三島由紀夫の社会学

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588名無しさん@社会人:2010/04/22(木) 23:42:53
(中略)――かうして一日たち二日たつた。
最初の一夜は、「これは大変だ」と思つたのに、馴れといふものは怖ろしいものである。二日目にはもう隣室の
話し声は気にならず、トラックやバスの響きに眠りを破られることがなくなつた。三日目になると完全にコツを
おぼえ、宿中全員が寝静まらぬうちは眠らぬことにきめ、女中を呼ぶにも大音声を張りあげ、食事がおそい
ときは、「おそいぞ!」と怒鳴り、よその子供がバタバタ廊下をかけまはれば、「うるさいぞ!」と怒鳴つて、
夜寝不足ならば十分昼寝をし、ほぼ快適な生活を送れるやうになつた。
――それはさておき、かりにも都会で、プライヴァシィを重んずる「近代的」生活を、生活だと思ひ込んでゐる
人間には、人の迷惑などを考へずにのびのびと暮してゐるかういふ旧式の日本人の生活は、おどろくべきもので
あつた。都会なら、となりのうるさいラヂオを容赦しないが、ここではラヂオはすべて音の競争であつて、
隣りのラヂオがうるさかつたら、家のラヂオの音をもつと大きくすればそれですむのである。

三島由紀夫「プライヴァシィ」より
589名無しさん@社会人:2010/04/22(木) 23:43:39
みんながそれに馴れ、何の苦痛も感じないなら、人間の生活はそれで十分なので、何も西洋のプライヴァシィを
真似なくてもいい。西洋の冷たい個室の、完全なプライヴァシィの保たれた生活の裏には、救ひやうのない
孤独がひそんでゐるのである。(中略)
そこへ行くと、日本の漁村の宿の明朗闊達はおどろくばかりで、人間が、他人の生活に無関心に暮すためには、
何も厚いコンクリートの壁で仕切るばかりが能ではなく、薄い襖一枚で筒抜けにして、免疫にしてしまつた
はうが賢明なのかもしれない。(略)
しかし、この昔風の旅籠屋が、襖一枚の生活を強制するのが、昔を偲ばせて奥床しいとは云ひながら、それが
そのまま昔風とは云ひがたい。何故なら、江戸時代には、人はもう少し小声で話したにちがひないし、怪音を
発するトランジスター・ラヂオなんか、持つてゐなかつたからである。

三島由紀夫「プライヴァシィ」より
590名無しさん@社会人:2010/05/06(木) 04:58:53
三島の精神を受け継ぐ文士は出てこない。
591名無しさん@社会人:2010/05/25(火) 10:53:48
私がいつもふしぎに思ふのは、小説家がしたり気な回答者として、新聞雑誌の人生相談の欄に招かれることである。
それはあたかも、オレンヂ・ジュースしか呑んだことのない人間が、オレンヂの樹の栽培について答へてゐる
やうなものだ。

三島由紀夫「小説とは何か」より
592名無しさん@社会人:2010/06/10(木) 14:08:00
三島のような骨のある分子は二度と出てこないだろうな
593名無しさん@社会人:2010/06/25(金) 11:32:19
論理的能力を発見するなんて、昔は想像もしなかった。だから、人間って、あきらめないでじっくりやっていれば、
何か出てくるんだと思うのです。自慢じゃないですが、英語の会話ができるようになったのは三十越してから
ですからね。それまで英語でしゃべれなかった。アメリカへ行っても、ほんとに語学で不自由いたしました。
三十ごろになって、アメリカに半年くらいいてから、まあまあしゃべれるようになった。
人間の能力なんていうものは、ほんとに、早く決めてしまうことないと思いますね。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
594名無しさん@社会人:2010/06/25(金) 11:33:03
ぼくは、自由意志が最高度に発揮されたとき、選択するものは、決まっていると思う。それが源泉ですね。
その時、自由意志が、ほんとに正当なものを発見したと思うのです。ですから自由意志には、無限定な自由は
ないですね。自由意志は、さまざまな試行錯誤をくりかえしますけれども、自由意志が源泉を発見した時に
初めて、自由意志が、自由になるのだ、と思います。それまでは自由意志は、なにものかにとらわれていて、
もっと自由な何か、もっと広い世界を期待しているわけです。それが、ぼくは源泉だと思う。ヘルダーリンの
「帰郷(ハイムクンフト)」のいう、一種の恐ろしさですね。最もなつかしいもので、最も恐ろしいものです。
現代社会は、そういう、源泉に帰ることを妨げるように、社会全体の力が働いている。人間は源泉からたえず
遠ざかって、前へ、前へ、上すべりしてゆくように、社会構造ができている。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
595名無しさん@社会人:2010/06/25(金) 11:33:32
たとえば、テレビ、初め映りの悪いテレビ、それがまた、映りのいいテレビ、カラー・テレビになる。現代社会は、
その機械と同じことで、次々と、改良されたものは与えられますけれども、改良された果てに何があるか、
それはなにも与えないで、ぼくらを、先へ、先へ、進めるでしょ。
でもぼくらは、テレビより、もっと遠くみえるものがあるはずです、いちばん前に。(中略)
テレビより、もっと遠くがみえるはずです。それから、人の心も、もっとよくみえるはずですし、つまり、
みたいと思うものは、百万里先だろうが、みなければならない。みえなくしてしまったのは、“文明”ですよね。
ぼくはそう思います。(中略)
目ですね。ぼくは、源泉にはそれがあったはずだと思うのです、ぼくにだって。失っただけですね。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
596名無しさん@社会人:2010/06/25(金) 11:34:03
剣道なんかやってますと、(そんなこというほどの資格はぼくにありませんが)“観世音の目”ということ、
いいますね。全体をみなければいけない。相手の目を見たら、負けてしまう。まして、相手の剣尖を見たら
負けてしまう。そうではなくて、“観世音の目”は相手を上から下まで、完全に見てしまう目です。そういう
目を鍛錬し、養成することが、剣道の極意だといわれているのですが、ぼくはそれ、源泉に帰ることだと思います。
それから、ネコ。ネコが寝たあと、クッションならクッションの跡みますと、ネコの寝た形が、ちゃんとできている。
あれが、寝るということ、休むということの本当の形なのですね。(中略)
ネコは寝れば、完全に、ぐにゃあっと、液体のようになってしまう。あれが源泉なのですね。それから、
運動でもそうです。運動で、巧緻性とか、迅速性、いろいろ申しますけれども、運動能力というのは本来、
人間にはすべてあるはずなのが、なくなってしまった。…源泉から遠ざかってしまっているわけですね。

三島由紀夫
三好行雄との対談「三島文学の背景」より
597名無しさん@社会人:2010/07/15(木) 17:44:20
清潔なものは必ず汚され、白いシャツは必ず鼠色になる。人々は、残酷にも、この世の中では、
新鮮、清潔、真白、などといふものが永保ちしないことを知つてゐる。



どんな浅薄な流行でも、それがをはるとき、人々は自分の青春と熱狂の一部分を、
その流行と一緒に、時間の墓穴へ埋めてしまふ。二度とかへらぬのは流行ばかりでなく、
それに熱狂した自分も二度とかへらない。

三島由紀夫「をはりの美学 流行のをはり」より


男にとつては生へぶつかつてゆくのは、死へぶつかつてゆくのと同じことだ。

三島由紀夫「をはりの美学 童貞のをはり」より
598名無しさん@社会人:2010/07/15(木) 17:44:42
学校をでて十年たつて、その間、テレビと週刊誌しか見たことがないのに、「大学をでたから
私はインテリだ」と、いまだに思つてゐる人は、いまだに頭がヘンなのであり、したがつて
彼または彼女にとつて、学校は一向に終つてゐないのだ、といふよりほかはありません。

三島由紀夫「をはりの美学 学校のをはり」より


美女と醜女とのひどい階級差は、美男と醜男との階級差とは比べものにならない。



美女は一生に二度死ななければならない。美貌の死と肉体の死と。一度目の死のはうが
恐ろしい本当の死で、彼女だけがその日付を知つてゐるのです。
「元美貌」といふ女性には、しかし、荒れ果てた名所旧跡のやうな風情がないではありません。

三島由紀夫「をはりの美学 美貌のをはり」より
599名無しさん@社会人:2010/07/15(木) 17:44:58
手紙は遠くからやつてきた一つの小舟です。

三島由紀夫「をはりの美学 手紙のをはり」より


人生は音楽ではない。最上のクライマックスで、巧い具合に終つてくれないのが
人生といふものである。

三島由紀夫「をはりの美学 旅行のをはり」より


個性とは何か?
弱味を知り、これを強味に転じる居直りです。



私は「私の鼻は大きくて魅力的でしよ」などと頑張つてゐる女の子より、美の規格を
外れた鼻に絶望して、人生を呪つてゐる女の子のはうを愛します。それが「生きてゐる」
といふことだからです。

三島由紀夫「をはりの美学 個性のをはり」より
600名無しさん@社会人:2010/07/15(木) 17:45:12
自然は黙つてゐる。自然は事実を示すだけだ。自然は決して「宣言」なんかやらかさない。

三島由紀夫「をはりの美学 梅雨のをはり」より


何も形の残らないもののために、勲章と銅像の存在理由があるのです。なぜなら英雄とは、
本来行動の人物にだけつけられる名称で、文化的英雄などといふものは、言葉の誤用だからです。

三島由紀夫「をはりの美学 英雄のをはり」より
601名無しさん@社会人:2010/07/15(木) 17:45:25
悲しみとは精神的なものであり、笑ひとは知的なものである。



肉体関係があつたあとに、おくればせに、精神的恋愛がやつてくるといふことだつてある。



日本では、恋とは肉の結合のことであり、そのあとに来るものは「もののあはれ」であつた。

三島由紀夫「をはりの美学 動物のをはり」より
602名無しさん@社会人:2010/07/29(木) 12:46:14
男性は、安楽を100パーセント好きになれない動物だ。また、なつてはいけないのが男である。



裏切りは、かならずしも悪人と善人のあひだでおこるとはかぎらない。



世間ではどんなに英雄的に見える男でも、家庭では甲羅ぼしをするカメのやうなものである。
“男性を偶像化すべからず”職場での彼、デート中の彼から70%以上の魅力を
差し引いたものが、家庭での彼の姿。

三島由紀夫「あなたは現在の恋人と結婚しますか?」より
603名無しさん@社会人:2010/08/02(月) 11:11:55
人間の恋愛は動物の恋愛と違つて、みな歴史、社会、環境、いろいろなものに制約されて
ゐるわけです。われわれが一つ恋愛をすると、その恋愛の中に全人類の歴史、全人類の
文化が反映してゐるのです。これは、われわれといふ存在が、ちやうど歴史の一端に
大ぜいの先祖と、大ぜいの文化の趨勢の上に生まれてきたのと同じに、今あなたないし
私のする恋愛も、決してひとりでまるで天から落ちかかつてくる隕石のやうに、恋愛が
始まるといふものではなく、みな何ものかに規約されてゐるといふことができます。


日本人の一番健康な恋愛らしきものが描かれてゐるのは「万葉集」ですが、「万葉集」の
恋といふのは、このヨーロッパ、ギリシャのやうな、哲学的背景を持つた恋愛ではありません。
ただ古い民族のすなほな肉体的欲望が、日本人のやさしい心持ちとか、繊細な生活感情の中に
溶け込んで、そこに、美しい別離の情とか、恋人に久しぶりに会つた喜びとか、
さういふものが素朴に、しかし正直に述べられてゐます。

三島由紀夫「新恋愛講座」より
604名無しさん@社会人:2010/08/02(月) 11:14:47
「源氏物語」の「もののあはれ」といふ大きな主題、この「もののあはれ」の中には、
いろいろ仏教的な考へもないわけではないのですが、根本的には、日本人が恋愛をただ
感情の形でだけ浄化してきた、その一つの完成した形が見られます。


概して少年期には、年上の異性を愛するやうになります。


われわれは皆、好ききらひがあつて、どんな美人でも、ある人にとつては、ちつとも
魅力のない場合があり、どんな醜女でも、ある人の目から見ると、非常に魅力的な場合があるのです。


恋愛の嗜好といふのは、実は、だれでも先天的に持つてゐるものではないので、ある人に
とつては母親のイメージがあり、ある人にとつては、早く死んだお姉さんのイメージがある。
しかし異性のイメージはその人個人のみでなく、祖先から民族全体から、どこかに深く
積み重ねられたものがあつて、それがその人の心の中に出てくるといふことが言へるのです。
つまり、何かその原形がある。
605名無しさん@社会人:2010/08/02(月) 11:15:08
「源氏物語」の「もののあはれ」といふ大きな主題、この「もののあはれ」の中には、
いろいろ仏教的な考へもないわけではないのですが、根本的には、日本人が恋愛をただ
感情の形でだけ浄化してきた、その一つの完成した形が見られます。


概して少年期には、年上の異性を愛するやうになります。


われわれは皆、好ききらひがあつて、どんな美人でも、ある人にとつては、ちつとも
魅力のない場合があり、どんな醜女でも、ある人の目から見ると、非常に魅力的な場合があるのです。


恋愛の嗜好といふのは、実は、だれでも先天的に持つてゐるものではないので、ある人に
とつては母親のイメージがあり、ある人にとつては、早く死んだお姉さんのイメージがある。
しかし異性のイメージはその人個人のみでなく、祖先から民族全体から、どこかに深く
積み重ねられたものがあつて、それがその人の心の中に出てくるといふことが言へるのです。
つまり、何かその原形がある。

三島由紀夫「新恋愛講座」より
606名無しさん@社会人:2010/08/02(月) 11:27:21
人生が、自分のよい意図、正しい意図、美しい意図だけでは、どうにもならないといふことを
学んで、それに絶望して、だめになつてしまふ人は、人間としても伸びて行けない人だと
いはなければならない。それからまた、それですべてをあきらめてしまつて、自堕落に
一生を送らうといふ人、これはまた、人間としてゼロだといはなければならない。
ですから、けつきよく、人間が成長する途上で初恋の幻滅に会つても、それに打ちひしがれないで、
なほ積極的な態度で人生に向つていくといふ力強さ、さういふものが、試金石としての
初恋の値打だらうと思ひます。


恋愛は、相手の当人を特別な存在に見せ、たとへ、人から見て値打のないものでも、
自分にとつて世界中でかへがたいものに見せる心の働きです。

三島由紀夫「新恋愛講座」より
607名無しさん@社会人:2010/08/02(月) 11:39:18
情熱は、人間の心の中で一番崇高な、一番価値のある感情で、情熱があればこそ人間は
生きていくかいがある。


私は恋愛といふものを、プルーストのやうに悲観的には考へてをりません。なぜなら、
恋愛が錯覚であるならば、人生も錯覚であるし、一人の女をあるひは一人の男を美しいと
思つて恋することは、人間が自分の仕事を美しいと思つて、それを熱愛して、一つの仕事を
完成するのと同じことです。


恋愛中には、恋人はお互ひに愛し合つた上でも、やはり千変万化の働きをしなければならない。
なぞのない恋人は魅力を失つてしまふのです。それはわれわれの幻想を描く力を失はせて
しまふからです。


人間同士の信頼感といふものは、恋愛のほんたうの要素ではありません。信頼感ならば、
友だち同士の友情の方が強いでせうし、また、長いこと連れ合つた夫婦の間の愛情も、
信頼感といふ点では恋愛よりずつと強いのです。恋愛は結局、わからないことがどこかに
ひそんでゐなければならない。

三島由紀夫「新恋愛講座」より
608名無しさん@社会人:2010/08/02(月) 11:45:13
人間には心があから、心で証拠を求めようとしても、からだで求められない。からだで
求めようとしても、心で求められない。かういふ、人間独特の分裂状態から、恋愛が
生まれてくる。それが、人間的なものの一つの特徴になるのであります。
そして情熱の法則は、自分で自分を裏切るといふふうに傾くもので、理性の法則とはまるで
違つてゐます。ですから、うそもうそでなくなる。真実も真実ではなくなつてしまふわけです。


よく、結婚したときに夫に向つて、自分の過去の恋人のことを全部告白してしまふ奥さんが
ありますが、これが誠実といふものかどうかは疑はしい。それによつて夫は、いつまでも
悩むことになるでせうし、彼女は、自分に誠実であつたことによつて、実は自分にだけ
誠実であつたことになるのです。すべて人間の愛の感情では、自分だけ誠実であるといふことが、
必ずしもその恋愛に誠実であるといふことにはならないといふ皮肉な法則があります。
…誠実さとは結局、自分の真心を押しつけることではなくて、むしろ自分を捨てて
相手のためを思ふことであり、そのためには、うそも誠実になつてくるのです。

三島由紀夫「新恋愛講座」より
609名無しさん@社会人:2010/08/02(月) 11:49:51
生まれつき同性愛の人はゐない。なぜかといふと、性ホルモンと同性愛とは関係がないことが
わかつてきて、女性ホルモンの多い女性も十分同性愛になり得るし、女性ホルモンの
少ない女性も十分異性愛になり得る。そして、女らしい女性でも、同性愛に陥るし、
ごく生理的に男らしい男でも同性愛に陥ります。結局、フロイドが述べてゐるところの
心理的な、いろいろな錯綜から生じた一種の病気であつて、その原因に、快感が加はると、
その快感を習慣的に追ふことによつて、だんだん深みに落ちていくといふふうにいはれてゐます。


あくまでも同性愛のほかに広い世界があるといふことを忘れないで、育つていくことが
大事だと思います。若くてさういふ世界に誘惑された少年少女は、それだけが全世界だと
思ひがちですが、人生には、もつと広い世界があるといふことを忘れなければ、必ず
その広い世界へまた出ていくことができるのです。さう言ふと、私は何も解決を与へてない
やうですが、同性愛は、すべて心理的な原因ですから、心理的に自分で解決していくことです。

三島由紀夫「新恋愛講座」より
610名無しさん@社会人:2010/08/02(月) 11:55:02
私の思ふのに、もし同性愛に対して欲求を持つた青少年がゐるならば、初めは思ふ存分
それに向つて突進したらいいでせう。


自分が自分の欲望を追求して、その欲望を突き抜けて、人生に対して同性愛といふものも
あるんだといふやうなのどかな気持で、もう一度自分を客観的に見るやうな余裕が持てる
ところまでいかなければ、どんな医者がどう言つても無理だと思ふのです。そして今
一般的には根治しがたい、不治の病のやうにいはれてゐる精神病の中でも、一番治しにくいのが
同性愛であつて、なぜならば、それは快感を伴ふから治りにくいのだといはれてゐるのですが、
さういふこととは別に、女性ならば女性であるといふ誇りを、男性ならば自分が男性である
といふ誇りを、いつでも持つてゐれば、決してゆがめられた、グロテスクな同性愛の底に
沈んでしまふといふことはあり得ないと思ひます。そして自分の本来の性の誇りが、
自然に彼を引き戻すであらうと私は思ひます。

三島由紀夫「新恋愛講座」より
611名無しさん@社会人:2010/08/02(月) 11:57:31
人間は生まれてから年をとるまで、いつも嫉妬と親しい関係にあります。


嫉妬は必ず、ある瞬間にもせよ、負けた側の人間に生じるものであります。


嫉妬は愛の表現ではあるが、しかしむづかしい言ひ方をすると、愛するといふことの不可能の
表現だとも言へると思ひます。


盲腸炎にかかつた人でなければ盲腸といふものの痛みもわからない。また歯が痛んだことの
ある人でなければ、歯の痛みもわからない。それと同時に、嫉妬の苦しみも、自分が一度
味はつたことのある人でなければ、決してわからないのであります。


美しい愛情はやはり情熱と理性とが適当に折れあつてゐなければならない。

三島由紀夫「新恋愛講座」より
612名無しさん@社会人:2010/08/02(月) 12:00:01
恋愛は完全に健康なもの、そして円満な人格、欠点のない人がら、さういふことものを
見きはめて愛するものではありません。結局、欠点を愛することになるのが恋愛の一般の
法則であり、その欠点ないし弱味は、ともすると人の同情をそそる形で現はれます。


相手の同情をよぶことが何かの効き目を持つのは根本法則ですが、相手に自分の与へてゐる
魅力がまづなければならない。魅力のないところに同情を持ちかけても、何もなりません。

三島由紀夫「新恋愛講座」より
613名無しさん@社会人:2010/08/02(月) 12:02:44
性的な幻滅とか、性的な荒廃とか不良化とか堕落とかいふものは、実は、性そのものに
関する無知ではなくて、私には人間そのものに関する無知と、よく現代の社会の構造を
見きはめないといふ無知からくるもののやうに思はれる。
なぜ現代社会であんなに早く人間が動物的に成熟しながらも、結婚がだんだんおくれていく
傾向にあるか、これは現代社会の矛盾ですがしやうがない矛盾なのです。つまり性的結合は、
経済的独立が伴はなければ社会の公然たるものとして認められない。これが現代社会の
一つの鉄則と言つていいものです。もし経済的独立が伴はないで性的結合が行はれれば、
必ずそこにいろいろな不調和が生じる。そして無理に無理が重なつて、堕落と、おそらく
犯罪が待ちかまへてゐることになります。

三島由紀夫「新恋愛講座」より
614名無しさん@社会人:2010/08/02(月) 12:05:59
男の秘訣は、女に対しては、からだの交渉を持つまでは、決して女の欲望を認めてはいけない
といふことです。あたかも、相手には欲望がないやうに、ふるまはなければなりません。
それは、女性の羞恥心を、悪く刺激することになるからです。少なくとも、処女は自分の
欲望を認められることを、大へんきらふものです。


世間には浮気を浮気としてやれる人と、本気でなくてはやれない人とがあります。そして
それは、必ずしも前者が不まじめな人間で、後者がまじめな人間だとは限りません。後者の中には、三人でも四人でも同時に愛するといふ
離れわざのできる人間もあるからです。

三島由紀夫「新恋愛講座」より
615名無しさん@社会人:2010/08/03(火) 11:46:26
「文は人なり」とは、まことに怖ろしい格言です。


ところどころ、何のことかわからないことを入れるのが、ファン・レターの秘訣です。


本当に「おはやう」といふのにふさはしい唇を持つた若い女性は、人の目をさまさせますよ。


三十年たち、四十年たつて、自分の若いころの魅力的な姿を思ひ出すには、やつぱり
どんなよく撮れた写真よりも、他人の言葉のはうがリアリティがあるにちがひない。


そもそも、助け合ひなどといふものは貧乏人のすることで、その結果生まれる裏切りや
背信行為も、金持ちの世界とはまるでちがひます。金持ちの裏切りは、助け合ひなどといふ
バカな動機からは決して起りません。

三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より
616名無しさん@社会人:2010/08/03(火) 11:50:06
毅然としてゐる。青年らしい。ちつとも女々しいところがない。ちつともメソメソした
ところがない。――これが借金申し込みの大切な要素です。人は他人のジメジメした
心持ちに対してお金を上げるほど寛大ではありません。


女の子といふものは、妙に、男の非男性的魅力に惹かれがちなものだ。


女は自分のことばかりにかまけて、男をほめたたえる、といふ最高の技巧を忘れ、あるひは
怠けてゐるあひだに、まんまと男色家にしてやられるのは、やはり男色家は男の精神の
弱みと泣きどころを、よくつかんでゐるからだと思ふわ。


大ていの女は、年をとり、魅力を失ふほど、相手への思ひやりや賛美を忘れ、しやにむに
自分を売りこまうとして失敗するのです。もうカスになつた自分をね。


あらゆる男は己惚れ屋である。

三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より
617名無しさん@社会人:2010/08/03(火) 11:52:30
脅迫状は事務的で、冷たく、簡潔であればあるだけ凄味があります。
第一、感情で脅迫状を書くといふのはプロのやることではありません。卑劣に徹し、
下賤に徹し、冷血に徹し、人間からズリ落ちた人間のやる仕事ですから、こちらの血が
さわいでゐては、脅迫状など書けません。
便せんをすかしてみて、そこに少しでも人間の血の色がすいて見えるやうでは、脅迫状は
落第なのです。


この世に生命を生み出す女つて、何てふしぎなものでせう。世の中でいちばん平凡なことが、
いちばん奇跡的なのだ。

三島由紀夫「レター教室」より
618名無しさん@社会人:2010/08/03(火) 11:58:17
西洋人はすべて社交馴れしてゐますから、社交は、建て前が大切だといふ第一原則を守ります。
招待を断わるには、「のがれがたい先約があつて」といふ理由だけで十分で、その内容を
説明する必要はありません。たとひ、ひと月前、ふた月前の招待であつても、さういふ理由で
かまひません。
世の中にはふつう二ヶ月前の先約などありえない、といふのは常識の立場であつて、
建て前さへ守られたら、常識なんか蹴とばしてもかまはないのです。また、一ヶ月以上前に
招待状がくることは、特別な場合をのぞき、まづまづありません。


男が「結婚してくれ」と言ふときには、彼のはうに、彼女を迎へ入れるに足る精神的物質的
社会的準備が十分整つてゐるのが理想的です。


人生は一つの惰性なのかもしれません。あなたは理想に燃えて生きてゐらつしやるやうですけど、
あなたの一日の使ひ方には、もう一つの惰性ができてゐるのかもしれません。

三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より
619名無しさん@社会人:2010/08/03(火) 12:01:29
恋愛にとつて、最強で最後の武器は「若さ」だと昔から決まつてゐます。ともすると、
恋愛といふものは「若さ」と「バカさ」をあはせもつた年齢の特技で、「若さ」も「バカさ」も
失つた時に、恋愛の資格を失ふのかもしれませんわ。


人間はいくつになつても感傷を心の底に秘めてゐるものですが、感傷といふのは
Gパンみたいなもので、十代の子にしか似合はないから、年をとると、はく勇気が
なくなるだけのことです。


本当に死ななくても、愛しあふ恋人同士は毎晩心中してゐるのだと思ひます。


見知らぬ他人に身の上相談なんかするといふ行動それ自体に、彼女の人生を悩み多くする
根本原因がひそんでゐるといへませう。

三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より
620名無しさん@社会人:2010/08/03(火) 12:10:09
ヒステリーの女は絶対に、自分のヒステリーは自分のせゐぢやないと信じてゐる。


子供を重荷と感じて、自分たちの自由と快楽をいつまでも追はうとするのは、末期資本主義的
享楽主義に毒された哀れな奴隷的感情だと思ふんだ。


だれでも、自分とまつたく同じ種類の人間を愛することはできません。


もともと恋に善悪はない。


自分の感情にそむいては、何ごとも成功するものではありません。

三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より
621名無しさん@社会人:2010/08/03(火) 12:15:08
テレビでいちばん美しいのは、やつぱり色彩漫画で、宇宙物なんかの色のすばらしさは、
ディズニー・ランドそつくりです。


テレビばつかり見てると、どうしても世界中のことがみんな関係があるやうな気がしてきます。


どうして牛乳配達が牛乳ビンを置いてくみたいに、お嫁さんを配達してくれないんだらう。


恋は愉しいものではなくて、病気だわ。いやな、暗い発作のたびたびある、陰気な慢性の
病気だわ。恋が生きがいだなんていふ人がゐるけれど、とんでもないまちがひで、
悪だくみのはうが、ずつと生きがいを与へてくれます。恋が愉しいなんて言つてゐる人は、
きつとひどく鈍感な人なのでせう。

三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より
622名無しさん@社会人:2010/08/03(火) 12:17:41
何かほしいときだけ甘つたれてくる猫たちの媚態は、あまりにも無邪気な打算がはつきり
してゐて、かはいらしい。
男は別に人格者の女を求めるわけでなく、人間のもろもろの悪徳が、小さな、かはいらしい
ガラス張りの箱の中に、ちんまりと納まつてゐるのを見るのが、安心でもあり、うれしくもあり、
かはいらしくもある。そこが男の愛の特徴です。


他人の幸福なんて、絶対にだれにもわかりつこないのです。


私は手紙の第一要件だけを言つておきたい。
それは、あて名をまちがひなく書くことです。これをまちがへたら、ていねいな言葉を
千万言並べても、帳消しになつてしまひます。
相手の姓名の字画をよく見ませう。


姓名を書きまちがへられるほど、神経にさはることはありません。

三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より
623名無しさん@社会人:2010/08/03(火) 12:21:05
手紙を書くときには、相手はまつたくこちらに関心がない、といふ前提で書きはじめ
なければいけません。これがいちばん大切なところです。世の中を知る、といふことは、
他人は決して他人に深い関心を持ちえない、もし持ち得るとすれば自分の利害に
からんだ時だけだ、といふニガいニガい哲学を、腹の底からよく知ることです。


手紙の受け取り人が、受け取つた手紙を重要視する理由は、
一、大金 二、名誉 三、性欲 四、感情
以外には、一つもないと考へてよろしい。


世の中の人間は、みんな自分勝手の目的へ向つて邁進してをり、他人に関心を持つのは
よほど例外的だ、とわかつたときに、はじめてあなたの書く手紙にはいきいきとした力が
そなはり、人の心をゆすぶる手紙が書けるやうになるのです。

三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より
624名無しさん@社会人:2010/08/18(水) 10:29:32
瞬間でも狼の目が借りられたら、すべてを投げ出しても悔いない、と言つたのは、
ポオル・ヴァレリーだが、われわれは、ファクトをつかむには、そのとき、その人の見る世界を
見ようと努めなければならない。

三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 地についた怖るべき相手」より
625名無しさん@社会人:2010/08/18(水) 10:31:28
いかに都市が近代化され機械化されても、その構成員が人間である以上、都市には動物的
肉体的特徴が備はつてゐる。それがすなはち、食物・飲料水と、排泄物の問題であり、
この巨獣の排泄機能に故障が起れば、数日でダウンしてしまふ。(中略)
かくて大都市は、毎日毎夜、狂ほしくゴミを製造しつづける大工場になつた。私有の財貨は、
ゴミと化すると共に、公有の厄介物になる。それはあたかも、私有財産制が、たえざる
自己否定と自己破壊をくりかへすことによつてしか、自らの持つ意味をたしかめられない
時代に入つたかのやうである。
ゴミをつくり、屎尿を排出することだけが、人間の生きてゐるしるしであり、人生は
自分がゴミと化することによつて終る。

三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 人間と都市の生の証し」より
626名無しさん@社会人:2010/08/18(水) 14:08:47
社会学か?これ?
627名無しさん@社会人:2010/08/22(日) 03:10:23
西部劇礼賛はいくらなんでも酷い内容だな
628名無しさん@社会人:2010/08/22(日) 23:58:17
どの国も自分の国のことだけで一杯で、日本みたいに好奇心のさかんな国はどこにもない。
…なかんづく好奇心の皆無におどろかされるのはフランスで、あの唯我独尊の文化的優越感は
支那に似てゐる。


「古橋はすばらしいですね、僕たちとても古橋を尊敬しているんです」
私は源氏物語の日本を尊敬してゐるなんぞとどこかの国のインテリに云はれるより、
他ならぬギリシアの子供にかう云はれたことのはうをよほど嬉しく感じた。競技の優勝者を
尊敬した古代ギリシアの風習が、子供たちの心に残つてをり、しかもわが日本が、
(古代ギリシアには、水泳競技はなかつたと思はれるが)、古代ギリシアの競技会に
参加して、優勝者を出したやうな気がしたのである。かういふ端的なスポーツの勝利が、
いかに世界をおほつて、世界の子供たちの心を動かすかに、私は併せて羨望を禁じえなかつた。
事実、われわれの精神の仕事も、もし人より一センチ高く飛ぶとか、一秒速く走るか
とかいふ問題をバカにすれば、殆んどその存在理由を失ふであらう。

三島由紀夫「日本の株価――通じる日本語」より
629名無しさん@社会人:2010/08/27(金) 14:32:17
感じやすさといふものには、或る卑しさがある。多くの感じやすさは、自分が他人に
感じるほどのことを、他人は自分に感じないといふ認識で軽癒する。


世間の人はわれわれの肉親の死を毫も悲しまない。少なくともわれわれの悲しむやうには
悲しまない。われわれの痛みはそれがどんなに激しくても、われわれの肉体の範囲を出ない。

三島由紀夫「アポロの杯」より
630名無しさん@社会人:2010/08/27(金) 14:33:44
「ゲルニカ」は苦痛の詩といふよりは、苦痛の不可能の領域がその画面の詩を生み出してゐる。
一定量以上の苦痛が表現不可能のものであること、どんな表情の最大限の歪みも、どんな
阿鼻叫喚も、どんな訴へも、どんな涙も、どんな狂的な笑ひも、その苦痛を表現するに
足りないこと、人間の能力には限りがあるのに、苦痛の能力ばかりは限りもしらないものに
思はれること、……かういふ苦痛の不可能な領域、つまり感覚や感情の表現としての
苦痛の不可能な領域にひろがつてゐる苦痛の静けさが「ゲルニカ」の静けさなのである。
この領域にむかつて、画面のあらゆる種類の苦痛は、その最大限の表現を試みてゐる。
その苦痛の触手を伸ばしてゐる。しかし一つとして苦痛の高みにまで達してゐない。
一人一人の苦痛は失敗してゐる。少なくとも失敗を予感してゐる。その失敗の瞬間を
ピカソは悉くとらへ、集大成し、あのやうな静けさに達したものらしい。

三島由紀夫「アポロの杯」より
631名無しさん@社会人:2010/08/27(金) 14:34:18
或る種の瞬間の脆い純粋な美の印象は、凡庸な形容にしか身を委さないものである。
美は自分の秘密をさとられないために、力めて凡庸さと親しくする。その結果、われわれは
本当の美を凡庸だと眺めたり、たゞの凡庸さを美しいと思つたりするのである。


時がわれわれの存在のすべてであつて、空間はわれわれの観念の架空の実質といふやうな
ものにすぎないこと、そして地上の秩序は空間の秩序にすぎないこと。


時々、窓のなかは舞台に似てゐる。多分その思はせぶりな証明のせゐである。


狂気や死にちかい芸術家の作品が一そう平静なのは、そこに追ひつめられた平衡が、
破局とすれすれの状態で保たれてゐるからである。そこではむしろ、平衡がふだんよりも
一そう露はなのだ。たとへばわれわれは歩行の場合に平衡を意識しないが、綱渡りの場合には
意識せざるをえないのと同じである。

三島由紀夫「アポロの杯」より
632名無しさん@社会人:2010/08/27(金) 14:35:35
(竜安寺の石庭の)直感の探りあてた究極の美の姿が、廃墟の美に似てゐるのはふしぎなことだ。
芸術家の抱くイメーヂは、いつも創造にかかはると同時に、破滅にかかはつてゐるのである。
芸術家は創造にだけ携はるのではない。破壊にも携はるのだ。その創造は、しばしば破滅の
予感の中に生れ、何か究極の形のなかの美を思ひゑがくときに、ゑがかれた美の完全性は、
破滅に対処した完全さ、破壊に対抗するために破壊の完全さを模したやうな完全さである
場合がある。そこでは創造はほとんど形を失ふ。


希臘人は美の不死を信じた。かれらは完全な人体の美を石に刻んだ。日本人は美の不死を
信じたかどうか疑問である。かれらは具体的な美が、肉体のやうに滅びる日を慮つて、
いつも死の空寂の形象を真似たのである。石庭の不均斉の美は、死そのものの不死を
暗示してゐるやうに思はれる。

三島由紀夫「アポロの杯」より
633名無しさん@社会人:2010/08/27(金) 14:36:16
希臘人は外面を信じた。それは偉大な思想である。キリスト教が「精神」を発明するまで、
人間は「精神」なんぞを必要としないで、矜らしく生きてゐたのである。


真に人間的な作品とは「見られたる」自然である。


われわれの生に理由がないのに、死にどうして理由があらうか。


アンティノウスの像には、必ず青春の憂鬱がひそんでをり、その眉のあひだには必ず
不吉の翳がある。それはあの物語によつて、われわれがわれわれ自身の感情を移入して、
これらを見るためばかりではない。これらの作品が、よしアンティノウスの生前に作られた
ものであつたとしても、すぐれた芸術家が、どうして対象の運命を予感しなかつた筈があらう。


彫像が作られたとき、何ものかが終る。さうだ、たしかに何ものかが終るのだ。一刻一刻が
われらの人生の終末の時刻(とき)であり、死もその単なる一点にすぎぬとすれば、
われわれはいつか終るべきものを現前に終らせ、一旦終つたものをまた別の一点から
はじめることができる。

三島由紀夫「アポロの杯」より
634名無しさん@社会人:2010/09/02(木) 11:56:11
女の声でもあんまり甲高いキンキン声は私はきらひだ。あれをきいてゐると、健康によくない。
声に翳りがほしい。いはばかあーつと照りつけたコンクリートの日向のやうな声はたまらないが、
風が吹くたびに木かげと日向が一瞬入れかはる。さういふしづかな、あまり鬱蒼と濃くない
木影のやうな声が私は好きだ。
寒気のするもの天中軒雲月の声、バスガールの声、活動小屋の幕間放送の声、街頭の
広告放送の声。
燻(くす)んだチョコレートいろの声も私は好きだ。さういふとむやみにむつかしく
きこえるが、そこらで自分の声をちつとも美しくないと思ひ込んでゐる女性のなかに、
時折かういふ声を発見して、美しいなと思ふことがある。(中略)
時と場合によつては、女の一言二言の声のひびきが、男の心境に重大な変化をもたらす。
電話のむかうの声のたゆたひが、男に多大の決心を強ひる。「まあ」といふ一言の千差万別!

三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より
635名無しさん@社会人:2010/09/02(木) 11:56:28
声が何かの加減で嗄れてゐて、大事な場合の「まあ」が濁つてしまふことがあつても、
それをごまかす小ささ咳の可愛らしさが、電話のむかうのつつましい女の様子をありありと
思ひ描かせることがある。
いくら声のいい人でも立てつづけに喋りちらされてはたまらない。そこで問題はおのづと
声と言葉の関係に移る。
私はおしやべりな人は本当にきらひだ。自分がおしやべりだから、その反映を相手に
見るやうな気持がしてきらひなのかとも思ふが、いくら私がおしやべりでも私は女の
おしやべりには絶対にかなはない。(中略)女のタイプライターのやうなお喋りが
はじまると、私は目の前に女性といふ不可解な機械が立ちふさがるのを感じる。
尤も、友達として話相手になれるやうな女性は、大ていおしやべりであるし、教養があつて
しかもおしやべりでない女など、まづ三十以下ではゐないと言つていい。黙りがちの女性は
いかにも優雅にみえるが、ともすると細雪のきあんちやんのやうな薄馬鹿である。

三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より
636名無しさん@社会人:2010/09/02(木) 11:56:45
女はゆたかな感情の間を持つて、とぎれとぎれに、すこし沈んだ抑揚で、しかもギラギラしない
明るさ賑やかさ快活さの裏付けをもつて、大して意味のない、それでゐて気のきいた話し方を
するやうな女がいい。批判、皮肉、諷刺、かうした話題が女の口から洩れる時ほど、女が
美しくみえなくなる時はない。痛烈骨を刺す諷刺なんてものは、男に委せておけばいい。(中略)
私は妙にあの「ことよ」といふ言葉づかひが好きだ。口の中で小さな可愛らしい踵を
踏むやうに、「ことよ」と早口でいふのが本格である。私がやたらむしやらこの用法に
接するやうになつたのは、亡妹が聖心女子学院にゐた時からで、聖心では何でもかんでも、
行住座臥すべて「ことよ」である。
「そんなこと知らないことよ」
「そこまで行つてさしあげることよ」
「いいことよ」…(中略)

三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より
637名無しさん@社会人
女の言葉づかひだけはどんな世の中になったても女らしくあつてほしい。襖ごしに、
カアテンごしにきこえる姉妹の対話、女の友達同志の対話、それを耳にしただけで女の世界の
ふしぎな豊かさ美しさ柔らかさ和やかさ滑らかさ温かさが、女の世界の馥郁(ふくいく)たる
香りが感じられるのでなければ、男どもは生きてゐることがつまらない。
襖ごしにこんな会話がきこえてきたら、世をはかなみたくなるではないか。
「さういふ実際的問題とは問題が別よ。もつと全宇宙的な……」
「さうよ。あんたの主張は理解できるわよ。しかし、何といふかなあ、さういふデリケートな
感覚的な没論理的な主張は……」

三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より