本来社会学の領域であった場所に、
ゲーム理論家なんかが入り込んできて
鬱陶しい限りだとは思いますが(推測)、
さてさて、社会学と経済学は領域的に重なる部分がある、
特に経済学がマルクスだった時代には渾然一体化していた
部分があったかと思います。
きっと経済学に対して思うところの一つか二つはあるでしょうから、
それを語っていただきたいな、と、こう思うわけです。
2んぎょう遊びルンルン
経済学さんにはかないません。
これ、マジで。
少なくとも、人文電波が蔓延っているかぎりはどうしようもない。
社会学と経済学が重なる部分なんて少ないんじゃない。
ゲーム理論は経済学でばんばんやってくれ。
社会学ではああいう合理的なモデルははやらん。
合理的なモデルを扱わずに
社会学という領域ではなにをやっているのですか?
非合理的に社会を研究しているの?
そう。
終了
経済学ではある一つの「真理」が前提になっている。
それは、「人間は誰でもできるだけ金儲けをしたがるものだ」というものである。
経済学はこの金銭欲を前提にして普遍的な一般理論を構築することができる。
しかし、社会学は金銭欲は決して人間に自明に具わっているものではなく、
そうした欲求はあくまで特定の社会的な条件で促されるものだ、と考える。
ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」はいわば経済学批判である。
つまり、経済学は「みんな結局は金が欲しくて行動してんだよ」という前提に立つのに対し、
社会学は「あくまで特殊な社会関係の中で金が欲しくなるんだよ」という考え方をする、という違い。
経済社会学とか社会経済史という分野がある。
7の指摘は「ホモ・エコノミクス」(経済学的人間)だね。
これが社会学による経済学への決定的批判。
経済社会学と社会経済史や経済学は、まだかなり遠いとと思うが、
どうだろうか?
むしろ、一時期の経営学と産業・組織社会学のほうがかなり近かった。
今は知らん。
つうか日本の社会学って何か成果出してるんですか?
ある意味社会学の実学的役割って、官僚主義の抑制のようなところあると思います。
>>7,9
アホか。そんなことで経済学批判する「まともな」社会学者なんて
一人もおらんよ。
>経済学ではある一つの「真理」が前提になっている。
そういうの「真理」ではなく、「仮説」あるいは「モデル」という。
この「仮説」がいかに現実離れしているかを自覚していない「まともな」
経済学者もまた一人もおらん。
それでいて、「そんな仮説は現実離れしている」なんてのは
経済学に対するなんの批判にもなってないの。
こういう素っ頓狂なこと書く人は、まず高校レベルの物理学から
勉強して「科学」ってことの意味を理解することから始めるべき。
経済学はコストかけて精緻なモデルを組み立てても、
当たり前で面白くない結果や無意味な結果がでやすい点が辛くてしんどいな。
反面、たとえ非現実的であっても、どういう仮定を置いているのかは明確で
仮定→結論の正しさは保障されている点、精緻な実証研究をしやすい点がすぐれている点だと思う。
ま、そうはいっても経済学さまに人文デムパが跋扈する社会学がおよぶはずもないわけで・・・
12の指摘は正しい。
9で言いたいのは、「ホモ・エコノミクスというモデルが現実離れしている」
ということではない。
ホモ・エコノミクスという与件でなく、ホモ・エコノミクスという人間像から
派生する、孤立している個人像を暗黙のうちに仮定してしまうことが多いこと
ことだ。ホモ・エコノミクスという与件があっても、そのような仮定は必ずし
も成り立たない。
これは純粋に経済学的な問題をやっているときはそれでもいいが、社会関係と
か組織とか社会的影響をも統合しようとするときに問題になる。つまり、社会
学のほうへ近づくとき。
言葉足らずでスンマソン。
話は変わるが、社会学でも「合理的選択理論」学派と呼ばれているやつはある
ので、必ずしも社会学が非合理的なモデルであるわけでない。
山田昌弘の「パラサイト・シングル」はその一例。