたいと思つて、あれは書いたものだからね。
それからフランス文学では、サン・テグジュペリの小説、アンドレ・マルローの初期のものね。ああいふのは
青年らしいですよ。
東洋には、日本も含めて、青年のための本といふのは、少ないですがね、ぼくが非常におもしろくて、好きなのは、
世阿弥の「花伝書」。これはすすめたいな。(中略)
それから、ヘルデルリーンの詩、「ヒュペリオン」、あれはいい。
トルストイ、ドストエフスキーなども、「罪と罰」なんかいいけど、別にぼくがとくにすすめる必要はないと思ふ。
三島由紀夫「青年論――キミ自身の生きかたを考へるために」より
184 :
名無しさん@社会人:2011/02/07(月) 20:26:03
Q――泣かれたことがありますか?
三島:昭和二十年に妹が死んだとき以来泣いたことはない。泣くほど感動的な事件がないからね。
Q――義理と人情をどうお考へですか?
三島:義理はマナーであつて、モラルではないと思ひます。わたしの場合でいふと、一度でも恩義を感じた人、
親しくした人の悪口は、口ではいつても、文字にはしません。わたしは物書きだからね。人情はほどほどがいいと
思つてゐますね。心の底からわきでて、涙がこぼれるといつたことはありません。またきらひですね。と、いつて、
ヨーロッパ流の我をむきだしにした対立も困る。人間関係の潤滑油としての人情は認めますし、持ちあはせてゐる
つもりですよ。
三島由紀夫「美を探究する非情な天才――三島由紀夫さんの魅力の周辺」より
185 :
名無しさん@社会人:2011/02/07(月) 20:30:40
Q――サービス精神についてどう考へられますか。
三島:わたしはやりたいことをやつてゐるだけの話で、サービス精神だなんて考へたこともない。他人に
サービスするといふのは人生のムダですよ。ですから、わたしは、いつも、まじめな気持でいろいろなことを
やるわけです。しかし、実際には、それがピエロにみえる。自分がピエロだと自覚して、他人にサービスすると
いふのは、もう古いので、ピエロはピエロであるといふ自意識をすて、ひたすらまじめに行為をするべきなのです。
まじめであればあるほど、ピエロはいきてくる。だから、わたしがピエロにみえるのは当然。ピエロになるのが
いやなら文士などにならなきやいい。
Q――新しいものに、異常な好奇心をもやされるやうですが。
三島:時のはやりには適当に身をまかすべし、と「葉隠」はいつてますからね。ハッハッハ。
三島由紀夫「美を探究する非情な天才――三島由紀夫さんの魅力の周辺」より
186 :
名無しさん@社会人:2011/02/07(月) 20:34:32
Q――賭けはおきらひなのですか?
三島:好きなのです。魅力がありすぎて、はじめれば、きつと溺れると思ひます。だから、やりません。
Q――それでは、人間の最高の徳目とは、なんでせう?
三島:義でせう。義は人間の本性からでたものではないだけに、最高の徳目になるのです。情感、情念を滅ぼして、
人間は義に生きねばならないときがある。義に生きなければ千載に悔いを残します。しかし、義ほどつかまへにくい
ものはない。客観的につかまへられないがゆゑに、義であるかどうか判断することがむづかしい。たとへば、
二・二六事件が義であつたかどうか、いまでもわからない。義はいつくるかわからない。しかし、もし、
つかまへそこなふと、人間としてダメになる。
三島由紀夫「美を探究する非情な天才――三島由紀夫さんの魅力の周辺」より
187 :
名無しさん@社会人:2011/02/08(火) 10:12:36
想像力といふものは、多くは不満から生まれるものである。あるひは、退屈から生まれるものである。われわれが
危急に際して行動に熱中し、生きることにすべての力を注いでゐるときには、想像力の余地をほとんど持つことがない。
もし、想像力がノイローゼの原因になるとすれば、空襲にさらされた戦争中の日本は、最もノイローゼの出にくい
状況であつた。あの時代には、どろぼうも少なく、犯罪も少なく、人々の想像力のかては、すべて戦争といふ、
一民族のあらゆる精力をつぎ込まねば成功できない事業に、集中してゐたのである。
われわれは、人生の第一歩から、人生に満足して始めるわけではない。満足してゐる人はごく例外的である。
これは、どんな社会革命が成功しても、同じことであらう。芸術は、そこから始まるのである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
188 :
名無しさん@社会人:2011/02/08(火) 10:13:46
人生といふものは、死に身をすり寄せないと、そのほんたうの力も人間の生の粘り強さも、示すことができないと
いふ仕組になつてゐる。ちやうど、ダイヤモンドのかたさをためすには、合成された硬いルビーかサファイアと
すり合さなければ、ダイヤモンドであることが証明されないやうに、生のかたさをためすには、死のかたさに
ぶつからなければ証明されないのかもしれない。死によつて、たちまち傷ついて割れてしまふのは、そのやうな生は
ただのガラスにすぎないのかもしれない。
二月十一日の建国記念日に、一人の青年がテレビの前でもなく、観客の前でもなく、暗い工事場の陰で焼身自殺した。
そこには、実に厳粛なファクトがあり、責任があつた。芸術がどうしても及ばないものは、この焼身自殺のやうな
政治行為であつて、またここに至らない政治行為であるならば、芸術はどこまでも自分の自立性と権威を誇つて
ゐることができるのである。私は、この焼身自殺をした江藤小三郎青年の「本気」といふものに、夢あるひは
芸術としての政治に対する最も強烈な批評を読んだ一人である。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
189 :
名無しさん@社会人:2011/02/08(火) 10:14:55
泰平無事が続くと、われわれはすぐ戦乱の思ひ出を忘れてしまひ、非常の事態のときに男がどうあるべきかと
いふことを忘れてしまふ。金嬉老事件は小さな地方的な事件であるが、日本もいつかあのやうな事件の非常に
拡大された形で、われわれ全部が金嬉老の人質と同じ身の上になるかもしれないのである。
危機を考へたくないといふことは、非常に女性的な思考である。なぜならば、女は愛し、結婚し、子供を生み、
子供を育てるために平和な巣が必要だからである。平和でありたいといふ願いは、女の中では生活の必要なのであつて、
その生活の必要のためには、何ものも犠牲にされてよいのだ。
しかし、それは男の思考ではない。危機に備へるのが男であつて、女の平和を脅かす危機が来るときに必要なのは
男の力であるが、いまの女性は自分の力で自分の平和を守れるといふ自信を持つてしまつた。それは一つには、
男が頼りにならないといふことを、彼女たちがよく見きはめたためでもあり、彼女たちが勇者といふものに一人も
会はなくなつたためでもあらう。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
190 :
名無しさん@社会人:2011/02/08(火) 10:15:51
剣道は礼に始まり礼に終ると言はれてゐるが、礼をしたあとでやることは、相手の頭をぶつたたくことである。
男の世界をこれは良く象徴してゐる。戦闘のためには作法がなければならず、作法は実は戦闘の前提である。
男の作法は、ただ相手に従ひ、相手の意のままになることが目的ではない。しかし、作法こそどうしてもくぐら
なければならない第一前提であるにもかかはらず、現代に於ては人間の正直な、むき出しの姿がそのまま相手の心に
通用するといふ不思議な迷信がはびこつてゐる。アメリカ流のフランクネスが、どのやうなビジネス上の罠を
隠してゐるとも知らず、アメリカ人のいきなり肩をたたくやり方、につこりと美しくほほゑみかけるやり方に
だまされて、ついこちらもフランクになりすぎて、思はぬ仕事の上の損失をかうむつた例は枚挙にいとまがない。
何故なら、野心家こそ作法を守るべきなのであり、また、人との関係に於ても、普段、作法を守つてゐればこそ、
いつたん酒が入つて裸踊りのひとつもやつてのけたときには、いかにも胸襟を開いたやうに思はれて、相手の信用を
かち得ることができる。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
191 :
名無しさん@社会人:2011/02/08(火) 10:16:43
作法をひとつの扉とすると、言葉の小さな使ひ方はその扉の蝶番にさされる油のやうなものである。そして、
いまでは油もささずにギーギー、ガーガー扉のあけたてがひどくなりすぎる。
男の世界はスポーツに似てゐる。ルールを守つた上で勝敗は争はれるので、根底にある争ひがそれだけカバーされる
わけである。しかし、女の世界はこの点で根底的な争ひといふもの、権力の争ひといふものが少ないために、
かへつてスポーツのルールが乱される場合が多い。スポーツのルールが乱されることが自分の生存を脅かさない
からであらう。
在外公館の夫人連の間の厳しさは、女がやはり政府の辞令を受けて、外交官夫人として外国に行くところから生れて、
男の世界の模倣をつくつてしまふからであらう。これは最近流行の大奥の生活を描いた小説や芝居にもよく
見えるとほりである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
192 :
名無しさん@社会人:2011/02/08(火) 10:21:53
これからますますテレビジョンが発達し、人間像の伝達が目に見えるもので一瞬にしてキャッチされ、それによつて
価値が占はれるやうな時代になると、大統領でさへ整形手術をしたり、テレビのメーキャップにうき身をやつす
やうになる。これはアメリカの肉体主義の当然の帰結であるが、好むと好まざるとにかかはらず、目に見える印象で
そのすべての人間のバリューがきめられてゆくやうな社会は、当然に肉体主義におちいつていかざるを得ないのである。
私は、このやうな肉体主義はプラトニズムの堕落であると思ふ。
目に見えるものがたとへ美しくても、それが直ちに精神的な価値を約束するわけではない。ギリシャのことわざに
「健全なる精神は健全なる肉体に宿る」といはれてゐるのはギリシャ語の誤訳であつて、「健全なる精神よ、
健全なる肉体に宿れかし」といふのが正しい訳のやうである。それといふのも、ギリシャ以来、肉体と精神との
齟齬矛盾についての観察が、いつも人々を悩ましてゐたことの証拠である。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
193 :
名無しさん@社会人:2011/02/08(火) 10:22:43
肉体主義は肉体を崇拝させると同時に、また肉体を侮蔑させ、売りものにさせるものである。肉体は崇拝の手続を
経ずに、美しいものは直ちに売られ、商業主義に泥だらけにされてしまふ。マリリン・モンローの悲劇は、
美しい肉体をそのやうに切り売りにされた一人の女性の生涯の悲劇であつた。
われわれは、いま二つの文化の極端な型のまん中に立つてゐる。われわれの心の中には、日本的な、肉体を
侮蔑する精神主義が残つてゐると同時に、一方では、アメリカから輸入されたあさはかな肉体主義が広がつてゐる。
そして、人間を判断するのに、そのどちらで判断していいか、人々はいつも迷つてゐる。私は、やはり男といへども
完全な肉体を持つことによつて精神を高め、精神の完全性を目ざすことによつて肉体も高めなければならないといふ
考へに到達するのが自然ではないかと思ふ。(中略)
そして、肉体が人に誤解されやすい最大の理由は、肉体美といふものはどうしても官能美と離れることができない
からであり、それこそは人間の宿命であるのみならず、人間が考へる美といふものの宿命だからであらう。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
194 :
名無しさん@社会人:2011/02/08(火) 11:58:55
同じ本を出すのにも、私どもと日本の出版社との約束は口約束で済むものが、アメリカでは何ページにもわたつて
アリのはふやうな細かい活字を連ねた煩瑣な契約書が、起りうるあらゆる危険、あらゆる裏切り、あらゆる背信行為を
予定して書きとめられてゐる。そもそも契約書がいらないやうな社会は天国なのである。契約書は人を疑ひ、
人間を悪人と規定するところから生れてくる。
そして相手の人間に考へられるところのあらゆる悪の可能性を初めから約束によつて封じて、しかしその約束の
範囲内ならば、どんな悪いことも許されるといふのは、契約や法律の本旨である。ところが別の考へ方もあるので、
ほんたうの近代的な契約社会は、何も紙をとりかはさなくても、お互ひの応諾の意思が発表された時期に契約が
成立するのだといふ学説もあるくらゐである。すなはち、契約社会の理想は、何も紙をとりかはさなくても
人間が契約を守るといふ根本精神が行きわたれば、それだけで安全に運行していくのであるが、そんなりつぱな
人間ばかりでないところからむづかしい問題が生ずるわけである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
195 :
名無しさん@社会人:2011/02/08(火) 15:26:34
約束や信儀は、実は快楽主義のためにさへ守らなければならないのである。なぜなら快楽は鳥の影のやうなもので、
一度われわれがそれをつかみそこねたら永遠に飛びさつてしまふからである。
しかし、快楽のための約束として、もつとも普通な形がすなはち異性とのデートである。デートは、快楽のための
約束にもかかはらず、その快楽を刺激し、じらせ、かへつて高めるための技巧として、お互ひにちよつと時間を
ずらして、わざと約束の時間に来なかつたり、あるひは約束におくれてみせたりするローマのオヴィディウス以来の
愛のさまざまなウソの技巧が使はれる。しかしそれでさへも信義の上にあるのが本当だといふのは、私の考へであつて、
私は昔から約束を守らない女性は、どんな美人であつても嫌ひである。なぜなら私の考へでは、どんな快楽も
信儀の上に成り立つといふ考へだからである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
196 :
名無しさん@社会人:2011/02/08(火) 16:17:57
男性の羞恥心は、あくまでも男らしさとつながつてゐた。男と女がそれぞれの領域をきちんと守り、心がどんなに
ひかれてゐても、それをまつすぐにあらはさないといふことが、恋愛の不可欠の要素であつた。これは、古い気質の
人間のあらゆる感情表現に影響を及ぼし、わざと嫌ひなふりをすることが、愛することの最大の表現と思はれてゐた。
いまでは、これが見られるのは小学生の間だけで、自分でもわからぬながら、心をひかれる女の子にやたらに
いぢわるをする男の子は、満六、七歳にしてすでに明治百年の男となつてゐるわけである。
男女関係自体が、新しいアメリカ風の、お互ひに愛を最大限に表現する形によつて、わざとらしい公明正大さを
得てきた。そして女の羞恥心すら、男女同権を破壊するやうな封建的遺習と考へられ、その女の羞恥心が薄れるに
従つて、男の羞恥心も、ガラスの表にはきかけた息のやうに、たちまち消え去つてゆき、そしていつの間にか、
かくも露骨に表現し合つた男と女は、お互ひの大切な性的表象を失つて、いま言はれるやうな中性化の時代が
来たのである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
197 :
名無しさん@社会人:2011/02/08(火) 16:18:49
伝統は守らなければ自然に破壊され、そして二度とまた戻つてはこない。男は伝統の意味を知つてゐるから、
ある意味で主体的にいつも伝統を守る側に立ち、自らその伝統をよしとし、あるひは悪いと思つても伝統を
守らなければならないといふ、強い義務感を感じてゐた。それが日本の男性を必要以上に保守的に見せてきた原因で
あると思ふ。しかし、いつも女性はこの男性に対抗して、伝統を破壊するといふ方向にのみ、自分の自由と解放の
根拠を求めた。しかし、ここにはパラドックスがある。もし伝統破壊の行動を続けるならば、その女性は自分が
伝統によつて受身に縛られてきたときの態度を、伝統が破壊されたあとも、そのまま押し通すといふことに
なるのである。しかし、何もないところでは、何の行動の基準もあり得ないので、今度は女性は、西洋式な伝統の
サルマネを始め、それを男性に強要するやうになつた。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
198 :
名無しさん@社会人:2011/02/08(火) 23:44:53
女性の力ではなく、アメリカといふ男性の、占領軍の力によつて女性の自由と解放が成就されたとき、女性は
何によつて自分の力を証明しようとしたであらうか。それがいはゆる女性の平和運動である。その平和運動はすべて
感情を基盤にして、「二度と戦争はごめんだ」「愛するわが子を戦場へ送るな」といふ一連のヒステリックな叫びに
よつて貫かれ、それゆゑにどんな論理も寄せつけない力を持つた。しかし、女性が論理を寄せつけないことによつて
力を持つのは、実はパッシブな領域においてだけなのである。日本の平和運動の欠点は、感情によつて人に
訴へることがはなはだ強いのと同時に、論理によつて前へ進むことがはなはだ弱いといふ、女性的欠点を露呈した。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
199 :
名無しさん@社会人:2011/02/09(水) 10:54:58
外国人の目には、すべて民族的な服装は美しい。しかし美しいのと、便利とは別である。インド航空でいつも驚くのは、
スチュワーデスがサリーを着てゐることである。もしあれで事故でも起きたときには、どうするつもりだらうか。
サリーは足にまとはりつき、死なないでもよいものを、死ぬことになるかもしれない。日本航空で、スチュワーデスが
振袖を着てゐるときに感ずる危惧以上のものを、われわれは、インド航空のサリーに感じなければならない。
しかし飛行機会社が乗客にそのやうな危機感を抱かせることをもつて、彼女たちの美しさをいよいよ引き立てて
ゐるとすれば、これまた憎い計算ではある。
日本人は、わりに便利といふことに弱い国民である。明治時代の西洋崇拝から、日本人は不便の故を以て伝統的な
服装を放棄することに、何らの躊躇を感じなかつた。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
200 :
名無しさん@社会人:2011/02/09(水) 10:55:52
服装のほんたうの楽しみは、自由自在に勝手気ままなものを、好きな場合に着て歩くことではないといふことを、
人々は経済状態の落着きと社会の安定とともに、徐々に学んできたやうに思はれる。服装は強ひられるところに
喜びがあるのである。強制されるところに美があるのである。これを最も端的にあらはすのが、軍人の軍服であるが、
それと同時にタキシードひとつでも、それを着なければならないといふことから着るところに、まづその着方の巧拙、
あるひは着こなしの上手下手があらはれる。
タキシードを着なければならない人たちは、決してGパンをはくことができなかつた。また菜葉服を着てゐた人たちは、
決してタキシードを着ることができなかつた。それをわれわれは、無階級社会のおかげで、菜葉服からタキシードまで
自由自在に往来できる世の中に住んでゐる。(中略)
しかし悲しいかな、その周りにゐる人たちは、いづれも贋物の上流階級にすぎない。そしてタキシードとイブニングで
楽しんでゐる人たちは、本物の上流階級でないかはりに、上流階級が苦しんでゐた古い、わづらはしい、封建的
桎梏をも、完全に免れてゐるのである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
201 :
名無しさん@社会人:2011/02/09(水) 10:57:13
人間は、場合によつては、楽をすることのはうが苦しい場合がある。貧乏性に生まれた人間は、一たび努力の義務を
はづされると、とたんにキツネがおちたキツネつきのやうに、身の扱ひに困つてしまふ。何十年の間、会社や役所で
ぢみな努力を重ねてきて、そこにだけ自分の生き方のモラルを発見してゐた人は、定年退職となると同時に、
生ける屍になつてしまふ。われわれの社会は、さういふ残酷な悲劇を、毎日人に与へてゐるのである。(中略)
実は一番つらいのは努力することそのことにあるのではない。ある能力を持つた人間が、その能力を使はないやうに
制限されることに、人間として一番不自然な苦しさ、つらさがあることを知らなければならない。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
202 :
名無しさん@社会人:2011/02/09(水) 10:58:05
人間の能力の百パーセントを出してゐるときに、むしろ、人間はいきいきとしてゐるといふ、不思議な性格を
持つてゐる。しかし、その能力を削減されて、自分でできるよりも、ずつと低いことしかやらされないといふ拷問には、
努力自体のつらさよりも、もつとおそろしいつらさがひそんでゐる。
われわれの社会は、努力にモラルを置いてゐる結果、能力のある人間をわざとのろく走らせることを強ひるといふ、
社会独特の拷問についてはほとんど触れるところはない。そして、われわれの知的能力のみならず、肉体的能力も
次々と進歩し、少年は十五歳で肉体的におとなになる。しかもわれわれの社会は青年をそのまま、ナマのまま
使へるやうな戦争といふ機会を持たず、社会には老人支配の鉄則ががつちりとはめられ、このやうな世界で、
十秒で走れる青年が、みな十七秒、十八秒で走るやうに強ひられてゐる。私は、ここらに、努力と建設といふ
ことだけをモラルにした、社会のうその反面、人間にもつとつらい、もつと苦しいものを強ひる、社会の力といふ
ものを見出すのである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
203 :
名無しさん@社会人:2011/02/09(水) 10:59:58
社会全体のテンポが、早く走れる人間におそく走ることを要求し、おそく走る人間に早く走ることを要求して
ゐるのである。
これが現代日本の社会のひずみの、おそらく根本原因である。一方ではいくらでも長く走れるエネルギーが
あり余つてゐる。この連中は、若いがゆゑに軽視されてゐるだけだが、さうかといつて、彼らのすべてにすばらしい
才能があるとおだてるわけにはいかない。ただ、明治以来の日本の社会の特質に従つて、彼らも亦、「努力しろ、
努力しろ」と強ひられる。しかし、いくら努力しても、社会の壁が破られるわけではない。そこで実につらいことだが、
「百メートルを十五秒で駆けなければならぬ」といふ順応型モラルを身につけることになる。その瞬間に、
エネルギーはその真のフルな力の発揮の機会を、自ら放棄してしまつたのである。
三島由紀夫「若きサムラヒのための精神講話」より
204 :
名無しさん@社会人:2011/02/10(木) 15:35:06
ところで私はあらゆる楽観主義、楽天主義がきらひである。ファクトといふものは、悲観をも楽観をも蹂躙してゆく
戦車だといふのが私の考へで、ファクトに携はらぬ人は往々歴史を見誤まるのである。
三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 原始戦に有効な剣道の哲理」より
人間の目と心は、どちらが先なのか? この人たちの心が何かを見るのか? 目が先に見て、心がそれを解釈し
分析するのか? 瞬間でも狼の目が借りられたら、すべてを投げ出しても悔いない、と言つたのは、ポオル・
ヴァレリーだが、われわれは、ファクトをつかむには、そのとき、その人の見る世界を見ようと努めなければならない。
第一回は機動隊の目に映つた世界、あれは又明るく単純な戦闘行為の世界だつた。第二回は反戦青年委員会の目に
映つた世界、これは暗い現在と不可測の未来へひらかれた複雑な世界である。
ファクトはどちら側にあるのだらうか? 算術的にその中間にあるといふものではあるまい。反戦青年委員会の
いはゆる「未来の閉ざされた世界」に住む機動隊が明るく、一方、未来に明るい光りを見ようとする者の世界は暗い。
三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 地についた怖るべき相手」より
205 :
名無しさん@社会人:2011/02/10(木) 15:36:49
兜町――それは現在のこの一瞬だ。
現実といふのは、兜町のやうな姿をしてゐるのかもしれない。すなはち過去に対しても未来に対しても絶対に無責任な、
しかしものすごく確信のある、ものすごくいきいきとした現実。このかたはらに置いたら、ほかのいかなる現実も
色あせて、ニセモノめいてくるやうな本物の現実。
そこには、なるほど資本主義の枠はあるけれど、どんなイデオロギーにもゆがめられない、テコでも動かない
現在只今の生活感覚が充実してゐて、盲目でありながら透視力に充ち、どんな理窟もはねとばし、予想も論理も
役に立たない。よかれ、あしかれ、ありのままの素ッ裸。兜町を直視すれば、気取りも羞恥心も吹つ飛んでしまふ。
いかに壮大な革命理論をゑがいても、心のどこかに、「マイホームを建てる三十坪の土地がほしい」といふ気持が
あれば、その集積が、露骨に株式相場にあらはれてしまふ。
三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 逞しく強烈な現実認識」より
206 :
名無しさん@社会人:2011/02/10(木) 15:37:47
ひどく敏感で、ひどく鈍感。(中略)
時代に対して徹底的に受身で、自己一身の利益しか考へてゐないといふ「心」が、集積されると、時代を
動かしてゆく一つの重要な動因になるといふそのふしぎ。
一九七〇年の危機が叫ばれ、ゲバ学生の襲撃の危険がささやかれる兜町の第一線の人々と親しく話してみて、
そこに世代の差による考へ方のちがひは当然ありながら、「どんな観念論も空しい」といふ一点で、逞しい合意に
達してはたらいてゐる人々の、一種強烈な自信に圧倒された。
しかし果して、どんな観念論も空しいだらうか?
それは歴史が決定する問題であり、「現実」がまだ最後の勝利を占めたわけではないのである。
三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 逞しく強烈な現実認識」より
207 :
名無しさん@社会人:2011/02/10(木) 15:38:49
都市の問題を考へるとき、ゴミの問題を抜きにしては考へられない。パリの五月革命では、ゴミ処理のために軍隊が
出勤し、それが又いはゆる「後拠支援」の絶好の口実になつた。身に物理的危険が迫らなくても、ゴミの問題一つで、
大都市は力にすがらざるをえなくなるのである。都市の弱点とは、いはゆる重要施設ばかりではない。いかに
都市が近代化され機械化されても、その構成員が人間である以上、都市には動物的肉体的特徴が備はつてゐる。
それがすなはち、食物・飲料水と、排泄物の問題であり、この巨獣の排泄機能に故障が起れば、数日でダウンしてしまふ。
しかも消費経済の過剰な発達は、どんどん物を消費し廃品化して行かなければ、経済自体が成立たないといふ、
アメリカ経済的体質に変りつつある。もはや質素と倹約は、国家的見地からも美徳でなくなつたのである。
三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 人間と都市の生の証し」より
208 :
名無しさん@社会人:2011/02/10(木) 15:39:44
かくて大都市は、毎日毎夜、狂ほしくゴミを製造しつづける大工場になつた。私有の財貨は、ゴミと化すると共に、
公有の厄介物になる。それはあたかも、私有財産制が、たえざる自己否定と自己破壊をくりかへすことによつてしか、
自らの持つ意味をたしかめられない時代に入つたかのやうである。
ゴミをつくり、屎尿を排出することだけが、人間の生きてゐるしるしであり、人生は自分がゴミと化することに
よつて終る。
私の会つた東京都清掃局の古いヴェテラン職員の顔には、何か哲学者のやうな翳があつた。人間をさういふところで
キャッチしてゐるといふ並々ならぬ自信がうかがはれた。かういふ人たちの前へ出ると、われわれは実に弱い。
何だか自分がゴミと屎尿の製造機にすぎぬやうな気がしてくるからだ。夢の島を見て、その厖大さに、気の遠くなる
思ひをしたすぐあとのことであつた。
三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 人間と都市の生の証し」より
209 :
名無しさん@社会人:2011/02/12(土) 15:17:34
Q――あなたはブルジョアですか。
三島:日本にはブルジョアはゐない。サムラヒの末裔と百姓の末裔と商人の末裔だけだ。私は血すぢでは百姓と
サムラヒの末裔だが、仕事の仕方はもつとも勤勉な百姓であり、生活のモラルではサムラヒである。
Q――あなたはまじめですか。サルバドール・ダリに近いと思ふか。
三島:何ごとにもまじめなことが私の欠点であり、また私の滑稽さの根源である。ダリは少しも滑稽ではない。
彼は崇高である。
Q――あなたは連帯的ですか、孤独を好みますか。あるひはこの両極端の間に平凡とは思はれない中庸がありえますか。
三島:孤独と連帯性は決して両極端ではない。孤独を知らぬ作家の連帯責任など信用できぬ。われわれは水晶の
数珠のやうにつなぎ合はされてゐるが、一粒一粒でもそれは水晶なのだ。しかし一粒の水晶と一連の数珠との間には
中庸などといふものはありえない。バラバラだからつなげることができ、つながつてゐるからこそバラバラになりうる。
三島由紀夫「フランスのテレビに初主演――文壇の若大将 三島由紀夫氏」より
210 :
名無しさん@社会人:2011/02/13(日) 12:48:57
最近東京空港で、米国務長官を襲つて未遂に終つた一青年のことが報道された。日本のあらゆる新聞がこの
青年について罵詈ざんばうを浴せ、袋叩きにし、足蹴にせんばかりの勢ひであつた。(中略)
私はテロリズムやこの青年の表白に無条件に賛成するのではない。ただあらゆる新聞が無名の一青年をこれほど
口をそろへて罵倒し、判で捺したやうな全く同じヒステリカルな反応を示したといふことに興味を持つたのである。
左派系の新聞も中立系の新聞も右派系の新聞も同時に全く同じヒステリー症状を呈した。かういふヒステリー症状は、
ふつう何かを大いそぎで隠すときの症候行為である。この怒り、この罵倒の下に、かれらは何を隠さうと
したのであらうか。
日本は西欧的文明国と西欧から思はれたい一心でこの百年をすごしてきたが、この無理なポーズからは何度も
ボロが出た。最大のボロは第二次世界対戦で出し切つたと考へられたが、戦後の日本は工業的先進国の列に入つて、
もうボロを出す心配はなく、外国人には外務官僚を通じて茶道や華道の平和愛好文化こそ日本文化であると
宣伝してゐればよかつた。
三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
211 :
名無しさん@社会人:2011/02/13(日) 12:50:05
昭和三十六年、私がパリにゐたとき、たまたま日本で浅沼稲次郎の暗殺事件が起つた。浅沼氏は右翼の十七歳の
少年山口二矢によつて短剣で刺殺され、少年は直後獄中で自殺した。このとき丁度パリのムーラン・ルージュでは
Revue Japonais といふ日本人のレビューが上演されてをり、その一景に、日本の短剣の乱闘場面があつた。
在仏日本大使館は誤解をおそれて、大あわてで、その景のカットをレビュー団に勧告したのである。
誤解をおそれる、とは、ある場合は、正解をおそれるといふことの隠蔽である。私がいつも思ひ出すのは、
今から九十年前、明治九年に起つた神風連の事件で、これは今にいたるもファナティックな非合理な事件として
インテリの間に評判がわるく、外国人に知られなくない一種の恥と考へられてゐる。
約百名の元サムラヒの頑固な保守派のショービニストが起した叛乱であるが、彼らはあらゆる西洋的なものを憎み、
明治の新政府を西欧化の見本として敵視した。
三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
212 :
名無しさん@社会人:2011/02/13(日) 12:52:17
電線の下を通るときは、西洋の魔法で頭がけがれると云つて、頭上に白扇をかざして通り、あらゆる西欧化に
反抗した末、新政府が廃刀令を施行して、武士の魂である刀をとりあげるに及び、すでにその地方に配置された
西欧化された近代的日本軍隊の兵営を、百名が日本刀と槍のみで襲ひ、結果は西洋製の小銃で撃ち倒され、
敗残の同志は悉く切腹して果てたのである。
トインビーの「西欧とアジア」に、十九世紀のアジアにとつては、西欧化に屈服してこれを受け入れることによつて
西欧に対抗するか、これに反抗して亡びるか、二つの道しかなかつたと記されてゐる。正にその通りで、一つの
例外もない。日本は西欧化近代化を自ら受け入れることによつて、近代的統一国家を作つたが、その際起つた
もつとも目ざましい純粋な反抗はこの神風連の乱のみであつた。他の叛乱は、もつと政治的色彩が濃厚であり、
このやうに純思想的文化的叛乱ではない。
三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
213 :
名無しさん@社会人:2011/02/13(日) 12:53:19
日本の近代化が大いに讃えられ、狡猾なほどに日本の自己革新の能力が、他の怠惰なアジア民族に比して
賞讃されるかげに、いかなる犠牲が払はれたかについて、西欧人はおそらく知ることが少ない。それについて
探究することよりも、西欧人はアジア人の魂の奥底に、何か暗い不吉なものを直感して、黄禍論を固執するはうを
選ぶだらう。しかし一民族の文化のもつとも精妙なものは、おそらくもつともおぞましいものと固く結びついて
ゐるのである。エリザベス朝時代の幾多の悲劇がさうであるやうに。……日本はその足早な、無理な近代化の歩みと
共に、いつも月のやうに、その片面だけを西欧に対して示さうと努力して来たのであつた。そして日本の近代ほど、
光りと影を等分に包含した文化の全体性をいつも犠牲に供してきた時代はなかつた。私の四十年の歴史の中でも、
前半の二十年は、軍国主義の下で、不自然なピューリタニズムが文化を統制し、戦後の二十年は、平和主義の下で、
あらゆる武士的なもの、激し易い日本のスペイン風な魂が抑圧されて来たのである。
三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
214 :
名無しさん@社会人:2011/02/13(日) 12:54:22
そこではいつも支配者側の偽善が大衆一般にしみ込み、抑圧されたものは何ら突破口を見出さなかつた。そして、
失はれた文化の全体性が、均衛をとりもどさうとするときには、必ず非合理な、ほとんど狂的な事件が起るのであつた。
これを人々は、火山のマグマが、割れ目から噴火するやうに、日本のナショナリズムの底流が、関歇的に
奔出するのだと見てゐる。ところが、東京空港の一青年のやうに見易い過激行動は、この言葉で片附けられるとしても、
あらゆる国際主義的仮面の下に、ナショナリズムが左右両翼から利用され、引張り凧になつてゐることは、
気づかれない。反ヴィエトナム戦争の運動は、左翼側がこのナショナリズムに最大限に訴へ、そして成功した事例で
あつた。それはアナロジーとしてのナショナリズムだが、戦争がはじまるまで、日本国民のほとんどは、
ヴィエトナムがどこにあるかさへ知らなかつたのである。
三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
215 :
名無しさん@社会人:2011/02/13(日) 12:55:55
ナショナリズムがかくも盛大に政治的に利用されてゐる結果、人々は、それが根本的には文化の問題であることに
気づかない。九十年前、近代的武器を装備した近代的兵営へ、日本刀だけで斬り込んだ百人のサムラヒたちは、
そのやうな無謀な行動と、当然の敗北とが、或る固有の精神の存在証明として必要だ、といふことを知つてゐた
のである。これはきはめて難解な思想であるが、文化の全体性が犯されるといふ日本の近代化の中にひそむ危険の、
最初の過激な予言になつた。われわれが現在感じてゐる日本文化の危機的状況は、当時の日本人の漠とした予感の中に
あつたものの、みごとな開花であり結実なのであつた。
三島由紀夫「日本文化の深淵について」より
216 :
名無しさん@社会人:2011/02/14(月) 17:45:22
一月三日(火)
しかし、何といつても、ボクシングはあの場内の興奮に包まれて、ぢかに見るべきものだ。テレビだと、
十五ラウンドが、スカスカと機械的に運ばれる感じで、興味は半減する。(中略)
解説のアナウンサーの声が全くいやらしい。ボクシングの試合なのだから、もうちよつと粗野な、ボクサー風に
鼻のつまつたカスレ声のアナウンサーを連れて来るわけには行かないのか。そのはうがずつと気分が出るぢやないか。
いやに澄んだ高い声の、中性的なアナウンサーの乙リキにすました軽薄な「客観性」、これこそ、ジャーナリズムの
いはゆる「良心的客観性」の空虚ないやらしさを象徴してゐる。
一月八日(日)
道場の冷え込み方はものすごく、むかしの寒稽古の寒さを思ひ出す。(中略)剣道の稽古も、飛び回るうちに
体はだんだん温まつてくるが、足の裏だけは寒餅みたいになつて感覚がない。そのうちやつと、その足も温まつてくる。
この日本刀で人を斬れる時代が、早くやつて来ないかなあ。
三島由紀夫「日録(昭和42年)」より
217 :
名無しさん@社会人:2011/02/14(月) 17:47:59
一月十日(火)
革命の機が熟したとき、文化人はあひもかはらず、女子供と同様に扱はれるであらう。それはいはばウサギの
役割なのだ。もしプラカードを持つてフラフラして、ぶち殺されれば、革命陣営は口をきはめてその「英雄的行動」を
ほめそやすであらう。しかしそれはウサギの英雄にすぎないのだ。
なぜなら、文化人知識人といふものは、老人か、女子供に類する肉体的弱者に決つてゐるから、「弱者が殺された」
といふ民衆的憤激をそそり立てるのに効果的であり、ただ弱者であるのみならず、その上、多少の知識や文化的
活動の経歴名声がプラスして、「尊敬すべき弱者が殺された」といふ政治的効果は多大なものだ。革命における
文化人の効用は、ウサギの肉の効用である。
私は外国でウサギの肉を食べたことがあるが、柔らかくて、わりに旨い。独特のクサ味を調味料で除去すれば、
うまいはうの肉に入る。ウサギにしろ、ニワトリにしろ、豚にしろ、さらに牛にしろ、概して大人しい動物の肉は
うまい部類に入る。
肉をまづくしよう。少なくとも俺一人の肉はまづくしてやらう。と私は断乎たる決意を固めたのである。
三島由紀夫「日録(昭和42年)」より
218 :
名無しさん@社会人:2011/02/16(水) 17:42:57
われわれ日本人は本来派手好みなのである。少くとも室町時代までは、いかに色彩と金ピカを好んだかは、
金閣寺や能楽を見てもわかる。(中略)長い鎖国時代に、さびしい寒色の趣味が上品だとされるやうになり、
けばけばしい趣味は、上は御所、下は民衆の一部に残るだけになつた。明治になつてからも、田舎者の文化が、
いよいよ日本人の趣味を窮屈にしてしまつた。
明治の開国以後、外国の趣味がとり入れられても、渋いイギリス趣味ばかりが上流階級で歓迎され、みんなが
そのマネをした。
私は生来、明るい地中海文化が好きで、ラテン的な色彩を愛し、さらに中南米(ラテン・アメリカ)の植民地建築に
心酔して、その熱帯の色彩美とメランコリーを日本に移植しようと志し、スペイン植民地風の家を建て、その中を
フランス骨董やスペイン骨董で飾り立てた。(中略)
着るものについては、私は一切流行といふものを顧慮しない。信頼のおけるテイラーで、一旦「私の型」と
いふものを決めてしまふと、それを変へず、寸法のはうは年中一定だから、生地さへ選べば、あとは簡単である。
三島由紀夫「男の美学」より
219 :
名無しさん@社会人:2011/02/16(水) 17:44:00
(中略)
大体私は、熱帯好きでもあるし、北方風なキチンとしたお洒落はきらひである。できるなら一年中裸でゐたいのだが、
それもならず、庭の中央に、イタリーから持つてきて据ゑた大理石のアポロ像が、春夏秋冬、まつ裸で外気に
さらされてゐる姿をうらやむばかりだ。
美的生活と云つても、十九世紀のデカダンのやうな、教養と官能に疲れた憂鬱で病的な美的生活は、私は
まつぴら御免である。
このごろの気持の変化として、剣道などをはじめてから、日本刀が好きになつたり、紋付袴を着てみたくなつたり
しはじめた。やはり日本の男には、剣道着ほど、男らしくて、すがすがしくて、よく似合ふ服装はないと思ふ。
しかし、純西洋風な部屋で、吉田茂氏みたいに、上等の和服を着て、上等の葉巻をくゆらすのも乙である。
年をとつたら、きつとさういふ風になるだらう。
(中略)
「美しく生き、美しく死ぬ」といふのは、古代ギリシア人の念願だつた。生きるはうはまだしも、どうしたら
美しく死ねるのか。
三島由紀夫「男の美学」より
220 :
名無しさん@社会人:2011/02/16(水) 17:45:25
古代ギリシア人の理想は、美しく生き、美しく死ぬことであつた。わが武士道の理想もそこにあつたにちがひない。
ところが、現代日本の困難な状況は、美しく生きるのもむづかしければ、美しく死ぬことはもつとむづかしいといふ
ところにある。武士的理想が途絶えた今では、金を目あてでない生き方をしてゐる人間はみなバカかトンチキになり、
金が人生の至上価値になり、又、死に方も、無意味な交通事故死でなければ、もつとも往生際のわるい病気である癌で
死ぬまで待つほかはない。
美しく生き美しく死なうとすれば、まづその条件を整へて行かねばならない。少くとも、自分の仕事に誠実に生き、
又、国や民族のためには、いさぎよく命を捨てる、といふのは美しい生き方であり死に方であるが、やりがひの
ある仕事がない、国家自体があやふやである、といふのでは、もう美しい生き方や死に方はありえないから、
わがためにも、国や民族の在り方を正して行くことが先決問題である。
三島由紀夫「美しい死」より
221 :
名無しさん@社会人:2011/02/16(水) 17:46:31
(中略)
武の心持がなければ、人間は自分をいくらでも弱者と考へることができ、どんな卑怯未練な行動も自己弁護する
ことができ、どんな要求にも身を屈することができる。その代り、最終的に身の安全は保証されよう。
ひとたび武を志した以上、自分の身の安全は保証されない。もはや、卑怯未練な行動は、自分に対してもゆるされず、
一か八かといふときには、戦つて死ぬか、自刃するかしか道はないからである。しかし、そのとき、はじめて人間は
美しく死ぬことができ、立派に人生を完成することができるのであるから、つくづく人間といふものは皮肉に
できてゐる。
私は自衛官にはならなかつたけれども、一旦武の道に学んだからには、予備自衛官と等しく、一旦緩急あるときは
国を護るために馳せ参じたいといふ気持になつてゐる。予備自衛官諸氏は、さういふ国民が私一人でないことを
信じていただきたいと思ふ。全国民の気持が、予備自衛官の気持と一つになつたとき、はじめて日本は、
国家としての美しい完成体になるのだと思はれる。
三島由紀夫「美しい死」より
222 :
名無しさん@社会人:2011/02/17(木) 20:14:18
日本近代知識人は、最初からナショナルな基盤から自分を切り離す傾向にあつたから、根底的にデラシネ
(根なし草)であり、大学アカデミズムや出版資本に寄生し、一方ではその無用性に自立の根拠を置きながら、
一方では失はれた有用性に心ひそかに憧憬を寄せてゐる。そこに知識人の複雑なコンプレックスがあり、こんなに
扱ひにくい人種はちよつと想像もできない。
知識人の自立を尊重するふりをしながら、その大衆操作の有用性をうまく利用し、かたがた彼らの有用性への
ひそかな憧れをみたしてやつた点では、政府よりも左翼のはうが何十倍も巧みであつた。戦後の知識人の役割が、
九割方、左翼の利用するところとなつたのは周知の事実であり、それなりに効果をあげたのである。
大学問題の勃発は、しかし、このやうな安定した進歩的知識人の天国に打撃を与へた。彼らの足もとに火がつき、
周章狼狽なすところを知らず、有用性の幻想は破壊されつつ、無用性の自立もすでに白昼夢となつた。進歩的知識人は
瓦礫と化した。
三島由紀夫「新知識人論」より
223 :
名無しさん@社会人:2011/02/17(木) 20:15:26
(中略)
私はここでまたしても日本知識人が自己欺瞞に陥るくらゐなら、死んだはうがよからう、と嘲笑はれてゐる声を
きかなければ、知識人の資格はないと思つてゐる。知識人の唯一の長所は自意識であり、自分の滑稽さぐらゐは
弁へてゐなくてはならぬからである。
大学問題は、命を賭けて守れぬやうな思想は思想と呼ぶに値しないといふ、人間と思想とのもつとも重要な
「関係」に目をひらかせた。これは戦後もつとも軽視されてゐた問題であつた。(中略)
知識人はもはや国家有用の材ではありえないし、いはんや反国家有用の材でもありえない、といふ悲惨な現状を
直視して、そこから出発しないことには何もはじまらない。あらゆる有用性有効性の幻想をきつぱり捨て、
「いや、君だつて役に立つんだよ」
といふ甘言に一切耳を貸さず、有用性へのノスタルジアも己惚れも捨てなければならない。と同時に、無用性の
永遠の嘆き節からも訣別せねばならない。
三島由紀夫「新知識人論」より
224 :
名無しさん@社会人:2011/02/17(木) 20:16:34
機動隊導入によつてやつと救はれながら、大学立法反対の面子を捨てかねてゐる、あの教授連の自己冒涜の轍を
踏んではならない。それはもう知識人としてでなく、人間としてダメになつた人たちなのだ。
知識人の任務は、そのデラシネ性を払拭して、日本にとつてもつとも本質的もつとも根本的な「大義」が何かを
問ひつめてゐればよいのである。安保賛成や反対は足下に踏み破り、有用性と無用性を乗りこえた地点で、
ただ精神のもつとも純粋、正義のもつとも正しいものを開顕しようと日夜励んでゐればよいのである。権力も
反権力も見失つてゐる、日本にとつてもつとも大切なものを凝視してゐればよいのである。暗夜に一点の蝋燭の火を
見詰めてゐればよいのである。断固として動かないものを内に秘めて、動揺する日本の、中軸に端座してゐれば
よいのである。私はこの端座の姿勢が、日本の近代知識人にもつとも欠けてゐたものであると思ふ。
三島由紀夫「新知識人論」より
225 :
名無しさん@社会人:2011/02/19(土) 12:18:45
松陰はやはり、日本の根本的な問題、そして忙しい人たちが気がつかない問題、しかし、これをはづれたら
日本が日本でなくなるやうな問題、それだけを考へつめてゐたんだと思ふんです。それだけをあまりに強く考へ
つめたために首切られちやつたんだと思ふんです。わたくしは、精神といふものは、いますぐ役に立たんもんだと
いふことを申し上げました。
わたくしは、自分の書いたものや、いつたものが、いますぐ役に立つたら、かへつてはづかしいといふふうに
考へてをります。ですから、たとへばけふ申し上げたことが、あるひはみなさんのお心のどつかにとまつて、
それが十年後、二十年後に役に立つていただければ、それはありがたいけれども、あつ、三島のいつたことは
おもしろい、ぢや、けふ会社で利用して、つかつてみようかといふやうなことは、わたくしは申し上げたくもないし、
申し上げる立場にもゐないと思ふんです。わたくしは、その、ぢや日本の精神ていふのはなんだ。日本が日本で
あるものはなんだ。これをはづれたら、もう日本でなくなつちやふもんはなんだと。それだけを考へて生きて
いきたいです。
三島由紀夫「現代日本の思想と行動」より
226 :
名無しさん@社会人:2011/02/19(土) 12:20:13
(中略)
そして、いま非常な情報化社会がありますから、精神といふものはテレビに写らない。そしてテレビに写るのは
ノボリや、プラカードや、人の顔です。それからステートメントです。そして人間はみんなステートメントやる
ことによつて、なにかしたやうな気持になつてゐるんです。わたくしは、そこまでいけば、どんなことをやつた
ところで、目に見えない精神にかなはないんぢやないかといふふうに思つてゐるんです。昔のやうに爆弾三勇士、
あるひは特攻隊、ああいふやうなものがあつたときに、はじめてこれはすごい、これはテレビにも写らなかつた、
なにも出なかつたが、これはすごいといふ一点があると思ふんですが、いまテレビに写つてるものは、どんなものが
出てこようが、結局、情報化社会のなかでとかし込まれて、また忘れられ、笑はれ、そして人間の精神体系に
なにものも加へないままで消えていくんぢやないか。
わたくしは、政治自体も非常にさういふ点で危険な場所にゐると思ひますのは、政治もあらゆる場合に
ステートメントだけになつていく。
三島由紀夫「現代日本の思想と行動」より
227 :
名無しさん@社会人:2011/02/19(土) 12:21:57
そのステートメントが情報化社会のなかで、非常なスピードで溶解されて、ちやうどあたかも塵埃処理のやうに、
早くこれをすべて始末しなければ東京中が塵埃でうづまつてしまふ。紙くずでうづまつてしまふ。それで
情報化社会といふものは過剰な情報をどんどん、どんどん処理してゐるんです。この東京といふもの、日本と
いふものは、近代化すればするほど巨大な塵埃焼却炉みたいになつてくる。そのなかで人間はなにをすべきかと
いふことについて、わたくしはなんとか考へていきたいと思ふんですが、その精神が、それぢや、どうして行動に
結びつくか、といひますと、わたくし、やつぱり陽明学の信者なんです。(中略)日本の知識人はいままで、
知つて行なはなかつた人間ばつかりだつた。(中略)
自分の知つてることは、小さなことですが、知つてることだけ行つてみる。行なつてみた結果、失敗するかも
しれません。さういふところで、みなさんにつながる。
三島由紀夫「現代日本の思想と行動」より
228 :
名無しさん@社会人:2011/02/20(日) 12:31:58.82
どうもこの日本人といふのは、防衛といふ問題について、まだ戦争のアレルギーが残つてゐる。すぐ、徴兵制度の
恐怖といふのを考へる。私はこの機会にもはつきり申し上げておきますが、徴兵制度は反対であります。少なくとも
自分の意志に反して兵隊にするといふことは、これからの時代には、私は原理的に不可能なんぢやないかと思ふんです。
そんな兵隊が軍隊にゐたら反戦運動やるに決まつてるし、パンフレットを配るに決まつてるんです。そんな人間で
軍隊が内部崩壊することを恐れるのに比べれば、人数は少なくつてもいいから、やりたいつて奴だけ集めればいい。
それ以外の人間は、もし戦争でも起きたらどういふふうに国に協力できるか。それは各々の軍を持つてやればいい。
各々の軍といふのはどういふことか。その時になつて色んな人間が自衛隊の周りに群がつて来て、「私にも
手伝はせてくれ」つて言はれましても、御飯炊きをする奴がいつぱいゐても困る。普段の平時からそれぞれの
能力に応じて、一旦緩急ある時に協力できる体制を作ればいいぢやないか。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
229 :
名無しさん@社会人:2011/02/20(日) 12:33:53.56
どんなことかと申しますと、例へば自動車の免許であります。(中略)とにかくレジャー時代で、(中略)
今では子供から自動車持つやうになつちやつた。(中略)
私はこのライセンスといふものをですね、全て一種の軍事的な条件付きのライセンスにしたらいいんぢやないかと。
もし日本で戦争が起きた場合には、お前の自動車召し上げるぞ。或ひは、お前、自動車の運転手として徴集するぞ。
さういふ形にして自動車の免許証を取らせることにいたしますと、まあ、中曾根さんのお話では、それは
憲法違反ぢやないか、職業上の自由を阻害することになるぢやないかと言はれましたけれども、プロの運転手に
なるのは別として、今白ナンバーでヨタヨタ走つてゐるのは皆アマチュアで、遊ぶために自動車が欲しいんですから、
「遊びたいと思つたら軍事的義務を負ふ」といふことを日本中あらゆる所にくつつけておけば、その技術が
役に立つ場合が来るんぢやないか。(中略)さうすると日本中に自動車が減つて公害が少なくなつて、非常に
日本はいい国になるんです。どつち転んでもいいことなら、やつた方がいいぢやないか。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
230 :
名無しさん@社会人:2011/02/20(日) 12:35:03.45
また、この新宿なんかいらつしやると、西口に副都心といふものがありますね。あの下の方へずつと入つて
らつしやると、相当な地下街があるんです。あれをどうしてシェルター基準にしないんだ。シェルターといふものは、
一メートル、あるひは一メートル二十位のコンクリート壁がまづ必要条件です。ところが、どの壁も薄くつて
そんなシェルター基準に合ふわけがない。さうしますと、この建築基準の中にですね、シェルター基準をすつと
混じり込ませればいいんです。美濃部さんにも黙つてうまくやれるんです。美濃部さん反対するでせうけど。
さういふふうにちよつとしたことで、基準を設ければ、いくらでも軍事施設といふものに転用ができるんです。
平和時代には、そこでネグリジェだのパンティだの売つてる。そして、戦時になれば、忽ち転換して市民を
とにかく安全な場所へ避難させるシェルターができるんです。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
231 :
名無しさん@社会人:2011/02/20(日) 12:35:55.77
それから、高速道路ですね。あんなねえ、まあ、仮小屋みたいなもの作つてですね、あれは世界銀行から慌てて
金を借りて、オリンピックに間に合はせた一号線なんてのはもうガタが来てる。あんなもの作るくらゐなら、
初めから戦車一個大隊通れるくらゐの建築基準作ればよろしい。今の高速道路では、戦車一個大隊が無事に通れるか
はなはだ危ない。また方々の高速道路でも、まあゲリラかなんかに爆弾しかけられますと、一ヶ所が途切れれば
もう忽ち輸送ができなくなつてしまふ。
さういふ所に平和の時代から軍事的な配慮を入れて、「治に居て乱を忘れず」といふやうなものも、自主防衛の
一つで、国民がレジャーを楽しむ為に何かを我慢する。もう税金取られてるんですから、どうせ。少しぐらゐ
我慢すること、何でもない。さういふ形でギブ・アンド・テイクをやつていかないと、これからの日本はダメだと。
遊びたかつたら、何かちよつと辛いことが一つある。でも、それでも遊びたいつてのは、人間の本性ですから
遊ぶでせう。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
232 :
名無しさん@社会人:2011/02/20(日) 20:45:27.64
(中略)
防衛とちよつと話がはづれますが、ある機動隊へ私は話しに行つたことがある。(中略)私は、この機動隊へ行つて、
機動隊諸君の熱情に非常に打たれた。私は実はおまはりさんてあまり好きぢやないんですけれども、機動隊員は
実に好きだ。といふのは、機動隊員は真つ直ぐに自分の行動に挺身するために身体を張つてゐる。さういふ
行動集団である。かういふ連中は実に気持ちがいい。私は彼等と話して非常にいい気持ちになつた。
ところが、その最後にそこのキャプテンみたいな、ちよつと年輩の人でした、私ぐらゐでせう、それが、私が
あまり話が合ふんで心配になつたんでせう。最後にかういふことを言つた。「えー、ミスマ先生、今のおハナス、
大変結構でしたけれども、どうかこの国民ソクンに誤解されないやうにお願ひしたいと思つてをります」
「誤解されないつて、あなた何を言ひたいんですか」「我々は、ミンススギを、デモクラスィを守るためにやつて
ゐるんで、デモクラスィ、守るのが機動隊だつつうことを忘れないやうにお願ひしたい」
私はその話を聞いて、非常に情けなかつた。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
233 :
名無しさん@社会人:2011/02/20(日) 20:46:31.05
我々はデモクラシー守るために機動隊をやつてるんぢやないんだ。デモクラシーつていふものを、さういふふうに
簡単に考へて使ふ、そして、さういふふうな形でもつて機動隊といふものを教育してる。機動隊諸君には可哀想だ
けれども、諸君、デモクラシー守るためにどうしてそんな血を流すんだと。デモクラシーは外国からやつてきて、
外国の占領軍が日本に押しつけて去つた、何かはかない根無し草ぢやないか。
それも日本ていふのは、デモクラシーの良いところを明治時代からうんと認めてですね、徐々に徐々に国民の力で、
普通選挙法の成立まで、国民同士が血を流しながら作つてきたんだ。その中で政治制度にいろんな欠点はあつた
けれども、日本なりに一番日本人に適した形の民主主義を作らうと思つて、営々として努力してきたんだ。
それが、戦争に負けて一時御破算になつたけれども、そこの上に接木されたやうな、全くのアメリカのデモクラシー、
日本の風土に何も根ざさないやうな外国から来たデモクラシーを、何で守らなきやならんのだ。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
234 :
名無しさん@社会人:2011/02/20(日) 20:47:36.63
日本人は日本人に一番適した政治制度を、我々の力で作つていくのが本当ぢやないか。外国から押しつけられた
ものをただ守るために、その武装集団が居てくれたつてしやうがないんだ。我々は外国人のお陰で生きてゐるつて
いふよりも、日本人なんだといふやうな反感を、私は感じたことがあるんです。
それと同じやうなことで、自衛隊も、デモクラシーを守るといふやうぢや困る。自衛隊が国連憲章の精神に忠実で
あることはいいんです。しかし、それは結局デモクラシーの方向において国連に繋がるだけであつて、本当に
国民精神の自発的な要求によつて国連に繋がるんぢやなければ、本当は意味がないんです。
その自発的な国民の意志といふものは国民精神からしか生まれない。しかも、その国民精神といふものがですね、
今、目前の色んな政治的事象の中にある、単なる政治化、国際協調主義から生まれるものぢやなくて、日本といふ
ものに対する本当の自信から生まれるものである。その自信は何かといふと、あくまでも文化価値、精神的価値で
あつて、政治的価値ではない。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
235 :
名無しさん@社会人:2011/02/21(月) 11:46:01.65
国民精神といふものは、歴史と伝統と文化との誇りから自然に生まれてくるものである。外国から押しつけられた
教育で、国民の誇りをなくすやうな方向へ日本を持つて行きながら、さうして国民精神を自ら崩壊させる方向へ
持つて行きながら、何をもつてさういふものを基盤にした防衛といふものが成り立ちうるか。
それで、私はまたしても憲法の問題に戻つてくるんです。私共のやうな人間が絶えず憲法を改正しろと言つて
ゐなければ、もう憲法改正の気運は永久にどつかへ消えてしまふでありませう。私はあの敗戦憲法を敗戦の日本に
残した、この傷跡をですね、なんとかして改善しなけりやならんといふことを永年考へてきたんです。しかし、
我々がいくら言つてもダメだといふやうな悲しい事態になつたのに、国民はそれについて憲法改正できないと
いふことは、何を意味するんだといふことを考へないできたんです。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
236 :
名無しさん@社会人:2011/02/21(月) 11:47:14.83
それでは憲法改正すりや、ファッショになるだらうか。これが非常に問題なんですね。ナチスはワイマール憲法を
改正してないのは、皆さんご存知と思ふんです。ナチスはたうとう憲法改正事業つていふことを、やつてないんです。
そして、全権授権法つていふのを成立させたのは、ワイマール憲法下で成立させたんです。あくまで平和憲法下で
ナチズムといふものは出てきたんです。この事実、歴史的な事実をよく知らない人間は、憲法改正すれば
ファシズムになる、ナチズムになると言ふんです。
ところが、ファシズムやナチズムになりたかつたら、憲法を変へる必要がないんです。そして、国家の根本の
精神といふものを作り直すには、何もそんな難しいことをやらなくたつていいんだつてことを、だんだんと
分かつてきてるのかどうかといふことを、私は非常に疑問に思つてきたわけであります。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
237 :
名無しさん@社会人:2011/02/21(月) 12:23:28.11
(中略)
今この危機感が全然ないといふやうな時代になつてきて、今、世界中で一番呑気なのは日本かもしれないんですが、
日本に果たして、かういふ危機がもし生じた場合、対処するやうな大きな精神的基盤があるだらうか。いや、
日本人は大丈夫だ、日本人といふのは放つておいても、いざといふ時にやるさ。ところが、放つておくうちにですね、
お腹の脂肪が一センチづつだんだんだんだん膨らんでくるのが、皆さんの体験的事実としてご存じだと思ふんです。
そして、人間といふのは豚になる傾向もつてゐるんです。
私は今日人間だと思つても、明日自分が豚になるかもしれないといふ恐怖でいつも生きてきた。やつぱり豚に
ならないためには、そして脂肪が蓄積しないためには、絶えず精神を研ぎすまし、例へば日本刀を毎日磨くやうに、
磨いていかなきや人間てのはダメになると。日本人はその一日一日ダメになつていくといふことに気がつかないんぢや
ないか。さう思つてまゐりますと、今の世界情勢といひますか、この国際戦略上の日本といふ国の難しさといふ
ものが、だんだんに分かつてくるのであります。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
238 :
名無しさん@社会人:2011/02/21(月) 12:24:21.50
(中略)
我々は国際戦略といふものの、一番渦が渦巻いてゐる日本といふ国にゐるんです。日本ていふ国はあたかも
実験室のやうなものです。ベトナムのやうな激しい戦争は戦はれてはゐないけれども、国民の心の一つ一つの
中にですね、さういふ二つの大きな勢力の渦が、どつちが勝つかといふ形で忍び込んできてゐる。その忍び込み方は
非常に巧妙で、騙されやすい。
(中略)
そして、日本ていふ国はですね、天皇陛下を中心にして、まあ、千年以上、二千年近い歴史を、とにかく
日本人独特のやり方によつて生きてきたんです。これが、日本といふものの大事な点であつて、それをどつか
棚の上に上げておいて、ヒューマニズムだとか、国連中心主義だとか、やれ平和尊重だとか、やれ民主主義擁護だとか
言つてみたところで、私は共産戦略に勝つことは絶対にできないと固く信じてゐるんです。
その日本人てことが、防衛の問題になつてどう出てくるか。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
239 :
名無しさん@社会人:2011/02/21(月) 12:25:12.32
これは、防衛問題で一番難しいところで、うつかり日本人、日本人て言ひ過ぎると、また、軍国主義復活なんて
外国の新聞で叩かれちやふ。だから、さうも言へない。お前、自分で防衛を論ずる場合、何が一番大事だと思ふんだ、
日本を守ることであるつて言ふと、今や多少モンロー主義的になりつつあるアメリカはどう言ふか。よしやつてくれ。
頼もしい。諸君、是非自分で自分の国を守つてくれつて言ふでせう。
(中略)まあ、左翼側に言はせれば、アジア人をしてアジア人と戦はしめよといふやうなのが、アメリカ側の
軍事政策であると言はれてゐる。(中略)
我々は何もそのアメリカのおかげでもつて、民族同士、よその民族主義と戦ふ気持ちは毛頭ない。我々はただ、
日本といふものを守り、せつかく日本といふ国があるのに、それを侵さうとする勢力から守らうとしてゐるに
過ぎない。ただ、その日本人の守らうとする自主防衛の努力と、向うが、よし自分たちでやつてくれといふ
気持ちとは、本当にすつきりと合ふ時があるかどうかは、私は非常に疑問に思ふんです。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
240 :
名無しさん@社会人:2011/02/21(月) 12:26:13.20
日本はアメリカに反抗して生きることはできません、悲しいながら。しかしながら、アメリカの何も手下になつて、
ただかつかつと、まあ残り物をもらつて生きるといふのもプライドが許さない。(中略)自分たちの力でですね、
日本が日本を守るといふことがどういふことかと、その一番現実的であると同時に理念的精神的な問題を、
突つ込んで突つ込んで突つ込まなきやいかん。
で、その基盤になる国民精神とは何であるか、日本の国体とは何だ、国柄とは何だ、さういふものをよおく
突つ込んで考へることが、防衛といふものの一番の問題であつて、さういふことを抜きにしてですね、この次の
ファントムが一機幾らだから税金をどれくらゐ取られるとか、そんなことは何億円、何十億円かからうとも、
末の末の問題だと私は思つてゐる。何よりも、その精神の価値といふものを自分の中に認識したいと、これが
私の今日のお話で、結論になります。
三島由紀夫「我が国の自主防衛について」より
241 :
名無しさん@社会人:2011/02/25(金) 16:43:37.91
十年前の東京では、左翼と右翼の分れ目ははつきりしてゐた。平和憲法を守れ、といふスローガンを人生の
何ものよりも大切にし、政府のやることはすべて戦争へ一歩一歩国民を狩り立てることだと主張し、子供に戦車や
軍用機の玩具を買つてやることを拒否し、横文字の本をよく読みこなし、岩波書店と何らかの関係があり、
すこし甲高いなめらかな声で話し、にこやかで紳士的で、いささか植物的で、暴力には一ぺんで砕かれてしまふ
やうな肉体、ひどく肥つてゐるか、ひどく痩せてゐるかした肉体を持ち、眼鏡をかけ、ベレエ帽をかぶり、
その両わきから白髪が耳の上に垂れ、軽井沢に小さい別荘を持ち、決して冷静を失はないやうに見える紳士は、
みな左翼だつた。(中略)
右の如き左翼人は、多くは国立大学の教授たちで、一流新聞や一流出版社の論説欄を支配し、政府から月給を
もらひながら、一方ではその反政府的論説によつて、左派のジャーナリズムから稿料を支払はれ、しかも大学の
中では、封建的君主そのままで、権力主義を押し通してゐた。
三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より
242 :
名無しさん@社会人:2011/02/25(金) 16:44:03.75
これが新左翼の攻撃するところとなり、そのもつとも喜劇的な一例としては、次のやうなのがある。或る有名な
左派の政治学者は、戦後二十年、ファシズムと軍国主義以上に悪いものはないと主張する政治学で人気を得てゐたが、
新左翼の学生に研究室を荒らされ、頭をポカリとなぐられたとき、「ファシストもこれほど暴虐でなかつた。
軍閥でさへ研究室まで荒らさなかつた」と叫んだ。二十年間彼が描きつづけた悪魔以上の悪魔が、他ならぬ彼の
学説上の弟子の間から現はれたといふわけだ。
日本民族の独立を主張し、アメリカ軍基地に反対し、安保条約に反対し、沖縄を即時返還せよ、と叫ぶ者は、
外国の常識では、ナショナリストで右翼であらう。ところが日本では、彼は左翼で共産主義者なのである。
十八番のナショナリズムをすつかり左翼に奪はれてしまつた伝統的右翼の或る一派は、アメリカの原子力空母
エンタープライズ号の寄港反対の左翼デモに対抗するため、左手にアメリカの国旗を、右手に日本の国旗を持つて
勇んで出かけた。これではまるでオペラの舞台のマダム・バタフライの子供である。
三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より
243 :
名無しさん@社会人:2011/02/25(金) 16:44:24.24
(中略)
私は暴力の支配する大学に招かれて、ラジカル・レフティストの学生たちと論争したが、かれらは誇張した
言語表現では伝統的支那風であり、人民裁判方式の愛好者たる点では現代共産中国風であり、日本の伝統否定では
インターナショナリストであり、テロリズム肯定では日本のサムラヒ風右翼風であり、論理愛好癖では西欧風であり、
しかもすべて共産主義者を以て自認してゐた。
日本のヤクザ映画と称する特殊な映画は、伝統的アウトローの世界を描き、古い日本的メンタリティーを押し売りし、
感傷主義とヒロイズム、暴力肯定と非論理性において、もつとも右翼的日本的心情主義に愬(うつた)へるものとして、
左翼文化人が頭から軽蔑してきたものであるが、その日本型ジョン・ウェインは学生たちのアイドルになり、
左派の学生は暴力デモに出かける前夜、必ずこの種の映画を見に行つて、熱情を心に充填するのである。
次第次第に日本では、誰が右翼、誰が左翼と簡単にレッテルを貼ることがむづかしくなつてきた。
三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より
244 :
名無しさん@社会人:2011/02/25(金) 16:44:51.74
イデオロギーの相互循環作用が起り、極端な右と極端な左が近づくかと思ふと、現在穏健な議会主義的革命を
主張してゐる偽善的な日本共産党が、大学問題などで、政府自民党と利害を等しくするやうになつたりしてゐる。(中略)
かういふややこしいイデオロギーの循環作用は、日本で百数十年前に起つた現象とよく似てゐる。明治維新前の
日本には、四つのイデオロギーが、四つ巴になつてゐた。すなはち、佐幕、開国、尊皇、攘夷である。(中略)
尊皇開国、佐幕攘夷、尊皇佐幕、(さすがに開国攘夷だけはなかつたが)、などといふ各派があらはれ、しかも
この各派を、短期間に廻りあるく人間まであらはれた。そして明治維新の大変革によつて成立した新政府は、
はつきり「尊皇開国」のイデオロギーをかかげて、統一国家を形成したのである。
(中略)しかし日本の歴史が証明するところによると、日本といふ国は決して内発的な革命を敢行しない国であつて、
必ず日本に起るのは、外発的な革命、すなはち外国の軍事的政治的経済的思想的な衝撃力によつて、やむをえず
起された革命なのである。
三島由紀夫「STAGE-LEFT IS RIGHT FROM AUDIENCE」より
245 :
名無しさん@社会人:2011/02/26(土) 11:03:57.21
ニ・ニ六事件を肯定するか否定するか、といふ質問をされたら、私は躊躇なく肯定する立場に立つ者であることは、
前々から明らかにしてゐるが、その判断は、日本の知識人においては、象徴的な意味を持つてゐる。すなはち、
自由主義者も社会民主主義者も社会主義者も、いや、国家社会主義者ですら、「ニ・ニ六事件の否定」といふところに、
自分たちの免罪符を求めてゐるからである。この事件を肯定したら、まことに厄介なことになるのだ。現在只今の
政治事象についてすら、孤立した判断を下しつづけなければならぬ役割を負ふからである。
もつとも通俗的普遍的なニ・ニ六事件観は、今にいたるまで、次のやうなジャーナリストの一行に要約される。
「ニ・ニ六事件によつて軍部ファッショへの道がひらかれ、日本は暗い谷間の時代に入りました」
三島由紀夫「二・二六事件について」より
246 :
名無しさん@社会人:2011/02/26(土) 11:04:18.50
二・二六事件は昭和史上最大の政治事件であるのみでない。昭和史上最大の「精神と政治の衝突」事件であつた
のである。そして精神が敗れ、政治理念が勝つた。幕末以来つづいてきた「政治における精神的なるもの」の底流は、
ここに最もラディカルな昂揚を示し、そして根絶やしにされたのである。
勝つたのは、一時的に西欧的立憲君主政体であり、つづいて、これを利用した国家社会主義(多くの転向者を
含むところの)と軍国主義とのアマルガムであつた。私は皇道派と統制派の対立などといふ、言ひ古されたことを
言つてゐるのではない。血みどろの日本主義の刀折れ矢尽きた最期が、私の目に映る二・二六事件の姿であり、
北一輝の死は、このつひにコミットしえなかつた絶対否定主義の思想家の、巻添へにされた、アイロニカルな死に
すぎなかつた。
三島由紀夫「二・二六事件について」より
247 :
名無しさん@社会人:2011/02/26(土) 11:04:42.56
二・二六事件を非難する者は、怨み深い戦時軍閥への怒りを、二・二六事件なるスケイプ・ゴートへ向けてゐるのだ。
軍縮会議以来の軟弱な外交政策の責任者、英米崇拝者であり天皇の信頼を一身に受けてゐた腰抜け自由主義者
幣原喜重郎の罪過は忘れられてゐる。この人こそ、昭和史上最大の「弱者の悪」を演じた人である。又、
世界恐慌以来の金融政策・経済政策の相次ぐ失敗と破綻は看過されてゐる。誰がその責任をとつたのか。政党政治は
腐敗し、選挙干渉は常態であり、農村は疲弊し、貧富の差は甚だしく、一人として、一死以て国を救はうとする
大勇の政治家はなかつた。
戦争に負けるまで、さういふ政治家が一人もあらはれなかつたことこそ、二・二六事件の正しさを裏書きしてゐる。
青年が正義感を爆発させなかつたらどうかしてゐる。
しかも、戦後に発掘された資料が明らかにしたところであるが、このやうな青年のやむにやまれぬ魂の奔騰、
正義感の爆発は、つひに、国の最高の正義の容認するところとならなかつた。魂の交流はむざんに絶たれた。
三島由紀夫「二・二六事件について」より
248 :
名無しさん@社会人:2011/02/26(土) 11:05:03.41
もつとも悲劇的なのは、この断絶が、死にいたるまで、青年将校たちに知られなかつたことである。そして
この錯誤悲劇のトラーギッシュ・イロニーは、奉勅命令下達問題において頂点に達する。奉勅命令は握りつぶされて
ゐたのだつた。
二・二六事件は、戦術的に幾多のあやまりを犯してゐる。その最大のあやまりは、宮城包囲を敢へてしなかつた
ことである。北一輝がもし参加してゐたら、あくまでこれを敢行させたであらうし、左翼の革命理論から云へば、
これはほとんど信じがたいほどの幼稚なあやまりである。しかしここにこそ、女子供を一人も殺さなかつた義軍の、
もろい清純な美しさが溢れてゐる。この「あやまり」によつて、二・二六事件はいつまでも美しく、その精神的価値を
永遠に歴史に刻印してゐる。皮肉なことに、戦後二・二六事件の受刑者を大赦したのは、天皇ではなくて、
この事件を民主主義的改革と認めた米占領軍であつた。
三島由紀夫「二・二六事件について」より
249 :
名無しさん@社会人:2011/02/26(土) 11:36:29.81
二・二六事件によつて青年将校に裏切られたことも、北一輝は初めから覚悟してゐたことかもしれない。日蓮宗の
予言による決行日時の決定や、さまざまな神秘主義のひらめきは、フランス革命当時のジャコバン党員が、
フリー・メーソンのご託宣を仰ぐためにスコットランドの本部に参詣したのと大した変りはない。革命には
神秘主義がつきものであり、人間の心情の中で、あるパッションを呼び起こす最も激しい内的衝動は、同時に
現実打破と現実拒否の冷厳な、ある場合には冷酷きはまる精神と同居してゐるのである。
(中略)
遠くチェ・ゲバラの姿を思ひ見るまでもなく、革命家は、北一輝のやうに青年将校に裏切られ、信頼する部下に
裏切られなければならない。裏切られるといふことは、何かを改革しようとすることの、ほとんど楯の両面である。
なぜならその革命の理想像を現実が絶えず裏切つていく過程に於て、人間の裏切りは、そのやうな現実の裏切りの
一つの態様にすぎないからである。
三島由紀夫「北一輝論――『日本改造法案大綱』を中心として」より
250 :
名無しさん@社会人:2011/02/26(土) 11:36:59.84
革命は厳しいビジョンと現実との争ひであるが、その争ひの過程に身を投じた人間は、ほんたうの意味の人間の
信頼と繋りといふものの夢からは、覚めてゐなければならないからである。一方では、信頼と同志的結合に
生きた人間は、論理的指導と戦術的指導とを退けて、自ら最も愚かな結果に陥ることをものともせず、銃を
持つて立上り、死刑場への道を真つ直ぐに歩むべきなのであつた。もし、北一輝に悲劇があるとすれば、覚めて
ゐたことであり、覚めてゐたことそのことが、場合によつては行動の原動力になるといふことであり、これこそ
歴史と人間精神の皮肉である。そしてもし、どこかに覚めてゐる者がゐなければ、人間の最も陶酔に充ちた行動、
人間の最も盲目的行動も行なはれないといふことは、文学と人間の問題について深い示唆を与へる。その覚めて
ゐる人間のゐる場所がどこかにあるのだ。もし、時代が嵐に包まれ、血が嵐を呼び、もし、世間全部が理性を
没却したと見えるならば、それはどこかに理性が存在してゐることの、これ以上はない確かな証明でしかないのである。
三島由紀夫「北一輝論――『日本改造法案大綱』を中心として」より
251 :
名無しさん@社会人:2011/03/01(火) 14:29:50.51
私はごく最近、「諸君!」七月号で、貴兄と高坂正尭氏の対談「自民党ははたして政党なのか」を読みました。
そして、はたと、これは士道にもとるのではないかといふ印象が私を搏ちました。私は何も自民党の一員では
ありませんし、この政党には根本的疑問を抱いてゐます。しかし社会党だらうと、民社党だらうと、士道といふ
点では同じだといふのが私の考へです。
実はこの対談の内容、殊に貴兄の政治的意見については、自民党のあいまいな欺瞞的性格、フランス人の記者が
いみじくも言つたやうに「単独政権ではなくそれ自体が連立政権」に他ならない性格、又、核防条約に対する態度、
等、ほとんど同感の意を表せざるをえないことばかりです。
貴兄に言はせれば、三島が士道だなどと何を言ふか、士道がないからこそ多数を擁して存立してゐる自民党なのだ、
といふことになるかもしれません。しかし、「ウエスト・サイド・ストーリイ」の不良少年の歌ではないが、
すべてを社会の罪とし、自分らの非行をも社会学的病気だと定義するとき、個人の責任と決断は無限に融解してしまふ。
三島由紀夫「士道について――石原慎太郎氏への公開状」より
252 :
名無しさん@社会人:2011/03/01(火) 14:30:15.97
現代社会自体が、自民党のこの無性格と照応してゐることは、そこにこそ自民党の存立の条件があるといへるで
せうし、坂本二郎氏などはそんな意見のやうです。
しかし、貴兄が自民党に入られたのは、そのやうな性格を破砕するためだつた筈です。私はこの対談を二度読み
返してみて、貴兄がさういふ反党的(!)言辞を弄されること自体が、中共使節の古井氏のおどろくべき反党的
言辞までも、事もなげに併呑する自民党的体質のお蔭を蒙つてゐる、といふ喜劇的事実に気づかざるをえませんでした。
貴兄が自民党の参院議員でありながら、ここまで自民党をボロクソに仰言る、ああ石原も偉いものだ、一方それを
笑つて眺めてゐる佐藤総理も偉いものだ。いやはや。これこそ正に、貴兄が攻撃される自民党の、「政党といふ
ものの本体は、欺瞞でしかないといふことを、政党としての出発点から自分にいひ聞かせてゐるやうなところ」
そのものではありませんか。
三島由紀夫「士道について――石原慎太郎氏への公開状」より
253 :
名無しさん@社会人:2011/03/01(火) 14:31:05.74
私の言ひたいのは、内部批判といふことをする精神の姿勢の問題なのです。この点では磯田光一氏のいふやうに、
少々スターリニスト的側面を持つ私は、小うるさいことを言ひます。党派に属するといふことは、(それが
どんなに堕落した党派であらうと)、わが身に一つのケヂメをつけ、自分の自由の一部をはつきり放棄することだと
私は考へます。
なるほど言論は自由です。行動に移されない言論なら、無差別に容認され、しかも大衆社会化のおかげで、
赤も黒も等しなみにかきまぜられ、結局、あらゆる言論は、無害無効無益なものとなつてゐるのが現況です。
ジャーナリズムの舞台で颯爽たる発言をして、一夕の興を添へることは、何も政治家にならなくても、われわれで
十分できることです。もちろん貴兄が政治の実際面になかなか携はれぬ欲求不満から、言論の世界で憂さ晴らしを
されてゐるといふ心情もわからぬではありません。
三島由紀夫「士道について――石原慎太郎氏への公開状」より
254 :
名無しさん@社会人:2011/03/01(火) 14:31:46.09
では、何のために貴兄は政界へ入られたか? 貴兄を都知事候補にすることに、ほとんどの自民党議員が反対し、
年功序列が狂ふのを心配してゐる、と貴兄は言はれるが、もともと文壇のやうな陰湿な女性的世界をぬけ出して、
権力争奪と憎悪と復讐が露骨に横行する政界に足を踏み入れた貴兄にとつては、そんなことは覚悟の前であつた
筈です。
私は貴兄のみでなく、世間全般に漂ふ風潮、内部批判といふことをあたかも手柄のやうにのびやかにやる風潮に
怒つてゐるのです。貴兄の言葉にも苦渋がなさすぎます。男子の言としては軽すぎます。
昔の武士は、藩に不平があれば諫死しました。さもなければ黙つて耐へました。何ものかに属する、とはさういふ
ことです。もともと自由な人間が、何ものかに属して、美しくなるか醜くなるかの境目は、この危ない一点にしか
ありません。
私は政治のダイナミズムとは、政治的権威と道徳的権威の闘争だと考へる者です。これは力と道理の闘争だと
考へてもよいでせう。
三島由紀夫「士道について――石原慎太郎氏への公開状」より
255 :
名無しさん@社会人:2011/03/01(火) 14:32:10.71
この二つはめつたに一致することがないから相争ふのだし、争つた結果は後者の敗北に決つてゐますが、歴史が
永い歳月をかけてその勝敗を逆転させるのだ、と信ずる者です。もちろん楽天的な貴兄の理想は、この力と道理を
自らの手で一致させるところにあるのでせうし、悲観的な小生の行蔵は、道理の開顕にしかありません。しかし
今のところ貴兄の言説には、悲しいかな、その政治的権威も道徳的権威も、二つながら欠けてゐます。貴兄に
言はせれば、すべては自民党が悪いのでせうが、どうもこの欠如は、貴兄のケヂメを軽んずる姿勢に由来する
やうに思へてなりません。W・H・オーデンは、「第二の世界」の中で、「文学者が真実を言うために一身を
危険にさらしているという事実が、彼に道徳的権威を与える」と言つてゐますが、これは政治家でも同じことです。
「士道すでにみちたる上は、節によるこそよけれ」と、斎藤正謙が「士道要論」で言つてゐる「士節」とは、
この道徳的権威の裏附をなすものでもありませう。
三島由紀夫「士道について――石原慎太郎氏への公開状」より
256 :
名無しさん@社会人:2011/03/07(月) 20:41:46.21
或る小説がそこに存在するおかげで、どれだけ多くの人々が告白を免かれてゐることであらうか。それと同時に、
小説といふものが存在するおかげで、人々は自分の内の反社会性の領域へ幾分か押し出され、そこへ押し出された以上、
もちろん無記名ではあるが、リスト・アップされる義務を負ふことになる。社会秩序の隠密な再編成に同意する
ことになるのである。
このやうな同意は本来ならば、きびしい倫理的決断である筈だが、小説の読者は、同意によつて何ら倫理的責任を
負はないですむといふ特典を持つてゐる。その点は芝居の観客も同様だが、小説が芝居とちがふ点は、もし単なる
享受が人生における倫理的空白を容認することであれば、いくらでも長篇でありうる小説といふジャンルは、
芝居よりもずつと長時間にわたつて、読者の人生を支配するので、(あらゆる時間芸術のうちで、長篇小説は
いちばん人生経験によく似たものを与へるジャンルである)、人々は次第に、その倫理的空白に不安になつて、
つひに自分の人生に対するのと同じ倫理的関係を、小説に対して結ぶにいたることがないではない。
三島由紀夫「小説とは何か 一」より
世間一般では、小説家こそ人生と密着してゐるといふ迷信が、いかにひろく行はれてゐることだらう。何よりも
それを怖れて小説家になつた彼であるのに! 私がいつもふしぎに思ふのは、小説家がしたり気な回答者として、
新聞雑誌の人生相談の欄に招かれることである。それはあたかも、オレンヂ・ジュースしか呑んだことのない人間が、
オレンヂの樹の栽培について答へてゐるやうなものだ。
人生に対する好奇心などといふものが、人生を一心不乱に生きてゐる最中にめつたに生れないものであることは、
われわれの経験上の事実であり、しかもこの種の関心は人生との「関係」を暗示すると共に、人生における
「関係」の忌避をも意味するのである。小説家は、自分の内部への関係と、外部への関係とを同一視する人種で
あつて、一方を等閑視することを許さないから、従つて人生に密着することができない。人生を生きるとは、
いづれにしろ、一方に目をつぶることなのである。
三島由紀夫「小説とは何か 二」より
258 :
名無しさん@社会人:2011/03/07(月) 20:48:33.09
一面からいへば、神は怠けものであり、ベッドに身を横たへた駘蕩たる娼婦なのだ。働らかされ、努力させられ、
打ちのめされるのは、いつも人間の役割である。小説はこの怖ろしい白昼の神の怠惰を、そのまま描き出すことは
できない。小説は人間の側の惑乱を扱ふことに宿命づけられたジャンルである。そして神の側からわづかに
描くことができるのは、人間(息子)の愚かさに対する、愛と知的焦燥の入りまじつた微かな絶望の断片のみで
あらう。神は熱帯の泥沼に居すわつた河馬のやうだ。
「お前の母親は泥沼の中でしか落着けないのよ」
人間の神の拒否、神の否定の必死の叫びが、実は「本心からではない」ことをバタイユは冷酷に指摘する。
その「本心」こそ、バタイユのいはゆる「エロティシズム」の核心であり、ウィーンの俗悪な精神分析学者などの
遠く及ばぬエロティシズムの深淵を、われわれに切り拓いてみせてくれた人こそバタイユであつた。
三島由紀夫「小説とは何か 七」より
259 :
名無しさん@社会人:2011/03/09(水) 13:09:53.79
バルザックが病床で自分の作中の医者を呼べと叫んだことはよく知られてゐるが、作家はしばしばこの二種の現実を
混同するものである。しかし決して混同しないことが、私にとつては重要な方法論、人生と芸術に関するもつとも
本質的な方法論であつた。(中略)
私のやうな作家にとつては、書くことは、非現実の霊感にとらはれつづけることではなく、逆に、一瞬一瞬自分の
自由の根拠を確認する行為に他ならない。その自由とはいはゆる作家の自由ではない。私が二種の現実のいづれかを、
いついかなる時点においても、決然と選択しうるといふ自由である。この自由の感覚なしには私は書きつづける
ことができない。選択とは、簡単に言へば、文学を捨てるか、現実を捨てるか、といふことであり、その際どい
選択の保留においてのみ私は書きつづけてゐるのであり、ある瞬間における自由の確認によつて、はじめて
「保留」が決定され、その保留がすなはち「書くこと」になるのである。この自由抜き選択抜きの保留には、
私は到底耐へられない。
三島由紀夫「小説とは何か 十一」より
260 :
名無しさん@社会人:2011/03/09(水) 13:11:02.48
「暁の寺」を脱稿したときの私のいひしれぬ不快は、すべてこの私の心理に基づくものであつた。何を大袈裟なと
言はれるだらうが、人は自分の感覚的真実を否定することはできない。すなはち、「暁の寺」の完成によつて、
それまで浮遊してゐた二種の現実は確定せられ、一つの作品世界が完結し閉ぢられると共に、それまでの作品外の
現実はすべてこの瞬間に紙屑になつたのである。私は本当のところ、それを紙屑にしたくなかつた。それは私に
とつての貴重な現実であり人生であつた筈だ。しかしこの第三巻に携はつてゐた一年八ヶ月は、小休止と共に、
二種の現実の対立・緊張の関係を失ひ、一方は作品に、一方は紙屑になつたのだつた。それは私の自由でもなければ、
私の選択でもない。作品の完成といふものはさういふものである。それがオートマティックに、一方の現実を
「廃棄」させるのであり、それは作品が残るために必須の残酷な手続である。
三島由紀夫「小説とは何か 十一」より
261 :
名無しさん@社会人:2011/03/09(水) 13:12:17.08
私はこの第三巻の終結部が嵐のやうに襲つて来たとき、ほとんど信じることができなかつた。それが完結することが
ないかもしれない、といふ現実のはうへ、私は賭けてゐたからである。この完結は、狐につままれたやうな
出来事だつた。「何を大袈裟な」と人々の言ふ声が再びきこえる。作家の精神生活といふものは世界大に大袈裟な
ものである。
(中略)
しかしまだ一巻が残つてゐる。最終巻が残つてゐる。「この小説がすんだら」といふ言葉は、今の私にとつて
最大のタブーだ。この小説が終つたあとの世界を、私は考へることができないからであり、その世界を想像することが
イヤでもあり怖ろしいのである。そこでこそ決定的に、この浮遊する二種の現実が袂を分ち、一方が廃棄され、
一方が作品の中へ閉ぢ込められるとしたら、私の自由はどうなるのであらうか。唯一ののこされた自由は、その
作品の「作者」と呼ばれることなのであらうか。あたかも縁もゆかりもない人からたのまれて、義理でその人の子の
名付け親になるやうに。
三島由紀夫「小説とは何か 十一」より
262 :
名無しさん@社会人:2011/03/09(水) 13:13:33.84
(中略)
吉田松陰は、高杉晋作に宛てたその獄中書簡で、
「身亡びて魂存する者あり、心死すれば生くるも益なし、魂存すれば亡ぶるも損なきなり」
と書いてゐる。
この説に従へば、この世には二種の人間があるのである。心が死んで肉体の生きてゐる人間と、肉体が死んで
心の生きてゐる人間と。心も肉体も両方生きてゐることは実にむづかしい。生きてゐる作家はさうあるべきだが、
心も肉体も共に生きてゐる作家は沢山はゐない。作家の場合、困つたことに、肉体が死んでも、作品が残る。
心が残らないで、作品だけが残るとは、何と不気味なことであらうか。又、心が死んで、肉体が生きてゐるとして、
なほ心が生きてゐたころの作品と共存して生きてゆかねばならぬとは、何と醜怪なことであらう。作家の人生は、
生きてゐても死んでゐても、吉田松陰のやうに透明な行動家の人生とは比較にならないのである。生きながら
魂の死を、その死の経過を、存分に味はふことが作家の宿命であるとすれば、これほど呪はれた人生もあるまい。
「何を大袈裟な」と笑ふ声が三度きこえる。
三島由紀夫「小説とは何か 十一」より
263 :
名無しさん@社会人:2011/03/09(水) 19:50:17.54
ドストエフスキーの「罪と罰」を引張り出すまでもなく、本来、芸術と犯罪とは甚だ近い類縁にあつた。
「小説と犯罪とは」と言ひ直してもよい。小説は多くの犯罪から深い恩顧を受けてをり、「赤と黒」から
「異邦人」にいたるまで、犯罪者に感情移入をしてゐない名作の数は却つて少ないくらゐである。
それが現実の犯罪にぶつかると、うつかり犯人に同情しては世間の指弾を浴びるのではないか、といふ思惑が
働らくやうでは、もはや小説家の資格はないと云つてよいが、さういふ思惑の上に立ちつつ、世間の金科玉条の
ヒューマニズムの隠れ簑に身を隠してものを言ふのは、さらに一そう卑怯な態度と云はねばならない。そのくらゐなら
警察の権道的発言に同調したはうがまだしもましである。
さて、犯罪は小説の恰好の素材であるばかりでなく、犯罪者的素質は小説家的素質の内に不可分にまざり合つてゐる。
なぜならば、共にその素質は、蓋然性の研究に秀でてゐなければならぬからであり、しかもその蓋然性は法律を
超越したところにのみ求められるからである。
三島由紀夫「小説とは何か 十二」より
264 :
名無しさん@社会人:2011/03/09(水) 19:51:30.95
法律と芸術と犯罪と三者の関係について、私はかつて、人間性といふ地獄の劫火の上の、餅焼きの網の比喩を
用ひたことがあるが、法律はこの網であり、犯罪は網をとび出して落ちて黒焦げになつた餅であり、芸術は適度に
狐いろに焼けた喰べごろの餅である、と説いたことがあつた。いづれにしても、地獄の劫火の焦げ跡なしに、
芸術は成立しない。
(中略)
悪は、抽象的な原罪や、あるひは普遍的な人間性の共有の問題であるにとどまらない。きはめて孤立した、
きはめて論証しにくい、人間性の或る未知の側面に関はつてゐる筈である。私はアメリカで行はれた凶悪暴力犯人の
染色体の研究で、男性因子が普通の男よりも一個多い異型が、これらの中にふつうよりもはるかに多数発見されたと
いふ記事を読んだとき、戦争といふもつとも神秘な問題を照らし出す一つの鍵が発見されたやうな気がした。
それは又裏返せば、男性と文化創造との関係についても、今までにない視点を提供する筈である。
三島由紀夫「小説とは何か 十二」より
265 :
名無しさん@社会人:2011/03/10(木) 00:03:59.71
文学と狂気との関係は、文学と宗教との関係に似たところがある。ヘルダーリンの狂気も、ジェラアル・ド・
ネルヴァルの狂気も、ニイチェの狂気も、ふしぎに昂進するほど、一方では極度に孤立した知性の、澄明な高度の
登攀(とうはん)のありさまを見せた。何か酸素が欠乏して常人なら高山病にかかるに決まつてゐる高度でも、
平気で耐へられるやうな力を、(ほんの短かい期間ではあるが)、狂気は与へるらしいのである。
(中略)
分裂病の進行が、往々あるやうに、殺人や自殺に終つても、それを厳密な意味でクライマックスと呼ぶことは
できないであらう。こちら側から見れば、危険な反社会性の現実化であり、一つの社会事件としてのクライマックスで
あつても、向う側から見れば、さらに進行する経過の上の偶発的事件であるにすぎないからである。
(中略)
しかるに、狂気は、その進行過程において、つひに必然的クライマックスを持たない。必然的クライマックスとは
「物化」「自己物質化」であつて、常人の側からは「死」と同じことである。
三島由紀夫「小説とは何か 十三」より
266 :
名無しさん@社会人:2011/03/10(木) 00:05:09.14
狂人の自殺は二重の意味を持つ。すなはち、自己物質化を狂気が達成しうるのに、さらに死によつてその達成を
助けることだからである。一方、狂人の殺人は、その反社会性によつて社会とは一見対立関係に立つやうだけれども、
法も亦責任能力を免除してゐるやうに、厳密な一対一の対立関係は成立しない。「きちがひに刃物」とはよく
言つたもので、狂人に殺された人間は、社会の用語によれば「事故死」なのである。
このやうな偶然性の体現、自己の行為を偶然化されること、そのこと自体が、自己物質化の進行と浸潤を意味する。
なぜなら、偶然とは「物」の特質だからである。これを宗教の用語で言へば、偶然とは「神」の本質であらう。
すなはち人間的必然を超えたところにあらはれる現象は、神の領域に他ならないからである。
(中略)
狂気と正常な社会生活との並行関係乃至離反のプロセスだけが、小説の題材になりうる。
三島由紀夫「小説とは何か 十三」より
267 :
名無しさん@社会人:2011/03/10(木) 00:06:23.30
狂気の困つた特色は、その本質が反社会性にあるのではなくて、狂気の論理自体にしか本質がないのにもかかはらず、
狂人の幻想には社会生活の残滓が、(もつとも低俗なものをも含めて)、横溢してゐるといふことなのである。
このことは、前回の犯罪の問題と比べてみるとよくわかるだらう。犯罪的素因を先天性のものと考へるロムブロゾオ
などの諸説はともかく、犯罪はその本質を反社会性に持つてゐる。なぜなら犯罪を正当化する最高の論理は、
政治的犯罪と非政治的犯罪とにかかはらす、われわれが自己の社会を正当化する論理と同じ次元に立つてゐる
からである。このことが、小説の題材として、古来、狂気よりも犯罪が親しまれてきた一因であらう。
われわれが殺人を許容しない社会に住んでゐることは、一種の社会契約によつて、われわれ自身の殺人をも
許容されないものにしてしまつてゐるわけだが、狂気はあくまで病気の一種であり、人間の自由意志とは関係が
ないから、いかに狂気が危険でも、われわれ自身が発狂することは許されてゐるのである。
三島由紀夫「小説とは何か 十三」より
268 :
名無しさん@社会人:2011/03/10(木) 00:07:40.29
これは一見ヘンな論理だと思はれるであらう。しかしここには小説の大切な問題がひそんでゐる。
なぜなら、小説も芸術の一種である以上、主題の選択、題材の選択、用語の選択、あらゆるものに、作者の意志が
かかり、精神がかかり、肉体がかかつてゐる。われわれはそれを不可測の神の意志、あるひは狂気の偶然の意志に
委ねるわけには行かないのである。なるほどソクラテスはその哲学をデエモンの霊感によつて得た。しかし、
ソクラテスは狂気には陥らなかつた。
選択それ自体が自由意志の問題を抱へ込んでをり、小説は、「自由意志」といふ信仰の極限的実験であつたとも
いへる。この社会の要求する社会契約も、倫理的制約も、すべて自由意志自身の責任において乗り超え踏み
破らうとする仮構であつた。
ひとたびここへ狂気の問題を導入すると、この根本的なメカニズムにひびが入つてしまふのである。自由意志が
否定されたところで、どうして小説世界の構築性といふ、自由意志の精華のやうなものが具現されるであらうか。
三島由紀夫「小説とは何か 十三」より
269 :
名無しさん@社会人:2011/03/10(木) 00:08:58.04
小説とは何か、といふ問題について、無限に語りつづけることは空しい。小説自体が無限定の鵺(ぬえ)のやうな
ジャンルであり、ペトロニウスの昔から「雑俎(サテュリコン)」そのものであつたのだから、それはほとんど、
人間とは何か、世界とは何か、を問ふに等しい場所に連れて行かれる。そこまで行けば「小説とは何か」を
問ふことが、すなはち小説の主題、いや小説そのものになるのであり、プルウストの「失はれし時を求めて」は、
そのやうな作品だつた。概して近代の産物である小説の諸傑作は、ほとんど「小説とは何か」の、自他への
問ひかけであつた、と云つても過言ではない。小説はかくて、永久に、世界観と方法論との間でさまよひつづける
ジャンルなのである。その彷徨とその懐疑とを失つた小説は、厳密な意味で小説と呼ぶべきでないかもしれない。
そこで小説とは、小説について考へつづける人間が、小説とは何かを模索する作業だ、と云つてしまへば、
技術的定義に偏して、重要な何ものかを逸してしまふ、といふところに、又、小説の怪物性がある。
三島由紀夫「小説とは何か 十四」より
270 :
名無しさん@社会人:2011/03/10(木) 12:38:16.89
女がひとり鏡に向つて、永々とお化粧をし、いい洋服を着て、いいアクセサリーをつけて、いよいよお出ましとなる。
そこで又仕上りを鏡で丹念にしらべる。……世間では、かういふのを、女のナルシシズムと呼んでをり、女の
第二の天性と信じてゐる。
しかし彼女は本当に、鏡の中に自分の顔を見てゐるのであらうか? 彼女が鏡の中に見てゐるのは、本当に
自分の姿なのであらうか? 私にはどうもそのへんがよくわからないのである。
私の見るところでは、「自然」は女に、彼女の本当の顔を見せないやうに見せないやうにと配慮してゐる。
その用意周到はおどろくばかりで、ここには定めし、自然がさうせざるをえなかつた理由がひそんでゐるに
ちがひない。さうとしか考へやうがないのである。
自意識といふものは全然男性的なもので、そこには精神と肉体の乖離が前提とされ、精神が肉体を離れてフラフラと
浮かれ出し、その浮かれ出した地点から、自分の肉体を客観的に眺め、又、自分の精神を以て自分の精神自体をも、
客観的に眺めるといふ離れ業を演じるのが、すなはち自意識である。
三島由紀夫「ナルシシズム論 一」より
271 :
名無しさん@社会人:2011/03/10(木) 12:39:30.80
もちろんこんな離れ業は、いつも巧く行くと限つたわけではないが、自意識とは、さういふ離れ業をともすると
演じようとする、精神の不可思議な衝動である、と定義してよからう。
しかるに、女の精神は、子宮が引きとどめる力によつて、男の精神ほど自由にふらふらと肉体を離れることが
できない。男には上部構造である頭脳と、下部構造である生殖器とが、全然関係のない別行動をとることも
できるけれど、女にはどうも、古代の爬虫類のやうに、頭と下半身と両方に脳があるらしいのである。脳と言つて
わるければ、女の精神を支配する中枢は二つあつて、一つは頭脳であり、もう一つは子宮であつて、この二つが
実に密接に共同して働くから、精神はいつも、この二つに両方から引つぱられてゐて、肉体から離脱できない。
ヒストリーの語源が子宮にあることは周知のとほりである。
簡単に言ふと、男性の精神構造は、一つの中心点をもつ円であり、女性の精神構造は二つの中心点をもつ楕円で
あるらしい。
三島由紀夫「ナルシシズム論 一」より
272 :
名無しさん@社会人:2011/03/10(木) 12:40:24.56
女の精神はかくて存在に帰着し、男の精神はともすると非在に帰着するが、自意識とは、非在に関する精神の、
もつとも生粋な、もつとも非在的なものである。
女の精神とて、もちろん自意識に似たものは持つことができる。しかし、自意識が自意識を生み、みるみる無数の
合せ鏡の生む鏡像のやうに増殖する、自意識の自己生殖は、決して女性のものではない。自意識が彼女を本当に
喰ひつぶすまでに行かないならば、それは結局、「擬自意識」の部類に属するだらう。女のもつ「自意識めいたもの」
には、肉体(子宮)といふ安全弁がついてをり、男の自意識のやうに、ブレーキが利かなくなつて暴走して、
崖から真逆様に顛落するといふやうな事態は起りえない。(さういふとき、奇妙にも、その男の自意識の暴走車は、
彼自身の自意識の海の中へ顛落するのであるが……)。
三島由紀夫「ナルシシズム論 一」より
273 :
名無しさん@社会人:2011/03/10(木) 12:41:30.85
ここではじめて、私には、自然が、女に対して、彼女の本当の顔を見せまい見せまいとしてゐるその配慮の理由が
呑み込めるやうに思ふ。それは明らかに生物学的要請であり、女の妊娠の責務を守るためであらう。
鏡とあんなにしよつちゆう深く附合つてゐる女が、みんな鏡の中へ投身して破滅してしまつたのでは、人類は
絶滅してしまふ。そこへ行くと、妊娠のつとめを持たない男はさうなつても一向構はない。水鏡に映るおのが
美貌に惚れ抜いて、水へ身を投げて死ぬナルシスが、決して女でなくて、男であることは、ギリシア人の知恵と
言へるであらう。ナルシスは、どうしても男でなければならないのである。
かくて、女たちが、鏡の中に見つめてゐる像が、彼女自身の姿でないことは、ほぼ確実になつた。自分でないものの
姿に見とれることを、ナルシシズムと呼ぶのは、言葉の誤用である。私見によれば、女にはナルシシズムは
存在しえないのである。
三島由紀夫「ナルシシズム論 一」より
274 :
名無しさん@社会人:2011/03/10(木) 23:20:27.41
女が自分のことを語るときの拙劣さには定評があり、どんなにえらい女でも、彼女が自分の正確な像をつかんで
ゐると感じられることはめつたにない。どんなに苦労し、どんなに世間智を積んでも、女は自分のこととなると
概して盲目で、不可避の愚かしさが、背中の糸屑みたいに必ずついてゐる。そして知的な女ほど、己惚れも
ひがみも病的にひどくなつてゐる場合が多い。彼女の理性にはえてして混濁したものがつきまとひ、論理は決して
泉の水のやうに明らかに澄み渡ることがない。どうしてであらうか? 私が女と議論することが死ぬほどきらひ
なのはそのためなのだ。
(中略)
精神が肉体から分離されなければ、そこに客観性といふものも生じえず、従つていかなる意味の自己批評も
生じえない。そして自己批評こそ、他に対する批評の唯一の基準であるから、そこには真の公正な批評が
成立しないことになる。女性の盲点はこのやうな自己批評の永遠の欠如であり、又、他に対する永遠の不公正な
批評癖である。
三島由紀夫「ナルシシズム論 二」より
275 :
名無しさん@社会人:2011/03/10(木) 23:21:43.66
「A子さんつて、自分のバカさにどうしても気がついてゐないのね」
といふ批評が成立するためには、さういふ御本人が自分のバカさに気がついてゐなければならない。しかし女が、
「ええ、どうせ私はバカだわよ」
と言ふときには、彼女は決して自分のバカさをみとめてゐないのである。それは、すなはち、「あなたのやうな
不公正な目から見れば、どうせ私はバカに見えるでせうけれど」といふ意味である。
「私つて目が小さいでせう」
と女に言はれて、
「ああ、小さいね」
と答へる男は、完全に嫌はれる。
もう少し思ひやりに富んだ男でも、同様に嫌はれる。それは、
「私つて鼻ペチャだから」
と言はれて、
「でも、とんがつた鼻より魅力があるよ」
と答へるやうな男である。
私がかうして徐々に、女性の内面的な顔から外面的な顔へと移行してゆくところに、注意していただきたい。
思ふにそこには確たる境界線がないのである。
三島由紀夫「ナルシシズム論 二」より
276 :
名無しさん@社会人:2011/03/10(木) 23:23:18.45
「私つてどうせバカだわよ」といふ言葉と「私つてどうせ不美人よ」といふ言葉との間の懸隔を、たとへば、
男の同じやうな発言、「俺はどうせバカなのさ」と「俺は二枚目ぢやないからな」といふ二つの言葉の間の懸隔と
比べてみれば、前者の懸隔はほとんどゼロに等しくなるであらう。つまり、男の発言には、自嘲のなかに必ず
アイロニーと批評が含まれるのが通例で、それが自意識の表徴なのである。
さつきも言つたやうに、女が「どうせ私つてバカだわよ」といふ場合、「あなたのやうな不公正な目から見れば、
どうせ私はバカに見えるでせうけれど」といふ風に、判断の主体が故意にぼやかされてゐる。判断の主体及び
基準が自分にあるかのやうに一応装はれてゐるが、実は、相手に半ば判断の主体が預けられてゐる。男が「俺は
どうせバカなのさ」といふときは、自分の判断によつて自分のバカさ加減が痛烈に意識されてゐるのと同時に、
自らがその判断の主体であつて、他人の判断はゆるさないといふ強烈な自負がある。
三島由紀夫「ナルシシズム論 二」より
277 :
名無しさん@社会人:2011/03/10(木) 23:24:22.63
次に、女が「私つてどうせ不美人よ」といふ場合は、判断の主体が故意にぼかされてゐる点において、「私つて
どうせバカだわよ」といふ場合と、ほとんど径庭がないが、男が「俺は二枚目ぢやないからな」といふときには、
明らかに、判断の主体は、痛恨を以て、遠い遠い、見えざる第三者の手に全的に預けられてゐるのである。
なぜなら男は、人間の顔、容姿等の外観は、もともと社会的な価値であつて、他人の判断によつてしか評価されない
といふ苦い知恵を、(自意識の鍛練によつて)、夙(はや)くから自得してゐるからである。ここに男の、
劣等感や優越感の早い形成が見られるので、男は比較対照による客観的価値判断を早くから身につけてしまふのである。
三島由紀夫「ナルシシズム論 二」より
278 :
名無しさん@社会人:2011/03/10(木) 23:25:37.40
もちろん男といへども、少女が最初の男に愛されてはじめて自分の美に目ざめるやうに、最初の女に愛されて
はじめて自分の魅力を知ることも多い。しかし、彼の内面性は、それによつて鼓舞され、あるひはそれによつて
歪められることがあつても、決して彼の外面性と一直線につながらないのである。
かくて、男が鏡を見てゐるとき、何を見てゐるかが明らかになる。すなはちそこに見てゐるものは、彼の顔、
彼の純粋な外面に他ならない。女のやうに、内面から外面へ、さらに、化粧によつて変容した第二の外面へ、
一つながりにつながる複雑なイマジネーションの複合としての顔ではない。彼は髭は剃るが、化粧をする必要はない。
このやうに、純粋な外面としての顔が鏡面に出現し、こちらから見る主体は、純粋自意識として作用するとき、
そこにはじめてナルシシズムが、ナルシスの神話の恋が成立するのである。
三島由紀夫「ナルシシズム論 二」より
279 :
名無しさん@社会人:2011/03/15(火) 12:09:38.53
鏡はそもそも、客観に奉仕するものなのであらうか? それとも主観に奉仕するものなのであらうか?
世にはさまざまな鏡がある。純粋客観としての鏡は、自意識の鏡であり、男の鏡である。純粋主観としての鏡は、
自意識の欠如した鏡であり、女の鏡である。前者はナルシシズムの鏡であり、後者は、化粧のための、変容の
ための鏡である。
自分の外面が自分であるといふ発見は、まづ一種の社会的発見であつた。そこに映つてゐる像こそ、正しく
自分自身でありながら、自意識とは劃然と分離された純粋存在であるといふ発見が、ナルシスの恋の端緒であつた。
もし鏡像と精神との間に、このやうに隔然たる分離がないならば、鏡像と意識、外面と内面とは一つながりの
ものとなり、そこには容易に妥協が生れ、馴れ合ひが生れ、つひには不自然な化粧が必要となるであらう。
女の友である鏡とはこのやうなものであり、鏡は女にとつては本質的に「油断ならない友」であり、男にとつては、
「敵あるひは恋人」である。
三島由紀夫「ナルシシズム論 三」より
280 :
名無しさん@社会人:2011/03/15(火) 12:10:54.13
鏡を敵として、一日中その顔を見ずにゐたければ、男にはそれも可能である。朝は、手さぐりで電気髭剃り器で
髭を剃り、鏡を見ずに顔を洗ひ、手さぐりでネクタイを締め、出勤の電車に乗ればよいのだ。
それではさういふ男が男らしい男かといへば、さうとも言ひきれないのである。自分の写真を見るのをきらひ、
鏡を見るのをきらひな男たちには、深いニューロティック(神経症的)な劣等感を持つた人間が多く、又その多くは、
別の知的優越感や社会的優越感で補償されてゐる。そしてこれらの優越感へのどんな些細な批評にも、ヒステリックな
反応を呈する場合が多い。鏡をきらふ男を、バンカラで豪傑肌の男と勘違ひすると、とんでもないまちがひに陥る。
彼らは、ただ、鏡を怖れてゐるのである。
もともと鏡は、純男性的世界の必需品であつた。むかしの海軍兵学校や機関学校には、階段の下に必ず大鏡があつて、
軍装の威儀を正すために用ひられた。ラフなプルオーヴァーのスウェーターをひつかぶるのとちがつて、端正な
軍装の、四角四面な外観を維持するためには、どうしても鏡が必要とされる。
三島由紀夫「ナルシシズム論 三」より
281 :
名無しさん@社会人:2011/03/15(火) 12:12:10.65
軍人の世界は、男性的外観が厳密に規定され、その外観によつて、内面の自意識を規正し、自意識の暴走を抑圧し、
以て、劃一化され単純化された自意識のエネルギーを、超自我(スーパー・エゴ)に従属せしめる世界である。
従つてそこは男にとつては、自意識の永遠の休暇が約束される世界なのだ。
しかし、外部から軍人の世界へあこがれる少年の心理には、明らかにナルシシズムが含まれてゐたことを、私は
戦時中の経験によつてよく知つてゐる。海軍士官の軍服と短剣にあこがれて、海軍兵学校へ入つた少年は数知れぬ
ほどをり、それによつて戦死した若者は、ナルシスの死を死んだのだつた。(中略)
そしてこの種の少年のナルシシズムは、英雄類型への同一化の傾向を強く持つてをり、ひいては彼自身が英雄と
なるための原動力となる。アレキサンダー大王は、少年時代から叙事詩中のアキレスにあこがれ、アキレスとの
同一化を策して、アレキサンダー大王その人になつたのであるが、彼のナルシシズムは後年まで色濃く残つてゐて、
決して自分の三十歳以上の肖像彫刻は作らせなかつた。
三島由紀夫「ナルシシズム論 三」より
282 :
名無しさん@社会人:2011/03/15(火) 12:13:33.56
私はナルシシズムが、決して偏奇な知的一傾向ではなく、おどろくほど普遍的な衝動であることを、ボディ・
ビルディングのジムで学んだ。そこには多くの鏡があるが、鏡の前は大てい混雑してをり首をさし出してネクタイを
結ぶのも容易ではなかつた。(中略)青年たちが、自分の育成した二頭膊筋や大胸筋を鏡に映して、その光り
かがやく新しい筋肉に、時の移るのも忘れて見とれてゐるのを見て、私はナルシシズムが、男のもつとも本源的な
衝動であり、今まで社会的羞恥心から隠蔽されてゐたにすぎないのではないか、といふ考へをいよいよ強めた。
ボディ・ビルディングは、いかにもナルシシズムの範例的形態である。その自己完結性にはあらゆる逆説が
ひそんでゐて、鏡に映る自分の新しい逞しい筋肉は、自分でありながら純粋な「他者」であり、考へられるかぎりの
純粋な外面であるのと同時に、しかもそれは自分の意志とエネルギーによつて創造したものなのである。
三島由紀夫「ナルシシズム論 三」より
283 :
名無しさん@社会人:2011/03/15(火) 12:15:05.80
鏡に映るその筋肉ほど、ナルシシズムにとつて、といふのは、男性の自意識にとつて、恰好な対象はあるまい。
しかし、そこには同時に、ナルシシズムの重要な一要素が欠如してゐる。ここには自意識が自意識を喰ひ、鏡が鏡を
蝕むところの、あの不可思議な自己生殖の運動と、それによつて起るナルシスの投身、すなはち自己破壊の衝動が、
ふしぎなほど欠けてゐる。ボディ・ビルダーたちは、大好きな家畜をいたわるやうに自分の逞しい肉体をいたはり、
ヴィタミンやカロリーの摂取に余念がない。男のナルシシズムには、死の衝動へ促す行動性が必要なのである。
そしてこのやうな行動的ナルシシズムは、鏡への投身による鏡の破壊をめざして、拳闘、レスリング、柔道、
剣道等の格技や、自動車レース、モーター・サイクルなどのスピードへ向ふのである。
三島由紀夫「ナルシシズム論 三」より
284 :
名無しさん@社会人:2011/03/16(水) 11:12:15.09
純粋ナルシシズムの本当の姿は、他人の賞讃を必要としないことであるが、ここには美のきはめて微妙できはめて
難しい問題がひそんでゐる。
なるほどナルシスは美しい。他人の目から見て美しいのである。そしてナルシスが、他人の目から見て客観的に
美しくなければ、あの神話の美しさ自体が成立しないのであるが、一方ナルシスが絶対に排他的であり、彼が
他人の賞讃を一切必要としないほど、自意識の客観性に絶大の自信を持つてゐなければ、同様に、あの神話は
意味がなくなつてしまふ。ナルシスは己れを知つてゐなければならず、自己批評の達人でなければならず、
そしていかなる容赦ない自己批評も破砕できぬほどに美しくなければならないのである。してみるとこの神話の
恋には、二つの、いづれ劣らぬ大切な要素があることがわかる。一つは彼の絶対的美貌であり、一つは彼の
自意識の絶対的客観性である。この二つが揃はなければ、ナルシスの恋は成立しない。
三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より
285 :
名無しさん@社会人:2011/03/16(水) 11:13:23.54
しかし、いかにして自意識はそのやうな絶対的客観性に到達するであらうか? 決して他人の賞讃を必要と
せぬほどの境地に達しうるであらうか? 自意識の構造自体が、このやうな客観性を常に志向してゐることは
前にも述べたが、純粋ナルシシズムが、「他人の賞讃を必要としない」からと言つて、その逆は必ずしも真ではない。
ナルシスが他人を排斥するのは、他人を全く必要としないほど美しいからだが、醜い者も、同じやうに他人を
排斥する。彼は他人の賞讃を得る自信がないからである。世間でナルシシズムといふ言葉を口にするときに、
多くの嘲笑が含まれるのは、たとへば、アラン・ドロンがナルシストであつても少しも滑稽ではないが、客観的に
見て全然美しくないものがナルシシズムに陥つてゐるのは滑稽に見えるからで、このことは、男性一般の本源的
衝動であるナルシシズムの普遍性と、微妙に噛み合つてゐる。
三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より
286 :
名無しさん@社会人:2011/03/16(水) 11:14:31.65
そこで他人の賞讃を期待できぬナルシシズムは、滑稽に見えることをおそれて地下に沈潜し、そこに「秘密の
ナルシシズム」「抑圧されたナルシシズム」が鞏固に形成される。これが、他人のナルシシズムへの嘲笑の
大きな原動力になるのである。
一方、嘲笑される側は、その醜さのためではなく、自意識の絶対的客観性の不足乃至欠如のために、笑はれるのだ。
このことが、社会全般におけるナルシシズムの捕捉を実に困難にする。
もとより他人の賞讃を全く必要としないほどの純粋ナルシシズムとは、絶対真空と同様に、一つの仮定としての
絶対値にすぎず、一つの究極の観念、一つの神話にすぎぬ。誰しも他人の賞讃を必要とするが、それは他人こそ
「物言ふ鏡」であり、その賞讃こそ、肉体を離脱した非在の観念としての自意識の、何ら目に見え手にとることの
できない絶対的客観性を、傍証してくれるからである。
ナルシスの水鏡を、ナルシシズムの純粋な無言の鏡とすれば、「他人」こそは、二次的でありながらはなはだ
力強い、物言ふ鏡と言へるであらう。
三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より
287 :
名無しさん@社会人:2011/03/16(水) 11:15:37.38
自意識がその客観性を確認するために、どうしても他人の賞讃を必要とするのは、ナルシシズムの客観的要件を、
できるだけ多く自分のはうへ引寄せようとする自然な志向である。すなはち、すでに水鏡をではなく、「他人の
鏡」を相手にするときには、嘲笑が返つてくるか、賞讃が返つてくるかに、彼の自意識の客観性が賭けられてをり、
思ひどほり賞讃が返つて来たところで、彼の客観的要件は、本来減りもせず増しもしない筈であるけれど、
その結果、自意識の客観性は他人の賞讃によつて保証されること多大であるから、そこであたかも、彼の客観的
要件自体が増しでもしたやうな外見を呈する。それはあくまで一つの擬制であるが、水鏡ではなく「他人の鏡」を
相手にした以上、ナルシシズムは悉く相対主義に陥り、いはば相対性の地獄に落ちることが避けられない。
純粋ナルシシズム以外のあらゆるナルシシズムにとつて、かくて本質的な様態は「不安」Sorge なのである。
三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より
288 :
名無しさん@社会人:2011/03/16(水) 11:16:38.90
さてこの際どい賭に勝つために、彼が自分の最良のものを賭けようとすることは自然であらう。肉体的ナルシシズムに
よつてこの賭に勝つ自信がなければ、知的精神的ナルシシズムによつて勝たうとするのは当然であらう。ナルシスの
神話は、あのやうに素朴に、人間の肉体的ナルシシズムの純粋性、絶対性を謳ひ、自意識の純粋形態を象徴して
ゐるのに、古代ギリシアにすら、やがてソクラテスの近代がしのび込み、知的精神的ナルシシズムが覇を制する。
知的精神的ナルシシズムは、純粋ナルシシズムの見地からすれば明らかに倒錯であるが、二つの絶対の利点を
持つてゐる。一つはそのナルシシズムが不可見のもの(知性・精神)に関はつてゐることであり、もう一つは、
従つて、普遍妥当性において、純粋ナルシシズムをはるかに凌駕してをり、ごく稀な天然真珠よりも、はるかに
一般的な養殖真珠に相当するからである。
三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より
289 :
名無しさん@社会人:2011/03/16(水) 11:22:14.53
のみならず、人々は安心してこのやうなナルシシズムを許容することができる。誰にも機会は均等に与へられてをり、
努力によつてそれに達することができ、しかも不可見であるからごく秘密裡に、男性全般のナルシシズム的衝動を
満足させることができる。
かくて男の世界における肉体蔑視がはじまり、近代社会の多くの知的弊害がそこから生れてきた。
男は不可見の価値に隠れ、女は可見の世界へ押し出された。男は見る側になり、女は見られる側へ廻つた。
男女の服装を見ればわかることだが、男は渋い色の劃一的な背広に身を包み、もはやきらびやかな緋縅の鎧を
着ることはなくなつた一方、女はますます肌をあらはに、さまざまなファッションに身をやつすやうになつた。
女のナルシシズムといふ観念は、男性から移植され注入された観念のやうに思はれるが、もし女にとつて、
一般的普遍的に肉体的ナルシシズムが許容されるとなれば、そこに自意識の規制が働かないことは明らかであるから、
別な方法が案出されなければならない。それが化粧である。
三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より
290 :
名無しさん@社会人:2011/03/16(水) 11:23:16.31
化粧こそ、一般的肉体的ナルシシズムを、滑稽さから救ふ唯一の方法である。この方法が特に女に普及したのは、
女の自意識の欠如の代償作用であつて、顔に白粉や紅を塗つて美しく作りかへることによつて、肉体的ナルシシズムは、
はじめからまつしぐらに、その不純性へ飛び込むのである。純粋ナルシシズムには、決して化粧の原理を
導入することはできない。
女がひとり鏡に向つて、永々とお化粧をする習慣は、美女と醜女を問はないが、それが醜女だからと言つて、
人は決して笑はうとはしない。そこで問はれてゐるのは、自意識の客観性の問題ではなく、いかに美しくなるか
といふ問題だけであつて、化粧をしない醜女よりも、化粧をした醜女のはうが幾分でも美しく見えれば、それは
社会の志向するところと一致してゐるからである。
三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より
291 :
名無しさん@社会人:2011/03/16(水) 11:24:21.00
他人の賞讃が、しかし、女の場合には、肉体的賞讃にとどまるやうに、女自身も要請し、社会も亦これを要請して
ゐるのは、男の世界が守つてゐる知的精神的ナルシシズムの縄張りを、女に犯されないための用心であらう。
そのためにこそ、男は、古代の男の肉体的ナルシシズムの不安(ゾルゲ)の地獄を、女のために開け渡したのである。
しかし、さうして開放された世界が、女に果して不安(ゾルゲ)を与へたかどうかは疑はしい。鏡の前にゐるとき、
女は明らかに幸福に見える。その幸福を見て、男は又しても不可解なものにぶつかるのである。
どうして化粧をしてゐるときの女は、そんなにも幸福なのであらうか? ナルシシズムが幸福であらう筈がない。
それならば、それはきつと、何かわからぬ、何か別のものにちがひない。とまれかくまれ、「幸福」とは、
男にとつてもつとも理解しがたい観念であり、あらゆる観念の中で、もつとも女性的なものである。
三島由紀夫「ナルシシズム論 四」より
292 :
名無しさん@社会人:2011/03/18(金) 12:50:18.59
空襲のとき、自分の家だけは焼けないと思つてゐた人が沢山をり自分だけは死なないと思つてゐた人がもつと
沢山ゐた。かういふ盲目的な生存本能は、何かの事変や災害の場合、人間の最後の支へになるが、同時に、
事変や災害を防止したり、阻止したりする力としてはマイナスに働く。(中略)
また逆に、自分の家だけが焼け自分だけが死ぬといふ確信があつたとしたら、人は事変や災害を防止しようとせずに、
ますます我家と我身だけを守らうとするだらうし、自分だけは生残ると思つてゐる虫のよい傍観者のはうが、
まだしも使ひ物になることだらう。
本当に生きたいといふ意思は生命の危機に際してしか自覚されないもので、平和を守らうと言つたつて安穏無事な
市民生活を守らうといふ気にはなかなかなれるものではないのである。生命の危機感のない生活に対して人は結局
弁護の理由を失ふのである。貧窮がいつも生活の有力な弁護人として登場する所以である。
三島由紀夫「言ひがかり」より
293 :
名無しさん@社会人:2011/03/21(月) 12:09:52.58
私は本当のところ、恋愛結婚も見合ひ結婚も、本質的に大してちがひのないのが現代だと思つてゐる。
それをムリに区別して考へるのは、恋愛がタブーであつた徳川時代の常識に、いまだにとらはれてゐるのである。
つまりこの二つは、「禁止を破つた結婚」と「公認された結婚」といふやうな、相対立する概念ではなくなつて
ゐるのである。
禁止されてゐればこそ、恋愛(不義)の火も燃えさかるので、適当に理性的に恋愛してゐる若い世代は、結婚に
ついても全然理性的で、形だけは恋愛結婚、実質は、見合ひ結婚よりは、はるかに理性結婚に近い、といふやうな
例も多いにちがひない。
恋愛といつても、大都会でこそ、偶然の出会ひによる珍妙な一組も成立するが、その大都会でも、多くの恋愛は、
職場などの小さな地域社会から生まれる。浮気のチャンスはころがつてゐても、恋愛のチャンスはどこにでも
ころがつてゐるわけではない。無限の選択の可能性があるわけではない。みんな要するに、何かの形の生簀の中を
泳いでゐて、同じ生簀の魚と恋してゐるにすぎないのである。
三島由紀夫「見合ひ結婚のすすめ」より
294 :
名無しさん@社会人:2011/03/21(月) 12:11:28.90
外国の社交界ともまたちがつた、日本独特の見合ひ結婚の利点は、なまじつかな恋愛結婚より、選択の範囲が
かへつてひろいといふことである。だれかの口ききで、いろんな職業、いろんな地域の相手とも、見合ひにまで
進むことができる。
北海道の果ての娘と、九州の果ての青年とが偶然に出会ふ確率は少ないが、見合ひなら、さういふ結びつきも
十分にありうる。
アメリカのオールドミスが、日本の見合ひ結婚の話を聞いてうらやましがるのももつともで、アメリカの
(上流を除く)一般社会では、結婚自体が苛酷な生存競争であることは、「マーティ」といふあはれな醜男を
描いた映画で、皆さんもご承知であらう。
結婚生活を何年かやれば、だれにもわかることだが、夫婦の生活程度や教養の程度の近似といふことは、
結婚生活のかなり大事な要素である。性格の相違などといふ文句は、実は、それまでの夫婦各自の生活史の
ちがひにすぎぬことが多い。
見合ひ結婚といふせつかくの日本特産物を、失はないやうにすることが、結局これからの若い人たちのしあはせで
あらうと思ふ。
三島由紀夫「見合ひ結婚のすすめ」より
295 :
名無しさん@社会人:2011/03/26(土) 11:44:57.04
男は一人のこらず英雄であります。私は男の一人として断言します。ただ世間の男のまちがつてゐる点は、
自分の英雄ぶりを女たちにみとめさせようとすることです。
「何くそ! 何くそ!」
これが男の子の世界の最高原理であり、英雄たるべき試練です。
「足が地につかない」ことこそ、男性の特権であり、すべての光栄のもとであります。
子惚気ばかり言ふ男は、家庭的な男といふ評判が立ち、へんなドン・ファン気取の不潔さよりも、女性の好評を
得ることが多いさうだが、かういふ男は、根本的にワイセツで、性的羞恥心の欠如が、子惚気の形をとつて
現はれてゐる。
動物になるべきときにはちやんと動物になれない人間は不潔であります。
男が女より強いのは、腕力と知性だけで、腕力も知性もない男は、女にまさるところは一つもない。
三島由紀夫「第一の性」より
296 :
名無しさん@社会人:2011/03/26(土) 11:45:26.44
女は「きれいね」と、云はれること以外は、みんな悪口だと解釈する特権を持つてゐる。なぜなら男が、
「あいつは頭がいい」と云はれるのは、それだけのことだが、女が「あの人は頭がいい」と云はれるのは、概して
その前に美人ではないけれどといふ言葉が略されてゐると思つてまちがひないからです。
「積極的」といふのと、「愛する」といふのとはちがふ。最初にイニシァチブをとるといふことと、「愛する」と
いふこととはちがふ。
相手の気持ちをかまはぬ、しつこい愛情は、大てい劣等感の産物と見抜かれて、ますます相手から嫌はれる羽目になる。
愛とは、暇と心と莫大なエネルギーを要するものです。
小説家と外科医にはセンチメンタリズムは禁物だ。
男性操縦術の最高の秘訣は、男のセンチメンタリズムをギュッとにぎることだといふことが、どの恋愛読本にも
書いてないのはふしぎなことです。
三島由紀夫「第一の性」より
297 :
名無しさん@社会人:2011/03/26(土) 11:46:03.29
変り者の変り者たる所以は、その無償性にあります。世間に向つて奇を衒ひ、利益を得ようとするトモガラは、
シャルラタン(大道香具師)であつて、変り者ではありません。
変り者と理想家とは、一つの貨幣の両面であることが多い。どちらも、説明のつかないものに対して、第三者からは
どう見ても無意味なものに対して、頑固に忠実にありつづける。
男の性慾は、ものの構造に対する好奇心、探求慾、研究心、調査熱、などといふものから成立つてゐる。
男には謎に耐へられない弱さがある。
男に与へられてゐる高度の抽象能力は、この弱さの楯であつたらしい。抽象能力によつて、現実と人生の謎を、
カッチリした、キチンと名札のついた、整理棚に納めることなしには、男は耐へられない。
人間は安楽を百パーセント好きになれない動物なのです。特に男は。……こればかりは、どんなにえらい御婦人たちが
矯正しようとかかつても、永久に治らない男の病気の一つであります。
三島由紀夫「第一の性」より
298 :
名無しさん@社会人:2011/03/26(土) 11:46:35.59
スタアといふものには、大てい化物じみたところがあるものです。
政治家の宿命は、死後も誤解を免かれないところにあるのでせう。
俳優といふショウ・アップ(見せつける)する職業には、本質的にナルシスムと男色がひそんでゐると云つても
過言ではない。
宗教家ほどある意味では男くさい男はありません。そこでは余分の男がギュウギュウ抑へつけられ、身内に溢れて
ゐるからです。
宗教家といふものには、思想家(哲学者)としての一面と、信仰者としての一面と、指導者、組織者としての一面と、
三つの面が必要なので、それには、男でなければならず、キリストも釈迦も、男でありました。
三島由紀夫「第一の性」より
299 :
名無しさん@社会人:2011/03/26(土) 19:53:49.88
それがたとへどのやうな黄金時代であつても、その時代に住む人間は一様に、自分の生きてゐる時代を
「悪時代」と呼ぶ権利をもつてゐると私には考へられる。その呼びかけは、時代の理想主義的な思想と対蹠的な
ものとなるところの、いはば「もう一つの・暗黒の理想主義」から発せられる叫びである。あらゆる改革者には
深い絶望がつきまとふ。しかし改革者は絶望を言はないのである。絶望は彼らの理想主義的情熱の根源的な
力であるにもかかはらず、彼らの理想はその力の根絶に向けられてゐるからである。一方、暗黒の理想主義から
発せられる「悪時代」といふ呼びかけも絶望をいはない。絶望はおそらく自明の理、当然の前提で、いふに値ひ
しないからである。この一点で両者は、第三者には理解しえないフリー・メイソン的な親密な目くばせをする。
より良き時代を用意するための準備段階として、現代は理想主義者にとつては完全な悪時代ではありえない。
何らかの意味で上昇しつゝある段階である。しかしかういふ可能性において一時代を見てゐる人間は、その時代を
全的に生きてゐるとはいへない。
三島由紀夫「美しき時代」より
300 :
名無しさん@社会人:2011/03/26(土) 19:56:42.38
是認は非歴史的な見地で行はれる。この種の是認が一種の生の放棄を意味することは見易い道理である。また一方、
現代を悪時代と規定する人間は、否定を通しての生き方においてもなほ、その時代を全的に生きてゐるとはいへない。
なぜならこの否定は、「悪時代」と呼びかける根拠それ自身を否定することはなく、当然の前提である絶望は、
その実決して否定によつて現実的なものにまで持ち来されないからである。ここにもまた放棄がありそれは
前者の放棄と同種のものである。
この間にあつて、「絶望する者」のみが現代を全的に生きてゐる。絶望は彼らにとつて時代を全的に生きようと
する欲求であり、しかもこの絶望は生れながらに当然の前提として賦与へられたものではなく、偶発的なものである。
なればこそかれらは「絶望」を口叫びつづける。しかもこのやうな何ら必然性をもたない絶望が、彼らを在るが如く
必然的に生きさせるのである。彼らにとつては、偶発的な絶望によつて現代が必然化されてをり、いひかへれば、
絶望の対象である現代は、彼らにとつて偶然の環境ではない。
三島由紀夫「美しき時代」より
301 :
名無しさん@社会人:2011/03/26(土) 19:58:55.31
この偶然的な絶望は、それが時代を全的に生きようとする欲求であることを通して、生の一面である。決定論的な
前提を全く控除した生の把握がそこにみられる。ここではどのやうな意味でも生の放棄はありえない。
終戦後の思想界のおほよその傾向は、以上の三つに分類されるやうである。理想主義はヒューマニズムの立場であり、
絶望主義はその偶然性によつてヒューマニズムを乗り越えようとする立場であり、あとに残る一つのものは
純然たる反ヒューマニズムの立場である。第一のものが宗教的傾向との間に次第に協調をみせ、第二のものが
「生の哲学」に由来してゐることはとうに興味を惹く事実である。第三のものはまだ確乎たる立場を持つてゐるとは
いへない。私は現在の最も若い青年層の間にある漠たる虚無的な傾向といはれるものをこれに包括したのである。
私自身の思考も最もこれに隣接してゐるにちがひない。
三島由紀夫「美しき時代」より
302 :
名無しさん@社会人:2011/03/26(土) 20:02:50.80
それは理想主義がさうであるやうな意味において、すなはち生の放棄といふ意味において、虚無的であるにすぎない。
この暗黒の理想主義は、一定の理想像を信ぜぬほどに純粋なのである。しかも彼は懐疑に逃避するでもない。
懐疑の偶発的な構造が、彼の置かれた環境の偶発性に溶解されてしまふ懐疑がないために、普通いはれる意味での
信仰もありえない。すこぶる日常的な、生理的ですらある絶望が彼を支配し、彼の偶発的な環境が、彼の生を
運命化するのである。今自ら生きつつある時代を「悪時代」と呼ぶこと、それは彼のうちの何ものをもジャスティファイするわけではない。
彼には現代が良くなりつつある時代であるといふ理念的な確信に生きることができず、さりとて当然の前提である
絶望を偶然化してそれによつて没理想的に生きようとすることもできないので、彼は自己の生のただ一つの
確証として「悪い時代だ」と呟きを洩らすのである。
三島由紀夫「美しき時代」より
303 :
名無しさん@社会人:2011/03/29(火) 10:48:19.84
一フランス人が面白いことを言つた。日本は極東ではなくつて、極西である。中華民国から極東がはじまるのだ、
と言つたのである。ヨーロッパは多くの日本人が想像してゐるよりはずつと遠い。ヨーロッパ的世界にとつて、
極東よりも極西のはうが遠いのである。好むと好まざるとにかかはらず、北米大陸の存在は今後の日本にとつては
宿命的で、ヨーロッパにとつて、日本はアメリカの向う側に位する。
技術も文学や絵と同様に、風土の質や量(ひろさ)と深い関係があり、アメリカの技術は日本の風土に適しない。
それはさうである。しかしヨーロッパの精神文明と、日本の精神文明は、全く対蹠的なものである。(中略)
ある意味において、アメリカの文化は、ヨーロッパ文化の風土を無視した強引な受継であつて、そこでは微妙な
ものも見失はれた代りに、ヨーロッパに堆積してゐるあのおびたゞしい因襲の引継も免れたのである。
同じアメリカぎらひでも、フランスのそれと日本のそれとの間には、大きな相違がある。フランスのアメリカぎらひは、
自分の下手な似顔を描いた絵描きに対する憎悪のやうなものである。
三島由紀夫「遠視眼の旅人 日本は極西」より
304 :
名無しさん@社会人:2011/03/29(火) 10:49:22.28
ニュースの功罪について、僕はいろいろと考へざるをえなかつた。どこの国でも知識階級は疑り深くて、新聞に
書いてあることを一から十まで信じはしない。信じるのは民衆である。しかし或る非常の事態にいたると、
知識階級の観念性よりも、民衆の直感のはうが、ニュースを超えて、事態の真実を見抜いてしまふ。かれらは
自分の生活の場に立つて、蟻が洪水を予感するやうに、しづかに触角をうごめかして現実を測つてゐる。真実な
デマゴオグ(煽動者)といふものが、かうして起る。敗戦間近い日本に起つたやうなあの民衆の本能的不信は、
古代にもたびたび起つた。民衆のあひだにいつのまにか歌はれはじめる童謡が、何らかの政治的変革の前兆と
考へられたのには、理由がある。
三島由紀夫「遠視眼の旅人 大衆の触角」より
305 :
名無しさん@社会人:2011/03/30(水) 19:29:51.56
羽田のインタビューが感じがわるかつたとしても、(事実相当に感じがわるかつたと想像されるが)、新聞記者の
心証をよくするといふことが、太平洋横断といふ達成された事実と何の関係があるのか。太平洋横断をした青年が、
何で英雄気取りになつてはいけないのか。かういふことをした青年が、凡庸な世間の要求するイメージに従つて、
頬をポッと赤らめて頭を掻いたりする「謙虚な好青年」でなければならぬ義務がどこにあるのか。又世間が
どうしてそんなものを彼に要求する権利があるのか。……考へれば考へるほど、腑に落ちないことだらけである。
大体、青年の冒険を、人格的表徴とくつつけて考へる誤解ほど、ばかばかしいものはない。ヨットで九十日間、
死を賭けた冒険ををして、それでいはゆる「人間ができる」ものなら、教育の問題などは簡単で、堀江青年は
この冒険で太平洋の大きさは知つたらうが、人間や人生のふしぎさについて新たに知ることはなかつたらう。
そんなことは当たり前のことで、期待するはうがまちがつてゐる。
三島由紀夫「堀江青年について」より
306 :
名無しさん@社会人:2011/03/30(水) 19:30:59.56
のみならず堀江青年に、テレビや映画のまやかしものの主人公のやうな、出来合ひの「好青年」を期待するはうが
まちがつてゐる。そんな好青年は、決してたつた一人で小さなヨットで太平洋を渡らうなどとはしないだらう。
かういふ孤独な妄執は、平均的な「好青年」などから芽生える筈もない。たとへばこのごろの「カッコいい
若者たち」の六尺ゆたかの背丈と、五尺そこそこといはれる堀江青年の背丈とを比べてみるだけでもいい。
ラスウェルは「政治」の中で、リンカーンの情緒的不安定や、ナポレオンの肉体的劣等感について詳さに述べてゐる。
今度のジャーナリズムの態度は、大衆社会化の一等わるい例を、又一つわれわれに示した。それは社会的イメージの
強制であり、そのイメージは凡庸な平均的情操から生れ、無害有益なものとして、大衆社会からすでに承認された
ものである。これは一堀江青年のみならず、芸術に対する大衆社会化反応の進みゆくおぞましい時代をも暗示する。
三島由紀夫「堀江青年について」より
307 :
名無しさん@社会人:2011/03/31(木) 21:17:58.03
感動した。日本人のテルモピレーの戦を目のあたりに見るやうである。
いかなる盲信にもせよ、原始的信仰にもせよ、戦艦大和は、拠つて以て人が死に得るところの一個の古い徳目、
一個の偉大な道徳的規範の象徴である。その滅亡は、一つの信仰の死である。この死を前に、戦死者たちは
生の平等な条件と完全な規範の秩序の中に置かれ、かれらの青春ははからずも「絶対」に直面する。この美しさは
否定しえない。ある世代は別なものの中にこれを求めた。作者の世代は戦争の中にそれを求めただけの相違である。
三島由紀夫「一読者として(吉田満著『戦艦大和の最期』)」より
308 :
名無しさん@社会人:2011/04/03(日) 00:18:25.91
宝塚滞在のための目算は立つてゐたが、大阪へ到着当夜の宿に困つた私は、親戚のものの紹介状をさし出して、
一夜の宿の世話を駅長に懇望した。(中略)
ホテルは土地に不案内の私にもすぐに見つかつた。四階建の小ぢんまりしたビルである。
入口は日本映画に出てくるセットの安ホテルによくあるやうな奴である。入るとすぐ右にフロントがある。
靴のまま上らうとした私はたしなめられた。
「靴はね、御自分でもつて上つて下さい」
破れたスリッパが、海老いろの絨氈とは、一応不似合である。
私はうけとつた鍵をポケットに入れ、二つの鞄と一足の靴を持余して三階へゆく階段の途中で一休みした。
『靴つて奴は、手に持つとなると、何て不便な恰好をしてゐるんだらう』
私はかう考へて、靴紐を解いて一緒に結んで、その結び目の輪を指にかけた。
三島由紀夫「大阪の連込宿――『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より
309 :
名無しさん@社会人:2011/04/03(日) 00:20:19.12
空のビール罎と残肴の皿を盆にのせて下りて来た女中が、私にぶつかりさうになつて、アレエといふ古風な悲鳴を
口の中で叫んだ。私はひがみではないが、この女中の目つきにも、何となく自分が客扱ひをされてゐないのを感じる。
故なくしてダブルベッドを一人で占領する私のやうな客は、汽車の坐席に横になつて二人分の空間を占領する
乗客のやうに社会的擯斥に会ふものらしい。私は昇りがけに、上から盆を見下ろしたが、不味さうに残つた
メンチボールらしいものの皿は二つある。そのちぎれて残つたメンチボールは、何かとてもいやらしい喰べ物の
やうに思はれる。
三階の廊下は森閑としてゐた。つきあたりの窓の空が駅近傍のネオンサインのために火事のやうに紅い。
私の部屋は三一四号である。入ると、六畳にしてはひろい八畳にしては狭い殺風景な全景があらはれる。(中略)
床は安つぽい紋様の緑いろのリノリュームで張つてある。壁紙は臙脂(えんじ)と白の花もやうであるが、別段
色あせてゐるやうにも見えないのは、一日中日光の射しこまない部屋だからであらう。
三島由紀夫「大阪の連込宿――『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より
310 :
名無しさん@社会人:2011/04/03(日) 00:22:06.64
見上げると、天井から、裸電球が臆面もなく下つてゐて、部屋のなかで今しがた何かが動いたやうな気がしたのは、
揺れてゐる電灯のおかげで、私の影が揺れたのである。
早速顔を洗はうとすると、部屋の一方の壁をおほふ薄汚れたボイルのカーテンが目に入る。そのカーテンの
万遍ない汚れ方といふものは、人工的に汚れを染めたとしか思はれない。その片方をあけると、鏡と洗面器があり、
片方をあけると真鍮の棒から洋服掛が下つてゐる。
私はたつた一つの三等病室のやうな窓をあけた。
その硝子といふのがまた、厚い緑がかつた磨硝子の中に金網を仕込んだ奴である。
午後九時だつた。窓の下の錯雑した家の二階の窓には目かくしがない。薄暗い部屋のなかでほつれ毛をしきりに
掻き上げながら、ミシンを踏んでゐる女のすがたが見える。横顔が妙に骨ばつて、尖つてみえる。狐かもしれない。
……空の遠くには大小さまざまのネオンサインがいそがしく活動してゐる。ここからは中の島の方角が見えるの
かしらん。
三島由紀夫「大阪の連込宿――『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より
311 :
名無しさん@社会人:2011/04/03(日) 00:23:45.30
忽ち扉がノックされた。
女中が入つてくる。ひどくだらしのない風態で、はらわたのはみでた桃いろの草履を引きずつて歩いてゐる。
手には土瓶と茶碗をのせた盆を持つてゐるが、すすめられた茶碗から呑まうとすると、御丁寧に縁が大きく
欠けてゐる。
お茶をのむ。無言の対峙。呑みをはる。
「御勘定!」
間髪を容れずしてかう言はれては、いくら私が剛胆でも好い加減おびやかされる。
「いくらだい」
茶代の催促かと考へて私はたづねた。
「七百五十円!」
ずいぶん高い番茶もあるものである。呆気にとられてゐると、重ねてかう言つた。
「朝食とコミで七百五十円」
つまり彼女は、このホテルの合理的な慣習に従つて、宿泊料・茶代・食費を含むお会計全額を前金で請求して
ゐるのである。
女中が行つてしまふと私は退屈した。廊下へ出た。
(中略)
……私は緑いろのリノリュームの上を巡査のやうに何となく歩いた。
『案内人のないホテルといふのは洒落れたものだなあ』と私は考へた。『前金制、……案内人なし、……その他に
どんな規約があるのかしらん』
三島由紀夫「大阪の連込宿――『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より
312 :
名無しさん@社会人:2011/04/03(日) 00:28:12.38
私は壁に不細工に貼られてゐる注意書を丹念に読んだ。
(中略)
余談になるが、かういふ注意書に興味をもつのが私の道楽である。
学士会館の喫煙室の椅子の背には、いちいち札がぶら下つてゐて、その札にどんな馬鹿なことが書いてあつたかを
おぼえてゐるのは、この道楽のおかげである。覚えてゐる人もあるかもしれないが、椅子毎にぶら下つてゐた
木札にはかう書いてあつた。
「この椅子の位置を動かした方は、お忘れなく元の位置に戻しておいて下さい」
また余談になるが、東京大学法学部の厠には、磁器の板に刷つたこんな文句が壁にはめてあつた。
「この便所は水洗便所で、特別の装置をもつたものですから、固い紙類、異物、セルロイド等を投下すると、
パイプが梗塞状態になり故障を惹起すことになりますから、十分注意の上、使用して下さい」
六法全書をめくると、こんな法律がある。
「動物の占有者は其動物が他人に加へたる損害を賠償する責に任ず。但し動物の種類及び性質に従ひ相当の注意を
以て其保管を為したるときは此の限に在らず。占有者に代はりて動物を保管する者も亦、前項の責に任ず」
三島由紀夫「大阪の連込宿――『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より
313 :
名無しさん@社会人:2011/04/03(日) 00:30:14.63
……たまたまこんな馬鹿らしいことを私が思ひ出したのには理由がある。椅子に下つたあの妙な木札は、椅子の
上での安楽な休息と別物であるやうに、便所の掲示は生あたたかい糞尿と、法律の規定はよく跳びまはる元気な
フォックステリヤと、一応別物でありながら、そこには何かしら「ありうべき場合」を網羅しようとして陥つた
抽象の中に、異様に生々しいものが横たはつてゐる。生きてとびはねてゐる現実の犬よりも、もつと生々しい
抽象的な犬がそこに想定される。
ホテルの規定は、いふまでもなく馬鹿らしいものの一つである。しかしこの注意書のおかげで、この殺風景な
部屋には、妙に生々しい実質が与へられてゐるやうに思はれる。連れ込みのお客も部屋へ入つた以上、こんな
規定に則つて行動し、その限りではみんな劃一的な、身も蓋もない存在になつてしまふ。その限り……、それが
生活といふものだ。それなしには誰も実質を失つてしまふ場所で、この注意書が「生活」の教訓を垂れてゐるのだ。
三島由紀夫「大阪の連込宿――『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より
314 :
名無しさん@社会人:2011/04/03(日) 00:31:45.97
朝の食事には規定に従つて地下室の食堂がアベックで溢れるだらうと考へた私の目算は外れた。行つてみると、
タイル張の冷え冷えとした部屋に、タイル張の大きな柱がいくつも立つてゐる。タイルの柱はあらかた剥げてゐて
汚ならしい。配膳机のやうな長方形のテーブルが並んでをり、椅子がひつそりと並んでゐる。
「何番さん?」
と出て来たコックがたづねた。
「三一四番」
と私は答へた。私はこんな取扱には一向平気だ。
渦巻の凸凹のあるアルミニュームの丸盆に満載した朝食が運ばれて来て、盆ごと私の前に置かれた。
日向水のやうな味噌汁をすすつてゐると、疲労困憊したスリッパの足音がして、着流しの老人がやつて来て、
私の目の前のテーブルに背を向けて坐つた。
坐りかけて右方の柱のかげへ、やあ、おはやう、と嬉しさうに挨拶した。今まで見えなかつたが、そこには
もう一人食事をしてゐる人があるらしい。私のところからは依然見えにくい。
間もなく柱のかげの人は立上つて、コックに、おつさん、ごちそうさん、と声をかけてゐる。
三島由紀夫「大阪の連込宿――『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より
315 :
名無しさん@社会人:2011/04/03(日) 00:34:02.09
見ると、四十を越したか越さないかの荒んだ肌の女である。寝間着に伊達巻ならまだしものこと、細紐一本が
ゆるゆると浴衣の胴中を締めてゐる。細紐はぬるま湯のやうにほどけてしまひさうで、もしかするとこんな
着こなしは、寝起きに水おしろいを刷いた衿元を見せようためかもしれない。女は立つたまましばらく楊枝を
使つてゐたが、煙草に火をつけると、一吹きしては、大袈裟に指さきであたりの煙を払ふやうにしながら食堂を
出て行つた。
あとには老人の入歯の歯音が、人気のない朝の食堂できかれる唯一の音である。
『全くへんな旅行の振出しだ』と私は考へた。
『早く逃げ出さなくてはいけない』
こんな風変りな宿に永くゐたら、予測することもできない不幸に引止められて、あの老人の年まで居つづけなければ
ならぬやうにならないとも限らない。朝飯をすませたら、すぐ出てしまはう』
……さうして私は地上へ向けられた地下室の天窓を見上げるが、こいつも例の金網入りの青い磨硝子である。
硝子を透して来る光は明るいけれども、その上をひつきりなしに流れてゐる淡緑色の水の影は、今朝になつて
降りだした雨らしかつた。
三島由紀夫「大阪の連込宿――『愛の渇き』の調査旅行の一夜」より
316 :
名無しさん@社会人:2011/04/05(火) 10:46:21.57
尾崎紅葉の「金色夜叉」の箕輪家の歌留多会の場面は大へん有名で、お正月といふと、近代文学の中では、まづ
この場面が思ひだされるほどです。
(中略)
三十人あまりの若い男女が、二手にわかれて、歌留多遊びに熱中してゐるありさまは、場内の温気に顔が赤くなつて
ゐるばかりでなく、白粉がうすく剥げたり、髪がほつれたり、男もシャツの腋の裂けたのも知らないでチョッキ姿に
なつてゐるのやら、羽織を脱いで帯の解けた尻をつき出してゐるのやら、さまざまですが、
「喜びて罵り喚く声」
「笑頽(わらひくづ)るゝ声」
「捩合(ねぢあ)ひ、踏破(ふみしだ)く犇(ひしめ)き」
「一斉に揚ぐる響動(どよみ)」
など、大へんなスパルタ的遊戯で、ダイヤモンドの指輪をはめた金満家のキザ男富山は、手の甲は引つかかれて
血を出す、頭は二つばかり打たれる。はふはふのていで、この「文明ならざる遊戯」から、居間のはうへ逃げ出します。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より
317 :
名無しさん@社会人:2011/04/05(火) 10:47:46.65
――むかしの日本には、今のやうなアメリカ的な男女の交際がなかつた代りに、この歌留多会のやうな、まるで
ツイスト大会もそこのけの、若い男女が十分に精力を発散して取つ組み合ひをする機会がないわけではありませんでした。
紅葉がいみじくも「非文明的」と言つてゐるやうに、かういふ伝統は、武家の固苦しい儒教的伝統や、明治に
なつて入つてきた田舎くさい清教徒のキリスト教的影響などと別なところから、すなはち、「源氏物語」以来の
みやびの伝統、男女の恋愛感情を大つぴらに肯定する日本古来の伝統に直につながるものでありました。百人一首の
歌の詩句は、古語ですから柔らげられてゐるやうだが、どれもこれも、良家の子女にはふさはしくない、露骨な
恋愛感情を歌つたものばかりでした。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より
318 :
名無しさん@社会人:2011/04/05(火) 10:48:57.98
お正月といふと、日ごろスラックスでとびまはつてゐるはねつかへり娘まで、急に和服を着て、おしとやかに
なるのは面白い風俗ですが、今のお嬢さんは和服を着馴れないので、たまに着ると、鎧兜を身に着けたごとく
コチンコチンになつてしまふ。必要以上におしとやかにも、猫ッかぶりにも見えてしまふわけです。
私はさういふ気の毒な姿を見ると、ちかごろの日本人は、「日本的」といふ言葉をどうやら外国人風に考へて、
何でも、日ごろやつてゐるアメリカ的風俗と反対なもの、花やかに装ひながらお人形のやうにしとやかなもの、
ととつてゐるのではないかといふ気がします。
「日本的」といふ言葉のなかには、十分、ツイスト的要素、マッシュド・ポテト的要素、ロックンロール的要素も
あるのです。たださういふ要素が今では忘れられて、いたづらに、静的で類型的なものが、「日本的」と称されて
ゐるにすぎません。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より
319 :
名無しさん@社会人:2011/04/05(火) 10:50:05.72
実際、地球上どこでも、人間が大ぜい集まつて住んでゐるところで、やつてみたいことや、言つてみたいことに、
そんなにちがひがあるわけはなく、たまたま日本が鎖国のおかげで孤立的な文化を育て、右のやうな要素までも
すべて日本的な形に特殊化して、表現してきたのは事実ですが、今日のやうに、世界のどこへでもジェット機で
二十四時間以内に行けるほどになると、「日本的なもの」の中の、ツイスト的要素はアメリカ製で間に合はせ、
シャンソン的要素はフランス製で間に合はせ、……といふ具合に、分業ができてきて、どうにも外国製品では
間に合はない純日本的要素だけを日本製の「日本趣味」で固める、といふ風になつてくる。
それでは、一例がお正月の振袖みたいな、わづかに残されたものだけが、純にして純なる本当の「日本的なもの」で
あるか、といふと、それはちがふ。そんなに純粋化されたものは、すでに衰弱してゐるわけで、本来の
「日本的なもの」とは、もつと雑然とした、もつと逞ましいものの筈なのです。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より
320 :
名無しさん@社会人:2011/04/05(火) 10:51:23.09
(中略)
今年はいよいよオリンピックの年ですが、今から私がおそれてゐるのは、外人に向つての「日本趣味」の押売りが、
どこまでひどくなるか、といふことです。振袖姿の美しいお嬢さんが、シャナリシャナリ、花束を抱へて飛行機へ
迎へに出ること自体は、私はあへて非難しませんが、一例が次のやうな例はどうでせうか?
日本の服飾美学の伝統はすばらしいもので、江戸の小袖の大胆なデザイン、配色など、今のわれわれから見ても、
超モダンに感じられます。日本人の色彩感覚はすばらしく、それ自体で、みごとな色の配合のセンスを完成して
ゐます。この感覚の高さは、決してフランス人にも劣るものではありません。しかし一方、先年、フランスから
コメディー・フランセエズの一行が来たとき、舞台衣裳の配色の趣味のよさ、調和のよさ、(中略)カーテン・
コールで、登場人物一同が手をつないで舞台にあらはれたときは、その美しさに息を呑むくらゐでした。しかし、
突然、日本のお嬢さん方の花束贈呈がはじまり、色彩の城はとたんに、見るもむざんなほど崩壊しました。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より
321 :
名無しさん@社会人:2011/04/05(火) 10:54:36.39
色とりどりの振袖姿、色とりどりの花、わけても花束につけた俗悪な赤いリボンの色、……これで、今まで
保たれてゐた寒色系統の色の調和は、一瞬のうちにめちやくちやにされ、劇の感興まで消え失せてしまひました。
かういふのを「日本的」歓迎と思ひ込んでゐる無神経さ、私はこれをオリンピックに当つてもおそれます。本当に
「日本的な」心とは、フランスの衣裳美にすなほに感嘆し、この感嘆を純粋に保つために、かりにも舞台上へ
ほかの色彩などを一片でも持ち込まない心づかひを示すことなのです。そこにこそ「日本的な」すぐれた色彩感覚が
証明されるのです。右のやうな仕打は、決して「日本的」なのではありません。
「日本的なもの」についていろいろと心を向ける機会の多いお正月に、今年こそ、ぜひ、本当の「日本的なもの」を
発見していただきたいと思ひます。
三島由紀夫「『日本的な』お正月」より
322 :
名無しさん@社会人:2011/04/06(水) 11:44:37.16
三月といふ月は、季節的には、何だか落着かない、いらいらした月である。何度か冴え返る寒さ、目つぶしを
喰はす埃と突風、木々の芽生えのじれつたさ、それから不規則な雨、……ものごとの成長の季節がかういふものなら、
われわれの青春時代も愉快なものであらう筈がない。
生物は、いらいらの中で育ち、成長期に死に一等親近してゐるやうに感じ、さて、幸福感を感じるときには、
もう衰退の中にゐるのだ。
(中略)
春といふ言葉は何と美しく、その実体は何とまとまりがなく不安定であらう。さうして青春は思ひ出の中でのみ
美しいとよく云ふけれど、少し記憶力のたしかな人間なら、思ひ出の中の青春は大抵醜悪である。多分、春が
こんなに人をいらいらさせるのは、この季節があまりに真摯誠実で、アイロニイを欠いてゐるからであらう。
あの春先のまつ黄いろな突風に会ふたびに、私は、うるさい、まともすぎる誠実さから顔をそむけるやうに、
顔をそむけずにはゐられないのである。
三島由紀夫「春先の突風」より
323 :
名無しさん@社会人:2011/04/07(木) 20:50:20.65
そもそも推理小説とは欧米でも売れて売れて困るもので、売れない推理小説は、そもそも推理小説の資格がない
やうなものだ。
純文学には、作者が何か危険なものを扱つてゐる、ふつうの奴なら怖気をふるつて手も出さないやうな、取扱の
きはめて危険なものを作者が敢て扱つてゐる、といふ感じがなければならない、と思ひます。つまり純文学の
作者には、原子力を扱ふ研究所員のやうなところがなければならないのです。(中略)小説の中に、ピストルや
ドスや機関銃があらはれても、何十人の連続殺人事件が起つても、作者自身が何ら身の危険を冒して『危険物』を
扱つてゐないといふ感じの作品は、純文学ではないのでせう。
純文学は、と云つても、芸術は、と云つても同じことだが、究極的には、そこに幸福感が漂つてゐなければ
ならぬと思ふ。それは表現の幸福であり、制作の幸福である。どんな危険な怖ろしい作業であつても、いや、
危険で怖ろしい作業であればあるほど、その達成のあとには、大きな幸福感がある筈で、書き上げられたとき
その幸福感は遡及して、作品のすべてを包んでしまふのだ。
三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より
324 :
名無しさん@社会人:2011/04/07(木) 20:51:29.44
(中略)
人間、四十歳になれば、もう美しく死ぬ夢は絶望的で、どんな死に方をしたつて醜悪なだけである。それなら、
もう、しやにむに生きるほかはない。
室生犀星氏の晩年は立派で、実に艶に美しかつたが、その点では日本に生れて日本人たることは倖せである。
老いの美学を発見したのは、おそらく中世の日本人だけではないだろうか。殊に肉体芸術やスポーツの分野では、
東西の差が顕著で、先代坂東三津五郎丈は老齢にいたるまで見事な舞台姿を見せたが、セルジュ・リファールは
もうすでに舞台姿は見るに堪へぬ。(中略)スポーツでも、五十歳の野球選手といふものは考へらないが、
七十歳の剣道八段は、ちやんと現役の実力を持つてゐる。
肉体の領域でもこれだから、精神の領域では、日本人ほど「老い」に強い国民はないだらう。室生氏などは
世阿弥のいはゆる「珍しき花にて勝」つた人であらう。
三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より
325 :
名無しさん@社会人:2011/04/07(木) 20:52:48.02
(中略)
このごろは町で想像もつかないことにいろいろぶつかる。小説家の想像力も、こんなことに一々おどろいてゐる
やうでは貧寒なものだ。
旧文春ビルのTといふ老舗の菓子屋で買物をしたら、私の目の前で、男の店員が、私の買物を包んでゐる女の店員に、
「領収書は要らないんだろ。もう金もらつた?」
ときいてゐた。
客の前で、大声で「もう金もらつた?」ときく心理は、どういふのだらう。
やはり銀座の五丁目のMデパートで、菓子売場の女店員に、
「舶来のビスケットある?」
ときいたら、
「チョコレートならありますけど、ビスケットは舶来はありません」
と言下に答へた。売場を一まはりして、さつきの女店員の立つてゐる飾棚を見たら、ちやんと英国製ビスケットが
二缶並んでゐる。
三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より
326 :
名無しさん@社会人:2011/04/07(木) 20:53:46.17
「ここにあるぢやないか」
と言つたら、
「あら」とゲラゲラ笑つてゐた。
この二種類だけかときいたら、二種類だけです、と答へ、別の女の子が、他にも二種類あります、と持つて
来たはいいが、値段をきくと、全然同じ缶を二つ並べて、片方を八百円、片方を千五百円といふ無責任さ。
そのあひだゲラゲラ笑ひどほしで、奥の売場主任も我関せず焉で知らん顔をしてゐた。
(中略)
――かういふいろんな不条理か事例は、小説に使つたら、みんな嘘と思はれるだらう。もし今忠実な風俗小説といふ
ものが書かれたら、超現実主義風な作品になるのではないかと思はれる。
三島由紀夫「『純文学とは?』その他」より
327 :
名無しさん@社会人:2011/04/10(日) 12:07:17.46
外国へ行つたら、日本のことをとやかくきかれるかと思つて、それなりの心づもりをして行つたら、大まちがひで
あつた。どの国も自分の国のことだけで一杯で、日本みたいに好奇心のさかんな国はどこにもない。講演会で、
中学生が講師に質問して、
「先生はサルトルについてどうお考へですか」などと訊くのは日本だけである。
なかんづく好奇心の皆無におどろかされるのはフランスで、あの唯我独尊の文化的優越感は支那に似てゐる。
(中略)
アメリカでは、はうぼうで、日本に関する歯の浮くやうなお世辞を云はれたり、「原子爆弾を落してすまなかつた」と
隣家の窓ガラスに野球の球をぶちこんだ時のやうな真顔の詫び言を云はれたこともあつたが、アメリカ人の
いふことには、概して政治的な臭味があつて人の心を打たない。それだけ、アメリカ人は正直なのであらう。
三島由紀夫「日本の株価――通じる日本語」より
328 :
名無しさん@社会人:2011/04/10(日) 12:09:08.64
一つ快い思ひ出はギリシアである。
(中略)バスが故障して何度も停つたので、その間に伯父さんにつれられて田舎へ遠足にゆく、二人のかはいらしい
小学生と知合になつた。かれらは英語を勉強してゐるので、私と英語で話すことが得意なのである。(中略)
「古橋はすばらしいですね、僕たちとても古橋を尊敬してゐるんです」
私は源氏物語の日本を尊敬してゐるなんぞとどこかの国のインテリに云はれるより、他ならぬギリシアの子供に
かう云はれたことのはうをよほど嬉しく感じた。競技の優勝者を尊敬した古代ギリシアの風習が、子供たちの心に
残つてをり、しかもわが日本が、(古代ギリシアには、水泳競技はなかつたと思はれるが)、古代ギリシアの
競技会に参加して、優勝者を出したやうな気がしたのである。かういふ端的なスポーツの勝利が、いかに世界を
おほつて、世界の子供たちの心を動かすかに、私は併せて羨望を禁じえなかつた。事実、われわれの精神の仕事も、
もし人より一センチ高く飛ぶとか、一秒速く走るかとかいふ問題をバカにすれば、殆んどその存在理由を失ふであらう。
三島由紀夫「日本の株価――通じる日本語」より
329 :
名無しさん@社会人:2011/04/11(月) 20:59:47.16
最近ウェイドレーの「芸術の運命」といふ本を面白く読んだが、この本の要旨は、キリスト教的中世には
生活そのものに神の秩序が信じられてゐて、それが共通の様式感を芸術家に与へ、芸術家は鳥のやうに自由で、
毫も様式に心を労する必要がなかつたが、レオナルド・ダ・ヴィンチ以後、様式をうしなつた芸術家は方法論に
憂身をやつし、しかもその方法の基準は自分自身にしかないことになつて、近代芸術はどこまで行つても告白の域を
脱せず、孤独と苦悩が重く負ひかぶさり、ヴァレリーのやうな最高の知性は、かういふ模索の極致は何ものをも
生み出さないといふことを明察してしまふ、といふのである。著者はカソリック教徒であるから、おしまひには、
神の救済を持出して片づけてゐる。
道徳的感覚といふものは、一国民が永年にわたつて作り出す自然の芸術品のやうなものであらう。しつかりした
共通の生活様式が背後にあつて、その奥に信仰があつて、一人一人がほぼ共通の判断で、あれを善い、これを悪い、
あれは正しい、これは正しくない、といふ。
三島由紀夫「モラルの感覚」より
330 :
名無しさん@社会人:2011/04/11(月) 21:03:18.26
それが感覚にまでしみ入つて、不正なものは直ちに不快感を与へるから「美しい」行為といはれるものは、直ちに
善行を意味するのである。もしそれが古代ギリシャのやうな至純の段階に達すると、美と倫理は一致し、芸術と
道徳的感覚は一つものになるであらう。
最近、汚職や各種の犯罪があばかれるにつれて、道徳のタイ廃がまたしても云々されてゐる。しかしこれは
今にはじまつたことではなく、ヨーロッパが神をうしなつたほどの事件ではないが、日本も敗戦によつて古い神を
うしなつた。どんなに逆コースがはなはだしくならうと、覆水は盆にかへらず、たとへ神が復活しても、神が
支配してゐた生活の様式感はもどつて来ない。
もつと大きな根本的な怖ろしい現象は、モラルの感覚が現にうしなはれてゐる、といふそのことではないのである。
三島由紀夫「モラルの感覚」より
331 :
名無しさん@社会人:2011/04/11(月) 21:06:26.63
今世紀の現象は、すべて様式を通じて感覚にぢかにうつたへる。ウェイドレーの示唆は偶然ではなく、彼は様式の
人工的、機械的な育成といふことに、政治が着目してきた時代の子なのである。コミュニズムに何故芸術家が
魅惑されるかといへば、それが自明の様式感を与へる保証をしてゐるやうに見えるからである。
いはゆるマス・コミュニケーションによつて、今世紀は様式の化学的合成の方法を知つた。かういふ方法で
政治が生活に介入して来ることは、政治が芸術の発生方法を模倣してきたことを意味する。我々は今日、自分の
モラルの感覚を云々することはたやすいが、どこまでが自分の感覚で、どこまでが他人から与へられた感覚か、
明言することはだれにもできず、しかも後者のはうが共通の様式らしきものを持つてゐるから、後者に従ひがちに
なるのである。
三島由紀夫「モラルの感覚」より
332 :
名無しさん@社会人:2011/04/11(月) 21:09:00.44
政治的統一以前における政治的統一の幻影を与へることが、今日ほど重んぜられたことはない。文明のさまざまな
末期的錯綜の中から生れたもつとも個性的な思想が非常な近道をたどつて、もつとも民族的な未開な情熱に結びつく。
ブルクハルトが「イタリー・ルネッサンスの文化」の中で書いてゐるやうに「芸術品としての国家や戦争」が
劣悪な形で再現してをり、神をうしなつた今世紀に、もし芸術としてなら無害な天才的諸理念が、あらゆる
有害な形で、政治化されてゐるのである。
芸術家の孤独の意味が、かういふ時代ではその個人主義の劇をこえて重要なものになつて来てをり、もしモラルの
感覚といふものが要請されるならば、劣悪な芸術の形をした政治に抗して、芸術家が己れの感覚の誠実を
うしなはないことが大切になるのである。
三島由紀夫「モラルの感覚」より
333 :
名無しさん@社会人:2011/04/13(水) 12:05:39.56
科学的見地から見れば、素人のわれわれにも、フロイトのユダヤ的夢判断よりもハヴロック・エリスの夢の研究の
はうが妥当なやうに思はれる。しかしフロイトの魅力はもとよりその妥当さに在るのではない。フロイトの強引な
仮説は今日われわれの社会生活の常識にまでしみ入りおくればせに北米合衆国を風靡して、おかみさん階級までが
アナリシスに熱中してゐる。古典的合理主義の支配してゐる米国では、性慾その他の非合理的世界がいつも
恐怖の対象になつてゐるので、フロイトはもつぱらその合理的側面から、DDTみたいに愛用されてゐるのである。
「芸術論」を再読してみて、カントが芸術にぶつかつて「判断力批判」で失敗したやうに、フロイトも芸術で
つまづいて、ここで最もボロを出してゐると思はれるところが多い。極度に反美学的考察のやうにみえながら、
実はフロイトが陥つてゐるのは、美学が陥つたのと同様の係蹄である。芸術の体験的把握を離れた分析の図式主義と、
芸術を形成する知的な要素と官能的な要素との相関関係の解明にとどまつて、「鶏が先か卵が先か」といふ
循環論法に終始してゐる。
三島由紀夫「フロイト『芸術論』」より
334 :
名無しさん@社会人:2011/04/14(木) 11:14:29.90
電気の世の中が蛍光電灯の世の中になつて、人間は影を失なひ、血色を失なつた。蛍光灯の下では美人も幽霊の
やうに見える。近代生活のビジネスに疲れ果てた幽霊の男女が、蛍光灯の下で、あまり美味しくもなささうな色の
料理を食べてゐるのは、文明の劇画である。
そこで、はうばうのレストランでは、臘燭が用ひられだした。磨硝子の円筒形のなかに臘燭を点したのが卓上に
置かれる。すると、白い卓布の上にアット・ホームな円光がゑがかれ、そこに顔をさし出した女は、周囲の暗い
喧騒のなかから静かに浮彫のやうに浮き出して見え、ほんの一寸した微笑、ほんの一寸した目の煌めきまでが
いきいきと見える。情緒生活の照明では、今日も臘燭に如くものはないらしい。そこで今度は古来の提灯が
かへり見られる番であらう。
子供のころ、こんな謎々があつた。
「火を紙で包んだもの、なあに」
この端的な提灯の定義は、今日でも外国人の好奇心を誘ふものであらう。
私の幼年時代はむろん電気の時代だつたが、提灯はまだ生活の一部に生きてゐた。
三島由紀夫「臘燭の灯――今月の表紙に因んで」より
335 :
名無しさん@社会人:2011/04/14(木) 11:15:06.72
内玄関の鴨居には、家紋をつけた大小長短の提灯が埃まみれの箱に納められてかかつてゐた。火事や変事の場合は、
それらが一家の避難所の目じるしになるのであつた。
提灯行列は軍国主義花やかなりし時代の唯一の俳句的景物であつたが、岐阜提灯のさびしさが今日では、生活の中の
季節感に残された唯一のものであらう。盆のころには、地方によつては、まだ盆灯籠が用ひられてゐるだらうが、
都会では灯籠といへば、石灯籠か回はり灯籠で、提灯との縁はうすくなつた。
「大塔宮曦鎧」といふ芝居があつて、その身替り音頭の場面には、たしか美しい抒情的な切子(きりこ)灯籠が
一役買つてゐた。切子灯籠は、歳時記を見ると、切子とも言ひ、灯籠の枠を四角の角を落とした切子形に作り、
薄い白紙で張り、灯籠の下の四辺には模様などを透し切りにした長い白紙を下げたもの、と書いてある。江戸時代の
庶民の発明した紙のシャンデリアである。
花灯籠、絵灯籠、灯籠流し、といふのはもう言葉ばかりで、正直のところ、私の都会生活で、ゆらめく臘燭の灯に
接する機会は、レストランか、さもなければ停電の夜だけになつた。
三島由紀夫「臘燭の灯――今月の表紙に因んで」より
336 :
名無しさん@社会人:2011/04/16(土) 11:15:20.76
張り合ひのない女ほど男にとつて張り合ひのある女はなく、物喜びをしないといふ特性は、愛されたいと思ふ女の
必ず持たねばならない特性であつて、かういふ女を愛する男は、大抵忠実な犬よりも無愛想な猫を愛するやうに
生れついてゐる。
(中略)
冷たさの魅力、不感症の魅力にこそ深淵が存在する。
物理的には、ものを燃え立たせるのは火だけであるのに、心理的には、ものを燃え立たせるものは氷に他ならない。
そしてこの種の冷たさには、ふしぎと人生の価値を転倒させる力がひそんでゐて、その前に立てば、あらゆる価値が
冷笑され、しかも冷笑される側では、そんな不遜な権利が、一体客観的に見て相手にそなはつてゐるかどうかを、
検討してみる余裕もないのである。
こんないら立たしい魅力も、しかし心を息(やす)ませないから、実は魅力の御本尊の自負してみるほど、
永続きはしないものである。
三島由紀夫「好きな女性」より
337 :
名無しさん@社会人:2011/04/16(土) 11:16:46.29
(中略)
ありがた迷惑なほどの女房気取も、時によつては男の心をくすぐるものである。かういふ女性の中には、どんなに
知識と経験を積んでも、自分でどうしても乗り超えられない或る根本的な無智が住んでゐて、その無智が決して
節度といふことの教へを垂れないから、いつも彼女自身の過剰な感情のなかでじたばたしてゐるのである。
(中略)
恋愛では手放しの献身が手放しの己惚れと結びついてゐる場合が決して少なくない。しかし計量できない天文学的
数字の過剰な感情の中にとぢこめられてゐる女性といふものは、はたで想像するほど男をうるさがらせてはゐないのだ。
それは過剰の揺藍(ゆりかご)に男を乗せて快くゆすぶり、この世の疑はしいことやさまざまなことから目を
つぶらせて、男をしばらく高いいびきで眠らせてしまふのである。
私は時には、さういふ催眠剤的な女性をも好む。
これはさつきの議論と矛盾するやうでもあるが、一方、認識慾のつよい男ほど、催眠剤を愛用する傾きも強く、
その必要も大きいといふことが云へるだらう。
三島由紀夫「好きな女性」より
338 :
名無しさん@社会人:2011/04/16(土) 11:18:38.74
この世にはいろんな種類の愛らしさがある。しかし可愛気のないものに、永続的な愛情を注ぐことは困難であらう。
美しいと謂はれてゐる女の人工的な計算された可愛気は、たいていの場合挫折する。実に美しさは誤算の能力に
正比例する。
(中略)
可愛気は結局、天賦のものであり天真のものである。
そしてかういふものに対してなら、敗北する価値があるのだ。
ほんのちよつとした心づかひ、洋服の襟についた糸屑をとつてくれること、そんなことは誰しもすることであるが、
技巧は、かういふ些細なところでいつも正体をあらはしてしまふ。
私は小鳥を愛する女の心情の中にさへ、暗い不可解な無意識の心理を、忖度せずにはゐられない不幸な人間であるが、
たまには、(時には気候の加減で)さういふ時の女にかけがへのない天真さを発見する。
何かわれわれの庇護したい感情に愬へるものは、おそらく憐れつぽいものではなくて、庇護しなければ忽ち
汚れてしまふ、さういふ危険を感じさせる或るものなのであらう。ところが一方には何の危険も感じさせない
潔らかさや天真さといふものもあり、さういふものは却つて私を怖気づかせてしまふから妙である。
三島由紀夫「好きな女性」より
339 :
名無しさん@社会人:2011/04/18(月) 10:43:01.66
私の主義としては、匿名の原稿は一切引受けない。これは匿名批評を否定するから引受けないのではなく、
ウィスキーは決してストレイトで呑まないとか、飛行機には決して乗らないとか、(中略)さういふことを
力んで主義にしてゐる人のやうに、私も力んで主義にしてゐるにすぎない。健康上の理由のほか、大した根拠は
ないのである。
一般的に匿名批評は是が非かといふことになると、人のやることにはあまり口を出したくないから、勝手にやつて
もらつたらいい。ただ困るのは、匿名批評といふものは、人のやることにいちいち口を出したがる立場だから、
こつちがかういふ態度でゐれば、おのづと火の粉はこちらの身にかかり、無防禦の受身になつたも同様である。
事実私も、匿名といふ匿名で、袋叩きに合つた経験があり、さういふときはどうして覆面同士の気がピタリと
合ふのか、面白いほどである。
自分がやらないから、匿名家の心理といふものはわからぬが、一年もつづけてやると、自己中毒症状に陥るのでは
ないかと思はれる。ミスティフィケイションの心理には、永続性がなく、必ず地獄のやうな倦怠に陥る。
三島由紀夫「匿名批評是非」より
340 :
名無しさん@社会人:2011/04/18(月) 10:44:12.78
一生ミスティフィケイションをとほして平気だつた文学者といふものもあるが、それは実はミスティフィケイションと
見えたものが、その人の素顔だつたのである。野暮な議論だが、およそ文筆活動といふものは、自我の拡張の
喜びであつて、署名はその最低限度のあらはれである。できることなら、私、私、私、私、と百万べんも書きたいのだ。
一方、匿名の趣味は、覆面の英雄を喜ぶ民衆の趣味に支へられるから、それを読む民衆ははじめから、公平な
最大公約数的意見だなどと思つて読みはしない。(中略)さうすると、匿名作家は、おしのびの快楽にいつしか
熱中し、署名附文筆よりももつと絶対な自我の拡張のよろこびを味はつてゐるかもしれないのである。かういふ
心理が自家中毒を起すと私は言ひたいのだが、しかしそれも私のひがみの一種であらう。
結論をいふと、現代の匿名批評には、批評される対象にとつての害悪、および読者にとつての害悪はほとんど
みとめられず、ただ(余計なお節介であらうが)匿名家自身の健康に害悪がありはしないか、と憂慮されるのみである。
三島由紀夫「匿名批評是非」より
342 :
名無しさん@社会人:2011/04/20(水) 10:59:31.64
女性は抽象精神とは無縁の徒である。音楽と建築は女の手によつてろくなものはできず、透明な抽象的構造を
いつもべたべたな感受性でよごしてしまふ。構成力の欠如、感受性の過剰、瑣末主義、無意味な具体性、低次の
現実主義、これらはみな女性的欠陥であり、芸術において女性的様式は問題なく「悪い」様式である。(中略)
実際芸術の堕落は、すべて女性の社会進出から起つてゐる。女が何かつべこべいふと、土性骨のすわらぬ
男性芸術家が、いつも妥協し屈服して来たのだ。あのフェミニストらしきフランスが、女に選挙権を与へるのを
いつまでも渋つてゐたのは、フランスが芸術の何たるかを知つてゐたからである。(中略)
道徳の堕落も亦、女性の側から起つてゐる。男性の仕事の能力を削減し、男性を性的存在にしばりつけるやうな
道徳が、女性の側から提唱され、アメリカの如きは女のおかげで惨澹たる被害を蒙つてゐる。悪しき人間主義は
いつも女性的なものである。男性固有の道徳、ローマ人の道徳は、キリスト教によつて普遍的か人間道徳へと
曲げられた。そのとき道徳の堕落がはじまつた。道徳の中性化が起つたのである。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
343 :
名無しさん@社会人:2011/04/20(水) 10:59:51.63
一夫一婦制度のごときは、道徳の性別を無視した神話的こじつけである。女性はそれを固執する。人間的立場から
固執するのだ。女にかういふ拠点を与へたことが、男性の道徳を崩壊させ、男はローマ人の廉潔を失つて、
ウソをつくことをおぼえたのである。男はそのウソつきを女から教はつた。キリスト教道徳は根本的に偽善を
包んでゐる。それは道徳的目標を、ありもしない普遍的人間性といふこと、神の前における人間の平等に置いて
ゐるからである。これな反して、古代の異教世界においては、人間たれ、といふことは、男たれ、といふことで
あつた。男は男性的美徳の発揚について道徳的責任があつた。なぜなら世界構造を理解し、その構築に手を貸し、
その支配を意志するのは男性の機能だからだ。男性からかういふ誇りを失はせた結果が、道徳専門家たる地位を
男性をして自ら捨てしめ、道徳に対してつべこべ女の口を出させ、つひには今日の道徳的瓦解を招いたものと
私は考へる。一方からいふと、男は女の進出のおかげで、道徳的責任を免れたのである。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
344 :
名無しさん@社会人:2011/04/20(水) 11:00:25.87
サディズムとマゾヒズムが紙一重であるやうに、女性に対するギャラントリィと女ぎらひとが紙一重であると
いふことに女自身が気がつくのは、まだずつと先のことであらう。女は馬鹿だから、なかなか気がつかないだらう。
私は女をだます気がないから、かうして嫌はれることを承知で直言を吐くけれども、女がその真相に気がつかない間は、
欺瞞に熱中する男の勝利はまだ当分つづくだらう。男が欺瞞を弄するといふことは男性として恥づべきことであり、
もともとこの方法は女性の方法の逆用であるが、それだけに最も功を奏するやり方である。「危険な関係」の
ヴァルモン子爵は、(中略)女性崇拝のあらゆる言辞を最高の誠実さを以てつらね、女の心をとろかす甘言を
総動員して、さて女が一度身を任せると、敝履(へいり)の如く捨ててかへりみない。(中略)
女に対する最大の侮蔑は、男性の欲望の本質の中にそなはつてゐる。女ぎらひの侮蔑などに目くじら立てる女は、
そのへんがおぼこなのである。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
345 :
名無しさん@社会人:2011/04/20(水) 11:05:28.96
(中略)
私が大体女を低級で男を高級だと思ふのは、人間の文化といふものが、男の生殖作用の余力を傾注して作り上げた
ものだと考へてゐるからである。蟻は空中で結婚して、交尾ののち、役目を果した雄がたちまち斃れるが、雄の
本質的役割が生殖にあるなら、蟻のまねをして、最初の性交のあとで男はすぐ死ねばよいのであつた。
omne animal post coitum triste(なべての動物は性交のあとに悲し)といふのは、この無力感と死の予感の痕跡が
のこつてゐるのであらう。が、概してこの悲しみは、女には少く、男には甚だしいのが常であつて、人間の文化は
この悲しみ、この無力感と死の予感、この感情の剰余物から生れたのである。したがつて芸術に限らず、
文化そのものがもともと贅沢な存在である。芸術家の余計者意識の根源はそこにあるので、余計者たるに悩むことは、
人間たるに悩むことと同然である。
男は取り残される。快楽のあとに、姙娠の予感もなく、育児の希望もなく、取り残される。この孤独が生産的な
文化の母胎であつた。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
346 :
名無しさん@社会人:2011/04/20(水) 11:05:53.79
したがつて女性は、芸術ひろく文化の原体験を味はふことができぬのである。文化の進歩につれて、この孤独の意識を
先天的に持つた者が、芸術家として生れ、芸術の専門家になるのだ。私は芸術家志望の女性に会ふと、女優か
女声歌手になるのなら格別、女に天才といふものが理論的にありえないといふことに、どうして気がつかないかと
首をひねらざるをえない。
あらゆる点で女は女を知らない。いちいち男に自分のことを教へてもらつてゐる始末である。教師的趣味の男が
いつぱいゐるから、それでどうにか持つてゐるが、丁度眼鏡を額にずらし上げてゐるのを忘れて、一生けんめい
眼鏡をさがしてゐる人のやうに、女は女性といふ眼鏡をいつも額にずらして忘れてゐるのだ。(時には故意に!)
こんな歯がゆい眺めはなく、こんな面白くも可笑しくもない、腹の立つ光景といふものはない。私はそんな明察を
欠いた人間と附合ふのはごめんである。うつかり附合つてごらん。あたしの眼鏡をどこへ隠したのよ、とつかみ
かかつてくるに決つてゐる。
もつとも女が自分の本質をはつきり知つた時は、おそらく彼女は女ではない何か別のものであらう。
三島由紀夫「女ぎらひの弁」より
347 :
名無しさん@社会人:2011/04/21(木) 12:59:19.86
中世における世界像の縮小とコロンブスのアメリカ発見による再拡大、近世における植民地の争奪による世界像の
終局的拡大、……かういふものを通じて、前大戦後の失敗にをはつた国際連盟あたりから、世界国家の理想が
登場してくる。第二次世界大戦後にもこの理想は、国際連合の形で生き延びてゐる。
そこで問題は、原子爆弾と国際連合との宿命的なつながりに帰着する。
われわれはもう個人の死といふものを信じてゐないし、われわれの死には、自然死にもあれ戦死にもあれ、
個性的なところはひとつもない。しかし死は厳密に個人的な事柄で、誰も自分以外の死をわが身に引受けることは
できないのだ。死がこんな風に個性を失つたのには、近代生活の劃一化と劃一化された生活様式の世界的普及に
よる世界像の単一化が原因してゐる。
ところで原子爆弾は数十万の人間を一瞬のうちに屠るが、この事実から来る終末感、世界滅亡の感覚は、おそらく
大砲が発明された時代に、大砲によつて数百の人間が滅ぼされるといふ新鮮な事実のもたらした感覚と同等の
ものなのだ。
三島由紀夫「死の分量」より
348 :
名無しさん@社会人:2011/04/21(木) 13:00:02.93
小さな封建国家の滅亡は、世界の滅亡と同様の感覚的事実であつた。われわれの原子爆弾に対する恐怖には、
われわれの世界像の拡大と単一化が、あづかつて力あるのだ。原爆の国連管理がやかましくいはれてゐるが、
国連を生んだ思想は、同時に原子爆弾を生まざるをえず、世界国家の理想と原爆に対する恐怖とは、互ひに力を
貸し合つてゐるのである。
交通機関の発達と、わづか二つの政治勢力の世界的な対立とは、われわれの抱く世界像を拡大すると同時に
狭窄にする。原子爆弾の招来する死者の数は、われわれの時代の世界像に、皮肉なほどにしつくりしてゐる。
世界がはつきり二大勢力に二分されれば、世界の半分は一瞬に滅亡させる破壊力が発明されることは必至である。
しかし決してわれわれは他人の死を死ぬのではない。原爆で死んでも、脳溢血で死んでも、個々人の死の分量は
同じなのである。原爆から新たなケンタウロスの神話を創造するやうな錯覚に狂奔せずに、自分の死の分量を明確に
見極めた人が、これからの世界で本当に勇気を持つた人間になるだらう。まづ個人が復活しなければならないのだ。
三島由紀夫「死の分量」より
349 :
名無しさん@社会人:2011/04/23(土) 11:24:19.72
僕は青春の花のさかりの美しい男女にいつも喝采を送る。ある年齢の堆積から来る美といふものも、わからぬではない。
しかしそれは女に限られてゐる。自分の母の年齢までの女の美しさは、みんなわかるつもりだ。母が七十になれば、
僕には七十の老婆の美もわかるやうになるだらう。ところで、男の年齢の累積は美しくない。それは男が成年期に
達すると、単なる男から、一個の抽象概念としての「人間」に脱皮するからであらう。世間で男ざかりなどと
いふのは、主としてこの後者の意味である。女はこれに反して、いつまでたつても女だ。女は第一お化粧をするから、
いつまでも美しいわけで、生地のままの男のはうが青春のさかりは短いのである。これは世間の定説に反した私の
確信ある学説で、世の女性に捧げる福音である。アレキサンダア大王が、死ぬまで、二十歳そこそこの自分の
肖像しか作らせなかつたといふ伝説は、古代ギリシャの知恵が、このマケドニヤの大帝の中に生きてゐた証拠と思はれる。
三島由紀夫「美しいと思ふ七人の人」より
350 :
名無しさん@社会人:2011/04/24(日) 11:27:14.75
六月二十五日(土)
人間のやつたことは、自然力から、人間生活に役立つ効用を発見し、機能を引出すことだつた。道具や機械に
とつては、物の究極の構造などはどうでもよいのだ。自然の一機能が、ただグロテスクに誇張されてゐればよいのだ。
科学が誕生した。科学の目的は、宇宙的法則および宇宙構造の認識に在るとしても、それを模写し、その雛型を
つくることに在るのではない。そんな全的なことは、何の役にも立たないのだ。
(中略)
原子力時代が到来して、科学の人間的要請、つまり自然の効用と機能を盗むことが、いひしれぬ非人間的な結果に
おちいり、逆に、非人間的要請から出発した芸術が、唯一の人間的なものとして取り残されたのは、逆説的な
ことである。しかし原子力研究が発見したやうな物の究極の構造へ、芸術は新らしい方法によつて達するべきで
あらうか? あくまで可視的な自然にとどまることが、芸術の節度であり、倫理でもあるのではないか?
原子爆弾は、人間の作つたもつともグロテスクな、誇張された自然である。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
351 :
名無しさん@社会人:2011/04/24(日) 11:28:09.28
六月三十日(木)
私が太宰治の文学に対して抱いてゐる嫌悪は、一種猛烈なものだ。第一私はこの人の顔がきらひだ。第二に
この人の田舎者のハイカラ趣味がきらひだ。第三にこの人が、自分に適しない役を演じたのがきらひだ。女と
心中したりする小説家は、もう少し厳粛な風貌をしてゐなければならない。
私とて、作家にとつては、弱点だけが最大の強味となることぐらゐ知つてゐる。しかし弱点をそのまま強味へ
もつてゆかうとする操作は、私には自己欺瞞に思はれる。どうにもならない自分を信じるといふことは、
あらゆる点で、人間として僭越なことだ。ましてそれを人に押しつけるにいたつては!
太宰のもつてゐた性格的欠陥は、少なくともその半分が、冷水摩擦や器械体操や規則的な生活で治される筈だつた。
生活で解決すべきことに芸術を煩はしてはならないのだ。いささか逆説を弄すると、治りたがらない病人などには
本当の病人の資格がない。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
352 :
名無しさん@社会人:2011/04/24(日) 11:28:35.92
七月二日(土)
青年の自殺の多くは、少年時代の死に関するはげしい虚栄心の残像である。絶望から人はむやみに死ぬものではない。
私は青年期以後、はじめて確乎とした肉体的健康を得た。かういふ人には、生れつき健康な人間とは別の心理的
機制があつて、自分は今や肉体的に健康だから、些事に対して鈍感になる権利があると考へ、そんなふうに自分を
馴らしてしまふのである。
七月四日(月)
典型的な少年は、少年期の犠牲になる。しかしこれは少年期ばかりではないかもしれぬ。典型的な青年は、青春の
犠牲になる。十分に生きることは、生の犠牲になることなのだ。生の犠牲にならぬためには、十分に生きず、
フランス人のやうに吝嗇を学ばなければならぬ。貯蓄せねばならぬ。卑怯な人間にならなければならぬ。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
353 :
名無しさん@社会人:2011/04/24(日) 11:29:28.25
七月六日(水)
学生にふさはしい文章は、その清潔さにおいて、アスリート的文章だけであらう。どんなに華美な衣裳をつけて
ゐても、下には健康な筋骨が、見え隠れしてゐなくてはならない。
ところで最近私は、「太陽の季節」といふ学生拳闘選手のことを書いた若い人の小説を読んだ。よしあしは別にして、
一等私にとつて残念であつたことは、かうした題材が、本質的にまるで反対の文章、学生文学通の文章で、
書かれてゐたことであつた。
七月十日(日)
極度にまで理性に蝕まれた感情が、しかも強力に観客に作用して、観客を引きずつてゆかねばならないとは、劇の
逆説的要請であるが、感情のかういふ逆説の可能になる場所が、まさに俳優の肉体なのだ。そして媒体である俳優は、
白(せりふ)を諳んじ、ある白のあとで退場するといふやうなこまごました理性の統制に服しながら、同時に
その生理的機能をあげて、顔を紅潮させて怒り、あるひは時には本物の涙を流して嘆くのである。
しかし俳優の作品は極度に抽象的で、芸術家のなかでもつとも肉体(可視的)でものを言ふ俳優なるものが、
実はもつとも抽象的(不可視的)な作品をもつてゐる。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
354 :
名無しさん@社会人:2011/04/24(日) 11:39:10.70
七月十日(日)
肉体が宿命的であるならば、精神も宿命的でないとはいへない。俳優における肉体の宿命は、あらゆる芸術家に
おける精神の宿命と、相似のものでないとはいへない。小説家の作品にも、作曲家の作品にも、画家の静物画にも、
われわれは俳優の肉体と相似のもの、まるで肉体の宿命のやうにはつきりした精神の宿命を見ないだらうか?
これらの芸術家が素材を可塑的(プラスチック)だと思つてゐるのは、単なる妄信ではなからうか?
かう考へてゆくと、私には、俳優なるもののグロテスクな定義が思ひうかんで来るのである。私は仮りに、
(あくまで仮りにだが)、かう定義したい誘惑にとらはれる。
「芸術家としての俳優は、内面と外面とが丁度裏返しになつた種類の人間、まことに露骨な可視的な精神である」と。
(中略)彼があんなにも次々と、他人の精神に身をまかせながら、(この点では俳優は批評家に似てゐる)、
批評と別の方向を辿るのは、彼にとつてはつきりした外面、はつきりした肉体があるおかげではないか。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
355 :
名無しさん@社会人:2011/04/24(日) 11:39:34.96
七月十一日(月)
扇が射落されたとき、(那須の)与市のその行為は、彼の現実認識と一つものになつてゐた。それがそのまま
認識たりうるやうな稀な行為。与市はその行為の体験によつてのみ認識に達し得たのであり、その瞬間、認識と
行為とはまつたく同一の目的、すなはち現実を変革するといふ目的に奉仕した。
さて、われわれは、かういふ一瞬のために生きれば足り、爾余の人生は死にすぎない。与市がそれによつて
生きたやうな一瞬こそ、まさに純粋な生、極度に反芸術的なもの、芸術不要の一点だ、と私は言ふのである。
芸術をここへもつてくれば、芸術は認識の冷たさと行為の熱さの中間に位し、この二つのものの媒介者であらうが、
芸術は中間者、媒介者であればこそ、自分の坐つてゐる場所がひろびろと、居心地のよいことをのぞまず、むしろ
つねに夢みてゐるのは、認識と行為とがせめぎ合ひ、与市のそれのやうに、ぎりぎりの決着のところで結ばれて、
芸術を押しつぶしてしまふことなのである。そして芸術がいつもかかるものから真の養分を得て、よみがへつて
来たといふ事実以上に、奇怪な不気味なことがあらうか?
三島由紀夫「小説家の休暇」より
356 :
名無しさん@社会人:2011/04/24(日) 21:06:42.29
七月十二日(火)
われわれの目に映る範囲では、女性的特色をもつた男色家はたくさんゐる。熾烈な女装の欲望を抱いた男もあれば、
男の言葉を使ふことにゆゑしらぬ困難を感ずる男もある。しかし無智な人間ほど、面白いことには、男色の
本質的特異性がつかめず、世俗的な異性愛の常識に犯されてしまふのである。その結果、どうなるかといふと、
自分が男のくせに男が好きなのは、自分が女だからだらうと思ひ込んでしまふ。人間は思ひ込んだとほりに
変化するもので、言葉づかひや仕草のはしばしまで、おどろくほど急激に女性化してくる。田舎出の少年などは、
ひとたびこの風習に染まると、それが都会のハイカラな流行だと思ひちがへて、たちまち女言葉に習熟してくる。
それはあたかも外国人が日本へ来て、女からばかり日本語を習つて、女の言葉づかひしか出来なくなつた場合に
似てゐる。これらの変化は生理的な変化といふよりも、支配的な異性愛文化の影響下にある一種の社会的変化とでも
云つたはうが適当であらう。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
357 :
名無しさん@社会人:2011/04/24(日) 21:07:07.50
七月十九日(火)
例のビキニ実験における補償問題でも感じたことであるが、その実験を非人間的といひ、反人道的といふときに、
われわれの人間なる概念は、すでに動揺を来してゐる。私は政治的偏見なしに言ふのであるが、水爆の実験を
した国の人間が、被害国の人間に補償を提供するといふこの行為には、国際間の問題とか、人種的偏見の問題とかを
超えて、人間の或る機能が、人間の別の機能に対して、慈悲を垂れてゐるといふ感を与へる。「知的」な概観的な
世界像に直面してゐる人間が、自分の一部分であるところの、さういふ世界像と無縁な部分に、慈悲を垂れるとは
何を意味するか。私は人間相互の問題といふよりも、人間一般の内部の出来事、といふふうに理解するのである。
たとへばわれわれは、水爆を企画する精神と無縁ではない。われわれが文明の利便として電気洗濯機を利用する
ことと、水爆を設計した精神とは無縁ではない。科学はさういふ風に発達して来て、精神の歴史にも関はつて
来たのであり、火薬の発明と活字の発明は、かつて手をたづさへて、封建制を打破したのであつた。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
358 :
名無しさん@社会人:2011/04/24(日) 21:07:40.99
現代の人間概念には、おそるべきアンバランスが起つてゐる。広島の原爆の被災者におけるよりも、あの原爆を
投下した人間に、かうしたアンバランスはもつと強烈に意識された筈であつた。被災者は火と閃光と死を見た。
それを知的に概観的に理解する暇はなかつた。相手が原爆であらうと、大砲であらうと、小銃であらうと、被害者は
いつも原始的な個体に還元され、死がさらに彼を物質に還元してしまふ。しかし原爆投下者はどうだつたか?
彼は決して巨人の感受性にめぐまれてゐたわけではなかつた。彼の肉体は小刀にも血を流し、うすい皮膚の下には、
こはれやすい内蔵が動いてゐた。しかし彼には距離があり、はるか高みから日本の小さな地方都市を見下ろしてゐた。
人間の同一の条件についての意識は隠蔽された。むしろ彼はそれを押しかくした。おそらくいくばくの技術と
科学知識にめぐまれてゐた投下者は、巨大ならざる自分の感受性を、あの知的な概観的な世界像の下に押しつぶす
ことを知つてゐたのである。そしてかういふ小さな隠蔽、小さな抑圧が、十分あの酸鼻な結果をもたらすに足りた。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
359 :
名無しさん@社会人:2011/04/25(月) 11:48:21.46
ところがかうした投下者の意識は、今日われわれの生活のどの片隅にも侵入してゐて、それが気づかれないのは、
習慣になつたからにすぎないのである。われわれは、新聞やラヂオのニュースに接したり、あるひは小さな
政治問題にひそむ世界的な関聯に触れたり、国際聯合を論じ世界国家を夢想したりするときのみならず、ほんの
日常の判断を下すときにも、知的な概観的な世界像と、人間の肉体的制約とのアンバランスに当面して、一瞬、
目をつぶつて、「小さな隠蔽」、「小さな抑圧」を犯すことに馴れてしまつた。瞬間、われわれは巨人の感受性を
持つてゐるやうな錯覚におそはれる。私が諷して巨人時代といふのは、このことを斥すのだ。
かくて例の水爆実験の補償は、私の脳裡でふしぎな図式を以て、浮んで来ざるをえない。いづれも人間の領域で
ありながら、一方には、水爆、宇宙旅行、国際聯合をふくめた知的概観的世界像があり、一方には肉体的制約に
包まれた人間の、白血病の減少があり、日常生活があり、家族があり、労働があるのだ。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
360 :
名無しさん@社会人:2011/04/25(月) 11:48:50.84
この二つのものをつなぐ橋が経済学だけで解決されようとは思はれぬ。この二つのものは、現代に住む人間の
条件であり、アメリカの富豪にあつても、焼津の漁夫にあつても、程度の差こそあれ、免れがたい同一の条件
なのである。(中略)
そして慈悲を垂れることが侮蔑を意味するなら、この現象は、人間が人間を侮蔑し、人間の或る価値が他の価値を
おとしめつつあることに他ならぬ。人間内部の問題だと云つたのはこのことである。
さて、かうした「巨人時代」が来てから、巨人的な精神といふものは、徐々に必要でなくなり、半ば衰減してをり、
政治の領域でさへ、四巨頭会議といふ用語は、首をかしげさせることになつた。世界の国々をめぐつて飛行機旅行を
した人には、実感のあることであるが、そのひどく無機的な旅の印象には、われわれの統一や綜合をめざす精神の
動きは入りこむ隙のない感を与へられる。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
361 :
名無しさん@社会人:2011/04/25(月) 11:49:15.62
われわれはただ地上を地図のやうに考へ、与へられた概観に忠実であることによつてしか、世界を把握することが
できぬ。現代は、丁度かうして、常住飛行機に乗つてゐるやうなものである。諸現象は窓のかなたを飛び去り、
体験は無機的になり、科学的な嘔吐と目まひは、われわれの感覚を占領してしまふ。
精神はどこに位置するのか、とわれわれは改めて首をかしげる。巨人的な精神とは、一個の有機体であつて、
こんなものを容れる隙が世界にはなくなつた。巨人的な精神とは、精神それ自体の法則に従つて統一と綜合を
成就したものであるから、その肉体的制約と世界像の間には、小宇宙と大宇宙のやうな相互の反映があつて、
しかも堅固な有機的基礎に立つてゐた。さういふものが人間と称されてゐたのに、人間概念は崩壊したのである。
人間愛はかくて侮蔑的なものになつた。なぜならそれは、人間が人間を愛することではなくて、誰も信じなく
なつた人間概念を信じてゐるやうなふりをすることであり、ひいては人間の自己蔑視に他ならなくなつたからである。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
362 :
名無しさん@社会人:2011/04/25(月) 11:49:37.40
それでもなほかつ、精神がどこに位置するか、といふ問は、さまざまな形で問はれてゐる。私がさつき挙げた
二つのもののその後者、その肉体的制約のうちに、精神をおしこめて、そこから出発しようといふ思考の形は、
二十世紀初頭からいろいろと試みられた。(中略)精神固有の形態は、かくてすでに十九世紀末に崩壊し、
ふたたびギリシア時代が再現して、肉体と精神の親密さが取り戻されたかのやうであつた。しかし根本的なちがひは、
ギリシアの精神が美しい肉体から羽搏き飛立つたのに引きかへて、二十世紀では、精神がおそれをののいて、
肉体の中へ逃げ込んだのである。
(中略)哲学の使命である世界把握は、普遍的な概観的世界像によつて追ひ抜かれた。今日、斬新な哲学は、
ニュースによる世界把握の上に組み立てられ、哲学のみが世界像の把握に到達する唯一の小径であつたやうな
嘗ての状態は消滅した。そしてこの世界像を更新し、拡張してゆく作業を、今では科学が受け持つてゐるのである。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
363 :
名無しさん@社会人:2011/04/25(月) 11:49:57.40
精神はどこに位置するか? 精神は二十世紀後半においては、人間概念の分裂状態の、修繕工として現はれる
ほかはない。統一と綜合の代りに、あの二つのものの縫合の技術が、精神の職分になるだらう。それがどんなに
不可能に見え、時にはどんなに「非人間的」に見えても、精神はこの仕事のために招かれてゐるのである。その
縫合の結果が誰に予見できよう。もし再び、肉体的制約の中へ人間が確乎として立ち戻り、科学のあらゆる兇暴な
進歩を否定することにならうと、それが簡単に精神の勝利だと云へようか? また、万一、各人が肉体的制約を
離れて、まさしく、巨人の感受性をわがものにするやうにならうと、それな簡単に精神の敗北だと云へようか?
精神は縫合をすませれば、いづれは本来の動きに戻つて、しやにむに統一と綜合へ進むだらう。
さて、芸術は、もつとも頑なに有機的なもののなかに止まりながらも、もし精神がそれを命ずれば、どんな
怖ろしい身の毛のよだつやうな領域へも、子供じみた好奇心で、命ぜられたままに踏み込んでゆくにちがひない。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
364 :
名無しさん@社会人:2011/04/26(火) 11:30:32.46
七月二十九日(金)
啓蒙主義的人間主義は、まつたく唯物的な人間主義である。自然科学だけが、このやうな人間主義を教へ、自然を
物とみなし、自然を征服せしめ、自然を道具に分解し、……やがて人間をも物として見るやうに誘導した。
なぜなら自然を物として見ることは、やがて人間をも物として見ることを意味するからである。
人間は人間をも物として見る。他人を物として見るばかりか、人から見られる自分をも物として見る。つひには
人間は、誰からも見られてゐない時だけしか、シュペルヴィエルのいはゆる「知られぬ海」の状態にある時しか、
彼自身たりえない。
近代的人間のかういふ孤独の救済のために、二つの方法が考へられる。キリスト教によつて再び、自然から
世界から人間から逃避するか、古代希臘の唯心論的自然観のうちにふたたび身をひたすか。ヘルデルリーンは
後者に従つたが、もとよりギリシアはすでに死んでをり、彼の行く道は、浪漫的個性の窄狭な通路しかなかつた。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
365 :
名無しさん@社会人:2011/04/26(火) 11:31:01.84
七月三十一日(日)
私はしばしば自分の中にさういふ悪癖を感じるのだが、人に笑はれまいと思ふ一念が、かへつて進んで自分を
人の笑ひものに供するといふ場合が、よくある。戒めなくてはならぬ。社会生活といふものは、相互に自分の
弱点を提供しあひ、相互にそれを笑ふことを許し合つて成立してゐる。(中略)意識家のお先走りは、自分の
意識しない滑稽さが人に笑はれることほど意識家の矜りを傷つけることはないから、もし新たな弱点、新たな
滑稽さを自分の中に意識し発見すると、それが人に発見されるよりさきに自分が発見したといふことを他人に
納得させるために、わざわざその弱点を公共の笑ひ物に供して安心するといふやうな悪癖に立ちいたる。
他人が私に対するとき、本当に彼にとつて興味のあるものは私の弱点だけだといふことも、たしかな事実であるが、
ふしぎな己惚れが、この事実を過大視させ、もう一つの同じ程度にたしかな事実、「他人にとつて私の問題などは
何ものでもない」といふ事実のはうを忘れさせてしまふことが、往々にしてある。さういふところに成立する
告白文学ほど、醜悪なものはない。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
366 :
名無しさん@社会人:2011/04/26(火) 11:31:53.92
人をして安心して笑はせるために、私も亦、私自身を客観視して共に笑ふやうな傾向も、戒めなくてはならぬ。
さまざまな自己欺瞞のうちでも、自嘲はもつとも悪質な自己欺瞞である。それは他人に媚びることである。
他人が私を見てユーモラスだと思ふ場合に、他人の判断に私を売つてはならぬ。「御人柄」などと云つて世間が
喝采する人は、大ていこの種の売淫常習者である。
意識家の陥りやすいあやまりは、自分を硝子の水槽のやうだと思ひ込んでしまふことだ。ところがやつぱり、
彼は硝子の水槽ではないのだ。この錯覚はなかなか複雑な構造をもつてゐて、実は意識家ほど、他人の目に決して
見えない自分を信じてゐる者はなく、しかしそのぎりぎりのところまでは、逆に他人にむかつて、自己解剖の
明察を誇りたく、このたえず千変万化する妥協を以て、自分の護身術と心得てゐるのである。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
367 :
名無しさん@社会人:2011/04/26(火) 11:32:19.63
だから意識家は必ず看板をぶらさげ、その看板も亦、手のこんだ多様さを持つてゐるのであるが、自分を意識家と
して他人に印象づけることにぬかりがない。その一等見やすい看板が、自嘲とか自虐とかいふものなのである。
私はかつて、真のでくのばうを演じ了せた意識家を見たことがない。
傷つきやすい人間ほど、複雑な鎖帷子(くさりかたびら)を織るものだ。そして往々この鎖帷子が自分の肌を
傷つけてしまふ。しかしこんな傷を他人に見せてはならぬ。君が見せようと思ふその瞬間に、他人は君のことを
「不敵」と呼んでまさに讃(ほ)めようとしてしてゐるところかもしれないのだ。
意識家の唯一の衛生法は他人を笑ふときに哄笑を以てすることである。ニイチェも言つてゐる、「吾が年若き友よ、
汝等若し徹底的に飽迄厭世家たらんと欲するならば、笑ひを学ばなければならない」(「自己批判の試み」)
三島由紀夫「小説家の休暇」より
368 :
名無しさん@社会人:2011/04/26(火) 11:37:07.44
八月一日(月)
都会の人間は、言葉については、概して頑固な保守主義者である。或る作家たちが、小説のなかで、やすやすと
流行語をとり入れてゐるのを見ると、私はレオパルヂ伯の「流行と死との対話」といふ対話篇を思ひ出さずには
ゐられない。そこでは流行と死は姉妹分といふことになつてをり、この姉妹に共通な傾向、共通な作用は、
「たえず世界を新規にして行く」といふことなのである。
八月三日(水)
「葉隠」ほど、道徳的に自尊心を解放した本はあまり見当らぬ。精力を是認して、自尊心を否認するといふわけには
行かない。ここでは行き過ぎといふことはありえない。高慢ですら、(「葉隠」は尤も、抽象的な高慢といふ
ものは問題にしない)、道徳的なのである。「武勇と云ふ事は、我は日本一と大高慢にてなければならず」
「武士たる者は、武勇に大高慢をなし、死狂ひの覚悟が肝要なり」……正しい狂気、といふものがあるのだ。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
369 :
名無しさん@社会人:2011/04/27(水) 10:32:51.54
八月四日(木)
日本文化の感受性は稀有のものである。これこそ独自の、どんな民族にも見当らぬほどに徹底したものである。
私にはふと、第二次大戦における敗戦は、日本文化の受容的特質の宿命でもあり、また、人が決して自分に
ふさはしからぬ不幸を選ばぬやうに、もつともこの特質にふさはしく、自ら選んだ運命ではないか、と思はれる
ことがある。なぜなら、敗北は受容的なものである。しかし勝利は、理念であり、統一的法則でなければならぬ。
日本文化は、このやうな勝利の、理念的責務に耐へ得たかどうか疑はしい。しかしそれと同時に日本の敗戦は、
理念が理念に敗れたのではなく、感受性そのものが典型的態度をとつて敗れたにすぎなかつた。そこへゆくと、
ナチス・ドイツの敗北は、完全に理念の敗北であつて、日本の敗戦とその意味はまるでちがつてゐる。ナチスの
敗北は、勝利の理念と法則から、敗北の感受性と無法則性への、日本では想像も及ばぬ、堕地獄的顛落であつた。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
370 :
名無しさん@社会人:2011/04/27(水) 10:33:13.59
さて日本文化の稀有な感受性のはたらきは、つねに、内への運動と、外への運動とを、交互に、あるひは同時に、
たゆみなくつづけて来たのである。内への運動は、その美的探究の、極度の求心性にあらはれた。この感受性は
かつて普遍的な方法論を知らず、また、必要とせず、感受性それ自らの不断の鍛錬によつて、文化の中核となるべき
一理念に匹敵する。まことに具体的な或るものに到達した。日本文化における美は、あたかも西欧文化の文化的
ヒエラルヒーの頂点に一理念が戴かれるやうに、理念に匹敵するほど極度に具体的な或るものとして存在してゐる。
そこでは、理念は不要なのである。なぜなら、抽象能力の助けを借りずに、むしろそれと反対な道を進んで、
個別から普遍へと向はず、むしろ普遍から個別へ向つて、方法論を作らずに体験的にのみ探究を重ねて、しかも
同じやうに絶対(この「絶対」といふ用語も、仮に比喩として使つたのだが)をめざして進む精神は、理念の
代りに、それの等価物たる或る具体的存在にぶつからざるをえない。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
371 :
名無しさん@社会人:2011/04/27(水) 10:33:39.47
私がこれを美と呼ぶのは、あくまで西欧的概念にすぎず、他に名付けやうのないものに、仮にその名称を借りたに
すぎぬ。私は、このことについては他所でもたびたび書いたのだが、日本の美は最も具体的なものである。
世阿弥がこれを「花」と呼んだとき、われわれが花を一理念の比喩と解することは妥当ではない。それはまさに
目に見えるもの、手にふれられるもの、色彩も匂ひもあるもの、つまり「花」に他ならないのである。
一方、日本文化の外への運動については、政治的措置にすぎぬ鎖国のかけで、その感受性の受容能力は、日本および
支那の古典と、現実の風俗のみに向けられて、これが今日、あやまつて「日本的」と呼びなされる、偏頗な特質、
似て非な独自性を形づくつた。もともと感受性といふものの無道徳性は、あらゆる他民族の文化の異質性をも
融解してしまふ筈のものなのだ。それはどんな放恣な娼婦よりも放恣であるべき筈なのだ。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
372 :
名無しさん@社会人:2011/04/27(水) 10:33:57.96
江戸文化は、かうした感受性の外への運動を制約されて、日本の内部で、遠心力と求心力を働らかさざるを
えなかつた。その前者は、西鶴、後者は、芭蕉に代表される。
今や、しかし日本文化がこれほど裸かの姿で、世界のさまざまな思潮のうちに、さらされたことはなく、現代日本の
文化的混乱は、私には、感受性の遠心力の極限的なあらはれと思はれる。
ローマ人テレンティウスの有名な一句「私は人間である。人間的なるものは何一つ私にとつて疎遠ではないと
思つてゐる」をもぢつて言へば、「私は感受性である。感じられるものは、何一つ私にとつて疎遠ではない」かの
やうに、ギリシア思想も、キリスト教も、仏教も、共産主義も、プラグマティズムも、実存主義も、……また、
シェイクスピアの戯曲も、ドストエフスキーの小説も、ヴァレリイの詩も、ラシーヌ劇も、ゲーテの抒情詩も、
李白や杜甫の詩も、バルザックの小説も、また、トオマス・マンの小説も、……どれ一つとして、この稀有な、
私心なき感受性にとつて疎遠ではないのである。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
373 :
名無しさん@社会人:2011/04/27(水) 10:34:20.87
一見混乱としか見えぬ無道徳な享受を、未曾有の実験と私が呼ぶのは、まさにこんな極限的な坩堝の中から、
日本文化の未来性が生れ出てくる、と思はれるからだ。なぜならかうした矛盾と混乱に平然と耐へる能力が、
無感覚とではなく、その反対の、無私にして鋭敏な感受性と結びついてゐる以上、この能力は何ものかである。
世界がせばめられ、しかも思想が対立してゐる現代で、世界精神の一つの試験的なモデルが日本文化の裡に作られ
つつある、と云つても誇張ではない。指導的な精神を性急に求めなければこの多様さそのものが、一つの広汎な
精神に造型されるかもしれないのだ。古きものを保存し、新らしいものを細大洩らさず包摂し、多くの矛盾に
平然と耐へ、誇張に陥らず、いかなる宗教的絶対性にも身を委ねず、かかる文化の多神教的状態に身を置いて、
平衡を失しない限り、それがそのまま、一個の世界精神を生み出すかもしれないのだ。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
374 :
名無しさん@社会人:2011/04/27(水) 10:35:57.55
(中略)ここで私が、文化形式と呼ぶものは、内容を規定し、選択し、つひにはそれ自ら涸渇するところの、
死んだ形式ではなく、内容を富まし、無限に包摂するところの生きた形式である。日本文化の稀有な感受性こそは、
それだけが、多くの絶対主義を内に擁した世界精神によつて求められてゐる唯一の容器、唯一の形式であるかも
しれないのだ。なぜなら、西欧人がまさに現代の不吉な特質と考へて、その前に空しく手をつかねてゐる文化的混乱、
文化の歴史性の喪失、統一性の喪失、様式の喪失、生活との離反、等の諸現象は、日本文化にとつては、
明治維新以来、むしろ自明のものであつて、それ以前の、歴史性と統一性と様式をもち、生活と離反せぬ文化体験をも
持つ日本人は、この二つのものの歴史的断層をつなぐために、苦しい努力と同時に、楽天家の天分を駆使して
きたので、かういふ努力の果てに、なほ古い文化と新らしい文化との併存と混淆が可能であるやうな事情は、
新らしい世界精神といふものが考へられるときに、何らかの示唆を与へずには措かないからである。
三島由紀夫「小説家の休暇」より
375 :
名無しさん@社会人:2011/04/30(土) 17:43:01.56
大体、左翼の人は「ファッシスト」と呼ぶことを最大の悪口だと思つてゐるから、これは世間一般の言葉に
飜訳すれば「大馬鹿野郎」とか「へうろく玉」程度の意味であらう。(中略)
私は大体、ファッシズムを純粋に西欧的な現象として、主にイタリーのその本家とドイツのナチズムとに限定して
考へるのが、本筋だと考へてゐる。(中略)
日本のいはゆるファッシストたちは廿世紀的現象としてのファッシズムとは縁が遠かつたといふほかはない。
何故なら戦前の日本の右翼は、悉く天皇主義者である。彼らの思想は極度に人工的な体系を欠いてゐた。つまり
議会制民主々義は技術的政治形態であるから、欽定憲法の下でも、いくばくの矛盾を容認しつつ、成立しうる。
しかしファッシズムは、人工的な世界観的政治形態であるから、実は自然発生的な天皇制とはもつとも相容れない
筈であつた。私は戦時中の日本のファッシズムといはれるものを、その言論統制その他におけるあらゆる
ナチス化をも含めて、技術的な政治の理論的混乱とより以上は考へないのである。
三島由紀夫「新ファッシズム論」より
376 :
名無しさん@社会人:2011/04/30(土) 17:44:03.67
軍部独裁は歴史上にしばしば見られたところで何の新味もなく、統制経済と言論統制は世界観的政治の技術的
模倣にすぎず、かれらの犯した悪は、ファッシズムの悪といふより、人間悪、権力悪の表現であつた。(中略)
また日本のいはゆるファッシストは、インテリゲンチャの味方を持たなかつた。日本のハイカラなインテリゲンチャは、
日の丸の鉢巻や詩吟や紋付の羽織袴にはついて行かなかつた。しかるに西欧のファッシズムは、プチ・
ブゥルジョアジーの革命と考へられてゐる。(中略)ファッシズムが多数の自由職業者・専門家層に呼びかけ、
インテリゲンチャの人心を収攬したことはたしかであつた。
(中略)
ファッシズムの発生はヨーロッパの十九世紀後半から今世紀初頭にかけての精神状況と切り離せぬ関係を持つてゐる。
そしてファッシズムの指導者自体がまぎれもないニヒリストであつた。日本の右翼の楽天主義と、ファッシズムほど
程遠いものはない。
三島由紀夫「新ファッシズム論」より
377 :
名無しさん@社会人:2011/04/30(土) 17:44:38.95
(中略)
私は「自由世界」といふ言葉をきくたびに吹き出さずにはゐられない。本来相対的観念である「自由」なるものが、
このやうな絶対的な一理念の姿を装うてゐるのは可笑しいことである。絶対主義のかういふ無理な模倣のおかげで、
今日世界をおほうてゐるのは、政治における理想主義の害悪なのである。
(中略)
暴力と残酷さは人間に普遍的である。それは正に、人間の直下に棲息してゐる。今日店頭で売られてゐる雑誌に、
縄で縛られて苦しむ女の写真が氾濫してゐるのを見れば、いかにいたるところにサーディストが充満し、
そしらぬ顔でコーヒーを呑んだり、パチンコに興じたりしてゐるかがわかるだらう。同様にファッシズムも
普遍的である。殊に廿世紀に於て、いやしくも絶望の存在するところには、必ずファッシズムの萌芽がひそんでゐると
云つても過言ではない。
三島由紀夫「新ファッシズム論」より
378 :
名無しさん@社会人:2011/05/03(火) 20:33:29.18
先頃、妙心寺にお世話になつて、修行道場を拝見したり、霊雲院に一泊を許されたりして、大そう感銘が深く、
得るところが多かつた。
在家の者が、たつた一日のぞいただけで、何か得たやうな気のするのは思ひ上りであらうが、私にとつて興味の
あつたのは、生活全般にわたるその極度の簡潔さであつた。(中略)
典座にはもちろんガスもなく、朝の洗面の水もツルベで上げる。かういふことは殊更現代文明に白眼をむいて
ゐるやうにも見えるが、さうではない。ガスを引かぬこと、ツルベで水をくみ上げること、さういふことは皆、
思想の要請なのである。現代人は思想といふものを、ここまで徹底させる能力を失つて、思想といへば、活字の
中にしかないものだと思つてゐる。もしガスを引き、タイル張りのガス風呂を置けば、思想の一角は崩れ、
あらゆる妥協が、精神生活をも犯さずにはゐないといふことを、われわれは忘れてゐる。
さて、話にきくと、ある地方の、収入のよい禅寺に、電気洗濯機を置いてゐる寺があるといふことである。
電気洗濯機を置いた禅寺とは、もはや禅寺ではないのだ。
三島由紀夫「電気洗濯機の問題」より
379 :
名無しさん@社会人:2011/05/03(火) 20:34:59.47
それについて、英国の歴史家アーノルド・トインビーが面白い例をあげてゐる。
「文化の交流では次から次へと事件が起るに決つてゐる」
といふ法則をトインビーは立て、それを知らないで、誤算して失敗した十九世紀のトルコの例と、それを深く
知悉してゐたガンジーの例とをあげてゐるのである。
(中略)
「彼(ガンジー)は、もしインド教徒が西欧で西欧の機械によつて作られた服を着るのを止めなければ」、いづれは、
インドへ英国の機械を輸入し、田畑の仕事をやめ、工場へ働らきに行き、娯楽も西欧風になり、魂も西欧風に
なるだらうと考へた。彼はインド教徒の魂を救ふためには、西欧との経済的な紐帯を絶つほかはないとさとり、
自ら手本を示して、インドの綿を昔風の方法で手で紡いで織る仕事に従事した。かくてガンジーと糸車とは
切つても切れぬものになつた。
ガンジーは文化の交流の冷酷な法則と、思想を守る者の態度を知つてゐたのである。
ガンジーは、すべての禅寺に電気洗濯機をそなへるやうになれば、禅といふものは死滅する、といふことを、
予言してゐたやうに思はれる。
三島由紀夫「電気洗濯機の問題」より
380 :
名無しさん@社会人:2011/05/06(金) 11:59:46.40
私は西部劇の映画を殊に好んで見るといふのではない。このごろのやうな二流西部劇の氾濫では、どれもこれも
同じやうな題がついてゐて、うつかり入ると、前見たものと同じものを見かねない。しかし、少年時代からの
憧れはなかなか消えないもので、私は西部劇といふと、あのサボテンの生ひ茂つた土地と、強烈な日光と、馬と、
馬具の新らしい革の匂ひと、拳銃のきらめき、とをすぐに思ひうかべる。それは厳密に風土的な一つの世界の
イメージなのであつて、日本の股旅物と同じものだといふ考へは当らない。日本のチャンバラには、あのやうな
砂漠も強烈な日光も欠けてゐる。
谷川俊太郎氏の詩で、私の最も愛するものに、「ビリイ・ザ・キッド」といふ一篇がある。この自分の年の数と
同じ人数だけ殺して、廿一歳かそこらで殺された美少年に、氏は夭折の詩人の運命を託したものだらう。だから
西部劇の一少年悪漢は、ランボオや、サン・ジュストや、シェリイや、キーツや、あらゆる反逆的少年詩人の
イメージをその身に負ふのである。
三島由紀夫「西部劇礼讃」より
381 :
名無しさん@社会人:2011/05/06(金) 12:01:16.29
ジェーン・ラッセルの大きな乳房を仄見せる映画「ならず者」に登場するビリイ・ザ・キッドはまだそれらしかつたが、
めつきり老け込んだロバート・テイラーの扮したビリイの映画は、大そうグロテスクで、この少年英雄の夢を
裏切ること甚だしいものがあつた。大体西部劇に分別くさい役者が出るのはまづい。「シェーン」のアラン・
ラッドのやうに、精悍だが、全然知的な味はひのない役者が適当である。もつとも多分その脳ミソの少ないところが
禍ひして、「シェーン」以外のアラン・ラッドは、見るもむざんな大根である。
私が馬が好きなのも、西部劇が原因であるかもしれない。ホース・オペラとは、西部劇の別称ださうである。
馬の匂ひ、厩の匂ひ、長靴の匂ひ、新らしい鞍のギシギシいふ音、光つた拍車、……かういふものは、皆
現実離れのした別の燦然たる行為の世界に属してゐた。馬はたしかに西部劇にディグニティーを与へてゐる。
三島由紀夫「西部劇礼讃」より
382 :
名無しさん@社会人:2011/05/06(金) 12:03:42.44
(中略)
西部劇は純然たる男だけの世界であつてこそ意味がある。へんな恋愛をからませた西部劇ほど、おかつたるいものはない。
さて、西部劇に欠くべからざるインディアンのことだが、アメリカ人はインディアンに対しては、ニグロに
対するやうな人種的偏見を持つてゐないらしい。ユンクによると、アメリカ人の英雄類型は結局インディアンの
伝統的英雄に帰着するさうである。アメリカ人の集合的無意識は、自分の祖先を衰弱した白皙のヨーロッパ人として
よりも、精力にみちあふれた赤い肌のインディアンとして見てゐるらしい。開拓時代にインディアンと戦ひながら、
アメリカ人は敵の精力をしらずしらず崇拝し、模倣しようとしたかもしれない。いつかバート・ランカスターが
インディアンの血を引いた駿足の運動選手に扮した映画を見たことがあるが、そこではバート・ランカスターが
象徴するアメリカの精力と、インディアンに対する夢とが、はつきり一つものになつてゐた。
三島由紀夫「西部劇礼讃」より
383 :
名無しさん@社会人:2011/05/06(金) 12:05:03.10
最近の「理由なき反抗」といふ映画における、チキン・ランといふ無意味な胆だめしなども、私にはアメリカ人の
インディアン・コムプレックスと関係のあるものに思はれた。日米戦争の相互的影響によつて、いつか日本人が
インディアン類型にあこがれ、アメリカ人がサムラヒ類型にあこがれるやうになるかもしれない。すでに映画の
「宮本武蔵」が、アメリカで上映されてゐる。
「一難去つて又一難」といふ事態に対する人間のどうしやうもない興味は、(これは西部劇に限つたことでは
ないが)、どんなに平和な時代が続かうと癒やしがたいものであるらしい。平和な市民生活に直接の身体的危険が
乏しいことから、この刺戟飢餓は、危険なスポーツや、自動車の制限速度の超過や、犯罪などに向ひ、あるひは
内攻してノイローゼに向ふことになる。西部劇はかういふ不満に対するいかにも安全な薬品である。
三島由紀夫「西部劇礼讃」より
384 :
名無しさん@社会人:2011/05/10(火) 11:27:13.13
何がきらひと云つて、私は酒席で乱れる人間ほどきらひなものはない。酒の上だと云つて、無礼を働らいたり、
厭味を言つたり、自分の劣等感をあらはに出したり、又、劣等感や嫉妬を根にもつてゐるから、いよいよ威丈高な
嵩にかかつた物言ひをしたり、……何分日本の悪習慣で「酒の上のことだ」と大目に見たり、精神鍛練の道場だ
ぐらゐに思つたりしてゐるのが、私には一切やりきれない。酒の席でもつとも私の好きな話題は、そこにゐない
第三者の悪口であるが、世の中には、それをすぐ御本人のところへ伝へにゆく人間も多いから油断がならない。
私は何度もそんな目に会つてゐる。要は、酒席へ近づかぬことが一番である。酒が呑みたかつたら、別の職業の
人間を相手に呑むに限る。
何かにつけて私がきらひなのは、節度を知らぬ人間である。一寸気をゆるすと、膝にのぼつてくる、顔に手を
かける、頬つぺたを舐めてくる、そして愛されてゐると信じ切つてゐる犬のやうな人間である。女にはよく
こんなのがゐるが、男でもめづらしくはない。
三島由紀夫「私のきらひな人」より
385 :
名無しさん@社会人:2011/05/10(火) 11:28:34.33
(中略)
私が好きなのは、私の尻尾を握つたとたんに、より以上の節度と礼譲を保ちうるやうな人である。さういふ人は、
人生のいかなることにかけても聰明な人だと思ふ。
親しくなればなるほど、遠慮と思ひやりは濃くなつてゆく、さういふ附合を私はしたいと思ふ。親しくなつた
とたんに、垣根を破つて飛び込んでくる人間はきらひである。
お世辞を言ふ人は、私はきらひではない。うるさい誠実より、洗練されたお世辞のはうが、いつも私の心に触れる。
世の中にいつも裸な真実ばかり求めて生きてゐる人間は、概して鈍感な人間である。
お節介な人間、お為ごかしを言ふ人間を私は嫌悪する。親しいからと云つて、言つてはならない言葉といふものが
あるものだが、お節介な人間は、善意の仮面の下に、かういふタブーを平気で犯す。善意のすぎた人間を、いつも
私は避けて通るやうにしてゐる。私はあらゆる忠告といふものを、ありがたいと思つてきいたことがない人間である。
三島由紀夫「私のきらひな人」より
386 :
名無しさん@社会人:2011/05/10(火) 11:29:49.52
どんなことがあつても、相手の心を傷つけてはならない、といふことが、唯一のモラルであるやうな附合を私は
愛するが、こんな人間が殿様になつたら、家来の諫言をきかぬ暗君になるにちがひない。人を傷つけまいと思ふのは、
自分が(見かけによらず)傷つき易いからでもあるが、世の中には、全然傷つかない人間もずいぶんゐることを
私は学んだ。さういふ人間に好かれたら、それこそえらいことになる。
……ここまできらひな人間を列挙してみると、それでは附合ふ人は一人もゐなくなりさうに思はれるが、世の中は
よくしたもので、私の身辺だつて、それほど淋しいとは云へない。荷風も、一時は無二の親友のやうに日記に
書いてゐる人間を、一年後には蛇蝎の如く描いてゐるが、それはあながち、荷風の人間観の浅薄さの証拠ではなく、
人間存在といふものが、固定された一個体といふよりも、お互ひに一瞬一瞬触れ合つて光り放つ、流動体に
他ならぬからであらう。好きな人間も、きらひな人間も、時と共に流れてゆくものである。
三島由紀夫「私のきらひな人」より
387 :
名無しさん@社会人:2011/05/10(火) 11:31:16.05
とまれ、誰それがきらひ、と公言することは、ずいぶん傲慢な振舞である。男女関係ではふつうのことであり、
宿命的なことであるのに、社会の一般の人間関係では、いろいろな利害がからまつて、かうした好悪の念はひどく
抑圧されてゐるのがふつうである。
第一、それほど、あれもきらひ、これもきらひと言ひながら、言つてゐる手前はどうなんだ、と訊かれれば、
返事に窮してしまふ。多分たしかなことは、人をきらふことが多ければ多いだけ、人からもきらはれてゐると
考へてよい、といふことである。私のやうな、いい人間をどうしてそんなにきらふのか、私にはさつぱりわからないが、
それも人の心で仕方がない。ニューヨークの或る町に住むきらはれ者がゐて、そいつは悪魔の如く忌み嫌はれ、
そいつがアパートから出てくると、近所の婆さん連がみんな道をよけて、十字を切つて見送るといふ男の話を
きいたことがあるが、きらはれ方もそこまで行けば痛快である。私も残る半生をかけて、きらはれ方の研究に
専念することにしよう。
三島由紀夫「私のきらひな人」より
388 :
名無しさん@社会人:2011/05/12(木) 17:49:16.26
キリスト像があんなにアバラが出て痩せこけてゐるのは、人間が精神を視覚化するときに、なるたけ肉体的要素を
払拭した肉体を想像する傾きがあるからであらう。その反対でバッカス像は必ず肥つてゐる。それは快楽と肉と
衝動の象徴だからである。かうした象徴は世間の常識に深く入つてゐる。
肉体的な逞ましさと精神美とは絶対に牴触するといふ信念は広く流布してゐる。インドの苦行者のやうな
骨だらけの体を、日本人は一種のアジア的感受性から、尊崇する傾きがある。
象徴や、世間の通念はそれでいい。しかし御当人に何が起るかといふ問題である。人間の肉体と精神は、
象徴のやうに止つてゐないで、生々流転してゐる。肉体と精神のバランスが崩れると、バランスの勝つたはうが
負けたはうをだんだん喰ひつぶして行くのである。痩せた人間は知的になりすぎ、肥つた人間は衝動的になりすぎる。
現代文明の不幸は、悉くこのバランスから起つてゐる。
三島由紀夫「ボディ・ビル哲学」より
389 :
名無しさん@社会人:2011/05/12(木) 17:49:36.25
文士の例でいへば、面白いことに、戦後の破滅型の小説家、坂口安吾や田中英光の人並外れた巨躯はもとより、
太宰治もかなり頑丈な長身であつた。三人とも体にはかなり自信があつたので、肉体蔑視の思想にとらはれ、
自分たちのかなり頑丈な肉体に敵意を燃やし、この肉体を喰ひつぶすほどの思想を発明するために、生活を
めちやくちやにしてしまつた。彼らはわざわざ、むりやりにアンバランスを作り出したのである。
もつともこの三人とても、頑丈な体を持ちながら脳ミソの空つぽな作家に比べれば、どれだけ文学者らしいか
わからない。
一方では、知的でありすぎ、あるひは感覚的でありすぎる作家たちがゐる。文学作品を通した感覚といふものは、
元来知的なものであるから、知的な作家にこの二つを引つくるめてもよい。
彼らの作品には、確乎たる肉の印象がどこかに欠けてゐる。肉の耀やきが、本当の官能性といふものが欠けてゐる。
これは前記の例の逆のアンバランスである。
三島由紀夫「ボディ・ビル哲学」より
390 :
名無しさん@社会人:2011/05/12(木) 17:49:57.44
このアンバランスのはうが重大かと思はれるのは、ジイドもいふやうに「官能性こそは芸術家の最上の美徳」
だからである(因みにいふと、ジイドその人にも官能性が欠けてゐる)。これらの作家たちは、たとへ細緻な
性的感覚をゑがいても、肉の力と形態を欠いてゐるのである。
近代芸術の短所は、まさにその点にある。知性だけが異常発達を遂げて、肉がそれに伴はないのだ。
肉といふものは、私には知性のはぢらひあるひは謙抑の表現のやうに思はれる。鋭い知性は、鋭ければ鋭いほど、
肉でその身を包まなければならないのだ。ゲーテの芸術はその模範的なものである。精神の羞恥心が肉を身に
まとはせる、それこそ完全な美しい芸術の定義である。羞恥心のない知性は、羞恥心のない肉体よりも一そう醜い。
ロダンの彫刻「考へる人」では、肉体の力と、精神の謙抑が、見事に一致してゐる。
だまされたと思つてボディ・ビルをやつてごらんなさい。
三島由紀夫「ボディ・ビル哲学」より
391 :
名無しさん@社会人:2011/05/14(土) 11:08:27.33
やつぱり僕は日本の女の人、好きだよ。だつて、いざとなりや、親切だもの。ほんと、親切ですよ。ずいぶん
意地悪なこと言つても、結局、親切だもの。
外国の女性はね、友達になつても、日本人みたいに人情が通じないしね、第一、ソバカスが出てて気味が悪いもの。
それにみんな巨きい女つて嫌ひなんだ。(中略)
僕の女の友達、いつぱいゐるけどね、みんな口が達者で、お互に悪口ばつかり言つてて、僕なんかボロクソに
やられてゐる。三文文士扱ひでね、まづ着てるものを全部ケナすんですよ。「趣味の悪いセーターを着てる」とか、
「その頭の格好は何さ」とか「クツシタがなつちやゐない」とかね。さうして「一緒に歩くの恥づかしい」なんて、
サンザン言ふんだ。だけど、その口の悪い友達がね、この間、僕のおふくろが病気で入院したら、三島さんが
さぞ困つてゐるだらう、ショックを受けただらうと思つて泣いたつていふんだな。あとでその話を聞いてね、
僕はちよつとホロリとするんですよ。
僕はヘンな性質があつてね、けんくわ相手みたいなのが好きなんだ。けんくわ相手で時どき親切つていふのが
好きなんです。
三島由紀夫「僕の理想の女性」より
392 :
名無しさん@社会人:2011/05/14(土) 11:08:54.08
(中略)
僕に文学的な興味を持つて僕のお嫁さんになりたいといふ人とは、僕は結婚したくない。さうして非常に
むつかしいことだけど、僕に一人の亭主、一人の夫だけを感じてくれる人と結婚したい。僕は文学的な意見といふ
ものを、身近な人から言はれるのがこはいんです。たとへばヘンな話ですがね、新聞小説を書いてて、家の者に
“つまんない”つて言はれることが、一番いやなんだ。世間の人が“つまんない”つて言ふのはいいけれども、
自分の近所から言はれるの、とつてもいやですね。まして自分の奥さんがさういふことを言ひ出したら、
たまらないだらうと思ふ。
(中略)
それからね、タイプとしては、僕は自分の顔が長いんで、まるいはうがいい。うちの両親みたいに、両方とも
顔が長くつちや、優生学上よくない。僕みたいな子供ができちやふんだ。その僕の所へまた長い顔の奥さんが
来たら、馬がシルクハットかぶつたやうになつちやふ。
僕は可愛いタイプが好きだから、しつかり者で可愛いといふのは、無理なやうだけど、そんな人、ゐないわけぢや
ないと思ひます。
(談)
三島由紀夫「僕の理想の女性」より
393 :
名無しさん@社会人:2011/05/16(月) 13:36:07.15
日本人には、無意識のうちに、俳句的な感情類型といふものは潜んでゐる。五七五でものを考へ、事物を把握し、
ふとした嘱目の風景を、いつのまにか五七五の形に要約して見てゐるといふことはありうる。小さなもの、
たとへば蝶、蚊、こでまりの花、水引草、……そんなものを見た時ほど、さうである。われわれの目には昔ながらに、
美的な、顕微鏡がついてゐる。
(中略)
私はもう俳句を作ることもできず、その才能もないくせに、日本の季節々々が、かういふ小さな美的理論で、
モザイクのやうにぎつしり詰まつてゐることを感じると、いつのまにか、その理論にきつちりとはまつてゐる自分を
痛感することがある。長い冗々しい長編小説なんか書いて、自分が巨人国の仲間入りをしたやうな気になつてゐて、
ふと気がつくと、それは夢で、もともと親指サムぐらゐな背丈しかなかつたことに気のつくやうなものである。
実際北米ニュー・メキシコ州の、西部劇によく出てくる峨々たる岩山ばかりの、乾燥した空々漠々たる風景などに
触れたとき、私は自分の目のレンズがどうしても合はないのを感じた。
三島由紀夫「蝶の理論」より
394 :
名無しさん@社会人:2011/05/17(火) 11:55:50.99
昭和三十三年二月十七日(月)
さて今日は格別のたのしみがある。ニューヨークのタイムス・スクウェアの土産物屋で、ゴムで出来てゐる
人狼(ウェアウルフ)のお面を買つて来たのだが、それが実によく出来てゐて怖ろしい。(中略)
かへりのタクシーで、福田氏を文学座の前で下ろし、それからじつと黙つてゐて、タクシーが外苑の暗がりへ
入つたところを見計らひ、やをらお面をかぶつて、うしろから運転手の肩をグイと手をかけたら、ふりむいて
アッと叫んだ。
かういふ風に人を脅かして、人のおどろく顔を見るといふたのしみは、たのしみの極致を行くものである。
おどしやタカリの味を覚えた愚連隊のたのしみが想像される。彼らはそのために一生を棒に振り、私は一日を
棒に振つただけであるが、それも自分に裨益するところは少しもなく、ただ他人の反応だけを目的にした行為であつて、
悪といふものは多かれ少なかれ、これほどに献身的なものである。
三島由紀夫「裸体と衣裳」より
395 :
名無しさん@社会人:2011/05/17(火) 11:58:18.45
二月二十七日(木)
石橋広次選手はリング上で決して興奮しない人である。ボクシングにおけるほど、観衆の熱狂と選手の冷静が
見事な対照をなすものはない。闘争を見ることの熱狂は人間の本性に根ざしてゐるが、ボクシングはもつとも
よく出来た闘争のフィクションである。スポーツの中でもつとも現実の闘争と似た外観を呈してゐながら、
そのスポーツとしての技術性科学性(私のいふフィクション性)は高度である。私にそれがジャンルとしての
小説を想起させる。映画をのぞいては芸術中もつとも現実と似たジャンルである小説は、それだけに一層高度な
技術を要求されるが、ボクシングの試合を見て現実の喧嘩と混同する観衆の無邪気な熱狂と同じものが、今日
素人小説家の無数の輩出を惹き起してゐる。ボクシングなら叩かれれば痛いから自分の非にすぐ気がつくが、
かういふ連中は痛さを知らないから始末がわるい。
三島由紀夫「裸体と衣裳」より
396 :
名無しさん@社会人:2011/05/17(火) 12:01:00.62
三月十八日(火)
今まで見たところ大江健三郎の小説には、最近作「鳩」にいたるまで、ひんぱんに動物があらはれる。いはゆる
動物文学とは、多かれ少なかれ、動物の擬人化にもとづいたものであるが、大江氏のはそれと反対で、人間の
擬動物化ともいふべきものであり、われわれのうちにひそんでゐる人間の奴隷化や殺戮の欲望が、動物を相手に
充たされてゐる。状況がゆるせばもちろん人間そのものの動物的奴隷化が可能になるので、「飼育」や
「人間の羊」はその好例である。これを私は新しい動物文学と名附けよう。
(中略)
大江氏の小説の特色は、いろんな点で小説の近代的特色を根本的に欠いてゐるところにある。氏は登場人物の
近代的個性といふものを重視しない。氏の作品に登場する人間は、たかだか一般概念以上のものを要求されないのだ。
そしてそこに登場する動物群にも、個性的な擬人化された動物は出て来ないので、一般概念としてとどまつてゐる。
だから大江氏の小説は、比喩でもなく寓喩でもない。アレゴリーの根本条件が欠けてゐるのである。まして
いはんや風刺ではない。
三島由紀夫「裸体と衣裳」より
397 :
名無しさん@社会人:2011/05/17(火) 12:02:22.10
強ひて言へば、メタモルフォーシスの小説といふことができよう。「人間の羊」は羊のやうな人間を描いた
小説ではなく、人間が羊に変貌する物語であり、「飼育」は動物のやうに飼はれる黒人兵を描いたものではなく、
飼はれる動物、強い耐へがたい体臭を放つ家畜に変貌した黒人兵の物語である。
氏の小説のサディスティックな嗜欲は、かくて一般概念としての動物を、一般概念としての人間と対置し、人間が
動物を飼育したり殺したりするのを、汎性的な対等の関係でながめてゐる。鼠のやうな、また羊のやうな人間の
悲惨さと弱さは、比喩としてではなく、容易に、人間そのものの常態として語られる。日本人のお尻をバスの中で
まくつて叩く米兵と、叩かれる日本人とは、かかる関係において対等であり、死体とこれを見る青年(死者の奢り)
との関係も、鳩とこれを殺す少年との関係も、黒人兵とこれを飼育する少年との関係も、同様に対等であつて、
あらゆる政治的寓喩や人間的風刺を峻拒してゐる。
三島由紀夫「裸体と衣裳」より
398 :
名無しさん@社会人:2011/05/17(火) 12:04:45.77
そこには縛られた強者と残酷な弱者、あるひは残酷な強者と殺される弱者があるだけであり、最後に死体と、
殺された鳩の屍とが残される。なぜなら死とエロティックにおいてだけ、人間と動物とは一般概念によつて
同一化されるのであり、個性を持つてゐた筈の人間が一般概念に変貌する際の色情的かつ獣的な美しさを存分に
ゑがいた「飼育」は、殺された小動物の美を暗い背景の前に鏤(ちりば)める「鳩」に達する。(中略)
「鳩」の小動物たちは、それぞれ鼠やモルモットや鳩を呈示するにすぎないが、その宝石のやうに凝つた血によつて、
鼠一般、モルモット一般、鳩一般の荘厳な象徴と化し、色欲的観念の具現となるのである。そこにはサディストの
究極の夢があり、われとわが手で殺した小動物は、動物であるがゆゑに、永遠に一般概念の彼方にとどまり、
精神や個性の片鱗をひらめかすことはない。そこでこの殺戮行為は、黒人を飼育するよりももつと純粋な
エロティックな行為として終るのである。それはアニミズムからもつとも遠い文学である。
三島由紀夫「裸体と衣裳」より
399 :
名無しさん@社会人:2011/05/19(木) 10:38:16.75
四月十八日(金)
どの小説家も抱いてゐる或る感じ、自分の書いた小説のなかで、あるひはその小説を通じて、はじめて自分の
人生に本当に対面したやうな気のするといふ或る感じ、これは彼の実際に日々生きてゐる人生の像を、幾分か
ぼやけた不確かなものにすることは争へない。認識の手間をはぶいて表現することによつて、作家は生の人生を
幾分かのこしておかなければならないが、今日の河野先生の話ではないが、小説家は厳密に言ふと、認識者ではなく
表現者であり、表現を以て認識を代行する者である。作家が小説を書くことにより、表現してゆくことにより、
はじめて認識に達するといふ言ひ方は正確ではない。作家の狡猾な本能は、自分に現前するものに対して、つねに
微妙に認識を避けようとするからである。殺して解剖しようとする代りに、生け擒(ど)りにしようと思つて
ゐるからである。
もちろん生かしておいて認識するといふ手もある。卓抜なエッセイストはさういふ人種であつて、猛獣使ひの
やうなものであらうか。
三島由紀夫「裸体と衣裳」より
400 :
名無しさん@社会人:2011/05/19(木) 10:40:23.51
さて、作家が自分の生に対していつもあいまいな放任の態度を持してゐるとき、彼はいはば、それが認識の素材に
なることを免れさせてゐるのである。トオマス・マンの云ふやうに、「作家の幸福は、感情になり切り得る思想であり、
思想になり切り得る感情」(ヴェニスに死す)だとすると、彼の生は、まだ思想にもなりきらぬのみか、感情にも
なりきらない部分であり、さうなることを無意識に抑制されてゐる。感情の中にも思想の中にも安住できない人間が、
幸福になる方法は、おそらく表現することだけで、このやみくもな行為に耐へるには、明敏なだけでは足りない。
もちろんバカなだけでも足りないが……。そして表現したあげくの、創造の喜びといふやつは、又しても彼を
認識者たることから遠ざける。なぜなら認識にとつて歓喜ほど始末に負へぬ敵はないからである。
三島由紀夫「裸体と衣裳」より
401 :
名無しさん@社会人:2011/05/19(木) 10:42:27.88
五月九日(金)
キェルケゴールの有名な「あれかこれか」の一節は永いこと私を魅してゐた。
「結婚したまへ、君はそれを悔いるだらう。結婚しないでゐたまへ、やつぱり君は悔いるだらう」
(中略)
私は又、晩年のフロオベエルが公園を散策しながら、乳母車を押してゆく家族づれを見て、「私もああいふ生涯を
送ることもできたのだ」と述懐したといふ挿話をもよくおぼえてゐた。
人生が一人宛たつた一つしかないといふことは、全く不合理な、意味のない事実である。殊に小説家にとつては、
自分の創造の条件に対する侮辱とさへ思はれる我慢ならない事実である。これに対する解決は何も見当たらないが、
これをなだめすかす慰藉の方法がないわけではない。ディオゲネースのあの定言的な言ひ方を崩すには、たつた
一つの方法しかない。事実が決定的であり、人生が一個であるならば、これをうけとめる人間一般の感情の法則を、
せめて自分だけでも免れようとすればよからう。「結婚したまへ、君はそれを悔いるだらう。結婚しないでゐたまへ、
やつぱり君は悔いるだらう」……それなら、ままよ、後悔しなければいいのである。
三島由紀夫「裸体と衣裳」より
402 :
名無しさん@社会人:2011/05/19(木) 10:44:16.37
(中略)
このやうな悔いは自由意志の幽霊のやうなもので、或る作為あるひは不作為が一個の人生を決定してしまふのを
見た自由意志自身の不安なのである。自由意志は無限の選択をするのではない。選択は百のうちから十、十の
うちから三つ、三つのうちから二つ、二つのうちから一つといふ具合に、徐々に限られて来て、最後に自由意志は、
それをするかしないかといふことだけを選ぶために現れる。しかしここまで追ひつめられた選択と、自由意志の
本質とは必ず矛盾する。自由意志は、選択の機能を本来帯びてゐなかつた自分に気がつくのである。自由意志は
決断のために使はれるべきではなく、作為と不作為との間に常に追ひつめられてゐる人間の、可能性の問題なのだ
といふことに。……自由意志にとつては、本来、人生は一人一個宛ではなかつた筈なのだ。
私がもし悔いないでゐられるなら、それは宿命を是認することになるだらうか。さうではない。
三島由紀夫「裸体と衣裳」より
403 :
名無しさん@社会人:2011/05/19(木) 10:47:27.54
私が悔いないといふことは、自由意志に対する嘲笑ではない。どんな選択も、どんな決断も、どんな行為も
自殺でさへも、最終的に人間の状況を決定することはできない、と私は考へるから、決断に従つたことを悔いも
しないし、おそらく決断に従はなかつたときも悔いはしまい。人間は選ぶことができないのではないが、最終的に
選択の不可能なことを知つてゐるのは自由意志であつて、さればこそ、人生がたつた一つであることをどうしても
肯はない自由意志は、宿命に対抗することができるのである。だから「悔い」といふ形であらはれる不安は、
自由意志にとつて本質的なものではない。宿命はすでに選択してゐるし、自由意志は永遠に選択しない。そして
行為とは、宿命と自由意志との間に生れる鬼子であつて、人は本当のところ、自分の行為が、宿命のそそのかしに
よるものか、自由意志のあやまちによるものか、知ることなど決してできない。結局、海水の上に浮身をするやうな
身の処し方が、自分の生に対する最大の敬意のしるしのやうに思はれる。
三島由紀夫「裸体と衣裳」より
404 :
名無しさん@社会人:2011/05/21(土) 10:56:09.35
八月八日(金) 悪と政治と
いろんな意味で対蹠的なサルトルの「殉教と反抗」(ジャン・ジュネ論)と界外五郎氏の銀座の一級ヤクザとしての
告白「恐喝」の二冊を、それぞれおもしろく読んでゐるうちに、日本よりさらに暑熱のきびしいイラクでは、
大がかりな「切つた張つた」がはじまつた。(中略)
その上私はナセル大統領の「敵に対しては、われわれは原爆さへもおそれてゐないことを警告する」といふ演説に
接して、「矢でも鉄砲でも持つてこい」といふ超現代的表現はかうもあらうかと思つて感心した。こんなバカげた
啖呵を切れる日本の政治家は一人もあるまいが、政治外交上の嚇し文句はそこまで行かなければ本当ではあるまい。
中近東や東南アジアの民族主義に対するわれわれの同意は、伝来の「弱きを助け強きを挫く」助六精神であるけれど、
弱い筈の民族主義者が、モスクワから帰つてくると、「原爆さへもおそれてゐない」と啖呵を切り出し、一方、
「強きを挫く」だけの助六の腕力がわれわれに欠けてゐる以上、民族主義に対するわれわれの立場は、不透明に
ならざるをえない。
三島由紀夫「裸体と衣裳」より
405 :
名無しさん@社会人:2011/05/21(土) 10:57:37.80
第一、日本にはすでに民族「主義」といふものはありえない。われわれがもはや中近東や東南アジアのやうな、
緊急の民族主義的要請を抱へ込んでゐないといふ現実は、幸か不幸か、ともかくわれわれの現実なのである。
今や明治維新の歴史的価値は、ますます高められてきた、と私は感じる。
さて界外氏の「恐喝」に話を戻して、氏のヤクザの定義を読むと、かうである。
「ほんとうのヤクザの社会では、タタキ(屋内強盗)やノビ(忍込み強盗)をするような人間は鼻にも引つかけない。
理由なくして金銭をホシイママにすることを極度に嫌う。泥棒社会の人間など普通ヤクザといわれている者とは
住む世界が違うし、実際に刑務所に入っても全然派閥が違う。というより色彩が違う。人の物を盗むようになったら
完全に浮かばれない。理由はともかく、尠くとも大義名分をはっきりわきまえているヤクザと破廉恥行為以外
なにものもない彼等とは全然世界が違うのである」
三島由紀夫「裸体と衣裳」より
406 :
名無しさん@社会人:2011/05/21(土) 10:59:57.24
(中略)
日本にはキリスト教の神の観念がないから、悪の観念も従つて稀薄だ、といふのはずいぶん言ひ古された議論で
あるけれど、マキャベリ以来の西欧の政治学にひそむ悪、そのもつとも理想主義的な政治学にさへ自明の前提として
受け入れられてゐる悪に比べれば、日本の政治は、正に界外氏の定義にすつぽりあてはまるヤクザ的なものだと
云つてもよからう。おんなじアジアでも、旧植民地諸国の政治家は、自分たちを虐げて来た帝国主義者たちから、
少くとも悪の原理と悪の知恵を学んでゐる。ネールなんぞは私にはその典型だと思はれる。ネールの孤独を、
たはむれに前掲のジュネの孤独と比べて、泥棒の代りに政治家として読み代へてみたまへ。「神に捧げられた子」
としての政治家の孤独がはつきりするだらう。
さて、ジュネは、この孤独から、しばしばの裏切りによつて自己聖化に達するのであるが、裏切りは界外氏の
定義によれば、ヤクザのもつとも忌むところであつて、日本の政治は共産党のいはゆる「民衆に対する裏切り行為」
などに専念する勇気がない。
三島由紀夫「裸体と衣裳」より
407 :
名無しさん@社会人:2011/05/21(土) 11:01:23.07
日本の悪は悪といふよりも、局限的道徳なのであつて、世間一般の道徳との間に範疇の差はなく、ただニュアンスの
相違でつながつてゐるだけで、政治家の道徳とヤクザの道徳は、局限的道徳であるといふ点だけで、世間の道徳に
対して特色を発揮してゐるにすぎない。
イラクのクウ・デタに対する日本政府の三転四転した腰の据わらぬ態度は、私には、日本の政治家が、自分の
ヤクザ性にも、模して及ばぬ悪人性にも、どつちにも徹し切らない中途半端から来るやうに思はれた。「民族主義に
対する裏切り」をおそれながら、一方アメリカにも気兼ねをし、やつとのことで国連的正義感に便乗してゐるのは、
ヤクザにしても性根のないヤクザで、せめてナセル親分ぐらゐに、「原爆おそるるに足らず」ぐらゐのことを
言つたらいい。日本に原爆を落とされた手前、それだけは死んでも言へないといふなら、逆に悪に徹して、
資本主義の走狗をつとめて、民族主義を弾劾するがいい。
三島由紀夫「裸体と衣裳」より
408 :
名無しさん@社会人:2011/05/21(土) 11:02:31.12
東洋の一角で憂ひ顔の騎士が、事あるごとに、厩につながれたままの馬にまたがつて、悲しい御託宣を並べるのは、
毎度のことで、もう漫画にもならない。国家が必要悪であるならば、国家のエゴイズムが最高の要請であるべきだし、
政治が悪であるならば、裏切りがそれを聖化するだらう。西欧のチトー元帥は裏切りの上に国を建てた。しかし
われわれの住んでゐるのは、悪の国ではなく、ヤクザの国であり、界外氏のヤクザの定義はいかにもわれわれの
心性に叶つてをり、悪のイデアに対してほどほどの距離と自己弁護の立場を忘れない。それはまた民衆の
平均的趣味であり、不徹底な現実主義の土壌の上に、ヒロイックな夢を咲かすことである。それにしてもヤクザは
原爆を持つことができず、持つことができるのは、せいぜい機関銃が限度である。
三島由紀夫「裸体と衣裳」より
409 :
名無しさん@社会人:2011/05/23(月) 10:29:05.15
八月十二日(火)
私は今、人生に関する文学的誤解からやうやく抜け出して、その次の危険な場所、文学に関する人生的誤解に
そろそろ近づきさうな予感がしてゐる。若い人たちの作品の人生的無知を苛立たしく感じたりするのは、その
危険な兆候だ。戒めなくてはならぬ。とにかく「人生では知らないことだけが役に立つので、知つてしまつたことは
役にも立たない」のであるから。
十月二十日(月)
退屈でないのは慣習や熟練、要するに「くりかへし」の作業であり、冒険こそ、その当人にとつては、一等退屈な
作業だといふことを忘れてはならぬ。また人を退屈させることも怖れてはならぬ。現代の忙しいジャーナリズム裡の
作家の最大の病気は、「読者を退屈させやしないか」といふ神経性である。小説では或る程度の退屈なしには、
読者の精神を冒険に誘ひ込むことができないやうに思はれる。私が今こそわがものにしたいのは、ゲーテの
「ヴィルヘルム・マイスタア」のあの退屈さである。
三島由紀夫「裸体と衣裳」より
410 :
名無しさん@社会人:2011/05/23(月) 10:30:12.41
十月二十一日(火)
ポオのファルスに属するものは、「十三時」「ボンボン」「ペスト王」「ミイラとの口論」などであらうが、
可成物語的構成を持つたものの中でも「タア博士とフェザア教授の治療法」などは、ファルスに入れてもよからう。
そこには知的ノンセンスともいふべき高度の趣味があつて、もつとも下らない馬鹿話の中へ、完全に身を隠し
了せたとき、知性はもつとも美しいものになるといふ逆説が証明されてゐる。メルヴィルの「白鯨」だつて
最大の規模を持つたファルスと云へないことはない。ポオのファルスがどんなに馬鹿さわぎを演じても、品位と
重厚さを失つてゐないのは、知性が遊戯に熱中して柔軟になりきるときにこそ、知性の目的は没却されて、
知性の姿だけが目に見えて来るからであらう。品位は知性の生れながらの態度(アティテュード)であつて、
合目的的な知性は、ともするとこの態度を失ふのである。
三島由紀夫「裸体と衣裳」より
411 :
名無しさん@社会人:2011/05/23(月) 10:34:22.88
十一月二十一日(金)
批評する側の知的満足には、創造といふまともな野暮な営為に対する、皮肉な微笑が、いつまでもつきまとふことは
避けられない。この世には理想主義的知性などといふものはないのだ。あらゆる理想主義には土方的なものがあり、
あらゆる仕事は理想主義の影を伴ふ。そして批評的知性には、本来土方の法被(はつぴ)は似つかはしくないもので
あるが、批評の仕事がひとたびこの法被を身にまとふと、営々孜々として破壊作業に従事するか、それとも
対象から遠く隔たつて天空高く楼を建てるかしてしまふのである。
十一月二十三日(日)
私の言葉は理性的に出てくるのではない。コンディションの良好なとき、気に入つた対象すなはち好餌があらはれると、
私は蜘蛛のやうにその好餌に接近して、言葉の網でしやにむにからめとらうとする。さういふ狩猟に似た喜びの
瞬間には、言葉は精力的に溢れ出し、何か肉体的な力で言葉が動き出し、対象をつかまへて、舌なめずりし、
その対象をできるかぎり丹念に隈なく、言葉で舐めつくさうとするのだ。いささか薄気味わるい比喩だが、言葉が
私の中から湧き出てくるときにはさういふ感じがする。
三島由紀夫「裸体と衣裳」より
412 :
名無しさん@社会人:2011/05/23(月) 10:36:40.42
言葉が花火のやうにはじけ、一瞬にして拡散し、対象の上にふりかかつて、それを包み込まうとする動きを
感じるとき、ほとんど書く手が追ひつかず、次の行に書くべきことを忘れないために、欄外にいそいでメモを
書きとめなくてはならぬ。このときの速度は一体、どんな種類の速度なのであらう。何故なら、書く手が
追ひつかぬほど言葉が先に走つてゆく感に襲はれながら、実際のところ、筆の速度は、大したものではなく、
書ける枚数も二、三枚、多くて四、五枚で終つてしまふ。こんな興奮は決してそれ以上持続しないのだ。
かういふときアメリカの或る作家たちのやうにタイプで原稿を書き、もし又タイプに熟達してゐれば、書く作業に
よつて抑制されることなく、言葉の走る速度にぴつたり合つた文章が出来るかもしれない。しかしそれが文章と
いふものであらうか? 文章はむしろ言葉に対峙するもののやうに思はれる。言葉の本質がディオニュソス的なら、
文章の本質はアポロン的、といふ具合に、言葉は私にとつてはひどく肉体的な、血や精液に充ちたものだ。
三島由紀夫「裸体と衣裳」より
413 :
名無しさん@社会人:2011/05/24(火) 11:37:57.96
十一月二十五日(火)
人にすすめられて「短歌」といふ雑誌を読み、春日井建といふ十九歳の新進歌人の歌に感心する。(中略)
かういふ連作は、ソネットのやうなつもりで読めばいいのであらう。私は海に関する昔ながらの夢想を、これらの
歌によつて、再び呼びさまされたが、十代の少年の詩想は、いつも海や死に結びつき、彼が生きようと決意するには、
人並以上に残酷にならなければならないといふ消息が、春日井氏のその他の歌からも、私には手にとるやうにわかつた。
いづれにしても詩は精神が裸で歩くことのできる唯一の領域で、その裸形は、人が精神の名で想像するものと
あまりにも似てゐないから、われわれはともするとそれを官能と見誤る。抽象概念は精神の衣裳にすぎないが、
同時に精神の公明正大な伝達手段でもあるから、それに馴らされたわれわれは、衣裳と本体とを同一視するのである。
三島由紀夫「裸体と衣裳」より
414 :
名無しさん@社会人:2011/05/24(火) 11:39:33.71
十二月十七日(水)
今夜は日活撮影所へ「不道徳教育講座」のプロローグとエピローグの二カットに出演するため行かなければ
ならないが、こんな私の軽薄な振舞については、一家そろつて大反対である。(中略)
――二度目のテストではセリフをとちつた。もうやたらにセリフをとちるからとて、俳優を莫迦扱ひするのを
止めなくては。トチリとか失敗とかは正に神秘的なもので、人間の努力の及ぶところではない。
昭和三十四年一月二十五日(日)
「夜遊び」といふものがいかに本当の夜から遠いことか。われわれはもう殆ど「夜」を持たなくなつてしまつた。
どんな秘密な遊びも、隠密な犯罪も、厳密に「夜」には属さない。明治神宮の初詣でに深夜群をなして集まる人々を、
晃々と照らすライトの下に映したテレヴィジョン放送を見て、そこにはもはや「夜」がなく、人々が「夜」を
望みもしない状況を、私はつぶさに眺めた。折口信夫氏の「死者の書」のやうな「夜」の文字を、二度と
われわれは持つことができぬであらう。
三島由紀夫「裸体と衣裳」より
415 :
名無しさん@社会人:2011/05/25(水) 14:52:58.83
三月二日(月)
私は外国で大いに世話になり温い親切をうけた外人の来朝には、出来るかぎりの歓迎をすることにしてゐる。
といふのは、見知らぬ他国へ着いた旅人の受ける、その土地の人からの親切ほど、忘れがたいものはないからである。
見知らぬ他国では何もかもが怖しい。郵便局や銀行へも一人ではゆけず、バスや地下鉄に乗つたつてどこへ
連れて行かれるかわからない。善人と詐欺漢との区別もつかず、すべてが五里霧中である。
私にとつても、外国で受けた、骨に徹するほどの不親切の思ひ出もある。むしろそのはうが多いかもしれない。
しかし考へやうによつては、その国の人同士の間では、これくらゐの不親切、冷酷非情のはうがむしろ当り前で、
ふつうそれくらゐのことで人を傷つけるとは思はれない。ところが旅人はひどく傷つくのである。
私はかういふ経験をしばしば味はひ、その中に記憶に残る温い親切を思ひ出すと、自分の味はつたそのうれしさを、
その人にも味ははせてやりたいものだと思ふ。殊に一人旅の旅人には尽して上げたい。
三島由紀夫「裸体と衣裳」より
416 :
名無しさん@社会人:2011/05/25(水) 14:54:00.94
(中略)
一方、日本へ知人の外人を迎へてつくづく思ふのは、さういふ人たちへの一寸した心尽しでも、ありていに云ふと、
こちらの生活の歯車を少からず擾(みだ)すことになるので、立場を変へて、私が当然のやうに受け入れてゐた
外国における個人的厚意が、どれだけ先方の生活の歯車を狂はせてゐたかがわかるのである。外国人は実によく
遠来の客をねぎらふ。私はどれだけ人の私宅へ招かれて泊めてもらつたかわからない。
それにまた外人がわれわれの国の踊りなり芝居なり美術品なりのイカモノに感心しようとしてゐるとき、
「あれはニセモノだよ」と冷水を浴びせてやるくらゐ愉快なことはない。紐育で、メキシコの某クラブで見た
民俗舞踊に感心した話をしてゐたら、居合はせたメキシコの一富豪が、「ありや真赤なニセモノですよ」と
一言の下に片附けたが、そのときの彼の愉快さうな顔と云つたらなかつた。
三島由紀夫「裸体と衣裳」より
417 :
名無しさん@社会人:2011/05/25(水) 14:55:06.88
(中略)
私は今、一向旅心を誘はれない。海のかなたには何があるか、もうあらかたわかつてしまつた。そこにも人間の
生活があるきりだ。どんな珍奇な風俗の下にも、同じやうな喜びや嫉妬があり、どんな壮麗な自然の中にも、
同じやうな哀歓があるのを、この目ではつきりと見て知つてしまつた。そして世界中を歩いてみても、自分の
生涯を変へるやうな奇抜な事件は決して起り得ないといふことも、もしそれが起るとしても、自分の心の中にしか
起らないといふことも。
先生に引率された小学生たちが沢山傍らを通る。子供たちの目はまだ見ぬ世界への夢に輝いてゐる。この
子供たちこそ世界を所有してゐるので、世界旅行は世界を喪失することだ。尤も、生きるといふことがそもそも
人生をなしくづしに喪失してゆくことなのであるから、人間の行為と所有とは永遠に対立してゐる。すべてを
所有しようと思つたら、断じて見ず、断じて動かず、断じて行はないことだ。王国はかくて立ちどころに所有される。
三島由紀夫「裸体と衣裳」より
418 :
名無しさん@社会人:2011/05/26(木) 11:04:23.60
四月十日(金)
庭で素振りをしてから、馬車行列の模様をテレヴィジョンで見る。
皇居前広場で、突然一人の若者が走り出て、その手が投げた白い石ころが、画面に明瞭な抛物線をゑがくと見る間に、
若者はステップに片足をかけて、馬車にのしかかり、妃殿下は驚愕のあまり身を反らせた。忽ち、警官たちに
若者は引き離され、路上に組み伏せられた。馬車行列はそのまま、同じ歩度で進んで行つたが、その後しばらく、
両殿下の笑顔は硬く、内心の不安がありありと浮んでゐた。
これを見たときの私の興奮は非常なものだつた。劇はこのやうな起り方はしない。これは事実の領域であつて、
伏線もなければ、対話も聞かれない。しかし天皇制反対論者だといふこの十九歳の貧しい不幸な若者が、
金色燦然たる馬車に足をかけて、両殿下の顔と向ひ合つたとき、そこではまぎれもなく、人間と人間とが向ひ
合つたのだ。馬車の装飾や従者の制服の金モールなどよりも、この瞬間のはうが、はるかに燦然たる瞬間だつた。
三島由紀夫「裸体と衣裳」より
419 :
名無しさん@社会人:2011/05/26(木) 11:05:18.67
われわれはこんな風にして、人間の顔と人間の顔とが、烈しくお互を見るといふ瞬間を、現実生活の中では
それほど経験しない。これはあくまで事実の事件であるにもかかはらず、この「相見る」瞬間の怖しさは、正しく
劇的なものであつた。伏線も対話もなかつたけれど、社会的な仮面のすべてをかなぐり捨てて、裸の人間の顔と
人間の顔が、人間の恐怖と人間の悪意が、何の虚飾もなしに向ひ合つたのだ。皇太子は生れてから、このやうな
人間の裸の顔を見たことははじめてであつたらう。と同時に、自分の裸の顔を、恐怖の一瞬の表情を、人に
見られたこともはじめてであつたらう。君候がいつかは人前にさらさなければならない唯一の裸の顔が、いつも
決まつて恐怖の顔であるといふことは、何といふ不幸であらう。
それにしても人間が人間を見るといふことの怖しさは、あらゆる種類のエロティシズムの怖しさであると同時に、
あらゆる種類の政治権力にまつはる怖しさである。
三島由紀夫「裸体と衣裳」より
420 :
名無しさん@社会人:2011/05/26(木) 11:06:53.18
六月二十九日(月)
「鏡子の家」は、いはば私の「ニヒリズム研究」だ。ニヒリズムといふ精神状況は、本質的にエモーショナルな
ものを含んでゐるから、学者の理論的探究よりも、小説家の小説による研究に適してゐる。
(中略)
……オンボロ貨物船を引きずつて、船長は曲りなりにも故郷の港に還つて来た。主観的にはずいぶん永い航海だつた。
無数の港々、荷卸しや荷揚げの労苦、嵐や凪、それから航海に必ず伴ふ奇怪な神秘的な出来事、……さういふものは、
まだありありと頭の中に煮立つてゐるが、それも徐々に忘れられるだらう。暫時の休息ののち、船長は又性懲りもなく、
新しい航海のための食糧や備品の買出しに出かけるだらう。もつと巨きく、もつと性能もよい船を任される申し出に
よし出会つても、彼はすげなく拒むだらう。彼はこのオンボロ貨物船を以てでなくては、自分の航海の体験の量と
質とをはかることができないからである。それだけがあらゆる船乗りの誇りの根拠だ。
三島由紀夫「裸体と衣裳」より
421 :
名無しさん@社会人:2011/05/29(日) 17:55:45.97
子供のころの私は、寝床できく汽車の汽笛の音にいひしれぬ憧れを持ち、ほかの子供同様一度は鉄道の機関士に
なつてみたい夢を持つてゐたが、それ以上発展して、汽車きちがひになる機会には恵まれなかつた。今も昔も、
私がもつとも詩情を感じるのは、月並な話だが、船と港である。
このごろはピカピカの美しい電車が多くなつたが、汽車といふには、煤(すす)ぼけてガタガタしたところが
なければならない。さういふ真黒な、無味乾燥な、古い箪笥(たんす)のやうなきしみを立てる列車が、われわれが
眠つてゐるあひだも、大ぜいの旅客を載せて、窓々に明るい灯をともして、この日本のどこか知らない平野や
峡谷や海の近くなどいたるところを、一心に煙を吐いて、汽笛を長く引いて、走りまはつてゐる、といふので
なければならない。なかんづくロマンチックなのは機関区である。夜明けの空の下の機関区の眺めほど、ふしぎに
美しくパセティックなものはない。
三島由紀夫「汽車への郷愁」より
422 :
名無しさん@社会人:2011/05/29(日) 17:56:18.98
空に朝焼けの兆があれば、真黒な機関車や貨車の群が秘密の会合のやうに集ひ合ふ機関区の眺め、朝の最初の
冷たい光りに早くも敏感にしらじらと光り出す複雑な線路、そしてまだ灯つてゐる多くの灯火などは、一そう
悲劇的な美を帯びる。
かういふ美感、かういふ詩情は、一概に説き明すことがむづかしい。ともかくそこには古くなつた機械に対する
郷愁があることはまちがひがない。少くとも大正時代までは、人々は夜明けの機関区にも、今日のわれわれが
夜明けの空港に感じるやうな溌剌とした新らしい力の胎動を感じたにちがひない。大体、パリへ行くと気のつく
ことだが、パリでは地下鉄ですらすでに古ぼけてゐて、駅の出入口の意匠にも、鋳鉄の煩瑣な模様がついてゐる。
機械文明そのものの古びた趣は、ニューヨークでさへ高架鉄道によく見られたが、それもあらかた取り壊されて
しまつた。
機械といふものが、すべて明るく軽くなる時代に、機関区に群れつどふ機関車の、甲虫のやうな黒い重々しさが、
又われわれの郷愁をそそるのである。
三島由紀夫「汽車への郷愁」より
423 :
名無しさん@社会人:2011/05/29(日) 17:56:44.16
頼もしくて、鈍重で、力持ちで、その代り何らスマートなところのなかつた明治時代の偉傑の肖像画に似たものを、
古い機関車は持つてゐる。もつと古い機関車は堂々とシルクハットさへ冠つてゐた。
しかし夜明けの機関区の持つてゐる一種悲劇的な感じは、それのみによるものではない。産業革命以来、
近代機械文明の持つてゐたやみくもな進歩向上の精神と勤勉の精神を、それらの古ぼけた黒い機関車や貨車が、
未だにしつかりと肩に荷つてゐるといふ感じがするではないか。それはすでにそのままの形では、古くなつた
時代思潮ともいへるので、それを失つたと同時に、われわれはあの時代の無邪気な楽天主義も失つてしまつた。
しかし人間より機械は正直なもので、人間はそれを失つてゐるのに、シュッシュッ、ポッポッと煙をあげて
今にも走り出しさうな夜明けの機関車の姿には、いまだに古い勤勉と古い楽天主義がありありと生きてゐる。
それを見ることがわれわれの悲壮感をそそるともいへるだらう。
三島由紀夫「汽車への郷愁」より
424 :
名無しさん@社会人:2011/05/29(日) 17:57:12.52
そしてそこに、私は時代に取り残された無智なしかし力強い逞ましい老人の、仕事の前に煙草に火をつけて
一服してゐる、いかつい肩の影までも感じとるのである。
それは淋しい影である。しかしすべてが明るくなり、軽快になり、快適になり、スピードを増し、それで世の中が
よくなるかといへば、さうしたものでもあるまい。飛行機旅行の味気なさと金属的な疲労は、これを味はつた人なら、
誰もがよく知つてゐる。いつかは人々も、ただ早かれ、ただ便利であれ、といふやうな迷夢から、さめる日が
来るにちがひない。「早くて便利」といふ目標は、やはり同じ機械文明の進歩向上と勤勉の精神の帰結であるが、
そこにはもはや楽天主義はなく、機械が人間を圧服して勝利を占めてしまつた時代の影がある。だからわれわれは
蒸気機関車に、機械といふよりもむしろ、人間的な郷愁を持つのである。
三島由紀夫「汽車への郷愁」より
425 :
名無しさん@社会人:2011/05/30(月) 16:19:49.32
政敵のない政治は必ず恐怖か汚濁を生む。
政敵に対する公然たる非難には、さはやかなものがある。
人間、生きてゐる以上、敵があるのは当然なことで、その敵が、はつきりした人間の形をもち、人間の顔を
もつてゐる政治家といふ人種は幸福である。こんな幸福さはかれらの単純な人相にもあらはれてゐる。
三島由紀夫「憂楽帳 政敵」より
アクセサリーも、ロカビリー娘みたいに、時と場所とをわきまへず、金ピカのとがつたやつをジャラジャラ
つけすぎると、交通の危険といふこともありうるのである。
お祭りもお祝ひもいいが、大事な開通当日の一日駅長といふのは、どう考へても本末転倒のやうに思はれる。
自衛隊が山下清氏を一日空将補として招いたときにも、いひしれぬ、人をバカにした感じを抱かされたのは、
私一人ではあるまいが「名士」とか「人気者」とかいふものも、一個の社会人であつて、社会的無責任の象徴には
なりえない。このごろでは、いはゆる「名士」が、社会的責任を免かれたがつてゐる人たちの、哀れな身代り人形に
されてゐる場合が少なくないのである。
三島由紀夫「憂楽帳 アクセサリー」より
426 :
名無しさん@社会人:2011/05/30(月) 16:20:13.54
プルターク英雄伝の昔から、少なくともウイーン会議のころにいたるまで、政治は巨大な人間の演ずる人間劇と
考へられてゐた。人間劇である以上、憎悪や嫉妬や友情などの人間的感情が、冷徹な利害の打算と相まつて、
歴史を動かし、歴史をつくり上げる。
三島由紀夫「憂楽帳 お見舞」より
チベットの反乱に対して、中共は断固鎮圧に当たるさうである。共産主義に対する反乱といふ言葉は、何だか妙で、
ひつかかるのだが、共産主義の立場からいへば、ハンガリーの動乱は反乱の部類で、ユーゴのは、成功して何とか
ナアナアでやつてゐるから、反乱の汚名をそそいだといふのだらう。
中共もエラクなつて、正義の剣をチベットに対してふるはうといふのだらうが、チベットに潜行して反乱軍に
参加しようといふ風雲児もあらはれないところをみるとどうも日本人は弱い者に味方しようといふ気概を失つて
しまつたやうだ。世界中で一番自分が弱い者だと思つてゐる弱虫根性が、敗戦後日本人の心中深くひそんで
しまつたらしい。
三島由紀夫「憂楽帳 反乱」より
427 :
名無しさん@社会人:2011/05/30(月) 16:20:39.13
文士の締切苦は昔から喧伝されてゐるが、(中略)芸術的良心なんぞとは、なんの関係もない話なのである。
しかし芝居となると、事は一そう深刻であつて、台本が間に合はなくて、ガタガタの初日を出す、などといふ醜態は、
世界中捜したつて、日本以外にはありはしない。このはうの締切は、守らなければ、直接お客にひどい損失を与へ、
お客をバカにすることになるのであるから、事は俳優だけの被害にとどまらない。
三島由紀夫「憂楽帳 締切」より
どうも私は、民主政治家の「強い政治力」といふ表現が好きでない。この間の訪ソで曲りなりにも成功を収めた
マクミラン英首相などは、時には屈辱をもおそれぬ「柔軟な政治力」を持つてゐるが、ダレス氏は概して
強面一点張だつた。強面で通して、実は妥協すべきところでは妥協する、といふのと、表面実にたよりなく、
ナヨナヨしながら、実は抜け目なく通すべき筋はチャンと通す、といふのと、どつちが民主主義の政治家として
本当かと考へると、明らかに後者のやうに思はれる。
三島由紀夫「憂楽帳 強い政治力」より
428 :
名無しさん@社会人:2011/05/30(月) 16:21:08.94
実際マス・ゲームといふのは壮麗であつて、豪華大レビューのフィナーレといへども、これには到底敵すべくもない。
一糸乱れぬ統制の下に、人間の集団が、秩序ある、しかもいきいきとした動きを展開することは、たしかに
圧倒的な美である。これは疑ひやうのない美で、これを美しいと思はないのは、よほどヘンクツな人間である。
ところで、ファシズム政権や、共産政権は、必ずかういふ体育上の集団美を大いに政治的に利用する。かつての
ナチスの体操映画や、ソ連や中共のこの種の映画は、実に美しい。それを美しいと思はないものはメクラであつて、
ファッショや共産主義といへばなんでもかでも醜く見えてしまふ人は不幸である。
人間の集団的秩序と活力にあふれた規律的な動きは美しい。軍隊のパレードも、観兵式も美しい。それは問題の
余地がない。
――しかしである。
この種の美しさは、なにも軍隊や独裁政治や恐怖政治が一枚加はらなくたつて立派に出せるので、この種の美が、
彼らの専売物であるわけではないのである。
三島由紀夫「憂楽帳 集団美」より
429 :
名無しさん@社会人:2011/06/01(水) 10:51:06.26
教養が、美しく生きてゆくのに役立つと考へてゐる一群の女性がゐます。雑誌ジャーナリズムやラヂオや
テレヴィジョンが、かういふ考へに阿諛追従します。
そんなことがあるものでせうか? 女性のための教養と呼ばれてゐるものには、みんな偽善の匂ひがあり、
美しくない教養ははじめから排斥されてゐるので、真黒な白粉といふものがないやうに、それらはいくら塗り
たくつても顔が真黒になつたりする心配がない。彼女たちには、黒い教養といふものが存在することが、永久に
わからないのです。
女性たちは、世間で認可ずみの、古くさい、危険のない教養が大好きだ。古典音楽の知識、(中略)なまぬるい
恋愛映画、ほんの少し進歩的な政治思想、台所むきの経済概論、それから十年一日のごとき恋愛論、……
かういふものが、今日、女性の教養と呼ばれてゐるものの一覧表ですが、これを総動員して、美しく生きようと
してゐる女性たちの群を見ると、私は心底からおぞ気を慄はずにはゐられない。
三島由紀夫「女が美しく生きるには」より
430 :
名無しさん@社会人:2011/06/01(水) 10:52:11.72
さういふ傾向は、文化をなまぬるく平均化し、言論の自由を婦人側から抑制し、一国の文化全体を毒にも薬にも
ならないものにしてしまふ怖るべき原動力であります。アメリカといふ国のあの文化全体における婦人の害毒を
つらつら考へると、私は怖ろしくなる。
しかしもつといけないのは、ごく少数だが、婦人の知的スノッブたちで、危険な新らしい芸術を理解したつもりで、
これを擁護して、折角の芽を枯らしてしまふ。女性のやり方は、何でもかんでも、植物なら温室にはふり込んで
しまへばいいといふ単純なやり方ですから。
かういふのに比べると、低能なファッション・モデルたちのはうが、ずつと害毒が少ない。彼女たちももちろん
美しく生きようとしてゐるが、外面的な美にしか注意を払はず、その点で彼女たちが男性的原理に近づくのは、
時として外面的な美の追究のためには幸福さへ捨ててかへりみないからである。
三島由紀夫「女が美しく生きるには」より
431 :
名無しさん@社会人:2011/06/01(水) 10:53:26.25
……このひろい東京、ひろい日本、いや世界中で、あらゆる女性が美しく生き、あるひは美しく生きようとして
ゐることは、絶望的なことである。美しく生きることを諦めてしまつたやうにみえる不器量な老嬢でさへ、
男に比べれば、はるかに「美しく生きてゐる」のであります。
おそらくそれは、女性が男性よりも確実に存在してゐるといふことの別のあらはれに他ならないのであらう。
醜さといふものは、存在の裂け目だからである。ところで芸術は美の創造だといはれるが、このやうな存在の
裂け目からしか生れて来ない。女性が芸術家として不適任なのはこの点であります。芸術上の創造行為は
存在そのものからは生れて来ない。自ら美しく生きようと思つた芸術家は一人もゐなかつたので、美を創ることと、
自分が美しく生きることとは、まるで反対の事柄である。この点に、芸術に関する女性の最大の誤解がひそむが、
このことについては、本題と外れるので、また別の機会に述べることにしませう。
三島由紀夫「女が美しく生きるには」より
432 :
名無しさん@社会人:2011/06/04(土) 11:22:36.13
今や一九五九年の、月の裏側の写真は、人間の歴史の一つのメドになり、一つの宿命になつた。それにしても、
或る国の、或る人間の、単一の人間意志が、そのまま人間全体の宿命になつてしまふといふのは、薄気味のわるい
ことである。広島の原爆もまた、かうして一人の科学者の脳裡に生れて、つひには人間全体の宿命になつた。
こんなふうに、人間の意志と宿命とは、歴史において、喰ふか喰はれるかのドラマをいつも演じてゐる。今まで
数千年つづいて来たやうに、一九六〇年も、人間のこのドラマがつづくことだけは確実であらう。ただわれわれ
一人一人は、宿命をおそれるあまり自分の意志を捨てる必要はないので、とにかく前へ向つて歩きだせはよいに
決つてゐる。
三島由紀夫「巻頭言(『婦人公論』)一九六〇年代はいかなる時代か」より
結婚の美しさなどといふものは、ある程度の幻滅を経なければわかるものではないといふ古い考へが私にはあつて、
初恋がそのまま成就して結婚などといふと、余計なお節介だが、底の浅い人生のやうな感じがする。
三島由紀夫「巻頭言(『婦人公論』)早婚是非」より
433 :
名無しさん@社会人:2011/06/04(土) 11:23:16.84
子供は天使ではない。従つて十分悪の意識を持ち得る。そこに教育の根拠があるのだ。
三島由紀夫「巻頭言(『婦人公論』)ベビイ・ギャング時代」より
文部省が今度「英語教育改善協議会」を設置して、「読む英語」にかたよりすぎてゐるといはれた中学・高校の
英語教育を、もつと「役にたつ英語」にしてゆかうとたくらんでゐるさうだ。またしても文部省の卑近な
便宜主義である「役に立つ」ために。「役に立つ」ことばかり考へてゐる人間は、卑しい人間ではないか。
一体、語学教育は国際政治の力のわりふりに左右されがちなものだが、日本中が英語の通訳だらけになつて
しまつたら、文部省の意図するところは達せられたといふべきであらう。(中略)ホテル業者はなるほど
「役に立つ」英語を喋つてもらひたい。
しかし、ホテルと教養とは別である。テーブル・マナーと教養とは別である。いまだに英仏の知識人の間には
古代ギリシア語やラテン語が、教養語として生きてゐるが、一体文部省は、何を日本人の教養語とするつもり
なのであるか。教育的見地からは、そのはうが重要である。
三島由紀夫「巻頭言(『婦人公論』)一億総通訳」より
434 :
名無しさん@社会人:2011/06/04(土) 11:23:44.45
戦後の教育は、日本人から、かつての教養語であつた漢文のたしなみを一掃してしまつた。さらにヅサンな
国語改革案で、日本語を「役に立つ」日本語に仕立てあげようとして、教養語としての日本語を、日本古典を
読解する力を、すつかり弱めてしまつた。その上、ここへ来て、またまた英語を、教養語としての座から
引きずり下ろさうとしてゐる。
私は、「ユー・ウォント・ア・ガール・トゥナイト?」なんて言葉がすらすら出てくるより、会話はできなくても、
誰でもシェークスピアが読めるはうが、日本人としても立派だと思ふのだが……。
三島由紀夫「巻頭言(『婦人公論』)一億総通訳」より
本来知性は普遍的なもので、女性だけの知性などといふ妙なものはありえやうがない。この雑誌は、素朴で有能な
男性を徒らにおびやかすやうな女性を養成したことも確かである。
三島由紀夫「巻頭言(『婦人公論』)創刊四十五年を祝ふ」より
435 :
名無しさん@社会人:2011/06/05(日) 12:25:42.53
よく小学校などで、
「あの子、イヤな子だよ。すぐ先生にいひつけるんだから」
などと一人がいふと、忽ち噂が伝播して、「あの子」はクラスぢゆうから爪はじきにされる。
かういふのは原始的な集団ほど甚だしいので、村八分なんていふのは、東京のまんなかでは行はれない。しかし
実際のところ、小さな集団の中では村八分はいつもあつて、丸ノ内の近代的なオフィスの内部にだつて、
一寸した悪い噂から生じた村八分の雛型は、いくらも見られる。
この間ある週刊誌の編集長と話してゐて、スキャンダルといふやつは、どのくらゐ迄、宣伝に役立ち、どのくらゐの
度を過ぎると、本人にとつて致命的になるか、といふ問題をいろいろ考へた。長嶋選手の女の問題などは、
明らかに前者に止まり、衆樹選手の悪評判は、悲しいかな後者に接近してゐる、といふのが編集長の意見だつたが、
これも編集長の主観的意見にすぎず、そこのところの境界は、時と場所によつて、又当人の人柄によつて
まちまちであつて、結局はつきりした客観的な目安はつかないといふ。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栄養料理『ハウレンサウ』」より
436 :
名無しさん@社会人:2011/06/05(日) 12:26:58.52
(中略)
さて、スキャンダルの本質は、社会的人気者や、社会で紳士淑女とみとめられてゐた人が、思ひがけなく露出する
馬脚にあるので、はじめから悪人ならスキャンダルにならない。前科七犯の強盗が、十人や二十人の女を
だましたところで、スキャンダルとはいへない。ニュース・ヴァリューとスキャンダルとは同一ではないのである。
スキャンダルの特長は、その悪い噂一つのおかげで、当人の全部をひつくるめて悪者にしてしまふことである。
スキャンダルは、「あいつはかういふ欠点もあるが、かういふ美点もある」といふ形では、決して伝播しない。
「あいつは女たらしだ」「あいつは裏切者だ」――これで全部がおほはれてしまふ。当人は否応なしに、
「女たらし」や「裏切者」の権化になる。一度スキャンダルが伝播したが最後、世間では、「彼は女たらしではあるが、
几帳面な性格で、友達からの借金は必ず期日に返済した」とか、「彼は裏切者だが、親孝行であつた」とか、
さういふ折衷的な判断には、見向きもしなくなつてしまふのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栄養料理『ハウレンサウ』」より
437 :
名無しさん@社会人:2011/06/05(日) 12:27:59.74
――さて、スキャンダルは、人間ばかりでなく、食品にも起る。かつての原子マグロ事件以来の、最大の
食品スキャンダルが、このハウレンサウ事件であつた。
さつき、村八分は原始的な集団のなかで甚だしいと言つたが、マス・コミといふものが、近代的な大都会でも、
十分、村八分を成立させるやうになつた。ハウレンサウはその哀れな犠牲者だつたのである。そしてハウレンサウは、
スキャンダルのあらゆる条件をそなへてゐた。
第一に、ハウレンサウは、これまで社会に有益な役割をしてゐると考へられ、紳士的な野菜と見なされてゐた。
彼ははじめからナラズ者や、殺人犯人だつたのではなかつた。はじめから青酸加里だの、ネコイラズだつたのでは
なくて、善良な食品だつたのである。おまけに、彼には隠れた善行の噂があり、しかもその善行は誇張して
伝へられてゐた。それがすなはち、有名なポパイの漫画である。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栄養料理『ハウレンサウ』」より
438 :
名無しさん@社会人:2011/06/05(日) 12:29:21.37
誰も彼も、ハウレンサウ氏を信用してゐた。ハウレンサウ氏は、わづかな費用で、冬のさなかにも家庭を気易く
訪問し、みんなに愛されてゐた。その紳士が、実は、こつそりと、少量づつの毒物を家庭へ運び入れてゐたといふ
スキャンダルが出て、みんなびつくりしたのである。
昨年十月末から十一月はじめにかけて、一流新聞が一面全部の大記事を出したのは読者もよくご記憶であらう。
「ハウレンサウで大騒ぎ。
喰べすぎると“結石”に。
有害なシウ酸が含まれる」
(中略)
それ以来、ハウレンサウ氏は、善人の仮面をかぶつた陰険な悪人の代表にされてしまつた。(中略)
世間では急にハウレンサウを喰べなくなつた。それを私は、へんなこだはり方だと思ふのである。なるほど
結石が出来るのは不快にちがひないが、結石は死亡原因のランクに入つてゐるやうな病気ではない。キャラメル
自動販売機みたいに、上の穴からハウレン草を入れると、下の穴からコロリと結石がころがり出す、といふやうな
ものではない。もし病気や死の原因になることなら、われわれはもつといろいろ不養生を他にいつぱい重ねてゐる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栄養料理『ハウレンサウ』」より
439 :
名無しさん@社会人:2011/06/05(日) 12:32:06.86
(中略)
日本で放射能雨の被害が喧伝されてゐたとき、銀座に出てゐて、俄か雨でもあると、いい若者が、あわてて頭に
新聞やビニールふろしきをかぶつて駈けた。
そのころニューヨークへ行つた私は、雨が降つてゐても、平然と濡れて歩く人々におどろいた。ところが
ニューヨークでは、タバコが肺癌の原因になるといふ説が有力で、ふつうのタバコを吸つてゐる人はほとんどなく、
パーティーなどへ行くと、十人のうち八人までが、吸口のついた、ニコチン止めの、まるで味のないタバコを
吸つてゐた。私にはあんな味なしタバコは我慢できないので、平気でラッキー・ストライクなんか吸つてゐると、
みんな私の勇気におどろいた。
かういふふうに、人間の恐怖心は、万遍なくすべてに及ぶわけには行かない。もしさうなつたら、恐怖のあまり、
みんな発狂してしまふだらう。だから、大しておそろしくない一つの恐怖に集中して、ほかの恐怖をみんな忘れて
しまふ傾きがある。
ハウレンサウを怖がつてゐる人は、少くともその間だけ、原水爆の恐怖を忘れてゐられるのであらう。その点では
ハウレンサウは、やつぱり有益な食品といふべきなのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栄養料理『ハウレンサウ』」より
440 :
名無しさん@社会人:2011/06/06(月) 17:06:43.34
有効な文化交流とは少数意見の交流だといふことを忘れてはならないのである。赤い国の白い意見と白い国の
赤い意見が、本当にヒザを交へて酒をのむことができるのである。
三島由紀夫「発射塔 少数意見の魅力」より
犯人以外の人物にいろいろ性格描写らしきものが施されながら、最後に犯人がわかつてしまふと、彼らがいかにも
不用な余計な人物であつたといふ感じがするのがつまらない。この世の中に、不用で余計な人間などといふものは
ゐないはずである。
どうして名探偵といふやつは、かうまでキザなのか。あらゆる名探偵といふやつに、私は出しやばり根性の余計な
お節介を感じるが、これは私があんまり犯人の側につきすぎるからであるか。大体、知的強者といふものには
かはいげがないのだ。
古典的名作といへども、ポオの短編を除いて、推理小説といふものは文学ではない。
三島由紀夫「発射塔 推理小説批判」より
441 :
名無しさん@社会人:2011/06/06(月) 17:07:49.40
あんまり着こなしのうまい作家を見ると、多少ヤキモチも働いてゐるにちがひないが、何だか決定的に好きになれない。
もちろん他人の借り物のおしやれをして得々としてゐる手合ひは論外だし、よぼよぼの老人がむりにジン・パンツを
はいたり、胃弱の青年がむりにTシャツを着たりするのは全くいただけないが、自分に似合はないものを
思ひ切つて着る蛮勇といふものも、作家の持つべき美徳の一つである。井伏鱒二氏が突然真つ赤なアロハを着たり、
安岡章太郎氏が突然シルクハットをかぶつたりしたら、私はどんなにもつと氏らを好きになることであらう。
三島由紀夫「発射塔 文壇衣装論」より
小説といふ形式は、本来、清濁あはせのむ大器であつて、良い趣味も悪い趣味も、平気で一緒くたにのみこんで
しまふだけの力がなければならない。(中略)
中間小説にはそんなのが出かかつてゐるが、真の悪趣味を調理するにはむしろすぐれた文学の包丁がいるのだ。
三島由紀夫「発射塔 グロテスク」より
442 :
名無しさん@社会人:2011/06/06(月) 17:08:44.69
教育も教育だが日本人と生まれて、西鶴や近松ぐらゐが原文でスラスラ読めないでどうするのだ。秋成の
雨月物語などは、ちよつと脚注をつければ、子供でも読めるはずだし、カブキ台本にいたつては、問題にもならぬ。
それを一流の先生方が、身すぎ世すぎのために、美しからぬ現代語訳に精出してゐるさまは、アンチョコ製造より
もつと罪が深い。みづから進んで、日本人の語学力を弱めることに協力してゐるからである。
現代語訳などといふものはやらぬにこしたことはないので、それをやらないで滅びてしまふ古典なら、さつさと
滅びてしまふがいいのである。ただカナばかりの原本を、漢字まじりの読みやすい版に作り直すとか、ルビを
入れるとか、おもしろいたのしい脚注を入れるとか、それで美しい本を作るとか、さういふ仕事は先生方にうんと
やつてもらひたいものである。
三島由紀夫「発射塔 古典現代語訳絶対反対」より
443 :
名無しさん@社会人:2011/06/06(月) 17:09:50.04
ユーモアや哄笑は、無力な主人公や、何らなすところなきフーテン的人物のみのかもし出すものではないと信ずる。
有為な人物はユーモリストであり、ニヒリストはなほさら哄笑する。
三島由紀夫「発射塔 ヒロイズム」より
だれだつて年をとるのだから声変はりもしようし、いつまでもキイキイ声ばかり張り上げてもゐられない。
古くなる覚悟は腹の底にいつでも持つてゐなければならない。その時がきたらジタバタして、若い者に追従を
言つたりせず、さつさと古くなつて、堂々とわが道をゆくことがのぞましい。
しかし「オレはもう古いんだぞ。古くなつたんだぞ」と、吹聴してまはるのもみつともない。オールドミスが
「私、もうおばあさんだから」と言つてまはるのと同じことだ。古くなるには、やはり黙つて、堂々と、
新しさうな顔をしたまま平然と古くなつてゆくべきだらう。
三島由紀夫「発射塔 古くなる覚悟」より
444 :
名無しさん@社会人:2011/06/07(火) 10:53:56.86
一旦身に受けた醜聞はなかなか払ひ落とせるものではない。たとへ醜聞が事実とちがつてゐても、醜聞といふものは、
いかにも世間がその人間について抱いてゐるイメージとよく符合するやうにできてゐる。ましてその醜聞が、
大して致命的なものではなく、人々の好奇心をそそつたり、人々に愛される原因になつたりしてゐるときには
尚更である。かくて醜聞はそのまま神話に変身する。
(中略)
アメリカにおける日本娘の名声の高さは大へんなものである。われわれスポイルされた日本男性は、風呂の中で
妻が背中を流してくれるのを当然のサーヴィスと心得てゐるが、アメリカ人の感激は大へんなものらしいのである。
しかしアメリカ婦人だつて、自分の愛犬の背中を喜んで洗つてやるではないか。とすれば、アメリカ婦人が良人の
背中を流したがらない理由は、男性を犬から区別する敬意に出てゐるのかもしれないのである。
三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より
445 :
名無しさん@社会人:2011/06/07(火) 10:55:26.93
(中略)
日本のサーヴィス業といふものには、微妙な東洋的特色があるのである。西欧では、快楽といふものは、
キリスト教的伝統によつて、肉体的快楽と精神的快楽にはつきり分けられてゐるらしい。日本ではこのへんが
ひどくあいまいで、肉体から精神にいたるひろい領域を、いろんな種類の快楽が埋めてゐて、そのひとつひとつに
対応するサーヴィス業があるわけだ。だから日本人は、外人が芸者やバアの女給を娼婦と混同するやうな誤解に
ひどく気を悪くする。芸者は断じて娼婦ではない。かと云つて素人女でもないのである。いや、娼婦ですらも、
厳然たる合理的娼婦ではない。十八世紀の日本の純粋な恋愛劇は、ほとんど娼婦と客との恋を描いてゐる。
この点では、封建時代の日本人はよく割り切つてゐた。恋愛とは、金を払つた女とやるものであり、結婚と
恋愛とは何の関係もないと思つてゐたのである。今でも日本人にはこの気分が残つてゐて、恋愛といふものは、
金を払へる場所で、たとへば女のゐる酒場で、次第に精神的に成立するものだといふやうな考へがある。
三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より
446 :
名無しさん@社会人:2011/06/07(火) 10:57:09.53
(中略)
日本人はほとんど英語を話さない。と云ふとアメリカ人の旅行者はおどろくだらうが、ホテル業者やガイドや
貿易商社関係や、つまり英会話の能力で利益を得る人たちが英語の巧いのは当り前である。だから、本当の日本人、
外人と附合はなくてもやつて行ける日本人は、ほとんど英語を話さない、と云つたはうが正確だらう。そして
かういふ本当の日本人は、外人風に肩をすくめたり、身ぶり手ぶりを使つたり決してしない。英語で話しかけられると、
「わからない」といふしるしに、例の有名な「不可解な微笑」をうかべるだけである。
この微笑が、西洋人には、実に気味のわるい、謎に充ちたものにみえることは定評がある。しかしわれわれに
とつては単純な問題である。悲しいから微笑する。困惑するから微笑する。腹が立つから微笑する。つまり、
「悲しみ」と「困惑」と「怒り」は本来別々の感情だが、それをXならXといふ同じ符号で表現するわけだ。
このX符号を示された相手は、すぐ次のやうに察しなければならない。
三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より
447 :
名無しさん@社会人:2011/06/07(火) 10:58:24.24
「ははア、これはきつと何か、隠しておきたい感情があるんだな。そんなら触れずにそつとしておかう」
つまり微笑は、ノー・コメントであり、「判断停止」「分析停止」の要請である。こんなことは社会生活では
当たり前のことで、日本のやうに個人主義の発達しない社会では、微笑が個人の自由を守つてきたのである。
しかもそれは礼儀正しさの要請にも叶つてゐる。
ところが外国人はさうは行かない。殊にアメリカ人となると、絶対に我慢できない。一体このX符号は何だらう。
彼は頭を悩まし、分析し、判断し、質問する。そしてあげくのはてに、相手が怒つてゐるのだと知ると、茫然と
してしまふ。「そんならはじめから、微笑したりせずに、怒ればいいぢやないか」しかしそれは礼儀に外れた
方法である。
三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より
448 :
名無しさん@社会人:2011/06/07(火) 11:00:56.32
(中略)
日本の伝統は大てい木と紙で出来てゐて、火をつければ燃えてしまふし、放置(はふ)つておけば腐つてしまふ。
伊勢の大神宮が二十年毎に造り替へられる制度は、すでに千年以上の歴史を持ち、この間五十九回の遷宮が
行はれたが、これが日本人の伝統といふものの考へ方をよくあらはしてゐる。西洋ではオリジナルとコピイとの
間には決定的な差があるが、木造建築の日本では、正確なコピイはオリジナルと同価値を生じ、つまり次の
オリジナルになるのである。京都の有名な大寺院も大てい何度か火災に会つて再建されたものである。かくて
伝統とは季節の交代みたいなもので、今年の春は去年の春とおなじであり、去年の秋は今年の秋とおなじである。
だから一般的に云つて、日本人くらゐ、伝統を惜しげなく捨て去つて、さつさと始末してしまふ国民もゐない。
伝統の重圧といふものは、日常生活には少しも感じられず、東洋風な敬老思想もなくなつて、今日では、日本の
老人は、若者の御機嫌をとるのに汲々としてゐる。
三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より
449 :
名無しさん@社会人:2011/06/07(火) 11:07:57.01
(中略)二十歳以下の連中は、ブルー・ジンズで街を歩きまはり、ロックン・ロールにうつつを抜かしてゐる。
外人旅行者は目をうたがふ。これが日本なのか? 旅行案内社のポスターと何たるちがひだらう!
しかしこれが日本の伝統なのである。鎖国時代の日本人でさへ、今日の若い日本人が、ジャックとかメリーとかいふ
アメリカ名前のニック・ネームを使つてゐるやうに、支那式の名前を別に持つてゐた。当時、支那は日本にとつて、
今日のヨーロッパのやうなものであつた。
二十年目毎の改築と遷宮、これは実に象徴的である。終戦後十五年あたりから、もうすつかり死に絶えたと誰もが
思つてゐた古い日本思想が、あなどりがたい力で復活して、若い世代の一部を惹きつけてゐる。一九六〇年に、
十五年ぶりでハラキリが復活した。岸内閣の政治に憤慨した或る僧侶が、官邸の前で切腹したのである。これから
又たびたびハラキリが出て来ても、おどろくには当らないのである。サムラヒもやがて復活することであらう。
三島由紀夫「アメリカ人の日本神話」より
450 :
名無しさん@社会人:2011/06/08(水) 16:26:13.72
大学といふものが、看板どほり、真理探究の象牙の塔であるなら、よほどの変り者しか大学へ行きたがらぬ筈だが、
実際は就職と出世の必要な段階と考へられてをり、又今のところ世間の大体の仕組もさうなつてゐる。
さて、出世とは何かといふのに、私は京都の坊さんからこんな話をきいた。
江戸時代には名僧知識が多かつた。それは一般の平民にとつては、出世をする道とては坊さんになるほかなかつたので、
幾多の秀才が、仏門に入つたわけだが、明治時代になると、誰でも大臣宰相になれる世の中になつたので、
坊さんに秀才が出にくくなつたといふのである。
(中略)
明治以後、日本はうんと近代化し、うんと民主主義化したわけだが、同時に職能的社会の特色と誇りを失くして
しまつた。誰も彼も腕に何かの技能をつけるのを面倒がつて、ホワイト・カラーのサラリーマンになりたがる。
サラリーマンといふのは、技術者を除いて、腕に何の技能も持たない事務屋の集まりで、本当のことを言へば、
「誰でもつとまる商売」なのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 お子様料理『試験地獄』」より
451 :
名無しさん@社会人:2011/06/08(水) 16:26:38.57
さうなると、学校の成績や出身校ぐらゐで人間の優劣を決めなければ、決めやうがない。もしこれが桶屋の試験なら、
桶を作らせてみて巧ければ、学歴もヘチマもないわけだが、目に見えない能力をためすには、学校以外に判断の
基準がない。そこで、いはゆる「いい大学」へ入つて「いい成績」をとるために、親も本人も狂奔するといふわけだ。
(中略)
しかし世間の親の九分九厘は親馬鹿で、親バカといふときこえがよいが、その実、子供はそつちのけで、親としての
エゴイズムと虚栄心にとらはれてゐる。有名校を何度も受けさせて、たうとう落第を重ねた子供がノイローゼになつて
自殺したなどといふのがこの手合で、こんなことなら、裏口入学に秘術を尽くし、ありたけの金とお世辞笑ひを
使つて、低脳息子を有名校へ入れる親のはうが、よつぽど立派である。よつぽどヒューマニスティックである。
ヒューマニズムとは、命をかける代りに金を使ふといふ精神だからだ。
三島由紀夫「社会料理三島亭 お子様料理『試験地獄』」より
452 :
名無しさん@社会人:2011/06/08(水) 16:27:06.49
資本主義社会では、金持のはうがトクに決つてゐる。金を持つてゐない親の子に生れれば、自分で自分の能力を
切りひらいて、社会の上層部へのし上るしかない。社会の生存競争の何十年にわたる激闘に比べれば、試験勉強なんぞ、
屁のカッパである。
子供に、こんな苛烈な生存競争を味はせるのは可哀想だ、などといふのは文明人の感傷であつて、未開人の社会の
成人儀式の苛烈さはものすごい。先頃シネラマで、高い高い櫓の天辺から藤蔓で体を巻いて飛び下りる成人式を
見た親は、これと試験地獄とどつちがましか考へてみるがいい。
社会には危険な株なら、いくらでもころがつてゐて安く買へる。安全で将来性のある株にばかり集中するから、
その株が高くなる。試験地獄もこの法則と同じで、子供のために安全で将来性のある株を買はうとするから、
子供も苦しむのである。しかし或る意味では、さういふ株を狙ふ代価として、多少の苦しみは仕方があるまい、
といふほかはない。
三島由紀夫「社会料理三島亭 お子様料理『試験地獄』」より
453 :
名無しさん@社会人:2011/06/08(水) 16:27:33.35
世間には、変り者の親もゐて、子供のためにわざわざ危険な株を買ふ親がゐる。子供を天才画家や、天才
ヴァイオリニストや、第二の美空ひばりに仕立てようといふ親である。かういふ親に比べれば、試験地獄に子供を
かり立てる平凡尋常な親のはうが、よほど子供にとつて仕合せである。
私は永い目で見ると、試験地獄も緩和されるのではないかといふ楽観的意見を持つてゐる。(中略)
何世代かを経て、親がみんな高等教育を受けてゐるやうな世の中になれば、「子供に自分より高い教育を
受けさせたい」といふ夢もなくなるし、同時に、学士様も一向チヤホヤされなくなり、子供に同じ好い目を見せて
やらうといふ夢もなくなる。社会全体の幻滅がもつとひどくなれば、試験地獄も緩和され、再び職能制社会の
理想的な形ができてくるかもしれないのである。すでにその兆候は見えて来てをり、子供は正直なもので、
大臣宰相になることに出世の夢を抱く子供なんか一人もゐず、「えらくなる」とはプロ野球の選手になること
なのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 お子様料理『試験地獄』」より
454 :
名無しさん@社会人:2011/06/12(日) 15:33:18.98
コピペばかりやな
455 :
名無しさん@社会人:2011/06/12(日) 15:50:18.07
子供はみんな遊びの達人である。
「遊びをせんとや生れけん
戯れせんとや生れけん
遊ぶ子供の声をきけば
わが身さへこそゆるがるれ」
といふ古い今様があるが、子供の遊びの純粋さに対する大人の感動と郷愁がよく出てゐる。
大人の遊びは結局この子供の純粋な遊びをまねることであるが、子供の遊びも、チャンバラからお医者様ごつこまで、
結局すべて大人の真似事であるから、遊びといふ点では、大人と子供は別々にあそんでゐても、結局、お互ひの
マネを演じてゐるにすぎない。大人の遊び場所から子供は完全に閉め出されてゐるが、その中で大人のやつて
ゐることは、要するに子供に帰らうとする身振りである。賭け事も、ダンスも、性行為そのものも。
なぜ大人は酒を飲むのか。大人になると悲しいことに、酒を呑まなくては酔へないからである。子供なら、
何も呑まなくても、忽ち遊びに酔つてしまふことができる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より
456 :
名無しさん@社会人:2011/06/12(日) 15:52:10.95
(中略)子供とちがつて、酔ふためには手続が要り、金がかかる。だから遊ぶためにアクセク働らかねばならず、
遊ぶために緊張過多にもなつてしまふ。これでは本末転倒といふものだ。折角レクリエーションと称して郊外へ
出かけても、混雑した電車や自動車ラッシュで、ヘトヘトになつてしまふ。
遊び人といふ人種がゐて、このごろの用語ではプレイ・ボーイといふ。私より二つ先輩の名高いプレイ・ボーイに、
この間久しぶりに銀座でパッタリ会つたが、あひかはらず上等な洋服を着て、一分の隙もない身なりで、きれいな
女の子を連れて歩いてゐた。(中略)この男は三百六十五日、ナイトクラブ通ひをしてゐる金持息子だが、よくも
飽きないものだと思つて、私はまづその体力に感心するのである。ヤキモチでいふのではないが、いくら女を
とりかへたところで、よほど想像力と空想力が貧しくなければ、三百六十五日ナイトクラブ通ひなんかできる
ものではない。ナイトクラブなんていふものは、映画の張りぼてのセットみたいなもので、ひたすら、高級めいた
セクシーな雰囲気をかもし出すために作られた造花にすぎない。
三島由紀夫「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より
457 :
名無しさん@社会人:2011/06/12(日) 15:54:36.48
そんな造花的雰囲気がどうしてもこの男にとつて必要な点では、しかし、三百六十五日、縄のれんの呑屋に通ふ
をぢさんと大差ないかもしれないのである。
誰でも固有の、遊びの条件といふものを持つてゐる。ある人は金をばらまかねば遊んだ気にならず、ある人は
人にタカらなければ有効に遊んだ気にならない。これは貧富の問題といふよりは、気質乃至趣味の問題で、
ハリウッドの大スターでも、決して人の煙草しかのまないといふ「がめつい奴」がゐるさうだ。
大体日本人は家へ人を招く習慣が少ないが、これは日本の家の貧しさばかりでなく、日本料理が作る手数のかかる
ことと、人を招いたらムヤミと御馳走を並べなければならぬといふ旧習のなせるわざであらう。西洋人は自宅へ
人を招くのを最高の礼儀と考へてゐるが、日本では花柳界の料理屋へ招くのがもつとも手厚い接待だらう。
アメリカ人などは、大さわぎをして自宅へ招くが、ろくな御馳走を出しはしない。大ていお料理は一いろか二いろだ。
カクテルなどでは、よくまアこれでお客をするものだ、と思ふほど、ポテト・チップスと南京豆ぐらゐの肴で
すまして、ケロリとしてゐる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より
458 :
名無しさん@社会人:2011/06/12(日) 15:57:09.60
しかし自宅へ西洋人を招くとわかるが、彼らが実にたのしみ上手遊び上手だといふことである。知らない同士も
たちまち十年の知己のやうになり、少しも人みしりをしないでたのしく話し、たちまちたのしげな雰囲気を
作つてしまふ。
それを見てゐると、いかにも遊び上手のやうにみえるが、彼らが本当に内心たのしいのかどうかわかつたものではない。
たえず知つた同士で呼びつ呼ばれつして、家庭的なたのしみをくりかへし、いつも夫婦同伴で、単調な交際の外へ
出ず、ポーカアをやるにも、ダンスをやるにも、顔ぶれが決つてゐるやりきれない小市民生活は、アメリカ映画で
皆さんもよく御存知であらう。「ア・ロット・オヴ・ファン」(面白かった)とか、「エンジョイした」とか、
しきりに言ふが、どこまで口先のお世辞かわかつたものではない。アメリカ流のカクテル・パーティーの
せはしない附合は、私には、何だか浅い、中途半端な、悲しい遊びに思はれる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より
459 :
名無しさん@社会人:2011/06/12(日) 15:58:01.98
遊び、娯楽、といふものは、むやみと新らしい刺戟を求めることでもなく、阿片常習者のやうな中毒症状を
呈することでもなく、お金を湯水のやうに使ふことでもなく、日なたぼつこでも、昼寝でも、昼飯でも、散歩でも、
現在自分のやつてゐることを最高に享楽する精神であり才能であらう。この点でも日本人はテンション族で、
遊びにまで緊張過多なのは前にも述べたとほりだ。
プロ野球見物と庭の水まきと、どつちが現在の自分にとつてもつともたのしいか、といふことに、自分の本当の
判断を働らかすことが、遊び上手の秘訣であらう。世間の流行におくれまいとか、話題をのがさぬやうにとか、
「お隣りが行くから家も」とか、「人が面白いと言つたから」とか、……さういふ理由で遊びを追求するのは、
人のための遊びであつて、自分のための娯楽ではないのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より
460 :
名無しさん@社会人:2011/06/13(月) 10:37:57.02
私どもの少年時代にも、「少年倶楽部」なら読んでいいが「譚海」は読んではいけない、といふのが、親の与へる
ひとつの基準になつてゐた。それだから「譚海」を親にかくれて読むのはたのしかつたが、それにはいつもながら、
「寄らば斬るぞッ」
とか、
「エーイッ! ギャアーッ!」
とか、
「やられたッ! ウ、ウーム」
とか、動物園の叫喚に似た擬音詞がいつぱい詰つてゐた。子供たちは擬音詞を好む。そして残忍殺伐は、遺憾ながら、
子供たちの重要な趣味の一部である。
ところで、このごろでは赤本漫画は姿を隠すどころか、大人の読者をも吸引してゐるらしい。(中略)
日本にも、この種の「大人」の激増しつつあるのが昨今で、赤本漫画、アクション漫画も、そのはうの需要を
充たしてゐるらしい。まさか学校を出て背広を着るやうになつて、路上でチャンバラもできないから、テレビや
映画のアクション物の見物から、ピストルの蒐集、射撃の練習にうつつを抜かしてゐる大人は増える一方である。
三島由紀夫「社会料理三島亭 いかもの料理『大人の赤本』」より
461 :
名無しさん@社会人:2011/06/13(月) 10:39:30.38
ここに男の大人の哀れな見果てぬ夢がある。女は、子供のころ夢みた、お嫁さんごつこや台所ごつこやお人形ごつこを、
大人になれば正々堂々と実現できるので、結婚して台所仕事をして赤ん坊を生めば、同時に子供時代の夢も
充たされる仕組になつてゐる。男はさうは行かない。そこで銀行につとめながら、銀行ギャングの映画に
熱中したりする妙なことになる。哲学を講じながら、こつそりチャンバラもの映画を見に行くやうなことになる。
男にとつては、幼児期の夢は、やがてその実現不可能を思ひ知らされ、夢としてのままに生き長らへる他はないことを
知らされるのである。これがすべての男の残酷な運命だ。
先頃私もアクション物映画に出演して、ピストルをふりまはしたが、このピストルといふものの持心地のよさと
云つたら、筆舌に尽しがたいもので、これでは自分の子供が成長してピストルいぢりをはじめても、とても
鹿爪らしい教訓などはできまいと思はれた。今もあのひやりと掌に重たいピストルの触感、弾倉をしらべるときの
手応へは、私の夢路に通ふのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 いかもの料理『大人の赤本』」より
462 :
名無しさん@社会人:2011/06/13(月) 10:41:24.85
(中略)
それはそれとして、低俗、幼稚、残忍、粗悪、などと世間の最低の悪口を浴びてゐるこれらの赤本漫画は、
ひとたび子供に対する悪影響といふ問題を除けて考へれば、却つていろんな面白い問題を提起してゐる。
かういふものを一生けんめい読んでゐる大人の顔は(もちろん私の顔も含めて)、全然白痴的かといふと、
さういふものでもなく、カントの哲学書に読み耽つてゐる顔と、そんなに大差ないのではあるまいかと思はれる。
(中略)
ただ世の女性方は、たとへイギリス製の生地の背広を着こなした紳士の中にも、「ガーン!」「ガバッ!」
「ガシーン!」「バシーン!」などの擬音詞に充ちた低俗なアクションへの興味が息をひそめてゐることを、
知つておいて損はなからう。男にとつては、いくつになつても、そんなに「バカバカしい」ことといふものは
ありえない。「バカバカしい」といふ落着いた冷笑は、いつも本質的に女性的なものである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 いかもの料理『大人の赤本』」より
463 :
名無しさん@社会人:2011/06/14(火) 10:11:52.90
空にはときどき説明のつかぬふしぎな現象があらはれることはまちがひがない。それが大てい短かい間のことで、
目撃者も少なく、その目撃者の多くには科学的知識も天文学的知識も期待できないから、堂々たる科学的反駁を
加へられると、自分の見たものに自信がなくなつて、はつきりこの目で見たものも妄想のやうな気がして来るで
あらう。かうして葬り去られた目撃例は少なくないにちがひない。
或る日のこと、北村小松氏から電話があつて、五月二十三日の朝五時ごろ、東京西北方に円盤が現はれるかも
しれない、といふ情報が入つた。
(中略)
いくら待つても、空には何の異変もあらはれなかつた。飛行機一つ通らず、ときどき屋上をかすめて飛ぶ朝の
小鳥たちの、白いお腹を見るだけであつた。空がこんなに静かで何もないものだとは知らなかつた。
(中略)
五時二十五分になつた。
もう下りようとしたとき、北のはうの大樹のかげから一抹の黒い雲があらはれた。するとその雲がみるみる西方へ
棚引いた。
「おやおや異変が現はれたわ。円盤が出るかもしれなくつてよ」
妻が腰を落ちつけてしまつたので、私もその棚引く黒雲を凝視した。
三島由紀夫「社会料理三島亭 宇宙食『空飛ぶ円盤』」より
464 :
名無しさん@社会人:2011/06/14(火) 10:13:24.58
雲はどんどん西方へむかつて、非常な速さで延びてゆく。西方の池上本門寺の五重塔のあたりまでのびたとき、
西北方の一点を指さして、妻が、
「アラ、変なものが」
と言つた。見ると、西北の黒雲の帯の上に、一点白いものが現はれてゐた。それは薬のカプセルによく似た形で、
左方が少し持ち上つてゐた。そして現はれるが早いか、同じ姿勢のまま西へ向つて動きだした。黒雲の背景の
上だからよく見える。私は、円盤にも葉巻型といふのがあるのを知つてゐたから、それだな、と思つた。
三、四秒、肉眼で追つたのち、私はあわてて双眼鏡を目にあてたが、妻も写真機のファインダーをのぞいてゐる。
私が双眼鏡から目を離したとき、すでにその姿はなかつた。妻はファインダーの中にキャッチしてゐたが、
シャッターを切る自信がないままに、出現してから五、六秒で、西方の雲の中へ隠れたのである。
――これを見て、われわれが鬼の首でも取つた気になつたのは言ふまでもない。
しかし周囲は意外に冷静で、父の如きは、夫婦が共謀してデッチ上げをやつてゐるんだ、と頭から信じない。
三島由紀夫「社会料理三島亭 宇宙食『空飛ぶ円盤』」より
465 :
名無しさん@社会人:2011/06/14(火) 10:15:50.41
肝腎な目撃者の妻も、
「あれ、きつと円盤よ。信じるわ、私も。でも一度見たから、又見なくてもいい」
とケロリとしてゐる。
日を経るにつれて、私の自信も何だか怪しくなつてきた。それが果して円盤だつたかどうか、科学的に証明する
方法はないし、北村小松氏も風邪で寝てをられて、目撃されなかつた。
日ましに私は、自分で見たものが信じられなくなつてゐながら、人が「そりや目の錯覚だらう」などと言ふと、
腹が立つのである。とにかくわれわれ夫婦が、ヘンなものを見たのはたしかである。それを誰にも信じさせることが
できないのは、妙に孤独な心境に私を追ひ込んだ。(中略)しかしもしあれが円盤だとしたら、乗つてゐた宇宙人は、
今ごろ私のあやふやな心境を、嘲り笑つてゐることであらう。「ここに俺がゐるのに、あいつは地球人の
つまらん常識にとらはれてゐる」といふ彼らの笑ひ声が耳にきこえてくるやうな気がする。
哲学的見地から云ふと、かうしてここにわれわれ人間が生存してゐるといふ事実も、宇宙人の存在以上に確実な
ものといへるかどうか、甚だあやしいのである。夏の星空がそのことを教へてくれてゐるやうだ。
三島由紀夫「社会料理三島亭 宇宙食『空飛ぶ円盤』」より
466 :
名無しさん@社会人:2011/06/15(水) 11:08:18.31
去る六月二十二日のこと、読売新聞の「夫の注文」といふ欄に、「いい年をしてミーハー趣味」といふ題の
投書が載つた。その投書は、「テレビといへば鶴田浩二にうつつをぬかし、タンスの上の写真立てには仲代達矢が
ニンマリ笑つてゐる。茶の間のガラス戸には大川橋蔵があつちを向いたりこつちを向いたり。そんなミーハー趣味より、
少しは知性を高める本でも買つたらどうか。子供が大きくなるといふのに、おばあさんになつても石原の
ユウちやんはいいねなどといふことになるのではイウウツだ」といふ趣旨のものだつたが、その反響は俄然
ものすごく、百通近くの投書が来た。(中略)
こんなつまらないことに賛成したりムキになつて反対したりする投書族の心理はさておき、この種のミーハー
奥さんは、百通の投書を氷山の一角として、日本全国に無数にちらばつてゐると考へてよからう。ブロマイド
ぐらゐで満足してゐるあひだはいいが、若い映画俳優や歌手の後援会には、三十代以上の奥さんも、相当なる
パーセンテージで参加してゐる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栗ぜんざい『ミーハー奥さん』」より
467 :
名無しさん@社会人:2011/06/15(水) 11:09:59.38
さて、ブロマイドを飾るのが低俗かどうかなどと論ずるより先に、ブロマイドといふものが何を意味するかを
考へたはうが早い。
鑑賞用美男などといふと体裁がいいが、ブロマイドは明らかに人気にもとづいてをり、その人気とは、悲しいかな、
芸よりもむしろ、その俳優の性的魅力にもとづいてゐる。だから、身もフタもないところ、女性にとつての、
男優の顔のブロマイドは、男性にとつての女のヌード写真とさしてちがはない意味を持つてゐると云つていい。
ただ女性にとつては、男の顔だけで十分なので、女性ヌードに対抗して、ハリウッドで、男優の水着姿の
ブロマイドを一杯売り出したところ、案に相違して、ちつとも売れなかつたさうである。
もし芸や人格や名声にあこがれてのことなら、乃木大将や坂東三津五郎や、毛沢東の写真を飾ればいいわけで、
ブロマイドの男優たちは、若くて美男であるといふことを、全然内容ヌキで買はれてゐるわけだが、顔といふものは
おのづから人間の気質を暗示するから、何とでも言ひのがれができる。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栗ぜんざい『ミーハー奥さん』」より
468 :
名無しさん@社会人:2011/06/15(水) 11:11:35.93
この「言ひのがれ」といふことが、女性にとつてのブロマイドの魅力の一つである。
「仲代達矢つて、孤独で、ニヒルで、どこか悪の漂ふ魅力だわ」
などとブロマイドを見ながら言つてるが、それは映画の作つたイメージにすぎず、仲代君が本当に孤独でニヒルで
悪党であるかどうか、本人にきいてみなければわからない。いや、本人にもよくわからないだらう。性格はよく
顔と反対の場合があるのである。しかしかう言つてる分には、
「仲代達矢の顔見てると、シビれて来るわ」
などと旦那様に告白するよりは無難である。旦那様も、どうにもシビれさせやうのない自分の顔は棚上げにして、
何とか奥さんの要望にこたへて、「孤独で、ニヒルで、悪の漂ふやうな魅力」を身につけようと努力するかもしれない。
その結果、旦那様が、本当に手形偽造や公金費消にでも手を出したら、それは奥さんの責任といふものだが……。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栗ぜんざい『ミーハー奥さん』」より
469 :
名無しさん@社会人:2011/06/15(水) 11:13:18.96
しかしミーハー奥さんがブロマイドを飾り立ててゐたら、まづ旦那様は、自分の若さと性的魅力をすでに失つたか、
あるひははじめから持つてゐなかつたか、に気づかなければならない。そのくらゐの敏感さもなくて、
「少し知性を高める本でも買つたらどうか」
などと言つてるのでは、現代の亭主として落第である。
若い美男俳優のブロマイドは、奥さんよりも旦那に向つて、不断に、
「お気の毒ですなア。別に僕はお宅の御夫婦仲の邪魔をしてるわけでもなし、薄つぺらの無害の紙きれですが、
旦那よ、あなたの確実に持つてゐないものを、僕は全部持つてゐるんですからなア」
と話しかけてゐるやうなものである。亭主たるもの、豈(あに)奮起せざるべけんや。
しかし、深夜ひそかに亭主も耳をすまして、ブロマイドが何を独り言を言つてるか、ちよつときいてみる必要がある。
奥さんの鏡台の上で、あるひは茶ダンスの上で、かれらはかう言つてゐるのである。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栗ぜんざい『ミーハー奥さん』」より
470 :
名無しさん@社会人:2011/06/15(水) 11:15:14.33
「僕も商売だから、かうしてお宅のガタガタの鏡台や、安物の茶ダンスの上で、歯を見せて御愛想笑ひをしてゐるが、
あなたにして上げられるのは、これだけですよ、奥さん。もしあなたがヘンな気を起して、僕の家を突然訪ねてでも
来られたら、うちの玄関番が、うやうやしくお引取りねがふほかはないでせう。何しろ僕は、ひどく忙しくて、
ひどく疲れてゐるんですからね。今は僕も独身ですが、いづれ結婚するときは、十代か二十代はじめの、ピチピチした
若いきれいな娘をもらひますよ。奥さんと僕ぢやね、年もちがひすぎるし、生活感情も何もかもちがひすぎますもの。
くれぐれも己惚れてヘンな気を起さないで下さいね。僕たちの付合はこれだけにしておきませうね」
――もちろん知的な女も、美男俳優のブロマイドを見て、心を動かされることはあるだらう。しかし彼女が一切
その意志を表明せず、ブロマイドなんかを身辺に近づけないのは、右のやうな深夜のブロマイドの独り言を、
ちやんときいてゐるからぢやないかと思はれる。知的な高尚な女は、耳がとてもよく利くのだ。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栗ぜんざい『ミーハー奥さん』」より
471 :
名無しさん@社会人:2011/06/15(水) 11:20:47.76
さて本題に戻つて、いはゆるミーハー奥さんは可愛らしい。彼女の耳にはそんな独り言は永遠にきこえないのである。
しかもきこえないから、暴走するかといふと、さにあらず、適当なところで止まつて、よそへ行けば亭主の
惚気を言ひ、年をとれば、それこそ孫を相手に「裕ちやんはいいね」などと言つてゐる。
ミーハー奥さんのブロマイド道楽は、女性が無意識に出してゐる小さな可愛らしい尻尾であつて、かういふ尻尾を
出してゐる女性は、無意識の美徳を持つてゐるから、永遠に可愛らしい。おばあさんになつても可愛らしい。
男性はこの尻尾に感謝すべきである。こんな尻尾のどこにも見えない知的で高尚な女こそ本当の魔物である。
しかし、男性もへんないたづらつ気を出して、奥さんのこんな無意識の尻尾を気にして、その尻尾をギュッと
引張つたりしないはうがいい。引張られた尻尾は忽ち九尾に裂け、おそるべき魔性をあらはし、目は怒り、口は裂けて、
女性の怖るべき本質をむき出しにするであらう。賢明な男とは、女をして、女の本質に目をひらかせないやうに、
いつもうまく誘導してゆくことのできる男である。
三島由紀夫「社会料理三島亭 栗ぜんざい『ミーハー奥さん』」より
472 :
名無しさん@社会人:2011/06/22(水) 12:14:52.31
老人と若者のちがひは簡単なことで、老人はこの世の中が変はることを知つてゐるから、しひて変へようとも
しないし、若者はこの世の中が変はらないと思ひつめてゐるから、性急に変へようと努力する。そして結局、
世の中は多少とも変はるのだが、それはじつのところ、老人が考へるやうに「自然に」変はつたのでもなければ、
若者の考へるやうに革新の力によつて変はつたのでもない。両者の力がほどほどに働いて、希望は裏切られ、
目的はそらされ、老人にとつても若者にとつても、百パーセント満足といふ結果には決してならずに、変はるのである。
こんなことをいひだすと、ひどく悟りすましたやうであるが、さういふ見方が何とかできるやうになるときに、
人は四十歳に達するのだ。そして自分は五〇パーセントだけ「自然」に属し、五〇パーセントだけ「人間の意志」に
属することを、おぼろげながら理解するやうになる。
私は四十歳に達して、とにかく、変はる見込みのないと思ふ世の中が変はるのを何度か見てきた。
三島由紀夫「文学的予言――昭和四十年代」より
473 :
名無しさん@社会人:2011/06/22(水) 12:15:20.60
私の年齢は昭和と同年であるから、昭和といふ時代が、妙に周期的に、十年ごとに身じろぎをして、居ずまひを
変へるのを何度か見てきた。最初の意識的な強烈な体験は、いふまでもなく昭和二十年の敗戦である。つぎに
昭和三十年の、大衆社会化への明白な兆候は、そのときはよくわからなかつたが、いまになつて考へてみれば
歴然たるものがあり、それが昭和三十九年秋のオリンピックで、絶頂に達し、同時にその使命は終はつたといふのが、
いまの私の(多少希望的観測をまじへた)判断である。もちろん大衆社会化現象はますます進行するだらうが、
知識人がそのなかに巻き込まれて、西も東もわからずうろうろする時代は、もう確実に終はつた、と私は感じる。
それにつけても思ひ出されるのは、昭和三十二年にニューヨークに滞在してゐたとき、知識階級の孤立の状況を
まざまざと感じて、まだ大衆とともに、同床異夢にふけつてゐた感のある日本の知識階級の一人として、衝撃を
受けた記憶がある。
三島由紀夫「文学的予言――昭和四十年代」より
474 :
名無しさん@社会人:2011/06/22(水) 12:15:54.17
あのころの日本の大衆には、まだかすかに、古い観念的な教育体系(それは主としてヨーロッパ的なもので
あるが)への、よくいへば夢やあこがれ、わるくいへばスノビズムがのこつてゐた。知識人はさういふものに
乗つかつて、仕事をしてゐればいい、といふ暗黙の了解があり、そこにまた、日本の知識階級の、誠実さもあれば
不誠実さもあつた。それがその後の八年間に完全に根絶やしになり、わけても安保闘争といふ象徴的な事件によつて、
知識人と大衆とがまつたく遊離してしまつた、といふのが、私の見方である。
(中略)アメリカで起つた現象は、必ず、三、四年後に日本にも波及するといふのは、戦後史の定石だが、知識人の
孤立までが、これほど忠実に波及するとは、私も正直考へてはゐなかつた。もつともアメリカには、その孤立を
ささへる富める芸術愛好家のスノビズムが残つてゐるけれども、日本にはそれもない。
(中略)もはや知識人の大衆への媚びは、お笑ひ草となるだけであらう。それでも媚びたいと思ふ人は、本格的な
娼婦になるほかはないであらう。もはやセミ・プロは通用しないであらう。
三島由紀夫「文学的予言――昭和四十年代」より
475 :
名無しさん@社会人:2011/06/22(水) 12:16:39.72
本多秋五氏の文学の「有効性の上にあるもの」をもぢつていへば「無効性の上にあるもの」を信じなければ
ならぬ時代がくるであらう。サルトルが、文学が一塊のパンに値するかどうかといふ、昔ながらの議論を
むしかへしてゐるのを思ひ出しつつ、私はたまたま「自然居士」といふ能を見てゐて、哀れな子供を人買ひから
救ひ出すために、居士が遊芸の限りをつくし、つひに人買ひを感動させて、目的を達するといふ物語に、日本で
古くから信じられてきたこの種の思想を新鮮に感じた。芸術それ自体がかうして人命を救ふといふ物語は、
厳密にいつて、ヒューマニズムとも目的意識とも縁のない、いはば遊芸が、人を感動させるといふそれ自体の原則に
忠実にしたがふことから、ゆくりなくも生まれた結果についての物語である。観客は、物語に感動する前に、
まづ人買ひとともに、居士の遊芸に感動しなければならない。そして、そこに少しでも媚びが見えたら、観客と
ともに、人買ひも感動することはないだらう。媚びとは目的意識のことである。
三島由紀夫「文学的予言――昭和四十年代」より
渡辺
477 :
名無しさん@社会人:2011/06/29(水) 22:18:43.12
多分「文芸文化」を通じて、はじめて得た外部の友人は、詩人の林富士馬氏であった。林氏によって、そう
言ってはわるいが、私ははじめて、真の文学青年の典型を知ったのである。氏はもちろん個性的な詩人で、
あたかもゴーディエの回顧録の中の人物のような浪漫派であったが、文学および文壇というものが、これほ
ど夢の糧になるものかを、私ははじめて知った。それまで母校のなまぬるい文学的雰囲気においては、文壇
とは、白樺派の作家たちの立派な客間に直結するものでしかなかった。熱に浮かされたような文学への憧憬、
佐藤春夫氏をはじめとする浪漫派作家の日常座臥の伝説化、いろんなゴシップの熱心な蒐集、食糧難の東京
における芸術家のダンディズムへのあこがれ、・・・・林氏はそういうものすべての象徴であって、氏の周
りには何人かの若い詩人が集まっていた。その中には御多分にもれず狂人もいて、みみっちいけれどもヴィ
ヴィッドな、浪漫派的な雰囲気を醸し出していた。それは母校の文学的交際ではついぞ味わったことのない
ものであった。「いいですね。・・・ね、そういうところ、佐藤さんらしくて、いいですね」というような
話し方を林氏はした。私は一人の文学者を、そういう風に肉体的にとらえる表現方法をそれまで知らなかったのである。
三島由紀夫「私の遍歴時代」より
478 :
名無しさん@社会人:2011/06/29(水) 22:21:47.27
次のエピソードは、実は本稿の終結点にしようと思っている一九五一年から一九五二年へかけての最初の世界
旅行よりも、もっと後の話なのであるが、私がその外国旅行からかえって数ヵ月後、すなわち一九五二年の十
月に、加藤道夫氏の「襤褸と寳石」が、俳優座によって三越劇場で上演された。
私は正直、私は加藤氏を大劇作家とも大激詩人だとも思っていないが、誇張無しにいって、戦後今までに接し
た多くの劇作家の中で、氏ほど純にして純なる、珠のごとき人柄は見たことがない。それがまた、氏をして、大
劇作家たらしめなかった主な理由であったかもしれない。
それはさておき、氏があれほど上演を待ちわびた代表作「なよたけ」さえ、文学座によって完全上演されたのは
氏の死後であり、生前の死は、いつも不満と不安におびやかされながら、ジロオドオへの至純なあこがれと宝石
のような演劇の夢を、心に抱き続けた青年であった。
三島由紀夫「私の遍歴時代」より
479 :
名無しさん@社会人:2011/06/29(水) 22:22:57.32
「襤褸と寳石」の初日には、芝居に関心を持つ若手文士が総見のようなぐあいに集まったが、エンタテイメントと
わざわざ銘打ったこの芝居が、一向楽しくもおかしくもないのには閉口した。そこにはっきり提示されているのは、
一人の清純な青年の傷ついた心で、これならば誰の目にもみえた。しかし作者が意図した笑いやたのしみはどうし
ても見えて来ず、むしろこの作品にエンタテイメントと銘打とうとした作者の心の、言うに言われぬいたましさだ
けが感じられるのであった。一人の傷ついた青年があらわれて、どうかみなさん笑って下さい、と言ったところで
笑うに笑えぬとはこのことである。あとあとまで忘れがたい小事件は、この初日の幕が下りたあとで起こった。
三島由紀夫「私の遍歴時代」より
480 :
名無しさん@社会人:2011/06/29(水) 22:26:02.61
「襤褸と寳石」の初日は、作者の親しい友が多かっただけに、却って幕間におけるみんなの態度はよそよそしく、作者
の昂奮と不安とがありありとわかるだけに、却ってしらずしらず周囲が冷たくなった。当時は今と違って、一つ一つ
の芝居の初日が念入りに祝われていたから、初日がハネると、友人知己相集まって、作者を中心にして飲みに行くこ
とが多かった。どこえ行こうかということになって、だれかが音頭をとって、有楽町の寿司屋横丁へ行ったが、同行
者の人数がだんだんふえ、向こうへついたときは、とても一軒の寿司屋には納まり切らない数になった。そこで二手
に分かれて、お向かい同士の寿司屋の二階座敷に陣取ることになり、私は作者と共に、一軒の二階へ上がった。
道を隔てた向こうの二階にも十人ほどいて、しばらく両方とも窓をあけはなし、大声で野次り合ったりして、それが
あたかも芝居の舞台装置のような感じがあり、芝居の昂奮の続きでふざけ合っていたが、あとで考えると、こんなふ
ざけ合いも、まじめな演劇論に陥ることを避けたい空気がみんなにあったからだと思われる。
三島由紀夫「私の遍歴時代」より
481 :
名無しさん@社会人:2011/06/29(水) 22:27:29.40
小路一つ隔てただけとはいえ、向こうのふつうの会話は聞こえない。叫べば届くという程度だ。ビールが注がれ、一同が
加藤道夫氏のために祝杯を上げたまではよかったが、そのとき、お向かいの二階の窓障子がスルスルと閉められてしまった。
これが実にスムースに左右から、芝居のように閉まったので、私はオヤオヤと思ったことを覚えている。その障子の白さが
へんにキッパリとして見えた。まだ十月だから、そんなに寒かったはずはない。みんなは期せずして加藤氏の顔を見た。
加藤氏の顔色は変わっていた。だれかが、「畜生、悪口を言おうと思って、障子を閉めやがったな」などと、わざとその場の
空気を解きほぐそうと思って言ったのが、ますますいけなかった。お向かいの障子のかげには、加藤氏のもっとも信頼する
友人たちもいたのである。私はこんなことになるまでは、加藤氏に今夜の初日の率直な意見も言おうとおもっていたのであるが
この瞬間から、言えなくなってしまった。不幸な初日の作者の心があまりにもありありとわかったからである。そこまで氏自身
がわかっているものなら、誰がそれ以上、氏の傷口に手をつっこむような真似をする必要があるだろうか。
三島由紀夫「私の遍歴時代」より
482 :
名無しさん@社会人:2011/06/29(水) 22:29:46.20
どんな芝居にだって、多少の取り柄はあるもので、私は「岸輝子さんの乞食婆さんの、半間外したセリフが面白かったね」
などと、長所を拾い集めて、作者をはげまそうとしたのを覚えている。そのあと、渋谷の酒場まで付き合い、そのときは
障子向こうの御連中も合流していたが、加藤氏はこの晩最後まで、一生けんめい自分を抑えようと努力しながらも快々と
してたのしまない表情を隠すことができなかった。-------------加藤氏が自殺したのは、このいたましい初日から一年後
の十二月だったが、このときの傷がその一年後にも癒えず、自殺の遠因の一つをなしたとも考えられる。このことがあって
以来、ますます私は、芝居に心中だてするものじゃない、と固く心に決めるところがあった。私などは加藤氏に較べれば、
ずっとスレッカラシの人間だが、不純は不純なりに傷つくもので、そのためには心に鎧を着なくてはならぬ。
三島由紀夫「私の遍歴時代」より
483 :
名無しさん@社会人:2011/06/29(水) 22:31:13.58
芝居の世界は実に魅力があるけれど、一方、おそろしい毒素を持つてゐる。自分だけは犯されまいと思つても、
いつのまにかこの毒に犯されてゐる。この世界で絶対の誠実などといふものを信じたら、えらい目に会ふのである。
或るアメリカ人が、ニューヨークで、芝居を見るのは実に好きだが、劇壇の人たちはcorrupt people(腐敗した
人たち)だからきらひだ、と言つてゐたのも、一面の真実を伝へてゐる。
しかし、煙草のニコチンと同じで、毒があるからこそ、魅力もある。こればかりは、どう仕様もない。
「御清潔で御信頼できる」などというほめ言葉は、芝居の場合、最大の悪口かもしれないのである。
三島由紀夫「私の遍歴時代」より
484 :
名無しさん@社会人:2011/06/30(木) 12:40:37.11
(『詩を書くのが趣味の交際相手の男性が女々しく思えて許せない』という相談者に)
美輪明宏『文学者でも例えば三島由紀夫や中原中也なんかは男らしかった思うけれど…。
貴女ももっと本をお読みになったらどうかしら?』
相談者『(憤然として)読んでますよ』
美輪明宏『どんなのを読んでらっしゃるの?』
相談者『秋元康とか』
美輪明宏『(一瞬判らず)あきも……(ピンと来て)オホホホホホwwwww』
相談者『?』
485 :
名無しさん@社会人:2011/07/01(金) 22:59:37.88
人生にはそんなに昂奮の連続もなければ、世界記録の更新もない。金メダルもなければ、群衆の歓呼もない。
手に汗にぎるスリルもなければ、英雄主義もない。
あるのは、単調なくりかへしと、小さな喜び、小さな悲しみ、小さな不愉快だけであつて、「思ひがけないこと」と
云へば、概してよくないことのはうが多い。
かういふ生活にどうやつて耐へるか、それについては、大体二つの方法がある、といふのが私の考へである。
一つは「葉隠」の武士道のやうなもので、いつも架空の危機を自ら想定し、それに向つてたえず心身を緊張させて
生きることである。緊張ばかりしてゐては疲れてしまふといふのは怠け者の考へで、弛緩こそ病気のもとで
あることはよく知られてゐる。いけないのはテレビ・プロデューサーのやうな末梢神経の緊張の連続であつて、
豹のやうに、全身的緊張を即座に用意できる生活こそ、健康な生活であることは言ふまでもない。
もう一つは、単調なくりかへしの先手を打つて、自分の自由意志で、さらにそのくりかへしを徹底させる生き方である。
三島由紀夫「秋冬随筆 歓楽果てて……」より
486 :
名無しさん@社会人:2011/07/01(金) 23:00:30.47
人間は孤独になればなるほど、予想外の行動に出るものであつて、「一人きりでゐるとき、人間はみんなキチガヒだ」
といふモオリヤックの言葉は、人間性を洞察した至言にちがひない。
三島由紀夫「秋冬随筆 タッチ魔」より
テレビによつて、いくらでも雑多な知識がひろく浅く供給されるから、暇のある人はテレビにしがみついてゐれば、
いくらでも知識が得られる代りに、「中国核実験」と「こんにちは赤ちゃん」をつなぐことは誰にもできず、
知識の綜合力は誰の手からも失はれてゐる。無用の知識はいくらでもふえるが、有用な知識をよりわけることは
ますますむづかしくなり、しかも忘却が次から次へとその知識を消し去つてゆく。
天空の果てまで見とほす天体望遠鏡も、暗黒星雲の向う側は見透かせないとすれば、万能らしきマス・コミと
いへども、やはりわがままな人間の心を支配できない盲点があるにちがひないのである。
三島由紀夫「秋冬随筆 無用の知識」より
文学は、どんなに夢にあふれ、又、読む人の心に夢を誘ひ出さうとも、第一歩は、必ず作者の夢が破れたところに
出発してゐる。
三島由紀夫「秋冬随筆 世界のをはり」より
487 :
名無しさん@社会人:2011/07/11(月) 11:15:28.65
オリンピックを大義と錯覚する心は、少なくともそのはげしい練習と、衰へゆく肉体に対するきびしい挑戦のうちに、
正に大義に近づいてゐたのだと考へるはうが親切である。一切の錯覚を知らぬ心は、大義に近づくことができない、
といふのが人間の宿命である。この贋物の大義を通じて真の大義を知つた青年の心は、栄光のどこにもない時代に
かつて栄光の味を知つてゐた。
現代は、死を正当化する価値の普遍化が周到に避けられ、そのやうな価値が注意深くばらばらに分散させられて
ゐる時代である。
私は円谷二尉の死に、自作の「林房雄論」のなかの、次のやうな一句を捧げたいと思ふ。
「純潔を誇示する者の徹底的な否定、外界と内心のすべての敵に対するほとんど自己破壊的な否定、……云ひ
うべくんば、青空と雲とによる地上の否定」
そして今では、地上の人間が何をほざかうが、円谷選手は、「青空と雲」だけに属してゐるのである。
三島由紀夫「円谷二尉の自刃」より
【民主党】公安、米情報機関も関心 売国菅の“北献金”、深まる闇★5
菅直人首相に対する北朝鮮絡みのスキャンダルが再び炸裂した。日本人拉致事件の
容疑者の親族が所属する政治団体の派生団体に、菅首相の資金管理団体が計6250万
円もの政治献金をしていた問題が国会で追及されたのだ。菅首相はかつて、拉致実行犯
である元死刑囚の釈放を韓国政府に求める要望書に署名したことでも知られる。献金先
の団体には公安当局や米情報機関も関心を寄せており、背後には深い闇が広がっていそ
うだ。
「(北朝鮮による拉致事件)容疑者親族の関連団体に、多額の寄付をしている。首相
としておかしいと思わないのか。どんな関係があるのか。
http://raicho.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1310363857/ 祭りは終わらない、終わりのみえないこそ祭り
489 :
名無しさん@社会人:2011/07/17(日) 23:24:43.36
人間性を十全に解放したらどうなるか。こはいことになるんだよ。紙くづだらけはまだしも、泥棒、強盗、強姦、
殺人……獣に立ち返る可能性を人間はいつももつてゐる。
三島由紀夫「東大を動物園にしろ 核兵器だつて使ふだらう」より
未来社会を信じない奴こそが今日の仕事をするんだよ。現在ただいましかないといふ生活をしてゐる奴が何人ゐるか。
現在ただいましかないといふのが“文化”の本当の形で、そこにしか“文化”の最終的な形はないと思ふ。
小説家にとつては今日書く一行が、テメへの全身的表現だ。明日の朝、自分は死ぬかもしれない。その覚悟なくして、
どうして今日書く一行に力がこもるかね。その一行に、自分の中に集合的無意識に連綿と続いてきた“文化”が
体を通してあらはれ、定着する。その一行に自分が“成就”する。それが“創造”といふものの、本当の意味だよ。
未来のための創造なんて、絶対に嘘だ。
三島由紀夫「東大を動物園にしろ 未来を信ずる奴はダメ」より
490 :
名無しさん@社会人:2011/07/24(日) 09:43:25.10
われわれが住んでゐる時代は政治が歴史を風化してゆくまれな時代である。歴史が政治を風化してゆく時代が
どこかにあつたやうに考へるのは、錯覚であり幻想であるかもしれない。しかし今世紀のそれほど、政治および
政治機構が自然力に近似してゆく姿は、ほかのどの世紀にも見出すことができない。古代には運命が、中世には
信仰が、近代には懐疑が、歴史の創造力として政治以前に存在した。ところが今では、政治以前には何ものも
存在せず、政治は自然力の代弁者であり、したがつて人間は、食あたりで床について下痢ばかりしてゐる無力な
患者のやうに、しばらく(であることを祈るが)彼自身の責任を喪失してゐる。
三島由紀夫「天の接近――八月十五日に寄す」より
491 :
名無しさん@社会人:2011/08/05(金) 20:00:44.39
戦後二十二年間、私は原爆について発言しなかつた。(中略)
第一に、原爆に関しては、体験した者と体験しない者、被曝者と被曝しなかつた者といふ二つの立場以外、絶対
ありえないからだ。これがベトナム論などと根本的に違ふ点であり、そのことを忘れた発言はすべてウソである。
被曝しなかつた者が、いくら「おかはいさうに」と同情してみせても、そんなことで心慰められる被曝者は
一人もゐない。(中略)
広島に“新型爆弾”が投下されたとき、私は東大法学部の学生であつた。(中略)
それが原爆だと知つたのは数日後のこと、たしか教授の口を通じてだつた。世界の終りだ、と思つた。この
世界終末観は、その後の私の文学の唯一の母体をなすものでもある。もつとも、原爆によつて突然発生したと
いふより、私自身の中に初めから潜在したものであらうが……。
三島由紀夫「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」より
492 :
名無しさん@社会人:2011/08/05(金) 20:01:23.03
ヒロシマ。ナチのユダヤ人虐殺。まぎれもなくそれは史上、二大虐殺行為である。だが、日本人は「過ちは二度と
くりかへしません」といつた。原爆に対する日本人の民族的憤激を正当に表現した文学は、終戦の詔勅の
「五内為ニ裂ク」といふ一節以外に、私は知らない。
そのかはり日本人は、八月十五日を転機に最大の屈辱を最大の誇りに切りかへるといふ奇妙な転換をやつてのけた。
一つはおのれの傷口を誇りにする“ヒロシマ平和運動”であり、もう一つは東京オリンピックに象徴される
工業力誇示である。だが、そのことで民族的憤激は解決したことになるだらうか。
いま、日本は工業化、都市化の道を進んでゐる。明らかに“核”をつくる文化を受入れて生きてゐる。日本は
核時代に向ふほかない。単なる被曝国として、手を汚さずに生きて行けるものではない。
三島由紀夫「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」より
493 :
名無しさん@社会人:2011/08/05(金) 20:01:58.93
核大国は、多かれ少なかれ、良心の痛みをおさへながら核を作つてゐる。彼らは言ひわけなしに、それを作ることが
できない。良心の呵責なしに作りうるのは、唯一の被曝国・日本以外にない。われわれは新しい核時代に、
輝かしい特権をもつて対処すべきではないのか。そのための新しい政治的論理を確立すべきではないのか。
日本人は、ここで民族的憤激を思ひ起すべきではないのか。
戦後二十二年間、平和はまさに米ソの核均衛の上に保たれてゐた。だか、お互ひの核ドウカツだけで均衛が
保たれたかといふと、さうは思へない。第二次大戦中、広島で原爆が使はれたといふ事実、たくさんの人が死に、
今も肉体的、精神的に苦しんでゐる人がゐるといふ事実がなかつたとしたら、観念的にいくら原爆の悲惨さが
わかつてゐても、必ず使はれたらう。人間とは本来、さういふものである。その意味でヒロシマこそが、最大の
「核抑止戦略」であつた。
三島由紀夫「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」より
494 :
名無しさん@社会人:2011/08/05(金) 20:03:28.49
加へて、第二次大戦を転機に、世界的に被害者と加害者の逆転がおこつた。先進国が後進国に負ひ目をもち、
大国のアメリカが外ではベトナム、内では黒人問題で手をやく――といつた一連の現象である。つまり弱者が
優位に立つといふ“逆勢力均衡”なのだが、その先端を切つたのは、被害者の極、ヒロシマなのであつた。
将来、小型爆弾が使はれる可能性は、皆無ではないだらう。ベトナムのやうに、今使ふかと世界の注目をあびて
ゐる地点よりも、未開の国で突如使はれるかもしれない。大国が、中程度の国をそそのかして核使用の口実を
つくることも考へられる。
だが、いちばん危険なのは、防衛力としてのABM(弾道弾迎撃ミサイル)が開発されて、攻撃力としての
ICBM(大陸間弾道弾)との均衛が成立したとき、つまり大国がICBMに対して自国の安全を守れるといふ考へに
達した時であらう。
三島由紀夫「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」より
「ゼーロン」が牧野信一の傑作とも代表作とも呼ばれるのは、実は本当の原因は、幸運にもその主人公が馬だ
ったからではあるまいか。馬、この神話的な壮麗な動物、この気品と誇りに充ちた強力でしかも感じやすい、
美しい彫刻的な獣。馬は近代知識人の自意識の悲喜劇などには一切頓着せずに疾駆して、西欧と日本との間の
深い断絶などは苦もなく跳び越えてしまう。
そして牧野信一という「憂い顔の騎士」は、ゼーロンを得て、その作品世界を、はじめて真の燃える野生の中
へ飛び込ませることができたのである。
三島由紀夫「作家論『牧野信一』」より
496 :
名無しさん@社会人:2011/08/06(土) 22:30:22.84
昭和文学には、堀辰雄もその一人であろうが、日本人として日本の風土に跼蹐して生きながら、これを
西欧的教養で眺め変え、西欧的幻想で装飾して、言語芸術のみが良くなしうるこのような二重の映像を
作品世界として、そのふしぎな知的感覚的体験へ読者を引きずり込む、一群のハイカラな作家がある。
ただ簡単にハイカラと言ってはいけないが、こうした「坐ったままのハイカラさ」は、たとえば上林暁
氏のような以外な作家にさえひそんでいるのである。
三島由紀夫「作家論『牧野信一』」より
497 :
名無しさん@社会人:2011/08/06(土) 22:32:01.65
上林暁氏の作品を此度いろいろ読み返してみて、かねて世評に似ず上林氏は、ハイカラな、あるいはハ
イカラ好みの作家だと考えていた私の先見が、それほど的を外れていないという印象を持った。
それは必ずしも、明らかに西欧やロシアの短編に倣った「薔薇盗人」や、ジャンパウルの散文を思わせ
る傑作「野」などの作品ばかりでなく、もっと世帯じみた私小説にも、そこはかとなくハイカラな味が
?曳しているのを斥すのである。
三島由紀夫「作家論『上林暁』」より
498 :
名無しさん@社会人:2011/08/06(土) 22:33:19.21
その門を出てからの精緻きわまる風景描写は、エッチングのような精緻で、これ又却って非現実をかもし出す。
「ずっと遠くの文化住宅の裏手の畑では、若い女が蹲って毛糸を編んでゐる。彼女の膝の上の毛糸の玉が赤くみえる」
この鮮明な、しかしガラスを隔てて人生を眺める分裂症状的寂寥の結晶した詩。尾崎氏の文学の場合は、たとえ
病気になっても人生は尾崎氏の掌中にあるのに、上林氏の「野」では、人生はすでに我が手を離れて、衰弱の瞳の
レンズに映った遠い影像のように、かなたに秩序正しくこまごまと配列されているのである。「白い柵」のテーマ
があらわれる。「野」は遁走曲のような構成を持ち、次々と主題は「私」から遁走していくのだが。
(中略)
それほど憧れられた白い柵も、やがて平凡な乗馬倶楽部の柵だったことが判明して謎が解かれる。しかしこんな些細な
なぞが解かれるまでの、ごくゆるやかな、おもむろすぎる展開は、「野」の特質であって、主人公の精神生活の非現実
なリズムとテンポをそのまま忠実に追い、はては読者をもそこへ巻き込んでしまうのである。
若い騎手の青春の活力の自分とは全く無関係なものを描く作者の目の的確さは、次には、おそらく「野」にあらわれる
唯一の事件ともいうべき一つの出来事を、次のように無感動に描きだす。
「一度そのトラックが柵の入口に乗り入れる時、入口のそばに立つた若い銀杏の幹に突き当たった。銀杏はありつたけ
の葉を振ひ落し、トラックの砂は真つ黄色くなつた。」
三島由紀夫「作家論『上林暁』」より
499 :
名無しさん@社会人:2011/08/06(土) 22:34:42.31
いわゆる私小説の名品と言われるものは、実に巧みな結末を持っている。技巧的に完全であって、しかもど
こにも技巧の見えないその名技は、上林氏の短編であっても、たとえば「ちちははの記」の結末に見ることが
できる。母の料理を描いたその数行は、詩的な高みに達している。写真家で言うと、トリミングの絶妙なこ
とが、短編作家たるの条件であり、しかもオチのない短編としての私小説の場合は、そのトリミングはいっ
そう微妙、およそニュアンスの極というものでなければならない。
「ちちははの記」は、素一の文学熱が、父からも母からも、全く価値をみとめられていないことで、好い気な
文学青年の自己表白に終わらず、主題が客観性を持ちえている。
大切なのはこの客観性と正確な自意識であって、これを欠いてよい小説が生まれないことは、私小説非私小
説問わない。皮肉なことに、私小説でないもののほうに、却って客観性と正確な自意識を欠き、どこかに甘
えを残したものが多いのは、文学というものの本来持つ逆説的性格によるものかもしれない。
私に言わせれば、よき私小説はよき客観小説であり、よき戯曲はよき告白なのである。
三島由紀夫「作家論『上林暁』」より
500 :
名無しさん@社会人:2011/08/06(土) 22:36:07.19
「明月記」は何という幸福な小説であろう。発狂した妻を病院へ送るという悲惨な事件を扱っているが、狂
気がその患者である妻にも良人にも、強圧的に、人生から一時「下りる」ことを強いる結果、感情は俄に澄
明単純になり、些事の重みが増し事物がいきいきとしはじめ、自然が常よりも美しくなる。
それは幸福と言っても差し支えのないものだ。十日後の退院を控えて夫婦が散歩をし、病人の耳に心配事を
入れまいとする配慮が、却ってこの世から心配事を一時的に抹消させ、その仮構の澄みやかな幸福(仮構では
ない幸福などあるものではない)、乏しい食料を頒け合うように、そっと大切に扱われた感情のもたらす均衡
の上に、十五夜の月が団々と昇ってくる。
「サナトリウムは陽気だなア」と元春は呟くのである。
しかし「聖ヨハネ病院にて」になると、戦争末期の世相を背景にして、狂気の妻と、これを看護する孤独な良
人の物語は、凄壮な鬼気を帯びるにいたる。戦後まもなく現れたこの作品は、同じく飢えに苦しむ読者たちを
感動させたのであったが、そこには同苦に加うるに、さらに崇高な悲運を見出して、尊敬が寄せられたという
事情も働いたにちがいない。私は作品としては「明月記」の豊かさのほうを愛するが、それには、「明月記」
がこわれやすいつかのまの幸福の持つ恐ろしい不吉さを内包してるのに比して「聖ヨハネ病院にて」は、正に
悲運そのものがむき出しに露呈されているからかもしれない。
三島由紀夫「作家論『上林暁』」より
501 :
名無しさん@社会人:2011/08/09(火) 23:48:17.93
日本ではいまだに啓蒙的なインテリゲンチアが、古い日本は悪であり、アジア的なものは後退的であると思ひ込んで
ゐるのは、実に簡単な理由、日本人に植民地の経験がないからである。又、進歩主義者の民族主義が、目前の
政治的事象への反撥以外に、民衆に深い共感を与へないのも、日本人に植民地の経験がないからである。この
民族主義は東南アジアでは怖るべき力になる。
多くのアジア後進諸国は、未開拓の豊富な天然資源をもち、将来国内市場が拡張されれば、日本のやうな高度に
海外市場に依存した危険な経済に進まずともよい利点がある。或る国は経済の多角化に成功し、或る国は単一生産に
とどまりながらも、相互の経済協力が必須のものとなつて来てゐるのである。
資本主義国、社会主義国いづれを問はず、結局めざましい成功を収めた経済現象の背後には、必ず政策の成功があり、
政策の基礎には民族的エネルギーに富んだ「国民的生産力」が存在する。
三島由紀夫「亀は兎に追ひつくか?――いはゆる後退国の諸問題」より
。
503 :
名無しさん@社会人:2011/09/12(月) 21:11:27.14
武田麟太郎の作品を今読んで感心するのは、その文章の立派なことである。目の詰んだ、しかも四方八方に
目配りのきいた、ギュッと締まって苦味のある、実に簡素でしかも放胆ないい文章で、戦後、われわれは
水増し文章に馴らされて、こういう風俗的題材を扱った短編小説の本来持つべき芸術的文体に、接することが
すこぶる稀になった。もちろんこれは、西鶴(ことに「置土産」)の影響によるところ大であろう。
三島由紀夫「作家論『武田麟太郎』」より
504 :
名無しさん@社会人:2011/09/12(月) 21:12:31.25
「日本三文オペラ」(一九三二年)は、西鶴風の挿話の貼り交ぜ屏風のような作品だが、映画ではグランドホ
テル形式と呼ばれるもので、関係のない人物の関係のない挿話が組み合わされている。
老人の内縁夫婦、カフェの女給と情夫、ふられ男のコック、ずるがしこい映画説明者、これに加えるに、ア
パートの主人夫婦が主な登場人物だが、これらの人物はみな、作者から、何か微笑を含んだ残酷さと謂った
扱いを受けている。島木健作のいわゆる「第一義の道」に生き、あるいは生きようとする人間は一人も登場
せず、作者自身ももはや第一義の道に生きている気配はない。
しかし、島木文学と違うところは、武田は、第二義以下の生き方をしている人たちに決して対立感情も憎悪
も持たず、小さな虚偽も虚偽のまま愛し、悪をも含めて民衆というものを愛すべきものにしていることである。
三島由紀夫「作家論『武田麟太郎』」より
505 :
名無しさん@社会人:2011/09/12(月) 21:14:25.95
民衆の汚らしさや猥雑さや打算は、武田にとっては、そのまま或る詩的なものにつながっている。石を雅致
あらしめる苔のようなものとして見られている。
氏は必ずしもそれを人間の本質として見て自ら傷つき絶望していた形跡はない。氏はこれを描写する自分の、
半ば無関心な面白可笑しさのうちに、かつて思想が自分に強いた緊迫した生真面目さを警戒して避けている。
しかしそれはただの逃避ではない。この、多少粗野であることの気取を持った鋭敏な作家は、社会というも
のについて思想が教えた観念的構図を脱して、できるだけしたたかに、箸にも棒にもかからぬほどのリアリ
ストになろうという決意を抱いたものらしい。そういう決意がなければ、こういう愚かさは描けない。
そのとき氏は、自分の中に緊急に「愚かさ」の必要を感じ、その愚かさへ感情移入するために、体を賭けた
と思われるのである。この緊張があるからこそ、武田文学は引き締まっている。猥雑ではあるが決してだら
けてはいない。
三島由紀夫「作家論『武田麟太郎』」より
506 :
名無しさん@社会人:2011/09/12(月) 21:16:02.45
その武田が、稀には、自分のソーニャを描こうとしたことがあり、それが、「市井事」(一九三三年)である
が、ここで描かれたお花という娘の、直で、世話好きで、勝気で、愛というものの一番自然な天賦をそなえ
た姿は、残る隙なく読者の目に映じて、読後、いいしれぬ哀感を心に残す。
しかも、感傷のみじんもない、ズバズバと不人情な文体で書かれるので、彼女の哀歓は、ガラス鉢の中の金
魚のように如実に眺められるのである。もちろん、ここでも、作者は彼女を世間人情の一部分として、面白
可笑しく眺めているだけだが、その面白可笑しさに、いいしれぬ悲痛なものがにじんでいる。
この「いいしれぬ悲痛なもの」の情緒において、武田文学は、まるで正反対のような島木文学との間に、一
縷の縁をつなぐのである。すなわちこの悲痛、ひどく抑圧された悲痛のなかに、あの「思想」のもっともス
トイックな影が立ち現れて、それが作者自身の感情にまでしみ込んだ思想の痕跡を証明するのだが、それと
いうのも、この悲痛は、単に小説家のヒューマニスティックな同情心から生まれたものではなくて、花子の
運命の挫折に対する共感から生まれたものだからだ。
三島由紀夫「作家論『武田麟太郎』」より
507 :
名無しさん@社会人:2011/09/12(月) 21:17:50.76
しかもこの作者は、「共感」に対してすらいかにストイックなことか!彼は思想が共有されるという考えか
ら、自分が完全に癒されたと信じたかったに違いない。一人ぼっちでばらばらになること、そこからはじめ
なければ、もはや何もはじまらないと痛感していたにちがいない。
共有が否定されたとき、共感も否定されなければならない。そこから氏は西鶴の、すばやい連想と列挙に充
ちたインディフェレントな文体を学んだのだが、それでもなおかつ、花子は愛らしく、いじらしく、幾分涙
をそそるのである。そして正にそのような特性によって、小説「市井事」はいつまでも新しく、いつまでも
人々に愛されるにちがいない。
三島由紀夫「作家論『武田麟太郎』」より
508 :
名無しさん@社会人:2011/09/25(日) 01:16:31.00
三島は天才で知能が盛んな作家だと思うが
社会学は違うんじゃないかな?
多分、言葉は悪いが貧乏(明日を生きる)とか生活苦(明日考)とか
理解していなっかたのは否めない
509 :
名無しさん@社会人:2011/09/25(日) 01:48:09.88
じゃあ宮台真司も社会学者失格だ。
510 :
名無しさん@社会人:2011/09/29(木) 23:11:10.05
三島?まったく関係ないと思う
知らないだろ普通にw
511 :
名無しさん@社会人:2011/10/25(火) 14:07:23.23
512 :
名無しさん@社会人:2011/11/28(月) 13:58:16.98
ヽ
514 :
名無しさん@社会人:2011/12/16(金) 22:31:29.52
日本の伝統文化には、官能の多様性はみごとに鏤(ちりば)められてゐる。しかし、それを分析するとなると、
日本人はいつも間違ふ。日本人ぐらゐ性の自己分析の不得手な国民はなからう。それは又一般的自己分析の
あいまいさといふ国民的特色と相俟つてゐる。
(中略)
人間の結ぶ性的関係は、(中略)次の三種に分けてよからう。すなはち、第一に、異性愛の男女関係、第二に、
同性愛の同性同士の関係、第三に、サド・マゾヒズムのサディストとマゾヒストの関係である。(中略)
何故、この三種に分けるかといふと、この三種は、人間の社会集団のおそらくもつとも根元的な三種別の
「関係」と照応してゐる、と考へられるからである。すなはち、第一種は生殖を基本にした社会秩序、第二種は
同志的結合を基本にした戦闘集団、第三種は権力意志を基本にした支配・被支配関係と、それぞれ性欲を超克して
相渉つてゐるからであり、この三種の社会関係は、相互に根本的に矛盾してゐる。しかも相互に浸透し合つてゐる
といふところに問題の厄介さがあり、一人が三者を兼備することさへできるのである。
三島由紀夫「All Japanese are perverse」より
515 :
名無しさん@社会人:2011/12/16(金) 22:32:03.87
(中略)
われわれの先人は、女をして女であることを主張させることが、いかに社会の男性的理智的原理を崩壊させ、
社会をアモルフなものに融解させてしまふか、といふ洞察力を持つてゐた。女は女であることを決して主張しない
ことによつて真の女になり、そこにこそ真の「女らしさ」が生ずるといふ女大学のモラルは警抜で、シニカルな、
水も洩らさない社会的強制(コンパルスン)であつた。つまらぬ風俗現象ではあるが、現代の風潮を、
「女性の男性化、男性の女性化」といふ言葉でとらへようとする論者の脳裡にはこの古いモラルが、裏返しの形で
貼りついてゐるのである。現代の風潮は、女が女であることを主張し、男は男であることを主張しない、といふ
だけの話であり、むかしの日本では、男が男であることを主張し、女は女であることを主張しなかつた。真の
根元的な、妥協をゆるさぬ両性の対立は、男が男であることを主張し、女が女であることを主張する、といふ
状況からしか生れないのである。もちろんそんな状況は、人類に平和と幸福をもたらすものではない。
三島由紀夫「All Japanese are perverse」より
ワイは日本人やけど聞いた情報によると、もうじき中国はバブルがはじけて昔の貧乏な元の中国に戻るそうやで
みんなも知っての通りでもう経済は破綻してて、取り戻すには無理なんだそうや
その世界ではとても有名な政府関係者筋から聞いた確かな情報やで
君らほど頭の良い連中には、今さらなくらいのネタやな、かえって失礼なくらいな
お前らからすればもう常識的なくらいの知識やろ!!
517 :
名無しさん@社会人:2011/12/21(水) 21:16:32.77
518 :
名無しさん@社会人:2012/01/10(火) 14:25:44.19
(中略)
日本人は、相手(パートナア)といふ観念を持たない。武道の稽古の相手は敵手であるが、拳闘のスパーリングの
相手はスパーリング・パートナアなのである。すなはちパートを受持ち、或る役割を演ずる対等者である。
この観念のないことが、同性愛やサド・マゾヒズムの「関係」を解明することを困難にし、異性愛のアナロジーでしか
見られないまちがつた観察を流布させることになる。
(中略)
サディズムが特に男性的特質でもなく、マゾヒズムが特に女性的特質でもなく、男性の側に限つて云へば、
サディズムは男の理智的批評的分析的究理的側面に結びつき、マゾヒズムは男の肉体的行動的情感的英雄的側面と
結びつき易いことが察せられ、精神はサディズムの傾向をひそめ、肉体はマゾヒズムの傾向を内包すると
考へられるであらう。もつと通俗的に云へば、サディズムは好奇心で、マゾヒズムは度胸なのである。
三島由紀夫「All Japanese are perverse」より
519 :
名無しさん@社会人:2012/01/10(火) 14:26:11.29
通例、サディズムは支配と統制と破壊の意志であり、マゾヒズムは忠誠と直接行動と自己破壊の傾向であるが、
性愛独特の逆説により、同時にこの逆をも内包する。(中略)サディズムもマゾヒズムも、いづれも他人を
道具視する「利用の性愛」であると同時に、一方又、いづれも、人間の自己放棄の根元的な二様のあらはれの
一つだからである。私がかう説明することによつて、政治学の領域に近づきつつあることを、すでに読者は
察せられたであらう。サド・マゾヒズムこそは、人間の性愛の、もっとも政治学的分野なのである。
因みにナルシシズムの直接的な延長上にマゾヒズムが位置することは多言を要しないが、もちろん、そのやうな
ナルシシズムは純肉体的ナルシシズムであつて、「身を隠したナルシシズム」すなはち知的精神的社会的
ナルシシズムは、往々サディズムへ傾くであらう。又、心理的マゾヒズムは、むしろナルシシズムの逆である。
三島由紀夫「All Japanese are perverse」より
520 :
名無しさん@社会人:2012/01/10(火) 14:26:36.81
(中略)
性愛における表象の優位はフェティシズムにつながるが、ほとんど男にしか見られぬこの perversion は、
あらゆる perversion のうちでもつとも「文化的」なものであり、芸術や哲学や宗教に近接し、それらの象徴体系の
隠れた基盤をなしてゐる。表象固執と現実離脱の、これ以上みごとな結合は考へられぬであらう。何故なら、
フェティシズムが表象固執によつて果す象徴機能は、次のやうなものだからである。すなはち、表象は個々の
対象の個別的魅惑から離脱し、ある詩的共通項(物象あるひは観念)を足がかりにして普遍性に到達し、しかも
形容矛盾ともいふべき「フェティシュな普遍性」といふ形態においてのみ源泉的な「肉の現実」の官能的魅惑を
まざまざと現出せしめるのである。いはばフェティシズムは、冷たい抽象的普遍に熱烈な肉の味はひを添へるのだ。
あるひは又、死んだ「物」の世界を、肉の香りを以て蘇らすのである。かくて、教会はキリストの体になり、
聖餅はキリストの肉、葡萄酒はキリストの血になるであらう。
三島由紀夫「All Japanese are perverse」より
521 :
名無しさん@社会人:2012/01/11(水) 20:17:45.53
522 :
名無しさん@社会人:2012/01/11(水) 23:58:00.29
ワイが聞いた情報によると、もうじき中国はバブルがはじけて昔の貧乏な中国に戻るらしいで
もう経済は破綻してて、取り戻すのは無理なんだそうや
まあお前ら頭の良い連中には、今さらなくらいのネタやな、
524 :
名無しさん@社会人:2012/02/05(日) 10:06:49.60
。
525 :
名無しさん@社会人:2012/02/06(月) 17:37:28.08
ゲイであることを隠してるリーマンにしても
普通に同性愛者として肛門性交してるんだし
同性愛者やゲイだとカミングアウトする時点で
アナルセックスしていたり、男の股間を嫌らしい目付きで見つめて淫らな妄想してるよ。
同性愛研究者や同性愛政治家は当然アナルセックスしてるし
中にはフィストファックで肛門に腕や拳を出し入れして開きっぱなしになった ケツマンコオープンリーゲイ議員すら実在する
ゲイであることを隠していてもケツマンコを隠してはいないよ。
で?
527 :
名無しさん@社会人:2012/02/28(火) 19:49:27.43
´
528 :
名無しさん@社会人:2012/03/15(木) 23:15:59.60
。
529 :
名無しさん@社会人:2012/04/29(日) 19:23:21.07
$
530 :
名無しさん@社会人:2012/05/21(月) 12:33:10.78
d
お
高森明勅の『今昔モノ語り』2012/07/21
http://www.gosen-dojo.com/index.php?action=pages_view_main&active_action=journal_view_main_detail&post_id=1199&comment_flag=1&block_id=14#_14 鳩山由紀夫氏の醜いパフォーマンス
この度、首相官邸前での鳩山由紀夫元首相の醜いパフォーマンスを見せられて、
かつて三島由紀夫が石原慎太郎氏を批判した時のことを思い出した人も、いるのではないか(勿論、由紀夫つながりなどではなく)。
昭和45年6月11日付『毎日新聞』に、三島は「石原慎太郎氏への公開状ー士道についてー」と題した一文を発表した。
もう随分、昔のことになる。しかし、その内容は印象的で、なかなか古びない。
当時、自民党の参議院議員だった石原氏が、オピニオン誌『諸君!』で自民党をボロクソに批判したことを、
真正面から叱責した文章だ。
石原氏の自民党批判には「ほとんど同感」としながら、こう言い切っている。
「昔の武士は、藩に不平があれば諫死しました。さもなければ黙って耐えました。何ものかに属する、とはそういうことです。
もともと自由な人間が、何ものかに属して、美しくなるか醜くなるかの境目は、この危うい一点にしかありません」と。
鳩山氏は、政権与党たる民主党の元代表であり、痩せても枯れても党内のリーダーの1人ではないか。
鳩山氏が、もし本気で脱原発を願っているのなら、党内にあって原発再稼働を阻止すべく、最大限の努力をする 責務があったはずだ。
彼は一体、どれだけのことをしたのか。
その上で、党内でぎりぎりまで努力しても、力及ばず再稼働を許してしまったら、リスクを背負って潔く党を離れ、
脱原発に向けた政治勢力の結集を呼び掛けるか、それが出来ずに党内に留まるなら、ひたすら自らの非力を国民に謝罪する以外ない。
それが、原発再稼働に踏み切った与党に「属する」者の、当然とるべき態度だろう。ところが鳩山氏は、そうした筋目など、まるで眼中にない。
ばかりか、真剣な国民の抗議活動を、落選が囁かれる己れの選挙宣伝と、反執行部の党内権力闘争に利用して、何ら恥じるところがない。
彼は、自分が「糾弾される」側の人間であることを、爪の先ほどでも、自覚しているのか。
かつて三島が批判した石原氏の振る舞いより、更に数段、悪質だ。
三島は先の文章の終わり近くで、次のように述べていた。
「W・H・オーデンは、『第二の世界』の中で『文学者が真実を言うために一身を危険にさらしているという事実が、彼に道徳的権威を与える』
と言っていますが、これは政治家も同じことです」と。
鳩山氏は、「一身を危険にさら」すどころか、上っ面だけ見栄えのいいことをすれば、国民の歓心を買えると考えているらしい。
どこまで世間の舐めているのか。
535 :
v:2012/08/05(日) 14:35:57.52
サルを完全に破壊する実験って知ってる?
まずボタンを押すと必ず餌が出てくる箱をつくる。
それに気がついたサルはボタンを押して餌を出すようになる。
食べたい分だけ餌を出したら、その箱には興味を無くす。
腹が減ったら、また箱のところに戻ってくる。
ボタンを押しても、その箱から餌が全く出なくなると、サルはその箱に興味をなくす。
ところが、ボタンを押して、餌が出たり出なかったりするように設定すると、
サルは一生懸命そのボタンを押すようになる。
餌が出る確率をだんだん落としていく。
ボタンを押し続けるよりも、他の場所に行って餌を探したほうが効率が良いぐらいに、
餌が出る確率を落としても、サルは一生懸命ボタンを押し続けるそうだ。
そして、餌が出る確率を調整することで、
サルに、狂ったように一日中ボタンを押し続けさせることも可能だそうだ。
のちのパチンコである
できた!!!!
創価,死ね
創価,死ね
創価,死ね
創価,死ね
創価,死ね
創価,死ね
創価,死ね
創価,死ね
創価,死ね
創価,死ね
創価,死ね
創価,死ね
創価,死ね
創価,死ね
創価,死ね
創価,死ね
創価,死ね
創価,死ね
創価,死ね
創価,死ね
創価,死ね
創価,死ね
創価,死ね
540 :
名無しさん@社会人:2012/11/13(火) 15:41:34.52
”
542 :
名無しさん@社会人:2012/12/05(水) 09:18:06.18
裸体と衣裳
543 :
名無しさん@社会人:2012/12/07(金) 23:34:44.67
おっぱい揉んで
激安で抜ける
○1000円〜
「新宿 アイアイ 」
○1500円〜
「西川口 マーガレット 」
○2000円〜
「新宿・錦糸町 あんぷり亭 」
「新宿 ダブルエロチカ 」
544 :
名無しさん:2013/01/27(日) 19:29:19.74
大阪府三島郡島本町の小学校や中学校は、暴力イジメ学校や。
島本町の学校でいじめ・暴力・脅迫・恐喝などを受け続けて、
心も身体も壊されて廃人同様になってしもうた僕が言うんやから、
まちがいないで。精神病院へ行っても、ちっとも良うならへん。
教師も校長も、暴力やいじめがあっても見て見ぬフリ。
そればかりか、イジメに加担する教師もおった。
誰かがイジメを苦にして自殺しても、「本校にイジメは
なかった」と言うて逃げるんやろうなあ。
僕をイジメた生徒や教師の名前をここで書きたいけど、
そんなことしたら殺されて、天王山に埋められるか、
どこかの家の床下に埋められるか、ドラム缶に詰められて
大阪湾に沈められるかもしれへん。それで誰にも発見され
へんかったら、永久に行方不明のままや。
島本町の学校の関係者は、僕を捜し出して口封じをするな。
http://www.shimamotocho.jp/ikkrwebBrowse/material/files/shimamoto_iti_map.pdf
545 :
島本町で凄惨なイジメを受けて命からがら逃げ出した元島本町民さんへ:2013/04/05(金) 22:51:52.48
名前:大阪府三島郡島本町で壮絶なイジメを受けて廃人同様になった島本町民
大阪府三島郡島本町の小学校や中学校は、暴力イジメ学校や。
島本町の学校でいじめ・暴力・脅迫・恐喝などを受け続けて、心も身体も壊されて廃人同様になってしもうた僕が言うんやから、
まちがいないで。精神病院へ行っても、ちっとも良うならへん。教師も校長も、暴力やいじめがあっても見て見ぬフリ。
そればかりか、イジメに加担する教師もおった。 誰かがイジメを苦にして自殺しても、「本校にイジメは
なかった」と言うて逃げるんやろうなあ。
名前:大阪府三島郡島本町で凄惨なイジメを受けて命からがら逃げ出した元島本町民
>>大阪府三島郡島本町で壮絶なイジメを受けて廃人同様になった島本町民さんの言う通りや
大阪府三島郡島本町で壮絶なイジメを受けて廃人同様になった島本町民さんも早う島本町から逃げ出す方がええで
大阪府三島郡島本町みたいな腐った町は陥没して地球上から消滅したらええんや
>>大阪府三島郡島本町で凄惨なイジメを受けて命からがら逃げ出した元島本町民さんへ
「20世紀少年」で、『ともだち』が人類を滅亡させようと企てたのも、小学生のときに受けた陰惨なイジメ(葬式ごっこ)が
原因だった。『大阪府三島郡島本町みたいな腐った町は陥没して地球上から消滅したらええんや』と思う気持ちはよく分かる。
546 :
名無しさん@社会人:2013/06/15(土) 19:52:35.99
p
547 :
名無しさん@社会人:2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN
市ヶ谷自衛隊総監部で三島由紀夫の介錯した後に
自らも切腹し果てた楯の会・森田必勝(22)の
同棲相手(許婚)は”やる気、元気”の井脇ノブ子
三島由紀夫は決行2日前に”楯の会”会員4人(森田必勝、小賀正義、
小川正洋、古賀浩靖)とパレスホテルで最終打ち合わせをした。
三島「森田、お前は生きろ。お前は恋人がいるそうじゃないか」
後の井脇ノブ子である。
今でも井脇は森田必勝の咽喉仏が入ったペンダントを
身につけている
548 :
名無しさん@社会人:2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN
549 :
名無しさん@社会人:2013/07/10(水) NY:AN:NY.AN
550 :
名無しさん@社会人:2013/07/12(金) NY:AN:NY.AN
552 :
名無しさん@社会人:2013/11/25(月) 11:16:22.51
命日
553 :
名無しさん@社会人:2013/12/28(土) 16:14:39.36
明治維新で、孝明天皇親子が暗殺され、北朝の血統が
理不尽に絶え、南朝末裔を自称する大室何某が皇室に入った
理不尽が、226事件を起こし、それに共鳴して三島由紀夫が
自衛隊に決起参加を呼びかけたが、失敗して切腹したのが
三島由紀夫事件の真相では?
science-basara.com/column/imperial-family/
554 :
名無しさん@社会人:2014/02/13(木) 12:17:28.81
555 :
名無しさん@社会人:2014/02/13(木) 15:18:02.02
先日東京大雪の晩に、よりによって市ヶ谷に用事があり…
雪山の上り坂を登り自衛隊市ヶ谷駐屯地前を通ってしまった
あの辺の丘の上って幽久の歴史って感じ…東京裁判もあの地ではなかったか?
556 :
名無しさん@社会人:2014/03/02(日) 07:54:46.23
血液型A型の
三島由紀夫(1925年大正14年、1月14日〜
1970年昭和45年、11月25日)が三島事件を起こした理由は
昭和天皇陛下さまへのあてつけだと思います。
557 :
名無しさん@社会人:2014/03/10(月) 13:19:14.42
558 :
名無しさん@社会人:2014/08/02(土) 14:53:29.87
あげ
559 :
名無しさん@社会人:2014/08/17(日) 22:16:08.89
560 :
名無しさん@社会人:2014/08/25(月) 16:08:04.14
561 :
正理会:2014/10/01(水) 11:31:41.55
562 :
正理会: