帝京のロナウドこと矢野隼人

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前衛の裏付けと云うと、例えばバウハウスの「伝統」との融合とか? 私も
それなりに、構成学などによる裏付けは必要だと思います。ただし、東洋的伝統を西欧的
視点に準拠させようとするのは困りますが。あちらに迎合するかの様に準拠させるのでは
なく、差異の肯定を踏まえて西欧美学をこちらから変えていくくらいでなくては。音楽と
の類比などはたまに見かけますが、この場合も当時の前衛技法と伝統技法との接点を掘り
下げる事に意味があったのではないかと。例えばシュプレヒシュティンメ(朗唱)の場合
は、文学性の表出方法を全く異なる仕方で組み込んだ事例と云えるでしょうから、この手
の主体的パラダイム内における前衛性については、革命的要素と或る程度分けて考えた方
がよさそうな気がします。
 前衛書や墨象が伝統書の枠組みからの離脱を意図しているなら、その動機自体はなんと
なく推察できます。先ず伝統との比較があり、次にそれを拠り所とした遊牧的離脱作用が
ある、とする様な。ところが他方では、芸術にこだわりすぎるあまり芸術自体の消尽作用
が見失われている様な気もします。消尽とか蕩尽と云わず、一種のプラグマティズムと云
った方がいいかしら。芸術でない筈のものの中に芸術があり、芸術とは無関係な作用と芸
術的作用とが同一のマテリアルの中に折り畳まれている状態。平たく云えば用美一体。こ
こでは見方次第で中身ががらりと変わるから、鑑賞者の育成が不可欠になる、と。
 母語表記に漢字を使わない人々にとって、漢字はそれ自体が前衛的な刺激をアフォード
する筈。同じ感覚を共有しようとするなら、日本人はいっそ漢字を捨ててしまえばよい。
〜が、これだと本末転倒になると思います。伝統書との境界も潜勢的な流れにおいて転倒
するし、却って未来がなくなっていくかも(未来が過去を指示して空中分解する)。
 当たり前の事が当たり前でなくなるとき、当たり前の事が分かる人々にとってそれは鼻
持ちならないか、もしくは新鮮な感動となるでしょう。もちろん、その逆もある筈。読め
るという事が当たり前でなくなると、昔の文盲とは異なる知的文盲の世界が創発する筈。
そうした時代の要請に依拠しすぎると、芸術自体が従来の文化とは別の地平で空回りし始
めるのではないか…と、そんな気がしています。