>>140 なるほど、よくわかりました。
噛み砕いて教えていただき
たいへんありがとうございました。
>>140 >私の友達はある日本の地域の歴史を研究しており
>マルクス的理解は単純すぎて、歴史の背後に
>いたマイノリティの役割を軽視しすぎている、、、
>というようなことを、
それはポストモダンと違うだろ、馬鹿。
>>145 ほれ、きた。ポストモダンの法則。
ポストモダンが分かったような顔をすると、たたかれる。
でもじゃあ、お前ポストモダンって何なんだよと
いう質問には答えない。
禅と同じだね。「さとり」がわかっちゃいけないんだ。
禅の制度時代がくずれちゃうからね。
「ポストモダン」は分かられてはいけないんだ。
分かったような顔して、やっとつくりあげた「専門家」
の制度がくづれちゃううからね。これから、勉強する
若い人たちができることは、この制度にはいらない
ことだよ。
歴史を体系的に語ろうとすることに対して
NOを言うのは立派なポストモダンだよ。
ただ、じゃあどうするかという問題に
なると、エスノグラフィーになったり、
マイノリティー文化研究になったりするんだ。
君が分かっていないのは、ポストモダンは
「態度」であって、実質的な研究ではないのだよ。
本読んでりゃ研究になると思うのが馬鹿である。
そういうことは、公民館か趣味でやりたまえ。
148 :
↑きついですね:02/01/07 02:50
>奈々氏さん
ちょっと「ポストモダン」の範囲を広げすぎなんじゃないか。
「わからないことで権威付けようとしてるポストモダン」て説明は
面白かったですけど。
ただ、ポストモダン「的」用語も(←時には)使い、
学会や論文をちまちま発表してる者にとっては、
>>145の人が
引用してる部分にはカチンとしたし、疑問符をもちました。
>結論があって、それで字を詰め込んでるってかんじかな。
これは「ポストモダン」の問題ではなく、論文の質の問題じゃない?
どの領域にもあることだ、と。
(こんなのばっかだと思うんです、奈々氏さんの文章)
ポストモダンは「態度」であって研究ではない、ってのはなんとなく
同意です。けれども、だからと行って公民館でやれ、
というのはあまりに周りが見えてないのではないでしょうか。
失礼しました。146、カットしてください。
あまり知識のないもので、すこしあおられると
調子にのってしまいました。匿名性に甘えて。
で、思ったんですが、ポストモダンの論文って
「ある」んでしょうか?ポストモダンといわれて
いる人の引用をしているような論文はありますが、
ポストモダンの理論をつきつめて、のばして、
これだっと叫んでるような論文て「ある」んですか?
読んだら、引用ばっかで、問題をその引用先に
責任転嫁していくようなものが多すぎません?
150 :
boyon:02/01/07 10:58
体系性がないっつーか因果的説明を放棄してる、
悪口でいう「ポストモダン」史学がはびこってるからなあ。>アミノ!
確かに毒消しには役に立ったのだろーが、
アンチ唯物史観は国史学・民俗学・竹越三叉ら民間史学で間に合ってたんじゃないかなあ。
151 :
poyon:02/01/07 11:46
アミノも「ポストモダン」?
じゃ、阿部キンヤとかもポストモダン??
正統的な研究をやってきた者たちが、新しい研究手法等をひと括りにしてけなし、よく理解しないまま安心するためのラベルが「ポストモダン」ってことか??
152 :
boyon:02/01/07 12:15
因果的説明を実質放棄してる点でアミノ史学が、悪口としての
「ポストモダン」に適合してるってこと。
アミノ史学は唯物史観の相対化を狙ってるんだから、奈々氏のポストモダン観では
ポストモダン的態度といえないわけじゃないな。まあマルクス主義は近代とともに成立した
近代批判のひとつだから典型モダンに分類すんのは妙だとは思うが。
「D4でまだ就職してない?? 博論もまだ?
あぁ、彼は『ポストモダン』だからね」
age
確かに「ポストモダン」なんてレッテルを貼られたら、
就職遅れるのは必至だよな。
156 :
キダ・タロー:02/01/21 12:30
やたら「ズラす」という言葉使ってるよなあこの手の
ポストモダン文は。
ポストモダニズムの定義は、かつて見田宗介がボードリヤールについて
語った言葉(「肯定を禁止しつづける言説」「具体的な何かを肯定する
ことによって自己の言説の超越性を危機にさらすということを回避し
つづける言説」[『現代社会の理論』p.126])が私にはいちばん
しっくりきます。
俗にいうと、もてるけど恋人をつくらず、あらゆるアタックを
拒み続けるほうが自分の超越性は高まる(笑)。
似たようなことを佐藤俊樹が言っていて、「(超越的視点の)不在を
語ることは超越的視点をさらに超越するわけで、本当はきわめて超越的な
語りにほかならない」[「透明な他者の後で」『大航海』特集:1990年代 p.118]
と。
つまり、超越しようとする(=モダン)よりも
他人の超越を限界付ける(=ポストモダン)ことのほうが
さらに超越的なのです。
以上をまとめると
プレモダン:超越しない状態
モダン :超越したがる状態
ポストモダン:超越の不可能を知った状態。
そして「超越できないよ」と他人にいって
他人を限界づけることにより
自分の超越性が高まる状態
詳しく言い直すと
プレモダン:超越的視点を確保しようという運動が
存在しない状態
モダン :ある価値を肯定してコミットすることにより
超越的視点を確保しようとする
(そして超越しきれずに挫折する)運動
[ 例:「近代主義」という価値にコミットして日本社会を
超越的視点で批判の対象とし、そして挫折した
丸山真男 ]
ポストモダン:自分は特定の価値へのコミットを表明せず、
超越的視点の不可能をシニカルにいいたて、
いまだに超越的視点にたとうとする者を嘲笑し、
それによってかえって嘲笑している自分自身の
超越性が高まっていく運動
ポストモダニストは(あるいは厳密なポストモダンでなくとも
大澤真幸や宮台真司が)、「我々は超越的視点をとりえないのだ、
我々は世界に内在しているのだ」と言い立てる。
けれどもこのように内在性を語ることが、
発言者の超越性を高める方向にしか作用していない、ということが、
私をいらだたせるのです。
この問題(「『内在している』と超越的に語る」)は、
論理上はうそつきのパラドックス、ゲーデルのパラドックスと同じなんでしょうが、
実際の生活上は、「内在している」と「内在的に」語ることも
可能ではないか。
むかしの社会学はもっと素朴なよさがあったものですが、
大澤さんや宮台さんのように「頭のよさで社会をぶった切りにするような社会学」(笑)で、
「我々は内在しているのだ」といわれても、超越的にしか聞こえない。
( 頭の悪い人間のひがみなんです[笑])
私は、自分のことを正直に語れるということが
思想としての最低の要件だと思うので、「内在している」というなら
内在的に語っていただきたい。
大澤さんは、理論的にはポストモダンでなくとも、
彼の語り方のスタイルは、ポストモダンと共振していると思います。
これについては、永井均が、大澤の議論を音楽にたとえて
語っていました。(「読売」98.7.12 書評)
そういうわけで私は、ポストモダニストよりも、
超越めざして挫折してゆくモダニストのほうが
正直で好きです(笑)。
159 :
名無しプログラマ:02/02/13 02:05
>>158 禿同!
とりあえず、まずは限界まで超越して欲しいですね。
日本人の場合は特に。
自然科学の場合、超越目指して限界まで行った結果のいろんな動きだと
思うんだけど、社会科学って、全然限界まで行っていないと思います。
まず、科学と名乗っているのなら、徹底的に科学を目指して欲しいです。
やる気ないっしょ。こんなんで商売になるんだもん。
♪ ヽ(゚Д゚* )ノ ドカン ドッカン
163 :
(・∀・):02/02/17 15:56
ポストモダン以上に
ポストモダン批判って不毛なような気がするんだが…
とKINGカズの本を読んでいて思った。
>>163 日本の自称「ポストモダニスト」の大半は基本的にキングKAZUを歯牙にもかけていない
のだが、しかしポストモダン思想の影響は着々と社会科学に影響を与えており、それがキン
グKAZUにとっては納得がいかない(「お前ら社会学舐めてんじゃねーぞ、ゴルァ」的発想)。
そこが、あくまでもキングKAZUにとっては歯痒いところなんではないかな。
相手の土俵に乗るのは嫌なんだけど、向こうはこっちの土俵に降りてきそうもない、という。
165 :
(・∀・):02/02/17 17:34
>>164 KAZUはポストモダン嫌いなんだろうけど、
一方で純粋な経験主義の方がもっと嫌いっぽいので複雑だと思う。
KAZUってある意味すごく「ポストモダン」的な人なんだよな。
『制度論の構図』での彼の制度観はバーガー&ルックマンのそれと殆ど変わらず、
むしろ彼らを「行動主義的」と批判してたりもする。
んでもって、「ポストモダン(と氏が言うかはともかく)は適当なこと言い散らしてるが本当は…」
とぶち上げようとするんだけど、自説はいまさら何を?といった感じで、
「批判をしたのはいいものの自説は??」と?2う
「ポストモダン」の本の構成を見事に踏襲してしまってたりもする。
多分「お前ら何無意味なこと言ってるんだよ?」ってのは
根本的にはポストモダンの批判にはならんとKAZUは考えてるんだろうな。
「じゃあお前が意味のあることをしゃべれんのかよ?」って切りかえされるから。
それで「俺が体系を作り上げてやる!」となるんだが、そんなことそうそうできない。
結局は批判とありきたりな自説(モダンなんだから仕方ない)になる。
そうなるんで、「ポストモダン批判」は不毛だなあと思った次第。
「相手の土俵に乗る」ってのが「批判と相対化合戦」なら確かにKAZUは乗ってないだろうが
割と相手の土俵には乗っていこうとしている人のような気がするけど…
スレ汚しスマソ。
166 :
∴フォーチュンの弟子:02/02/17 23:24
ドゥルーズ+ガタリは、ポストモダンじゃねぇ。
ミル・プラトー読んでみろ。あれは地図だ。図面じゃない。
>大澤さんは、理論的にはポストモダンでなくとも、
>彼の語り方のスタイルは、ポストモダンと共振していると思います。
>これについては、永井均が、大澤の議論を音楽にたとえて
>語っていました。(「読売」98.7.12 書評)
この言い方で何をいいたかったのかというと、
大沢さんは「第3者の審級の不可能性を体現する第3者の審級」を
批判していますが、大沢さん自身の位置も、まさにそこにあるんじゃないの?
ということです。(岩波社会学講座の「ネーションとエスニシティ」など)
「『内在している』と内在的に語る」とは具体的にどういうことかと
考えてみましたが、「内在している」と自分でいいつつ、超越したがる他者に
唾をひっかけない(笑)といったところかな・・・。
相対主義のパラドクスも同じで、
「すべては相対的だ」と自分はいいつつ、「そんなことはない」と幻想をもつ
人の足をひっぱらない(笑)。
これが、相対主義を「相対的に」語る方法かな?と思ったりします(笑)。
これで自己言及のパラドックスを回避できてるかはわかりませんが・・・。
「いまどきの社会は」とか「いまの時代は」とよく言われているでしょう?
ポストモダンは、思想ではなくて、近代化・現代化された後の社会関係
や社会構造を多様に指し示すための一つの言葉にすぎませんよ。
>>168 人によるんじゃないの? 建築の人にいわせりゃ違うだろうし
ポスト構造主義と同意だという人もいるし。
>>169 ですから、ポストモダンの社会や時代を対象として論じるのと、
ポスト構造主義などの理論的姿勢とが、ごちゃまぜになって
混乱しているんですよね。
ポスト構造主義という現代思想に対する解釈・理解が
幻想または錯覚であり、間違っているとポストモダン論の
立場から、またはそれ以外の立場から、批判する人が
当時からいる訳です。
ポストモダン論=新人類論というのもありました。
当時の思想状況を一括りにはできないですね。
KAZUって誰だ?
ポストモダニズムは無視して考える、これ最強。
ポストモダンは、(エディプス的な)大きな物語に乗らない、疑ってみるということにつきる。
まず、最初に認識のあり方を問題にし、小さな物語を見つけてきてそれで批判してみる。
そこで、展開するのは、自己の経験、リアル感でもいい。
ここでは、一見、大きな物語に対しある種相対的な場がなりたち、ここに止まり勝負している
自称ポストモダンもいるような気がするが、しかしそれは真のポストモダンの言論の場ではない。
真のポストモダンの言論の場とは、その持ち場さえ捨て去り「相対の相対の相対のステージ」
を用意することである。
「まぁ、これも一つの立場からの見方だから」
結局のところ、それ自身が父親にならずに、突き上げられるのをふせぐため、少年と大人の
あいだを漂うモラトリアムの夢を生きてみること。
何にもよらないこの期間は可能性の海で、超越できる、超越していると錯覚することができる。
そして、そこでは、認識ではなく感じ方がテーマになることが多く、表現はおのずと文学的になる。
また、文学的表現がもてない輩は、潜在的に「俺、俺」であるので、「俺、俺」な込み入った
難解な文章にならざろうえない。
日常的世界を相対化することこそ、自然科学・社会科学の営みであるはず。
ポストモダンというまでもなく、学問は相対化である。
さらに、学問の立場が「一つの立場」に過ぎないのも、昔からのことだ。
どんなに筋の通った学説であっても、それを人に信じさせられるか否かは別。
いまさら言うまでも無いことだが…
178 :
唯科学論者:02/02/25 21:22
>>177 科学こそがすべての認識と価値の超越的主体なのだよ。
科学以外はすべて相対的なものにすぎない。
⊂⌒ノハハノ
⊂川o″-゛)⊃ およよ・・・・・・・・・・・・・・・
>>178 というような人こそ「近代人」ということになってるらしいが
んなわけないよなあ…
>>180 その「近代人」に適合しない人は
カルトかイデオローグか頭がおかしいとみなされる。
ポストモダンという言葉はまだ定義されていない。
しかしこまったことに定義されていないうちにポストポストモダンが生まれてしまっている。
ポストモダンのパラダイムが何であるのかの明確な定義は今だ見つかっていない。
100年後くらいに現代を見直した時にはこの時代のパラダイムがなんであったかはわかるかもしれない。
同時代を生きるものにとってはその時代のパラダイムを読み取るのは難しい。
100年程度たてばモダンからポストモダンへのパラダイムシフトが大きなものだったか、それともモダン内でのパラダイムシフトのようなマイナーチェンジであったかがわかると思う。
ジャック・ダリダ、ってポストモダニスト だよね?
それってダリだ?とsageつつ一応つっこむ。
>>185 ポストポストモダンか。
やっぱポストモダンっていう発想自体がダメだったな。
近代的(モダン)な理念が通用しなくなった後(ポスト)の世界像を探る
動きの総称がポスト・モダン。
漏れは工房がどこでポスト・モダンなる言葉を耳にしたか、
なぜそれに興味を引かれたかの説明をキボン。
リオタール、デリダ、ドゥルーズ、フーコーらを一色単にしている時点で
「ポストモダン論」者(批判者もふくめ)は問題外。逝ってヨシなのだが。
つまりこれらの論者を「ポスト」なんとかと論じている
「ポストモダン論」者こそ軽薄にすぎるということ。
ポストモナー
あげだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!