かなりテキトウに聞き取ってるので、実際に聞いてね。
53分ごろ
宮台:・・・・合理性でいえばそういう事になる可能性があるわけですよ。
それは、例えば、山形浩生さんがレスター・ブラウンの様なタイプの議論は
経済合理性、あるいはある種のシステム合理性の観点から考えると、逆に
コスト高で、例えば割り箸を使わないで塗り箸を使うとか、牛乳パックを
再生するって言うと、なんかいかにも環境に良いようで、実際には
経済合理性には適ってなくって、最終的には環境に優しくならないんだ
っていう議論があったりする。
って言うような合理性の観点から環境問題をくさす議論があるんですよ。
んで、こないだ申し上げたことはこういうことですね、その合理性の観点からね、
「環境に優しいなんて奇麗事言ってると、かえってシステムに負担をかけて
とんでもない事になっちゃう可能性があるんだぞ、お金もかかるし、かえって
不幸になっちゃう人が出てくるかもしんないよ」っていう議論に十分に敏感で
あって、むしろそういう議論にすれっからしになってね、そんなことは百も
判っているっていう風にした上で、それでもですね、経済合理性の観点から
疑問がある、或いはクリアカットなヴィジョンがあるわけじゃないけれども
経済合理性とは別の観点から環境を守る、とかっていう意思の決定っていうか、
その背後にあるような合意形成がなされないと、実は環境問題って本質的な
問題解決には至れないんですよ。
だから山形浩生さんのような、いわゆる経済合理性やシステム合理性の観点から
環境問題にかかわる運動の正しさを弁証できないなんていうのは、僕なんかに
言わせると幼稚園児の議論で、そんなのは、、でも、幼稚園児のレベルでとどま
っている人たちは非常に多いので、それはある意味で重要な議論だし、僕も
ずっとそういう議論を一方でしているんだけども。だけど、それで片付かないところに
環境問題の実は面白さがある。切って捨てて良いわけじゃないんですよ。
その意味で言えば、例えば、オマンマ食える、とても大事ですよね。効率的で
あること、とても大事。合目的であること、とても大事なんだけども、
生きていて楽しい社会、生きていて楽しい人間関係、それを支えるヘリテージや
さまざまな文化的な、自然的な環境。ということまで含めてですね、何がよき社会
よき人間関係、あるいは良き人生なのかっていう話をしないとね、
ホントは環境問題って合理性だけで片が付くと思ってると、ホント大間違いで
(ここ何行ってるかわかんなかった→)必ず掬われちゃいます、合理性によって。