【J入り】大塚FCヴォルティス徳島Part3【前進】
1955年創部。70年代には四国を代表する強豪となる。
本格的なチーム強化は88年より。90年にJSL(日本サッカーリーグ)2部に昇格。
主要大会優勝歴 国体成年1部1回(93年)、国体成年2部1回(89年)
順位とJへの昇格、JFLへの加盟、脱退、その他の出来事(その年の終了時点〜次シーズン開幕の間)
旧JFL(ジャパンフットボールリーグ)
92年一部8位(10チーム中)
93年一部4位 →ベルマーレ平塚、ジュビロ磐田昇格/NEC山形加盟、NKK廃部
94年6位(16チーム中)→セレッソ大阪、柏レイソル昇格/ブランメル仙台、福島FC加盟
95年5位 →福岡ブルックス、京都パープルサンガ昇格/日本電装、大分FC加盟
96年7位 →ヴィッセル神戸昇格/ジャトコ、水戸ホーリーホック加盟、コスモ四日市脱退、鳥栖危機
97年7位 →コンサドーレ札幌昇格/ソニー仙台、アルビレックス新潟、国士舘大学加盟、西濃運輸、福島FC脱退
98年9位 →Jリーグ2部制へ(アクションプラン)
現JFL(日本フットボールリーグ)/横河電機加盟
99年6位(9チーム中)→水戸ホーリーホック昇格/アローズ北陸、栃木SC、FC KYOKEN、静岡産業大学加盟
00年4位(12チーム中)→横浜FC昇格/佐川急便、YKK、NTT西日本熊本、SC鳥取、愛媛FC加盟
01年2位(16チーム中)→佐川急便大阪、プロフェソール宮崎加盟
02年3位(16チーム中)→アルエット熊本、プロフェソール宮崎、地域リーグに降格
93年、Jリーグブームに乗って徳島の若者を中心にサポーター組織(S-CLUB)が結成された。
94年、Jリーグ準会員申請を目指して、サポーター、大塚製薬、徳島県、地元商工会、
県民らが大きな運動をおこし、24万人近い署名を集める。ホームスタジアムとして
使われた徳島市球技場には交通アクセスが極端に悪い山奥であるにも関わらず、
毎試合数千人の観客が詰めかけた。この運動は、円藤寿穂知事による徳島の3000日戦略にも盛り込まれた。
しかし、広告代理店のはじき出した運営費25億円、年間6億円と見込まれる赤字を埋めるために
必要な主要スポンサーを獲得することに失敗。運営法人の設立、準会員申請が見送られ、
同時に県営専用スタジアムの建設も白紙に。天皇杯でジュビロ磐田を撃破。
95年、準会員申請に伴うチーム名として公募して決まった名称、『ヴォルティス徳島』を愛称として使用開始。
96年、震災に負けることなくJへの夢を失わなかったヴィッセルに二敗。天皇杯で横浜マリノスをVゴールで撃破。
98年、長くチームを支え、多くのサポーターに愛された笠原健選手(DF)、天皇杯フリューゲルス戦で引退。
この大会で優勝した横浜フリューゲルスから2点を取ったのはヴォルティスだけであった。
99年、愛称『ヴォルティス徳島』の使用を中止。しかし、サポーターはこの名を呼び続けている。
01年、ワールドカップキャンプ地として徳島県鳴門市が立候補。数カ国が視察に訪れる。
第九初演や俘虜収容所などで鳴門市と関わりの深いドイツチームがキャンプ地の第一候補として
指名するも、準備不足のために組み合わせ抽選会翌日に訪問したフェラー監督らを著しく落胆させ、
ドイツのキャンプ地は急遽、宮崎市に決まった。天皇杯ジェフ戦を最後に、長きに渡り大塚FCを
運営し、サポーターから支持された小賀正條部長、勇退。
02年3月、圓藤寿穂知事、収賄容疑で逮捕。
02年、川合泰隆新部長就任。ワールドカップはドイツ誘致に失敗した徳島でも熱く、サポーター主催の観戦イベントが開催される。
03年5月、「徳島に四国初のJリーグ」を公約のひとつに掲げる飯泉嘉門氏、県知事に当選。
03年5月、01年10月より続く34戦連続不敗のJFL新記録樹立
03年8月、徳島県庁内に「Jリーグ推進プロジェクトチーム」を設置
03年10月、知事が大塚製薬と会談、大塚FCの譲渡を要請。Jリーグ入りを目指すことで基本合意。