終わらない学園祭。ネヴァー・ネヴァー・ランドの住人。醒めない青春。
ゲームで参加して下さい。
「うる星やつら」の少年少女の登場人物のその後の歳のとり方や生きざまなどについて、あなたの憶測・想像・ねつ造でお話お寄せ下さい。
アニメ板などでなく、なして社会板でこのスレやるのか…、そのことも含めて考えてみてケロ。
ラムちゃんはもともと実際の20代後半の女性を描いてるので
そのままで問題ありません
永遠に学園祭の前日。
バリケードの中の幸福な。
あたるが高校生なのに、
ラムちゃんは、20代後半なの?
炊き出し、ファーストフード、隠れる場所、ライバル、メカ、口達者な友人たち大勢、
ネヴァー・ランドには何でもあるだから戦争し掛ける子どもたち。
めんどうしゅういちは、大学を出て、
実家会社に入社。
将来の社長。
別人だけど。
1はお気楽なバブル時代と、きびしい現代との対比を
「うる星やつら」から描いたら面白いと思ってるんだろうが、
その世代の女性は今でも相変わらずお気楽に暮らしてるよ、
対比も糞もないよ、という意味だと思われる。
>>7 ネヴァー・ランドについての考察だそうだ。哲学版にも同じスレが立ってた。
「バブルと対比」は全く関係ないだろう。
「攻殻機動隊」のテレビ放送版の方の、「フチコマの家出」の回を見てるから、
折れはこのテーマの意図が何となく分るが。「醒めない青春」というか醒めない夢がテーマだろう。
>>1 >その後の歳のとり方や生きざまなどについて、
ネヴァー・ランドだから、歳はとらないわけだよね。
でも、歳をとりたくなったら彼らはどうとるだろうね。
>>8 だから「醒めない青春」というのは「豊か過ぎる」社会に生じた
現象で、今はその時代が終わったことのひずみが現れてきてる
からこそ、わざわざ考える必要があるんじゃないの。
そうでなけりゃ余計なこと考えないで、それこそアニメで
「醒めない青春」を満喫すれば(そして貧乏フリーターになれば)
いいだけだと思うんだが。
というか、考えるにしてもアニメ自体に内在してる限り「DQN
カルスタ」と言われておしまいなんだけど。好きなもの観て
理屈こねればいいだけの幸せな時代は終わってしまったよ。
カルスタ大いに結構。
……★★おまいら野暮の極み★★……
>>10 >>8 あの回は、ある種の人には残酷だった。私にはすでに納得尽くの話だが。
話の内容は、夢のように美しい映画をいつまでも掛け続けるヴァーチャルの映画館とその映画監督の話。
「ここから戻りたがらない客たちの中には、夢が醒めたら生きるのに辛すぎる現実を抱えている者もいる。」
ある種の「映画ファン」に、「映画というのは夢を見るために観るものだ」という人たちが居る。
…知り合いにそんな映画好きが3名居るよ。いずれも「自分の現実」が辛く、脆いプライドを抱えている人たちだ。
>>9 >でも、歳をとりたくなったら彼らはどうとるだろうね。
まぶしい青春って現実には麻薬だよな、社会復帰できん。折れにも難しいよ。
>>12 と、消費するだけで思考停止のおまいも凡庸で粋じゃない。
>>13 うわあああああああああ
俺のことだああああああ
自分が痛い痛い!!
ああ痛い!!!
>>16 と言うあなたは既に、私の知り合いより救われていると思う。
>>15 簡単だよ。働けばいいんだ。創作よりも起業よりも無業で
生きていくよりも会社勤めの方がずっと楽なんだぞ。
やるべきことも目標も上司が勝手に決めてくれる。
確かにうざいことも多いし自由時間もないが、無駄な
悩みは全部なくなる。
究極超人あーるが好きだった。
おお、上の処方を出したのは私じゃないよ、A君。
アフガン・イラク戦争に関わって「大人になれる」可能性に賭ける者。
しかして反戦ではいつまでたっても大人になれないのだ。参戦しても大人に慣れるわけでもなく。
旧制中学の少年らは予科練行って「大人になった」つもりでいるのだ、しかし予科練の醒めない青春を生きる御老輩たちは
「つくる会」活動の中で戦地体験有無による認識の断層に立って、その中で「特攻で飛び立つところだった」という圧倒的な「経験」さえ今生かせない、そんな自意識は起こらないのだろうか。
実践に行って何が掴めるだろうと、子どもがあちこちで呻いているのだ。
よしお母さん、思いきってですなぁ、
おたくの息子さんを映像の世界に沈めてはどうですかね。
要するにこれは
「ポスト80年代を生きざるを得ない僕らには
どのような選択肢があり得るのか?」
という問いだね?
>>1
>>22君、日本での青春の終わらせ方。でもいいケロよ。
>>18君の自棄なポスト青春の生きざまでは、ネタも広がらないケロね。
ネタを無理にでも広げた方が良いケロよ。
「空元気」も元気の内さケロ。
イラクで捕まった3人で誰が好き?
私は今井さん! 若くて頭よさそうだから!
25 :
( ><)つ〃∩:04/04/10 11:56
高遠の妹萌え。
>>22 「選択肢の問題」としている時点で、
>>18で示されたような何か「とっとと枯れちゃえ」という話に収束していくだけではないだろか。
選択肢じゃないやね。「醒める」のが「枯れる」ことでは決してないやね。
>>25>>26 政治的場面において「しっかり表現する」ってことに、君はほんとになめくさってるよな。
そんななめた政治姿勢だから、君は切迫感で一生懸命やってるかも知れんが、身内で共感しあえることでも他人の心に響かせることが出来ないんだよ。
拘束された邦人三人とその家族は、自分達の救出の為にイラク人の犠牲がまた出ることをよく噛みしめておくべきだ。
迂闊な行動をとった彼らが、ほんとに忌々しいばかりだ。あんたらに海外人道支援する資格なんて、無い!
らんまってあんまり印象にない。。
トランスにあたること。
トランスな「物語」に身も心も揺さぶられ一時期過ごすのは
単に蝕まれただけの事か。
否である。
選択肢といえば今回感じたのは少なくとも、「うる星」やファンタジーを体いっぱい浴びて遊んで育った者は幸いである。あの拘束された3人のようにほぼ戦争状態続く他国に身一つで乗り出して政治を軽視した「人道支援」が行えうるなどという道を回避できるからだ。
「人道」とはそもそも何か。
それも時としてファンタジーの世界から学ぶこともある。
そんなどうでもいい人たちの他にも、ラムちゃんファンは
いっぱいいるよ。
たとえばわが国軍の最高指揮官は、あんだけ人が死んでる今の
イラクを「戦場とは認識していない」そうだ。
そっちの方がよっぽど重大じゃないか?あんな3人に文句言って
何になるの?バカガキの考えることは分からん。せいぜい
2ちゃんで政治ゴッコに興じてから、適当に就職するこったね。
昨夜は拉致邦人支援者によるスレがこの板に乱立してたんだよ。今朝全部削除になってたな。
>>34 で?
おれの話ともこいつらの話とも、なんにも関係ねえじゃん。
バカガキの思考回路は本当に分からん。
歴史の中に棲まないという決意が巨大な地歩だった。歴史は書記によってではなく隠匿によって記さ
れる。比類なき悲惨は悲惨以後の世界にすべて要求しうるという信憑が二つの異なった倫理の線の
繋ぎ目になっている。ねじれた年譜が途絶え次の年譜につながる夜が口を開く。日付けのいくつかはす
でに明らかである。一九一〇年九月十一日。一九一七年十一月二日。一九四二年五月十一日。一九四
八年五月十四日。いまなお生誕の意味の側に立って戦うことをやめない。
形見を抱いて帰って行った原理的労働者の祖。殻だけを飾ってすでに身体の剥製化がはじまった小麦
男。いくつかの日付けの終焉と交替は空欄のままだ。剥奪と充填を繰り返し最後の内臓までゆっくりと
文字が詰め物されてゆく。夜半から夜明けまでおまえはその模像の裏で眠った。緩慢な眠りだけがお
まえの受けた唯一の恩恵だ。形見を抱いた未亡人の仕事。絶対的な片側での生がはじまった。
壊れない体のための軍団委員会。一般派の骨のない体。 修正派の骨と針の倫理。 お前の体の深い
壊れから三つ四つの教会が生い立つ。成型と収容としての最後の日付けがついにやってくる。白日の下
での数日お前は背中をべったりと木の床に貼り付けて眠った。
同化は不当で不可能な儀式だと私たちは言う。
永遠の異物としてこの世の外のどこにもない国に集結すると私たちは言う。
私たちはこの世のどこにもない国はこの世のどこにも存在しないことを
知らない。どこにも存在しない国にはすでに《野蛮》が住んでいることを
知らない。どこにも存在しない国は《野蛮に対する防塁》となるしかないことを
知らない。
私の名はメガネ。
かつては友引高校に通う平凡な一高校生であり、退屈な日常と戦い続ける下駄履きの生活者であった。
だが、あの夜、ハリアーのコクピットから目撃した衝撃の光景が私の運命を大きく変えてしまった。
ハリアーであたるの家に強行着陸したその翌日から、
世界はまるで開き直ったかのごとくその装いを変えてしまったのだ。
いつもと同じ町、いつもと同じ角店、いつもと同じ公園。
だが、なにかが違う。
路上からは行き来する車の影が消え、建売住宅の庭先にピアノの音もとだえ、
牛丼屋のカウンターであわただしく食事を取る人の姿もない。
この町に、いやこの世界に我々だけを残し、あの懐かしい人々は突然姿を消してしまったのだ。
数日を経ずして荒廃という名のときが駆け抜けていった。
かくも静かな、かくもあっけない終末をいったい誰が予想したであろう。
人類が過去数千年にわたり営々として築いた文明とともに、西暦は終わった。
何故、あたるの家の近くの無人のコンビニに新鮮なお惣菜が毎日陳列され、毎朝あたるの家に新聞が配達されるのか?
何故、メガネは律儀に無人のコンビニでカネを払い、あたるが払おうとしないのを咎めたのか?
要するにこの世界は共産主義の終末ではないのか?
では次に日本共産党の宮本議長の発言を見てみよう
「それはわれわれが綱領の最終段階で予想する物質的な富が無限に豊富で、そして欲する者に従って与えられる。
労働によってではなくて、労働時間が短縮して、ごく短時間の労働でも十分満ち足りた生存が出来るとか、
寿命が尽きて死ぬ事は避けられないけれども、それ以外の社会問題的な苦悩というものがなくなって、地上の
生活が非常に楽しめて、生きていて良かった、ということになれば……」
文芸春秋四十九年八月号より
要するに押井は20世紀を彷徨う怪物にトドメを刺したかったのだろう。終末の世界をあたる達は結構楽しむのだが、
その世界の虚構に気付いた人間は排除される。何故ならそうしないとその世界は崩壊するからである。
押井は高橋留美子よりも宮崎ハヤオを相当意識している。共産主義の宮崎に対する強烈な皮肉なんだろう。
「所詮それはウソの世界でしかないんだよ、早く夢から醒めなさい」
おまえたち!
未来ある若者が昼間ッから古い文芸春秋がどうした修正主義者がうんぬん共産主義がどうしたと、この大平の世を斜めに構えて牛丼屋にたむろしてて、どうするんだ、
さあみんな、先生に憑いて来い!よーーし、ハローワークまで競争だぁああー!!
メガネや、私の息子。
お前どうしてこんな子になっちっちまったんだろうねえ。あたしはお前には普通にまっとうな職に就いて早くこんなことから足を洗って欲しい
お願いだ、お友達と一緒に牛丼屋さんから出ておいで、先生も心配しておられるよ
俺は
>>2 から、20代後半の登場人物達の終わらない痴話喧嘩を想像してしまい
(もちろんあの格好)
非常にやるせない気持ちになった。
押井がどうとかそういうの関係なしに。
文字の人口国家から削除された手が叩く扉はつぎつぎに開かれる。
戸口には積み重ねられた段ボール箱がさしせまった移動の準備を整えている。
私たちの動きにつれて動物たちの毛でできた埃がゆっくりと動く。
地上の時計はいまも均質な時を刻んでいるが
文字列がもはや私たちを解雇しているように思われた。
◇
弾薬の丘を覆って濡れた罌粟がいちめんに咲いている。
◇
ああ、メガネや、私の息子。
お友達同士痴話げんかかと思いきや、内ゲバにならないだろうね。
共産主義って「夢」だったのかい、
あくまで「夢」や「ロマン」と結論付ける方向で笑い飛ばすのが世間さまの常識だよ、政治思想として語る人は社会学部でも少ないんだよ、
そんな中でカストロ議長は今でも何してるんだろうね、
さあ、おとなしく牛丼代払って出ておいで。
しかし、残された我々にとって終末は新たなるはじまりにすぎない。
世界が終わりを告げたその日から、我々の生き延びるための戦いの日々が始まったのである。
奇妙なことに、あたるの家近くのコンビニエンスストアは、押し寄せる荒廃をものともせず、
その勇姿をとどめ、食料品、日用雑貨等の豊富なストックを誇っていた。
そして更に奇妙なことに、あたるの家には電気も瓦斯も水道も依然として供給され続け、
驚くべきことに新聞すら配達されてくるのである。
当然我々は、人類の存続という大義名分のもとにあたるの家をその生活の拠点と定めた。
あの運命の夜からどれ程の歳月が流れたのか。
しかし、今我々の築きつつあるこの世界に時計もカレンダーも無用だ。
我々は、衣食住の保証されたサバイバルを生き抜き、
かつて今までいかなる先達たちも実現し得なかった地上の楽園を、
あの永遠のシャングリラを実現するだろう。
ああ、選ばれし者の恍惚と不安、共に我にあり。
人類の未来がひとえに我々の双肩にかかっていることを認識するとともに眩暈にも似た感動を禁じ得ない。
メガネ著 友引前史第1巻 終末を越えて 序説第3章より抜粋
だから今共産主義を叩いて誰が何の得をするんだ?
ソ連型共産主義を望んでいる人などいまや世界に一人もいないぞ。
ロシアの貧乏人とかスキンへッズのガキのノスタルジーとして
細々と生き延びているだけだ。
まあ、歴史的に負けが証明されたものの死体叩きをするのは楽で
いいわな。北朝鮮を必死に叩くことで、相手と同レベルになってる
ことに気付かないバカガキと一緒だ。君の大好きな死体と一緒に
埋葬されればいいよ。というかそれしか道がない。
ああ、メガネや、私の息子。母さんは近所の奥さんの視線に耐えて今日も訴えるよ。
「共産主義の崩壊」「バブルが弾けた」「湾岸戦争以降」「911以降」と、
あたしたちは今ポスト○○であって、それ以上の何ものでもないのかい。
それに本当に「共産主義は崩壊した」のかい。
マルクスの思想といわゆる「マルクス主義者」の思想と違うものとしてみて
果たして「共産主義経済が実現した政治経済システム」なるものがこの世に存在していたのかい、
ああ、マルクス自身は現実的な変革の構想に関しては「社会主義者」だったんです、って面堂の御主人が今教えてくれたよ、
「共産主義」は究極の理念だったんだって面堂さんのナイスフォローがあったよ。
後の「マルクス主義」において、「社会主義→ 貨幣廃止で共産主義社会」という段階論へと整理され、社会主義は共産主義実現に至る段階として位置付けられたんだね、
基本的に、ワルシャワ条約機構、北朝の顛末から「共産主義の壮大な実験は既に終えられ解は出尽くした」
との理解に着地、あとは笑って『共産主義』を消費してしまおうというところが、今は世間さまでは常識だって。母さんみたいな堅実な主婦でも上記のような事を口にすると奥さん連中から肩身が狭くなるだろう、くらいに「お笑い」以上に扱われないんだよ。
それにしても「ビューティフル・ドリーマー」はただのノスタルジーだったのかい。「共産主義への鉄槌だった」がこの物語への広く一般での捉え方になっているのかい。
「ビューティフル・ドリーマーのオチは『現実に着地』ではない。
学園祭当日夜明けという、あくまで「本番前」のまま、
連中はまだ醒めきらないまま、映画は終わったのだ。」
メガネや、母さんも「◯◯主義批判」のポーズにぶら下がってるだけの表現と言うのは
何だかしっくりこないよ、ほら。面堂さんのお父さんも傍らでうなずいているじゃないか。
さあ、もう立食いのカウンターから顔を挙げて、この母さんを見て。子どもたちや戻ってきておくれ。
はいはいと、ごめんなさいよ、
生徒諸君に告ぐ! 次は先生がスピーチを行うぞ。
くぉーらー! アニメやファンタジーや詩ごときで政治思想の周縁でも分ってたまるかってんだ。そんなもん見てたらと碌な大人にならせんわ、
さっさと労働して国民年金払って所帯持って子どもを学校にやってボランティア休暇を定期的にとって社会に馴染んでこそ 政治思想云々語る権利があるというものだ。チミらガキどもはそこんとこ分ってないようだ、
けしからんぞまったく。
「ビューティフル・ドリーマー = 共産主義国家の崩壊を描く」とする評価は存外良く見られる評価だった、チミらコアなガキどもはそんな単調節評価についてへき易しとるようだが、
これはポストモダンおこげで自称映画マニアの間には広く一致した見解なのだからして、チミたちそういう人の言葉も聞いて理解につとめてみてはどうかね。
何? もう聞き飽きただと? ポストモダンおこげは実は芸術音痴で通ぶってていけすかない、アーティストの敵だ、だと。やつらこそ詩の敵である、だと。
政治的にどちら側の立場にあるのかという対立図式に物語の理解の方向を持ち込みたがる「図解屋」は現在他ならぬ彼らである、だと。
まーーた、ワケの分らん反応の仕方しやがって。ほかならぬ押井先生こそ、ぼ、ボードリヤールの言説とか実際によく引用しているのだ、と、ほら校長もおっしゃってるな。あ?
何?マルクス主義者の思想とマルクスの思想は違うものであるように、だと。「生半可な共産主義崩壊という図解的理解」で物語を消化してはならない、だと?
まだ世間知らずのくせして、知った風な口をきくんじゃないー!
早く時計塔から出て家に帰るんだ、勝手に出前なんかとって立てこもるなー!
諸国民の欲望が整列する中へ契約書が背中を濡らして帰ってくる。
逸脱者は逸脱の法則に忠実に従う。悲惨をもたらすものが悲惨を被ったものの名を
語る。ウガンダ? アルゼンチン? 否もうひとつの神話の土地だ。
私たちの歴史の終わりと私たちが終わった後の歴史を結ぶ契約は効力を保ったまま
後方に向かって開かれている。
真・スレッドストッパー。。。( ̄ー ̄)ニヤリッ