いじめの社会理論

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14名無しさん@社会人
15名無しさん@社会人:2006/11/04(土) 01:02:08
著者はまず国家レベルでの全体主義ではなく、学校や企業、戦前の隣組のような中間集団における全体主義の危険性を指摘します。
学校のように個人が自由に離脱参入することが困難な中間集団において全体主義に巻き込まれ、こころをその場の「ノリ」に合わせてゆかざるを得ない状況で何が起こるのかをいじめを題材に取り上げます。
この過程でそれまでのいじめに関する議論のあらゆるパターンとその問題点が提示されて行く様は圧巻です。
そして著者は精神科医・中井久雄さんを幼いころいじめていた子供たちが戦争が終わったとたんに別人のように卑屈な人間に生まれ変わったことを希望の論理として受け止め、制度・環境を変更することでいじめを抑止できるのではないかと論を進めて行きます。
そこで行われるいじめの状況分析では著者の複眼的な思考が冴え渡ります。
人は常に同じ秩序を生きるのではなく、複数の秩序がせめぎ合った状況を生きており、その中でも中間集団全体主義を蔓延させる秩序を破壊することで人々は他の秩序が優位になった中で平和に生きることが可能になること、
さまざまないじめのパターンを呼び出す加害者の内面構成と利害関係の結びつきなどが指摘されます。
ここで様々な図式が提示されますが、これらの理論モデルはいずれも有効に思えるので、これを元にして日本だけに限らず世界中で事例の分析やいじめ対策、実証研究が行われることを希望します。
また、著者の指摘どおりこれは学校や職場のいじめだけではなくDVや民族紛争にも適用し得る理論と思われるので今後の研究の発展が大いに期待されます。
ところで本の終盤では人が中間集団全体主義に捕われない、自由な社会と教育のモデルが構想されます。これがなんともグッと来る内容で、この本で本当に伝えたかったのはこの部分ではないかと勝手に思っているのでした。
16名無しさん@社会人:2006/11/04(土) 01:03:43
トクヴィル『アメリカの民主主義』などを読んで、国家と個人を媒介するような中間集団を形成することが全体主義の根を断つための最良の方法であることを学びました。
ところが内藤氏は、いまや学校・職場といった中間集団自体が全体主義化してしまっていると説きます。中間集団が神聖化されることによって、それだけ社会や法律に対して閉鎖的な空間が形成されてしまっているからです。
内藤氏は、教育学界の体面などよりもまずいじめを受けている子供たちの苦しみのことを最優先に考えます。
しかも「これこれこうだからいじめはいけないんだよー、悪いことなんだよー、みんなやめましょうねー」などというよくありがちなルサンチマンに満ちたうさんくさい道徳論など一切説きません。
あくまで人間には攻撃性があって当然だという事実を前提にして考えます。そして学術的・社会学的方法を用いていじめの発生を最小限に抑える方法を説きます。目からうろこが落ちるようでした。内藤氏はペンを武器にして戦う戦士だと思いました。

17名無しさん@社会人:2006/11/04(土) 01:05:48
著者はこんなふうに始める。
「大人たちは『子ども』のいじめを懸命に語ることで、実は自分たちのみじめさを語っているのかもしれない。私たちの社会では(国家権力ではなく)中間集団が非常にきつい。
そこでは『人間関係をしくじると運命がどうころぶかわからない』のである。
この社会の少なくとも半面は、普遍的なルールが通用しない有力者の『縁』や『みんなのムード』を頼らなければ生活の基盤が成り立たないようにできている。
会社や学校では、精神的な売春とでもいうべき『なかよしごっこ』が身分関係と織り合わされて強いられる。そしてこの生きていくための『屈従業務』が、人々の市民的自由と人格権を奪っている。
大人たちは、このような『世間』で卑屈にならざるを得ない屈辱を、圧倒??な集団力にさらされている『子ども』に投影し、安全な距離から『不当な仕打ち』に怒っている。
『子ども』のいじめは、自分の姿を映し出すために倍率を高くした鏡として、大人にとって意味がある。わたしたちはその投影をもう一度自分たちの側に引き受け、美しく生きるためには闘わなければならないことを覚悟すべきである。
問題はわたしたち自身だ。
…(中略)…
本書では二つのことが同時になされる。一つは、学校や教育の問題に対する深い現状分析と改革案を提示する仕事である。この仕事に重ね合わせながら、二つめの仕事が立ち上がってくる。
それは、これから実現すべき自由な社会の構想である。学校のいじめにスポットライトを当てた本書は、日本に自由な社会を築く未来構想の序説にもなっている。」
序文にしびれて買った・読んだ・頭がゆさぶられてグルグルした。今まで言葉にできなかったことが、一気にかたちになった。もうこの本を読む前の自分には戻れない。
18名無しさん@社会人:2006/11/04(土) 01:09:17
19名無しさん@社会人:2006/11/04(土) 01:10:55
内藤 朝雄(ないとう あさお、男性、1962年 - )は社会学者。専門は、社会学、臨床社会学、心理社会学。明治大学専任講師を経て現在は同大学の助教授。又、2006年からは京都大学の非常勤講師及び立教大学の非常勤講師。
東京都出身。愛知県立東郷高等学校を中退。同高校在籍時代は、愛知県各地で実施されていた苛烈な管理教育の洗礼を受けた。この体験は、後の内藤のスタンスへ大きな影響を与えた。山形大学・東京大学大学院総合文化研究科国際社会科学専攻博士課程を経て現職。
本田由紀・後藤和智との共著『「ニート」って言うな!』では「ニート」が大衆の憎悪の標的とされていることを挙げ、メディアによる憎悪のメカニズムの再生産の危険性について指摘し大きな反響を呼ぶ。
ニート問題の他にもいじめや学校での管理教育など教育方面への研究も多く、教育問題では社会学者の宮台真司との共著もあるようにリベラル的な視座からの発言が多い。
20名無しさん@社会人:2006/11/04(土) 01:39:33
安易な共同体主義からの訣別
後藤和智
 所謂「いじめ」が一つの教育問題としてカウントされるようになって久しい。
実を言うと私も「いじめ」の体験者であるのだが(いじめられるほうとして)、その当時は私がいくら嫌だといっても、
それは単なる「遊び」だとか言った「いいわけ」で何事もなかったかのごとく処理されていた。今思えば、私は当時「いじめてもいい対象」として扱われていたのだろう。
 本書は保守派も進歩派も見落としている「いじめ」論の欠落を埋める、社会学の立場からの論考である。
従来の「いじめ」論は、保守派が青少年における規範意識の後退と捉えるのだが、進歩派もまた「あなたと私がつながっている」という実感、端的に言えば「絆」をベースにした安易な共同体主義に走っている。
そのような言説空間における空白を埋める本書の議論とは、「いじめ」の問題を現状の学校という制度が生み出す中間集団全体主義的共同体
(《各人の人間関係が共同体を強いる集団や組織に全的に埋め込まれざるをえない強制傾向》(21ページ)による共同体)が引き起こす必然的問題として捉える。
 中間集団全体主義に関して、まず想起されるべきは大東亜戦争時の所謂「隣組」であろう。「隣組」においては、住民が地域コミュニティに対する献身を強要され、少しでもそのコミュニティの暗黙のルールに外れる人は直ちに排除の事例となった。
その事例が本書14ページに引用されているが、この事例は、中間集団全体主義的共同体への帰属が共同体のルールに寄り添った形での自意識の肥大化を生み出し、その共同体の中で小さな権力者として振舞うことを正当付ける。
それと同じようなことが学校で起きている事態が、まさに「いじめ」である、というのである。
21名無しさん@社会人:2006/11/04(土) 01:40:18
 現代の我が国における学校という制度は、特に小学校においては、学級という単位で輪切りにされた数十人の子供たちを一つの教室の中で常に同じ行動を強制させ、
学級に対する献身を子供たちに求めることによって、「隣組」と同様の中間集団全体主義的な状況が形成されていく。
子供たちにおける自意識の肥大化も、これで説明できるという。
 規範意識の後退、安易な共同体主義、子育て絶対主義、メディア悪影響論などの過度にパターン化された従来の「いじめ」論の如き言説は、
「子供たちの価値観を尊重する」という大義名分の下に市民社会の良識を踏みにじったり、あるいは秩序を唯一のものとして捉えたがる傾向があるが、
「いじめ」の問題を社会秩序や社会生態の問題として捉えなおすことによって、新たな「いじめ」論が構築されていく。
本書は学校という制度全体、更には社会制度論にまで大胆に踏み込んでいるため、本書はかなり過激で挑発的な本である。
まず第1章では国家による全体主義に対して中間集団の自治や共同がそれに対する防衛線になる、という思想が破壊される。
更に「いじめ」を根本的に解消するための学校制度の構築に関しては、チケット給付による義務教育・権利教育による教育の自由度の爆発的増大や、それどころか多元的共同体主義の必要性にまで話は及ぶ。
ここまで来ると、もはや著者に残されているのはアナーキズム、あるいは流動性の礼賛くらいしかないのではないか、という疑念が浮かんでくることもなくはないが、おそらく著者はそのようなことは百も承知で書いているのではないかと思われる。
 本書に対して共同体主義者はいかに反論するか。とりあえず従来の議論の安易な焼き直しでしかない安易な共同体主義は本書で完全に論破されているから、相当に高い議論を構築しなければ勝ち目はないかもしれない。