719 :
名無しさん@社会人:2010/07/02(金) 21:41:41
『社会学の根本概念』には「闘争」の章があって、
人間世界はすべて闘争だと書いてある。
これは「鉄の檻」という考え方の全否定である。
720 :
名無しさん@社会人:2010/07/02(金) 22:05:33
清水幾太郎訳だな。
721 :
名無しさん@社会人:2010/07/08(木) 00:06:23
「もっとも厳格な規定をもつ平和主義的秩序(Eine pazifistische Ordnung)でさえ、
つねに闘争手段、闘争目標および闘争傾向を、そのうちの一定のものを除去すると
いう意味において、規制しうるだけである。」
阿閉吉男・内藤完爾訳『社会学の基礎概念』角川文庫、昭和四十四年、65頁。
722 :
名無しさん@社会人:2010/07/08(木) 00:08:39
角川訳は正確、しかし直訳的で読みにくい。
岩波訳は読みやすい。しかし、ちょっと原文から
離れるところがある。
Max Weber, Soziologische Grundbegriffe,
Mohr Siebeck, 1984, S.66.
723 :
名無しさん@社会人:2010/07/08(木) 23:59:51
Chance が、角川では「チャンス」。
岩波では「可能性」。ううん。
ナーウ・ゲッツァ・チャーーンス!
725 :
名無しさん@社会人:2010/07/15(木) 16:11:38
「チャンス」ではなくて、「シャンス」だ。
蓋然性を意味する。岩波訳では可能性になっている。
存在は蓋然的に生起するとヴェーバーは考えている。
同じことだよw
727 :
名無しさん@社会人:2010/07/15(木) 20:56:41
蓋然性の方が確率的に高いのでは。
そんな用法初めて知りましたw
729 :
名無しさん@社会人:2010/07/16(金) 18:09:53
プロテスタントだが「プロ倫」は読んだことがないな
730 :
名無しさん@社会人:2010/07/16(金) 22:14:49
今すぐにでも起きる可能性が蓋然性でしょうか。
731 :
名無しさん@社会人:2010/07/16(金) 22:16:55
>プロテスタントだが「プロ倫」は読んだことがないな
「プロ倫」 にはプロテスタンティズム批判の内容が
あるように思います。羽入さんはそう見ています。
律法学者たちやファリサイ派の人々は、モーセの座に着いている。だから、彼らが言うことは、すべて行い、
また守りなさい。しかし、彼らの行いは、見倣ってはならない。言うだけで、実行しないからである。
彼らは背負いきれない重荷をまとめ、人の肩に載せるが、自分ではそれを動かすために、指一本貸そうともしない。
そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。
宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。
だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、
地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。
あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。
だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
733 :
名無しさん@社会人:2010/07/26(月) 00:42:24
>阿閉吉男・内藤完爾訳『社会学の基礎概念』角川文庫、昭和四十四年
これは絶版で、入手困難。
オレは古本屋で300円で手に入れた。
確かに、岩波文庫とはだいぶ違う。
734 :
名無しさん@社会人:2010/07/26(月) 01:38:41
『社会学の根本概念』と『理解社会学のカテゴリー』。
この2冊がヴェーバーの基本理論。
735 :
名無しさん@社会人:2010/07/27(火) 12:52:33
まあ、社会学原論だね。
736 :
名無しさん@社会人:2010/07/31(土) 00:37:43
『理解社会学のカテゴリー』
岩波文庫の林訳は本人自身がよく理解していない。
未来社の訳書は、後から出た本で、値段が高いが(5倍)、ちゃんと訳している。
どっちにしろ
たいしたこと書いてないけどね
738 :
名無しさん@社会人:2010/08/05(木) 17:27:46
>たいしたこと書いてないけどね
人間と人間社会の本質が書かれている。
俺が小学生のころ気づいた程度のことしか書いてないよ
>>739 それはお前がウェーバー以上の学識があるって意味?
それともウェーバーがバカだっていう意味?どっち?
さわってやるなよ
742 :
名無しさん@社会人:2010/08/06(金) 22:04:21
「自然」と「文化」とを区別し、
社会学は「文化」にかかわるものと見なし、
社会学から「自然」をヴェーバーは排除している。
逆に言うと、社会学の守備範囲の外部に「自然」はあるわけだ。
743 :
名無しさん@社会人:2010/08/07(土) 01:00:13
心理学と社会学とを区別している。
社会学は「社会的行為」を扱うが、
身体や心理の次元を括弧の中に入れてしまう。
744 :
名無しさん@社会人:2010/08/07(土) 14:33:27
ウェーバーは、意味、動機、目的の観点から諸個人の「行為」を理解する。
「行為」も行動の一種だが、有意味的な行動がとくに「行為」として
概念化されている。また行為は、他者を意識してなされる限りにおいて「社会的行為」とされる。
745 :
名無しさん@社会人:2010/08/07(土) 15:00:37
「行動」 Verhalten
「行為」 Handeln
746 :
名無しさん@社会人:2010/08/07(土) 16:37:10
宗教社会学も政治社会学もこの観点から組み立てられている
というわけね。
747 :
名無しさん@社会人:2010/08/08(日) 00:07:19
人間と人間の行為から分析する。
だからシステムや構造にについては、分析しにくいのが問題。
748 :
名無しさん@社会人:2010/08/08(日) 13:31:10
なぜ、一生懸命、勤労に励むか、
その「動機」を探究すると、プロテスタンティズムの信仰に行き当たった、
というわけですね。
749 :
名無しさん@社会人:2010/08/08(日) 23:36:52
マルクスは経済的土台、下部構造。
これに対してヴェーバーは、宗教を含む上部構造を重視。
750 :
名無しさん@社会人:2010/08/08(日) 23:50:12
>748
ちがう、ちがう。
ウェーバーは、「構造」ではなくて、個人、
個人の「行為」に注目。
751 :
名無しさん@社会人:2010/08/08(日) 23:51:06
訂正
>749
ちがう、ちがう。
ウェーバーは、「構造」ではなくて、個人、
個人の「行為」に注目。
何回言う
753 :
名無しさん@社会人:2010/08/09(月) 10:52:51
マルクスの経済への注目は、
社会構造の因果的メカニズムについての経験的、理論的考察よりも、
共産主義イデオロギーから来ている。
754 :
名無しさん@社会人:2010/08/10(火) 18:34:40
意味や動機を問題にするなら、
それらを左右する要因が重要になる。
755 :
名無しさん@社会人:2010/08/12(木) 01:38:46
>それらを左右する要因が重要になる。
観念、世界観、価値というものが出てくる。
ここでマルクスと大きく違ってくる。
756 :
名無しさん@社会人:2010/08/12(木) 17:15:01
>観念、世界観、価値というものが
これらは個人の行為の意味、動機を左右する働きとの関連で、
行為論的とらえられているので、社会構造論の一種である
マルクスの経済的土台(下部構造)―社会的意識諸形態・政治
・法という上部構造についての理論と
大きく違っている。
マルクスは個人の行為の動機として経済の規定性をあげているわけではない。
757 :
名無しさん@社会人:2010/08/13(金) 19:53:43
個人の動機について、
マルクスは経済的要因のみを見ていたが、
ヴェーバーは複眼的であり、経済だけでなく、文化的要因も
重視していた……というのは、間違いか。
758 :
名無しさん@社会人:2010/08/14(土) 01:28:45
ちょっと違うのでないか。
マルクスは、『経済学批判』序言では、
土台・上部構造論を展開していた。これは構造論だ。
『資本論』では資本家を資本の機能の「担い手」として
把握していた。これは機能論だ。
マルクスには「社会的行為」という視点はない。
しかし、ウェーバーには構造論ないしは機能論の視点はない。
ノート、持ってへんのか。
760 :
名無しさん@社会人:2010/08/14(土) 16:31:42
>ウェーバーには構造論ないしは機能論の視点はない。
これは、方法論的個人主義と呼ばれているが、
方法論の前に、存在論があるのではないだろうか。
761 :
名無しさん@社会人:2010/08/15(日) 00:06:05
ウェーバーは新カント主義だ。
762 :
名無しさん@社会人:2010/08/16(月) 00:13:05
763 :
名無しさん@社会人:2010/08/16(月) 00:22:06
>>756 >これらは個人の行為の意味、動機を左右する働きとの関連で、
>行為論的とらえられているので、社会構造論の一種である
混乱がある。ここでは行為論と構造論とが区別されていない。
本当は、行為論と構造論とは対立する。
諸個人の意図とそれにもつずく諸行為が多数あるとしても、
構造はそれらから相対的自立したかたちで、客観的に存在するものとして把握できる。
諸行為の総和が構造というわけではない。
諸個人の行為から出発したのでは、構造やシステムはとらえにくい。
これがヴェーバー社会学の問題点である。
764 :
名無しさん@社会人:2010/08/16(月) 21:42:47
規範的個人主義(個人の尊重をいう世間的な意味での個人主義)との
区別の意味で「方法論的個人主義」という言葉が使われているのだろうが、
ヴェーバーの立場は、行為主義的人間主義とでもいったほうがスッキリするのでは。
765 :
名無しさん@社会人:2010/08/30(月) 01:09:42
>ノート、持ってへんのか。
??
766 :
名無しさん@社会人:2010/09/03(金) 19:40:53
ナショナリストであり、個人主義者(規範的個人主義者)ではない。
しかし、社会学的な認識においては、個人を基本単位とする、
認識の方法として個人概念を機能させる……。
このことを「方法論的個人主義」という言い方をする人がいる。
帳面ないんか?
おっちゃんこーたろうか?
768 :
名無しさん@社会人:
>>732 宗教社会学をやるには、
聖書を読まんといかんな。