貴戸理恵 Part3

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942名無しさん@社会人

そろそろ溜まっていたレスを。一ヶ月前くらいのものからになりますが。


>>575
>不登校を自己否定する気持ち(葛藤)を最初から経験されたことが
>なかったわけですか?

進路の問題(このままじゃ将来ヤバいな)ですとか、そういう悩みなら常に
ありましたよ。
ただ、不登校になった責任が自分にあるといったような形の自責感はなかったですね。
私の側に落ち度はなかったですから、自分を責める理由は元々どこにもない。
そのためか、全然閉じこもってはいませんでした。


実はそのことは、あなただけでなくて、地元の登校拒否を考える親の会でも
やはり珍しがられたんですよ。とても例外的なケースだと。

逆に言えばそれは、シューレのような居場所を経て自尊心の回復を図るんだと
いう回路(それが貴戸さんのいう「選択」の物語ですね)が、もともと不要で
あったということでもあるわけで、そのへんがシューレを強く必要とした親子との
間の温度差として顕著に出たのでしょうね。

シューレ界隈が提供していたのは
「閉じこもっていた暗い僕だけど、シューレに出会って不登校を『選択』した
 結果、こんなに明るくなりました」
というような筋書きなんだから、もともと明るいと話にならない(笑)。
943名無しさん@社会人:2006/01/07(土) 22:59:55
(続き)
「おはなし」に矛盾をきたすような要素は排除しないとなりません。
だから、たとえば私のような〈当事者〉の声は、あってはならないものとされ
「カルチャーショック」になるのです。
就職という問題が常に棚上げされ続ける理由も、全く同様でしょう。
その「選択」はあくまでもハッピーに終わるべきだ、という結末が
まず最初にあるもんだから、バッドエンドの可能性は隠し続けないとならない。

>>575
>不登校の当事者の語りがそれまでになかったわけじゃない
というけれど、それはあくまでも、主に親や小児科医などの非〈当事者〉によって
その運動の方向性に基づいて取捨選択されてかたちづくられていたものだった
のが実態で、それを忠実にロールプレイした〈当事者〉もいたということにすぎない。

運動の都合上〈当事者〉を便宜的に一枚岩化すること、それ自体は
ある程度やらないと確かに運動が成り立たない側面もあるわけですけど、
大事なのはそれがあくまでも便宜的なものだという自覚を持つこと
なんじゃないんですかね。
実際には、人の数だけ〈当事者〉の記号内容が違っていて当然だと思いますし、
それこそが多様性ということだと思いますから。

>(明るい/暗い登校拒否について)
>私は経験上、この両方の気持ちがよく分かるというか、両方とも共感的に
>見られるんです。

そうですか。
私は、たとえ心情的には>>454で書かれたような「精神的に窮迫した状態」に
共感できるものがあったとしても、敢えてそこでその誘惑を断ち切ってですね(笑)
「わからない」とすることが倫理的だと思っているんです。
〈他者〉との連帯というのは、「わかりあえなさ」の容認を通じてしか
あり得ないでしょうから。
>>573で書いた「一種の無神経さ」とは、つまりそういう態度の表明です。