暇なのでちょっとだけコピペ
いわゆる苦労人、世間師などは、社会のことならなんでも知っていると思い込んでいる。
はたしてそうであろうか。 読者諸君がまだ若い青年なら、一度や二度は年長者に
「お説教」を食らったことがあるだろう。 お説教のタイプは大体こんなものである、
「世の中というものは、そんなもんじゃねえぞ。 ……お前の心掛けは間違っている」。
この際、次のような反論をしてみたらどうだろう。「世の中は、そういうものかも
しれないが、それは正しくはありません」。あるいは、「現在のところは、世の中は
そうなっているかもしれませんが、これは努力して変革されるべきです……」。
こんな反論は、苦労人のおじさんの全く予想しないことであり、ひとがお前のためを思って
情理を尽くして一時間も説教してやったのになんたることだ、と反駁されるだろう。
つまりこの苦労人の論理においては、存在(つまり、現在あるがままの世間)と
当為(つまり是非善悪)とは全く同一視されており、存在そのものの当否が問われることは
ないのである。「世間はそうなっているが、それは正しくないことかもしれない」という
認識は、この苦労人の思考には全く入り込む余地はない。 彼にとっては、社会(世間)は
自然現象のごとく所与であり、これが人間の作為によって変革されうるとは夢にも
思えないのである。 つまり、彼にとっては、社会の風習、風俗、規範、制度、
権力装置などは、神聖不可侵か、あるいはそれほどではなくても、太陽や月の運行法則と
同様な自然の鉄則であって、これを人間の意思によって合目的的に変えるなどということは、
全くもってのほかなのである。
このような心的傾向(これを「社会を所与とみる心的傾向」という)は、苦労人の
認識ばかりではあるまい。 未開人はいうまでもなく、前近代的社会に住む人びとの
社会に対する態度は、おしなべてこのようなものである。 この意味においてそれは、
一種の自然的な心的傾向であるとさえいえよう。
小室直樹『危機の構造 ―― 日本社会崩壊のモデル』
第七章 社会科学の解体 より抜粋