935 :
三郎:2008/10/31(金) 03:08:52
(1)雀部氏は、ヴェーバーの「国益第一の視点」は、歴史をさかのぼると「公共善」の概念
を継承しており、ヴェーバーの政治学(?)は「公共善の政治学」だという。
「……そもそも政治と向き合うウェーバーの根本観点は、すでに見たように、『国益第
一』の視点であった。これは……じつは、アリストテレスの『ポリテイヤ』、キケロの
『レース・プブリカ』につながる視点である」( 雀部『公共善の政治学』未来社、79
頁)
これは正しくない。「国益」は、「ポリテイヤ」「レース・プブリカ」(雀部はこれらが
「公共善」という)とは、別次元の概念なのだ。
「国益」概念は対外政治・対外政策における概念であり、絶対主義国家の時代にまず「国
家理性」概念として産まれた(国際政治学、国際関係論では常識)。だからアリストテレ
スとは、直接関係がない。
それとアリストテレスの『政治学』は外部を捨象したかたちで理論が構築されている。対
外的な国家利益として「ポリテイヤ」が語られているわけではない。
アリストテレスにとっては、「ポリス」は「最高善」を実現する共同体であった。
「最高(の)善」です。それは「公共善」を実現する国家なのです。
しかし、ヴェーバーにはそんな観念的、理念的な国家観はない。
国家は、暴力、領域、正当性……などによって定義され、まことにザッハリッヒである。
アリストテレスはイデアールである。
ヴェーバーの政治学(?)を「公共善の政治学」なんてとらえるなんて、私は書店の書棚
の前で驚愕した。 (つづく)
936 :
名無しさん@社会人:2008/10/31(金) 07:58:30
>>935 ようやく、書店でぱらぱら眺めただけでいい加減なことを書いたことを
告白したか。買えないんだったら図書館にでも行ったら?
「国家」の概念が確立していなければ「国益」という概念も使えない
のは当たり前。しかしながらアリストテレスの時代の都市国家に
だって、「国益」に相当する概念はある、それらの総称で
「公共善」という言葉を使って何が悪いのだろうか。
アリストテレスの国家学の背景には当然ながらプラトンの
二元論(現実とイデア)があり、ヴェーバーに限らずほぼすべての
西欧の思想家はこれを継承している。
ただ、私は雀部氏がヴェーバーを「20世紀最大の政治学者の一人」
とするのには賛同しない。
937 :
三郎:2008/10/31(金) 11:14:16
>しかしながらアリストテレスの時代の都市国家に
>だって、「国益」に相当する概念はある、それらの総称で
>「公共善」という言葉を使って何が悪いのだろうか。
近代国民国家では、子どもも女も国家の構成員であり、
国民総体の中に入っているが、古代ギリシアではポリスの構成員ではなかった。
ポリスが家や村と違って、善(「公共善」)を実現する共同体であるとしても、
女、子ども、それと奴隷も、その構成員ではなかった。
ほう「公共善」とは、「国益」のことなんですか。
まあ、麻生さん、中曽根さんにおかれては、
日本の「公共善」(イコール「国益」)のために頑張って頂こう。
小林よしのり先生や西部先生も、思考の土台にアリストテレスにまでさかのぼる
「公共善」(イコール「国益」)の観念があるというわけですね。
ヴェーバーと同じですね。
わたしが言いたいのは、「公共善」なる概念を(それもその概念内容を
あいまい化したうえで)持ち出すことに何の意味もなく、
かえってヴェーバー理解を混乱させるだけだということです。
雀部氏は『ウェーバーと政治の世界』の第1章「ウェーバーにおける国家理性の理念」
でも同じような誤りをおかしている。その誤りが新著ではさらに拡大した感じだ。
938 :
三郎:2008/10/31(金) 11:17:50
(2)ヴェーバーは、「国益」とともに「国家理性」を語り、同じ文脈で「権力国家」
について語る。「権力国家」とは「マハト・シュタート」です。
これは、ヴェーバーの「権力」の定義(『社会学の根本概念』)を踏まえて言えば、
これは〈自国の意志を他国の抵抗があっても、貫こうとする、他国に押しつけようとする貫こうとする国家〉です。
こういう国家は「公共善」の国家とは言えない。「公共善」の国家とは、公的な善を実
現する(あるいは公的な善を目的とする)国家であるはずです。ヘーゲルの「倫理的国家」
(人倫国家)概念は「公共善」概念がベースにあると言っていいですがね。
繰り返すが、雀部は間違えたが、「公共善」は「国益」ではない。雀部は「公共善」概
念の倫理的性格、公と私の関係、善と悪の関係の含意性に言及していない。
939 :
三郎:2008/10/31(金) 11:25:24
(3)ヴェーバーは「権力利害」ともいう。
つまり自国の権力を追求し、拡大することへの利害関心と言うことでしょう。
明け透けですね。なぜ権力を追求するのか。国家の政治的、軍事的、経済的な利益・利害
(「国益」)を維持、拡大するには、国家間の権力をめぐる闘争に生きのび、勝ち抜いて
いく必要があるからです。
その際、統治者が政策決定あたって発見し、従わなければならないのが、「国家理性」
です。マイネッケは「国家理性とは、国家の行動の基本原則、国家の運動法則である」と
いってます。
マイネッケは中心的な主題として扱っているのですが、「国家理性」(国益)には、非道
徳的性格があります。「国家理性」に従って行動するためには、あるいは「国益」を守る
ためには、場合によっては、道徳(善悪の問題ですね)や宗教や法にさえも、無視し、踏
みにじる必要があるというニュアンスがあります。非道徳的とはそういう意味です。
「国家理性」は、断じて、「公共善」とは異質の概念なんです。
マイネッケが、著書『近代史における国家理性の理念』(中公、世界の名著)の本論を
マキャヴェッリから始めていることからわかるように、「国家理性」は政治・国家を道徳
・倫理・宗教と完全に切断した上で出てくるわけです。ヴェーバーは、自覚的にこのこと
を踏まえています。
ヴェーバーは、ドイツが近隣の大国との権力政治(マハト・ポリティーク)のなかで生
き抜き、国益を守るためには、もちろん軍事力の行使は不可避だし、自国の国家形態のあ
れこれにこだわっていてはダメだ、と考えています。これはもちろん「政治的プラグマテ
ィズム」(雀部、79頁)ではありません。立派な国家観であり、政治的経綸であります。
それをマキャヴェリではなく、アリストテレスにさかのぼってはイケマセン。
940 :
名無しさん@社会人:2008/10/31(金) 20:34:12
>>939 ひどいね。ようやく少しは読んだかと思ったら、今度は筆者の文脈を
ねじ曲げた恣意的引用ですか。
雀部氏はここでは、「その発言は、しばしばヴェーバーのたんなる
政治的プラグマティズムを表すものと受け取られてきたが」、そうでは
ない、と書いているのですが。
マキャヴェッリについても、ヴェーバーがマキャヴェッリを含めた
西洋的国家学の伝統に連なる、とちゃんと書いている。
雀部氏の使っている「公共善」の意味は、「普遍的な倫理」などではなく
「国家、政治体の利害」でしかないのに、それを勝手な解釈してあれこれ
雀部氏にからんでいる、というのが三郎氏の一連の議論です。
はっきり言ってこんな頭の悪い、かつ性格のねじ曲がった人とこれ以上
議論しても無駄でしょう。
少しはまともな反応があるかと思ってここのところ色々書いてきたけど、
やっぱり2chは2chということか。
941 :
Z:2008/10/31(金) 21:43:30
>>940 さんが云われている事は良くわかるが、雀部氏は国家については綿密に
論考を重ねているのに較べて、「公共善」についての具体的な論考が足りない。
国家についてと同じぐらいのボリュームで「公共善」を展開して欲しかった。
雀部氏は国家の修飾語として公共善を持ち出した以上、
もっと詳しく公共善を論じて欲しかった。
942 :
三郎:2008/10/31(金) 22:01:48
(4) 雀部もヴェーバーの「国益」「国家理性」「権力利害」などの概念に言及し、関連箇所を引用もしている。
しかし、彼は、ヴェーバーに見られる「国益第一」の主張に「公共善」観念を見いだします。
繰り返しになりますが、これは誤りです。
それと、無知な読者にここで出てくる「国民」「国民的」が、そのまま民衆ないしは民
衆的を意味しているかのように誤解させかねないような書き方を雀部がしているのも問題
です。
どの国も、西欧国家体系(ウエストファリア・システム)にあっては、
ナツィオナール(ナショナル)な利害を追求する。「国益」(ナショナル・インタレスト)ですね。
「国益」とは、「国家」の利益であり同時に「国民」の利益です。
それは、「国家」と「国民」(各個人ではなく、ひとつの全体としての国民)とが重なり
合う「国民国家」の利益です。ヴェーバーにとってもそうです。
重要なことは、「国益」は必ずしも直接的にピープルの利益と一致するわけではない、
ということです。
雀部は、ヴェーバーの使う「国民の生活利害」という言葉をしばしば引用しますが、ナ
イーヴ(無知の婉曲表現)な読者は、これを誤解してしまいます。
「生活」はレーベンスで「生命」や「生存」の意味ありもあります。国家の「生存」にか
かわる利害をも意味しかねない言葉なんです。
ナチスは「生存圏」という言葉を使いましたが、
これは「レーベンス・ラウム」です。訳しようによっては「生活空間」ですが。
943 :
三郎:2008/10/31(金) 22:20:42
(5) 雀部氏は、ヴェーバーの対外政策論に、いまのおおかたの戦後日本人が、なにか
違和感を感じることを心配している。……“ヴェーバーはアリストテレス以来の政治学の
伝統にある「公共善の政治学」の流れに立っているので、そんなにヘンなことを言ってい
るわけではないので、安心してほしい”……というわけだ。余計なお世話である。
それと雀部氏には、モムゼンからの「批判」によってダメイジを受けたヴェーバーのイ
メイジをなんとか修復したいという気持ちにも突き動かされた。(これまた余計なことだ)
戦後民主主義や戦後平和主義のなかで、戦後日本人は、政治的に「成熟」どころか「退
行」してしまった。そんな戦後的退行を打破し、あらためて日本人が政治的に「成熟」す
る上でヴェーバーは有用だという見方も可能かも知れない。
「権力政治」や「国益」や「権力利害関心」など、現実政治の当たり前の姿ではないで
すか。それらを直視し、日本の「国益」――それは領域、安全、自由と繁栄だと思う――
を断固守りつつ、同時に、コスモポリタンな世界を志向する、これが政治的成熟の方向性
だ。
ヴェーバーの研究者や読者が、「退行」した地平で、ヴェーバーに出てくる「国益」や
「国家理性」に違和感や困惑を感じているようではしようがないがね。 (終)
944 :
名無しさん@社会人:2008/10/31(金) 23:13:46
私は議論の最低限のマナーやルールも守れない人と、いかに2chとは
いえ、ここで無駄な議論を続けるつもりはありません。
妄想につきあっているほど暇ではありませんので、私はもうここに
書き込むのは止めます。皆さん、さようなら。
945 :
Z:2008/11/01(土) 00:51:50
私は
>>926 で、全体国家は自由主義や民主主義と両立する… と書いたが、
それは ある条件の下で のことです。
それにしても、両立するかどうか? Cシュミットは自由主義は‘政治’とは
別物としている。 『政治的なものの概念』で。ここには、民主主義という
コトバ(少なくとも、それを論じた)は出てこない(議会主義はあるが)。
946 :
Z:2008/11/01(土) 22:04:26
EUが国家=合衆国になるとすれば、Anstalt国家でなく、J.J.ルソーの
社会制約説的 Verlin の様な「自由・民主国家」だろうか。
そこには、フェルナン.ブローデルが云うところの共通の‘マンタリテ’がある。
即ち、オクチデンタルな封建制度(マルク.ブロックのいう)時代から現代までの‘文化’。
ヴェーバー Anstalt 国家でなく、世界初めての契約国家が出来る。
たとえ全体的な国家であっても、自由と民主主義は護られるだろう。
ただ対外諸国家に対しては 帝国主義的な国家だろう。
勿論、帝国主義といっても、レーニンのそれではなく、古代ローマあるいは
ピザンチンのそれであろう。
947 :
名無しさん@社会人:2008/11/02(日) 23:33:14
猪口孝ほか編『政治学事典』弘文堂、平成12年、1148-1149頁。
(見出し語)「レス・プブリカ[羅]res publica」
(語義)
「国家もしくは共和国と訳される。
一方で私なるもの(res privata)とは反対に公益、公法を指し、
他方で個人的権威に基づく王政、元首制と対比される概念。
古代ローマでキケロMarcus Tullius Ciceroにより政治共同体の嚮導理念
として確立され、中世のレスプブリカ・クリスティアーナ(キリスト教共同体)、
ルネサンス期以降のリパブリック、近代フランス共和制などの概念母体となった。
時代、場所、思想家により意味内容が一貫しているとは言い難いが、
一般的にいえば、近代以降に花開く権力政治的、現実主義的理解に
立つ国家(state)概念と一線を画し、なお国家の本質を「公共善」の求め、
被治者による同意や参加を重視する思想家が手掛かりとする理念である。
●押村 高 [関連項目]キケロ、M.T. 」
948 :
Z:2008/11/03(月) 00:27:27
↑ 御礼 有難うございます。
公共圏(ハーバーマス)についても、お調べください。
Zより
949 :
名無しさん@社会人:2008/11/04(火) 00:41:04
このスレって何人くらいが見てるのかな?
950 :
Z:2008/11/14(金) 18:45:12
植民地主義(スペイン・ポルトガルのそれと、英・仏などのそれとは違う)と、
帝国主義(レーニンのそれだけが帝国主義‘論’ではない)はどう関連し、どう違うか?
それから「全体主義」と、自由・民主主義は両立するか?
あるいは、全く相反するものか?(C.シュミット・Mヴェーバーを中心として)
951 :
名無しさん@社会人:2008/11/14(金) 20:14:19
ヴェーバーの著作で一番とっつきやすく、論理が明快で、
すぐにでも人生に益するような本はなんですか?
小説家の平野啓一郎は、「職業としての政治」を薦めていたのですが・・・
952 :
名無しさん@社会人:2008/11/14(金) 22:48:30
入門書になるが、
山之内靖のが熱くてよい。
>>950 レーニンの帝国「主義」は敗北主義や日和見主義と同じ意味だから。
当時の日本人がクソ真面目にとって今でもそうなだけ
954 :
名無しさん@社会人:2008/11/15(土) 02:53:40
ドイツ語で読めねえてめえらがWeberを語る資格なし
ただしラテン語は読まなくていいぞ
956 :
Z:2008/11/16(日) 02:01:39
EU本部の、加盟国に対する規制が厳しくなっているようだ。
これはジョークだけれど、「EUは、バナナの曲がり方まで決めるのでは?」と。
統一貨幣ユーロを施行して以来、EUは、加盟国を全体的に拘束する様になる
のでは?
(全体的な国家〜ヨーロッパ帝国に)
一方、自由主義・民主主義は基幹として守るだろう。
自由な民主主義的全体国家って、ありうるだろうか?
957 :
Z:2008/11/16(日) 02:09:19
もう一度、Cシュミット〜全体主義 国家を、真摯に再研究しなければならない。
ヴェーバー=自由主義的帝国主義者という意味も。
ヴェーバーは帝国主義じゃなくて専制君主制だぞ。当時のプロイセンが
一体どこに拡張しようとしていたんだよw
959 :
Z:2008/11/17(月) 18:37:31
君主制での帝国主義と共和制下の帝国主義とは、どこか違うようだ。
Mヴェーバーは第一次対戦中、ヴィルヘルムU世を罵倒していたが、
最終的には君主制支持だった。
ロマノフ王朝の帝国主義やルイ王朝のそれと、旧ソ連の帝国主義とは違う。
ルイ王朝を倒したロベスピェールは結局、恐怖政治に繋がった。また、ソ連の
スターリンも。
ルイ16世は、ヴェルサイユ宮殿に攻めてきた自国民に対し、発砲させなかった。
ナポレオンは後々、セントヘレナに幽閉された折、「なんとバカな!」といった。
君主制には、なにか‘人情’があるのでは?
960 :
三郎:2008/11/17(月) 20:21:01
「民主制」がもし人民の支配を意味するのならば、
ヴェーバーにとっては「民主制」は不可能ということになる。
欧米の今日「民主制」と呼ばれている統治形態は、
ヴェーバーにとっては、少数者支配の一つの形態ということになるだろう。
ヴェーバーは、
(1)支配する人物=ヘル(支配者)
(2)その命令を実行し、支配を遂行する人びと=行政幹部、行政スタッフ
(3)被治者大衆
の三つのレベルを設定している。
ヴェーバーの理論では、「独裁制」であれ、「民主制」であれ、
この三つのレベルが存在するわけだ。
人口の大多数を占める人びとは、どんな統治形態であれ、
基本的には「被治者大衆」ということになる。
961 :
名無しさん@社会人:2008/11/24(月) 17:12:08
三郎氏のレスは勉強になります。感謝。
962 :
三郎:2008/11/24(月) 18:58:38
モスカ、パレート、ミヘルス。
この3人は、一般に「エリート論」者といわれています。
しかし、モスカはこの語を使っていないし、ミヘルスも使っていないと思います。
使っているのはパレートだけですので、
3人を一緒に「エリート論」(エリーティスト・セオリー、エリーティズム)と
呼ぶのは好ましくないように思います。
要するに、3人は、少数者支配の理論です。
文明社会に関する限り、いつの時代にも、支配は存在し、
そして支配は常に少数者による多数者の支配でしかあり得ない、というわけです。
ヴェーバー研究者はあまり論じていないような気がするのですが、
ヴェーバーの理論もこの少数者支配の理論に立つものだと思います。
ヴェーバー好きには、不愉快かも知れませんが。
963 :
Z:2008/11/24(月) 19:04:08
現代の民主主義は議会制民主主義であるから、一般庶民は一票を投票する権利
を持つのみである。但し、“自由”な立場で。(この自由が大切〜選挙者・被選挙者ともに)
そういう意味では「被治者大衆」だろう。現代の民主主義はこれ=議会制のそれ以外にあるだろうか?
日本の戦時中は、大政翼賛会なる官憲による‘政党?’のみだった。
これは形式上、民主制〜エセ民主主義であった。
議会制民主主義は、ヴェーバーによれば「公開(情報)」の自由と「討論」の自由が根幹である。
964 :
Z:2008/11/24(月) 19:21:05
Cシュミットのいう「自由」(彼は自由を反論する)と、われわれが抱いている
‘自由’とは段差がある。
965 :
名無しさん@社会人:2008/11/25(火) 02:01:44
966 :
Z:2008/11/25(火) 16:47:59
>>961三郎氏のヴェーバー解釈は正解だと思います。
それを基盤として、新しい発言(たとえ些細な事でも)をしていただきたいです。
967 :
Z:2008/11/25(火) 17:00:23
「自由」は人間〜人類の根幹です。
一方、「民主主義」は政治形態の一つです。例えば、
啓蒙専制君主制(ハプスブルク帝国のヨーゼフ二世など)とか、独裁制とか…
それは、国家における“人民〜国民”に対する制度です。
人間〜人類と、(国家における)人民〜国民とのちがい。
自由(主義)と民主主義の(基盤の)ちがい。
リベラル、リベラルと無邪気に言っておられる方々。 自由と民主を
混同している。
この二つを分けて考えるべき…。
968 :
三郎:2008/11/25(火) 20:20:17
>この二つを分けて考えるべき…。
まさに、その通りだと思います。
「自由化」と「民主化」とは密接に関係する。
しかし、区別しなければならない。
「民主化」ということで、暗黙のうちに、同じ一つの言葉に
「民主化」と「民主化」とを区別せずに含ませるのは危険です。
非民主国の政治変革で、
まず人身の自由、移動の自由などの基本的な自由の確保し、
次ぎに結社の自由、表現の自由も、確保することが必要でしょう。
しかし、“危険な団体”の自由は制限する必要があります。
イラクにおいて、米占領軍とその傀儡政権は、
慎重に部分的な自由化と部分的な民主化とを進めるべきでした。
それをかなり拙劣にやってしまって、混乱を招きました。
ファリード・ザカリア『民主主義の将来』阪急コミュニケーションズ、2004年。
ザカリアはインド人で国際関係論専攻。『ニューズ・ウィーク』国際版編集長。
この本の主要なテーマが「デモクラシー」(民主制)と「自由」との区別です。
冒頭の「プロローグ」からこの区別が強調されています。
原題は、Future of Freedom(『自由の将来(未来)』)なんですが、
訳書のタイトルは『民主主義の将来』になっているのですねぇ。
こちらのほうが読者受けするというわけでしょう。
969 :
三郎:2008/11/25(火) 20:21:51
(誤)「民主化」と「民主化」とを区別せずに含ませるのは危険です。
(正)「民主化」と「自由化」とを区別せずに含ませるのは危険です。
970 :
三郎:2008/11/25(火) 20:56:02
>三郎氏のヴェーバー解釈は正解だと思います。
わたしはZさんほどはヴェーバーに精通していません。
Zさん、そして皆さんからイロイロ学ばせてほしいと
思っています。
971 :
Z:2008/11/26(水) 18:31:20
自由主義と民主主義の対立は、最近のアメリカにおける金融危機〜
自動車産業=ビッグ3に対する支援について。
自由主義〜(マキャヴェッリは「商人には自由をあたえよ。貴族には権力
をあたえよ。この自由と権力は均衡せよ。どちらが多くても少なくても
いけない」という)ビッグ3を公的資金で救済をせまる。
一方民主主義は‘平等’(チャンスのそれにしろ、結果のそれにしろ)
ビッグ3のみの救済は不平等と観る。
しかし、救済しなければ世界恐慌がおこるかもしれない。
アメリカの自由と民主の対立は、世界をまきこむ。
972 :
Z:2008/11/26(水) 18:59:54
民主主義が一般化するためには、国民の政治的成熟が基
盤である。
さもなくば、悪しきデマゴギーが民衆の心理に興奮
をもたらす。ヒトラーがその見本。
ヴェーバーがいちばん懸念していたのはドイツ国民の政
治的未熟であった。
第二次大戦後、アフリカ・アジア・(中南米=半独立)の
発展途上国が独立したが、それらの諸国の擬似民主主義
がけっきょく悪しき独裁を生んだ。その結果は泥沼の内
戦であった。
ヴェーバーは、安直に「民主主義」というコトバをつかわ
ない。
973 :
Z:2008/11/27(木) 22:43:14
z
974 :
名無しさん@社会人:2008/11/27(木) 22:52:13
975 :
Z:2008/11/28(金) 22:05:14
C.シュミットとの出会い
私がシュミットを知ったのは、『陸と海と』と『ハムレットも
しくはヘカベ』(みすず書房刊)であった。それまでは私もシ
ュミットといえば、ナチスの御用学者ぐらいにしか観ていな
かった。上記の二冊を読んで驚いた。彼の叙述は明解でわかり易く、
アレッと思う思考の展開を見せてくれる。
私の知っている学者で頭脳明晰なのは、三人。それは本居宣
長・経済学者のJ.R.ヒックスおよびCシュミットである。
( 頭脳明晰だけが学者の規範だとは決して思っていないが)
上記の二冊は彼の専門ではないが、一般の歴史家や文芸学者
を凌駕している。
976 :
名無しさん@社会人:2008/11/29(土) 00:56:12
977 :
Z:2008/11/29(土) 12:19:05
前にも言ったかも知れないが、本居宣長『うひやまふみ』とMヴェーバー
『職業としての学問』とは似ているところがある。
和洋双璧の学問論である。
978 :
三郎:2008/12/01(月) 20:08:26
ヴェーバーやシュミットは、現代政治をよくとらえているということ
でしょう。
しかし、同じドイツの学者でもヘルマン・ヘラーとなると
ちょっとわかりにくい。『国家学』(未来社)という本もいまひとつピンとこない。
特殊な概念が出てくる。
フランツ・ノイマンも同時代というか、少し後になるが、
事故で早死にして、書き残したものは多くない。
『ビビモス』(みすず)、
『民主主義国家と権威主義国家』(邦題『政治権力と人間の自由』河出書房)、
ぐらいであろう。前者は読んでないが、後者のいくつかの論文は、
政治学入門にぴったりだ。
『政治権力と人間の自由』は絶版。ときどき古本屋で見かける。
http://www.msz.co.jp/book/author/14834.html
979 :
名無しさん@社会人:2008/12/01(月) 23:00:30
980 :
名無しさん@社会人:2008/12/06(土) 20:23:36
ウェーバーの権力論はどうですか。
最近は影が薄いのかな。
>>978 概説書の多さが理解度と正比例するんでそ。
982 :
名無しさん@社会人:2008/12/06(土) 23:50:48
>>981 概説書が多ければ多いほど、
よりよく、より多くの人に理解されるということですか。
983 :
名無しさん@社会人:2008/12/07(日) 22:15:49
>981、982
逆、じゃあないですか。
概説書が多いということは、それだけ理解度が低いということ。
理解度が低いから、概説、解説が多くなる。
しかし、それでも理解できない、ということだわな。
984 :
名無しさん@社会人:
世間では、最近は、権力論と言えば、フーコーなんですよ。
ヴェーバーではなくて、フーコー。
だから、ヴェーバーの権力論は影が薄くなっている。
しかし、正直言って、フーコーって何を言っているかさっぱり
わからない。解説しているひともわかっていないのじゃあないですかね。
権力論はやっぱりマックス・ヴェーバーです。