社会を神聖視し、社会変革をタブー視する観念

このエントリーをはてなブックマークに追加
1名無しさん@社会人
日本人には、社会システムを絶対視する全体主義的観念が根強くあるように見受けられます。

問題の原因を社会に求めてそれを改善しようとする意思を「社会のせいにするな」と禁じ、
ことのほか罪悪視する観念が根強いように見えます。責任論においても、個人の代表者を
すげ替えるだけで現存するシステムは守り、組織全体の責任を問うことを避けようとします。

習慣化したものにまるで無反省になるという傾向はどこの社会にも見出されるものですが、
とりわけ日本には、その傾向が根深く顕著に見えるのですが、社会学的にはいかがでしょうか。
2名無しさん@社会人:2009/07/28(火) 21:54:45
宮台一族朗党根絶祈願d=(^o^)=b
3名無しさん@社会人:2009/07/28(火) 21:55:29
宮台一族滅亡祈願o(^o^)o
4名無しさん@社会人:2009/07/28(火) 21:56:44
宮台一家心中祈願(^o^)=V
5名無しさん@社会人:2009/07/28(火) 21:58:16
宮台真司爆殺祈願d=(^o^)=b
6名無しさん@社会人:2009/07/28(火) 22:01:18
財界団体

・日本経済団体連合会(日本経団連)・日本商工会議所(日商)・経済同友会
有力企業・経営者は基本的に自民党支援であり、「民主主義維持のためのコスト」として国民政治協会への政治献金も強く求められている。「経済同友会」と、
日本経団連の前身の一つである「日本経営者団体連盟」(日経連)は、かつて保守合同を強力に促したことでも知られる。
ただし、1993年の非自民による細川政権成立後は、「日本経団連」は公式には必ずしも自民支持ではなかった。
しかし、2005年の第44回衆議院議員総選挙では、奥田碩会長は自民党単独支持を表明した(より正確には、奥田個人の発言という形を取り経団連としての支持表明ではなかったが、事実上そのように報道された。
実際に、奥田会長のトヨタ自動車を始めとして、経団連の主要な企業の多くが自民党を支援した)。
近年は、郵政民営化や日本道路公団民営化、労働者派遣法の規制緩和、官民競争入札制度の導入、ホワイトカラーエグゼンプションなど経団連が支持する新自由主義経済政策が積極的に導入・議論されるなど、
自民党と経団連の協力関係は一層に強化されており、高齢化等が進んで組織力を低下させている支持団体は自民党によって切り捨てられているとされる。

業界団体

・大樹全国会議
全国特定郵便局長会(全特)とそのOBで作る政治団体である大樹かつては会員11万人超と自民党最大の支持母体であったが、郵政解散後に大量脱会が相次ぎ現在は数千人規模となっている。
大多数は、同組織内議員である長谷川憲正参議院議員(国民新党)が立ち上げた政治団体である大樹全国会議に移った(これとは別に、国民新党自体も職域支部「憲友会」を作っている)。
もっとも、政権与党との関係を重視する観点から、大樹全国会議も自民党との関係作りに腐心している状況である。
・全国貸金業政治連盟
全国貸金業協会の政治団体。与党を中心に政治献金・パーティー券購入などを行っている。
・全日本遊技事業協同組合連合会(全日遊連)および日本遊技関連事業協会(日遊協)
自民党遊技業振興議員連盟(自民党パチンコ議連)に所属する35名の議員を通じて、パチンコ業界と関係を築いている。また、25名の議員がパチンコ・チェーンストア協会の政治分野アドバイザーを務める[21]。
7名無しさん@社会人:2009/07/28(火) 22:13:01
8名無しさん@社会人:2009/07/28(火) 22:49:48
思想塾壊滅祈願d=(^o^)=b
9名無しさん@社会人:2009/07/29(水) 22:45:47
★カレル・ヴァン・ウォルフレン  夜明け前の暗闇   1
JICC出版局 1991年3月第一刷 『What's ジャパン? 米紙NPQ編:日本「再統一」の脅威』より

 <−> 『日本/権力構造の謎』の最初の章で、日本について「決定的な要因」は、「どのような
状況にも常に通用する真理、法則、原則あるいは倫理があるのだとする考え方が皆無に近いことであり
......倫理規範が普遍的ではなくむしろ状況次第で変わる」点にあると言っておられます。
 したがって、あなたの説によると、日本には責任の中心が存在せず、時の権力が状況しだいで変わる
自己利益に従いながら、非公式な関係からなるシステムで現実を操作できる柔軟性があるだけ、
ということになる。そうした状況に応じて変わる倫理観は、どのような形の矛盾にも寛容なことや、
内側からの変化は不可能だということを見越しているためなのでしょうか。

 <ヴァン・ウォルフレン> もちろん、超越的価値観は一世紀以上も前から日本にも入ってきた。
キリスト教の宣教師によって徳川幕府の長い鎖国より前の時代、明治時代、そして一九四五年にアメリカの
占領が始まった時、と持ち込まれたわけです。だが、そうした価値観はけっして根づかず、世界観までには
至らなかった。一三世紀、仏教文化の鎌倉時代にも、借り物でない超越的なものの考え方が発達したけれど、
理性による話し合いという伝統を残しはしなかったのです。また、自然と祖先を崇拝する日本固有の
宗教である神道も、つねに曖昧で漠然としたままで、教義を生み出すことはなかった。
 ものの考え方というのは、別の考えを採り入れたり、削ったりできるし、反駁を受けたり、大きく
変わったりするものであり − 批判精神をもって社会・政治秩序とは距離をおいているものだが −
日本にはそうしたものの考え方が発達しなかったのです。
 他の社会では、この重要な視点が、既成の現実に挑戦あるいは反対するときに、そのことに正当性を
与えている。ローマ帝国に反抗して起こったキリスト教を考えても、ヨーロッパの資本主義的秩序に
反抗してドイツ思想から出現したマルクス主義を考えても、そう言える。
10名無しさん@社会人:2009/07/29(水) 22:48:47
★カレル・ヴァン・ウォルフレン  夜明け前の暗闇   2

 超越的なものの考え方をその判断基準として受け入れない社会・政治秩序では、社会は本来調和に
向かうといった神話には勝てないものです。個人的な体験から言うのですが、日本の社会を本気で
批評すると、けしからん奴だと思われる。罪人扱いされるのです。
 日本というのは自己崇拝の社会なのです。外部の基準や標準を基にその社会や政治を評価したり
判断したりできないとすれば、日本自体が全ての徳を体現した存在であり、自らを評価する唯一の
尺度であり、自らを判断する唯一の判断基準となる。自分で自分を正当化する社会は、内側からは
基本的に変化できない社会であり、それは、変化に訴える正当な基盤がないからに他ならない、
例えば、フランス国旗に象徴される「自由、平等、友愛」のような、信奉や離反の対象となる物が
ないからなのです。

 <−> オクタヴィオ・パスのような批評家は、この絶対的なものの不在と柔軟性を、問題視せずに、
むしろ「和の特性」と見なしている。この「和の特性」のおかげで、日本は本来の文化を危機に陥れたり、
西欧の例に見るような社会変化を伴う革命的急転回をもたらしたりせずに、変化できると言っていますが。

 <ヴァン・ウォルフレン> パスの出身文化であるラテン文化には、組織化された反乱と革命の伝統がある。
実体はないが意識の中に存在し、現存体制への決定的な影響力として利用できる超越的次元の現実に訴える
能力がなければ、そうした反乱や革命は不可能でしょう。

 <−> 日本は状況しだいで変わる倫理観と集団的相対主義の国であり、正当性について独自の定義をし、
独自のルールで動いているというあなたの説に、全体主義的共産主義社会に対する批判を思い浮かべてしまいます。
 伝統的にものごとを相対主義でとらえる気質があるため、日本人はその大義名分には歴史的な
必然性があるとマルキスト的に思い込むだけで、人権とか法規制といった倫理基準を受け入れなかった。
11名無しさん@社会人:2009/07/29(水) 22:50:39
★カレル・ヴァン・ウォルフレン  夜明け前の暗闇   3

 <ヴァン・ウォルフレン> 実は、相対主義の倫理観とか絶対的価値の不在といった考え方が初めて頭に
浮かんだのは、『真昼の暗黒』の著者として最もよく知られているアーサー・ケストラーの本を読んだ時でした。
彼は、あらゆる状況に置いて、適用される絶対的価値が存在してないことも、全体主義の決定的要因だと
警告していた。
 ケストラーが取り組んだ主題は、私が追求している主題と本質的に似ている。つまり、社会や精神の正しい
秩序をいかにして見つけるかという問題で、これは、言うまでもなく、最初にソクラテスが系統的に語ったものです。
また、これは全人類の関心事でもある。
 もっとも、ソクラテスは日本の知的伝統の一環を担っているわけではないのだから関係ない、と日本人に
主張されると、西欧の知識人は引き下がってしまう傾向があります。
 だが、私はそうは思わない。好ましい統治とは何かという問題はすべての人の関心事だ。政治体制を批判するのに
何らかの普遍的な基準を持たなければ、好ましい統治が存在するかどうかを評価することはできません。
 当然のことながら、社会がよく統治されているかどうかという問題は、「なぜ従うのか」という問題でもある。
力の行使が時の権力によって危険視されるのはなぜかということです。そして、従順の問題を提起するのは、
日本ではオフリミットの問題、つまり社会への順応と個人の自由な発達を対比させて問題を提起することになります。
 と言っても、もちろん、日本と東欧の元・共産主義国家には大きな相違がある。東欧諸国は外国の支配者に
従順だった。日本は、支配者がいないので、自らに従順なのです。

 <−> それはどういうことですか。

 <ヴァン・ウォルフレン> 日本のパワー・エリート層は底辺が広く大きいので − 最終決断の下される場所がない、
つまり責任の所在がない、そして中心に責任ある権力をもたないという、先端のないピラミッド型であるため
− 抑圧が目立たないということです。事実上支配者は存在せず、あるのは全てを包含するクモの巣のような
<システム>だけだ。
12名無しさん@社会人:2009/07/29(水) 22:52:03
★カレル・ヴァン・ウォルフレン  夜明け前の暗闇   4

 その<システム>の管理者も<システム>の従僕であり、したがって<システム>の犠牲者です。徳川幕府や
少数独裁の明治政府の管理者から受け継いだ自己欺瞞の犠牲者だ − 自己欺瞞というのは、つまり、権力を
行使していないふりをするとともに、その権力を規制するための普遍的に受け入れられるルールの必要性を
否定することを指します。
 日本のパワー・エリートがはっきりしたリーダーシップを受け入れにくいのは、この「ふりをする」ところに
原因がある。そのリーダーシップを受け入れる代わりに、<システム>の管理者は、相互援助によって広がる
複雑な人脈を培ってきた。彼らの主要な仕事は、その関係とルールを非公式なものに保ち、裁判所や法律が
社会の最高調整機関にならないようにすることだったのです。
 パワー・エリートは自己防衛から、非公式な権力が<システム>を実際に統治しているという現実を否定し、
何もかも、日本「文化」独自のやり方だという言い方をする。完全に組織化された社会というプロイセン的幻想と、
社会の無秩序に対する強烈な不安とが、彼らの動きを制限している。秩序を維持するのに、最終的には、
普遍的な妥当性をもつ法律その他のルールに頼れないというのは事実であり、そうなれば、そうした
幻想や不安が生じるのも当然です。
 政治体制は理にかなった議論、批判、真の政治論争にはふつうは敏感に反応するものであり、たいていの
欧米諸国の政治家や官僚や知識人はその利点を享受しているのに、<システム>の管理者はそうではない。
実際、<システム>を支配下に置けないと認識して、多くの管理者が恐慌をきたしています。

 <−> そうした理由で、<システム>を変えられないということですか。

 <ヴァン・ウォルフレン> <システム>を内側からは変えられない、と言っているのです。<システム>という
具体的現実以外には訴えるべき普遍的な妥当性がないので、知識人からの有効な批判が不可能なのです。
知識人は骨抜きにされている。
13名無しさん@社会人:2009/07/29(水) 22:55:39
★カレル・ヴァン・ウォルフレン  夜明け前の暗闇   5

 変化を求める政治運動は中産階級からは発生しない。それは彼らが会社文化によって骨抜きにされているからだ。
そして、サラリーマンは、精神的なエネルギーが残っていても、政治活動をするとなれば、自分のキャリアを
深刻に損なうことになるでしょう。
 政府にしろ産業界にしろ、官僚体制がおのれの立場を有利にしようと巧みに立ち回ることができるとはいえ、
そのなかの一人の人間が、ほかの者たちを拘束するような決定を下す指図をすることはありません。
 意味のある変化という観点に立つと、本質的には日本の政治体制は麻痺している。日本は無限の経済発展
という目的をもって、日々のペースではきわめて順調に進んでいるが、国家の長期的な目標とか方向を
決める能力はない。第二次大戦で敗戦国になって以来、国家としてどのような目的と方向をもつべきかについて
論争が行われてきていないのです。

 <−> 核となる権威、責任の中心がなければ、反抗するにしても相手がいないということになりますね。

 <ヴァン・ウォルフレン> これは、麻痺の原因を作っているきわめて重要な条件です。日本の強圧政治は
ソフトである。社会を囲む壁の感触がないので、それをよじ登ったり穴を開けて逃げ出す方法も思いつかない。
日本はしとね張りの小部屋みたいなものだ。壁はぶつかっても柔軟性は持っているが、壁に閉じこめられている
ことに変わりはない。
 反抗する相手がなかなか見極めにくい。それに、結局は、批判精神をもっていても、母親に、そして
国家という血のつながった虚構の家族に反抗しているような気分に追い込まれる。
 その極めつけが、法に則った反対はなじまないという儒教的な考えです。韓国や中国やベトナムにも
この儒教の遺産は残っているが、彼らは伝統的に、政府そのものによってだけでなく「天命」によっても
正当化された強力な中央政府をもっています。
 中国では、「天」はつねに皇帝を超越した存在と見なされている。「天」が皇帝の上にあった。
日本では、伝統的に天皇は神格化され、天皇が「天」なのです。

JICC出版局 1991年3月第一刷 『What's ジャパン? 米紙NPQ編:日本「再統一」の脅威』より
14名無しさん@社会人:2009/08/23(日) 18:31:20
コピペしかできない低能
15名無しさん@社会人:2009/08/24(月) 11:45:38
日本を守るコピペ力!
16名無しさん@社会人:2009/08/24(月) 11:49:53
バカウヨのいう「日本」って少なくともこの世には実在しない妄想だよな
17名無しさん@社会人:2009/08/24(月) 13:37:22
なるほど、宗教は、人々の悩みや苦悩の現実をその個人の脳内の問題、考え方の問題、
気の持ちようの問題、人格の良し悪しの問題に還元するという意味で、それは現実社会に
とって無害で、同時に、その現実を擁護してくれる点で有益でさえあるが、
宗教が提起する問題を個人の脳内に還元せず、現実世界の、歪んだ社会や経済などの
問題として受け取ろうとする考え方は危険極まりないということなら、そのとおりかもしれない。

たしかに、うつ病患者に、あなたの苦悩は全部あなたの脳内に起因する問題だよと言い包めて
薬漬けにする医者は既成社会にとって無害であり有益であるが、うつ病患者をとりまいている
ストレス社会を問題にする政治思想家は、なるほど、体制を脅かす危険分子であることになる。

そういう政治思想は邪悪なものとして教えなくてはいけないし、直ちに排除しなくてはいけない。
18名無しさん@社会人
霞ヶ関に匹敵するシンクタンクなしということじゃ