松手慶斎(まつて・けいさい 1571〜1640)
米沢城下において伊達家家臣松手忠亮(まつて・ただすけ)の長男として生まれる。幼名九郎(くろう)、
元服して忠世(ただよ)。道号慶斎。
5才の時、伊達輝宗の命で梵天丸(後の政宗)の小姓となり、以後生涯を政宗の側近として過ごす。
生来の短足が災いして足が遅く、行軍や退却時には遅れることしばしばであったが、反面武勇の誉れは
高く、初陣の人取橋の戦いをはじめ数々の戦場でたびたび政宗の危機を救っている。また、その朴訥と
した風貌とどこでも居眠りをする悪癖から「眠りの松手」と称され敵からは恐れられた。
寛永2年、政宗が大御所秀忠及び将軍家光に国許帰還の挨拶に訪れた際のこと。控えの間に待機して
いた忠世はいつもの悪癖を起こし居眠りをしてしまった。茶目っ気を出した政宗は忠世をそこに放置、他の
近習と一緒にさっさとl仙台に帰ってしまった。忠世が目を覚ますと誰もいない。幕府の役人に問えば政宗
一行は既に帰ったという。忠世は顔が真っ青になり、その鈍足を飛ばして政宗の行列を追いかけた。本郷
まで来たところでようやく行列の後が見え、忠世は思わず叫んだ。「待ってけさい!待ってけさい!」これを
見た江戸の町人は爆笑。「待ってけさい!」は一躍江戸の流行語となった。
政宗の死に合わせて剃髪出家。道号を慶斎と称する。由来は自らが元となった流行語「待ってけさい!」
主君政宗に劣らず茶目っ気たっぷりな人物でもあった。