宮台はルーマンの「システム論」を90年代の日本社会に使ったわけです。
90年代に出回った宮台の言論は、要するにこれです。でも既に「誰も声をあげ
て指摘しないシステムの問題」を指摘し尽くした感があり、もう宮台は旬を過
ぎています。
他に、「成熟社会」と「成熟社会→価値の分立」の説明不足が非常に目立ち、
これとお得意の修辞が重なって、宮台をキワモノにしてしまっています。
「社会システムの変動=「成長社会」から「成熟社会」」→「文化的側面(現象
・価値)の変容=例:援交」→「変化した文化的側面に対応しない制度の問題
=例:ストレスのたまる中学校(犠牲者=生徒)」→「(起こるべき)制度的側面
の変容が起こらない。」→「民度が低い=民主制の政治システムを用いて問題
を起すシステムが変更されない」→「近代民主制を指導する抽象的価値体系で
あるリベラリズムの政体なのに、中間集団が作用せず、郷愁と利害の共同体が
守旧するのが原因だ。」→「学者としてヘドが出る愚昧な状況。不快。」→「世
論を煽ってやれ。ヘドの取り除き・人々の幻想を壊す快楽が動機。(本来「シラ
ネーヨ」の心理、世話をやくのは嫌。)」→「読者の青年の自殺」「宮台への不
快感」→「煽るは止め、社会政策の提言による癒し(?)」「民度の低い(?)民衆
ではなく頭のいい官僚にレクチャーして上からの制度的変容を意図する」→「寺
脇研審議官の「生きる力」=自己決定力」教育に微力ながら影を落とす」→「@
価値分立の時代でもアノミーを避けるべく、他者の承認付き自尊心の徹底。A責
任ある行為を促すために試行錯誤。B @・Aのための社交技術の教育。要するに
リベラリズムを機軸としたマルチカルチュラリズム(共生)?が、、成るか?」→
「郷愁と利害のベタベタした共同体的まとわり付きのないリベラリズムのエートス
へ20年かけて日本人を改造、、できるか?マジ?」→「だが」→「脅威。リベラリ
ズムより天皇主義が改造に適している? (『天皇ごっこ』あとがき)」・「新たな
脅威=言葉の通じない異常者とも「共生」するため、政府〜個人まで、個人管理の
徹底、相互警戒」
以前どっかのスレッドで宮台に都庁職員採用試験を解け!というレスがありました
が、そこの社会学の記述問題が中間集団と権力について問う問題で非常に興味深か
ったです。さすが都庁!と思いました。恐らくオルテガやコーンハウザーの「大衆
社会論」あたりを狙った出題でしょう。中間集団とは個人の欲求充足と全体社会の
秩序維持を同時に果たす集団の事です。どういう集団が具体的にどういう状態の時
に中間集団足りえるか?どうなんだろう?社会学者のデュルケルムは、様々な中間
集団が共生し均衡する時に個人は自由になるとか言っています。また中間集団が個
人と全体社会(近代ではだいたい国家を指す)とを媒介しなくなると個々人は連帯で
きず、孤立からアノミー(無規範・無連帯)を生む、とも言っています。彼は1910年
代の人で、当時の社会不安に危機意識を抱き、リベラリズムの秩序形成を期待して
いました。
宮台は「社会学的中間集団主義者」らしいですが、恐らくデュルケルムのパクりで
しょう。