2 :
名無しさん@社会人 :2008/06/20(金) 19:15:37
宮台信者絶滅祈願m(_ _)m
思想塾壊滅祈願d=(^o^)=b
4 :
名無しさん@社会人 :2008/06/20(金) 22:27:58
二十五年前に私が憎んだものは、多少形を変えはしたが、今もあいかわらずしぶとく生き永らえている。 生き永らえているどころか、おどろくべき繁殖力で日本中に完全に浸透してしまった。 それは戦後民主主義とそこから生ずる偽善というおそるべきパチルスである。 こんな偽善と詐術は、アメリカの占領と共に終わるだろう、と考えていた私はずいぶん甘かった。 おどろくべきことには、日本人は自ら進んで、それを自分の体質とすることを選んだのである。 政治も、経済も、社会も、文化ですら。 三島由紀夫 「果てし得ていない約束――私の中の二十五年」より
私は昭和二十年から三十二年ごろまで、大人しい芸術至上主義者だと思われていた。 私はただ冷笑していたのだ。或る種のひよわな青年は、抵抗の方法として冷笑しか知らないのである。 そのうちに私は、自分の冷笑・自分のシニシズムに対してこそ戦わなければならない、と感じるようになった。 (中略) この二十五年間、思想的節操を保ったという自負は多少あるけれども、そのこと自体は大して自慢にならない。 (中略) それよりも気にかかるのは、私が果たして「約束」を果たして来たか、ということである。 否定により、批判により、私は何事かを約束して来た筈だ。 政治家ではないから実際的利益を与えて約束を果たすわけではないが、政治家の与えうるよりも、もっともっと大きな、もっともっと重要な約束を、私はまだ果たしていないという思いに日夜責められるのである。 三島由紀夫 「果たし得ていない約束――私の中の二十五年」より
6 :
名無しさん@社会人 :2008/06/20(金) 22:31:24
個人的な問題に戻ると、この二十五年間、私のやってきたことは、ずいぶん奇矯な企てであった。まだそれはほとんど十分に理解されていない。 もともと理解を求めてはじめたことではないから、それはそれでいいが、私は何とか、私の肉体と精神を等価のものとすることによって、 その実践によって、文学に対する近代主義的盲信を根底から破壊してやろうと思って来たのである。 三島由紀夫 「果たし得ていない約束――私の中の二十五年」より
7 :
名無しさん@社会人 :2008/06/20(金) 22:34:31
私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。 このまま行ったら「日本」はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。 日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。 それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである。 三島由紀夫 「果てし得ていない約束――私の中の二十五年」より
8 :
名無しさん@社会人 :2008/06/21(土) 10:28:47
今日の読売新聞の辻井喬の回顧録は、三島由紀夫と石橋湛山の共通思想を考察しながら、 三島が戦後の手続き民主主義の欺瞞に、生命を賭けて反対したことについて触れています。 三島を領土拡大や国粋主義右翼と見るのは、意図的な誤解で、誤りだと述べています。 先週、先々週土曜日の回顧録にも三島のことが載ってます。
9 :
名無しさん@社会人 :2008/06/21(土) 11:59:39
三島由紀夫が自らの生命を賭けて反対した思想の重要な側面は、この、手続きさえ合っていれば、その政策や行動の内容は問わないという、敗戦後のわが国の文化風土だったのではないか。 彼の目に、それは思想的退廃としか映らなかったのである。 …しかし、多くのメディアや芸術家は、彼の行動の華々しさや烈しさに目を奪われて、それを右翼的な暴発としか見なかった。 辻井喬 「叙情と闘争」(読売新聞連載回顧録)より
10 :
名無しさん@社会人 :2008/06/21(土) 14:59:18
彼は(三島は)無限の敵、即ち日本文化、いや日本を腐敗させつつあるものへ、自分の命、絶対の価値ある自分の命を投げつけた。 彼は敵に向い最後迄断然逃げなかった。 …彼は自分の愛するもの(これには自分の家族も入る)に、自分の最上のものを捧げたかった。 それは自分の命、これである。 三谷信 「級友 三島由紀夫」より
11 :
名無しさん@社会人 :2008/06/21(土) 15:00:05
世人は彼の死を嘲笑した。これは彼の敵の正体を、世人が未だ理解していない時に死んだからか? 多くの人、中には名声にあっては一流人が、まるで見当違いのことをいって、彼の死を手軽に料理している。 しかしいつでも彼の死は早すぎるのだろう。 “死”は誰でも逃げたいものだから。 三谷信 「級友 三島由紀夫」より
12 :
名無しさん@社会人 :2008/06/21(土) 15:00:54
彼は稀なる作家、思想家、そして文化人であった。 自分の思想のために、生涯の頂点で、世人の軽蔑は覚悟の上で死ねる者が何人居るか。 彼と思想を異にするのは全く自由であるが、嘲笑するには先ず自分の考えに殉じて死ねる者でなければなるまい。 なぜなら、彼の死は冷静な死であったから。 三谷信 「級友 三島由紀夫」より
13 :
名無しさん@社会人 :2008/06/21(土) 15:01:45
彼は少年時代に戻って死んだ。 少年時代、彼は日本文化に殉ずる心で生きて居た。その心で死んだ。 純粋という点では、学習院高等科学生の頃の姿で死んだ。 所詮作家からはみ出した男、言葉で適当に金を儲けることを、出来るがやらぬ男であった。 三谷信 「級友 三島由紀夫」より
14 :
名無しさん@社会人 :2008/06/23(月) 15:23:07
三島氏は、日本人について、「繊細優美な感受性と、勇敢な気性との、たぐい稀な結合」と云った。 そして「これだけ精妙繊細な文化伝統を確立した民族なら、多少野蛮なところがなければ衰亡してしまう」と云う。 この史観と実践倫理を、彼の一代の生き方の上に重ねた時、わが身心は、ただおののく感じである。 保田與重郎 「ただ一人」より
15 :
名無しさん@社会人 :2008/06/23(月) 15:27:33
日本の民と国との歴史の上で、天地にわたる正大なる気を考える時、偉大なる生の本願を、文人の信実として表現した人は、戦後世代の中で、日本の文学の歴史は、三島由紀夫ただ一人を記録する。 過渡期を超越したこの人である。 保田與重郎 「ただ一人」より
16 :
名無しさん@社会人 :2008/06/26(木) 10:39:11
戦後文学の作品は沢山あり、さらに沢山つみあげられることだろう。今や大企業である。 しかしついのつまりに、三島由紀夫だけが文学及び文学者として、後の世に伝わってゆくだろう。 彼は紙幣を作っていたのでも、銀行預金通帳の数字を書き加えたのでもないからである。 保田與重郎 「戦後文学観」より
17 :
名無しさん@社会人 :2008/06/26(木) 11:35:01
あの市ヶ谷での事件は、政治的なニヒリズムにもとづくパフォーマンスでも、非現実的なクーデタでもない。 三島は大塩平八郎と同様に、それが必ず失敗する事は識っていただろう。 にもかかわらずそれを試みることは、自滅ではなく、そのような大義を信じるものが日本に一人はいるということを示すための言挙げであり、 その言葉が、必ず、たとえば後世に対してであっても、聞く耳を持った者に伝わるという確信の表明だ。 故にそれはニヒリズムに似ており、ニヒリズムに発しているのだが、その大いなる否定なのである。 福田和也 「保田與重郎と昭和の御代」より
18 :
名無しさん@社会人 :2008/06/26(木) 11:52:16
すべての国民が悪魔に魂を売り、経済の高度成長と取引をしたように、現世相は一応思えるかもしれぬが、国の正気の脈々としたものが、必ず潜流しているにちがいないと私は思う。 それなくしては日本はなくなり、人類も、理想も、文明も消滅するのである。 人類に意志はなくとも、生命の起源に於て、天地との約束はあったと思う。これを神々という御名でよぶことを、私はためらはない。 保田與重郎 「ただ一人」より
19 :
名無しさん@社会人 :2008/06/26(木) 12:49:42
三島由紀夫は見事に切腹した。しかも、介錯は一太刀ではすまなかった。 恐らく、弟子である森田必勝には師の首に刀を振り下ろすことに何かためらいでもあったのだろう。三島の首には幾筋もの刀傷がついていた。 それは逆に、三島が通常の切腹に倍する苦痛に克ったことを意味する。 罪人の斬首の場合、どんな豪胆な連中でも恐怖のあまり首をすくめるので、刀を首に打ち込むことはきわめて困難であると、山田朝右衛門(首切朝右衛門)は語っている。 しかし、三島は介錯の刀を二度三度受け止めたのである。このことは、三島由紀夫の思想が「本気」であることを何よりも雄弁に語っていた。 楯の会が小説家の道楽ではないことの確実な証拠であった。だからこそ、「本気」ではなかった左翼的雰囲気知識人は、自らの怯えを隠すように嘲笑的な態度を取ったのである。 呉智英 「三島由紀夫が死んだ日」より
20 :
名無しさん@社会人 :2008/07/01(火) 14:05:23
三島由紀夫氏の最後の四巻本の小説は、小説の歴史あってこの方、何人もしなかったことを、小説の歴史に立脚した上でなしあげようとしたのであろう。 そういう思いが、十分に理解されるような大作品である。 三島氏も、人のせぬおそるべきことを考え、ほとほとなしとげた。 そこには人間の歴史あってこの方の小説の歴史を、大網一つにつつみ込むような振る舞いが見える。 保田與重郎 「日本の文学史」より
21 :
名無しさん@社会人 :2008/07/01(火) 14:07:44
人を、心に於て、最後に解剖してゆくような努力は、私に怖ろしいものと思われた。 三島氏ほどの天才が思っていた最後の一念は、皮相の文学論や思想論に慢心している世俗者よりも、そういうものとは無縁無垢の人に共感されるもののようにも思われる。 その共感を言葉でいい、文字で書けば、うそになって死んでしまうような生の感情である。 保田與重郎 「日本の文学史」より
22 :
名無しさん@社会人 :2008/07/01(火) 14:48:25
私が三島由紀夫氏を初めて知ったのは、彼が学習院中等部の上級生の時だった。 …そのあと高等部の学生の頃にも、東京帝国大学の学生となってからも、何回か訪ねてきた。 ある秋の日、南うけの畳廊下で話していると、彼の呼吸が目に顕ったので、不思議なことに思った。 吐く息の見えるわけはなく、又寒さに白く氷っているのでもない。 長い間不思議に思っていたが、やはりあの事件のあとで拙宅へきた雑誌社の人で、三島氏を知っている者が、彼は喘息だったからではないかと云った。 私はこの齢稚い天才児を、もっと不思議の観念で見ていたので、この話をきいたあとも、一応そうかと思い、やはり別の印象を残している。 保田與重郎 「天の時雨」より
23 :
名無しさん@社会人 :2008/07/01(火) 20:36:42
完全に板違い。削除依頼だしとけ基地外
24 :
名無しさん@社会人 :2008/07/01(火) 23:10:14
三島由紀夫は復活する。 小室直樹
25 :
名無しさん@社会人 :2008/07/02(水) 12:01:54
彼がそのわかい晩年で考えた、天皇は文化だという系譜の発想の実体は、日本の土着生活に於いて、生活であり、道徳であり、従って節度とか態度、あるいは美観、文芸などの、おしなべての根拠になっている。 三島氏が最後に見ていた道は、陽明学よりはるかにゆたかな自然の道である。 武士道や陽明学にくらべ、三島氏の道は、ものに至る自然なる随神(かんながら)の道だった。 そのことを、私はふかく察知し、粛然として断言できるのが、無上の感動である。 保田與重郎 「天の時雨」より
26 :
名無しさん@社会人 :2008/07/02(水) 12:02:30
三島氏らは、ただ一死を以て事に当たらんとしたのである。 そのことの何たるかを云々することは私の畏怖して自省究明し、その時の来り悟る日を待つのみである。私は故人に対し謙虚でありたいからである。 三島氏の文学の帰結とか、美学の終局点などという巷説は、まことににがにがしい。 その振る舞いは創作の場の延長ではなく、まだわかっていないいのちの生まれる混沌の場の現出であった。 国中の人心が幾日もかなしみにみだれたことはこの混沌の証である。 保田與重郎 「天の時雨」より
27 :
名無しさん@社会人 :2008/07/03(木) 14:44:07
私は日本民族の永遠を信じる。 今や三島氏は、彼がこの世の業に小説をかき、武道を学び、演劇をし、楯の会の分列行進を見ていた、数々のこの世の日々よりも、多くの国民にとってはるかに近いところにいる。 今日以後も無数の国民の心に生きるようになったのだ。そういう人々とは、三島由紀夫という高名な文学を一つも知らない人々の無数をも交えている。 保田與重郎 「天の時雨」より
28 :
名無しさん@社会人 :2008/07/03(木) 14:44:59
総監室前バルコニーで太刀に見入っている三島氏の姿は、この国を守りつたえてきたわれらの祖先と神々の、最もかなしい、かつ美しい姿の現にあらわれたものだった。 しかしこの図の印象は、この世の泪という泪がすべてかれつくしても、なおつきぬほどのかなしさである。 豊麗多彩の作家は最後に天皇陛下万歳の声をのこして、この世の人の目から消えたのである。日本の文学史上の大作家の現身は滅んだ。 保田與重郎 「天の時雨」より
29 :
名無しさん@社会人 :2008/07/04(金) 11:00:59
近代西欧文明がもたらした物質万能への傾倒が、いまや極点に達していることは言うまでもない。 人間としての存在が、どうあらねばならないのか。それを問う時はきている。 三島由紀夫は、究極のところ、そのことを人々に問いかけたのだ。 作品によって問いつづけ、さらには自決によって問うた。いや、問うたというよりも、死の世界に生きることを選び、この世への「見返し」を選んだ。 五年後、十年後、いや百年後のことかもしれない。だか、そのとき三島由紀夫は、復活などというアイマイなものでなく、さらに確実な形……存在として、この世に生きるであろう。 小室直樹 「三島由紀夫と『天皇』」より
30 :
名無しさん@社会人 :2008/07/05(土) 05:17:51
三島由紀夫の英語力はまずまずといえる。当時の割にはうますぎるとさえいえる。 ところで、柄谷行人の英語(口語英語)は下手くそだなw
31 :
名無しさん@社会人 :2008/07/05(土) 05:21:30
いまユーチューブで見たが、予想以上に三島の話す英語はうまいよw あまりにうますぎてワロタw っていうか、当時、どうやったらあそこまで うまくなるのか不思議ではある。他の同年代の方々の英語は三島英語に 比べたら、全然なっちゃいねえww さすが三島さんだぜ!しびれる!!!! やっぱり三島は偉大だったwwwwwwwwwwwww
32 :
名無しさん@社会人 :2008/07/05(土) 05:23:28
なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう?なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう? なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう?なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう? なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう?なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう? なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう?なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう? なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう?なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう? なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう?なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう? なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう?なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう? なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう?なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう? なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう?なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう? なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう?なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう? なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう?なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう? なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう?なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう? なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう?なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう? なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう?なんで三島の英語はこんなにうまいのだろう?
33 :
名無しさん@社会人 :2008/07/05(土) 05:37:09
34 :
名無しさん@社会人 :2008/07/05(土) 05:43:14
そんなに英語は練習・勉強してなかった気がするが、それでも普通に 英語でうまく表現してる三島。必死に英語をガリ勉してる現代人よりも はるかにうまい英語を話す三島。本格的に英語の練習したらイギリス人 なみに英語できると思われる。素質は十分ある。さすがです。
35 :
名無しさん@社会人 :2008/07/05(土) 05:45:24
それに比べて、村上春樹も大江健三郎も柄谷行人もひどい英語だな。 ものすごくききとりづらい下手な英語。
36 :
名無しさん@社会人 :2008/07/05(土) 05:48:42
三島の英語がこんなにイケてるとは!意外な驚きだった。 いい感じで英語を話してる。非常に自然体だし、日本語話してるときと同様、 まったく違和感ないというのがすごいw 最高の手本なんじゃね?
37 :
名無しさん@社会人 :2008/07/05(土) 22:07:22
三島由紀夫は海外へ取材や外遊に行くことが多く、ネイティブと会話することで自然と英語が身につき、上達に役立ったのだと思う。
38 :
名無しさん@社会人 :2008/07/06(日) 02:24:15
海外へ取材や外遊に行く下手な現代日本人よりも 三島の方がうまい英語を話してるw
39 :
名無しさん@社会人 :2008/07/06(日) 11:30:41
たしかドイツ語も得意なんだよね三島由紀夫は。 学内で一番だったとドイツ語の元教師が語ってたらしい。
40 :
名無しさん@社会人 :2008/07/08(火) 10:57:37
三島由紀夫「伊沢さんは保田與重郎さんが好きですか、嫌いですか?」 伊沢甲子麿「保田さんは私の尊敬する人物です。 …戦後、保田さんを右翼だとか軍国主義だとか言って非難するものがありますが、私はそのような意見とは真向から戦っています。 保田さんは立派な日本人であり文豪です。」 三島「私は保田さんをほめる人は大好きだし悪く言う人は大嫌いなのです。今、伊沢さんが言われたことで貴方を信頼できる方だと思いました。」 当時、三島氏は大蔵省の若手エリート官僚であった。 …三島氏は天才的な作家であり東大法学部出身の最優秀の官僚でありながら、いささかも驕りたかぶるところがない謙虚な人柄であった。 そして義理と人情にあつい人であるということがわかったのである。 伊沢甲子麿 「思い出の三島由紀夫」より
41 :
名無しさん@社会人 :2008/07/08(火) 10:58:20
三島氏の要望により私は歴史と教育に関する話をいろいろとするに至った。 特に歴史では明治維新の志士について。中でも吉田松陰や真木和泉守の精神思想を何度も望まれて話した。 …三島氏は松陰や真木和泉守の話を私が始めると、和室であったため座布団をのけて正座してしまうのだった。 …その外では西郷隆盛の西南の役の話や、また尊皇派の反対の佐幕派の人物である近藤勇や土方歳三の話も何度となく望まれて語った次第である。 特に近藤勇は三島氏の祖母の祖父である永井尚志が近藤勇とは心を許し合った友人であったため、深く敬愛の情を寄せていた様である。 伊沢甲子麿 「思い出の三島由紀夫」より
42 :
名無しさん@社会人 :2008/07/08(火) 10:59:05
三島由紀夫は、戦争末期の終末感と日本浪漫派系の文学趣味を背後に押し遣って、戦後に登場したとき、何をいちばん怖れたかといえば、 日本浪漫派系の没落と入れ替わりに登場した、第一次戦後派文学と呼ばれる転向左翼の文学者でもなければ、無頼派の文学者でもなく、 戦争末期の終末感を抱いたまま生き埋めにされ、なお節を曲げずに「紙なければ、空にも書かん」とつぶやいている保田與重郎という存在であろう。 桶谷秀昭 「三島由紀夫と保田與重郎」より
43 :
名無しさん@社会人 :2008/07/08(火) 21:08:21
>>32 口パクの吹き替えだから。
マドンナの日本ツアーと一緒。
44 :
名無しさん@社会人 :2008/07/09(水) 12:13:52
>>43 外国人記者クラブなどで、三島由紀夫が生スピーチしたCDも出てるよ。
45 :
名無しさん@社会人 :2008/07/11(金) 12:42:31
「花ざかりの森」の作者は全くの年少者である。どういう人であるかということは暫く秘しておきたい。それが最もいいと信ずるからである。 もし強いて知りたい人があったら、われわれ自身の年少者というようなものであるとだけ答えておく。 日本にもこんな年少者が生まれて来つつあることは何とも言葉に言いようのないよろこびであるし、日本の文学に自信のない人たちには、この事実は信じられない位の驚きともなるであろう。 蓮田善明 昭和16年「文芸文化」より
46 :
名無しさん@社会人 :2008/07/11(金) 12:43:10
この年少の作者は、しかし悠久な日本の歴史の請し子である。 我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である。此の作者を知ってこの一篇を載せることになったのはほんの偶然であった。 しかし全く我々の中から生まれたものであることを直ぐに覚った。そういう縁はあったのである。 蓮田善明 昭和16年「文芸文化」より
47 :
名無しさん@社会人 :2008/07/11(金) 12:44:20
交遊に乏しい私も、一年に二人か一人くらいづつ、このように国文学の前にたたずみ、立ちつくしている少年を見出でる。 「文芸文化」に〈花ざかりの森〉〈世々に残さん〉を書いている二十歳にならぬ少年も亦その一人であるが、悉皆国文学の中から語りいでられた霊のような人である…。 蓮田善明 昭和18年「文学」より
48 :
名無しさん@社会人 :2008/07/11(金) 14:03:03
歴史を喪ったわれわれが、いのちを振い起そうとして今日古典に索めるのは、 歴史を失ってかえって不逞にも己を傲るためにとて万葉集に擬している輩のようなことでもなく、「御時勢」でもない。 古典をまどい尋ねているのは、われわれのうしなったいのちへの郷愁の情である。 今日はこのように郷愁するものが妖雲を打ち撥っている。それは単に武力のすることでなく、たけび立つ皇国人の全生命の堪えがたくて決断するところである。 蓮田善明 「神韻の文学」より
49 :
名無しさん@社会人 :2008/07/11(金) 14:05:24
芸術とは、芸術へ花さかしめる意気があらねばならない。 われわれの祖先に於いては、それは国振としてある。このように国のいのちの振い興っている時、「都」の精神というものが生々活々のものとなり、 「みやこび」又は「みやび」として芸術が意気以て花さいている。 それはたとえば平安朝の如く優柔と見られても、子細に省みれば、古今和歌集の如きが国振の復興として「やまと魂」を詩品にまで化したその成跡は、 実に今日まで日本人の雅情として拭い去ることのできないものを打ち樹てたのである。 蓮田善明 「神韻の文学」より
50 :
名無しさん@社会人 :2008/07/11(金) 14:06:41
そのような国の雅情というものが理解されず、或はかのリアリズムというようなものの影響者に軽蔑さえされている所以は、 彼等に「都」を打ちたてる意気どころか、唯国際主義的なものに、性根もなく眼奪われ随従日も足らざる世界の田舎者の呈した状況であるほかの何ものでもない。 リアリズムという念仏につんのめって手を汚している者に、耀く都の光など思いも寄らぬことである。 スケールとか手法とかを学べば学ぶだけ小ざかしく、かえって人を豊かに養うべき芸術のいのちに反して、今は芸術の勉強家たちが益々貧しくいやしく見えてきていたのは何故か。 蓮田善明 「神韻の文学」より
51 :
名無しさん@社会人 :2008/07/11(金) 14:08:00
前略 「蓮田善明とその死」感激と興奮を以て読み了えました。毎月、これを拝読するたびに魂を振起されるような気がしました。 この御作品のおかげで、戦後二十数年を隔てて、蓮田氏と小生との結縁が確められ固められた気がいたしました。 御文章を通じて蓮田氏の声が小生に語りかけて来ました。 蓮田氏と同年にいたり、なおべんべんと生きているのが恥ずかしくなりました。 一体、小生の忘恩は、数十年後に我身に罪を報いて来るようであります。 今では小生は、嘘もかくしもなく、蓮田氏の立派な最期を羨むほかに、なす術を知りません。 三島由紀夫 昭和42年 小高根二郎への書簡から
52 :
名無しさん@社会人 :2008/07/11(金) 14:17:54
私はまづ氏(蓮田善明)が何に対してあんなに怒っていたかがわかってきた。 あれは日本の知識人に対する怒りだった。最大の「内部の敵」に対する怒りだった。 戦時中も現在も日本近代知識人の性格がほとんど不変なのは愕くべきことであり、 その怯懦、その冷笑、その客観主義、その根なし草的な共通心情、その不誠実、その事大主義、その抵抗の身ぶり、その独善、その非行動性、その多弁、その食言、 ……それらが戦時における偽善に修飾されたとき、どのような腐敗を放ち、どのように文化の本質を毒したか、 蓮田氏はつぶさに見て、自分の少年のような非妥協のやさしさがとらえた文化のために、憤りにかられていたのである。 三島由紀夫 「蓮田善明とその死」序文より
53 :
名無しさん@社会人 :2008/07/14(月) 11:40:17
「洋食の作法は下らないことのようだが」と本多は教えながら言った。 「きちんとした作法で自然にのびのびと洋食を喰べれば、それを見ただけで人は安心するのだ。 一寸ばかり育ちがいいという印象を与えるだけで、社会的信用は格段に増すし、日本で『育ちがいい』ということは、つまり西洋風な生活を体で知っているということだけのことなんだからね。 純然たる日本人というのは、下層階級か危険人物かどちらかなのだ。 これからの日本では、そのどちらも少なくなるだろう。 日本という純粋な毒は薄まって、世界中のどこの国の人の口にも合う嗜好品になったのだ」 三島由紀夫 「天人五衰」より
54 :
名無しさん@社会人 :2008/07/14(月) 11:41:08
「…僕は君のような美しい人のために殺されるなら、ちっとも後悔しないよ。 この世の中には、どこかにすごい金持の醜い強力な存在がいて、純粋な美しいものを滅ぼそうと、虎視眈々と狙っているんだ。 とうとう僕らが奴らの目にとまった、というわけなんだろう。 そういう奴相手に闘うには、並大抵な覚悟ではできない。奴らは世界中に網を張っているからだ。 はじめは奴らに無抵抗に服従するふりをして、何でも言いなりになってやるんだ。そうしてゆっくり時間をかけて、奴らの弱点を探るんだ。 ここぞと思ったところで反撃に出るためには、こちらも十分力を蓄え、敵の弱点もすっかり握った上でなくてはだめなんだよ。 三島由紀夫 「天人五衰」より
55 :
名無しさん@社会人 :2008/07/14(月) 11:44:25
純粋で美しい者は、そもそも人間の敵なのだということを忘れてはいけない。 奴らの戦いが有利なのは、人間は全部奴らの味方に立つことは知れているからだ。 奴らは僕らが本当に膝を屈して人間の一員であることを自ら認めるまでは、決して手をゆるめないだろう。 だから僕らは、いざとなったら、喜んで踏絵を踏む覚悟がなければならない。 むやみに突張って、踏絵を踏まなければ、殺されてしまうんだからね。 そうして一旦踏絵を踏んでやれば、奴らも安心して弱点をさらけ出すのだ。それまでの辛抱だよ。 でもそれまでは、自分の心の中に、よほど強い自尊心をしっかり保ってゆかなければね」 三島由紀夫 「天人五衰」より
56 :
名無しさん@社会人 :2008/07/15(火) 12:09:57
精神分析学は、日本の伝統的文化を破壊するものである。欲求不満などという陰性な仮定は、素朴なよき日本人の精神生活を冒涜するものである。 人の心に立入りすぎることを、日本文化のつつましさは忌避して来たのに、すべての人の行動に性的原因を探し出して、それによって抑圧を解放してやるなどという不潔で下品な教理は、西洋のもっとも堕落した下賤な頭から生まれた思想である。 三島由紀夫 「音楽」より
社会学的な考察が何もない
58 :
名無しさん@社会人 :2008/07/18(金) 12:16:42
彼(三島)の感性は非凡なだけでなく時に大変ユニークで、常人の追随しかねる点があったけれども、人間としての器量は大きかった。 思えば、不良少年の親分を夢みるだけのことはあった。 三谷信 「級友 三島由紀夫」より
59 :
名無しさん@社会人 :2008/07/18(金) 12:17:35
…初等科六年の時のことである。元気一杯で悪戯ばかりしている仲間が、三島に 「おいアオジロ―彼の綽名―お前の睾丸もやっぱりアオジロだろうな」と揶揄った。 三島はサッとズボンの前ボタンをあけて一物を取り出し、 「おい、見ろ見ろ」とその悪戯坊主に迫った。それは、揶揄った側がたじろく程の迫力であった。 また濃紺の制服のズボンをバックにした一物は、その頃の彼の貧弱な体に比べて意外と大きかった。 三谷信 「級友 三島由紀夫」より
60 :
名無しさん@社会人 :2008/07/18(金) 12:18:51
彼(三島)は幼時、友達に、自分の生まれた日のことを覚えていると語った。 彼はそのことを確信していた。そしておそらく、外にもその記憶をもつ人が何人かあると素直に考えていたのであろう。 初等科に入って間もない頃、つまり新しく友人になった者同士が互いにまだ珍しかった頃、ある級友が 「平岡さんは自分の産まれた時のことを覚えているんだって!」と告げた。その友人と私が驚き合っているとは知らずに、彼が横を走り抜けた。 春陽をあびて駆け抜けた小柄な彼の後ろ姿を覚えている。 三谷信 「級友 三島由紀夫」より
61 :
名無しさん@社会人 :2008/07/19(土) 14:54:38
無神論も、徹底すれば徹底するほど、唯一神信仰の裏返しにすぎぬ。 無気力も、徹底すれば徹底するほど、情熱の裏返しにすぎぬ。 近ごろはやりの反小説も、小説の裏返しにすぎぬ。 三島由紀夫 「川端康成氏再説」より
62 :
名無しさん@社会人 :2008/07/19(土) 15:00:55
「いま筋の通ったことをいえば、みんな右翼といわれる。 だいたい、“右”というのは、ヨーロッパのことばでは“正しい”という意味なんだから。(笑)」 三島由紀夫 鶴田浩二との対談「刺客と組長 男の盟約」より
63 :
名無しさん@社会人 :2008/07/21(月) 12:23:21
ハラキリにおいて死は消滅する。死という人間的諸条件を、ある人間の意志が、自由に否定する行為であるからだ。 ハラキリにおいては、より高き倫理価値が自己に対する超越のかたちによって、死に対する克服のかたちによって肯定されているからである。 切腹をかびくさい前世紀の遺物のように片づけることは、人間における最も「神聖なるもの」への冒涜である。 アンドレ・マルロウ 「来日時のインタビュー」より
64 :
名無しさん@社会人 :2008/07/21(月) 12:25:22
三島にとっては死は行動として一つの強烈な現実性を持っていた。日本の偉大な伝統と、儀式とによる死。 それでも異常なことだが、西欧ではローマ人的なこの死とロマンティックな自殺とを、混同するに至っている。 西欧のロマン主義者は、決してこのような方法では自殺しなかった。どのような文明も、死を祭儀的行為として提議してはいないのである。 ある意味では日本の武士道精神がそれを提議した。 アンドレ・マルロオ 「竹本忠雄との対談」より
65 :
名無しさん@社会人 :2008/07/21(月) 12:35:55
三島事件の直後、新聞記者たちの質問は、三島の行動が日本の軍国主義復活と関係あるか、ということだったが、私の反応は、ほとんど直感的に「ノー」と答えることだった。 たぶん、いつの日か、国が平和とか、国民総生産とか、そんなものすべてに飽きあきしたとき、彼は新しい国家意識の守護神と目されるだろう。 いまになってわれわれは、彼が何をしようと志していたかを、きわめて早くからわれわれに告げていて、それを成し遂げたことを知ることができる。 エドワード・サイデンステッカー 昭和46年4月「時事評論」より
66 :
名無しさん@社会人 :2008/07/22(火) 10:02:25
空文化されればされるほど政治的利用価値が生じてきた、というところに、新憲法のふしぎな魔力があり、戦後の偽善はすべてここに発したといっても過言ではない。 完全に遵奉することの不可能な成分法の存在は、道義的退廃を惹き起こす。 三島由紀夫 「道理の実現――『変革の思想』とは」より
67 :
名無しさん@社会人 :2008/07/23(水) 10:36:21
山内(元自衛隊員、普通科教導連隊元助教)は、あの日、市ヶ谷のバルコニーで 「諸君は武士だろう!」と絶叫の響きをにじませながら訴える三島の声をかき消すように、嘲笑や罵声を浴びせた隊員たちにむしろ 「腹が立ち」、「平岡先生を悪者にしてはいけないということしか頭に浮かばなかった」という。 三島への尊敬の念が強まることはあれ薄まることはなかったのである。 そんな山内も、終生先生との思い出を忘れない、と書きとめたノートのなかで、 〈私は先生に会う以前、三島由紀夫とはつまらぬ小説家であろうと思っていた〉と明かしている。 杉山隆男 「兵士になれなかった三島由紀夫」より
68 :
名無しさん@社会人 :2008/07/23(水) 10:36:59
それが「尊敬」へと180度変わったのは、生身の三島に触れて、たとえ弱さがあっても、そんな自分から決して逃げることはせず、 むしろ真正面から立ち向かって、より強くなろうとする三島の真摯な姿を間近でみつめてからだった。 杉山隆男 「兵士になれなかった三島由紀夫」より
69 :
名無しさん@社会人 :2008/07/23(水) 10:37:48
ひたむきな三島に心動かされたのは山内ひとりではなかった。体験入隊してきた三島を、時には「平岡ッ」と本名で呼び捨てにしながら、手加減せず厳しく指導してきた教官や助教も、 あるいはともに汗を流し、隣り合わせのベッドで眠った訓練仲間の学生も、少なくとも私が話を聞いたすべての元兵士たちが口を揃えて、 鍛え上げられた上半身に比べて足腰の弱さが際立つ、三島の中のアンバランスを指摘しながら同時に、三島の愚直なまでの一途さにすがすがしいものを覚えていた。 要するに彼ら全員が、兵士になろうとして、世界のミシマとは別人のように弱さも含めてすべてをさらけ出した人間三島に惚れこんだのである。 杉山隆男 「兵士になれなかった三島由紀夫」より
70 :
名無しさん@社会人 :2008/07/23(水) 10:55:23
猪瀬直樹「三島由紀夫は、七十年に自衛隊のバルコニーに立って演説するわけです。 あの演説のとき、自衛隊員に罵倒されたでしょう。あれ、吉本さん、どうご覧になってました?」 吉本隆明「なんてやろうだ!と思ってました。死ぬ気でいる人間の言葉を、自衛隊に入隊して一緒に訓練した人間の言うことを、黙って聞いてやることぐらいしたらいいじゃないか。 これじゃ、三島さんが気の毒だ…、というのがホンネでしたね。」 1994年12月2日号「週刊ポスト」より
71 :
名無しさん@社会人 :2008/07/24(木) 11:18:40
彼(三島)は、どのような形であれ、米軍占領による国の歪みを正し、民族の志を復活するためのクーデター計画を実行することを決意していた。 計画実行の当日になって、実現の可能性はほとんど残されていなかったが、それが完全にゼロとなるまであきらめなかった。 それは、最後まで力を尽くす誠でもあったが、あきらめの色を見せて、部下たる「楯の会」会員の士気を損なうことの愚を知っていたからであろう。 彼は真の武士であった。 自衛隊の部隊と私たち情報勤務者が一体となって、心底からクーデター計画実行に取り組んだとするなら、三島の期待は実現したであろう。 山本舜勝 元陸上自衛隊調査学校教官班長 「自衛隊 影の部隊――三島由紀夫を殺した真実の告白」より
72 :
名無しさん@社会人 :2008/07/24(木) 11:20:16
自衛隊を本来あるべき姿、国軍として憲法上の認知を得させ、情報技術とシステム確立の下に、不正規軍としての民間防衛軍を結成して機能させること。 それは理想であり、これを長期的戦略を立て、広く国民に浸透させることによって実現するという理想論が、現実にきわめて困難であることを、私は長い体験の中で実感していた。 その意味では、10・21は、多少の無理はあっても、三島が主張したように、二度と訪れないかもしれない千載一遇のチャンスだったかもしれない。 永遠に訪れてこない望ましい機会を待つよりは、不十分でも限られた機会に力を集中させ、知力をふりしぼって、実現に力を尽くすべきではないか。 あるいは悲劇的な、あるいは無様な結末を迎えることになったとしても、座して様子をうかがうだけで、何事もなし得ないまま一生を終えるよりどんなにかましであるか。 三島の死に接したとき、私は過去に何十回、何百回となく自問してきたこの問いを、改めて自分に問いかけた。 山本舜勝 元陸上自衛隊調査学校教官班長 「自衛隊 影の部隊――三島由紀夫を殺した真実の告白」より
73 :
名無しさん@社会人 :2008/07/24(木) 16:42:54
かつてアメリカ占領軍は剣道を禁止し、竹刀競技の形で半ば復活したのちも、懸声をきびしく禁じた。 この着眼は卓抜なものである。あれはただの懸声ではなく、日本人の魂の叫びだったからである。 彼らはこれらをおそれ、その叫びの伝播と、その叫びの触発するものをおそれた。 しかしこの叫びを忌避して、日本人にとっての真の変革の原理はありえない。 三島由紀夫 「道理の実現――『変革の思想』とは」より
74 :
名無しさん@社会人 :2008/07/24(木) 17:09:12
変革とは、このような叫びを、死にいたるまで叫びつづけることである。 その結果が死であっても構わぬ、死は現象には属さないからだ。うまずたゆまず、魂の叫びをあげ、それを現象への融解から救い上げ、精神の最終證明として後世にのこすことだ。 言葉は形であり、行動も形でなければならぬ。文化とは形であり、形こそすべてなのだ、と信ずる点で私はギリシャ人と同じである。 三島由紀夫 「道理の実現――『変革の思想』とは」より
75 :
名無しさん@社会人 :2008/07/28(月) 15:54:29
左翼のいう、日本における朝鮮人問題、少数民族問題は欺瞞である。 なぜなら、われわれはいま、朝鮮の政治状況の変化によって、多くの韓国人をかかえているが、彼らが問題にするのはこの韓国人ではなく、 日本人が必ずしも歓迎しないにもかかわらず、日本に北朝鮮大学校をつくり、都知事の認可を得て、反日教育をほどこすような北朝鮮人の問題を、無理矢理少数民族の問題として規定するのである。 三島由紀夫 「反革命宣言」より
76 :
名無しさん@社会人 :2008/07/28(月) 16:16:06
彼ら(左翼)はすでに、人間性の疎外と、民族的疎外の問題を、フィクションの上に置かざるを得なくなっている。 そして彼らは、日本で一つでも疎外集団を見つけると、それに襲いかかって、それを革命に利用しようとするほか考えない。 たとえば原爆患者の例を見るとよくわかる。原爆患者は確かに不幸な、気の毒な人たちであるが、この気の毒な、不幸な人たちに襲いかかり、 たちまち原爆反対の政治運動を展開して、彼らの疎外された人間としての悲しみにも、その真の問題にも、一顧も顧慮することなく、たちまち自分たちの権力闘争の場面へ連れていってしまう。 三島由紀夫 「反革命宣言」より
77 :
名無しさん@社会人 :2008/07/28(月) 16:29:14
日本の社会問題はかつてこのようではなかった。 戦前、社会問題に挺身した人たちは、全部がとはいわないが、純粋なヒューマニズムの動機にかられ、 疎外者に対する同情と、正義感とによって、左にあれ、右にあれ、一種の社会改革という救済の方法を考えたのであった。 しかし、戦後の革命はそのような道義性と、ヒューマニズムを、戦後一般の風潮に染まりつつ、完全な欺瞞と、偽善にすりかえてしまった。 われわれは、戦後の社会全体もそれについて責任があることを否めない。 革命勢力からその道義性と、ヒューマニズムの高さを失わせたものも、また、この戦後の世界の無道徳性の産物なのである。 三島由紀夫 「反革命宣言」より
78 :
名無しさん@社会人 :2008/07/30(水) 15:16:17
私は、研究室で突然三島の死を聞いたとき、どういうわけかすぐに連想したのは、高山彦九郎であり、神風連であり、横山安武であり、相沢三郎などであった。 これらの人々の行動はいずれも常識を越えた「狂」の次元に属するものとされている。 この「狂」の伝統がどのようにして、日本に伝えられているのか、それはまだだれもわからないのではないだろうか。 ただ、すべての「異常」な行動を「良識」によって片づけることは、これまでの日本人の心をよくとらえ切っていない。 日本人は、否、人間は、自分の内部の「狂」をもっと直視すべきではないだろうか。 三島は私の知るところでは非常に「愚直」な人物である。 私のいう意味は、幕末の志士たちのいう「頑鈍」の精神であり、私としてはほめ言葉である。 私は三島をノーベル賞候補作家というよりも、その意味では、むしろ無名のテロリスト朝日平吾あるいは中岡良一などと同じように考えたい。 橋川文三 「狂い死の思想」より
79 :
名無しさん@社会人 :2008/08/01(金) 15:16:12
いま非常な情報化社会がありますから精神というものはテレビに写らない。そしてテレビに写るのはノボリや、プラカードや、人の顔です。それからステートメントです。 そして人間はみんなステートメントやることによって、なにかしたような気持になっているんです…。 そのステートメントが情報化社会のなかで、非常なスピードで溶解されて、ちょうどあたかも塵埃処理のように、早くこれをすべて始末しなければ東京中が塵埃でうずまってしまう。紙くずでうずまってしまう。 それで情報化社会というものは過剰な情報をどんどん処理しているんです。 この東京というもの、日本というものは、近代化すればするほど巨大な塵埃焼却炉みたいになってくる。 三島由紀夫 とある講演の言葉 「橋川文三『三島由紀夫の生と死』」より
80 :
名無しさん@社会人 :2008/08/01(金) 16:07:30
いずれ(石原慎太郎、大江健三郎)の場合にも「平和」という時代の「壁」に対する信仰のごときものが、その作品形成の動因となっている。 その「壁」とみられるものを構成するあの「廃墟」の要因はここでは全く忘れられているのだ。 三島(三島由紀夫)の祭神であった永遠の「廃墟」というイメージのかわりにかれらはいかがわしい「平和」という条件のなかで、子供のようにむずがったり、脅えたりしている。 橋川文三 「若い世代と戦後精神」より
81 :
名無しさん@社会人 :2008/08/01(金) 16:08:23
かれらはあまりにも「平和」に圧倒され、かえってまだ知らぬ「殺りく」と「戦争」という玩具を欲しがったりしている。 そこから大江のように、いわゆる「戦中派」の戦争体験への子供じみた嫉視も生まれ、石原のように「戦争と現実(平和)といずれが苛酷か」という見せっくらの心理も生まれるのだろう。 橋川文三 「若い世代と戦後精神」より
82 :
名無しさん@社会人 :2008/08/01(金) 16:09:50
しかし、くりかえしていえば、ここでもかれらのつまずきとなっているものは「歴史」である。 初めに引いた老人の話でいえば、その老人にとって、明治以降の六十余年は「平和」であったのか、それとも「廃墟」であったのか。 それは「停滞」でも「自己破壊」でもなく、まさしくただ「歴史」であったろう。 大江や石原が時代の「壁」の背後にある歴史への感覚をもちえない限り、かれらはただ「時代の子」として、ある好ましい評判をかちえてゆくであろう。 つまり、時代を動かすのではなく、押流されてゆくであろう。なぜなら、かれらは、絶望的なまでに「われらの時代」にとらわれ、惑溺しているからである。 橋川文三 「若い世代と戦後精神」より
83 :
名無しさん@社会人 :2008/08/01(金) 16:28:45
三島がどこかの座談会で語っていたように、戦争も、その「廃墟」も消失し、不在化したこの平和の時期には、どこか「異常」でうろんなところがあるという感覚は、ぼくには痛切な共感をさそうのである。 …つまり、そこでは「神話」と「秘蹟」の時代はおわり、時代へのメタヒストリックな共感は断たれ、あいまいで心を許せない日常性というあの反動過程が始まるのであり、 三島のように「廃墟」のイメージを礼拝したものたちは「異端」として「孤立と禁欲」の境涯に追いやられるのである。 「鏡子の家」の繁栄と没落の過程は、まさに戦後の終えん過程にかさなっており、その終えんのための鎮魂歌のような意味を、この作品は含んでいる。 …この日本ロマン派の直系だか傍系だかの作家(三島由紀夫)のなかに、ぼくはつねにあの血なまぐさい「戦争」のイメージと、 その変質過程に生じるさまざまな精神的発光現象のごときものを感じとり、それを戦中=戦後精神史のドキュメントとして記録することに関心をいだいてきた。 橋川文三 「若い世代と戦後精神」より
84 :
名無しさん@社会人 :2008/08/01(金) 17:13:05
一、戦後の日本国民は、戦前、とくに明治の国民よりも、はるかに進んだという考え方をもたないほうがよいということ。 日本ファシズムとよばれる国家体制は、そのあたりに関する無自覚と自惚れによって成立したと思われることが多いということ。 二、戦後民主主義がそれ自体なんらかのメリットを日本国民にもたらしたという形式主義的錯覚をも適当に放棄すること。 日本国民がそれほど変わったとは他人は別に思っていないことを知るべきだということ。 橋川文三 「私の日本人論」より
85 :
名無しさん@社会人 :2008/08/01(金) 17:14:19
三、しかし、日本人の精神構造、民族性その他に関する外国ないし日本の学者たちの悲観的論評を別に信奉する必要もないということ。 それはまだ未解決の問題であり、参考ていどにしておけばいいこと。 四、要するに日本国民も、どこの国民も、大したことはないと覚悟した上で、とくに日本国民にもダメなところがあるという方法的認識を堅持すること。 橋川文三 「私の日本人論」より
86 :
名無しさん@社会人 :2008/08/04(月) 13:06:14
唯識論入門として、(暁の寺は)これほど簡にして要を得たものを知らない。 難解なことで有名な仏教哲学の最高峰が、われわれの足下に横たわっているのだ。 仏教を研究しようとする学徒のあいだでは、よく、倶舎三年、唯識八年、といわれる。 『倶舎論』を理解するのには三年かかり、唯識論を理解するのには八年はたっぷりかかるというのだ。 それが僅か三島由紀夫の作品では十二頁にまとめられている。エッセンスはここにつきている。くりかえし精読する価値は十分にある。 小室直樹 「三島由紀夫と天皇」より
87 :
名無しさん@社会人 :2008/08/06(水) 10:03:01
本当の天才とは、簡単には説明することのできない能力の持ち主のことだ。 シェイクスピアは天才だった。モーツァルトも、レオナルド・ダヴィンチも、紫式部も天才だった。 私がこれまでに出会ったすべての人々のなかで、「この人は天才だ」と思った人は二人しかいない。 一人は中国文学および日本文学の偉大な翻訳家であったアーサー・ウェイリーである。 …中略… そして、私の出会ったもう一人の天才が三島由紀夫である。 ドナルド・キーン 「二つの祖国に生きて」より
88 :
名無しさん@社会人 :2008/08/13(水) 12:16:10
きょうで丸五日間、丸っきり空襲がありません。不気味な不安。そのなかにも駘蕩たる春の日は窓辺まで押しよせて来ています。 …僕はこれから「悲劇に耐える」というより、「悲劇を支える」精神を錬磨してゆかなければ、と思います。 平岡公威(三島由紀夫) 三谷信への葉書より 昭和20年3月3日
89 :
名無しさん@社会人 :2008/08/13(水) 12:17:23
御葉書拝見。何はあれ、このような大変に際会して、しかも君とそれについて手紙のやりとりの出来るような事態を、誰が予想し得たでしょう。 …これから勉強もし、文学もコツコツ落着いてやって行きたいと思います。自分一個のうちにだけでも、最大の美しい秩序を築き上げたいと思います。 戦後の文学、芸術の復興と、その秩序づけに及ばず乍ら全力をつくして貢献したいと思います。 …すべては時代が、我々を我々の当面の責務に追いやります。僕は少なくとも僕の廿代を、文化的再建の努力に捧げたいと思っています。 平岡公威(三島由紀夫) 三谷信への葉書より 昭和20年8月22日
90 :
名無しさん@社会人 :2008/08/13(水) 12:35:59
何かの拍子に三島は「アメリカって癪だなあ、君本当に憎らしいね」と心の底から繰り返しいった。 そしてかのレースのカーテンを指さし「もしあそこにアメリカ兵が隠れていたら、竹槍で突き殺してやる」と銃剣術の動作をして真剣にいった。 当時の彼は学術優秀であり、品行も方正であったが、教練武術の方はまるで駄目であった。 …そういう彼が竹槍で云々といった時、彼には悪いが、突くといっても逆にやられるだろうがとひそかに思った。けれども、彼のその気迫の烈しさには本当に胸を突かれた。 三谷信 「級友 三島由紀夫」より
91 :
名無しさん@社会人 :2008/08/13(水) 12:52:08
今、卒業式の時の彼を思い出す。戦前の学習院の卒業式には、何年かに一度陛下が御臨幸になった。我々の卒業式の時もそうであった。 全員息づまる様に緊張し静まる中で式は進み、やがて教官が「文科総代 平岡公威」と彼の名を呼びあげた。 彼は我等卒業式一同と共にスッと起立し、落ち着いた足どりで恭々しく陛下の御前に出て行った。彼が小柄なことなど微塵も感じさせなかった。 瞳涼しく進み出て、拝し、退く。その動きは真に堂堂としていた。心ひきしまり、すがすがしい動作であった。 あの時は彼の人生の一つの頂点であったろう。そういう彼ゆえ、古来の日本の心を壊そうとするものを心の底から許さなかった。 三谷信 「級友 三島由紀夫」より
92 :
名無しさん@社会人 :2008/08/15(金) 16:11:05
彼(川端康成)は、確かにこの受賞(ノーベル文学賞)に値した。 それでも今もって私は、どういうわけでスウェーデン・アカデミーが三島でなく川端に賞を与えたのか不思議でしようがない。 1970年5月、私はコペンハーゲンの友人の家に夕食に招待された。同席した客の一人は、私が1957年の国際ペンクラブ大会の時に東京で会った人物だった。 日本で数週間を過ごしたお陰で、どうやら彼は日本文学の権威として名声を得たようだった。 ドナルド・キーン 「私と20世紀のクロニクル」より
93 :
名無しさん@社会人 :2008/08/15(金) 16:13:02
ノーベル賞委員会は、選考の際に彼の意見を求めた。その時のことを思い出して、居合わせた客たちに彼はこう言ったのだった。「私が、川端に賞を取らせたのだ」と。 この人物は政治的に極めて保守的な見解の持主で、三島は比較的若いため過激派に違いないと判断した。 そこで彼は三島の受賞に強く反対し、川端を強く推した結果、委員会を承服させたというのだ。 本当に、そんなことがあったのだろうか。三島が左翼の過激派と思われたせいで賞を逸したなんて、あまりにも馬鹿げている。 私は、そのことを三島に話さずにはいられなかった。三島は、笑わなかった。 ドナルド・キーン 「私と20世紀のクロニクル」より
94 :
名無しさん@社会人 :2008/08/17(日) 11:38:33
東京に着いたのは1月24日の三島の葬式の直前で、私は弔辞を述べることを引き受けた。ところが、私の親しい友人三人は葬式に出席してはいけないと言う。 私が弔辞を述べることで、三島の右翼思想を擁護しているように取られてはまずいと言うのだった。 最終的に彼らの説得に応じたが、それ以来私は、自分がもっと勇気を示さなかったことを何度も後悔した。 私は三島夫人を訪問した。三島の写真がある祭壇に、私は彼に捧げた自分の翻訳『仮名手本忠臣蔵』を置いた。 その本には、下田で会った時に三島自身がこの浄瑠璃から選んだ次の一節が題辞として揚げられていた。 国治まつてよき武士の忠も武勇も隠るるに たとへば星の昼見へず、夜は乱れて顕はるる ドナルド・キーン 「私と20世紀のクロニクル」より
95 :
名無しさん@社会人 :2008/08/19(火) 14:40:42
あの時(ノーベル賞を)受賞したのが川端であり、三島由紀夫でなかったのは、何かの行き違いだったかもしれない。 すなわち、国連事務総長だったダグ・ハマーショルドが1961年に亡くなる直前、三島の「金閣寺」を読み、ノーベル賞委員会のある委員に宛てた手紙で大絶賛したのである。こういった筋からの推薦は小さくない影響力を持っていた。 また1967年のこと、出版社の国際的な集会がチェニスで開かれ、私はその集いが授与する文学賞、フォルメントール賞を三島にと試みたが失敗に終わった。 この時、スウェーデンから参加した有力出版社ボニエールの重役が私を慰め、三島はずっと重要な賞をまもなく受けるだろう、と言ったのだ。ノーベル賞以外にはあり得なかった。 ドナルド・キーン 「思い出の作家たち」より
96 :
名無しさん@社会人 :2008/08/23(土) 12:44:04
この叫び(剣道のかけ声)には近代日本が自ら恥じ、必死に押し隠そうとしているものが、あけすけに露呈されている。 それはもっとも暗い記憶と結びつき、流された鮮血と結びつき、日本の過去のもっとも正直な記憶に源している。 それは皮相な近代化の底にもひそんで流れているところの、民族の深層意識の叫びである。 このような怪物的日本は、鎖につながれ、久しく餌を与えられず、衰え呻吟しているが、今なお剣道の道場においてだけ、われわれの口を借りて叫ぶのである。それが彼の唯一の解放の機会なのだ。 三島由紀夫 「実感的スポーツ論」より
97 :
名無しさん@社会人 :2008/08/23(土) 12:46:48
私は今ではこの叫びを切に愛する。このような叫びに目をつぶった日本の近代思想は、すべて浅薄なものだという感じがする。 それが私の口から出、人の口から出るのをきくとき、私は渋谷警察署の古ぼけた道場の窓から、空を横切る新しい高速道路を仰ぎ見ながら、 あちらには「現象」が飛びすぎ、こちらには「本質」が叫んでいる、という喜び、……その叫びと一体化することのもっとも危険な喜びを感じずにいられない。 そしてこれこそ、人々がなお「剣道」という名をきくときに、胡散くさい目を向けるところの、あの悪名高い「精神主義」の風味なのだ。 私もこれから先も、剣道が、柔道みたいに愛想のよい国際的スポーツにならず、あくまでその反時代性を失わないことを望む。 三島由紀夫 「実感的スポーツ論」より
98 :
名無しさん@社会人 :2008/09/02(火) 14:32:33
天皇はあらゆる近代化、あらゆる工業化によるフラストレーションの最後の救世主として、そこにいなけりゃならない。それをいまから準備していなければならない。 それはアンティエゴイズムであり、アンティ近代化であり、アンティ工業化であるけど、決して古き土地制度の復活でもなければ、農本主義でもない。 …つまり天皇というのは、国家のエゴイズム、国民のエゴイズムというものの、一番反極のところにあるべきだ。 そういう意味で、天皇は尊いんだから、天皇が自由を縛られてもしかたがない。 その根元にあるのは、とにかく「お祭」だ、ということです。 天皇がなすべきことは、お祭、お祭、お祭、お祭、――それだけだ。 三島由紀夫 「文武両道と死の哲学」より
99 :
名無しさん@社会人 :2008/09/02(火) 14:42:48
亭主が自分の部屋に電話を引いたり、テレビをつけたり、ボタンを押すと飛び上がる椅子をつけたりするのに、 エリザベスは、まだ十八世紀のお茶の作法で、百メートル先から女官たちが手から手へつないだお茶を持って来て、冷えたお茶を飲んでいる。自分の部屋には電話がない。 ぼくは、そういうことが天皇制だろうと思うんです。日本の皇室がその点でわれわれを納得させる存在理由は日ましに稀薄になっている。 つまりわれわれが近代化の中でこれだけ苦しんで、どこかでお茶を十八世紀の作法で飲んでいる人がいなければ、世界は崩壊するんだよ。 三島由紀夫 「文武両道と死の哲学」より
100 :
名無しさん@社会人 :2008/09/03(水) 14:22:07
人間の運、不運の岐れ道は中国では残酷なまでに鮮明である。不運な人間に誰も同情しない。この国では悲劇も哀話も人の心を動かさない。 だから中国の文学にはギリシャ悲劇のような悲劇が存在しない。 中国人は赤穂浪士と三島由紀夫の悲劇をどうしても理解できないそうである。 西尾幹二
101 :
名無しさん@社会人 :2008/09/03(水) 23:45:44
>1 三島由紀夫は社会学者ではなく文学者。 笑止千万
102 :
名無しさん@社会人 :2008/09/04(木) 12:29:40
侵略主義とか軍国主義というものは、武士道とは始めから無縁のものだ。 …私に言わせれば、二・二六事件その他の皇道派が、根本的に改革しようとして、失敗したものでありますが、結局勝ちをしめた統制派というものが、 一部いわゆる革命官僚と結びつき、しかもこの革命官僚は、左翼の前歴がある人が沢山あった。 こういうものと軍のいわゆる統制派的なものと、そこに西欧派の理念としてのファシズムが結びついて、昭和の軍国主義というものが、昭和十二年以降に初めて出てきたんだと外人に説明するんです。 私は、日本の軍国主義というものは、日本の近代化、日本の工業化、すべてと同じ次元のものだ、全部外国から学んだものだ、と外人にいうんです。 三島由紀夫 「武士道と軍国主義 政府への建白書」より
103 :
名無しさん@社会人 :2008/09/04(木) 12:31:46
軍国主義というものが、実に、日本の明治以降、動いてきた歴史の中で、非常に、皮肉なものがある。 というのは、我々は外国からいい影響だけ受けていたと思ったのは、非常に間違いであった。 明治以降の日本がやってきた西欧化の努力によって今日まで、近代国家にきたのであるけれども、その全く同じ理念が、軍国主義をもたらしたのである。 ここをよく考えないと日本の近代感覚というものの一番大きな問題は掴めない。 三島由紀夫 「武士道と軍国主義 政府への建白書」より
104 :
名無しさん@社会人 :2008/09/04(木) 12:49:38
軍国主義のいわゆる進展と同時に、日本の戦略、戦術の上にアジア的な特質が失われていったのは大きい。 というのは、今のベトナム戦争でも判るように、アジア的風土の中で、非常にアジア的な非合理な方法によって、ゲリラ戦を展開して、敵を悩ましている。 …我々は、もう一つ、ここで民族精神に振り返ってみて、日本とは何ぞや、武器と魂というものを日本人は如何に結びつけたか、そこに立ち返らなければ、日本というものの防衛の基本的なものは出てこない。 三島由紀夫 「武士道と軍国主義 政府への建白書」より
105 :
名無しさん@社会人 :2008/09/04(木) 15:27:10
私は、終始一貫した憲法改正論者で、それが、物理的に可能であるのか、不可能であるのか、そんなことは、おかまいなしに、一介の人間としてそれのみをいっているのは、決してそれによって、日本を軍国支配しようとするつもりはないのだ。 あくまでそれによって日本の魂を正して、そこに日本の防衛問題にとって最も基本的な問題、もっと大きくいえば、 日本と西洋社会との問題、日本のカルチャーと、西洋のシィヴィラリゼイションとの対決の問題、これが、底にひそんでいることをいいたいんだということです。 三島由紀夫 「武士道と軍国主義 政府への建白書」より
106 :
名無しさん@社会人 :2008/09/05(金) 00:18:30
貼り付け狂自称家事手伝いニート三島信者ババアがここにもw 三島スレならどこでも現れる40代のくそババア
107 :
名無しさん@社会人 :2008/09/11(木) 12:58:04
108 :
名無しさん@社会人 :2008/09/18(木) 12:49:50
日米共同コミュニケによって、現憲法の維持は、国際的国内的に新たなメリットを得たのである。 すなわち国内的には、今後も穏和な左翼勢力に平和現憲法の飴玉をしゃぶらせつづけて面子を立ててやる一方、過激派には現憲法にもこれだけの危機収集能力のあることを思い知らせ、 国際的には、無制限にアメリカの全アジア軍事戦略体制にコミットさせられる危険に対して、平和憲法を格好の歯止めに使い、一方では安保体制堅持を謳いながら、一方では平和憲法護持を受け身のナショナリズムの根拠にするというメリットが生じたのである。 これはいわば吉田茂方式の継承であり、早急な改憲は、現憲法がアメリカによって強いられた憲法であるより以上に、さらにアメリカの軍事的要請に沿うた憲法を招来するにすぎないという恫喝ほど、効き目のあるものはあるまい。 改憲サボタージュは、完全に自民党の体質になった。 三島由紀夫 「道理の実現――『変革の思想』とは」より
109 :
名無しさん@社会人 :2008/09/26(金) 15:58:06
われわれは天皇ということをいうときには、むしろ国民が天皇を根拠にすることが反時代的であるというような時代思潮を知りつつ、まさにその時代思潮の故に天皇を支持するのである。 なぜなら、われわれの考える天皇とは、いかなる政治権力の象徴でもなく、それは一つの鏡のように、日本の文化の全体性と、連続性を映し出すものであり、 このような全体性と連続性を映し出す天皇制を、終局的には破壊するような勢力に対しては、われわれの日本の文化伝統を賭けて闘わなければならないと信じているからである。 三島由紀夫 「反革命宣言」より
110 :
名無しさん@社会人 :2008/09/26(金) 16:09:14
われわれは、自民党を守るために闘うのでもなければ、民主主義社会を守るために闘うのでもない。 もちろん、われわれの考える文化的天皇の政治的基礎としては、複数政党制による民主主義の政治形態が最適であると信ずるから、 形としてはこのような民主主義政体を守るために行動するという形をとるだろうが、終局目標は天皇の護持であり、その天皇を終局的に否定するような政治勢力を、粉砕し、撃破し去ることでなければならない。 三島由紀夫 「反革命宣言」より
111 :
名無しさん@社会人 :2008/09/28(日) 11:17:32
三島由紀夫に影響を受けたと指摘されているアーティストの一人に、日本のアニメ「巌窟王」の音楽を担当したジャン・ジャック・バーネル(フランス人)がいますが、 ジャンは70年代の伝説の英国パンク・ロック・グループ、ストラングラーズの名ベーシストでした。 バンドの3rdアルバム『ブラック&ホワイト』には「ユキオ」の副題が付けられた「デス&ナイト&ブラッド」(死と夜と血)という曲や、次のアルバム『レイヴン』の「アイス」という曲にもハガクレという言葉が出てきます。 「死と夜と血」 俺が彼の瞳のなかに あのスパルタを見た時 夭折はいいこと だから俺たちは決めたんだ 死ぬこと以上に すばらしい愛はないと 俺は俺の肉体を 俺の武器にまで 鍛えあげるんだ ジャンは三島の熱心な愛読者でもあり、極真会館の道場生でした。現在は士道館の空手ロンドン支部長をしているそうです。
112 :
名無しさん@社会人 :2008/09/28(日) 11:18:07
78年12月に単独来日した際にジャンは、「なぜ日本はこんなアメリカ・ナイズされているのか、日本の若者は眠っているのか」と怒りまくったという逸話があり、 「米国資本の市場戦略は安逸な快楽を与え、人々の感性を鈍らせることから始まっている。 それはヨーロッパの伝統的な明晰さにとって第一の敵といえるが、 日本人もそれに毒されている自分たちを自覚し民族の知的遺産である伝統、それは魂(スピリット)といっていいが、それを救出しなければならない。」と誌面にメッセージを残しています。
113 :
名無しさん@社会人 :2008/09/28(日) 20:38:59
114 :
名無しさん@社会人 :2008/10/03(金) 12:03:57
有名中学校入学で小学校までのやつ自称日本人が別の人間朝鮮人に3人交代しましたnida。どういう事情か詳しく教えて下さいnida。
115 :
名無しさん@社会人 :2008/10/08(水) 11:52:08
三島由紀夫に影響を受けたと指摘されているアーティストの一人に坂本龍一がいますが、 彼の父親は三島の仮面の告白、金閣寺などを世に送り出した河出書房の三島担当の名編集者として有名です。おそらく父親から三島の逸話などを聞かされたことでしょう。 坂本龍一が映画「戦場のメリークリスマス」(大島渚監督)で演じた将校も三島の造形だといわれていますが、 龍一自身が担当した「戦メリ」の音楽に歌詞を付け、デヴィッド・シルヴィアンとコラボしたアルバム「禁じられた色彩」も、明らかに三島の「禁色」をベースした世界があります。 My love wears forbidden colours. My life believes (in you once again) 僕の愛は禁じられた色彩を帯びる。 僕の生は(もう一度あなたを)信じる。 ちなみにD・シルヴィアンも三島の「禁色」を最高の文学と言い、三島おたくぶりをアピールしています。
116 :
名無しさん@社会人 :2008/10/18(土) 10:08:26
117 :
名無しさん@社会人 :2008/10/26(日) 22:25:09
106:名無しさん@九周年 2008/10/23(木) 11:19:28 ID:MKKkrhYW0
>>97 当時マスコミの少なくない人間が、三島にそれなりの脅威を感じていた。
それが自爆したことによる快哉は大きかったようだね。
三島のクーデターは1970年、あさま山荘が1972年だ。
まだ学生運動の正体が一般には知られておらず、マスコミも心行くまで左の旗を振っていた。
ニヤニヤ笑う自衛隊員の顔をことさらに流したのは、「三島の主張はキチガイ沙汰なのだ」という
マスコミの強い主張だわな。実際クレイジーではあったが。
ちなみに成田闘争の時、TBS社員が取材車で過激派の運搬をしていたことが判明して
問題になったことがあった。責任を取って田英夫がTBSを退社したのが1970年。
今のマスコミ報道にも強い「誰かの意図」が動いているけど、
当時のそれは、はるかにあからさまだった。
三島事件の報道は、時代背後とまわりの人間模様を強く考えながら見ないと真実がみえんわな。
118 :
名無しさん@社会人 :2008/10/26(日) 22:26:52
西郷隆盛と蓮田善明と三島由紀夫と、この三者をつなぐものこそ、蓮田の歌碑にきざまれた 三十一文字の調べなのではないか。西郷の挙兵も、蓮田や三島の自裁も、みないくばくかは、 「ふるさとの駅」の「かの薄紅葉」のためだったのではないだろうか。 滅亡を知るものの調べとは、もとより勇壮な調べではなく、悲壮な調べですらない。 それはかそけく、軽く、優にやさしい調べでなければならない。なぜならそういう調べだけが、 滅亡を知りつつ亡びて行くものたちのこころを歌いうるからだ。 江藤淳 「南州残影」より
119 :
名無しさん@社会人 :2008/10/26(日) 22:28:28
井上ひさし「サド侯爵夫人は、その完璧なまでに空虚な構造、噴飯もの寸前のみごとな台詞修辞法によって 20世紀の世界劇文学を代表するにたる一作である」 小田実「文にあっても、いまや商あっての文。私は三島の文と武にかけた純情をなつかしくおもう。」
120 :
名無しさん@社会人 :2008/10/26(日) 22:29:46
武士道とは死ぬことと見つけたり 生きていてどんな努力や工作を重ねるよりも 死が効果的だと判断される場合にこそ、死を選ぶ そのような死は覚えられているかぎり将来に渡り 何らかの影響を及ぼし続けてゆく それによって歴史が、時代が動かされるほどのことすら、ありうる こうやってその死を取り上げ、それについて論ずることもまた 一つの効果である その死が完全に忘れ去られ論ぜられることもなくなった時 その死は役目を終えたと言えよう
121 :
名無しさん@社会人 :2008/10/27(月) 10:59:34
遺書本文。 -------------------- 遺書 平岡公威 一、御父上様 御母上様 恩師清水先生ハジメ 學習院並二東京帝國大學 在學中薫陶ヲ受ケタル 諸先生方ノ 御鴻恩ヲ謝シ奉ル 一、學習院同級及諸先輩ノ 友情マタ忘ジ難キモノ有リ 諸子ノ光榮アル前途ヲ祈ルー 一、妹美津子、弟千之ハ兄ニ代リ 御父上、御母上二孝養ヲ尽シ 殊二千之ハ兄二続キ一日モ早ク 皇軍ノ貔貅(ひきゅう)トナリ 皇恩ノ万一二報ゼヨ 天皇陛下萬歳
122 :
名無しさん@社会人 :2008/10/29(水) 15:34:18
私にとっては、ごく自然な、理屈の要らない、日本人の感情として、外地にひるがえる日の丸に感激したわけだが、 旗なんてものは、もともとロマンティックな心情を鼓吹するようにできていて、あれが一枚板なら風情がないが、ちぎれんばかりに風にはためくから、胸を搏つのである。 ところが、こんな話をすると、みんなニヤリとして、なかには私をあわれむような目付をする奴がいる。 厄介なことに日本のインテリは、一切単純な心情を人に見せてはならぬことになっている。… 自分の国の国旗に感動する性質は、どこの国の人間だってもっている筈の心情である。 三島由紀夫 「お茶漬ナショナリズム」より
123 :
名無しさん@社会人 :2008/10/29(水) 15:34:54
自然な日本人になることだけが、今の日本人にとって唯一の途であり、その自然な日本人が、多少野蛮であっても少しも構わない。 これだけ精妙繊細な文化的伝統を確立した民族なら、多少野蛮なところがなければ、衰亡してしまう。 子供にはどんどんチャンバラをやらせるべきだし、おちょぼ口のPTA精神や、青少年保護を名目にした家畜道徳に乗ぜられてはならない。 三島由紀夫 「お茶漬ナショナリズム」より
124 :
名無しさん@社会人 :2008/10/30(木) 22:48:24
三島の本質は、学者でも批評家でもなんでもない。 単なるロマン主義者だよ。 まあ小説にはいいものもあるがね。その才能はあった。 しかし、ロマン主義者というのはそもそも、社会科学を論ずるには適していない人種なんだよ。 なんで社会学板に三島のスレが立ってるのか理解できない。
125 :
名無しさん@社会人 :2008/10/31(金) 12:48:44
三島由紀夫こそは、戦後最高の批評家である。 なんについてであれ、その本質を、たったのひとことでズバリと言ってのけることのできる天性の批評家は、一世紀のスパンで見ても、そうそう現れるものではない。 鹿島茂
126 :
名無しさん@社会人 :2008/10/31(金) 23:53:06
三島のズバリに心を打たれているいるようでは まだまだ未熟な人間だと思う
>>126 は三島が一流評論家だったことを知らない、なんちゃって日本人。
ばばあはどうして馬鹿を露呈せねば生きられぬのか
129 :
名無しさん@社会人 :2008/11/03(月) 02:14:58
たしかに三島は直観力はすぐれているな 彼は箴言集を刊行すべきだったと思う
130 :
名無しさん@社会人 :2008/11/03(月) 02:26:36
駅前で「手相占いの勉強してます」と声を掛けてるのが統一教会ですwwww
サリンはオウムの工場では作れません。工場では覚せい剤やLSDを作ってました
オウムは統一草加の下部組織ですよ
911では小型の水爆が使われましたよ(イラクでも核兵器が使用されてる)
2ちゃんねるは統一教会が運営して個人情報を集めてますよ
2ちゃんねるで「チョン」「ネトウヨ」言ってるのは統★教会ですよ
草加の池田台作はソン・テジャクという名の朝鮮人ですよ
日本の与党野党の要職は朝鮮人ですよ
統★教会,草加は覚せい剤などの元締めですよwwwwwwwww
ユダヤの子分→北朝鮮=小沢]朗=自民党清和会=与党野党の朝鮮人=統一教会=草加=ヤクザ=日本右翼は朝鮮人
ユダヤの子分→桜井良子=マスコミ=読売=毎日=サンケイ
ユダヤ人→ロックフェラー=ブッシュ=クリントン=ヒラリー=ヒトラー=オサマ・ビンラディン
★★ユダヤ北朝鮮カルト統一草加は日本で保★険★金★殺★人★★をしてますよ。動画見てください↓
無料の動画見てくだい!!!(規制回避のため★がついてます。取り外してね)
与党★も野★党もメディアも★全部朝★鮮★★人だった。
ht★tp://j★b★★bs.l★ivedo★★or.jp/b★★bs/re★ad.c★★gi/news/2★★092/1★1579★413★06/
■2チャンは★創価・統一の朝★★鮮人の日本支配の道具。背後にユダヤ。
http://j ★b★bs.li★★ved★oor.jp/bb★★s/r★ead.c★gi/news/2★092/119★★49471★★43/
フ★ルフ★ォ★ード
http://be ★nja★min★fulford.type★pad.com/ben★ja★min★fu★lford/
コ★シ★★ミ★ズht★tp://ri★cha★rd★ko★shimi★zu.at.w★e★bry.info/
独★立★★党ht★tp://do★k★u★ritsuto★u.ma★in.jp/
ht★tp://vi★de★o.google.com/v★ideosearch?★hl=ja★★&q=%E3★%★82%★B3%E3%82%B7%E3%83%9F%E3%82%★BA&lr=&★um=1&ie=UTF-8&sa=X&oi=v★ideo_result_gro★up&res★num=4★&ct=t★itle#
毎日新聞スレ荒らしは2ちゃん運営(統一協会)
http://namidame.2ch.net/test/read.cgi/nhkdrama/1225645600/
132 :
名無しさん@社会人 :2008/11/04(火) 12:44:28
柏木の言ったことはおそらく本当だ。世界を変えるのは行為ではなくて認識だと彼は言った。 そしてぎりぎりまで行為を模倣しようとする認識もあるのだ。私の認識もこの種のものだった。 そして行為を本当に無効にするのもこの種の認識なのだ。してみると私の永い周到な準備は、ひとえに、行為をしなくてもよいという最後の認識のためではなかったか。 見るがいい、今や行為は私にとっては一種の剰余物にすぎぬ。 それは人生からはみ出し、私の意志からはみ出し、別の冷たい機械のように、私の前に在って始動を待っている。 その行為と私とは、まるで縁もゆかりもないようだ。ここまでが私であって、それから先は私ではないのだ。……何故私は敢て私でなくなろうとするのか。 三島由紀夫 「金閣寺」より
133 :
名無しさん@社会人 :2008/11/04(火) 18:16:56
★ お釜作家
>>133 青島幸男の年代の古ぼけた揶揄、ワロス。
135 :
名無しさん@社会人 :2008/11/05(水) 00:02:42
>>132 柏木は三島の創造した最高のキャラクターの一人だな
136 :
名無しさん@社会人 :2008/11/06(木) 12:36:06
三島小説中、一番濃いキャラで偽悪さがいいね。
137 :
名無しさん@社会人 :2008/11/06(木) 13:19:08
佐藤優氏(起訴休職中外務省事務官) 演題「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」 講演要旨の一部から 「黒い大佐」と呼ばれるヴィクトル・アルクスニスという軍人がいた。 ソ連邦維持、反共、反欧米を主張する滅茶苦茶だが高潔な保守派の人物だ。 ペレストロイカは世界革命のためだとわかっていた。 領土問題については、日本の北方領土に対する要求は絶対に認めない「愛国」、「憂国」の士だ。 1991年8月19日から21日にかけて保守派によるクーデタが起こったが失敗する。 私は枝村大使の了解を得て、24日の朝アルクスニスに電話し国会で演説する前に昼飯の約束をした。 日本人は情報が入らないと離れる、力のある者にだけすり寄りよると思われることを危惧したからだ。 中華レストランに誘い、自分の母が14歳で沖縄戦に巻き込まれた苦難を、人民の敵として辛酸をなめたアルクスニスに語り、以下のやり取りをした。 アルクスニス 「これから国会でソ連邦維持の演説をする」 佐藤 「やれ、信念を通せ!」 アルクスニス 「日本はカミカゼの国だろう」 佐藤 「実は(熱心な社会党支持者の)母はこっそり靖国神社に通っている。姉が祀られているからだ」 アルクスニス 「スターリングラードでソ連兵はドイツ戦車に特攻した。このことはタブーとして歴史から隠ぺいされている」 佐藤 「カミカゼの精神とスターリングラードの精神は同じだ!」 アルクスニス 「北方領土は日本からスターリンが盗んだ土地だ。 おれはそれを知っている。 日本は還せと言い続けるべきだ」
138 :
名無しさん@社会人 :2008/11/06(木) 13:21:52
アルクスニスは三島由起夫の愛読者で、1989年ロシア語で出版された『憂国』が一番いいと言い次のように評価した。 ・2.26事件の世直しとソユーズ(連邦維持を唱える院内会派)とは似ている。 ・これは友情の小説だ。 ・主人公が決行部隊から外されたのは結婚したばかりというのはウソだ、決行の中心人物でなかったからだろう。 ・しかし主人公は夫人との愛、同志との友情の中にいる。 アルクスニスは私にボリス・プーゴのことを覚えているかと訊き、次のように語った。 「クーデタ派は破れソ連国家は崩壊した。 セルゲイ・アフロメーエフ参謀長はこめかみを打ち抜いた。 ラトビア人のプーゴ内務大臣はKGBが自宅に逮捕に来たが、役人を外で待たせ2発の銃声を発し、夫人と一緒に死んだ。 ラトビア人には血の掟がある。名誉を守るために自決を選んだのだ。 ラトビア人は奥さんを先にし、『憂国』では奥さんが後だ。日本人は奥さんへの信頼が篤いからだろう」 日本人もキリスト教的で死後のよみがえり、死後の復活を前提にしているといえる。 私はキリスト教(プロテスタントのカルバン派)だが、日本の神話にある世界観と聖書の世界観は同じだと思う。天照大神とキリストは同じだ。 仏教は壮大精緻な世界観を持つが、日本の神話では、聖書同様混沌の中から世界がうまれる。いざなぎ、いざなみの営みからだ。これは平田篤胤に継承されている。 近代国家は欧米思潮の流れにあるが、その源流はギリシアにあり、ギリシア世界はドイツ語にある。 日本の知的退廃はこのドイツ語を学ばなくなっているせいだ。 韓国人の3分の1はクリスチャンだ。中国の蒋介石はクリスチャンだった。日本にはクリスチャンはわずかしかいないが、新渡戸稲造や内村鑑三などの神学者が日本の「国体論」を一番わかっている。 各国のキリスト教は別々につくられ、存在している。 臣民の道、靖国を位置付けられなければ、日本のキリスト教とはいえない。 そういうきちんとした神学教育をしているのは、同志社大学の神学部だけだ。私はそこで右翼教育をされ、国体論に回帰した。 靖国に行くなというキリスト教徒はダメだ。霊性、リインカネーションを感じる力が衰えているのだ。
139 :
名無しさん@社会人 :2008/11/06(木) 13:32:33
旧ソ連国家保安委員会(KGB)の後身であるロシア連邦保安庁(FSB)ではカリキュラムの中で日本語の三島の作品を読ませている。 物欲のないこういった日本人にしてはならないと警戒しているのだ。 ロシアは新自由主義経済の流れの中でサブプライム問題に引っ掛からなかった日本の国力を恐れている。ただぼんやりしていただけだが。 「ファシスト・サムライ」というロシア語には日本人への尊敬と畏敬の気持ちがある。 本当の日本人は「ファシスト・サムライ」でヘナヘナしているのはウソである、と思っている。 大いなる誤解だが誤解のままにしておけばいい。 私はカルバン派で、天国に名の書かれた者だけがそこに行けると信じている。 だからヨブ記が好きになり、高天原への信頼がある。 小泉改革は、いざなぎ、いざなみが声のかけ方を間違えて、ヒルコを産み落としたようなものだ。 「ソドムとゴモラ」は生産せず消費しかしない者たちへの神の警告だ。ソドムの街を去る時に奥さんだけ後ろ(消費社会)を振り返るなとの神の言葉を守らず塩の塔になった。 これに通じる。
140 :
名無しさん@社会人 :2008/11/06(木) 13:34:48
私は大学の2回生のときに小説を読まないことにした。 哲学と神学書を読み、そのためにヘブライ語、ラテン語、ギリシア語を勉強する時間を確保するためだ。ただし役に立つ小説は読む。 モスクワでは30冊くらい『憂国』をロシア人に渡した。三島にはテクストだけではない生き方がある。 三島は個別の命を超えた大義に生きた。 言っていることとやったことがかい離していない三島はロシア人の心を打つ。 キリスト教は自殺を禁止しているというが、国家に忠義を尽くすことをヤン・パラフというチェコの青年は「プラハの春」の1968年ヴァーツラフ広場で焼身自殺して示した。 15世紀宗教改革に命をかけたヤン・フスの末裔の殉教者と見られて、今でも広場に献花が絶えない。
141 :
名無しさん@社会人 :2008/11/06(木) 13:38:05
私は「国家」をロシア人から学んだ。 アイヌ問題について私の考えは右派・保守と違う。 この問題を日本の国家統合から考えたい。 どう日本国を維持するかの観点からだ。 国連のものはダメだが先住民族決議は国際スタンダードとして認められている。 アイヌのインテリ層は自分たちを日本人以外の異民族だと思っている。 かれらにロシアの手が及ぶ危険がある。アイヌ人にロシア国籍が与えられたら日本は危ない。 沖縄とアイヌをどう包摂して同朋意識を回復するかを考えたい。 私は拉致問題の会合には万障繰り合わせて駆け付けている。同胞意識からだ。 「親米保守」ではなく「親日保守」でなければならない。 「親米保守」は東西イデオロギー対立の残滓で、東西冷戦の中で「国体」が崩されないため必要だった。 しかし米国が露骨に国益を主張してきても即時的な反米は危険だ。 中国と組むシナリオも時間をかけるべきだ。 単なる反米、反中ではダメだ。 能動性を回復し生きるしたたかさを持つことだ。 現在アメリカはセスナ機でドルを世界に撒いている。 10月初め1g3100円の金価格が同月末には2100円となった。ヘッジファンドが手持ちの金をキャッシュ化するために大量に売っている。新自由主義のなれの果てだ。
142 :
名無しさん@社会人 :2008/11/08(土) 00:36:10
日本はみかけの安定の下に、一日一日魂のとりかへしのつかぬ癌症状をあらはしてゐるのに、手をこまぬいてゐなければならなかった。 もっともわれわれの行動が必要なときに、状況はわれわれに味方しなかったのである。 (中略) 日本が堕落の淵に沈んでも、諸君こそは、武士の魂を学び、武士の錬成を受けた、最後の日本の若者である。 諸君が理想を放棄するとき、日本は滅びるのだ。 三島由紀夫 遺言状 「楯の会会員たりし諸君へ」から
143 :
名無しさん@社会人 :2008/11/08(土) 10:58:38
三島君ほどの作家は100年か200年に一人しか出てこない。 私は三島君の早成の才華が眩しくもあり、痛ましくもある。 三島君の新しさは容易には理解されない。三島君自身にも容易には理解しにくいのかもしれぬ。 三島君は自分の作品によってなんの傷も負わないかのように見る人もあろう。 しかし三島君の数々の深い傷から作品が出ていると見る人もあろう。 この冷たそうな毒は決して人に飲ませるものではないような強さもある。 この脆そうな造花は生花の髄を編み合わせたような生々しさもある。 川端康成
144 :
名無しさん@社会人 :2008/11/08(土) 20:19:53
>>143 川端は人物評に関しては3流だという評価が文壇では支配的なんだけど
145 :
名無しさん@社会人 :2008/11/08(土) 21:28:35
146 :
名無しさん@社会人 :2008/11/08(土) 21:41:13
● メロウ ● 橙色は止まらない 黄色を探して乗り込め お前はきっとナイフを使う僕に恐怖を覚える 蔑んでくれ 僕は何処迄も真摯なのだ“至って普通さ” いま群れ為す背中 お前が僕よりイッちゃっているのだ 狂っている ―そうだろう? 意識は希望に素直じゃあない 回避するなんて止めておけ お前の弁護をしているマシンをぶっ壊してあげるよ 引き攣ってくれ 僕は此処でお前に云うのだ“愛しているさ” いま赤く染めた お前が僕よりイッちゃっているのだ 狂っている ―そうだろう? 美しい予感・目に映る全て・儚き事象 要らぬ もう 要らぬ 嗚呼・・・
147 :
名無しさん@社会人 :2008/11/10(月) 12:03:42
左翼人の私も右翼人の三島の「行動」には、かなり衝撃を受けたことも事実なのであって、これを匿す気にはならないからである。 そして衝撃を受けなかった人はどんな人なのかと思ったりもするのだが、「行動」といい「芸術」といっても、所詮人間はおなじなのかも知れない。 しかも三島と私とはイデオロギーが全くちがっているのに、どこか類似性、相似性があるような気がして、それが私自身気になるのである。 三島由紀夫こそはあきらかに、永井荷風や谷崎潤一郎やあるいは川端康成の耽美主義の系譜とその路線に沿いながら、しかし明確な知性をもって、 またその美的知性の故に、その路線の最終駅に到着しながら、それをなんらかの形で社会的行動におきかえようとした努力家であり勇気ある誠実者ではなかったのだろうか。 山岸外史
所得制限は自治体判断、定額給付金で自公合意 1800万円下限に
自民、公明両党は12日午前、定額給付金の支給方式で合意した。高額所得者に自発的な辞退を求めるかは
市町村の裁量に委ね、その際の目安として所得で1800万円を下限とする方針を示した。政府は総務省の定額
給付金実施本部で今年度内の支給に向けた詳細の検討に入る。
両党の政調会長が河村建夫官房長官に内容を伝え、麻生太郎首相も了承した。この後、首相は「基本的に迅速、
公平、いろんな話を申し上げたが、大筋その線に沿っていて良かった」と首相官邸で記者団に語った。
支給額は1人当たり1万2000円で、65歳以上の高齢者と18歳以下の子どもに8000円を加算する。総額は約1兆9600億円。
与党は「今年度第二次補正予算の成立後できるだけ速やかに実施したい」(自民党の保利耕輔政調会長)考えだが、
支給は来年3月ごろになる可能性が高い。(13:38)
http://www.nikkei.co.jp/news/seiji/20081112NT000Y73312112008.html
149 :
名無しさん@社会人 :2008/11/14(金) 20:06:40
三島は優れた批評家ではあったが 本質は小説家であり芸術家なんだよね 「男というものは、うぬぼれと闘争本能以外に何もないのだ」などという発言は 非常に鋭いものだと思うが しかし彼の本質はあくまでロマン主義者の小説家 社会学板にスレが立つよう人物ではない
150 :
名無しさん@社会人 :2008/11/14(金) 21:17:41
三島由紀夫は様々な社会学者に影響を与えています。
いまでは完全にヤオイチックな世界です。
152 :
名無しさん@社会人 :2008/11/15(土) 10:38:08
>>144 そんなものない。たとえあったとしても、この場合は人物評じゃなく作品評だから。
153 :
名無しさん@社会人 :2008/11/15(土) 15:11:45
作者と作品は無限にズレ続ける。喩えていうなら、『天人五衰』は三島由紀夫という物語作者の死のあとに書かれた“小説”である。 そのテクストの中にはすでに三島由紀夫は不在なのだ。 透も本多も、「昭和45年11月25日」という作品末尾に書かれた日付すなわち作者の死から、さらに5年も生き長らえねばならない。これは何を意味するのか。 …透はほとんど「狂気」の世界を垣間見ることによってしか、この世と繋がってはいない。透の故郷は、水平線の彼方にある到達不能のものとしての「狂気」である。透は故郷喪失者なのだ。 …本多の養子となった透は、その到達不能の「狂気」に向けて、養父との闘争を開始する。しかし、転生の秘密を知らない透は認識者としての闘争には敗れるが、逆にその敗北が透を狂気へと近づける。 青海健 「三島由紀夫の帰還」より
154 :
名無しさん@社会人 :2008/11/15(土) 15:17:02
…認識の敗北者透は「狂気」の世界への参入を許されることで、アイロニカルにも、本多に勝ったのである。 本多が贋物であるなら、透は“真の”贋物である。かくて本多は月修寺へとおもむき、自らの存在の消滅を“知る”のである。 …『天人五衰』は、作者の死のあとの、透という他者についての物語である。いや、む%
155 :
名無しさん@社会人 :2008/11/15(土) 15:18:19
…認識の敗北者透は「狂気」の世界への参入を許されることで、アイロニカルにも、本多に勝ったのである。 本多が贋物であるなら、透は“真の”贋物である。かくて本多は月修寺へとおもむき、自らの存在の消滅を“知る”のである。 …『天人五衰』は、作者の死のあとの、透という他者についての物語である。いや、むしろ「物語」というワクを解体し崩壊させてしまう小説である。 透という異物=狂気がそれを崩壊させるのだ。本多が癌で死んでも、その悪しきドッペルゲンガーたる透はあらゆる場所に出現するだろう。 『天人五衰』の世界はけっして閉じられることなく、三島由紀夫の亡霊はいたるところに現れるにちがいない。 青海健 「三島由紀夫の帰還」より
156 :
名無しさん@社会人 :2008/11/15(土) 15:21:27
…「正しい狂気、というものがあるのだ」とは『葉隠入門』の言葉だが、狂気の領域への参入は、「人間」(という概念)を超え出ることである。 フーコーの言葉で言うなら、「人間から真の人間への道程は、狂気の人間を媒介とするのである」(『狂気の歴史』)。 『天人五衰』のエクリチュールは、理性と非理性とのせめぎあいの中で狂気という故郷へ回帰しようともがいている。そして三島は狂気そのものと化する地点で消滅したのだ。 青海健 「三島由紀夫の帰還」より
157 :
名無しさん@社会人 :2008/11/18(火) 00:49:17
まさに美的知性、これが器械的であったり、無味乾燥な教養とは異なる。 三島は天才でありながら、コンプレックスという美意識を持ちえた希少な文人であり、武人であった。 彼が大好き、時代を超えて。
最初は天才だったけど、段々とただのミリタリフェチみたいになっちゃったね。
159 :
名無しさん@社会人 :2008/11/18(火) 20:06:39
>>157 三島は、時代を切り裂く鋭い意見を発することができる直観と知性とを兼ね備えていた。
それは認める。
しかし、教養があまりにも文学的であるせいで、的外れな意見も多い。
彼は人間性への理解は深かったが、社会学的、政治学的な分野においては素人だった。
そして一番の問題は、彼の個人的趣味が極めて特殊なものだったことだ。
だから、三島はあくまで学者として認められる存在ではない。
優れた直観力をそなえたロマン主義の文学者――これが三島に与えられる
もっとも適切な肩書きだと俺は思う。
160 :
名無しさん@社会人 :2008/11/18(火) 21:59:21
>>159 バイセクシャルの人は極めて特殊じゃないよ。実際には同性と付き合わなくても潜在的な同性愛傾向の人は多いと思います。
三島由紀夫は、人が言わないこと、人間の奥に隠されているものを素直に書いただけだと思います。
だから、そのことと、社会学、政治学の資質を関連させるのには少し違うと思いました。
単なる雄弁家ならぬ雄筆家だったに過ぎないよ。直観力も平々凡々。
162 :
名無しさん@社会人 :2008/11/19(水) 11:04:17
>>161 三島の批評眼が一流なのは定説ですよ。三島の映画評論や劇評を読んでみな。
163 :
名無しさん@社会人 :2008/11/19(水) 11:09:52
家畜人ヤプーとか、ゴジラ、ヤクザ映画等々…三島が最初に評価し見つけたものは沢山あります。
164 :
名無しさん@社会人 :2008/11/19(水) 13:03:20
SMチックな快感に訴えるものばかりwwwwwwwwwwwww
165 :
名無しさん@社会人 :2008/11/19(水) 14:57:20
今こそ現役の自衛官の皆さんには檄文を読んでほしい
166 :
名無しさん@社会人 :2008/11/19(水) 16:53:15
この人が生きていたら宅間や加藤をどう評したか興味あるな
167 :
名無しさん@社会人 :2008/11/19(水) 19:10:32
三島由紀夫は著書のなかで、女や子供を狙ったテロや、大量殺人は批判してますよ。 一対一の政治的な暗殺は肯定してますが、でもそれは、暗殺者自身もその場で殺されるリスクを負うか、遂行後に自害する前提においてだけです。
168 :
名無しさん@社会人 :2008/11/23(日) 15:02:00
…防衛大学の学生なんかに聞きますと、われわれの軍隊はシビリアン・コントロールの軍隊であると。だから政権がかわれば、それに従うのは当然だと。 日本に共産政権ができれば、われわれは共産軍になるのは当然だという考え方をするのが、かなり多いらしいですね。 そういう考え方は間違いだということを世間はこわいから教える自信がないんです。 これは軍隊の重大な問題で、自衛隊というのは、もともとイデオロギッシュな軍隊であるということを、もっと周知徹底させないと……。 それを世間でたたき、国会でたたき、ぼくにいわせると、イデオロギー的な軍隊であるけれども、名誉の中心はやはり天皇であるというところで、すこし極端ですが、そこまでいかなければだめだと思うんです。 三島由紀夫 対談「天に代わりて」より
日本の右翼は天皇を利用した左翼
170 :
名無しさん@社会人 :2008/11/27(木) 12:17:32
ニイチェの「ツァラトゥストラ」の中には日本のことをかいているような気のするところもありますね。 そして超人の思想の根本なぞどうも私にはインド、又ひろく東洋全体の思想への接近より、ニイチェが自ら意識するせぬに不拘(かかわらず)、日本への大きな意味があるように思われてなりません。 平岡公威(三島由紀夫) 18歳の書簡から
171 :
必読! :2008/11/28(金) 09:19:28
★★週刊新潮 12月4日号 必読! 【緊急対談】「国籍法」改正は日本の危機 平沼赳夫vs櫻井よしこ 日本ルネッサンス「拡大版」
172 :
名無しさん@社会人 :2008/11/28(金) 11:54:54
ニイチェについて、お陰さまでいろいろ新しいことを知りました。 実はツァラトゥストラの登張竹風の跋文の外、私にはニイチェに関する智識がございませんでした。 ツァラトゥストラのあの超人の寂寥あれを私は平安朝の女流たちにも感ずるのです。「古今の季節」というエッセイのなかでその荒涼を語ったことがありますが、ニイチェがあれら女人の深い寂寥にふれていたらどう思ったことでしょう。 ニイチェの愛した東方ではなく、むしろニイチェ自身の苦しい影をみはしなかったかとさえ思います。 平岡公威(三島由紀夫) 18歳の書簡から
173 :
名無しさん@社会人 :2008/11/28(金) 11:56:00
「世々に残さん」をかく用意に「平家物語」を何遍も繰っていますが、 川路柳虹氏も名文だとほめていられるあの文章、又あのむしろ宇宙的な末尾の哀切さ、あれを一篇の小説としてみてみると、大原の大団円は、私にはラディゲのドルヂェル伯の大団円などよりこのごろではずっと身近に感じられます。 無常という思想は印度から来たものでもそれを文学の極致にまで詩の極致にまで高めたのは日本人の営為ですね。 平岡公威(三島由紀夫) 18歳の書簡から
174 :
名無しさん@社会人 :2008/11/28(金) 11:57:45
いやなことと申せば今度も空襲がまいりそうですね。こうして書いております夜も折からの警戒警報のメガホンの声がかまびすしい。 一体どうなりますことやら。しかしアメリカのような劣弱下等な文化の国、あんなものにまけてたまるかと思います。 ――ニイチェが反理想主義であること、流石に確かな御眼と感服いたします。 ニイチェの強さが私には永遠の憧れであっても遂に私には耐え得ない重荷の気がします。おそらくきょうは一人一人の日本人が皆ニイチェにならねばならぬ時かもしれません。 平岡公威(三島由紀夫) 18歳の書簡から
175 :
名無しさん@社会人 :2008/11/29(土) 10:59:30
176 :
名無しさん@社会人 :2008/11/29(土) 14:40:39
「五十になったら、定家を書こうと思います」三島由紀夫は、友人の坊城俊民氏にそう言った。 「…定家はみずから神になったのですよ。それを書こうと思います。定家はみずから神になったのです」 神になった定家。それは三島由紀夫にほかならない。 小室直樹 「三島由紀夫と天皇」より
177 :
名無しさん@社会人 :2008/11/29(土) 14:43:54
「定家はみずから神になったのです」 これは何を暗示しているのだろうか。 仮面劇の能だが、仮面をつけるのがシテ(主役)である。シテは、神もしくは亡霊である。 亡霊をシテにして、いわば恋を回想させる夢幻能は、能の理想だといわれる。 死から、生をみるのである。時間や空間を超えたものだ。 三島由紀夫が、定家を書こうと考えたとき、やはり能の「定家」が頭にあったに違いない。 小室直樹 「三島由紀夫と天皇」より
178 :
名無しさん@社会人 :2008/11/29(土) 14:48:42
現代では、生の世界と死の世界は、隔絶したものにとらえられている。だが、かつて(中世)は、死者は生の世界にも立ち入っていた。 定家は神になって、生の世界に立ち入ろうとした。そう考えた三島由紀夫ではないだろうか。 生の世界にあっては成就できない事柄を、死の世界に往くことによって可能たらしめようとしたのが、三島由紀夫だった。 …あえて死の世界へ往き、守ろうとした存在があったのだ。 小室直樹 「三島由紀夫と天皇」より
179 :
名無しさん@社会人 :2008/11/29(土) 15:44:58
日本は緑色の蛇の呪いにかかっている。 日本の胸には、緑色の蛇が食いついている。この呪いから逃れる道はない。 三島由紀夫 ※(緑色の蛇は、米ドルを意味している)
180 :
名無しさん@社会人 :2008/11/29(土) 16:27:52
∧∧ ピコッ ☆ ( ^o^)っ―[] / 【+|$】 (^o^) 緑の蛇ったらアルファロメオのロゴマークね♪
181 :
名無しさん@社会人 :2008/11/29(土) 18:10:15
三島さんも三島さんのご家族も、右翼から脅迫されて怯えていたってホント? それが三島さんをマッチョにさせて原因の一端であったとかないとか
182 :
名無しさん@社会人 :2008/11/29(土) 19:15:15
>>181 関係ないでしょう。
肉体美への憧れは「仮面の告白」のときからのものだし、右翼に脅迫される前に「憂国」も書き上げてるから、そのことがなくても肉体改造してるよ。
そのエピソードが書いてあるのも反三島のジョン・ネイスンのいいかげんな本だし。
183 :
名無しさん@社会人 :2008/11/30(日) 11:38:27
右翼に脅迫されて怖くなったからイデオロギーを逆転させた。
184 :
名無しさん@社会人 :2008/11/30(日) 11:57:07
>>183 三島の思想は少年時代から一貫してます。
知ったかぶった馬鹿の偏向捏造ご苦労様。
185 :
名無しさん@社会人 :2008/11/30(日) 13:48:11
>>183 は、戦後GHQの言論弾圧が怖くて反日に転じた団塊ブサヨクマスコミのさもしい発想です。
186 :
名無しさん@社会人 :2008/11/30(日) 16:22:11
三島が天皇天皇言い始めたのは脅迫されてからですね。はい。
187 :
名無しさん@社会人 :2008/11/30(日) 17:17:10
>>186 その前から「憂国」書いてるし、「金閣寺」にも戦後天皇の暗喩を込めてるのを知らない低脳、お大事に。
188 :
名無しさん@社会人 :2008/11/30(日) 22:27:26
あとから天皇の暗喩にこじつけたんでしょ。 そんなのいくらでもできるよ。 右翼に脅される→怖くなって自ら右翼にwイデオロギーがコロコロ変わるそこらの俗物政治家とかわらん。
189 :
名無しさん@社会人 :2008/12/01(月) 00:12:22
>>188 三島の作品や少年時代の書簡も読んでいれば、そういう発言はでないはずですよ。
三島の思想は少年時代から一貫してます。
半可通、ご苦労様。
190 :
名無しさん@社会人 :2008/12/01(月) 00:24:40
>>188 脅される前に「憂国」を書いて発表してますから。何回言っても日本語読めない馬鹿、お大事に。
191 :
名無しさん@社会人 :2008/12/01(月) 00:36:13
過激な右翼になったのは脅されてからですね。はい。
192 :
名無しさん@社会人 :2008/12/01(月) 00:45:55
>>191 ブサヨクには過激な右翼に見えるだけでしょう。
三島は真摯な日本の憂国者であって、過激な右翼じゃないし。
193 :
名無しさん@社会人 :2008/12/01(月) 00:46:49
「英霊の声」の作品評を改めてしようとは思わない。 …問題はこれがある巨大な怨念の書であるということである。ある至高の浄福から追放されたものたちの憤怒と怨念がそこにはすさまじいまでにみちあふれている。 幽顕の境界を哀切な姿でよろめくものたちのの叫喚が、おびやかすような低音として、生者としての私たちの耳に迫ってくる。 三島はここでは、それら悪鬼羅刹と化したものたちの魂が憑依するシャーマンの役割をしている。 昔から能楽のもつ妖気の展開様式に熟練している三島は、ここでも巧みにその形式を利用している。 橋川文三 「中間者の眼」より
194 :
名無しさん@社会人 :2008/12/01(月) 00:52:36
>>193 の前文
二・二六における天皇と青年将校というテーマは、ほとんどドストエフスキーの天才に俟たなければ描ききれないであろうというのが、私の以前からの独断であった。
それは何よりも神学の問題であり、正統と異端という古くから魅力と恐怖にみたされた人間信仰の世界にかかわる問題だからである。
端的にいえば、それは日本人の魂の世界における「大審問官」の問題にほかならないからと私は考えている。
橋川文三
「中間者の眼」より
195 :
名無しさん@社会人 :2008/12/01(月) 00:57:07
「英霊の声」の作品評を改めてしようとは思わない。 …問題はこれがある巨大な怨念の書であるということである。ある至高の浄福から追放されたものたちの憤怒と怨念がそこにはすさまじいまでにみちあふれている。 幽顕の境界を哀切な姿でよろめくものたちのの叫喚が、おびやかすような低音として、生者としての私たちの耳に迫ってくる。 三島はここでは、それら悪鬼羅刹と化したものたちの魂が憑依するシャーマンの役割をしている。 昔から能楽のもつ妖気の展開様式に熟練している三島は、ここでも巧みにその形式を利用している。 橋川文三 「中間者の眼」より
196 :
名無しさん@社会人 :2008/12/01(月) 00:58:23
私は、今でも深夜「二・二六事件」(河野司篇)をひもどくとき、そのとあるページを直視するにたえないが、この作品の鬼気にはそれに通じるものがある。 彼らの方が生きており、お前たちの方がそうではないのだぞと、そのとあるページのデスマスクは不気味な言葉で語りかけてくる。 そういう迫力において、この作品は、あれらの人々の心情をみごとに再現している。 三島はやはりここで、日本人にとっての天皇とは何か、その神威の下で行われた戦争と、その中での死者とは何であったか、 そして、なかんずく、神としての天皇の死の後、現に生存し、繁栄している日本人とは何かを究極にまで問いつめようとしている。 これが一個の憤怒の作品であるということは、それが現代日本文明の批判であるということにほかならない。 橋川文三 「中間者の眼」より
197 :
↑ :2008/12/01(月) 03:10:55
自分の意見を言えない馬鹿が狂ってコピペ連投。御苦労さまw
198 :
名無しさん@社会人 :2008/12/03(水) 11:01:00
アメリカ人が六代目の鏡獅子を本当に味解しようとする努力、 ――と云ふより大国民としての余裕を持つてゐたら戦争は起らなかつた。 文化への不遜な態度こそ、戦争の諸でありませう。 日本の高邁な文化を冒涜する国民は必ず神の怒りにふれるのです。 平岡公威(三島由紀夫) 20歳、三谷信への葉書から
199 :
名無しさん@社会人 :2008/12/03(水) 12:24:47
明治維新のときは、次々に志士たちが死にましたよね。 あのころの人間は単細胞だから、あるいは貧乏だから、あるいは武士だから、それで死んだんだという考えは、ぼくは嫌いなんです。 どんな時代だって、どんな階級に属していたって、人間は命が惜しいですよ。 それが人間の本来の姿でしょう。命の惜しくない人間がこの世にいるとは、ぼくは思いませんね。 だけど、男にはそこをふりきって、あえて命を捨てる覚悟も必要なんです。 三島由紀夫 「古林尚との対談―最後の言葉」より
200 :
名無しさん@社会人 :2008/12/03(水) 12:28:15
あの遺稿集(きけわだつみのこえ)は、もちろんほんとに書かれた手記を編集したものでしょう。 だが、あの時代の青年がいちばん苦しんだのは、あの手記の内容が示しているようなものじゃなくて、ドイツ教養主義と日本との融合だったんですよね。 戦争末期の青年は、東洋と西洋といいますか、日本と西洋の両者の思想的なギャップに身もだえして悩んだものですよ。 そこを突っきって行ったやつは、単細胞だから突っきったわけじゃない。やっぱり人間の決断だと思います。 それを、あの手記を読むと、決断したやつがバカで、迷っていたやつだけが立派だと書いてある。 そういう考えは、ぼくは許せない。 三島由紀夫 「古林尚との対談―最後の言葉」より
201 :
名無しさん@社会人 :2008/12/03(水) 14:16:31
…今の日本の大威張りの根拠は、みんな西洋発明品のおかげである。 これはそもそも、大東亜戦争の航空機についてさえ言えることで、あの戦争が日本刀だけで戦ったのなら威張れるけれども、みんな西洋の発明品で、西洋相手に戦ったのである。 ただ一つ、真の日本的武器は、航空機を日本刀のように使って斬死した特攻隊だけである。 三島由紀夫 「お茶漬ナショナリズム」より
202 :
名無しさん@社会人 :2008/12/03(水) 15:13:15
…核兵器が発明されましてからモラルと兵器というものが無限に離れてしまった。というのは使えないからです。 我々は人間が使えない武器を持った時に、人間の思想と道徳の問題が最大の危機に直面したというふうに私は考える。 というのは、使えない武器は恫喝にすぎませんから、恫喝によって、どんな嘘も可能になる。 例えば膨大な核基地が何処にかにあるということが、察知されますと、敵側からスパイを派遣してこれを察知するでしょう。 あらゆる方法で情報を集めてこの核基地の所在を発見しようとするでしょう。ところがこの核基地の所在が本当は無くてもいいんです。 無くても絶対ここにあると信じれば充分恫喝になるのですから、核兵器というものは、最終的にいえば、無くてもいいんです。あるぞといっているだけで嚇かされるんです。 三島由紀夫 「政府への建白書」より
203 :
名無しさん@社会人 :2008/12/04(木) 16:28:14
>>184 に捕捉すると
三島由紀夫は少年期にニ・ニ六事件に感動し、大東塾の客員になっていますから、戦前からの皇国思想です。
204 :
名無しさん@社会人 :2008/12/04(木) 16:29:02
日本人の最高のものに対する批評の形式というのは、死しかないというあれは、切腹のみにとどまらず、いろいろな形であらわれているものだと思いますね。 つまり、批評と絶対との関係というものは、僕はおよばずながら『英霊の声』などを書いたとき、ふっと、その問題をかいま見られたような感じがした。 つまり絶対を批評するということができるか、できないか、これはだれもわからないことですね。 だけどもその批評形式としては、死しかないということはあります。 三島由紀夫 対談「日本人論」より
205 :
名無しさん@社会人 :2008/12/04(木) 16:31:58
…陛下は人間であらせられた。清らかに、小さく光る人間であらせられた。 それはよい。誰が陛下をお咎めすることができよう。 だか、昭和の歴史においてただ二度だけ、陛下は神であらせられるべきだった。 何と云おうか、人間としての義務において、神であらせられるべきだった。 この二度だけは、陛下は人間であらせられるその深度のきわみにおいて、正に、神であらせられるべきだった。 それを二度とも陛下は逸したまうた。もっとも神であらせられるべき時に、人間にましましたのだ。 三島由紀夫 「英霊の声」より
北一輝は右翼か左翼か分からないね。 昔の右翼は左右横断的というか左右の対立を越えていたのかな?
207 :
名無しさん@社会人 :2008/12/05(金) 10:58:45
三島の
>>77 のように、昔は右も左も道義的だったんでしょう。
現代の左翼はほとんど単なる反日勢力だし、右翼も単なるヤクザ集団の偽右翼もあるしね。
208 :
名無しさん@社会人 :2008/12/05(金) 11:17:40
たしかにニ・ニ六事件の挫折によって、何か偉大な神が死んだのだった。 当時十一歳の少年であった私には、それはおぼろげに感じられただけだったが、 二十歳の多感な年齢に敗戦に際会したとき、私はその折の神の死のお怖ろしい残酷な実感が、十一歳の少年時代に直感したものと、密接につながっているらし?
209 :
名無しさん@社会人 :2008/12/05(金) 11:18:41
たしかにニ・ニ六事件の挫折によって、何か偉大な神が死んだのだった。 当時十一歳の少年であった私には、それはおぼろげに感じられただけだったが、 二十歳の多感な年齢に敗戦に際会したとき、私はその折の神の死のお怖ろしい残酷な実感が、十一歳の少年時代に直感したものと、密接につながっているらしいのを感じた。 三島由紀夫 「ニ・ニ六事件と私」より
210 :
名無しさん@社会人 :2008/12/06(土) 00:40:13
>>207 その戦前・戦後の対立図式も左右同様に怪しいけどね。
三島さんは男性同性愛がかつて硬派と呼ばれて男らしいとされていた 時代の精神性をまるごと復古したかっただけ。 三島ワールドはホモの人たちが好んで描く男色ファンタジーそのもの。
213 :
名無しさん@社会人 :2008/12/07(日) 10:25:12
>>212 三島の文学作品は全集30巻以上ありますから、もっと幅広く読んで下さい。
214 :
名無しさん@社会人 :2008/12/08(月) 01:55:19
古代ギリシア、ザンビア社会、そして日本の武家社会、、、、、 男性同性愛が社会制度のデフォルトとして組み込まれていた これらの社会に共通するのは戦士社会であったということ。 三島さんが理想の社会像として求めたものがそこにあった。
いかなる盲信にもせよ、原始的信仰にもせよ、戦艦大和は、拠って以て人が死に得るところの一個の古い徳目、一個の偉大な道徳的規範の象徴である。 その滅亡は、一つの信仰の死である。 この死を前に、戦死者たちは生の平等な条件と完全な規範の秩序の中に置かれ、かれらの青春ははからずも「絶対」に直面する。この美しさは否定しえない。 ある世代は別なものの中にこれを求めた。作者の世代は戦争の中にそれを求めただけの相違である。 三島由紀夫 「一読者として(吉田満著 戦艦大和ノ最期)」より
12/20 マル激トーク・オン・ディマンド公開収録「2008年総まとめ」のお知らせ
マル激トーク・オン・ディマンドの公開収録イベントを、
12月20日(土)、新宿ロフトプラスワンにて行います。
神保、宮台が08年のニュースを振り返ります。
皆様のご来場をお待ちしております。
マル激トーク・オン・ディマンド 公開収録
「2008総集編・メディア崩壊元年を振り返って」
12月20日(土)12:30開場 13:00開始
場所 :新宿ロフトプラスワン
出演 :神保哲生 宮台真司
入場料 :1000円(ワンドリンク付き)
【情報源】
http://www.videonews.com/news/001465.php
217 :
名無しさん@社会人 :2008/12/11(木) 15:06:43
吉田満は、三島由紀夫の「死」を、青春の頂点において「いかに死ぬか」という難問との対決を通してしか、 「いかに生きるか」の課題が許されなかった世代――そのような世代のひとつの死としてとらえ直してみせた。 あの自決がさまざまな意味を「異なる解明の糸口」を示していながら、実のところ戦争に散華した仲間と同じ場所を求めての、死の選択であり、そのような願いによる決断であったという。 これはたんなる世代論だろうか。三島由紀夫の生と文学を、あまりに単純な世代の「死」として単純化してしまうことになるのだろうか。私はそうは思わない。 富岡幸一郎 「仮面の神学」より
218 :
名無しさん@社会人 :2008/12/11(木) 15:08:43
保田輿重郎は三島の自刃に際して「三島氏の事件は、近来の大事件といふ以上に、日本の歴史の上で、何百年にわたる大事件となると思った」と記したが、 もし仮にそうだったとしても、それは三島由紀夫という個的な存在の、その生と死の劇的な問いかけゆえにではなく、その「死」が疑いもなく一つの世代の夥しい「顔」と重なり合い、その死のなかに埋没することを懇望したものであったからではないか。 あの自決事件は、決して特異なものでも異常なものでもなく、あえていえば平凡な静謐さのなかにある。 そう思うとき、『豊饒の海』第一巻の冒頭で描かれた「セピア色のインキで印刷」された日露戦没の写真――その風景を想起せずにはいられない。 富岡幸一郎 「仮面の神学」より
219 :
名無しさん@社会人 :2008/12/11(木) 15:11:56
…池田浩平や吉田満といった同世代の死者のなかにとらえるとき、戦後作家としての彼(三島)の仮面―― 『仮面の告白』についての作家自身の注釈でいえば「肉づきの仮面」――の背後に隠されていた素顔が浮かびあがる。戦後作家としての無数の華麗な「仮面」。 神学者の大木英夫は、三島由紀夫は、その文学は仮面をかぶることによって、「神学問題で灼けただれている現実にも耐える」と正確に指摘した。 《そして死を避ける。しかし、彼の文学は、かえってその仮面が割れて、素顔が出て、神学問題に直面するところがある。そして死が避けられなくなる。 さまざまな奇行と試行の紆余曲折を経て、ついに市ヶ谷への突貫となるのである》(「三島由紀夫における神の死の神学」) 富岡幸一郎 「仮面の神学」より
220 :
名無しさん@社会人 :2008/12/11(木) 15:13:55
『仮面の告白』が、『花ざかりの森』と彼の十代の青春の住処がであった「死の領域」への遺書であり、まさに「死を避ける」ための人工の文学的仮面であったとすれば、 最晩年に書かれたエッセイ『太陽と鉄』は、「その仮面が割れて」いくところを詳細に辿ってみせた自己告白の書であった。 これまで何度も論じてきたように、そこに三島における「神学問題」が、すなわちあの「神の死」の問題が露われているのはいうまでもない。 おそらく、日本における神学問題を最もラディカルに現実の光のなかに引きずり出したのが三島由紀夫である。 多くの宗教学者が決して見ようとしなかったものを、語りえなかった根底的な「神」の問題を、三島は自らの生と文学と、そしてあの苛烈な死によって語ってみせた。いや、「神学問題に直面」したとき、「死が避けられなく」なった。 富岡幸一郎 「仮面の神学」より
飢餓陣営33 CONTENTS
〈特集〉 精神科医・中井久夫の仕事
滝川一廣■(インタビュー)患者を守り抜く姿勢
熊木徹夫■中井久夫随想 ――論文「薬物使用の原則と体験としての服薬」をめぐって
伊藤研一■私が出会った中井久夫先生
内海新祐■翻訳と臨床の出会うところ
栗田篤志■統合失調症という生き方 ―中井久夫のまなざしから
佐藤幹夫■一教師から見た中井久夫の「言葉」
【特別寄稿】(140枚一挙掲載!)
西尾幹二■三島由紀夫の死と私(二)
【シリーズ・人間学アカデミー】
佐伯啓思■人間と貨幣 (一)
池田清彦■人間という生物の自由と不自由 (一)
菅野覚明■日本人にとって宗教心とは何か (一)
【本を読む】
山内修■眼球内では焦点を結ばない超一人称の歌
―佐藤通雅『賢治短歌へ』(洋々社)
水島英己■終わりなき漱石
―神山睦美『夏目漱石は思想家である』(思潮社)
添田馨■これは詩ではない、という予感と逆説が引き起こすかもしれない融合について
―北川透詩集『溶ける、目覚まし時計』(思潮社)
由紀草一■教えられたことと知りたいこと
―佐藤幹夫・山本譲司共編著『少年犯罪厳罰化 私はこう考える』(洋泉社・新書y)
宗近真一郎■詩的「第三度」以降の他者の行方
―河津聖恵『ルリアンスー他者と共にある詩』(思潮社)
栗田篤志■開拓者の足跡
―村瀬学『初期心的現象の世界』(洋泉社MC新書)
http://www5e.biglobe.ne.jp/~k-kiga/henshuukoki.htm
私の母は昔から体が弱くて、それが理由かは知らないが、 母の作る弁当はお世辞にも華やかとは言えない質素で見映えの悪い物ばかりだった。 友達に見られるのが恥ずかしくて、毎日食堂へ行き、お弁当はゴミ箱へ捨てていた。 ある朝母が嬉しそうに「今日は〇〇の大好きな海老入れといたよ」と私に言ってきた。 私は生返事でそのまま高校へ行き、こっそり中身を確認した。 すると確に海老が入っていたが殻剥きもめちゃくちゃだし 彩りも悪いし、とても食べられなかった。 家に帰ると母は私に「今日の弁当美味しかった?」としつこく尋ねてきた。 私はその時イライラしていたし、いつもの母の弁当に対する鬱憤も溜っていたので 「うるさいな!あんな汚い弁当捨てたよ!もう作らなくていいから」とついきつく言ってしまった。 母は悲しそうに「気付かなくてごめんね…」と言いそれから弁当を作らなくなった。 それから半年後、母は死んだ。私の知らない病気だった。母の遺品を整理していたら、日記が出てきた。 中を見ると弁当のことばかり書いていた。 「手の震えが止まらず上手く卵が焼けない」 日記はあの日で終わっていた。
223 :
名無しさん@社会人 :2008/12/16(火) 12:51:19
われわれは、言論の自由を守るために共産主義に反対する。 われわれは日本共産党の民族主義的仮面、すなわち、日本的方式による世界最初の、言論自由を保障する人間主義的社会主義という幻影を破砕するであろう。 この政治体制上の実験は、(もしそれが言葉どおりに行われるとしても)、成功すれば忽ち一党独裁の怖るべき本質をあらわすことは明らかだからである。 三島由紀夫 「反革命宣言」より
224 :
名無しさん@社会人 :2008/12/16(火) 13:20:58
われわれは戦後の革命思想が、すべて弱者の集団原理によって動いてきたことを洞察した。 いかに暴力的表現をとろうとも、それは集団と組織の原理を離れえぬ弱者の思想である。 不安、懐疑、嫌悪、嫉妬を撒きちらし、これを恫喝の材料に使い、これら弱者の最低の情念を共通項として、一定の政治目的へ振り向けた集団運動である。 空虚にして観念的な甘い理想の美名を掲げる一方、もっとも低い弱者の情念を基礎として結びつき、 以て過半数を獲得し、各小集団小社会を「民主的に」支配し、以て少数者を圧迫し、社会の各分野へ浸透して来たのがかれらの遣口である。 われわれは強者の立場をとり、少数者から出発する。日本精神の清明、闊達、正直、道義的な高さはわれわれのものである。 三島由紀夫 「反革命宣言」より
ご遺族はこういうコピペは著作権違反で訴えないのだろうか?
226 :
遺族 :2008/12/16(火) 17:35:41
いい宣伝になります
227 :
チャッカマン :2008/12/16(火) 23:08:45
三島は強者の理論しか受け入れられないんだよ。 弱者の生理というものを知らない。理解できない。 しかし、弱者のほうが強者よりも圧倒的多数なのが社会なのだよ。 三島は死んでよかった。 弱者の救済こそが現代日本の義務だ。 弱者というのは好きで弱者に生まれたわけではないのだから。
228 :
名無しさん@社会人 :2008/12/17(水) 13:15:26
>>227 本当の弱者でもないくせに弱者の原理を利用するブサヨクを、三島は批判してるんだよ。
セコい捏造ブサヨクはインチキだから。
共産党ほど幹部は別荘持ちで、末端の赤旗配達員は使い捨て。
>>228 今現在のところ世界のなかで日本ほど貧乏人や弱者に敏感で手厚い国はないよ。
231 :
名無しさん@社会人 :2008/12/17(水) 19:48:48
>>228 本当の強者でもないのに強者の論理を隠れ蓑にして弱者を利用するブウヨクもな。
233 :
名無しさん@社会人 :2008/12/18(木) 12:28:45
>>232 そんなのウヨサヨ関係ないよ。北朝鮮や中国のサヨク国家を見てみな。
234 :
名無しさん@社会人 :2008/12/18(木) 14:50:49
北朝鮮や中国がサヨク国家とは笑止。 外部に自称宣伝していれば民主国家ならば北朝鮮だって民主主義国家だわなwww
235 :
名無しさん@社会人 :2008/12/18(木) 14:55:34
故三島氏にとってみれば、戦後の日本に比べれば、まだ北朝鮮や中国のほうが理想国家により近いのではないか? 国のなかで軍隊や軍人がそれなりに尊敬され、高い地位と誇りを保っているだろうし、自決する覚悟で国を守っている。
236 :
名無しさん@社会人 :2008/12/18(木) 15:02:28
>>234 頭おかしいの?共産党が民主主義なわけないじゃん。粛正してるし。
237 :
名無しさん@社会人 :2008/12/18(木) 15:04:46
>>236 だけど、自称しているでしょ民主国家って。自称を真に受けるのがおかしいと言っているんだよ。
共産党だと自称していれば本当に共産主義党なのか? そこに疑問を持てという話。
238 :
名無しさん@社会人 :2008/12/18(木) 15:15:24
>>235 三島由紀夫は言論弾圧や粛正が一番嫌いだし、軍国主義者じゃないから違うと思いますよ。
軍人の規律は見習うところもあるでしょうが、共産党の国になったら、三島のような文学作品や芸術が弾圧されて天皇制が否定されるからね。
239 :
名無しさん@社会人 :2008/12/18(木) 15:19:34
>>237 はあ?現実に民主主義じゃないでしょう。そんなにいい国なら移住すれば?
240 :
名無しさん@社会人 :2008/12/18(木) 15:23:49
>>239 わざと恍けているの? 自称と現実は違うと言っているんだよ。
民主国を自称しているから民主国? 共産党を自称しているから共産党なのか?
241 :
名無しさん@社会人 :2008/12/18(木) 15:27:05
>>238 でも戦後日本と比べると、比べるとだよ、三島さんは相対的に軍国主義者により近いし、
その意味からしても北朝鮮や中国のほうが三島さんの理想により近いでしょう。
言論弾圧や粛正が嫌いなのは北朝鮮だってそう言うに決まっている。
「我らは米軍と核の脅しによる言論弾圧に決して屈しない」とねwww
242 :
名無しさん@社会人 :2008/12/18(木) 15:29:11
>>240 自称もなにも、強制収容所や言論弾圧で逃げてる国民が沢山いるから、どうみても民主主義じゃないじゃん。
243 :
名無しさん@社会人 :2008/12/18(木) 15:32:45
>>241 よく三島由紀夫の著書を読んでみたら?
勝手に勘違いしてるから。
244 :
名無しさん@社会人 :2008/12/18(木) 15:36:08
>>241 だいたい三島由紀夫の考えは、あなたのような対外に見習う発想じゃありませんからね。
245 :
名無しさん@社会人 :2008/12/18(木) 15:57:41
言っておくけど、 三島由紀夫が憎んだものは、日本文化を破壊するもので、戦時中、谷崎潤一郎の細雪や、源氏物語が発禁になったりしたことも三島は憤慨してます。 それと同じように戦後は今度アメリカ(左翼も荷担)によって、保田與重郎が右翼とみなされて発禁になったことも。 三島の防衛論はブサヨクが思ってるような低脳の発想の軍国じゃないです。
246 :
名無しさん@社会人 :2008/12/18(木) 16:03:32
>>242 だからー、現実に民主主義であるなんて書いてないでしょ。自称と現実は違うのだから、
自称共産党をそのまま共産主義と一緒にしてあんたはどういうつもり? ということを言っているの?
商品の偽装表示にだまされるようなもんで、そんなのは政治学的な判断じゃないということ。
247 :
名無しさん@社会人 :2008/12/18(木) 16:05:25
>>245 美しい軍国ですかwwww 中国や北朝鮮の自称共産主義党派さん(笑)たちも、
自分たちをソ連や米国のような汚い民主主義じゃない美しい民主主義だと自称することでしょうwww
248 :
名無しさん@社会人 :2008/12/18(木) 16:10:30
>>246 ?が余分だった。
間違い: ということを言っているの?
正しい: ということを言っているの。
249 :
名無しさん@社会人 :2008/12/18(木) 16:12:43
ブウヨクは鏡に映った自分に唾を吐きかけているだけのようにしか見えない
250 :
名無しさん@社会人 :2008/12/18(木) 16:12:59
>>246 >>247 詭弁はいいから三島由紀夫の著書を読めば?
どうせ三島の表層しかみようとしない馬鹿には理解できないだろうけど。
251 :
名無しさん@社会人 :2008/12/18(木) 16:17:06
>>249 とにかく日本と、中国北朝鮮を同一視する凝り固まった類型馬鹿は話にならないわ。お大事に(笑)
252 :
名無しさん@社会人 :2008/12/18(木) 16:18:41
253 :
名無しさん@社会人 :2008/12/18(木) 16:24:04
>>247 中国や北朝鮮を共産党と認めない日本共産党乙
254 :
名無しさん@社会人 :2008/12/18(木) 18:04:25
255 :
名無しさん@社会人 :2008/12/18(木) 18:36:29
>>254 あんたは日本人じゃないからよく意味が解らないんでしょう。お気の毒様。
256 :
名無しさん@社会人 :2008/12/18(木) 18:37:12
われわれは、言論の自由を守るために共産主義に反対する。 われわれは日本共産党の民族主義的仮面、すなわち、日本的方式による世界最初の、言論自由を保障する人間主義的社会主義という幻影を破砕するであろう。 この政治体制上の実験は、(もしそれが言葉どおりに行われるとしても)、成功すれば忽ち一党独裁の怖るべき本質をあらわすことは明らかだからである。 三島由紀夫 「反革命宣言」より
257 :
名無しさん@社会人 :2008/12/18(木) 19:14:31
>>253 あんたは中国共産党や北朝鮮労働党の謳い文句をそのまま真に受けて認めているの?
それこそバカ。もちろん日本共産党も=マルクス主義政党だとはいえない。
258 :
名無しさん@社会人 :2008/12/18(木) 21:56:27
>>257 ここは三島由紀夫のスレですから、あなたのうざい語りは他でやって。
259 :
名無しさん@社会人 :2008/12/18(木) 21:58:05
三島由紀夫に影響を受けたと指摘されているアーティストの一人にウィリアム・フォーサイス(バレエダンサー、振付家)がいますが、 1991年に初演された彼のバレエ『失われた委曲』(ザ・ロスト・オブ・スモール・ディテール)は、 三島の『奔馬』の次の一節をテーマに美をラディカルに呈示し、構築的であり幾何学的な構造を持っている三島的な神話世界を表しています。 「時の流れは、崇高なものを、なしくずしに、滑稽なものに変えてゆく。何が蝕まれるのだろう。 もしそれが外側から蝕まれてゆくのだとすれば、もともと崇高は外側をおおい、滑稽が内側の核をなしていたのだろうか。 あるいは、崇高がすべてであって、ただ外側に滑稽の塵が降り積ったにすぎぬのだろうか」 フォーサイスは記者の「なぜ三島のテキストを引用したのか」という質問に、 「三島を読んだとき、三島の方が僕のバレエを引用しているのかと思った」と答えたそうです。
260 :
西上原裕平 :2008/12/19(金) 23:26:46
アンチは出て行け 噛み殺すぞ
261 :
名無しさん@社会人 :2008/12/21(日) 11:02:41
>>257 ちなみに、三島由紀夫は共産主義には反対していたけど、全共闘に「君たちが天皇を万歳と言ってくれたら手を結ぶ」と言ってたから、左翼の考えを全部、否定していたわけじゃないんですよ。
262 :
名無しさん@社会人 :2008/12/21(日) 11:23:54
東京へ出ました序でに学習院へ立寄り、はじめて焼跡を見てただならぬ感慨がごさいました。 …光にまばゆく立ち働らいてゐる人々が懐しい後輩たちかと映り、近寄つてみると、それが見知らぬ兵隊たちであつた寂しさ。 …中等科の校舎の中には、見知らぬ人々が往来し、事務室もザワザワして、昔のやうに温かく私を迎へてはくれぬやうに思はれました。 「ふるさとは蠅まで人を刺しにけり」それほどでもありませんが、無暗に腹が立つて、何ものへともしれず憤りを抱きながら門を出ました。 ふしぎな私の冷酷。昔、共に学んだ友人たちには、具体的に逢つてどうといふ感激もないのに、ただ会はずにゐると漠たる悲しみと孤独の感じに苛まれるのを如何ともなす術がございません。 平岡公威(三島由紀夫)20歳 昭和20年7月3日、清水文雄への書簡から
263 :
名無しさん@社会人 :2008/12/21(日) 11:24:53
…新宿駅で私は汚ない作業服とキャハンを穿いた後輩を発見しました。 彼は私が彼の先輩であることもしらず、私を不思議さうに見てゐましたが、その目は学習院の学生によくある澄んだ、のんびりした目付で、口は少しポカンと開いてゐました。 …彼は、そこで我勝ちに下りた乗客たちとは似てもつかない、実にオットリした、少したよりない、少し眠さうな歩き方で、階段の方へゆつくり歩いて行きました。 何故かそれを見ると、私はふと涙がこぼれさうになりました。 ああした人種、ああした歩き方、あれがいつまでこの世に存続して行けるであらうか。 私たちもその一員であつた、閑雅なあまり頭のよくない、努力を知らない、明るい、呑気な、どこともしれず、生活からにじみ出た気品のそなはつた学習院の学生たち、 あの制服、あの挙止、そしてあの歩き方、そのすべてが象徴してゐたある美しいもの、それ自身頽落を予感されてゐたもの(私の十数年の学習院生活はその予感のなかにのみ過ごされました。)が、 今や鶯色の汚れた作業服を刑罰のやうに着せられ、靴は埃にまみれ、トボトボと不安気に歩いてゆくのを見て、私が目頭を熱くしたのも道理でございます。 平岡公威(三島由紀夫)20歳 昭和20年7月3日、清水文雄への書簡から
264 :
名無しさん@社会人 :2008/12/21(日) 11:25:48
かうした終末感を私は、徒らな感傷や、信念の不足からして感ずるのではございません。 ある漠たる直感、夢想そのもののなかに胚胎する覚醒の危険、凡て夢見るが故に覚めねばならない運命を感ずるのでございます。 現実に立脚した精神がわれわれの夢想の精神より更に弱体なものとみえる今日、われわれの夢想も亦凋落の決心を必要とします。 昼を咲きつづける昼顔の仄かな花弁は、昼の烈しい光のために日々に荒され傷つけられます。何ものも神の夢想に耐へるほど強靭であることは出来ません。 しかし人の夢想の極限に耐へえた人は、その烈しさ極まる目覚めの失墜にも耐へうるであらうと思ひます。 ただ朝をのみ時めいた朝顔とはちがって、あの長い烈しい昼間をよく耐へた昼顔の夢想は、その後に来る長い夜の烈しさにも耐へるでありませう。 私共は今日ほど私共の生の強さと死の強さを感じることはございません。 平岡公威(三島由紀夫)20歳 昭和20年7月3日、清水文雄への書簡から
265 :
名無しさん@社会人 :2008/12/21(日) 11:27:11
私共は遺書を書くといふやうな簡単な心境ではなく、私たちの文学の力が、現在の刻々に、(たとへそれが喪失の意味にせよ)、ある強烈な意味を与へつづけることを信じて仕事をしてまゐりたいと思ひます。 その意味が刻みつけられた私共の時間は、永遠に去ってかへりませんが、地上に建てた摩天の記念碑よりも、海底に深く沈めた一枚の碑の方が、何千万年後の人々の目には触れやすいものであることを信じます。 私共が一度持つた時間に与へた文学の意味が、それが過去に組入れられた瞬間から、絶対不可侵の不滅性をもつものであると思はれます。 項日、生じつかな名声は邪魔であるが、真の名声はますます必要であることを感じて来ました。文学作品を本文とするなら、名声はその註釈、脚註に相当します。 本文が死語に化した場合、この難解なロゼッタ・ストーンを解読しうるものは、たえず更新される註釈のみでございませう。 平岡公威(三島由紀夫)20歳 昭和20年7月3日、清水文雄への書簡から
266 :
名無しさん@社会人 :2008/12/21(日) 11:28:34
…あれより二週間病床に臥り、つい御返事がおくれしままにかくの如き事態となりました。 玉音の放送に感涙を催ほし、わが文学史の伝統護持の使命こそ我らに与へられたる使命なることを確信しました。 気高く、美しく、優美に生き且つ書くことこそ神意であります。 ただ黙して行ずるのみ。今後の重且つ大なる時代のため、御奮闘切に祈上げます。 平岡公威(三島由紀夫)20歳 昭和20年8月16日付、清水文雄への葉書から
文学者としては三流だよね
268 :
名無しさん@社会人 :2008/12/24(水) 11:05:56
それはさうと、昨今の政治情勢は、小生がもし二十五歳であつて、政治的関心があつたら、気が狂ふだらう、と思はれます。 偽善、欺瞞の甚だしきもの。そしてこの見かけの平和の裡に、癌症状は着々進行し、失ったら二度と取り返しのつかぬ「日本」は、無視され軽んぜられ、蹂躙され、一日一日影が薄くなつてゆきます。 戦後の「日本」が、小生には、可哀想な若い未亡人のやうに思はれてゐました。 良人といふ権威に去られ、よるべなく身をひそめて生きてゐる未亡人のやうに。 三島由紀夫 清水文雄への書簡から
269 :
名無しさん@社会人 :2008/12/24(水) 11:10:07
下品な比喩ですが、彼女はまだ若かつたから、日本の男が誰か一人立上れば、彼女をもう一度女にしてやることができたのでした。 しかし、口さきばかり巧い、彼女の財産を狙ふ男ばかり周囲にあらはれ、つひに誰一人、彼女を再び女にしてやる男が現はれることなく、彼女は年を取つてゆきます。 彼女が老いてゆく、衰へてゆく、皺だらけになつてゆく、私にはとてもそれが見てゐられません。 三島由紀夫 清水文雄への書簡から
270 :
名無しさん@社会人 :2008/12/24(水) 11:12:23
このごろ外人に会ふたびに、すぐ「日本はどうなつて行くのだ?日本はなくなつてしまふではないか」と心配さうに訊かれます。 日本人から同じことを訊かれたことはたえてありません。「これでいいぢゃないか、結構ぢゃないか、角を立てずに、まあまあ」さういふのが利口な大人のやることで、日本中が利口な大人になつてしまひました。 スウェーデンはロシアに敗れて百五十年、つひに国民精神を回復することなく、いやらしい、富んだ、文化的創造力の皆無な、偽善の国になりました。 この間もベトナム残虐行為査問会(ストックホルム)で、繃帯をした汚ないベトナム農民が証言台に立ち、犬をつれた、いい洋服の中年のスウェーデン人たちがこれを傾聴してゐるのに、違和感を感じる、と書いてゐる人がゐましたが、 日本が歩みつつある道は、正に、「犬を連れた、いい洋服の中年男で、外国の反戦運動に手を貸す『良心的』な男」の道です。 三島由紀夫 清水文雄への書簡から
271 :
名無しさん@社会人 :2009/01/03(土) 12:21:10
思想の力は、現在あるものを、それが実生活であれ、理論であれ、ともかく現在在るものを超克し、これに離別しようとするところにある。 エンペドクレスは、永年の思索の結果、肉体は滅びても精神は滅びないといふ結論に到達し、噴火口に身を投じた。 狂人の愚行と笑へるほどしつかりした生き物は残念ながら僕等人類の仲間にはゐないのである。 小林秀雄 「文学者の思想と実生活」より
272 :
名無しさん@社会人 :2009/01/03(土) 12:22:40
…例へば、右翼といふやうな党派性は、あの人(三島由紀夫)の精神には全く関係がないのに、事件がさういふ言葉を誘ふ。 事件が事故並みに物的に見られるから、これに冠せる言葉も物的に扱はれるわけでせう。事件を抽象的事件として感受し直知する事が易しくない事から来てゐる。 いろいろと事件の講釈をするが、実は皆知らず知らずのうちに事件を事故並みに物的に扱つてゐるといふ事があると思ふ。 事件が、わが国の歴史とか伝統とかいふ問題に深く関係してゐる事は言ふまでもないが、それにしたつて、この事件の象徴性とは、この文学者の自分だけが責任を背負ひ込んだ個性的な歴史経験の創り出したものだ。 さうでなければ、どうして確かに他人であり、孤独でもある私を動かす力が、それに備つてゐるだらうか。 小林秀雄 「感想」より
273 :
名無しさん@社会人 :2009/01/03(土) 19:05:48
三島由紀夫のようにチビで弱々しい軟弱男は、 右翼思想にすがり自分を強く見せたいもの。 それにしても、三島由紀夫の若いころの写真、 ほっそりしていて顔も女のように美しい。 実際、女以上に美しいと言われて、内心、喜び、自分自信を毛嫌いし、 気持ちが揺れていたようだな。 現在も活躍するオカマの大御所にオカマになるよう勧められたこともあるみたいだな。
ホモの男の人たちは体を鍛えている人が多いらしい。 鍛えていないとホモ同士にモテないらしい。
275 :
名無しさん@社会人 :2009/01/03(土) 22:14:33
>>273 > 実際、女以上に美しいと言われて、内心、喜び、
↑そんな記述どこにもないよ。三島は色は白くて痩せてたけど毛深いからね。
> 現在も活躍するオカマの大御所にオカマになるよう勧められたこともあるようだ。
↑誰よそれ?そんな話聞いたことも読んだこともないけど。ガセネタご苦労様。
276 :
名無しさん@社会人 :2009/01/03(土) 23:09:25
実生活を離れて思想はない。併し、実生活に要求しない様な思想は、動物の頭に宿つてゐるだけである。 小林秀雄 「文学者の思想と実生活」より
277 :
名無しさん@社会人 :2009/01/07(水) 17:06:30
…タクシーに乗っていたとき、ラジオで無着成恭が子供の質問に答えていたんです。 子供が「先生、スサノオノミコトとか、アマテラスオオミカミの話は本当にあったんですか」ときくと、 その無着が「チミ、それね、ぼくこれからハナスしるけどね。あのスンワ(神話)というのは、ほんとうのハナスと違うの。 …アマテラスオオミカミ(天照大神)ツウ人がいだの。それがらスサノオノミコト、ツウ人がいだの。これが悪い人でね、何したがどいうど、 まんず、田んぼ荒らして米とれなぐしたの。…それがら機織りをこわして……」(笑) これじゃ、ぼくは子供が可哀想になっちゃった。(笑)唯物史観の、つまり、やり方を教えて、まず基本的な生産関係の生産手段の破壊とか、そういうところから教えていって、それがいかにいけないことかと。 そして神話的なことを全部リアリスティックに教えている。 三島由紀夫 対談「天に代わりて」より
278 :
名無しさん@社会人 :2009/01/07(水) 17:09:46
子供の雑誌なんかをみていますと、手塚治虫などがやはり神話を書いている。 たとえば神武天皇など他民族を侵略した蛮族の酋長にしている。 日本に古代奴隷制なんてないんですが、奴隷たちが苦しめられて鞭で打たれて、そこで金の鳥が弓の上にとまったりして、それで人民を威嚇して……と、全部そういう話です。 …小学生や子供が読むのは、大学生が読むのとは違うでしょう。 これがなんでもないような女の子向きのマンガの中に、支配階級を倒せとか、資本主義はいかんとか、それがたくみにしみ込むように織りこんである。 大人が神経をつかっても、いつのまにか侵入してきているんですよ。 三島由紀夫 対談「天に代わりて」より
279 :
名無しさん@社会人 :2009/01/07(水) 22:29:47
手塚先生を馬鹿にするなんて三島も偉くなったものだ。
280 :
名無しさん@社会人 :2009/01/08(木) 00:45:07
日本には古代奴隷制の代わりに古代共産制がありましたw
282 :
名無しさん@社会人 :2009/01/09(金) 10:31:04
…いまは、ナショナリズムと安保を両手にかかえて、なんとかのんきに暮らしたいというのが大部分で、あいまいな状態が続いているんです。 だけれども、どっちかいまに捨てたくなりますね。きっとそうなるですよ。 そうなったときは、自民党は完全にメッキがはげますね。自民党のいっていたことは、必ずしも日本のためであるかどうか疑わしい。 もちろん社会党も、共産党のいっていることも疑わしい、公明党のいっていることも疑わしい、ということになりますね。 三島由紀夫 対談「剣か花か」より
283 :
名無しさん@社会人 :2009/01/09(金) 11:20:25
『歴史的事実なんだ』三島由紀夫 Q:あの戦争をどう呼ぶのが適切だと思ふか。 三島由紀夫:大東亜戦争でいいぢゃないか。歴史的事実なんだから。 太平洋戦争といふ人もあるが、私はゼッタイとらないね。日本の歴史にとつては大東亜戦争だよ。 戦争の名前くらゐ自分の国がつけたものを使つていいぢゃないか。 Q:あの戦争をどう意味づけてゐるか。 三島由紀夫:あの戦争の評価は、百年たたないとできないね。 いま侵略戦争だつたとかなんとかガチャガチャいつてもどうにもならん。
284 :
名無しさん@社会人 :2009/01/12(月) 12:00:38
「薔薇刑」の基本的テーマは「生と死」「エロスとタナトス」であり、それは三島由紀夫を被写体とするところの私の主観的ドキュメンタリー作品である。 そこで理解してもらいことは、三島氏は自分を「被写体」と呼び、最初から最後まで完全に「被写体」に徹してくれた。 だからハリウッドの映画監督がつくった映画「MISHIMA」の中で私らしい写真家が登場するが、 そこで画面上のMISHIMAがカメラをかまえる写真家に向かってカメラの位置を変えるように手で指示するシーンがでてくるが、あんなことは絶対になかったし、ありえないことだ。 細江英公 「誠実なる警告」より
285 :
名無しさん@社会人 :2009/01/12(月) 12:01:16
三島さんは文字通り「誠実の人」であった。その点だけは、身近に彼を知り、そして生き残った自分の責任として、きちんと後世に伝えておかなければならない。 その三島さんが、あえて選んだ死に様であるのなら、それは真摯に考え抜いた結果であったはずであり、そこには止むに止まれぬ理由が存在したに違いないのである。 であるから、私がまず強調しておきたいのは、事件直後から多くのメディアによって宣伝されてきたような「スキャンダル」として三島さんの死を扱うようなことは、実にもって愚劣なことであるということである。 細江英公 「誠実なる警告」より
286 :
名無しさん@社会人 :2009/01/12(月) 12:02:01
一人の人間、ましてあれだけの人物が自ら死を選んだ真の理由を、簡単に特定できるはずもない。 が、あえていうならば、三島さんが言っていた「文武両道」の「武」とは「文」を守るためのものと位置付けていたと考えたい。 守るべき「文」とは、自身の「文学」だけに止まるものではないだろう。もっと広く、そして深く「日本の文化」そのものとでも呼ぶべきものであったはずである。 思い起こせば、高度経済成長を達成したあの頃には、我々日本人は、豊かさと引き換えに自分たちの文化をないがしろにするということを、なんら恐れなくなっていた。 今の日本が抱える混迷も、根本的にはそこに問題があったのだということを、私も含め日本人の多くが気づき始めているのではないだろうか。 細江英公 「誠実なる警告」より
287 :
名無しさん@社会人 :2009/01/12(月) 12:03:10
三島さんには、今の日本の姿が見えていた。だからこそ、政治的な速攻性のないことがわかりきっている、あのような行動をあえてとることによって、我々に命懸けの「警告」を遺したのではなかったか。 そして恐らく三島さんが意図した通り、彼の行動は長く記憶され続け、その警告の意味は、時間がたつにつれてその重みを増してきているように思えてならない。 私は、既存の政治勢力が自らの主張のために三島さんの警告を都合よく利用するようなことがあってはならないと考える。 一方、彼の死後、文壇においては「あれは文学的な死であった」として、その多くが三島さんの個人的な理由によるものであるとする見方が支配的だったように思われるが、それにも違和感を感じてきた。 なぜなら、三島さんが憂いていたのは、もっと根源的な、日本人の精神的な危機そのものだったはずなのだから。 細江英公 「誠実なる警告」より
289 :
名無しさん@社会人 :2009/01/12(月) 13:09:48
今から考えてみると、「豊饒の海」が最後に突入していったのは、物事のすべてが「存在の耐えられない軽さ」を生き、 ノスタルジア(懐旧)とパスティッシュ(模倣)の原理のもとに操作されてゆく、ポストモダンの薄明のことだったような気がしています。 わたしが大学生活を送った1970年代は、10年間を通して、あなたの名前(三島由紀夫)が忌避され、排除されてきた時代でした。 大学院の研究室でも、同級生どうしの会合でも、あなたの死のみならず、その作品について言及することは場違いであり、 できればあなたのような文学者が戦後日本に存在していなかったかのように振舞うのが、暗黙の了解であるような日々が続いていました。 四方田犬彦 「時間に楔を打ち込んだ男」より
290 :
名無しさん@社会人 :2009/01/12(月) 13:10:40
日本のポストモダン社会は、三島由紀夫の不在によって、安心して自己実現を達成したのです。 70年代と80年代を代表するイデオローグであった山口昌男と蓮見重彦を考えてみたとき、それは明らかとなるでしょう。 山口はあなた(三島)が悲劇的なもの、崇高なものに魅惑されていたのとは対照的に、それらから意図的に距離を置き、喜劇的なもの、道化的なものに焦点を当てました。 …一方の蓮見は、あなたと同じ学習院に学び、皇族と人脈的な関係をもつことにきわめて野心的な人物でしたが、一貫してあなたを嫌っていることを公言していました。 …あなたの全集が再び編集され、刊行されていなかった日記や書簡が公にされたり、…あなたの行動の全体が次の世代によって再検討の対象となるようになったのは、 2000年代に入り、先の二人の知的扇動家の影響が消え去ったことと、軌を一にしているのは、けっして偶然ではありません。 四方田犬彦 「時間に楔を打ち込んだ男」より
291 :
名無しさん@社会人 :2009/01/13(火) 23:33:44
>>291 そもそも、そういう批判してるのにウヨクとか関係ないと思うけどね。
そういう政治思想に大いに関係あるよ。叩き方を見てみなさい。右翼的論理丸出しだww
295 :
名無しさん@社会人 :2009/01/14(水) 16:25:43
三島さんでも派遣労働者を叩いただろうな。軟弱な労働者どもよ、国を憂える前に、もっと己れの体を鍛えろと。
296 :
名無しさん@社会人 :2009/01/14(水) 17:04:48
いや、三島はアメリカ式の企業方針を叩いたと思いますよ。 それから、派遣で切られた人の弱みにつけこんで、派遣村で弱者を政治闘争の駒として使い、 それまでマスコミが派遣会社を宣伝していたことには言及せずに、政権争いの道具だけにしているサヨクのやり方も叩いたと思います。 日本式の終身雇用をなくしたのも結局は、そういう外国式追随の人達でしょ。
297 :
名無しさん@社会人 :2009/01/15(木) 03:05:37
>>296 > それから、派遣で切られた人の弱みにつけこんで、派遣村で弱者を政治闘争の駒として使い、
> それまでマスコミが派遣会社を宣伝していたことには言及せずに、政権争いの道具だけにしているサヨクのやり方も叩いたと思います。
意味不明。
労働者派遣法案に対しては80年代から、サヨクの人たちはすでに重大な問題であると受け止め、
将来的にこういう事態を招くことを危惧する警告を発し、大規模な抗議集会まで開いていたのだよ。
それを大きく取り上げて報じてこなかった当時のマスコミも批判されるべきだし、規制緩和や小泉内閣
をさんざんヨイショしてきたその後のマスコミ、そして自公民による保守党政権がいよいよ危うくなってから
あわてて派遣労働問題にしぶしぶ言及しはじめた保守系の論壇こそ調子がいいとしか言いようがないよ。
>>297 業種によっては派遣が全部悪いわけじゃないでしょう。そんなバブル80年代のと最近の製造業派遣と一色単にされてもね。
朝日やAERAのサヨクも派遣会社の宣伝してたし、それを今になって叩いているのはご都合主義なのは明らか。
>>297 ちなみに西尾幹二は保守系ですが、一貫して外国人派遣労働者の受け入れを反対してたようですよ。
朝日やAERAをサヨク一般と一緒にするなよ。サヨクからみれば保守体制べったり。 朝日は、保守革命を掲げる小泉を持ち上げてきたところだし、その論調はむしろ保守的だ。
301 :
名無しさん@社会人 :2009/01/15(木) 11:26:47
>>299 外国人限定かよww 右翼らしいwwww
302 :
名無しさん@社会人 :2009/01/15(木) 11:38:29
脊髄反射する共産党が凄いスレ
303 :
名無しさん@社会人 :2009/01/15(木) 11:41:33
ここは三島スレ。スレ違いは出ていけ。
304 :
名無しさん@社会人 :2009/01/15(木) 12:30:57
三島の亡霊を粉砕しなければ日本の労働者階級の未来はない。
>>304 そんなこと言ってる勘違いバカは日本人じゃないお前だけ。
306 :
名無しさん@社会人 :2009/01/15(木) 12:47:18
失敬。日本あらため世界の。
307 :
名無しさん@社会人 :2009/01/15(木) 13:01:54
三島由紀夫の好きなところは 天皇の下は全て平等を貫いたところかな。 年齢や職業によって差別することはなかったことだな。
309 :
名無しさん@社会人 :2009/01/15(木) 13:19:29
ブルジョア自由主義者ってのはブルジョワジーの自由ばかり特権的に主張して、 それへの規制を強制だ全体主義だと騒ぎ立てる。プロレタリアートの自由には疎い。
311 :
名無しさん@社会人 :2009/01/15(木) 13:36:55
淀川長治「三島さんは首から下は北海の荒海の漁師だけれど、首から上は明治美人ですね」 三島由紀夫「それは僕の顔が馬面だと言ってるんでしょう(笑)明治美人というのは面長のことをいうんだから」 私みたいな者にでも気軽に話しかけてくださる。自由に冗談を言いあえる。数少ない本物の人間ですね。 もっともっとよい本をいっぱい書いてほしいですね。 あの人の持っている赤ちゃん精神。これが多くの人たちに三島さんが愛される最大の理由でしょうね。 淀川長治
312 :
名無しさん@社会人 :2009/01/15(木) 13:41:06
あの人(三島)は、ほんとうに純粋で赤ちゃんみたいにきれいな魂の持ち主だったんですよ。 (三島は)「日本少年」とか「少年倶楽部」で育った時代なんですよね。 少年というのは凛々しくて、潔く清くて、正しくて、優しくて、思いやりがあって、親孝行だという「少年倶楽部」の世界そのまま律儀に全部、細胞の中までにしみこませて、そのまま死んじゃった人なのね。 普通、中年になったら、世俗的な手垢がついてきて、小ずるくなったり、いろいろするじゃないですか。 それに全然染まらなかった不思議な人でしたよ。 美輪明宏
313 :
名無しさん@社会人 :2009/01/20(火) 16:12:09
私は作家として三島由紀夫とは何んの接点もなかった。そう言っていいにちがいない。 彼がすぐれた文学者であったことは私にも判っている。なみなみならぬ、ケンランたる才能の持ち主であったことも心得ている。 たとえば、「自決」前年の「蘭陵王」――ああいう作品はなかなか書けるものではない。 しかし、人間には好みというものがある。文学の好みにおいて、私は彼と接点がなかった、そう言えばいいだろう。 (中略) とにかく好みというものがある。私には読んでいるとお尻の下がむずがゆくなって読み通せない作家がある。 いい作家かも知れないが、それを重々判っていても、駄目だ。三島由紀夫にはそんなことはなかった。けっこう読めた。 小田実 「三島由紀夫との接点」から
314 :
名無しさん@社会人 :2009/01/20(火) 16:13:34
思想家としての接点はどうか。 …考えてみると、彼はあのころ大学の時計塔にたてこもった「過激派」の学生にいたく共感し、学生は学生で、彼が「自決」したとき、われわれは負けたと言ったものだ。 …そこでも私が彼と接点がなかったことは、彼の「自決」後、ある雑誌のインタビューで、私は彼の死についてしゃべった―― そのインタビュー記事の題名は、「私は畳の上で死にたい」。それがすべてを言いあらわしている。 小田実 「三島由紀夫との接点」から
315 :
名無しさん@社会人 :2009/01/20(火) 16:16:34
しかし、接点がひとつあった。確実にあったと思う。 私はそのころベトナム反戦運動に精を出していた。 …私はこの「ただの市民」の運動を自分で考えてやり出し、自分でそれなりに力も時間も金も出してやった。そして、小説もとにかく書いていた。 三島も「楯の会」で同じことをしていた。彼は「楯の会」を自分で考えてやり出し、力と時間と金も出し、小説も書きながらやっていた。 それが二人の接点だった。そのころも私はそう思っていたし、今も思っている。 ついでにもうひとつ言っておけば、そうした意味での接点を私が感じとったのは、あとにも先にも、彼ひとりだ。 小田実 「三島由紀夫との接点」から
316 :
ネットウヨこそ偽右翼。ただの自民党工作員 :2009/01/27(火) 03:29:42
街宣右翼>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>ネットウヨク
317 :
名無しさん@社会人 :2009/01/27(火) 11:40:34
318 :
名無しさん@社会人 :2009/01/27(火) 23:43:25
ねーねー、なんで三島は兵庫県なんかで検査をうけたのかな〜? そりゃーきまってるさ!田舎の逞しい青年の間では三島はことさらひ弱にみえる。 それゆえに検査で落ちることをのぞんだのさ! これのどこが憂国だよアッハッハhッハhッハhッハhッ八は」
320 :
名無しさん@社会人 :2009/01/28(水) 11:08:32
>>318 後からこねくりまわした勘ぐりレベルでしか中傷できないバカサヨクお疲れ様。
本籍が兵庫だからどっちで受けようが自由だし、親心で少しでも望みをかけるのは普通だよ。実際には体力測定で落ちてないから、田舎でも東京でも関係ないしね。
誤診が判明した後、次に徴兵されることも決まってました。
321 :
名無しさん@社会人 :2009/01/28(水) 11:09:04
わたくしは、自分の書いたものや、いつたものが、いますぐ役に立つたら、かへつてはづかしいといふふうに考へてをります。 ですから、たとへばけふ申し上げたことが、あるひはみなさんのお心のどつかにとまつて、それが十年後、二十年後に役に立つていただければ、それはありがたいけれども、 あつ、三島のいつたことはおもしろい、ぢや、けふ会社で利用して、つかつてみようかといふやうなことは、わたくしは申し上げたくもないし、申し上げる立場にもゐないと思ふんです。 わたくしは、その、ぢや日本の精神ていふのはなんだ。日本が日本であるものはなんだ。これをはづれたら、もう日本でなくなつちやふもんはなんだと。それだけを考へていきたいです。 三島由紀夫 「現代日本の思想と行動」より
322 :
名無しさん@社会人 :2009/01/28(水) 11:09:27
いま非常な情報化社会がありますから、精神といふものはテレビに写らない。 そしてテレビに写るのはノボリや、プラカードや、人の顔です。それからステートメントです。 そして人間はみんなステートメントやることによつて、なにかしたやうな気持になつてゐるんです。 わたくしは、そこまでいけば、どんなことをやつたところで、目に見えない精神にかなはないんぢやないかといふふうに思つてゐるんです。 昔のやうに爆弾三勇士、あるひは特攻隊、ああいふやうなものがあつたときに、はじめてこれはすごい、これはテレビにも写らなかつた、なにも出なかつたが、これはすごいといふ一点があると思ふんですが、 いまテレビに写つてるものは、どんなものが出てこようが、結局、情報化社会のなかでとかし込まれて、また忘れられ、笑はれ、そして人間の精神体系になにものも加へないままで消えていくんぢやないか。 三島由紀夫 「現代日本の思想と行動」より
323 :
名無しさん@社会人 :2009/01/28(水) 11:10:04
わたくしは、政治自体も非常にさういふ点で危険な場所にゐると思ひますのは、政治もあらゆる場合にステートメントだけになつていく。 そのステートメントが情報化社会のなかで、非常なスピードで溶解されて、ちやうどあたかも塵埃処理のやうに、早くこれをすべて始末しなければ東京中が塵埃でうづまつてしまふ。紙くずでうづまつてしまふ。 それで情報化社会といふものは過剰な情報をどんどん処理してゐるんです。 この東京といふもの、日本といふものは、近代化すればするほど巨大な塵埃焼却炉みたいになつてくる。 そのなかで人間はなにをすべきかといふことについて、わたくしはなんとか考へていきたいと思ふんです… 三島由紀夫 「現代日本の思想と行動」より
324 :
名無しさん@社会人 :2009/01/31(土) 14:55:05
三島由紀夫『英霊の声』が聞こえた シンポジウム「昭和維新再考」、寒風の中、会場は超満員の熱気 ************ 拓殖大学日本文化研究所主催の「昭和維新再考」というシンポジウムが都内のホテルで開催され、開会前に会場は満員となった。 ●発言者 佐藤優氏(起訴休職中外務事務官)。 アングロサクソンの金融・経済システムとその普遍性の限界と、その覇権主義。神学を学んだ佐藤氏は、おおきく話題を飛躍させ、憲法は発見するものであり、タカマガハラ、神皇正統記の重要性を演繹された。憲法は不文律でよい、とも発言された。 また「(アメリカ人の定義に)オバマ演説ではクリスチャン、ムスリム、ユダヤ教徒にくわえてヒンズー教徒も入れた。これでオバマはアフガン戦争に本気なことを示した」とした。 桶谷秀昭(文藝評論家)氏は、昭和精神史とナショナリズム、その文化的高揚感について述べた。 憲法問題にも触れ、いまの押しつけ憲法は改正ではなく廃棄すべきものだと強調された。
325 :
名無しさん@社会人 :2009/01/31(土) 15:01:45
宮崎正弘氏は昭和維新再考のテーマに沿って、まず三島由紀夫の『英霊の声』の一節を朗読、「などてすめろぎは人となりたまいし」を紹介した後、 「義に立ち上がり、義のために死ぬ。こういう政治事件は諸外国では見られない。二二六は農村の貧困に義憤を感じて立ちあがった。 あれに近い貧困にあえぐ農民をみながら、中国の軍人はなぜ立ち上がらない?中国ではわずかに戊戌変法、太平天国などがあるが、前者は体制内革新の失敗、後者はカルトの社会争乱。大塩平八郎の乱とは異なる。 そもそも中国に『義』はなく、『偽』のギがある。イタリアには古代ローマに切腹儀式があり、『維新』がわかるかもしれないが、諸外国はRESTORATIONと翻訳しているように、ニュアンスが異なる」とした。
326 :
名無しさん@社会人 :2009/01/31(土) 15:04:13
ロマノ・ヴィルピッタ(京都産業大学教授)はヨーロッパ事情を簡潔に説明し、イタリアのファシズムと昭和維新の類似、非対称を比較した。 とくに偉大な革命の精神が軽視されているばかりか、基本的にファシズムへの誤解曲解が多すぎる。 世界は1919年、第一次世界大戦の戦後処理に失敗し、ヨーロッパではナチズム、ファシズムが興り、日本は戦争特需バブルが崩壊し、猶存社、玄洋社運動が起きたという歴史を説明された。 ▲西郷隆盛はなぜ立ち上がったのか 休憩を挟んで討論に移り、 岩田温氏は「西郷隆盛は維新の理想が達成されずに再決起したが、明治維新は欧米列強の植民地化から祖国を救った。 近代の彫刻はイデオロギーとしては成立しない。思想史的には日本が日本であるための日本の論理が必要である」。 井尻千男氏も討論に加わり、 「昭和維新の流れは特攻から三島まで残存していた。東京裁判はまさに{日本的}なるものが裁かれた。 誰も憲法学者が指摘しないが、憲法18条の『奴隷的束縛からの自由』なる文節は奇怪である。GHQは日本的共同体、社しょく国家なるものが個人主義を圧迫するもので奴隷的拘束だと捉えた。浅薄な歴史観である。
327 :
名無しさん@社会人 :2009/01/31(土) 15:14:04
米国的な自由主義を保守だと詐称している人々もいるが、アングロの普遍主義しか語れない文明もあるにせよ、米国は固有の歴史から民族国家を作り上げた訳ではない。 恐慌はボーダレス、経済の再建は、しかしナショナルな作業であり、その意思と条件の整った国は立ちなおれる。米国はその条件を満たせない。 なぜなら米国は(新自由主義とかの)普遍主義しか語れず、また同時にロシアも中国もナショナル・エコノミーを形成しにくい」と明快に分析。
328 :
名無しさん@社会人 :2009/01/31(土) 15:18:06
佐藤優氏は『ロシアは国民国家になりうるか』の設問に、 「中国が国民国家を目指すというのなら敵が必要であり、日本が目標とされる。 ロシアは『帝国』の債権を目指しはじめた。だからベラルーシとウクライナの東半分の奪回が必要で、このためには欧米と対立せざるを得なくなった。 この方向性は大東亜共栄圏のアイディアから学んだ。EUも相だろう。米国は現在がなかったことにした。ヒロシマ長崎のホロコーストをそれで逃れた。 ロマノ・ヴィルピッタ教授には快著『ムッソリーニ』があるが、 「2002年イラク戦争勃発でドル高にぶれるべきところが、ユーロ高に移行した。世界大不況の危機の発信は米国なのに、今度はユーロが急激に下落した。 根本問題はユーロで通貨が統一されたとはいえ、EUのユーロ加盟国は経済政策がぱらばら、調整のプロセスにあるとはいえ時間がかかりすぎ。 ナショナル・エコノミーによる再建とはいっても、各国という単位ではなく共同体のなかの弱肉強食状況だ」と欧州の現状を分析した。
329 :
名無しさん@社会人 :2009/01/31(土) 15:23:08
▲農本主義の思想を見直そう 桶谷秀昭氏には『草花の匂う国家』という作品もある。 「農本主義の基本は食糧自給、その根幹になるのは米である。これは日本の歴史に根ざした文明観、人生観でもあり、 吉田松陰はその『留魂録』に「安心を得た」と表現した箇所は、米をたべた、という意味であって、稲の生育過程を人生に喩えた。 戦後、日本人が『数え年』をやめ、満年齢で表現するのは、滑稽であり、全員が新しい米で新年を迎えたという伝来の日本人の人生観が反映されない。 農本主義は文明的な視野に立って解釈されるべきであり保田輿重郎は、米つくって貿易をしない鎖国をやればいいと比喩した。 日本人が自立できる根拠は精神的な要素。過去に理想をもとめ、うまく思い出すのが重要である。五一五、二二六は革命としては失敗だが、動機はくみ取るべきものがある」 と分析された。
330 :
名無しさん@社会人 :2009/02/14(土) 10:31:47
三島さんは、少年の様に一途に週二回の自宅でのトレーニングにひたむきな努力を傾け、遅れてきた青春とでも云うのでしょうか、日一日と発達してゆく自分の肉体の充実感を素直に喜び、嬉々としていました。 ある時、古代ギリシャの神殿や彫刻の写真を私に見せながら「この端正で均整のとれた建築や芸術、彼等はまず眼に見える形を信じたんだ。 しかし形に留まらないで、そこから雄々しく羽ばたいて現代文明の源である古代ギリシャ世界を創造したのだ」と熱っぽく語られましたが、この時の三島さんの言葉は、私の胸底に深く蔵されております。 玉利齋 「三島由紀夫さんの想い出」より
331 :
名無しさん@社会人 :2009/02/14(土) 10:34:04
人間が、現世に生きるのには肉体が不可欠です。しかし、その肉体は有限で衰えやすく不安定な存在です。 であるから一度だけの人生を創造的に生きる為には肉体は健康で活力に満ちている方がよいのは自明の理です。 三島さんは精神的には類い稀な芸術家の感性を天分として有していたと思いますが、如何せん天二物を与えず、肉体的には頭痛や胃弱や不眠に三十歳近くまで苛まれていたことはまぎれもない事実です。 三島さんのボディビル実践の動機は何と云っても第一に病弱の克服にあります。 肉体と精神は相互に影響し合いながら人格を形成してゆくものですが、三島さんは肉体を確固たるものにすることによって、より自由に精神を飛翔させたかったのではないかと思います。 玉利齋 「三島由紀夫さんの想い出」より
332 :
名無しさん@社会人 :2009/02/14(土) 10:35:27
精神と肉体、思想と行動、理想と現実、美と力は、ともすれば二律背反性を帯びがちですが、両方ともに求めなければならないのが人間の永遠の課題です。 三島さんは、現実の葛藤や矛盾を冷厳に直視して多くの芸術作品を残しましたが、その終着点は、見る人から行動する人として、現実の中に身を投し、自らが求める美に魅入られる様に無限の深淵へと歩んでゆかれたのだと私は信じています。 玉利齋 「三島由紀夫さんの想い出」より
333 :
名無しさん@社会人 :2009/02/18(水) 23:55:12
私は決して平和主義を偽善だとは言はないが、日本の平和憲法が左右双方からの政治的口実に使はれた結果、日本ほど、平和主義が偽善の代名詞になつた国はないと信じてゐる。 この国でもつとも危険のない、人に尊敬される生き方は、やや左翼で、平和主義者で、暴力否定論者であることであつた。それ自体としては、別に非難すべきことではない。 しかしかうして知識人のConformity が極まるにつれ、私は知識人とは、あらゆるConformity に疑問を抱いて、むしろ危険な生き方をするべき者ではないかと考へた。 一方、知識人たち、サロン・ソシアリストたちの社会的影響力は、ばかばかしい形にひろがつた。 母親たちは子供に兵器の玩具を与へるなと叫び、小学校では、列を作つて番号をかけるのは軍国主義的だといふので、子供たちはぶらぶらと国会議員のやうに集合するのだつた。 三島由紀夫 英誌「Queen」より
334 :
名無しさん@社会人 :2009/02/18(水) 23:55:36
それならお前は知識人として、言論による運動をすればよいではないか、と或る人は言ふのであらう。 しかし私は文士として、日本ではあらゆる言葉が軽くなり、プラスチックの大理石のやうに半透明の贋物になり、一つの概念を隠すために用いられ、どこへでも逃げ隠れのできるアリバイとして使はれるやうになつたのを、いやといふほど見てきた。 あらゆる言葉には偽善がしみ入つてゐた、ピックルスに酢がしみ込むやうに。 三島由紀夫 英誌「Queen」より
335 :
名無しさん@社会人 :2009/02/18(水) 23:56:09
文士として私の信ずる言葉は、文学作品の中の、完全無欠な仮構の中の言葉だけであり、前に述べたやうに、私は文学といふものが、戦ひや責任と一切無縁な世界だと信ずる者だ。 これは日本文学のうち、優雅の伝統を特に私が愛するからであらう。 行動のための言葉がすべて汚れてしまつたとすれば、もう一つの日本の伝統、尚武とサムライの伝統を復活するには、言葉なしで、無言で、あらゆる誤解を甘受して行動しなければならぬ。 三島由紀夫 英誌「Queen」より
336 :
名無しさん@社会人 :2009/02/19(木) 14:07:40
●北方領土で長期目標を提議した森田烈士 森田必勝氏の論文は今から丁度40年前に書かれたものです。 同論から、北方領土問題に向けられた森田氏を含めた当時の保守派民族主義学生運動のうねりを感得することができます。 森田氏は民族主義運動の学生仲間と札幌、根室などを訪問して、現地の人々と交わり復帰運動の現状を探ります。 そこから自分たちの推し進めている学生運動が北方領土問題とどう取り組めるか、どんな役割が果たせるかを自分たちの「使命感」を持って真剣に模索します。 民族主義運動として、その存在をかけて何がやれるかを熱心に追究します。 論文のタイトルにあるように、森田氏は「北方領土復帰運動」を「民族運動の起爆剤」にしようと志向しています。 森田氏は北方領土に関して、政府も漁民も立場上言えないような主張を代弁することが学生としてできないかを現地で実直に思案します。 エリート学生(当時の大学進学率は低かった)として、高踏的に復帰運動を俯瞰しようとはしません。地に脚のついた立ち位置をとろうとします。
337 :
名無しさん@社会人 :2009/02/19(木) 14:10:10
現地では、まず復帰運動に関わる漁民ら住民との微妙なギャップを知らされます。 森田氏らは「全千島、南樺太奪還」のスローガンを掲げているのに対して、彼らは「国後、択捉、歯舞、色丹返還」の違いがありました。 政府と地元で行われている官製運動の形態と、それらの限界にも目を向けます。 「領土に対してもっと厳粛な気持ちになって、たとえ一片の土くれ一塊の岩石であっても、我が国の領土ならばこれを守り抜いてゆく、即ち領土に対する厳粛な継続者であるということを民族の遺言に植えつける必要があると思う。 こういうことから私は、北方問題は南方問題でも同じように言えますが、これは “民族の遺言運動だ”と言いたい」 という北海道庁領土対策本部長の言葉に森田氏は感じます。 「(北方領土問題の解決は)極めて悠長だが重要で」、「世代から世代へ、親から子へと受け継がせていかない限りこの民族の怒りの火は消えてしまう」 と森田氏は思うからです。
338 :
名無しさん@社会人 :2009/02/19(木) 14:17:32
●迸る領土返還への情熱と愛国心 森田氏は「北方の島々がまだ当分還ってこないとすれば、長期的、持久戦的視野も重要だ」と指摘します。 それから40年経て北方の島々は還ってきていません。進展も見ていません。 進展はありませんが、北方領土問題でソ連やロシアとの交渉に長年あたってきた諸氏はいます。過去十数年間の交渉の実態を知る資料のひとつとして、2006年上梓された『北方領土「特命交渉」』があります。 森田氏は自問します。 私たちは何のために「北方領土復帰運動」をおこなうのだろうか、と。 「たとえ、ソ連が何十年居座ろうとも、われわれは日本民族の闘いとして、この運動を続ける」と根室市での懇談会で、ある老人の発した言葉に森田氏は揺すぶられます。 いっさいの理屈を超えたところに「北方領土復帰運動」があるという老人の発言は明快そのものです。森田氏が老人の心意を直観したのは言うまでもありません。 親子の間の愛について理屈を説いて説明する必要がないように、「日本民族」はそれを育んでくれた「日本領土」への愛しみがあります。 両者が一体であることに理屈はないのです。
339 :
名無しさん@社会人 :2009/02/19(木) 14:20:16
何者かに民族が領土から剥がされ、その一体性が奪われたのなら、領土を奪い返して愛を回復することは当然です。 奪われた北方領土を取り戻そうとするのは日本民族の本源的な情動です。 森田氏は、「この老人の一言に、おそらく私たちすべての立場は代表される」と深く感動します。 森田氏にはこのように魂の叫びに共感する感性があります。 森田氏は1960年代後半当時の国際情勢をつぶさに分析しています。 それと北方問題を照応させ、この運動は長丁場になると的確に押さえます。 「北方領土復帰運動」を、「失われた民族心の回復と、祖国への誇りの回復」 と位置づけ、「この闘いを勝ち抜くのである」と宣します。 森田論文が発表された昭和43年(1968年)当時、民族主義学生運動という熱いうねりがありました。 この学生運動が真剣、真摯であったのはその時代の様相を反映していたのでしょう。
340 :
名無しさん@社会人 :2009/02/20(金) 15:40:30
2chスレに駐在する三島信者のオバサンは 三島美化のためなら平気で真偽の定かでないコピペをするからな。 しかも時にそれに混ぜて三島美化の作り話までさも真実の記事のように掲載する から恐ろしい。
341 :
名無しさん@社会人 :2009/02/20(金) 17:13:22
>>340 作り話なんかしてないし。私の引用はちゃんと出典がありますよ。
それとあんたが貶し屋だから、普通の引用も美化にみえるだけ。
342 :
名無しさん@社会人 :2009/02/24(火) 11:42:15
……たしかに二・二六事件の挫折によつて、何か偉大な神が死んだのだつた。 当時十一歳の少年であつた私には、それはおぼろげに感じられただけだつたが、 二十歳の多感な年齢に敗戦に際会したとき、私はその折の神の死の怖ろしい残酷な実感が、十一歳の少年時代に直感したものと、密接につながつてゐるらしいのを感じた。 三島由紀夫 「二・二六事件と私」より
343 :
名無しさん@社会人 :2009/02/24(火) 11:42:42
…かくも永く私を支配してきた真のヒーローたちの霊を慰め、その汚辱を雪ぎ、その復権を試みようといふ思ひは、たしかに私の裡に底流してゐた。 しかし、その糸を手繰つてゆくと、私はどうしても天皇の「人間宣言」に引つかからざるをえなかつた。 昭和の歴史は敗戦によつて完全に前期後期に分けられたが、そこを連続して生きてきた私には、自分の連続性の根拠と、論理的一貫性の根拠を、どうしても探り出さなければならない欲求が生まれてきてゐた。 これは文士たると否とを問はず、生の自然な欲求と思はれる。 三島由紀夫 「二・二六事件と私」より
344 :
名無しさん@社会人 :2009/02/24(火) 11:43:21
そのとき、どうしても引つかかるのは、「象徴」として天皇を規定した新憲法よりも、天皇御自身の、この「人間宣言」であり、 この疑問はおのづから、二・二六事件まで、一すぢの影を投げ、影を辿つて「英霊の声」を書かずにはゐられない地点へ、私自身を追ひ込んだ。 自ら「美学」と称するのも滑稽だが、私は私のエステティックを掘り下げるにつれ、その底に天皇制の岩盤がわだかまつてゐることを知らねばならなかつた。 それをいつまでも回避してゐるわけには行かぬのである。 三島由紀夫 「二・二六事件と私」より
345 :
名無しさん@社会人 :2009/02/24(火) 11:44:00
二・二六事件は昭和史上最大の政治事件であるのみでない。昭和史上最大の「精神と政治の衝突」事件であつたのである。 そして精神が敗れ、政治理念が勝つた。幕末以来つづいてきた「政治における精神的なるもの」の底流は、ここに最もラディカルな昂揚を示し、そして根絶やしにされたのである。 勝つたのは、一時的に西欧的立憲君主政体であり、つづいて、これを利用した国家社会主義(多くの転向者を含むところの)と軍国主義とのアマルガムであつた。 私は皇道派と統制派の対立などといふ、言ひ古されたことを言つてゐるのではない。 血みどろの日本主義の刀折れ矢尽きた最期が、私の目に映る二・二六事件の姿であり、北一輝の死は、このつひにコミットしえなかつた絶対否定主義の思想家の、巻添へにされた、アイロニカルな死にすぎなかつた。 三島由紀夫 「二・二六事件について」より
346 :
名無しさん@社会人 :2009/02/24(火) 11:44:32
二・二六事件を非難する者は、怨み深い戦時軍閥への怒りを、二・二六事件なるスケイプ・ゴートへ向けてゐるのだ。 軍縮会議以来の軟弱な外交政策の責任者、英米崇拝者であり天皇の信頼を一身に受けてゐた腰抜け自由主義者幣原喜重郎の罪過は忘れられてゐる。 この人こそ、昭和史上最大の「弱者の悪」を演じた人である。 又、世界恐慌以来の金融政策・経済政策の相次ぐ失敗と破綻は看過されてゐる。 誰がその責任をとつたのか。政党政治は腐敗し、選挙干渉は常態であり、農村は疲弊し、貧富の差は甚だしく、一人として、一死以て国を救はうとする大勇の政治家はなかつた。 戦争に負けるまで、さういふ政治家が一人もあらはれなかつたことこそ、二・二六事件の正しさを裏書きしてゐる。 青年が正義感を爆発させなかつたらどうかしてゐる。 三島由紀夫 「二・二六事件について」より
347 :
名無しさん@社会人 :2009/02/24(火) 11:46:23
しかも、戦後に発掘された資料が明らかにしたところであるが、このやうな青年のやむにやまれぬ魂の奔騰、正義感の爆発は、つひに、国の最高の正義の容認するところとならなかつた。 魂の交流はむざんに絶たれた。 もつとも悲劇的なのは、この断絶が、死にいたるまで、青年将校たちに知られなかつたことである。 そしてこの錯誤悲劇のトラーギッシュ・イロニーは、奉勅命令下達問題において頂点に達する。奉勅命令は握りつぶされてゐたのだつた。 三島由紀夫 「二・二六事件について」より
348 :
名無しさん@社会人 :2009/02/25(水) 17:44:01
――二・二六事件に関してどう考へてゐるか。 十一歳のとき起きたあの事件は、私にたいへん大きな精神的影響を与へた。 私がいまも持つてゐる英雄崇拝とざせつ感は、すべてあの事件に由来するものです。 いふまでもなく私は反乱軍といはれた青年将校の味方で、のちに反乱軍として糾弾した本がたくさん出たが、さういふたぐひの本を読むと、ハラがたつて破つて捨てたほどですよ。 その後の軍閥政治であの挙兵が逆用され、すつかり汚されてしまつたが、青年将校たちの行動は、いはば昭和維新になりうる可能性を持つたものであり、救国の信念に基づく純粋なものでした。 それが反乱軍の汚名を冠せられたのは、陛下を取り巻く卑怯で臆病でずる賢い老臣どもの策謀であり、ひいてはそれを受け入れられた陛下ご自身の責任です。 三島由紀夫 「“人間宣言”批判――小説『英霊の声』が投げた波紋」より
349 :
名無しさん@社会人 :2009/02/25(水) 17:44:31
――戦前の「天皇制国家」を唯一の国体と考へるのか。 さうです。天皇が自ら人間宣言をなされてから、日本の国体は崩壊してしまつた。戦後のあらゆるモラルの混乱はそれが原因です。 なぜ、天皇が人間であつてはならぬのか。少なくともわれわれ日本人にとつて神の存在でなければならないのか。 このことをわかりやすく説明すれば、結局「愛」の問題になるのです。 近代国家はかつての農本主義から資本主義国家へ必然的に移行していく。これは避けられない。 封建的制度は崩壊し、近代的工業主義へ、そしていきつくところは、人生の絶望的状態である完全福祉国家とならざるをえないすう勢だ。 そして一方、国家が近代化すればするほど、個人と個人のつながりは希薄になり、冷たいものになるんですね。 三島由紀夫 「“人間宣言”批判――小説『英霊の声』が投げた波紋」より
350 :
名無しさん@社会人 :2009/02/25(水) 17:45:38
かういふ近代的共同体のなかに生きる人間にとつては、愛は不可能になつてしまふ。 たとへばAがBを愛したと信じても、かういふ社会では、確かめるすべをもたない。逆にBのAに対する愛にしてもさうです。 つまり、近代的社会における愛は相互間だけでは成立しないといふことなのです。 愛し合ふ二人の他に、二人が共通にいだいてゐる第三者(媒体)のイメージ――いはば三角形の頂点がなければ、愛は永遠の懐疑に終はり、ローレンスのいふ永遠に不可知論になつてしまふ。 これはキリスト教の考へ方でもあるが、昔からわれわれ日本人には、農本主義から生まれた「天皇」といふ三角形の頂点(神)のイメージがあり、一人々々が孤独に陥らない愛の原理を持つてゐた。 天皇はわれわれ日本人にとつて絶対的な媒体だつたんです。私は天皇制についてきかれるたびに、いつも“お祭りは必要なのだから大切にすべきだ”と一言いつてたのは、さういふ意味です。 三島由紀夫 「“人間宣言”批判――小説『英霊の声』が投げた波紋」より
351 :
名無しさん@社会人 :2009/02/28(土) 12:46:40
私の心の中では、過去のみならず、未来においても、敏感で、潔癖で、生活の細目にいたるまで様式的統一を重んじ、ことばを精錬し、しかも新しさをしりぞけない日本および日本人のイメージがあるのである。 そのためには、中途はんぱな、折衷的日本主義なんかは真つ平で、生つ粋の西洋か、生つ粋の日本を選ぶほかはないが、 生活上において、いくら生つ粋の西洋を選んでも安心な点は、肉体までは裏切れず、私はまぎれもない日本人の顔をしてをり、まぎれもない日本語を使つてゐるのだ。 つまり、私の西洋式生活は見かけであつて、文士としての私の本質的な生活は、書斎で毎夜扱つてゐる「日本語」といふこの「生つ粋の日本」にあり、これに比べたら、あとはみんな屁のやうなものなのである。 三島由紀夫 「日本への信条」より
352 :
名無しさん@社会人 :2009/02/28(土) 12:47:07
今さら、日本を愛するの、日本人を愛するの、といふのはキザにきこえ、愛するまでもなくことばを通じて、われわれは日本につかまれてゐる。 だから私は、日本語を大切にする。これを失つたら、日本人は魂を失ふことになるのである。 戦後、日本語をフランス語に変へよう、などと言つた文学者があつたとは、驚くにたへたことである。 三島由紀夫 「日本への信条」より
353 :
名無しさん@社会人 :2009/02/28(土) 12:47:47
低開発国の貧しい国の愛国心は、自国をむりやり世界の大国と信じ込みたがるところに生れるが、かういふ劣等感から生れた不自然な自己過信は、個人でもよく見られる例だ。 私は日本および日本人は、すでにそれを卒業してゐると考へてゐる。ただ無言の自信をもつて、偉ぶりもしないで、ドスンと構へてゐればいいのである。 さうすれば、向うからあいさつにやつてくる。貫禄といふものは、からゐばりでつくるものではない。 そして、この文化的混乱の果てに、いつか日本は、独特の繊細鋭敏な美的感覚を働かせて、様式的統一ある文化を造り出し、すべて美の視点から、道徳、教育、芸術、武技、競技、作法、その他をみがき上げるにちがひない。 できぬことはない。かつて日本人は一度さういふものを持つてゐたのである。 三島由紀夫 「日本への信条」より
354 :
名無しさん@社会人 :2009/03/02(月) 10:41:19
355 :
名無しさん@社会人 :2009/03/02(月) 11:39:44
実は私は「愛国心」といふ言葉があまり好きではない。何となく「愛妻家」といふ言葉に似た、背中のゾッとするやうな感じをおぼえる。 この、好かない、といふ意味は、一部の神経質な人たちが愛国心といふ言葉から感じる政治的アレルギーの症状とは、また少しちがつてゐる。 ただ何となく虫が好かず、さういふ言葉には、できることならソッポを向いてゐたいのである。 この言葉には官製のにほひがする。また、言葉としての由緒ややさしさがない。 どことなく押しつけがましい。反感を買ふのももつともだと思はれるものが、その底に揺曳してゐる。 では、どういふ言葉が好きなのかときかれると、去就に迷ふのである。愛国心の「愛」の字が私はきらひである。 自分がのがれやうもなく国の内部にゐて、国の一員であるにもかかはらず、その国といふものを向う側に対象に置いて、わざわざそれを愛するといふのが、わざとらしくてきらひである。 もしわれわれが国家を超越してゐて、国といふものをあたかも愛玩物のやうに、狆か、それともセーブル焼の花瓶のやうに、愛するといふのなら、筋が通る。それなら本筋の「愛国心」といふものである。 三島由紀夫 「愛国心」より
356 :
名無しさん@社会人 :2009/03/02(月) 11:40:10
また、愛といふ言葉は、日本語ではなくて、多分キリスト教から来たものであらう。日本語としては「恋」で十分であり、日本人の情緒的表現の最高のものは「恋」であつて、「愛」ではない。 もしキリスト教的な愛であるなら、その愛は無限低無条件でなければならない。 従つて、「人類愛」といふのなら多少筋が通るが、「愛国心」といふのは筋が通らない。なぜなら愛国心とは、国境を以て閉ざされた愛だからである。 だから恋のはうが愛よりせまい、といふのはキリスト教徒の言ひ草で、恋のはうは限定性個別性具体性の裡にしか、理想と普遍を発見しない特殊な感情であるが、「愛」とはそれが逆様になつた形をしてゐるだけである。 三島由紀夫 「愛国心」より
357 :
名無しさん@社会人 :2009/03/02(月) 11:40:45
日本のやうな国には、愛国心などといふ言葉はそぐはないのではないか。すつかり藤猛にお株をとられてしまつたが、「大和魂」で十分ではないか。 アメリカの愛国心といふのなら多少想像がつく。ユナイテッド・ステーツといふのは、巨大な観念体系であり、 移民の寄せ集めの国民は、開拓の冒険、獲得した土地への愛着から生じた風土愛、かういふものを基礎にして、合衆国といふ観念体系をワシントンにあづけて、それを愛し、それに忠誠を誓ふことができるのであらう。 国はまづ心の外側にあり、それから教育によつて内側へはひつてくるのであらう。 アメリカと日本では、国の観念が、かういふ風にまるでちがふ。日本は日本人にとつてはじめから内在的即自的であり、かつ限定的個別的具体的である。 観念の上ではいくらでもそれを否定できるが、最終的に心情が容認しない。 三島由紀夫 「愛国心」より
358 :
名無しさん@社会人 :2009/03/02(月) 11:41:14
そこで日本人にとつての日本とは、恋の対象にはなりえても、愛の対象にはなりえない。われわれはとにかく日本に恋してゐる。 これは日本人が日本に対する基本的な心情の在り方である。(本当は「対する」といふ言葉さへ、使はないはうがより正確なのだが) しかし恋は全く情緒と心情の領域であつて、観念性を含まない。 われわれが日本を、国家として、観念的にプロブレマティッシュ(問題的)に扱はうとすると、しらぬ間にこの心情の助けを借りて、あるひは恋心をあるひは憎悪愛(ハースリーベ)を足がかりにして物を言ふ結果になる。 かくて世上の愛国心談義は、必ず感情的な議論に終つてしまふのである。 三島由紀夫 「愛国心」より
359 :
名無しさん@社会人 :2009/03/02(月) 11:41:42
恋が盲目であるやうに、国を恋ふる心は盲目であるにちがひない。 しかし、さめた冷静な目のはうが日本をより的確に見てゐるかといふと、さうも言へないところに問題がある。 さめた目が逸したところのものを、恋に盲ひた目がはつきりつかんでゐることがしばしばあるのは、男女の仲と同じである。 一つだけたしかなことは、今の日本では、冷静に日本を見つめてゐるつもりで日本の本質を逸した考へ方が、あまりにも支配的なことである。 さういふ人たちも日本人である以上、日本を内在的即自的に持つてゐるのであれば、彼らの考へは、いくらか自分をいつはつた考へだと言へるであらう。 三島由紀夫 「愛国心」より
360 :
名無しさん@社会人 :2009/03/04(水) 12:29:07
戦後二十二年間、私は原爆について発言しなかつた。… 第一に、原爆に関しては、体験した者と体験しない者、被曝者と被曝しなかつた者といふ二つの立場以外、絶対ありえないからだ。 これがベトナム論などと根本的に違ふ点であり、そのことを忘れた発言はすべてウソである。 被曝しなかつた者が、いくら「おかはいさうに」と同情してみせても、そんなことで心慰められる被曝者は一人もゐない。 …広島に“新型爆弾”が投下されたとき、私は東大法学部の学生であつた。 …それが原爆だと知つたのは数日後のこと、たしか教授の口を通じてだつた。 世界の終りだ、と思つた。この世界終末観は、その後の私の文学の唯一の母体をなすものでもある。 三島由紀夫 「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」より
361 :
名無しさん@社会人 :2009/03/04(水) 12:29:31
ヒロシマ。ナチのユダヤ人虐殺。まぎれもなくそれは史上、二大虐殺行為である。だが、日本人は「過ちは二度とくりかへしません」といつた。 原爆に対する日本人の民族的憤激を正当に表現した文学は、終戦の詔勅の「五内為ニ裂ク」といふ一節以外に、私は知らない。 そのかはり日本人は、八月十五日を転機に最大の屈辱を最大の誇りに切りかへるといふ奇妙な転換をやつてのけた。 一つはおのれの傷口を誇りにする“ヒロシマ平和運動”であり、もう一つは東京オリンピックに象徴される工業力誇示である。 だが、そのことで民族的憤激は解決したことになるだらうか。 三島由紀夫 「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」より
362 :
名無しさん@社会人 :2009/03/04(水) 12:29:55
いま、日本は工業化、都市化の道を進んでゐる。明らかに“核”をつくる文化を受入れて生きてゐる。 日本は核時代に向ふほかない。単なる被曝国として、手を汚さずに生きて行けるものではない。 核大国は、多かれ少なかれ、良心の痛みをおさへながら核を作つてゐる。彼らは言ひわけなしに、それを作ることができない。 良心の呵責なしに作りうるのは、唯一の被曝国・日本以外にない。われわれは新しい核時代に、輝かしい特権をもつて対処すべきではないのか。 そのための新しい政治的論理を確立すべきではないのか。日本人は、ここで民族的憤激を思ひ起すべきではないのか。 三島由紀夫 「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」より
363 :
名無しさん@社会人 :2009/03/04(水) 12:30:21
戦後二十二年間、平和はまさに米ソの核均衛の上に保たれてゐた。 だか、お互ひの核ドウカツだけで均衛が保たれたかといふと、さうは思へない。 第二次大戦中、広島で原爆が使はれたといふ事実、たくさんの人が死に、今も肉体的、精神的に苦しんでゐる人がゐるといふ事実がなかつたとしたら、観念的にいくら原爆の悲惨さがわかつてゐても、必ず使はれたらう。 人間とは本来、さういふものである。 …将来、小型爆弾が使はれる可能性は、皆無ではないだらう。 …だが、いちばん危険なのは、防衛力としてのABM(弾道弾迎撃ミサイル)が開発されて、攻撃力としてのICBM(大陸間弾道弾)との均衛が成立したとき、 つまり大国がICBMに対して自国の安全を守れるといふ考へに達した時であらう。 三島由紀夫 「私の中のヒロシマ――原爆の日によせて」より
364 :
名無しさん@社会人 :2009/03/09(月) 23:18:45
男のおしやれがはやつて、男性化粧品がよく売れ、床屋でマニキュアさせる男がふえた、といふことだが、男が柔弱になるのは泰平の世の常であつて、 大正時代にもポンペアン・クリームなどといふものを頬に塗つて、薄化粧する男が多かつたし、江戸時代の春信の浮世絵なんかを見れば、男と女がまるで見分けがつかぬやうに描かれてゐる。 …私はこんな風潮一切がまちがつてゐると考へる人間である。男は粗衣によつてはじめて男性美を発揮できる。 ボロを着せてみて、はじめて男の値打がわかる、といふのが、男のおしやれの基本だと考へてゐる。 三島由紀夫 「男のおしやれ」より
365 :
名無しさん@社会人 :2009/03/09(月) 23:19:22
といふのは、男の魅力はあくまで剛健素朴にあるのであつて、それを引立たせるおしやれは、ボロであつても、華美であつても、あくまで同じ値打同じ効果をもたらさなければならぬ。 …多少我田引水だが、日本の男のもつとも美しい服装は、剣道着だと私は考へてゐる。これこそ、素朴であつて、しかも華美を兼ねてゐる。 学生服をイカさない、といふのも、一部デザイナーの柔弱な偏見であつて、学生服がピタリと似合ふ学生でなければ、学生の値打はない。あれも素朴にして華美なる服装である。 背広なんか犬に喰はれてしまへ。世の中にこんなにみにくい、あほらしい服はない。商人服をありがたがつて着てゐる情ない世界的風潮よ。 タキシードも犬に喰はれてしまへ。 三島由紀夫 「男のおしやれ」より
366 :
名無しさん@社会人 :2009/03/13(金) 17:23:41
このごろ世間でよく言はれることは、「あれほど苦しんだことを忘れて、軍国主義の過去を美化する風潮が危険である」といふ、判コで捺したやうな、したりげな非難である。 しかし人間性に、忘却と、それに伴ふ過去の美化がなかつたとしたら、人間はどうして生に耐へることができるであらう。 忘却と美化とは、いはば、相矛盾する関係にある。 完全に忘却したら、過去そのものがなくなり、記憶喪失症にかかることになるのだから、従つて過去の美化もないわけであり、過去の美化がありうることは、忘却が完全でないことにもなる。 人間は大体、辛いことは忘れ、楽しいことは思ひ出すやうにできてゐる。この点からは、忘却と美化は相互補償関係にある。 美化できるやうな要素だけをおぼえてゐるわけで、美化できない部分だけをしつかりおぼえてゐることは反生理的である。人の耐へうるところではない。 三島由紀夫 「忘却と美化」より
367 :
名無しさん@社会人 :2009/03/13(金) 17:24:51
私は、この非難に答へるのに、二つの答を用意してゐる。 一つは、忘れるどころか、「忘れねばこそ思ひ出さず候」で、人は二十年間、自分なりの戦争体験の中にある栄光と美の要素を、人に言はずに守りつづけてきたのが、今やつと発言の機会を得たのに、邪魔をするな、といふ答である。 この答の裏には、いひしれぬ永い悲しみが秘し隠されてゐるが、この答の表は、むやみとラディカルである。 従つて、この答を敢てせぬ人のためには、第二の答がある。 すなはち、現代の世相のすべての欠陥が、いやでも応でも、過去の諸価値の再認識を要求してゐるのであつて、その欠陥が今や大きく露出してきたからこそ、過去の諸価値の再認識の必要も増大してきたのであつて、それこそ未来への批評的建設なのである、と。 三島由紀夫 「忘却と美化」より
368 :
名無しさん@社会人 :2009/03/24(火) 00:05:56
369 :
名無しさん@社会人 :2009/04/02(木) 17:22:38
国体は日本民族日本文化のアイデンティティーを意味し、政権交替に左右されない恒久性をその本質とする。 政体は、この国体維持といふ国家目的民族目的に最適の手段として、国民によつて選ばれるが、政体自体は国家目的追求の手段であつて、それ自体、自己目的的なものではない。 民主主義とは、継受された外国の政治制度であり、あくまで政体以上のものを意味しない。これがわれわれの思考の基本的な立場である。 旧憲法は国体と法体系の間の相互の投影を完璧にしたが、現憲法は、これを明らかにしてゐないことは前述の通りである。 三島由紀夫 「問題提起」より
370 :
名無しさん@社会人 :2009/04/02(木) 17:23:22
けだし、国体の語を広義に解釈すれば、現憲法は二種の国体、二つの忠誠対象を、分裂させて持つてをり、且つ国民の忠誠対象をこの二種の国体へ分裂させるやうに仕組まれてゐるからである。 国体は本来、歴史・伝統・文化の時間的連続性に準拠し、国民の永い生活経験と文化経験の集積の上に成立するものであるが、革命政権における国体とは、いふまでもなく、このやうなものではない。 革命政権における国体は、未来理想社会に対する一致した願望努力、国家超越の契機を内に秘めた世界革命の理想主義をその本質とするであらう。 ところが、奇妙なことに現行憲法は、この相反する二種の国体概念を、(おそらく国論分裂による日本弱体化といふ政治的企図を含みつつ)、並記してゐるのである。 これが憲法第一章と第二章との、戦後の思想的対立の根本要因をなす異常なコントラストである。 三島由紀夫 「問題提起」より
371 :
名無しさん@社会人 :2009/04/02(木) 17:24:25
…国体と政体の別を明らかにし、本と末の別を立て、国にとつて犯すべからざる恒久不変の本質と、盛衰を常とする政体との癒着を剥離することこそ、国の最大の要請でなければならない。 そのためには、憲法上、第一章と第二章とが到底民族的自立の見地から融和すべからざるものであり、この民族性の理念と似而非国際主義の理念との対立矛盾が、エモーショナルな国民の目前に、はつきり露呈されることが何よりも緊要である。 三島由紀夫 「問題提起」より
372 :
名無しさん@社会人 :2009/04/02(木) 17:26:57
このことは、グロテスクな誇張を敢てすれば、侵略戦争の宣戦布告をする天皇と、絶対非武装平和の国際協調主義との、対立矛盾を明示せよ、といふのではない。むしろその反対である。 もし現憲法の部分的改正によつて、第九条だけが改正されるならば、日本は楽々と米軍事体制の好餌になり、自立はさらに失はれ、日本の歴史・伝統・文化は、さらに危殆に瀕するであらう。 われわれは、第一章、第二章の対立矛盾に目を向け、この対立矛盾を解消することによつて、日本の国防上の権利(第二章)を、民族目的(第一章)に限局させようと努め、その上で真の自立の平和主義を、はじめて追求しうるのである。 従つて、第一章の国体明示の改正なしに、第二章のみの改正に手をつけることは、国家百年の大計を誤るものであり、第一章改正と第二章改正は、あくまで相互のバランスの上にあることを忘れてはならない。 三島由紀夫 「問題提起」より
373 :
名無しさん@社会人 :2009/04/05(日) 15:24:23
――さて、逐条的に現憲法の批判に入ると、 第一条(天皇の地位・国民主権)天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。 第二条(皇位の継承)皇位は、世襲のものであつて、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する。 とあるが、第一条と第二条の間には明らかな論理的矛盾がある。 すなはち第一条には、「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とあるが、第二条には、「皇位は、世襲のものであつて」とあり、もし「地位」と「皇位」を同じものとすれば、「主権の存する日本国民の総意に基く」筈のものが、「世襲される」といふのは可笑しい。 世襲は生物学的条件以外の条件なき継承であり、「国民の総意に基く」も「基かぬ」もないのである。 三島由紀夫 「問題提起」より
374 :
名無しさん@社会人 :2009/04/05(日) 15:25:16
又、もしかりに一歩ゆづつて、「主権の存する日本国民の総意」なるものを、一代限りでなく、各人累代世襲の総意とみとめるときは、「世襲」の語との矛盾は大部分除かれるけれども、 個人の自由意志を超越したそのやうな意志に主権が存するならば、それはそもそも近代個人主義の上に成立つ民主主義と矛盾するであらう。 又、もし、「地位」と「皇位」を同じものとせず、「地位」は国民の総意に基づくが、「皇位」は世襲だとするならば、「象徴としての地位」と「皇位」とを別の概念とせねばならぬ。 それならば、世襲の「皇位」についた新らしい天皇は、即位のたびに、主権者たる「国民の総意」の査察を受けて、その都度、「象徴としての地位」を認められるか否か、再検討されなければならぬ。 しかもその再検討は、そもそも天皇制自体の再検討と等しいから、ここで新天皇が「象徴としての地位」を否定されれば、必然的に第二条の「世襲」は無意味になる。いはば天皇家は、お花の師匠や能役者の家と同格になる危険に、たえずさらされてゐることになる。 三島由紀夫 「問題提起」より
375 :
名無しさん@社会人 :2009/04/05(日) 15:25:59
私は非常識を承知しつつ、この矛盾の招来する論理的結果を描いてみせたのであるが、このやうな矛盾は明らかに、第一条に於て、 天皇といふ、超個人的、伝統的、歴史的存在の、時間的連続性(永遠)の保証者たる機能を、「国民主権」といふ、個人的、非伝統的、非歴史的、空間的概念を以て裁いたといふ無理から生じたものである。 これは、「一君万民」といふごとき古い伝承観念を破壊して、むりやりに、西欧的民主主義理念と天皇制を接着させ、移入の、はるか後世の制度によつて、根生の、昔からの制度を正当化しようとした、方法的誤謬から生れたものである。 それは、キリスト教に基づいた西欧の自然法理念を以て、日本の伝来の自然法を裁いたものであり、もつと端的に言へば、西欧の神を以て日本の神を裁き、まつろはせた条項であつた。 三島由紀夫 「問題提起」より
376 :
名無しさん@社会人 :2009/04/05(日) 15:27:43
われわれは、日本的自然法を以て日本の憲法を創造する権利を有する。 天皇制を単なる慣習法と見るか、そこに日本的自然法を見るかについては、議論の分れるところであらう。 英国のやうに慣習法の強い国が、自然法理念の圧力に抗して、憲法を不文のままに置き、慣習法の運用によつて、同等の法的効果と法的救済を実現してゆくが如き手続は、日本では望みがたいが、 すべてをフランス革命の理念とピューリタニズムの使命感で割り切つて、巨大な抽象的な国家体制を作り上げたアメリカの法秩序が、日本の風土にもつとも不適合であることは言ふ俟たない。 現代はふしぎな時代で、信教の自由が先進諸国の共通の表看板になりながら、十八世紀以来の西欧人文主義の諸理念は、各国の基本法にのしかかり、これを制圧して、これに対する自由を許してゐないのである。 三島由紀夫 「問題提起」より
377 :
名無しさん@社会人 :2009/04/05(日) 15:31:30
われわれがもしあらゆる宗教を信ずることに自由であるなら、どうして近代的法理念のコンフォーミティーからだけは自由でありえない、といふことがあらうか? 又逆に、もしわれわれが近代的法理念のコンフォーミティーからは自由でありえないとするならば、習俗、伝習、文化、歴史、宗教などの民族的固有性から、それほど自由でありうるのだらうか? それは又、明治憲法の発祥に戻つて、東洋と西洋との対立融合の最大の難問に、ふたたび真剣にぶつかることであるが、 敗戦の衝撃は、一国の基本法を定めるのに、この最大の難問をやすやすと乗り超えさせ、しらぬ間に、日本を、そのもつとも本質的なアイデンティティーを喪はせる方向へ、追ひやつて来たのではなかつたか? 天皇の問題は、かくて憲法改正のもつとも重要な論点であつて、何人もこれを看過して、改憲を語ることはできない。 三島由紀夫 「問題提起」より
378 :
名無しさん@社会人 :2009/04/05(日) 15:33:28
…世俗的君主とは祭祀の一点においてことなる天皇は、正にその時間的連続性の象徴、祖先崇拝の象徴たることにおいて、「象徴」たる特色を担つてゐるのである。 天皇が「神聖」と最終的につながつてゐることは、同時に、その政治的無答責性において、現実所与の変転する政治的責任を免かれてゐればこそ、保障されるのである。 これを逆に言へば、天皇の政治的無答責は、それ自体がすでに「神聖」を内包してゐると考へなければ論理的でない。 なぜなら、人間であることのもつとも明確な責任体系こそ、政治的責任の体系だからである。そのやうな天皇が、一般人同様の名誉毀損の法的保護しか受けられないのは、一種の論理的詐術であつて、「栄典授与」(第七条第七項)の源泉に対する国自体の自己冒涜である。 三島由紀夫 「問題提起」より
379 :
名無しさん@社会人 :2009/04/05(日) 15:34:42
「神聖不可侵」の規定の復活は、おのづから第二十条「信仰の自由」の規定から、神道の除外例を要求するだらう。 キリスト教文化をしか知らぬ西欧人は、この唯一神教の宗教的非寛容の先入主を以てしか、他の宗教を見ることができず、 英国国教のイングランド教会の例を以て日本の国家神道を類推し、のみならずあらゆる侵略主義の宗教的根拠を国家神道に妄想し、 神道の非宗教的な特色性、その習俗純化の機能等を無視し、はなはだ非宗教的な神道を中心にした日本のシンクレティスム(諸神混淆)を理解しなかつた。 敗戦国の宗教問題にまで、無智な大斧を揮つて、その文化的伝統の根本を絶たうとした占領軍の政治的意図は、今や明らかであるのに、日本人はこの重要な魂の問題を放置して来たのである。 三島由紀夫 「問題提起」より
魔人ゴトウ
381 :
名無しさん@社会人 :2009/04/08(水) 17:02:38
ありていに言つて、第九条は敗戦国日本の戦勝国に対する詫証文であり、この詫証文の成立が、日本側の自発的意志であるか米国側の強制によるかは、もはや大した問題ではない。 ただこの条文が、二重三重の念押しをからめた誓約の性質を帯びるものであり、国家としての存立を危ふくする立場に自らを置くものであることは明らかである。 論理的に解すれば、第九条に於ては、自衛権も明白に放棄されてをり、いかなる形においての戦力の保有もゆるされず、自衛の戦ひにも交戦権を有しないのである。 全く物理的に日本は丸腰でなければならぬのである。 …第九条のそのままの字句通りの遵奉は、「国家として死ぬ」以外にはない。しかし死ぬわけには行かないから、しやにむに、緊急避難の理論によつて正当化を企て、御用学者を動員して、牽強附会の説を立てたのである。 三島由紀夫 「問題提起」より
382 :
名無しさん@社会人 :2009/04/08(水) 17:03:32
自衛隊は明らかに違憲である。しかもその創設は、新憲法を与へたアメリカ自身の、その後の国際政治状況の変化による要請に基づくものである。 …護憲のナショナリスティックな正当化は、あくまで第九条の固執により、片やアメリカのアジア軍事戦略体制に乗りすぎないやうに身をつつしみ、片や諸外国の猜疑と非難を外らさうといふ、消極弥縫策にすぎず、 国内的には、片や「何もかもアメリカの言ひなりにはならぬぞ」といふナショナリスティックな抵抗を装ひ、片や「平和愛好」の国民の偸安におもねり、大衆社会状況に迎合することなのである。 しかもアメリカの絶えざる要請にしぶしぶ押されて、自衛隊をただ「量的に」拡大し、兵器体系を改良し、もつとも厄介な核兵器問題への逢着を無限に延させるために、平和憲法下の安全保障の路線を、無目的無理想に進んでゆくことである。 …核と自主防衛、国軍の設立と兵役義務、その他の政策上の各種の難問題は、九条の裏面に錯綜してゐる。しかしここでは、私は徴兵制度復活には反対であることだけを言明しておかう。 三島由紀夫 「問題提起」より
383 :
名無しさん@社会人 :2009/04/08(水) 17:04:57
私は九条の改憲を決して独立にそれ自体として考へてはならぬ、第一章「天皇」の問題と、第二十条「信教の自由」に関する神道の問題と関連させて考へなくては、 折角「憲法改正」を推進しても、却つてアメリカの思ふ壷におちいり、日本が独立国家として、日本の本然の姿を開顕する結果にならぬ、と再々力説した。 たとへ憲法九条を改正して、安保条約を双務条約に書き変へても、それで日本が独立国としての体面を回復したことにはならぬ。 韓国その他アジア反共国家と同列に並んだだけの結果に終ることは明らかであり、これらの国家は、アメリカと軍事的双務条約を締結してゐるのである。 三島由紀夫 「問題提起」より
384 :
名無しさん@社会人 :2009/04/08(水) 17:08:03
第九条の改廃については、改憲論者にもいくつかの意見がある。 「第九条第一項の字句は、そもそも不戦条約以来の理想条項であり、これを残しても自衛のための戦力の保持は十分可能である。しかし第二項は、明らかに、自衛隊の放棄を意味するから削除すべきである」 といふ意見に、私はやや賛成であるが、そのためには、第九条第一項の規定は、世界各国の憲法に必要条項として挿入されるべきであり、日本国憲法のみが、国際社会への誓約を、国家自身の基本法に包含してゐるといふのは、不公平不調和を免かれぬ。 その結果、わが憲法は、国際社会への対他的ジェスチュアを本質とし、国の歴史・伝統・文化の自主性の表明を二次的副次的なものとするといふ、敗戦憲法の特質を永久に免かれぬことにならう。むしろ第九条全部を削除するに如くはない。 三島由紀夫 「問題提起」より
385 :
名無しさん@社会人 :2009/04/08(水) 17:09:40
その代りに、日本国軍の創立を謳ひ、健軍の本義を憲法に明記して、次の如く規定するべきである。 「日本国軍隊は、天皇を中心とするわが国体、その歴史、伝統、文化を護持することを本義とし、国際社会の信倚と日本国民の信頼の上に健軍される」 防衛は国の基本的な最重要問題であり、これを抜きにして国家を語ることはできぬ。 物理的に言つても、一定の領土内に一定の国民を包括する現実の態様を抜きにして、国家といふことを語ることができないならば、その一定空間の物理的保障としては軍事力しかなく、 よしんば、空間的国家の保障として、外国の軍事力(核兵器その他)を借りるとしても、決して外国の軍事力は、他国の時間的国家の態様を守るものではないことは、 赤化したカンボジア摂政政治をくつがへして、共和制を目ざす軍事政権を打ち樹てるといふことも敢てするのを見ても自明である。 三島由紀夫 「問題提起」より
386 :
名無しさん@社会人 :2009/04/08(水) 17:12:45
自国の正しい健軍の本義を持つ軍隊のみが、空間的時間的に国家を保持し、これを主体的に防衛しうるのである。 現自衛隊が、第九条の制約の下に、このやうな軍隊に成育しえないことには、日本のもつとも危険な状況が孕まれてゐることが銘記されねばならない。 憲法改正は喫緊の問題であり、決して将来の僥倖を待つて解決をはかるべき問題ではない。 なぜならそれまでは、自衛隊は、「国を守る」といふことの本義に決して到達せず、この混迷を残したまま、徒らに物理的軍事力のみを増強して、つひにもつとも大切なその魂を失ふことになりかねないからである。 自衛隊は、警察予備隊から発足して、未だその警察的側面を色濃く残してをり、警察との次元の差を、装備の物理的な次元の差にしか見出すことができない。国家の矜りを持つことなくして、いかにして軍隊が軍隊たりえようか。 この悲しむべき混迷を残したものが、すべて第九条、特にその第二項にあることは明らかであるから、われわれはここに論議の凡てを集中しなければならない。 三島由紀夫 「問題提起」より
387 :
名無しさん@社会人 :2009/04/09(木) 23:23:46
共産社会に階級がないというのは全くの迷信であって、これは巨大なビューロクラシーの社会であります。 そしてこの階級制の蟻のごとき社会にならないために我々の社会が戦わなければならんというふうに私は考えるものですが、日本の例をとってみますと、日本にどういうふうに階級があるのか、まずそれを伺いたい。 たとえばアメリカなどは民主主義社会とはいいながら、ヨーロッパよりさらに古い、さらに深い階級意識がある国です。 …アメリカにはステイタス・シンボルというものが非常にたくさんあります。 三島由紀夫 「学生とのティーチ・イン 国家革新の原理」より
388 :
名無しさん@社会人 :2009/04/22(水) 16:57:37
“春の憂国忌”予告編 《4月28日を国民の祝日に!》 主権回復記念日国民集会がことしも開催されます 今年は田母神・前空幕長が登壇します! 日 時:平成21年4月28日(火) 開場17:30、18:00〜21:00 会 場:九段会館大ホール 交 通:地下鉄東西線・新宿線・半蔵門線九段下駅4番出口から徒歩1分 登壇者:井尻千男(日本文化研究所所長) 佐藤守(元南西航空混成団司令・空将) 田久保忠衛(杏林大学客員教授) 田母神俊雄(前航空幕僚長・空将) 松島悠佐(元中部方面総監) ◎入場無料(予約は不要)
一人の女を一途に恋する俺は硬派だなどと寝言を言っている奴がいるが、 そういうのは単なる「堅物」であって、断じて「硬派」ではない。 硬派は「奥手」とも「堅物」とも全く違う次元の男の気質であるとともに信条だ。 硬派は、たとえ相手が一人であろうが、女に心を奪われることはありえない。 女の姿を目で追うこともない。女になど一切興味を向けないのが硬派の条件だ。 硬派にとって女は男らしさを損なうものでしかない。 硬派が情熱を傾け、夢中になるのは、もっぱら野郎共を相手にする男対男の世界のみだ。
390 :
名無しさん@社会人 :2009/05/09(土) 14:33:11
Q――つぎに東南アジアについてちよつと聞きます。 インドも中共との交戦の経験を持つ国ですが、東南アジアと日本との最大の相違点は、中共の脅威を感じてゐるのと感じてゐない点にあると思ひますが。 三島由紀夫:中共と国境を接してゐるといふ感じは、とても日本ではわからない。 もし日本と中共とのあひだに国境があつて向かう側に大砲が並んでたら、いまのんびりしてゐる連中でもすこしはきりつとするでせう。 まあ海でへだてられてゐますからね。もつともいまぢや、海なんてものはたいして役に立たないんだけれど。ただ「見ぬもの清し」でせうな。 三島由紀夫 「インドの印象」より
391 :
名無しさん@社会人 :2009/05/09(土) 14:34:59
Q――日本人が中共をこはがらないのは一種の幻想的な“大平感”なんだらうけれど、日本にさういつた幻想があることも、また一つの現実ぢやないでせうか。 三島由紀夫:たしかにさうですね。幻想(イリュージョン)といへどもなにかの現実的条件によつて保たれてゐる。 ぼく自身は、日本にも中共の脅威はある、と感じてゐます。これは絶対に「事実(ファクト)」です。 しかし、日本人が中共に脅威を感じないといふことは「現実」です。「現実」とはぼくに言はせれば、事実とイリュージョンとの合金です。 「現実」をささへてゐる条件は、いはくいひがたしで、恐らく何万といふ条件があるでせう。海もあるし、長い中国との交流の歴史もあるし……。 ものを考へようとするとき、片方の「現実」を「事実」だけでぶちこはさうとしてもダメです。幻想をくだくには幻想をもつてしなくつちや。ですからもし、ぼくが政治家だつたら……。 Q――「中共はこはくない」といふ幻想は、どうやつてくだきますか? 三島由紀夫:「中共はこはい」といふファクトではなく幻想をもつてですよ。ハッハッハ。 三島由紀夫 「インドの印象」より
392 :
名無しさん@社会人 :2009/05/11(月) 09:54:39
393 :
名無しさん@社会人 :2009/05/20(水) 11:15:53
さて、いくら早く焼きたいからと云つて、餅を炭火につつこんだのでは、たちまち黒焦げになつて、喰べられたものではない。餅網が適度に火との距離を保ち、しかも火熱を等分に伝達してくれるからこそ、餅は具合よく焼けるのである。 さて、法律とはこの餅網なのだらうと思ふ。餅は、人間、人間の生活、人間の文化等を象徴し、炭火は、人間のエネルギー源としての、超人間的なデモーニッシュな衝動のプールである潜在意識の世界を象徴してゐる。 人間といふものは、おだやかな理性だけで成立つてゐる存在ではないし、それだけではすぐ枯渇してしまふ、ふしぎな、落着かない、活力と不安に充ちた存在である。 三島由紀夫 「法律と餅焼き」より
394 :
名無しさん@社会人 :2009/05/20(水) 11:16:36
人間の活動は、すばらしい進歩と向上をもたらすと同時に、一歩あやまれば破滅をもたらす危険を内包してゐる。 ではその危険を排除して、安全で有益な活動だけを発展させようといふ試みは、むかしからさかんに行はれたが、一度も成功しなかつた。 どんなに安全無害に見える人間活動も、たとへば慈善事業のやうなものでも、その事業を推進するエネルギーは、あの怖ろしい炭火から得るほかはない。 …人間の餅は、この危険な炭火の力によつて、喰へるもの、すなはち社会的に有益なものになる。しかし、もし火に直接に触れれば、喰へないもの、すなはち社会的に無益有害なものになる。 だから、餅と火のあひだにあつて、その相干渉する力を適当に規制し、餅をほどよい焼き加減にするために、餅網が必要になるのである。 三島由紀夫 「法律と餅焼き」より
395 :
名無しさん@社会人 :2009/05/20(水) 11:18:24
たとへば殺人を犯す人間は、黒焦げになつた餅である。そもそもさういふ人間を出さないやうに餅網が存在してゐるのだが、網のやぶれから、時として、餅が火に落ちるのはやむをえない。 さういふときは、餅網は餅が黒焦げになるに委せる他はない。すなはち彼を死刑に処する。 餅網の論理にとつては、罪と罰は一体をなしてゐるのであつて、殺人の罪と死刑の罰とは、いづれも餅網をとほさなかつたことの必然的結果であつて、彼は人を殺した瞬間に、すでに地獄の火に焼かれてゐるのだ。 そして責任論はどこまで行つてもきりがなく、個人的責任と社会的責任との継目は永遠にはつきりしないが、 少くとも、殺人といふ罪が、人間性にとつて起るべからざることではなく、人間の文化が、あの怖ろしい炭火に恩恵を蒙つてゐるかぎり、火は同時に殺人をそそのかす力にさへなりうるのである。 三島由紀夫 「法律と餅焼き」より
396 :
名無しさん@社会人 :2009/05/20(水) 11:19:34
かくて、終局的に、責任は人間のものではないとする仏教的罪の思想も、人間には原罪があるとするキリスト教的罪の思想も生れてくるわけであるが、餅網の論理は、そこまで面倒を見るわけには行かない。 ただ、餅網にとつていかにも厄介なのは、芸術といふ、妙な餅である。この餅だけは全く始末がわるい。 この餅はたしかに網の上にゐるのであるが、どうも、網目をぬすんで、あの怖ろしい火と火遊びをしたがる。 そして、けしからんことには、餅網の上で焼かれて、ふつくらした適度のおいしい焼き方になつてゐながら、同時に、ちらと、黒焦げの餅の、妙な、忘れられない味はひを人に教へる。 三島由紀夫 「法律と餅焼き」より
397 :
名無しさん@社会人 :2009/05/20(水) 11:20:20
殺人は法律上の罪であるのに、殺人を扱つた芸術作品は、出来がよければ、立派な古典となり文化財となる。それはともかくふつくらしてゐて、黒焦げではないのである。 古典的名作はそのやうな意味での完全犯罪であつて、不完全犯罪のはうはまだしもつかまへやすい。黒焦げのあとがあちこちにちらと残つてゐて、さういふところを公然猥褻物陳列罪だの何だのでつかまへればいいからである。 それにしても芸術といふ餅のますます厄介なところは、火がおそろしくて、白くふつくら焼けることだけを目的として、 おつかなびつくりで、ろくな焦げ目もつけずに引上げてしまつた餅は、なまぬるい世間の良識派の偽善的な喝采は博しても、つひに戦慄的な傑作になる機会を逸してしまふといふことである。 三島由紀夫 「法律と餅焼き」より
398 :
名無しさん@社会人 :2009/05/29(金) 10:40:25
このやうな日本の生温い状況が、現在および将来にどのやうな意味を持つてゐるかを探つてみれば、これは安保以前、安保以後の問題ではなく、精神の問題であると考へられる。 精神といふと、またいつもの精神主義かといはれるかもしれないが、われわれの決意としては、吉田松蔭の「汝は功業をなせ、我は忠義をなす」との信念で行くほかないと思つてゐる。 「功業」といふのは、自分が大政治家として権力を握らなければ役立たない。そしてその権力を背景として自分の考へたことを実現していくことが「功業」の意味で、それはいづれは大勲位の勲章をもらつて、うまくすると国葬にまでしてもらへるみちです。 しかし、「忠義」は枯野に野垂れ死にするみちです。何の効果もなく、人のわらふところになるかもしれず、その瞬間瞬間には、全く狂人の行ひとしか見えないやうなことになるかもしれないわけです。 三島由紀夫 「『孤立』ノススメ 六、松蔭は狂はなければならなかつたといふことについて」より
399 :
名無しさん@社会人 :2009/05/29(金) 10:41:26
吉田松蔭が「狂」といふことを盛んに言ひ出したのは晩年ですが、やはり松蔭の時代にも、全てをシニカルに見てわらひ飛ばすやうな江戸末期の民衆の世界があつたわけで、 とにかく毎日が楽しければよく、明日のことなど考へる必要がないではないか、お国なんかどうなつてもよいといふやうな民衆の心理的基調があつた。さういふ基本的メンタリティがあつたわけです。 さういふ状況の中で、松蔭は、孤立して狂つてゐるのではないかと疑はれるほど精神が先鋭化していくのを自覚したに違ひない。 そして、松蔭が異常に孤立した、自分一人しかゐない、自分が狂人だと思つた段階から明治維新は動き出したわけです。 三島由紀夫 「『孤立』ノススメ 六、松蔭は狂はなければならなかつたといふことについて」より
400 :
名無しさん@社会人 :2009/05/29(金) 10:47:29
絶望を語ることはたやすい。しかし希望を語ることは危険である。 わけてもその希望が一つ一つ裏切られてゆくやうな状況裡に、たえず希望を語ることは、後世に対して、自尊心と羞恥心を賭けることだと云つてもよい。 三島由紀夫 「『道義的革命』の論理――磯部一等主計の遺稿について」より
401 :
名無しさん@社会人 :2009/05/30(土) 12:24:24
漫画は、かくて、私の生理衛生上必要不可欠のものである。をかしくない漫画はごめんだ。何が何でもをかしくなくてはならぬ。 おそろしく下品で、おそろしく知的、といふやうな漫画を私は愛する。 悩殺する、とか、笑殺する、とかいふ言葉は、実存主義ふうに解すると、相手を「物」にしていまふことだと思はれる。 …知的な漫画ほどこの即物性がいちじるしく、低級な漫画ほど、笑ひ話の物語性だの、教訓性だの、によりかかつてゐる。 三島由紀夫 「わが漫画」より
402 :
名無しさん@社会人 :2009/05/30(土) 12:27:01
漫画は現代社会のもつともデスペレイトな部分、もつとも暗黒な部分につながつて、そこからダイナマイトを仕入れて来なければならないのだ。 あらゆる倒錯は漫画的であり、あらゆる漫画は幾分か倒錯的である。 そして倒錯的な漫画が、人を安心して笑はせるやうではまだ上等な漫画とはいへぬ。 …もつとも漫画的な状況とは、また永遠に漫画的状況とは、他人の家がダイナマイトで爆発するのをゲラゲラ笑つて見てゐる人が、自分の家の床下でまさに別のダイナマイトが爆発しかかつてゐるのを、少しも知らないでゐるといふ状況である。 漫画は、この第二のダイナマイトを仕掛けるところに真の使命がある。 …さて、一つの漫画は、小説家が、かういふ雑文をたのまれて、をかしくもない文章を、頭から湯気を立てて書いてゐる、といふその状況である。 三島由紀夫 「わが漫画」より
403 :
名無しさん@社会人 :2009/06/10(水) 10:40:04
…戦後の変節の早さ、かりにも「一国一城の主」が、女みたいに「私はだまされてゐた」 と言ひ出すのを見ては、私はいはゆる文化人知識人の性根を見たやうな気がしたのである。 …思想的弾圧のはげしさは言語を絶してゐたかもしれないが、いくら割り引いてみても、 知識人文化人のたよりなさの印象はのこるのである。 …大体、文化人知識人などといふものは、弱い立場なのである。 社会的地位もあいまいで、非常の場合に力で押して来られたら一トたまりもない。 幸ひ今は平和な時代で、大きな顔をしてゐられるが、われわれが大きい顔をしてゐられるから、 平和がありがたい、といふのでは、材木が売れるから地震がありがたい、といふ材木屋の考へと同じである。 三島由紀夫 「フィルターのすす払ひ」より
404 :
名無しさん@社会人 :2009/06/10(水) 10:42:39
世論なるものの作られ方自体にも、相当怪しいところがあるのである。 子供にだつて、シュークリームとあんころもちの二つを選ばせれば、どちらがうまいか、 自分の意見を決めることができるが、シュークリームだけを与へつづければ、 世界中でシュークリームほどうまいものはないと思ふやうになる。 今、日教組がとなへてゐる「教育の自由」とは、シュークリームだけを与へる教育の自由なのである。 ジャーナリズムの有力な傾向も、公正に見せかけた「選択の自由の排除」であつて、 われわれは言論を通じて、公正な選択の場を何とか確保しようと努めてゐるにすぎない。 三島由紀夫 「フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて」より
405 :
名無しさん@社会人 :2009/06/10(水) 10:44:46
現代政治の特徴は何事も世論のフィルターを濾過されねばならぬことであらうが、 そのフィルターにくつついた煤の煤払ひをしなければ世論自体が意味をなさぬ。 かくも強力なフィルターが、煤のおかげで、ひたすら被害者、被圧迫者を装つて、 フィルターの濾過を拒んでゐるやうな状況は、不健全であるのみならず、 フィルターの権威を落すものであると考へる。 かくてわれわれは、手に手に帚を持つて、煤払ひの戦ひに乗り出したといふわけなのである。 三島由紀夫 「フィルターのすす払ひ――日本文化会議発足に寄せて」より
406 :
名無しさん@社会人 :2009/06/15(月) 13:26:37
Q――現代のビジネスマンに要望することは? 三島由紀夫:私はね、商人といふのはきらひなんですよ。ですからね、万国博にも行つてゐないですよ。 あれは商人のお祭だから、武士は行かないんだといつてぐわんばつてゐるんです。 とはいひながらね、デパートだつて商人だしね。武士といへども、商人とつきあはざるを得ない、つらいところですよね(笑)。 武士だけやつてゐると、お米も食へなくなつちやふ。 かういふ世の中だから商人様全盛の世の中でしよ。ですけど、ぼく本人の中にはやつぱり武士の魂はあると思つてね。 商人の中にも銭屋五兵衛みたいな男もゐますしね。 明治の政商でも、政治とかんでゐて、そこでやつぱり自分の意気地を投げ打つといふ気持があつたと思ふんですよ。 商人がきらひといふ意味は、商人を尊敬しないわけぢやない。ただ一般に、商人には自己犠牲の精神がないからきらひなんです。 日本人といふのは、自己犠牲の精神がなくなつたら日本人ぢやないですよ。 今の商人といふのはさういふ気持がないから本当のユダヤ人になつちやふだらうと思ふんです。 三島由紀夫 「武士道に欠ける現代のビジネス」より
407 :
名無しさん@社会人 :2009/06/15(月) 13:27:21
資本といふのは、本質的にインターナショナルなものですよ。 どんな国の、いかにも民族資本でもね、インターナショナルな性質をもつてゐるのが資本だと思ふんですよ。 ところがそつちの面ばかりが出てくるとね、日本人の魂が商人道によつてをかされてきてゐると思ふ。 そのお金本位、金権主義にをかされてゐるのがこはい。 私は、青年が金権主義といふものに反抗する気持がいちばんよくわかる。 自分らが企業体の中で活躍するとき、いかに武士の魂をもつてても、結局、金権主義、ご都合主義、 さういふものによつてをかされていくといふのは、青年として耐へがたいだらうと思ふ。 三島由紀夫 「武士道に欠ける現代のビジネス」より
408 :
名無しさん@社会人 :2009/06/15(月) 13:28:06
Q――士道とは何か。 三島由紀夫:…ぼくは、魂の問題といふことで「士道」といふ言葉を使つた。 内面的なモラルといつてもいい。 内面的なモラルといふものは、自分が決めて自分がしばるものだ。 それがなければ、精神なんてグニャグニャになつちやふ。 今日では、自分で自分をしばるといつたストイックな精神的態度を、だれも要求しなくなつた。 ストイックなのは損だと、だれもが考へてゐる。 三島由紀夫 「精神的ダンディズムですよ」より
409 :
名無しさん@社会人 :2009/06/17(水) 10:35:51
抵抗に死に身になれ。抵抗はやれ。ただし遊び半分にやるな、といふことだ。 たとへば抵抗は楽しいものであるといふベ平連などの考へですね。あれが一番きらひなんです。 ベ平連式の“抵抗”は、大衆にアピールする。抵抗とは楽しい、抵抗とは手をつないで フランス・デモをやることだ、フォーク・ダンスをやることだ、これが非常にいやなんです。 抵抗はナマやさしいもんぢやない。血みどろで、死に身にならなきやできないのが本当である。 内部批判をする連中が、手柄顔で歩いてゐる。石原君のことぢやなく、世間一般ですよ。 …自分の属してゐるものの内部批判した男が英雄視される。こんな間違つたことはない。 抵抗をもう少し暗いものにしなきやいかん。 三島由紀夫 「精神的ダンディズムですよ」より
410 :
名無しさん@社会人 :2009/06/17(水) 10:36:32
Q――「士道」の復活は、現代において可能ですか。 三島由紀夫:ぼくはさういふふうに問題を考へてゐない。 「士道」といふ言葉をいふのは、その言葉が、まるで一滴のしづくのやうにその人の心にしたたつたら、 自分で考へてごらんなさい――といふだけなんです。 「士道」といふものは、マスコミを通じて広まるやうな性質のものではない。 われわれの心の中を探つてみると、心のなかに持つてゐる自己規律に照らして、どこかやましいものがあるはずだ。 やましいものがあれば、士道に反してゐるのだと考へるべきだ。それが日本人だと思ふんです。 なぜやましさを感じるか。それは士道にもとつてるからなんです。士道つてそんなものではないか。 一言でいへば、「士道」とは男の道ですよ。 三島由紀夫 「精神的ダンディズムですよ」より
411 :
名無しさん@社会人 :2009/07/01(水) 12:14:09
芸道とは何か? それは「死」を以てはじめてなしうることを、生きながら成就する道である、といへよう。 これを裏から言ふと、芸道とは、不死身の道であり、死なないですむ道であり、 死なずにしかも「死」と同じ虚妄の力をふるつて、現実を転覆させる道である。 同時に、芸道には、「いくら本気になつても死なない」「本当に命を賭けた行為ではない」 といふ後めたさ、卑しさが伴ふ筈である。 現実世界に生きる生身の人間が、ある瞬間に達する崇高な人間の美しさの極致のやうなものは、 永久にフィクションである芸道には、決して到達することのできない境地である。 「死」と同じ力と言つたが、そこには微妙なちがひがある。 いかなる大名優といへども、人間としての団蔵の死の崇高美には、身自ら達することはできない。 彼はただそれを表現しうるだけである。 三島由紀夫 「団蔵・芸道・再軍備」より
412 :
名無しさん@社会人 :2009/07/01(水) 12:17:59
ここに、俳優が武士社会から河原乞食と呼ばれた本質的な理由があるのであらう。 今は野球選手や芸能人が大臣と同等の社会的名士になつてゐるが、昔は、現実の権力と 仮構の権力との間には、厳重な階級的差別があつた。 しかし仮構の権力(一例が歌舞伎社会)も、それなりに卑しさの絶大の矜持を持ち、 フィクションの世界観を以て、心ひそかに現実社会の世界観と対決してゐた。 現代社会に、このやうな二種の権力の緊張したひそかな対決が見られないのは、一つは、 民主社会の言論の自由の結果であり、一つは、現実の権力自体が、すべてを同一の質と化する マス・コミュニケーションの発達によつて、仮構化しつつあるからである。 さて、芸能だけに限らない。 小説を含めて文芸一般、美術、建築にいたるまで、この芸道の中に包含される。 (小説の場合、芸道から脱却しようとして、却つて二重の仮構のジレンマに陥つた 「私小説」のやうな例もあるが、ここではそれに言及する遑はない) 三島由紀夫 「団蔵・芸道・再軍備」より
413 :
名無しさん@社会人 :2009/07/01(水) 12:19:17
ギリギリのところで命を賭けないといふ芸道の原理は、芸道が、とにかく、 石にかじりついても生きてゐなければ成就されない道だからである。 「葉隠」が、 「芸能に上手といはるゝ人は、馬鹿風の者なり。 これは、唯一偏に貪着する故なり、愚痴ゆゑ、余念なくて上手に成るなり。 何の益にも立たぬものなり」 と言つてゐるのは、みごとにここを突いてゐる。 「愚痴」とは巧く言つたもので、愚痴が芸道の根本理念であり、現実のフィクション化の根本動機である。 さて、今いふ芸術が、芸道に属することをいふまでもないが、私は現代においては、 あらゆるスポーツ、いや、武道でさへも、芸道に属するのではないかと考へてゐる。 それは「死なない」といふことが前提になつてゐる点では、芸術と何ら変りないからである。 三島由紀夫 「団蔵・芸道・再軍備」より
414 :
名無しさん@社会人 :2009/07/06(月) 16:28:28
僕は今でも吉田茂は偉い人だと思うけど、明治以降の日本の歴史で、あんなに日本人の欺瞞を うまく成功させたのは、あの人だけでしょう。 それはどこから学んだかというと、イギリスですね。 日本の政治家は少なくとも正義、真実あるいは誠実という顔をしていなければならなかったのに、 吉田茂の時代には国民全体が欺瞞の精神に味方をした。 あんなにアメリカ人をもてあそんだ人はいないよ。 それにまたみごとに乗せることができたのは、イギリス的な教養が彼にあったからだけど、 イギリス的な教養は日本の昭和の歴史のなかでは、いつも無力だった。 いつも国家主義者の怨嗟の的であり、日和見主義、無力の良識、不決断の象徴であった。 三島由紀夫 野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
415 :
名無しさん@社会人 :2009/07/06(月) 16:29:40
ところが吉田茂は、そのイギリス的な教養を逆に使って、欺瞞にうまく役立てた。 これは近代史のなかで、面白い時代だと思う。 あんなに日本人のなかで、欺瞞がうまくいった時代はなかったと思う。それからあとはだめです。 政治家がどんな欺瞞をやっても、国民がついてゆかない。 国民の考えていることと、欺瞞とがみごとに一致した時代はもうこないでしょう。 今はただ欺瞞と腐敗があるだけで、国民はだれもが味方をしていない。 あなたも、そして僕も怒っているのは、それですよ。 欺瞞のまま、これからどこへゆくかということは心配でしょう。 三島由紀夫 野坂昭如との対談「エロチシズムと国家権力」より
416 :
名無しさん@社会人 :2009/07/11(土) 11:30:53
東京空港で、米国務長官を襲つて未遂に終つた一青年のことが報道された。 日本のあらゆる新聞がこの青年について罵詈ざんばうを浴せ、袋叩きにし、足蹴にせんばかりの勢ひであつた。 …私はテロリズムやこの青年の表白に無条件に賛成するのではない。 ただあらゆる新聞が無名の一青年をこれほど口をそろへて罵倒し、判で捺したやうな全く同じヒステリカルな 反応を示したといふことに興味を持つたのである。 左派系の新聞も中立系の新聞も右派系の新聞も同時に全く同じヒステリー症状を呈した。 かういふヒステリー症状は、ふつう何かを大いそぎで隠すときの症候行為である。 この怒り、この罵倒の下に、かれらは何を隠さうとしたのであらうか。 日本は西欧的文明国と西欧から思はれたい一心でこの百年をすごしてきたが、この無理なポーズからは何度もボロが出た。 最大のボロは第二次世界対戦で出し切つたと考へられたが、戦後の日本は工業的先進国の列に入つて、もうボロを出す 心配はなく、外国人には外務官僚を通じて茶道や華道の平和愛好文化こそ日本文化であると宣伝してゐればよかつた。 三島由紀夫 「日本文化の深淵について」より
417 :
名無しさん@社会人 :2009/07/11(土) 11:31:44
昭和三十六年、私がパリにゐたとき、たまたま日本で浅沼稲次郎の暗殺事件が起つた。 浅沼氏は右翼の十七歳の少年山口二矢によつて短剣で刺殺され、少年は直後獄中で自殺した。 このとき丁度パリのムーラン・ルージュではRevue Japonais といふ日本人のレビューが上演されてをり、 その一景に、日本の短剣の乱闘場面があつた。 在仏日本大使館は誤解をおそれて、大あわてで、その景のカットをレビュー団に勧告したのである。 誤解をおそれる、とは、ある場合は、正解をおそれるといふことの隠蔽である。 私がいつも思ひ出すのは、今から九十年前、明治九年に起つた神風連の事件で、これは今にいたるも ファナティックな非合理な事件としてインテリの間に評判がわるく、外国人に知られなくない一種の恥と考へられてゐる。 三島由紀夫 「日本文化の深淵について」より
418 :
名無しさん@社会人 :2009/07/11(土) 11:32:27
約百名の元サムラヒの頑固な保守派のショービニストが起した叛乱であるが、彼らはあらゆる西洋的なものを憎み、 明治の新政府を西欧化の見本として敵視した。 …あらゆる西欧化に反抗した末、新政府が廃刀令を施行して、武士の魂である刀をとりあげるに及び、 すでにその地方に配置された西欧化された近代的日本軍隊の兵営を、百名が日本刀と槍のみで襲ひ、 結果は西洋製の小銃で撃ち倒され、敗残の同志は悉く切腹して果てたのである。 トインビーの「西欧とアジア」に、十九世紀のアジアにとつては、西欧化に屈服してこれを受け入れることによつて 西欧に対抗するか、これに反抗して亡びるか、二つの道しかなかつたと記されてゐる。 正にその通りで、一つの例外もない。 日本は西欧化近代化を自ら受け入れることによつて、近代的統一国家を作つたが、その際起つた もつとも目ざましい純粋な反抗はこの神風連の乱のみであつた。 他の叛乱は、もつと政治的色彩が濃厚であり、このやうに純思想的文化的叛乱ではない。 三島由紀夫 「日本文化の深淵について」より
419 :
名無しさん@社会人 :2009/07/11(土) 11:33:08
日本の近代化が大いに讃えられ、狡猾なほどに日本の自己革新の能力が、他の怠惰なアジア民族に比して 賞讃されるかげに、いかなる犠牲が払はれたかについて、西欧人はおそらく知ることが少ない。 それについて探究することよりも、西欧人はアジア人の魂の奥底に、何か暗い不吉なものを直感して、 黄禍論を固執するはうを選ぶだらう。 しかし一民族の文化のもつとも精妙なものは、おそらくもつともおぞましいものと固く結びついてゐるのである。 エリザベス朝時代の幾多の悲劇がさうであるやうに。 ……日本はその足早な、無理な近代化の歩みと共に、いつも月のやうに、その片面だけを西欧に対して 示さうと努力して来たのであつた。 そして日本の近代ほど、光りと影を等分に包含した文化の全体性をいつも犠牲に供してきた時代はなかつた。 三島由紀夫 「日本文化の深淵について」より
420 :
名無しさん@社会人 :2009/07/11(土) 11:33:48
私の四十年の歴史の中でも、前半の二十年は、軍国主義の下で、不自然なピューリタニズムが文化を統制し、 戦後の二十年は、平和主義の下で、あらゆる武士的なもの、激し易い日本のスペイン風な魂が抑圧されて来たのである。 そこではいつも支配者側の偽善が大衆一般にしみ込み、抑圧されたものは何ら突破口を見出さなかつた。 そして、失はれた文化の全体性が、均衛をとりもどさうとするときには、必ず非合理な、 ほとんど狂的な事件が起るのであつた。 これを人々は、火山のマグマが、割れ目から噴火するやうに、日本のナショナリズムの底流が、 関歇的に奔出するのだと見てゐる。 ところが、東京空港の一青年のやうに見易い過激行動は、この言葉で片附けられるとしても、あらゆる 国際主義的仮面の下に、ナショナリズムが左右両翼から利用され、引張り凧になつてゐることは、気づかれない。 反ヴィエトナム戦争の運動は、左翼側がこのナショナリズムに最大限に訴へ、そして成功した事例であつた。 三島由紀夫 「日本文化の深淵について」より
421 :
名無しさん@社会人 :2009/07/11(土) 11:36:12
ナショナリズムがかくも盛大に政治的に利用されてゐる結果、人々は、それが根本的には 文化の問題であることに気づかない。 九十年前、近代的武器を装備した近代的兵営へ、日本刀だけで斬り込んだ百人のサムラヒたちは、 そのやうな無謀な行動と、当然の敗北とが、或る固有の精神の存在証明として必要だ、といふことを知つてゐたのである。 これはきはめて難解な思想であるが、文化の全体性が犯されるといふ日本の近代化の中にひそむ危険の、 最初の過激な予言になつた。 われわれが現在感じてゐる日本文化の危機的状況は、当時の日本人の漠とした予感の中にあつたものの、 みごとな開花であり結実なのであつた。 三島由紀夫 「日本文化の深淵について」より
422 :
名無しさん@社会人 :2009/07/13(月) 15:31:52
私は別に美食家ではない。おいしいものは好きだけれども、場合によつてはまづいものも好きである。 美食しかできないといふ人は、たとへばローマの「トリマルキオーの饗宴」の主人公のやうに、退廃した人間である。 私は男といふものは、絹のパジャマでも軍隊毛布でも同じやうに平気で寝られる人間であるべきだと思ふ。 絹のパジャマでなくては眠れないといふ人間は、男ではない。 …自衛隊の食事は一日三食二百六十円である。マキシムは一食一万円である。おほむね値段からすれば百倍である。 ではマキシムが百倍だけおいしかつたかといへば、そんなことはない。 自衛隊では自衛隊の食事が相応においしく、マキシムではマキシムの料理が相応においしかつただけのことである。 その場その場でどちらもおいしいと思ふのは私の胃が健康だからであり、そしてそれだけのことである。 三島由紀夫 「美食について」より
423 :
名無しさん@社会人 :2009/07/13(月) 15:33:25
…人生経験を積むにつれて、いろんなものを食べる機会にぶつかる。 私はエジプトの鶏も、ギリシャのムサカも、…(略)…、タイ料理、インド料理……あらゆるものを食べた。 自衛隊では、縞蛇もガマ蛙も自分で料理して食べた。 しかしこんなものは、毎日ほしいときに食べられたら、別に珍味といふわけではあるまい。 その時、その環境に応じて、むやみにおいしく思はれるときも、まづい時もある。 私が外交官になりたくないと思ふのは、職業として毎日義務的に美食をするほど人生で辛いことはあるまいと 思ふからである。 結婚して毎日ご馳走を幾皿も家庭で作らせる亭主を、美食家と思つて、自慢のタネにしてゐる女性は哀れである。 くりかへして言ふが、いはゆる美食家は退廃した人間であり、何を食はせても「うまい」「うまい」と喜んで 平らげる男、女から見たら物足りない男こそ、女性にとつて誇るべき亭主なのである。 三島由紀夫 「美食について」より
424 :
名無しさん@社会人 :2009/08/02(日) 22:17:36
「世間」とは何だらう。もつとも強大な敵であると共に、いや、それなればこそ、 最終的には、どうしても味方につけなければならないもの。 さういふものと相渉るには、政治学だけでは十分ではない。 何か「世間」に負けない、つひには「世間」がこちらを嫉視せずにはゐられぬやうな、 内的な価値と力が要る。魅惑(シャルム)こそ世間に対する最後の武器である。 三島由紀夫 「序 丸山明宏著『紫の履歴書』」より
425 :
名無しさん@社会人 :2009/08/03(月) 00:32:15
つーか、コピペするなら、↓を全文コピペしてよ。 >三島由紀夫 >「日本文化の深淵について」より
426 :
名無しさん@社会人 :2009/08/03(月) 11:08:56
427 :
名無しさん@社会人 :2009/08/03(月) 14:41:40
>>426 じゃあ、抜けてるところを補強して下さい。 そしたら、私が三島の文を評論しますから。
428 :
名無しさん@社会人 :2009/08/04(火) 13:00:51
>>427 抜けているのは
>>416 の…の前、3行くらいだけですよ。あとは全文そのまま引用してます。
省略した部分↓
「青年は沖縄で反基地闘争の日本人が米兵の銃剣に傷つけられた報復として、せめて米国の代表者に
傷を負はせようとしたのが目的であり、個人的には何の恨みもないと表明した。
青年が過激な右翼団体に属してゐたといふ経歴はなかつた。」
引用とは、自分の文が主、他人の文が従の関係にある場合にそう言うのだよ。 ただコピペしているだけなら転載というの。
430 :
名無しさん@社会人 :2009/08/04(火) 20:15:11
>>428 おお、どうもです。 了解しました。
>>416 > かういふヒステリー症状は、ふつう何かを大いそぎで隠すときの症候行為である。
この指摘が、当たりか外れかはともかくとして、面白い発想だと思う。
> 日本は西欧的文明国と西欧から思はれたい一心でこの百年をすごしてきた
これは確かにあると思う。
431 :
430 :2009/08/04(火) 20:30:25
で、次の神風連だけど、これは初めて知りました。 俺の印象としたら「愛すべき駄々っ子」ですよね、神風連は。 これをマネたんですかね、三島の自衛隊自決騒動は。 でも、大きな違いは、神風連には必然性があるけど、三島の自衛隊自決騒動には必然性がない。 三島の自衛隊自決騒動の気持ち悪さここだと思います。
432 :
430 :2009/08/04(火) 20:40:09
>>420 > 戦後の二十年は、平和主義の下で、あらゆる武士的なもの、激し易い日本のスペイン風な魂が抑圧されて来たのである。
これが大ウソだと思う。
日本的な魂、文化があるとすれば、それは武士ではなく、農民が持っていた物です。
武士だの公家だのというのは日本人の少数の搾取者、寄生者であって、日本的な魂、文化からほど遠い存在です。
2チャンウヨが使うのも、このロジック。
『過去の日本の暴力者、権力者のやって来た事=日本的な魂、文化』
こう定義して論を進めて行くんだよねw
433 :
430 :2009/08/04(火) 21:04:19
>>419 > ……日本はその足早な、無理な近代化の歩みと共に、いつも月のやうに、その片面だけを西欧に対して
> 示さうと努力して来たのであつた。
この表現は実に秀逸。
>>420 > これを人々は、火山のマグマが、割れ目から噴火するやうに、日本のナショナリズムの底流が、
> 関歇的に奔出するのだと見てゐる。
これは、宮台真司が鈴木邦夫の解説でも書いていたけど、何がなんだかわかりません。 誰か説明プリーズw
434 :
430 :2009/08/04(火) 22:03:34
>>420 > そして、失はれた文化の全体性が、均衛をとりもどさうとするときには、必ず非合理な、
> ほとんど狂的な事件が起るのであつた。
三島のいう、「失はれた文化」=「正しい文化」とはどんな文化なのか説明出来る人はいませんか?
435 :
名無しさん@社会人 :2009/08/04(火) 23:35:12
>>431 必然性があるかないかは、あなたが決めることじゃないから。
そんなものは個人個人で見方が違うしね。
神風連だってその当時の人間は、必然性がないと思ってた人はいただろうし。現に三島が取り上げなければ、現在も黙殺されて闇に葬られてたような事件だよ。
三島事件も、未来には必然性があったと解釈する人もいるだろうし、今もいるし。
436 :
名無しさん@社会人 :2009/08/04(火) 23:40:26
>>432 はあ?三島はここでは農民文化には触れてません。
「武士道」的なものが抑圧されたと言及してるだけ。
勝手に話を広げて、言及してないことまでウソ呼ばわりして、持論を展開しないで下さい。
437 :
名無しさん@社会人 :2009/08/04(火) 23:46:12
>>434 三島は、「失はれた文化」=「正しい文化」なんてひと言も言ってないから。
勝手に自分の解釈を繋げないで下さい。
文化に客観的に正しいも間違ってるもないでしょ。
438 :
430 :2009/08/04(火) 23:52:42
>>437 じゃあ、三島のいう「失はれた文化」とはどういう文化ですか?
439 :
名無しさん@社会人 :2009/08/04(火) 23:54:22
>>432 それから、日本の文化、魂を持っていたのは農民だけみたいに、決めつけちゃって、権力者=暴力者とか単純発想してる時点で
あなたもウヨの反対のネットサヨにしか見えませんよ。
それじゃ、三流時代劇の見すぎの阿呆か日教組の発想でしょ。
440 :
名無しさん@社会人 :2009/08/05(水) 00:06:41
>>438 そういうのは自分の親や祖母祖父から聞いてみたり、美しい日本の風景や自然を眺めて感じてみれば?
理屈や頭で考えることじゃないと思いますよ、日本人の心は。
441 :
430 :2009/08/05(水) 00:09:09
>>440 じゃあ、あなたも三島のいう「失はれた文化」の文化とはどんなものだか全然わかんないんだ。
442 :
名無しさん@社会人 :2009/08/05(水) 00:21:10
>>441 わかりますよ、なんとなく。言葉で的確に言い表せないけど、ひと言でいえば「狂信的なもの」でしょ。
443 :
430 :2009/08/05(水) 00:30:30
>>420 > そして、失はれた文化の全体性が、均衛をとりもどさうとするときには、必ず非合理な、ほとんど狂的な事件が起るのであつた。
とのことだから、「失はれた文化」そのものは狂信的ではないのでは?
444 :
名無しさん@社会人 :2009/08/05(水) 10:53:12
>>443 「失はれた文化」そのものも、西欧合理主義の反対の、狂信的なもの、非合理なものでしょう。
切腹とか、まさにその一つだし。
より詳しい三島の思想が知りたかったら、三島の著書を読んでください。
445 :
430 :2009/08/05(水) 13:00:32
446 :
名無しさん@社会人 :2009/08/05(水) 17:31:21
>>444 詰まったら狂信的なものだ非合理なものだとか抽象的な言葉で濁して
詳しく知りたかったら三島の著作を読んでくださいじゃねーよ。
お前だって三島の思想を説明できないんじゃねーか
だったら最初っからくだらねーコピペすんなバカ
バカ丸出し低脳丸出し低学歴丸出しババア
プ(´゚m゚`)σ[ノ ヽ``┼┐!]
ファナティシズムに用は無い 反乱を煽っているわけでもない 立憲主義の何たるか位は語れば?
448 :
430 :2009/08/05(水) 23:40:47
>>444 じゃあ、あなたも三島みたいに切腹したい願望があるわけ?
449 :
名無しさん@社会人 :2009/08/06(木) 15:38:52
人は、天皇と言ふと、たちまち戦前、明治憲法下における天皇制の弊害を思ひ出し、 戦争からにがい経験を得た人ほど、天皇制に対する疑惑を表明してきたのが常ですが、 私は、天皇制とは、その歴史は、あくまでもその時代時代の国民が、日本人の総力をあげて 創造し復活させてきたものだと思ふのです。 いつも新しい天皇制があり、いつも現在の天皇制があり、その現在の天皇制の連続の上に 永遠の天皇制があるといふところに、天皇の本質がひそむのです。 これは一つの例をとつても、天皇ご自身にわれわれのやうな姓名ファミリーネームがなく、 一つの非人称的な方として伝承されてきたことをみてもわかります。 新しい天皇制は、われわれがつくつていくものであり、そしてこれを抜きにしては日本の今後の 自立の精神の中心は見あたらず、また天皇をいたづらに政治権力に接着おさせすることなく、 あくまで無限受容の無我の本主体として、その日本独自の歴史・文化・伝統のみに かかはる君主制を確立しなければなりません。 三島由紀夫 「70年代新春の呼びかけ」より
450 :
名無しさん@社会人 :2009/08/20(木) 09:51:51
僕はたとえばね、どんな思想が起ころうが、彼ら(日本の近代主義者、知識人)は もう弁ばくできないと思うのです。 だって自分たちがやるべきときやらなかったのだから、あとに何が出てももうしょうがないですよ。 …とにかく僕が「喜びの琴」という芝居を書いたとき、共産主義は暴力革命は絶対やらないのだと、 もうそんなのは昔の古いテーゼで、いま絶対にそういうことはやらないのだと…… あんな芝居を書く男は、頭が三十年古いとみんな笑ったものです。 そうしたらね、インドネシアの武力革命が起こりかけた。まあ、失敗しましたが。 ちょっと、五、六年さきのこともわからないのですね。 三島由紀夫 林房雄との対談「日本人論」より
451 :
名無しさん@社会人 :2009/08/28(金) 11:04:07
GHQと戦争裁判という問題はね、単なる思想問題として考えますと(いまや僕は、政治問題としての意味よりも 思想問題として影を落としていると思うのですが)GHQの理念、あるいは戦争裁判の理念というのは、 近代的普遍的諸価値のヒューマニズムがおもてだっているわけです。 そうすると、戦後にそういう諸観念がもう一度復活して、天下をまかり通って、同時にその欺瞞をあらわしたということで、 僕はアメリカの影響というのは、日本の戦後思想史には非常に強いというふうに考える。みんなが思っているよりも。 …彼ら(アメリカ人)は、自由といい、平和といい、人類というときに、それは信じていると思う。 それは彼らの生活の根本にあって、そういうものでもって国家を運用し、戦争を運用し、経済を運用してやっている。 それが日本にきてみた場合に、日本人がそういうような、ある意味で粗雑な、大ざっぱな観念で生きられるかどうかという、 いい実験になったと思う。 三島由紀夫 林房雄との対談「日本人論」より
452 :
名無しさん@社会人 :2009/08/28(金) 11:05:35
…アメリカ人の考えている自由、アメリカ人の考えている人類、アメリカ人の考えている平和というものは、 ベトナム戦争もやれるものであるということがわかってきたということだ。 これは大きな問題だと思う。 そうすると、アメリカ人はベトナム戦争をやっても、やはり自由を信じ、平和を信じていると思う。 これは嘘ではないと思う。彼らはけっしてそんな欺瞞的国民ではありませんし、彼らは戦争をやって自由のために 戦っているというのは、嘘ではないですよ。彼らは心からそう信じている。 ただ日本人は、そんな粗雑な観念を信じられないだけなんです。 というのは、日本で自由だの平和だのといっても、そんな粗雑な観念でわれわれ生きているわけではありませんからね。 そこに非常に微妙な文化的なニュアンスがあって、そこのうえで近代的な観念が生きている。 それが徐々にわかってきたというのが、いまの思想家全体の破綻の原因で、それは結局アメリカのおかげだと思うのです。 それを与えたのもアメリカなら、反省を促したのもアメリカですね。 三島由紀夫 林房雄との対談「日本人論」より
453 :
名無しさん@社会人 :2009/08/28(金) 11:06:25
林房雄:…日本弱化と精神的武装解除の軍人政治にすぎないものを、アメリカニゼーションと思いこんだのが三等学者です。 新憲法とともに登場して来た三等学者がたくさんいる。彼らが新憲法を守れというのは当然です。… 三島由紀夫:…丸山(真男)さんなどでも、ファシズムという概念規定を疑わないのは不思議ですね。 ファシズムというのは、ぜんぜん日本にありませんよ。 林:絶対ありません。どう考えてもね。 三島:そういう概念規定を日本にそのまま当てはめて、恬然と恥じない。 今度彼らを分析していくと、別なものにぶつかるのですよ。 丸山学派の日本ファシズムの三規定というのがありますね。 一つが天皇崇拝、一つが農本主義、もう一つは反資本主義か、たしかこの三つだったと思う。 そうすると、それはファシズムというヨーロッパ概念から、どれ一つ妥当しはしませんよ。 林:一つも妥当しない。 三島由紀夫 林房雄との対談「日本人論」より
454 :
名無しさん@社会人 :2009/08/28(金) 11:07:11
三島:はじめナチスは資本家と結んだのですからね。 日本の愛国運動というのは、もちろん資本家といろいろ関係も生じたけれども、二・二六事件の根本は反資本主義で、 当時二・二六事件もそうだが、二・二六事件のあとで陸軍の統制派が、二・二六事件があまり評判が悪かったので、 今度、やはり反資本主義的なポーズにおける声明書を発表したら、麻生久がとても感激したのですね。 やはりわれわれの徒だということになって、それで賛成演説などをやったりしたことがあるけれども、 そういうファシズム一つとってもそうだし……。 林:…それから二・二六事件にしても、進歩学派諸君は支配階級内部の対立だというふうにかたづけているが……。 三島:事実はぜんぜん違っている。 林:これは一つの革命勢力と支配勢力との闘いだということを認めないわけですね。 三島由紀夫 林房雄との対談「日本人論」より
455 :
名無しさん@社会人 :2009/08/31(月) 10:06:59
神風連のことを研究していて、おもしろく思ったのは、かれらは孝明天皇の攘夷の御志を、明治政府が完全に転倒させ、 廃刀令を出したことに対して怒り、…万世一系ということと、「先帝への忠義」ということが、一つの矛盾のない 精神的な中核として総合されていた天皇観が、僕には興味が深いのです。 歴史学者の通説では、大体憲法発布の明治二十二年前後に、いわゆる天皇制国家機構が成立したと見られているが、 それは伊藤博文が、「昔の勤皇は宗教的の観念を以てしたが、今日の勤皇は政治的でなければならぬ」と考えた思想の実現です。 僕は、伊藤博文が、ヨーロッパのキリスト教の神の観念を欽定憲法の天皇の神聖不可侵のもとにしたという考えはむしろ逆で、 それ以前の宗教的精神的中心としての天皇を、近代政治理念へ導入して政治化したという考えが正しいと思います。 三島由紀夫 林房雄との対談「日本人論」より
456 :
名無しさん@社会人 :2009/08/31(月) 10:08:07
明治憲法の発布によって、近代国家としての天皇制国家機構が発足したわけですが、「天皇神聖不可侵」は、 天皇の無謬性の宣言でもあり、国学的な信仰的天皇の温存でもあって、僕はここに、九十九パーセントの西欧化に対する、 一パーセントの非西欧化のトリデが、「神聖」の名において宣言されていた、と見るわけです。 神風連の電線に対してかざした白扇が、この「天皇不可侵」の裏には生きていると思う。 殊に、統師大権的天皇のイメージのうちに、攘夷の志が、国務大権的天皇のイメージのうちに開国の志が、 それぞれ活かされたと見るのです。 これがさっきの神風連の話ともつながるわけですが、天皇は一方で、西欧化を代表し、一方で純粋な日本の 最後の拠点となられるむずかしい使命を帯びられた。 天皇は二つの相反する形の誠忠を、受け入れられることを使命とされた。 二・二六事件において、まことに残念なのは、あの事件が、西欧派の政治理念によって裁かれて、神風連の 二の舞になったということです。 三島由紀夫 林房雄との対談「日本人論」より
457 :
名無しさん@社会人 :2009/08/31(月) 10:09:05
ところで僕は、日本の改革の原動力は、必ず、極端な保守の形でしか現われず、時にはそれによってしか、 西欧文明摂取の結果現われた積弊を除去できず、それによってしか、いわゆる「近代化」も可能ではない、 というアイロニカルな歴史意志を考えるのです。 …幻滅と敗北は、攘夷の志と、国粋主義の永遠の宿命なのであって、西欧の歴史法則によって、その幻滅と敗北は いつも予定されている。日本の革新は、いつでもそういう道を辿ってきた。 …僕の天皇に対するイメージは、西欧化への最後のトリデとしての悲劇意志であり、純粋日本の敗北の宿命への洞察力と、 そこから何ものかを汲みとろうとする意志の象徴です。 …「何ものかを汲みとろう」なんて言うとアイマイに思われるでしょうが、僕は維新ということを言っているのです。 天皇が最終的に、維新を「承引き」給うということを言っているのです。 そのためには、天皇のもっとも重大なお仕事は祭祀であり、非西欧化の最後のトリデとなりつづけることによって、 西欧化の腐敗と堕落に対する最大の批評的拠点になり、革新の原理になり給うことです。 イギリスのまねなんかなさっては困るんです。 三島由紀夫 林房雄との対談「日本人論」より
458 :
名無しさん@社会人 :2009/08/31(月) 10:11:05
…僕は大嘗祭というお祭りが、いちばん大事だと思うのですがね。あれはやはり、農本主義文化の一つの精華ですね。 あそこでもって、つまり昔の穀物神と同じことで、天皇が生まれ変わられるのですね。 そうして天皇というのは、いま見る天皇が、また大嘗祭のときに生まれ変わられて、そうして永久に、最初の 天照大神にかえられるのですね。そこからまた再生する。 …僕は、経済の発展的な段階というものを、ぜんぜん信じてないのですね。 農耕文化なり、なに文化なり、資本主義から社会主義になるというのは、まったく信じてない。 だけれどもインダストリアゼーションは、土から、みんな全部人間を引き離すでしょう。 そしてわれわれのもっているものは、すべて土とか、植物とか、木の葉とか、そういうものとはどんどん離れていく。 それで土を代表するものはなにかとか、稲の葉っぱを代表するものはなにかとか、自然というものと、 われわれの生活とを最後に結ぶものはなにか。 三島由紀夫 林房雄との対談「日本人論」より
459 :
名無しさん@社会人 :2009/08/31(月) 10:12:09
…天皇制というのは、少しバタ臭い解釈になるが、あらゆる人間の愛を引き受け、あらゆる人間の愛による不可知論を 一身に引き受けるものが天皇だと考えます。普通の人間のあいだの恋でしょう……。 恋(れん)ですね。それは普通の人間とのあいだの愛情は、みなそれで足りるのですよ、全部。 それがぼくは日本の風土だというふうに思うのです。 (中略) …僕にとっては、芸術作品と、あるいは天皇と言ってもいい、神風連と言ってもいいが、いろいろなもののね、 その純粋性の象徴は、宿命離脱の自由の象徴なんですよ。 つまりね、一つ自分が作品をつくると、その作品は独得の秩序をもっていて、この宿命の輪やね、それから 人間の歴史の必然性の輪からポンとはみ出す、ポンと。 これはだれがなんと言おうと、それ自体の秩序をもって、それ自体において自由なんですね。 その自由を生産するのが芸術家であって、芸術家というものは、一つの自由を生産する人間だけれども、 自分が自由である必要はない、ぜんぜん。そしてその芸術作品というのはある意味では、完全に輪から外れたものです。 三島由紀夫 林房雄との対談「日本人論」より
460 :
名無しさん@社会人 :2009/09/02(水) 09:45:08
――それはそうと、この間江田島の参考館へ行って、特攻隊の遺書をたくさん見ました。 遺書というのではないが、ザラ紙に鉛筆の走り書きで、「俺は今とても元気だ。三時間後に確実に死ぬとは思えない……」 などというのがあり、この生々しさには実に心を打たれた。 九割九分までは類型的な天皇陛下万歳的な遺書で、活字にしたらその感動は薄まってしまう。 もし出版するなら、写真版で肉筆をそのまま写し、遺影や遺品の写真といっしょに出すように忠告しました。 それにしても、その、類型的な遺書は、みんな実に立派で、彼らが自分たちの人生を立派に完結させるという叡智をもっていたとしか思えない。 もちろん未練もあったろう。言いたいことの千万言もあったろう。 しかしそれを「言わなかった」ということが、遺書としての最高の文学表現のように思われる。 三島由紀夫 林房雄との対談「日本人論」より
461 :
名無しさん@社会人 :2009/09/02(水) 09:45:52
僕が「きけわだつみのこえ」の編集に疑問を呈してきたのはそのためです。 そして人間の本心などというものに、重きを置かないのはそのためです。 もし人間が決定的行動を迫られるときは、本心などは、まして本心の分析などは物の数ではない。 それは泡沫のようなただの「心理」にすぎない。 そんな「心理」を一つも出していない遺書が結局一番立派なのです。 それにしても、「天皇陛下万歳」と遺書に書いておかしくない時代が、またくるでしょうかね。 もう二度と来るにしろ、来ないにしろ、僕はそう書いておかしくない時代に、一度は生きていたのだ、ということを、 何だか、おそろしい幸福感で思い出すんです。 いったいあの経験は何だったんでしょうね。あの幸福感はいったい何だったんだろうか。 三島由紀夫 林房雄との対談「日本人論」より
462 :
名無しさん@社会人 :2009/09/06(日) 16:39:09
日本の女が全部ぬかみそに手をつつこむことを拒否したら、日本ももうおしまひだ。 三島由紀夫 「複雑な彼」より
463 :
名無しさん@社会人 :2009/09/08(火) 10:59:08
…近代主義者はとにかくだめだということは、二十年でよくわかった。 そうして日本の近代主義者の言うとおりにならなかったのは、インダストリアリゼーションをやっちゃったということで、 これが歴史の非常なアイロニーですね。 普通ならば、近代主義者の言うとおりに、思想精神が完全に近代化することによって近代社会が成立し、 そしてインダストリアリゼーションの結果、そういうものが社会に実現されるという、じつは必ずしも コミュニズムであってもなくても、彼らの考えていることはそうですよ。 ところがなに一つわれわれのメンタリティーのなかには、近代主義が妥当しないにもかかわらず、工業化が進行し、 工業化の結果の精神的退廃、空白といってもいいが、そういうものが完全に成立した。 それと、日本人のなかにある古いメンタリティーとの衝突が、各個人のなかにずいぶん無秩序なかたちで 起こっているわけですね。 三島由紀夫 林房雄との対談「日本人論」より
464 :
名無しさん@社会人 :2009/09/08(火) 11:00:59
…僕が思想家がぜんぜん無力だというのは、経済現象その他に対してすらなんらの予見もしなければ、 その結果に対して責任ももってないというふうに感ずるからです。 第一、戦後の物質的繁栄というのは、経済学者は一人も寄与してないと思いますよ。 僕が大蔵省にいたとき大内兵衛が、インフレ必至説を唱えて、いまにも破局的インフレがくるとおどかした。 ドッジ声明でなんとか救われたでしょう。政治的予見もなければなんにもない。 経済法則というものは、実にあいまいなもので、こんなに学問のなかでもあいまいな法則はありませんよ。 それで戦後の経済復興は、結局戦争から帰ってきた奴が一生懸命やったようなもので、なんら法則性とか 経済学者の指導とか、ドイツのシャハトのような指導的な理論的な経済学者がいたわけではないし、 まったくめくらめっぽうでここまできた。 これは経済学者の功績でも、思想家の功績でもない。 三島由紀夫 林房雄との対談「日本人論」より
465 :
名無しさん@社会人 :2009/09/08(火) 11:01:44
三島:やはり林さんの明治維新の根本テーマでも、開国論者がどうしてもやりたくてやれなかったことを、 攘夷論者がやった。あの歴史の皮肉ですね。 林:攘夷論者のみが真の開国論者だった。これが歴史のアイロニイだが、敗戦史家たちには、 このアイロニイがわからないのだな。いまにわかります。 三島:そういう大きな歴史の皮肉ですね、そういうあれがあったでしょうか、戦前、戦後を通じて、文学で……。 林:アイロニイだらけだ。…ドイツ文学の鴎外と英文学の漱石が乃木大将の殉死を最も正確に理解した。… 東西文明の接点に立つ日本文化のアイロニイではないでしょうか。… …すべて内的な自己展開であって、時流におし流されてものを言ったのではない。 …だから人間は戦争を避けて通ろうとしてはいけないのですよ。 平和は結構だが、戦争は必ず起こると覚悟していなければ、一歩も進めない。 平和が永久につづくなどと思っていたら、とんだ観測ちがいをおかすことになる。 地球国家ができましたら、こんどは宇宙船を飛ばして……。 三島:ほかの遊星を攻撃する……。 三島由紀夫 林房雄との対談「日本人論」より
466 :
名無しさん@社会人 :2009/09/10(木) 16:10:27
三島:…日本の状況をみますと、…少なくとも自民党が危ないときになって国民投票をやったとします。 そうしてウイかノンかといのを国民に問うたとします。 できることは、安保賛成(ウイ)か安保反対(ノン)かどっちかしかない。 安保賛成というのは、はっきりアメリカですね。安保反対というのはソビエトか中共でしょう。 日本人に向かっておまえアメリカをとるか、ソビエトをとるか中共をとるかといったら、 僕はほんとうの日本人だったら態度を保留すると思うんですね。 日本はどこにいるんだ。日本は選びたいんだ、どうやったら選べるんだ。 これはウイとノンの本質的意味をなさんと思うんですよ。 そういたしますと、…まだ日本人は日本を選ぶんだという本質的な選択をやれないような状況にいる。 これで安保騒動をとおり越しても、まだやれないんじゃないかという感じがしてしようがない。 三島由紀夫 林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
467 :
名無しさん@社会人 :2009/09/10(木) 16:11:29
三島:それで去年の夏、福田赳夫さんと会ったときに、 「自民党は安保条約と刺しちがえて下さいよ」と言ったんですよ。 私が大きなことを言うようですが、私の言う意味は、自民党はやはり歴史的にそういう役割を持っている、 自民党は西欧派だと思うんです。 西欧派は西欧派の理念に徹して、そこでもって安保反対勢力と刺しちがえてほしい。 その次に日本か、あるいは日本でないかという選択を迫られるんであるというふうに言ったことがある。 いま右だ左だといいましても、安保賛成が右なのかということは、いえないと思うんです。 安保賛成も一種の西欧派ですよ。安保反対はもちろん外国派です。 そうすると国粋派というのは、そのどっちの選択にも最終的には加担していないですよ。 三島由紀夫 林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
468 :
名無しさん@社会人 :2009/09/10(木) 16:12:15
三島:ですからナショナリズムの問題が日本では非常にむずかしくなりまして、私が思うのに、 いま右翼というものが左翼に対して、ちょっと理論的に弱いところがあるのは、われわれ国粋派というのは、 ナショナリズムというものが、九割まで左翼に取られた。 だって米軍基地反対といったって、イデオロギー抜きにすれば、だれだってあまりいい気持ちではない。 それからアメリカは沖縄を出て行け、沖縄は日本のものであったほうがいい、なにを言ったところで、 左翼にとってみれば、どこかで多少ナショナリズムにひっかかっているから広くアピールする。 三島由紀夫 林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
469 :
名無しさん@社会人 :2009/09/10(木) 16:13:33
三島:そうして私は、ナショナリズムは左翼がどうしても取れないもの――九割まで取られちゃったけれども、 どうしても取れないもの、それにしがみつくほかないと信じている。だから天皇と言っているんです。 もちろん天皇は尊敬するが、それだけが理由じゃない。 ナショナリズムの最後の拠点をぐっとにぎっていなければ取られちゃいますよ。 そうして日本中が右か左の西欧派(ナショナリズムの仮面をかぶった)になっちゃう。 林:…僕は今の左翼の“ナショナリズム”は発生が外国指令だと思う。 いくら彼らに教えても反米はできるが反ソ、反中共はできない。 したがって尊王ということは、彼らにとっては、もってのほかです。… 三島:…やつらは天皇、天皇といえばのむわけないです。 のむわけないから、やつらから天皇制打倒というのを、もっと引出したいですよ。 …これをもっとやつらから引出さなければならない。 やつらのいちばんの弱味を引き出してやるのが、私は手だと思っているんですがね。 三島由紀夫 林房雄との対談「現代における右翼と左翼」より
470 :
名無しさん@社会人 :2009/09/11(金) 13:15:54
>>462 日本の男がみなフンドシを締めることをやめたら、日本ももうおしまひだ。
471 :
名無しさん@社会人 :2009/09/11(金) 23:27:38
日本の男が全部坊主刈りになるのを拒否するようになったら日本ももうおしまひだ。
472 :
名無しさん@社会人 :2009/09/13(日) 12:05:11
…核兵器というのは男で、世論というのは女という考えを非常に強くもっているんですよ。 …それをさらに敷衍しますと、こういう世の中にしたのは、どうも核が原因じゃないかと思えるんです。 というのは国家権力でも何でも、権力というのは力ですから、「“力”イコール兵器」で、 兵隊の数と強い兵器をもっている方が強い。当然でしょう。それが世界歴史を支配してきた。 いままでは兵器は使えるからこそ強かったんです。ところが使えない兵器をついつくっちゃったんですね。 広島で使ってあんな惨禍を起こして使えなくしてしまった。 使えない兵器というのは、あるいは力というのは恫喝にしか用をなさない。 恫喝ないしは心理的恐怖、ひとつのシンボリックな意味だけが強まってきた。 そうなると、片一方の方は使えぬ兵器に対するものとして人民戦争理論みたいに、ずっと下の方から しみこんでくるやつが出てくるのは当然ですね。 それをみて被害者意識というのがだんだん勝つ力になってくる。 三島由紀夫 小汀利得との対談「天に代わりて」より
473 :
名無しさん@社会人 :2009/09/13(日) 12:06:13
広島市民には非常に気の毒だけれども、つまり「やられた」ということが、何より強い立場とする人間ができてくる。 そうすると、やられないやつまでも、やられたような顔をする方がトクだというようになるわけです。 つまり女が男にだまされたといって訴えるようなものです。 とにかくトクなのは、なぐることじゃなくて、なぐられることだと。 そして痛くなくとも、「あっ、イタタタ!」というほうがいつも強い立場をつくれる。 それで全学連がヘルメットの下に赤チンを綿にしみこませていて、なぐられると赤チンがダラダラと 垂れるようになっているという話もききますが、それも被害者ぶる者の強さの一例ですね。 …被害者という立場に立てば、強いということがわかっちゃっている。 …力対力という関係が、戦後の世界ではだんだん薄れてきつつあると思うんですよ。 …主婦連じゃないけれども、弱いわれわれの生活を守るのにはどうすればいいのか、 すべて「弱いわれわれ」が前提になっている。 三島由紀夫 小汀利得との対談「天に代わりて」より
474 :
名無しさん@社会人 :2009/09/13(日) 12:07:06
これは世論のいちばん大きな要素で、われわれが世論に迎合するためには、自分が強者、あるいは 加害者であったらたいへんなことになっちゃう。 自衛隊があんなに悪口をいわれるのはもう、自衛隊が力だということがはっきりしているからですね。 …これは戦略をよほど考えないと、いまわれわれは左翼の言論を力だと思って評価したらまちがいで、 あれは弱さの力なんですね。 …「ウエストサイド・ストーリィ」というミュージカルがありますが、実に皮肉な歌が出てきます。 暴力団の不良少年どもが、お巡りがやってくると、みんなで被害者意識を訴える歌を歌うんです。 …ああいう逆手のとり方というのは、日本では一般的になっちゃった。 …誰も個人が責任をとらなければ、罪を人になすりつけるほかない。 そうすると金嬉老のような殺人犯の罪さえ、誰かに、あいまいモコたるものになすりつけることはできるんですね。 これは人間が、本当に自分個人の責任をとらなくなった時代のあらわれですね。 三島由紀夫 小汀利得との対談「天に代わりて」より
475 :
名無しさん@社会人 :2009/09/13(日) 12:08:20
…たとえばわれわれの中に、自立感情というのがあり、…何とか一人立ちしたい、人に頼らずに生きたいという 気持ちがあることは右も左も問わないと思うんです。 その気持ちを左に利用されるというのは非常につらいですね。 たとえば米軍基地反対とか、沖縄を返せとか、どこかに訴える力がありますよね。 それは右にも共通するからですね。 ぼくはこのあいだアメリカ人にいったんです。ここらが君たちの性根のきめどころだと。 安保条約をやめて双務協定にするとか、そのためには憲法をかえなければならない。 そのときには君らの国に基地をくれといったんです。(笑) ロサンゼルス、サンフランシスコ、ニューヨーク、ワシントンの四ヶ所でいいから、基地をほしいと……。 …そのまわりに基地反対デモが押し寄せても、その一坪の中にはいってきたら、撃っちまえばいいんですからね。 …向こうで基地反対闘争でも起これば大成功です。(笑) 三島由紀夫 小汀利得との対談「天に代わりて」より
476 :
名無しさん@社会人 :2009/09/13(日) 12:09:19
…もうひとつは自立という問題に関係するんですが、自衛隊がどうもいざというときには、アメリカの指揮で 動くんじゃないかという心配をみんなもっているわけですよ。 これは自衛隊によく聞いてみても、最終的な指揮権がどこにあるかということになると、実にむずかしいですね。 …最終指揮権については、いろんなカバーがあるわけですね。 …私はどうしても日本人の軍隊をもたなければいかん、どんなに外国から要請があっても、条約がない限り動かんと、あるいは こっちはこっちの判断でやっていく軍隊がなければならん、そうすると、どうすればいいんだということをいろいろ考えた。 どうしても二つに自衛隊を分けて、全くの国土防衛軍と、それから国連協力軍の二つに分ければいい。 …ぼくは陸上自衛隊の九割までは国土防衛軍でいいと思う。 そうすれば、その軍隊はどんなことがあっても日本をまもるため以外は動かないんだから、国民の信頼を得ますよね。 三島由紀夫 小汀利得との対談「天に代わりて」より
477 :
名無しさん@社会人 :2009/09/14(月) 01:58:21
なんだか言っていることがまるでニーチェのパクリだな。
いつもコピペ有り難うございます。勉強になります。 お願いしたいことがあります。 三島由紀夫に関して西部邁は、『ニヒリズムを超えて』で批判していました。 この本が文庫になってから、「明晰さの欠如」という三島論に注釈を入れているみたいです。 福田和也との対談でも三島に言及しているようですけど。 文庫版が手に入らないので、その注釈部分と対談の箇所を引用していただければ幸いです。 出来ればでよいので、宜しくお願いします。
479 :
名無しさん@社会人 :2009/09/15(火) 10:21:53
>>478 西部邁の本は読んだことないので、そのことは知りませんでした。
今度探して読んでみたいと思います。ありがとう。
>>479 文庫本の方に注釈が載っているので、もし読むならそっちの方がよいかと思います。
返答有り難うございました。
481 :
名無しさん@社会人 :2009/09/18(金) 18:29:08
483 :
名無しさん@社会人 :2009/09/26(土) 15:50:47
484 :
名無しさん@社会人 :2009/09/28(月) 11:35:14
劇画や漫画の作者がどんな思想を持とうと自由であるが啓蒙家や教育者や図式的風刺家になつたら、 その時点でもうおしまひである。 かつて颯爽たる「鉄腕アトム」を想像した手塚治虫も、「火の鳥」では日教組の御用漫画家になり果て、 「宇宙蟲」ですばらしいニヒリズムを見せた水木しげるも「ガロ」の「こどもの国」や「武蔵」連作では 見るもむざんな政治主義に堕してゐる。 いつたい、今の若者は、図式化されたかういふ浅墓な政治主義の劇画・漫画を喜ぶのであらうか。 「もーれつア太郎」のスラップ・スティックスを喜ぶ精神と、それは相反するではないか。 ヤングベ平連の高校生と話したとき、「もーれつア太郎」の話になつて、その少年が、「あれは本当に心から 笑へますね」と大人びた口調で言つた言葉が、いつまでも耳を離れない。 大人はたとえ「ア太郎」を愛読してゐてもこうまで含羞のない素直な賛辞を呈することはできぬだらう。 赤塚不二夫は世にも幸福な作者である。 三島由紀夫 「劇画における若者論」より
485 :
名無しさん@社会人 :2009/10/02(金) 00:10:24
昭和42年3月1日 「文化大革命に関する声明」 三島由紀夫(共同執筆・川端康成、石川淳、安部公房) 「昨今の中国における文化大革命は、本質的には政治革命である。 百家争鳴の時代から今日にいたる変遷の間に、時々刻々に変貌する政治権力の恣意によつて 学問芸術の自律性が犯されたことは、隣邦にあつて文筆に携はる者として、座視するに忍びざるものがある。 この政治革命の現象面にとらはれて、芸術家としての態度決定を故意に留保するが如きは、 われわれのとるところではない。 われわれは左右いづれのイデオロギー的立場をも超えて、ここに学問芸術の自由の圧殺に抗議し、 中国の学問芸術が(その古典研究をも含めて)本来の自律性を恢復するためのあらゆる努力に対して、 支持を表明する者である。 われわれは、学問芸術の原理を、いかなる形態、いかなる種類の政治権力とも異範疇のものと見なすことを、 ここに改めて確認し、あらゆる「文学報国」的思想、またはこれと異形同質なるいはゆる「政治と文学」理論、 すなはち、学問芸術を終局的には政治権力の具とするが如き思考方法に一致して反対する。」
486 :
■【外国人参政権】・【人権侵害救済法案】に断固反対します :2009/10/03(土) 12:10:12
487 :
名無しさん@社会人 :2009/10/04(日) 17:45:58
ある晩、事件の年の春頃でしたか、伜(三島由紀夫)は茶の間で、 「日本は変なことになりますよ。ある日突然米国は日本の頭越しに中国に接触しますよ、 日本はその谷間の底から上を見上げてわずかに話し合いを盗み聞きできるにとどまるでしょう。 わが友台湾はもはやたのむにたらずと、どこかに行ってしまうでしょう」と申しました。 これを後で伜のある先輩に話しますと自分もあなたよりずーっと早い四十三年の春に、 銀座で食事中にまったく同じ予言を聞かされたものです、と驚いておりました。 平岡梓 「伜・三島由紀夫」より
488 :
名無しさん@社会人 :2009/10/09(金) 22:13:30
民族主義とは、本来、一民族一国家、一個の文化伝統・言語伝統による政治的統一の熱情に他ならない。 (中略) では、日本にとつての民族主義とは何であらうか? …言語と文化伝統を共有するわが民族は、太古から政治的統一をなしとげてをり、 われわれの文化の連続性は、民族と国との非分離にかかつてゐる。 そして皮肉なことには、敗戦によつて現有領土に押し込められた日本は、国内に於ける 異民族問題をほとんど持たなくなり、アメリカのやうに一部民族と国家の相反関係や、 民族主義に対して国家が受け身に立たざるをえぬ状況といふものを持たないのである。 従つて異民族問題をことさら政治的に追及するやうな戦術は、作られた緊張の匂ひがするのみならず、 国を現実の政治権力の権力機構と同一し、ひたすら現政府を「国民を外国へ売り渡す」買辧政権と 規定することに熱意を傾け、民族主義をこの方向へ利用しようと力めるのである。 三島由紀夫 「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
489 :
名無しさん@社会人 :2009/10/09(金) 22:15:03
しかし前にも言つたやうに、日本には、現在、シリアスな異民族問題はなく、又、 一民族一文化伝統による政治的統一への悲願もありえない。 それは日本の歴史において、すでに成しとげられてゐるものだからである。 もしそれがあるとすれば、現在の日本を一民族一文化伝統の政治的統一を成就せぬところの、 民族と国との分離状況としてとらへてゐるのであり、民族主義の強調自体が、この分離状況の 強調であり、終局的には、国を否定して民族を肯定しようとする戦術的意図に他ならない。 すなはち、それは非分離を分離へ導かうとするための「手段としての民族主義」なのである。 …前述したやうに、第三次の民族主義は、ヴィエトナム戦争によつて、論理的な継目をぼかされながら 育成され、最後に分離の様相を明らかにしたが、ポスト・ヴィエトナムの時代は、この分離を、 沖縄問題と朝鮮人問題によつて、さらに明確にするであらう。 三島由紀夫 「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
490 :
名無しさん@社会人 :2009/10/09(金) 22:16:36
…戦後の日本にとつては、真の民族問題はありえず、在日朝鮮人問題は、国際問題であり、 リフュジーの問題であつても、日本国内の問題ではありえない。 これを内部の問題であるかの如く扱ふ一部の扱ひには、明らかに政治的意図があつて、 先進工業国における革命主体としての異民族の利用価値を認めたものに他ならない。 三島由紀夫 「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
491 :
名無しさん@社会人 :2009/10/09(金) 22:18:02
…手段としての民族主義はこれを自由に使ひ分けながら、沖縄問題や新島問題では、 「人質にされた日本人」のイメージを以て訴へかけ、一方、起りうべき朝鮮半島の危機に際しては、 民族主義の国際的連帯感といふ論理矛盾を、再び心情的に前面に押し出すであらう。 被害者日本と加害者日本のイメージを使ひ分けて、民族主義を領略しようと企てるであらう。 しかしながら、第三次の民族主義における分離の様相はますます顕在化し、同時に、 ポスト・ヴィエトナムの情勢は、保守的民族主義の勃興を促し、これによつて民族主義の 左右からの奪ひ合ひは、ますます先鋭化するであらう。 三島由紀夫 「文化防衛論 戦後民族主義の四段階」より
492 :
名無しさん@社会人 :2009/10/14(水) 15:30:58
国と民族の非分離の象徴であり、その時間的連続性と空間的連続性の座標軸であるところの天皇は、 日本の近代史においては、一度もその本質である「文化概念」としての形姿を如実に 示されたことはなかつた。 このことは明治憲法国家の本質が、文化の全体性の侵蝕の上に成立ち、儒教道徳の残滓をとどめた 官僚文化によつて代表されてゐたことと関はりがある。 私は先ごろ仙洞御所を拝観して、こののびやかな帝王の苑池に架せられた明治官僚補綴の 石橋の醜悪さに目をおほうた。 すなはち、文化の全体性、再帰性、主体性が、一見雑然たる包括的なその文化概念に、見合ふだけの 価値自体を見出すためには、その価値自体からの演繹によつて、日本文化のあらゆる末端の 特殊事実までが推論されなければならないが、明治憲法下の天皇制機構は、ますます西欧的な 立憲君主政体へと押しこめられて行き、政治的機構の醇化によつて文化的機能を捨象して 行つたがために、つひにかかる演繹能力を持たなくなつてゐたのである。 三島由紀夫 「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
493 :
名無しさん@社会人 :2009/10/14(水) 15:31:46
明治憲法による天皇制は、祭政一致を標榜することによつて時間的連続性を充たしたが、 政治的無秩序を招来する危険のある空間的連続性には関はらなかつた。 すなはち言論の自由には関はりなかつたのである。政治概念としての天皇は、より自由で より包括的な文化概念としての天皇を、多分に犠牲に供せざるをえなかつた。 そして戦後のいはゆる「文化国家」日本が、米占領下に辛うじて維持した天皇制は、 その二つの側面をいづれも無力化して、俗流官僚や俗流文化人の大正的教養主義の帰結として、 大衆社会化に追随せしめられ、いはゆる「週刊誌天皇制」の域にまでそのディグニティーを 失墜せしめられたのである。 天皇と文化は相関はらなくなり、左右の全体主義に対抗する唯一の理念としての 「文化概念たる天皇」「文化の全体性の統括者としての天皇」のイメージの復活と定立は、 つひに試みられることなくして終つた。 三島由紀夫 「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
494 :
名無しさん@社会人 :2009/10/14(水) 15:34:11
>>492 のつづき
(中略)
「みやび」は、宮廷の文化的精華であり、それへのあこがれであつたが、非常の時には、
「みやび」はテロリズムの形態をさへとつた。すなはち、文化概念としての天皇は、
国家権力と秩序の側だけにあるのみではなく、無秩序の側へも手をさしのべてゐたのである。
もし国家権力や秩序が、国と民族を分離の状態に置いてゐるときは、「国と民族の非分離」を
回復せしめようとする変革の原理として、文化概念たる天皇が作用した。
孝明天皇の大御心に応へて起つた桜田門の変の義士たちは、「一筋のみやび」を実行したのであつて、
天皇のための蹶起は、文化様式に背反せぬ限り、容認されるべきであつたが、西欧的立憲君主政体に
固執した昭和の天皇制は、二・二六事件の「みやび」を理解する力を喪つてゐた。
三島由紀夫
「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
>>493 へつづく
495 :
名無しさん@社会人 :2009/10/14(水) 15:36:35
>>492 >>494 >>493 のつづき
(中略)
時運の赴くところ、象徴天皇制を圧倒的多数を以て支持する国民が、同時に、容共政権の
成立を容認するかもしれない。
そのときは、代議制民主主義を通じて平和裡に、「天皇制下の共産政体」さへ成立しかねないのである。
およそ言論の自由の反対概念である共産政権乃至容共政権が、文化の連続性を破壊し、
全体性を毀損することは、今さら言ふまでもないが、文化概念としての天皇はこれと共に崩壊して、
もつとも狡猾な政治的象徴として利用されるか、あるひは利用されたのちに捨て去られるか、
その運命は決つてゐる。
このやうな事態を防ぐためには、天皇と軍隊を栄誉の絆でつないでおくことが急務なのであり、
又、そのほかに確実な防止策はない。
もちろん、かうした栄誉大権的内容の復活は、政治概念としての天皇をではなく、
文化概念としての天皇の復活を促すものでなくてはならぬ。
文化の全体性を代表するこのやうな天皇のみが窮極の価値自体(ヴエルト・アン・ジッヒ)
だからであり、天皇が否定され、あるひは全体主義の政治概念に包括されるときこそ、
日本の又、日本文化の真の危機だからである。
三島由紀夫
「文化防衛論 文化概念としての天皇」より
496 :
名無しさん@社会人 :2009/10/19(月) 17:19:17
われわれは絶対的暴力否定の抵抗思想としてガンジーの思想の如きを知つてゐるが、 ガンジーは少なくとも抵抗の思想である。 日本の非暴力主義には、抵抗の思想は稀薄であり、エゴイズムのみが先行してゐる。 絶対平和主義は、自分たちの集団に対する攻撃をも甘んじて容認するといふことにおいて、 少なくとも集団に対する攻撃を容認しない、といふ原理に立つ国家の不可侵性を 否定するものだからである。 国家は力なくしては国家たり得ない。国家は一つの国境の中において存立の基礎を持ち、 その国境の確保と、自己が国家であることを証明する方法としては、その国家の領土の 不可侵性と、主権の不可侵性のために力を保持せざるを得ないことは、最近のチェコの 例を見ても明らかであらう。 三島由紀夫 「反革命宣言」より
497 :
名無しさん@社会人 :2009/10/19(月) 17:20:36
もちろん十九世紀的な主権国家の幻はすでに崩れ、国際的な集団保障の時代が来て、国家概念は、 社会主義共同体と、自由諸国の国々とに別れ、ヨーロッパですら、将来のイメージとしては、 共同体的な同盟国家よりも、さらに強固なつながりを持つた国家形態を求めてはゐる。 しかしながら、現実に支配してゐるのは国家の原理であり、イデオロギーの終焉はまだ 絵空事であつて、むしろ、技術社会の進展が、技術の自己目的によるオートマティックな 一人歩きをはじめる傾向に対抗して、国家はこのやうな自己内部の技術社会のオートマティズムを 制御するために、イデオロギーを強化せねばならぬ傾向にある。 社会主義インターナショナルは単に多数民族、強力民族が少数民族をみづからの手中に をさめるための口実として使はれてゐるにすぎない。 三島由紀夫 「反革命宣言」より
498 :
名無しさん@社会人 :2009/10/19(月) 17:22:32
まだ国際政治を支配してゐるのは、姑息な力の法則であつて、その法則の上では 力を否定するものは、最終的にみづから国家を否定するほかはないのである。 平和勢力と称されるものは、日本の国家観の曖昧模糊たる自信喪失をねらつて、 日本自身の国家否定と、暴力否定とを次第次第につなげようと意図してゐる。 そこで最終的に彼ら(左翼)が意図するものは、国家としての日本の崩壊と、無力化と、 そこに浸透して共産政権を樹立することにほかならない。 そして共産政権が樹立されたときにはどのやうな国家がはじまるかは自明のことである。 三島由紀夫 「反革命宣言」より
499 :
名無しさん@社会人 :2009/10/19(月) 17:24:01
(中略) 一般大衆は、革命政権の樹立が、自分たちの現在守つてゐる生活に、将来どのような時間をかけて どのように波及してくるかについてほとんど知るところがない。 彼らは、現在の目前の問題としては、いつもイデオロギーよりも秩序を維持することを欲し、 ことに経済的繁栄の結果として得られた現状維持の思想は、一人一人の心の中に浸み込んで、 自分の家族、自分の家を守るためならば、どのようなイデオロギーも当面は容認する、 といふ方向に向つてゐる。そして、秩序自体の変質がどういふ変化を自分たちにおよぼすか、 といふ未来図を彼らの心から要求することは、ほとんど不可能である。 人々はつねられなければ痛さを感じないものである。 もし革命勢力、ないし容共政権が成立した場合、たとへたつた一人の容共的な閣僚が入つても、 もしこれが警察権力に手をおよぼすことができれば、たちまち警察署長以下の中堅下級幹部の首の すげかへを徐々に始め、あるひは若い警官の中に細胞をひそませ、警察を内部から崩壊させるであらう。 三島由紀夫 「反革命宣言」より
500 :
名無しさん@社会人 :2009/10/26(月) 13:40:06
私はやはり、安保反対か賛成かで分けられないものが日本人のなかにある。 (中略)安保は自動延長になるでせうが、さういふ時期を経過して日本が揺れ動いていくときには、 表面上のかたちは安保賛成か反対かといふことで非常な衝突が起こるでありませう。 しかし私は、安保賛成か反対かといふことは、本質的に私は日本の問題ではないやうな気がするんです。 …私に言はせれば安保賛成といふのはアメリカ賛成といふことで、安保反対といふのはソヴィエトか 中共賛成といふことだと、簡単に言つちまへばさうなるんで、どつちの外国に頼るか といふ問題にすぎないやうな感じがする。 そこには「日本とは何か」といふ問ひかけが徹底してないんぢやないか。 三島由紀夫 「日本とは何か」より
501 :
名無しさん@社会人 :2009/10/26(月) 13:41:24
私はこの安保問題が一応方がついたあとに初めて、日本とは何だ、君は日本を選ぶのか、 選ばないのかといふ鋭い問ひかけが出てくると思ふんです。 そのときには、いはゆる国家超克といふ思想も出てくるでありませうし、アナーキストも 出てくるでありませうし、われわれは日本人ぢやないんだといふ人も出てくるでありませう。 しかし、われわれは最終的にその問ひかけに直面するんぢやないかと思ふんです。 (中略) 「戸籍はあるけど無国籍だ。俺は日本人なんてもんぢやない。人間だ」 …かういふ人たちがこれから増えてくる、「あくまで私は日本人だ」「オレは日本人ぢやない」 ――さういふ二種類の人種がこれから日本に出てくる。 そのときに向かつて私は自分の文学を用意し、思想を用意し、あるひは行動を用意する。 さういふことしか自分には出来ないんだ。これを覚悟にしたい、さう思つてゐるわけであります。 三島由紀夫 「日本とは何か」より
502 :
名無しさん@社会人 :2009/10/28(水) 11:18:32
言ひ古されたことだが、一歩日本の外に出ると、多かれ少かれ、日本人は愛国者になる。 先ごろハンブルクの港見物をしてゐたら、灰色にかすむ港口から、巨大な黒い貨物船が、 船尾に日の丸の旗をひるがへして、威風堂々と入つて来るのを見た。 私は感激措くあたはず、夢中でハンカチをふりまはしたが、日本船からは別に応答もなく、 まはりのドイツ人からうろんな目でながめられるにとどまつた。 これは実に単純な感情で、とやかう分析できるものではない。 もちろん貨物船が巨大であつたことも大いに私を満足させたのであつて、それがちつぽけな 貧相な船であつたとしたら、私のハンカチのふり方も、多少内輪になつたことであらう。 また、北ヨーロッパの陰鬱な空の下では、日の丸の鮮かさは無類であつて、日本人の素朴な 明るい心情が、そこから光りを放つてゐるやうだつた。 三島由紀夫 「日本人の誇り」より
503 :
名無しさん@社会人 :2009/10/28(水) 11:20:53
それでは私もその「素朴な明るい」日本人の一人かといふと、はなはだ疑はしい。 私はひねくれ者のヘソ曲りであるし、私の心情は時折明るさから程遠い。 それは私が好んでひねくれてゐるのであり、好んで心情を暗くしてゐるのである。 これにもいろいろ複雑な事情があるが、小説家が外部世界の鏡にならうとすれば、そんなにいつも 「素朴で明るい」人間であるわけには行かない。しかし異国の港にひるがへる日の丸の旗を見ると、 「ああ、おれもいざとなればあそこへ帰れるのだな」といふ安心感を持つことができる。 いくらインテリぶつたつて、いくら芸術家ぶつたつて、いくら世界苦(ヴエルトシユメルツ)に さいなまれてゐるふりをしたつて、結局、いつかは、あの明るさ、単純さ、素朴さと清明へ 帰ることができるんだな、と考へる。 三島由紀夫 「日本人の誇り」より
504 :
名無しさん@社会人 :2009/10/28(水) 11:21:37
いざとなればそこへ帰れるといふ安心感は、私の思想から徹底性を失はせてゐるかもしれない。 しかしそんなことはどうでもよいことだ。 私は巣を持たない鳥であるよりも、巣を持つた鳥であるはうがよい。第一、どうあがいたところで、 小説家として私の使つてゐる言葉は、日本語といふ歴然たる「巣鳥の言葉」である。 「いざとなればそこへ帰れる」といふことは、同時に、帰らない自由をも意味する。 ここが大切なところだ。帰る時期は各人の自由なのであつて、「いざとなれば帰れる」といふ 安心感があればこそ、一生帰らない日本人がゐるのもふしぎはない。 私はこの安心感を大切にするのと同じぐらゐに、帰る時期と、帰る意思の自由とを大切にする。 人に言はれて帰るのはイヤだし、まして人のマネをして帰つたり、人に気兼ねして帰るのもイヤだ。 すべての「日本へ帰れ」といふ叫びは、余計なお節介といふべきであり、私はあらゆる 文化政策的な見地を嫌悪する。日本人が「ドイツへ帰れ」と言はれたつて、はじめから無理なのであつて、 どうせ帰るところは日本しかないのである。 三島由紀夫 「日本人の誇り」より
505 :
名無しさん@社会人 :2009/10/28(水) 11:22:18
私は十一世紀に源氏物語のやうな小説が書かれたことを、日本人として誇りに思ふ。 中世の能楽を誇りに思ふ。それから武士道のもつとも純粋な部分を誇りに思ふ。 日露戦争当時の日本軍人の高潔な心情と、今次大戦の特攻隊を誇りに思ふ。 すべての日本人の繊細優美な感受性と、勇敢な気性との、たぐひ稀な結合を誇りに思ふ。 この相反する二つのものが、かくもみごとに一つの人格に統合された民族は稀である。…… しかし、右のやうな選択は、あくまで私個人の選択であつて、日本人の誇りの内容が命令され、 統一され、押しつけられることを私は好まない。実のところ、一国の文化の特質といふものは、 最善の部分にも最悪の部分にも、同じ割合であらはれるものであつて、犯罪その他の暗黒面においてすら、 この繊細な感受性と勇敢な気性との結合が、往々にして見られるのだ。 三島由紀夫 「日本人の誇り」より
506 :
名無しさん@社会人 :2009/10/28(水) 11:23:11
われわれの誇りとするところのものの構成要素は、しばしば、われわれの恥とするところのものの 構成要素と同じなのである。きはめて自意識の強い国民である日本人が、恥と誇りとの間を ヒステリックに往復するのは、理由のないことではない。 だからまた、私は、日本人の感情に溺れやすい気質、熱狂的な気質を誇りに思ふ。 決して自己に満足しないたえざる焦燥と、その焦燥に負けない楽天性とを誇りに思ふ。 日本人がノイローゼにかかりにくいことを誇りに思ふ。 どこかになほ、ノーブル・サベッジ(高貴なる野蛮人)の面影を残してゐることを誇りに思ふ。 そして、たえず劣等感に責められるほどに鋭敏なその自意識を誇りに思ふ。 そしてこれらことごとくを日本人の恥と思ふ日本人がゐても、そんなことは一向に構はないのである。 三島由紀夫 「日本人の誇り」より
507 :
名無しさん@社会人 :2009/10/30(金) 14:31:03
このごろでは先生が鞭を鳴らしながら授業でもしたら、「サーカスぢやあるまいし」と、忽ちPTAに いびり出される始末になるが、むかしは先生は、ちやんと「教鞭」を持つてゐたものであつた。 私自身の小学校時代をかへりみるに、賞罰は実にはつきりしてゐた。 しかし、そこには先生の人徳といふもので、同じひどい目に会はされても、カラッとした人柄の先生には いつまでもなつかしさが残り、陰気な固物の先生にはやはり面白くない記憶が残る。 (中略) そのうちに怖いのは先生よりも上級生といふ時代がはじまる。 そのころ鬼よりも怖かつたA先輩など、今会つても頭が上がらない。 私の母校は敬礼のやかましい学校で、一級上の上級生にでも挙手の礼を忘れたら、どやしつけられた。 …小説を書く奴なんか軟派だと言つて目をつけられてゐたから、運動部の猛者は殊に怖ろしかつた。 私は旧制高校の最上級生のとき、総務委員といふものになつて、運動部の予算をもすつかり握る権力を得てから、 はじめて彼らに復讐する快感を満喫したのである。 三島由紀夫 「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」
508 :
名無しさん@社会人 :2009/10/30(金) 14:31:43
…文学者としての自分を考へると、一般的に「文学を否定する」雰囲気があつたといふことは、 自分の文学を育てる上で、大へんなプラスになつたことはたしかである。 私は天才教育などといふアホなものを信じない。「何クソ」といふ気持を養はせるだけの力がなければ、 何事も育ちはしない。 現在の学校教育の実態にうとい私だが、ほぼ確実だと思はれることは、そこには軟派と硬派の区別もなくなり、 文学芸術を否定する空気もなければ、一方、スポーツ万能を否定する空気もないことだ。 むりやり右へ行けと言はれるから、あへて左へ行く勇気も生まれるので、西も東もわからぬ子どもに、 「どつちへ行つてもいいよ」と言へば、迷ひ児がふえるだけのことである。 その意味で、丹頂鶴の日教組の極端な左翼教育も、私には、失ふに惜しいもののやうな気がする。 この行き方をもつと徹底させれば、反骨ある愛国少年を、却つて沢山輩出させることになるのではないか。 もつとも、そのための極左教育は反抗期の中学生時代からやつてもらひたいが。 三島由紀夫 「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より
509 :
名無しさん@社会人 :2009/10/30(金) 14:32:24
…自分の我意に対して、それを否定する力のあることを実感するほど、自我形成に役立つものはない。 猿蟹合戦ぢやあるまいし、「伸びろよ、伸びろよ、柿の種」と言つてみたところで、柿は伸びないのである。 万人向きのバランスのとれた教育、四方八方へ円満に能力をのばしてゆく教育、などといふものは、 単なる抽象的な夢であつて、子どもはそれぞれ未完成で、偏頗(へんぱ)な存在である。 個性などといふものは、はじめは醜い、ぶざまな恰好をしてゐるものだ。 美しい個性を持つた子どもなどどこにも存在しないのである。 それが一度たわめられなければ真の個性にならないことも見易い道理で、そのためには、文学書ばかり 耽読してゐる子からはむりやりに本をとりあげて、尻を引つぱたいてスポーツをやらせ、スポーツにばかり 熱中してゐる子は、襟髪をつかんで図書館へぶち込み、強制的に本を読ませるやうにすべきである。 三島由紀夫 「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より
510 :
名無しさん@社会人 :2009/10/30(金) 14:33:06
かういふ強制力は、こまかい校則によつて規定することはもちろん、罰則のない法規もないのであるから、妥当な 罰則を設け、かつこの規則を実施する能力としては、先生にも、生徒を心服させるだけの腕力が要求される。 生徒の闇討ちをおそれて屈服するやうな先生には、先生の資格がないので、生徒はめつたに先生の知力なんかには 心服しないものである。さういふのは新制大学のころから、学生に知的虚栄心が目ざめて来てからの問題であつて、 大学教育といふものは、もつぱら知識の授受に尽き、もはや教育と呼ぶ必要はない。 ネリカン上がりが尊敬されるといふのも、少年の歪められた英雄主義であるが、ネリカンの生活が 苛酷だといふ伝説乃至事実が、どれだけこの英雄化を助けてゐるかわからない。 どこの学校もネリカン並みになれば、とりたててネリカン上がりが尊敬される理由もなくなるので、 少年不良化の防止になるにちがひない。 三島由紀夫 「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より
511 :
名無しさん@社会人 :2009/10/30(金) 14:33:55
暗い陰惨で辛い生活をとほりぬけて来たといふ自信と誇りを、今の子どもは与へられなさすぎる。 「学園」といふ花園みたいな名称も偽善的だが、学校といふところを明るく楽しく、痴呆の天国みたいな イメージに作り変へたのは、大きな失敗であつた。学校といふものには暗いイメージが多少必要なのである。 学校の建物も質素で汚ならしいことが必要で、何だつてこのごろの学校は、高級アパートみたいな外見を とりたがるのかわからない。 冷暖房装置などは以てのほかで、少なくとも中学校以上は、暖房装置も撤去すべきである。かじかんだ手で ノートをとるといふあのストイックな向学心の思ひ出を、これからの子どもはもう持たなくなるのではないか。 …何事にも感覚的享受しかできない少年期には、「精神」に接するにも感覚的実感が要るのだ。 その「精神」の感覚的実感とは、要するに「非物質的感覚」であつて、寒さであり、オンボロ校舎であり、 風の音であり、たよるもののない感じであり、すべて眠たくなるやうな「生活の快適さ」と反対なものである。 三島由紀夫 「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より
512 :
名無しさん@社会人 :2009/10/30(金) 14:35:33
私は、一流商社のやうなツルツルした校舎へ毎朝吸込まれてゆく学生たちが、数年後サラリーマンとして又もや ツルツルした大ビルディングへ毎朝吸込まれていくことを考へると、その一生が気の毒になる。 オンボロ校舎の精神的風格などを一生知らずに、ツルツルした表紙の週刊誌ばかり読み、団地生活をつづけてゆく 人間がかうして出来上がる。政府は政令を発して、学校建築に制約を加へるべきではないか。 (中略) こんなことを言つてゐるうちに、すべてはノスタルジアに彩られ、日清戦争の思ひ出話みたいになつて来たから、 ここらで筆を擱くことにする。 最後に、まじめな私見を言ふと、硬教育の復活もさることながら、現代の教育で絶対にまちがつてゐることが 一つある。それは古典主義教育の完全放棄である。 古典の暗誦は、決して捨ててはならない教育の根本であるのに、戦後の教育はそれを捨ててしまつた。 ヨーロッパでもアメリカでも、古典の暗誦だけはちやんとやつてゐる。 これだけは、どうでもかうでも、即刻復活すべし。 三島由紀夫 「生徒を心服させるだけの腕力を――スパルタ教育のおすすめ」より
513 :
名無しさん@社会人 :2009/11/02(月) 11:49:24
私は進歩主義者ではないから、次のやうに考へてゐる。 精神をきたへることも、肉体をきたへることも、人間の古い伝統の中の神へ近づくことであり、 失はれた完全な理想的な人間を目ざすことであり、それをうながすものは、人間の心の中にある 「古代の完全性」への郷愁である、と。 精神的にも高く、肉体的にも美しかつた、古典期の調和的人間像から、われわれはあまりにも かけはなれてしまひ、社会にはめこまれた、小さな卑しい、バラバラの歯車になつてしまつた。 ここから人間を取りもどすには、ただはふつておいて、心に念じてゐるだけでできるものではない。 三島由紀夫 「きたへる――その意義」より
514 :
名無しさん@社会人 :2009/11/02(月) 11:51:57
苦しい思ひをしなければならぬ。 人間の精神も肉体も、ただ、温泉につかつて、ぼんやりしてゐるやうにはできてゐない。 鉄砲でも、刀でも、しよつちゆう手入れをしてゐなければ、さびて使ひものにならなくなる。 精神も肉体も、たえず練磨して、たえずみがき上げてゐなければならぬ。 これは当り前のことなのだが、この当り前のことが忘れられてゐる。 若いうちに、つらいことに耐へた経験を持つことほど、人生にとつて宝はないと思ふ。 軍隊のやうな強制のない現在、一人一人の自発的な意志が、一人一人の未来を決定するにちがひない。 三島由紀夫 「きたへる――その意義」より
515 :
名無しさん@社会人 :2009/11/06(金) 11:58:01
516 :
名無しさん@社会人 :2009/11/08(日) 00:09:04
ロココ趣味とギリシア・ローマ文化に傾倒していた 三島は欧州かぶれのサヨク言う奴はまだいないのか
>>516 真の国粋者は、他国の文化の良いところや伝統をも尊重するもの。
サヨクとは、政治イデオロギーで、他国の宗教や文化に干渉し破壊する者たち。
518 :
名無しさん@社会人 :2009/11/16(月) 11:51:13
戦後日本の歴史が一つとぎれてしまつた。そのとぎれたところに自衛隊の問題があり、警察の問題があり、 またいろいろ複雑な言ふにいはれない、日本人として誠に情けない状態があらゆる面に発生してきました。 (中略) 大体戦後の民主主義といふものは、アメリカといふ成金の新しい国から来たものでありますから、アメリカは アメリカとしての歴史はもちろん持つてはをりますが、彼らが大切にしてゐる古い歴史といふのはせいぜい 十八世紀です。アメリカに行くと、これは非常に古い家である、十八世紀だなどとよくいはれる。 彼らはどんなにさぐつて見ても十八世紀以前に遡つてアメリカの歴史を語ることができない。 それより古い頃にはインディアンがゐたんで、インディアンの方がよつぽど歴史上における誇りもあるし、 自信もあるはずです。これが白人に駆逐されてしまつた。 白人であるアメリカ人といふものは、人の家にどかどか入つて来て、平和に暮らしてゐた人間を追ひ散らして、 新しい国を建てた。それが移民の国アメリカです。 三島由紀夫 「私の聞いて欲しいこと」より
519 :
名無しさん@社会人 :2009/11/16(月) 11:54:14
さういふ国の人に、日本のやうな古い歴史、文化を持つた国の伝統と連続性の力といふものは判らない。 彼らにどう説明して聞かしても判らない。それは無理はないです。何となれば彼らの感覚にはそんな古い 歴史といふものがないのですから……古いといふと十八世紀を思つてゐる人間にいくらいつても判らない。 判つて貰はうとすることが所詮無理なんでせう。 まあ、日本がアメリカに占領されたといふことは国の運命で仕方がないかも知れませんけれども、一番 根本なところが彼らに判らなかつたことは日本にとつても不幸だつたのでせう。それはわれわれだけが 判つてゐるのであつて、国といふものは、永遠に連続性がなければ本当の国ではないと思ひます。 そしてとに角今は空間といふものがここに広がつてゐる。この空間に対して時間があるわけです。 三島由紀夫 「私の聞いて欲しいこと」より
520 :
名無しさん@社会人 :2009/11/16(月) 11:55:22
今のこの世界の情勢といふものはハッキリいひますと「空間と時間」との戦ひだと思ひます。 (中略) しかしながらその国際的な争ひは、あくまで空間をとり合つてゐるわけです。 ところがこの地球上の空間を占めてゐる国の中にも一方では反戦、自由、平和といつてゐる人達がをります。 この人達は歴史や伝統などといふものはいらんのだ。歴史や伝統があるから、この空間の方々に国といふものが 出来て、その国同士が喧嘩をしなければならんのだ。われわれは世界中一つの人類としての一員ではないか。 われわれは国などといふものは全部やめて、「自由とフリーセックスと、そして楽しい平和の時代を造るんだ」 と叫んでゐる。彼らには時間といふ観念がない。 空間でもつて完全に空間をとらうといふ考へ方においては、彼らもまた彼らの敵と同じなのです。 それでは、今日の人類を一体何が繋いできたのかといふことを論議し、つきつめてゆくと、結局最後には 「時間」の問題に突き当たらざるを得ない。 三島由紀夫 「私の聞いて欲しいこと」より
521 :
名無しさん@社会人 :2009/11/16(月) 11:56:18
(中略) 今ソビエトで一番の悪口は何だと思ひますか。ソビエトで人を罵倒する一番きたない言葉、それをいはれただけで 人が怒り心頭に発する言葉は何だと思ひますか……私はロシア語を知りませんから、ロシア語ではいへませんが、 「非愛国者だ」といふことださうです。さうすると一体これはどういふことなのかと不思議になります。 その伝統を破壊し、連続性を破壊してゐる共産圏においてすら、現在は歴史の連続性といふものを信じなければ 「愛国」といふ観念は出て来てないことに気付き、その観念のないところには共産国家といへどもその存立は 危ぶまれるといふことを気付いたに違ひない。 ですからこの「縦の軸」すなはち「時間」はその中にかくされてゐるんで、如何に人類が現在の平和を かち得たとしても、このかくされてゐる「縦の軸」がなければ平和は維持できない。 それが現在の国家像であると考へられていいんです。 三島由紀夫 「私の聞いて欲しいこと」より
522 :
名無しさん@社会人 :2009/11/16(月) 11:57:12
ことに日本では敗戦の結果、この「縦の軸」といふのが非常に軽んじられてきてしまつた。 日本は、この縦の軸などはどうでもいいんだが、経済が繁栄すればよろしい、そして未来社会に向つて、 日本といふ国なんか無くなつても良い。みんな楽しくのんびり暮して戦争もやらず、外国が入つて来たら、 手を挙げて降参すればいいんだ。日本の連続なんかどうなつてもいいんではないか、歴史や文化などは いらんではないか、滅びるものは全部滅びても良いではないか、と考へる向きが非常に強い。 さういふ考へでは将来日本人の幸せといふものは、全く考へられないといふことを、この一事をもつてしても、 共産国家が既に明白に証明してゐると私は思ひます。 (中略) 共産主義国家が、国家意思を持つてゐて、日本のやうな、佐藤首相が自らの手で国家を守るといつてゐるこの国に、 国家意思がないとは一体どういふことだらうか。 さういふことになるのは今の日本の根本が危ふくなつてゐるからです。根本はここにあるのです。 三島由紀夫 「私の聞いて欲しいこと」より
523 :
名無しさん@社会人 :2009/11/21(土) 11:09:26
ところで私はあらゆる楽観主義、楽天主義がきらひである。 ファクトといふものは、悲観をも楽観をも蹂躙してゆく戦車だといふのが私の考へで、 ファクトに携はらぬ人は往々歴史を見誤まるのである。 三島由紀夫 「三島由紀夫のファクト・メガロポリス」より
■新しい戦争。その名も「乗っ取り戦争」 ●精神侵略→人口侵略→軍事侵略の流れについて 第一段階「工作員を送り込み、政府上層部の掌握。洗脳」 第二段階「宣伝。メディアの掌握。大衆の扇動。無意識の誘導」 第三段階「教育の掌握。国家意識の破壊。」 第四段階「抵抗意志の破壊。平和や人類愛をプロパガンダとして利用」 第五段階「教育や宣伝メディアなどを利用し自分で考える力を奪う。」 最終段階「国民が無抵抗で腑抜けになった時、大量植民。」
525 :
名無しさん@社会人 :2009/11/26(木) 11:11:44
端的只今の一念より外はこれなく候 一念々々と重ねて一生なり(葉隠) 新年に想ふのは「葉隠」の一章。 マスコミが作る「ものの見方」にとらはれず自分の考へ方で生きていく勇気をもちたい。 一念一念といふのは、さういふことだし、その積み重ねが、私を私らしくするのだから…… 三島由紀夫 「真(まこと)を胸に――若さに生きよう」より
526 :
名無しさん@社会人 :2009/11/28(土) 15:02:00
桜田門外の変は、徳川幕府の権威失墜の一大転機であつた。十八列士のうち、ただ一人の薩摩藩士として これに加はり、自ら井伊大老の首級をあげ、重傷を負うて自刃した有村次左衛門は、そのとき二十三歳だつた。 (中略) 維新の若者といへば、もちろん中にはクヅもゐたらうが、純潔無比、おのれの信ずる行動には命を賭け、 国家変革の情熱に燃えた日本人らしい日本人といふイメージがうかぶ。かれらはまづ日本人であつた。 そこへ行くと、国家変革の情熱には燃えてゐるかもしれないが、全学連の諸君は、まつたく日本人らしく思はれない。 かれらの言葉づかひは、全然大和言葉ではない。又、あのタオルの覆面姿には、青年のいさぎよさは何も感じられず、 コソ泥か、よく言つても、大掃除の手つだひにゆくやうである。あんなものをカッコイイと思つてゐる青年は、 すでに日本人らしい美意識を失つてゐる。いはゆる「解放区」の中は、紙屑だらけで、不潔をきはめ、神州清潔の民は とてもあんな解放区に住めたものではないから、きつと外国人を住まはせるための地域を解放区といふのであらう。 三島由紀夫 「維新の若者」より
527 :
名無しさん@社会人 :2009/12/03(木) 12:16:32
兜町――それは現在のこの一瞬だ。 (中略) そこには、なるほど資本主義の枠はあるけれど、どんなイデオロギーにもゆがめられない、テコでも動かない 現在只今の生活感覚が充実してゐて、盲目でありながら透視力に充ち、どんな理窟もはねとばし、予想も論理も 役に立たない。よかれ、あしかれ、ありのままの素ッ裸。兜町を直視すれば、気取りも羞恥心も吹つ飛んでしまふ。 いかに壮大な革命理論をゑがいても、心のどこかに、「マイホームを建てる三十坪の土地がほしい」といふ 気持があれば、その集積が、露骨に株式相場にあらはれてしまふ。 ひどく敏感で、ひどく鈍感。 三島由紀夫 「三島由紀夫のファクト・メガロポリス」より
528 :
名無しさん@社会人 :2009/12/03(木) 12:17:13
時代に対して徹底的に受身で、自己一身の利益しか考へてゐないといふ「心」が、集積されると、時代を 動かしてゆく一つの重要な動因になるといふそのふしぎ。 …兜町の第一線の人々と親しく話してみて、そこに世代の差による考へ方のちがひは当然ありながら、 「どんな観念論も空しい」といふ一点で、逞しい合意に達してはたらいてゐる人々の、一種強烈な自信に圧倒された。 しかし果して、どんな観念論も空しいだらうか? それは歴史が決定する問題であり、「現実」がまだ最後の勝利を占めたわけではないのである。 三島由紀夫 「三島由紀夫のファクト・メガロポリス」より
529 :
名無しさん@社会人 :2009/12/04(金) 13:55:10
タイトルが悪いな 不破の「マルクスは生きている」の後追いみたいで
531 :
名無しさん@社会人 :2009/12/09(水) 17:29:42
テレビをみんなで眺めながら黙つて食事をするこのごろの悪習慣は、私のもつとも嫌悪するところであるので、 どんな面白い番組があつても、食事中はテレビを消させる。 私は一週一回は必ず子供たちと夕食をとるが、多忙な生活で、それ以上食事を共にすることができない。 子供たちの就寝時間は厳格に言ひ、大人の都合で遅寝をさせるやうなことも決してせず、まして子供のわがままで 時間をおくらせることもしない。休日といへども、同様である。 子供を連れて出れば、必ず、就寝時間三十分前には帰宅する。 子供のつくウソは、卑劣な、人を陥れるやうなウソを除いては、大目に見る。 子供のウソは、子供の夢と結びついてゐるからである。 三島由紀夫 「わが育児論」より
532 :
名無しさん@社会人 :2009/12/14(月) 00:06:54
童貞がふえてるといふことと、男らしさといふものとは、あまり関係がないんぢやない? だけど、ボクサーの場合、童貞の選手は強いですね。セックスやつてるひとは弱いですね。 それか、セックスをずーつと前に知つちやつてね、セックスといふものが、 そんなに固定観念になつてないひとは、強いですね。 三島由紀夫 「青年論」より
533 :
名無しサムライのために。 :2009/12/23(水) 22:05:05
>>511 三島先生は寺子屋や私塾の事はどう思ってたんだろうね?
>>531 立派なご意見なんですけどね
父親本人が気づいて無い部分が子供の成長を阻害することもあるので
>>534 こんなとこで自分の父親への恨みをグチらないでください。
>>531 >子供のつくウソは、卑劣な、人を陥れるやうなウソを除いては、大目に見る。
>子供のウソは、子供の夢と結びついてゐるからである。
なんか三島由紀夫らしく無い発言ですな……まあ、こういうのも彼の一つの顔なんでしょうかね?
538 :
名無しさん@社会人 :2010/01/17(日) 18:23:03
539 :
名無しさん@社会人 :2010/01/22(金) 00:00:11
>>484 続き
(中略)世の中といふのは困つたもので、劇画に飽きた若者が、そろそろいはゆる「教養」がほしくなつてきたとき、
与へられる教養といふものが、又しても古ぼけた大正教養主義のヒューマニズムやコスモポリタニズムであつては
たまらないのに、さうなりがちなことである。それはすでに漫画の作家の一部の教養主義になつて現はれてをり、
折角「お化け漫画」にみごとな才能を揮(ふる)ふ水木しげるが、偶像破壊の「新講談 宮本武蔵」(一九六五年)を
描くときは、芥川龍之介と同時代に逆行してしまふからである。若者は、突拍子もない劇画や漫画に飽きたのちも、
これらの与へたものを忘れず、自ら突拍子もない教養を開拓してほしいものである。すなはち決して大衆社会へ
巻き込まれることのない、貸本屋的な少数疎外者の鋭い荒々しい教養を。
三島由紀夫
「劇画における若者論」より
540 :
名無しさん@社会人 :2010/01/22(金) 00:58:08
彼は生前 自分は文士ではなく 武士として死にたいと 繰り返し公言していた。 たぶんそれは皮肉とか遊びではなく 本心からそう思っていたんじゃないかと思う。 だから彼の戒名見たときは なんだか切ない気がした。
541 :
名無しさん@社会人 :2010/01/29(金) 15:30:12
田母神論文を読んで感心するのは、最新の歴史的知見が盛り込まれていることである。 特に着目すべきは「VENONA」である。 このソ連の暗号解読文書が第二次世界大戦中のソ連スパイの暗躍を証明するものとして極めて重要な地位を 占めている事を知る者は未だ日本では少数である。 然し、欧米に於ては「VENONA」は「エニグマ」と同等に重要な史料であり、NSAのHPにて公開され、研究者によって F.D.ルーズベルト大統領の周囲にコミンテルンやGRUなどのソ連シンパ、スパイが約300名蠢いていた事が 示されている。その300名の内、正体が割れた者はその半数足らずである。 そしてこの情報を一人、握りしめていた者が半世紀以上ものあいだFBI長官の座を占め続け、合衆国大統領をも 恐怖せしめたフーバー長官であり、彼が死去した後、ビル・クリントン大統領になって1990年代に初めて 公開されたものである。 アメリカの出版物ではVENONAに依拠した記述が数多認められる。 日本の歴史学会はその事実を無視しているか、相当に遅れたものであり、田母神論文がVENONAなどの新しい 知見を盛り込んでいることは驚嘆に値する。
542 :
名無しさん@社会人 :2010/02/07(日) 11:30:48
543 :
名無しさん@社会人 :2010/02/14(日) 23:28:48
やつぱり日本人は身を殺して仁をなすといふ気持がなければだめなんだけど、これがね元禄時代と同じでね、 今、税法がモラルを崩壊させてゐるでしよ。 あのころの侍がみんな藩のお金を平気で使つて飲み食ひする、何をする、さういふことをしない人もゐますがね、 当時から日本人はさういふ悪いところがあるんですよね、公私混同みたいなところが。 とくにね戦後は税法のおかげで会社の交際費が自由に使へるとね、社長にいたるまで家族つれてすし屋に行くとか。 戦前は少なくともポケットマネーがありましたからね、重役クラスになりますと、金の使ひ方が公私混同して ゐなかつたですよね。これは自分のこづかひといふけぢめがあつたでしよ。今何でも会社の伝票を切る、 かういふことがいちばん日本人全体のモラルを崩壊させてゐると思ふんです。 三島由紀夫 「武士道に欠ける現代のビジネス」より
544 :
名無しさん@社会人 :2010/02/14(日) 23:29:20
…外人記者なんかに会ひますとね、日本に軍国主義が復活してゐることを懸念してゐる。 これは実はまちがひだつていふんです。 …といふのは武士道といふのを、日本人がわからなくなつてゐるからだ。武士道といふのは何かといふことを 外人に説明するとき、三つあるといふんです。 それはSelf-respect 自尊心ですね。次はSelf-responsibility 自己責任ですね。自己において責任が終了するといふ。 第三がSelf-sacrifice 自己犠牲ですね。この三つのうちどれをとつても武士ぢやないといふんですよ。 そしてね、軍国主義といふのは外国からきたものでね、このSelf-respect と、Self-responsibility は あるかもしれない。Self-sacrifice は欠けてゐると。かうなつたらアウシュビッツの収容所長だつてさうなんで、 自尊心はもつてゐた、責任観念はもつてゐた、ただねSelf-sacrifice といふものは外国にはないから、 だからさういふことになるといふふうに説明するんですよ。 三島由紀夫 「武士道に欠ける現代のビジネス」より
545 :
名無しさん@社会人 :2010/02/14(日) 23:29:56
ですから本当に日本人が武士道にめざめれば、あなたがたが心配することは何もない。身を殺して仁をなすことが 武士道の極意だと説明するんです。その場合、欠けてゐるものは武士道のみならず、ことに商人に欠けてゐる。 そして、とにかく口では国家の再建をとなへ、日本精神をとなへ、自分の金は一文も出すのはいやだ。十円の金も 惜しい、全部会社の伝票、そんな精神ぢやだめなんだといふことですね。 三島由紀夫 「武士道に欠ける現代のビジネス」より
546 :
名無しさん@社会人 :2010/02/27(土) 11:00:37
…私の知るかぎり、三島は、ある種の危険を冒しても、ものごとを素直に述べようとする人であり、しかも その発言は、私にいろいろと考えさせることが多いからである。三島という人は、世評によれば、それこそ 海千山千のしたたかな才子であるのかもしれないが、私はほとんどそうは思わない。 私見はいつか三島由紀夫伝めいたもので述べたことがあるが、私は三島を(国木田独歩流にいえば)一種の 「非凡なる凡人」としか考えたことはない。そして、そういう愚直な人物の正直な発言というものは、近頃では 稀少価値をさえもっているのではないかと思う。自分の眼で、自分の直覚でものごとをとらえることのできる人間は (少なくとも、もの書きの世界では)だんだんと少なくなっているのではないかと私はひが目で見ているのだが、 三島はそうでない人物の一人に見えるからである。そして、そういう人物の書いたり、したりすることは、 私などにはいつも共感と刺激の種になるからである。 橋川文三 「美の論理と政治の論理」より
547 :
名無しさん@社会人 :2010/03/14(日) 11:47:23
音楽は生活必需品かといふと、人によつてちがふだらうが、私にとつては必ずしもさうではない。それは思考を 妨げるからだ。私には、音楽の鳴つてゐる部屋で物を考へるなど、狂気の沙汰としか思はれない。このごろの 青少年がジャズをききながら試験勉強をしてゐるのを見ると、私と別人種の感を新たにする。 では、音楽は休息の楽しみとして必要だらうか。私にとつては必ずしもさうではない。机に向かふのが仕事の私には、 休息とは、体を動かすことである。運動にはそれ自体のリズムがあつて、音楽を要しない。アメリカのジムなどで、 ムード・ミュージックを流してゐるところがあつたが、何だか運動に力が入らなくて困つた。 では、私にとつて音楽とは何なのだらうか。それは生活必需品でもなければ、休息の楽しみでもない。 それは誘惑なのである。 三島由紀夫 「誘惑――音楽のとびら」より
548 :
名無しさん@社会人 :2010/03/14(日) 11:47:51
むかし米軍占領時代に、家から三丁ばかり離れた大きな邸が接収されてゐて、週末といふと舞踏会が催ほされるらしく、 夜風に乗つてダンス音楽がかすかに流れてきて、食糧難時代の新米文士の仕事を攪乱したものだつた。 しかし、その音楽には、今そこにないものへの強烈な誘惑があつた。「今そこにないもの」を、音楽ほど強烈に 暗示し、そこへ向つて人を惹き寄せるものはない。もちろんただの幻である映画だつてさうかもしれない。 が、音楽のこの誘惑の力を借りてゐない映画はきはめて稀である。 「今そこにないもの」にもピンからキリまである。ピンは天国から、キリはつまらない観光的な熱帯の小島まである。 ピンは、人間精神の絶顛から、キリは性慾の満足まである。それに従つて、音楽にもピンからキリまであるわけだが、 かう考へると、音楽は生活必需品でなくても、人生の必需品、むしろその本質的なものとも思はれる。 「今そこにないものへの誘惑」にこそ、生の本質があるからである。 三島由紀夫 「誘惑――音楽のとびら」より
549 :
名無しさん@社会人 :2010/03/22(月) 17:01:55
西部劇は純然たる男だけの世界であつてこそ意味がある。へんな恋愛をからませた西部劇ほど、おかつたるい ものはない。 さて、西部劇に欠くべからざるインディアンのことだが、アメリカ人はインディアンに対しては、ニグロに 対するやうな人種的偏見を持つてゐないらしい。ユンクによると、アメリカ人の英雄類型は結局インディアンの 伝統的英雄に帰着するさうである。アメリカ人の集合的無意識は、自分の祖先を衰弱した白皙のヨーロッパ人 としてよりも、精力にみちあふれた赤い肌のインディアンとして見てゐるらしい。開拓時代にインディアンと 戦ひながら、アメリカ人は敵の精力をしらずしらず崇拝し、模倣しようとしたかもしれない。(中略) 「一難去つて又一難」といふ事態に対する人間のどうしやうもない興味は、(これは西部劇に限つたことでは ないが)、どんなに平和な時代が続かうと癒やしがたいものであるらしい。平和な市民生活に直接の身体的 危険が乏しいことから、この刺戟飢餓は、危険なスポーツや、自動車の制限速度の超過や、犯罪などに向ひ、 あるひは内攻してノイローゼに向ふことになる。西部劇はかういふ不満に対するいかにも安全な薬品である。 三島由紀夫「西部劇礼讃」より
550 :
名無しさん@社会人 :2010/03/23(火) 17:25:23
電気の世の中が蛍光電灯の世の中になつて、人間は影を失なひ、血色を失なつた。 蛍光灯の下では美人も幽霊のやうに見える。近代生活のビジネスに疲れ果てた幽霊の男女が、蛍光灯の下で、 あまり美味しくもなささうな色の料理を食べてゐるのは、文明の劇画である。 そこで、はうばうのレストランでは、蝋燭が用ひられだした。磨硝子(すりガラス)の円筒形のなかに蝋燭を 点したのが卓上に置かれる。すると、白い卓布の上にアット・ホームな円光がゑがかれ、そこに顔をさし出した 女は、周囲の暗い喧騒のなかから静かに浮彫のやうに浮き出して見え、ほんの一寸した微笑、ほんの一寸した 目の煌めきまでがいきいきと見える。情緒生活の照明では、今日も蝋燭に如くものはないらしい。 そこで今度は古来の提灯(ちやうちん)がかへり見られる番であらう。 三島由紀夫「蝋燭の灯」より
551 :
名無しさん@社会人 :2010/03/23(火) 17:25:59
…私の幼年時代はむろん電気の時代だつたが、提灯はまだ生活の一部に生きてゐた。内玄関の鴨居には、家紋を つけた大小長短の提灯が埃まみれの箱に納められてかかつてゐた。火事や変事の場合は、それらが一家の 避難所の目じるしになるのであつた。 提灯行列は軍国主義花やかなりし時代の唯一の俳句的景物であつたが、岐阜提灯のさびしさが今日では、生活の中の 季節感に残された唯一のものであらう。盆のころには、地方によつては、まだ盆灯籠が用ひられてゐるだらうが、 都会では灯籠といへば、石灯籠か回はり灯籠で、提灯との縁はうすくなつた。 「大塔宮曦鎧」といふ芝居があつて、その身替り音頭の場面には、たしか美しい抒情的な切子(きりこ)灯籠が 一役買つてゐた。切子灯籠は、歳時記を見ると、切子とも言ひ、灯籠の枠を四角の角を落とした切子形に作り、 薄い白紙で張り、灯籠の下の四辺には模様などを透し切りにした長い白紙を下げたもの、と書いてある。 江戸時代の庶民の発明した紙のシャンデリアである。 三島由紀夫「蝋燭の灯」より
552 :
名無しさん@社会人 :2010/03/24(水) 11:41:14
新聞の持つてゐる社会的正義感といふものには、ときどき反撥を感じることがある。 だれでもみづから美徳の代表者を買つて出れば、サンザンな目に会ふのが当節で、新聞だけが、何の傷も 負はずに社会的正義の代表者たりうるはずがないからである。また、いろいろと虚偽の多い時代に、新聞が、 子供も読むものだといふので、ともすると家庭ダンラン趣味、事なかれの小市民趣味に美的倫理的基準を 置くのも困る。みにくいものは、みにくいままに報道してほしい。 戦争中の大本営発表以来、新聞は一たん信用をなくしたが、こんどあんなことがあるときは、新聞はこんどこそ、 最後までグヮンばつて抵抗するだらうといふことを我々は期待してゐる。この期待を裏切らないでほしい。 某紙の新聞批判に「新聞を愛すればこそ批判するのだ」と言訳がついてゐたが、いやしくも批評をするのに、 こんな言訳を要するやうな空気がもしあるならば、それを払拭されんことをのぞむ。 三島由紀夫「ありのままの報道を――私の新聞評」より
553 :
名無しさん@社会人 :2010/03/26(金) 10:35:39
私はショッピングが大きらひだ。店のなかをウロウロして、十軒も二十軒も東京中を歩いて、やつと一本の ネクタイを買ふ人があるが、時間が惜しくてとてもあんな真似はできない。私の買物は即興詩みたいなものだ。 町を歩いてゐて、視界のはじつこのはうに、ちよつと気に入つたネクタイが目に入る。と間髪を入れずそれを 買ふのである。今のチャンスをのがしたら、その同じネクタイが気に入ることは二度とないだらうと感じるからだ。(中略) 本当のお洒落といふのは、下着から靴下から靴から、すみずみまでのお洒落であらう。私は到底お洒落の 資格はない。せいぜいカラーに汚れのない白いワイシャツをいつも着てゐるぐらゐが私のお洒落であらう。 靴下のことまで考へるのは面倒くさい。しかしもし下着から靴下まで考へることが本当のお洒落ならば、 もう一歩進んで、自分の頭の中味まで考へてみることが、おそらく本当のお洒落であらう。 三島由紀夫「お洒落は面倒くさいが――私のおしやれ談義」より
554 :
名無しさん@社会人 :2010/03/26(金) 10:36:08
青春といふものは明るいと思へば暗く、暗いと思へば明るく、自分がその渦中に在るあひだは五里霧中であり ながら、時経てかへりみると、村の教会の尖塔のやうにくつきりと日を受けて輝やいてゐる。意味があると 思へばあり、ないと思へばなく、生の激湍(げきたん)と死の深淵とにふたつながら接し、野心と絶望を併せ 蔵してゐる。ティボーデが、小説に青年を書いて成功したものの少ないことを指摘してゐるのは、青春の かういふ特質によるのであらう。いはば深海魚が大気の中に引揚げられると変形されてしまふやうに、青春の 姿は、さういふ変形された形でしかとらへられぬものかもしれない。 しかし青春も亦、病気のやうに、一人一人がその中を生きるもので、いづれは治る病気ではあるけれど、療法を あやまると、とりかへしのつかないことになる。 三島由紀夫「あとがき『青春をどう生きるか』」より
555 :
名無しさん@社会人 :2010/03/27(土) 11:07:00
われわれの死には、自然死にもあれ戦死にもあれ、個性的なところはひとつもない。しかし死は厳密に個人的な 事柄で、誰も自分以外の死をわが身に引受けることはできないのだ。死がこんな風に個性を失つたのには、 近代生活の劃一化と劃一化された生活様式の世界的普及による世界像の単一化が原因してゐる。 ところで原子爆弾は数十万の人間を一瞬のうちに屠(ほふ)るが、この事実から来る終末感、世界滅亡の感覚は、 おそらく大砲が発明された時代に、大砲によつて数百の人間が滅ぼされるといふ新鮮な事実のもたらした感覚と 同等のものなのだ。(中略) 原爆の国連管理がやかましくいはれてゐるが、国連を生んだ思想は、同時に原子爆弾を生まざるをえず、 世界国家の理想と原爆に対する恐怖とは、互ひに力を貸し合つてゐるのである。 三島由紀夫「死の分量」より
556 :
名無しさん@社会人 :2010/03/27(土) 11:07:18
交通機関の発達と、わづか二つの政治勢力の世界的な対立とは、われわれの抱く世界像を拡大すると同時に 狭窄にする。原子爆弾の招来する死者の数は、われわれの時代の世界像に、皮肉なほどにしつくりしてゐる。 世界がはつきり二大勢力に二分されれば、世界の半分は一瞬に滅亡させる破壊力が発明されることは必至である。 しかし決してわれわれは他人の死を死ぬのではない。原爆で死んでも、脳溢血で死んでも、個々人の死の分量は 同じなのである。原爆から新たなケンタウロスの神話を創造するやうな錯覚に狂奔せずに、自分の死の分量を 明確に見極めた人が、これからの世界で本当に勇気を持つた人間になるだらう。 まづ個人が復活しなければならないのだ。 三島由紀夫「死の分量」より
557 :
名無しさん@社会人 :2010/03/31(水) 23:49:54
現代の若い人たちの特徴として、欲望の充足そのものをあまり重要なものとしてゐないのではないかと僕は思ふ。 それは欲望を充足してから後に、いつも「たしかこれだけではないはずだ」といふやうな飢餓の気持に襲はれて、 その感じの方が欲望の充足といふことよりも強く来てしまふんです。女の人に関しては、まだまだ欲望の 充足といふことは大問題かもしれないけれども、若い男にとつては欲望の充足だけが人生の大問題であるなんて ことは、ほとんどないんぢやないかと思ふ。(中略) 今はさういふもの(性欲の満足)に対して、あまりにも近道が発達してゐるものだから、人間のかなり大事な 一つの仕事である生殖作用が、だんだん軽くなつてゐる。その一つの現はれがペッティングなどといふことに なるんだけれども、これからますますかういふ傾向がひどくなるんぢやないかと思ふ。その結果、若い人たちの 性欲以外のいろいろな欲望に対する追求も、だんだんとねばりがなくなり、非常にニヒリスティックになる といふことは言へると思ふ。 三島由紀夫「欲望の充足について」より
558 :
名無しさん@社会人 :2010/03/31(水) 23:50:23
たとへば明治時代の立身出世主義のやうに一つの公認されてゐる社会的欲望が、大多数の人たちを動かして ゐた時代もあるわけです。さうすると、社会的欲望の充足が、だれが見ても間違ひのない社会における完全な 勝利になる。さういふ時代には、あらゆる条件がそれに伴つて動いてゐたと思ふんです。たとへば上昇期の 資本主義の時代、さうして日本が近代国家として統一されて、まだ間もない時代、しかも恋愛の自由がまだ 完全にない時代――もちろんプロスティチュートはたくさんゐたし、さういふことの満足は幾らでも得られた けれども、普通の恋愛がまだ非常に困難であつた時代、従つてたとひ男がプロスティチュートを買つても、 精神的に非常にストイックだつた時代、さういふ頃には、欲望の充足といふことは、みんな一つの大きな方向に 向つた大事業だつたといつていいと思ふ。だからさういふ立身出世主義みたいな世俗的なものの裏返しとしては、 あの時代は理想主義の時代だつたとも言へるかもしれない。 三島由紀夫「欲望の充足について」より
559 :
名無しさん@社会人 :2010/03/31(水) 23:50:49
けれども今の時代は、普通の若い人たちの間で、必ずしもプロスティチュートでなくても、欲望の充足が非常に 簡単になつて来てゐる。その簡単になつて来たといふ背後には、逆にどうやつてもいろいろな社会的な欲望の 充足が困難になつて来たといふ事情も入つてゐると思ふ。たとへば今学校で子供たちに、将来何になりたいかと 聞いたならば、大臣になりたいなどといふ子供はあまりゐないだらうし、大将などはなくなつてしまつた やうなものだし、みんなのなりたいものは、プロ野球の選手だとか映画俳優くらゐしかなくなつてしまつた。 さうして社会が一種の袋小路に入つてゐて、未来の日本の希望といふものもあまり見られないし、社会そのものが 今発展期にないといふことが、非常に概念的な言ひ方だけれども、簡単に欲望が満足させられてしまふ悲しさ、 空虚感に、ますます拍車をかけてゐるといふ感じがする。 三島由紀夫「欲望の充足について」より
560 :
名無しさん@社会人 :2010/03/31(水) 23:51:49
そこで欲望の充足といふことは、ほかの項目にある刺激飢餓といふことに、すぐ引つかかつて来る。 ヒロポンとかパチンコとか麻雀とかに対する狂熱的な欲望も、みんなさういふところに入つて来ると思ふのです。 だから性欲なら性欲といふことを一つ考へても、それにいろいろな条件がからんで来るので、もし性欲が非常に 簡単に満足されるとすれば、何も性欲である必要はないんです。それはある場合においては賭事であつてもいいし、 目先の小さな刺激であつてもいいし、何でもいいわけです。つまり一つの欲望が非常に大事であるといふことに なれば、ほかの欲望もみんな大事であると言へると思ふ。もし性欲の満足が非常に大事な問題であれば、ほかの 欲望もそれぞれ人生の中での大問題になる。一つの欲望の充足がくだらぬことになつてしまへば、ほかもみんな くだらなくなつてしまふ。 三島由紀夫「欲望の充足について」より
561 :
名無しさん@社会人 :2010/03/31(水) 23:52:09
それが両方から鏡のやうに相投射してゐるから、何も女の子を追つかけなくても、ヒロポンを打つてゐれば いいといふことになる。さうしてヒロポンがこはいといふ人は麻雀をやつてゐればいいといふことになる。 さういふ点から見てみると、案外今の若い人には――それは新聞や雑誌の言ふやうに性道徳が乱れて めちやくちやになつてゐるといふ部分もあるでせうけれども、一部分には何だか全然何も考へないでパチンコ ばかりやつてゐて女の子とつき合ふこともない。ヒロポンなんか少し甚だしいけれども、一方では女の子と ちつともつき合はないで麻雀ばかりやつて、うたた青春を過してゐるのも多いんぢやないか。従つてすべてに 欲望がなくなつた時代とも言へるんぢやないかと思ふ。 (談) 三島由紀夫「欲望の充足について」より
562 :
名無しさん@社会人 :2010/04/05(月) 10:26:08
このごろは、デモ見物に歩くことが多くなつた。デモの当事者からすれば、弥次馬は唾棄すべき存在だらうが、 かういふときには、一人ぐらゐ「見る人間」も必要である。 鴨長明が洛中の屍体の数まで、自分手で数へあげてゐる態度は、学ぶべきだと思ふ。 新聞を見てもテレビを見ても、どうしても報道そのものに主観的態度が入つてゐるやうに思はれる。 写真や映画は正に実物そのものの筈だが、必ず主観的なアナウンスが入つてゐて、印象を混濁させる。 かうなつてくると、いはゆるマス・コミは却つて不便で、どうせ主観なら自分の主観、どうせ目なら自分の目を 信ずる他はなくなるのだ。私の目だつて大したことはないが、カメラのレンズよりは少しばかり精巧であらう。 三島由紀夫「同人雑記」より
563 :
名無しさん@社会人 :2010/04/05(月) 10:26:40
今でも英国では、午後の紅茶に「ミルク、ファースト?ティー、ファースト?」と丁重にきいてまはつてゐる。 同じ茶碗にお茶を先に入れようがミルクを先に入れようが、味に変りはなささうだが、そんなことはどうでも いいかといへば、そこには非合理な各人各説といふものがあつて、決してさうはいかないのが英国であることは、 今も昔も変りがない。 「どつちでもいいぢやないか」といふ精神は、生活を、ひろくは文化といふものを、あつさり放棄してしまつた 精神のやうに思はれる。 三島由紀夫「英国紀行」より
564 :
名無しさん@社会人 :2010/04/05(月) 10:50:27
女性の特徴は、人の作つた夢に忠実に従ふことでせうが、何よりも多数決に弱いので、夫の意見よりも、つねに 世間の大多数の夢のはうを尊重し、しかもその「視聴率の高い夢」は大企業の作つた罠であることを、ほとんど 直視しようとしません。「だつて私の幸福は私の問題だもの」たしかにさうです。しかし、あなたの、その半分 ノイローゼ的な、幸福への夢へのたえざる飢ゑと渇きは、実は大企業が、赤の他人が作つてゐるものなのです。 三島由紀夫「反貞女大学」より
565 :
名無しさん@社会人 :2010/04/05(月) 10:50:54
ちやうど年寄りの盆栽趣味のやうに、美といふものは洗練されるにつれて、一種の畸型を求めるやうになる。 …そして、さういふ奇妙な流行を作るのは、たいてい男の側からの要求であり、パリのデザイナーもほとんど 男ですし、ほかのことでは何でも男性に楯つくことの好きな女性が、流行についてだけは、素直に男の命令に 従ひます。 三島由紀夫「反貞女大学」より
566 :
名無しさん@社会人 :2010/04/05(月) 10:52:03
人間は精神だけがあるのではなくて、肉体がなぜあるのかといふと、神様が人間はなかばシャイネン(ふりを する)の存在だとしてゐるといふことを暗示してゐると思ふ。ザイン(存在)だけのものになつたら、 シャイネンがほんたうに要らない人間になる。それならもう社会生活も放棄し、人間生活も放棄したはうがいい。 どんなに誠実さうな人間でも、シャイネンの世界に生きてゐる。 だから僕が一番嫌ひなのは、芸術家らしく見えるといふことだ。芸術家といふものは、本来シャイネンの世界の 人間ぢやないのだから。芸術家らしいシャイネンといふものは意味がない。それは贋物の芸術家にきまつてゐる。 芸術家らしいシャイネンといへば、頭髪を肩まで伸ばして、コール天の背広を着て歩いてゐるといふのだらうが、 そんなのは贋物の絵描きにきまつてゐる。 三島由紀夫「作家と結婚」より
567 :
名無しさん@社会人 :2010/04/05(月) 10:52:58
批評する側の知的満足には、創造といふまともな野暮な営為に対する、皮肉な微笑が、いつまでもつきまとふ ことは避けられない。この世には理想主義的知性などといふものはないのだ。 あらゆる理想主義には土方的なものがあり、あらゆる仕事は理想主義の影を伴ふ。そして批評的知性には、 本来土方の法被(はつぴ)は似つかはしくないものであるが、批評の仕事がひとたびこの法被を身にまとふと、 営々孜々として破壊作業に従事するか、それとも対象から遠く隔たつて天空高く楼を建てるかしてしまふのである。 三島由紀夫「裸体と衣装」より
568 :
名無しさん@社会人 :2010/04/05(月) 10:55:34
私はあくまで黒い髪の女性を美しいと思ふ。 洋服は髪の毛の色によつて制約されるであらうが、女の黒い髪は最も派手な、はなやかな色であるから、 かうして黒い服を着た黒い髪の女は、世界中で一番派手な美しさと言へるだらう。 三島由紀夫「恋の殺し屋が選んだ服」より
569 :
名無しさん@社会人 :2010/04/12(月) 10:53:21
他人に場ちがひの感を起させるほどたのしげな、内輪のたのしみといふのはいいものだ。 たとへば、祭りのミコシをかついだあとで、かついだ連中だけで集まつてのむ酒のやうなものだ。 われわれに本当に興味のある話題といふものは他人にとつてはまるで興味のないことが多い。他人に通じない 話ほど、心をあたたかく、席をなごやかにするものはない。 三島由紀夫「内輪のたのしみ」より
570 :
名無しさん@社会人 :2010/04/12(月) 11:06:02
剣道の、人を斬るといふ仮構は爽快なものだ。 今は人殺しの風儀も地に落ちたが、昔は礼儀正しく人を斬ることができたのだ。 人とエヘラエヘラ附合ふことだけにエチケットがあつて、人を斬ることにエチケットのない現代とは、 思へば不安な時代である。 三島由紀夫「ジムから道場へ――ペンは剣に通ず」より
571 :
名無しさん@社会人 :2010/04/12(月) 15:44:16
スキャンダルの特長は、その悪い噂一つのおかげで、当人の全部をひつくるめて悪者にしてしまふことである。 スキャンダルは、「あいつはかういふ欠点もあるが、かういふ美点もある」といふ形では、決して伝播しない。 「あいつは女たらしだ」「あいつは裏切者だ」――これで全部がおほはれてしまふ。 当人は否応なしに、「女たらし」や「裏切者」の権化になる。一度スキャンダルが伝播したが最後、世間では、 「彼は女たらしではあるが、几帳面な性格で、友達からの借金は必ず期日に返済した」とか、「彼は裏切者だが、 親孝行であつた」とか、さういふ折衷的な判断には、見向きもしなくなつてしまふのである。(中略) マス・コミといふものが、近代的な大都会でも、十分、村八分を成立させるやうになつた。 三島由紀夫「社会料理三島亭」より
572 :
名無しさん@社会人 :2010/04/14(水) 17:33:39
遊び、娯楽、といふものは、むやみと新らしい刺戟を求めることでもなく、阿片常習者のやうな中毒症状を 呈することでもなく、お金を湯水のやうに使ふことでもなく、日なたぼつこでも、昼寝でも、昼飯でも、散歩でも、現在自分の やつてゐることを最高に享楽する精神であり才能であらう。(略)プロ野球見物と庭の水まきと、どつちが現在の自分にとつてもつともたのしいか、といふことに、自分の本当の 判断を働らかすことが、遊び上手の秘訣であらう。世間の流行におくれまいとか、話題をのがさぬやうにとか、 「お隣りが行くから家も」とか、「人が面白いと言つたから」とか、……さういふ理由で遊びを追求するのは、 人のための遊びであつて、自分のための娯楽ではないのである。 三島由紀夫「社会料理三島亭 折詰料理『日本人の娯楽』」より
573 :
名無しさん@社会人 :2010/04/14(水) 17:34:18
世の女性方は、たとへイギリス製の生地の背広を着こなした紳士の中にも、「ガーン!」「ガバッ!」 「ガシーン!」「バシーン!」などの擬音詞に充ちた低俗なアクションへの興味が息をひそめてゐることを、 知つておいて損はなからう。 男にとつては、いくつになつても、そんなに「バカバカしい」ことといふものはありえない。 「バカバカしい」といふ落着いた冷笑は、いつも本質的に女性的なものである。 三島由紀夫「社会料理三島亭 いかもの料理『大人の赤本』」より
574 :
名無しさん@社会人 :2010/04/14(水) 17:35:34
大体私は現在のオウナー・ドライヴァー全盛時代に背を向けて、絶対に自分の車を持たぬといふ主義を堅持して ゐる。何のために車を持つか?一刻も早く目的地へ到達するためだらう。ところが私の家から都心までは、 ラッシュ・アワーでも、バスと国電を使つて三十五分で確実に行くのに、車を利用すれば早くて四十五分はかかる。 これでもなほ車に乗るのは、どうかしてゐる。(中略) 電車なら、推理小説だのスポーツ新聞だのに読み耽つてゐるうちに、あつといふ間に目的地へ着いてしまふ。 一切あなたまかせだからイライラすることもないのである。 都会生活の真髄は能率とスピードだらう。車を持つこと、いやただタクシーに乗ることさへ、今や能率と スピードに背馳しつつある。あとにのこる車の御利益と言つたら見栄だけだが、かう猫も杓子も車を持つやうに なつたら、一向見栄にもならない。見栄にも実用にもならぬことに、どうしてお金を使はなければならないのだらう。 三島由紀夫「社会料理三島亭 クヮンヅメ料理『自動車ラッシュ』」より
575 :
名無しさん@社会人 :2010/04/19(月) 22:28:51
一体、「日本人が何をクリスマスなんて大さわぎをするんだ」といふ議論ほど、月並で言ひ古された議論はなく、 かういふ風にケチをつければ、日本へ輸入された外国の風習で、ケチをつけられないものはあるまい。もともと クリスマスは宗教の風習化で、宗教のはうは有難く御遠慮申し上げて、何か遊ぶ口実になるたのしさうな ハイカラな風習のはうだけいただかうといふところに、日本人の伝来の知恵がある。識者の言ふやうに、 日本人が外国人なみ(と云つてもごく少数の信心ぶかい外国人なみ)に、敬虔なるクリスマスをすごすやうな 国民なら、とつくの昔に一億あげてキリスト教に改宗してゐたであらう。ところが日本人の宗教に対する 抵抗精神はなかなかのもので、占領中マッカーサーがあれほど日本のキリスト教化を意図したにもかかはらず、 今以てキリスト教徒は人口の二パーセントに充たぬ実情である。そして肝腎のクリスマスは、商業主義の ありつたけをつくした酒池肉林の無礼講、あたかも魔宴(サバト)の如きものになつてゐる。 三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より
576 :
名無しさん@社会人 :2010/04/19(月) 22:29:33
私は日本のクリスマスといふのは、日本にすつかり土着した、宗教臭のない、しかもハイカラなお祭なのだと 思つてゐる。オミコシをかついであばれまはる町内のお祭は、今日ではもう、ごく一部の人のたのしみになつて しまつた。ミコシをかつぐ若い衆も年々少なくなり、しかもどこの町内でも、ミコシかつぎが愚連隊に占領 されるおそれがあるので、折角のオミコシを出さないところもふえて来た。 こんな町内のお祭以外には、紀元節も天長節も失つた民衆は、文化の日だのコドモの日だのといふ官製の 舌足らずの祭日を祝ふ気にはなれない。そこで全然官製臭のない唯一のお祭であるクリスマスをたのしむやうに なつたのはもつともである。 三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より
577 :
名無しさん@社会人 :2010/04/19(月) 22:30:11
半可通の「文化人」がにやけたベレーをかぶつて、パリの貧乏生活の思ひ出をたのしむ巴里祭などより、 どれほどクリスマスのはうが威勢がよいかわからない。それに例の「ジングル・ベル」の音楽も、今では、 「ソーラン節」や「おてもやん」程度には普及してきたのである。(中略) 一昨々年は、ニューヨークで、三軒ほどの私宅によばれて、清教徒的クリスマス、インテリ的クリスマス、 デカダン的クリスマス、と三様のクリスマス・パーティーを味はつたが、清教徒的家庭的健康的クリスマスの つまらなさはお話にならず、いい年をした大人が、合唱したり、遊戯をしたり、安物のプレゼントをもらつて よろこんだりする、田舎教会的雰囲気は、とても私ごとき人間には堪へられるところではなかつた。よく外国へ 行つたら家庭に招かれて、家庭のクリスマスを味はふべきだ、などと言ふ人があるが、そんな話はマユツバ物である。 クリスマスを口実に、淡々と呑んだり踊つたりといふのが、世界共通の大人のクリスマスといふのだらう。 三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より
578 :
名無しさん@社会人 :2010/04/19(月) 22:30:43
…クリスマスは、キリスト教においても、本当は異教起源のお祭で、ローマの冬至の祭、サトゥルヌス祭の 馬鹿さわぎに端を発し、収納祭の農業的行事であつた。それを考へると、日本人がクリスマスを、その正しい 起源においてとらへて、ただのバカさわぎに還元してしまつたといふ点では、日本人の直観力は大したものである。 しかも、誠心誠意、このバカさわぎ行事に身を捧げて、有楽町駅の階段に醜骸をさらすほど、古代ローマの神事に 忠実な例は、あんまり世界にも類例を見ないのである。これもキリスト教に毒されなかつた御利益といふべきか。 ところが私には、妙な気取りがあつて、祭のオミコシをかついだ経験から言ふのだからまちがひないが、日本の 祭のミコシなら、ねぢり鉢巻でかつぎまはつて、恥も外聞もかまはずにゐられるのに、クリスマスといふ ハイカラなお祭には、そのハイカラが邪魔をして、どうもそこまで羽目を外す気にはならないのである。 日本にゐて外国の祭にウツツを抜かすといふことに、何となく抵抗を感じる。「クリスマス、クリスマス」と 喜ぶのが何だか気恥かしいのである。(略) 三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より
579 :
名無しさん@社会人 :2010/04/19(月) 22:31:03
ところで文化人知識人といふヤカラは、安保デモではプラカードをかつぎ、巴里祭にはベレーをかぶり、 クリスマスには銀座のバア歩きもやるくせに、どうして、日本のオミコシをかつがうとしないのであらう。 そこのところが、どうしても私にはわからない。 多分ハイカラ知識人は肉体的に非力で、オミコシなんか重くてかつげないものだから、軽いプラカードを かついでゐるのではなからうか。あれなら子供ミコシほどの目方もありはしない。 クリスマスも、日本の神事祭事に比べて、ただ目方が軽いから、ここまで普及したのではあるまいか。日本の 祭には、たのしいだけでなく、若い衆に苦行を強制する性格があるからである。お祭といふのは、本当はもつと 苦しいものである。苦しいからあばれるのである。もつとも、年末は丁度借金取の横行するシーズンで、 形のある重いオミコシよりも、無形の借金の重さを肩にかついで、やけつぱちで呑みまはりさわぎまはる 「苦シマス」が、日本的クリスマスの本質なのかもしれない。 三島由紀夫「社会料理三島亭 七面鳥料理『クリスマス』」より
580 :
名無しさん@社会人 :2010/04/21(水) 11:08:26
よく人の家へ呼ばれて、家族の成長のアルバムなんかを見せられることがある。ところがこんなに退屈な もてなしはない。人の家族の成長なんか面白くもなんともないからである。写真といふものには、へんな魔力が ある。みんなこれにだまされてゐるのである。ある家族が、自分の家族の成長の歴史を写真で見れば、なるほど 血湧き肉をどる面白さにちがひない。しかもそれが写真といふ物質だから、物質である以上、坐り心地のよい 椅子が誰にも坐り心地よく、美しいガラス器が誰が見ても美しいやうに、面白い写真といふものは、誰が見ても 面白からうといふ錯覚・誤解が生じる。そこでアルバムを人に見せることになるのであらう。(略) 大部分の写真は、不完全な主観の再現の手がかりにすぎない。それは山を映しても、ふるさとの懐しい山といふ ものは映してくれない。ただ「ふるさとの懐しい山」を想ひ起す手がかりを提供してくれるにすぎない。 「ふるさとの懐しい山」といふものは、あくまでこちらの心の中にあるので、その点では、われわれ文士の 用ひる言葉といふやつのはうが、よほど正確な再現を可能にする。 三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より
581 :
名無しさん@社会人 :2010/04/21(水) 11:08:59
いちばんいい例が赤ん坊の写真である。 他人の赤ん坊ほどグロテスクなものはなく、自分の赤ん坊ほど可愛いものはない。そして世間の親がみんな さう思つてゐるのだから世話はない。 公園で乳母車を押した母親同士が出会つて、 「まあ、可愛い赤ちゃん」「まあ、お宅さまこそ。何て可愛らしいんでせう」などとお世辞を言ひ合ふが、 どちらも肚の中では、『なんてみつともない赤ん坊でせう。まるでカッパだわ。それに比べると、うちの 赤ん坊の可愛らしいこと!…(略)』さう思つてゐる。 カメラはこの「可愛い赤ん坊」を写すのである。実は、本当のことをいふと、カメラの写してゐるのは、 みつともないカッパみたいな未成熟の人間像にすぎないが、写真は、言葉も及ばないほど、「可愛い赤ん坊」の 手がかりを提供する。(略)かへすがへすも注意すべきことは、自分の赤ん坊の写真なんか、決して人に 見せるものではない、といふことである。 三島由紀夫「社会料理三島亭 携帯用食品『カメラの効用』」より
582 :
名無しさん@社会人 :2010/04/21(水) 11:11:43
私はこの世に生をうけてより、只の一度も赤い羽根を買つたことがない。そのシーズンの盛期に、大都会で、 赤い羽根をつけないで暮すといふ絶大のスリルが忘れられないからだ。赤い羽根をつけないで歩いてごらんなさい。 いたるところの街角で、諸君は、何ものかにつけ狙われてゐる不気味な眼差を感じ、交番の前をよけて通る おたづね者の心境にひたることができる。自分は狙われてゐるのだといふ、こそばゆい、誇らしい気持に 陶然とすることができる。もし赤い羽根をつけて歩いてごらんなさい。誰もふりむいてもくれやしないから。 冗談はさておき、私は強制された慈善といふものがきらひなのである。(略) 駅の切符売場の前に女学生のセイラー服の垣根が出来てゐて、カミつくやうな、もつとも快適ならざるコーラスが、 「おねがひいたします。おねがひいたします」と連呼する。 私がその前を素通りすると、きこえよがしに、「あの人、ケチね」などといふ。 「アラ、心臓ね」「図々しいわね」と言はれたこともある。 三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より
583 :
名無しさん@社会人 :2010/04/21(水) 11:12:11
これは尤も、通るときの私の態度も悪いので、なるべく悪びれずに堂々とその前をとほるのが、よほど鉄面皮に 見えるらしい。しかし、ただ胸を張つてその前を通るだけのことで、鉄面皮に見えるなら、それだけのことが できない人は、単なる弱気から、あるひは恥かしさから、醵金箱(きよきんばこ)に十円玉を投じてゐるものと 思はれる。一体、弱気や恥かしさからの慈善行為といふものがあるものだらうか?それなら、人に弱気や 羞恥心を起させることを、この運動が目的にしてゐると云はれても、仕方がないぢやないか? 大体、弱気や恥かしさで、醵金箱にお金を入れる人種といふものは、善良なる市民である。電車で通勤する 人たちがその大半であつて、安サラリーの上に重税で苦しめられてゐる人たちである。さういふ人たちの善良な やさしい魂を脅迫して、お金をとつて、赤い羽根をおしつける、といふやり方は、どこかまちがつてゐる。 三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より
584 :
名無しさん@社会人 :2010/04/21(水) 11:12:37
もつと弱気でない、もつと羞恥心の欠如した連中ほど、お金を持つてゐるに決つてゐるのだから、おんなじ 脅迫するなら、そつちからいただく方法を講じたらどうだらう。大体、私のやうに、赤い羽根諸嬢の前を 素通りすることで鉄面皮ぶつてゐる男などは甘いもので、もつと本当の鉄面皮は、ひよこひよこそんなところを 歩いてゐるひまなんぞなく、車からビルへ、ビルから車へと、ひたすら金儲けにいそがしいにちがひない。(中略) 本来なら、慈善事業とは、罪ほろぼしのお金で運営すべきものである。さんざん市民の膏血をしぼつて大儲けを した実業家が、あんまり儲かつておそろしくなり、まさか夜中に貧乏人の家を一軒一軒たづねて、玄関口へ コッソリお金を置いて逃げるのも大変だから、一括して、せめて今度は罪ほろぼしに、困つてゐる人を助けよう といふ気で金を出す。これが慈善といふものだ。ところが日本の金持は、政治家にあげるお金はいくらでも あるのに、社会事業や育英事業に出す金は一文もないといふ顔をしてゐる。(略) 三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より
585 :
名無しさん@社会人 :2010/04/21(水) 11:13:07
ちつとも世間に迷惑をかけず、自分の労働で几帳面に仕入れたお金なんかは、世間へ返す必要は全然ないのである。 無意味な税金を沢山とられてゐる上に、たとへ十円でも、世間へ捨てる金があるべきではない。その上、赤い 羽根なんかもらつて、良心を休める必要もないので、そんな羽根をもらはなくても、ちやんと働らいてちやんと 獲得した金は、十分自分のたのしみに使つて、それで良心が休まつてゐる筈である。 さんざんアクドイことをして儲けた金こそ、不浄な金であるから、世間へ返さなければ、バチが当るといふ ものである。(中略) 社会保障は、憲法上、国家の責務であつて、国が全責任を負ふべきであり、次にこれを補つて、大金持が金を ふんだんに醵出すべきであり、あくまでこれが本筋である。しかし一筋縄では行かないのが世間で、(略) 助けられる立場にゐながら、人を助けたい人もある。赤い羽根も無用の強制をやめて、さういふ人たちを 対象に、静かに上品にやつたらいいと思ふ。 三島由紀夫「社会料理三島亭 鳥料理『赤い羽根』」より
586 :
名無しさん@社会人 :2010/04/22(木) 23:42:01
この間伊豆の田舎の漁村へ取材に行つてゐて、その村のたつた一軒の宿に泊り、夕食に出された新鮮な魚が、 ほつぺたが落ちるほど美味しかつたが、一晩泊つてみてびつくりした。別に化物が出たといふ話ではない。 ここは昔ながらの旅籠屋で、襖一枚で隣室に接してゐるわけであるが、前の晩の寝不足を取り戻さうと思つて、 九時ごろ床についたのがいけなかつた。(中略) 又眠らうと寝返りを打つたとたん、隣りの部屋へドヤドヤと人が入つて来て、酒宴がはじまつた。と、それに まじつてトランジスター・ラヂオの大音声の流行歌がはじまつたが、ラヂオをかけながらの酒宴といふのも へんなものだと思ふうちに、それがもう一つ向うの部屋のものだとわかつた。 更に別の部屋からは、火のつくやうな赤ん坊の泣き声。……夜十時といふころ、宿全体が鷄小屋をつつついた やうな騒ぎになつてしまつた。 三島由紀夫「プライヴァシィ」より
587 :
名無しさん@社会人 :2010/04/22(木) 23:42:30
やつと静まつたのが十二時すぎだつたが、それがピタリと静まるといふのではない。しばらく音がしないで、 寝静まつたかなと思ふと、連中は風呂へ行つてゐたので、風呂からかへると、又寝る前に一トさわぎがある。 西瓜の話ばかりなので、商売は何の人だらうと思つたらあとできいたら果して西瓜商人であつた。 一時すぎにやつと眠りについて、朝五時をまはつたころ、村中にひびきわたるラウド・スピーカアの一声に 眠りを破られた。 「第八〇〇丸の乗組員の皆様、朝食の仕度ができましたから、船までとりに来て下さい」 それから間もなく静かになつて、又眠りに落ちこむと、今度はラヂオ体操がスピーカアから村中に放たれた。 三島由紀夫「プライヴァシィ」より
588 :
名無しさん@社会人 :2010/04/22(木) 23:42:53
(中略)――かうして一日たち二日たつた。 最初の一夜は、「これは大変だ」と思つたのに、馴れといふものは怖ろしいものである。二日目にはもう隣室の 話し声は気にならず、トラックやバスの響きに眠りを破られることがなくなつた。三日目になると完全にコツを おぼえ、宿中全員が寝静まらぬうちは眠らぬことにきめ、女中を呼ぶにも大音声を張りあげ、食事がおそい ときは、「おそいぞ!」と怒鳴り、よその子供がバタバタ廊下をかけまはれば、「うるさいぞ!」と怒鳴つて、 夜寝不足ならば十分昼寝をし、ほぼ快適な生活を送れるやうになつた。 ――それはさておき、かりにも都会で、プライヴァシィを重んずる「近代的」生活を、生活だと思ひ込んでゐる 人間には、人の迷惑などを考へずにのびのびと暮してゐるかういふ旧式の日本人の生活は、おどろくべきもので あつた。都会なら、となりのうるさいラヂオを容赦しないが、ここではラヂオはすべて音の競争であつて、 隣りのラヂオがうるさかつたら、家のラヂオの音をもつと大きくすればそれですむのである。 三島由紀夫「プライヴァシィ」より
589 :
名無しさん@社会人 :2010/04/22(木) 23:43:39
みんながそれに馴れ、何の苦痛も感じないなら、人間の生活はそれで十分なので、何も西洋のプライヴァシィを 真似なくてもいい。西洋の冷たい個室の、完全なプライヴァシィの保たれた生活の裏には、救ひやうのない 孤独がひそんでゐるのである。(中略) そこへ行くと、日本の漁村の宿の明朗闊達はおどろくばかりで、人間が、他人の生活に無関心に暮すためには、 何も厚いコンクリートの壁で仕切るばかりが能ではなく、薄い襖一枚で筒抜けにして、免疫にしてしまつた はうが賢明なのかもしれない。(略) しかし、この昔風の旅籠屋が、襖一枚の生活を強制するのが、昔を偲ばせて奥床しいとは云ひながら、それが そのまま昔風とは云ひがたい。何故なら、江戸時代には、人はもう少し小声で話したにちがひないし、怪音を 発するトランジスター・ラヂオなんか、持つてゐなかつたからである。 三島由紀夫「プライヴァシィ」より
590 :
名無しさん@社会人 :2010/05/06(木) 04:58:53
三島の精神を受け継ぐ文士は出てこない。
591 :
名無しさん@社会人 :2010/05/25(火) 10:53:48
私がいつもふしぎに思ふのは、小説家がしたり気な回答者として、新聞雑誌の人生相談の欄に招かれることである。 それはあたかも、オレンヂ・ジュースしか呑んだことのない人間が、オレンヂの樹の栽培について答へてゐる やうなものだ。 三島由紀夫「小説とは何か」より
592 :
名無しさん@社会人 :2010/06/10(木) 14:08:00
三島のような骨のある分子は二度と出てこないだろうな
593 :
名無しさん@社会人 :2010/06/25(金) 11:32:19
論理的能力を発見するなんて、昔は想像もしなかった。だから、人間って、あきらめないでじっくりやっていれば、 何か出てくるんだと思うのです。自慢じゃないですが、英語の会話ができるようになったのは三十越してから ですからね。それまで英語でしゃべれなかった。アメリカへ行っても、ほんとに語学で不自由いたしました。 三十ごろになって、アメリカに半年くらいいてから、まあまあしゃべれるようになった。 人間の能力なんていうものは、ほんとに、早く決めてしまうことないと思いますね。 三島由紀夫 三好行雄との対談「三島文学の背景」より
594 :
名無しさん@社会人 :2010/06/25(金) 11:33:03
ぼくは、自由意志が最高度に発揮されたとき、選択するものは、決まっていると思う。それが源泉ですね。 その時、自由意志が、ほんとに正当なものを発見したと思うのです。ですから自由意志には、無限定な自由は ないですね。自由意志は、さまざまな試行錯誤をくりかえしますけれども、自由意志が源泉を発見した時に 初めて、自由意志が、自由になるのだ、と思います。それまでは自由意志は、なにものかにとらわれていて、 もっと自由な何か、もっと広い世界を期待しているわけです。それが、ぼくは源泉だと思う。ヘルダーリンの 「帰郷(ハイムクンフト)」のいう、一種の恐ろしさですね。最もなつかしいもので、最も恐ろしいものです。 現代社会は、そういう、源泉に帰ることを妨げるように、社会全体の力が働いている。人間は源泉からたえず 遠ざかって、前へ、前へ、上すべりしてゆくように、社会構造ができている。 三島由紀夫 三好行雄との対談「三島文学の背景」より
595 :
名無しさん@社会人 :2010/06/25(金) 11:33:32
たとえば、テレビ、初め映りの悪いテレビ、それがまた、映りのいいテレビ、カラー・テレビになる。現代社会は、 その機械と同じことで、次々と、改良されたものは与えられますけれども、改良された果てに何があるか、 それはなにも与えないで、ぼくらを、先へ、先へ、進めるでしょ。 でもぼくらは、テレビより、もっと遠くみえるものがあるはずです、いちばん前に。(中略) テレビより、もっと遠くがみえるはずです。それから、人の心も、もっとよくみえるはずですし、つまり、 みたいと思うものは、百万里先だろうが、みなければならない。みえなくしてしまったのは、“文明”ですよね。 ぼくはそう思います。(中略) 目ですね。ぼくは、源泉にはそれがあったはずだと思うのです、ぼくにだって。失っただけですね。 三島由紀夫 三好行雄との対談「三島文学の背景」より
596 :
名無しさん@社会人 :2010/06/25(金) 11:34:03
剣道なんかやってますと、(そんなこというほどの資格はぼくにありませんが)“観世音の目”ということ、 いいますね。全体をみなければいけない。相手の目を見たら、負けてしまう。まして、相手の剣尖を見たら 負けてしまう。そうではなくて、“観世音の目”は相手を上から下まで、完全に見てしまう目です。そういう 目を鍛錬し、養成することが、剣道の極意だといわれているのですが、ぼくはそれ、源泉に帰ることだと思います。 それから、ネコ。ネコが寝たあと、クッションならクッションの跡みますと、ネコの寝た形が、ちゃんとできている。 あれが、寝るということ、休むということの本当の形なのですね。(中略) ネコは寝れば、完全に、ぐにゃあっと、液体のようになってしまう。あれが源泉なのですね。それから、 運動でもそうです。運動で、巧緻性とか、迅速性、いろいろ申しますけれども、運動能力というのは本来、 人間にはすべてあるはずなのが、なくなってしまった。…源泉から遠ざかってしまっているわけですね。 三島由紀夫 三好行雄との対談「三島文学の背景」より
597 :
名無しさん@社会人 :2010/07/15(木) 17:44:20
清潔なものは必ず汚され、白いシャツは必ず鼠色になる。人々は、残酷にも、この世の中では、 新鮮、清潔、真白、などといふものが永保ちしないことを知つてゐる。 どんな浅薄な流行でも、それがをはるとき、人々は自分の青春と熱狂の一部分を、 その流行と一緒に、時間の墓穴へ埋めてしまふ。二度とかへらぬのは流行ばかりでなく、 それに熱狂した自分も二度とかへらない。 三島由紀夫「をはりの美学 流行のをはり」より 男にとつては生へぶつかつてゆくのは、死へぶつかつてゆくのと同じことだ。 三島由紀夫「をはりの美学 童貞のをはり」より
598 :
名無しさん@社会人 :2010/07/15(木) 17:44:42
学校をでて十年たつて、その間、テレビと週刊誌しか見たことがないのに、「大学をでたから 私はインテリだ」と、いまだに思つてゐる人は、いまだに頭がヘンなのであり、したがつて 彼または彼女にとつて、学校は一向に終つてゐないのだ、といふよりほかはありません。 三島由紀夫「をはりの美学 学校のをはり」より 美女と醜女とのひどい階級差は、美男と醜男との階級差とは比べものにならない。 美女は一生に二度死ななければならない。美貌の死と肉体の死と。一度目の死のはうが 恐ろしい本当の死で、彼女だけがその日付を知つてゐるのです。 「元美貌」といふ女性には、しかし、荒れ果てた名所旧跡のやうな風情がないではありません。 三島由紀夫「をはりの美学 美貌のをはり」より
599 :
名無しさん@社会人 :2010/07/15(木) 17:44:58
手紙は遠くからやつてきた一つの小舟です。 三島由紀夫「をはりの美学 手紙のをはり」より 人生は音楽ではない。最上のクライマックスで、巧い具合に終つてくれないのが 人生といふものである。 三島由紀夫「をはりの美学 旅行のをはり」より 個性とは何か? 弱味を知り、これを強味に転じる居直りです。 私は「私の鼻は大きくて魅力的でしよ」などと頑張つてゐる女の子より、美の規格を 外れた鼻に絶望して、人生を呪つてゐる女の子のはうを愛します。それが「生きてゐる」 といふことだからです。 三島由紀夫「をはりの美学 個性のをはり」より
600 :
名無しさん@社会人 :2010/07/15(木) 17:45:12
自然は黙つてゐる。自然は事実を示すだけだ。自然は決して「宣言」なんかやらかさない。 三島由紀夫「をはりの美学 梅雨のをはり」より 何も形の残らないもののために、勲章と銅像の存在理由があるのです。なぜなら英雄とは、 本来行動の人物にだけつけられる名称で、文化的英雄などといふものは、言葉の誤用だからです。 三島由紀夫「をはりの美学 英雄のをはり」より
601 :
名無しさん@社会人 :2010/07/15(木) 17:45:25
悲しみとは精神的なものであり、笑ひとは知的なものである。 肉体関係があつたあとに、おくればせに、精神的恋愛がやつてくるといふことだつてある。 日本では、恋とは肉の結合のことであり、そのあとに来るものは「もののあはれ」であつた。 三島由紀夫「をはりの美学 動物のをはり」より
602 :
名無しさん@社会人 :2010/07/29(木) 12:46:14
男性は、安楽を100パーセント好きになれない動物だ。また、なつてはいけないのが男である。 裏切りは、かならずしも悪人と善人のあひだでおこるとはかぎらない。 世間ではどんなに英雄的に見える男でも、家庭では甲羅ぼしをするカメのやうなものである。 “男性を偶像化すべからず”職場での彼、デート中の彼から70%以上の魅力を 差し引いたものが、家庭での彼の姿。 三島由紀夫「あなたは現在の恋人と結婚しますか?」より
603 :
名無しさん@社会人 :2010/08/02(月) 11:11:55
人間の恋愛は動物の恋愛と違つて、みな歴史、社会、環境、いろいろなものに制約されて ゐるわけです。われわれが一つ恋愛をすると、その恋愛の中に全人類の歴史、全人類の 文化が反映してゐるのです。これは、われわれといふ存在が、ちやうど歴史の一端に 大ぜいの先祖と、大ぜいの文化の趨勢の上に生まれてきたのと同じに、今あなたないし 私のする恋愛も、決してひとりでまるで天から落ちかかつてくる隕石のやうに、恋愛が 始まるといふものではなく、みな何ものかに規約されてゐるといふことができます。 日本人の一番健康な恋愛らしきものが描かれてゐるのは「万葉集」ですが、「万葉集」の 恋といふのは、このヨーロッパ、ギリシャのやうな、哲学的背景を持つた恋愛ではありません。 ただ古い民族のすなほな肉体的欲望が、日本人のやさしい心持ちとか、繊細な生活感情の中に 溶け込んで、そこに、美しい別離の情とか、恋人に久しぶりに会つた喜びとか、 さういふものが素朴に、しかし正直に述べられてゐます。 三島由紀夫「新恋愛講座」より
604 :
名無しさん@社会人 :2010/08/02(月) 11:14:47
「源氏物語」の「もののあはれ」といふ大きな主題、この「もののあはれ」の中には、 いろいろ仏教的な考へもないわけではないのですが、根本的には、日本人が恋愛をただ 感情の形でだけ浄化してきた、その一つの完成した形が見られます。 概して少年期には、年上の異性を愛するやうになります。 われわれは皆、好ききらひがあつて、どんな美人でも、ある人にとつては、ちつとも 魅力のない場合があり、どんな醜女でも、ある人の目から見ると、非常に魅力的な場合があるのです。 恋愛の嗜好といふのは、実は、だれでも先天的に持つてゐるものではないので、ある人に とつては母親のイメージがあり、ある人にとつては、早く死んだお姉さんのイメージがある。 しかし異性のイメージはその人個人のみでなく、祖先から民族全体から、どこかに深く 積み重ねられたものがあつて、それがその人の心の中に出てくるといふことが言へるのです。 つまり、何かその原形がある。
605 :
名無しさん@社会人 :2010/08/02(月) 11:15:08
「源氏物語」の「もののあはれ」といふ大きな主題、この「もののあはれ」の中には、 いろいろ仏教的な考へもないわけではないのですが、根本的には、日本人が恋愛をただ 感情の形でだけ浄化してきた、その一つの完成した形が見られます。 概して少年期には、年上の異性を愛するやうになります。 われわれは皆、好ききらひがあつて、どんな美人でも、ある人にとつては、ちつとも 魅力のない場合があり、どんな醜女でも、ある人の目から見ると、非常に魅力的な場合があるのです。 恋愛の嗜好といふのは、実は、だれでも先天的に持つてゐるものではないので、ある人に とつては母親のイメージがあり、ある人にとつては、早く死んだお姉さんのイメージがある。 しかし異性のイメージはその人個人のみでなく、祖先から民族全体から、どこかに深く 積み重ねられたものがあつて、それがその人の心の中に出てくるといふことが言へるのです。 つまり、何かその原形がある。 三島由紀夫「新恋愛講座」より
606 :
名無しさん@社会人 :2010/08/02(月) 11:27:21
人生が、自分のよい意図、正しい意図、美しい意図だけでは、どうにもならないといふことを 学んで、それに絶望して、だめになつてしまふ人は、人間としても伸びて行けない人だと いはなければならない。それからまた、それですべてをあきらめてしまつて、自堕落に 一生を送らうといふ人、これはまた、人間としてゼロだといはなければならない。 ですから、けつきよく、人間が成長する途上で初恋の幻滅に会つても、それに打ちひしがれないで、 なほ積極的な態度で人生に向つていくといふ力強さ、さういふものが、試金石としての 初恋の値打だらうと思ひます。 恋愛は、相手の当人を特別な存在に見せ、たとへ、人から見て値打のないものでも、 自分にとつて世界中でかへがたいものに見せる心の働きです。 三島由紀夫「新恋愛講座」より
607 :
名無しさん@社会人 :2010/08/02(月) 11:39:18
情熱は、人間の心の中で一番崇高な、一番価値のある感情で、情熱があればこそ人間は 生きていくかいがある。 私は恋愛といふものを、プルーストのやうに悲観的には考へてをりません。なぜなら、 恋愛が錯覚であるならば、人生も錯覚であるし、一人の女をあるひは一人の男を美しいと 思つて恋することは、人間が自分の仕事を美しいと思つて、それを熱愛して、一つの仕事を 完成するのと同じことです。 恋愛中には、恋人はお互ひに愛し合つた上でも、やはり千変万化の働きをしなければならない。 なぞのない恋人は魅力を失つてしまふのです。それはわれわれの幻想を描く力を失はせて しまふからです。 人間同士の信頼感といふものは、恋愛のほんたうの要素ではありません。信頼感ならば、 友だち同士の友情の方が強いでせうし、また、長いこと連れ合つた夫婦の間の愛情も、 信頼感といふ点では恋愛よりずつと強いのです。恋愛は結局、わからないことがどこかに ひそんでゐなければならない。 三島由紀夫「新恋愛講座」より
608 :
名無しさん@社会人 :2010/08/02(月) 11:45:13
人間には心があから、心で証拠を求めようとしても、からだで求められない。からだで 求めようとしても、心で求められない。かういふ、人間独特の分裂状態から、恋愛が 生まれてくる。それが、人間的なものの一つの特徴になるのであります。 そして情熱の法則は、自分で自分を裏切るといふふうに傾くもので、理性の法則とはまるで 違つてゐます。ですから、うそもうそでなくなる。真実も真実ではなくなつてしまふわけです。 よく、結婚したときに夫に向つて、自分の過去の恋人のことを全部告白してしまふ奥さんが ありますが、これが誠実といふものかどうかは疑はしい。それによつて夫は、いつまでも 悩むことになるでせうし、彼女は、自分に誠実であつたことによつて、実は自分にだけ 誠実であつたことになるのです。すべて人間の愛の感情では、自分だけ誠実であるといふことが、 必ずしもその恋愛に誠実であるといふことにはならないといふ皮肉な法則があります。 …誠実さとは結局、自分の真心を押しつけることではなくて、むしろ自分を捨てて 相手のためを思ふことであり、そのためには、うそも誠実になつてくるのです。 三島由紀夫「新恋愛講座」より
609 :
名無しさん@社会人 :2010/08/02(月) 11:49:51
生まれつき同性愛の人はゐない。なぜかといふと、性ホルモンと同性愛とは関係がないことが わかつてきて、女性ホルモンの多い女性も十分同性愛になり得るし、女性ホルモンの 少ない女性も十分異性愛になり得る。そして、女らしい女性でも、同性愛に陥るし、 ごく生理的に男らしい男でも同性愛に陥ります。結局、フロイドが述べてゐるところの 心理的な、いろいろな錯綜から生じた一種の病気であつて、その原因に、快感が加はると、 その快感を習慣的に追ふことによつて、だんだん深みに落ちていくといふふうにいはれてゐます。 あくまでも同性愛のほかに広い世界があるといふことを忘れないで、育つていくことが 大事だと思います。若くてさういふ世界に誘惑された少年少女は、それだけが全世界だと 思ひがちですが、人生には、もつと広い世界があるといふことを忘れなければ、必ず その広い世界へまた出ていくことができるのです。さう言ふと、私は何も解決を与へてない やうですが、同性愛は、すべて心理的な原因ですから、心理的に自分で解決していくことです。 三島由紀夫「新恋愛講座」より
610 :
名無しさん@社会人 :2010/08/02(月) 11:55:02
私の思ふのに、もし同性愛に対して欲求を持つた青少年がゐるならば、初めは思ふ存分 それに向つて突進したらいいでせう。 自分が自分の欲望を追求して、その欲望を突き抜けて、人生に対して同性愛といふものも あるんだといふやうなのどかな気持で、もう一度自分を客観的に見るやうな余裕が持てる ところまでいかなければ、どんな医者がどう言つても無理だと思ふのです。そして今 一般的には根治しがたい、不治の病のやうにいはれてゐる精神病の中でも、一番治しにくいのが 同性愛であつて、なぜならば、それは快感を伴ふから治りにくいのだといはれてゐるのですが、 さういふこととは別に、女性ならば女性であるといふ誇りを、男性ならば自分が男性である といふ誇りを、いつでも持つてゐれば、決してゆがめられた、グロテスクな同性愛の底に 沈んでしまふといふことはあり得ないと思ひます。そして自分の本来の性の誇りが、 自然に彼を引き戻すであらうと私は思ひます。 三島由紀夫「新恋愛講座」より
611 :
名無しさん@社会人 :2010/08/02(月) 11:57:31
人間は生まれてから年をとるまで、いつも嫉妬と親しい関係にあります。 嫉妬は必ず、ある瞬間にもせよ、負けた側の人間に生じるものであります。 嫉妬は愛の表現ではあるが、しかしむづかしい言ひ方をすると、愛するといふことの不可能の 表現だとも言へると思ひます。 盲腸炎にかかつた人でなければ盲腸といふものの痛みもわからない。また歯が痛んだことの ある人でなければ、歯の痛みもわからない。それと同時に、嫉妬の苦しみも、自分が一度 味はつたことのある人でなければ、決してわからないのであります。 美しい愛情はやはり情熱と理性とが適当に折れあつてゐなければならない。 三島由紀夫「新恋愛講座」より
612 :
名無しさん@社会人 :2010/08/02(月) 12:00:01
恋愛は完全に健康なもの、そして円満な人格、欠点のない人がら、さういふことものを 見きはめて愛するものではありません。結局、欠点を愛することになるのが恋愛の一般の 法則であり、その欠点ないし弱味は、ともすると人の同情をそそる形で現はれます。 相手の同情をよぶことが何かの効き目を持つのは根本法則ですが、相手に自分の与へてゐる 魅力がまづなければならない。魅力のないところに同情を持ちかけても、何もなりません。 三島由紀夫「新恋愛講座」より
613 :
名無しさん@社会人 :2010/08/02(月) 12:02:44
性的な幻滅とか、性的な荒廃とか不良化とか堕落とかいふものは、実は、性そのものに 関する無知ではなくて、私には人間そのものに関する無知と、よく現代の社会の構造を 見きはめないといふ無知からくるもののやうに思はれる。 なぜ現代社会であんなに早く人間が動物的に成熟しながらも、結婚がだんだんおくれていく 傾向にあるか、これは現代社会の矛盾ですがしやうがない矛盾なのです。つまり性的結合は、 経済的独立が伴はなければ社会の公然たるものとして認められない。これが現代社会の 一つの鉄則と言つていいものです。もし経済的独立が伴はないで性的結合が行はれれば、 必ずそこにいろいろな不調和が生じる。そして無理に無理が重なつて、堕落と、おそらく 犯罪が待ちかまへてゐることになります。 三島由紀夫「新恋愛講座」より
614 :
名無しさん@社会人 :2010/08/02(月) 12:05:59
男の秘訣は、女に対しては、からだの交渉を持つまでは、決して女の欲望を認めてはいけない といふことです。あたかも、相手には欲望がないやうに、ふるまはなければなりません。 それは、女性の羞恥心を、悪く刺激することになるからです。少なくとも、処女は自分の 欲望を認められることを、大へんきらふものです。 世間には浮気を浮気としてやれる人と、本気でなくてはやれない人とがあります。そして それは、必ずしも前者が不まじめな人間で、後者がまじめな人間だとは限りません。後者の中には、三人でも四人でも同時に愛するといふ 離れわざのできる人間もあるからです。 三島由紀夫「新恋愛講座」より
615 :
名無しさん@社会人 :2010/08/03(火) 11:46:26
「文は人なり」とは、まことに怖ろしい格言です。 ところどころ、何のことかわからないことを入れるのが、ファン・レターの秘訣です。 本当に「おはやう」といふのにふさはしい唇を持つた若い女性は、人の目をさまさせますよ。 三十年たち、四十年たつて、自分の若いころの魅力的な姿を思ひ出すには、やつぱり どんなよく撮れた写真よりも、他人の言葉のはうがリアリティがあるにちがひない。 そもそも、助け合ひなどといふものは貧乏人のすることで、その結果生まれる裏切りや 背信行為も、金持ちの世界とはまるでちがひます。金持ちの裏切りは、助け合ひなどといふ バカな動機からは決して起りません。 三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より
616 :
名無しさん@社会人 :2010/08/03(火) 11:50:06
毅然としてゐる。青年らしい。ちつとも女々しいところがない。ちつともメソメソした ところがない。――これが借金申し込みの大切な要素です。人は他人のジメジメした 心持ちに対してお金を上げるほど寛大ではありません。 女の子といふものは、妙に、男の非男性的魅力に惹かれがちなものだ。 女は自分のことばかりにかまけて、男をほめたたえる、といふ最高の技巧を忘れ、あるひは 怠けてゐるあひだに、まんまと男色家にしてやられるのは、やはり男色家は男の精神の 弱みと泣きどころを、よくつかんでゐるからだと思ふわ。 大ていの女は、年をとり、魅力を失ふほど、相手への思ひやりや賛美を忘れ、しやにむに 自分を売りこまうとして失敗するのです。もうカスになつた自分をね。 あらゆる男は己惚れ屋である。 三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より
617 :
名無しさん@社会人 :2010/08/03(火) 11:52:30
脅迫状は事務的で、冷たく、簡潔であればあるだけ凄味があります。 第一、感情で脅迫状を書くといふのはプロのやることではありません。卑劣に徹し、 下賤に徹し、冷血に徹し、人間からズリ落ちた人間のやる仕事ですから、こちらの血が さわいでゐては、脅迫状など書けません。 便せんをすかしてみて、そこに少しでも人間の血の色がすいて見えるやうでは、脅迫状は 落第なのです。 この世に生命を生み出す女つて、何てふしぎなものでせう。世の中でいちばん平凡なことが、 いちばん奇跡的なのだ。 三島由紀夫「レター教室」より
618 :
名無しさん@社会人 :2010/08/03(火) 11:58:17
西洋人はすべて社交馴れしてゐますから、社交は、建て前が大切だといふ第一原則を守ります。 招待を断わるには、「のがれがたい先約があつて」といふ理由だけで十分で、その内容を 説明する必要はありません。たとひ、ひと月前、ふた月前の招待であつても、さういふ理由で かまひません。 世の中にはふつう二ヶ月前の先約などありえない、といふのは常識の立場であつて、 建て前さへ守られたら、常識なんか蹴とばしてもかまはないのです。また、一ヶ月以上前に 招待状がくることは、特別な場合をのぞき、まづまづありません。 男が「結婚してくれ」と言ふときには、彼のはうに、彼女を迎へ入れるに足る精神的物質的 社会的準備が十分整つてゐるのが理想的です。 人生は一つの惰性なのかもしれません。あなたは理想に燃えて生きてゐらつしやるやうですけど、 あなたの一日の使ひ方には、もう一つの惰性ができてゐるのかもしれません。 三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より
619 :
名無しさん@社会人 :2010/08/03(火) 12:01:29
恋愛にとつて、最強で最後の武器は「若さ」だと昔から決まつてゐます。ともすると、 恋愛といふものは「若さ」と「バカさ」をあはせもつた年齢の特技で、「若さ」も「バカさ」も 失つた時に、恋愛の資格を失ふのかもしれませんわ。 人間はいくつになつても感傷を心の底に秘めてゐるものですが、感傷といふのは Gパンみたいなもので、十代の子にしか似合はないから、年をとると、はく勇気が なくなるだけのことです。 本当に死ななくても、愛しあふ恋人同士は毎晩心中してゐるのだと思ひます。 見知らぬ他人に身の上相談なんかするといふ行動それ自体に、彼女の人生を悩み多くする 根本原因がひそんでゐるといへませう。 三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より
620 :
名無しさん@社会人 :2010/08/03(火) 12:10:09
ヒステリーの女は絶対に、自分のヒステリーは自分のせゐぢやないと信じてゐる。 子供を重荷と感じて、自分たちの自由と快楽をいつまでも追はうとするのは、末期資本主義的 享楽主義に毒された哀れな奴隷的感情だと思ふんだ。 だれでも、自分とまつたく同じ種類の人間を愛することはできません。 もともと恋に善悪はない。 自分の感情にそむいては、何ごとも成功するものではありません。 三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より
621 :
名無しさん@社会人 :2010/08/03(火) 12:15:08
テレビでいちばん美しいのは、やつぱり色彩漫画で、宇宙物なんかの色のすばらしさは、 ディズニー・ランドそつくりです。 テレビばつかり見てると、どうしても世界中のことがみんな関係があるやうな気がしてきます。 どうして牛乳配達が牛乳ビンを置いてくみたいに、お嫁さんを配達してくれないんだらう。 恋は愉しいものではなくて、病気だわ。いやな、暗い発作のたびたびある、陰気な慢性の 病気だわ。恋が生きがいだなんていふ人がゐるけれど、とんでもないまちがひで、 悪だくみのはうが、ずつと生きがいを与へてくれます。恋が愉しいなんて言つてゐる人は、 きつとひどく鈍感な人なのでせう。 三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より
622 :
名無しさん@社会人 :2010/08/03(火) 12:17:41
何かほしいときだけ甘つたれてくる猫たちの媚態は、あまりにも無邪気な打算がはつきり してゐて、かはいらしい。 男は別に人格者の女を求めるわけでなく、人間のもろもろの悪徳が、小さな、かはいらしい ガラス張りの箱の中に、ちんまりと納まつてゐるのを見るのが、安心でもあり、うれしくもあり、 かはいらしくもある。そこが男の愛の特徴です。 他人の幸福なんて、絶対にだれにもわかりつこないのです。 私は手紙の第一要件だけを言つておきたい。 それは、あて名をまちがひなく書くことです。これをまちがへたら、ていねいな言葉を 千万言並べても、帳消しになつてしまひます。 相手の姓名の字画をよく見ませう。 姓名を書きまちがへられるほど、神経にさはることはありません。 三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より
623 :
名無しさん@社会人 :2010/08/03(火) 12:21:05
手紙を書くときには、相手はまつたくこちらに関心がない、といふ前提で書きはじめ なければいけません。これがいちばん大切なところです。世の中を知る、といふことは、 他人は決して他人に深い関心を持ちえない、もし持ち得るとすれば自分の利害に からんだ時だけだ、といふニガいニガい哲学を、腹の底からよく知ることです。 手紙の受け取り人が、受け取つた手紙を重要視する理由は、 一、大金 二、名誉 三、性欲 四、感情 以外には、一つもないと考へてよろしい。 世の中の人間は、みんな自分勝手の目的へ向つて邁進してをり、他人に関心を持つのは よほど例外的だ、とわかつたときに、はじめてあなたの書く手紙にはいきいきとした力が そなはり、人の心をゆすぶる手紙が書けるやうになるのです。 三島由紀夫「三島由紀夫レター教室」より
624 :
名無しさん@社会人 :2010/08/18(水) 10:29:32
瞬間でも狼の目が借りられたら、すべてを投げ出しても悔いない、と言つたのは、 ポオル・ヴァレリーだが、われわれは、ファクトをつかむには、そのとき、その人の見る世界を 見ようと努めなければならない。 三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 地についた怖るべき相手」より
625 :
名無しさん@社会人 :2010/08/18(水) 10:31:28
いかに都市が近代化され機械化されても、その構成員が人間である以上、都市には動物的 肉体的特徴が備はつてゐる。それがすなはち、食物・飲料水と、排泄物の問題であり、 この巨獣の排泄機能に故障が起れば、数日でダウンしてしまふ。(中略) かくて大都市は、毎日毎夜、狂ほしくゴミを製造しつづける大工場になつた。私有の財貨は、 ゴミと化すると共に、公有の厄介物になる。それはあたかも、私有財産制が、たえざる 自己否定と自己破壊をくりかへすことによつてしか、自らの持つ意味をたしかめられない 時代に入つたかのやうである。 ゴミをつくり、屎尿を排出することだけが、人間の生きてゐるしるしであり、人生は 自分がゴミと化することによつて終る。 三島由紀夫「三島由紀夫のファクト・メガロポリス 人間と都市の生の証し」より
626 :
名無しさん@社会人 :2010/08/18(水) 14:08:47
社会学か?これ?
西部劇礼賛はいくらなんでも酷い内容だな
628 :
名無しさん@社会人 :2010/08/22(日) 23:58:17
どの国も自分の国のことだけで一杯で、日本みたいに好奇心のさかんな国はどこにもない。 …なかんづく好奇心の皆無におどろかされるのはフランスで、あの唯我独尊の文化的優越感は 支那に似てゐる。 「古橋はすばらしいですね、僕たちとても古橋を尊敬しているんです」 私は源氏物語の日本を尊敬してゐるなんぞとどこかの国のインテリに云はれるより、 他ならぬギリシアの子供にかう云はれたことのはうをよほど嬉しく感じた。競技の優勝者を 尊敬した古代ギリシアの風習が、子供たちの心に残つてをり、しかもわが日本が、 (古代ギリシアには、水泳競技はなかつたと思はれるが)、古代ギリシアの競技会に 参加して、優勝者を出したやうな気がしたのである。かういふ端的なスポーツの勝利が、 いかに世界をおほつて、世界の子供たちの心を動かすかに、私は併せて羨望を禁じえなかつた。 事実、われわれの精神の仕事も、もし人より一センチ高く飛ぶとか、一秒速く走るか とかいふ問題をバカにすれば、殆んどその存在理由を失ふであらう。 三島由紀夫「日本の株価――通じる日本語」より
629 :
名無しさん@社会人 :2010/08/27(金) 14:32:17
感じやすさといふものには、或る卑しさがある。多くの感じやすさは、自分が他人に 感じるほどのことを、他人は自分に感じないといふ認識で軽癒する。 世間の人はわれわれの肉親の死を毫も悲しまない。少なくともわれわれの悲しむやうには 悲しまない。われわれの痛みはそれがどんなに激しくても、われわれの肉体の範囲を出ない。 三島由紀夫「アポロの杯」より
630 :
名無しさん@社会人 :2010/08/27(金) 14:33:44
「ゲルニカ」は苦痛の詩といふよりは、苦痛の不可能の領域がその画面の詩を生み出してゐる。 一定量以上の苦痛が表現不可能のものであること、どんな表情の最大限の歪みも、どんな 阿鼻叫喚も、どんな訴へも、どんな涙も、どんな狂的な笑ひも、その苦痛を表現するに 足りないこと、人間の能力には限りがあるのに、苦痛の能力ばかりは限りもしらないものに 思はれること、……かういふ苦痛の不可能な領域、つまり感覚や感情の表現としての 苦痛の不可能な領域にひろがつてゐる苦痛の静けさが「ゲルニカ」の静けさなのである。 この領域にむかつて、画面のあらゆる種類の苦痛は、その最大限の表現を試みてゐる。 その苦痛の触手を伸ばしてゐる。しかし一つとして苦痛の高みにまで達してゐない。 一人一人の苦痛は失敗してゐる。少なくとも失敗を予感してゐる。その失敗の瞬間を ピカソは悉くとらへ、集大成し、あのやうな静けさに達したものらしい。 三島由紀夫「アポロの杯」より
631 :
名無しさん@社会人 :2010/08/27(金) 14:34:18
或る種の瞬間の脆い純粋な美の印象は、凡庸な形容にしか身を委さないものである。 美は自分の秘密をさとられないために、力めて凡庸さと親しくする。その結果、われわれは 本当の美を凡庸だと眺めたり、たゞの凡庸さを美しいと思つたりするのである。 時がわれわれの存在のすべてであつて、空間はわれわれの観念の架空の実質といふやうな ものにすぎないこと、そして地上の秩序は空間の秩序にすぎないこと。 時々、窓のなかは舞台に似てゐる。多分その思はせぶりな証明のせゐである。 狂気や死にちかい芸術家の作品が一そう平静なのは、そこに追ひつめられた平衡が、 破局とすれすれの状態で保たれてゐるからである。そこではむしろ、平衡がふだんよりも 一そう露はなのだ。たとへばわれわれは歩行の場合に平衡を意識しないが、綱渡りの場合には 意識せざるをえないのと同じである。 三島由紀夫「アポロの杯」より
632 :
名無しさん@社会人 :2010/08/27(金) 14:35:35
(竜安寺の石庭の)直感の探りあてた究極の美の姿が、廃墟の美に似てゐるのはふしぎなことだ。 芸術家の抱くイメーヂは、いつも創造にかかはると同時に、破滅にかかはつてゐるのである。 芸術家は創造にだけ携はるのではない。破壊にも携はるのだ。その創造は、しばしば破滅の 予感の中に生れ、何か究極の形のなかの美を思ひゑがくときに、ゑがかれた美の完全性は、 破滅に対処した完全さ、破壊に対抗するために破壊の完全さを模したやうな完全さである 場合がある。そこでは創造はほとんど形を失ふ。 希臘人は美の不死を信じた。かれらは完全な人体の美を石に刻んだ。日本人は美の不死を 信じたかどうか疑問である。かれらは具体的な美が、肉体のやうに滅びる日を慮つて、 いつも死の空寂の形象を真似たのである。石庭の不均斉の美は、死そのものの不死を 暗示してゐるやうに思はれる。 三島由紀夫「アポロの杯」より
633 :
名無しさん@社会人 :2010/08/27(金) 14:36:16
希臘人は外面を信じた。それは偉大な思想である。キリスト教が「精神」を発明するまで、 人間は「精神」なんぞを必要としないで、矜らしく生きてゐたのである。 真に人間的な作品とは「見られたる」自然である。 われわれの生に理由がないのに、死にどうして理由があらうか。 アンティノウスの像には、必ず青春の憂鬱がひそんでをり、その眉のあひだには必ず 不吉の翳がある。それはあの物語によつて、われわれがわれわれ自身の感情を移入して、 これらを見るためばかりではない。これらの作品が、よしアンティノウスの生前に作られた ものであつたとしても、すぐれた芸術家が、どうして対象の運命を予感しなかつた筈があらう。 彫像が作られたとき、何ものかが終る。さうだ、たしかに何ものかが終るのだ。一刻一刻が われらの人生の終末の時刻(とき)であり、死もその単なる一点にすぎぬとすれば、 われわれはいつか終るべきものを現前に終らせ、一旦終つたものをまた別の一点から はじめることができる。 三島由紀夫「アポロの杯」より
634 :
名無しさん@社会人 :2010/09/02(木) 11:56:11
女の声でもあんまり甲高いキンキン声は私はきらひだ。あれをきいてゐると、健康によくない。 声に翳りがほしい。いはばかあーつと照りつけたコンクリートの日向のやうな声はたまらないが、 風が吹くたびに木かげと日向が一瞬入れかはる。さういふしづかな、あまり鬱蒼と濃くない 木影のやうな声が私は好きだ。 寒気のするもの天中軒雲月の声、バスガールの声、活動小屋の幕間放送の声、街頭の 広告放送の声。 燻(くす)んだチョコレートいろの声も私は好きだ。さういふとむやみにむつかしく きこえるが、そこらで自分の声をちつとも美しくないと思ひ込んでゐる女性のなかに、 時折かういふ声を発見して、美しいなと思ふことがある。(中略) 時と場合によつては、女の一言二言の声のひびきが、男の心境に重大な変化をもたらす。 電話のむかうの声のたゆたひが、男に多大の決心を強ひる。「まあ」といふ一言の千差万別! 三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より
635 :
名無しさん@社会人 :2010/09/02(木) 11:56:28
声が何かの加減で嗄れてゐて、大事な場合の「まあ」が濁つてしまふことがあつても、 それをごまかす小ささ咳の可愛らしさが、電話のむかうのつつましい女の様子をありありと 思ひ描かせることがある。 いくら声のいい人でも立てつづけに喋りちらされてはたまらない。そこで問題はおのづと 声と言葉の関係に移る。 私はおしやべりな人は本当にきらひだ。自分がおしやべりだから、その反映を相手に 見るやうな気持がしてきらひなのかとも思ふが、いくら私がおしやべりでも私は女の おしやべりには絶対にかなはない。(中略)女のタイプライターのやうなお喋りが はじまると、私は目の前に女性といふ不可解な機械が立ちふさがるのを感じる。 尤も、友達として話相手になれるやうな女性は、大ていおしやべりであるし、教養があつて しかもおしやべりでない女など、まづ三十以下ではゐないと言つていい。黙りがちの女性は いかにも優雅にみえるが、ともすると細雪のきあんちやんのやうな薄馬鹿である。 三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より
636 :
名無しさん@社会人 :2010/09/02(木) 11:56:45
女はゆたかな感情の間を持つて、とぎれとぎれに、すこし沈んだ抑揚で、しかもギラギラしない 明るさ賑やかさ快活さの裏付けをもつて、大して意味のない、それでゐて気のきいた話し方を するやうな女がいい。批判、皮肉、諷刺、かうした話題が女の口から洩れる時ほど、女が 美しくみえなくなる時はない。痛烈骨を刺す諷刺なんてものは、男に委せておけばいい。(中略) 私は妙にあの「ことよ」といふ言葉づかひが好きだ。口の中で小さな可愛らしい踵を 踏むやうに、「ことよ」と早口でいふのが本格である。私がやたらむしやらこの用法に 接するやうになつたのは、亡妹が聖心女子学院にゐた時からで、聖心では何でもかんでも、 行住座臥すべて「ことよ」である。 「そんなこと知らないことよ」 「そこまで行つてさしあげることよ」 「いいことよ」…(中略) 三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より
637 :
名無しさん@社会人 :
2010/09/02(木) 11:57:02 女の言葉づかひだけはどんな世の中になったても女らしくあつてほしい。襖ごしに、 カアテンごしにきこえる姉妹の対話、女の友達同志の対話、それを耳にしただけで女の世界の ふしぎな豊かさ美しさ柔らかさ和やかさ滑らかさ温かさが、女の世界の馥郁(ふくいく)たる 香りが感じられるのでなければ、男どもは生きてゐることがつまらない。 襖ごしにこんな会話がきこえてきたら、世をはかなみたくなるではないか。 「さういふ実際的問題とは問題が別よ。もつと全宇宙的な……」 「さうよ。あんたの主張は理解できるわよ。しかし、何といふかなあ、さういふデリケートな 感覚的な没論理的な主張は……」 三島由紀夫「声と言葉遣ひ――男性の求める理想の女性」より