趣味の話はやっぱり村社会の典型的なコミュニケーションなのか。
話が一方通行で、コミュニケーション達成感が低い。
村の中の者にしか通じない会話を、公でするのは
異邦人にその母国語でしゃべらないぐらい、むなしいもの。
日本は他者が「異邦人化」しているのか?
タテ型コミュは、「師弟関係」にあって初めて成立する会話。
今の日本では受信者が「弟」になることを望まなくなってきている。
会話は一方通行で完結し、達成感は得られにくい。
管理社会で培われたタテ型コミュは
情報化社会の発達によってその機能を崩壊させられる。
管理社会の特徴であった「情報の非公開」が
情報化社会の「情報収集の機会均等」で補完されるからだ。
情報を知らないことが自明でなくなり、
「知らないこと」は自己責任に置き換えられる。
大量情報の中で、自分以外の「他者」が無知に見えるだけであるのに。
自分が選択した「情報」に、「自分のすごさ」を見いだすのは、
まさしく、この情報化社会の「無知」である。
シンスレワッショイ!!
\\ シンスレワッショイ!! //
+ + \\ シンスレワッショイ!!/+
+
+ /■ヽ /■ヽ /■ヽ +
( ´∀`n(´∀`n)( ´∀`)
+ (( (っ イ (っ イ (っ っ )) +
`(__,)゙レ' レ'(___) (___,)__)
age
分散コミュ、
分散ランゲ。
閉鎖コミュ内コミュ、
閉鎖ランゲ内ランゲ。
文化混入(個人)文化
山形村はタテ型コミュですね。
>>1さん。タテとヨコ、おもしろいぞ。これからはヨコの時代だが、タテとヨコの関係を論じた著作・論文を教えてくりゃはい。
>>6さんへ。
タテとヨコを考えるようになったのは、宮台真司の本を読んでからで、
特に論文などを読んだわけではないです。
でも、自分の周りの環境が(会社が)縦型コミュしか通じず、
私にとってかなり苦痛であるから、このスレッドを立てました。
女性は「人間関係」などを論じて、共通の話題にもっていくのですが、
男性は「趣味」等の、共通しにくい話題に持っていこうとします。
男性と話すときは、頭の中にある知識をかなり噴出させて、コミュニ
ケーションをはかることに専念するのに対して、女性とのコミュニケーション
は、身近な自分のことを語るので、楽です。
みなさんは、縦型コミュと、ヨコ型コミュ、どちらが主流ですか?
>>6 館山横夫「縦論の技法」『関係論研究54』1992 関東関係論学会
館山横夫『縦の社会・横の社会』1998 PEP出版
館山横夫『縦と横の社会学』2000 横縞出版
館山横夫『縦と横の構造分析』2001 横縞出版
百合塚洋子「横論批判の歴史研究1」『関係論研究55』1993 関東関係論学会
百合塚洋子『横論の建て直し』1998 日構大学出版会
窪塚健六郎『縦横論入門』1995 小山田堂新書
窪塚健六郎『縦横論の理論と実証』2001 小山田堂書房
さっすが2チャンネラー。参考にします。
皆さんはヨコ関係をどう定義しますか?
本当にこれらの文献ありあり??
ないぞう。
柿上陣八『縦横論の斜度』1955 キテレ社
これも検索しても出てこん。どうなってんの?ホンとにあるの?
18 :
フルテートル:02/04/08 01:16
耳塚氏の「敷衍する横論」は必読。
ヨコが良いんだったら、階級を告発するな。
それとか、カースト制を理想社会としろ。
タテの関係は集団の構成員の力の差に基づくものですよね。
その力ってどのように判断されるものなんでしょうか?
21 :
山形村はタテ型コミュ強制所:02/04/08 12:38
管理社会と情報化社会の区分がいまいち?
管理社会でなくて、封建社会かな?
やっと、カーネル・サンダースの呪いの期限が切れた。
阪神は本来、神のチーム。
これくらいのゲームができて当たり前。
1938年に開幕7連勝した時に阪神は優勝した。
今年も9割方優勝する。
阪神電鉄の株価もウナギ昇りだ。
優勝すれば経済効果も核爆弾級だろう。
現在、阪神ファンの脳内モルヒネ分泌量は最高だ。
仕事にも遊びにもハリが出る。
阪神ファンが勝ち味に飢えていたが故に。
カーネル・サンダースは俺たち阪神ファンに17年間の試練を与えた。
今はそのことに感謝したい。
昼食時には是非ともKFCを利用したいと思っている。
主張の正誤が内輪の人間関係に依存してしまうような連中は屑ですね。
25 :
名無しさん@1周年:02/04/13 08:32
age
>>24 でも、人間関係があれば、言いにくくなることが出てくるのは必至。
やはり、多重所属が重要だと思われ
>>それも一つの方法だと思います。
ジブリの「海が聞こえる」は、そのいい例が出ていると思います。
僕も、高校時代はいわゆる「地方」の高校というのもあって、
所属が一元化し、視野が狭くて、コミュニケーションも制限されました。
なんせ、一つのコミュニケーションがすっごい大きい責任を伴ったから。
でも、大学に入ると、大学仲間、バイト仲間、高校の同級生、
課外活動仲間・・・等々、所属が多元化したことで、コミュニケーション
の責任が薄くなって、結構大胆な発言をされても、しても、余裕が持てる
ようになりました。・・・今は、仕事場の一元化によってかなり辛い
ですが・・。だから、町内会に積極的に参加したり、市のやっている
中国語の講習を受けて外国人と仲良くなることで、多元化をはかるよう
がんばってます。で!だんだん救われている僕がいます。
失礼しました。27は、26さんのコメントを見てのコメントです。
「ヨコ」とは、全てを同列に扱うということでよろしいか?
例えば、
「…ハイカルチャーだサブカルチャーだ、
学問だオタクだ、大人向けだ子供向けだ、
芸術だエンターテインメントだといった区別なしに、
自由に分析し、自由に批評できるような時代を作るために、
本書は書かれている。」(『動物化するポストモダン』より)
これも「ヨコ」でよろしいか?
付け加えるならば、
「社長だ平社員だ、男だ女だ、インテリだ労務者だ、大人だ子供だ
といった区別なしに」
という感じだろうか
要するに、権威(あるいはその逆)を剥奪した
末に残った地平でのコミュニケーションが、
「ヨコ」のコミュニケーションということでよろしいか?
反権力は、僕は好きではありません。
このスレッド内で、反権力批判を書いている人がいますが
、社会学にこのスレッドを立てたのも、
「〜は悪」っていう、易い方向に持っていかないのを
期待して、立てました。それが、社会学の「とりえ」
ですもの。ですから、「権力は必要ない。剥奪せよ」
みたいなことは社会学から見れば、偏った、実りのない
理論ですので論じるつもりは毛頭ありません。
そういう権力の必要性とかは、もうわかったものとして、
タテ型コミュが主流になってしまった日本社会で、日本社会
なりの他のコミュニケーションの方法はないか?を論じたいな
、と。現代日本社会で、「コミュニケーションの達成感」
を得る方法は、どんなんがあるのかな?と。その一つ
として、曖昧にぼかして(っていうか、正直私もヨコがわかりません!)
ヨコの提示をしました。みなさん、達成感えてますか?
「支配」なるtermそれ自体の脱構築を要するかと。
そのへんは、ゆりすどぐまてぃくの課題。
でもあり、ぽりてぃくすの課題でもあるはず。
ってか、
アンチの人は憲法を序文から読んでみるよろし(藁
ってか、実践的言明はすべからく、政治的・権力的契機をおびているんとちゃいまっか?
>all
>>32 すまんすまん
「権威を剥奪した」ってところが誤解を与えたみたいね。
>タテ型コミュが主流になってしまった日本社会で、日本社会
>なりの他のコミュニケーションの方法はないか?
…こういうのはどうですかねえ。
結局コミュニケーションに必要な姿勢は
協調することなわけだから、
協調する目的がいくつかあればいいんじゃないですかねえ。
もちろんタテ型コミュを支える利害図式(同調圧力とか)
とは交わらない領域で。
そこで、「世界の露出」を候補の一つにするってのはどうでしょう?
まあ、非常に痛いのですが(笑
私はなかなかはまれるんですがねえ、一期一会とか
痛いな、やっぱり…(笑
同意。
ぱーしゃるかつてんぽらりーな目的という趣旨において。
さらにいうならば、「普遍を求めず」と解してよろしいか?
この点において協調の契機があるならば、愉しい史劇を演出できそう(藁
>35
一元性・片面性ではなく、多元性・双方向性を志向しますかね?
脱構築というtermに対するラベルにつき、これまでは意図的に「却下」していたので・・
ってか、
大多数の人々に於ける、legitimacyの「外観」への確信を損ねないようにしつつ、急がずに、無関心なそぶりで、すべてを自力で片付けようとはせずに・・
「局所的な」置換を一応の目標として。
この際、アンチテーゼを「密かに」示すとしても、主張のみでは弁論に勝てません。
となると、何が必要か?
32さん。ちょっとすみませんが、わかりにくいので、
「自分の経験」にその意見を還元して語ってくれませんか?
なんか、面白そうなのですが、わたくしの勉強不足でわかりません。
色々発言をしてくれて嬉しいです。
具体的に。例えば、32さんは、アルバイトを始めました。
その中で、32さんだけが20代。後の人は40代、50代の
人です。その場合、どうやってコミュニケーションをはかって
いきますか?その意見を使って、答えてください。
社会学に関してはド素人もいいところでして・・ 混ぜていただくという立場自体に、感謝と困惑を覚えてはおります。
適切な設例を頂きましたので、shiro氏の設例に準拠しますと・・
<実際、20代でして(汗
当方としては、次のようなアプローチを試みるかと存じます。
まず、話題の端緒を探すことになるでしょう。
仕事内容・飲食・時事・音楽・衣装などに取材して、極々無難な話題を選び、話しかけるか、待つか、どちらかでしょう。
そうして、無事、最初の会話が成立したならば、相互的な発話への契機ともなるでしょう。
<広く、薄く、軽く。
<互いに、そこに有意性を感じるならば ですが。
この段階を経由して、脈がありそうだな・・と判断するならば、
場固めを重視しつつ、先方の関心事を模索するなどして・・多少マニアックな話題を提示し始めます。
決して、急がずに。
例えば、小説や歴史の話題、囲碁ネタなどを振ってみたりもするかもしれません。
<多少収斂させはじめて・・
<関係の重層化・構造化を図る ということになるかと。
<この段階をそれなりに長く取ったうえで、さらに互いを見極めようとするかと存じます。
そこから先は・・どうなりますでしょうか?
少なくとも当方は、完璧な計画を立案し遂行する という力量は持ち合わせておりません。
ただ、
そうだからといって、相手をただ利用するなどといった具合に、刹那的に振舞うのにもためらいを感じないわけでもない という具合です。
小括しますと・・
淡い期待のもと、気楽に、気長に、受容と指摘の両者を、TPOに応じて使い分ける ということになるかと存じます。
そうして、会話を重ねるうちに、互いに、わかりあえたらばいうことはないし、脈がないならば、ゆるやかにはなれていく ということも、仕方ないことなのかもしれないですし、互いのためには悪くないのかもしれない ともおもいますね。
ちょい、補足します。
「史劇」というのは、おそらくは、100年単位でのはなしです。
そうして、演出といっても、無数の参加者(兼・俳優)がいることでしょうし、明確すぎる目的意識は考えものなのではないかなとも思います。
<そこまで思いつめては疲れてしまうでしょうし。
いささか、煽りが過ぎました^^;;
しばらくはROMに徹することにします。
そんな猟奇的状況からは脱出しましょう。