貴戸理恵 Part3

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184名無しさん@社会人
内藤氏のブログ
http://d.hatena.ne.jp/suuuuhi/20050808
「非被害者であるわたしは、被害者本人と異なる意見を表明することができる。たとえば、仮に不利益被害当事者が「明るい不登校」あるいは逆に「自分は暗い病気」であるといった信念をもっていても、他者がそれと異なる説を表明することは「できる」。
わたしが関わってきたいじめ問題で例を出せば、いじめの被害者は、「みんながもっとおたがいとこころの距離を縮めておもいやりを持つようになればいじめはなくなる」と絶唱することがある。わたしは「ちがう」と言い放つ。
被害者がそういう信念をもつことと、わたしが「ちがう」と言うことはまったく矛盾しない。両方ともそれぞれの主導性(個人がその人生において自己をその発動の中心点として自己の信念を生きる権利)が確保されていればよいのである。
戦争で肉親を失った被害者の組織である遺族会が、当の戦争を引き起こした戦前の日本の体質を擁護・復活しようとするメッセージを発する組織であったことを考えてみよう。
当事者崇拝をしていたら、右翼勢力の思うつぼである。
大切なことは、遺族の主導性(個人がその人生において自己をその発動の中心点として自己の信念を生きる権利)を確保しつつ、さまざまな異なる他者の意見がぶつかりあえる、リベラルな言説のアリーナを確保することである。
このあたりの、当事者主義から他者のリベラリズムへという論理は、このブログに載せた『不登校は終わらない』への書評論文を参照されたい。
■ 主導性(個人がその人生において自己をその発動の中心点として自己の信念を生きる権利)を破壊する例
電車のなかでたまにみかける胸がむかつく情景。子どもが行った行為ではなく、子どもが親と異なる他者として「そう感じて生きている」こと自体にムカツいて、憎々しげに脳味噌に手をつっこんで「こう感じないおまえは憎い。こう感じなさい」というしつけにふける母親。
文化大革命のような糾弾集会ごっこをしているとき、ある憎んでいる人物に対して、ある子どもXがそんなに憎んでいないような報告を耳にすると、「それはわたしが知っているXではない」と言い放つ太母。
太母を中心とした響き合い(交響するコミューン)の結節点として存在する人間存在以外の、独自の生を生きるXの存在を、「存在しない」とする子宮空間の論理。これは非常におぞましい。」