カレン・ホーナイの人間分析

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1白雪姫
カレン・ホーナイは、精神分析学創始者フロイトの研究成果に大きく改良、修正を加えて発展させ、
人間心理について、より深く優れた包括的な理論体系を完成させました。
彼女の鋭い洞察・分析は、より良い人間、人間関係、教育、社会などを考える場合の基礎、指標と
するに値します。
ホーナイの研究は、現代社会においても、もっと評価、注目、活用されるべきではないでしょうか?

●カレン・ホーナイ Karen Horney(1885〜1952)
ドイツのハンブルク近郊生まれの精神分析学者、医師。1932年に渡米し、その後は、アメリカを
本拠地として精神分析学の研究を行った。
ホーナイは自身の研究をキャリアの後期から晩年にかけて、大きく発展、進化させた。
1950年に出版された「Neurosis and Human Growth」には、集大成として、彼女の研究、考察の
到達点が記述されている。
2名無しさんの主張:2013/05/18(土) 18:25:18.96 ID:???
Test
3 ◆.IJQsoCg7. :2013/05/19(日) 10:29:10.41 ID:rOK3etbt
 
/// 序文 1 ///////////

カレン・ホーナイ著、対馬忠監修、藤沢みほ子、対馬ユキ子訳
 『自己実現の闘い――神経症と人間的成長――』
 アカデミア出版会1986年10月発行 より

序文

 自己実現の道徳

 神経症的発達過程は、人間の発達の一つの特殊な形であって、そこでは建設的なエネルギーが
浪費されてしまうことから、人間にとってとりわけ不幸なものとなる。この過程は、健全な
人間の発達と比べて、質的に違うだけでなく、ふつう考えられているよりもはるかに、多くの
意味で正反対の性質をもっている。

///// アカデミア出版会 ///
4 ◆.IJQsoCg7. :2013/05/19(日) 19:17:02.12 ID:rOK3etbt
 
/// 序文 2 ///////////

人は、恵まれた条件の下で育つ場合、そのエネルギーを自分の可能性を実現することに注ぐ
ものである。このような発達は決して画一的なものではなく、各人はその気質、能力、傾向、
幼年期およびそれ以後の成長条件に応じて、より柔軟にも頑固にも、疑い深くも信じやすくも、
自信が強くも弱くも、思索的にも行動的にもなり、また、自分の特殊な才能を伸ばしていく
こともできる。だが、どのような方向に進んで行くにしても、この場合に彼が伸ばしていくのは、
その人自身のもっている可能性であろう。

///// 1986年10月発行 ///
5 ◆.IJQsoCg7. :2013/05/20(月) 22:37:53.59 ID:m0HA0Emn
 
/// 序文 3 //////////////

 ところが、心に緊張をもって育つ場合、人は自分の真の自己から疎外されるようになる。
その場合には、心のなかの厳しい命令体系によって、自分を完全無欠なものにつくり上げる
ことにエネルギーの大部分を注いでしまう。というのも、もし自分が神のような完全さに
少しでも欠けるようなら、それは自分が思い描いている自分自身の理想像と食い違うことに
なるし、また、自分が優れた徳性を現にもっており、もつことができ、もつべきであると
思っている自分の誇りが満たされないことになるからである。

///////// 対馬忠監修 ///
6 ◆.IJQsoCg7. :2013/05/21(火) 20:32:39.94 ID:IdH9UHqv
 
/// 序文 4 //////////////

 このような神経症的発達の傾向は(本書に詳しく述べられているが)、精神病理現象に
対する臨床的、理論的な関心以上にわれわれの注意をひく。それは道徳の根本問題、すなわち、
完全性に達したいという人間の欲望や欲動や宗教的義務の問題を含んでいるからである。
人間の発達を真剣に考える研究者なら誰でも、誇りや傲慢が望ましくないこと、また、完全性
への欲望も、誇りが原動力となっている場合には望ましいものでないことを疑わないであろう。
しかし、道徳的な行為を確実なものにするためには、規律的な心の統制体系をもつことが望ましく、
また、必要であるかどうかという点については、意見は様々に分かれる。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
7 ◆.IJQsoCg7. :2013/05/22(水) 21:13:33.34 ID:UG3VxI9G
 
/// 序文 5 ///////////////

たとえこのような内的命令が自発性を束縛するとしても、(「汝、完全な者であれ」という)
キリストの教えに従って、完全さを求めて努力すべきではなかろうか。心のなかにこのような
命令を持たない場合には、人間の道徳生活や社会生活は危険な状熊に陥り、破滅に向かう
のではなかろうか。
 この問題は歴史を通じて様々な仕方で問われ、答えられてきたが、ここはそれについて
論じる場所ではないし、私にその用意もない。ただ私かここで指摘したいのは、この問題に
どう答えるかは、われわれが人間性についてどのような信念をもっているかによって決まる
ということである。

///// 神経症と人間的成長 ///
8 ◆.IJQsoCg7. :2013/05/23(木) 21:31:35.88 ID:Go9R7rey
 
/// 序文 6 ////////////////

 大きく分けて、道徳の目標に関しては三つの主な考え方があり、それらは人間性の本質に
ついての次のようなそれぞれ違った解釈の上に立っている。まず、どんな言葉で表現するに
しても、ともかく、人間は生まれながらに罪深く、原始的な本能によって支配されている
とする考え方がある(フロイト)。この考えをもつ人は、上からの制限や統制を必要なものと
信じる。その場合、道徳の目標は、自然状態を伸ばすことではなく、それを宥め、抑える
ことでなければならない。

///// 自己実現の闘い ///
9 ◆.IJQsoCg7. :2013/05/24(金) 22:25:12.67 ID:N5FXdE1h
 
/// 序文 7 //////////////////

 次に、人間には生まれつき、本質的に「善い」性質と、本質的に「悪い」、罪深く、破壊的な
性質との両方が具わっているとする考えがある。このような考えを信じる人では、道徳の目標は
もっと違ったものになる。この場合には、生まれつき具わっている善を、各人がそれぞれの
宗教上あるいは倫理上の支配的な考えに応じて、例えば、信仰、理性、意思、恩寵などによって、
いっそう純化、教導、強化して、最後に必ず善が勝つようにすることが目標になる。ここでは、
ただ悪を叩いて、抑えることだけが強調されるのではなく、もっと積極的なプログラムも考慮
されている。しかし、この積極的なプログラムも何らかの超自然的な力の助けに頼るか、理性や
意思のような克己的な理念に頼っている。このことはつまり、禁止し、抑制する内的命令がやはり
必要であることを示している。

///// 原著1950年発行 ///
10 ◆.IJQsoCg7. :2013/05/25(土) 15:02:00.01 ID:0MpJRvVZ
 
/// 序文 8 /////////////

 最後に、人間には生まれつき、自分のなかにある可能性を実現するように駆り立てる発展的な
建設力が具わっていると信じる場合、道徳の問題は再び違ったものになる。この信念は、人間は
本質的に善である――これは、善悪についてのある既成の知識を前提として言われることだが――
ということを意味するものではない。この信念の意味するところは、人間は生来、自己実現に
向かって努力する性質を具えており、このような努力を通じて自分の価値観を発達させていくもの
であるということである。

///// Neurosis and Human Growth ///
11 ◆.IJQsoCg7. :2013/05/26(日) 08:41:28.36 ID:Ri+Wbk3f
 
/// 序文 9 ///////////

それゆえ、もし人が自分に忠実でなく、積極的でも生産的でもなく、また、人と交わるのに
相互協調の精神を持たないなら、自分のもっている可能性を十分に発揮することができない
ことは明らかである。また、もし人が「自己への暗き偶像崇拝」(シェリー)に酔い、
自分の欠点をすべて他人の落度のせいにするなら、成長できないことも明らかである。
自分自身に対して責任をとる時、初めて人はほんとうの意味で成長することができるのである。

///// 神経症と人間的成長 ///
12 ◆.IJQsoCg7. :2013/05/27(月) 21:22:14.66 ID:ybNGNj4q
 
/// 序文 10 //////////////

 このように考えていくと、われわれは今自己実現の道徳にたどり着く。この道徳では、
自分のなかに何をはぐくみ、何を捨てるかを決める規準は、ある態度や欲動が、その人の
人間的成長を積極的にもたらすものか、それとも、妨害するものかの問いにかかっている。
どんな種類の圧力も、それがしばしば神経症を引き起こすことからも分るように、建設的な
エネルギーを非建設的、破壊的な方向にそらしやすい。しかし、前にも述べたように、
人間には自己実現に向かって自発的に努力する性質が具わっているという信念をもてば、
窮屈な鎧で自発性を束縛したり、内的命令の鞭をふるって自分を完全な者へと駆り立てたり
する必要はなくなる。

///// Karen Horney ///
13 ◆.IJQsoCg7. :2013/05/28(火) 21:58:40.98 ID:85CKAG+1
 
/// 序文 11 ///////////////

確かに、このような規律を課する方法は、望ましくない要因を抑制することはできるが、
われわれの成長にとって有害であることもまた確かである。われわれがこうした規律的
方法を必要としないのは、われわれ自身のなかに、破壊的な力にもっとうまく対処できる
可能性が見られるからである。それは破壊的な力を超えて成長していく可能性である。
この目標に向かう道は、自分自身についての認識と理解を絶えず深めることである。
それゆえ、自己を知るということは、それ自体が目的ではなく、自発的な成長力を
解放するための手段なのである。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
14 ◆.IJQsoCg7. :2013/05/29(水) 21:39:20.12 ID:Kuqoi+i1
 
/// 序文 12 ///////////

 この意味において、われわれが自分自身について研究するということは、最も重要な
道徳的義務であるだけでなく、同時に、真の意味で、最も重要な道徳的特権でもある。
というのも、われわれが自分の人間的成長を真剣に考える限り、自分自身を研究することは、
われわれが願っていることだからである。そして、神経症的自己執着から逃れ、自由に
成長できるようになるにつれて、他の人々を愛し、気遣う心の自由を得ることができる
ようになる。

///// アカデミア出版会 ///
15 ◆.IJQsoCg7. :2013/05/30(木) 22:33:48.00 ID:XmwpcExC
 
/// 序文 13 ///////////////

そうなった時、われわれは、幼い者たちにはすくすくと成長できるような状況を与えて
やりたいと願い、また、既に成長が妨げられている人々には、できる限りの方法で、
彼らが自分自身を見出し、それを実現できるように力になりたいと思うであろう。
いずれにしても、自分自身のためにせよ、他人のためにせよ、自己実現に向かう力を
解放し、はぐくむことが理想である。
 私は、本書が、自己実現を阻む諸要因をいっそう明らかに示すことにより、それなりの
仕方で、自発的な成長力の解放に役立つことを願うものである。

K・H

・・・・

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
16 ◆.IJQsoCg7. :2013/05/31(金) 21:58:28.90 ID:B4P/bqOn
 
**** NEUROSIS AND HUMAN GROWTH ***

カレン・ホーナイ(Karen Horney)著
NEUROSIS AND HUMAN GROWTH: The Struggle Towards Self-Realization 1950年出版

Neurosis and Human Growth [Paperback]
http://www.amazon.com/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-Realization/dp/0393307751/
http://www.amazon.co.jp/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-Realization/dp/0393307751/
http://www.amazon.co.jp/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-realization/dp/0393001350/

Neurosis And Human Growth [Hardcover]
http://www.amazon.com/Neurosis-And-Human-Growth-Self-Realization/dp/B0006ASE2A/
http://www.amazon.co.jp/Neurosis-Human-Growth-SELF-REALIZATION-International/dp/041521095X/

邦訳:神経症と人間の成長 (ホーナイ全集)、 誠信書房 (1998/06) 、榎本 譲 (翻訳), 丹治 竜郎 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/dp/4414420067/

*** KAREN HORNEY **********
17 ◆.IJQsoCg7. :2013/06/01(土) 07:38:06.89 ID:2weGXMwZ
 
/// 栄光の追求 1 ///////////

カレン・ホーナイ(Karen Horney)著
原著1950年発行:Neurosis And Human Growth: The Struggle Toward Self-Realization
邦訳:『自己実現の闘い――神経症と人間的成長――』対馬忠監修
藤沢みほ子、対馬ユキ子訳、アカデミア出版会1986年10月発行 より

・・・・

第1章
 栄光の追求

 子どもは、どのような条件の下で育っても、精神的に欠陥さえなければ、何らかの仕方で、
他人に対処することを学び、いくつかの技能も習得していくだろう。しかし、彼のなかには
学習によっては獲得できない、また、発達させることさえできない力も潜んでいる。例えば、
どんぐりに、樫の木になることを教える必要はないし、また、実際、教えることはできないが、
時がくれば、どんぐりのうちに潜んでいる力が発達していくであろう。

///// アカデミア出版会 ///
18 ◆.IJQsoCg7. :2013/06/02(日) 08:03:40.82 ID:jVgpDMFB
 
/// 栄光の追求 2 ///////////

人間の場合もこれと同じで、時期がくれば、その人独自の潜在力が発達していく傾向を
もっている。その時、彼は真の自己のもつ独自の活力を発達させるであろう。すなわち、
自分自身の感情や思考や願望や興味をはっきりさせ、深め、自分の資質を開発する力や
強い意志力を育て、自分に具わる特殊な才能や天分を伸ばし、自分の意見を述べ、自然な
感情で良い対人関係をつくっていく能力を発達させる。すべて、こうしたことを通じて、
彼はやがて自分の価値観や人生における目的を見出すことができるようになる。要するに、
彼は本質的に脇道にそれることなく、自己実現に向かって成長していく。そこで、私が
本書を通じて、真の自己と言う時、それは、すべての人間に共通な、しかも、各個人に
独自な、成長の深い源泉である、あの中心的な内部の力を指しているのである。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
19 ◆.IJQsoCg7. :2013/06/03(月) 22:38:11.69 ID:Wmd0Rmko
 
/// 栄光の追求 3 ///////////

 もちろん、その人に生来具わる可能性を伸ばすことができるのは、その人自身にほかならない。
しかし、他の生物の場合と同じように、人間の場合も、「どんぐりから樫の木に」成長する
ためには、それに適した条件が必要である。自分自身の感情や考えをもち、思っていることを
表現できるような、心に安定感と自由との両方を与えてくれる温かい雰囲気が必要である。
また、困っている時に助けてくれるだけでなく、彼が成熟し、完成した人間になるように導き、
激励してくれる他人の善意が必要である。そのうえ、他の人の願望や意志との健全な摩擦も
必要である。もし彼が愛情や摩擦を経験して、他人との人間関係のなかで成長することができれば、
それはまた真の自己に即して成長することにもなろう。

///////// 対馬忠監修 ///
20 ◆.IJQsoCg7. :2013/06/04(火) 22:42:10.84 ID:7je29WWb
 
/// 栄光の追求 4 ///////////

 しかし、種々の恵まれない条件の下で育つ場合には、子どもは自分自身の欲求や可能性に
即して成長することができないであろう。このような悪条件はあまりも多く、ここで、いちいち
枚挙することはできないが、要約して言えば、結局、周囲の人々が自分の神経症に心を奪われる
あまり、子どもを愛することも、子どもをその子どもなりの一人の人間として考えることも
できなくなっている、ということである。このような人々が子どもに対してどのような態度を
とるかは、彼ら自身の神経症的欲求や反応の仕方によって決まる。簡単に言えば、彼らの態度は、
支配的、過保護的、威嚇的、いらいら、厳しすぎ、甘やかしすぎ、気分的、偏愛的、偽善的、
無関心、などである。子どもの成長に悪い影響を与えるものは、ただ一つの要因ではなく、
常に要因群全体の構造である。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
21 ◆.IJQsoCg7. :2013/06/06(木) 19:27:19.15 ID:W/qR8Xjb
 
/// 栄光の追求 5 ///////////

 その一つの結果として、このような環境に育った子どもは、所属感、つまり、「われわれ」
という感情を発達させることができずに、深い不安定感と漠然とした不安感を抱くようになる。
これが、私が基本的不安という言葉で表わすところのものである。それは、自分に対して
敵意を秘めていると思われる世界のなかで、自分は孤立し、無力であると思う感情である。
こうした基本的不安の重圧の下に、子どもは自分の真の感情から自発的に人と良い関係をつくる
ことができなくなり、そこで、他人に対処していくために、何らかの方法を見つけなければ
ならなくなる。

///// 神経症と人間的成長 ///
22 ◆.IJQsoCg7. :2013/06/07(金) 22:07:43.21 ID:bx8PAdqe
 
/// 栄光の追求 6 ///////////

彼は(無意識のうちに)、自分の基本的不安を引き起こしたり、高めたりしないで、むしろ、
それを和らげるような方法で人に対処しなければならなくなる。このようにして、無意識の
うちに方策をとらなければならないことから個々人が身につける態度は、その子どもの
生まれつきの気質と環境との両方によって決まる。要約すれば、彼は自分の周囲の最も有力な
人にしがみつこうとするか、他人に反抗し闘争しようとするか、他人を自分の内面生活から
締め出し、感情の面でも彼らを避けようとするかのいずれかであろう。原理的には、彼は
他人に対して、接近、対抗、逃避の三つの方法をとることができるということである。

///// 自己実現の闘い ///
23 ◆.IJQsoCg7. :2013/06/08(土) 07:51:01.91 ID:W4WidkeA
 
/// 栄光の追求 7 ///////////

 健全な人間関係においては、他人に対する接近、対抗、逃避の動きは互いに排斥し合うもの
ではない。愛情を求めたり、与えたりする、つまり、人に順応する能力と、人と闘う能力と、
人から孤立する能力と、この三つの能力は良い人間関係を保つために必要な、互いに相補う
能力である。しかし、基本的不安をもち、そのために不安定な基盤に立っていると感じている
子どもの場合には、このような動きは極端で融通のかかないものとなる。例えば、愛情は執着
となり、服従は事なかれ主義となる。同様に、反抗や逃避についても、自分の真の感情によらずに、
また、自分の態度がその場にふさわしくないことも考えずに、ただむやみと反抗や逃避に
駆り立てられる。そして、その態度がどの程度盲目的でかたくなになるかは、彼の内部に潜む
基本的不安の強さに比例している。

///// 原著 1950年発行 ///
24 ◆.IJQsoCg7. :2013/06/09(日) 16:59:07.44 ID:5g4pVkxK
 
/// 栄光の追求 8 ///////////

 このような状況の下では、子どもはこれら三つの方向のうちの一つに向かうだけでなく、
そのすべての方向に駆り立てられるので、他人に対して根本的に矛盾した態度を発達させる。
そのため、他人に対する接近、対抗、逃避の三方向への動きが、一つの葛藤、すなわち、
他人との関係における基本的葛藤を構成する。やがて彼はこの三方向のうちの一つをいつも
優越させることによって葛藤を解決しようとする。すなわち、服従、攻撃、孤立のうちの
いずれか一つを自分の支配的な態度にしようとするのである。

///// Neurosis and Human Growth ///
25 ◆.IJQsoCg7. :2013/06/10(月) 21:22:50.71 ID:IYQY6ji+
 
/// 栄光の追求 9 ///////////

 神経症的葛藤を解決しようとするこの第一の試みは、決して表面的なものでなく、反対に、
子どもがそれ以後どのような神経症的発達の過程をたどるかに決定的な影響を与える。
それは他人に対する態度だけに限らず、彼の人格全体にある変化をもたらすことは避けられない。
子どもは自分が主としてどの方向に進むかによって、それに応じた欲求、感受性、禁止、
道徳的な価値観の萌芽を発達させる。例えば、服従的であることを支配的態度としている
子どもは、人に従属し、寄りかかろうとするだけでなく、利己的でない、善良な人になろうとする。
同様に、攻撃的な子どもは、強さや、忍耐力や闘う力に価値を置き始める。

///// Karen Horney ///
26 ◆.IJQsoCg7. :2013/06/11(火) 22:33:14.45 ID:kuxeSEC6
 
/// 栄光の追求 10 ///////////

 しかしながら、この第一の解決法のもつ人格統合の効果は、後に述べる神経症的解決法の
場合ほど確実でも包括的でもない。ある少女の場合を例に挙げると、彼女は一般には服従的
傾向が支配的であったが、その傾向は、権威をもつ人物に対する盲目的な崇拝、人を喜ばせ、
なだめようとする傾向、自分の希望を表わすのに臆病なこと、時々思い立ったように犠牲的な
行為をしようとすること、などに現われた。彼女は八歳の時、自分のおもちゃをこっそりと
路傍に置き、誰か貧しい子どもが拾ってくれることを願った。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
27 ◆.IJQsoCg7. :2013/06/12(水) 21:58:22.28 ID:J0rpgxxa
 
/// 栄光の追求 11 ///////////

十一歳の時、大好きな先生に罰せられると空想して、子どもらしい仕方でひそかに神に
祈って許しを請おうとした。ところが十九歳になると、ある先生に仕返しをするために
友達が仕組んだ壮画にやすやすと迎合するようになっていた。たいていの場合は、子羊の
ように従順であったが、時たま学校で先頭に立って反抗的な行動をとることもあった。
そして、教会の牧師に失望した時には、それまでのうわべの敬虔な献身的態度を捨てて、
一時的な皮肉屋になり変わった。

///// Neurosis and Human Growth ///
28 ◆.IJQsoCg7. :2013/06/13(木) 21:55:30.69 ID:Hj30EEN5
 
/// 栄光の追求 12 ///////////

 この引用例が典型的に示すように、ここで達せられる人格統合は弱いものである。その理由は、
一つには、成長過程にある個人が未熟なためであり、二つには、この初期の解決法が主として、
他人との関係を単一化することを目指しているためである。それゆえ、ここにはもっと確実な
統合の行なわれる余地があり、確かにその必要がある。
 今まで述べてきたこの発達は決して一定した形をとらない。不利な環境条件の特徴はそれぞれの
場合によって違い、したがって、発達のたどる過程やその結果の特徴も異なっている。しかし、
この発達は必ずその人の内面的な強さや一貫性を損ねるので、そのために生じる欠陥を癒そうとして
いくつかの切実な欲求が生じる。これらの欲求は密接に絡み合っているが、次のような側面を
区別することができる。

///// アカデミア出版会 ///
29 ◆.IJQsoCg7. :2013/06/15(土) 09:30:00.12 ID:mwttxNSe
 
/// 栄光の追求 13 ///////////

 彼は、他人との葛藤を解決するために初期の試みをしたにもかかわらず、なおも分裂して
いるので、もっと確実で、もっと包括的な統合を行なう必要がある。
 多くの理由のために、彼はこれまで真の自信を発達させる機会をもたなかった。彼の内部の力は、
例えば、自己を防衛しなければならなかったこと、分裂していること、初期の「解決法」は
一面的な発達しか生み出さず、そのため、彼の人格の大部分が建設的に利用されていないこと、
などの理由で弱められてきた。そこで彼は今や必死になって自信あるいは自信の代わりとなる
ものを求める。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
30 ◆.IJQsoCg7. :2013/06/16(日) 08:33:58.62 ID:JSQKv8YM
 
/// 栄光の追求 14 ///////////

 彼は真空状態のなかで無力を感じるのではなく、具体的に、他の人々と比べて実在感が乏しく、
人生に処する準備ができていないと感じるのである。もし所属感さえもっていれば、他人より
劣っているという感じも、それほど重大な障害にはならないであろう。しかし、競争社会に住み、
現に彼のように心の底に孤立感や敵意をもっている場合には、他人に抜きん出たいという
切実な欲求をつのらせるばかりである。

///////// 対馬忠監修 ///
31 ◆.IJQsoCg7. :2013/06/17(月) 20:05:28.42 ID:LZMpm4Lh
 
/// 栄光の追求 15 ///////////

 これらの要因よりさらに基本的な事柄は、彼の自己疎外が始まることである。彼は、真の
自己の順調な成長を妨げられるだけでなく、それに加えて、他人に対して技巧的、策略的な
処し方をしなければならないために、自分の真の感情や願望や考えを踏みにじらなければ
ならなかった。安全であることが大切になればなるほど、内奥の感情や思想は重要性を失ってきて
――事実、それらは沈黙させられ、不明瞭になっている(安全でありさえすれば、自分が実際に
どう感じているかは問題ではない)。このようにして、彼の感情や願望は決定的な要因では
なくなり、彼は言わば、もはや馭者ではなく、馭せられる者となる。また、内部における分裂は、
彼を弱めるだけでなく、混乱という要因が加わるので、いっそう疎外を強めることになる。
彼はもはや自分がどこにおり、「誰」であるかも分らなくなる。

///// 神経症と人間的成長 ///
32 ◆.IJQsoCg7. :2013/06/18(火) 21:55:00.27 ID:mD1HKHZW
 
/// 栄光の追求 16 ///////////

 自己疎外が始まることが、他の要因と比べていっそう重要な要因となる理由は、自己疎外が
他の障害をさらにひどくする点である。このことをもっとはっきり理解するためには、
自分自身の活力の中心からのこのような疎外がなくて、他の障害の過程が起こる場合を仮定して、
その時どうなるかを想像してみるとよい。自己疎外のない場合には、たとえその人は葛藤を
もっていても、その葛藤によって振り回されてしまうことはないだろうし、自信(まさに
この語が示すように、これには信頼を置くべき自己が必要である)を損ねても、それをすっかり
失ってしまうことはないだろう。

///// 自己実現の闘い ///
33 ◆.IJQsoCg7. :2013/06/20(木) 00:49:12.77 ID:rQdUCwXu
 
/// 栄光の追求 17 ///////////

また、対人関係に支障をきたすことはあっても、心のなかまで他人と無関係になってしまう
ことはないだろう。そのようなわけで、自己疎外に陥っている人は、たいていの場合、一つの
支えを与えてくれるもの――それを真の自己の「代用品」と呼ぶのはおかしいだろう。そんな
ものはないのだから――すなわち、自己同一感のようなものを求める。この自己同一感を
もつことによって、彼は自分自身にとって意味あるものとなり、その人格構造があらゆる
弱さをもっているにもかかわらず、自分は力をもち、意義あるものだと思うことができる
のである。

///// 原著 1950年発行 ///
34 ◆.IJQsoCg7. :2013/06/20(木) 23:04:25.66 ID:rQdUCwXu
 
/// 栄光の追求 18 ///////////

 (生活環境が良くなって)彼の内的状態が変わり、もし、今挙げたような欲求が必要で
なくなるといった事態が起こらない限り、このような欲求を允たす方法、それも、欲求の
全部を一挙に充たしてくれるような方法は一つしかない。それは空想によるものである。
徐々に、無意識のうちに空想は働き始め、彼の心の中に自分自身の理想像を創造していく。
この過程で、彼は自分自身に無限の力と崇高な能力を与える。こうして、彼は英雄となり、
天才となり、最高の恋人となり、聖者となり、神となる。

///// Neurosis and Human Growth ///
35 ◆.IJQsoCg7. :2013/06/21(金) 22:27:47.19 ID:ipsdyWlh
 
/// 栄光の追求 19 ///////////

 自己理想化は常に全般的な自己賛美をともなうので、自分は意義あるものであり、他人より
優れているという、彼にとって非常に大切な感情をもつことができる。しかし、それは決して
盲目的な自己拡大ではない。各人がそれぞれに特有な経験や幼年期の空想、彼独特の欲求や
生まれつきの能力などを材料として、彼という人間の理想像をつくり上げるのである。
もしそのイメージに個性がないなら、彼は自己同一感も自己統一感ももつことができない
であろう。彼はまず最初に、基本的葛藤に対してとった彼独自の「解決法」を理想化する。
すなわち、服従は善良さ、愛、高徳となり、攻撃性は強さ、指導力、ヒロイズム、全能となり、
孤立は知恵、自己充足、独立性となる。彼独自の解決法で短所や欠点のように見えたものは、
常にぼやかされ、修正される。

///// Karen Horney ///
36 ◆.IJQsoCg7. :2013/06/22(土) 08:22:55.66 ID:BhiXH3Dq
 
/// 栄光の追求 20 ///////////

 彼は自分の矛盾する傾向を次の三つの異なった方法のいずれかで処理する。第一の方法では、
矛盾する傾向もまた賛美されているが、表面には現れていない。そして、分析していくうちに、
例えば、恋愛を許しがたい軟弱なものと思っている攻撃的な人も、自分の理想像では、絢爛たる
鎧を着た騎士であるだけでなく、偉大な恋人であることが初めて分ってくるだろう。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
37 ◆.IJQsoCg7. :2013/06/23(日) 07:31:59.40 ID:2EuHNyAt
 
/// 栄光の追求 21 ///////////

 第二の方法では、矛盾する傾向は賛美されるだけでなく、心のなかで別々に分けられているので、
もはや心を乱す葛藤とはならない。ある患者は、自分の理想像では、人類の恩人であり、自らを
よく抑えて平静の境地に達した賢者であると共に、なんら良心の呵責もなく敵を殺すことのできる
人であった。この二つの側面は――いずれも意識されているが――矛盾しないばかりか、葛藤を
起こすこともない。矛盾する傾向を互いに切り離すことによって葛藤を除去するこの方法は、
文学ではスティーブンソンの『ジキル博士とハイド氏』のなかに示されている。

///// アカデミア出版会 ///
38 ◆.IJQsoCg7. :2013/06/24(月) 19:57:42.00 ID:J+Zu/Afe
 
/// 栄光の追求 22 ///////////

 第三の方法では、矛盾する傾向は積極的な能力や仕事へと高められ、豊かな人格のなかで
共存できる側面となる。私が他の著書で引用した例では、天性豊かなある人は、服従的な
傾向をキリスト的な美徳へ、攻撃的な傾向を卓越した政治的指導力へ、また、孤立性を
哲学的な知恵へと振り向けた。こうして、彼の基本的葛藤の三つの面は同時に美化され、
互いに調和させられた。彼は自分の心のなかでは、ちょうど昔のルネサンスの全能人に
匹敵する者となったのである。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
39 ◆.IJQsoCg7. :2013/06/27(木) 00:27:28.48 ID:EcX/v47T
 
/// 栄光の追求 23 ///////////

 やがて、人は自分の理想化され、統合されたイメージと自分自身とを同一視するようになる。
この時、理想像はもはや彼がひそかに抱く空想的なイメージにとどまらず、知らず知らずの
うちに、彼自身がこのイメージそのものとなり、その理想像は理想化された自己となる。
そして、この理想化された自己は彼にとって真の自己よりもいっそう現実性をもってくるが、
それは主として、理想化された自己の方がいっそう強く彼の心に訴えるからではなくて、
それが彼の切実な欲求のすべてに答えてくれるからである。

///////// 対馬忠監修 ///
40 ◆.IJQsoCg7. :2013/06/27(木) 21:47:35.34 ID:EcX/v47T
 
/// 栄光の追求 24 ///////////

このようにして、真の自己から理想化された自己へと心の重心が移っていく過程は、完全に
彼の心の内部で行なわれ、外から見て分るような目立った変化は何もない。変化は彼の
存在の中心部の、自分自身に関する感情のなかに起こっている。これは人間にだけ起こる
不思議な過程であり、例えば、コッカ・スパニエル犬が、自分は「ほんとうは」アイリッシュ・
セッターなのだと思うことはおそらくないであろう。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
41 ◆.IJQsoCg7. :2013/06/29(土) 00:35:45.53 ID:YyEkIWyf
 
/// 栄光の追求 25 ///////////

この中心転換が起こるのは、ただその人の真の自己がかねてから不明瞭になっているため
である。健康な過程を進めば、発達のこの段階では――また、どの段階でも――人は真の
自己に向かうであろうが、この場合には、彼は今や決然と真の自己を捨てて、理想化された
自己に向かい始める。理想化された自己は、彼が「ほんとうは」何であるか、つまり、
潜在的には何であるか――彼は何であることができ、何であるべきか――を彼に示し始める。
それは彼が自分自身を眺める観点となり、自分を測る物差しとなる。

///// 神経症と人間的成長 ///
42 ◆.IJQsoCg7. :2013/06/29(土) 09:07:15.84 ID:YyEkIWyf
 
/// 栄光の追求 26 ///////////

 自己理想化とは、いろいろな面から見て、私が包括的な神経症的解決法と呼ぶことを提案する
ところのものである。つまり、それは、ある特定の葛藤を解決するだけでなく、人がある時に
もっている内的欲求のすべてを充たしてくれることを暗に約束する解決である。さらに、それは
苦しく耐えがたい感情(自己喪失感、不安感、劣等感、分裂感)から逃れさせてくれることを
約束するだけでなく、彼自身と彼の人生を最も神秘的な仕方で完成することを約束してくれる
ものである。そこで、彼がこのような解決法を見つけたと思えば必死になってそれにしがみつこう
とするのは、なんら不思議なことではない。精神病理学の専門用語で言えば、それが強迫的に
なるのは当然である。神経症で自己理想化が必ず起こるのは、神経症を引き起こしやすい環境では、
必ず強迫的欲求がはぐくまれるからである。

///// 自己実現の闘い ///
43 ◆.IJQsoCg7. :2013/06/30(日) 09:53:31.84 ID:S/CwYvEw
 
/// 栄光の追求 27 ///////////

 われわれは二つの主要な観点から自己理想化を眺めることができる。すなわち、自己理想化は
初期の発達の論理的帰結であるが、それはまた、新しい発達の出発点でもある。自己理想化を
行えば、真の自己を放棄する以外にとるべき道がなくなるので、それは当然その後の発達に
きわめて重大な影響を与えることになる。しかし、これが革命的な影響を及ぼすのは、主として、
それがもう一つの意味を持っているからである。自己理想化では、自己実現に向かって注がれつつ
あるエネルギーが、理想化された自己を現実化する目標へと方向転換させられていく。
この転換こそはまさに、その人の生活全体と発達の過程を変更するという意味にほかならない。

///// 原著 1950年発行 ///
44 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/01(月) 21:51:38.52 ID:l79TzQ/b
 
/// 栄光の追求 28 ///////////

 われわれは本書を通じて、この方向転換が人格全体の形成にどのような様々な影響を与えるかを
見るだろう。この転換のより直接的な効果は、自己理想化を純粋に内的な過程にとどめず、
その人の生活の全領域にそれを強要する点である。例えば、彼は自己を表現することを欲する、
というより、そうしなければならないように駆り立てられる。そして、今やそれは、彼が
理想化された自己を表現し、それを行動で証明したいと思うという意味である。

///// Neurosis and Human Growth ///
45 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/02(火) 21:35:35.94 ID:hB4hZdHq
 
/// 栄光の追求 29 ///////////

彼の野心、目標、日常の行動、対人関係にまでも、それは浸透していく。このため、自己理想化が
いっそう包括的な大きな欲動に成長するのは避けられない。そこで、私はこの欲動に、その性質と
次元にふさわしい名を与えて、栄光の追求と呼ぶことを提案する。栄光の追求の中核部分には、
自己理想化があり、その他の部分として、完全性を求める欲求、神経症的野心、報復的勝利を
求める欲求があり、それらは個々の場合によってその強さやそれを意識する程度に違いはあるが、
常に存在しているのである。

///// Karen Horney ///
46 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/03(水) 20:03:16.95 ID:0m2U+Er2
 
/// 栄光の追求 30 ///////////

 理想化された自己を現実化しようとする欲動のうちで、完全性を求める欲求が最も根本的な
ものである。その目的とするところは、まさに人格全体を理想化された自己につくり上げる
ことにある。バーナード・ショーの描いたピグマリオンのように、神経症者は、自分自身を
単に修正するだけでなく、心に描く理想像の特徴を具えた完全な姿に自分をつくり変えよう
とする。彼はいろいろな<べき>やタブーの複雑な体系によってこの目的を達成しようとする。
この過程は重要であると共に複雑なので、後に別の章で論じることにしたい。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
47 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/04(木) 22:01:47.50 ID:fc3nsURz
 
**** NEUROSIS AND HUMAN GROWTH ***

カレン・ホーナイ(Karen Horney)著
NEUROSIS AND HUMAN GROWTH: The Struggle Towards Self-Realization 1950年出版

Neurosis and Human Growth [Paperback]
http://www.amazon.com/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-Realization/dp/0393307751/
http://www.amazon.co.jp/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-Realization/dp/0393307751/
http://www.amazon.co.jp/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-realization/dp/0393001350/

Neurosis And Human Growth [Hardcover]
http://www.amazon.com/Neurosis-And-Human-Growth-Self-Realization/dp/B0006ASE2A/
http://www.amazon.co.jp/Neurosis-Human-Growth-SELF-REALIZATION-International/dp/041521095X/

邦訳:神経症と人間の成長 (ホーナイ全集)、 誠信書房 (1998/06) 、榎本 譲 (翻訳), 丹治 竜郎 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/dp/4414420067/

*** KAREN HORNEY **********
48 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/04(木) 22:23:59.94 ID:fc3nsURz
 
/// 栄光の追求 31 ///////////

 栄光の追求を構成する要素のなかで、外から見て最も分りやすく、外向的なものは、神経症的野心
と呼ばれる、外的な成功を求める欲動である。現実の世界のなかで人に優越したいと思うこの欲動は、
生活全般に広がり、どんなことにも優越しようとするが、ふつうは、その時々に、その人が最も
優越しやすそうな事柄に強く向けられる。だから、一生のうちで野心の内容が何度も変わるのは
当然のことと言えよう。学校時代にクラスで最高点がとれないことを耐えがたい不名誉に思った人が、
長じると、やはり同じように、今度はいちばん好ましい女の子たちと最も数多くデートするように
駆り立てられる。また、もっと後になると、いちばんの金持ちや最も著名な政界人にならなければ
ならないという強迫観念をもつようになる。

///// アカデミア出版会 ///
49 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/05(金) 21:04:12.45 ID:qU3YzCo7
 
/// 栄光の追求 32 ///////////

このように、その時々に野心を変更することは、ある種の自己欺瞞を生みやすい。ある時期に、
最も偉大なスポーツ選手や戦争の英雄になろうと固く心に決めていた人が、他の時期には、
やはり前と同じ熱心さで、今度は最も偉大な聖者になろうと決心する。この時、彼は自分が
野心を「失って」しまったのだと思い込んだり、自分は「ほんとうは」スポーツや戦争で
優越したいと思っていなかったのだというように考えるであろう。このようにして、彼は
自分が今でも野心というボートに乗って航海しており、ただコースを変更したにすぎない
ということに気づかない。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
50 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/06(土) 06:38:30.86 ID:BHSQm7YY
 
/// 栄光の追求 33 ///////////

もちろん、その特定の時期に何が彼のコースを変更させたかについても、詳しく分析しなければ
ならないが、ここで特に野心の変更について強調するのは、野心がこのようにたびたび変わる
のを見れば、野心に取り憑かれている人と、その人がその時々に求めている野心の内容との
間にはほとんど関係がないことが分るからである。その人にとって重要なのは、優越すること
それ自体なのである。この二つのものの間に関係がないことを認めない限り、こうした
たび重なる野心の変更は理解できないものとなろう。

///////// 対馬忠監修 ///
51 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/07(日) 06:08:40.26 ID:M+2esh4m
 
/// 栄光の追求 34 /////////////

 この論述の目的からすれば、実際の野心がどんな活動領域に向かうかということはほとんど
興味がない。例えば、その向かう対象が地域の指導者になることであれ、最も素晴らしい弁論家に
なることであれ、音楽家や探検家として偉大な名声を博することであれ、「社交界」の花形に
なることであれ、最も優れた本を書くことであれ、ベスト・ドレッサーになることであれ、その
特質はすべて同じことである。ただ、どのような性質の成功を求めるかに応じて、その形は多くの
面で異なってくる。大別すると、どちらかと言えば、権力のカテゴリー(直接の権力、王座の陰の
権力、影響力、操縦力)に入るものと、威信のカテゴリー(名声、喝采、人気、賞賛、特別の注目)
に入るものとに分けられる。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
52 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/08(月) 20:32:39.12 ID:NsDLCUFT
 
/// 栄光の追求 35 ///////////

 このような野心的欲動は、他と比較して言えば、自己拡張的欲動のうちで最も現実的なものである。
少なくとも、野心に取り憑かれている人々が、人より優越するために実際に努力するという意味では、
このことは正しい。また、この欲動をもつ人々が運良くその熱望する魅力や名声や影響力を実際に
獲得することもできるのであるから、それはなおいっそう現実的なものに思える。しかし、実際に
今までより多くの富や名声や権力を手に入れた時、この人々は自分の追求の空しさに完全に打ちのめ
される。彼らの心は以前と比べて安らぎも安定感も生きる喜びも少しも増していない。彼らは心の
悩みを癒すために栄光の幻を求めて出かけたのに、その悩みは以前と少しも変わらず、なおも深い
ものである。これがある特定の人にたまたま起こる偶然的な事柄ではなくて、必ず起こる避けがたい
ことであるから、成功の追求全体は本質的には非現実的なものであると言ってよかろう。

///// 神経症と人間的成長 ///
53 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/09(火) 22:27:48.70 ID:s/3NOkzR
 
/// 栄光の追求 36 ///////////

 われわれは競争的な文化のなかに住んでいるので、このようなことを取り立てて言うことは、
奇妙に、また、何か浮世離れしているように聞こえるかもしれない。人は誰でも隣人より
抜きん出、優れたいと望むものであるという考えは、われわれ皆の心の奥深くにまで染み込んで
いるので、それは「当たり前」のことのように思われている。しかし、成功を求める強迫的欲動は、
競争的な文化のなかだけで起こるものであるからと言って、この欲動のもつ神経症的性格は
少しも変わるものではない。競争的な文化においても、競争して他人に抜きん出ることよりも、
それ以外の価値、とりわけ、人間として成長することの方が重要であると考えている人々も
多いのである。

///// 自己実現の闘い ///
54 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/10(水) 20:50:36.77 ID:X71JE61F
 
/// 栄光の追求 37 ///////////

 栄光の追求のなかで最後に挙げる要素は、報復的勝利に向かう欲動で、他の要素よりも
いっそう破壊的な性質をもつ。この欲動はおそらく現実的な業績や成功を求める欲動と密接に
結びついているが、その主な目的は、自分が成功することによって、他人に恥をかかせたり、
他人を打ち負かしたりすること、あるいは、出世をすることによって権力を得て、他人に
苦しみを、しかも、たいていは屈辱的な苦しみを与えることである。他方、他人に優越したい
という欲動の方は空想のなかに追いやられ、この時報復的勝利を求める欲求が、主として
個人的な関係で他人の欲求を阻止し、人を出し抜き、打ち負かしたいという、しばしば抗しがたい、
ほとんど無意識的な衝動となって現われてくる。

///// 原著 1950年発行 ///
55 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/11(木) 22:32:45.33 ID:piQOb00M
 
/// 栄光の追求 38 ///////////

私がこの欲動を「報復的」と呼ぶのは、この欲動を動機づけている力が、幼年期に受けた屈辱に
対して復讐したいという衝動から発しているからであり、この衝動はそれ以後の神経症的発達の
なかで強化されていくのである。おそらく、以後のこの強化によって、報復的勝利を求める欲求が、
やがてどのような仕方で栄光の追求の恒常的な構成要素となっていくかが決まるだろう。報復的
勝利を求める欲求の強さや、本人かそれをどの程度自覚しているかは、人によって非常に異なって
いる。たいていの人はこうした欲求を全然自覚していないか、ほんの瞬間的に気づくだけである。
しかし、時にはその欲求がはっきり現われ、ほとんど紛れもない人生の主要動機となる場合もある。

///// Neurosis and Human Growth ///
56 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/12(金) 22:18:58.07 ID:P04DkqGd
 
/// 栄光の追求 39 ////////

最近の歴史上の人物のなかでも、ヒトラーは屈辱的な体験をして育ったため、ますます多くの
大衆を支配したいという狂気じみた欲望に全生涯を捧げた人の好い例であろう。彼の場合、
そこに悪循環が働き、この欲求をますますつのらせていったことがはっきりと分るのである。
悪循環を引き起こした理由の一つは、彼が勝利と敗北というカテゴリーでしか物事を考える
ことができなかったということである。そのため、彼は敗北するのではないかという恐怖から
逃れるために、常に、よりいっそうの勝利を求めなければならなかった。さらに、勝利を収める
たびごとに、彼の尊大の感情はますますつのり、どんな人、どんな国家といえども、自分の
偉大さを認めないようなことがあれば、それに我慢ができなくなっていったのである。

///// Karen Horney ///
57 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/13(土) 07:37:56.35 ID:sHBSrNae
 
/// 栄光の追求 40 ///////////

 規模は小さいが、これと同じようなことが多くの事例に見られる。最近の文学からのほんの
一例として、『汽車が通るのを見ていた男』という本の登場人物を挙げよう。彼は家庭生活でも、
事務所でも、従順で、もっぱら自分の義務を果たすことしか考えないような良心的な事務員
であった。ところが、自分の上役の不正行為がばれて、そのため会社が倒産した特、彼の
価値尺度は崩れてしまった。何をしても許されている上役と、正しい行為という狭い道しか
許されない自分のような下役との間にあった人為的な区別は崩れる。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
58 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/13(土) 18:40:24.98 ID:sHBSrNae
 
/// 栄光の追求 41 ///////////

彼は自分もまた「偉大」であり、「自由」であることができるのだ、自分も愛人を、上役の
あの非常に魅力的な愛人さえも、自分の女としてもつことができるのだと気づく。いまや
彼の自尊心は非常に高くなり、実際に彼女に近づき、拒絶されると、彼女を締め殺してしまう。
警察に追われた時、怖がる気持も時にはあったが、彼の心を占めるいちばんの動機は、
警察を打ち負かして、自分が勝ち誇ることであった。彼が自殺を試みたのも、それが最も
重要な動機となっていたのである。

///// アカデミア出版会 ///
59 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/14(日) 07:29:39.65 ID:pTFexZW3
 
/// 神経症的要求 42 ///////////

 私がここで問題にしたいのは、報復性は神経症的要求に必ずともなう要因ではないにしても、
よく起こる要因なのかどうかということである。もちろん、この報復性を自覚する程度は人に
より違うだろう。シャイロックの場合には意識されており、私に対して怒った患者の場合は、
ちょうど自覚されかかったところであったが、たいていは意識されていないことが多い。
私の経験では、神経症的要求には報復性が必ずともなうとは思わないが、それに出くわすことが
非常に多いので、私はいつもそれに気をつけることにしている。報復的勝利を求める欲求について
述べた箇所で既に触れたように、ほとんどの神経症に見られる報復性は、大部分が隠されては
いるがその量はかなり多い。例えば、要求が過去の欲求不満や苦しみと関連してなされる場合や、
好戦的な仕方でなされる場合や、要求が通れば勝利、阻止されれば敗北、という受け取り方を
している場合に、そこには確かに報復的要素が働いている。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
60 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/14(日) 19:44:10.57 ID:pTFexZW3
 
/// 栄光の追求 42 ///////////

 報復的勝利を求める欲動は表面に出ず、隠されている場合の方がはるかに多い。確かに
それは破壊的なので、栄光の追求のなかでは最も心の奥深くに隠された要素であり、おそらく
外面的には、かなり狂気じみた野心だけが見えるだろう。精神分析をして初めて、その野心の
背後に、他人の上位に立つことによって、彼らを打ち負かし、屈辱を与えたいという欲求が
その原動力として存在していることが分る。言ってみれば、人に優越したいという有害度の
少ない欲求が、報復という破壊性のより強い衝動を吸収するのである。このために、人は
自分の欲求を行動に表し、しかも、それを当然のことのように思うことができるのである。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
61 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/15(月) 18:58:40.50 ID:DA6sUYK/
 
/// 栄光の追求 43 ///////////

 われわれは常に栄光の追求の具体的な構造を分析しなければならないのであるから、
そこに含まれている個々の傾向の特徴を知ることは、もちろん大切なことである。しかし、
このような個々の傾向を一つの統一性をもった全体の部分として見るのでなければ、
その性質も、他人への影響も十分に理解することはできない。アルフレッド・アドラーは、
栄光の追求を一つの包括的な現象とみなして、これが神経症において決定的な重要性を
もつことを指摘した最初の人である。

///////// 対馬忠監修 ///
62 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/16(火) 22:15:55.51 ID:vyoH2mRQ
 
/// 栄光の追求 44 ///////////

 栄光の追求が一つの包括的な、統一性のある存在であるという確かな証拠はいろいろある。
第一に、先に述べた個々の傾向の全部が、決まって一人の人に同時に現われることである。
もちろん、そのうちのどれか一つが特に目立っている場合、その人を野心的な人だとか、
夢想家だとか、大雑把に呼んでいる。しかし、ある要素が目立っているということは、
他の要素が存在していないということにはならない。野心的な人でも、自分自身について
壮大なイメージを描いて空想するだろうし、夢想家でも、現実的に覇権を握ることを望むだろう。
しかし、夢想家の場合には、こうした欲求は、ただ他人の成功によって、自分の誇りが
傷つくという形でしか現われなであろう。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
63 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/16(火) 22:50:43.02 ID:vyoH2mRQ
 
/// 栄光の追求 45 ///////////

 第二に、栄光の追求に含まれているそれぞれの傾向は相互に非常に密接に関連しているので、
その支配的傾向が一人の生涯の間に変わることがある。例えば、魅惑的な女性について
白昼夢にふける傾向から、完全な父親や雇い主になることへ、さらに、無類の素晴らしい
恋人になることへと、支配的傾向は変わるだろう。
 最後に、これらすべての傾向には共通して、二つの一般的特徴があり、二つ共、この現象
全体の起源と機能から見て理解できるものである。それは強迫的性格と空想的性格である。
これらについては既に言及したが、その意味について、さらに完全で簡潔な姿でとらえる
ことが望ましい。

///// 神経症と人間的成長 ///
64 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/17(水) 20:42:36.44 ID:AQSslw50
 
/// 栄光の追求 46 ///////////

 これらの傾向の強迫的性格は、自己理想化(および、その結果発達する栄光の追求全体)が
一つの神経症的解決法であることから生じている。ある欲動が強迫的であるという時、それは
自発的な願望や努力と対立したものという意味である。自発的な願望や努力は真の自己の現われ
であり、強迫的欲動は神経症的構造の内的要請によって生じたものである。人は、不安を感じたり、
葛藤で心を引き裂かにれたり、罪の意識に打ちのめされたり、他人から拒絶されたと感じたり
しないために、自分の真の願望や感情や興味を無視して、この内的要請に従わなければならない。

///// 自己実現の闘い ///
65 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/17(水) 21:00:59.84 ID:AQSslw50
 
/// 栄光の追求 47 /////

言い換えれば、自発的と強迫的との違いは、「私は……したい」と「私はある危険を避ける
ために……しなければならない」との違いである。彼は意識では、自分はただそうしたいから、
野心や完全さを求めるのだと思っているかもしれないが、実は、それを求めなければならない
ように、駆り立てられているのである。彼は栄光を求める欲求の虜となっている。彼自身が
自ら欲することと、駆り立てられることとの違いに気づかないのであれば、われわれがこの
二つのものを区別する規準を立てなければならない。強迫性の最も決定的な規準は、彼が
自分自身も自分の最上の利益も完全に無視して、栄光への道に駆り立てられるということ
である。(ここで私は十歳の野心的な少女が、クラスで一番になれないなら、盲目になった
方がましだと思った例を想い出す。)

///// 原著 1950年発行 ///
66 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/18(木) 22:26:06.17 ID:8qmlPXIv
 
/// 栄光の追求 48 ///////////

栄光という祭壇に捧げられる人間の命は、文字通りにも比喩的にも、他のどんなことに捧げられる
よりも多いのではないかと思われるのももっともである。ジョン・ガブリエル・ボルクマンは、
自分が崇高と思う使命を実現することがはたして妥当であり、可能であるかに疑いをもち始めた
時に、死んでしまったが、ここには真に悲劇的な要素が入っている。もし、たいていの健康な
人々が、人類にとって価値があるので真に建設的だと認めることのできるような一つの主義主張の
ために身を捧げるならば、それは確かに悲劇的ではあるが、同時に意義のあることである。しかし、
もしわれわれが栄光の幻想に取り憑かれて、自分にも分らぬ理由のために自分の生を無駄にするなら、
それは救いがたいほどの悲劇的な浪費であり、その生が価値あるものを秘めていればいるほど、
なおいっそう悲劇的に思われる。

///// Neurosis and Human Growth ///
67 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/18(木) 22:51:13.83 ID:8qmlPXIv
 
/// 栄光の追求 49 ///////////

 栄光を求める欲動の強迫的性格のもう一つの規準は、他の強迫的欲動の場合と同じく、それが
見境がないという点である。ある仕事に対して自分が真に興味をもっているかどうかは重要では
なくなり、その状況にふさわしいかどうか、また、自分に具わっている性質から見て第一人者に
なることができるかどうかを考えずに、ともかく自分は注目の中心になり、最も魅力的で、最も
知的で、最も独創的でなければならないのである。彼は真埋がどこにあるかを無視して、どんな
議論においても、何としても勝利を収めなければならない。この種の考え方は、ソクラテスの
「われわれは今、私の意見か君の意見かそのどちらかが勝つために議論しているのではない。
われわれの二人共が、真理のために争っているのでなければならないと思う」という考え方と
正反対のものである。神経症者は、何の見境もなく、ただ最上のものでありたいという欲求の
この強迫的性格のために、それが自分自身、他人、事実、のいずれに関するものであっても、
およそ真理に対して無関心になるのである。

///// Karen Horney ///
68 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/19(金) 20:54:13.44 ID:bh/Uor8/
 
/// 栄光の追求 50 ///////////

 さらに、栄光の追求は、他の強迫的欲動と同じく、飽くことを知らないという性質をもつ。
自分にも分らない力によって駆り立てられている限り、この性質がどうしても働く。彼は
自分の仕事が好評を得たり、勝利を収めたり、人から何らかの承認や賞賛を受けたりすると、
得意になって喜ぶが、その喜びは長続きしない。成功しても、それを成功と思わなかったり、
たとえ成功と思っても、すぐその後に失望や恐怖が必ず起こってきたりする。いずれにしても、
彼はさらに多くの威信や富や女性や勝利や征服を追い求めて、飽くことを知らない。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
69 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/19(金) 21:30:12.86 ID:bh/Uor8/
 
/// 栄光の追求 51 ///////////

 最後に、ある欲動の強迫的性格は、その欲動が阻止された特に起こる反応に現われる。その
欲動が主観的に重要であればあるほど、目指すものを手に入れたいという欲求はいっそう強制力を
もち、そのため、欲求が阻止された時の反応はいっそう激しいものとなる。だから、この反応は、
逆に、欲動の強さを測る一つの物差しになる。栄光の追求はいつも外からはっきり見えるわけでは
ないが、きわめて強い欲動である。それは、悪魔的な強迫観念に似て、人間によって創造されながら、
人間を飲み込む怪物のようなものである。そのため、この欲求が阻止された時の反応はきわめて
激しいものとならざるをえない。

///// アカデミア出版会 ///
70 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/20(土) 07:15:09.04 ID:vHB8dicr
 
/// 栄光の追求 52 ///////////

この反応は、多くの人々が失敗したと思う時に感じる破滅や不名誉に対する恐怖の形をとって
現われる。すなわち、「失敗」したと思う時には恐慌状態、抑うつ状態、失望、自分や他人に
対する怒りなどの反応がしばしば生じる。そして、これらの反応は、原因となった出来事の実際の
重要さからみて、まったく釣り合いのとれないほど激しいものとなる。高所から落ちるという
恐怖は、彼が幻想する尊大の高みから落ちはしまいかという恐怖の現われとしてよく起こる。
ある高所恐怖症患者の見た夢について考えてみよう。この恐怖が起こったのは、彼がそれまで
一度も疑ったことのなかった自己の優越性に対する確信が揺らぎ始めた時であった。彼は夢の
なかで、山頂におり、危うく落ちそうになって尾根に必死にしがみついていた。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
71 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/20(土) 18:59:06.54 ID:vHB8dicr
 
/// 栄光の追求 53 ///////////

そして、「これ以上高く上ることはできない。私がしなければならないことは、一生の間、
ただここにしがみついていることだ」と言った。これは、意識的には、自分の社会的地位の
ことを言っているのであるが、もっと深い意味では、「私はもうこれ以上高く上ることはで
きない」というのは、自分について描いている彼の幻想のことを言っているのである。
幻想のなかの彼は、神のような全能と全宇宙的な重要性をもっている(と思っている)ので、
もうそれ以上の高みに上ることはできなかったのだろう。

///////// 対馬忠監修 ///
72 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/20(土) 23:10:36.93 ID:vHB8dicr
 
/// 栄光の追求 54 ///////////

 栄光の追求の要素のすべてに具わる第二の特徴は、空想が果たしている非常に大きな、特別な
役割である。空想は自己理想化過程では道具的なものである。しかし、これは非常に決定的な
要因なので、栄光の追求全体が幻想的な要素によって浸透されざるをえない。人は自分が現実的
であることをどんなに誇り、また、成功や勝利や完全性に向かってどんなに現実的に進んでいても、
空想は常に彼につきまとい、幻想を現実と取り違えさせる。人は自分自身については非現実的
でありながら、自分以外のことで完全に現実的であるということは絶対にありえない。疲れと
渇きの苦しみにさいなまれながら砂漠をさすらう人が蜃気楼を見る時、彼はそれにたどり着く
ために現実的な努力をするだろう。しかし、彼の苦しみを終わらせてくれるはずのその蜃気楼
――栄光――は、それ自体が空想の産物なのである。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
73 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/21(日) 07:27:58.50 ID:VjgJtwcp
 
/// 栄光の追求 55 ///////////

 実は、空想は健康な人のあらゆる心理的、精神的機能のなかにも行き渡っている。われわれが
友達の悲しみや喜びに共感をもつことができるのも、空想によってであり、われわれが欲し、
望み、恐れ、信じ、計画することができるのも、空想がわれわれに様々な可能性を示してくれる
からである。しかし、空想は生産的にも、非生産的にもなることができる。つまり、それは、
夢のなかでよく起こるように、われわれを自分の真の姿に近づけることも、それから引き離す
こともできるし、また、われわれの現実の経験を豊かにも、貧しくもすることができる。そして、
こうした相反する二つの結果の違いが、神経症的な人の空想と健康な人の空想とを大まかに
区別するものである。

///// 神経症と人間的成長 ///
74 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/21(日) 10:49:51.13 ID:VjgJtwcp
 
/// 栄光の追求 56 ///////////

 多くの神経症者が繰り広げる壮大な計画や、彼らの自己賛美や要求のもつ幻想的な性質を
考えると、この人々には他の人より空想という素晴らしい才能が豊かに具わっており、まさに
そのために、この人々のなかで空想があちこちにさ迷いやすいのだと信じたくなるかもしれない。
しかし、この考えは私の経験では証明されない。生まれつきの空想の豊かさについては、健康な
人の間でも差があるように、神経症者の間でも差がある。しかし、神経症者それ自体がそうでない
人々と比べて、生まれつき空想力がより豊かであるという証拠は何も見出されない。

///// 自己実現の闘い ///
75 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/22(月) 22:10:35.27 ID:h5ZjRvXD
 
/// 栄光の追求 57 ///////////

 神経症者が生来、空想力が豊かであるとするこの考え方は、正確な観察に基づいているが、
そこから誤った結論を引き出したものと言えよう。空想は神経症では、健康な人の場合よりも
ずっと重要な役割を果たしていることは事実である。しかし、それは構成要素としてではなく、
その働きの点で重要なのである。空想は神経症者においても、健康な人においても等しく働いて
いるが、神経症者の場合、空想は、そのうえに、ふつうしないような働きまで引き受けている。
つまり、神経症的欲求に奉仕しているのである。このことは、われわれも知っているように、
栄光の追求という強い欲求の影響力によって突き動かされている場合には、特にはっきりと
見られる。

///// 原著 1950年発行 ///
76 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/22(月) 22:39:24.75 ID:h5ZjRvXD
 
/// 栄光の追求 58 ///////////

精神医学の文献では、空想による現実歪曲は、「希望的思考」として知られている。この用語は
今では十分確立されてはいるが、それにもかかわらず、正確でないように思われる。この語の
含意するところがあまりに狭すぎるからである。正確な用語は、思考だけでなく、「希望的な」
観察も、信念も、そして特に感情も含むものでなければならないだろう。さらに、ここで思考
――あるいは感情――を規定するものは、希望ではなく、欲求である。そして、まさにこの
欲求の影響によって、空想は神経症において示すようなあの固執性と力を与えられ、また、
いろいろな結果を生み出し、そして非建設的なものになるのである。

///// Neurosis and Human Growth ///
77 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/23(火) 19:49:26.25 ID:jtlkwICF
 
/// 栄光の追求 59 ////////

 空想が栄光の追求のなかで果たす役割は、白昼夢において、紛れもなく、しかも直接的な
形で示される。十代の人の白昼夢はあからさまに壮大な性格をもっている。例えば、臆病で
引っ込み思案な性格の大学生でも、最も偉大なスポーツマンや天才やドン・ファンになることを
夢見る。もっと年長者の場合には、ボヴァリー夫人のように、ほとんどいつもロマンチックな
経験や神秘的な完全さや不可思議な神聖さについて白昼夢にふける。これらの夢は時には
空想的な会話の形をとり、そこで他の人々を感動させたり、恥をかかせたりする。もっと複雑な
構造をもった白昼夢になると、残虐と堕落に身をさらすことで、屈辱的な、あるいは、崇高な
苦悩を味わうといったものがある。白昼夢は精巧な筋道をもった物語ではなく、むしろ、
日常生活に合わせて奏でる幻想的な伴奏のような場合が多い。

///// Karen Horney ///
78 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/23(火) 20:27:05.57 ID:jtlkwICF
 
/// 栄光の追求 60 ///////////

女性の場合は、自分の子どもたちの世話をしたり、ピアノを弾いたり、髪をくしけずったり
しながら、同時に、自分が映画のなかのやさしい母親やうっとりしながら演奏するピアニストや
魅惑的な美人になったような気分になるだろう。いくつかの事例では、このような白昼夢は、
例えばウォルター・ミッティのように、一人の人が絶えず二つの世界に住むことができることを
はっきりと示している。また、同じく栄光の追求にふける他の人々の例では、白昼夢は非常に
稀で、途中で消えてしまうために、自分たちはどんな幻想的な生活ももっていないと、主観的には
まったく正直にそう言うことがある。言うまでもなく、それは間違っている。たとえ人々が
自分に降りかかるかもしれない不幸を心配しているだけにしても、そうした心配事を心に思い
浮かべることができるのは、結局、空想力によるわけである。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
79 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/24(水) 20:25:32.99 ID:MGM7x9HG
 
/// 神経症的要求 61 ///////////

 要求を正当化し、主張するために、全エネルギーが注がれることを思えば、要求が阻止された
時の激しい反応は当然予期されなければならない。その反応の底流には恐怖があるのだが、
一般に支配している反応は怒りであり、激怒の場合さえある。この怒りは特別な性質のもの
である。というのも、要求は主観的には公正なものと思われているので、それを阻止することは
不当であり、不正であるというように受け取られているからである。そのために、そこから
生じる怒りは義憤という性格をもっている。言い換えると、人は怒りを感じるだけでなく、
怒る権利があると思っている。そして、この感情は精神分析の時に非常に強く擁護される。

///// アカデミア出版会 ///
80 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/24(水) 20:26:52.92 ID:MGM7x9HG
 
/// 栄光の追求 61 ///////////

 しかし、白昼夢は、それが起こる時は重要で啓示的であるが、空想の働きのうちで最も有害な
ものというわけではない。なぜなら、人はたいてい自分が今白昼夢を見ていることを知っている
からである。つまり、今自分が空想していることは、その通りに実際に起こったことがなく、
またこれからも起こらないであろうということを知っているのである。少なくとも、自分が今
白昼夢を見ているということや、白昼夢の非現実的な性質に気づくことは、本人にはそれほど
むずかしいことではない。空想がもっと有害に作用するのは、本人が意識せずに現実を巧妙に広く
歪曲している場合である。理想化された自己はただ一度の創造の行為で完成されるものではない。

///// アカデミア出版会 ///
81 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/24(水) 21:02:04.53 ID:MGM7x9HG
 
/// 栄光の追求 62 ///////////

それは一度つくられると、絶えず注意を払わなければならないものである。人は理想化された
自己を現実化するためには、現実の歪曲を絶えず続けなければならない。自分の欲求は、美徳
または、その欲求から当然期待されるものより以上のものに変えられなければならない。
正直であろう、思慮深くなろうという意図は、正直であり、思慮深いという事実に置き換えられ
なければならない。論文のために気のきいた考えを思いつくだけで、彼は大学者ということになり、
彼が潜在能力をもっていることは、実際に業績を上げたことを意味する。「正しい」道徳的価値
について知識をもっていることで、彼は有徳の士に――しばしば一種の道徳的な天才になる。
そして、もちろんそれを妨害するあらゆる反証を退けるために、彼の空想は絶えず働かねば
ならない。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
82 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/25(木) 22:31:39.00 ID:Ytucd9zj
 
/// 栄光の追求 63 /////////

 空想はまた、神経症者の信念を変える働きをもっている。例えば、彼が他の人々を素晴らしい
人とか、悪い人とか信じる必要が生じる。すると、その人々はちゃんと慈悲深い人々、あるいは
危険な人々として彼の目に映ってくる。空想はまた彼の感情を変える。例えば、彼は自分が
不死身であると感じる必要がある。すると現に彼の空想は痛みや苦しみをぬぐい去るだけの
力をもってくる。また、深い感情――信頼、同情、愛、苦しみ――をもつ必要が生じると、
彼の同情や苦しみやその他の感情は大きく膨れ上がってくる。
 空想が栄光の追求のために用いられる際に行なう、心の内外の世界の現実歪曲を見る時、
われわれには気がかりな疑問が生じる。神経症の空想はいったいどこまで飛翔していくので
あろうか? 

//////// 対馬忠監修 ///
83 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/25(木) 23:10:36.00 ID:Ytucd9zj
 
/// 栄光の追求 64 ///////////

結局、彼は現実感覚を完全に失ってしまうことはない。それでは、神経症者を精神病者から
区別する境界線はとこに引かれるのか? 空想力の働きという点て両者の間に何らかの境界線が
あるにしても、それははっきりしたものではない。ただ言えることは、精神病者がもっぱら
心のなかの過程だけを唯一の大切な現実とみなす傾向が強いのに対して、神経症者はどんな
理由のためにせよ、外界や外界のなかでの自分の占める位置にかなりの関心をもっていて、
そのために、外界に対してだいたいの適応ができるということである。しかし、一方では、
ちゃんと地上にとどまり、あまり混乱のないような生活をしていても、他方では、彼の空想は
どこまでも飛翔し、とどまるところを知らない。事実、空想が幻想となり、無限の可能性の
世界へと入っていくのが、栄光の追求の最も顕著な特徴である。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
84名無しさんの主張:2013/07/25(木) 23:21:06.53 ID:jEME3jS1
ぶっちゃけ風立ちぬはハウル。
実在の航空機設計者堀越やゼロ戦とか一個も関係ないファンタジー。すがすがしいくらい現実の歴史と関係ない。
宮崎駿の場合、ファンタジーだとあらかじめやると力入りすぎて話がつながらなくなる。

空を飛びたい。帽子や傘を拾いたい。夢を持った若い男女の物語。
そういう夢を実現させるために、飛行機を作らずにはいられない愛の物語。
そして天然丸かじりでこれ以外の要素は何も入ってない。
庵野はそういう浮き世離れした天才をこれ以外ないという形で演じた。普通の声優や俳優がやったら無理ありすぎて。
嘘みたいだがほんとに成功している。

戦争したくない戦争の天才という、自己矛盾で話が支離滅裂ぐだぐだのハウルと違い、嫁さん不治の病の中で、飛行機を作らずにはいられない天才というファンタジー。
牛で飛行機を引き遅れたもの美しいもの取り残しながら、火がつき、爆弾が飛び散りながら、戦争に突入しながら、
それでも空を飛びたい飛ばずにはいられない、夢をかなえずにはいられない。
帽子を傘を空をつかまずにはいられない。それが愛というファンタジー。
遅れた日本が無理をして、それで失敗し傷つきながらそれでも夢を追わずにはいられなかったという形を若い男女を通して描いたファンタジー。

繋がらなかったハウルと違いちゃんと話はつながっている傑作。
自分の頭の中を描いたんだから作者として泣くのも当然。


後は死ぬまでにポニョのリメイクを一つ。人間にもわかるようなリメイクを。冥界に行っちまったポニョではなく、人間にもわかるリメイクを。
作者の死生観を絵にするにももっとわかりやすく。ポニョはごちゃつきすぎ。
85 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/26(金) 20:11:26.64 ID:A+6ppOg2
 
/// 栄光の追求 65 ///////////

 栄光を求める欲動のすべてに共通していることは、人間に与えられている以上の知識、知恵、
徳、力を得ようとするところにある。これらの欲動はすべて絶対的なもの、無限のもの、無窮の
ものを得ることを目指している。絶対的な豪胆さ、支配力、高潔さを少しでも欠いているものは、
栄光を求める欲動に取り憑かれている神経症者には何の魅力もない。それゆえ、神経症者は
真に宗教的な人とは正反対の人である。つまり、宗教的な人は、あらゆることが可能なのは
神だけであると考えるのに対して、神経症者は、私には不可能なことはないと考える。彼の
意志力は魔術的な強さをもち、推理は絶対に誤謬がなく、洞察力は完全無欠で、知識はすべてを
包摂するものでなければならない。ここで、悪魔の契約という、本書に一貫したテーマが現われ
始める。神経症者は多くを知るだけでは満足せず、すべてを知り尽くさなければならない
ファウストなのである。

///// 神経症と人間的成長 ///
86 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/26(金) 20:37:19.12 ID:A+6ppOg2
 
/// 栄光の追求 66 ///////////

 このように、神経症者が無限のなかに飛翔していくのは、栄光を求める欲動の背後にある
欲求の力によるものである。絶対的なもの、終局的なものを得ようとする欲求は非常に強く、
そのために、ふつうわれわれの空想を現実から遊離しないようにつなぎ止めている歯止めを
無視してしまう。人がうまく適応していくためには、可能性を予見し、無限性を見通すことと、
自分の限界や不可避なものや具体的なものについてよく認識することと、その両方が必要である。
もし人の思考や感情が主として無限性や可能性を空想する方にだけ向けられるなら、彼は
具体的なものや、今、ここ、といった時空に関する感覚を失ってしまう。つまり、彼は現在に
生きる能力を失うのである。彼はもはや自分のなかの必然性、すなわち、「人間の限界と
呼ばれるもの」に従うことができなくなる。何かを成し遂げるためには、現実に何が必要なのかが
彼には見えなくなる。

///// 自己実現の闘い ///
87 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/27(土) 06:28:10.88 ID:Ozd2XtU3
 
/// 栄光の追求 67 ///////////

「どのような些細な可能性でも、現実のものになるためには、いくらかの時間がかかるであろうに。」
彼の思考はあまりにも抽象的にすぎ、彼の知識は「一種の超人間的なものとなって、それをつくり
出すためには、ピラミッドの建設に人力が費やされたと同じくらいに彼の自己が浪費されることに
なろう」し、彼の対人感情は蒸発して、「人間性に対する抽象的な感傷」になってしまうであろう。
他方、もし具体的なもの、必然的なもの、限りあるものという狭い地平にとどまり、それを超えた
彼方を見ない場合には、人は「狭量で低俗な精神の持ち主」となる。それゆえ、もし人が成長を
望むなら、問題なのは、この二つの道のいずれを選ぶかではなく、この二つを両立させることである。
限界や掟や必然性を十分認識することは、無限性のなかに連れ去られたり、単に「可能性のなかで
もがいたり」しないようにするための一つの歯止めとして役立つのである。

///// 原著 1950年発行 ///
88 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/27(土) 07:03:18.81 ID:Ozd2XtU3
 
/// 栄光の追求 68 ///////////

 栄光を追求している人においては、空想に対する抑制が正しく働かない。それは、この人々が
必然性を認め、それに従うことが一般にできないという意味ではない。神経症的傾向がさらに
ある特殊な方向に発達すれば、多くの人は、自分の生活を制限する方が安全であると感じ、
幻想の世界に連れ去られそうになると、それを危険で、避けなければならないものと考えるだろう。
彼らは自分にとって幻想的に見えるものには心を閉ざし、抽象的な思考を嫌い、不安のあまり、
目に見えるもの、手で触れることができるもの、具体的なもの、すぐに役立つものだけにしがみつく。
しかし、これらの事柄に対する意識的な態度は様々であっても、どの神経症者も心の底では、
自分に期待できることや自分が獲得できると信じているものに限界があることを認めたがらない
のである。自分の理想像を現実化したいという欲求は非常に切実なものなので、それを抑制する
ものを不当なもの、存在しないものとして押しのけなければならなくなる。

///// Neurosis and Human Growth ///
89 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/27(土) 18:49:20.81 ID:Ozd2XtU3
 
/// 栄光の追求 69 ///////////

 非合理な空想がいっそう優勢になっていくにつれ、彼はますます、現実的なもの、限りあるもの、
具体的なもの、終わりのあるものを積極的に恐れるようになる。彼は時間を嫌うようになる。
時間は限りのあるものだから。金銭を嫌う。それは具体的なものだから。死を嫌う。それは
終局的なものだから。しかし、彼はまたはっきりした希望や意見をもつことを嫌い、そのため、
明確な約束や決定をすることを避ける。例えば、月光のなかで鬼火が踊っているという妄想を
抱いていた患者は、鏡を見ることを恐れるようになった。それは、鏡のなかに自分の欠点を
見出すかもしれないと恐れたからではなく、自分が一定の輪郭をもち、実体があり、「具体的な
肉体の形に縛られている」ことを鏡で知ったからである。彼女は、自分の姿が羽根を板に釘付けに
された一羽の鳥のように思えた。そして、こうした感情が意識に上った時、鏡を壊したい衝動に
駆られた。

///// Karen Horney ///
90 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/27(土) 19:27:53.56 ID:Ozd2XtU3
 
/// 栄光の追求 70 ///////////

 もちろん、神経症の発達はいつもこのような極端な形をとるわけではない。しかし、どの
神経症者も、たとえ表面的には健康な人として通っていても、自分自身について抱いている
独特の幻想に関しては、現実の証拠と照らし合わせることを嫌がる。というのも、もし証拠と
付き合わせれば、その幻想が壊れてしまうからである。外部の法律や規則に対する態度は
様々であるが、彼は自分自身の内部に働く法則を常に否定しようとし、心理的な事象の因果関係の
不可避性を、つまり、ある要因は必ず他の要因の結果として起こり、あるいは、他の要因を
強化するという事実を認めることを拒む。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
91 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/28(日) 06:24:28.66 ID:QuJbvS+h
 
/// 栄光の追求 71 ///////////

 自分の見たくない証拠は無視するというやり方は無数にある。彼は忘れてしまったり、
次のように自分に言い聞かせたりする。――それは大したことではない、それは偶然だったのだ、
それは環境のせいだ、他の人々が扇動したのだ、それは「当然のこと」で、そうせざるを
えなかったのだ、というようにである。彼は不正直な帳簿係のように、ついには二重帳簿を
もつようになる。しかし、不正直な帳簿係と違って、彼は都合の好い方だけを自分自身の
ものだと言い、都合の悪い方は知らないことにする。『ハーヴェイ』のなかで「二十年間、
私は現実と闘い、ついにそれに打ち勝った」と述べられているような、現実への明らかな
抵抗を感じなかった患者を私は知らない。再び、ある患者の古典的な表現を引用すれば、
「もし現実さえなければ、私はまったく何ともないのに」。

///// アカデミア出版会 ///
92 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/28(日) 06:51:24.13 ID:QuJbvS+h
 
/// 栄光の追求 72 ///////////

 ここで栄光の追求と健康な人の努力との違いをさらに明確にする仕事が残っている。両者は
表面上は見間違えるほどよく似ているので、その違いはただ程度の差だけのように見える。
神経症者は、健康な人と比べていっそう野心的で、権力や威信や成功に対する関心がいっそう
強いだけのように見える。また、ふつうの人と比べて彼の道徳水準が高く、厳格で、また、
自惚れや自分自身を偉いと思う程度がより強いだけのように見える。確かに、誰もこの両者の
間にはっきりと一線を引いて、「ここまでが健康な人で、ここからが神経症の人だ」と言う
ことはできないであろう。
 健康な人の努力と神経症的欲動との間に似たところがあるのは、それらが共に人間にだけ
具わる能力から生じているためである。人間は精神の力によって自分自身を超えたところに
到達する能力をもっている。他の動物と違って、人は空想し、計画することができる。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
93 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/28(日) 16:01:15.25 ID:QuJbvS+h
 
/// 栄光の追求 73 ///////////

また、多くの仕方で自分の能力をしだいに拡大することができ、また、歴史に見られるように、
事実、拡大してきた。同じことが個人の人生についても言えるのであって、彼が自分の人生を
どうつくり上げるか、どんな性質や能力を発達させるか、どんなものを創造することができるか
については、一定の動かせない限界というものはない。こうした事実を考えれば、人が自分の
限界について不確かであり、そのために、自分の目標をあまりに高く、あるいは、あまりに低く
置きやすいことは避けられないように思われる。このように、限界が不確かであることこそ、
栄光の追求が発達する基礎となるものであって、そのことがなければ、おそらく栄光の追求は
発達することができなかったであろう。

///////// 対馬忠監修 ///
94 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/28(日) 16:28:40.17 ID:QuJbvS+h
 
/// 栄光の追求 74 ///////////

 健康な人の努力と神経症的欲動との間の根本的な違いは、それぞれを推進する力の違いにある。
健康な人の努力は、自分に与えられた可能性を発達させるという、人間に生まれつき具わっている
傾向から生じる。成長したいという生来の衝動に信頼を置くことは、われわれの理論的、治療的
研究が常にとってきた基本的立場であった。そして、この信念は、それ以後次々に新しいことを
経験すると共に、ますます深まってきている。これからすることと言えば、もっと精密な公式化の
方向に変えるだけである。今ここで私が言いたいのは(本書の最初のところで述べたように)、
人を自己実現に向かって駆り立てるのは、真の自己のもつ活力であるということである。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
95 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/29(月) 20:56:03.68 ID:zF+gvFd8
 
/// 栄光の追求 75 ///////////

 他方、栄光の追求は理想化された自己を現実化しようとする欲求から生じる。これこそ、
健康な人の努力との間の根本的な違いである。というのも、この違いから、他のすべての
相違が生じているからである。自己理想化はそれ自体神経症的な一つの解決法であり、
だからこそ強迫的性格をもつので、自己理想化から起こるすべての欲動も当然強迫的なものと
なる。神経症者は、自分自身について描く幻想に執着しなければならない以上、限界を認める
ことができないから、栄光の追求は無限の世界へと進んでいく。彼の主な目的は栄光を得ること
であるから、彼は一歩一歩学習し、行動し、獲得していく過程には興味を失い、実際にその
過程を軽蔑するようになる。彼は山に登ることを欲しないで、頂上に立つことを望む。

///// 神経症と人間的成長 ///
96 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/29(月) 22:06:36.92 ID:zF+gvFd8
 
/// 栄光の追求 76 ///////////

このため、たとえ彼が発達や成長について語っても、それらがほんとうはどういうものか
分らなくなっている。結局、理想化された自己を創造することは、自分自身についての真実を
犠牲にして初めてできることであるから、理想化された自己を現実化するためには、真実を
いっそう歪曲しなければならず、空想はこの目的のために進んで奉仕することになる。そのような
わけで、彼はこの過程で多かれ少なかれ真理に対する興味を失い、何が真理であり、何が真理
でないかについての感覚を失ってしまう。この真理感覚がないために、彼はとりわけ真の感情や
信念や努力と、自分の作り出したそれらの等価物(無意識的な見せかけ)との間の区別が
自分についても、他人についてもできにくくなっている。彼は「事実そうである」ことより、
「そう見える」ことをいっそう重視するようになっていく。

///// 自己実現の闘い ///
97 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/29(月) 22:41:58.97 ID:zF+gvFd8
 
/// 栄光の追求 77 ///////////

 こうして、健康な人の努力と神経症的欲動の違いは、自発的か強迫的か、限界を認めるか
否定するか、輝かしい結果の幻想に目を向けるか漸進的な発達を体験していくか、そう見える
ことか事実そうであることか、幻想か真理かという違いである。以上に述べた違いは、比較的
健康な人と比較的神経症的な人との違いにはそのまま当てはまらない。比較的健康な人は、
ただひたすら真の自己の実現に励むわけではなく、また、比較的神経症的な人も、理想化された
自己を現実化する方向にだけ駆り立てられるわけではない。神経症者もまた自己実現への傾向を
もっている。もし患者が最初から自己実現への努力をしないならば、われわれは治療において
彼らの成長を助けるようなことは何もできないであろう。しかし、この点では健康な人と
神経症的な人との違いは単に程度の差にすぎないけれども、真の努力と強迫的欲動との間の
違いは、表面上の類似にもかかわらず、質的な相違であって、量的な相違ではない。

///// 原著 1950年発行 ///
98 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/30(火) 22:21:42.65 ID:21EF6LfH
 
/// 栄光の追求 78 ///////////

 私の考えでは、栄光の追求に始まる神経症的過程を最も適切に象徴しているものは、悪魔の
契約の物語を観念化した内容である。悪魔や何か他の悪の化身が、精神的、物質的に悩んでいる人に、
無限の力を与えてやるといって誘惑する。しかし、この無限の力を得るためには、彼は自らの
魂を売り、地獄に落ちるという条件を満たさなければならない。誘惑は心の豊かな人のところにも、
心の貧しい人のところにも、誰のところにでもやってくる。なぜなら、それは二つの非常に強い
欲望、すなわち、無窮なものへの憧れと安易な道を行きたいという願いとに呼びかけるからである。

///// Neurosis and Human Growth ///
99 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/30(火) 22:32:24.40 ID:21EF6LfH
 
/// 栄光の追求 79 ///////////

宗教の言い伝えによれば、人類の最も偉大な精神的指導者、仏陀とキリストはこのような
誘惑を経験したと言う。しかし、彼らは自分自身の基礎がしっかりしていたので、それを
誘感と気づいて拒絶することができた。さらに、その契約に明記されている条件では、
神経症の発達において支払われなければならない適切な代価が表示されている。こうした
象徴的な表現を用いれば、果てしない栄光を求める安易な道は、必然的に、自己軽蔑と
自己呵責という心の地獄に通じる道でもある。この道を選ぶことによって、人は自らの魂
――彼の真の自己――を実際に失っていくのである。

・・・・

///// Karen Horney ///
100 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/30(火) 23:43:09.03 ID:21EF6LfH
 
*** KAREN HORNEY **********

カレン・ホーナイ(Karen Horney)著
NEUROSIS AND HUMAN GROWTH: The Struggle Towards Self-Realization 1950年出版

Neurosis and Human Growth [Paperback]
http://www.amazon.com/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-Realization/dp/0393307751/
http://www.amazon.co.jp/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-Realization/dp/0393307751/
http://www.amazon.co.jp/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-realization/dp/0393001350/

Neurosis And Human Growth [Hardcover]
http://www.amazon.com/Neurosis-And-Human-Growth-Self-Realization/dp/B0006ASE2A/
http://www.amazon.co.jp/Neurosis-Human-Growth-SELF-REALIZATION-International/dp/041521095X/

邦訳:神経症と人間の成長 (ホーナイ全集)、 誠信書房 (1998/06) 、榎本 譲 (翻訳), 丹治 竜郎 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/dp/4414420067/

**** NEUROSIS AND HUMAN GROWTH ***
101 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/31(水) 20:52:30.64 ID:z0b54uIY
 
/// 神経症的要求 1 ///////////

カレン・ホーナイ(Karen Horney)著
原著:Neurosis And Human Growth: The Struggle Toward Self-Realization 1950年発行
邦訳:『自己実現の闘い――神経症と人間的成長――』対馬忠監修
藤沢みほ子、対馬ユキ子訳、アカデミア出版会1986年10月発行 より

・・・・
第2章 神経症的要求

 栄光を追い求める神経症者は、幻想の世界、無限の世界、限りない可能性の世界に迷い込んで
いく。外から見る限りでは、彼は家族や社会ので一員として「正常な」生活を営み、仕事に励み、
娯楽活動にも参加している。しかし、実際には、彼は自分でも気づかずに、あるいは、少なくとも
どの程度そうなっているかを知らずに、自分だけの秘密の生活と公の生活との二つの世界に
住んでいる。しかも、この二つの世界はうまく調和していない。前章で引用した患者の言葉を
繰り返せば、「生活は恐ろしい。それは現実性に満ち満ちている」のである。

///// アカデミア出版会 ///
102 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/31(水) 21:14:41.50 ID:z0b54uIY
 
/// 神経症的要求 2 ///////////

 神経症者が実際の証拠と照合することをどれほど嫌っても、現実は否応なく二つの仕方で
追ってくる。第一に、彼は優れた才能をもっているかもしれないが、本質的には、他のすべての
人々と同じように、人間としての一般的な限界をもち、個人的にもかなりの障害をもっている。
彼の実際の姿は、神のような自分のイメージとは一致していない。第二に、外の現実は自分を
神のような者として扱ってくれない。一時間は彼にとってもやはり六十分でしかなく、また、
他のすべての人と同じように、彼も列をつくって待たなければならない。タクシーの運転手や
上役も、自分に向かってふつうの人間に対するのと同じ態度をとる。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
103 ◆.IJQsoCg7. :2013/07/31(水) 21:55:14.61 ID:z0b54uIY
 
/// 神経症的要求 3 ///////////

 この人が味わった屈辱感は、ある患者の子どもの頃の記憶にある次のような些細な出来事に
よく象徴されている。彼女はその時三歳で、自分が妖精のお姫様になった白昼夢を見ていた時、
叔父が彼女を抱き上げて、「おやまあ、なんてきたない顔をしているのだろう」とふざけて言った。
彼女は外にこそ表わさなかったが、その時に感じた激しい怒りを決して忘れることはなかった。
このような仕方で、この種の人は絶えず食い違いに直面し、当惑し、苦しむ。彼はこの事態に
対してどうしたらよいのか? この食い違いをどのように説明し、それに対してどのように反応し、
それをどのようにして取り除こうとするのか? 

///////// 対馬忠監修 ///
104 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/01(木) 22:18:16.45 ID:7yqhLhS4
 
/// 神経症的要求 4 /////////

彼にとっては、自己を誇大視することはどうしても必要であり、それをやめるわけにはいかない
以上、自分の外の世界の方に何か間違ったところがあると結論せざるをえない。外界の方が
今と違ったふうでなければならない。そこで、彼は自分の幻想を抑制することをしないで、
外の世界に向かって要求を述べ始める。彼は自分について抱いている壮大な観念に似つかわしい
仕方で、他人からも運命からも取り扱われる資格がある、すべての人は自分の幻想を満足させて
くれるべきである、それができないものはすべて不当である、自分はもっと良い取り扱いを
受ける権利がある、と要求する。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
105 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/01(木) 22:39:15.62 ID:7yqhLhS4
 
/// 神経症的要求 5 ///////////

 神経症者は他の人から特別の注目や配慮や尊敬を受けるのが当たり前だと思っている。尊敬を
求める要求は、それとしては十分理解できるし、時には当然のことのように思える。しかし、
この要求は、さらに包括的な要求――すなわち、彼の禁止、恐怖、葛藤、解決法なとから生じる
すべての欲求は、かなえられ、十分尊重されるべきであるという要求――の単に重要な一部分に
すぎないのである。さらに、彼は自分が感じ、考え、行なうどんなことも、決して悪い結果に
なるべきではないと思っている。これは実際には、自分は心理的法則の適用を受けるべきではない
という要求である。したがって、彼は自分の障害を認める必要はない、あるいは、いずれにしても
自分を変える必要はない。そこで、彼にはもはや自分の問題をどうにかする責任はなく、他の
人々がそうした問題について、彼が困らないように取り計らうべきであるということになる。

///// 神経症と人間的成長 ///
106 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/01(木) 23:17:10.26 ID:7yqhLhS4
 
/// 神経症的要求 6 ///////////

 現代の精神分析学者のなかで、神経症者がもっているこうした要求に気付いた最初の人は、
ドイツの精神分析学者、ハラルト・シュルツ=ヘンケであった。彼はこれを巨大な要求
(Riessenansprueche)と呼び、それが神経症において重要な役割を果たしていることを指摘した。
私はその重要性については彼の意見に賛成であるが、概念については、私のものと彼のものとでは
多くの仕方で異なっている。「巨大な要求」という用語はあまり適切ではないと思う。この言葉は、
要求の内容が過度であるという印象を与えて誤解されやすい。多くの場合、確かに要求が過度
であるばかりか、明らかに幻想的でさえある。しかし、要求のなかには、まったく道理にかなって
いるように見える要求もある。それゆえ、要求の内容が過度である点だけを重視していると、
こうした一見道理にかなって見える要求を、自分のなかにも、他人のなかにも見分けることが
いっそうむずかしくなる。

///// 自己実現の闘い ///
107 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/02(金) 21:59:26.23 ID:5A0oRYs2
 
/// 神経症的要求 7 ///////////

 例えば、ある実業家が自分の都合の好い時刻に汽車が出ないことにいらいらしている。友人は
彼がまったくつまらぬことにこだわっているのを知って、君は無理なことを求めているのだと
指摘してやる。それに対して、実業家はまたひとしきり憤慨する。友人は彼が何について怒って
いるのか分らない。しかし、この実業家にしてみれば、自分は忙しいのだから、汽車が自分の
都合の好い時刻に発車するのを期待するのはごく当たり前のことなのである。
 確かに、彼の願いは道理にかなっている。誰でも自分の予定に好都合な時刻に汽車が出ることを
望むであろう。しかし、それを要求する権利はないのだ。ここで初めてわれわれはこの現象の
本質を理解する。すなわち、希望や欲求はそれ自体としては十分理解できるものであるが、それが
要求に変わっているのである。そのため、要求が充たされないと、不当に欲求が阻止され、
自分が侮辱されたと感じ、当然そのことを憤慨する権利があると思う。

///// 原著 1950年発行 ///
108 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/02(金) 22:26:11.29 ID:5A0oRYs2
 
/// 神経症的要求 8 ///////////

 欲求と要求との間にははっきりした違いがある。しかし、神経症者は、彼らの心のなかでは
既に欲求が要求に変わっているにもかかわらず、そのことに気づかないばかりか、実際にそれを
知ることを嫌う。口ではもっともな、ごく当たり前の希望として話しているが、彼が実際に
意味しているのは要求なのである。少し明晰に考えれば、それが決して自分のものではないと
分るのに、彼は当然それをもつ権利があると思う。例えば、並列駐車の交通違反で呼出状を
受け取り、ひどく腹を立てる患者たちが好い例である。ここでも、「うまくやり過ごし」たい
という彼らの願いはよく理解できるが、彼らが義務を免除してもらう権利はないのだ。彼らは
その法律を知らないわけではない。彼らの言い分はおそらく、他の人はうまくやっているのに、
自分だけが捕まるなんて不公平だ、というのであろう。

///// Neurosis and Human Growth ///
109 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/02(金) 23:09:47.54 ID:5A0oRYs2
 
/// 神経症的要求 9 ///////////

 このような理由から、非合理な、つまり、神経症的要求について簡単に述べるのが適当であろう。
それは本来神経症的欲求であったが、無意識のうちに要求に変わってしまったものである。だから、
要求は実際にはもっていない権利や資格を、もっていると仮定している点で非合理的である。
言い換えれば、それは神経症的欲求としてそのまま認められずに、要求につくり変えられることに
よって法外なものになる。実際の要求の個々の内容はそれぞれの神経症の構造に応じて、細部では
異なっている。しかし、一般的に言うと、患者は自分にとって大切なあらゆるものを得る権利が
あると思っている。つまり、自分のすべての神経症的欲求は充たされる権利があると思っている。

///// Karen Horney ///
110 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/03(土) 05:13:42.93 ID:9XxgQxk2
 
/// 神経症的要求 10 ///////////

 人が何かを要求するという場合、われわれはふつう、人に対して行なう要求のことを考える。
人間関係は確かに神経症的要求が生じる一つの重要な領域である。しかし、要求をこのように
限定してしまうと、要求の範囲をあまりに狭めすぎることになる。要求は人のつくった制度にも、
さらにそれを超えて、人生そのものにも、同じように向けられる。
 人間関係においてなされる要求について言えば、ある患者は、外に現われた行動ではむしろ
臆病で引っ込み思案と言えるのに、ある全般的な要求をかなりはっきりと表わした。彼は自分では
意識していないかったが、全般的な無気力に悩み、才能を伸ばすことをまったく妨げられていた。
「世の中の人々が私に仕えるべきであり、私の方は、人から煩わされるべきではない」と、
彼は言った。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
111 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/03(土) 05:22:31.83 ID:9XxgQxk2
 
/// 神経症的要求 11 ///////////

 また、心の底では自分自身を疑うことを恐れていたある婦人も、これと同じような包括的な
要求をもっていた。彼女は自分の欲求はすべて充たされる権利があると思っており、「私が
好かれたいと思っている男性が私を好きにならないなんて考えられないことです」と言った。
彼女の要求はもともと、「私が祈ればどんなことでもかなえられる」という宗教的な言葉で
表わされた。そして、彼女の場合、この要求には裏があった。つまり、自分の願いがかなえられない
ということは考えも及ばない敗北であったから、そういう「失敗」を犯さないために、ほとんど
すべての欲望を抑えたのである。

///// アカデミア出版会 ///
112 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/03(土) 17:11:56.01 ID:9XxgQxk2
 
/// 神経症的要求 12 ///////////

 自分の欲求はいつも当然正しいはずだと思っている人は、他人から批判や疑いや質問を受ける
ことは決してないと思っている。権力欲に駆られている人は、他人は誰でも当然自分に絶対
服従すべきであると思い、また、人生とは他人を巧みに操るゲームであると考えている人は、
自分はすべての人をだましてもよく、人からは決してだまされないのが当然であると思っている。
自分の葛藤に直面することを恐れている人は、自分の問題を「うまく切り抜け」「うまく避ける」
ことができるはずだと思う。積極的に他人を搾取し、脅して、何かの点で自分の思うままに
させようとする人は、相手がそれに対して公平な扱いを要求すると、不当なこととして怒る。
他人の感情を傷つけずにはいられず、しかもなお、その相手に認められたいと思う傲慢で
報復的な人は、自分だけは「免除」される資格があると思っている。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
113 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/03(土) 17:44:23.67 ID:9XxgQxk2
 
/// 神経症的要求 13 ///////////

つまり、彼は、自分は他の人にどんなことをしでかしても、誰からも反感をもたれなくて当然
であると思っている。これと同じ要求で、違った形をとるものに、「理解」に対する要求がある。
彼は自分がどんなにむっつりしていても、いらいらしていても、人から理解してもらえると
思っている。一切を解決するものは「愛」であると考えている人の場合、愛を得たいという
欲求は、自分は当然、独占的、無条件的な献身を受けるべきだという要求に変わる。一見
まったく何も要求していないように見える孤立的な人でも、実は何ものにも煩わされたくない
という要求をもっている。彼は、自分は他の人々に何も求めないのだから、どんなことが
起こっても、かまわれないでそっとしておいてもらう権利かあると思っている。

///////// 対馬忠監修 ///
114 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/04(日) 06:41:51.07 ID:5G9XzFo6
 
/// 神経症的要求 14 ///////////

「人から煩わされない」ということは、ふつう、人からの批判や期待、あるいは自分が努力すること
――たとえそれが自分のためにするものであっても――から免除されているという意味である。
 人間関係に現われる神経症的要求の適当な例としては以上のもので十分であろう。これらより
もっと非個人的な状況ないし制度に関しては、干渉を受けるべきではないといった否定的な
内容をもった要求が支配的である。例えば、法律や規則から利益を受けるのは当然のことと
みなすが、自分に不利だとなると、それらを不当なことに思う。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
115 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/04(日) 07:11:51.27 ID:5G9XzFo6
 
/// 神経症的要求 15 ///////////

 私は第二次大戦中に起こったある出来事に今なお感謝している。その出来事は私が無意識の
うちにもっていた要求、ひいては、他の人々が無意識的にもっている要求に目を開かせてくれた
からである。私はメキシコ訪問の帰途、軍優先輸送のためにコーパス・クリスティで飛行を
延期された。原則的には私はこの規則をまったく正当なものと考えていたが、それが自分に
適用された時、非常に腹を立てているのに気づいた。実際、私はニューヨークまでの三日間の
汽車旅行を考えただけでいらいらし、ひどく疲れてきた。しかし、もしその飛行機に乗って
いたら事故が起きたかもしれない、これは神の摂理による特別の配慮かもしれないと自らを
慰める考え方をするようになり、この腹立ちは消えた。

///// 神経症と人間的成長 ///
116 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/04(日) 07:34:26.09 ID:5G9XzFo6
 
/// 神経症的要求 16 ///////////

 その時に、私は自分の反応のはかばかしさに突然気づいたのである。そして、それについて
よく考えてみると、そこに私は二つの要求――第一は、自分は例外であるという要求、第二は、
自分は神の摂理による特別の配慮を受けられるという要求――があることに気づいた。それ以来、
私の汽車旅行に対する態度はすっかり変わった。超満員の二等車に昼夜ぶっ通しで坐っている
ことは以前と同じく心地良いものではなかったが、私はもはや疲れを感じないで、かえって
その旅行を楽しみ始めていた。

///// 自己実現の闘い ///
117 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/04(日) 10:32:51.05 ID:5G9XzFo6
 
/// 神経症的要求 17 ///////////

 誰でも自分や他の人々のなかにこれと同じような、あるいは、これの延長線上にあるような
経験を容易に観察できると思う。例えば、多くの人々が――歩行者または運転手として――
交通規則を守ることがむずかしいのは、多くの場合、その人々が交通規則に対して無意識の
うちに不服をもっているためである。彼らは、自分たちはこのような規則に縛られるべきでない
と思っているからである。また、ある人々は銀行から超過引出の事実を注意されると、それを
銀行の無礼な振舞いとして憤慨する。また、試験や試験の準備ができないことへの恐れの多くは、
自分だけは免除されるはずだという要求をもっているために生じ、自分の悪い成績を見て腹を
立てるのも、同じく自分は第一級の成績をとる資格があると思っているためである。

///// 原著 1950年発行 ///
118 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/04(日) 10:47:48.38 ID:5G9XzFo6
 
/// 神経症的要求 18 ///////////

 自分は例外であるというこの欲求は、精神や肉体に関する自然法則に対してもなされる。
他のことではもの分かりの良い患者も、精神的な事柄における因果関係の不可避性を認める
ことになると、どんなに愚かになるかは篤くほどである。私が言うのは、次のようなかなり
自明な因果関係のことである。例えば、われわれが成功を望むなら働かなければならない、
独立を欲するなら自分自身で責任をとる努力をしなければならない、傲慢な心をもっている
限り傷つきやすい、自分を愛さない限り、他人の愛を信じることができず、どんな愛の誓いの
言葉にも必ず疑いをもつに違いない、というようなことである。患者はこのような因果関係を
示されると、すぐに反論したり、当惑したり、言い逃れをし始める。

///// Neurosis and Human Growth ///
119 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/04(日) 12:38:46.62 ID:5G9XzFo6
 
/// 神経症的要求 19 ///////////

 この独特の愚かさを生み出すについては、多くの要因が関係している。まず、患者は
このような因果関係を認めた場合、どうしても自分の内部を変えなければならないはめに
なるという点が理解されなければならない。もちろん、どのような神経症的要因でも、
それを変えることはいつもむずかしい。しかし、そのうえに、既に見たように、多くの
患者はどんな必然性にも従わなければならないと認めることを無意識のうちにひどく
嫌っている。「規則」「必然性」「制限」といった言葉を聞くだけで――少しでもその
言葉の意味が分かれば――彼らは身震いする。彼らの私的な世界では、あらゆるものが
――彼らにとっては――可能なのである。

///// Karen Horney ///
120 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/04(日) 12:53:38.17 ID:5G9XzFo6
 
/// 神経症的要求 20 ////////

だから、自分が何らかの必然性の適用を受けていることを認めると、実際には彼らは高みの
世界から現実へと引き下ろされ、そこで他の誰もが従うのと同じ自然の法則に従うことになる。
そこで、自分の生活から必然性を取り除きたいというこの欲求が要求に変わるのである。
このことは、精神分析の際に、患者が自分は当然変わる必要のない者であるという気持を
もっていることに現われている。このようにして、彼らはもし自分が他人に頼らず、傷つく
ことの少ない、愛されていることが信じられる人間になりたいと望むなら、まず自分自身の
態度を変えなければならないのだ、ということを認めるのを無意識のうちに拒絶するのである。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
121 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/04(日) 19:21:39.75 ID:5G9XzFo6
 
/// 神経症的要求 21 ///////////

 彼らが人生一般に対してひそかに抱いている要求は実に驚くべきもので、この領域を
見れば、要求が非合理な性格をもっとする考えに疑いをもっていた人でも、はっきりと
それの非合理性を認めるであろう。もし人が、自分の人生もまた限りがあり、不安定である
という事実、いつなんどき、自分も事故や不幸や病気や死の運命に見舞われるかもしれない
という現実に直面すれば、自分を神のように思う感情は、当然打ち砕かれ、全能と思う
気持は消し飛んでしまうであろう。

///// アカデミア出版会 ///
122 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/04(日) 19:30:52.93 ID:5G9XzFo6
 
/// 神経症的要求 22 ///////////

なぜなら(昔からの真理を繰り返せば)、それに対してわれわれはほとんど何もなしえない
からである。われわれは死の危険を避けることはできるし、現在では、死にともなう
経済的な損失から身を守ることもできるけれども、死そのものを避けることはできない。
ところが、神経症者の場合は、人間としての自分の生の不安定さを直視することができない
ために、自分の不可侵性についての要求、つまり、自分は聖なるものであり、幸運は常に自分に
味方し、自分の人生は安楽で苦しみのないものであるという要求を発達させていくのである。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
123 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/05(月) 19:52:37.31 ID:059V4bU0
 
/// 神経症的要求 23 ///////////

 人生一般に対する要求は、人間関係における要求とは対照的に、その主張を効果的に
行なうことはできない。神経症者が人生一般に対して要求する場合に彼にできることは、
ただ次の二つだけである。第一に、自分には何事も起こらないのだと心のなかで否定する
ことである。この場合、彼は向こう見ずになりやすく、熱があるのに寒空のもとに出かけたり、
伝染の恐れがあるのに用心しなかったり、予防策を講じないで性交渉をもったりする。
彼は自分が決して老いることも死ぬこともないかのような生活をする。

///////// 対馬忠監修 ///
124 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/05(月) 20:23:21.45 ID:059V4bU0
 
/// 神経症的要求 24 ///////////

そのため、もし何かの逆境に見舞われると、もちろんひどい打撃を受け、恐慌状態に陥る。
たとえその経験が些細なものであっても、それによって彼の高慢な自己不可侵性に対する
信念は打ち砕かれる。こうなると、彼はこれまでとまったく正反対の態度をとり、人生に
対して必要以上の警戒心を抱くようになる。すなわち、自分は絶対に侵されないという
要求が尊重されるとは限らないとすれば、今度は、自分の身に何か起こるかしれないと思い、
何事にも信頼がおけなくなる。これは、彼が要求を捨てたということではなく、むしろもう
これ以上要求の空しさを味わいたくないという意味なのである。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
125 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/05(月) 21:35:14.56 ID:059V4bU0
 
/// 神経症的要求 25 ///////////

 人生や運命に対する神経症者の第二の態度は、その背後にある要求に気づかない限り、
第一の態度よりも道理にかなっているように見える。多くの患者は、自分がこの特別の
障害に苦しむのは不当であるという感情を直接、間接に表わす。そして、友達のことを話す
時でも、それらの友達も神経症なのに、それぞれが自分よりもっと気楽に人とつき合ったり、
女の人とうまくやったり、攻撃的な態度をとったり、人生を楽しんだりしている、と言う。
このような漫然とした話は取るに足りないものではあるが、理解できるように思える。結局、
誰だって、自分の障害に苦しんでいるのだから、自分の悩みの種になっているその障害を
もたない方がよいと思うだろう。

///// 神経症と人間的成長 ///
126 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/06(火) 22:05:46.81 ID:0BTyirnQ
 
/// 神経症的要求 26 ///////////

しかし、患者がこれらの「羨むべき」人々の一人と一緒にいる時の反応を見ていると、もっと
重要な過程が明らかになる。彼は急に冷淡になったり、元気がなくなったりする。このような
反応を追っていくと、その悩みのもとは、彼が自分は絶対にどんな困った問題ももつはずがない
という要求をかたくなに持ち続けていることからきていることが分る。彼は他の誰よりも
優れた才能を与えられるべきであり、さらに、自分の人生には個人的な悩みがないだけでなく、
自分が直接に知っている人や映画のスクリーンで見た人の優れたところを兼ね備えている
資格があると思っている。

///// 自己実現の闘い ///
127 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/06(火) 22:14:25.21 ID:0BTyirnQ
 
/// 神経症的要求 27 ///////////

例えば、チャールズ・チャップリンのように謙虚で知性があり、スペンサー・トレーシーの
ように人情味と勇気を具え、クラーク・ゲーブルのように誇り高く男性的であるといったように。
自分は自分であるべきでないという要求は、そのままの形で出すにはあまりにも非合理的だと
すぐ分る。そこで、それは、自分より優れた才能や幸福な生い立ちをもつ人に対する腹立たしい
妬みとなり、あるいは、優れた人々への模倣や崇拝となって現われ、また、分析家に向かっては、
すべてこれらの望ましいが、しばしば互いに相反する完全さを、自分に与えてくれるように
という要求となって現われる。

///// 原著 1950年発行 ///
128 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/06(火) 22:28:44.62 ID:0BTyirnQ
 
/// 神経症的要求 28 ///////////

 自分には最高の性質が与えられているべきだというこの要求は、かなり有害なものを
含んでいる。それは人に対する羨望や不満をいつまでもくすぶらせるだけでなく、
精神分析を行なう場合にも非常な障害になる。第一に、その患者が何らかの神経症的障害を
もっていること自体が不当なら、彼に自分の問題に取り組むことを期待するのは、確かに
二重に不当ということになる。彼はその反対に、自分を変えるという煩わしい過程を
通らずに、障害から解放される資格があると思っているのである。

///// Neurosis and Human Growth ///
129 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/06(火) 23:46:29.26 ID:0BTyirnQ
 
/// 神経症的要求 29 ///////////

 神経症的要求の種類についての以上の吟味は、まだ完全とは言えない。あらゆる神経症的
欲求は要求に変わりうるのであるから、要求の全体像を余すところなく示すためには、
その欲求の一つ一つについて論じなければならないであろう。しかし、簡単な吟味からでも、
要求の特性についてのある印象は得られる。そこで、今はこれらの要求に共通する特徴を
さらに明らかにしていこう。
 第一に、要求は次の二つの点で非現実的である。すなわち、その一つは、彼がもっていると
思っている資格は、彼の心のなかだけに存在するものであるという点、もう一つは、彼が
自分の要求が実現される可能性についてはほとんど考慮していないという点である。これは、
彼が病気、老い、死から免除されているという明らかに幻想的な要求をもっていることに
はっきり現われている。そして、このことは他の要求についても完全に当てはまる。

///// Karen Horney ///
130 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/07(水) 20:22:25.59 ID:n8PtkaOC
 
/// 神経症的要求 30 ///////////

自分の招待はすべて承諾されるものと思っている婦人は、誰かに断られると、断りの理由が
どんなにのっぴきならないものであっても、腹を立てる。自分は何でも楽々とできると
思っている学者は、一つの論文を書いたり、実験をしたりするための作業がどれほど
必要であるかを考えずに、あるいは、骨の折れる作業なくしてはそれらができないことを
よく知りながらも、そうした作業をすることを嫌う。金に困れば誰でも助けてくれると
思っているアルコール依存患者は、他人が彼を助けられる立場にあるかどうかも考えずに、
その人がすぐに喜んで助けてくれないと、それを不当なことに思う。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
131 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/07(水) 20:35:14.06 ID:n8PtkaOC
 
/// 神経症的要求 31 ///////////

 これらの例は、神経症的要求の第二の特徴である要求の自己中心性を示している。この
自己中心性はしばしば少しも憶するところもなく、平気で表わされるので、観察者の目には
「無邪気」なものに映り、甘やかされた子どもの態度と似た印象を与える。この印象が
あるために、こういう要求は、成長し損なった(少なくともこの点で)人々によく見られる
「子どもっぽい」特性にすぎないという理論的結論を下したくなる。しかし、実際には
この考えは間違っている。幼い子どももやはり自己中心的ではあるが、それは子どもがまだ
対人感情を発達させていないからにすぎない。例えば、子どもは母親が今眠りたがっているとか、
玩具を買うお金を持ち合わせていないとかいうような、他の人にも欲求があり、限界がある
ことを知らないだけである。

///// アカデミア出版会 ///
132 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/07(水) 20:52:27.67 ID:n8PtkaOC
 
/// 神経症的要求 32 ///////////

ところが、神経症者の自己中心性はこれとはまったく違った、もっとずっと複雑な基盤に
立っている。彼が自分自身に夢中になるのは、欲求に駆り立てられ、葛藤によって心を
引き裂かれ、どうしても自分の特殊な解決法にしがみつかねばならないからである。だから、
この二つの現象は一見似ているように見えるけれども異なったものである。そこで、患者に
向かって、彼の要求が子どもじみていると指摘したところで、治療には何の役にも立だない。
これは彼にはただ自分の要求が非合理なのだという意味しかもたず(精神分析家はこの事実を
もっと優れた仕方で彼に示すことができる)、せいぜいのところ、これで考え始めるくらい
のものであって、さらにずっと多くの作業を経ないと、何事も変わらないであろう。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
133 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/07(水) 21:13:15.02 ID:n8PtkaOC
 
/// 神経症的要求 33 ///////////

 両者の違いについてはこれだけにしておこう。神経症的要求の自己中心性は、以前に述べた
私自身のあの啓示的な経験に要約されている。戦時下の軍優先輸送はまったく当然のこと
であるが、その時の私は、自分の欲求が絶対的に優先されるべきだと思っていた。神経症者は、
自分が気分が悪い時や、何かしてもらいたい時には、誰でも他のことを全部やめて自分を
助けに走ってくるべきだと思っている。分析家が相談に当てる時間がないと丁寧に断わっても、
彼はぷりぷりして失礼な返答をしたり、全然聞き入れようとしなかったりする。自分が相談に
のってもらいたい時には、分折家は当然その時間をさいてくれるべきだと思う。患者が周囲の
世界との接触が少なければ少ないほど、他人や他人の感情について心にかけることが少ない。
ある患者は高慢な心で現実を軽蔑していた時期に、次のように言った。「私は空間を突き進んで
いる何ものにもとらわれない彗星です。これは、私が欲するものが現実のもので、他人も他人の
もつ欲望も現実のものではないという意味なのです。」

///////// 対馬忠監修 ///
134 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/07(水) 22:01:13.95 ID:n8PtkaOC
 
/// 神経症的要求 34 ///////////

 神経症的要求の第三の特徴は、要求する人が自分はそれにふさわしい努力を何もしなくても、
物事の方からやってくるはずだという期待をもっていることにある。寂しければ、自分の
方から誰かに電話をかければよいとは思わずに、誰かが自分に電話をかけてくるべきだと思う。
体重を減らすには減食しなければならないという簡単な道理も、心のなかの多くの反対に
あって、彼はひたすら食べ続け、しかも、他の人のようにすらりと痩せないことを不当だと
思う。また、ある人は、それに見合うだけの特別なことは何もしないでおきながら、おまけに、
頼んでみることもしないで、名誉ある仕事や立派な地位や昇給を与えられるべきだと要求する。
彼は自分が何を欲しているかを心のなかではっきりさせる必要すらなく、ただ何かを拒否するか、
受け入れるかすればよい立場にあると思っている。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
135 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/08(木) 22:15:13.37 ID:SHGjvjyS
 
/// 神経症的要求 35 ///////////

 人は非常にもっともらしい、人の心を動かすような言葉で、自分がどれほど幸福になりたがって
いるかを述べることがよくある。だが、しばらくして、彼の家族や友達は、彼を幸福にしてやる
ことが非常にむずかしいことに気づき、心のなかに何か不満があるから幸福になれないのでは
ないかと彼に言ってやる。そこで、彼ば分析家のもとを訪れる。
 分析家は、幸福になりたいという患者の願いは精神分析を受けに来るにふさわしい動機である
と評価する。しかし、分析家は自分でも、なぜ患者が幸福になりたいと願いながら幸せになれない
のだろうと考えてみるであろう。彼はたいていの人が喜ぶような多くのもの、例えば、楽しい
家庭や素晴らしい妻や経済的な安定を得ている。

///// 神経症と人間的成長 ///
136 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/08(木) 22:23:37.08 ID:SHGjvjyS
 
/// 神経症的要求 36 ///////////

それにもかかわらず、何についても真剣にならず、また、どんな強い関心ももっていない。
そこには非常に受動的で放縦な態度が目立って見られる。まず最初の面接で分析家に印象的に
映ったのは、患者が自分の障害には触れずに、むしろ、いくらかいらいらした様子で、自分の
希望の一覧表を並べ立てたことであった。次の面接時には、第一印象がいっそう強められた。
つまり、精神分析をすると、この患者の無気力さが第一の障害であることが分った。このことに
よって彼の臨床像は前よりいっそう明瞭になる。この人は手足を縛られ、自分の能力を開発する
ことができず、そして、心の満足も含めて、人生の良いものはすべて当然自分に与えられるべきだ
という執拗な要求で心が一杯になっているのであった。

///// 自己実現の闘い ///
137 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/08(木) 22:32:47.86 ID:SHGjvjyS
 
/// 神経症的要求 37 ///////////

 自分は少しも努力をしなくても助けてもらえるという要求を、もう一つの例を挙げて示すと、
この要求の性質がいっそうはっきりしてくる。ある患者は一週間分析を中断しなければならなく
なったが、彼はその前の分析時に、ある問題が現われてきていて、それについて悩んでおり、
分析を中断する前にその障害を克服しておきたいと言った。それはまったく当然の希望で
あったので、私はその特定の問題の原因をつかもうと懸命に努力した。しかし、しばらくして、
彼の側に、協力して努力しようとする態度がほとんどないことに気づいた。まるで私が彼を
無理に引きずっていかねばならないような状態であった。

///// 原著 1950年発行 ///
138 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/08(木) 23:26:25.29 ID:SHGjvjyS
 
/// 神経症的要求 38 ///////////

時間が経つにつれて、彼がだんだん苛立ってくるのが分った。そこで、私が単刀直入に聞いて
みると、彼もそれを認め、「確かに自分はいらいらしている。まる一週間もこの障害をもったまま
放置されるのは嫌だ、そして、あなたはそれを軽減させるようなことは何一つ言ってくれなかった
ではないか」と私を詰った。私は、あなたがそう望むのはもっともなことだが、その希望は
いつの間にか明らかに要求に変わってしまっている、それは道理にかなっていないのではないかと
注意した。その特定の問題の解決にもっと近づくことができるかどうかは、この際、その問題が
どれほど近づきやすいものであるか、そして、彼と私とがどれだけ生産的になりうるかという
ことにかかっていたであろう。

///// Neurosis and Human Growth ///
139 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/08(木) 23:40:39.16 ID:SHGjvjyS
 
/// 神経症的要求 39 ///////////

彼に関する限り、この目的に向かって努力することを阻んでいる何かがあるに違いない。
ここでは省略するが、かなりの間、一進一退の状態が続いた後で、彼は私の注意が当たって
いることを認めねばならなかった。彼のいらいらは消え、非条理な要求も切迫感も消えた。
そのうえ、彼は次のような啓示的な要因を付け加えた。彼は、私がその問題を引き起こした
のだから、それを正すのは私の責任だと思っていたというのだ。では、いったいこの問題に
対して私にどのような責任があると思っていたのだろうか。彼は私が誤りを犯したと言う
つもりはなかった。それはただ次のようなことであった。彼は前の分析の時に、復讐心を
まだ克服していないことに気づいていたというより、どうにかそれに気づき始めたという
ところだった。

///// Karen Horney ///
140 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/09(金) 22:31:46.63 ID:JXWrvKB6
 
/// 神経症的要求 40 ///////////

実際の時の彼はまだ自分の復讐心を取り除きたいとは思っておらず、ただそれにともなう
混乱状態を逃れたいと思っていただけであった。しかし、この混乱状態からすぐに逃れたい
という彼の要求に私が応えなかったので、彼は仕返しのために、復讐的要求を出す権利が
あると思ったのだ。この説明で、彼の要求の根源にあるものが明らかになった。つまり、
彼は自分自身のために責任をとることを内心拒否しており、また、建設的な自己についての
関心を欠いていたのであった。このために、彼に無気力となり、自分の力で物事ををなす
ことができず、他の誰か――ここでは分析家――が貴任のすべてを負い、自分のために
物事を正すべきであるという欲求を強めたのである。そして、この欲求もまた要求に
変わっていたのである。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
141 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/09(金) 22:52:52.01 ID:JXWrvKB6
 
/// 神経症的要求 41 ///////////

 この例は、神経症的要求の第四の特徴、すなわち、神経症的要求は本性上報復的になる
ことができるということを示している。人は自分が不当な扱いを受けたと思う時、どうしても
復讐しようとするだろう。こういうことが起こるということ自体は古くから知られている。
外傷性の神経症やある偏執狂的な状態では、明らかにそうである。文学作品でもこの特徴を
描いたものは多く、なかでも一ポンドの肉に固執したシャイロックや、夫が教授になることを
期待していたのに、その可能性がないことを知ると、急に途方もない贅沢を要求したヘッダ・
ガブラーなどがいる。

///// アカデミア出版会 ///
142 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/09(金) 23:04:49.59 ID:JXWrvKB6
 
/// 神経症的要求 42 ///////////

 私がここで問題にしたいのは、報復性は神経症的要求に必ずともなう要因ではないにしても、
よく起こる要因なのかどうかということである。もちろん、この報復性を自覚する程度は人に
より違うだろう。シャイロックの場合には意識されており、私に対して怒った患者の場合は、
ちょうど自覚されかかったところであったが、たいていは意識されていないことが多い。
私の経験では、神経症的要求には報復性が必ずともなうとは思わないが、それに出くわすことが
非常に多いので、私はいつもそれに気をつけることにしている。報復的勝利を求める欲求について
述べた箇所で既に触れたように、ほとんどの神経症に見られる報復性は、大部分が隠されては
いるがその量はかなり多い。例えば、要求が過去の欲求不満や苦しみと関連してなされる場合や、
好戦的な仕方でなされる場合や、要求が通れば勝利、阻止されれば敗北、という受け取り方を
している場合に、そこには確かに報復的要素が働いている。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
143 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/09(金) 23:22:02.13 ID:JXWrvKB6
 
/// 神経症的要求 43 ///////////

 人は自分の要求をどの程度自覚しているのであろうか? 自分や自分の周りの世界を見る
見方が空想によって左右されることが多くなるにつれて、自分も自分の生活一般も簡単に
彼の欲する通りに見えてくる。そうなると、彼の心には自分が何かの欲求や要求をもっている
ことに気づく余裕はなくなり、人から何か要求をもっているのではないかと言われただけでも
腹を立てるようになる。彼は決して人に待たされることはなく、どんな事故にも決して出合う
ことがなく、年をとることさえもないであろう。遠足に行く日には天気は晴れになり、物事は
自分の思い通りになり、何事もうまくやってのけることができるのである。

///////// 対馬忠監修 ///
144 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/10(土) 06:08:59.06 ID:CrgIzJH0
 
/// 神経症的要求 44 ///////////

 自分がこのような要求をもっていることに気づいているかに見える神経症者もいる。というのは、
彼らは見た目にも明らかに、公然と、自分自身のために特権を要求するからである。しかし、
観察者にはっきり見えることも、その当人には分っていないことがある。観察者に見えるものと、
当人が感じていることとは別で、はっきり区別されなければならない。自分の要求を積極的に
主張する人でも、せいぜいのところ、例えば、自分が今苛立っているとか、意見の相違に我慢
できないとかいった、自分の要求のある現われ方やその意味について気づいているにすぎない
だろう。彼は自分が人に物事を頼んだり、礼を言ったりしたくないということは自覚している
かもしれない。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
145 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/10(土) 06:15:28.58 ID:CrgIzJH0
 
/// 神経症的要求 45 ///////////

しかし、この自覚と、何でも自分の望む通りに他人にしてもらう権利があると自分が思っている
ことを自覚することとは別のことである。彼は時々自分が向こう見ずになることに気づくが、
その向こう見ずを自信や勇気として美化することがよくある。例えば、次の仕事に就けると
いうはっきりした見込みもないのに、かなり良い職を辞めてしまい、そうしたやり方を自信の
表われだと思っている。事実そうであるかもしれない。しかし、そこにはやはり自分には幸運や
運命に味方してもらえる資格があると思う気持からくる向こう見ずさが示されている。彼は
心の奥底のどこかで、少なくとも自分は死なないとひそかに信じていることに気づいている
かもしれない。しかし、それとても、彼が、自分は生物学的な限界を超える資格があると
思っていることを自覚していることにはならない。

///// 神経症と人間的成長 ///
146 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/10(土) 06:27:29.54 ID:CrgIzJH0
 
/// 神経症的要求 46 ///////////

 要求は、要求を抱いている当人にも、未熟な観察者にも、その両方に、気づかれない場合がある。
そのため、未熟な観察者は、その要求を正当化する理由を述べられると、何でもそれを信じてしまう。
それは、ふつう彼が心理学をよく知らないためではなくて、彼自身のもつ神経症的理由によるの
である。例えば、彼は時々妻や恋人が自分の時間を奪って邪魔をすることを不都合だと思うが、
しかし、自分は彼女らにとって欠くことのできない者だと考えると、やはり彼の虚栄心は満足
させられる。また、女の人が頼り無さや苦しみを理由に、相手を消耗させるような要求をすること
がある。彼女としては、ただそうして欲しいという自分の欲求を感じているにすぎない。彼女は
意識的には、他人の気持につけ込まないようにと気をつかいすぎるほどにさえしている
だろう。しかし、相手の方では、彼女を保護し、援助してあげたいという気持になったり、
彼女の期待にそえない時は、自分自身の心に秘めた掟のために、「罪悪」感をもったり
するであろう。

///// 自己実現の闘い ///
147 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/10(土) 06:36:53.06 ID:CrgIzJH0
 
/// 神経症的要求 47 ///////////

 しかし、神経症者はたとえ自分が何らかの要求をもっていることを自覚している場合でも、
その要求が不当で非合理なものであることには気づいていない。実際、要求の妥当性を
少しでも疑うことは、その要求を危うくする第一歩となるだろう。そこで、神経症者は
その要求が自分にとって決定的に重要なものである限り、要求を合法化するために、
心のなかに完璧な主張をつくり上げねばならない。彼は要求が公明正大なものであると
心から確信しなければならない。精神分析を受けている患者は、自分は何も要求していなくて、
ただ向こうからやってくるものだけを期待しているのだということを証明するためには、
どんなことでもしかねない。

///// 原著 1950年発行 ///
148 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/10(土) 07:09:26.00 ID:CrgIzJH0
 
/// 神経症的要求 48 ///////////

ところが、治療のためには、これとは反対に、自分がある特別な要求をもっていること、
そして、その要求を正当化するとはどういう性質のものであるかということ、その両方を
認めることが大切なのである。要求が実現されるかどうかは、その要求がなされる根拠
いかんにかかっているので、根拠そのものが戦略上重要な地位を占めてくる。例えば、
功績を立てたことを根拠に、あらゆる種類の奉仕を受ける資格があると思っている人は、
このような功績を無意識のうちに非常に誇張して、もし奉仕がすぐ受けられなければ、
目分が屈辱心を持つのも当然だと思うようにしなければならないのである。

///// Neurosis and Human Growth ///
149 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/10(土) 07:27:41.34 ID:CrgIzJH0
 
/// 神経症的要求 49 ///////////

 文化的な事柄を根拠にして要求が正当化される場合がしばしばある。私は女性だから、
私は男性だから、おまえの母親だから、君の雇い主だから……といった場合である。
しかし、要求にもっともらしさと正当性を与えるために使われるこれらの理由は、その
どれ一つとして、実際に人に何かを要求する資格を与えるものではない。そこで、これらの
理由の重要性を過度に強調しなければならない。例えば、この国では皿洗いが男性の威厳を
損ねるという確固とした文化的な決まりはない。そこで、下働きの仕事から逃れようとする
要求を主張するためには、自分が男性であるとか月給取りであるとかの威厳を誇張しなければ
ならないのである。

///// Karen Horney ///
150 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/14(水) 19:35:04.16 ID:pJVX4GH/
 
/// 神経症的要求 50 ///////////

 いつも要求の根拠にされるものは、その人のもつ何らかの優越性である。優越性を根拠に
する場合の共通した考え方は、「自分は何か特別の者だから、……を受ける資格がある」
というのである。この漠然とした形では、それは概して無意識的であるが、個々人は自分の
時間や仕事や計画や自分が常に正しいことについて特別の重要性を強調するであろう。
 「愛」がすべてを解決し、「愛」が人にすべてのものをもつ資格を与えると信じている
人々は、そのために、愛の深さ、愛の価値を誇張しなければならない――それも、意識的に
そう見せかけるのでなく、自分がもっている以上の愛を実際に感じることによって誇張
するのである。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
151 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/14(水) 19:40:05.83 ID:pJVX4GH/
 
/// 神経症的要求 51 ///////////

そして、このような仕方でどうしても誇張しなければならないことの結果として、しばしば、
次のような悪循環をつくり出すはめになる。自分の無力さや苦しみを根拠にして要求が
なされる場合には特にそうである。例えば、たいへん臆病で、電話で問い合わせることも
できない人がよくいるが、このような人が、自分の代わりに誰か他の人が問い合わせて
くれるべきだという要求をもつ場合、その人は、自分が電話をかけられないことを正当化
するために、実際以上に強くそうした気分になるのである。また、あまりに気がふさぎ、
無気力で、家事ができないと思っている婦人は、実際以上に憂うつで無気力な気分に自分を
陥れてしまうだろう。そして、そのために、彼女は実際になおいっそう苦しむことになる。

///// アカデミア出版会 ///
152 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/14(水) 20:06:39.80 ID:pJVX4GH/
 
/// 神経症的要求 52 ///////////

 しかし、こうした神経症的要求に対して、周囲の人々はすぐには応じてやらない方がよい、
と性急に結論を下すべきではない。要求に応じることも、それを拒否することも、事態を
いっそう悪くする。つまり、どちらの態度も要求をいっそう強めることになる。要求を
拒絶する方が良い場合は、ふつう、神経症者が自分で責任をとり始めた時か、とり始めよう
とする時だけである。
 要求の根拠にされるもののなかで、最も興味深いものは、おそらく「正義」であろう。
自分は神を信じているから、いつも働いてきたから、常に善良な市民であったから、自分には
どんな不幸も起こるはずはなく、何事も自分の思い通りになるべきだという考え方は、
正義を根拠にしたものである。善良で敬虔であれば、必ず現世の恩恵が与えられねばならない。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
153 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/14(水) 20:50:43.41 ID:pJVX4GH/
 
/// 神経症的要求 53 ///////////

これに対する反証(徳に報酬が必ずしもともなうとは限らないという証拠)は退けられる。
正義を根拠にして要求する傾向があることを患者に指摘してやると、彼はふつう、自分の
正義感は他人にまで及んでいて、他人が不正な扱いを受けても、同じように憤慨するのだと
言う。これはある程度までは事実である。しかし、それは、正義を根拠にして要求したいと
思う彼自身の気持を、一つの「哲学」にまで一般化したというにすぎないのである。

///////// 対馬忠監修 ///
154 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/14(水) 21:52:02.58 ID:pJVX4GH/
 
/// 神経症的要求 54 ///////////

 そのうえ、この正義の強調には真の面があり、他人が逆境にある時には、責任はその人に
あるとする。しかし自分の場合にもこの裏の面が適用されるかどうかは、彼の正義感の程度に
よる。もし彼が厳しい正義感をもっていれば、少なくとも意識的には、自分の逆境はすべて
自分の不正のせいであると受けとめるであろう。しかし、「応報的賞罰」の法則は、往々に
して自分に対してよりも、他人に対して適用されやすい。例えば、誰かが失業したのは、
彼が「ほんとうは」働きたくなかったためであり、ユダヤ人が迫害を受けるのけ、おそらく
何らかの意味で彼らの側に責任があるのだと言う。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
155 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/15(木) 22:13:54.61 ID:/ONipfR6
 
/// 神経症的要求 55 ///////////

 このような人は、もっと個人的な事柄では、自分が人に与えたものに相当するだけの価値を
天から受ける権利があると考えている。このことは、もし彼が次の二つの要因を見逃してさえ
いなければ正しいだろう。というのも、彼は自分自身の良い面だけを誇張して考え(例えば、
意図が良いこともそのなかに入れられる)、自分がある人間関係にもたらした障害については
無視する。さらにそのうえ、計りにかけられる両方の価値が釣り合っていない場合がよくある。

///// 神経症と人間的成長 ///
156 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/15(木) 22:20:41.03 ID:/ONipfR6
 
/// 神経症的要求 56 ///////////

例えば、分析を受ける人は、計りの自分の側に、分析に協力しようとする自分の意図、悩んでいる
症状から逃れたいという願い、自分が休まず診療を受け、支払いも済ませていることなどを載せ、
分析家側には、その患者を治癒させる義務を載せる。不幸にして、計りの両側は釣り合わない。
患者が良くなることができるのは、彼が進んで自分自身に働きかけ、変わろうと努力し、実際に
変わることができる時だけである。それゆえ、患者の良い意図が効果的な努力と結びつかなければ、
どうにもならないであろう。障害は何回もぶり返し、患者はますます苛立ち、だまされたと思う。
そして、総決算として、彼は非難や不平を並べ立て、自分が分析家に不信をつのらせるのは
まったく当然のことだと思うであろう。

///// 自己実現の闘い ///
157 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/15(木) 22:26:08.50 ID:/ONipfR6
 
/// 神経症的要求 57 ///////////

 正義があまりにも強調される場合には、必ずというわけではないが、復讐心をカモフラージュ
していることがよくある。要求が主として人生との「取引」という根拠からなされる場合には、
ふつう自分自身の功績が強調される。要求が報復的なものであればあるほど、自分が受けた
被害がいっそう強調される。ここでもまた、受けた損害は誇張され、それに対する感情が
強められてくる。そして、ついにはその損害は非常に大きく見えてきて、「被害者」は相手に
どのような犠牲を払わせても、また、どのような重い罰を加えても、当然であると思うようになる。

///// 原著 1950年発行 ///
158 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/16(金) 20:13:37.39 ID:eItqBmXd
 
/// 神経症的要求 58 ///////////

 神経症を持続させるためには、要求は欠くことのできないものであるから、当然、要求を
強く主張することが重要なこととなる。これは、人々に向かってなされる要求の場合にだけ
当てはまる。というのも、言うまでもなく、運命や人生は、人がそれに対してどんな要求を
主張しても、嘲笑うようなやり方をするからである。われわれは何回かこの問題に立ち返る
だろうが、ここでは次のように言うことで十分としよう。つまり、一般的に言えば、神経症者が
自分の要求に他人を同意させるやり方は、その要求がなされる根拠と密接に関係している。

///// Neurosis and Human Growth ///
159 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/16(金) 20:22:21.11 ID:eItqBmXd
 
/// 神経症的要求 59 ///////////

要するに、彼はかけがえのない自分の重要性を他人に印象づけようとすることができるし、
人を喜ばせ、魅了し、約束することができる。また、人に恩義を感じさせ、相手の正義感や
罪悪感に訴えて恩返しをしてもらうように仕向けることができる。自分の苦しみを強調して、
憐欄の情や罪悪感に訴えることができる。他の人々に対する愛を強調して、愛に対する
彼らの憧れの気持を掻き立てたり、彼らの虚栄心に訴えたりすることができる。短気や
不機嫌を示して、脅迫することができる。貪欲な要求をして他人を破滅させようとする
報復的な人は、痛烈な非難を浴びせて、相手に服従を強制しようとする。

///// Karen Horney ///
160 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/16(金) 20:35:19.10 ID:eItqBmXd
 
/// 神経症的要求 60 ///////////

 要求を正当化し、主張するために、全エネルギーが注がれることを思えば、要求が阻止された
時の激しい反応は当然予期されなければならない。その反応の底流には恐怖があるのだが、
一般に支配している反応は怒りであり、激怒の場合さえある。この怒りは特別な性質のもの
である。というのも、要求は主観的には公正なものと思われているので、それを阻止することは
不当であり、不正であるというように受け取られているからである。そのために、そこから
生じる怒りは義憤という性格をもっている。言い換えると、人は怒りを感じるだけでなく、
怒る権利があると思っている。そして、この感情は精神分析の時に非常に強く擁護される。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
161 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/16(金) 21:35:42.64 ID:eItqBmXd
 
/// 神経症的要求 61 ///////////

 この義憤の様々な現われ方をもっと深く吟味する前に、少し回り道をして、ある理論、特に
ジョン・ダラードやその他の人々によって推し進められた理論に触れてみたい。その理論に
よれば、人は欲求が阻止されると、敵意の反応を示す。つまり、敵意とは、実は本質的に
欲求が阻止されたことに対する反応である、と言うのである。実際には、この主張が妥当性を
欠いていることは、かなり単純な観察によっても分る。逆に、欲求が阻止されても敵意を
もたない経験は非常に多い。敵意が起こるのは、不当に欲求が阻止された場合か、神経症的
要求をもっているためにその阻止を不当と感じる場合だけである。

///// アカデミア出版会 ///
162 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/16(金) 22:04:19.19 ID:eItqBmXd
 
/// 神経症的要求 62 ///////////

そして、このような場合に、それは義憤とか、被虐待感とかいう特殊な性格を帯びる。
自分が受けた不幸や不正は拡大され、時にはばかげたほどに大きく映る。もし誰かから虐待
されたと感じると、突然その人は信用のできない、意地悪で、残酷で、軽蔑すべき人という
ことになる。つまり、この憤りは他人についてのわれわれの判断に根本的な影響を与える。
ここに、神経症的な疑い深さの一つの根拠があり、また、多くの神経症者が他人について
行なう評価が非常に不安定で、積極的な友好的態度から、すべてを非難する態度へと非常に
簡単に変わりやすい理由、それも重要な理由がある。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
163 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/16(金) 22:40:47.46 ID:eItqBmXd
 
/// 神経症的要求 63 ///////////

 怒りや激怒の急激な反応は、非常に単純化して言うと、次の三つの異なった方向のいずれかを
とるだろう。第一の方向では、どんな理由からにせよ、怒りは抑圧され、そのため――敵意が
抑圧される場合と同じように――疲労、偏頭痛、胃の不調など、心身症状となって現われる。
第二の方向では、怒りは自由に表現されるか、もしくは少なくとも怒りとして十分に感じられる。
この場合、その怒りがほんとうに正当だと認められることが少ないほど、自分の受けた不正を
いっそう誇張しなければならないだろう。そこで、彼は自分を怒らせた相手の不利になるように、
ちゃんと辻棲の合ったような悪口を、何気ないふうに捏ち上げる。

///////// 対馬忠監修 ///
164 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/17(土) 06:46:22.83 ID:FRdGgVA3
 
/// 神経症的要求 64 ///////////

人はどんな理由からにせよ、報復的態度をいっそう公然と示すほど、復讐する傾向はいっそう
強く、また、彼がいっそう公然と傲慢に振舞うほど、このような復讐は正義のためにしている
のだと固く信じているだろう。第三の方向は、みじめな気分になり、自己憐欄に陥るものである。
この場合、人は極度に傷つき、虐待されたと感じて気落ちしてしまう。「どうして彼らは私に
このようなことができるのだろう」と彼は思う。こうした場合の苦しみは非難を表わすための
手段となる。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
165 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/17(土) 06:57:59.60 ID:FRdGgVA3
 
/// 神経症的要求 65 ///////////

 このような怒りの反応は、自分のなかよりも、他人のなかに観察されやすい。なぜなら、彼は
自分が正しいという確信をもっているから、自らに自己詮索を許さないのである。しかし、もし
われわれが自分の受けた不正のことばかり考えたり、他の誰かの嫌な性質のことが気になりだしたり、
他人に仕返しをしたい衝動を覚えたりする時には、自分の反応をよく調べてみることは真に私たちの
ためになる。その場合、その反応が自分の受けた不正とちょうど見合ったものであるかどうかを
詳しく調べてみなければならない。そして、公正に吟味した結果、もし不釣り合いだと分れば、
その背後に隠れている要求を探さなければならない。われわれが、何か特別な権利に対する欲求を
捨てようと思い、また、実際に捨てることができれば、そしてまた、われわれの敵意が抑圧された時、
どのような特殊な形をとるかをよく知っていれば、個々の欲求阻止に対する激しい反応を見分けて、
その背後にどんな要求が潜んでいるかを発見することはそれほどむずかしいことではない。

///// 神経症と人間的成長 ///
166 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/17(土) 07:19:36.43 ID:FRdGgVA3
 
/// 神経症的要求 66 ///////////

しかし、一、二の場合の要求を知っただけでは、すべての要求から自由になったことには
ならない。ふつう、それは特に目立った不条理な要求を克服しただけのことで、その過程は
ちょうど、さなだ虫の一部だげを取り除く寄生虫駆除法を思わせる。さなだ虫は一部を
取り除かれても、再生し、結局は頭が取り除かれるまでは、われわれの体力を消耗させ
続けるだろう。これをわれわれの場合で言えば、栄光の追求全体とそれにともなうすべての
ことを克服できる程度の応じてのみ、自分の要求を捨てることができるという意味である。
しかし、われわれが自分自身を取り戻す過程は、寄生虫駆除法の場合とは違い、その
一歩一歩が大切である。

///// 自己実現の闘い ///
167 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/17(土) 08:05:31.83 ID:FRdGgVA3
 
/// 神経症的要求 67 ///////////

 広く生活全般に浸透した要求が人格や人生に及ぼす影響は様々な意味をもつ。彼はそうした
要求のために一般的な挫折感をもつようになり、不満が生活全般に広がって、その状態が
彼の特性と言えるほどになる。こうした慢性的な不満を引き起こす要因はほかにもあるが、
その原因のなかで、とりわけこの広く浸透した要求が目立っている。この不満は、彼がどんな
生活状況においても、そこに何か欠けているもの、困難なものに目を向け、状況全体に対して
不満を感じる傾向となって現われる。例えば、ある人は非常に満足すべき仕事に従事しており、
家庭生活も建設的に営んでいるのに、ピアノを弾く時間が十分にない。これは自分にとって
大切なことなのにとか、娘の病気が快方に向かわないとかいったことが心に非常に大きく映り、
そのため彼のもっている良い方のことを有難いと思うことができない。

///// 原著 1950年発行 ///
168 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/17(土) 08:23:05.63 ID:FRdGgVA3
 
/// 神経症的要求 68 ///////////

また、注文の品が時間通り到着しないために、楽しいはずの一日がすっかり駄目になって
しまう人や、美しい景色のなかを遠足や旅行をしながら、不便さばかりが目につく人のことを
考えてみるとよい。このような態度はごくありふれたもので、たいてい誰でも経験したことが
あるに違いない。このような態度をもつ人々は、時々自分はなぜいつも物事の暗い面ばかりを
見るのだろうと思う。また、自分自身のことを「悲観的」な人間と呼んで、万事尽くせりと
思っている。しかし、これでは、少しも説明になっていないうえに、自分が逆境に耐えることが
まったくできないということに、似非哲学的な基礎を与えることになる。

///// Neurosis and Human Growth ///
169 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/17(土) 08:48:08.46 ID:FRdGgVA3
 
/// 神経症的要求 69 ///////////

 人はこのような態度をとることによって、自分で自分の生活をいろいろな仕方でいっそう
むずかしくしている。どんな困難も、それを不当なものと思えば、十倍も困難なものになる。
私が二等車のなかでした経験はこのことを示す好い例である。私がそれを不当に課せられた
ものと思っていた間は、それはとうてい耐えられないものに思われた。ところが、その背後に
ある要求に気づいた後では、座席は相変わらず固く、時間も前と同じように長くかかった
けれども、そのまったく同じ状況が楽しいものに変わった。このことは仕事にも同様に
当てはまる。

///// Karen Horney ///
170 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/17(土) 18:06:46.04 ID:FRdGgVA3
 
/// 神経症的要求 70 ///////////

われわれが何か仕事をする場合、それを不当だと思う反抗的な気持をもったり、それはすぐに
できるはずだという要求を心ひそかにもったりすると、その仕事は必ず苦しい、疲労をよぶ
仕事となる。言い換えれば、神経症的要求をもっているために、物事を何の苦もなくやってのける
あの生活技術を失ってしまうのである。確かに、打ちひしがれるほどの厳しい経験もあるが、
それは稀である。神経症者にとっては、些細な出来事が大破局に変わり、生活は混乱状態の
連続となる。また、逆に言えば、神経症者は他人の生活の明るい面ばかりに目をつける。
この人は成功している、あの人には子どもがある、もう一人の人は自分より暇がある、あるいは、
その時間を使って多くのことができる、他の人々の家は自分の家より立派で、牧場も青々
としている、といった具合である。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
171 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/17(土) 18:18:08.75 ID:FRdGgVA3
 
/// 神経症的要求 71 ///////////

 このように述べるのは簡単であるが、それを認めること、特に自分自身のなかに認めることは
むずかしい。こんなに重要なこのものをわれわれはもっていないのに、他の誰それはもっている
といったことがまったくほんとうのこと、実際のことに思えてくる。こうして、心への記帳は、
自分自身についても、他人についても、その両方で曲げられる。たいていの人は、自分の生活を
他人の優れた良い点だけと比べずに、その全体と比べるようにせよと教えられてきた。しかし、
神経症者はこの忠告を妥当なものと認めても、それに従うことができない。というのは、神経症者の
歪曲された見方は、見落としや無知からくるものではなく、むしろ、彼らが情緒的に盲目になること、
言い換えると、無意識の内的要請に駆られて、盲目的な行動をとらざるをえないところから
きているからである。

///// アカデミア出版会 ///
172 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/17(土) 18:39:13.47 ID:FRdGgVA3
 
/// 神経症的要求 72 ///////////

 その結果として、彼は他人に対して、羨望と冷淡さの交錯した感情をもつ。この羨望はニーチェが
生の羨望と呼んだものの性質をもち、個々の細かい事柄に関する羨望ではなく、人生一般に関する
羨望である。それは自分一人だけが締め出されており、自分一人だけが苦悩し、孤独で、恐慌状態
にあり、束縛されているという感情をともなっている。彼のもっている冷淡さもまた、必ずしも
彼がまったく無情な人間であることを示すものではない。この冷淡さは彼が全般的な要求をもって
いることから結果し、そこから、それ自身の一つの働き、すなわち、その人の自己中心主義を正当化
する働きを得る。なぜ自分より裕福な人々が自分に何かを要求したりするのか? 周囲の誰よりも
はるかに困っている自分が、他の人よりずっと軽視され、無視されている自分が、なぜ自分のこと
だけに気を配る権利をもってはいけないのか? このようにして、要求はいっそう強固に守られる。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
173 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/17(土) 20:45:37.62 ID:FRdGgVA3
 
/// 神経症的要求 73 ///////////

 もう一つの結果は、権利に対して一般的に不確かな感情をもつようになることである。
この感情は複雑な現象であって、全般的な要求は、この感情を決定するほんの一つの要因に
すぎない。神経症者は自分だけの世界では、自分はあらゆるものをもつ権利があると思って
いるが、そうした世界はきわめて非現実的なものなので、彼は現実世界のなかでの自分の
権利については混乱してしまう。彼は一方では、僣越な要求を一杯もちながら、実際に自分の
権利を感じたり、主張したりできる時や、そうしなければならない時になると、非常に臆病
になり、それができなくなる。

///////// 対馬忠監修 ///
174 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/17(土) 20:57:05.78 ID:FRdGgVA3
 
/// 神経症的要求 74 ///////////

例えば、ある患者は、全世界は自分に仕えるべきだと思っているのに、私に分析時間の変更を
頼んだり、何かを書き留めるために鉛筆を借りたりすることになると、おどおどした態度になる。
また、他のある患者は、尊敬されたいという神経症的要求が充たされないと、過敏になるのに、
友人からひどい仕打ちを受けても、じっと我慢した。この場合、患者が苦しむ面は、自分は
どんな権利ももっていないという感情であって、彼がその悩みの根源、少なくとも、それの
有力な原因となっている非条理な要求の存在に無関心である限り、そのことが彼の訴えの中心
となるだろう。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
175 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/18(日) 00:10:26.21 ID:R4WTCHG5
 
/// 神経症的要求 75 ///////////

 最後に、全般的な要求をもつことは、人を無気力にする有力な要因になる。無気力は、はっきり
表面に現われる場合も、隠されている場合もあるが、おそらく最もよく起こる神経症的障害である。
怠惰には自発性があり、人はそれを楽しむことができるが、無気力は怠惰とは対照的に、心理的
エネルギーの麻痺した状態である。この無気力は行動だけでなく、思考や感情にまでも及ぶ。
あらゆる要求は、定義によれば、神経症者が自分の問題に積極的に取り組んでいこうとする努力に
とって代わるものであるから、成長という点から見れば、要求をもつことは、彼を麻痺させてしまう。
また、多くの例では、要求をもつと、人はあらゆる努力に対していっそう全般的な嫌悪の気持を
抱くようになる。この場合、彼らが無意識のうちに要求しているのは、人は意図さえあれば、
成功し、仕事を得、幸福になり、困難を克服することができるはずだということである。つまり、
自分は少しもエネルギーを費やさずに、すべてこうしたことは達成できるはずだと思っている。

///// 神経症と人間的成長 ///
176 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/18(日) 00:19:53.72 ID:R4WTCHG5
 
/// 神経症的要求 76 ///////////

このことは、時には、実際の仕事は他の誰かがすべきだ――嫌なことは人にやらせればよいという
意味になる。もし誰かがそうしてくれなければ、自分が不満に感じても当然だと思っている。
こうして、彼は引っ越しや買い物のような余分な仕事をすると考えただけで疲れてしまうことが
よくある。時には、精神分析で個々の疲れをすぐに取り除くことができる。例えば、ある患者は
旅行に行く前にしなければならないことがたくさんあって、仕事に取り掛かる前から疲れを
感じていた。そこで、私は彼に、すべてのことをどんなふうに処理するかという問題を、自分の
創意に対する一つの挑戦として受けとめるように忠言した。これが彼の心に訴えて、疲れも
消え去り、彼は焦燥感も疲労感も覚えずにすべてのことを成し遂げることができた。

///// 自己実現の闘い ///
177 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/18(日) 06:08:38.49 ID:R4WTCHG5
 
/// 神経症的要求 77 ///////////

しかし、彼はこのようにして積極的になれる自分の能力や、そうなった時の喜びを経験したけれども、
進んで努力しようとする衝動はまもなく減退していった。というのも、彼の無意識的な要求がなおも
非常に根深く潜んでいたからである。
 要求が復讐的になればなるほど、無気力の程度はいっそうひどくなるように思われる。無意識の
うちに、彼は次のように考えている。自分が今経験しているこの苦しみの責任は他人にある。だから、
自分には、人に治してもらう権利があるのだ。もし自分が一人でその努力をすれば、何も補償された
ことにならないではないか。もちろん、このような理屈を言うのは、自分の生活に建設的な興味を
失った人々だけで、彼らは自分の生活について何かをするのは、もはや自分の責任ではなく、
「他の人々」や運命の責任なのだと思っている。

///// 原著 1950年発行 ///
178 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/18(日) 07:02:12.17 ID:R4WTCHG5
 
/// 神経症的要求 78 ///////////

 精神分析で、神経症者が自分の要求に固執し、それを守ろうとする執拗さを見ると、その要求が
彼にとってかなりの主観的な価値をもっているに違いないことが分る。彼は一つだけでなく、
いくつもの防衛線をもっており、それを代わる代わる用いる。最初、彼は、自分は全然要求を
もっていない、分析家が何のことを言っているのか分らないと言う。次には、自分の要求は
すべて道理にかなったものなのだと言い、さらに、その要求をを正当化するのに役立つような
主観的な根拠を弁護するようにまでなる。最後に、彼は、自分が要求をもっていること、その
要求が現実に保証されていないことに気づくと、その要求に対して関心を失ってしまうように
思われる。つまり、それらの要求は重要でなく、いずれにしても害のないものだということになる。
ところが、彼はやがて、そこからいろいろな面で重大な結果が自分に起こっていることに
気づかずににいられない。

///// Neurosis and Human Growth ///
179 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/18(日) 07:19:37.59 ID:R4WTCHG5
 
/// 神経症的要求 79 ///////////

例えば、要求のために自分は苛立ち、不満をもつようになっていること、もし自分がいつも
物事の方からやってくると期待せずに、もっと積極的に行動していたら、自分のためにずっと
良かっただろうこと、確かに要求が心理的エネルギーを麻痺させていること、などが分ってくる。
彼はまた、要求から得られる実益がきわめて少ないことに目を閉ざすことはできない。確かに、
彼は時には他の人々に圧力をかけ、無理矢理に自分の要求――外に現われたものでも現われない
ものでも――に応じさせることができる。しかし、そんなことをしても、それで幸福になれる
人がいるだろうか? 人生に対する一般的な要求に関する限り、ともかく、それは無益である。
彼は自分がいくら例外者であるはずだと思っても、やはり心理学的または生物学的法則の支配を
受けているし、いくら他の人々の優れた点をせもちたいと要求しても、以前の彼と少しも
変わらないのである。

///// Karen Horney ///
180 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/18(日) 08:41:32.99 ID:R4WTCHG5
 
/// 神経症的要求 81 ///////////

彼は頭では自分の要求が無駄であることを知っていながら、無意識のうちに、自分の意志の
神通力をもってすれば不可能なことは何もないという信念を堅持している。自分が一生懸命に
願えば、願い事はかなえられるし、物事が自分の思い通りになるように熱心に主張すれば、
その通りになるだろう。もし、まだ思い通りになっていないとすれば、それは自分が不可能な
ものを得ようとしているため(このことを分析家は彼に信じさせたいのだが)ではなくて、
自分の望み方がまだ足りないからだと彼は思う。

///// アカデミア出版会 ///
181 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/18(日) 08:55:50.35 ID:R4WTCHG5
 
/// 神経症的要求 80 ///////////

 要求をもつことから生じる悪い結果と、要求に内在する無益さの両方が分っても、それは
彼にとって真の問題解決の糸口とはならず、何の説得力ももたない。だから、このようなことが
分れば要求は完全になくなるだろうという分析家の希望はしばしば裏切られる。ふつう、
精神分析をすることによって、要求の強さは減じる。しかし、要求は完全には消失せず、
深層へと追いやられる。さらにもっとよく調べていくと、患者が無意識のうちにもっている
非合理な空想が分ってくる。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
182 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/18(日) 09:36:28.79 ID:R4WTCHG5
 
/// 神経症的要求 81 ///////////

彼は頭では自分の要求が無駄であることを知っていながら、無意識のうちに、自分の意志の
神通力をもってすれば不可能なことは何もないという信念を堅持している。自分が一生懸命に
願えば、願い事はかなえられるし、物事が自分の思い通りになるように熱心に主張すれば、
その通りになるだろう。もし、まだ思い通りになっていないとすれば、それは自分が不可能な
ものを得ようとしているため(このことを分析家は彼に信じさせたいのだが)ではなくて、
自分の望み方がまだ足りないからだと彼は思う。

///// アカデミア出版会 ///
183 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/18(日) 11:11:02.69 ID:R4WTCHG5
 
/// 神経症的要求 82 ///////////

 こうした信念を見る時、現象全体の様相はいくぶん変わってくる。われわれはこれまで
患者があらゆる種類の特権について、自分のものではない権利を自分のものだと主張するという
意味で、彼の要求が非現実的であることを見てきた。さらに、ある種の要求は明らかに幻想的
であることも分った。ところが、今これらの要求のすべてには魔法のような期待が浸透している
ことを知る。そして、われわれは、今初めて、要求が彼の理想化された自己を現実化するための、
どれほど欠くことのできない手段となっているかを理解する。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
184 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/18(日) 11:19:04.21 ID:R4WTCHG5
 
/// 神経症的要求 83 ///////////

要求は、業績や成功によって自己の優秀さを証明するといった意味での現実化を主張する
のではなく、彼に必要な証拠やアリバイを提供するのである。彼は自分が心理の法則や自然の
法則を超えたところにいることを証明しなければならない。そして、たとえ他人が自分の
要求を受け入れてくれないこと、自分も法則に支配されていること、他の人と同じような
悩みや失敗を免れないことなどを繰り返し経験しても、それらすべては、彼が無限の可能性を
もっていることへの反証とはならないのである。それは、彼が今まで不当な取り扱いを
受けてきたことの証拠にすぎない。彼が要求を持ち続けていさえすれば、いつの日かきっと
それは実現されるだろう。要求こそは彼に未来の栄光を保証してくれるものである。

///////// 対馬忠監修 ///
185 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/18(日) 12:00:30.25 ID:R4WTCHG5
 
/// 神経症的要求 84 ///////////

 今やわれわれは、なぜ患者が、現実生活に及ぼす要求の有害な影響について考えてみることに、
あまり真剣な関心を示さないかの理由を理解できる。彼は要求のもたらす損害を食いとめよう
とはせず、輝かしい未来を予想すれば、現在のことは取るに足らないものであると考える。
それは、ちょうど自分の遺産請求権が保証されていると信じている人に似ている。彼は現実の
生活に対する建設的な努力をしないで、請求をいっそう有効に主張することに全精力を傾ける。
そうしている間に、彼は現実生活に興味を失い、人間的に貧しくなり、人生に生きがいを
与えてくれるすべてのことをなおざりにするようになる。そして、彼の未来の可能性にかける
望みはますます彼の唯一の生きがいとなってくる。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
186 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/18(日) 12:19:39.41 ID:R4WTCHG5
 
/// 神経症的要求 85 ///////////

 神経症者は、実際には、先に仮定した遺産請求人よりも厄介なものである。というのも、
彼は心の底では、もし自分自身や自分の成長に関心をもてば、未来の実現を望む資格を失う
だろうという気持をもっているからである。これは彼の前提からすれば筋の通ったことである。
現在の自分に関心をもてば、理想化された自己の現実化は確かに意味のないものとなるだろう。
彼がこの理想化された自己を現実化するという目標の誘惑に取り憑かれている限り、もう
一つの道、すなわち、現在の自分に関心をもつ方向に進む道は閉ざされる。

///// 神経症と人間的成長 ///
187 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/18(日) 13:43:36.39 ID:R4WTCHG5
 
/// 神経症的要求 86 ///////////

この道をとれば、彼は自分自身が他のすべての人々と同じように、様々な困難に悩む、
死すべきものであることを認めることになろうし、それはまた、自分自身のために責任をとり、
困難を克服して、自分のあらゆる可能性を発達させる責任が自分にあると認めることになろう。
こうして、この道は、彼にあたかもすべてのものを失うように感じさせるので、彼は恐れて
この道を進むことを思いとどまるのである。彼は強くなって、自己理想化のなかに解決を
見出さなくても済むようになった時、初めてこの道――健康への道――を考えることができる。

///// 自己実現の闘い ///
188 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/18(日) 15:04:26.78 ID:R4WTCHG5
 
/// 神経症的要求 87 ///////////

 もしわれわれが、要求とは、自分について美化したイメージをもっている神経症者が、当然
自分に与えられるはずだと思っているものを「無邪気」に表現したものにすぎないとか、自分の
もっている多くの強迫的欲求を、他人に充たしてもらいたいというもっともな望みだとかと
見る限り、要求のもつ執拗さは十分に理解できない。神経症者が何かの態度に執拗に固執して
いる場合は、おそらくその態度が彼の神経症の枠組のなかで欠くことのできない働きを果たして
いることの確かな証拠であろう。既に見てきたように、要求は彼にとって多くの問題を解決
してくれるように思われる。要求の一貫した働きは、自分自身について抱いている彼の幻想を
貫き通し、責任を自分以外の要因に転嫁することにある。

///// 原著 1950年発行 ///
189 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/18(日) 15:15:13.40 ID:R4WTCHG5
 
/// 神経症的要求 88 ///////////

彼は自分の欲求を尊重されるべき要求にまで高めることによって、自分自身の悩みを否定し、
自分の負うべき責任を他人や環境に負わせる。彼が何らかの困難をもっていたということが
そもそも不当であり、彼は困難などに苦しむことのないような、ちゃんとした生活を送る
資格をもっているのである。例えば、彼は借金や寄付を頼まれると、狼狽し、心のなかで、
頼んだ人に悪罵を浴びせる 。実は、彼が憤慨するのは、自分は煩わされるべきでないという
要求をもっているためである。では、なぜこれほどまでに彼はこの要求が必要なのか? 
実は、彼はこの依頼を受けたために、自分自身の内部の一つの葛藤、すなわち、大まかに
言って、他人に従いたいという欲求と、他人の欲求を阻止したいという欲求との間の葛藤に
直面しなければならない。

///// Neurosis and Human Growth ///
190 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/18(日) 15:43:05.62 ID:R4WTCHG5
 
/// 神経症的要求 89 ///////////

ところが、どのような理由からにせよ、この葛藤に直面することをあまりに恐れたり、
嫌がったりする限り、彼は自分の要求にしがみついていなければならない。彼は煩わされ
たくないという表現を使っているが、もっと正確に言えば、それは、世間の人々が彼に
葛藤を引き起こさないように(そして、彼に葛藤を気づかせないように)、振舞うべきだ
という要求なのである。彼にとって責任を逃れることがなぜこんなに大切なのか、
その理由についてはもっと後で見ていくことにするが、これまでのところ、要求とは、
神経症者が自分の障害に正面から取り組んでいくのを妨げ、そのために、彼の神経症を
永続させるものであることをわれわれは知ることができた。

・・・・

///// 自己実現の闘い ///
191 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/18(日) 15:53:06.37 ID:R4WTCHG5
 
*** KAREN HORNEY **********

カレン・ホーナイ(Karen Horney)著
NEUROSIS AND HUMAN GROWTH: The Struggle Towards Self-Realization 1950年出版

Neurosis and Human Growth [Paperback]
http://www.amazon.com/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-Realization/dp/0393307751/
http://www.amazon.co.jp/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-Realization/dp/0393307751/
http://www.amazon.co.jp/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-realization/dp/0393001350/

Neurosis And Human Growth [Hardcover]
http://www.amazon.com/Neurosis-And-Human-Growth-Self-Realization/dp/B0006ASE2A/
http://www.amazon.co.jp/Neurosis-Human-Growth-SELF-REALIZATION-International/dp/041521095X/

邦訳:神経症と人間の成長 (ホーナイ全集)、 誠信書房 (1998/06) 、榎本 譲 (翻訳), 丹治 竜郎 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/dp/4414420067/

**** NEUROSIS AND HUMAN GROWTH ***
192 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/19(月) 20:25:11.98 ID:etYMpT58
 
/// 〈べき〉の専制 1 ///////////

カレン・ホーナイ(Karen Horney)著
原著:Neurosis And Human Growth: The Struggle Toward Self-Realization 1950年発行

 邦訳:『自己実現の闘い――神経症と人間的成長――』 
 対馬忠監修、藤沢みほ子、対馬ユキ子訳
 アカデミア出版会1986年10月発行 より

・・・・
 第3章 〈べき〉の専制

 われわれはこれまで主として、神経症者が理想化された自己を外部の世界とのかかわりの
なかでどのように現実化しようとするかを論じてきた。それは、業績を上げ、成功や権力や
勝利の栄光を求める行動になって現われた。また、神経症的要求も彼の外部の世界にかかわって
いた。彼は自分の素晴らしさからすれば、当然、例外的な権利をもつ資格があると思い、
できる限りの機会と方法をとらえて、そのことを主張しようとする。

///// アカデミア出版会 ///
193 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/19(月) 20:41:55.73 ID:etYMpT58
 
/// 〈べき〉の専制 2 ///////////

また、必然性や法律に拘束されない資格があると思っているために、実際にも、あたかも
それらの支配を受けていないかのように、虚構の世界に住むことができる。そして、自分が
理想化された自己になることができないことがはっきり分ると、彼は神経症的要求によって、
その「失敗」の責任を自分以外の要因に負わせることができる。
 この章では、先に第1章で簡単に触れた、彼自身の内部に中心をおいた自己現実化の側面
について論じよう。ピグマリオンは、他の人を、自分の理想とする美を体現した生き物に
つくり上げようとしたが、神経症者はピグマリオンとは違い、自分自身を自分の創造する
最高の姿につくり上げようとする。彼は自分の魂の前に自らの完成像を置き、無意識のうちに
自分にこう言うのだ。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
194 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/19(月) 20:52:47.53 ID:etYMpT58
 
/// 〈べき〉の専制 3 ///////////

「おまえのほんとうの姿である不名誉な人間のことは忘れてしまうがよい。この姿こそおまえの
あるべき姿であり、この理想化された自己になることだけが重要なのだ。おまえはあらゆることに
耐え、あらゆることを理解し、あらゆる人を好きになり、常に生産的であることができるべきだ」と。
ここに挙げた例は、内的命令のほんの二、三にすぎないが、これらは容赦のない力をもって
追ってくるので、私はこれを名づけて、〈べき〉の専制と呼ぼう。
 内的命令には、神経症者の行動、状態、感情、知識について、こうあることができるべきだ
というすべてのことと、そうあってはならないとする状態や事柄に対するタブーとが含まれている。
簡単に概観するために、まず最初にいくつかの内的命令を枚挙してみよう(さらに詳細な例証は
〈べき〉の特徴を論じる時に述べる)。

///////// 対馬忠監修 ///
195 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/19(月) 21:11:34.06 ID:etYMpT58
 
/// 〈べき〉の専制 4 ///////////

 彼は正直、寛容、思慮、正義、威厳、勇気、非利己的という点で最高の人であるべきであり、
申し分のない恋人、夫、教師であるべきである。あらゆることに耐えることができるべきであり、
すべての人を好きになるべきであり、両親や妻や祖国を愛すべきである。また、どんな物、
どんな人にも執着すべきでなく、何事も問題にすべきでなく、傷つけられたという感情を
決してもつべきでなく、常に穏やかで平静であるべきである。また、常に人生を享楽すべきである、
あるいは反対に、快楽や楽しみから超然としているべきである。彼は自発的であるべきであり、
常に自分の感情を統御すべきである。あらゆることを知り、理解し、予見すべきである。
自分自身の問題でも他人の問題でも、あらゆることをただちに解決することができるべきである。
また、自分の困難に気づくと、ただちにそれを克服することができるべきである。また、
決して疲れたり、病気になったりするべきではない。彼はいつでも仕事を見つけることが
できるべきであり、人が二、三時間かかってする仕事を一時間ですることができるべきである。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
196 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/20(火) 22:27:29.11 ID:WRTOTa/3
 
/// 〈べき〉の専制 5 ///////////

 以上の概観は内的命令の及ぶ範囲を大まかに示したものであるが、これを見ると、自己に
課するこうした要求は、いちおう理解できるとしても、概してあまりにもむずかしすぎ、
厳しすぎるという印象を受ける。そこで、患者に向かって、自分自身にあまり多くのことを
期待しすぎているのではないかと注意すると、彼はしばしば何のためらいもなくそれを認め、
あるいは、既にそのことに気づいている場合さえある。そして、ふつう、自分自身に対する
期待は低すぎるより、高すぎる方が良いのだとはっきり言ったり、ほのめかしたりするだろう。
しかし、彼の自己に課する要求水準の高すぎる点だけを言うのでは、内的命令の特徴はつかめず、
それを明らかにするには、さらに詳しい吟味が必要である。その諸特徴のすべては、彼が
どうしても理想化された自己にならなければならないと感じ、そうなることができると確信
していることから結果するものであるから、互いに重複し合っている。

///// 神経症と人間的成長 ///
197 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/20(火) 22:36:23.99 ID:WRTOTa/3
 
/// 〈べき〉の専制 6 ///////////

 内的命令の特徴として最初に気づくのは、実行の可能性を無視する点であり、これは
理想化された自己を現実化しようとする欲動のすべてにわたって浸透している性質である。
要求の多くは、どんな人によっても充たすことのできないような種類のものである。
外から見てそれが幻想的であることが明らかであるのに、要求している当人はそのことに
気づいていない。しかし、自分の期待していることが批判的な考えによって、はっきり
照らし出されると、彼はそれに気づかないわけにはいかない。それでも、このように
理性の上だけで分っても、ふつう事態は大して変わらない。例えば、ある内科医は九時間
もの診療と広い社交生活の上に、集中的な科学的研究をすることは無理であるとはっきり
分かっていた。

///// 自己実現の闘い ///
198 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/20(火) 22:58:02.07 ID:WRTOTa/3
 
/// 〈べき〉の専制 7 ///////////

しかし、これらの活動のどれかを切り捨てようとしてうまくいかないと、また前と同じ
ペースでやり続ける。自分の時間とエネルギーには限界があるべきでないという彼の
要求が理性よりも強いのである。もっと微妙な例を挙げると、ある患者は、分析の時に
元気がなかった。彼女はその前に、ある友人とその人の夫婦間の込み入った問題について
話し合っていた。患者はその友人の夫については社交の場で見た面しか知らなかった。
しかも、彼女はこれまで何年間も分析を受けていて、二人の人間のどんな関係にも心理的に
複雑なものがあることを十分知っており、忠告なんかできないと分っていたのに、その
友人に、その結婚を続ける方が良いかどうかを言ってあげるべきだったと感じたのである。

///// 原著 1950年発行 ///
199 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/21(水) 21:20:38.52 ID:gaSvklQ/
 
/// 〈べき〉の専制 8 ///////////

 そこで、私は、彼女に、あなたは誰にもできないような無理なことを自分に期待しているのだ、
と言った。そして、その場合に働いている要因をもっとはっきりつかもうとするためにも、
その前に明らかにしなければならない多くの問題点のあることを指摘した。明らかに、彼女は
私が指摘した困難のほとんどについては、既に気づいていたが、それでもなお、その困難の
全部を見通す第六感といったものをもつべきであると思っていた。
 自分に課する要求のなかには、それ自体としては幻想的でないが、要求が実現されるための
条件を完全に無視しているものがある。例えば、自分は非常に賢いから時間をかけずに分析を
終えることができると期待する患者が多い。しかし、分析の進み具合と知能との間にはほとんど
関係がない。実際には、知能の高い人々の推理力がかえって分析の進捗を阻む役目をしている
こともある。分析に大切なのは、患者の内部に働いている情緒的な力や、誠実で、自分のために
責任をとろうとする能力である。

///// Neurosis and Human Growth ///
200 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/21(水) 21:27:24.74 ID:gaSvklQ/
 
/// 〈べき〉の専制 9 ///////////

 このようにたやすく成功できるという期待は、今述べたような一つの精神分析全体に要する
時間についてだけでなく、それぞれの洞察が得られる際にも同じように働く。例えば、自分の
ある神経症的要求に気づくだけで、彼はもうその要求を完全に克服してしまったと同じだと思う。
それを克服するには、忍耐強い作業が必要であること、その要求が生まれるに至った情緒的な
必然性が変わらない限り、その要求は続くであろうということ、すべてこうしたことを患者は
無視する。彼らは自分の知能は最高の主動力であるべきだと信じている。

///// Karen Horney ///
201 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/21(水) 21:47:26.53 ID:gaSvklQ/
 
/// 〈べき〉の専制 10 ///////////

そのため、当然そこから失望や落胆が結果することは避けられない。また同じく、ある教師は
自分の良い教育経験からして、教育学の問題について論文を書くことは容易であるはずだと
期待する。だから、論文がすらすら書けないと、ひどい自己嫌悪を感じる。彼女は次のような
大切な問題、自分は何か言うべきことをもっているのか、自分の経験はいくつかの有効な方式に
結晶化されているのか、ということを不問に付したり、放棄したりしている。そして、かりに
これらの問題に対して肯定的な答えが得られても、論文を書くということは、なお思想を
方式化し、表現するという一つのむずかしい作業を意味するのである。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
202 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/22(木) 22:14:29.42 ID:xkCa0LQ3
 
/// 〈べき〉の専制 11 ///////////

 内的命令とは、警察国家で政治的専制が行なわれるのとちょうど同じように、その人自身の
心理的条件――彼がその時実際に何を感じ、何をなすことができるかということ――を
完全に無視して働く。例えば、よく起こる〈べき〉に、人は決して傷つけられたという
感情をもつべきではないという〈べき〉がある。しかし、誰でもこの〈べき〉を、(「決して」
という言葉で言われるように)絶対的なものとして成就することはきわめてむずかしいことが
分るであろう。傷つけられたという感情を一度も経験したことのないような、安定した、
平静な人がいったい何人いるだろうか? 

///// アカデミア出版会 ///
203 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/22(木) 22:24:17.76 ID:xkCa0LQ3
 
/// 〈べき〉の専制 12 ///////////

それはせいぜいわれわれがそれに向かって努力する理想でしかないだろう。このような
課題を真剣に受けとめるということの意味は、われわれが無意識のうちに身につけている
自己防衛のための要求や偽りの誇りなど、要するに、われわれのの心を傷つきやすくしている
あらゆる人格要因に対して、熱心に、忍耐強く取り組むということにほかならない。しかし、
傷つけられたという感情を決してもつべきではないと思っている人は、そのような具体的な
見通しをもってはいない。彼は自分のなかに傷つきやすい性質があるという事実を否定したり、
無視したりして、もっぱら自分自身に絶対的な命令を下すのである。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
204 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/22(木) 22:32:18.73 ID:xkCa0LQ3
 
/// 〈べき〉の専制 13 ///////////

 次に、もう一つの要求を考えてみよう。例えば、自分はいつも他人に対して理解し、
同情し、役立つべきである、自分は犯罪者の心を和らげることができるべきであるという
要求がある。この要求もまたまったく幻想的というわけではない。例えば、ヴィクトル・
ユーゴーの『レ・ミゼラブル』の僧侶のように、ごく少数の人ではあるが、この精神力を
もっている。私の扱っていたある患者にとって、この僧侶の人間像は一つの重要な象徴に
なっていた。彼女は自分が彼に似るべきだと思っていた。しかし、その時点では、彼女は、
犯罪者に対してあのような行為ができた僧侶のもっていた態度や性質を何一つ具えて
いなかった。彼女は時には慈悲深い行為をすることもできたが、それは慈悲深くあるべきだと
思ったからで、慈悲深い感情をもっていたわけではない。

///////// 対馬忠監修 ///
205 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/22(木) 23:07:47.65 ID:xkCa0LQ3
 
/// 〈べき〉の専制 14 ///////////

事実、彼女は他の人のことを考えなかった。絶えず誰かが自分を利用しないかと恐れ、
何か品物が見つからないと、いつもそれを盗まれたと思った。自分でも気づかぬうちに、
彼女は神経症のために利己的となり、自分の利益のことばかり考えるようになっていた。
しかし、このような面はすべて、強迫的な謙遜さや善良な態度の陰に隠されて、外には
現われなかった。その時、彼女は自分のなかにあるこれらの障害を進んで見ようとし、
それに働きかけようとしただろうか? もちろん、そうはしなかった。ここでも内的命令が
ただ盲目的に発せられ、それが彼女を自己欺瞞や誤った自己批判へと追いやったのだった。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
206 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/23(金) 20:47:09.56 ID:5hensdPG
 
/// 〈べき〉の専制 15 ///////////

 〈べき〉のもつ驚くべき盲目性を説明しようとして、ここでもわれわれは多くの問題を
未解決のままにしておかなければならない。しかし、〈べき〉が栄光の追求から発し、
彼自身を理想化された自己につくり直す働きをもっていることから、次のことだけは
理解できる。つまり、〈べき〉が働く前提となっているものは、どんなことも自分自身に
とって不可能であるべきではない、いや、不可能ではないということである。もしこの
前提を受け入れるとすれば、論理的には、今存在している条件については吟味する必要
などないということになる。

///// 神経症と人間的成長 ///
207 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/23(金) 20:56:04.01 ID:5hensdPG
 
/// 〈べき〉の専制 16 ///////////

 この傾向は要求が過去に向かってなされる時に最もはっきりと現われる。神経症者の
幼年期に関しては、神経症を引き起こしたいろいろな影響を明らかにすることも大切であるが、
彼が過去の逆境に対して、現在どのような態度をとっているかを知ることも重要である。
彼の態度は過去に経験した幸せや不幸によってよりは、現在もっている欲求によっていっそう
強く規定されている。例えば、一般的に、このうえもなく楽しく明るくありたいという
欲求を発達させているなら、彼の幼年時代は金色の霞に包まれて思い出されるだろう。
また、感情を一定の型にはめ込んでいるなら、両親を愛すべきであるから愛していると
いうふうに感じるだろう。彼が自分の人生に対して責任をとることを拒否しているなら、
自分の障害のすべてを両親のせいにするだろう。この態度には復讐がともなっているが、
それは公然と外に現われることも、抑圧されて現われないこともある。

///// 自己実現の闘い ///
208 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/23(金) 21:40:31.46 ID:5hensdPG
 
/// 〈べき〉の専制 17 ///////////

 最後に、これとは反対の極端な態度をとり、一見、自分の責任でない分までも引き受ける
ように見えることがある。この場合、彼は幼年期に受けた脅迫的、拘束的な経験が自分に
どのような影響を与えているかを十分知っているかもしれないが、意識的にはまったく
客観的でもっともらしい態度をとる。例えば、彼は、両親はあのような行動をとるより
仕方がなかったのだ、と言う。時々は、自分はなぜ何の恨みも感じないのだろうと不思議に思う。
恨みを意識しない理由の一つは、ここでわれわれに興味のある懐古的な〈べき〉が働いて
いるためである。

///// 原著 1950年発行 ///
209 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/24(土) 17:32:45.45 ID:iYENkzJh
 
/// 〈べき〉の専制 18 ///////////

彼は自分の育った逆境は、他の誰でも駄目にしてしまうほどのひどいものであったことを
知りながらも、ほかならぬ自分だけは害を受けずに、無傷のままでそこから抜け出てくる
べきだったと思う。彼はこれらの要因に侵されないだけの内面の強さと不屈の精神をもって
いるべきであった。だから、その影響を受けてしまったのは、自分が最初から駄目な人間
であった証拠である。言い換えると、彼はある点までは現実的で、「そうだ、あれは偽善と
残虐の溜池であった」と言う。ところが、その時点から彼の目は曇ってくる。「私は
なす術もなくあのような環境にさらされていたけれども、泥沼に咲き出る蓮の花のように
清らかであるべきだったのだ」と思う。

///// Neurosis and Human Growth ///
210 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/24(土) 18:58:33.86 ID:iYENkzJh
 
/// 〈べき〉の専制 19 ///////////

 彼がもし自らの人生に対してこのような見せかけの責任ではなく、真の責任をとることが
できれば、これとは違ったふうに考えることができるであろう。すなわち、自分の幼年期の
環境が自己の形成に悪い影響を及ぼしたに違いないと認めるだろう。そして、自分の障害が
何から起こったにせよ、それが自分の現在と未来の生活を悩ませていることを認めるだろう。
だから、彼がこの障害を克服するためには、自分のエネルギーを奮い起こした方がよいのだ。
しかし、彼はそうは思わずに、自分は影響を受けるべきではなかったのだという、要求の
まったく幻想的で無益なレベルに、その事柄全体をとどめておく。この患者がもしもっと
後の時期になって、態度を変えて、幼年期の悪い影響にもかかわらず、自分がすっかり駄目に
ならなかった点を認めるなら、それは彼が進歩したことの一つのしるしである。

///// Karen Horney ///
211 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/24(土) 19:36:36.28 ID:iYENkzJh
 
/// 〈べき〉の専制 20 ///////////

 懐古的な〈べき〉がこのように人を欺く、偽りの責任をとる態度で働き、また、同じような
無益な結果をもたらすのは、単に子ども時代を振り返る態度だけに限らない。ある人は友達に
対して忌憚のない批評をして彼を助けるべきであったと言い、また、ある人は自分の子どもを
神経症にならないように育てるべきだったと言う。誰でもいろいろな点て失敗したことを後悔
するのは当然である。しかし、ふつうわれわれは失敗した理由を調べて、そこから学び取ること
ができるし、「失敗」した時にもっていた神経症的障害から見て、実際、自分はあの時は最善を
尽くしたのだと認めることもできる。しかし、神経症者にとっては、自分が最善を尽くしたという
だけでは十分ではなく、何らかの奇蹟的な仕方で、もっとうまくするべきだったと考えるのである。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
212名無しさんの主張:2013/08/24(土) 22:48:34.92 ID:gu+TPS8p
213 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/25(日) 09:27:21.87 ID:fNOc31qO
 
/// 〈べき〉の専制 21 ///////////

 同様に、専制的な〈べき〉によって責め立てられている人にとっては、自分が何か欠点を
もっていると認めるのは耐えられないことである。どのような障害も速やかに取り除かなければ
ならない。障害を取り除く方法はいろいろある。人は空想の世界に住むようになればなるほど、
ますます心から障害を消しやすくなるだろう。例えば、ある患者は自分のなかに王座の陰の
権力者になろうとする野心を見出し、この欲動が自分の生活にどのように作用しているかに
気づいたが、彼女は次の日までに、その欲動はもはや完全に過去の事柄であると信じるように
なっていた。自分は権力に駆り立てられるべきではない、だから、自分は権力によって駆り立て
られてはいないのだと思った。このような「改心」がたびたび起こった後で、われわれは、
現実的な支配力や影響力を求める欲動は、彼女がもっていると幻想している魔力の一つの
現われにすぎないことに気づいた。

///// アカデミア出版会 ///
214 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/25(日) 11:16:12.37 ID:fNOc31qO
 
/// 〈べき〉の専制 22 ///////////

 障害をもっていることに気づいた時に、その障害を意志力だけで取り除こうとする人がおり、
彼らはこの点で極端に走ることがある。例えば、次の二人の少女はどんなものも恐れるべき
ではないと思っていた。一人は夜盗を怖がっていたが、その恐怖が消えるまで無理に誰もいない
家で眠った。他の一人は蛇や魚に噛まれはしないかと恐れ、水の澄んでいないところで泳ぐ
ことを怖がっていたが、無理に鮫の出没する入江を泳いで渡った。二人共、こうしたやり方で
恐怖を何とか取り除こうとしたのだった。こうした出来事は、精神分析をいたずらに新奇を
好むナンセンスと見る人々に有利な材料を与えるように思われる。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
215 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/25(日) 12:09:17.04 ID:fNOc31qO
 
/// 〈べき〉の専制 23 ///////////

これらの例で見れば、ただ奮起しさえすればよいということになるだろうから。しかし、
実際には、夜盗や蛇に対する恐怖は、もっと深層に隠されている一般的な心配が最も明白な
形で外に現れたものにすぎなかった。だから、このような個々の「挑戦」に応じるだけでは、
心の底に広がっているこの不安は触れられないままに残っていた。ある症状をその真の病根に
触れずに処理するやり方では、こうした一般的な不安は、いっそう心の奥深くに追いやられて、
ただ隠されてしまうだけであった。

///////// 対馬忠監修 ///
216名無しさんの主張:2013/08/25(日) 17:40:43.06 ID:???
不倫は文化です。
http://www.geocities.jp/taka_08es/
217 ◆.IJQsoCg7. :2013/08/25(日) 18:01:40.50 ID:GcmVzguM
 
/// 〈べき〉の専制 24 ///////////

 われわれば精神分析において、あるタイプの人々が自分の弱点に気づく時、どのようにして
意志力を発動させるかを観察できる。彼らは予算を立て、人と交わり、もっと自己主張をしよう
とか寛大になろうとか決心し、努力をする。彼らがそれと同じくらいの関心を自分の悩みの
意味や原因を理解することに示せばよいのだが、残念なことに、この関心はひどく欠けている。
個々の障害の因果関係を全体的な視野から見るというそもそもの第一歩からして、彼らの性に
合わないのである。障害の全範囲を見ようとすることは、確かに、障害を消してしまいたい
という彼らの欲動とまったく相反するものであろう。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
218 ◆4otEyhoCdw :2013/08/26(月) 20:55:31.09 ID:Q/Itl1xZ
 
/// 〈べき〉の専制 25 ///////////

また、彼らは、自分は意識的な統制によって障害を克服してしまうだけの強さをもっている
べきだと思っているので、注意深く解決していく道を選ぶことは、自らの弱さと敗北を認める
ことになろう。もちろん、このような無理な努力はいすれは必ず衰えるだろうが、このような
努力によっては、障害はせいぜい、前より少し強く抑制されるだけで、いっそう心の奥深く
追いやられ、さらに形を変えた姿で作用し続けることだけは確かである。分析家は当然
このような不自然な努力を奨励してはならず、それを分析しなければならない。

///// 神経症と人間的成長 ///
219 ◆4otEyhoCdw :2013/08/26(月) 21:02:00.91 ID:Q/Itl1xZ
 
/// 〈べき〉の専制 26 ///////////

 たいていの神経症的障害は、どんなに熱心にそれを統制しようと努力しても、思うようには
ならないものである。抑うつ状態、働くことへの根深い禁止作用、人を消耗させる白昼夢など
に対して、意識的に努力しても、何の効力もない。このことは、分析期間中にいくらかでも
心理学的な理解を得た人ならよく分っていそうに思えるのだが、ここでもまた、理性で分って
いることが、「私はそれを支配することができるべきだ」という要求の前には効果がない
のである。そうした努力の結果として、彼は以前よりもいっそうひどい抑うつ状態やその他の
症状に苦しむことになる。というのは、その症状自体が苦しいことであるうえに、その状態に
なることは自分の無能を示すしるしとなるからである。時には、分析家がこの過程を初期の
うちにとらえて、それを芽のうちに摘むことができる。

///// 自己実現の闘い ///
220 ◆4otEyhoCdw :2013/08/26(月) 21:51:14.40 ID:Q/Itl1xZ
 
/// 〈べき〉の専制 27 ///////////

ある患者は自分の白昼夢がどんなに微妙に行動全般に浸透しているかを詳しく話して、彼女の
白昼夢の程度をよく示していたが、やがてその白昼夢の有害さに気づくようになり、少なくとも
白昼夢が自分のエネルギーをいかに消耗させているかを理解するまでになった。次回には、
白昼夢がまだ残っていたので、彼女はいくらか罪を感じ弁解した。私は彼女が白昼夢をやめな
ければならないという要求を自分に課していることが分ったので、彼女に、それを無理にやめる
ことはできないし、賢明なやり方ではないと思う、と言った。というのは、われわれはこのことを
だんだんと理解するようにならねばならなかったのだが、白昼夢が彼女の生活ではまだ重要な
機能を果たしていることが確信できたからである。

///// 原著 1950年発行 ///
221 ◆4otEyhoCdw :2013/08/27(火) 21:55:50.95 ID:lCD2GR9Y
 
/// 〈べき〉の専制 28 ///////////

彼女は非常に救われた気分になり、私に告白したところによると、彼女は白昼夢をやめる
決心をしたが、それをやめることができなかったので私に嫌われると思ったのだった。
つまり、彼女は自分自身についてもっている期待を私に投射していたのである。
 分析期間中には、失望、焦燥、恐怖など多くの反応が起こるが、これらは患者が自分の
なかに困難な問題を見出したために起こる反応(分析家はそう思いがちであるが)である
よりは、その困難な問題をすぐに解決する力が自分にないと感じるために起こる反応
なのである。

///// Neurosis and Human Growth ///
222 ◆4otEyhoCdw :2013/08/27(火) 22:01:29.27 ID:lCD2GR9Y
 
/// 〈べき〉の専制 29 ///////////

 このように、内的命令は、理想像を維持するための他の方法と比べて、いくぶん過激では
あるが、目指すところが真の変化ではなく、一挙に絶対的な完全さに達することにあるという
点では、それらとよく似ている。それは不完全さを目の前から消し去ること、あるいは、
不完全であるのに完全になったかのように見せかけることを目指している。このことは、最後の
例に見られるように、内的要求が外在化される場合に特に明瞭になる。この場合、その人が
現在どんな状態にあり、何に苦しんでいるかということも重要でなくなる。ここでは、他人に
対してどう見えるかだけが、例えば、人前での握手の仕方、赤面、ぎこちなさなどが大きな
悩みの種となるのである。

///// Karen Horney ///
223 ◆4otEyhoCdw :2013/08/27(火) 22:26:02.17 ID:lCD2GR9Y
 
/// 〈べき〉の専制 30 ///////////

 このことから、〈べき〉は真の理想がもっている道徳的な厳格さを欠いていると言える。
〈べき〉にとらわれている人々は、例えば、正直になろうと一歩一歩努力するのでなく、一挙に
絶対的な正直さに達しなければならないという気持に駆り立てられる。それは彼にとっては
いつもすぐに実現できるもの、つまり、空想のなかで達せられるものである。
 ところが、実際には、彼は、例えばパール・バックが 『女の世界』のウー夫人について
描写しているような、せいぜい行動上の完全さにしか達することができない。そこに描かれた
婦人像はいつも正しいことを行ない、感じ、考えているように見える。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
224 ◆4otEyhoCdw :2013/08/27(火) 22:41:28.89 ID:lCD2GR9Y
 
/// 〈べき〉の専制 31 ///////////

しかし、このような人の外面的な姿が少しも当てにならないことは言うまでもない。彼らに
突然のように外出恐怖症や機能性心臓疾患になって、自分でも当惑し、どうしてこんなことに
なったのかと不思議に思う。彼らはこれまでいつも完璧な生活をし、クラスではリーダーであり、
世に出ては組織者となり、配偶者や親としても模範的であった。ところが、やがて彼らの
いつものやり方で処理できない事態が必ず起こってくる。しかし、彼らはそれを処理する他の
方法を何一つ知らないので、心の平衡を失う。分析家はこのような人と親しくなり、彼らが
非常な緊張の下で行動していることが分った時、むしろ、これまで大した障害もなくよく無事に
過ごしてきたものだと驚くのである。

///// アカデミア出版会 ///
225 ◆4otEyhoCdw :2013/08/28(水) 23:30:43.04 ID:+qX+hfZZ
 
**** アカデミア出版会 ***

 カレン・ホーナイ(Karen Horney)著、1950年発行
 原著:Neurosis And Human Growth: The Struggle Toward Self-Realization

 邦訳:『自己実現の闘い――神経症と人間的成長――』 
 対馬忠監修、藤沢みほ子、対馬ユキ子訳、アカデミア出版会、1986年10月発行

 目次
 序文 自己実現の道徳
 第1章 栄光の追求
 第2章 神経症的要求
 第3章 〈べき〉の専制
 第4章 神経症的誇り
 第5章 自己嫌悪と自己軽蔑
 第6章 事故疎外
 第7章 緊張緩和の一般的手段
 第8章 自己拡張的解決――支配を求める
 第9章 自己縮小的解決――愛を求める
 第10章 病的依存
 第11章 あきらめ――自由を求める
 第12章 人間関係における神経症的障害
 第13章 仕事における神経症的障害
 第14章 精神分析療法の道
 第15章 理論的考察

**** 対馬忠監修、藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ***
226 ◆4otEyhoCdw :2013/08/28(水) 23:36:18.14 ID:+qX+hfZZ
 
/// 〈べき〉の専制 32 ///////////

 〈べき〉の性質をよく知れば知るほど、〈べき〉と真の道徳規準ないし理念との間の違いが
量的なものでなく、質的なものであることがいっそうはっきりと分ってくる。フロイトの犯した
最大の誤謬の一つは、内的命令(彼はそれらの特質のあるものを認め、超自我と記述している)が
道徳一般を構成するものと見た点である。まず、内的命令と道徳の問題との関係はそれほど
緊密なものではない。確かに、道徳的な完璧さを求める要求は、〈べき〉のなかで優位を占めて
いるが、それは道徳の問題が生活において重要であるというただそれだけの理由によっている。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
227 ◆4otEyhoCdw :2013/08/29(木) 00:00:06.12 ID:aKDVMQFF
 
/// 〈べき〉の専制 33 ///////////

しかし、われわれはこの特殊な〈べき〉と、他のこれと同じくらい執拗な〈べき〉、例えば、
「自分は日曜の午後の交通渋滞をうまく逃れることができるべきだ」「骨の折れる訓練や作業を
せずに絵を描くことができるべきだ」といった明らかに無意識の傲慢さからくる〈べき〉とを
区別することができない。〈べき〉のなかには、「何でも持ち逃げすることができるべきだ」
「いつでも人の上手に出ることができるべきだ」「常に他人に仕返しをすることができるべきだ」
といった道徳的な見せかけさえも明らかに欠いている要求が多いことを忘れてはならない。
われわれは道徳的な完全さを求める要求について、その全貌に目を向けて初めて、適切な見通しを
得ることができるのである。道徳的な完全さを求める要求は、他の〈べき〉と同じく、傲慢な
精神に浸透されており、神経症者が栄光を高め、自分を神のような存在にすることを目指す
ものである。

///////// 対馬忠監修 ///
228 ◆4otEyhoCdw :2013/08/29(木) 22:35:17.04 ID:aKDVMQFF
 
/// 〈べき〉の専制 34 ///////////

この意味では、〈べき〉は正常な道徳的努力に見せかけた神経症的なそれの偽物である。すべて
こうしたことに加えて、それは欠点を隠そうとするので、そこには当然無意識的な不正直さが
働くことも考え合わせると、〈べき〉は道徳的な現象であるというよりは、むしろ不道徳な
ものであることが認められる。患者が見せかけの世界からやがて真の理想を発達させる方向に
転換するためには、両者の違いを明確にすることが必要である。〈べき〉を真の理想から区別する
もう一つの性質がある。それについては先にも言及したが、それ自体が非常に重大な意味を
もっているので、ここで別個に、はっきりと述べる必要がある。それは、〈べき〉の強制的性格
である。理想もまたわれわれの生活を強制する力をもっている。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
229 ◆4otEyhoCdw :2013/08/29(木) 22:46:48.64 ID:aKDVMQFF
 
/// 〈べき〉の専制 35 ///////////

例えば、義務は遂行すべきであるという理想があり、自分でもそれを理想とみなしていれば、
たとえ困難であっても、われわれは最善を尽くす。義務を遂行することは、われわれ自身が
終局的に望んでいること、あるいは、正しいと思うことなのである。願望、判断、決定は
われわれのものであり、こうして、われわれは自分自身と一体であるから、この種の努力を
することでわれわれは自由と力を得ることができる。他方、〈べき〉に従う場合には、専制
政治体制の下で「自発的な」貢献や喝采をする程度の自由しかない。〈べき〉の場合でも
専制政治の下でも、期待されたことにそえない時はたちまち報復を受ける。内的命令の場合には、
不履行に対する激しい情緒的反応が起こり、不安、失望、自責、自己破壊的衝動など全般に
わたる反応となる。これらの反応は、外から見ている人には、それを引き起こした原因から
見て度が過ぎているように見えるが、本人にとっては、この事柄のもつ意味と完全に釣り合って
いるのである。

///// 神経症と人間的成長 ///
230 ◆4otEyhoCdw :2013/08/29(木) 23:28:30.26 ID:aKDVMQFF
 
/// 〈べき〉の専制 36 ///////////

 内的命令のもつ強制的性格のもう一つの例を挙げよう。ある婦人は苛酷なほどの〈べき〉を
もっていたが、その一つは、偶然的な出来事をすべて予見できるべきであるという〈べき〉
であった。彼女は自分が予見の才能と思うものをもっており、その予知と思慮で家族を危険から
守っていることを非常に誇りにしている。ある時、彼女は息子に精神分析を受けるように説得
しようと綿密な計画を立てていた。しかし、精神分析に反対の意見をもっている息子の友達の
影響のことまで考えが及んでいなかった。彼女は、この友達のことを計算外においていたことに
気づいた時、肉体的なショックを受け、足をすくわれたように感じた。

///// 自己実現の闘い ///
231 ◆4otEyhoCdw :2013/08/30(金) 21:24:29.75 ID:J156rKUg
 
/// 〈べき〉の専制 37 ///////////

実際には、彼女が思うほど、その友達が息子に影響力をもっていたかどうかも、また、
ともかく、手を尽くせば彼が力になると約束してくれたかどうかも非常に疑問であった。
しかし、ショックと虚脱のこの反応は、完全に、彼女がその友人のことを考えるべきだった
と突然気づいたために起こったものであった。これと似たものには、非常に優秀なドライバー
だったある婦人が、前の車と軽く接触し、警官に呼びとめられ車から降ろされた例がある。
事故はきわめて軽微であったし、彼女は自分に道理があると思う時はいつも警官を恐れなかった
のに、その時は突然、非現実感に襲われた。

///// 原著 1950年発行 ///
232 ◆4otEyhoCdw :2013/08/30(金) 21:37:45.28 ID:J156rKUg
 
/// 〈べき〉の専制 38 ///////////

 不安の反応は気づかれない場合が多いが、それは、不安に対する防御姿勢がすぐ習慣的に
とられるためである。例えば、友人に対しては聖人のように振舞うべきだと思っていたある人は、
友人を助けることができたかもしれない時に薄情であったと気づくと、大酒を飲んでばか騒ぎを
した。また、いつも愉快で人に好かれる人間でなければならないと思っていた婦人は、ある友人を
パーティに招待しなかったことを他の友達からそれどなく非難されると、一瞬不安がよぎり、
ちょっとの間気絶しそうになり、彼女が不安を抑制する時にいつもそうするように、愛情への
欲求をつのらせた。また、ある男性は〈べき〉が成就されなかったことに強迫観念をもち、
女と寝たいという激しい衝動に襲われた。彼にとって、性行為は自分が人から望まれている
という感じを味わい、失った自尊心を取り戻すための手段であった。

///// Neurosis and Human Growth ///
233 ◆4otEyhoCdw :2013/08/30(金) 21:53:58.82 ID:J156rKUg
 
/// 〈べき〉の専制 39 ///////////

 それゆえ、〈べき〉が成就されない時のこのような報いを考えると、〈べき〉が強制力を
もつのは少しも不思議ではない。人は自分の内的命令に従って生きている間はかなりうまく
やっていけるが、相反する二つの〈べき〉の板挟みになる時には混乱してしまう。例えば、
ある男性は、一方では、理想的な医者になり、患者のためにすべての時間を捧げるべきだと思い、
他方では、やはり理想的な夫として、妻が求めるだけの時間をさいて幸福にしてやるべきだと
思っていた。しかし、その両方を十分に果たすことができないと分ると、軽い不安に襲われた。
彼はこの難問を一刀両断に片づけようと、田舎に落ち着く決心をしたために、その不安は
軽い程度にとどまった。しかし、そうすることは、医者としての修業をもっと積みたいという
希望を捨てることであり、そのために、彼の職業の全将来を危うくするものであった。

///// Karen Horney ///
234 ◆4otEyhoCdw :2013/08/31(土) 17:46:38.98 ID:q3DK5kcD
 
/// 〈べき〉の専制 40 ///////////

 このディレンマは分析にかけられ、最後には満足のいくように解決された。しかし、この例は、
内的命令の葛藤のために引き起こされる失意の大きさを示している。ある女性は理想的な母親で
あることと、理想的な妻であることとを兼ね備えることができなかったために、ほとんど破滅
しそうになった。彼女の場合、理想的な妻になることは、アルコール依存の夫にひたすら耐える
ことであったからである。
 このように互いに相容れない〈べき〉をもつ場合、その対立する要求は等しく強制力をもって
いるので、そのいずれを選ぶかを合理的に決断することは、不可能でないにしても、むずかしい
のは当然である。ある患者は、妻と旅行に出かけるべきか、事務所にとどまって仕事をするべきかを
決断できず、夜もろくに眠れなかった。自分は妻の期待にそうべきか、それとも、雇い主の言うことに
従うべきか? 彼の考えには、自分が何を最も望んでいるかということは全然入ってこなかった。
そして、この問題は、〈べき〉を根拠にして考える限り、まったく解決できないものであった。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
235 ◆4otEyhoCdw :2013/08/31(土) 18:02:13.72 ID:q3DK5kcD
 
/// 〈べき〉の専制 41 ///////////

 人は内的専制が与える強力な影響力についても、その性質についても、決して気づいていない。
しかし、この内的専制に対する態度と、それを経験する仕方には大きな個人差がある。服従と
反抗を両極として、その間に様々な態度がある。人の人のなかには、こうしたいろいろな態度の
要素が働いているが、ふつうはそのうちのいずれか一つの態度が支配的になっている。後で
示される区別を先取りして言うと、内的命令に対する態度とそれを経験する仕方は、主として、
支配、愛、自由のどれがその人の人生に最も強く訴える力をもっているかによって決まる。
このような個人差についてはもっと後で論じるので、ここでは、このような個人差が〈べき〉や
タブーに関してどのように働いているかを簡単に示すだけにとどめよう。

///// アカデミア出版会 ///
236 ◆4otEyhoCdw :2013/08/31(土) 18:49:01.91 ID:q3DK5kcD
 
/// 〈べき〉の専制 42 ///////////

 人生を支配することが最も大切だと考えている自己拡張型の人は、内的命令と自分自身とを
同一視し、意識的、無意識的に、自分のもっている規準を誇りに思いがちである。彼はその
規準の妥当性を疑うことをせず、それを何らかの方法で現実化しようとする。彼は実際の
行動においてその規準にかなうようにしようとする。例えば、自分は誰にも気に入られるべき
であり、何についても誰よりもよく知っているべきであり、決して誤りを犯すべきではなく、
自分がしようと企てたことはどんなことも決してし損じるべきではない。つまり、彼のしなければ
ならぬ〈べき〉は何でも成就すべきである。彼は自分では自らの掲げる最高の規準に達している
と思っている。彼の傲慢な気持は非常に強いので、失敗することがあるなどとは考えられず、
たとえ失敗が起こっても、それを無視してしまう。彼は自分が正しいと固く信じ込んでいるので、
絶対に誤りを犯さないと考えているのである。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
237 ◆4otEyhoCdw :2013/08/31(土) 20:28:13.87 ID:q3DK5kcD
 
/// 〈べき〉の専制 43 ///////////

 彼が空想にふけることが多くなるにつれ、実際に努力をする必要はますます少なくなる。
そのため、彼が現にどれほど恐怖に苦しんでいても、また、どれほど不正直であっても、
心のなかで自分はこのうえもなく大胆であり、正直であると思うだけで十分なのである。
彼にとっては、「私はそうあるべきである」と「私はそうである」という二つの道の境界線は
曖味である――もっとも、われわれの誰でもあまりはっきりしていないのだが。ドイツの詩人、
クリスチャン・モルゲンシュテルンはある詩のなかで、このことを簡潔に述べている。ある男が
トラックにひかれ、片足を骨折して入院していたが、事故が起きた道路ではトラックの運転が
禁じられているという記事を読んだ。すると彼は自分の経験全体が夢にすぎなかったのだという
結論に達した。それは、彼が起こるべきではないことはどんなことも起こりえないのだと
「かみそりの刃のように鋭く」結論したからである。空想が理性を支配すればするほど、
「そうあるべき」こととの境界線は消え、彼は理想的な夫、父親、市民など、自分がそうである
べきだと思うどんなものででもあることができる。

///////// 対馬忠監修 ///
238 ◆4otEyhoCdw :2013/09/01(日) 09:12:33.50 ID:zdEhn6SH
 
/// 〈べき〉の専制 44 ///////////

 愛がすべての問題を解決すると思っている自己縮小型の人も、自己拡張型の人と同じように、
自分の〈べき〉は疑うことのできない掟であると思っている。しかし、彼は〈べき〉にかなう
ように熱心に努力しながらも、自分は情けないことに、それらを遂行することができないと感じる。
それゆえ、彼の意識経験を支えるいちばん基調となっている要素は自己批判であり、自分が
最高の者でないことへの罪の感情である。
 内的命令に対するこの両方の態度は、それが極端になれば、自己分析することをむずかしくする。
極度に独善的になれば、自分自身のなかの欠点を見ることができなくなる。他の極端の、
あまりにも罪を感じやすい傾向では、欠点を見抜く力がその人を解放するより、むしろ
打ちひしぐ結果になる危険性をもっている。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
239 ◆4otEyhoCdw :2013/09/01(日) 09:40:29.41 ID:zdEhn6SH
 
/// 〈べき〉の専制 45 ///////////

 最後に他の何にもまして「自由」の理念に心ひかれるあきらめ型の人は、三つの型の
うちで、内的専制に対していちばん強く反抗する傾向をもつ。自由――あるいは、彼の
考える自由――が彼にとってきわめて大切であるからこそ、彼がどんな強制にも過敏に
なるのである。彼はいくぶん受身的な仕方で〈べき〉に反抗することがある。この場合、
自分がどうしてもしなければならないと思うこと、例えば、何かの仕事をする、読書をする、
妻と性関係をもつなどのことは、心のなかで強制に変わり、意識的、無意識的に憤りが
生じてきて、そのために気分が重くなる。たとえ、しなければならないことをするにしても、
それは心のなかの抵抗から生じた緊張の下でなされることになる。

///// 神経症と人間的成長 ///
240 ◆4otEyhoCdw :2013/09/01(日) 09:53:06.93 ID:zdEhn6SH
 
/// 〈べき〉の専制 46 ///////////

 彼はもっと積極的に〈べき〉に反抗することもある。〈べき〉をすべて捨ててしまおうとして、
時にはまったく逆の態度をとり、自分のしたい時にしたいことしかしないという態度に固執する。
反抗は激しい形をとり、しばしば自暴自棄的な反抗となることも多い。彼は自分が敬虔、純潔、
誠実の見本になれないのなら、徹頭徹尾「悪く」なり、無節操になり、嘘をつき、他人を侮辱
しようとするのである。
 ふだんは〈べき〉に服従している人が、時として反抗の一時期をもつこともある。ふつう、
この反抗は外部からの規制に対して向けられる。J・P・マーカンドはこのような一時的な反抗を
うまく描いている。彼はこの一時的な反抗がいかにたやすく静められるか、そしてそれは、外から
規制する規準が内的命令のなかに強力な味方をもっているためであることを示した。そして、
その人は反抗の後で無感動と無気力の状態に陥るのである。

///// 自己実現の闘い ///
241 ◆4otEyhoCdw :2013/09/01(日) 10:17:40.52 ID:zdEhn6SH
 
/// 〈べき〉の専制 47 ///////////

 最後に、自分を厳しく譴責する「善良な」時期と、どんな規準にも激しく反抗する時期とを
交互に経験する人もいる。このような人は、そばでよく観察している友人には理解できない
謎のように見える。彼は性や金銭に関して我慢ならぬほど無責任な態度をとるかと思えば、
他の時には、非常に高い道徳的感受性を示す。そこで、この男はとうていものの分る人でない
とあきらめていた友人も、やはりこの人は立派な人間なのだと安心するが、またその直後に
ひどい疑惑に投げ込まれることになる。また、「こうすべきだ」と「いや、そうすまい」との
間を絶えず迷っている人もいる。「負債を支払うべきだ、いや、どうして支払うことがあろうか」
「食餌療法をすべきだ、いや、しないでおこう」というようにである。このような人は一見
自発性をもっているかのような印象を人に与え、自分でも〈べき〉に対する矛盾した態度を、
「自由」と取り違えることが多い。

///// 原著 1950年発行 ///
242 ◆4otEyhoCdw :2013/09/01(日) 19:40:43.36 ID:zdEhn6SH
 
/// 〈べき〉の専制 48 ///////////

 どのような態度が支配的であるにせよ、その過程の大部分は常に外在化される。つまり、
それは自己と他人との間に起こっているものとして経験される。ただ具体的にどの点で、
また、どのような仕方で、外在化されるかが人によって違うだけである。大まかに言えば、
人は主として自分の規準を他人に押し付け、それを完全に達成するように容赦のない要求を
する。彼は、自分を万物の尺度と思うようになればなるほど、一般的な完成ではなく、
彼独自の規範が達成されることを強く要求するようになる。そして、他の人がそれを遂行
できないと、軽蔑し、怒る。さらに不合理なのは、どんな時、どんな条件の下でも、彼は、
自分がかくあるべしと思う通りのものになれないと、その苛立ちを外部に向ける点である。
だから、自分が完璧な恋人でない場合や嘘を見破られた場合には、逆にその相手にかみついて、
その人々を非難するような話を捏ち上げたりする。

///// Neurosis and Human Growth ///
243 ◆4otEyhoCdw :2013/09/01(日) 20:34:32.43 ID:zdEhn6SH
 
/// 〈べき〉の専制 49 ///////////

 さらに、彼は主として、自分自身に対してもった期待を、他人からきたものと思うこともある。
そして、実際に他人が何かを期待しているにせよ、あるいは、自分でそのように思い込んでいる
だけにせよ、そうした期待は遂げられるべき要求に変わるのである。もし彼が精神分析を受けて
いるなら、分析家が自分に不可能なことを期待していると考える。彼は自分が思っていること、
例えば、自分は常に生産的でなければならない、報告できる夢をいつももっていなければならない、
分析家が自分に話して欲しいと思っているようなことをいつも話さなければならない、援助を
受けたら、いつも感謝し、快方に向かうことで感謝の念を表さなければならないといったことも、
分析家からの期待であるように思ってしまう。

///// Karen Horney ///
244 ◆4otEyhoCdw :2013/09/03(火) 21:52:07.25 ID:eWGRpLjZ
 
/// 〈べき〉の専制 50 ///////////

 このように、他人が自分に何かを期待し、要求していると思う時、彼はここでも二つの
違った反応をするだろう。一つは、他人の期待を先取りしたり、推測したりして、何とか
してそれに合った行動をとろうとする。この場合には、ふつう、やはり、もし自分がその
期待にそえなければ、相手から非難され、たちまち絶交されてしまうだろうと予想する。
あるいは、強制に対して過敏な人なら、他の人々が自分をだまし、自分のことに干渉し、
急ぎ立て、強制していると思う。そこで、そのことにひどく用心したり、相手に対して
公然と反抗することさえある。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
245 ◆4otEyhoCdw :2013/09/03(火) 21:56:14.98 ID:eWGRpLjZ
 
/// 〈べき〉の専制 51 ///////////

クリスマス・プレゼントを期待されていると思うと、それを贈るのが嫌になる。仕事や約束の
場所には決められた時間より少し遅れて行く。いろいろな記念日や書かねばならない手紙や
頼まれた用事などを忘れる。自分でも好んでいて、訪ねるつもりだった親戚に、母親から
訪問するように頼まれただけで、その訪問を忘れてしまう。人から何か頼まれるとそれに
過度な反応を示す。この場合、彼は他人の批判を恐れるよりも、頼まれたことに腹を立てて
いるのだろう。また、活発で不当な自己批判も強く外在化される。その場合、他の人が自分に
不当な判断を下しているとか、いつも自分の裏面の動機を疑っているとか思う。また、もっと
攻撃的に反抗している場合であれば、反抗を誇示して、人にどう思われようが自分は少しも
気にしていないのだと信じ込むだろう。

///// アカデミア出版会 ///
246 ◆4otEyhoCdw :2013/09/03(火) 22:19:54.29 ID:eWGRpLjZ
 
/// 〈べき〉の専制 52 ///////////

 人から頼まれたことに対して過度の反応を示す場合、それは心のなかの要求を知るのに
良い手がかりとなる。自分でも行き過ぎだと思うような反応は、自己分析に特に役立つ。
次の例は、部分的には自己分析であるが、自己観察から不完全な結論が引き出されることが
あることを示すのにも役立つだろう。それは私か時々会ったある忙しい行政官に関するもの
である。彼はヨーロッパのある亡命作家を桟橋に迎えに行くように電話で頼まれた。彼は
かねてからこの作家を尊敬しており、ヨーロッパ訪問の際にも、社交の場で会ったことがあるが、
その日は会議や他の仕事がぎっしり詰まっており、桟橋での待ち時間も考えると、なおさら、
この要請に応じることは現実に不可能であった。後で彼が気づいたことであるが、この場合、
分別のある二通りの反応ができたはずだった。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
247 ◆4otEyhoCdw :2013/09/03(火) 22:41:31.78 ID:eWGRpLjZ
 
/// 〈べき〉の専制 53 ///////////

一つは、出迎えに行けるかどうかもっとよく考えてみましょうと言うか、もう一つは、
残念ですがと断わって、でも、その作家のために何か他に自分にできることはないかと
尋ねてみるかである。しかし、彼はそのどちらもせずに、ただ苛立って、自分は非常に
忙しくて、桟橋に人を迎えに行くことなどとてもできないと無愛想に答えたのだった。
 このすぐ後で、彼は自分のとった行動を後悔し、その後、もし必要ならばその作家のために
役立とうと、彼の居場所をかなり骨折って探した。彼は自分のしたことを後悔しただけでなく、
当惑もした。自分はその作家のことを思ってしたほどには高く評価していなかったのだろうか? 
いや、確かに高く評価していたと思う。では、自分は自ら信じていたほどには友情に厚く、
人のために尽くす人間でなかったのだろうか? もし自分が友情のある人間であるとすれば、
苛立たしく思ったのは、自分がすぐその場で、友情のある有用な人間であることを証明する
ように求められたからであろうか?

///////// 対馬忠監修 ///
248 ◆4otEyhoCdw :2013/09/04(水) 20:36:19.88 ID:FG5sC0Oh
 
/// 〈べき〉の専制 54 ///////////

 彼の考え方はここまでは正道であった。実際、自分の親切が本物であるかどうかを疑うことが
できるだけでも、彼にしてはたいしたことだった。というのも、彼は理想像のなかでは、
自分を人類の恩人だと思っていたのであるから。しかし、この時点から先は彼の手におえない
ものであった。彼は、自分は後になって、熱心に援助を申し出だのだから、自分の親切さは
疑う余地がないのだど思い込んだ。しかし、彼は疑うという一つの道を閉ざしたとたん、
もう一つの手がかりに思い当たった。援助を申し出た時は主体性は自分の方にあったが、
最初の時は、あることをするように人から求められたのであり、だから、自分はその要求を
不当な押し付けと感じたのだと気づいた。もし作家の到着を自分が知っていたら、何とかして
船まで迎えに行けないだろうかと自分から進んで考えていただろう。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
249 ◆4otEyhoCdw :2013/09/04(水) 20:51:12.87 ID:FG5sC0Oh
 
/// 〈べき〉の専制 55 ///////////

彼は今これと同じような、人からの頼まれ事に苛立つ反応をした多くの出来事を思い出した。
実際にはただ人が頼んだり、提案したりしただけのことを、明らかに、自分に対する押し付けや、
強制として受け取っていたことに気づいた。また、人から同意が得られなかったり、批判
されたりすると、腹を立てたのを思い出した。彼は自分ががき大将になって人を支配したがって
いたのだという結論に達した。このことにここで言及するのは、この種の反応が、優越を
求める傾向と間違えられやすいからである。彼が自分で見出したのは、強制や批判に対する
自分の過敏さであった。彼は強制されると、窮屈な鎧を着ているように感じて、我慢する
ことができなかったのである。

///// 神経症と人間的成長 ///
250 ◆4otEyhoCdw :2013/09/04(水) 21:01:17.03 ID:FG5sC0Oh
 
/// 〈べき〉の専制 56 ///////////

また、彼は自分自身に対する最も苛酷な批評家だったので、人の批判には耐えられなかった。
この前後関係において、われわれもまた彼が自分の友情について疑った際に見捨てた方の
道を取り上げることができよう。彼が大いに人のために尽くすのは、自分が人のために
尽くすべきであると思ったからで、抽象的な人間愛からそうしたのではなかった。具体的な
個々人に対する彼の態度は、自分で思っている以上に分裂していた。だから、何かを頼まれると、
言われた通りにし、非常に親切にしなければならないと思うと同時に、自分は誰にも強制される
べきではないと考え、内的葛藤に陥った。彼の感じた苛立たしさは、その時に解決できない
ディレンマに陥っていた感情の現われであった。

///// 自己実現の闘い ///
251 ◆4otEyhoCdw :2013/09/05(木) 21:27:48.57 ID:BOPz6DGS
 
/// 〈べき〉の専制 57 ///////////

 〈べき〉が人格や人生に及ぼす影響は、その人が〈べき〉に対してどう反応し、それを
どう感じるかによってある程度違ってくる。しかし、程度の差はあっても、ある種の影響は
必ず現われる。〈べき〉はいつでも緊張感を生じる。そして、〈べき〉を行動において
示そうとすればするほど、この緊張は強まる。彼はいつでも爪先で立っているように緊張し、
極度の疲労に陥り、なかなか治らなかったり、何となく拘束感、緊張感、閉塞感を抱いたりする。
彼のもつ〈べき〉とその社会で彼に期待されている態度とが一致している場合は、緊張感は
ほとんど意識されないが、それでもこの緊張は、これさえなければもっと活動的になれる
人を活動や義務から逃れたい気分にさせるほどの強さはもっているだろう。

///// 原著 1950年発行 ///
252 ◆4otEyhoCdw :2013/09/05(木) 21:43:07.97 ID:BOPz6DGS
 
/// 〈べき〉の専制 58 ///////////

 さらに〈べき〉は外在化されるので、何らかの仕方でいつも人間関係における障害を引き起こす
原因となる。この点で最も一般的な障害は、批判に対して過敏になることである。彼は、自分自身に
対して苛酷な批判者であるために、他人からのどんな批判も――それが実際になされたものでも、
予期されただけのものでも、また、好意的なものか否かにかかわらず――自分がなした批判と
まったく同じように自分を非難するものと受け取らざるをえない。彼が自分に課した規準に
達しないために、どれほどひどい自己嫌悪に陥るかを知れば、批判に対する彼の感受性がいかに
強いかがいっそうよく理解できよう。その他では、どの種類の外在化が支配的であるかによって、
人間関係においてどんな種類の障害が起こるかが変わってくる。すなわち、支配的な外在化の
種類により、彼は他人に対してあまりに批判的かつ苛酷になったり、あまりに気をつかいすぎたり、
あまりに喧嘩腰になったり、あまりに追従的になったりする。

///// Neurosis and Human Growth ///
253 ◆4otEyhoCdw :2013/09/05(木) 21:47:51.32 ID:BOPz6DGS
 
/// 〈べき〉の専制 59 ///////////

 とりわけ重要な影響は、〈べき〉が感情、願望、思考、信念などの自発性――自分自身の感情、
願望、思考、信念をもち、それらを表現する能力――をいっそう損ねる点である。その時、人は
たかだか(ある患者の言葉を引用すれば)「自発的に強迫的に」なることができるだけであって、
自分が感じ、欲し、考え、信じるべきであると思うものを「自由に」表現することができるに
すぎない。われわれは感情を統御できず、統御できるのは行動だけであるという考えに慣れている。
他人に労働を強いることはできるが、仕事を好きになるように強制することはできない。それと
ちょうど同じように、われわれは何も疑っていないかのように無理に振舞うことはできても、
確信するという感情そのものを強制することはできないという考え方に慣れている。このことは
本質的には真実であって、それについて新しい証拠が必要なら、精神分析がそれを提供して
くれよう。しかし、もし〈べき〉が感情について命令を発すれば、空想は魔法の杖を振るい、
感じるべきものと、感じるものとの境界線は消え失せる。その時、われわれは、信じるべきである、
感じるべきであると思う通りに、意識的に信じ、感じることができる。

///// Karen Horney ///
254 ◆4otEyhoCdw :2013/09/06(金) 20:17:39.27 ID:ohLPuqXQ
 
/// 〈べき〉の専制 60 ///////////

 このことは、精神分析において、偽りの感情のもつうわべだけの確信が揺さぶられる時に
明らかになる。患者はこの時、何事にも確信がもてず、戸惑う時期を経験する。それは苦しい
けれども建設的な時期である。例えば、今まであらゆる人を愛すべきであるから、愛していると
信じていた人は、その時、自分はほんとうに夫や生徒や患者や、あるいは他の誰でも好きなの
だろうか、と自問する。その時点では、まだこの質問に対する答えは出てこない。というのも、
これまでやさしい感情の自由な流れを常に阻み、しかも、〈べき〉のために押し隠されていた
恐怖や疑惑や恨みの感情のすべてに、彼は今やっと取り組むことができるようになったばかり
であるから。それは真実なものの追求の始まりを示しているので、私はこの時期を建設的な時期
と呼ぼう。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
255 ◆4otEyhoCdw :2013/09/06(金) 20:21:54.04 ID:ohLPuqXQ
 
/// 〈べき〉の専制 61 ///////////

 内的命令のためにどれにほど自発的な願望が打ち砕かれるかは驚くほどである。次に挙げた
ものは、ある患者が自分のなかに〈べき〉の専制を見出した後に書いた手紙からの引用である。

   私はまったく何事も、死すら欲することができないことが分ったのです。もちろん、「生」
  もです。今まで私は、自分の悩みは、物事をなすことができないということだけだと思って
  いました。例えば、白昼夢をやめることができない、自分のものをまとめることができない、
  自分の苛立ちを受け入れたり、抑えたりできない、ほんとうの意志力や忍耐力や悲しみのどれに
  よっても、自分をもっと人間らしいものにすることができないことだと思っていました。ところが
  今になって初めて気がついだのは、自分が文字通り何事も感じることができないということです
  (そうです、私の名だたる敏感さにもかかわらず)。私は何とよく苦痛が分かったことか――
  この六年間、それも繰り返し。私の皮膚の孔という孔は、内部の怒り、自己憐憫、自己軽蔑、
  絶望でふさがれていました。しかし、今分かったのです――そのすべては否定的、反動的、
  強制的であり、すべてが外から課せられたものであって、内部には私自身のものはまったく
  何一つなかったということが。

///// アカデミア出版会 ///
256 ◆4otEyhoCdw :2013/09/06(金) 20:38:12.77 ID:ohLPuqXQ
 
/// 〈べき〉の専制 62 ///////////

 見せかけの感情は、善、愛、聖の方向に自分の理想像をもっている人々に最も顕著に見られる。
この人々は他人に対しで思いやり深く、感謝の心をもち、同情心があり、親切で、愛情深く
あるべきだ、だから、自分はこういった性質をすべてもっていると思っている。彼らはまるで
自分たちがまったく善良で、愛情深い人であるかのような話し方や仕草をする。しかも、自分でも
そういう人間であると確信しているから、一時的には、他人にもそう信じ込ませることができる。
しかし、もちろん、このような見せかけの感情には何の深みも持続力もない。ただ、環境が
うまく合えば、そうした感情はかなり一貫して続くので、当然、疑問をもたれることもない。
『女の世界』のなかのウー夫人は、家庭のなかに困ったことが起きた時と、自分の感情に素直で
正直な生き方をしているある男性に会った時に、初めて自分の感情が本物であるかどうかに
疑問をもち始めた。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
257 ◆4otEyhoCdw :2013/09/07(土) 07:11:44.83 ID:Nw+PkBut
 
/// 〈べき〉の専制 63 ///////////

 あつらえの感情が底の浅いものであることは、他の仕方でもっとよく現われる。こうした
感情は非常に消えやすい。自尊心や虚栄心が傷つけられると、それまでの愛はすぐに無関心、
恨み、軽蔑に変わってしまう。こうした場合、人はふつう「自分の感情や意見はどうして
こんなに変わりやすいのだろうか?」と自分に問うことをしないで、人間性に対する自分の
信頼を他の人が裏切ったのだとか、自分は「ほんとうは」彼を信用していなかったのだとか
思うだけである。すべてこうしたことは、彼には本来、強く生き生きした感情を抱く潜在能力が
ないという意味ではなく、より意識的な水準では、真実味のほとんどない、見せかけの感情が
広がっているということである。結局のところ、彼らは何か実質のない、つかみどころのないもの、
俗に言えば、いかさま師であるような印象を与える。そして、真に偽りのない感情と言えば、
時々起こる発作的な怒りだけであることが多い。

///////// 対馬忠監修 ///
258 ◆4otEyhoCdw :2013/09/07(土) 07:49:16.70 ID:Nw+PkBut
 
/// 〈べき〉の専制 64 ///////////

 これと正反対の、無感動や冷酷な感情も誇張されることがある。ある神経症者では、やさしさ、
同情、信頼の感情に対するタブーは非常に強く、ちょうど他の神経症者における敵意や復讐心に
対するタブーの強さと同じくらいに強い。このような人々は、親しい人間関係などは何ももたずに
生きることができるべきだと思っているから、そんなものは必要でないと信じている。また、
何事も楽しむべきではないと思っているから、自分はそんなことには全然興味がないのだと
信じている。それゆえ、彼らの感情生活は歪曲されているというよりは、明らかに貧困であると
言えよう。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
259 ◆4otEyhoCdw :2013/09/07(土) 19:29:45.06 ID:Nw+PkBut
 
/// 〈べき〉の専制 65 ///////////

 もちろん、内的命令から生じる様々な感情は、いつも今挙げた二つの極端なグループにおける
ほど単純な形をとるわけではない。下される命令が矛盾していることもある。自分はどんな
犠牲もいとわぬほど同情深い人間であるべきである、だが、また一方では、どんな復讐も辞さぬ
ほどの冷血漢でなければならないと思う。したがって、自分を無情な人間であると確信することも
あれば、きわめて親切な心の持ち主であるように思うこともある。また、非常に多くの感情や
願望が抑圧されているために、一般的な感情が枯渇してしまっている人もいる。例えば、自分の
ために何かを望むことにタブーをもっており、そのためにすべての生き生きした願望が抑えられ、
自分のために何をするにも全般的に禁止が働く場合がある。

///// 神経症と人間的成長 ///
260 ◆4otEyhoCdw :2013/09/07(土) 19:37:22.24 ID:Nw+PkBut
 
/// 〈べき〉の専制 66 ///////////

その時、人は一つにはこうした禁止があるために、それとちょうど同じにほどの全般的な要求を
発達させ、自分は人生のあらゆるものを、銀の火皿に載せて出してもらえる資格があると思う。
そして、このような要求が阻止され、そのことへの怒りが起こっても、自分は人生に耐えるべき
であるという内的命令によって、その気持を押し殺してしまうだろう。
 このような全般的な〈べき〉が感情に対してどんなに有害であるかは、それが他の領域に及ぼす
害ほどには意識されていない。しかし、実際には、それは自分自身を完全なものにつくり上げる
ために支払わなければならない最高の代価である。感情はわれわれ自身の最も活動的な部分である。
もしこの部分が専制体系の下に置かれるならば、われわれの本質的な存在のなかに、一つの深い
不確定な部分がつくられ、それが自分と自分自身の内外のあらゆるものとの関係に不利な影響を
与えるに違いない。

///// 自己実現の闘い ///
261 ◆4otEyhoCdw :2013/09/07(土) 22:55:18.99 ID:2YSK6CZ6
 
/// 〈べき〉の専制 67 ///////////

 内的命令の影響の強さは、どんなに過大に評価してもしすぎることはない。理想化された
自己を現実化しようとする欲動が人を支配するようになればなるほど、〈べき〉は彼を動かし、
駆り立て、鞭打つ、唯一の原動力となる。真の自己からなおも遠ざかっている患者は、〈べき〉が
自分を拘束していることを知っても、〈べき〉を捨てようと思うことはまったくできないだろう。
なぜなら、もし〈べき〉がなければ、自分は何事もする気になれず、また、することもできないと
思っているからである。彼は時々この懸念を、人は強制によってしか他人に「正しい」ことを
させることはできないのだという信念によって表わすことがある。これは自分の内的経験を
外在化した表現である。だから、〈べき〉は患者にとっては主観的な価値をもっており、
患者が自分のなかにそれ以外に自発的な力が存在することを体験するようになって初めて、
〈べき〉をもたずに生きることができるのである。

///// 原著 1950年発行 ///
262 ◆4otEyhoCdw :2013/09/07(土) 23:19:15.26 ID:2YSK6CZ6
 
/// 〈べき〉の専制 68 ///////////

 われわれは〈べき〉のきわめて大きな強制力を理解する時、ここで一つの問いを提起しなければ
ならない。そして、それに対する答えを第5章で論じることにしよう。その問いとは「人は自分が
内的命令にかなうことができないと認める時、どのようになるのか?」というものである。その
答えを先取りして簡単に言うと、「その時、彼は自分自身を嫌悪し、軽蔑し始める」。実際、
〈べき〉がどの程度自己嫌悪と絡み合っているかを知らなければ、〈べき〉の影響を十分に理解
することはできない。〈べき〉が真に恐怖政体となるのは、〈べき〉の背後に潜んでいる懲罰的な
自己嫌悪の脅威のためなのである。

・・・・

///// Neurosis and Human Growth ///
263 ◆4otEyhoCdw :2013/09/08(日) 07:00:36.62 ID:wMKIrvou
 
/// KAREN HORNEY ////////////

カレン・ホーナイ(Karen Horney)著
NEUROSIS AND HUMAN GROWTH: The Struggle Towards Self-Realization 1950年出版

Neurosis and Human Growth [Paperback]
http://www.amazon.com/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-Realization/dp/0393307751/
http://www.amazon.co.jp/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-Realization/dp/0393307751/
http://www.amazon.co.jp/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-realization/dp/0393001350/

Neurosis And Human Growth [Hardcover]
http://www.amazon.com/Neurosis-And-Human-Growth-Self-Realization/dp/B0006ASE2A/
http://www.amazon.co.jp/Neurosis-Human-Growth-SELF-REALIZATION-International/dp/041521095X/

邦訳:神経症と人間の成長 (ホーナイ全集)、 誠信書房 (1998/06) 、榎本 譲 (翻訳), 丹治 竜郎 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/dp/4414420067/

////// NEUROSIS AND HUMAN GROWTH ///
264 ◆4otEyhoCdw :2013/09/08(日) 17:52:49.15 ID:wMKIrvou
 
/// 神経症的誇り 1 ///////////

カレン・ホーナイ(Karen Horney)著
原著:Neurosis And Human Growth: The Struggle Toward Self-Realization 1950年発行
邦訳:『自己実現の闘い――神経症と人間的成長――』対馬忠監修
藤沢みほ子、対馬ユキ子訳、アカデミア出版会1986年10月発行 より

・・・・

第4章 神経症的誇り

 神経症者は完全な者になろうと努力し、また、そうなれると信じているのに、自分が必死に
求めている自信や自尊心を得ることができない。彼は空想のなかでは神のような存在になれても、
現実にはまだ素朴な羊飼いがもっているほどの自信すらもてない。立派な地位に就き、名声を
得ても、そのために、彼は傲慢にこそなれ、心の安らぎを得ることができない。彼はなおも
心の底では、自分は人から望まれていないと感じ、傷つきやすく、自分の価値を絶えず確認して
いなければならないと思う。

///// アカデミア出版会 ///
265 ◆4otEyhoCdw :2013/09/08(日) 18:03:48.97 ID:wMKIrvou
 
/// 神経症的誇り 2 ///////////

周囲に対して権力をふるい、影響力をもち、賞賛や敬意を得ている間は、自分は強く、意義ある
ものに思えるが、新しい環境に置かれて、こうした支えがない時、何か失敗をしでかした時、
自分一人でいる時などには、このような高揚感はすべてたやすく崩れてしまう。心の平安は、
外面的なジェスチュアによっては得ることのできないものである。
 本章では、神経症が発達していく過程において、自信がどのような影響を受けるかを考察しよう。
自信が育つには、子どもは周囲の人々の温かい態度や情のこもった歓迎、心遣い、保護、信頼
できる雰囲気、行動に対する励まし、建設的なしつけなど、外からの助けが必要なことは明らか
である。このような環境のなかで育つなら、子どもは、マリー・レイズィの適切な言葉で言うと、
「基本的信頼」を発達させるだろう。この言葉は自信と、他人に対する信頼との両方を含んでいる。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
266 ◆4otEyhoCdw :2013/09/08(日) 20:58:17.43 ID:wMKIrvou
 
/// 神経症的誇り 3 ///////////

 逆に有害な影響が重なると、子どもの正常な発達は阻害される。この阻害要因とその一般的な
影響については既に第1章で論じたので、ここではさらに、このような場合、なぜ子どもは
正しい自己評価をすることが特にむずかしくなるのか、その理由を二、三付け加えたい。子どもは
盲目的に愛されると、自分は意義ある人間だという気持をふくらませるだろう。彼はまた、自分の
実際にもっている価値のためでなく、尊敬や権威や力に対する両親の欲求を満足させているために、
自分は望まれ、好まれ、認められているという気になるだろう。また、完全主義者の厳格な規準で
育てられると、子どもはそのような厳しい要求にそうことはとうていできないから、劣等感を
もつようになるだろう。学校で良い行ないをし、良い点をとっても、それは当たり前のこととされ、
悪い行ないや悪い点の時は厳しく叱責される。自主性や独立心をもとうとすると嘲笑される。
真の温かさや関心が一般に欠けているうえに、このような要因が加わると、子どもは自分は愛されても
いないし、価値のない人間だ、いずれにしても、現在の自分とは違ったものにならなければ、何の
価値もないのだと思うようになる。

///////// 対馬忠監修 ///
267 ◆4otEyhoCdw :2013/09/09(月) 20:39:31.78 ID:HWbKRBSI
 
/// 神経症的誇り 4 ///////////

 そのうえ、幼年期の種々の悪条件が重なって引き起こされる神経症的発達は、子どもをその
存在の中心から弱める。彼は自分自身から疎外され、分裂してくる。彼の行なう自己理想化も、
実は、心のなかで自分自身を実際の姿以上に、また、他人より以上に高めることによって、
自分の受けた傷を癒そうとする試みなのである。そして、悪魔の契約の話にあるように、彼は
あらゆる栄光を、空想のなかで、また時には現実にも、手に入れるのである。しかし、彼が
得るものは、確固とした自信ではなく、表面だけがぴかぴかした、擬い物の贈り物、つまり、
神経症的誇りなのである。この二つは非常によく似たように感じられるので、たいていの人が
両者の見分けがつかないのももっともである。例えば、ウェブスターの古い版の定義では、
誇りとは、実際の価値または空想された価値のどちらかに基づいた自己評価であるとしている。
そこでは、実際の価値と空想された価値とをいちおう区別してはいるが、その違いがあまり
重要でないかのように、両方とも「自己評価」と呼んでいる。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
268 ◆4otEyhoCdw :2013/09/09(月) 21:29:23.81 ID:HWbKRBSI
 
/// 神経症的誇り 5 ///////////

 この混同は次のようなことからも起こる。たいていの患者は自身を、どこからくるか分からないが、
しかし、自分が非常にもちたいと思うある神秘的なものと考えている。だから、患者が分析家に、
何とかして自分に自信を植え付けてくれるようにと期待するのは、まったく当然のことである。
これに関連して、いつも私が思い出す漫画は、兎と鼠が勇気という注射をされて、普通の大きさの
五倍にもなり、大胆になり、不屈の闘争精神に溢れるというものである。患者たちが知らないこと
――そして、ほんどうは知りたくないと思っていること――は、その人のもっている価値と自信との
間には厳密な因果関係があるということである。この関係は、ある人の経済状態が彼の財産や貯蓄や
稼働力に依存しているのとまったく同じように、明確なことである。もしこれらの要因が満足できる
ものなら、彼は経済的に安定感をもつだろう。また他の例で言えば、漁師の自信は、彼の漁船が
性能の良い形をしている、漁網がちゃんと修理されている、彼が天候や海水の状態をよく知っており、
筋骨もたくましい、といった具体的な要因に支えられているのである。

///// 神経症と人間的成長 ///
269 ◆4otEyhoCdw :2013/09/09(月) 21:40:56.61 ID:HWbKRBSI
 
/// 神経症的誇り 6 ///////////

 人間の価値とは何であるかについては、われわれが住んでいる文化によって、ある程度の
違いはある。西洋文明では、それらは、自主的な考えをもち、それに基づいて行勤し、自分の
能力を開発して、そこからくる自信をもち、自分自身について責任をとり、自分の長所や短所や
義務や限界について現実に即した評価をし、強くて素直な感情をもち、良い人間関係を確立し
育てる能力がある、といった性質または属性を含むものである。こうした要因は、うまく働けば、
主観的には自信の感情となって現われ、損なわれれば、それだけ自信は揺らぐであろう。
 健全な誇りも、同じように実質のある性質に基づいたものである。例えば、道徳的に勇気のある
行為や仕事が立派にてきたことを誇る感情のように、それは、特別な業績に対する当然の高い
評価であるかもしれないし、自分自身の価値についてのもっと包括的な感情、つまり、静かな
尊厳の感情といったものであるかもしれない。

///// 自己実現の闘い ///
270 ◆4otEyhoCdw :2013/09/10(火) 22:28:29.40 ID:KwpOm4/o
 
/// 神経症的誇り 7 ///////////

 神経症的誇りは、非常に傷つきやすい点から見て、健全な誇りがひどく大きくなったものと
考えられがちである。しかし、既に何回も認めたように、両者の本質的な違いは、量的なもの
ではなく、質的なものである。神経症的誇りは、健全な誇りと比べて中身のない、また、まったく
違った要因を基礎にしている。すなわち、それらの要因はすべて美化された自分に属するものか、
または、それを支えるものである。それは、外部から与えられた価値――名声価値――であったり、
自分がもっていると勝手に思い込んでいる性質や能力であったりする。
 種々な神経症的誇りのなかで、名声価値に対する誇りは、最も正常なものに思える。われわれの
文明社会では、魅力的な女性を恋人にもつ、名家の出である、南部やニューイングランドの出身
である、有力な政治団体や職業団体に所属している、重要人物と知り合いである、人気がある、
立派な車を持ち、高級住宅街に住んでいるといったことを誇りに思うのは、ごくふつうの反応
である。

///// 原著 1950年発行 ///
271 ◆4otEyhoCdw :2013/09/10(火) 22:46:31.52 ID:KwpOm4/o
 
/// 神経症的誇り 8 ///////////

 この種の誇りは、神経症にとって少しも典型的なものではない。今挙げたようなことは、
かなりひどい神経症的障害をもった人でも、比較的健康な人と同じ程度か、むしろそれ以下の
重要性しかもたないことが多い。しかし、なかには、名声価値に対して非常に強い神経症的
誇りをもつ人々がいて、この人々にとっては、名声価値とは、自分の生活がそれを中心に
回転するほど重要な、また、そのために自分の最上のエネルギーをしばしば使い果たしてしまう
ほど大切なものである。彼らは有名な集団と関係をもち、有名な会に加入することが絶対に
必要なのである。

///// Neurosis and Human Growth ///
272 ◆4otEyhoCdw :2013/09/10(火) 23:00:28.81 ID:KwpOm4/o
 
/// 神経症的誇り 9 ///////////

もちろん、すべてこうした熱狂的な行動も、真の興味から発したものであるとか、向上したい
という当然の願いであるとかいって合理化される。だから、名声を増すものならどんなもの
でも彼の気分を真に高揚させるであろう。そして、もし集団がこのような人の名声価値を
高めることができなかったり、集団そのものの名声が落ちたりすると、やがてそれについて
論じるが、誇りが傷つけられた時のあらゆる反応が起こってくる。例えば、家族の誰かが、
「順調にいって」いなかったり、精神病であったりすると、表面ではその家族のことを心配
しているが、実は彼の誇りはひどい打撃を受けているのである。また、レストランや劇場に
行くのに、男性のお供がいないと、いっそ行くのをやめた方がましだと思う女性も多い。

///// Karen Horney ///
273 ◆4otEyhoCdw :2013/09/11(水) 20:03:42.17 ID:q7JY+2zb
 
/// 神経症的誇り 10 ///////////

 こうしたことはすべて、人類学者がいわゆる未開民族について述べている事柄とよく似ている
ように思われる。彼ら未開民族の間では、個人はまず集団の一部分として存在し、また、そのように
感じている。だから、彼らが誇りをもつのは個人的な事柄ではなく、制度や集団活動についてである。
しかし、神経症者と未開民族のこの二つの過程は一見似ているように見えるが、本質的には異なって
いる。主な違いは、神経症者が心の底では集団との関係をもっていない点である。彼らは自分を
集団の一部分であると思っていないし、所属感もなく、むしろ自分の個人的名声を得るために
集団を利用するのである。

///// アカデミア出版会 ///
274 ◆4otEyhoCdw :2013/09/11(水) 20:19:20.99 ID:q7JY+2zb
 
/// 神経症的誇り 11 ///////////

 人は名声について考え、それを追い求めることに勢力をを消耗し、また、自分の名声に
一喜一憂しているが、このことを、分析しなければならない神経症の問題としてはっきりと
とらえていない場合が多い。その理由は、このようなことがごくありふれた出来事である
ためか、それとも、文化の一つの型のように見えるためか、あるいは、分析家自身がこの
病気から解放されていないためかである。名声の追求は一つの病であり、それも破壊的な
病なのである。なぜなら、それは人々を日和見主義にし、そのために、人格の統合性を損なう
からである。名声の追求は正常に近いどころか、反対に、重い精神障害の徴候である。事実、
名声を追求する行為は、ひどい自己疎外のために、自分に属さないものにまで自分の誇りを
与えるような人々にだけ起こりうるものである。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
275 ◆4otEyhoCdw :2013/09/11(水) 20:45:10.44 ID:q7JY+2zb
 
/// 神経症的誇り 12 ///////////

 さらにそのうえ、神経症的誇りは、空想のなかで自分がもっていると思い込んでいる性質、
すなわち、彼独自の理想像がもっている性質に与えられる。ここまで考えると、神経症的
誇りの特殊な性質が明確に浮き彫りにされてくる。神経症者はあるがままの自分という人間に
誇りをもっているのではない。彼がこのように自分について誤った見方をしていることが
われわれに分れば、彼がその誇りのために自分の困難や限界を消し去ろうとするのもなんら
驚くことではない。しかし、事態はそれだけにとどまらず、たいていの場合、彼は自分が
もっている長所を誇ることまでもやめてしまう。自分の長所に漠然としか気づかなかったり、
実際にそれを否定したりする。たとえそれを認める場合でも、彼にとってそれは何の重要性も
もたない。例えば、分析家が患者に、彼の仕事に対する素晴らしい能力や、人生で成功を
収めるのに実際に示してきた粘り強さを思い出させたり、障害をもっているにもかかわらず、
立派な本を書いたことを指摘してやっても、彼は本心からか格好だけなのか肩をすぼめ、
ひどく無関心な様子で賞賛を軽く受け流してしまう。

///////// 対馬忠監修 ///
276 ◆4otEyhoCdw :2013/09/11(水) 23:14:32.02 ID:q7JY+2zb
 
/// 神経症的誇り 13 ///////////

とりわけ、彼は「単に」努力するだけで、完成しないものには、全然価値を認めない。例えば、
これまで分析を受けたり、自己分析したりして、次々に真剣な試みをし、自分の悩みの根本を
突きとめようと誠実な努力を示してきたのだが、むしろ、それをやめてしまうのである。
 文学からの一例としてペール・ギュントの有名な話が役立とう。彼は自分か現にもっている
価値あるもの、例えば、優れた知能、冒険心、活動力を高く評価せず、実際の彼ではないもの、
つまり、彼が「自分自身である」と思っているものを誇りにしている。彼が思っている自分とは、
彼自身ではなく、無限の「自由」と無限の力をもった理想化した自己なのである。(彼は自分の
限りない自己中心主義を、「汝自身に忠実なれ」」をその金言とする尊厳なる人生哲学にまで
高めたのであるが、それはイプセンが指摘しているように、「汝自身に足るものであれ」を
美化したものである。)

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
277 ◆4otEyhoCdw :2013/09/12(木) 22:15:32.06 ID:Dwgfio5/
 
/// 神経症的誇り 14 ///////////

 患者のなかには、ペール・ギュントが大勢いて、自分は聖者、達人であるとか、完全な
平静さをもっているとかいった幻想を持ち続けたがる。そして、自分自身についてのこうした
評価から自分が少しでもはずれると、まるで自分の「個性」を失ってしまったように思う。
空想は何に用いられるかによらず、それ自体としてこのうえなく価値あるものとなる。なぜなら、
空想をもてば、真実に携わる陰気で平凡な人々を軽蔑して見下すことができるからである。
もちろん、患者は「真実」とは言わず、「現実」という曖昧な言葉をつかうのであるが。
例えば、ある患者は非常に尊大な要求をもち、世界が自分の思い通りになると期待していた。
彼は最初はこの要求を無理なもの、人を堕落させるものとさえ呼び、それに対してきっばりとした
立場をとっていた。しかし、翌日になると、誇りを取り戻し、その要求は今や「素晴らしい
精神的創造」となっていた。その要求は無理なものという真の意味は消え失せ、空想を誇る
方が勝利を収めたのである。

///// 神経症と人間的成長 ///
278 ◆4otEyhoCdw :2013/09/12(木) 22:34:34.86 ID:Dwgfio5/
 
/// 神経症的誇り 15 ///////////

 誇りは特に空想と結びつくだけでなく、知性理性や意志力などあらゆる精神過程と結びつく
場合がいっそう多い。神経症者が自分自身のものと思っている無限の力とは、結局は精神の力
である。それゆえ、彼が精神に魅せられ、精神を誇るのは少しも不思議ではない。理想像は
彼の空想の産物である。しかし、それは一夜にして創造されるものではない。彼はほとんど
無意識のうちに知力と空想力を不断に働かせて、自分だけの虚構の世界を、合理化や正当化や
外在化や和解できないものを和解させるといった方法、要するに、物事を実際の姿とは違った
ように見えさせる方法を見出して、維持するのである。自己疎外がますます進めば、自分の心が
最高の現実となる。(「私の考えを離れてはどんな人も存在せず、私の考えを離れては私は
存在しない。」)シャロット姫のように、彼は現実を直接に見ることはできず、常に鏡を通して
見るだけである。

///// 自己実現の闘い ///
279 ◆4otEyhoCdw :2013/09/13(金) 00:04:22.32 ID:8Kr9SZy2
 
/// 神経症的誇り 16 ///////////

もっと正確に言えば、彼は鏡のなかに世界と自分に関して、自分の考えていることしか見ない
のである。だから、知性を誇る、あるいはむしろ、精神の至高性を誇るのは、単に知的な仕事に
携わる人々だけに限らず、すべての神経症者に決まって起こることなのである。
 誇りはまた、神経症者が自分には当然もつ資格があると思っている能力や特権にも与えられる。
こうして、彼らは幻想にしかすぎない自分の不死身を誇る。それは、身体面では、決して病気や
怪我をしないこと精神面では、決して心が傷つかないことを意味する。また、自分の幸運を誇り、
自分は「神の籠児」であることを誇る人もいる。だから、マラリアの発生地区にいてもマラリアに
かからない、賭けには勝つ、遠足の日には好天に恵まれるといったことが彼の誇る事柄となる。

///// 原著 1950年発行 ///
280 ◆4otEyhoCdw :2013/09/13(金) 22:01:14.28 ID:3GxyvdWS
 
/// 神経症的誇り 17 ///////////

 要求を効果的に主張することは、確かにあらゆる神経症において誇る事柄となる。何の代価も
払わずに何かを手に入れる権利があると思っている人は、他人をうまく操って借金をしたり、
使いに行かせたり、無料で治療を受けたりすることができると、誇りを感じる。他人の生活を
指図する資格があると思っている人は、保護してやっている相手が自分の忠告に従わなかったり、
まず自分に忠告を求めないで、勝手に事を運んだりすると、誇りを傷つけられたと感じる。
なおその他にも、自分が何かで苦しんでいることを示せば、すぐに義務を免除してもらえると
思っている人々がいる。彼らは、他の人々から同情や許しを引き出すことができると誇りに思い、
その人々が相変わらず、批判的な態度を変えないと、傷つけられたと感じる。

///// Neurosis and Human Growth ///
281 ◆4otEyhoCdw :2013/09/13(金) 22:11:32.41 ID:3GxyvdWS
 
/// 神経症的誇り 18 ///////////

 神経症者は自分が内的命令にかなっていることに誇りをもっている。この誇りは、表面的には
他の種類の袴りより揺るぎないもののように見えるが、実際には、どうしても見せかけが
入り込んでいるので、他の誇りとまったく同じように不安定なものである。完璧な母親で
あることを誇りに思っている婦人も、ふつうは自分の空想のなかだけでそうなのである。
無類の正直者であることを誇っている人も、はっきりした嘘はつかないが、ふつうは無意識的、
半ば無意識的に不正直な気持が心に染み込んでいる。利己的でないことを誇りにしている人は、
公然と要求はしないかもしれないが、自分の無力や苦しみを武器に、他人につけこみ、また、
健全な自己主張を決してしないことを、謙遜の美徳であるとはき違えていることがある。

///// Karen Horney ///
282 ◆4otEyhoCdw :2013/09/13(金) 22:34:08.77 ID:3GxyvdWS
 
/// 神経症的誇り 19 ///////////

さらに、〈べき〉そのものは、神経症的目的に役立つという点で、単に主観的な価値しかもたず、
客観的な価値は何もない。そこで、例えば、援助を求めたり、受けたりする方が賢明な場合でも、
神経症者はそうしないことを誇りに思うだろう。――これは社会事業でよく知られている問題
である。また、少しでも有利な条件で取引することを誇りに思う人々もいれば、全然値切らない
ことを誇りに思う人々もいるが、これは、その人が自分は常に勝利者の側に立つべきだと
思っているか、決して利益を得ようとすべきではないと思っているかによるのである。

///// アカデミア出版会 ///
283 ◆4otEyhoCdw :2013/09/14(土) 11:15:35.75 ID:zTYZpSH2
 
/// 神経症的誇り 20 ///////////

 最後に、自分の掲げる強制的な道徳規準がただ高いこと、厳しいことに誇りがもたれることがある。
「善」とは何か、「悪」とは何かを単に知識として知っているだけで、ちょうど蛇がアダムとイヴに
約束したように、その人は神のような存在となるのである。神経症者は、自分が実際にどうであり、
どんな振舞いをしているかを無視して、ただ非常に高い道徳規準を掲げさえすれば、自分は誇るべき、
道徳的に素晴らしい人間であると感じるのである。彼は分析によって、自分が名声に対する激しい
渇望をもち、真理感覚に乏しく、復讐心をもっていることを認めるかもしれない。しかし、たとえ
認めても、そのために、彼が以前より謙遜な気持になったり、自分のことを道徳的にあまり優れた
人間ではないと思ったりすることはない。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
284 ◆4otEyhoCdw :2013/09/14(土) 11:31:44.65 ID:zTYZpSH2
 
/// 神経症的誇り 21 ///////////

彼にはこうした現実的な欠点は重要ではないのだ。彼が誇りに思うのは、自分が実際に道徳的で
あるということではなく、自分がどうあるべきかを知っているという点である。たとえ一時的に
自己非難の無益さを認めたり、時には自己非難の有害さに恐ろしくなったりすることはあっても、
なおも彼は自己に課する要求に手心を加えようとはしないだろう。自分が苦しんでも結局それが
どうだというのだ? 自分の苦しみは、自分が優れた道徳的感受性をもっていることのもう一つの
証拠ではないか、と思う。だから、彼にとってこの誇りを保つことは、こうした代価を支払うだけの
価値のあるものに思われるのである。

///////// 対馬忠監修 ///
285 ◆4otEyhoCdw :2013/09/14(土) 13:53:40.34 ID:zTYZpSH2
 
/// 神経症的誇り 22 ///////////

 このような一般的観点から、個々の神経症のもつ具体的な細かい問題に進んでいく時、
一見その姿ばわれわれを困惑させる。誇りの対象にならないものは何一つないからだ。
ある人にとって素晴らしい長所であるものが、隣りの人にとっては不名誉な短所である。
ある人は他人に対して粗野であることを誇り、他の人は少しでも粗野に思われることを
恥ずかしく思い、他人に対する自分の繊細さを誇る。また、ある人は人生を渡る際の
はったりの能力を誇り、他の人はどんなはったりの痕跡も恥じる。ここに他人を信頼する
ことを誇る人がいるかと思良は、あちらには他人を信用しないことを同じように誇る人がいる。
こうしたことはまだいくらでも挙げることができる。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
286 ◆4otEyhoCdw :2013/09/14(土) 15:01:06.96 ID:zTYZpSH2
 
/// 神経症的誇り 23 ///////////

 しかし、この多様性に当惑するのは、それぞれの特殊な誇りを人格全体の文脈から切り離して
眺める限りのことであって、ひとたびそれらの一つ一つをその人の性格構造全体の観点から
眺める時、そこに支配する一つの原理が明らかになる。すなわち、自分自身を誇りたいという
彼の気持は絶対的なものになっているので、彼は自分が盲目的な欲求の虜になっていると考える
だけで我慢ができない。そこで、彼は空想力を用いて、これらの欲求を美徳に変え、自分が
誇ることのできる長所に変えてしまう。しかし、こうした転換が行われるのは、理想化された
自己を現実化しようとする欲動に役立つような強迫的欲求についてだけであって、逆に、この
欲動の妨げとなるような欲求は抑圧され、否定され、軽蔑されてしまう。

///// 神経症と人間的成長 ///
287 ◆4otEyhoCdw :2013/09/14(土) 17:06:22.92 ID:zTYZpSH2
 
/// 神経症的誇り 24 ///////////

 無意識のうちに価値を逆転させるこの能力にまったく驚くべきものである。この能力を
示すには次のような風刺画を用いるのがいちばんよいだろう。その画には、ある嫌な特性に
悩む人が、刷毛をとって、その特性を美しい色で塗りつぶし、自分の長所だけを描いた絵を
大威張りで見せるやり方が非常に生き生きと描かれている。こうして、例えば、一貫性の
ないことが無限の自由をもっていることに変わり、現行の道徳律にやたらと反抗することは
通俗的な偏見にとらわれない態度ということになる。自分のために何かをすることにタブーを
もつことは崇高な無欲に、宥和を求める欲求は心からの善良さに、依存心は愛に、人を搾取
することは賢さに変わる。自己中心的な要求を主張する能力は強さに見え、復讐心は正義に、
人を出し抜く技術はきわめて賢明な武器に、仕事嫌いは「過度の仕事癖への上手な抵抗」
ということになる。

///// 自己実現の闘い ///
288 ◆4otEyhoCdw :2013/09/14(土) 18:49:25.73 ID:zTYZpSH2
 
/// 神経症的誇り 25 ///////////

 このように無意識的に行なわれる過程を見ると、しばしばイプセンの『ペール・ギュント』の
なかのトロール鬼人たちを思い出す。彼らには、「黒は白に、醜いものは美しく、大きいものは
小さく、不潔なものは清潔なものに見える」。まことに面白いことに、イプセンはこの価値の
逆転を私たちの方法と同じやり方で説明している。イプセンは次のように言っている。つまり、
あなた方はペール・ギュントのように自己満足的な夢想の世界に住む限り、自分自身に忠実で
あることはできない。両者の間の掛け橋はない。そして、二つの生き方はあまりにも違い過ぎていて、
妥協的な解決を見出すことはできない。もしあなた方が自己に忠実でなく、自分を偉大なものと
思い込んで、利己的な生活を送るなら、その時、あなた方のもつ価値あるものもまた湯水のように
浪費されてしまうことになるでしょう。あなた方の価値尺度はトロールの場合とまさに同じように
逆転してしまうでしょう、と。確かに、これは本章でわれわれが論じてきたすべてのことを総括
するものである。栄光を求めて出発するや、われわれは自分自身に関する真実に携わることを
やめてしまう。神経症的誇りは、そのあらゆる形態においりの誇りなのである。

///// 原著 1950年発行 ///
289 ◆4otEyhoCdw :2013/09/14(土) 21:13:32.06 ID:zTYZpSH2
 
/// 神経症的誇り 26 ///////////

 理想化された自己を現実化するのに役立つような傾向だけに誇りが与えられるというこの原理が
ひとたび理解されると、分析家は、患者が何らかの地位に執拗に執着する時は、彼がその地位に
ひそかに誇りをもっていることをすぐに見出すことができる。ある特性についての主観的な価値と
それへの神経症的誇りとの間には、決まった関係があるように思われる。分析家はこれらの要因の
どちらか一方が認められれば、他方もほとんど確実に存在していると結論して差し支えない。
ただその時々によって、そのどちらか一方が最初に目につくのである。例えば、患者が分析の
当初に自分の皮肉癖や他人の裏をかく力に誇りをもっていることを示すことがある。分析家は、
その要因が患者にとってどういう意味をもつのか、すぐその場では分らないとしても、それが
その特定の神経症で重要な役割を果たしていると当然確信してよい。

///// Neurosis and Human Growth ///
290 ◆4otEyhoCdw :2013/09/15(日) 08:39:00.24 ID:1hCHvavw
 
/// 神経症的誇り 27 ///////////

 治療のためには、分析家は個々の患者に働いているそれぞれの種類の誇りについて、その全貌を
徐々にはっきりとつかんでいく必要がある。患者は、ある欲動や態度や反応に意識的、無意識的に
誇りをもっている間は、当然のことながら、それらを自分の取り組まなければならない問題と
考えることはできない。例を挙げると、ある患者は自分のなかに他人を出し抜きたいという欲求の
あることに気づいている。分析家の方は、患者の真の自己のためを考えるから、その欲求は、当然、
患者が取り組み、やがて克服しなければならない一つの問題的傾向であると考える。

///// Karen Horney ///
291 ◆4otEyhoCdw :2013/09/15(日) 08:51:32.29 ID:1hCHvavw
 
/// 神経症的誇り 28 ///////////

彼は、この傾向が強制的性格をもち、人間関係に障害をもたらし、建設的な目的のたにめに
使うはずのエネルギーを浪費させることを知っているからである。しかし、患者の方は
このことに気づかず、他人を出し抜くこの才能こそ、自分を人より優れた者にするものだと思い、
ひそかにそれを誇りに思う。そのため、彼は人を出し抜くこの傾向を分析しようとは思わず、
逆に、自分自身のなかでこの傾向の成就を阻んでいる要因に関心をもつ。こうした両者の
価値評価の違いがとらえられない限り、分析家と患者は異なった次元に立ち、食い違った目的で
分析を行なうことになろう。

///// アカデミア出版会 ///
292名無しさんの主張:2013/09/15(日) 09:11:19.20 ID:???
★ 《ペール・ギュント》のあらすじ     1
  Sayuri Seki Official Web Site、 グリーグの部屋

これはペール・ギュントという、あるノルウェー人の物語です。

ペールは20歳。母親のオーゼと一緒に暮らしています。ペールの家、ギュント家はおじいさんの
代まで羽振りが良く大富豪でした。しかし飲んだくれの父親に財産をすっかり食いつぶされ、
今では窓にはボロキレ、塀や垣根は壊れ、荒れ放題の貧乏暮らし。
おまけに息子のペールは、王様になる、皇帝になると大きな事ばかり言うほら吹きで、仕事もせず
喧嘩ばかり。今日もオーゼのお小言が聞こえます。いつもの様にオーゼのお説教が響き渡る中、
ペールはヘッグスタのイングリッドという娘の結婚式がとりおこなわれる事を知り、呼ばれても
いないのに出かけていきます。村中の人がペールを見ても「あいつ何しに来た?」と怪訝な目を
向けるだけ。喧嘩っ早いペールに女の子は恐がり、踊ってもくれません。
結婚式には、一人の美しく、清楚で、手には讃美歌を持った可憐な少女、ソルヴェイグも来ていました。
ペールはたちまちソルヴェイグの汚れのない清らかさに惹かれ恋をします。その時ペールは花婿から
花嫁のイングリッドがこの結婚を嫌がって、蔵に閉じ篭ってしまったと告げられます。何とかしてくれよ、
と花婿に泣き付かれたペールはイングリッドを蔵から出すと約束しますが、人々が気づいた時には、
何と!ペールが花嫁イングリッドをかかえ、険しい崖を登っていくではありませんか!!
「花嫁奪略だ!」「ペールを殺せ!」村中は大騒ぎになってしまいます。

一夜明け、すっかりイングリッドに飽きたペールはイングリを捨てて、行こうとします。イングリッドは
元々ペールに気があり、何としてもペールを自分の元に引きとめようとします。しかし、ペールの
頭からは穢れなき少女ソールヴェイの姿が離れません。イングリッドは絶望的に嘆きますが、ペールは
イングリッドを捨て去ります。
村中が、村一番の富豪の娘を略奪したペールを探しています。山々からは「ペールを殺せ」という声が
聞こえ、ペールはそのまま山の奥深くに逃げ込む羽目になってしまいました。
293名無しさんの主張:2013/09/15(日) 10:09:00.13 ID:???
★ 《ペール・ギュント》のあらすじ     2

逃げ惑う中、ペールは一人の緑色の服を着た少女に出会います。彼女はドブレの国の王女、
魔王の国の娘だと名乗ります。ペールは彼女に結婚を申し込み、ドブレ王国を我が物にしようと
たくらみます。そして魔王に会うため、魔の国・ドブレ王国に行く事になったのでした。

魔王の宮殿では、この知らせを受けた魔王の手下のトロル達が手ぐすねひいて、苛々しながら
待ち構えていました。トロル達は皆気味の悪い風貌で、あるものは頭が2つ、あるものは3つ、
尻尾がはえているものや不恰好なものと様々でした。ペールの指を噛み切り、骨はスープに、
体を串刺しにしよう、といきり立つトロル達の不気味な興奮の中、ペール達が到着します。

結婚の条件として、この国を我が物にしたい、とペールは魔王に告げました。魔王は条件を呑む
代わり、こちらも条件を出す。一つは魔の国の飲み物を飲む事、一つは尻尾をつける事、と言い、
ペールは牝牛の小便を飲み、尻尾を付けました。魔王の娘達の踊りの饗宴が始まる中、もう一つの
条件として魔王が告げたのは、何と目玉をひっかき、傷をつけるというものでした。さすがのペールも
これには驚き、魔王の国から逃げ出そうとしますが、興奮したトロル達に追い詰められます。
あと一歩で殺される!という所で教会の鐘が鳴り、トロルの国もろとも消え失せ、ペールは
一命を取り留めたのでした。

未だ追われる身のペールは山の中に雨風をしのぐ家を作ります。するとある日その汚い山小屋に
ソルヴェイグが現れたのです。彼女は家も家族も捨て、愛するペールの元に来たのでした。ペールは
喜びでいっぱいになり、穢れなきソールヴェイを王女の様に大切に、小屋に招き入れます。
しかしそこに、魔王の娘が赤ん坊と一緒に現れます。魔王の娘は、その子はペールの子、もし
ソルヴェイグと結婚するならトロルの魔法を使ってでも邪魔してやる!と脅します。
294名無しさんの主張:2013/09/15(日) 10:10:37.96 ID:???
★ 《ペール・ギュント》のあらすじ     3

ペールはソルヴェイグを守る為、そして穢れ無きソルヴェイグにふさわしい自分自身を見つける事が
出来るまで、旅に出かけます。
ソルヴェイグには「取ってくるものがあるから、ここで待っていてくれ」と言い残して・・・。

ペールは母オーゼの家に向かいました。ずっと姿をくらましていたペールの無事を見て、母は安心
しますが、彼女自身、臨終の時を迎えようとしていたのです。死を恐れる母に、ペールは最後の
優しい空想話で、彼女を穏やかに神の元に導きます。ペールの腕の中でオーセは静かに眠る様に
息を引き取ったのでした。

時は流れ中年になったペールはモロッコの西海岸にいました。彼は怪しげな商売で大金を儲け、今や
立派な身なりをし、自分の船を持ち、全財産をその船に積んで地中海航海の真っ最中でした。船で
航海を共にした4人の客人をもてなすペール。客人の紳士達はお世辞を言い、感心したそぶりを
見せていました。しかしペールが席をはずした途端、ペールの全財産を持って逃げてしまうのです。
無一文になったペールは砂漠をさまよいます。
ある時、ほら穴の前で盗賊が今日の収穫を広げていました。そこに、何も知らず近づいたペールの
足音に驚き、彼らはとっさに盗んだ荷物をほら穴に押し込み、逃げていきます。ペールはそこで
宝石や武器、豪華な衣装を見付け、運が向いてきたとばかりその盗品を丸ごと頂き、今度は予言者に
なりすまします。
295名無しさんの主張:2013/09/15(日) 10:16:52.47 ID:???
★ 《ペール・ギュント》のあらすじ     4

ベドウィン族の酋長の所で、大予言者としてもてなされるペール。その祝いの席では少女達が歌い、
踊っています。踊り子の中には酋長の娘アニトラがいました。彼女はひときわ美しく、ペールは
魅了されます。アニトラは悩ましく踊り、足を見せペールを誘惑するのです。すっかり彼女の
魅力に夢中になったペールは、アニトラにせがまれるまま、宝石や貴金属を次々彼女に渡します。
ついにアニトラはペールの財産が積まれた馬ごと盗む事に成功し、又もやペールは一文無しに
なるのです。
ペールはその後エジプトにも行き、メムノン像やスフィンクスも訪れます。スフィンクスで
出会った男に連れられ、彼はカイロの精神病院で皇帝として迎え入れられたりもします。

こうして各国を廻り奔放に旅を続けたペールも、すっかり白髪交じりの老人になりました。今や
金を掘り当て、充分な財産を得たペールは、故郷ノルウェーに帰るべく船に乗っていました。しかし、
天候がだんだん荒れ始め、ペールの乗った船は激しい嵐に掴まり、沈んでしまいます。どうにか
ボートに掴まったペール。一緒にしがみついてきたコックを蹴落とし、自分だけ故郷に辿り着いた
のでした。

故郷で、ペールは皮肉交じりに自分の人生を振り返りながら、行く当てもなく森を彷徨う内、
見覚えある山小屋を発見します。小屋からは何と!!ソールヴェイがペールを待ち続け歌う声が
聞こえるではありませんか!ペールはたちまち自分の人生を後悔し、そこから逃げ出します。
296名無しさんの主張:2013/09/15(日) 10:25:40.16 ID:???
★ 《ペール・ギュント》のあらすじ     5

ペールの前に、死神の使者であるボタン職人と名乗る男がペールの前に現れます。
ペールの人生は出来損ないで、天国にも地獄にも行けない為、柄杓に入れて溶かしてくる様に言い
遣ってきたと言います。
自分の人生とは?一体何だったのか?答えを見つけるまで待ってくれ、とペールは嘆願し、すがる様に、
道行く人に問いますが、誰もが、ペールの人生の無意味を気付かせただけでした。
疲れ果てたペールが辿り着いた所は、あの山小屋でした。ソルヴェイグは、ずっと待っていてくれた
のです。彼女はペールがいつも自分の信仰の中、希望の中、愛の中に存在していた、と言い、ペールを
優しく包みます。助けを求め、彼女の膝に顔を隠したペールは、ソルヴェイグのその言葉に救われたのです。

ソルヴェイグは静かに子守唄を歌い始め、ペールは彼女の膝の中で静かに息をひきとったのでした。

(あらすじ部分は、成城大学教授:毛利三彌先生訳による「ペール・ギュント」(論創社)を大いに
活用させて頂いております)


Sayuri Seki Official Web Site、 グリーグの部屋
http://www.sayulin.com/grieg4.html
297 ◆4otEyhoCdw :2013/09/15(日) 10:46:06.31 ID:1hCHvavw
 
/// 神経症的誇り 29 ///////////

 このような不安定な基盤の上に立っている神経症的誇りは、ちょうどボール紙でできた家の
ようにもろいもので、ほんのちょっとした隙間風にも壊れてしまう。主観的な経験としては、
神経症的誇りは人を傷つきやすくし、その傷つきやすさの程度は、その人が誇りに取り憑かれて
いる程度にちょうど相応している。誇りは内部からも、外部からと同じ程度に、傷つけられやすい。
誇りが傷つけられた時の典型的な反応としては、恥と屈辱がある。われわれは自分の誇りに
反するようなことをしたり、考えたり、感じたりする場合には、恥ずかしいと思い、他人が
われわれの誇りを傷つけるようなことをしたり、誇りの要求に応えてくれない場合には、屈辱感を
もつだろう。恥の反応や屈辱の反応が場違いに見えたり、不釣り合いに大きく思えたりする
場合には、次の二つの問いに答えられなければならない。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
298 ◆4otEyhoCdw :2013/09/15(日) 19:40:08.72 ID:1hCHvavw
 
/// 神経症的誇り 30 ///////////

第一は、その特定の状況のなかで、何がこうした反応を引き起こしたのか? 第二は、その
ために、心の底にあるどのような特殊な誇りが傷つけられたのか? この二つの質問は互いに
密接に関係し合っており、どちらの質問にも即答はできない。分析家も知るように、例えば、
自慰行為について、一般的には合理的で分別のある態度をもち、他人の場合なら、それを
悪いこととは思わない人が、自分の場合は、過度の恥の感情を引き起こすことがある。少なくとも、
そこには恥の感情を引き起こす要因がはっきりしているように見える。しかし、そうであろうか? 

///////// 対馬忠監修 ///
299 ◆4otEyhoCdw :2013/09/16(月) 07:57:39.35 ID:7V+REn8X
 
/// 神経症的誇り 31 ///////////

自慰は人によって違った意味をもつので、分析家は自慰行為に関する多くの要因のなかで、
どれが恥の感情を引き起こすことと関係があるのか、すぐには分らない。ある患者にとって、
自慰とは愛情をともなわないために、堕落した性行動だと言うのだろうか? あるいは、
そこで得られる満足が性的交渉の場合より大きいので、満足は愛情にだけともなうものという
イメージを損なうためか? それとも、自慰行為に随伴する幻想が問題なのか? それは
何らかの欲求をもっていることを認めることになるからなのか? 禁欲的な人にとっては、
それはあまりに放縦にすぎることなのか? それは自制心の喪失を意味するのか? 分析家は
これらの要因のどれがその患者に当てはまっているかを把握したうえで、初めて第二の問い、
すなわち、自慰行為によって傷ついたのはどのような種類の誇りなのかを考えることができる。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
300 ◆4otEyhoCdw :2013/09/16(月) 08:56:41.43 ID:7V+REn8X
 
/// 神経症的誇り 32 ///////////

 恥や屈辱の感情を引き起こす要因を正確に把握する必要があることを示すもう一つの例がある。
多くの未婚の女性は、意識的なものの考え方では少しも保守的でないのに、恋人をもつことに
ついてはひどく恥じる。このような女性の場合、彼女の誇りがその特定の恋人によって傷つけ
られているかどうかをまず確かめることが重要である。もしそうであれば、その恥の感情は、
恋人があまり魅力的でないとか、献身的でないとかいったことと関係があるのか? それとも、
彼女が彼のひどい仕打ちを甘んじて受けていることと関係があるのか? 彼に依存しているため
なのか? あるいは、彼の身分や性格とは関係なく、そもそも恋人をもつということ自体が恥
なのか? もしそうなら、彼女にとっては、結婚することは名声の問題なのか? 恋人がありながら、
独身でいる状態は、自分が価値のない、魅力に乏しい女性である証拠だと思うのか? あるいは、
彼女は、女神ヴェスタに身を捧げた処女のように、性的欲望を超越したものであるべきだと
思っているのか?

///// 神経症と人間的成長 ///
301 ◆4otEyhoCdw :2013/09/16(月) 10:45:07.49 ID:7V+REn8X
 
/// 神経症的誇り 33 ///////////

 まったく同一の出来事でも、恥の反応を起こす場合と、屈辱の反応を起こす場合があるが、
それはそのどちらかが優勢になるためである。ある男性が女の子に拒絶される。彼は屈辱を感じ、
「彼女は自分を何様だと思っているのだ」という気持になることもあれば、自分の男性的魅力が
それほど絶対的な力をもっていないように思われて、恥じることもある。また、討論の場で
意見を述べ、聴衆にうんざりされると、彼は「自分を理解しないこんないまいましい愚か者」
から屈辱を受けたと感じることもあれば、自分の話のまずさを恥じることもある。誰かにうまく
利用されて、その搾取者から屈辱を受けたと思うこともあれば、自分の利益を主張しなかった
ことに自らを恥じることもある。自分の子どもが優れた才能をもっていないとか人に好かれない
場合、屈辱を感じ、子どもに当たり散らすこともあれば、自分が何とかして子どもの力になって
やれなかったことを恥じることもある。

///// 自己実現の闘い ///
302 ◆4otEyhoCdw :2013/09/16(月) 12:55:48.43 ID:7V+REn8X
 
/// 神経症的誇り 34 ///////////

 こうした観察は、われわれの考え方を変える必要があることを示している。われわれは、
ともすれば現実の状況を重視しすぎて、われわれの反応は現状によって規定されると
考えがちである。例えば、もし人が嘘の現場をとらえられると、「当然」、恥の反応を
すると思いがちである。ところが、隣りの人は全然そうは思わず、嘘を見破った人に
辱められたと思って、反発する。このように反応は単にその場の状況によって規定される
だけでなく、われわれ自身の神経症的欲求によっていっそう強く規定されているのである。

///// 原著 1950年発行 ///
303 ◆4otEyhoCdw :2013/09/16(月) 15:14:03.44 ID:7V+REn8X
 
/// 神経症的誇り 35 ///////////

 もっと具体的に言えば、恥や屈辱の反応には、価値の変換の場合に作用しているのと
同じ原理が働いている。攻撃的で拡張型の人には恥の反応が著しく少ない。いくら分析
して詳しく調べてみても、最初は何の恥の痕跡も見つからない。これらの人々はだいたい
空想の世界に生きているので、自分は欠点などもっていないと思い込んでいるか、または、
軍隊式の正義という保護服できっちりと身を包んでいるので、自分のすることはすべて
それ自体として絶対に正しいのであると思っている。彼らの誇りが傷つけられるのは
外部からだけである。彼らの行動の動機について何か質問したり、障害をはっきりさせたり
するようなことはすべて、侮辱と受けとられる。彼らは、自分にそんなことをする人は
誰でも悪意をもっているのだとしか考えられないのである。

///// Neurosis and Human Growth ///
304 ◆4otEyhoCdw :2013/09/16(月) 18:44:29.27 ID:7V+REn8X
 
/// 神経症的誇り 36 ///////////

 自己縮小型の人では、屈辱感よりも恥の感情がはるかに優勢である。彼らは表面的には、
自分の〈べき〉にかないたいという切実な気持に支配され、それに夢中になっているように
見える。しかし、後で述べる理由のために、むしろ、自分が最高の完全者になれない
ということばかりに心を向けているので、恥の感情をもちやすい。それゆえ、分析家は、
恥と屈辱のどちらの反応が優勢であるかによって、その人の基礎構造がどんな傾向を
もっているかについて試案的な結論を下すことができる。

///// Karen Horney ///
305 ◆4otEyhoCdw :2013/09/17(火) 20:23:32.90 ID:qGboiAjU
 
/// 神経症的誇り 37 ///////////

 これまでのところ、誇りと誇りが傷つけられた時の反応との関係は単純で直接的なものであった。
この関係は典型的なものであるから、分析家にも自己分析する人にも、一方から他方を推測する
ことは容易なことに思われる。もし神経症的誇りの、ある特定のしるしが認められれば、恥や屈辱の
感情を引き起こしやすいような刺激を警戒することができる。また、逆のことも言えるのであって、
恥や屈辱の反応が起こると、その基礎にある誇りを見出し、その特殊な性質を調べてみる気に
なるだろう。しかし、これらの反応がいくつかの要因のせいではっきりと現われない場合には、
問題は複雑になる。ある人の誇りはきわめて傷つきやすいが、彼は意識的には傷つけられたと
いう感情を少しも表現しない。以前にも述べたように、独善的であれば、恥の感情を禁じることが
できる。

///// アカデミア出版会 ///
306 ◆4otEyhoCdw :2013/09/17(火) 21:15:59.55 ID:qGboiAjU
 
/// 神経症的誇り 38 ///////////

さらに、自分は決して傷つけられないという誇りが、傷つけられたという感情をもつことを
自分に対して許さないだろう。神というものは、人間の不完全さに怒りを示しても、上役や
タクシーの運転手によって傷つけられることは決してありえないのだ。彼はそれを見逃すほどの
大人物であり、何でも楽々とやってのけるほど強くあるべきなのだ。だから、「侮辱」は二重の
意味で彼を傷つけることになる。すなわち、彼は人に辱められたという感情と、自分が傷ついた
こと自体を恥と思う感情との両方を味わう。このような人は、永久的とも言えるディレンマに
陥る。というのも、彼はばかげたほどまでに傷つきやすいのに、彼の誇りがその傷つきやすい
ことを決して許さないからである。このような心の状態は、彼の全般的な苛立ちを引き起こす
大きな原因となっている。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
307 ◆4otEyhoCdw :2013/09/17(火) 21:34:15.96 ID:qGboiAjU
 
/// 神経症的誇り 39 ///////////

 また、この問題は次のような理由によって曖昧にされることもある。つまり、誇りが傷つけ
られたことに対する直接的な反応が、恥や屈辱以外の別の感情に自動的に転換されるのである。
例えば、夫や恋人が他の女性に心をひかれたり、自分の願いを忘れてしまったり、仕事や趣味に
夢中になったりすると、本質的には誇りが傷つくであろうが、意識に感じるのは、ただ報われぬ
恋の悲しみだけである。人に軽視されても、失望感を味わうだけである。恥の感情は、意識には
漠然とした不安や当惑、あるいはもっと具体的には、罪の感情として現われるだろう。この
最後に挙げた、恥の感情が罪の感情に変わるという事実はとりわけ重要である。というのも、
このことから、ある種の罪の感情をかなり早く理解できるからである。

///////// 対馬忠監修 ///
308 ◆4otEyhoCdw :2013/09/17(火) 21:52:54.77 ID:qGboiAjU
 
/// 神経症的誇り 40 ///////////

例えば、無意識のうちに見せかけの態度を全般的に身につけている人が、比較的無害な、
取るに足らない嘘をついたことで、罪ありげに悩んでいる場合、次のように仮定して
差し支えないであろう。彼が気にしているのは、自分が実際に正直であることよりも、
正直そうに見えることであり、彼の誇りが傷ついたのは、自分が最後まで絶対に正直で
あるように見せかけることができなかったからである。また、もし自己中心的な人が、
自分の思いやりのなさに罪を感じている時、われわれは、この罪の感情の本体は、彼が
自分でそうありたいと思うほどには、実際に思いやりがなかったことを正直に後悔して
いる気持であるよりは、むしろ自分のもつ善良さという後光を曇らせたことに対する
恥の感情ではないかと問うてみなければならない。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
309 ◆4otEyhoCdw :2013/09/17(火) 22:31:58.44 ID:qGboiAjU
 
///// KAREN HORNEY ////////////

[Neurosis And Human Growth: The Struggle Toward Self-Realization]
   by Karen Horney, Norton 1950

CONTENTS
  INTRODUCTION: A MORALITY OF EVOLUTION
1. THE SEARCH FOR GLORY
2. NEUROTIC CLAIMS
3. THE TYRANNY OF THE SHOULD
4. NEUROTIC PRIDE
5. SELF-HATE AND SELF-CONTEMPT
6. ALIENATION FROM SELF
7. GENERAL MEASURES TO RELIEVE TENSION
8. THE EXPANSIVE SOLUTIONS: The Appeal of Mastery
9. THE SELF-EFFACING SOLUTIONS: The Appeal of Love
10. MORBID DEPENDENCY
11. RESIGNATION: The Appeal of Freedom
12. NEUROTIC DISTURBANCES IN HUMAN RELATIONSHIPS
13. NEUROTIC DISTURBANCES IN WORK
14. THE ROAD OF PSYCHOANALYTIC THERAPY
15. THEORETICAL CONSIDERATIONS

///// Neurosis And Human Growth ///
310 ◆4otEyhoCdw :2013/09/19(木) 21:24:35.10 ID:kS/wmmi1
 
/// 神経症的誇り 41 ///////////

 さらにそのうえ、恥や屈辱の反応は、直接的な反応でも、変形したものでも、どちらも
意識されないことがある。意識されるのは、ただこれらの反応に対する自分の反応だけである。
このような「二次的な」反応のなかでは、怒りと恐れが特に目立っている。誇りが傷つけ
られると、復讐的な敵意が起こることはよく知られている。それには嫌いという感情から
憎しみまで、また、短気から怒り、さらに盲目的で残忍な激怒に至るまで、様々ある。
時には、観察者が見ても、怒りと誇りとの関係がかなりはっきりと確立されている場合もある。

///// 神経症と人間的成長 ///
311 ◆4otEyhoCdw :2013/09/19(木) 21:29:19.43 ID:kS/wmmi1
 
/// 神経症的誇り 42 ///////////

例えば、ある人は自分を横柄な態度で扱ったと思う上役や、自分をだましたタクシーの
運転手に対して激怒する。――それらの出来事はせいぜい人を当惑させる程度のもので
あるが、当人には、他人の悪い行為に対して、自分が怒ったのは正当なのだというようにしか
意識されていない。しかし、観察者――ここでは分析家としておこう――には、その出来事の
ために、彼の誇りが傷ついたことも、彼が屈辱を感じて激怒の反応を起こしたことも分る
だろう。患者は、観察者のこのような解釈に対して、それは自分の過激な反応をいちばんよく
説明するものであるとして受け入れることもあれば、自分のとった態度は少しも行き過ぎでなく、
自分の怒りも、他人の不正や愚かさに対して当然のものであると言い張ることもある。

///// 自己実現の闘い ///
312 ◆4otEyhoCdw :2013/09/19(木) 21:38:32.39 ID:kS/wmmi1
 
/// 神経症的誇り 43 ///////////

 もちろん、非合理的な敵意のすべてが、誇りが傷つけられたために起こるというわけでは
ないが、傷ついた誇りは一般に考えられている以上に大きな役割を果たしている。分析家は、
特に患者が自分に対して、あるいはいろいろな解釈や分析状況全体に対してとる反応のなかに、
こうした可能性がありはしないかといつも警戒すべきである。もし敵意のなかに名誉毀損とか
軽蔑とか人を辱める意図とかの要素が含まれている場合には、誇りが傷つけられたことと
関係があることをいっそう容易に見分けられる。ここに作用しているのは紛れもない報復の
法則である。

///// 原著 1950年発行 ///
313 ◆4otEyhoCdw :2013/09/19(木) 22:16:36.14 ID:kS/wmmi1
 
/// 神経症的誇り 44 ///////////

患者はそれとは気づかずに、辱められたと感じて、その屈辱には屈辱で仕返しをしている
のである。このような反応の起こった後で、息者の敵意について云々するのはまったく
時間の無駄である。分析家はただちに問題の要点に入り、患者の心に何か屈辱として映った
のかという問題を提起しなければならない。時には、分析家がまだ患者の痛いところに
触れていない分析の当初においても、患者に、分析家を辱めたいという衝動や考えが――
何の効果もないのであるが――現われることがある。この場合は、おそらく患者は分析を
受けること自体に無意識のうちに屈辱を感じているのであろう。だから、この関係に
はっきりと焦点を合わせることが分析家の仕事である。

///// Neurosis and Human Growth ///
314 ◆4otEyhoCdw :2013/09/19(木) 22:44:40.90 ID:kS/wmmi1
 
/// 神経症的誇り 45 ///////////

 もちろん、分析で起こることは、他の状況でも起こる。そこで、もし、攻撃的な行動は
誇りが傷つけられたために起こることが多いということをもっと考慮に入れておけば、
多くの辛く、胸の張り裂けるような苦しみを経験せずに済むだろう。例えば、われわれは、
友人や親戚を気前良く助けてやっだのに、彼らが不愉快な態度をとった場合、恩知らずだと
言ってかっとならないで、彼らが助けられたことでどれほど誇りが傷つけられたかを考えて
やるべきである。そして、その状況に応じて、彼らとそのことを話し合うとか、彼らの面子を
つぶさないやり方で助けるように努めることができよう。同じく、一般に他人を軽蔑する
ような態度をとっている人の場合には、われわれは、その人の傲慢さを憤るだけでは駄目で、
彼は、自らの誇りのために全体的に傷つきやすくなっているので、「あら皮」をかぶって
人生を渡っている人なのだというように考えてやらなければならない。

///// Karen Horney ///
315 ◆4otEyhoCdw :2013/09/20(金) 20:43:08.61 ID:3yDryVGs
 
/// 神経症的誇り 46 ///////////

 あまりよく知られていないことではあるが、自分で自分の誇りを傷つけたと思う時、
自分に対して、今述べたと同じような敵意や嫌悪や軽蔑を向けることがある。
自己に向けられるこの怒りは、ただ激しい自己非難の形をとるだけではない。確かに、
復讐的な自己嫌悪は非常に多くの広範な意味をもっているので、これを、誇りが
傷つけられた時の反応のなかに入れてここで論じると、議論のつながりが分らなく
なるだろう。そこで、それについては次章で論じることにする。

///// アカデミア出版会 ///
316 ◆4otEyhoCdw :2013/09/20(金) 20:51:15.88 ID:3yDryVGs
 
/// 神経症的誇り 47 ///////////

 恐怖、不安、恐慌状態などの反応は、屈辱を受けるだろうと予期される場合にも、実際に屈辱を
受けた場合にも起こる。受験、人前で何かをする、社交的な集まり、デートなどに関して起こるのは
予期的な恐怖であり、ふつう、「舞台恐怖」と呼ばれている。この言葉は、人前でも、一人でも、
何かを行なう前に起こる、訳の分らない恐怖を比喩的に言い表わすのにはふさわしいものである。
それはまた、初めて会う親戚、重要人物、あるいは、レストランの給仕長に向かった時のように、
相手に好い印象を与えたいと思う場合や、新しい仕事を始める、絵を描き始める、弁論術のクラスに
行く、といった新しい活動を開始する状況にも用いられる。このような恐怖に襲われる人々は、
この恐怖は失敗や不名誉や嘲りを恐れる心なのだとよく言う。確かにその通りだと思うが、この
言い方では、実際に起こる失敗を恐れるという、道理にかなった恐怖のことを言っているような
印象を与えて誤解を生みやすい。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
317 ◆4otEyhoCdw :2013/09/20(金) 21:01:27.79 ID:3yDryVGs
 
/// 神経症的誇り 48 ///////////

というのも、ある特定の人にとって失敗と思われるものは、彼だけの主観によるものであるという
事実を見落とすことになるからである。こうした人にとっては、栄光と完全さに少しでも欠ける
ものはすべて失敗ということになってしまうだろう。そして、この栄光と完全の域に達することが
できないのではないかという予期こそが、穏やかな形での舞台恐怖の本質をなすものである。
人は自分の厳格な〈べき〉が要求するほど完璧には物事を成就することができないのではないか
と恐れ、ひいては、自分の誇りが傷つけられることを恐れるのである。もっと有害な形をとる
舞台恐怖もあるが、それについては後程扱うことにする。その場合には無意識的ないろいろな
力が働いて、物事を遂行する行動能力そのものを妨げてしまうのである。そこで、舞台恐怖とは、
彼自身のもつ自己破壊的傾向のために、自分が滑稽なほどぎこちなくなり、科白を忘れ、「言葉が
詰まり」、栄光と勝利を得られるどころか、恥をかいてしまうのではないか、という恐れなのである。

///////// 対馬忠監修 ///
318 ◆4otEyhoCdw :2013/09/20(金) 22:03:28.11 ID:3yDryVGs
 
/// 神経症的誇り 49 ///////////

 予期的な恐怖のもう一つのカテゴリーは、その人が行なう仕事の出来映えの質に
関するものではなくて、自分の特殊な誇りが傷つけられるような何かをしなければ
ならないという予想にかかわるものである。例えば、昇任を要求したり、人にものを
頼んだり、何かの申し込みをしたり、女性に近づいたりする場合には、拒絶される
可能性があるからである。また、性的交渉が彼にとって屈辱的な意味をもつ場合には、
性交渉の直前に恐怖が起こることもある。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
319 ◆4otEyhoCdw :2013/09/20(金) 22:22:49.31 ID:3yDryVGs
 
/// 神経症的誇り 50 ///////////

 恐怖の反応は、「侮辱」を受けた時にも起こるであろう。多くの人々は、他人から尊敬を
欠いた行為や横柄な振舞いをされると、声や身を震わせ、汗をかくなどのいろいろな形で
恐怖を表現する。こうした反応は、激怒と恐怖が入り混じったもので、その恐怖の一部には、
自分自身の暴力に対する恐怖も含まれている。同じような恐怖の反応が、恥の感情に続いて
起こり、しかし、恥の感情の方は、それとして意識されないという場合がある。それまで
ぎこちなかったり、臆病だったり、攻撃的であったりしていた人が、突然、不安や恐慌状態に
陥ることがある。

///// 神経症と人間的成長 ///
320 ◆4otEyhoCdw :2013/09/21(土) 07:33:09.29 ID:z43U7voi
 
/// 神経症的誇り 51 ///////////

ある婦人の例を挙げよう。彼女は車で山道を登って行ったが、その道の果てに頂上に通じる
小径があった。その小径はかなり急とはいえ、歩きやすい道だったが、当日は、ぬかるんで
滑りやすくなっていた。そのうえ、彼女は新しい服を着て、ハイヒールをはき、杖も持たず、
山登りにふさわしくない身仕度だった。それでも彼女は歩こうとしたが、何回も滑った後で、
登るのをあきらめた。休んでいる時、はるか下の方に一匹の大きな犬が通行人に激しく
吠え立てているのを見て、彼女は急にその人が怖くなった。この恐怖に自分でもはっと驚いた。
というのも、いつもは少しも大を恐れなかったし、その人の持ち主とはっきり分る人が
そばにいたので、怖がるような理由は何もないと分っていたからである。

///// 自己実現の闘い ///
321 ◆4otEyhoCdw :2013/09/21(土) 07:42:33.22 ID:z43U7voi
 
/// 神経症的誇り 52 ///////////

そこで、彼女はこのことについて考え始め、ふと少女時代にひどく恥ずかしい思いをした
ある出来事を思い出した。そして、自分が現在の状況で、その時とちょうど同じように、
ほんとうは山頂に登り「損ねた」ために恥じていることに気づいた。彼女は心のなかで
「でも、それを強行するのは分別のあることではなかったろう」と考えたが、すぐ後で、
「でも、私は成功することができるべきだった」と思った。彼女はこのことを手がかりに
して、傷ついたのは彼女自ら言うところの「愚かな誇りにであり、そのために攻撃して
きそうなものに対して、自分が無力な気持になったのだということに気がついた。もっと
後で分るように、彼女はわれとわが身に対する攻撃になす術もなく身をさらし、そして、
その危険を外在化していたのだった。この自己分析は完全であるとは言えないが、効果的
であって、彼女の恐怖は消えたのである。

///// 原著 1950年発行 ///
322 ◆4otEyhoCdw :2013/09/21(土) 08:09:04.56 ID:z43U7voi
 
/// 神経症的誇り 53 ///////////

 われわれは、恐怖の反応よりも激怒の反応をより直接的に理解できる。しかし、結局、
両者は互いに結びついていて、一方が理解できないと、他方も分らない。恐怖と激怒の
反応は両方とも、誇りが傷つけられると非常に危険な状態になることから起こるものである。
では、なぜ誇りが傷つけられると危険な状態になるのか、その理由は一つには既に述べた
ように、誇りが自信の代わりをしているためである。しかし、これは完全な答えではない。
後で見るように、神経症者は、誇りか、さもなければ、自己軽蔑かという二者択一の世界に
住んでいるため、誇りが傷つけられると、自己軽蔑の奈落に落ちるのである。この関係は、
一連の多くの不安を理解するために心に留めておかねばならない重要なことである。

///// Neurosis and Human Growth ///
323 ◆4otEyhoCdw :2013/09/21(土) 15:20:31.85 ID:z43U7voi
 
/// 神経症的誇り 54 ///////////

 怒りの反応も恐怖の反応も共に、われわれ自身には誇りと無関係なものに思われるが、
それにもかかわらず、それらは誇りとの関連を示す道標として役に立つ。もしこのニ次的
反応までもが何らかの理由で抑圧されて、怒りや恐れの形で現われない場合には、問題全体は
いっそう曖味になる。その場合、これらの反応は一時的な精神病的症状、抑うつ状態、飲酒、
心身症状などいくつかの徴候像へと導いたり、その一因となったりするだろう。また、
怒りや恐怖の感情にじっとひたっていたいという欲求は、情緒の全般的な平板化へと導く
一因になることもある。その時、怒りや恐怖の感情だけでなく、すべての感情が乏しくなり、
鈍麻してくる傾向がある。

///// Karen Horney ///
324 ◆4otEyhoCdw :2013/09/21(土) 16:43:35.39 ID:z43U7voi
 
/// 神経症的誇り 55 ///////////

 神経症的誇りの有害性は、誇りがその人にとって決定的な重要性をもっていること、
同時に、誇りは彼を極度に傷つきやすくすること、この二つが結びついているところにある。
この状況は緊張をつくり出すが、その緊張はしばしば起こり、また、非常に強いために、
とうてい耐えられないものとなり、どうしても救済が必要になってくる。すなわち、
誇りが傷つけられた時は、その誇りを取り戻すために、また、誇りが危うくなる時は、
その被害を避けるために、自動的な試みがなされるのである。

///// アカデミア出版会 ///
325 ◆4otEyhoCdw :2013/09/21(土) 19:16:12.59 ID:z43U7voi
 
/// 神経症的誇り 56 ///////////

 面子を救いたいという欲求は非常に切迫したもので、それを達成する方法は一つだけ
ではない。実際問題として、非常に多くの精粗様々な方法があるので、ここではいちばん
よく起こる重要なものだけに限って示さなければならない。最も効果的で、おそらく
ほとんど至る所で見られる方法は、自分に屈辱感を与えたものに復讐したい衝動と結び
ついている。先にわれわれは、それは誇りが傷つけられた際にともなう苦痛や危険に対する
敵意の反応であると論じた。しかし、復讐心はそのうえさらに雪辱の手段でもある。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
326 ◆4otEyhoCdw :2013/09/21(土) 20:00:48.34 ID:z43U7voi
 
/// 神経症的誇り 57 ///////////

それは誇りを傷つけた人に仕返しをすることによって、彼自身の誇りを取り戻せるという
信念を含んでいる。この信念は、われわれの誇りを傷つけた人は、傷つけたまさにそのこと
によって、われわれの上に立ち、われわれを敗北させたのだという感情に基づいている。
われわれが彼から受けた以上のことを、彼に復讐し、彼を傷つけるなら、その立場は逆転し、
われわれが勝利者となって、彼を敗北させることができる。神経症的復讐の目的は、
「平等になる」ことではなく、自分の受けた以上のひどい仕返しをして勝利を収めること
にある。完全な勝利によってのみ、彼が誇る、その心に描く素晴らしさを取り戻すことが
できる。この復讐によって誇りを取り戻すことができるからこそ、神経症の報復性は
信じられないほどの執拗さをもち、また、強迫的性格を帯びているのである。

///////// 対馬忠監修 ///
327 ◆4otEyhoCdw :2013/09/21(土) 21:07:33.71 ID:z43U7voi
 
/// 神経症的誇り 58 ///////////

 報復性については後程いくぶん詳細に論じるつもりであるから、ここではいくつかの基本的
要因についてごく簡単に述べるにとどめよう。報復する力は誇りを取り戻すために非常に価値
のあるものであるから、報復そのものも誇りの対象となりうる。ある型の神経症の人は、報復する
力を、強さ、しかもも、しばしば彼の知る唯一の強さであると考えている。逆に、仕返しが
できないことは、報復的な動きを禁じるその要因が外的なものであれ、内的なものであれ、
いずれもふつう弱さと考えられている。そこで、このような人が屈辱を受けたと感じながらも、
自分の置かれている状況や心のなかの何らかの理由のために、仕返しができない場合には、
彼は二重の傷を受けることになる。つまり、最初に受けた「屈辱」と、報復的勝利の反対の
ものとしての「敗北」とを経験するのである。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
328 ◆4otEyhoCdw :2013/09/22(日) 07:11:09.01 ID:Fbnwv3Ze
 
/// 神経症的誇り 59 ///////////

 先に述べたように、報復的勝利を得ようとする欲求は、栄光の追求に必ず含まれる
要素である。この欲求が生活を支配する動因力になっている場合には、解決することの
きわめてむずかしい悪循環を引き起こす。つまり、この場合、できる限りの方法を用いて
他人に抜きん出ようとする決心が非常に強いので、それは栄光の追求全体を強めると
共に、神経症的誇りをも強める。そして、この大きくふくらんだ誇りは、逆に復讐心を
いっそう強めることになるので、勝利を求める欲求はますます大きくなるのである。

///// 神経症と人間的成長 ///
329 ◆4otEyhoCdw :2013/09/22(日) 09:49:50.46 ID:Fbnwv3Ze
 
/// 神経症的誇り 60 ///////////

 誇りを取り戻す方法のなかで、次に重要なものは、何らかの方法で、この誇りを傷つけた
すべての状況や人々に対する関心をなくしてしまうことである。他人に抜きん出たり、完全な
仕事をしたいというやみがたい欲求が充たされないために、スポーツや政治や知的な仕事に
関心をなくしてしまう人々が多い。そうした欲求が充たされない状況は彼らにはとうてい
耐えられないので、あきらめてしまうのである。自分ではいったい何か起こったのか分らないが、
ただ面白くなくなって、実際には自分の能力以下の活動に向かっていく。ある人は良い教師に
なれたかもしれないのに、すぐには習得できない仕事や、対面にかかわると思われる仕事を
割り当てられると、教えることに対して興味を失ってしまう。

///// 自己実現の闘い ///
330 ◆4otEyhoCdw :2013/09/22(日) 10:15:55.11 ID:Fbnwv3Ze
 
/// 神経症的誇り 61 ///////////

このような態度の変化は学習過程でも見られる。才能のある人が熱狂的に演劇や絵を始める。
先生や友人は彼を有望だと思い、激励する。しかし、いくら才能があっても、彼は一夜にして
ベリモーやルノアールにはなれないだろう。彼は自分がクラスのなかで唯一の才能ある者でない
ことに気づく。当初の出来映えがあまり良くないのは当然のことである。しかし、こうした
ことはすべて彼の誇りを傷つけるところとなり、彼は突然、絵画や演劇は自分にあっていない、
「ほんとうは」自分はこの仕事に少しも興味をもっていなかったのだと「気づく」であろう。
彼は興味を失い、授業をさぼり、やがてすっかりやめてしまう。彼は何か他の仕事を始めても、
結局これと同じ経過を繰り返すだけである。しばしば、経済的な理由ないし惰性でその活動を
続けることもあるが、あまり気を入れてやらないので、まともにすればできたようなことも
うまくできないのである。

///// 原著 1950年発行 ///
331 ◆4otEyhoCdw :2013/09/22(日) 14:02:20.10 ID:Fbnwv3Ze
 
/// 神経症的誇り 62 ///////////

 これと同じ過程は対人関係でも起こる。もちろん、誰かを好きでなくなるにはそれなりの理由が
あるものだ。その人を初めのうちは過大評価していたかもしれないし、自分の方が以前と違った
方向に進んでいったためかもしれない。しかし、いずれにせよ、なぜ好きだった感情が無関心に
変わったのか、その理由を、時間がなかったせいにしたり、最初の判断が間違っていたのだと
簡単に決めてかかったりしないで、よく調べてみることは価値がある。実際には、対人関係に
おいて自分の誇りが傷つけられるようなことがあったのかもしれない。例えば、自分と比較して、
その人の方が優れていたのかもしれないし、彼が以前ほど自分を尊敬しなくなったのかもしれない。

///// Neurosis and Human Growth ///
332 ◆4otEyhoCdw :2013/09/22(日) 16:25:14.14 ID:Fbnwv3Ze
 
/// 神経症的誇り 63 ///////////

また、自分が彼の力になれなかったことに気づいて、彼に対して恥ずかしい気持をもって
いるからかもしれない。すべてこうしたことがわれわれの結婚や恋愛関係で決定的な役割を
果たすことがあり、その時、われわれは 「彼をもう愛していないのだ」ということにして
しまいがちである。
 すべてこうした退嬰的な態度は、多くのエネルギーを浪費させると共に非常にみじめな
状態を招くことがよくある。しかし、この態度の最も破壊的な面は、真の自己に誇りが
もてないためにそれに興味を失ってしまうことである。この問題については後で論じる
つもりである。

///// Karen Horney ///
333 ◆4otEyhoCdw :2013/09/22(日) 17:54:40.53 ID:Fbnwv3Ze
 
/// 神経症的誇り 64 ///////////

 誇りを取り戻すための方法はほかにもいろいろあり、それらはよく知られているが、誇りとの
関連のもとで理解されることはほとんどない。例えば、われわれは何か的外れなこと、思慮に
欠けたこと、あまりに横柄な、または弁解的なことを言っておきながら、後になって自分でも
それがばかげたことに思えると、それを忘れたり、言ったことを否定したり、あるいは、全然
そういうつもりはなかったと言い張ったりする。このような否定の態度によく似たものに、
出来事を歪曲するやり方がある。この場合は、自分の責任をできるだけ少なくし、ある要因を
省き、他の要因を強調し、それらを自分の都合の好いように解釈するので、結局、自分の非を
つくろい、誇りが傷つかずに済むことになる。

///// アカデミア出版会 ///
334 ◆4otEyhoCdw :2013/09/22(日) 18:44:12.80 ID:Fbnwv3Ze
 
/// 神経症的誇り 65 ///////////

きまり悪い出来事は心に相変わらず残っているが、口実や言い訳によって追い払われる。
ある人は自分が見苦しく大騒ぎしたことを認めるが、それは三日間も眠っていなかった
せいだとか、他の人が自分を挑発したからだとか言う。また、自分は確かに他人の感情を
傷つけ、軽率で思慮に欠けていたが、それは善意から出たものだったとか、助けを求めて
きた友人の力になれなかったのは、時間がなかったせいだとかいった具合である。これらの
口実はどれも部分的または全面的に、真実なのであろうが、本人は、これらを自分の失敗を
酌量してもらうための情状とは考えずに、失敗を完全に抹殺してくれるものと思っている。
同じく、どんなことでもごめんなさいと謝れば、それで事が済むと思っている人々も多い。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
335 ◆4otEyhoCdw :2013/09/22(日) 19:36:29.63 ID:Fbnwv3Ze
 
/// 神経症的誇り 66 ///////////

 すべてこうしたやり方に共通しているのは、自己に対して責任をとることを拒否する傾向である。
われわれは自分が誇れないものについては、忘れたり、美化したり、他人の責任にしたりして、
自分の欠点を潔く白状せずに面子を立てようとする。また、自己に対して責任をとらないことを
あたかも客観的な態度であるかのような仮面の下に隠すことができる。例えば、ある患者は
自分自身について鋭い観察をし、自分のなかにある嫌な面をかなり正確に報告する。だから、
表面的には、彼は自分自身についてよく見通せる、正直な人間であるように見える。しかし、
そこでは「彼」は、単に、ある一人の内気で、怖がりの、あるいは、尊大な要求をもつ人間に
ついての賢い観察者にすぎないだろう。このため、自分が観察しているその人に対しては何も
責任をもたないのだから、彼は傷つかずに済むわけである。しかも、彼の誇りは自分のこの鋭い
客観的な観察能力の方だけに向けられるので、なおさら傷つかない。

///////// 対馬忠監修 ///
336 ◆4otEyhoCdw :2013/09/22(日) 21:04:08.36 ID:Fbnwv3Ze
 
/// 神経症的誇り 67 ///////////

 また、ある人々は自分自身について客観的になること、さらには、自分に忠実になること
さえも好まない。そのため、このような患者は、全般的に回避的な態度を身につけているが、
それでも、自分のある神経症的傾向に気づいてくると、「自分」と自分の「神経症」や自分の
「無意識」とをはっきりと区別するだろう。自分の「神経症」は「自分」とはまったく関係の
ない何か神秘的なものとなる。このことはまことに驚くべきことに思えるかもしれないが、
実は、彼にとってはそれは面子を救う手段であるばかりか、生命を救う手段、あるいは、
ともかく精神の健康を保つ手段なのである。彼の誇りは極度に傷つきやすくなっているので、
自分の障害を白状すれば、心が大きく分裂してしまうからである。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
337 ◆4otEyhoCdw :2013/09/23(月) 07:35:26.25 ID:J1PI0iP7
 
/// 神経症的誇り 68 ///////////

 面子を救う工夫として最後に挙げられるものは、ユーモアを使う方法である。患者が
はっきりと自分の障害を認め、それにちょっとユーモアをきかせる場合は、それは当然
心に自由のあるしるしである。しかし、まだ分析を始めたばかりの患者が、一方では
どんな批判に対しても異常なほど敏感でありながら、同時に他方では絶えず自分を笑い者に
したり、自分の障害を、滑稽なものに思えるほどドラマチックに誇張したりすることがある。
この場合のユーモアは、こうでもしなければ耐えられない恥の辛さを取り去るための
手段に使われているのである。

///// 神経症と人間的成長 ///
338 ◆4otEyhoCdw :2013/09/23(月) 08:19:47.88 ID:J1PI0iP7
 
/// 神経症的誇り 69 ///////////

 誇りが既に傷つけられている場合に、それを取り戻すためにどんな工夫が用いられるかに
ついては、これだけにしておこう。しかし、誇りは非常に傷つきやすく、しかも、重要なもの
であるから、将来においてもやはり保護されなければならない。神経症者は将来傷つけられる
ことを避けようと願って、一つの精密な回避の体系をつくり上げることがある。これもまた
自動的に行なわれる過程である。彼はある行動が自分の誇りを傷つけるかもしれないので、
無意識のうちに、その行動を避けようとする。自分では避けているとは気づかずに、ついその
行動を避けてしまうことがしばしばある。この回避の過程は種々の活動や実際の場面に現われて、
現実に努力しようとする態度を抑制してしまう。そして、この過程が広範囲に及べば、実際に
その人の一生を駄目にしてしまうであろう。

///// 自己実現の闘い ///
339 ◆4otEyhoCdw :2013/09/23(月) 08:48:03.86 ID:J1PI0iP7
 
/// 神経症的誇り 70 ///////////

彼は素晴らしい成功者になれないことを恐れて、自分の能力にふさわしいどんな重要な仕事も
しようとせず、ものを書いたり、絵を描いたりしたくても、それを始める勇気が出ない。また、
女性に近づきたいが、拒絶されることを恐れて、あえて近づこうとはせず、ホテルのマネージャーや
ポーターに対してぎこちない振舞いをしないかと恐れて、旅行する勇気さえ出ない。知らない
人のところでは、自分がつまらない人間のように感じられるので、自分がよく知られている
場所にしか行かない。ぎこちない態度になることを恐れて、人との接触を避ける。

///// 原著 1950年発行 ///
340 ◆4otEyhoCdw :2013/09/23(月) 09:47:23.84 ID:J1PI0iP7
 
/// 神経症的誇り 71 ///////////

こうして、彼は自分の経済状態に応じて、有益なことを何もしないか、平凡な仕事にしがみつき、
出費を切り詰めたつましい生活をする。また、いろいろなやり方で、収入以下の暮らしをする。
結局は、こうしたことのために、彼は他の人々からいっそう遠ざがらねばならなくなる。
なぜなら、人から遠ざかっていれば、自分が同年輩の人々に遅れをとっているという事実に
直面せずに済み、そのため、自分の仕事について誰からも比較や質問をされなくて済むから
である。彼は今や生き続けるためには、これまでよりいっそう自分だけの空想の世界に閉じ龍らな
ければならない。しかし、すべてこうしたやり方は、自分の誇りに対する治療法というよりは、
むしろそれをカムフラージュするものであるから、彼の神経症はなおいっそうひどくなり始める
だろう。「神経症」を看板にすれば、仕事ができないことへの立派な言い訳になるからである。

///// Neurosis and Human Growth ///
341 ◆4otEyhoCdw :2013/09/23(月) 11:30:45.80 ID:J1PI0iP7
 
/// 神経症的誇り 72 ///////////

 以上は極端な発達であり、言うまでもなく、誇りはこの発達に作用する本質的な要因の一つ
ではあっても、唯一の要因ではない。回避はある領域にだけ限られる場合の方が多い。人は
禁止のいちばん少ない仕事や、栄光に役立つような仕事には実に積極的に、効果的に取り組む。
例えば、自分の仕事の分野では一生懸命に効果的に働く人が、社交生活を避けることがあるし、
逆に、社交的な活動やドン・ファンの役割を演じる場合には安心感を抱く人も、自分の潜在能力を
試すような重要な仕事には、あえて乗り出そうとしない。また、組織者の役割をすることには
安定感をもつ人でも、個人的な関係では傷つきやすいと感じるので、それを避けるだろう。

///// Karen Horney ///
342 ◆4otEyhoCdw :2013/09/23(月) 15:09:35.37 ID:J1PI0iP7
 
/// 神経症的誇り 73 ///////////

他人と情緒的なかかわりをもつことに対する多くの恐怖(神経症的孤立)のなかでは、誇りが
傷つけられることへの恐怖が目立った役割を占めている場合が多い。人は多くの理由から、
とりわけ異性との関係で魅力がなく、うまくいかないことを恐れることがある。男性の
場合には、女性に近づいたり、性的交渉をもったりすると、自分の誇りが傷つけられるだろうと、
無意識のうちに予期する。この場合、女性たちは男性に(彼の誇りにとっての)潜在的な
脅威を与える。この恐怖は非常に強いので、彼が女性に魅力を感じる気持はくじかれ、
あるいはまったく打ちひしがれて、そのため、異性との交渉を避けるようになるほどである。
こうして生じる禁止作用は、彼が同性愛傾向を生む一因でもある。誇りはいろいろな意味で、
恋愛の敵なのである。

///// アカデミア出版会 ///
343 ◆4otEyhoCdw :2013/09/23(月) 18:28:52.65 ID:J1PI0iP7
 
/// 神経症的誇り 74 ///////////

 回避は具体的には多くのいろいろな事柄について起こる。例えば、人前でしゃべること、
スポーツに参加すること、電話をかけることを避けるなどである。もし他の誰かが近くに
いて電話をかけ、物事を取り決め、家主と交渉してくれるのなら、その人に任せてしまう。
このような具体的な活動では、彼はそれらを避けていることをおそらく自覚しているであろう。
しかし、もっと広い領域では、そのことはしばしば「私はできない」とか、「私はそうしたく
ない」とかいう態度のために、もっと曖昧にされてしまう。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
344 ◆4otEyhoCdw :2013/09/23(月) 19:55:31.12 ID:J1PI0iP7
 
/// 神経症的誇り 75 ///////////

 これらの回避について調べてみると、そこには回避の性格を規定する二つの原理が働いて
いるのが分る。第一は、要するにその人の生活を制限することにより、安全を得る原理である。
誇りが傷つくような危険を冒すよりは、権利を放棄し、引き下がり、あきらめる方が安全である。
誇りを守るためには、喜んで、しばしば自分の生活を束縛するほどまでに制限しようとする。
このことほど、誇りが多くの場合にいかに圧倒的な重要性をもつかを強く印象づけるものは
なかろう。第二は、試みて失敗するよりは、試みない方が安全だという原理である。回避は、
どんな困難が起ころうと、それを徐々に克服していこうとする機会を人々から奪ってしまうから、
この処世訓は、その人にそれでもうおしまいであるという烙印を押すようなものであって、
神経症者の前提からすれば考えられないことでさえある。

///////// 対馬忠監修 ///
345 ◆4otEyhoCdw :2013/09/24(火) 06:47:57.16 ID:YWL4utx8
 
/// 神経症的誇り 76 ///////////

なぜなら、彼は生活を極度に制限するという犠牲を払わなければならないうえに、退却する
ということは、長い目で見れば、彼の誇りをいっそう傷つけることになるからである。ところが、
もちろん彼は長い目で物事を見ることをせず、試行錯誤の直接的な危険だけを気にしている。
もし彼が全然試みないなら、危険を身に受けない。彼は何か言い訳を見つけることができる。
少なくとも心のなかでは、もし自分が試みていたら、試験にパスすることができたろう、
もっとよい就職口を得られたろう、女性を得ることができたろうなどと考えて、自らを慰める
ことができる。さらにもっと幻想的である場合も多く、「もし私が作曲家や作家になっていたら、
ショパンやバルザックよりも偉大になっていただろうに」と思う。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
346 ◆4otEyhoCdw :2013/09/24(火) 20:32:49.94 ID:YWL4utx8
 
/// 神経症的誇り 77 ///////////

 多くの場合、回避は、何か欲しいものを得たいと思う感情にまで及んでいく。要するに、
回避がわれわれの欲望を包囲してしまうのである。私は先に自分が得たいと願うものが手に
入らないと、それを不名誉な敗北と思う人々のことを述べた。その場合、単に願望をもつこと
だけでもあまりに大きい危険をともなっている。しかし、このような願望を制限することは、
われわれの活力にふたをして抑えつけることになる。また、人は時には自分の誇りを傷つける
ようなどんな考えも回避しなければならない。この点に関する最も重要な回避は、死について
考えるのを避けることである。自分も他人と同じように年寄りにならなければならない、
死なねばならないと考えるのはとても耐えられないことである。オスカー・ワイルドの
『ドリアン・グレイの肖像』は、永遠の若さに対する誇りを芸術的に表現したものである。

///// 神経症と人間的成長 ///
347 ◆4otEyhoCdw :2013/09/24(火) 20:47:21.02 ID:YWL4utx8
 
/// 神経症的誇り 78 ///////////

 誇りの発達は栄光の追求に端を発する過程の論理的帰結であり、極点であり、統合である。
人は最初は比較的無害な空想をもち、自分自身を何か素晴らしい役割をもったものとして
心に描く。次に、自分が「ほんとうは」そうであり、そうであることができ、そうであるべき
ものについての一つの理想像を心のなかに創造するに至る。それから、最も決定的な段階がくる。
彼の真の自己は消え去り、自己実現のために利用できるエネルギーは、理想化された自己を
現実化することに振り替えられる。要求は、世界における彼の地位を確立しようとする試み
なのである。

///// 自己実現の闘い ///
348 ◆4otEyhoCdw :2013/09/24(火) 21:02:52.02 ID:YWL4utx8
 
/// 神経症的誇り 79 ///////////

それは理想化された自己のもつ意義にふさわしい地位、また、それを支える地位である。
彼は〈べき〉によってこの自己の完成を現実化しようと自らを駆り立てる。そして最後に
彼はジョージ・オーウェルの『一九八四年』のなかの「真理省」のように、一つの個人的
価値体系をつくり上げ、自分自身のなかで何を好み、何を受け入れ、何を賛美し、何を
誇るかを規定する。しかし、この価値体系はまた、必然的に、何を拒み、何を忌み嫌い、
何を恥じ、何を軽蔑し、何を嫌悪するかをも規定しなければならない。どちらか一方だけを
行なって、他方をしないわけにはいかない。誇りと自己嫌悪とは分かちがたく結ばれて
一体をなすものである。両者は一つの過程の違った表現なのである。

・・・・

///// 原著 1950年発行 ///
349 ◆4otEyhoCdw :2013/09/24(火) 21:15:37.09 ID:YWL4utx8
 
/// KAREN HORNEY ////////////

カレン・ホーナイ(Karen Horney)著
NEUROSIS AND HUMAN GROWTH: The Struggle Towards Self-Realization 1950年出版

Neurosis and Human Growth [Paperback]
http://www.amazon.com/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-Realization/dp/0393307751/
http://www.amazon.co.jp/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-Realization/dp/0393307751/
http://www.amazon.co.jp/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-realization/dp/0393001350/

Neurosis And Human Growth [Hardcover]
http://www.amazon.com/Neurosis-And-Human-Growth-Self-Realization/dp/B0006ASE2A/
http://www.amazon.co.jp/Neurosis-Human-Growth-SELF-REALIZATION-International/dp/041521095X/

邦訳:神経症と人間の成長 (ホーナイ全集)、 誠信書房 (1998/06) 、榎本 譲 (翻訳), 丹治 竜郎 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/dp/4414420067/

邦訳:『自己実現の闘い――神経症と人間的成長――』、アカデミア出版会、1986年10月発行
対馬忠監修、藤沢みほ子、対馬ユキ子訳
http://honto.jp/netstore/pd-book_00428165.html

////// NEUROSIS AND HUMAN GROWTH ///
350 ◆4otEyhoCdw :2013/09/25(水) 20:40:09.16 ID:138wQqtx
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 1 ///////////

カレン・ホーナイ(Karen Horney)著
原著:Neurosis And Human Growth: The Struggle Toward Self-Realization 1950年発行
邦訳:『自己実現の闘い――神経症と人間的成長――』対馬忠監修
藤沢みほ子、対馬ユキ子訳、アカデミア出版会1986年10月発行 より

・・・・

第5章 自己嫌悪と自己軽蔑

 われわれはこれまで、神経症的過程が自己理想化に始まり、一歩一歩動かしがたい論理に
従って、種々の価値を神経症的誇りの現象に変えていく発達の跡を見てきた。しかし、現実には、
この発達過程はこれまで述べてきた以上に複雑なもので、そこには、同時に、やはり自己理想化に
始まるが、一見それと対立して見えるもう一つの過程が働いていて、それによっていっそう
強められ、複雑にされている。

///// アカデミア出版会 ///
351 ◆4otEyhoCdw :2013/09/25(水) 21:09:37.12 ID:138wQqtx
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 2 ///////////

 簡潔に言えば、人が真の自己よりも理想化された自己を重要に思うようになる時、彼は
自分自身をより高いものへと美化するだけでなく、それと同時に、必ず現実の自己――それは
彼がある特定の時にもつ身体、心、健康なもの、神経症的なものなどすべてのものを言う――
を誤った観点から見るようになる。美化された自己は単に彼が追い求める幻影であるだけでなく、
彼の現実の存在を測る物差しともなる。そして、現実の存在は、この神のような完全さを規準
として眺める時、自分でも軽蔑せざるをえないようないまわしい姿に映る。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
352 ◆4otEyhoCdw :2013/09/25(水) 21:36:37.43 ID:138wQqtx
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 3 ///////////

そのうえ、心の力学から見てさらに重要なことは、現実の自分という人間は、彼が栄光に向かって
飛翔することを絶えず妨げ、しかも、それが功を奏しているので、どうしても彼はそれ、つまり、
現実の自分自身を嫌悪せざるをえない。このように、誇りと自己嫌悪は実際には表裏一体をなす
ものであるから、私はこれらに関連する諸要因をひっくるめて、誇りの体系という共通の名で
呼ぶことにする。しかし、自己嫌悪を扱うに際しては、われわれはこの過程のまったく新しい面を
考慮することになり、この新しい面は、われわれがこれまでこの過程についてもってきた見解に
かなりの変更を加えることになろう。われわれの最初の目的は、理想化された自己を現実化する
方向に直接的に向かっている欲動を明らかにすることにあったので、今までことさらに自己嫌悪の
問題に触れずにきた。しかし、今はその全体像を完全なものにしなければならない。

///////// 対馬忠監修 ///
353 ◆4otEyhoCdw :2013/09/25(水) 21:57:50.82 ID:138wQqtx
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 4 ///////////

 われわれのピグマリオンがどれほど熱心に自分自身を素晴らしい姿をもった存在につくり上げよう
としても、その望みは必ず失敗する運命にある。彼はせいぜいのところ、心を悩ましているいくつかの
矛盾を意識から取り除くことができるだけで、それらの矛盾そのものはなくなりはしない。彼が
〈自分自身〉と共に生きなければならないという事実には何の変わりもない。彼が食べ、眠り、
入浴する時も、また、働き、恋する時も、常に〈自分自身〉はそこにいるのだ。彼は時々自分が
妻と離婚することさえできれば、あるいは、他の仕事に就くことさえできれば、違うアパートに
引っ越すことさえできれば、旅に出ることさえできれば、何もかも今より良くなるのだがと思う。
しかし、現実には、彼にはいつも〈自分自身〉がついてまわっている。彼は円滑に動く機械のように、
うまく機能はするが、やはり、エネルギーや時間や持続力の限界、つまり、人間的な限界をもって
いるのだ。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
354 ◆4otEyhoCdw :2013/09/26(木) 22:17:53.30 ID:UybTr5wA
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 5 ///////////

 この状態を描写するには、二人の人間の関係にたとえて話すのがいちばんよい。一人は素晴らしい
理想的な人であり、もう一人はとこへ行っても彼につきまとい、いつも干渉し、悩ませ、困らせる
よそ者(現実の自己)である。「彼とよそ者」という言い方でこの葛藤を描くことは、葛藤を経験
している人の実感に近いので、適切な表現であると思われる。そのうえ、たとえ現実の悩みを彼とは
かかわりのない無関係なものとして振り捨てようとしても、彼はそれを「心にとめ」ずにいられる
ほど自分自身から遠くに逃げることはできない。成功を収め、かなりうまく機能することもでき、
また、素晴らしい業績を上げるという壮大な幻想に夢中になっても、やはり彼は劣等感をもち、
不安を感じる。また、自分がはったり屋、ペテン師、気まぐれ者であるという自分でも訳の分らぬ
感情に責めさいなまれることもある。彼がほんとうに知っている自分自身のあるがままの姿は、
夢のなかに紛れもなく現われてくるが、この時こそ、彼は現実の自分自身に近づいているのである。

///// 神経症と人間的成長 ///
355 ◆4otEyhoCdw :2013/09/26(木) 22:30:44.03 ID:UybTr5wA
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 6 ///////////

 ふつう、現実の自分自身は容赦なく侵入してきて、彼を苦しめる。彼は自分の空想のなかでは
神のような存在であるのに、人前ではぎこちなくなる。誰かに忘れがたい感銘を与えたいと思う
のに、実際には手は震え、口はどもり、顔は赤くなる。自分は素晴らしい恋人であると思って
いるのに、突然、性的不能に陥る。空想のなかでは上役にも堂々とものが言えるのに、実際に
その前に出るとただにやにやと意味のない笑いを浮かべるだけである。何かの話にとどめを刺す
ような気の利いた言葉も、次の日にならないと思い浮かばない。風の精のようにすらりとなりたい
と思うが、どうしても食べ過ぎずにはいられず、とうていその願いはかなえられない。現実の
経験的な自己は理想化された自己が偶然結びつけられたにすぎない不愉快なよそ者となる。そして、
理想化された自己はこのよそ者に対して嫌悪と軽蔑の念を投げ掛ける。現実の自己は、誇り高い
理想化された自己の犠牲となる。

///// 自己実現の闘い ///
356 ◆4otEyhoCdw :2013/09/26(木) 23:30:36.66 ID:UybTr5wA
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 7 ///////////

 自己嫌悪は、理想化された自己の創造によって生じた人格の一つの裂け目をはっきり見せて
くれる。自己嫌悪は彼の内部で闘いが行なわれていることを意味している。そして、実に、
彼が自分自身と闘っているというこのことこそ、あらゆる神経症者の本質的な特徴をなすもの
である。実際には、これを根底として二つの違った種類の葛藤が発達してくる。その一つは、
誇りの体系それ自体の内部での葛藤である。後で詳細に述べるように、それは自己拡張的欲動と
自己縮小的欲動との間に潜在する葛藤である。もう一つは、誇りの体系全体と真の自己との間に
起こるいっそう深刻な葛藤である。誇りが高まり、最高点に達するにつれて、真の自己は
背景のなかに没し、抑圧されてしまうが、なお潜在的に力をもっていて、好都合な環境の下では
十分に影響力をふるうことができる。この真の自己の発達の特徴とその諸段階については
次章で論じることにする。

///// 原著 1950年発行 ///
357 ◆4otEyhoCdw :2013/09/26(木) 23:41:08.36 ID:UybTr5wA
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 8 ///////////

 第二の、このいっそう深刻な葛藤は、分析の初めには、はっきりと現われてこない。しかし、
誇りの体系がぐらつき、彼が自分自身に近づくようになるにつれて、すなわち、彼が自分自身の
感情をもち、自分の願望を知り、選択の自由をもち、自分で決定し、その決定に責任をとり始める
につれて、それに反対する勢力が結集されてくる。闘いは今や誇りの体系と真の自己との間に
行なわれていることが、しだいにはっきりとしてくる。自己嫌悪は今や現実の自己のもつ限界や
欠点に向けられるよりは、真の自己のなかに現われ始めた建設的な力に向けられる。それは、
これまでに論じられた神経症的などの葛藤よりも大規模なものである。私はそれを中心的な
内的葛藤と呼ぶことにする。

///// Neurosis and Human Growth ///
358 ◆4otEyhoCdw :2013/09/27(金) 20:30:11.04 ID:pD3WtdaK
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 9 ///////////

 この葛藤をもっとはっきりさせるために一つの理論が役立つと思うので、ここでそれを
さしはさみたいと思う。私が以前、他の著書のなかで、「神経症的葛藤」という言葉を
用いた時、それは二つの相容れない強迫的欲動間に起こる葛藤のことであった。しかし、
ここで言う中心的な内的葛藤とは、健康な力と神経症的な力との間の、つまり、建設的な
力と破壊的な力との間の葛藤のことである。そこで、われわれは定義を拡大して、神経症的
葛藤は、二つの神経症的な力の間にも、また、健康な力と神経症的な力との間にも起こり
うると言わなければならないであろう。

///// Karen Horney ///
359 ◆4otEyhoCdw :2013/09/27(金) 20:35:11.78 ID:pD3WtdaK
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 10 ///////////

この二種の葛藤の違いは、用語上の区別以上に重要である。誇りの体系と真の自己との
間の葛藤は、他の葛藤よりもわれわれを分裂させるのにはるかに大きな力をもっているが、
それは次の二つの理由によっている。第一に、他の葛藤が部分的な混乱を引き起こす
のに対して、誇りの体系と真の自己との間の葛藤は全体的な混乱をもたらすということ
である。国家に例えて言えば、これは個々の集団の利益が衝突することと、その国全体が
内乱に巻き込まれることとの違いである。第二の理由は、誇りの体系と真の自己との
間の葛藤においては、われわれの存在の核心そのものが、すなわち、成長する力を具えた
真の自己が命懸けで闘っているという事実にある。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
360 ◆4otEyhoCdw :2013/09/27(金) 20:55:08.67 ID:pD3WtdaK
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 11 ///////////

 真の自己に対する嫌悪は、現実の自己のもっている限界に対する嫌悪ほどには気づかれて
いない。しかし、たとえ現実の自己の限界に対する嫌悪が前面に現われていても、真の自己に
対する嫌悪は、自己嫌悪の背景として必ず存在し、常に主要なエネルギーを与える底流と
なっている。真の自己に対する嫌悪がほとんど純粋な形で現われるのに対して、現実の
自己に対する嫌悪は常に混合した現象となっている。例えば、もし自己嫌悪が、自分自身の
ために何かをするといった「利己的な」ことに対する激しい自己非難の形をとって現われる時、
それは、自分が絶対に聖なる者になれないことに対する嫌悪であると共に、真の自己を
紛砕する一つの方法でもあろうことはほとんど確かである。

///// アカデミア出版会 ///
361 ◆4otEyhoCdw :2013/09/27(金) 21:31:56.54 ID:pD3WtdaK
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 12 ///////////

 ドイツの詩人、クリスチャン・モルゲンシュテルンは、「成長期の苦悩」という詩のなかで、
自己嫌悪の性質について、次のように簡潔に述べている。

  私はわれとわが身によって滅ぼされて死ぬだろう。
  私のなかには〈あるべき私〉と〈今ある私〉と二人の私がいる。
  〈あるべき私〉はついに〈今ある私〉の息の根をとめるだろう。
  〈あるべき私〉、それは、〈今ある私〉を尾先に縛ったまま跳梁する悍馬のよう。
  それはまた、〈今ある私〉を結びつけて走る車輪、
  いけにえの髪に指をからませる復讐の女神、
  はたまた、いけにえの心臓にとりついて、血をすする吸血鬼のようなもの。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
362 ◆4otEyhoCdw :2013/09/27(金) 22:21:13.83 ID:pD3WtdaK
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 13 ///////////

 この詩人はわずか数行のなかに、その過程をこのように表現している。つまり、人は
自分自身に対して、気力を失わせ、あくなく責めさいなむような憎しみで嫌悪するのだ
――それに対して人はなす術もなく、精神的に自滅してしまう。さらに、人が自分自身を
嫌悪するのは、自分が価値のない人間であるからでなく、自分自身の力以上のものに到達
するように駆り立てられているためだ。嫌悪は、自らそうありたいと望むものと、自分の
今ある姿との間の不一致から生まれるものだ。そこには分裂があるだけでなく、残忍で
凄惨な闘いがあるのだ、と彼は言う。

///////// 対馬忠監修 ///
363 ◆4otEyhoCdw :2013/09/28(土) 08:06:50.14 ID:knuo4EPI
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 14 ///////////

 自己嫌悪の強さとその固執性には、自己嫌悪の働きに精通している分析家ですら驚かされる。
自己嫌悪の根深さを説明しようとする場合、誇り高き自己が、現実の自己によって一歩進む
ごとに辱められ、引き下ろされるように感じて、そのために激怒していることを理解しなければ
ならない。そして、この激怒も結局は無力に終わってしまうことも考慮しなければならない。
と言うのは、神経症者はどんなに自分自身を肉体から切り離された精神として見ようとしても、
現に存在して、栄光に達するために現実の自己に依存しているからである。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
364 ◆4otEyhoCdw :2013/09/28(土) 08:35:34.26 ID:knuo4EPI
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 15 ///////////

ドリアン・グレイが自分の堕落を表わす絵を小刀でずたずたに切った時のように、神経症者が、
嫌悪する自己を殺そうとするなら、それと同時に、栄光ある自己も殺さなければならない。
しかし、このように依存していることが、一方では一般に自殺を防止するのに役立っており、
もしこの依存性がなければ、自己嫌悪のために必ず自殺することになったであろう。実際は、
自殺は比較的稀にしか起こらない。自殺はいろいろな要因が結合して起こるもので、自己嫌悪は
それらの要因の一つにすぎないのである。しかし、他方ではまた、この依存性こそが、激怒が
起こっても発散できない場合に、いっそう残忍になるように、自己嫌悪をなおさら残酷で
非情なものにするのである。

///// 神経症と人間的成長 ///
365 ◆4otEyhoCdw :2013/09/28(土) 08:47:03.01 ID:knuo4EPI
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 16 ///////////

 さらにそのうえ、自己嫌悪は自己賛美の結果であるだけでなく、自己賛美を維持する
のにも役立つ。もっと正確に言えば、自己嫌悪は、葛藤する要素を取り除くことによって、
理想化された自己を現実化し、あの高められた水準で、完全な統合を見出そうとする欲動に
役立っている。彼が不完全さを非難すること自体が、自分自身を神のような規準と同一視
していることの確かな証拠である。われわれは精神分析のなかで自己嫌悪のこの働きを
観察することができる。われわれは、患者の自己嫌悪を発見する時、彼が自己嫌悪から
逃れたがっているだろうと素朴に期待する。

///// 自己実現の闘い ///
366 ◆4otEyhoCdw :2013/09/28(土) 09:30:35.99 ID:knuo4EPI
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 17 ///////////

時にはこうした健康な反応が実際に起こることもある。しかし、たいていの場合は、彼の
反応は分裂している。彼はもちろん、自己嫌悪のもたらすひどい苦しみと危険性を認め
ないわけにはいかないが、それよりも、自己嫌悪の呪縛に反抗することの方がいっそう
危険だと感じる。そこで、彼はもっともらしい言葉で、この高い規準を維持する方が正しい
のであって、これ以上、寛容になることは、自己を堕落させる危険性があると弁明する。
あるいは、彼は自分が自らに与えるその軽蔑に十分値すると信じていることを徐々に表わして
くる。これは、彼がまだ傲慢な規準を掲げていて、それより以下の条件では自分を受け入れる
ことができないことを示すものである。

///// 原著 1950年発行 ///
367 ◆4otEyhoCdw :2013/09/28(土) 10:23:04.66 ID:knuo4EPI
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 18 ///////////

 自己嫌悪をこのように残酷で非情な強制力をもつものにする第三の要因は、既にわれわれの
示唆してきたところであるが、そこに自己疎外があるということである。もっと分りやすく
言うと、神経症者は自分自身に対して何の感情ももっていないということである。彼が
自分自身を軽蔑していることに気づいて、建設的な方向に向かうようになるためには、
その前に、苦しんでいる自己に対して何らかの同情をもち、この苦しみをいくらか体験して
いなければならない。また、別の面から言えば、彼が自己の欲求阻止に気づいて不安になり、
それに関心をもち始めるようになるためには、その前にまず、自分が願望をもっている
という自覚がなければならない。

///// Neurosis and Human Growth ///
368 ◆4otEyhoCdw :2013/09/28(土) 11:05:35.96 ID:knuo4EPI
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 19 ///////////

 では、自己嫌悪の自覚についてはどうであろうか? 『ハムレット』や『リチャード三世』や、
先に引用した詩のなかに表現されているような事柄は、特に人間の魂の苦悩についての明察力を
もっている詩人だけが気づくものではない。多くの人々は、期間が長いか短いかの差はあっても、
自己嫌悪や自己軽蔑を、ここで表現されたようなものとして経験している。彼らの胸に、
「自分自身を嫌悪する」とか「自分自身を軽蔑する」とかいった感情が一瞬ちらっとよぎる
こともあれば、自分自身に対して激しい怒りを感じることもある、しかし、自己嫌悪がこのように
生き生きと感じられるのは苦悩の時期だけに限られ、苦悩がおさまるにつれてそれは忘れ去られる。
一般的には、人々は、このような感情や考えが、ある「失敗」や「愚かしさ」に対する、あるいは、
不当な仕打ちを受けたと思ったり、何らかの精神的障害に気づいたりしたことに対する一時的な
反応以上のものなのかどうかを問うことをしない。そのために、自己嫌悪のもつ破壊的で永続的な
作用が少しも自覚されないことになる。

///// Karen Horney ///
369 ◆4otEyhoCdw :2013/09/28(土) 12:17:30.24 ID:knuo4EPI
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 20 ///////////

 自責という形をとって現われる自己嫌悪については、自覚される程度に大きな差がありすぎて、
一般的な仕方で述べることはできない。例えば、独善の殼に閉じ籠っている神経症者は、あらゆる
自責を強く抑えているので、何事も意識に上らないし、これらの人々とは反対に、自己縮小型の
人々は、率直に自己非難や罪悪感を表わすか、または、大袈裟な弁解的、防衛的な言動をとる
ことによって、そうした感情をもっていることをうかがわせる。このように意識される程度に
個人差があるという事実は、確かに重要であり、この差異がどのような意味をもち、どうして
起こるかについては、後程論じることにする。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
370 ◆4otEyhoCdw :2013/09/28(土) 15:24:41.50 ID:knuo4EPI
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 21 ///////////

しかし、上述のことから、自己縮小型の人々が自己嫌悪を自覚しているという結論を下すのは
正しくない。なぜなら、自虐に気づいているような神経症者でも、自虐のもつ強さや破壊性に
ついては気づいていないのであるから。彼らはまた、自虐に内在する無益さにも気づかず、
自虐を自分たちが高い道徳的感受性をもっている証拠とみなす傾向がある。彼らは自虐の
妥当性を疑わず、事実、神のような完全さを規準として自分自身を判断している限り、その
妥当性を疑うことはできないのである。

///// アカデミア出版会 ///
371 ◆4otEyhoCdw :2013/09/28(土) 17:04:25.51 ID:knuo4EPI
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 22 ///////////

 しかしながら、ほとんどすべての神経症者は、自己嫌悪から結果するもの、すなわち、
罪悪感、劣等感、拘束感、拷問のような苦痛については意識している。ただこのような
苦しい感情や自己評価をもたらしたものが、自分自身であることには気づいていない。
そして、たとえそれにほんの少し気づいたとしても、それは神経症的誇りのために曖昧に
されてしまう。彼らは拘束感情を苦しいと思わずに、自分は「非利己的、禁欲的、自己犠牲的、
義務に対して奴隷のように忠実な」人間であると誇り、こうした言葉で、自己に対して
多くの罪を犯していることを隠してしまうのである。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
372 ◆4otEyhoCdw :2013/09/28(土) 19:29:43.95 ID:knuo4EPI
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 23 ///////////

 こうした観察からわれわれが達する結論は、自己嫌悪とは、本質的には無意識の過程である
ということである。結局、自己嫌悪は、その影響が自覚されない点に、生き続けられる利点があり、
また、その点が、この過程の大部分がふつう外在化され、彼自身の内部ではなく、彼と外界との
間に作用するものとして経験される根本的な理由なのである。われわれは大きく分けて、
自己嫌悪の能動的な外在化と受動的な外在化とを区別することができる。

///////// 対馬忠監修 ///
373 ◆4otEyhoCdw :2013/09/28(土) 19:58:10.75 ID:knuo4EPI
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 24 ///////////

能動的な外在化とは、自己嫌悪を外部、すなわち、人生や運命や制度や他人に向ける試みであり、
受動的な外在化では、嫌悪はなお自分に向けられてはいるが、それが外から来るものとして
考えられ、経験されるのである。両方の場合とも、内的葛藤は人間間の葛藤に変わることに
よって除去されることになる。われわれはこの外在化過程のとる特殊な形態と、それが人間関係に
及ぼす影響については、もっと後の文脈で論じるつもりであるが、あえてここで外在化過程を
紹介するのは、多くの様々な自己嫌悪は外在化された形でいちばんよく観察され、記述される
ことができるというただその理由のためである。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
374 ◆4otEyhoCdw :2013/09/28(土) 21:01:33.14 ID:knuo4EPI
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 25 ///////////

 自己嫌悪の現われ方は、人間間における憎しみの現われ方と同じである。後者については、
われわれの記憶にまだ生々しい歴史上の例から引用すれば、ヒトラーのユダヤ人に対する
憎しみがある。ヒトラーがユダヤ人を残忍に脅し、非難し、辱め、公然と彼らの名誉を傷つけ、
ありとあらゆるやり方で、彼らのものを略奪し、挫折させ、将来への希望を踏みにじり、
ついには組織的に拷問にかけて殺害したことは周知の事実である。われわれは、毎日の生活でも、
家庭内でも、競争者間でも、このような憎しみのほとんどすべての表現を、もっと洗練され、
隠された形の下で観察することができる。

///// 神経症と人間的成長 ///
375 ◆4otEyhoCdw :2013/09/28(土) 22:01:01.64 ID:knuo4EPI
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 26 ///////////

 次に、自己嫌悪の主な表現と、それらが個人に及ぼす直接的な影響について調べてみよう。
これらのことはすべて、優れた著者たちのよく観察してきたところである。ここに挙げた
個々の資料のほとんどのものも、フロイト以後の精神医学の文献のなかに、自責、自己過小評価、
劣等感、楽しむ能力の欠如、直接的な自己破壊行動、マゾヒズム的傾向として述べられている。
しかし、フロイトの死の本能の概念と、フランツ・アレクサンダーやカール・メニンジャーが
それを精密にしたものとを別にすれば、すべての現象を包括的に説明するような理論は何一つ
提供されていない。しかも、フロイト理論といえども、われわれと同じような臨床的資料を
取り扱っているものの、その根拠とする理論的前提があまりにも違うので、この問題の理解や
それに対する治療法はまったく異なっている。こうした相違に関しては後章で論じることにする。

///// 自己実現の闘い ///
376 ◆4otEyhoCdw :2013/09/29(日) 07:49:49.03 ID:SFF6qwu1
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 27 ///////////

 細部にとらわれて全体を見失わないようにするために、自己嫌悪を六つの作用様式あるいは
表現に分けて、それらが重複していることを心に留めながら区別してみよう。大まかに言えば、
それらは自己に対する容赦なき要求、苛酷なまでの自責、自己軽蔑、自己欲求阻止、自虐、
自己破壊である。
 前章で、自己に対する要求について論じた時、われわれはこの要求を、神経症者が自分自身を
理想化した自己につくり直すための手段であるとみなした。しかしまた、内的命令は強制的な
体系であり、専制政治のようなものであること、そして、その命令が遂行できない時には
ショックや恐慌の反応が起こることについても述べた。今やわれわれはこの強迫性の原因は何か、
命令に従おうとする試みをこれほどまでに狂信的にするものは何か、また、その遂行に「失敗」
した時の反応がなぜこのように深刻なものになるのか、などについてもっと十分に理解しなければ
ならないところにきている。

///// 原著 1950年発行 ///
377 ◆4otEyhoCdw :2013/09/29(日) 08:46:59.58 ID:SFF6qwu1
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 28 ///////////

〈べき〉は、誇りによって規制されているのと同じ程度に、自己嫌悪とも関連し、〈べき〉が
遂行されない時には激しい自己嫌悪が起こる。〈べき〉をたとえて言えば、ちょうどピストル
強盗が誰かに拳銃を突きつけて、「おまえの持ち物を全部よこせ、さもないと撃つぞ」と
言って脅す恐喝のようなものである。この二つを比べると、ピストル強盗の恐喝の方がまだ
人情味があるように思われる。なぜなら、ピストル強盗の場合には、脅された人が従順にして
いれば助かることもできるが、〈べき〉の場合にはそれをなだめることができない。

///// Neurosis and Human Growth ///
378 ◆4otEyhoCdw :2013/09/29(日) 09:00:22.42 ID:SFF6qwu1
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 29 ///////////

また、ピストルに撃たれると死んでしまうが、それでも一生涯自己嫌悪に苦しむよりはまだ
残酷さが少ないように思われる。ある患者の手紙から引用すると、「彼の真の自己は、神経症
という、本来彼を守るためにつくり出されたフランケンシュタインのような怪物によって、
締め殺される。そして、このことは、全体主義国家のなかに住もうと、個人的な神経症のなかに
住もうと何ら異なるところがない。いずれの場合にも、人は、ありとあらゆる苦痛を与えて
自己を破滅させることだけを目的とするあの捕虜収容所のなかで果てることになるのだ」。

///// Karen Horney ///
379 ◆4otEyhoCdw :2013/09/29(日) 11:06:19.22 ID:SFF6qwu1
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 30 ///////////

 事実、〈べき〉は本性そのものが自己破壊的なものである。しかし、われわれは今までの
ところ、その破壊性の一面だけを、つまり、それが人に窮屈な鎧を着せ、心の自由を奪う
面だけを見てきた。彼がたとえ自分自身を行動の上で完全なものに形成しようとしても、
そのためには自発性や真の感情や信念を犠牲にしなければならない。事実、〈べき〉は
専制政治のように、個人性の抹殺を狙っている。〈べき〉がかもし出す雰囲気は、スタンダールの
『赤と黒』やジョージ・オーウェルの『一九八四年』のなかに描かれている神学校の雰囲気に
よく似ていて、そこでは個人の思想や感情は危険なものと考えられている。〈べき〉は、
服従を服従として感じさえしないほどの絶対服従を要求するものである。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
380 ◆4otEyhoCdw :2013/09/29(日) 12:27:03.61 ID:SFF6qwu1
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 31 ///////////

 そのうえ、多くの〈べき〉はその内容そのものが自己破壊的な性格のものである。例として
三つの〈べき〉に言及したいと思うが、これらはすべて病的依存の状態の時に作用するもの
であるから、その箇所で詳細に取り扱うことになろう。三つの〈べき〉とは、私は自分に
対してどんなことがなされても絶対に気にしないほどの大人物であるべきだ、恋人に自分を
愛させることができるべきだ、「愛」のためにはあらゆることを無条件に犠牲にするべきだ、
というものである。確かに、これら三つの〈べき〉が結合すると、必ず病的依存の苦しみを
永続させることになる。

///// アカデミア出版会 ///
381 ◆4otEyhoCdw :2013/09/29(日) 13:44:12.66 ID:SFF6qwu1
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 32 ///////////

もう一つのよく起こる〈べき〉は、彼に、親類や友人や生徒や雇い人のために全責任を負う
ことを要求するものである。彼はあらゆる人の問題を、即座に、皆が満足するように解決する
ことができるべきである。だから、うまくいかないことは何でも彼のせいであるということ
になる。もし友人や親類が何かの理由で腹を立てたり、不平を言ったり、批判したり、不満を
もったり、何かを欲したりすると、このような人は罪を感じ、あらゆることを正さなければ
ならないあわれな犠牲者になることを強要される。ある患者の言葉を引用すれば、このような
人は絶えず心を痛めている山小屋の管理人のようなものである。災難の責任が実際にその
管理人にあるかどうかは問題ではなく、常に登山客の方が正しいのである。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
382 ◆4otEyhoCdw :2013/09/29(日) 14:00:30.55 ID:SFF6qwu1
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 33 ///////////

 この過程は、フランスで最近出版された『証人』という本のなかに見事に描かれている。
主人公は弟と一緒にボートに乗って海に出る。嵐がやってきてボートは浸水し、転覆する。
弟は足にひどい怪我をして、もはや荒れ狂う海を泳いでいくことはできない。彼は溺れるに
決まっている。そこで、兄は弟を抱えて泳ごうと努力するが、間もなくそれができないことを
悟る。二人とも溺れるか、自分だけ助かるか、そのどちらか一つを選ばなければならない。

///////// 対馬忠監修 ///
383 ◆4otEyhoCdw :2013/09/29(日) 14:12:38.18 ID:SFF6qwu1
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 34 ///////////

このことがはっきり分った時、彼は自分だけ助かろうと決心する。しかし、彼はまるで
自分が殺人者のように感じられ、そのことが彼にはあまりにも真実に思われて、他の
人々も皆自分を殺人者と思っていると信じるようになった。彼がどんな場合にも自分が
責任をもつべきだということを自分の行動の前提としている限り、理性は働かず、何の
効力ももつことはできない。これはもちろん極端な場合である。しかし、この主人公の
情緒反応は、人がこの特殊な〈べき〉によって駆り立てられる時、どのような感情に
陥るかを正確に示すものである。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
384 ◆4otEyhoCdw :2013/09/29(日) 14:55:23.26 ID:SFF6qwu1
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 35 ///////////

 人はまた自分の存在全体の不利益になるようなことを自らに課すこともできる。この種の
〈べき〉の古典的な例は、ドストエフスキーの『罪と罰』に見出すことができる。ラスコーリニコフは
自分のナポレオン的性格を満足のいくまで証明するためには、人を殺すことができるべきである
と思った。ドストエフスキーがはっきり言っているように、ラスコーリニコフは世間に対して
様々な憤りをもってはいたが、彼の繊細な魂にとって人を殺すほど嫌なことはなかったのだ。
彼は自分に鞭打ってそれをしなければならなかった。彼が心のなかで実際に感じていたことは、
次のような夢のなかに現われてくる。酔っばらいの農夫が一匹のろくに食物も与えられていない
痩せた雌馬に、とうてい引くことのできないほどの重い積荷を無理に引かせているのを見る。
その馬は残酷にもひどく鞭打たれ、ついに叩き殺されてしまう。深い同情が込み上げてきた
ラスコーリニコフ自身はこの雌馬のところに走って行く。

///// 神経症と人間的成長 ///
385 ◆4otEyhoCdw :2013/09/29(日) 15:15:41.94 ID:SFF6qwu1
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 36 ///////////

 この夢が現われたのは、ラスコーリニコフが激しい内心の葛藤に陥っている時期であった。
彼のなかで人を殺すことができるべきであるという感情と、それはまったくいとわしいことで、
自分にはそのような行為はとてもできないという感情との、二つの感情が葛藤していた。
彼は夢のなかで、自分がどんなに無理なことを自らにさせようとしているか、その無分別な
残酷さに気がついた。それは、ちょうど雌馬が重い積荷を引くことができないのと同じ程度に
自分にとっても不可能なことであった。そこで、わが身に課しているその事柄について、
彼の存在の最も深いところから自身への深い同情が現われてきた。このようにして、彼は
自分の真の感情を経験し、夢の後ではいっそう自分自身との一体感を深め、殺人をやめる
決心をした。しかし、そのすぐ後で、彼のナポレオン的自己がまたもや優勢となった。
それというのも、その当時、彼の「真の自己」は、ちょうど雌馬が残酷な農夫に対して
無力であったように、ナポレオン的自己に対して無力であったからである。

///// 自己実現の闘い ///
386 ◆4otEyhoCdw :2013/09/29(日) 16:53:51.18 ID:SFF6qwu1
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 37 ///////////

 〈べき〉に背反した場合に自分自身に向けられる自己嫌悪は、〈べき〉を自己破壊的なものに
する第三の要因であり、他の何よりも、〈べき〉のもつ強迫性をいっそうよく説明するものである。
時には、〈べき〉への背反と自己嫌悪との関係がかなりはっきりしている場合や、その二つが
容易に結びつけられる場合がある。人は自分がそうあるべきだと思っているほどには完全な
知識ももたず、役立つ人間でもないことが分ると、ちょうど小説『証人』に見られるように、
訳の分らない自責の念にかられる。もっとも多く見られるのは、自分では〈べき〉に背反している
ことに気づいていないのに、突然のように意気消沈、落ち着きのなさ、疲労感、不安感、焦燥感を
覚える場合である。山頂に登ることをやめた後で、突然、犬が怖くなったあの婦人の例を思い出して
みよう。そこでのいきさつは次のようなものであった。まず、彼女は山登りをやめることにした
自分の分別ある決心を失敗として受け取った。それは、どんなことでもうまく処理すべきである
という自分への命令に照らしてみれば、失敗であったのだ(これはまだ無意識である)。

///// 原著 1950年発行 ///
387 ◆4otEyhoCdw :2013/09/29(日) 19:25:35.99 ID:SFF6qwu1
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 38 ///////////

次に、自己軽蔑が生じた(これも同じく無意識である)。その次に、自己叱責に対する反応が
無力感や恐怖感の形で現われた(これは意識された最初の情緒過程である)。もし彼女が
自己分析をしていなかったなら、犬に対してなぜおびえたのか、分らないままで終わって
しまったであろう。この恐怖はそれ以前に起こったすべての事柄と何の関連もつかないもの
だったからである。また、他の例では、人は自己嫌悪に陥らないようにするために自動的に
とっている特別な方法、例えば、不安を和らげるための特殊なやり方(過食、痛飲、買い物あさり
など)や、自分が他の人々によって犠牲にされているという感情(受動的な外在化)とか、
他の人々に対する怒りっぽい感情(能動的な外在化)とかだけを意識する。われわれは後に、
このような自己防衛的な試みがどのように行なわれるかを、種々な観点から十分に考察する
であろう。なおこの文脈で、もう一つ、これとよく似ているが、見落とされやすく、そのうえ、
精神療法を行き詰まらせるものがあるので、その試みについて論じたいと思う。

///// Neurosis and Human Growth ///
388 ◆4otEyhoCdw :2013/09/29(日) 20:11:05.39 ID:SFF6qwu1
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 39 ///////////

 この試みは、人が自分の特殊な〈べき〉にかなうことがおそらくできないと気づき
そうになる時に無意識的に起こるものである。いつもはもの分りの良い、協調的な
患者が、こうした時には、混乱し、言わば、あらゆる人、あらゆるものによって虐待
されたといって大騒ぎをする。親類が自分を食い物にしている、上役の扱いが不公平だ、
歯医者が自分の歯を駄目にした、分析家が自分を少しも治してくれない、と言って
騒ぎ立てる。分析家にはまったく無礼な態度をとるし、家庭では癇癪を起こす。

///// Karen Horney ///
389 ◆4otEyhoCdw :2013/09/29(日) 20:58:03.61 ID:SFF6qwu1
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 40 ///////////

 この逆上の状態を理解しようとして、まず最初に目につく要因は、彼が自分に特別の配慮が
払われることを執拗に要求する点である。それぞれの状況に応じて、彼は例えば、仕事場で
手助けが欲しい、妻や母が自分にかまわないで欲しい、分析家が自分のためにもっと時間を
さいて欲しい、学校では自分を特別扱いにして欲しい、と要求する。そこで、われわれの
第一印象は、彼らが狂気じみた要求をし、その要求が達せられない時は、虐待された感じを
もつというように映る。しかし、こうした要求について患者に注意を促すと、彼はさらに
狂暴になり、なおいっそう公然と敵愾心をつのらせる。よく注意して聞いていると、彼の
罵りの言葉に一貫して流れている主張が分ってくる。それは「何てまぬけなんだ、ほんとうは
私があることを必要としているのが分らないのか」と言っているようである。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
390 ◆4otEyhoCdw :2013/09/30(月) 20:35:04.71 ID:rYTbelpO
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 41 ///////////

ここで、要求は神経症的欲求から生まれるというあのわれわれの学んだ知識を思い出せば、
要求が突然強くなったのは、かなり切実な欲求が急に強まったのだと見てよい。この手がかりに
従っていけば、患者の嘆きが理解できるのである。患者が自分では意識せずに、自分の
命令的な〈べき〉のあるものを遂行できないことに既に感づいていることが分ってくるだろう。
例えば、彼はある大切な恋愛関係をうまくやっていけないとか、仕事を抱え込みすぎて、
どんなに精一杯やっても、うまく処理できないとかと感じているのだろう。

///// アカデミア出版会 ///
391 ◆4otEyhoCdw :2013/09/30(月) 20:39:55.60 ID:rYTbelpO
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 42 ///////////

あるいは、分析で出てきた問題が自分を打ちのめし、耐えられないものであること、そして、
これらの問題は、どんなに意志力を使って追い払おうとする自分の努力に対しても、ただ
嘲笑するばかりだということも気づいているだろう。ほとんどは無意識的にせよ、こうした
ことに感づいた場合、彼は本来これらの障害を克服することができるべきだと思っているので、
恐慌状態に陥ってしまうのである。そこで、この状況で彼が選ぶことのできる道は二つしか
ない。一つは、自らに課している要求が幻想的であることに気づくか、もう一つは、自分の
その「失敗」に直面しないで済むように、自分の生活状況を変えることを必死に要求するか
である。そして、動揺した彼は後者の道をとってしまったのである。しかし、彼に前者の道を
示してやることこそ、治療の道である。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
392 ◆4otEyhoCdw :2013/09/30(月) 20:50:08.83 ID:rYTbelpO
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 43 ///////////

 患者が自分の〈べき〉が成就できないと気づく時、熱狂的な要求を起こす可能性がある
ということを認めることは、治療上きわめて重要である。なぜなら、こうした要求は非常に
扱いにくい興奮状態をつくり出すことがあるからである。しかし、それはまた理論上からも
重要である。それは、多くの要求がどれほど切迫したものであるかをより良く理解させて
くれるし、人が自らの〈べき〉にかなうことをどれほど切実に願っているかを強く示して
いるからである。

///////// 対馬忠監修 ///
393 ◆4otEyhoCdw :2013/09/30(月) 21:15:14.39 ID:rYTbelpO
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 44 ///////////

 最後に、〈べき〉にかなうことができないこと――あるいは、できそうにないこと――に
漠然と気づくだけで、ひどい絶望に陥る場合には、どうしてもそれに気づかないようにする
必要がある。既に見たように、神経症者がそのためにとる方法の一つは、〈べき〉を空想の
なかで成就するやり方である(「私はある仕方で存在し、行動することができるべきである。
だから、私はそのように存在し、行動することができる」)。今われわれは、この一見巧みな
真実回避のやり方は、実は彼が自分の内的命令にかなわず、また、かなうことができない
という事実に直面するのをひそかに恐れているためにとられたものであることを、いっそう
よく理解する。それゆえ、これは第1章で述べた、空想は神経症的欲求のために用いられる、
という主張を示す一つの例である。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
394 ◆4otEyhoCdw :2013/09/30(月) 22:34:48.18 ID:rYTbelpO
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 45 ///////////

 このようにして、多くの無意識的な自己欺瞞の手段が必要とされるが、そのなかで基本的に
重要なものを二つだけここで論じることにしよう。一つは、自己についての意識閾を下げる
やり方である。神経症者は時々他人に対しては鋭い観察者であるにもかかわらず、自分自身の
感情、思考、行動に対しては、かたくななまでに無意識的な態度を保とうとする。分析の時で
さえ、ある問題に注意を促すと、彼は「そんなことは知らない」とか、「そのようには感じない」
とか言って、それ以上話すのをやめてしまう。ここで言及しておきたいもう一つの無意識的な
工夫は、ほとんどの神経症者がもっている一つの特徴なのであるが、自分自身を単に反作用する
だけの存在として受けとめているやり方である。この方法は、他人に責任を負わせることより
以上に進んで、無意識のうちに、自分自身が〈べき〉をもっていることを否定するまでになる。
そのため、人生は、外部からくる力によって左右される一連の過程として経験され、言い換えれば、
〈べき〉そのものが外在化されるのである。

///// 神経症と人間的成長 ///
395 ◆4otEyhoCdw :2013/09/30(月) 23:03:17.09 ID:rYTbelpO
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 46 ///////////

 もっと一般的な言菓で要約すると、次のように言える。専制政治の下にある人は誰でも、
上からの命令を逃れるための手段を講じるであろう。彼はどうしても二枚舌を使わざるを
えないが、外的専制の場合には、それは完全に意識的なものになる。しかし、それ自体が
無意識的である内的専制の場合には、そこで使われる二枚舌も単に無意識のうちに自己
欺瞞的な言い逃れをするという性格をもつ。
 すべてこうした工夫によって、彼は「失敗」に気づいた時に起こってくるあの怒涛の
ような激しい自己嫌悪に見舞われなくて済むことになり、したがって、こうした工夫は
主観的に大きな価値をもつものとなる。しかし、それはまた真理に対する感覚を全般的に
損ね、そのために、事実上自己からの疎外と、非常に自律した誇りの体系との両方を
生み出す原因となる。

///// 自己実現の闘い ///
396 ◆4otEyhoCdw :2013/09/30(月) 23:16:07.66 ID:rYTbelpO
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 47 ///////////

 このようにして、自己に要求を課することは、神経症の構造において一つの重要な地位を
占めており、神経症者が自らの理想像を現実化するための試みである。それは二重の仕方で
自己疎外を強めるのに役立つ。なぜなら、彼が自己に要求を課する時、彼の自発的な感情や
信念は曲げられなければならないし、さらに、彼は無意識のうちに、全般的に不正直になる
からである。自己に課する要求はまた、自己嫌悪によっても規定されており、結局は、自分が
それらの要求に応じることができないと気づくと、自己嫌悪が解き放たれる。自己嫌悪の
すべての形は、ある意味では、〈べき〉が成就できなかったことの承認であり、もし自分が
実際に超人間的な存在であったら、自己嫌悪など感じないだろうにということを違った
表現方法で示したものにすぎない。

///// 原著 1950年発行 ///
397 ◆4otEyhoCdw :2013/09/30(月) 23:50:57.62 ID:rYTbelpO
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 48 ///////////

 自己を有罪と認める自責とは、自己嫌悪の別の言い方である。ほとんどの自責は、われわれの
中心的な前提から、容赦しない論理に従って出てくるものである。人が絶対的な大胆不敵さ、
寛大さ、平静さ、意志力などに達することができない時、彼の誇りが「有罪」の判決を下す
のである。
 ある自責は心のなかにある障害に向けられる。それゆえ、それらは見かけは道理にかなって
いるように見えるだろう。いずれにしても、当人はその自責がまったく正当だと思っている。
結局は、このように自らに対して厳しい態度をとることは、高い道徳的規準にふさわしいもの
であるから、褒められるべきことではなかろうか。しかし、実際は、彼は全体状況のなかから
それらの障害だけを取り出し、それに対して激しい道徳的非難を浴びせているのである。

///// Neurosis and Human Growth ///
398 ◆4otEyhoCdw :2013/10/01(火) 21:10:41.47 ID:R+zo46Pz
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 49 ///////////

それも、その責任が自分にあるかどうかに関係なくである。自分は何らかの方法でそれとは
違ったように感じ、考え、行動することができたかどうかとか、その障害に気づいていたか
どうかとかは少しも問題にならない。こうして、吟味され、取り組まれなければならないはずの
神経症的問題は、その人が救いがたい人間であるという烙印を押すいとわしい欠点に変わって
しまう。例えば、彼は自分の利益や意見を守ることができないことがある。自分が人の意見に
反対したり、搾取から身を守ったりすべき時に、むしろ宥和的な態度をとってしまったことに
気づく。

///// Karen Horney ///
399 ◆4otEyhoCdw :2013/10/01(火) 21:22:38.67 ID:R+zo46Pz
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 50 ///////////

実際には、このことをまともに観察できたのは、自分の名誉とすべきことであるだけでなく、
そこにどのような力が働いて、自己主張するよりも、宥和的になったのかをしだいに知る
ようになる第一歩にもなりえたはずである。ところが、破壊的な自己非難の虜になっている
彼は、その方向に進まず、自分を「勇気のない奴」だとか、唾棄すべき臆病者だとかこきおろし
たり、周囲の人々が自分を弱虫だと軽蔑しているように感じる。このようにして、自己観察の
効果は、ただ彼に「罪」や劣等感を感じさせるだけに終わり、そのため、自己評価はいっそう
低くなり、次の時には、彼は遠慮なくものを言うことがいっそうむずかしくなるのである。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
400 ◆4otEyhoCdw :2013/10/01(火) 22:01:12.22 ID:R+zo46Pz
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 51 ///////////

 また同じく、蛇とか、車の運転を公然と怖がる人は、このような恐怖が自分ではどうにも
ならない無意識的な力から生じることをよく知っている。彼は理性では、「臆病」に対して
道徳的に非難することはまったくナンセンスだと自分に言い聞かせる。自分が「有罪」か
「無罪」かについて行きつ戻りつ、自分自身と議論することさえある。しかし、それは水準の
違うものについて議論しているのであるから、おそらく何の結論にも達することはできない
であろう。

///// アカデミア出版会 ///
401 ◆4otEyhoCdw :2013/10/01(火) 22:07:21.13 ID:R+zo46Pz
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 52 ///////////

彼は人間としては、恐怖に屈することを自らに許すことができる。しかし、神のような
存在としての彼は、絶対に恐れないという性格をもっているべきであり、少しでも恐怖を
もてば、そのような自分を嫌悪し、軽蔑するだけである。また、ある作家の場合、書くことを
苦行であると思わせるようないくつかの要因が彼自身のなかに働いていて、創作活動が
抑制されている。そのため、仕事はなかなかはかどらず、ただぶらぶらしたり、仕事と
関係のないことをしたりする。しかし、彼はこの悩みをもつわが身に同情して、その原因を
調べてみるという方向には進まず、自分のことを怠け者のぐうたらとか、ほんとうは自分の
仕事に興味をもたないペテン師呼ばわりをする。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
402 ◆4otEyhoCdw :2013/10/01(火) 22:45:50.93 ID:R+zo46Pz
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 53 ///////////

 自分をはったり屋やペテン師であるとする自責は最もふつうのものである。この自責は
いつも何らかの具体的な事柄について、自己に直接的に突き付けられるというわけではない。
多くの場合、神経症者はこのことに関して、ある漠然と起こってくる不安、つまり、何か
特定のものに結びついたものではなく、ある時には無意識的に、ある時には意識的に自分を
責めさいなむ疑念といったものを感じるのである。時には、自責に対する恐怖の反応、
すなわち、見破られはしないかという恐怖だけを意識するようになる。

///////// 対馬忠監修 ///
403 ◆4otEyhoCdw :2013/10/01(火) 22:51:55.47 ID:R+zo46Pz
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 54 ///////////

例えば、人が自分をもっとよく知れば、自分が役に立たない人間であることが分るだろう、
今度何かをすれば、自分の無能さが暴露されるだろう、自分が何も確実な知識をもたないで、
「表面」だけを取りつくろい、格好よく見せているだけだということに人は気づくだろう、
今ははっきり分っていないが、今にもっと親しくなったり、自分が試されるような場面に
出合えば、「見破られる」だろう、などと恐れる。しかし、この自責はやはり根拠なくして
起こるものではない。それは彼が現在無意識的にもっている見せかけ――愛、公平さ、興味、
知識、謙遜の見せかけ――の総体によって起こるのである。そして、この特定の自責が起こる
頻度は、各神経症において見せかけが起こる頻度に対応している。自責のもつ破壊性は、
ここでもまた、自責が現在自分の無意識的にもっている見せかけを建設的に探究しようと
する方向に役立たず、ただ罪や恐怖の感情をつくり出すという事実を見れば明らかである。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
404 ◆4otEyhoCdw :2013/10/01(火) 23:01:15.79 ID:R+zo46Pz
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 55 ///////////

 他の自責は、自分の現在もっている困難に対してよりは、何かをしようとする動機の方に
向けられる。こうした自責はまさに良心的な自己吟味の姿そのもののように見えるだろう。
そして、その人がほんとうに自分自身について何かを発見したいと思っているのか、ただ
自分のあら探しをしているだけなのか、それとも、その両方の気持が働いているのかは、
全体の文脈を見なければ分らない。実際には、われわれの動機は、金属にたとえれば、純金で
ある場合は稀で、ふつうは、外から見えるより劣った何かの金属が混入しているので、動機に
ついて自責するこのやり方は、それだけいっそう人を欺きやすい。しかし、われわれは、
その大部分が金であれば、やはりそれを金と呼ぶだろう。友人に忠告を与える場合、その主な
動機が彼を建設的に助けたいという親切な気持であれば、当然それでよしとするだろう。

///// 神経症と人間的成長 ///
405 ◆4otEyhoCdw :2013/10/01(火) 23:51:38.06 ID:R+zo46Pz
 
///// アカデミア出版会 ///

 カレン・ホーナイ(Karen Horney)著、原著:1950年発行
 Neurosis And Human Growth: The Struggle Toward Self-Realization

 邦訳:『自己実現の闘い――神経症と人間的成長――』 (叢書・人間なるもの)
 対馬忠監修、藤沢みほ子、対馬ユキ子訳、アカデミア出版会、1986年10月発行

 目次
 序文 自己実現の道徳
 第1章 栄光の追求
 第2章 神経症的要求
 第3章 〈べき〉の専制
 第4章 神経症的誇り
 第5章 自己嫌悪と自己軽蔑
 第6章 自己疎外
 第7章 緊張緩和の一般的手段
 第8章 自己拡張的解決――支配を求める
 第9章 自己縮小的解決――愛を求める
 第10章 病的依存
 第11章 あきらめ――自由を求める
 第12章 人間関係における神経症的障害
 第13章 仕事における神経症的障害
 第14章 精神分析療法の道
 第15章 理論的考察

http://honto.jp/netstore/pd-book_00428165.html

/// 対馬忠監修、藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 /////
406 ◆4otEyhoCdw :2013/10/02(水) 20:35:18.97 ID:cfK8nfGG
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 56 ///////////

ところが、あら探しをすることばかりに気をとられている人は、それでは満足せず、「確かに
私は彼に忠告をしました。それも、たぶん適切な忠告をね。でも、私は喜んでそうしたのでは
なくて、煩わされるのは嫌だという気持もあったのです」とか、「私がそうしたのは、ただ
彼に対して優越感を味わったり、彼がうまくできないことを当てこすって楽しむためだけだった
のです」とか言う。われわれがこうした言葉によってだまされるのは、この推論のなかには
少しは真理も含まれているからである。少し賢い観察者なら、時にはその幽霊を追い払うことも
できるだろう。

///// 自己実現の闘い ///
407 ◆4otEyhoCdw :2013/10/02(水) 20:50:47.39 ID:cfK8nfGG
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 57 ///////////

さらに賢い人なら、「君が今言ったことが全部ほんとうだとしても、現に君が友人のために
時間をさき、関心を払ったことがほんとうに彼のためになったのだから、それは君の功績
ではないか」と答えることができよう。しかし、自己嫌悪の虜になっている人は、このようには
決して考えない。自分の欠点だけを見つめている彼は、木を見て森を見ないのである。さらに、
たとえ牧師や友達や分析家が物事を正しい観点から示してやっても、彼は納得しない。真実を
明らかにしてもらったことには丁寧に感謝するが、心のなかでは、それは自分を励まし、気休めを
与えるために言われたものだと考えている。

///// 原著 1950年発行 ///
408 ◆4otEyhoCdw :2013/10/02(水) 22:26:29.14 ID:cfK8nfGG
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 58 ///////////

 このような反応は、神経症者を自己嫌悪から解放することがどんなにむずかしいかを示すもの
として注目に値する。ここには、彼が状況全体の判断を誤っている事実がはっきりと見られる。
彼は自分がある面に注意を集中しすぎ、他の面を無視していることを知っているのかもしれない。
それでもなお彼はその判断に固執する。それは、彼がものを考える時に健康な人とは違った
前提に立っているからである。彼は友人に忠告を与えた動機が、純粋に人を助けるという意味で
絶対的なものではなかったから、自分の行為全体が道徳的に善くないと考える。

///// Neurosis and Human Growth ///
409 ◆4otEyhoCdw :2013/10/02(水) 22:34:21.49 ID:cfK8nfGG
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 59 ///////////

そこで、自分自身をけなし始め、自責をどうしてもやめようとしない。こうした観察から、
自己非難とは気休めを得たり、他人からの非難や罰を逃れるためのずるい方策にすぎないとする、
精神医学者が時々用いる仮定が誤っていることが明らかとなる。もちろん、そういう場合も
あって、それは威嚇的な権威者に対して、子どもや大人によってとられる方策以外の何もの
でもないこともあろう。しかし、たとえそうであっても、われわれは判断を下すに当たっては
注意深くしなければならないし、なぜこれほどまでに気休めが必要なのかを吟味すべきである。
こうした例を一般化して、自責をただ戦術的な目的に役立つものとしてだけ見れば、自責の
もつ破壊的な力をまったく評価し損なうことになろう。

///// Karen Horney ///
410 ◆4otEyhoCdw :2013/10/02(水) 22:49:14.10 ID:cfK8nfGG
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 60 ///////////

 さらに、自責が個人の力の及ばない不幸に向けられることがある。この種の自責は精神病者に
最も顕著に現われ、例えば、記事で読んだ殺人事件や、六百マイルも離れた米国中西部に起こった
洪水の責任についてまで、自分を責めることがある。不条理にまで見える自責は、しばしば
メランコリー病態の目立った症状である。しかし、神経症における自責は、メランコリー病態の
場合ほど異常ではないが、非現実的であるという点では同じである。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
411 ◆4otEyhoCdw :2013/10/02(水) 22:56:32.99 ID:cfK8nfGG
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 61 ///////////

 一例を挙げれば、ある聡明な女性の場合であるが、自分の子どもが隣家でそこの子どもたちと
遊んでいて、縁側から落ち、軽い脳震盪を起こした。その出来事はただそれだけのことであったが、
彼女はその後何年もの間、あの時の自分の不注意を厳しく責め続けた。あれはまったく自分の
せいだったのだ。もし自分がそばについてさえいたら、子どもが手すりに上ることもなく、
落ちずに済んだのにと。この母親は、子どもを過保護にすることは良くないという考えに賛成で
あったし、また、たとえ過保護な母親でも、始終子どもにつきっきりでいられるものではない
ことも、もちろんよく知っていた。それでも、彼女は自分の判断に固執したのだった。

///// アカデミア出版会 ///
412 ◆4otEyhoCdw :2013/10/02(水) 23:06:13.25 ID:cfK8nfGG
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 62 ///////////

 また、同じような例で、ある若い俳優は仕事の上での一時的な失敗のために、自分を
ひどく非難した。彼は自分が直面した困難は自分の力の及ばないものだということを十分
知っていた。友達にその状態について相談する時には、これらの不利な要因を指摘する
のだが、それはまるで罪の感情を和らげ、自分の無実を主張しようとするかのように、
防衛的な態度で行なった。友達が彼に、それではいったい他にどんなやり方があったのか
と尋ねても、彼は具体的にどうすればよいとはっきり言うことはできなかった。どんな
吟味も慰めも激励も、彼の自己呵責に対しては無駄であった。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
413 ◆4otEyhoCdw :2013/10/02(水) 23:24:47.80 ID:cfK8nfGG
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 63 ///////////

 この種の自責がわれわれの好奇心をひくのは当然である。というのは、これと反対の態度の
方がはるかによく起こるからである。神経症者は自分を罪から免除するために、環境的な障害や
不運のことを強引に利用する。彼は、自分はできるだけのことを全部やった、要するに、自分は
素晴らしかったのだが、他の人々やその全体の状況や偶然の不運な出来事のためにすっかり
駄目になってしまったのだと思う。この二つの態度は表面的には反対のもののように見えるが、
不思議なことに、両者は相違しているというよりは、はるかに類似している。すなわち、両方とも、
注意は主体的な要因からそれて、外部のものに集中され、幸福や成功を決定的に左右する力は
外部にあるとする。

///////// 対馬忠監修 ///
414 ◆4otEyhoCdw :2013/10/02(水) 23:30:43.05 ID:cfK8nfGG
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 64 ///////////

また、両者の働きは、自分が理想化された自己でないことに対する激しい自己非難の攻撃を
避けることを目的としている。先に挙げた例では、他の神経症的要因も働いていて、理想的な
母親であること、俳優としての輝かしい経歴をもつことを妨げていた。その母親は当時、
自分自身の問題でひどく消耗していて、いつも良い母親であるということはできなかったし、
俳優も仕事のために必要な交際をしたり、競争したりすることにある禁止をもっていた。
二人共、こうした障害にはある程度気づいていたが、それに時おり触れる程度で、忘れたり、
巧みに美化したりしていた。これが呑気な人の場合なら、われわれの目に特別のこととして
映らなかっただろう。ところが、この二人の場合にはこの点では典型的であるが――一方では、
自分の欠点には用心深く対処し、他方では、自分の力の及ばない外部の出来事に対しては
苛酷で、不条理なまでに自責するというまったく驚くべき矛盾があった。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
415 ◆4otEyhoCdw :2013/10/03(木) 20:42:42.94 ID:oMlPLluv
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 65 ///////////

このような矛盾はその重要性に気づかなければ、見落とされやすいだろう。実はこの矛盾は
自己非難の力学を理解するための重要な手がかりを含んでいる。それは、自己防衛手段に
訴えなければならないほど、自分の欠点に対する自己告発が厳しいことを示している。そこで、
彼らは二つの自己防衛手段、すなわち、自分自身を慎重に取り扱うやり方と、環境に責任を
転嫁するやり方とを用いるのである。では、なぜ後者の、環境に責任を転嫁する方向で、
少なくとも意識のなかだけでも、もっと上手に自責を逃れることができないのかという問題が
残る。答えはただ、彼らがこの外的要因を自分の力の及ばないものとは考えていないためだ
ということである。もっと正確に言うと、それは自分の力の及ばないものであるべきではない
と思っており、したがって、うまくいかないことはすべて、自分の恥辱であり、自分が不名誉な
限界をもっていることを示すものとなる。

///// 神経症と人間的成長 ///
416 ◆4otEyhoCdw :2013/10/03(木) 20:53:46.99 ID:oMlPLluv
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 66 ///////////

 これまでに述べた自責は、何か具体的なもの、例えば、心のなかにある障害や動機や外的な
ものに向けられたものであるが、他方、漠然とした、実体のない自責もある。罪の意識に
苦しんでいるが、それを何かこれといった特定のものに結びつけることができない場合である。
彼は必死になって、何か理由を探し求め、そのあげくが、それはおそらく何か前世で犯した
罪にかかわりのあるものであろうと考える。だが、時にはもっと具体的な自責が現われ、やっと
自己嫌悪の理由を見つけたと思う。例えば、自分が他の人々に関心をもたず、その人々のために
十分尽くしていないことに気づいたとする。

///// 自己実現の闘い ///
417 ◆4otEyhoCdw :2013/10/03(木) 21:08:19.92 ID:oMlPLluv
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 67 ///////////

彼は自分のこの態度を変えようと懸命に努力し、そうすることによって自己嫌悪を逃れたい
と願う。しかし、実際に自分自身に逆らってこうした努力をしても――その努力は褒められて
よいのだが――彼はそれによって自己嫌悪という敵から逃れることはできないだろう。という
のは、彼は本末を転倒しているからである。彼は自分のその自己非難が一部当たっているから、
自分自身を嫌悪するのではなく、むしろ、自分自身を嫌悪しているから、自分を責めている
のである。そして、自責は次々に起こる。自分は復讐しない、だから弱虫だ。自分には復讐心が
ある、だから野蛮人だ。自分は人の役に立つ人間だ、だからすぐにだまされるのだ。自分は
人の役に立たない、だから利己的な豚なのだ、等々。

///// 原著 1950年発行 ///
418 ◆4otEyhoCdw :2013/10/03(木) 21:34:21.88 ID:oMlPLluv
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 68 ///////////

 彼が自責を外在化する場合には、あらゆる人が自分のすることすべてに裏の意図があると
考えているように感じるだろう。先に述べたように、彼はほんとうにそのように思うので、
その人々に対して不当だと憤り、防御的になって、心のなかに起こっていることを、顔の表情や
声の調子や身振りによって悟られまいとして、マスクをつけたような固い顔になるだろう。
あるいは、このような外在化に気づいてさえいないこともあり、その場合、彼の意識では
他の誰もが皆非常に善い人だと思っている。ところが、分析を受けているうちに、実際には
絶えず人に疑われているという感じを抱いていることに気がついてくる。彼はダモクレスの
ように、いつなんどき、鋭い呵責の刃が自分に切りかかるかもしれないとおののきながら
生きているのである。

///// Neurosis and Human Growth ///
419 ◆4otEyhoCdw :2013/10/03(木) 21:42:53.25 ID:oMlPLluv
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 69 ///////////

 こうした実体のない自責については、どんな精神医学書でも、カフカが『審判』のなかで
示したほどの洞察に富んだ記述をしたものはないように思う。神経症者は、K氏とまったく
同じように、自分の最高のエネルギーを、自分の知らない、不正な裁判官に対する無益な
防衛の闘いに費やし、その過程のなかでますます絶望的な気分になっていく。ここでもまた、
その呵責はK氏のある実際の失敗をもとに起こっている。エーリッヒ・フロムが『審判』を
分析して見事に示したように、呵責はK氏の成り行きまかせの、自主性や成長のない生活の
全体にわたる不活発さのためである。フロムはこうしたことすべてを表わすのに、「彼の
非生産的な生き方」という適切な言葉をつかっている。

///// Karen Horney ///
420 ◆4otEyhoCdw :2013/10/03(木) 21:56:27.39 ID:oMlPLluv
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 70 ///////////

フロムの指摘によれば、このような生き方をしている人が罪悪感をもつのは当然で、それには
それなりの理由がある。つまり、彼は現に罪を犯しているからである。彼は自分自身や自分の
才能に頼らず、誰か他の人が自分の問題を解決してくれるようにいつも目を光らせている、と。
この分析には深い知恵があり、そこで用いられている考えに私も確かに賛成である。だが、
それは不完全なように思われる。そこでは、自責の無益さ、つまり、ただ非難するだけに
終わる自責の性格が考慮されていないからである。言い換えると、K氏の自分自身の罪に対する
態度そのものは逆に非建設的であり、そうなるのは、彼が自分の罪に対してただ自己嫌悪の
気持で対処するからだという点を見落としている。このこともまた無意識的なものであって、
彼は自分自身を苛酷に責めているとは思っていない。その過程全体が外在化されているのである。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
421 ◆4otEyhoCdw :2013/10/03(木) 22:04:30.80 ID:oMlPLluv
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 71 ///////////

 最後に、人は自分の行為や態度について自分自身を責めることがあるが、客観的に見れば、
それらの行為や態度は害のない、妥当な、むしろ望ましいもののようにさえ思われる。彼は、
自分自身を大切にすることを、甘やかし、食物をおいしく食べることを、大食い、他人に
盲従せず、自分の願望を考えることを、非情な利己主義、分析治療を受けようと思うこと――
彼はそれを必要とし、また、経済的にもそれを受ける余裕があるのだが――を、我儘、ある
意見を主張することを、出しゃばり、というように烙印を押す。

///// アカデミア出版会 ///
422 ◆4otEyhoCdw :2013/10/03(木) 22:16:23.34 ID:oMlPLluv
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 72 ///////////

ここでもまた、彼がある行為によって、どんな内的命令、どんな誇りを守ろうとしているのかを
問わなければならない。禁欲主義に誇りをもつ人だけが、自分を「大食い」と責め、自己を
縮小することに誇りをもつ人だけが、自己肯定的な行為に対して自己中心的という烙印を
押すだろう。だが、この種の自責について最も重要なことは、これらの自責はしばしば、
今現われ始めた真の自己に対する闘いに関係があるということである。これらはたいてい
分析の後期に起こり――というよりもっと正確には、前面に現われてくるのであるが――
健康な成長に向かう動きに不信を抱き、それをくじこうとする試みである。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
423 ◆4otEyhoCdw :2013/10/03(木) 22:33:37.44 ID:oMlPLluv
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 73 ///////////

 自責の与える苦痛の激しさのために、(自己嫌悪のどの形態でもそうであるが)そこには
どうしても自己防衛的手段が必要となってくる。こうした自己防衛的手段は分析の場で
はっきりと観察することができる。患者は何か自分の障害を突きつけられると、すぐに
身構える。彼はそれに対して、義憤を感じたり、誤解だと思ったり、理屈をこねまわしたり
するだろう。過去には自分はそうだったが、今ではもっと良くなっているとか、妻があんな
ことをしなかったら、こんな困難はないのにとか、両親がもっと違ったふうだったら、
もともとこんな困ったことにはならなかったろうにとか言う。

///////// 対馬忠監修 ///
424 ◆4otEyhoCdw :2013/10/03(木) 22:39:38.80 ID:oMlPLluv
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 74 ///////////

あるいはまた、反撃に出て、しばしば脅迫的なやり方で分析家のあら探しをしたり、反対に、
分析家をなだめ、機嫌をとったりする。言い換えると、彼はまるで、われわれ分析家が彼に
対してあまり激しい非難を浴びせて脅したので、その問題を冷静によく分析することが
できないといった反応をする。彼は好き勝手なやり方で、がむしゃらにその障害と闘う。
例えば、その障害をごまかす、責任を他の誰かに転嫁する、有罪を認める、攻撃に出る、
といった方法をとる。ここに精神分析療法における重要な停滞要因の一つがある。だが、
分析を別にしても、それはまた人々が自分の問題に対して客観的になるのを妨げる主な
要因の一つにもなる。どんな自責も避けねばならないという必要性が、建設的に自己を
批判する能力の発達を妨げ、そのため、過ちから学び取る可能性を失わせるのである。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
425 ◆4otEyhoCdw :2013/10/03(木) 22:47:53.62 ID:oMlPLluv
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 75 ///////////

 神経症的自責について以上述べたことを、健康な人の良心と対照しながら、まとめてみよう。
健康な人の良心は、真の自己の最高の関心事を用心深く守るものである。エーリッヒ・フロムの
適切な用語を使えば、それは「人間の自分自身への復帰」を意味する。つまり、良心とは、
われわれの全人格が正しく働いているか、働いていないかについて真の自己が示す反応である。
これに対して、自責は、神経症的誇りから生じ、誇り高い自己の要求に自分が応えられない
ことに対する不満を示すものである。自責は真の自己に味方するものでばなく、それと対抗する
ものであり、それを押しつぶそうとするものである。

///// 神経症と人間的成長 ///
426 ◆4otEyhoCdw :2013/10/03(木) 23:01:31.78 ID:oMlPLluv
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 76 ///////////

 良心から発する不安や後悔は、個々の行動や反応の、さらには生き方全体の、どこが誤って
いるかについて、われわれに建設的な吟味を始めさせることができるので、きわめて建設的な
ものになりうる。良心が掻き乱された時生じる状態は、その最初からして、神経症の過程とは
異なっている。われわれは自分が犯した不正や誤った態度に気づく時、それを拡大したり、
縮小したりせずに、まともにそれに直面しようとする。また、どうしてそうした態度をとったか
その原因を自分自身のなかに見出し、それを最終的に克服する方向に、できる限りの方法で
努力する。

///// 自己実現の闘い ///
427 ◆4otEyhoCdw :2013/10/03(木) 23:14:11.56 ID:oMlPLluv
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 77 ///////////

ところが、自責はこれとは対照的に、人格全体を何の役にも立たないものと宣告して、
有罪の判決を下す。そして、この判決が下されると、自責はやんでしまう。積極的な
活動が始められなければならないその時点で、このように自責がやむということは、
自責に内在する非生産性を示すものである。これを最も一般的な言葉で言えば、良心は
われわれの成長に役立つ道徳的な働きであるが、自責はその起源においては道徳的で
あっても、結果においては不道徳なものである。なぜなら、自責は人が自分の困難に
真面目に取り組むことを妨げ、そのために、彼の人間的成長を妨げるものだからである。

///// 原著 1950年発行 ///
428 ◆4otEyhoCdw :2013/10/04(金) 20:34:11.99 ID:OKuReSum
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 78 ///////////

 フロムは健康な人の良心を、「権威主義的な」良心と対照させ、後者を「権威に対する
内在化された恐怖」と定義している。実際、「良心」という言葉は、ふつうのつかい方では、
三つのまったく異なったものを指し示している。第一は、外部の権威に対する無意識的な
心の服従を言い、それには発見されはしないか、罰せられはしないかという恐怖がともなって
いるもの、第二は、自分を有罪とする自責、第三は、自己に対する建設的な不満である。
私の意見では、「良心」という呼び名はこの第三のものにだけ与えられるべきだと思うので、
以後、私は良心という言葉を、この意味にだけ限定して使うことにする。

///// Neurosis and Human Growth ///
429 ◆4otEyhoCdw :2013/10/04(金) 20:49:56.27 ID:OKuReSum
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 79 ///////////

 さらに、自己嫌悪は自己軽蔑となって現われる。私はこの自己軽蔑という表現を、自分を
傷つけるいろいろな方法、つまり、自己縮小、自己卑下、自己疑惑、自己不信、自嘲などを
包括する言葉として用いる。自責との区別は微妙である。確かに、自責の結果として自分に
罪があると感じるのか、それとも、自己を軽蔑する結果として、自分が人より劣り、無価値で、
卑しむべき者に感じられるのかは、いつも必ずしもはっきり言えるとは限らない。このような
場合、自責と自己軽蔑は自分自身を低く見る方法の違った形であるということだけは、確信を
もって言える。しかし、自己嫌悪のこの二つの型の働き方には識別できる違いがある。

///// Karen Horney ///
430 ◆4otEyhoCdw :2013/10/04(金) 20:54:37.13 ID:OKuReSum
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 80 ///////////

自己軽蔑が向けられるのは、主として改善や成功のためになされる努力に対してである。
自己軽蔑を自覚する程度には、それぞれの場合に応じて、大きな差異があり、その理由に
ついてはもっと後で理解することができよう。自己軽蔑は、非常に冷静な、自らを正しい
とする尊大な態度の陰に隠れている場合もあるが、自己軽蔑が意識され、直接に表現される
場合もある。例えば、ある魅力的な少女は人前で化粧をしたいと思うが、自分がこう独り言を
言っているのに気づいた。「なんて滑稽なことだろう、醜いあひるの子が美しく見せようと
するなんて。」

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
431 ◆4otEyhoCdw :2013/10/04(金) 21:07:44.58 ID:OKuReSum
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 81 ///////////

また、心理学に夢中になり、それについて論文を書こうと考えていた聡明なある人は、
「おまえはなんと自惚れ屋なのだ、どうして論文が書けるなんて考えたのだ」と独り言を
言っていた。しかし、たとえその通りであったとしても、自分自身についてそのように
あけっぴろげに皮肉な批評をする人々がふつうその批評のもつ意味を十分に知っていると
考えるのは誤りであろう。また、表面率直そうに見えても、実はその批評はそれほどひどい
ものではなく、機知やユーモアをもっていることさえある。前にも言ったように、それが
どんな意味をもつかを評価することはいっそうむずかしい。それは、自分をつまらないもの
に見せてもあまり気にかけないことを示すものかもしれないし、あるいはそうではなくて、
単に面子を救おうとする無意識的な工夫にすぎないのかもしれない。もっとはっきり言えば、
それは誇りを守り、自己軽蔑に陥るのを救うための方策なのかもしれない。

///// アカデミア出版会 ///
432 ◆4otEyhoCdw :2013/10/04(金) 21:24:27.88 ID:OKuReSum
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 82 ///////////

 自己不信の態度は、他人から「謙遜」と褒められ、本人自身もそのようなものと思っている
かもしれないが、われわれには容易に見分けることのできるものである。ある人は親類の病人を
よく看護した後で、「最低のことしかできなかった」と思ったり、言ったりする。また、ある人は
話が上手だと褒められると、「自分はただ人に感銘を与えるためにそうしただげだ」と思い、
その賞賛を割り引きする。ある医者は、病人が治ると、それを自分の力にしないで、運が良かった
のだとか、病人の生命力のお陰だとか言う。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
433 ◆4otEyhoCdw :2013/10/04(金) 21:29:05.02 ID:OKuReSum
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 83 ///////////

ところが、逆に病人が良くならなければ、それを自分の落度だと考えるのである。さらに、
自己軽蔑は認められないが、自己軽蔑の結果である恐怖がかなりはっきりと――他人の目には
――見られる場合がよくある。だから、博識なのに議論の時に遠慮なくしゃべれない人が
多いが、それは、自分が滑稽に見えはしないかと恐れるためである。もちろん、このように
自分の価値や業績を認めなかったり、信じなかったりすることは、自信の発達や回復にとって
有害になる。

///////// 対馬忠監修 ///
434 ◆4otEyhoCdw :2013/10/04(金) 22:04:23.89 ID:OKuReSum
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 84 ///////////

 最後に、自己軽蔑は精粗様々な仕方で、行動全体にわたって現われる。人々は自分の時間、
自分の今までしてきた仕事やこれからしようとする仕事、自分の希望や意見や確信などに
十分な価値を置かないことがよくある。これと同じ部類に入るものに、自分がしたり、言ったり、
感じたりすることには、本気で考えようとする能力を失っているように見えるのに、他の人が
そうした時は、驚嘆する、といった人々がいる。彼らは自分自身に対して皮肉な態度をとり、
ついで、その態度を世間一般にまで及ぼしていく。さらに顕著なのは、自己軽蔑が屈辱的な、
へつらった、あるいは、弁解がましい行動のなかにはっきりと見られることである。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
435 ◆4otEyhoCdw :2013/10/04(金) 22:13:46.25 ID:OKuReSum
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 85 ///////////

 自己叱責は、自己嫌悪の他の形態の場合とちょうど同じように、夢のなかに現われる
ことがある。そして、それが夢に現れていても、夢を見ている本人にはまだ自己叱責と
気づかれないこともある。彼は夢のなかに汚水溜、ゴキブリやゴリラのような生物、
悪漢、滑稽な道化者といった象徴の形をとって現われる。また、玄関はいかめしいが、
内部は豚小屋のようにとり散らした家や、修理のきかない、がたぴしの家の夢、心の
卑しい、軽蔑すべき人と性交渉をもった夢、公衆の面前で誰かに愚弄される夢、などを
見るであろう。
 この問題の重大さをいっそう包括的に理解するために、ここで自己軽蔑から生じる四つの
結果を考えてみよう。

///// 神経症と人間的成長 ///
436 ◆4otEyhoCdw :2013/10/04(金) 22:26:41.98 ID:OKuReSum
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 86 ///////////

 第一の結果は、自分が接触するすべての人と自分自身を比較し、それも、自分の方を不利に
比較せずにはいられないという、ある神経症的な型がもつ強迫的欲求を生むことである。
例えば、自分よりも他の人の方が印象的で、物事に精通しており、面白く、魅力的で、身なりも
良いとか、他の人の方が年齢、若々しさ、地位、重要性という点で有利であるとか、いった
ようにである。しかし、たとえこのような比較が神径症者自身には優劣の差と映っても、彼は
その比較の意味をはっきりとよく考えてみない。たとえ考えて理解したとしても、比較による
劣等感はなお残る。こうした比較をすることは、本人にとって不公平なことであるばかりか、
意味のないことが多い。自分の業績にかけては誇ることのできる年長の者が、自分よりダンスの
うまい若者となぜ自分を比較しなければならないのか、また、今まで音楽に興味をもったことの
ない人が、なぜ音楽家に劣等感を感じなければならないのか。

///// 自己実現の闘い ///
437 ◆4otEyhoCdw :2013/10/04(金) 22:32:04.91 ID:OKuReSum
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 87 ///////////

 しかしながら、神経症者はあらゆる点で他人を凌駕したいという無意識的な要求をもっている
ことを思い起こせば、このやり方も合点がいく。われわればここで、神経症者の誇りもまた、
彼があらゆる人、あらゆるものより優れているべきであるという要求をもっているのだという
ことを付け加えねばならない。だから、当然、他の人々の「自分より優れた」技能や性質は
彼の心を悩ませ、破壊的なまでの自己叱責を呼び起こすのである。時々、この関係が逆に作用
することがある。既に心に自己叱責の構えをもっている神経症者は、他人の「素晴らしい」
性質に出合うと、そのことを持ち出して、自分をいっそう酷評したり、自己批判を強めたりする。
これを二人の人の関係で示すと、ある野心的でサディズム的傾向の母親が自分の子のジミーを
侮辱するのに、ジミーの友達が良い点をとったとか、爪を清潔にしているとかいったことを
利用するようなものである。このような過程を単に競争からの退却というように記述する
だけでは十分でない。この場合、競争からの退却は、むしろ自己卑下の結果なのである。

///// 原著 1950年発行 ///
438 ◆4otEyhoCdw :2013/10/04(金) 23:04:33.54 ID:OKuReSum
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 88 ///////////

 自己軽蔑から起こる第二の結果は、人間関係において非常に傷つきやすくなるということである。
自己軽蔑をもつと、人から受ける批判や拒絶に対して神経症的に過敏になる。他人からの挑発が
全然あるいはほとんどないのに、人が自分を見下しているとか、自分の言うことを真面目にとって
くれないとか、自分と一緒にいるのを嫌っているとか、ほんとうは自分を軽蔑しているのだとか
いうように感じる。自己軽蔑があるために、彼は自分自身について抱いている不信感をいっそう
つのらせ、そのため、他人が自分に示す態度にも同じように深い不信を抱かずにはいられない。
彼は自分でもありのままの自分を受け入れることができないのに、他人が、自分の欠点のすべてを
知りながら、親切な、好意的な気持で自分を受け入れてくれることができるなどとは、どうしても
信じることができないのである。

///// Neurosis and Human Growth ///
439 ◆4otEyhoCdw :2013/10/05(土) 06:41:00.62 ID:nUx2xHbb
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 89 ///////////

 彼が心の深層で感じているものは、これよりずっと徹底したもので、他人が自分を明らかに
軽蔑しているのだと固く信じ込むまでになる。そして、意識的には自己軽蔑のどんなかすかな
存在にも気づかないが、このような信念は彼のなかでずっと生きているだろう。この両方の要因、
つまり、他人が自分を軽蔑しているという盲信的な想定と、自分自身の自己軽蔑をある程度
または総体的に意識していることとは、大部分の自己軽蔑が外在化されていることを示すもの
である。この外在化が彼のすべての人間関係を微妙に毒する結果となる。彼は他人のどんな
好意的な感情も額面通りに受け取ることができない。彼の心には、賛辞は、皮肉な批判として、
同情の表現は、優越感からの憐みとして映る。

///// Karen Horney ///
440 ◆4otEyhoCdw :2013/10/05(土) 06:50:48.39 ID:nUx2xHbb
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 90 ///////////

誰かが自分に会いたがっている――それは自分の何かが欲しいからだ。他の人々が自分を
好きだと言う――それはただ彼らが自分をよく知らないからだ、あるいは、彼らが価値のない
人間か神経症者だからだ、あるいは、自分が彼らに何かで役立ったか、これから役立つかも
しれないからだ。また同じように、実際には敵意のない出来事も、軽蔑が存在する証拠と
解釈される。誰かが通りや劇場で自分に挨拶しなかったとか、自分の招待を受諾しなかったとか、
すぐに返事をしなかったとかいうことは、もっぱら、自分に対する軽視として受け取られる。
誰かが気さくに冗談を言う、すると、それは明らかに自分を侮辱しようと意図していると思う。
自分の提案や行動に対する反対や批判も、その特定の行動についての率直な批判とは受け取らず、
自分を軽蔑している証拠と考える。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
441 ◆4otEyhoCdw :2013/10/05(土) 07:03:21.02 ID:nUx2xHbb
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 91 ///////////

 分析で見られるように、本人自身は自分がこのような仕方で対人関係を経験していることに
気づかなかったり、そこに歪曲が行われていることに気づかなかったりする。後者の場合には、
彼は他人が自分に対して実際こうした軽蔑的な態度をとるのは当然だと思い、こうした考え方を
する自分を「現実的」だと誇りさえするのである。分析関係のなかで、われわれは患者が他人に
軽蔑されることをどの程度に当然と思っているかを観察できる。多くの分析を重ね、患者と
分析家との間柄がかなり親しくなった後で、患者はふと何気なく、自分は分析家に軽蔑されるのを
ごく当たり前のことといつも思っていたので、別にそれについて取り立てて言ったり、あれこれ
考えたりする必要はないと感じていたと言うことがある。

///// アカデミア出版会 ///
442 ◆4otEyhoCdw :2013/10/05(土) 07:31:51.36 ID:nUx2xHbb
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 92 ///////////

 人間関係においてすべてこのような歪曲した見方をすることは、理解できる。というのも、
他人の態度は確かに幾通りにも解釈ができるし、特に、文脈から切り離して考えると、どうにでも
解釈できるのに対して、外在化された自己軽蔑の方は紛れもなくほんとうのことのように感じ
られるからである。また、このように責任を他に転嫁することには、自己防衛的な性格がある
ことも明らかである。人が絶えず鋭い自己軽蔑を感じながら生きることは、たとえ可能である
にしても、おそらく非常に耐えがたいものであろう。この観点から見る時、神経症者は無意識の
うちに、他人を自分に害を与える者として見ようとするのである。自分が他人に軽蔑され、
拒否されていると感じることは、誰にとってもそうであるように、彼にとっても苦痛である
けれども、自らの自己軽蔑に面と向かうよりは苦痛は少ないものである。自尊心を傷つけたり、
高めたりできるのは決して他人ではないのだということが分るのは、誰にとっても時間のかかる、
むずかしいことである。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
443 ◆4otEyhoCdw :2013/10/05(土) 07:42:22.64 ID:nUx2xHbb
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 93 ///////////

 自己軽蔑から起こる対人関係における傷つきやすさは、神経症的誇りから生じる傷つきやすさと
結びついている。人が侮辱されたという感じをもつ時、それは誇りが何かによって傷つけられた
ためなのか、それとも、自己軽蔑が外在化されたためなのかを決めることはむずかしい場合が多い。
両者は非常に密接に絡み合っているので、このような反応を、両方の角度から取り上げていかねば
ならない。もちろん、時によっていずれか一方が観察されやすく、受け入れやすいこともある。
例えば、人から無視されたように思える時、彼が報復的な傲慢さで反応するなら、誇りが傷つけ
られたことがはっきりしているし、この同じことに対して、卑屈になり、相手の気に入られようと
するなら、そこには自己軽蔑が非常にはっきりと現われている。しかし、いずれの場合にも、
その反対の面が同時に働いていることに留意しなければならない。

///////// 対馬忠監修 ///
444 ◆4otEyhoCdw :2013/10/05(土) 08:32:25.09 ID:nUx2xHbb
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 94 ///////////

 第三の結果として、自己軽蔑にとらわれている人は、他人からひどすぎる虐待を受けても、
甘受するということがよくある。それが辱めであっても、搾取であっても、彼は少しもそれを
ひどい虐待とは思わない。友人が憤慨して注意しても、彼は自分を虐待した相手の行動を
控え目に考えたり、正当化したりする傾向がある。それは、例えば、病的依存のような特定の
条件の下でだけ起こるもので、複雑な内的構造から結果するものである。しかし、それを
つくり出している要因のうち本質的なものは、彼が自分はこれよりましな取り扱いを受ける
値打ちがないという確信をもっているために、完全降伏の無防備状態にいることである。
例えば、夫が他の女性との浮気を見せびらかしていても、その妻は自分か人から愛される
人間ではない、自分はたいていの女性より魅力がないと思っているので、不平を言うことも、
恨みを意識することさえもできないのである。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
445 ◆4otEyhoCdw :2013/10/05(土) 08:40:21.53 ID:nUx2xHbb
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 95 ///////////

 最後に挙げる第四の結果は、他人から注目、好意、理解、尊敬、愛を受けることによって、
自己軽蔑を軽減し、相殺することが必要になることである。どうしても自己軽蔑のなすがまま
にはなりたくないという強い欲求が生じるために、他人の注目や尊敬を得たいという気持は
強迫的なものとなる。このような気持には、勝利を求める欲求も働いていて、これはすべてを
飲み尽くす人生の目標にまでなる。その結果、自己評価に関しては、他人に全面的に依存する
ようになり、自分に対する他人の態度いかんによって、自己評価が高くなったり、低くなったり
する。

///// 神経症と人間的成長 ///
446 ◆4otEyhoCdw :2013/10/05(土) 17:32:10.26 ID:nUx2xHbb
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 96 ///////////

 もっと幅広く、理論的に考えてみれば、このような観察は、神経症者がなぜ美化された
自分の姿に執拗にしがみつくかの理由をよりよく理解するのに役立つ。彼がそれに固執
しなければならないのは、他にとるべき道として、自己軽蔑の恐怖に屈するしかないことが
分っているからである。このように、誇りと自己軽蔑との間には悪循環が働き、常に一方が
他方を強化する。この事態を変えることができるのは、彼が自分自身の真実の姿に関心を
もつようになる程度に応じてだけである。しかし、ここでもまた彼は自己軽蔑のために、
自分自身を発見することがむずかしくなる。彼が自分自身の堕落像を真実のものと思って
いる限り、彼の自己は軽蔑すべきものに見えるからである。

///// 自己実現の闘い ///
447 ◆4otEyhoCdw :2013/10/05(土) 17:42:49.61 ID:nUx2xHbb
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 97 ///////////

 神経症者は、いったい、自分自身のなかの何を軽蔑するのか? それは、時にはあらゆる
ものにわたり、自分の人間としての限界、つまり、身体では容姿と機能、精神的能力では、
推理力、記憶力、批判的思考力、計画性、特殊な技能や才能、簡単な個人的な行動から公共的な
仕事に至るまでのすべての活動に及んでいる。その軽蔑する傾向は多かれ少なかれ全般に
わたっているが、ふつうは、ある特定の態度や能力や性質がその人のとる主な神経症的解決
にとってもつ重要度により、他の領域よりもある領域に、特に強く向けられることになる。

///// 原著 1950年発行 ///
448 ◆4otEyhoCdw :2013/10/05(土) 17:55:10.36 ID:nUx2xHbb
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 98 ///////////

例えば、攻撃的で報復型の人は、自分自身の「弱さ」と考えられるものを最も深く軽蔑する
であろう。この弱さには、他人に対してやさしい気持をもつこと、他人に仕返しができないこと、
(正常な譲歩も含めて)人の言いなりになること、自分自身や他人に対して統制力を欠くこと、
などが含まれている。本書の枠組のなかでは、すべての可能性を完全に概観することは不可能
であるし、また、そこに働いている原理はいつも同じであるから、その必要もない。ここでは
例として、よく起こる自己軽蔑の表現のうち、二つだけを論じよう。それは、魅力に関する
ものと、知能に関するものである。

///// Neurosis and Human Growth ///
449 ◆4otEyhoCdw :2013/10/05(土) 19:04:22.39 ID:nUx2xHbb
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 99 ///////////

 容貌や外観に関する自己軽蔑については、魅力を感じないというものから、嫌悪感をもつ
というものまで、幅広い領域がある。標準以上の魅力をもつ女性のなかにこの種の自己軽蔑の
頬向を見出す時、最初ちょっと見た目には不思議に思える。しかし、この場合、彼女にとって
重要なことは、客観的な事実でも、他人の意見でもなくて、自分の理想像と現実の自己との
間に感じている食い違いであることを忘れてはならない。ふつうの基準から言えば、彼女は
美人であるが、それでも類稀なほどの絶対的な美人ではない。そこで、彼女は自分の欠点
ばかりを、例えば、傷痕があるとか、手首がほっそりしていないとか、髪の毛が生まれつき
ウェーブしていないとかを気にして、この点で自分を卑下し、時には鏡を見るのさえ嫌うまで
になる。また、人に嫌な感じを与えるのではないかと恐れる気持は、例えば、映画館で、
隣りに坐っていた人が他の席に替わったというだけでも起こるだろ

///// Karen Horney ///
450 ◆4otEyhoCdw :2013/10/05(土) 19:43:24.49 ID:nUx2xHbb
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 100 ///////////

 自分の外観を軽蔑する態度は、その人の他の人格要因いかんによって、激しい自己非難を
受けないようにしようと、たいへんな努力をする方向に進むか、「気にしない」方向にいく
かのいずれかである。第一の場合なら、毛髪、顔色、服装、帽子などに少なからぬ時間や
費用をかけ、注意を払う。もし、鼻とか胸とか太り過ぎなど、どこか特定のところが気に
入らないと、手術や無理な減量などの「荒療治」を行なうこともある。第二の場合では、
肌や姿勢や服装などに、ごくふつうの注意を払うのでさえ、誇りが許さない。彼女は、自分が
醜く、人に嫌な感じを与えると固く信じているので、自分の外観をよく見せるために何かを
するなんて、滑稽に思えるのである。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
451 ◆4otEyhoCdw :2013/10/05(土) 19:55:12.44 ID:nUx2xHbb
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 101 ///////////

 容貌に関する自己卑下は、それがもっと深いところからきていると気づくと、いっそう
心にこたえるものになる。「私は魅力的だろうか?」という問いは、「私は愛されることが
できるだろうか?」という問いと切り離すことはできない。ここでわれわれは人間心理の
一つの大切な問題に触れることになる。しかし、愛されるという問題については別の文脈で
さらに詳しく論じるので、ここではそれを未解決のままにしておかねばならない。この二つの
問いは様々な仕方で関連し合っているが、両者はまったく同じものではない。前者は、私の
容貌は愛をひきつけるほどに美しいだろうかという意味であり、後者は、私には人に愛される
ような性質があるだろうかという意味である。第一のものは、特に若い人にとって大切であり、
第二のものは、われわれの存在の核心にまで入っていき、愛情生活で幸福を得ることに関係
したものである。

///// アカデミア出版会 ///
452 ◆4otEyhoCdw :2013/10/05(土) 20:42:07.92 ID:nUx2xHbb
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 102 ///////////

しかし、愛される性質は人格と関係があり、神経症者は自分自身と疎遠になっている限り、
その人格は非常に漠然としたものになっているので、当人の関心をひくものとはならない。
また、魅力の点で不完全であることは、実際上は、しばしば無視できるのに引き換え、
愛される性質の方は、多くの理由のためにすべての神経症において実際に損なわれている。
ところが、まことに不思議なことに、分析家がよく聞く訴えは、第一のものに関する心配が
多く、第二のものについては、かりにあっても、きわめて少ないのである。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
453 ◆4otEyhoCdw :2013/10/05(土) 21:16:52.95 ID:nUx2xHbb
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 103 ///////////

これは、関心が本質的なものから末梢的なものへ移るという、神経症によく起こる移行の
一つではなかろうか。この過程は、性的魅力を追求する行為と同一線上にあるのではなかろうか。
愛される性質をもち、それを発達させることには少しもうっとりするような魅力はないが、
素敵な容貌をもち、素敵な服装をすることにはうっとりするような魅力がある。このような
関連の下では、外観に関係のあるすべての問題が必要以上に重要視されるのは避けられない。
そして、自己卑下が外観の点に集中してくるのも理解できることである。

///////// 対馬忠監修 ///
454 ◆4otEyhoCdw :2013/10/05(土) 21:40:20.06 ID:nUx2xHbb
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 104 ///////////

 次に、知能に関する自己卑下は、自分は愚かであるという感情をともなっており、理性の
全能を誇る態度と対立するものである。知能に関しては、誇りと自己軽蔑とそのどちらが
前面に現われるかは、人格の全体構造によって決まる。たいていの神経症には、精神の働きに
不満を感じさせる原因になるような障害が存在している。攻撃的になりはしないかという
恐怖をもっていると、批判的なものの考え方が妨げられるし、何かにかかわることを一般に
ためらう傾向があると、一つの意見をなかなかもてなくなる。全知全能に見せたいという
強迫的欲求をもてば、学ぶ能力が妨げられる。また、一般に個人的な事柄を曖昧にしておこう
とする傾向は、思考の明晰さをも曇らせる。例えば、自分自身の内的葛藤が見えない時は、
他の種類の矛盾にも気づかないだろう。また、彼らは栄光の達成に熱中するあまり、自分の
現在やっている仕事に十分な興味をもつことができないだろう。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
455 ◆4otEyhoCdw :2013/10/05(土) 22:28:06.13 ID:nUx2xHbb
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 105 ///////////

 思えば、私はかつて、このような現実の障害があるために自分は愚かであるという感情が
起こるものと考えた時期があった。そして、私は次のようなこと言って患者を助けたいと
思った。「あなたの知能は完全に正常だ、だが、興味や勇気についてはどうかね、あなたの
能力を活動させるすべてのものについてはどうかね」と。もちろん、これらすべての要因に
ついて研究することは必要である。しかし、患者は解放されて、自分の知能を生活で使える
ようになりたいとは思っていない。

///// 神経症と人間的成長 ///
456 ◆4otEyhoCdw :2013/10/06(日) 07:57:28.27 ID:xnwbjhQf
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 106 ///////////

彼が興味をもつのは、「偉人」のもつ絶対的な知能だけである。当時私が気づかなかった
のは、自己の価値を低く評価する過程のもつ力であって、それは時には巨大なまでになる。
真の知的業績を成し遂げた人々でさえ、自分の野心を公言するより、自分自身を愚か者だと
主張したがるものである。彼らはどんな犠牲を払っても嘲りを受ける危険を避けなければ
ならないからである。そうして、彼らはそうでないと反対するすべての証拠や保証を退けて、
静かな絶望のなかで自らを愚かであるとするこの判決を受け入れる。

///// 自己実現の闘い ///
457 ◆4otEyhoCdw :2013/10/06(日) 08:15:13.03 ID:xnwbjhQf
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 107 ///////////

 自己を低く評価する過程は、程度の差こそあれ、自分が興味をもった仕事を積極的に行なう
ことを妨げるものである。自己軽蔑に陥っている神経症者はひどく気落ちしているので、自分が
車のタイヤを取り換えるとか、外国語をしゃべるとか、人前で話すとかができるなどとは
とうてい考えられない。また、何かの活動を始めても、ただ一度困難に出合っただけで、
それをやめてしまう。あるいは、人前で仕事をする直前や、している最中に恐ろしくなる
(舞台恐怖)。傷つきやすさの場合と同じように、ここでも誇りと自己軽蔑の両方が作用して、
このような禁止や恐怖を生み出す。要約すれば、これらの禁止や恐怖は、一方では、熱狂的な
喝采を得たいという欲求と、他方では、積極的に自己を辱め、打ち負かそうとする力との
ディレンマから生じるものである。

///// 原著 1950年発行 ///
458 ◆4otEyhoCdw :2013/10/06(日) 08:28:30.92 ID:xnwbjhQf
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 108 ///////////

 このようなあらゆる障害にもかかわらず、彼が一つの仕事を成し終え、結果も上首尾で、
好評を受けた場合でも、彼は自己卑下をやめない。「こんなにまですれば、誰だって自分と
同じことを成し遂げることができただろう」と思う。また、ピアノ・リサイタルで完璧には
弾けなかった一楽節が心に大きく現われてきて、「今度はどうにか切り抜けたが、次は
失敗するだろう」と思う。他方、何か一つに失敗すれば、それが非常に激しい自己軽蔑を
引き起こし、それは、その失敗のもつ実際の意味をはるかに超えて、彼を気落ちさせるの
である。

///// Neurosis and Human Growth ///
459 ◆4otEyhoCdw :2013/10/06(日) 08:35:26.04 ID:xnwbjhQf
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 109 ///////////

 われわれは、自己嫌悪の第四の側面として自己の欲求阻止を論じるが、それに先立ち、
最初に、その問題を適当な範囲に絞らなければならない。そのためには、欲求阻止を、
それとよく似た外観をもち、あるいは、よく似た効果をもつ現象から区別する必要がある。
まず、自己欲求阻止を健康な人の自己訓練から区別しなければならない。よく統制のとれた
人は、ある種の活動とか満足とかがなくても過ごせるだろう。しかし、そうできるのは、
彼には他の目標の方が重要で、それが彼の価値ヒエラルヒーのなかで優先されなければ
ならないからである。例えば、若い新婚夫婦はお金を貯めて、自分たちの家をもちたい
という希望をもっているので、いろいろな楽しみを辛抱するであろう。仕事に専心している
学者や芸術家は、静寂と集中の方が価値が大きいので、社交生活を制限するだろう。

///// Karen Horney ///
460 ◆4otEyhoCdw :2013/10/06(日) 08:51:10.56 ID:xnwbjhQf
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 110 ///////////

このような自己制御は、時間やエネルギーや金銭には限りがあるという認識(神経症者には
この認識がひどく欠けている)を前提としている。それはまた、自己の真の願望を知り、
重要な願望のためには、それより重要でない願いを捨てる能力を前提としている。ところが、
それは神経症者にはできにくいことである。というのは、彼のもつ「いろいろな願望」は
ほとんど皆強迫的欲求だからである。しかも、そのいろいろな願望は皆本質的に同じ重要性を
もっているので、そのどれをも捨てることができない。それゆえ、精神分析療法においては、
健康な自己訓練は一つの現実というよりは、むしろそれに近づべき目標なのである。私は
自分の経験から、神経症者が自発的な自制と欲求阻止との違いを知っていないことが分った
ので、ここで特にこの問題に言及するわけである。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
461 ◆4otEyhoCdw :2013/10/06(日) 10:39:06.17 ID:xnwbjhQf
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 111 ///////////

 われわれはまた、人間はその人の神経症の程度に応じて、自分では気づいていないかも
しれないが、実際には欲求を阻止された存在であるということを考えなければならない。
彼の強迫的欲動、葛藤、葛藤の似非解決、自己疎外などが、彼に具わっている潜在能力の
実現を妨げている。そのうえ、無限の力をもちたいという彼の要求は充たされないまま
なので、彼は挫折感を味わうことが多い。
 しかし、これらの欲求阻止は――現実のものであれ、想像されたものであれ――自己欲求阻止を
起こさせようと意図されて生じるものではない。例えば、愛情や賞賛を求める欲求は、実際、
必然的に真の自己の欲求阻止や真の自己の自発的感情の欲求阻止をともなっているのである。

///// アカデミア出版会 ///
462 ◆4otEyhoCdw :2013/10/06(日) 11:02:29.84 ID:xnwbjhQf
 
/// KAREN HORNEY ////////////

カレン・ホーナイ(Karen Horney)著
NEUROSIS AND HUMAN GROWTH: The Struggle Towards Self-Realization 1950年出版

Neurosis and Human Growth [Paperback]
http://www.amazon.com/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-Realization/dp/0393307751/
http://www.amazon.co.jp/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-Realization/dp/0393307751/
http://www.amazon.co.jp/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-realization/dp/0393001350/

Neurosis And Human Growth [Hardcover]
http://www.amazon.com/Neurosis-And-Human-Growth-Self-Realization/dp/B0006ASE2A/
http://www.amazon.co.jp/Neurosis-Human-Growth-SELF-REALIZATION-International/dp/041521095X/

邦訳:神経症と人間の成長 (ホーナイ全集)、 誠信書房 (1998/06) 、榎本 譲 (翻訳), 丹治 竜郎 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/dp/4414420067/

邦訳:『自己実現の闘い――神経症と人間的成長――』、アカデミア出版会、1986年10月発行
対馬忠監修、藤沢みほ子、対馬ユキ子訳
http://honto.jp/netstore/pd-book_00428165.html

////// NEUROSIS AND HUMAN GROWTH ///
463 ◆4otEyhoCdw :2013/10/06(日) 13:24:20.67 ID:xnwbjhQf
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 112 ///////////

神経症者がこのような愛情や賞賛に対する欲求を発達させるのは、彼が基本的不安をもちながら、
他人に対処しなければならないためである。また、自己喪失は、きわめて重要なものであるが、
この場合には、この過程の不幸な副産物として生じるものである。自己嫌悪を問題としている
この文脈でわれわれにとって興味があるのは、これまでに論じてきたいろいろな表現をとる
自己嫌悪から生じる、むしろ積極的な自己挫折である。〈べき〉の専制は実際には選択の自由に
対する欲求阻止であり、自責と自己軽蔑は自尊心に対する欲求阻止である。さらに、自己嫌悪の
積極的に欲求を阻止する性格がもっとはっきりと目立つ他の場合がある。それらは楽しむことに
対するタブーと、希望や野心を打ち砕くことである。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
464 ◆4otEyhoCdw :2013/10/06(日) 15:10:25.30 ID:xnwbjhQf
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 113 ///////////

 楽しむことにタブーをもつと、人は自分たちの真に興味のある、人生を豊かにするようなことを
無邪気に望んだり、行なったりすることができなくなる。患者は一般に自分自身をよく知るように
なるにつれ、こうした内心のタブーをいっそうはっきり感じるようになる。旅行に行きたいと思うと、
内心の声が「おまえは旅行に行く値打ちはない」と言う。また、それぞれの状況に応じて、「おまえ
には休む権利はない、映画に行く資格はない、ドレスを買う権利はない」と言う。さらにもっと
一般的な意味で、「良いことはおまえには起こらないのだ」と言う。彼は自分でも不合理だと思う
焦燥感を自分自身のなかで分析したいと思うが、「まるで鉄の手が重い扉を閉めているように」
感じる。

///////// 対馬忠監修 ///
465 ◆4otEyhoCdw :2013/10/06(日) 15:42:43.88 ID:xnwbjhQf
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 114 ///////////

そこで、疲れてしまい、自分のためになると分っている分析をやめてしまう。彼は時々その
問題について心のなかで対話する。例えば、たっぷり一日の作業を終え、疲れて、休みたいと
思う時、次のような内心の声が聞こえてくる。「おまえは怠け者なんだ」「いや、私はほんとうに
疲れているのだ」「そうではない。おまえの我儘というものだ。そんなふうなら、何もできない
だろうよ」。こうしたやりとりの後、彼は罪の意識を感じながら休むか、あるいは、無理に作業
し続けるかするが、そのどちらをしても何の得るところもないのである。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
466 ◆4otEyhoCdw :2013/10/06(日) 16:56:12.80 ID:xnwbjhQf
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 115 ///////////

 夢のなかでは、楽しいことを今にも手に入れようとする瞬間に、完全に打ちのめされるという場面が
よく現われる。例えば、ある婦人はおいしい果物が一杯に実っている庭園にいる夢を見た。彼女がその
果物を一つもぎ取ろうとした瞬間、あるいは、うまくもぎ取ったとたん、誰かが急に彼女の手からその
果物を奪い取ってしまった。また、追い詰められて、重い扉を開けようとするが、なかなか開かないとか、
発車時間に間に合うために走って行くと、ちょうど汽車が出た後だったとか、少女にキスをしようと
したとたん、少女の姿は消え、ただ嘲笑だけが聞こえるとかいった類の夢である。

///// 神経症と人間的成長 ///
467 ◆4otEyhoCdw :2013/10/06(日) 19:01:47.90 ID:xnwbjhQf
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 116 ///////////

 表面には社会意識が出ているが、その背後に楽しむことに対するタブーが隠されている
場合もある。「誰かが貧民街に住んでいる間は、自分は立派なアパートに住むべきではない」
「餓死している人々がいるのに、食物に金をかけてはいけない」といった種類のものである。
もちろん、このような例では、こうした反応の言葉が真に深い社会的責任の感情から出て
いるのか、それとも、楽しみに対するタブーを隠すためのものにすぎないのかを調べて
みなければならない。このような場合、しばしば、その人は自分自身のためにつかうべき
金で、ヨーロッパの困っている人たちに小包を実際に送るだろうかといった簡単な質問を
すれば、その問題ははっきりしてきて、社会意識が見せかけのものであることが明らかになる。

///// 自己実現の闘い ///
468 ◆4otEyhoCdw :2013/10/06(日) 19:33:18.10 ID:xnwbjhQf
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 117 ///////////

 また、禁止作用が起こることからも、このようなタブーが存在していることを推論する
ことができる。例えば、あるタイプの人々は、他の人と一緒でないと物事を楽しむことが
できない。多くの人々にとって、人と一緒に楽しむことで、楽しみが倍加するというのは
確かにほんとうのことである。だが、この人たちは他人が好もうが好むまいが、自分と一緒に
レコードを聞くように無理強いし、一人になると全然楽しむことができない。また、ある人は
自分のための出費には、これ以上切り詰めることができないほどけちになるのに、自分の
名声を増すようなこと、例えば、人の目につくような仕方で慈善事業に寄付したり、パーティを
催したり、自分には何の意味もない骨董品を買ったりすることには気前良く金をつかう。
これは実に印象的である。彼らはまるで、栄光のためには奴隷となることを自らに許すが、
「単に」自分自身のなぐさめや幸福や成長を増すだけのものなら何でも禁じるという掟に
支配されているかのように振舞うのである。

///// 原著 1950年発行 ///
469 ◆4otEyhoCdw :2013/10/06(日) 20:32:01.81 ID:xnwbjhQf
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 118 ///////////

 楽しみに対するタブーを破った時には、他のタブーの場合と同じように、その罰として、
不安やそれに近い感情が生じる。ある患者がコーヒーをがぶ飲みするだけの朝食の代わりに、
自分自身のためにおいしい食事をこしらえた時、それは良い徴候だと私が声を大にして褒めると、
彼女はびっくり仰天した。というのは、彼女は自分のこのような「利己主義」を私に非難
されると思い込んでいたからである。また、良いアパートに移ることはどんな点からみても
道理にかなっているのに、多くの恐怖を引き起こす。パーティを楽しむと、その後で恐慌状態に
陥る。このような場合、内心の声が「そんなことをすれば罰を受けるよ」と言うのだ。ある
患者は新しい家具を買おうとすると、「おまえはこれを使わずに死ぬだろう」と言う内心の
声が聞こえてきた。彼女の場合、この瞬間に、以前にも時おり感じていた癌に対する恐怖が
湧き超こってきたのだった。

///// Neurosis and Human Growth ///
470 ◆4otEyhoCdw :2013/10/06(日) 20:59:38.39 ID:xnwbjhQf
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 119 ///////////

 希望を打ち砕くという態度に関しては、精神分析の場ではっきり観察することができる。
「決して……ない」という語はのっぴきならない終局性を示すものであるが、患者は繰り返し
この語をつかう。実際に快方に向かっているのに、内心の声は「おまえは依頼心や恐慌状態を
決して克服できないだろう、決して自由にはなれないだろう」と言う。その患者は恐怖の
反応を示して、必死になって、自分が治してもらえること、他の人たちは助けてもらったの
だからという保証を求める。ある患者は良くなったことを認めざるをえない時でも、「確かに
分析によってここまで治りました。だが、これ以上は治りません。だから、分析など受けて
何になるのですか」と言う。

///// Karen Horney ///
471 ◆4otEyhoCdw :2013/10/07(月) 21:20:40.55 ID:3mZkQKZb
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 120 ///////////

希望を粉砕するという態度が全般的に広がると、一種の宿命観が生じる。人は時々、入口の
碑文に「汝らここに入るすべての者よ、いっさいの希望を捨てるべし」と書かれたダンテの
『地獄篇』を思い出す感がある。紛れもなく快方に向かっていても、ぶり返しが予測する
ことができるほど規則的に起こることがよくある。ある患者は、自分でも良くなったと感じ、
恐怖も忘れることができるようになり、開題解決の道を示す重要な関係も分ってきていた。
しかしそれからぶり返しがきて、ひどく意気阻喪し、抑うつ状態に陥った。また、基本的に
生きることを断念していた他の患者は、自分自身のなかに価値あるものが存在することに
気づくたびごとにひどい恐慌状態に陥り、危うく自殺しそうになった。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
472 ◆4otEyhoCdw :2013/10/07(月) 22:06:33.19 ID:3mZkQKZb
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 121 ///////////

自分自身を軽蔑しようとする無意識的な決意からの奥深くにできている場合には、彼は
どんな慰めも皮肉な言葉で退けてしまうだろう。われわれはいくつかの例で、再発に至る
までの過程の跡をたどることができる。ある患者は何らかの態度――例えば、非合理な要求を
やめること――が望ましいと気づくと、自分が既に変わってしまったように感じ、空想の
なかで絶対的な自由の高みにまで上る。ところが、現実にはそうすることができないので、
自分自身を嫌悪し、自分に向かって、「おまえは駄目だ、何にもできはしない」と言うのだ。

///// アカデミア出版会 ///
473 ◆4otEyhoCdw :2013/10/07(月) 22:16:43.94 ID:3mZkQKZb
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 122 ///////////

 最後に挙げる、最も悪い影響を与える自己の欲求阻止は、どんな抱負にもタブーが働く
ことである。それは、壮大な幻想だけでなく、自分の資質を用いるとか、より優れた強い
人になるとかいったすべての努力に対するタブーである。ここでは、自己の欲求阻止と
自己卑下との間の境界線は特に曖昧である。患者は「何か活動したり、歌ったり、結婚
したりしたいなんて、自分を誰だと思っているのか? おまえは決して何もできはしない
だろうよ」と自分に言う。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
474 ◆4otEyhoCdw :2013/10/07(月) 22:28:37.84 ID:3mZkQKZb
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 123 ///////////

 このような要因のうちのあるものは、後に非常に生産的になり、その専門分野で立派な仕事を
成し遂げた人の経歴に見られる。彼は仕事が好転する一年ほど前――外的要因には何の変化も
なかったのだが――年上の女性と話した時、これから先自分の生活をどうしたいのか、何を
しようと願い期待しているのかを尋ねられた。彼はその優れた知性、思慮深さ、勤勉さにも
かかわらず、自分の将来について一度も考えたことがなかったことが分った。彼はただ「私は
いつだってどうにか食べていけると思います」と答えるだけであった。彼は常に有望な人と
みなされていたが、何か大切なことをしようという考えをすっかり失ってしまっていた。
外部からの刺激と自己分析の助けによって、彼はそれからしだいに生産的になっていった。
しかし、自分の研究で何かを発見しても、その発見の重要性に気づかず、また、何かをやり遂げた
という実感さえもたなかった。そのため、成し遂げたことが自信にはならなかった。

///////// 対馬忠監修 ///
475 ◆4otEyhoCdw :2013/10/07(月) 23:32:24.15 ID:3mZkQKZb
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 124 ///////////

自分が発見したことを忘れてしまって、また、それを偶然に再発見することもあった。ついには
彼は主に自分の仕事に禁止がまだ残っているという理由で分析を受けにきたが、その時も、自分の
ために何かを欲したり、何かをやりたいと熱望したり、自分の特別な才能を認めたりすることには、
やはり驚くほどの強いタブーをもっていた。明らかに、彼が現在もっている才能と、彼を仕事へと
駆り立てる隠された大望は非常に強くて、完全に抑えることのてきないものであった。そこで、
彼は責めさいなまれながらも、物事をうまく果たしたが、このことを自分でも気づかないように
しなければならず、また、それを自分のものと認め、それを享受することもできなかった。また、
他の人々ではそうした結果がこれよりもっと不幸なものになる。彼らは、すべてをあきらめ、
何か新しいことに乗り出そうともせず、人生から何事も期待せず、目標をあまりに低いところに置き、
そのため、自分のもっている能力や精神的資質以下のところで生きることになるのである。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
476 ◆4otEyhoCdw :2013/10/07(月) 23:34:44.99 ID:3mZkQKZb
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 125 ///////////

 自己欲求阻止は、自己嫌悪の他の面におけると同じように、外在化されることがある。人は、
妻や上役がいなかったら、また、金さえあれば、あるいはこんな天気、こんな政治情勢でなければ、
自分は世界中でいちばん幸福な者なのにと不平を言う。もちろん、われわれはこれとはまったく
正反対に、こうした要因はすべて、幸福とは全然関係がないものと思ってはいけない。確かに、
これらのものはわれわれの幸福に影響を与えるであろう。しかし、それらの要因を評価するに
際しては、それらが実際に与えている影響はどれほどのものか、また、内部の原因からきたものを、
こうした外部のものにどの程度転化しているかをよく吟味してみなければならない。人は外的な
困難が少しも変わっていないのに、自分自身との関係が良くなったために、気持ちが平静になり、
満足した気分になる場合が非常に多いのである。

///// 神経症と人間的成長 ///
477 ◆4otEyhoCdw :2013/10/08(火) 20:29:06.92 ID:0Wogl5qR
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 126 ///////////

 自虐は一部では、自己嫌悪の避けがたい副産物である。神経症者が自分自身を鞭打って、
とうてい達することのできないような完全性を得ようとしたり、自分自身に非難を浴びせる
場合でも、また、自分自身を軽蔑したり、挫折させたりする場合でも、彼は実際には自分自身を
虐待しているのである。自虐を自己嫌悪の表現のなかで別個のカテゴリーに入れるのは、
自虐には自己を苦しめようとする意図が実際にあるか、または、その可能性があると考え
られるからである。われわれはもちろん、神経症的苦悩のどの場合にも、すべての可能性を
考えてみなければならない。

///// 自己実現の闘い ///
478 ◆4otEyhoCdw :2013/10/08(火) 20:36:10.25 ID:0Wogl5qR
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 127 ///////////

そこで例えば、自己疑惑を考えてみよう。それは内心の葛藤から生じ、自己の発した自責に
対して自分を弁護するという、果てしなく結着のつかない内心の対話となって現われるだろう。
自己疑惑は自己嫌悪の一つの現われであり、自己の立っている根底を揺るがすことを目指して
いる。実際、それは人をこのうえなく苦しめることができ、ハムレットのように、あるいは
彼以上に、人々を食い尽くしてしまう。もちろん、われわれは自己疑惑がなぜ働くのか、
その理由をすべて分析してみなければならない。しかし、自己疑惑もまた自虐を無意識の
うちに意図しているのではなかろうか。

///// 原著 1950年発行 ///
479 ◆4otEyhoCdw :2013/10/08(火) 20:44:12.10 ID:0Wogl5qR
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 128 ///////////

 さらに、これと同じカテゴリーに入る例として、延期がある。われわれも知るように、決定や
行動を遅らせる原因には、一般的に無気力であるとか、何か一つの態度をとる能力が全般的に
欠けているとかいった多くの要因があずかっている。延期する本人自身は、延期したその事柄が
しばしばしだいに重大に思われてくるだろうこと、また、そのために自分自身がかなり苦しむ
だろうことを知っている。そして、ここで初めて、われわれには、今までよりも少し物事が
はっきり垣間見えてくる。彼は自分が延期したために、不愉快な、びくびくした状態に陥ると、
紛れもなく喜んで、「ざまあみろ」とわが身に言うだろう。それは、まだ彼が自分自身を虐待
したい衝動をもっているので延期したということを意味するものではなくて、一種の意地悪な
喜びとでもいったもの、われとわが身に加えた苦しみに復讐的な満足を味わっているように
思われる。それゆえ、これまでのところでは、積極的な自虐の証拠はなく、そこにはむしろ、
生贄がのたうち回り、身もだえして苦しむのを見て喜んでいる見物人の態度がある。

///// Neurosis and Human Growth ///
480 ◆4otEyhoCdw :2013/10/08(火) 21:16:00.20 ID:0Wogl5qR
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 129 ///////////

 すべてこうしたことだけで、もし他に積極的な自虐の欲動が存在することを示す観察例が
増えないなら、そこから何も結論を下せないままであろう。しかし、例えば、自己に対する
吝嗇なある形態では、患者は自分のけちくさく切り詰める行為が単に「禁止作用」であるに
とどまらず、不思議に心に満足を与えるものであり、時にはそれがほとんど情熱にまでなる
ことを認めている。また、心気症的な傾向をもつある患者は、正真正銘の恐怖を感じている
だけでなく、かなり残虐な仕方で自分自身に恐怖を与えているように思われる。ちょっとした
咽喉の痛みは結核、胃の不調は癌、筋肉の痛みはポリオ、頭痛は脳腫瘍、不安の発作は狂気
ということになる。

///// Karen Horney ///
481 ◆4otEyhoCdw :2013/10/08(火) 22:07:53.54 ID:0Wogl5qR
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 130 ///////////

このような患者の一人は、自ら形容するところによれば、「ぞっとするような過程」を経験
している。彼女は落ち着きがなくなったり不眠などの最初の軽い徴候が現われたりすると、
いつも、これから恐慌状態の新しい周期に入らなければならないと自分に言い聞かせた。
それ以後、一晩ごとにその恐慌状態はますますひどくなり、ついには耐えられないほどに
までなった。最初の恐怖を小さな雪の玉にたとえれば、それをどんどん転がしていくうちに、
その恐怖はついには彼女を埋め尽くしてしまう雪崩のようになってしまうかのようであった。
その当時書いた詩のなかで、彼女は「私の喜びのすべてであるその甘美な自虐」について
語っている。これらの心気症の諸症例において、自虐を生む次のような一つの要因を取り出す
ことができる。彼らは絶対的な健康、平静、豪胆さをもつべきであると思っていて、その
反対の徴候が少しでもあれば、容赦なく自分自身を攻撃するのである。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
482 ◆4otEyhoCdw :2013/10/09(水) 20:38:43.82 ID:I6vUElNk
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 131 ///////////

 さらに、患者のサディズム的な幻想や衝動を分析する時、それらが自分自身に向けられた
サディズム的な衝動から発しているのに気づく。ある種の患者は時々、他の人々を苦しめたい
強迫的欲求や幻想を抱く。それはたいてい子どもや無力な人々に向けられるようである。
一例を挙げると、ある患者は、自分の住む下宿屋のアンという佝僂病の女中にこうした衝動を
向けた。患者は、一方では、このサディズム的な衝動を強くもち、他方では、その衝動に
当惑を感じていたために、不安定な気持であった。アンはたいへん愛想の良い娘で、彼の
気持を傷つけたことは一度もなかった。彼にサディズム的な幻想が起こる前には、アンの
身体の欠陥に対して、嫌悪と同情の気持が代わる代わる現われた。彼は、自分がこの二つの
感情をもつのは、自分自身をこの娘と同一視しているからだということを認めていた。

///// アカデミア出版会 ///
483 ◆4otEyhoCdw :2013/10/09(水) 20:43:07.88 ID:I6vUElNk
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 132 ///////////

彼は身体は強健であるが、精神的な悩みについて自分が無力で軽蔑すべき者に思える時、
自分のことを障害者だと思うのだった。彼にサディズム的な衝動と幻想が起こったのは、
初めてアンのなかに奉仕に対する過度の熱心さと、自分自身を犠牲にする傾向に気づいた
時であった。おそらくアンはそれまでもずっとそうした生き方をしていたのであろうが、
彼女についてのこのような観察が彼にとって印象的だったのは、まさに彼が自分の自己縮小的
傾向を自覚し始め、そのために、自己嫌悪の声を聞くようになった時であった。だから、
彼女をいじめたいという強迫的衝動は、自分自身をいじめたいという衝動の積極的な外在化
であり、それに加えて、その衝動は、彼に自分より弱いものを思いのままにするというスリルを
与えたと解釈された。この積極的な衝動は次にサディズム的な幻想へと弱まり、ついで、
これらの幻想も、自分のなかにある自己縮小的傾向やそれに対する嫌悪の気持がよりはっきり
としてくるにつれて、消えていった。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
484 ◆4otEyhoCdw :2013/10/09(水) 21:18:33.00 ID:I6vUElNk
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 133 ///////////

 私は、他人に対するサディズム的な衝動や行動のすべてが、自己嫌悪からだけ起こる
とは思わない。しかし、自己を虐待しようとする衝動の外在化がいつもその一因となって
いるように思う。いずれにしても、この両者の結びつきはよく起こるので、その可能性に
ついては留意しなければならない。
 ある患者では、外部からの何の挑発もないのに、虐待されるという恐怖が起こること
がある。この恐怖はやはり自己嫌悪が増すたびごとに起こるので、それは、自己を虐待
したい欲動が受動的に外在化されて、それに対する恐怖の反応を起こしていることを
示している。

///////// 対馬忠監修 ///
485 ◆4otEyhoCdw :2013/10/09(水) 21:22:14.07 ID:I6vUElNk
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 134 ///////////

 最後に、マゾヒズム的な性的行動や幻想がある。私がここで言っているのは、卑しめられる
ことから、残酷な仕方で苦痛を与えられることまでのいろいろな自慰行為の幻想、自分自身を
引っかく、髪の毛を引っ張る、窮屈すぎる靴をはいて歩く、苦しくよじれた姿勢をとるなどの
動作をともなう自慰行為、性的満足に達する前に叱られ、ぶたれ、縛られ、卑しい、胸の悪く
なるような動作を強いられねばならないような性行為などのことである。このような行為の
構造はかなり複雑である。私はそこに少なくとも二つの異なった種類を区別しなければならない
と思う。第一のものでは、人は自分自身に苦痛を与えることに復讐的な喜びを覚える。第二の
ものでは、彼は卑しめられる自己と自分を同一視して、後で述べる理由のために、この方法でしか
性的満足を得ることができない。しかし、この区別は意識的な経験についてだけ言えることで、
現実には、彼はいじめる人であると同時に、いじめられる人であり、自分自身を卑しめること
からも、卑しめられることからも、満足を得ると思ってよい。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
486 ◆4otEyhoCdw :2013/10/09(水) 21:30:55.33 ID:I6vUElNk
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 135 ///////////

 精神分析療法にとって大切なことの一つは、実際に自虐が行なわれているすべての場合に、
自己を苦しめようとする意図が隠れ潜んでいることに注意することである。もう一つは、
自己を苦しめる傾向が外在化されている可能性のあることを警戒することである。自虐の
意図がかなりはっきりしていると思える時はいつも、その心内の状態を注意深く調べ、
その時に自己嫌悪が増したかどうか、また、それはどのような理由によるのか、を考えて
みなければならない。

///// 神経症と人間的成長 ///
487 ◆4otEyhoCdw :2013/10/10(木) 20:48:50.51 ID:Jvs6clh7
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 136 ///////////

 自己嫌悪は最後には純粋で直接的な自己破壊的な衝動や行動となって、その頂点に達する。
それらは急性の場合もあれば、慢性の場合もあり、公然と激しく現われるものもあれば、
潜行的で、徐々に破壊していくものもあり、意識的なものもあれば、無意識的なものもあり、
行動として実行に移される場合もあれば、空想のなかだけにとどまる場合もある。また、
それらは大きな問題にも、小さい問題にもかかわる。終局的には、それらは身体、心理、
精神の自己破壊を目指している。これらのあらゆる可能性を考えれば、自殺は他のものから
孤立した謎ではなくなってくる。われわれの生活にとって大切なものを抹殺する方法は多くあり、
実際の肉体の自殺は単に自己破壊の最も極端で最終的な表現にすぎない。

///// 自己実現の闘い ///
488 ◆4otEyhoCdw :2013/10/10(木) 21:00:28.73 ID:Jvs6clh7
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 137 ///////////

 肉体に向かう自己破壊的欲動は最も観察されやすい。自己に対して実際に肉体的な暴力を
加えるのは、多かれ少なかれ、精神病に限られている。神経症で見られるのは、小さな自己
破壊的行動であって、爪を噛む、引っかく、発疹をつつく、髪の毛を引き抜くなど、たいていが
「悪いくせ」と言われて見過ごされるものである。しかし、やはり突然に強い暴力の衝動が
起こることもあるが、精神病者の場合と対照的に、それは空想のなかだけにとどまる。こうした
衝動は、空想のなかばかりに生きていて、現実というものを、もちろん、自分自身の現実も
含めて、軽蔑しているような人々にだけ起こるようである。この衝動は突然洞察が閃いた後で
起こることが多く、その過程全体が瞬時に過ぎてしまうので、分析の場でしか、その経過を
とらえることができない。

///// 原著 1950年発行 ///
489 ◆4otEyhoCdw :2013/10/10(木) 21:03:10.58 ID:Jvs6clh7
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 138 ///////////

例えば、ある不完全なことについて突然鋭い洞察が起こって、すぐ消えると、それに続いて、
まったく急に、目をえぐり出し、咽喉をかき切り、腹にナイフを突き刺し、腸をずった切りに
したい激しい衝動が起こる。このタイプの人は、時々、例えばバルコニーや断崖から飛び降り
たい自殺衝動に襲われることもあるが、それらも、同じような状況の下で突如として起こる
ようである。その衝動はすぐ消えるので、実行に移す機会はほとんどない。他方、高い所から
飛び降りたい衝動が突然非常に強くなって、何かにしがみついていなければ、それに負けて
飛び降りてしまいそうな場合もある。あるいは、それが実際に自殺行為に導いてしまうことも
ある。たとえそうなった場合でも、このタイプの人には、死の終焉性についての現実的な意味が
少しも分っていない。

///// Neurosis and Human Growth ///
490 ◆4otEyhoCdw :2013/10/10(木) 21:09:48.44 ID:Jvs6clh7
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 139 ///////////

むしろ、彼は二十階から飛び降り、それから起き上がって、家に帰ることができるくらいに
思っている。このような自殺行為が成功するかどうかは偶然的な要因による場合が多い。
極端な言い方が許されるなら、彼が実際に死んでいるのを見つけていちばん驚くのは、
ほかならぬ彼自身であろう。
 多くのもっと真剣な自殺行為については、そこに非常に進行した自己疎外があることに
留意しなければならない。しかし、原則として、死に対する非現実的な態度は、計画的で
真剣に試みられる自殺行為の場合よりも、自殺衝動や自殺未遂行動の場合にいっそう特徴的
である。もちろん、こうした方向に進かには多くの理由が働いており、自己破壊的傾向は
そのなかで最も規則的に現われる要素にすぎない。

///// Karen Horney ///
491 ◆4otEyhoCdw :2013/10/10(木) 21:32:12.18 ID:Jvs6clh7
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 140 ///////////

 自己破壊的衝動は、それとしては意識されないが、向こう見ずな運転や水泳や登山をしたり、
自分の肉体の限界を無謀に軽視したりすることに実際に現われるだろう。既に見たように、
本人はこうした行動を向こう見ずなものと思っていない。というのも、彼は自分は何ものにも
犯されない(自分には何も起こりえない)という要求を抱いているからである。多くの場合
には、このことが主な要因として働いている。しかし、われわればそこにさらに自己破壊的
欲動が作用している可能性があることを知っていなければならない。特に現実にある危険に
ついてあまりにも軽視している場合にはそうである。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
492 ◆4otEyhoCdw :2013/10/11(金) 22:17:45.28 ID:+H7uRfih
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 141 ///////////

 最後に、飲酒や薬を使用して、無意識的にではあるが、わざと健康を損ねているような
人々がいる。しかし、ここでも他の要因、例えば、麻薬に対する不断の欲求も作用している
ことは言うまでもない。シュテファン・ツヴァイクの描くバルザック像のなかには、素晴らしい
仕事をしたいという情熱的な野望に駆られ、実際には過労、睡眠不足、コーヒーの飲み過ぎ
によって、健康を害した一人の天才の悲劇が見られる。確かに、素晴らしい仕事をしたい
という欲求がバルザックを借金に追いやったのであり、それゆえ働き過ぎはある意味では
彼の誤った生き方の結果であった。しかし、確かにここでも、他のよく似た例と同じように、
自己破壊的動因が作用していて、結局、彼を夭逝へと導いたのではないかという疑問が
もたれても当然であろう。

///// アカデミア出版会 ///
493 ◆4otEyhoCdw :2013/10/11(金) 22:23:20.07 ID:+H7uRfih
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 142 ///////////

 そのほかに、身体の怪我が言わばふとしたことから起こるような場合がある。誰もが知って
いるように、「気がふさいでいる」時には、怪我をしたり、足を踏みはずして落ちたり、
指を詰めたりすることが多い。しかし、道路を横切る時に車の通行に不注意だったり、車を
運転する時に交通規則を守らなかったりすると、それは命にかかわるものとなるだろう。
 最後に、身体の病気における自己破壊的欲動の暗黙の作用については、まだ未解決な問題が
ある。今では精神身体関係についてかなり分ってきているが、自己破壊的傾向のもつ特殊な
役割については、まだ十分正確に見分けることはむずかしいであろう。


///// 邦訳 1986年10月発行 ///
494 ◆4otEyhoCdw :2013/10/11(金) 23:01:44.62 ID:+H7uRfih
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 143 ///////////

もちろん、優れた医者なら誰でも、患者が重症な場合に、本人が回復し生きたいという
「意欲」をもっているか、死にたいと思っているかが決定的な重要さをもつことを知っている。
しかし、ここでもまた精神的エネルギーがどちらの方向に使われるかは多くの要因によって
決まる。今われわれに言えることはただ、肉体と精神とが一体であることを考えれば、
自己破壊的傾向は、病気の回復期だけでなく、病気になったり、それを悪化させたりする
場合にも、暗黙のうちに作用しているのではないかと、真剣に考えてみなければならない
ということである。

///////// 対馬忠監修 ///
495 ◆4otEyhoCdw :2013/10/11(金) 23:12:14.82 ID:+H7uRfih
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 144 ///////////

 自己破壊性が人生の他の価値に向けられた場合、それは運の悪い出来事という外観をとる
ことがある。『ヘッダ・ガブラー』のなかに、原稿を紛失するエイレルト・レーヴボルクの
例がある。イプセンはレーヴボルクの行動のなかに、自己を破壊しようとする反応や行動が
だんだん高まっていく有様を描いている。レーヴボルクは、最初、自分の誠実な友、エルヴステッド
夫人に対して、あるかすかな疑いを抱き、その関係を目茶目茶にしようと遊興に出かける。
酔っばらっている間に彼は原稿をなくし、ついで、自分を射った――それも娼婦の家でである。
小さなことでは、試験の時に物を忘れたり、重要な面接に、遅刻したり、酔っばらって
行ったりするような場合がある。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
496 ◆4otEyhoCdw :2013/10/11(金) 23:17:06.91 ID:+H7uRfih
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 145 ///////////

 精神的に価値あるものを破壊しようとする傾向は、何回も繰り返されるので、われわれの
目につく場合が最も多い。ある人は一つの仕事がうまくいきそうになると、すぐにそれを
やめてしまう。われわれはそれは「ほんとうに」自分が望んでいたものではなかったのだと
いう彼の言葉を認めてやるだろう。しかし、そうした過程が三回、四回、五回と繰り返されると、
われわれはもっと深い決定因を探し始める。自己破壊性は他の要因よりも深いところに
埋もれてはいるか、それらのなかで特に有力な要因であることが多い。

///// 神経症と人間的成長 ///
497 ◆4otEyhoCdw :2013/10/12(土) 07:14:13.56 ID:bftwnShP
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 146 ///////////

彼は自分では少しも気づかずに、あらゆるチャンスを自分で駄目にしなければならないので
ある。このことは、彼が仕事を次々に失ったり、辞めたりする場合や、次々に人間関係が
行き詰まってしまう場合にも当てはまる。この両方の場合とも、彼にはいつもまるで自分が
他人から不正行為やひどい忘恩行為を受けた犠牲者であるように思えるのである。実際には、
彼がしていることと言えば、そうした他人との関係に絶えずやきもき気をもみながら、結局は、
自分の非常に恐れていた通りの結末を招くだけなのである。つまりは、彼は雇い主や友人を、
実際にもうこれ以上彼には我慢できないという気持にまで追い込んでしまうのである。

///// 自己実現の闘い ///
498 ◆4otEyhoCdw :2013/10/12(土) 07:35:04.18 ID:bftwnShP
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 147 ///////////

 われわれは、分折中の彼の行動を見ていると、このように繰り返し起こる出来事の
意味がよく理解できる。彼は几帳面に協力し、(分析家が望んでもしないのに)あらゆる
種類の親切を尽くそうとすることが多い。それにもかかわらず、彼は本質的な点では
攻撃的行動をとって、ひどく挑発的なので、分析家自身も、以前その患者に反感をもった
人々に同情するようになる。要するに、患者は文字通り、他の人々を、自分の自己破壊的
意図の執行者にしようとしてきたし、今もなおそれを続けているのである。

///// 原著 1950年発行 ///
499 ◆4otEyhoCdw :2013/10/12(土) 07:45:19.48 ID:bftwnShP
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 148 ///////////

 積極的な自己破壊的傾向は、どの程度まで人の深層や統合性を徐々に破壊する働きを
しているのであろうか?程度に多少の差があり、方法に精粗の違いがあっても、人格の
統合性は神経症の発達の結果として損なわれる。自己疎外、不可避の無意識的な見せかけ、
解決できない葛藤のために行なうやはりやむをえない無意識的な妥協、自己軽蔑など、
すべてこうした要因は、道徳心を弱め、その最も中心のところで、自分自身に誠実になる
能力を減退させて弱めてしまうのである。問題は、さらにそのうえ、人は暗黙のうちに
ではあるが、積極的に、自分自身の道徳的退廃の方向に同調するのかどうかということ
である。われわれはいくつかの観察例から、この問いに肯定的な答えをぜざるをえない。

///// Neurosis and Human Growth ///
500 ◆4otEyhoCdw :2013/10/12(土) 08:42:29.33 ID:bftwnShP
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 149 ///////////

 われわれは、志気の減退として述べるのが最もふさわしいような慢性的、急性的な種々の
状態を観察することができる。自分の身なりをかまわず、だらしなくなり、太るにまかせ、
飲酒の度を過ごし、睡眠不足になる。健康に留意せず、例えば、歯医者にも行かず、きちんと
食事もせず、散歩もしない。自分の仕事やどんな重大な関心事もなおざりにして、怠け者
になる。ふしだらになったり、浅薄な人や堕落した人と好んで交わったりするようになる。
金銭的なことに信用できない人となり、妻子に乱暴を働き、嘘をつき、盗みを始める。この
過程は『失われた週末』に見事に描かれているように、重症のアルコール依存患者に非常に
顕著に現われるものである。しかし、それは巧みに隠されたやり方で働くこともある。

///// Karen Horney ///
501 ◆4otEyhoCdw :2013/10/12(土) 09:23:08.84 ID:bftwnShP
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 150 ///////////

顕著な場合には、素人の観察者にも、これらの人々が「われとわが身を破滅させている」
ことがよく分る。われわれは分析をしてみて、この描写が適当てないことに気づく。この
状態は人々があまりにも自己軽蔑と絶望に打ちひしがれて、建設的な力が自己破壊的欲動の
衝撃力にもはや抗しきれなくなる時に起こるものである。この時、自己破壊的欲動は解き
放たれて、積極的に自分自身の志気をそごうとするほとんど無意識的な決意となって現われる
のである。それが外在化した形態では、ジョージ・オーウェルが『一九八四年』のなかで、
志気をそごうとするこの積極的で計画的な意図について描いている。経験ある分析家なら
誰でも、この作品のなかに、神経症者が自分自身に対してどのようなことをするか、その
ほんとうの姿をとらえることができるだろう。夢もまた、彼が積極的にわれとわが身を奈落の
底に投げ込むことを示している。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
502 ◆4otEyhoCdw :2013/10/12(土) 09:40:28.24 ID:bftwnShP
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 151 ///////////

 こうした内的過程に対して、神経症者は様々な反応をする。それは喜びであったり、自己憐憫
であったり、恐れであったりする。ふつう、これらの反応は、彼の意識的な心には自己堕落過程
とは無関係なものに映る。
 ある患者は、次のような夢を見た後で、自己憐憫の反応がとりわけ強く起こった。彼女は
これまで怠惰な日々を送り、人生の多くを浪費し、また、冷笑的な態度をとって、理想に背を
向けてきた。夢を見た頃の彼女は自分自身に熱心に働きかけてはしたが、まだ自分のことを
真剣に考え、自分の人生で何か建設的なことができるという状態ではなかった。彼女の見た夢は
このようなものであった。立派で好ましいことになら何でも味方してきたある女性が修道会に
入ろうとした時、その戒律を犯した罪で責められた。彼女は非難され、公衆の面前で引き回され、
辱められた。

///// アカデミア出版会 ///
503 ◆4otEyhoCdw :2013/10/12(土) 10:00:03.66 ID:bftwnShP
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 152 ///////////

夢のなかで、彼女はその女性が基本的には無罪であると信じていたが、自分もまた彼女を
引き回すパレードに参加していた。しかし、他方で、彼女はある牧師に哀願してその女性の
ことをとりなそうとした。牧師は同情はしてくれたが、被告のために何もすることができな
かった。その後、農場で見た被告はすっかり貧乏になっているばかりか、鈍く間抜けな人間に
なっていた。それを見た彼女は、まだ夢のなかでこの犠牲者に胸も張り裂けんばかりの憐みを
感じ、目覚めてから何時間も泣いた。詳しいことは省略するが、この夢を見た人は自分に
次のように言い聞かせた。「私のなかには良い好ましいものがある。私は自己非難と自己
破壊性によって、実際に自分の人格を破滅させるだろう。このような自己破壊への欲動に
対抗する私の試みは何の効果もない。私は自分自身を救いたいと思うのだが、その一方では
真の闘いを避けて、何らかの方法で自分の破壊的欲動に協力してしまうのだ」と。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
504 ◆4otEyhoCdw :2013/10/12(土) 10:58:03.45 ID:bftwnShP
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 153 ///////////

 われわれは夢のなかで自分の現実にいっそう近づく。特にこの夢は心の非常に深いところ
から現われたものであり、その人独特の自己破壊性のもつ危険について、深く正しい洞察を
示しているように思われた。自己に対する隣みの反応は、他の多くの場合と同じように、この
例においてもその当時は建設的なものではなかった。つまり、それによって彼女が自分自身の
ために何かをする方向に進むことはなかった。絶望の気持や自己軽蔑の強さが減少する時に、
初めて非建設的であった自己憐憫は、自己に対する建設的な同情に変わっていくことができる。
そして、この同情こそ自己嫌悪に囚われている人にとって非常に重要な意味をもつ前向きの
動きなのである。そこには、真の自己を感じ、心の救済を願う最初の兆しがある。

///////// 対馬忠監修 ///
505 ◆4otEyhoCdw :2013/10/12(土) 11:09:21.86 ID:bftwnShP
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 154 ///////////

 退廃が進行していく過程に対する反応として、やはり強い恐怖が現われることがある。
自己破壊性のもつ恐ろしい危険を考えれば、人がこのような残酷な力に対してただ無力な
祈りを捧げ続けている限り、こうした恐怖の反応が起こるのはまったく当然のことである。
こうした残酷な力は夢や連想のなかでは、殺人狂、吸血鬼、怪物、白鯨、幽霊のような
多くの簡潔な象徴となって現われる。この恐怖は、他の仕方では説明できない多くの恐怖
――例えば、未知なものや危険な深海に対する恐怖、幽霊や神秘的なものに対する恐怖、
毒や寄生虫や癌などのような身体内の破壊過程に対する恐怖――の最も中心をなすもので
ある。それは多くの患者が何か無意識的なもの、それゆえに、なにか呻秘的なものに対して
感じる恐怖の一部をなしている。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
506 ◆4otEyhoCdw :2013/10/12(土) 11:16:43.30 ID:bftwnShP
 
/// 自己嫌悪と自己軽蔑 155 ///////////

それははっきりした理由もなく起こる恐慌状態の中心をなすものであるかもしれない。もし
このような恐怖が常に、しかも生き生きした力をもって存在しているとすれば、誰一人として
この恐怖を抱きながら生きていくことはできないであろう。人はこの恐怖を和らげる方法を
見出さなければならないし、また、現にそれを見出してもいる。これらの方法のあるものに
ついては既に言及してきたが、他のものについては後章で論じることにしよう。
 自己嫌悪とその破壊力を吟味する時、われわれはそのなかに大きな悲劇、おそらくは人間精神の
最大の悲劇を見ずにはいらない。人が無限にして、絶対なるものを求めて手を差し伸べる時、
彼は同時に自らを破壊し始めるのである。彼が自分に栄光を約束してくれる悪魔と契約を結ぶ時、
彼は地獄へ落ちなければならない――彼自身のうちにある地獄へ。

・・・・

///// 神経症と人間的成長 ///
507 ◆4otEyhoCdw :2013/10/12(土) 12:06:51.38 ID:bftwnShP
 
///// KAREN HORNEY ////////////

[Neurosis And Human Growth: The Struggle Toward Self-Realization]
 by Karen Horney, Norton 1950

CONTENTS

  INTRODUCTION: A MORALITY OF EVOLUTION
1. THE SEARCH FOR GLORY
2. NEUROTIC CLAIMS
3. THE TYRANNY OF THE SHOULD
4. NEUROTIC PRIDE
5. SELF-HATE AND SELF-CONTEMPT
6. ALIENATION FROM SELF
7. GENERAL MEASURES TO RELIEVE TENSION
8. THE EXPANSIVE SOLUTIONS: The Appeal of Mastery
9. THE SELF-EFFACING SOLUTIONS: The Appeal of Love
10. MORBID DEPENDENCY
11. RESIGNATION: The Appeal of Freedom
12. NEUROTIC DISTURBANCES IN HUMAN RELATIONSHIPS
13. NEUROTIC DISTURBANCES IN WORK
14. THE ROAD OF PSYCHOANALYTIC THERAPY
15. THEORETICAL CONSIDERATIONS

///// Neurosis And Human Growth ///
508 ◆4otEyhoCdw :2013/10/14(月) 23:22:40.80 ID:FKwGGDUk
 
/// 自己疎外 1 ///////////

カレン・ホーナイ(Karen Horney)著
原著:Neurosis And Human Growth: The Struggle Toward Self-Realization 1950年発行
邦訳:『自己実現の闘い――神経症と人間的成長――』対馬忠監修
藤沢みほ子、対馬ユキ子訳、アカデミア出版会1986年10月発行 より

・・・・

第6章 自己疎外

 われわれは本書の冒頭において、真の自己の重要性を力説した。すなわち、真の自己とは、
われわれ自身のなかの、活力ある、独自の、その人の中心をなすものであり、また、成長する
ことができ、成長を欲する唯一の部分であると述べた。そして、いろいろな不利な条件が、
発達の当初より、真の自己の自由な成長を妨げているのを見た。それ以後、われわれの関心は、
主に、われわれの内部にあって、この真の自己のエネルギーを侵害し、その代わりに誇りの体系
――それは、しだいに自律的となり、専制的、破壊的な力をふるうようになる――を形成して
いくような力に向けられてきた。

///// アカデミア出版会 ///
509 ◆4otEyhoCdw :2013/10/14(月) 23:31:28.23 ID:FKwGGDUk
 
/// 自己疎外 2 ///////////

 このように、われわれの関心が真の自己から、理想化された自己とその発達の方に移って
きたのは、神経症者の関心が前者から後者へと移行していく姿をそのまま写したものである。
しかし、われわれは神経症者と違って、まだ真の自己の重要性をはっきりと認めている。
そこで、真の自己を再び注意の焦点に引き戻し、真の自己がなぜ放棄されるのか、また、
この真の自己の放棄は、人格にとってどのような損失を意味するのかを、さらに体系的に
考えてみよう。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
510 ◆4otEyhoCdw :2013/10/14(月) 23:41:19.30 ID:FKwGGDUk
 
/// 自己疎外 3 ///////////

 真の自己を放棄することは、悪魔の契約で言えば、魂を売ることである。精神医学では、
このことを「自己疎外」という用語で呼んでいる。自己疎外という言葉は、健忘症や離人症の
場合のように、主に、人が自己同一感を喪失するような極端な状態に用いられている。
このような状態は常に一般の好奇心の対象になってきた。眠ってもいず、器質的な脳疾患も
ない人が、自分が誰であり、どこにおり、何を行ない、今まで何をしていたかが分らないとは、
奇妙なことであり、驚きでさえある。

///////// 対馬忠監修 ///
511 ◆4otEyhoCdw :2013/10/15(火) 21:02:24.29 ID:p2MH+0T/
 
/// 自己疎外 4 ///////////

 しかし、もしこのような状態を孤立した出来事とは考えずに、他のこれほど顕著でない
自己疎外の形態と関係させて眺める時、あまり驚くに当たらないように思える。つまり、
こうした形態では、自己同一性や見当識はたいして失われていないのに、意識的な経験を
行なう一般的な能力が損なわれていることがある。例えば、何か霧のなかにいるような気分で
生活している神経症者が多く、この人々にとっては、何一つ定かなものはないのである。
自分自身の思考や感情ばかりか、他の人々のことも、何かの状況のもつ意味もぼんやり
している。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
512 ◆4otEyhoCdw :2013/10/15(火) 21:08:02.70 ID:p2MH+0T/
 
/// 自己疎外 5 ///////////

また、もうろうとした状態からの内部過程だけに限られている場合も、結びつきはそれほど
強くないが、やはりこれと関係づけて考えることができる。私がここで言っているのは、
他人についてはかなり鋭い観察もでき、ある状況や思想の傾向についても明快な判断を下す
ことができるのに、(他の人々や自然と関係する)あらゆる種類の経験が、自分の感情に
まで浸透せず、また、自分の内的経験が意識にまで浸透しない人々のことである。そして、
このような精神状態は、さらには、一見健康そうに見えながら、時おり部分的な意識喪失に
陥ったり、自分の内外の経験のある特定の領域に関して、盲点をもって苦しんでいる人々の
精神状態とも無関係ではない。

///// 神経症と人間的成長 ///
513 ◆4otEyhoCdw :2013/10/15(火) 21:25:44.62 ID:p2MH+0T/
 
/// 自己疎外 6 ///////////

 すべてこのような自己疎外の形態は、身体や所有物など、「物質的自己」に関しても起こりうる。
神経症者は自分の身体という感じ、あるいは、自分の身体に対する感情をほとんどもたないであろう。
身体の感覚すら麻痺していることもある。例えば、足が冷たいかと尋ねられても、考えてみなければ
冷たいことに気づかない。また、姿見に映っている自分の姿を不意に見ても、それが自分だと
分らないこともある。また、同じように、自分の家に対しても、それが自分の家だという感情が
もてず、彼にとっては、それはホテルの部屋と同じくらいに非個人的なものに思える。ある人々は
自分の所有する金についても、それがたとえ自分で一生懸命に働いて儲けたものであっても、
自分のものであるという感情がもてない。

///// 自己実現の闘い ///
514 ◆4otEyhoCdw :2013/10/15(火) 22:04:38.62 ID:p2MH+0T/
 
/// 自己疎外 7 ///////////

 以上の例は、現実の自己からの疎外と呼ぶのにふさわしいもののなかから、わずか二、三の
種類を挙げたにすぎない。ここでは、自分の現在の生活と過去の生活とのかかわり合いや、
こうした自分の人生についての連続感情も含めて、自分が何ものであり、何を所有している
のかといったことすべてがかき消されたり、曖昧になっているだろう。この過程のあるものは、
すべての神経症に内在しているものである。時には、患者がこの点での障害に気づいている
こともあり、自分のことをてっぺんに脳がついた街灯柱だと描写した患者もいる。しかし、
障害がかなり広範囲にわたっている時でも、それに気づかない場合の方が多く、分析していく
うちに徐々に気づいてくる。

///// 原著 1950年発行 ///
515 ◆4otEyhoCdw :2013/10/16(水) 20:26:02.16 ID:s1XgdvUj
 
/// 自己疎外 8 ///////////

 この現実の自己からの疎外の中心に、それよりもっと分りにくいが、もっと重要な現象が
存在している。それは神経症者が自分の感情や願望や信念やエネルギーと疎遠になっている
ことである。彼は自分自身の生活において、自分が積極的な決定力をもっていると思えな
かったり、自分自身を一つの有機体的全体として感じることができなくなっている。このことは
また、私が真の自己と呼ぶことを提案した、あの最も生き生きとしたわれわれの中心からの
疎外を示すものである。ウィリアム・ジェイムズの言葉を用いて、真の自己の性質をもっと
詳しく述べると、それは「躍動する内奥の生活」を準備するものであり、喜び、憧れ、愛、
怒り、恐れ、失望のいずれであっても、この感情の自発性を生み出すものである。それはまた、
自発的な興味やエネルギーの根源であり、「意志の命令が発せられる、努力と注意の根源」
であり、意欲し、意志する能力であり、われわれのなかにあって、それ自身を拡張させ、
成長させ、成就させたいと望む部分である。

///// Neurosis and Human Growth ///
516 ◆4otEyhoCdw :2013/10/16(水) 20:32:00.39 ID:s1XgdvUj
 
/// 自己疎外 9 ///////////

それは、われわれの感情や思考に対する「自発的な反応」を生み出し、「歓迎するか反対するか、
所有するか所有を拒否するか、味方して闘うか敵対するか、イエスと言うかノーと言うか」の
反応をつくり出す。すべてこうしたことが示すものは、真の自己が強く積極的な時には、われわれは
真の自己によって決定を行ない、また、その決定に対して責任をもつことができるということ
である。そのため、真の自己は、真の統合と、健全な全体感、統一感へと導く。そこでは、
身体と精神、行為と思想または感情が、単に一致し調和するだけでなく、深刻な内的葛藤を
もたずに機能する。この場合には、真の自己が弱まるにつれて重要性をもってくるあの不自然な
自己統合の方法とは対照的に、ほとんど緊張をともなわないのである。

///// Karen Horney ///
517 ◆4otEyhoCdw :2013/10/16(水) 20:43:45.61 ID:s1XgdvUj
 
/// 自己疎外 10 ///////////

 自己の問題は、哲学の歴史が示すように、多くの視点から取り扱うことができる。しかし、
この問題に取り組んだ人は誰でも、自分自身の特殊な経験や興味を記述する以上に出ることは
むずかしいと気づいていたように思われる。私は、臨床的に役立てようという見地から、
現実の自己、言い換えれば、経験的な自己を、一方は理想化された自己から、他方は真の
自己から区別したいと思う。現実の自己とは、ある特定の時の、その人のあらゆる状態、
すなわち、身体も精神も、健康的なものも神経症的なものもすべてを包括する語である。
われわれが自分自身を知りたいと言う時に念頭にあるのは、この現実の自己である。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
518 ◆4otEyhoCdw :2013/10/17(木) 20:28:57.48 ID:FIGbGbh1
 
/// 自己疎外 11 ///////////

すなわち、われわれが知りたいのは、現にあるがままの自分自身のことである。理想化された
自己とは、われわれが非合理な空想のなかで描いている自分、あるいは、神経症的誇りの
命令に従って、そうあるべきだと思っている自分のことである。真の自己とは、既に幾度も
定義したように、人間の成長と完成を目指す「根源的な」力であり、われわれは、自らの
成長を損ねる神経症の拘束から自由になった時に、この真の自己との十分な同一性を取り戻す
ことができるのである。だから、われわれが自分自身を見出したいと言う時、この自己を
指しているのである。この意味において、それはまた(すべての神経症者にとって)可能な
自己であって、達成不可能な、理想化された自己とは対立するものである。

///// アカデミア出版会 ///
519 ◆4otEyhoCdw :2013/10/17(木) 20:41:21.05 ID:FIGbGbh1
 
/// 自己疎外 12 ///////////

この角度から見る時、真の自己は、これら三つのうちでもっとも思弁的なものに思われる。
誰も、神経症者を見て、ちょうど小麦ともみがらを区別するように、これが彼の可能な自己
であると言うことはできないだろう。しかし、神経症者の真の自己、つまり可能な自己は、
ある意味で一つの抽象ではあっても、それは感じられるものであり、それをちらりと見るたびに、
他の何ものよりもいっそう真の、いっそう確かで、いっそう定まった感じがすると言うことが
できる。この性質は、ある鋭い洞察を得て、なんらかの強迫的欲求の虜になることから解放
された時、われわれ自身のなかや、患者のなかに、観察されることができる。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
520 ◆4otEyhoCdw :2013/10/17(木) 20:47:59.19 ID:FIGbGbh1
 
/// 自己疎外 13 ///////////

 現実の自己からの疎外と、真の自己からの疎外とを常に厳密に区別できるわけではないが、
これからの議論では、真の自己からの疎外をわれわれの興味の焦点に置こう。キェルケゴールの
言葉によれば、自己の喪失は「死に至る病」である。それは絶望、すなわち、自己をもって
いると意識しないことへの絶望であり、自分自身であろうと意欲しないことへの絶望である。
しかし、(さらにキェルケゴールに従えば)それは騒ぎ立てたり、絶叫したりしない絶望である。

///////// 対馬忠監修 ///
521 ◆4otEyhoCdw :2013/10/18(金) 20:22:27.78 ID:3rKX4USO
 
/// 自己疎外 14 ///////////

人々はなおもこの生き生きとした中心と直接に接触しているかのように生き続けている。
仕事を失ったり、脚を失ったりするような他の喪失の方が、はるかに大きな心配事になる。
このキェルケゴールの言葉は臨床的な観察と一致している。前に述べたような著しい病態を
示すものは別として、自己の喪失は直接強く人の目を引くものではない。相談にやってくる
患者たちは、頭痛、性の悩み、仕事に禁止が働くことやその他の症状については訴えるが、
概して、自分の精神的存在の核心との触れ合いを失っていることについては訴えないもの
である。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
522 ◆4otEyhoCdw :2013/10/18(金) 20:36:17.01 ID:3rKX4USO
 
/// 自己疎外 15 ///////////

 ここで今細部に立ち入らずに、自己疎外を引き起こす原因となっている力について、その
包括的な全体像をとらえよう。自己疎外は、一部は神経症的発達全体の結果であり、特に
神経症におけるすべての強迫的なものの結果である。それは「私は馭者ではなく、馭せられて
いる」という意味をもったすべてのことから結果するものである。この文脈では、個々の
強迫的要因がどういうものであるかということ、つまり、それが他人との関係で作用する
(服従、反抗、孤立など)ものであるか、それとも、自己理想化のように、自己との関係に
おいて作用するものであるかは、問題ではない。

///// 神経症と人間的成長 ///
523 ◆4otEyhoCdw :2013/10/18(金) 20:53:51.96 ID:3rKX4USO
 
/// 自己疎外 16 ///////////

人は、これらの欲動の激しい強迫的性格のために、その自主性と自発性を十分発揮できなく
なってしまうのである。誰にでも好かれたいという欲求が強迫的となると、たちまちその
人の感情の純粋さは損なわれ、弁別力も減退する。また、栄光のためにある仕事をするように
駆り立てられる時、仕事そのものに対すろ自発的な興味は減退する。さらに、強迫的欲動が
葛藤を起こすと、統合力や、決定し、方向づける能力は損なわれる。最後の、しかし重要な
こととして、神経症的似非解決法は、統合性を目指す試みを示すものであるが、それらは
強迫的な生き方となるために、やはり、その人の自主性を奪うものである。

///// 自己実現の闘い ///
524 ◆4otEyhoCdw :2013/10/19(土) 09:18:34.00 ID:sMsoFPpX
 
/// 自己疎外 17 ///////////

 さらに、疎外は、真の自己から積極的に遠ざかる動きと表現できる、同じく強迫的過程に
よっていっそう促進される。この促進過程は、栄光を求める欲動全体を言うのであって、
特に神経症者は自分自身を自分でないものにつくり上げようと決心しているのであるから、
積極的に自己から遠ざかる動きとなる。彼は、自分が感じるべきものを感じ、欲すべきものを
欲し、好むべきものを好む。言い換えれば、〈べき〉の専制によって、彼は現に今ある自分、
あるいは、あるはずの自分とは違った者になるように激しく駆り立てられる。そして、彼は
空想のなかでは違った人間であるのだ。あまりに違っているので、彼の真の自己はなおいっそう
色褪せ、影が薄くなる。神経症的要求とは、自己に関して言えば、自発的なエネルギーの
貯蔵庫を放棄することを意味する。

///// 原著 1950年発行 ///
525 ◆4otEyhoCdw :2013/10/19(土) 10:30:11.82 ID:sMsoFPpX
 
/// 自己疎外 18 ///////////

例えば、神経症者は、人間関係に関しては、自分自身は努力せずに、他人の方が自分に合わせる
べきだと主張する。彼は自分の仕事には打ち込まずに、他の人にそれをしてもらう資格が
自分にあると思っている。また、自分で物事を決定せず、他の人が自分の代わりに責任を
負うべぎだと主張する。そのため、建設的なエネルギーは使われないままで、彼は実際に
自分自身の生活を決定することがますますできないようになる。
 神経症的誇りも、彼を自分自身からいっそう遠ざける。今や彼は現実の自己――自分の感情、
才能、活動――を恥じるようになっているから、自分自身に対して積極的に関心をもつまい
とする。外在化の過程全体も、現実の自己と真の自己から積極的に遠ざかるもう一つの動き
である。ところで、この過程は、キェルケゴールの言う「自分自身であろうと欲しないこと
への絶望」と驚くほどよく一致している。

///// Neurosis and Human Growth ///
526 ◆4otEyhoCdw :2013/10/19(土) 11:57:41.74 ID:sMsoFPpX
 
/// 自己疎外 19 ///////////

 最後に、自己嫌悪に示されるように、真の自己に積極的に反抗する動きがある。真の自己は
言わば追放されて、彼は軽蔑され、破滅におののく有罪の囚人となる。自分自身であると
考えるだけで、胸が悪くなり、恐ろしくなる。ある患者が、「これが私である」と思うと、
恐怖を感じたように、恐怖は時にはそのままの姿で現われる。この恐怖が現われたのは、
彼女がそれまで「自分」と「自分の神経症」とをはっきり分けていたその区別が、崩れ始めた
時であった。神経症者はこの恐怖に対する一つの防衛として、「自分自身を見えないように
する」。

///// Karen Horney ///
527 ◆4otEyhoCdw :2013/10/19(土) 16:42:38.38 ID:sMsoFPpX
 
/// 自己疎外 20 ///////////

彼は無意識のうちに、自分自身をはっきり知覚しないように、つまり、言わば、自分自身を
聾唖や盲目にしようとする。彼は自分自身についての真実を曖昧にするだけでなく、そうする
ことを当然の権利と思っており、これは、自分自身の内部のことはもちろん外部でも、何が
正しく、何が誤っているかについての彼の感受性を鈍らせていく過程である。彼は意識的には、
自分がぼやけてはっきり見えないことに苦しんでいるが、それでもその状態を保ち続けよう
とする。例えば、ある患者はしばしば連想のなかで自己嫌悪を象徴するのに、ベーオウルフの
神話に出てくる、夜、湖に現われ出る怪物を用いた。そして、ある時彼は、「霧がたちこめて
いれば、怪物は私を見ることができません」と言った。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
528 ◆4otEyhoCdw :2013/10/19(土) 18:58:42.17 ID:sMsoFPpX
 
/// 自己疎外 21 ///////////

 自己疎外は、こういったすべての動きの結果生じたものである。われわれが自己疎外という
言葉を用いる時、それが現象のただ一つの面だけに焦点を合わせていることを知っていなければ
ならない。この用語が正確に表現しているのは、神経症者が自分自身とは無関係になっている
と思う彼の主観的な感情のことである。彼は分析を受けて、初めて自分がこれまで自分自身に
ついて分っていると話していたことはすべて、実は自分や自分の生活とは無関係なものであった
こと、それらは自分とほとんど関係のない誰か他の人のことで、その人についていろいろ見出した
ことは面白いが、自分の生活には当てはまらないものであったことに気づくであろう。

///// アカデミア出版会 ///
529 ◆4otEyhoCdw :2013/10/20(日) 07:42:37.72 ID:i6EG7+66
 
/// 自己疎外 22 ///////////

 実は、この分析経験はただちにわれわれを問題の核心へと導く。というのは、われわれは
次のことを心に留めておかねばならない。患者は天候やテレビのことを話さないで、最も
秘められた個人的な生活経験について話しているのである。しかも、それらの経験が個人的な
意味を失ってしまっている。そして、彼は「自分自身がそのなかに入る」ことなく、自分の
ことを話すのとちょうど同じように、自分がそのなかに入らないで、働き、友達と一緒に時を
過ごし、散歩し、女性と寝るだろう。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
530 ◆4otEyhoCdw :2013/10/20(日) 09:03:16.67 ID:i6EG7+66
 
/// 自己疎外 23 ///////////

彼の自分自身との関係は非人格的なものになっており、彼と自分の生活全体に対する関係も
そうなっている。「離人症」という言葉は、既に精神医学上の特定の意味を担ってしまって
いるが、もしそうでなかったら、これは自己疎外の本質的な姿を現わすのにふさわしいもの
であったろう。というのも、自己疎外とは一つの離人化過程であり、それゆえ、活力を喪失
させる過程であるからだ。

///////// 対馬忠監修 ///
531 ◆4otEyhoCdw :2013/10/20(日) 10:27:07.74 ID:i6EG7+66
 
/// 自己疎外 24 ///////////

 既に述べたように、自己疎外は、その重要性からうかがえるほどには、直接に明瞭な姿で
現われてはこない。ただし、(神経症だけについて言えば)離人症の状態、非現実感、健忘症の
場合は別である。これらの病態は一時的なものであるが、何らかの意味で自分自身から疎遠に
なっている人々にだけ起こりうるものである。非現実感をつのらせる要因は、ふつう、その人が
耐えられないほどの自己軽蔑が急激に増大すると共に、誇りがひどく傷つけられることにある。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
532 ◆4otEyhoCdw :2013/10/20(日) 11:39:43.66 ID:i6EG7+66
 
/// 自己疎外 25 ///////////

逆に、これらの急性の病態が――治療の有無にかかわらず――おさまっても、彼の自己疎外は
そのために本質的に変わることはない。ここでもまた、彼の自己疎外は、顕著な見当識障害が
なくてやっていける範囲内に、抑えられているにすぎない。その他の場合には、熟練した
観察者は、どんよりした目、非人格的な雰囲気、自動人形のような動作など、自己疎外が
存在していることを示すいくつかの一般的な症状を認めることができるであろう。カミュ、
マーカンド、サルトルといった作家は、このような症状を見事に描写している。精神分析家に
とっては、人間が自分自身のいちばん中心部を参加させないで、このように比較的うまく
生活していけるということは、尽きない驚きの種である。

///// 神経症と人間的成長 ///
533 ◆4otEyhoCdw :2013/10/20(日) 14:08:04.54 ID:i6EG7+66
 
/// 自己疎外 26 ///////////

 次に、自己疎外は、個人の人格や生活にどのような影響を及ぼすのであろうか。
私たちは、はっきりとした包括的な像を得るため、自己疎外が彼の感情生活、
エネルギー、自分の人生の方向を冷め、責任をとる能力、統合力にそれぞれ
どのような影響をもつかを、順を追って論じよう。

///// 自己実現の闘い ///
534 ◆4otEyhoCdw :2013/10/20(日) 14:43:14.46 ID:i6EG7+66
 
/// 自己疎外 27 ///////////

 ものを感じる能力あるいは感情の意識性について、すべての神経症に妥当するような何かを
即座に言うことはむずかしいように思える。喜びや感激や苦しみを過度に表わす人もいれば、
冷淡に見えたり、ともかく表面では無感動を装っている人もいる。また、感情が弱まり、鈍麻し、
平板になっているような人もいる。しかし、このように無数の違いはあっても、すべての重症の
神経症に一貫した一つの特徴があるように思われる。すなわち、感情の意識、強さ、種類が、
主として誇りの体系によって規制されていることである。自己に対するほんとうの感情は、
不活発になったり、減少したり、時には、今にも消失してしまいそうにまでなる。要するに、
誇りが感情を支配しているのである。

///// 原著 1950年発行 ///
535 ◆4otEyhoCdw :2013/10/20(日) 18:16:59.31 ID:i6EG7+66
 
/// 自己疎外 28 ///////////

 神経症者は、自分の誇りに反するような感情を軽蔑し誇りが増すような感情を過度に強調
する傾向をもつ。もし彼が傲慢にも他の人より非常に優れていると感じているなら、他人を
羨ましいと思うことを自分に許すことはできないし、自分の禁欲を誇りにしているなら、
楽しむ感情を自分に禁じるだろう。もし報復性を誇っているなら、復讐的な怒りを強く感じる
だろう。しかし、その報復性を自分は「正義」を行なっているのだと美化し、合理化している
なら、たとえ報復的な怒りが誰の目にもはっきり分るほど自由に表わされていても、彼は
それを報復的な怒りとして感じていない。

///// Neurosis and Human Growth ///
536 ◆4otEyhoCdw :2013/10/21(月) 20:42:14.60 ID:5jmufwc/
 
/// 自己疎外 29 ///////////

完璧な忍耐心をもっているという誇りは、どんな苦しみの感情をもつことも禁じるであろう。
しかし、苦しみが誇りの体系のなかで重要な役割を演じているなら――例えば、苦しみが
憤りを表わす手段とか、神経症的要求の根拠とかになっている場合には――彼はその苦しみを
他人の前で強調するだけでなく、実際に自分でもいっそう深刻に苦しみを感じる。同情の
感情は、もしそれを弱さと見るなら、抑えられ、それを神のような優れた性質と考えるなら、
十分に体験されるだろう。また、彼は、何ものも、何人も必要としないといった意味での
自足に誇りをもっているなら、何かの感情や欲求を認めることは、言わば「狭き門をくぐる
ために、耐えられないほど身をかがめる」ようなものである。「もし私か誰かを好きになれば、
その人に支配されるかもしれないし、何かを好きになれば、それに依存することになるかも
しれない」のである。

///// Karen Horney ///
537 ◆4otEyhoCdw :2013/10/21(月) 20:53:33.62 ID:5jmufwc/
 
/// 自己疎外 30 ///////////

 われわれは時々、分析において、誇りが真の感情をどのように妨げているかを直接に観察
することができる。XはいつもはZのことを、主に自分の誇りを傷つけたという理由で怒って
いるが、Zが親しそうに近づいてくると、自然に親しみをもっと態度で応える。しかし、
そのすぐ後で、心のどこかから「親しげなそぶりにだまされるなんて、おまえは何という
ばかだ」という声が聞こえてくる。すると、親しみの感情はすっかりなくなってしまう。
また、彼はある絵を見て、温かな深い感激を覚える。ところが、「自分ほど絵を正しく評価
できる者はほかにいないのだ」と思いつくと、その誇りのためにこの感激は醒めてしまう
のである。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
538 ◆4otEyhoCdw :2013/10/21(月) 21:59:57.88 ID:5jmufwc/
 
/// 自己疎外 31 ///////////

 ここまでのところでは、誇りは一種の検閲のような働きをして、感情が意識に上るのを
促したり、禁じたりしている。しかし、誇りはもっと根本的な意味で感情を支配することが
ある。人が、誇りによって支配されることが多くなるにつれ、彼の人生に対する情緒的な
反応は、ただ自分の誇りによってのみ左右されるようになる。それはまるで真の自己を防音
装置のある部屋に閉じ込めてしまい、ただ誇りの声だけを聞いているようなものである。
この時に彼が感じる満足感あるいは不満感、失望あるいは高揚感、他人に対する好き嫌いの
感情は、主として、誇りの反応なのである。

///// アカデミア出版会 ///
539 ◆4otEyhoCdw :2013/10/21(月) 22:09:08.03 ID:5jmufwc/
 
/// 自己疎外 32 ///////////

同じく、彼の意識に上る苦しみもまた、主として誇りの苦しみである。しかし、このことは
表面には現われない。彼はほんとうに自分が失敗して、罪悪感や寂しさや報われぬ恋に悩んで
いると心から思っている。確かに彼は苦しんでいる。しかし、問題は苦しんでいるのは誰なのか
ということである。分析をしてみて、苦しんでいるのは、主として、彼の誇り高い自己である
ことが分る。彼が苦しむのは、自分が最高の成功を収めえなかった、物事を最後まで完成
しなかった、自分には常に人から求められるほどの素晴らしい魅力がなかった、皆に自分を
愛させることができなかった、と感じるからである。あるいは、彼は成功し、人気を博する
資格が自分にあると思っているのに、それをすぐに得られないので苦しむのである。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
540 ◆4otEyhoCdw :2013/10/22(火) 20:45:46.73 ID:YIzTW3t4
 
/// 自己疎外 33 ///////////

 誇りの体系がかなり揺らいできた時、彼は初めてほんとうの苦しみを感じ始める。彼は、
この時初めて自分のこの苦悩する自己に対し同情を感じることができ、この同情によって、
自分自身のために何か建設的なことをする方向に向かうことができる。彼が以前に感じた
自己憐欄は、むしろ虐待されたという感情に対する誇り高い自己の感傷的な苦悩であった。
両者の違いを経験したことのない人は、肩をすくめて、それは見当違いだ、苦しみはしょせん
苦しみでしかないと考えるだろう。

///////// 対馬忠監修 ///
541 ◆4otEyhoCdw :2013/10/22(火) 20:57:28.19 ID:YIzTW3t4
 
/// 自己疎外 34 ///////////

しかし、われわれの感情の範囲を広めたり深めたりする力、他人の苦しみに対して心を開く
力をもっているのは、ただ真の苦悩だけである。オスカー・ワイルドは『獄中記』のなかで、
虚栄心が傷つけられたために起こる苦しみに代わって、真の苦悩を経験し始めた時に感じる
解放感について描いている。
 神経症者は時々、自分の誇りの反応でさえも、他人を通じてしか感じることができない
場合がある。彼は友人に傲慢や無視の態度を示されても、辱められたとは感じないで、
兄弟や同僚がそれを恥辱とみなすだろうと考えて恥を感じるのである。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
542 ◆4otEyhoCdw :2013/10/22(火) 21:01:29.56 ID:YIzTW3t4
 
/// 自己疎外 35 ///////////

 誇りが感情を支配する程度には、もちろん、様々な違いがある。情緒的にひどく損なわれて
いる神経症者でも、強く誠実なある種の感情、例えば自然や音楽に対する感情をもつことが
ある。だから、これらの感情は彼の神経症によって影響を受けていないわけである。彼の
真の自己はこれくらいの自由は許されていると言えるのかもしれない。あるいは、彼の好悪の
感情は主として誇りによって規制を受けているとしても、誠実な心の要素もやはり存在して
いるのかもしれない。しかし、それにもかかわらず、これまでに述べたような、誇りが支配する
傾向の結果として、神経症では感情生活が一般に貧困になって、誠実さや自発性や感情の
深さが減少したり、あるいは少なくとも、感じることのできる範囲が限られてくる。

///// 神経症と人間的成長 ///
543 ◆4otEyhoCdw :2013/10/22(火) 21:20:51.05 ID:YIzTW3t4
 
/// KAREN HORNEY ////////////

カレン・ホーナイ(Karen Horney)著
NEUROSIS AND HUMAN GROWTH: The Struggle Towards Self-Realization 1950年出版

邦訳:神経症と人間の成長 (ホーナイ全集)、 誠信書房、1998年06月発行、榎本 譲 (翻訳), 丹治 竜郎 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/dp/4414420067/

邦訳:『自己実現の闘い――神経症と人間的成長――』、アカデミア出版会、1986年10月発行
対馬忠監修、藤沢みほ子、対馬ユキ子訳
http://honto.jp/netstore/pd-book_00428165.html

////// NEUROSIS AND HUMAN GROWTH ///
544 ◆4otEyhoCdw :2013/10/22(火) 21:32:49.12 ID:YIzTW3t4
 
/// 自己疎外 36 ///////////

 こうした障害に対してどのような意識的態度をとるかは、人によって様々である。ある人は
情緒不足を障害とは全然みなさず、むしろそれを誇りに思うかもしれないし、他の人は反対に、
情緒がますます枯渇していくのを真剣に心配するかもしれない。あるいはまた、例えば、
自分の感情が、しだいに単に刺激に対して反応するというだけの性格になっていくのに気づく
人もあろう。彼の感情が友情や敵意に何の反応もしない時は、それは活動しない、沈黙した
状態にとどまっている。彼の心は一本の木、一枚の絵の美しさにも積極的に感動しないので、
それらは彼にとっては何の意味ももたないままである。友人が苦境を訴えても、彼はそれに
応答はするが、その人の生活状況を積極的に思い浮かべてみることをしない。

///// 自己実現の闘い ///
545 ◆4otEyhoCdw :2013/10/22(火) 22:05:36.76 ID:YIzTW3t4
 
/// 自己疎外 37 ///////////

あるいは、このような反応をするだけの感情さえも鈍っていることに気づいて、狼狽する
こともあろう。ジャン=ポール・サルトルは『分別ざかり』のなかの登場人物の一人について、
「少なくとも、彼が自分自身のなかに、控え目であっても、真に生き生きとした感情を少し
でも発見することができていたら……」と述べている。最後に、感情の枯渇に全然気づかない
場合もある。この場合、彼はただ自分の夢のなかにマネキン人形、大理石の像、一枚の厚紙の
絵、唇をひきつらせて笑っているように見える死体となって現われる。この後の例では、
彼の感情の貧困さは次の三つの方法のいずれかによって表面的にカムフラージュされている
ので、そこに自己欺隔が生じるのは理解できることである。

///// 原著 1950年発行 ///
546 ◆4otEyhoCdw :2013/10/23(水) 20:23:49.84 ID:QBJ2t/jv
 
/// 自己疎外 38 ///////////

 ある神経症者は活気をひらめかし、偽りの自発性を示す。彼らはすぐに興奮したり、
落胆したり、人を愛したり、怒ったりしやすい。しかし、これらの感情は、心の奥底から
発したものではなく、この人々のなかには存在していないものである。彼らは自分自身の
空想の世界に住んでいて、自分の気に入るもの、自分の誇りを傷つけるものに対しては、
何であれ、表面的な仕方で反応する。人に強い感銘を与えたいという欲求がしばしば前面に
出ている場合がある。そして、彼らは自己疎外されているために、その場の必要に応じて
人格を変えることができる。

///// Neurosis and Human Growth ///
547 ◆4otEyhoCdw :2013/10/23(水) 20:43:42.15 ID:QBJ2t/jv
 
/// 自己疎外 39 ///////////

ちょうどカメレオンのように、自分では気づかぬうちに、常に人生において何かの役割を
演じ、しかも、上手な俳優のように、その役によく合った感情をつくり出す。そのため、
彼らが世間の浅薄な人を演じようと、音楽や政治に真剣に興味をもつ人を演じようと、
信頼できる友人の役を演じようと、すべて本物のように見えるだろう。それは分析家をも
欺く。なぜなら、このような人々は分析を受ける時にも、熱心に自分自身のことを研究し、
自分のやり方を変えようと努力している患者の役をうまく演じるからである。ここで取り組まれ
なければならない問題は、彼らがまるでドレスを次々に脱ぎ替えるように、いとも簡単に、
ある役割にするりと入り、また他の役になり変わるその容易さである。

///// Karen Horney ///
548 ◆4otEyhoCdw :2013/10/23(水) 20:51:33.12 ID:QBJ2t/jv
 
/// 自己疎外 40 ///////////

 また、例えば、向こう見ずな運転や密通や性への逃避などを追い求め、それに興奮して
参加することを、情緒的な強さであると、取り違えている人々がいる。しかし、スリルや
興奮を求める欲求は、反対に、心に苦しい空虚さをもっていることを示す確かなしるしである。
このような人の不活発な情緒から何らかの反応を引き出すことができるのは、ただ異常な
もののもつ強烈な刺激だけである。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
549 ◆4otEyhoCdw :2013/10/23(水) 21:03:59.37 ID:QBJ2t/jv
 
/// 自己疎外 41 ///////////

 最後に、実際に確かな感情をもっているように見える人々がいる。彼らは自分の感じている
ことを知っているように見えるし、彼らの感情はその状況に対して適切なものである。しかし、
ここでもまた、感情の範囲が限られているだけでなく、感情の働き方が、ちょうど、一般に
音量を下げているかのように、低調である。このような人々をもっとよく知れば、彼らが単に
内的命令に従って、感じるべきであると思うものを自動的に感じているにすぎないこと、
あるいは、人に期待されていると思う感情で反応しているにすぎないことが分る。人がこうした
表面的な観察にいっそうだまされやすいのは、個人の〈べき〉が文化の要請する〈べき〉と
一致している時である。いずれにしても、わしれわれは、誤った結論を下さないためには、
感情の全体像を考えねばならない。われわれの存在の中心から発する感情には、自発性、深さ、
誠実さがあり、もしこれらの性質の一つでも欠けていれば、その根底に働いている力学を
吟味してみた方がよかろう。

///// アカデミア出版会 ///
550 ◆4otEyhoCdw :2013/10/23(水) 21:17:20.51 ID:QBJ2t/jv
 
/// 自己疎外 42 ///////////

 神経症の人がエネルギーを利用する程度には違いがあって、全般的な無気力から、散発的な、
持続性のない努力、さらには、一貫した、出し過ぎとも言えるエネルギーの放出に至るまで、
あらゆる段階がある。神経症そのものが、神経症の人を健康な人より多少ともエネルギッシュに
するのだと言うことはできない。しかし、動機や目的を別にして、エネルギーの量的な面だけで
考えれば、このような考え方も認められる。神経症の主な特徴の一つは、一般的にも述べ、
個々の場合にも明らかにしてきたように、エネルギーが、真の自己の可能性を発達させること
に注がれることから、理想化された自己の架空の可能性を発達させることに振り替えられる
点にある。この過程のもつ意味がしだいに分るにつれて、われわれは、こうした不釣り合いな
までのエネルギーの放出にも、それほど当惑を感じなくなるだろう。ここでは、この過程の
もつ意味のうち、二点だけについて言及しておこう。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
551 ◆4otEyhoCdw :2013/10/23(水) 21:33:09.64 ID:QBJ2t/jv
 
/// 自己疎外 43 ///////////

 第一に、エネルギーが誇りの体系に注がれることが多くなるにつれ、自己実現に向かう
建設的な欲動のために使われるエネルギーは、反対に少なくなる。これを、一般によくある
例を引用して示すと、野望に駆られた人は、名声や権力や魅力を得るためには実に驚くほどの
エネルギーを示すことができるのに、個人生活や人間としての成長のために費やす時間も
関心もエネルギーももちあわせない。実際には、これは、彼に個人の生活やその成長のために
使われる「エネルギーが残されていない」という問題だけなのではない。たとえエネルギーが
残されていても、彼はそれを真の自己のために使うことを無意識のうちに拒否するのである。
もし真の自己のためにそれを使うなら、それは彼の自己嫌悪の意図に反することになろう。
なぜなら、自己嫌悪は彼の真の自己を抑えつけることを意図するものであるからである。

///////// 対馬忠監修 ///
552 ◆4otEyhoCdw :2013/10/23(水) 22:01:40.65 ID:QBJ2t/jv
 
/// 自己疎外 44 ///////////

 第二の意味は、神経症者が自分のエネルギーについて所有感(自分のエネルギーを自分の
ものであると思う感情)をもたないことである。彼は自分自身の生活のなかで自分が原動力に
なっているとは感じない。この感情が欠如する原因としては、それぞれ異なった神経症的人格に
応じて、異なった要因が作用している。例えば、自分に期待されていることはすべてしなければ
ならないと感じる人は、実際には他人の意志ないし他人の意志と思われるものによって引き
回されていて、もし自分自身の能力だけに委ねられる時は、バッテリーの切れた車のように
ただじっとして動かない。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
553 ◆4otEyhoCdw :2013/10/24(木) 20:30:24.72 ID:uyfatcV1
 
/// 自己疎外 45 ///////////

また、自分自身の誇りにおびえ、野心をもつことにタブーをもつようになると、彼は自分の
仕事に積極的に関与したことを――自分自身に――否定しなければならない。たとえ自分の
力で社会的な地位を築いたとしても、自分がをそれをしたとは思わない。「たまたまそう
なったのだ」というのが彼の気持である。しかし、このような要因をまったく別にしても、
自分が自分の生活を動かす力になっていないという感情は、もっと深い意味で事実に合っている。
なぜなら、確かに、彼は主として、自分自身の願望や大志によって動かされているのではなくて、
誇りの体系から発達した欲求によって動かされているからである。

///// 神経症と人間的成長 ///
554 ◆4otEyhoCdw :2013/10/24(木) 20:38:34.51 ID:uyfatcV1
 
/// 自己疎外 46 ///////////

 人生の過程は、もちろん、一部にはわれわれの支配できない要因によって規定されている。
しかし、われわれは人生を方向づける感覚をもつことができるし、自分の人生をどうしたいかを
知ることができる。理想をもつことができ、それに向かって近づこうと努力し、それに基づいて
道徳的な決定を行なうことができる。人生のこの方向感覚は多くの神経症者には著しく欠けていて、
彼らの指向力は自己疎外の程度に比例して弱くなっている。こうした人々は計画も目的もなく、
気の向くままにどこへでも移っていく。無益な白昼夢が、方向性をもった行動にとって
代わり、また、完分な日和見主義が誠実な努力にとって代わり、皮肉主義が理想を枯らせてしまう。
優柔不断の範囲は広まって、目的をもったすべての働きを禁じるまでになる。

///// 自己実現の闘い ///
555 ◆4otEyhoCdw :2013/10/24(木) 20:53:55.93 ID:uyfatcV1
 
/// 自己疎外 47 ///////////

 さらにずっと広範囲で、しかも気がつきにくいものに、次のような隠れた障害がある。
人は完全性とか、勝利とかいった神経症的目的に向かって駆り立てられているので、一見
よく組織され、実際に一つの方向にまっしぐらに進んでいるように見える。しかし、この
場合、方向の統御は強迫的規準によって支配されており、この時発達する指向性は不自然な
ものとなるが、そのことがはっきり現われるのは、彼が矛盾する〈べき〉の間の板挟みに
なったと気づいた時である。

///// 原著 1950年発行 ///
556 ◆4otEyhoCdw :2013/10/24(木) 21:05:14.23 ID:uyfatcV1
 
/// 自己疎外 48 ///////////

彼は他に従う指針がないので、このような状況で起こる不安はきわめて大きなものとなる。
真の自己は言わば密室のなかに閉じ込められているので、彼はそれに相談することはできない。
そして、まさにそのために彼は相反する牽引力の無力な餌食になってしまう。このことは
他の神経症的葛藤にも同じように当てはまる。神経症的葛藤に対するその人の無力さの程度や
それに直面する際の恐怖は、単に葛藤の大きさをを示すだけでなく、それ以上に、その人の
自己疎外を示すものである。

///// Neurosis and Human Growth ///
557 ◆4otEyhoCdw :2013/10/24(木) 21:38:01.13 ID:uyfatcV1
 
/// 自己疎外 49 ///////////

心が方向性を欠いていても、それとは分からないことがある。今までその人の生活が伝統的な
やり方に従って行なわれていたので、個人として計画や決定をしなくても済んだからである。
ぐずぐずする癖が優柔不断さを隠していることもある。そして、人は自分しか下せないような
決断をしなければならなくなった時、初めて自分の優柔不断さに気づくのである。それゆえ、
このような状況は最悪の試練となるだろう。しかし、そうなっても、ふつう、彼らはこの障害の
一般的な性質を認めず、ただそれをその特定の決断を下すことのむずかしさのせいにしてしまう
のである。

///// Karen Horney ///
558 ◆4otEyhoCdw :2013/10/24(木) 22:06:40.77 ID:uyfatcV1
 
/// 自己疎外 50 ///////////

 最後に、服従的な態度をとることにより、方向感覚を十分にもっていないことが隠されて
しまう場合がある。この場合、人々は他人から期待されていると思う行為をし、他人から
望まれていると思う人間になる。そして、他人が何を欲し、何を期待しているかということを、
かなり機敏に察知する力を発達させる。ふつう、彼らはこうした技術を、感受性が鋭いとか、
思慮が深いとか言って二次的に美化するだろう。彼らは、このような「服従」のもつ強迫的
性格に気づいて、それを分析しようとする時、ふつう、例えば他人を喜ばせたいとか、他人の
敵意を避けたいとかいった、人間関係に関する要因にだけ注目する。しかし、例えば分析の
場のように、こうした要因が当てはまらない場面でも、彼らはやはり「服従」の態度をとる。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
559 ◆4otEyhoCdw :2013/10/31(木) 20:01:49.44 ID:1BS83RuK
 
/// 自己疎外 51 ///////////

彼らは主導性を分析家に託し、分析家が自分に何の問題と取り組むことを期待しているかを
知りたがり、推量したがる。分析家が、自分自身の興味に従うようにとはっきり激励しても、
それを聞き入れずに、依然としてその態度をとり続ける。ここで「服従」の背後に隠れている
ものが明瞭になってくる。彼らは自分では少しも気づいていないが、自分の生活の方向を
自らの手中に収めずに、他人に委ねるように強制されているのである。もし、自分の能力に
委ねられると、彼らは途方に暮れてしまうだろう。

///// アカデミア出版会 ///
560 ◆4otEyhoCdw :2013/10/31(木) 20:06:24.83 ID:1BS83RuK
 
/// 自己疎外 52 ///////////

夢には、自分が方向舵のないボートに乗っているとか、羅針盤を失ったとか、一人の案内人も
なく未知の危険な土地にいるとかいったようなことが象徴として現われるだろう。彼らの
「服従」の本質的な要因をなすものは、内心の指向力の欠如だということが明らかになるのは、
もっと後の、心の自主性を求める闘いが始まる時期である。この過程において起こる不安は、
彼らが一方では、まだ自分自身を信用できないでいるのに、他方では、それまで慣れてきた
助けを放棄しなければならないという立場にいることと関係がある。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
561 ◆4otEyhoCdw :2013/10/31(木) 20:26:21.78 ID:1BS83RuK
 
/// 自己疎外 53 ///////////

 指向力の欠如や喪失がこのように隠されたものであるのに引き換え、少なくとも熟練した
観察者には、常に明瞭に見分けられるもう一つの不十分な点がある。それは自己についての
責任をとる能力の不足である。「責任」という語は三つの異なったものを意味することが
できよう。しかし、私はこの文脈では、義務の遂行、約束の履行といった意味での信憑性、
言い換えると、他人に対して責任をとることについては言及しない。これらの点に関する
態度はあまりに多様で、神経症者のすべてに常に具わる特徴を選び出すことはできないから
である。神経症者の間にも、全面的に信頼できる人、他人に関して、責任をとりすぎる人、
責任をとらなさすぎる人がいる。

///////// 対馬忠監修 ///
562 ◆4otEyhoCdw :2013/10/31(木) 21:09:49.88 ID:1BS83RuK
 
/// 自己疎外 54 ///////////

 また、ここで道徳的な責任という哲学上の複雑な問題に立ち入るつもりもない。神経症に
おいては、強迫的要因が強く支配しているので、選択の自由はほとんどない。そこで、われわれ
なら実際上は、次のようなことを当然と考える。すなわち、患者は一般的に今とは違ったような
発達をすることができなかったのだ、具体的には、彼が実際に行ない、感じ、考えたようにしか
なしようがなかったのだと。しかし、患者はこのような見方をしない。彼は法律や必然性を
意味するようなことはすべて高慢にも無視するが、そうした彼の態度は自分自身のことにまで
及んでいて、彼には、自分の発達は、すべてを考慮に入れれば、一定の方向にしか進むことが
できなかったのだというようには、とうてい考えられないのである。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
563 ◆4otEyhoCdw :2013/11/01(金) 21:50:18.93 ID:AcFK01bD
 
/// 自己疎外 55 ///////////

ある欲動や態度が意識的であったか無立識的であったかは問題ではない。たとえどんなに
打ち勝ちがたい困難と闘わねばならなかったとしても、彼は変わらぬ強さと勇気と平静さを
もってそれにぶつかるべきだったのだ。そうしなかったとすれば、それは彼が何の役にも
立たない人間である証拠なのだ。またこの態度とは遂に、自己防衛的な態度をとり、どんな
罪も頑としてはねつけ、自らを絶対に過ちのないものと宣言し、過去、現在を問わず、どんな
困難も他人のせいにする場合がある。

///// 神経症と人間的成長 ///
564 ◆4otEyhoCdw :2013/11/01(金) 21:57:46.95 ID:AcFK01bD
 
/// 自己疎外 56 ///////////

 ここでもまた他の働きの場合のように、誇りが責任にとって代わり、不可能なことを
し損じた場合は、自らに有罪の宣告を下して追及する。このために、彼は最も大切な責任を
果たすということがほとんどできなくなる。その責任とは、根本的には、自分自身と自分の
生活についてまったく素直な正直さをもつことにほかならない。それは三通りの仕方で働く。
第一は、自分のあるがままの存在を縮小も誇張もせずに、公正に認めること、第二に、
「どうにかうまくやり過ごそう」としたり、他人に責任を負わせたりすることなく、自分の
行動や決定の結果を甘受すること、第三は、自分の困難を他人や運命や時間が自分のために
解決してくれるなどと思わず、それを克服する責任は自分にあると自覚することである。
これは他人の援助を受けること拒否するのではなく、反対に、できる限りの援助を受ける
ことを意味する。しかし、外からどんなに立派な援助を受けても、彼が建設的な方向に
変わろうと自分で努力しないなら、何の役にも立たないだろう。

///// 自己実現の闘い ///
565 ◆4otEyhoCdw :2013/11/01(金) 22:30:57.72 ID:AcFK01bD
 
/// 自己疎外 57 ///////////

 次に示す一例は、実は多くのよく似た症例から合成したものである。ある既婚の若い男は
父からの仕送りの額が決まっているのに、いつもそれ以上につかってしまう。彼はそのこと
について自分自身にも他人にもいろいろな弁解をする。例えば、こうなったのも両親が金の
扱い方を教えてくれなかったせいだとか、父親の仕送りが少な過ぎるのが悪いのだとか言う。
また逆に、こんな状態が続くのは、自分が父を怖がり、仕送りの増額を頼めないためだ、
お金が要るのは妻が金のつかい方を知らないからだ、子どもが玩具を欲しがるからだ、そのうえ、
税金や医者の支払いもある――それに、誰だって時には少しぐらい楽しむ権利があっても
よいではないか、と彼は言う。

///// 原著 1950年発行 ///
566 ◆4otEyhoCdw :2013/11/01(金) 22:53:57.49 ID:AcFK01bD
 
/// 自己疎外 58 ///////////

 こうした理由のすべてが、分析家にとっては重要な資料となる。なぜなら、これらは、
患者がもっている要求や、虐待されたと感じやすい彼の傾向を示しているからである。
患者にとっては、これらの理由は、自分のディレンマを完全に満足のいくように説明する
だけでなく、単刀直入に言えば、彼はこれらの理由を魔法の杖として使って、どんな理由
からにせよ、自分が金をつかい過ぎたという単純な事実を打ち消してしまうのである。事実を
事実としてそのまま述べること、つまり、つかい過ぎはつかい過ぎとはっきり言うことは、
誇りと自己非難に支配されている神経症者にとってはしばしば不可能に近いことである。

///// Neurosis and Human Growth ///
567 ◆4otEyhoCdw :2013/11/01(金) 23:08:10.21 ID:AcFK01bD
 
/// 自己疎外 59 ///////////

もちろんその結果は必ず現われ、彼の銀行口座の勘定は赤字となり、彼は借金をする。そして、
口座の状態を丁寧に知らせてくれた銀行員に対しても憤慨し、また、自分に金を貸したがらない
友達に対して腹を立てる。経済状態が非常に悪くなると、彼はそれを既成事実として父や
友達に示し、自分を助けに来てくれるように、多少とも強制する。彼は、この困った状態が
自分のだらしない金遣いの結果であるという単純な因果関係を直視しない。彼は将来について
いろいろと決心するが、その決心はおそらくあまり重要性をもたないだろう。というのも、
彼はただ自分自身を正当化し、他人を責めるのに精一杯で、自分の計画をほんとうに実行する
つもりはないからである。しつけの欠如は自分の問題であり、それが実際に自分の生活を困難に
しており、したがって、それをどうにかするのは自分の責任であるという冷静な認識が彼の
心中深くにまで達していないのである。

///// Karen Horney ///
568 ◆4otEyhoCdw :2013/11/02(土) 07:18:54.48 ID:fHcWV11Y
 
/// 自己疎外 60 ///////////

 神経症者がどれほど頑固に、自分の問題や行動から生じた結果に目をつぶろうとするかを
示す他の例を挙げよう。自分はふつうの因果の支配を免れていると無意識のうちに確信して
いるある人は、自分の傲慢さや復讐心に気づいても、そのために、他の人々が不快に思う
だろうという、当然の結果をどうしても認めようとしない。もし他の人々が彼に反発すれば、
それは思いもよらぬ打撃である。彼は屈辱を感じ、しばしば、実に抜け目なく(他人のなかに)
神経症的要因を指摘して、彼らが自分の行動を不快に思うのは、その神経症的要因のためだ
と言う。彼は自分に示されるすべての証拠を軽く一蹴し、そのような証拠は、それを示した
当人らが自分の罪や責任を正当化するためにたくらんだものであると考える。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
569 ◆4otEyhoCdw :2013/11/02(土) 09:25:03.03 ID:fHcWV11Y
 
/// 自己疎外 61 ///////////

 これらの引用例は、典型的なものであるが、自己の責任を回避する方法のすべてを網羅
するものではない。そうした方法のほとんどについては、先に面子を保つ工夫や自己嫌悪の
攻撃に対する防衛手段について語った際に、既に論じた。そして、神経症者がいかにして
自分以外のあらゆる人、あらゆるものに責任を転嫁するか、彼がいかにして自分自身の超然
とした観察者となるか、どれほどはっきりと自分自身と自分の神経症とを区別しているかを
見てきた。

///// アカデミア出版会 ///
570 ◆4otEyhoCdw :2013/11/02(土) 10:27:45.53 ID:fHcWV11Y
 
/// 自己疎外 62 ///////////

その結果として、彼の真の自己はしだいにいっそう弱く、いっそう離れたものとなる。
例えば、もし彼が無意識的な力を自分の全人格の一部ではないと主張するなら、それらの
力は、彼を仰天させる一種の神秘的な力となってしまうだろう。そして、このような
無意識の責任回避によって、真の自己との接触が弱くなればなるほど、彼はそれだけ
いっそう自らの無意識的な力の無力な餌食となり、そのため、実際にそうした力を恐れる
のがますます当然のこととなる。これに引き換え、自分自身であるこの複合体のすべての
ことに責任をとる方向に進むなら、彼は一歩進むごとに、目に見えて強くなっていく
のである。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
571 ◆4otEyhoCdw :2013/11/02(土) 12:04:26.63 ID:fHcWV11Y
 
/// 自己疎外 63 ///////////

 さらにそのうえ、自己の責任を回避する態度のために、どんな患者も自分の問題に直面し、
それを克服することがいっそうむずかしくなる。われわれが分析の当初にこの問題に取り組む
ことができれば、その作業にかける時間も苦労もかなり削減されるだろうと思うのだが、
患者は、自分は自分の理想像であると思っている限り、自分の正しさを疑い始めることさえ
できない。そして、もし自己非難の圧力が目立っている場合は、彼は自己のために責任を
とると考えただけで強い恐怖の反応を起こし、それからは何も得るところはないだろう。
自己のためにどんな責任もとることができないということは、自己疎外全体のほんの一つの
現われにすぎないことを、やはり心に留めておかねばならない。だから、患者が自分自身に
ついて、また、自分自身のために何らかの感情をまだもっていない時に、この問題に取り組む
ことは無益なのである。

///////// 対馬忠監修 ///
572 ◆4otEyhoCdw :2013/11/02(土) 14:44:21.81 ID:fHcWV11Y
 
/// 自己疎外 64 ///////////

 最後に、真の自己が「締め出され」たり、追放されたりしている時は、その人の統合力も
また弱くなっているだろう。健全な統合は、自分自身であることの結果であり、また、この
基底に立って初めて達せられるものである。もしわれわれが自発的な感情をもち、自ら決定し、
その決定に責任をもつことができるほどの強い自分自身になることができるなら、その時
われわれは確固とした基盤に立って、統一感をもつことができる。ある詩人は、自分自身を
発見したことを、次のような言葉で、喜びに満ちた調子で語っている。

  希望も行動も、言葉も沈黙も
  すべてのものは今融け合って
  一つのものとなる。
  私の仕事も、私の愛も、私の時間も、私の顔も
  すべてが集まって
  植物が伸びるように
  一つの力強い成長の姿となる。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
573 ◆4otEyhoCdw :2013/11/02(土) 17:29:28.99 ID:fHcWV11Y
 
/// 自己疎外 65 ///////////

 われわれはふつう、自発的な統合力の欠如は、神経症的葛藤の直接の結果であるとみなして
いる。これが真実であることに変わりはないが、そこには悪循環が働いていることも考えないと、
この統合を妨げる力の威力について完全な理解に達することはできない。多くの要因が働いた
結果として、人が自分自身を失っているなら、その場合、その人には、自分の内的葛藤を
解きほぐすことのできる確固とした基盤がないわけである。そこで、彼は内的葛藤のなすがまま
になり、葛藤のもつ破壊力に対して無力な餌食となる。そして、これらの葛藤を解決するために、
利用できる限りのどのような手段にでもしがみつかねばならなくなる。

///// 神経症と人間的成長 ///
574 ◆4otEyhoCdw :2013/11/02(土) 18:56:58.38 ID:fHcWV11Y
 
/// 自己疎外 66 ///////////

これがいわゆる神経症的解決の試みであり、この観点から見る時、神経症は一連のこうした
試みなのである。しかし、このような試みをすることにより、彼は、ますます自分自身を
失っていき、葛藤はいよいよ大きな破壊力をもつようになる。そこで、彼には自分自身を
統合するための人工的な手段が必要となる。〈べき〉も誇りという道具も自己嫌悪という
道具も、新しい機能、すなわち、心の混沌からわれわれを守る機能を獲得する。それらは
鉄拳をふるって人を支配する、が、しかし、政治的専制のように、一種の表面的な秩序を
つくり出し、それを維持する。意志力と理性による厳しい統制もまた、人格のばらばらの
部分を一つに結び合わせようとするもう一つの強力な手段である。それについて、われわれは
次章で、内的緊張を緩和する他の手段と合わせて論じることにしよう。

///// 自己実現の闘い ///
575 ◆4otEyhoCdw :2013/11/03(日) 07:58:38.69 ID:tPTlGkf0
 
/// 自己疎外 67 ///////////

 これらの障害が、患者の生活にとって一般的にはどのような意味をもつかは、かなり明白
である。彼が自分自身の生活において、積極的な決定要因になっていないということは、
表面がどれほど強迫的な硬さで包み隠されていようと、深い不安感をつくり出していく。
自分自身の感情を心もたないということは、うわべがどれほど生き生きと見えてしても、
彼を生気のないものにする。自分自身に対して責任をとらないということは、彼から真の
精神的独立を奪う。さらに加えて、彼の真の自己の不活発さは、神経症の過程に重大な影響を
及ぼす。自己疎外のもつ「悪循環」の面が最も明瞭になるのはこの事実においてである。
自己疎外自体は神経症的過程の結果であるが、それはまた以後の過程の発展の原因でもある。
なぜなら、自己疎外がひどくなるにつれ、その神経症者はますます誇りの体系の策謀に対して
無力な犠牲者となり、それに抵抗する活力をますます失っていくからである。

///// 原著 1950年発行 ///
576 ◆4otEyhoCdw :2013/11/03(日) 08:17:34.91 ID:tPTlGkf0
 
/// 自己疎外 68 ///////////

 ここで、いくつかの場合に、次のような重大な疑問が起こってくるだろう。すなわち、
この最も生き生きとしたエネルギー源はまだ完全に枯渇していないのだろうか、それとも、
永久に静止してしまっているのだろうか。私の経験からは、それをどちらか一方に決めて
しまわない方が賢明であると思う。分析家の十分な忍耐と熟練によって、真の自己が追放から
戻ってきたり、「よみがえってくる」ことがしばしばある。例えば、エネルギーが自分の
個人生活のためには利用されなくても、他人のための建設的な努力に注がれている時は、
それは有望な徴候である。言うまでもなく、このような努力は、よく統合された人々が
なすことができ、また実際にしている。

///// Neurosis and Human Growth ///
577 ◆4otEyhoCdw :2013/11/03(日) 08:29:12.58 ID:tPTlGkf0
 
/// 自己疎外 69 ///////////

しかし、今われわれに関心があるのは、他人のためには無際限とも見えるエネルギーを
費やすのに、自分の個人生活に関しては、建設的な興味や関心を欠き、この二つの間に
著しい食い違いを示す人々のことである。彼らが分析を受けている時でさえ、その分析から
本人よりも親戚や友人や生徒の方がいっそう利益を受けるということがよくある。そうで
あっても、われわれは治療者として、成長に対する彼らの興味は、たとえかたくなに外在化
されていても、なおそれが生き残っているという事実に期待をかける。とは言え、彼らの
興味を自分自身に向けさせるのは容易なことではないであろう。彼ら自身のなかに建設的な
変化を妨害する強い力があるうえに、外に向かっていることが一種の均衡状態をつくり出し、
それが自分自身を価値あるものだという感情を与えているので、彼らはこのような建設的な
変化のことをあまり熱心に考えないのである。

///// Karen Horney ///
578 ◆4otEyhoCdw :2013/11/03(日) 09:44:28.93 ID:tPTlGkf0
 
/// 自己疎外 70 ///////////

 真の自己の役割は、それをフロイトの「自我」の概念と比較してみると、いっそう明瞭に
浮き彫りにされる。私はフロイトとはまったく違った前提から出発し、まったく違った道を
たどっているが、「自我」の弱さを仮定している点でフロイトと一見同じ結果に達している
ように見える。しかし、理論では明らかな相違があることは確かである。フロイトにとって
「自我」とは、働きはするが、何の主導性も執行力ももたない使用人のようなものである。
私にとって真の自己とは、感情的な力や建設的なエネルギーや指導力や判断力の源泉である。
しかし、もし真の自己がこれらの潜在力のすべてをもっており、健康な人においてはこれらが
実際に働いているとしても、神経症に関する限り、私の立場とフロイトの立場との間にどれほど
大きな差異があろうか。一方は、神経症の過程によって自己が弱められ、麻痺され、「見えなく
なっている」のだと言い、他方は、自我は生まれつき建設的な力をもっていないのだと言って
みたところで、実際上はその二つは同じことではなかろうか。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
579 ◆4otEyhoCdw :2013/11/03(日) 17:33:12.13 ID:tPTlGkf0
 
/// 自己疎外 71 ///////////

 たいていの分析の最初の段階を見ている限りでは、われわれはこの問いに肯定的な答えを
しなければならないだろう。その段階では、真の自己の非常に小さい部分しか働いていない
ように見える。われわれはある種の感情や信念がほんとうのものであるという可能性は認める。
また、自分自身を発達させたいという神経症者の欲動には、外に目立った華やかな要素の
ほかに、純粋な要素も含まれているということ、彼は知的に支配したいという欲求のほかに、
自分についての真実に関心をもっているということも推測できる――しかし、それはなお
推測にとどまっている。

///// アカデミア出版会 ///
580 ◆4otEyhoCdw :2013/11/03(日) 18:52:59.71 ID:tPTlGkf0
 
/// 自己疎外 72 ///////////

 しかし、分析を進めていくうちに、この姿は急激に変化する。誇りの体系にメスを入れて
いくにつれ、患者はそれまで自動的にとっていた防衛姿勢をやめ、自分自身についての真実に
興味をもつようになる。彼はこれまでに述べてきた意味で自分自身に対する責任をとり、
決定を下し、自分の感情をもち、自分自身の信念を発達させ始める。既に見たように、誇りの
体系によって奪われていた機能はすべて真の自己の力に復帰すると共に、しだいに自発性を
回復してくる。要因の再配置が行なわれる。そして、この過程において真の自己はその建設的な
力を携えて、今までよりもいっそう強力な味方となるということが分ってくる。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
581 ◆4otEyhoCdw :2013/11/03(日) 20:21:13.36 ID:tPTlGkf0
 
/// 自己疎外 73 ///////////

 この治療過程にとって必要な個々の段階については、もっと後で論じよう。ここではただ
こうした治療過程が起こるという事実を示すにとどめた。もしこの事実を示さなければ、
自己疎外についてのこの議論は、真の自己についてあまりに否定的な印象を与え、つまり、
真の自己は、取り戻したいが、永久につかまらない幽霊であるかのような印象を与えることに
なろう。われわれは、分析のもっと後の段階をよく知って初めて、真の自己が潜在的な力を
もっているという主張が、単なる憶測ではないことを認識できる。建設的な分析のような
有利な条件の下では、真の自己は再び生き生きとした力となることができる。

///////// 対馬忠監修 ///
582 ◆4otEyhoCdw :2013/11/03(日) 22:01:34.08 ID:tPTlGkf0
 
/// 自己疎外 74 ///////////

 こうしたことが実際に起こる可能性があるからこそ、われわれの治療は症状を軽くする
だけにとどまらず、個人の人間的成長を助けるという希望がもてるのである。また、こうした
現実の可能性を見通してこそ、前章で述べたように、偽りの自己と真の自己との関係は、
二つの敵対する力の間の葛藤関係であることが理解できる。この葛藤は真の自己が再び活発
になり、人があえて闘いの危険を冒そうと思うようになった時、初めて公然とした闘いとなる
ことができる。そのような時がくるまでは、人はただ一つのこと、つまり偽りの解決法を
見つけて、葛藤のもつ破壊的な力から身を守ることしかできないのである。そのことについては、
次章以下で論じることにしよう。

・・・・

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
583 ◆4otEyhoCdw :2013/11/04(月) 06:42:34.25 ID:4b/p2LUB
 
/////// Neurosis And Human Growth ///

[Neurosis And Human Growth: The Struggle Toward Self-Realization]
 by Karen Horney, Norton 1950, Heather Henderson (Narrator)

Audio CD
http://www.goodreads.com/book/show/11023838-neurosis-and-human-growth

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http://www.amazon.com/Neurosis-Human-Growth-Struggle-Self-Realization/dp/1455109304/
http://www.goodreads.com/book/show/11084196-neurosis-and-human-growth

/// KAREN HORNEY ////////////
584 ◆4otEyhoCdw :2013/11/04(月) 09:01:57.15 ID:4b/p2LUB
 
/// 緊張緩和の一般的手段 1 ///////////

カレン・ホーナイ(Karen Horney)著
原著:Neurosis And Human Growth: The Struggle Toward Self-Realization 1950年発行
邦訳:『自己実現の闘い――神経症と人間的成長――』対馬忠監修
藤沢みほ子、対馬ユキ子訳、アカデミア出版会1986年10月発行 より

・・・・

第7章 緊張緩和の一般的手段

 以上に述べてきたすべての過程は、心を引き裂くような葛藤、耐えられないほどの緊張、
潜在的に恐怖に満ちた心の状態をつくり出す。このような状態では、いかなる人も十分に
機能することも、さらには、生きることさえもできなくなる。そこで、人はこれらの問題を
解決するために、自動的に、葛藤を除去し、緊張を和らげ、恐怖を静める試みをしなければ
ならず、実際にそうすることになる。

///// アカデミア出版会 ///
585 ◆4otEyhoCdw :2013/11/04(月) 10:02:03.85 ID:4b/p2LUB
 
/// 緊張緩和の一般的手段 2 ///////////

ここでは、自己理想化過程において働くのと同じ統合力が作用し始める。自己理想化過程は、
それ自体が最も大胆で過激な神経症的解決の試みであって、すべての葛藤やその結果起こる
障害を超越することによって、それらを取り除こうとするものである。しかし、こうした
努力と、これから述べられる試みとの間には、一つの違いがあるが、われわれはこの区別を
正確に規定することはできない。というのは、それは質的な相違ではなくて、「より多く」
とか「より少なく」とかいった量的な違いだからである。栄光の追求も、同じく強制的な
内的要請から生じているが、より創造的な過程である。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
586 ◆4otEyhoCdw :2013/11/04(月) 11:14:19.67 ID:4b/p2LUB
 
/// 緊張緩和の一般的手段 3 ///////////

結果においては破壊的であるが、それにもかかわらず、それは自己の狭い限界を超えて
拡大したいという人間の最善の欲望から発している。これと健康な人の努力との相違は、
結局は、栄光の追求が途方もない自己中心性をもっている点にある。栄光の追求による
解決と次に述べる解決との相違について言えば、栄光の追求は空想力の枯渇によって生じる
のではない。そこでは空想力は働き続けている。しかし、それは心の状態を損なう方向に
働き続けるのである。こうした心の状態は、人が初めて太陽に向かって飛翔した時から
既に危険性をはらんでいたが、今では(既に述べたような葛藤や緊張の心を引き裂くような
衝撃のもとで)精神的な破滅の危険が目前に追っている。

///////// 対馬忠監修 ///
587 ◆4otEyhoCdw :2013/11/04(月) 12:26:11.00 ID:4b/p2LUB
 
/// 緊張緩和の一般的手段 4 ///////////

 解決の新しい試みを述べるに先立って、緊張を和らげるためにいつも働いているいくつかの
方法をよく知っておかねばならない。それらは本書においても、私の以前の著作のなかでも
論じられており、次の各章でも要約されるだろうから、ここではそれらを簡単に枚挙するだけで
十分であろう。
 この観点から見る時、自己疎外は緊張緩和の一つの方法であり、しかもおそらく最も重要な
ものである。われわれは自己疎外がどのような理由で生じ、強化されるかを既に論じた。
繰り返して言えば、自己疎外は、一つには神経症者が強迫的な力によって駆り立てられることの
単なる結果であり、一つには、真の自己から逃れ、それに反抗する積極的な動きから生じる。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
588 ◆4otEyhoCdw :2013/11/04(月) 14:48:29.64 ID:4b/p2LUB
 
/// 緊張緩和の一般的手段 5 ///////////

この文脈でさらに付け加えねばならないのは、彼が内心の闘いを避け、心の緊張を最小限に
とどめるために、真の自己を拒否しようとするはっきりとした関心をもっている点である。
そこに働く原理は、内的葛藤を解決する試みのすべてに作用する原理と同じものである。
心の内外のどんな葛藤も、もしその一面が抑圧され、他の面が支配的になってくると、外から
見えなくなり、そして、実際にも(人為的にではあるが)減少することになる。このことを、
相反する欲求や関心をもつ二人の人間または二つの集団について言えぼ、そのどちらか一方の
個人ないし集団が制圧されると、あらわな葛藤は消える。威嚇する父親と威圧される子ども
との間には目に見える葛藤はない。同じことが内的葛藤にも当てはまる。

///// 神経症と人間的成長 ///
589 ◆4otEyhoCdw :2013/11/04(月) 21:36:02.54 ID:4b/p2LUB
 
/// 緊張緩和の一般的手段 6 ///////////

われわれは他人に対する敵意と、好かれたいという欲求との間に激しい葛藤をもつことが
ある。しかし、敵意と好かれたい欲求とのどちらか一方が抑えられると、対人関係は単一化
される傾向がある。これと同じように、もし自分の真の自己が追放されるなら、真の自己と
偽りの自己との間の葛藤が意識から消えるだけでなく、力の配分も非常に変わるので、実際に
葛藤もなくなる。もちろん、こうした緊張緩和は、誇りの体系の自律性が増すという代価を
支払ってのみ達成されることができるものである。

///// 自己実現の闘い ///
590 ◆4otEyhoCdw :2013/11/04(月) 23:00:37.03 ID:4b/p2LUB
 
/// 緊張緩和の一般的手段 7 ///////////

 真の自己を拒否することは、自己防衛のために命令されたものであることが、分析の
最終段階になって特に明瞭になる。既に示したように、真の自己が以前より強くなると、
心の内部の闘いが激しくなることが実際に観察できる。自分の心や他人の心のなかにこうした
闘いの激しさを経験した人なら誰でも、真の自己がより早い時期に行動の場から退却するのは、
生き残りたい欲求、葛藤によってずたずたに引き裂かれたくないという願いによって命令された
ものであることが理解できるだろう。

///// 原著 1950年発行 ///
591 ◆4otEyhoCdw :2013/11/05(火) 20:46:22.19 ID:qpmmCqCk
 
/// 緊張緩和の一般的手段 8 ///////////

 この自己防衛過程は、主として患者が問題を曖昧にしようとする気持をもっていることに、
はっきりと現われている。彼は表面的にはどれほど統一されているように見えても、心の底
では混乱している。彼は問題を不明瞭にすることにかけては、実に驚くべき能力をもっている
だけでなく、そういう態度を容易に捨てようとはしない。この曖昧にしようとする関心は、
不正直な人、例えば、自分の正体を隠さればならないスパイや、自分の態度を正直なように
見せねばならない偽善者や、偽りのアリバイをつくらねばならない犯人などでは、意識的な
レベルで働くのであるが、神経症者の場合にも、それは同じような働きをしなければならない
ものであり、実際にそのように働いている。

///// Neurosis and Human Growth ///
592 ◆4otEyhoCdw :2013/11/05(火) 20:57:16.89 ID:qpmmCqCk
 
/// 緊張緩和の一般的手段 9 ///////////

しかし、神経症者は自分でもそれと気づかずに二重生活を送っており、自分が何であり、
何を欲し、感じ、信じているかについての真実を、無意識のうちに曖昧にしなければならない。
彼のもつ自己欺瞞は、すべてこの基本的な自己欺瞞から発している。その力学をはっきり
させると、次のようになる。彼は、自由、独立、愛、善良さ、強さなどの意味について単に
知的に混乱しているだけではない。自分自身に取り組めるようになるまでは、彼はこの混乱を
どうしても維持しようと強い主観的な関心をもっているのである。しかも、彼はこの混乱を、
自分がすべてに透徹した知性をもっているという偽りの誇りをもっているために、覆い隠して
しまうであろう。

///// Karen Horney ///
593 ◆4otEyhoCdw :2013/11/05(火) 21:16:52.94 ID:qpmmCqCk
 
/// 緊張緩和の一般的手段 10 ///////////

 次に重要な緊張緩和の方法は、内的経験の外在化である。繰り返して述べると、これは、
内的過程をそのままの形で経験しないで、それを自己と外界との間に起こったものとして認め、
感じるという意味である。これは心の体系の緊張を緩和するためのかなり過激な方法であり、
そのため、精神は貧しくなり、人間関係における障害が増加するという犠牲が常に支払われる。
私はまず最初に、外在化とは、自分の理想像に合わない欠点や病気の責任をすべて他人に
負わせることによって、理想像を維持する方法であると述べた。次に、それは、自己を破壊する
いろいろな力の存在を否定したり、自己破壊力間の内的な闘いを和らげたりする試みである
ことを見た。そして、「私は自分自身に対してではなく、他人に対して行なっている。その
やり方は正しいのだ」とする能動的な外在化と、「私が他人に敵意をもっているのではなくて、
他人の方が私にいろいろやっているのだ」とする受動的な外在化とを区別した。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
594 ◆4otEyhoCdw :2013/11/05(火) 22:28:15.41 ID:qpmmCqCk
 
/// 緊張緩和の一般的手段 11 ///////////

最後に今、外在化の理解をもう一歩進める。私がこれまでに述べた内的過程のうち、外在化
されないものはほとんどない。例外は、神経症者は自分に同情を感じることが全然できない
時でも、他人には同情を感じることがある。自分自身の心の救済を願う心は強く否定されるが、
それは他人の成長の行き詰まりを目敏く見つけ、時には彼らを助ける驚くべき能力となって
現われる。内的命令の強制に対する反発は、契約や法律や支配力に対する無視となって現われる。
自分自身の傲慢な誇りには気づかないが、他人のなかにそれを見出すと、それを嫌悪する――
あるいは、それに魅了される――こともある。自分の誇りの体系の専制の前では畏縮して
しまいながら、他人のなかにそれを見つけると軽蔑する。自分が自己嫌悪のむごい残忍さを
ごまかして生きているとは気づかずに、人生一般に対して楽観的な態度を発達させ、人生には、
どんな苛酷さ、残忍さ、あるいは死さえもないかのように考えている。

///// アカデミア出版会 ///
595 ◆4otEyhoCdw :2013/11/06(水) 23:05:22.87 ID:z+lQu7eW
 
/// 緊張緩和の一般的手段 12 ///////////

 緊張緩和のもう一つの一般的方法は、神経症者が、あたかもわれわれ人間とは無関係な部分の
集合体であるかのように、ばらばらの仕方で自分を経験する傾向である。それは精神医学の
文献では隔壁づくりまたは精神の断片化として知られているものであり、これは、自分自身が
有機的全体、つまり各部分は全体に関係し、また、あらゆる他の部分と相互に作用するもの
であるという感じをもたないことを単に言い換えたにすぎないように思われる。確かに、疎外され、
分裂した人だけがこのような全体感を欠くことができる。しかし、私がここで強調したいのは、
神経症者がこのようにばらばらであることに積極的な関心を示す点である。彼はある関係が
示されると、それを理性的には把握することができる。しかし、その関係は彼にとっては一つの
驚きであり、心の奥深くまでは浸透せず、すぐに消えてしまうものである。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
596 ◆4otEyhoCdw :2013/11/06(水) 23:20:17.53 ID:z+lQu7eW
 
/// 緊張緩和の一般的手段 13 ///////////

 例えば、彼は無意識的に、因果関係を見ないようにする。すなわち、ある心理的な要因は
他の心理的な要因から結果し、また、他の要因を強化する、ある態度をどうしても維持しなければ
ならないのは、その態度が、ある大切な幻想を守ってくれるからである。ある強迫的傾向は
自分の人間関係や生活一般に影響を与えている、といった関係を見たがらない。彼は最も単純な
因果関係すらも見ないだろう。自分の不満は自分のもつ要求と関係があるとか、どんな神経症的
理由からにせよ、他人をあまりに必要とするため、他人に依存するようになるのだ、とかいった
関連性は彼には不思議なことに思える。自分の朝寝坊は夜更かしと関係があるということも、
彼には驚くべき発見であろう。

///////// 対馬忠監修 ///
597 ◆4otEyhoCdw :2013/11/06(水) 23:47:45.25 ID:z+lQu7eW
 
/// 緊張緩和の一般的手段 14 ///////////

 彼はまた自分のなかに矛盾する価値が同時に存在していることに気づかぬようにすることにも、
同じように強い関心を示す。彼は自分のなかに、互いに矛盾した、いずれも意識的な二つの
価値観を容認し、それをはぐくみさえしていることを、まったく文字通り全然見ようとしない
だろう。例えば、彼は自分が、一方では、聖なるものに価値を置きながら、他方では、自分の
ために他人を利用することに価値を置いていることは矛盾しているという事実や、自分の正直さと、
「どうにかうまくやり過ごしたい」という自分の強い願いとは、相容れないという事実について、
心を悩ましたりはしないだろう。彼は自分自身を吟味しようとする時でも、まるではめ絵遊びの
ばらばらな部分を見ているように、臆病さ、他人への軽蔑、野心、マゾヒズム的な幻想、好かれたい
欲求などを静的な姿でとらえるだけである。個々の断片は正確にとらえても、それらの相互の
関係や過程や動態については何の考慮も払わず、文脈から切り離して見るので、何事も変える
ことはできない。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
598 ◆4otEyhoCdw :2013/11/07(木) 00:04:32.88 ID:ufrqFF5+
 
/// 緊張緩和の一般的手段 15 ///////////

 精神の断片化は、本質的には、崩壊する過程であるが、その働きは、現状を維持して、
神経症的均衡が崩壊しないようにすることにある。神経症者は、心の矛盾に悩むことを
拒否することによって、そこにある葛藤に直面せずに済み、そのため、心の緊張を低く
保っておくことができる。彼は葛藤に対してわずかの興味さえももたないから、葛藤は
彼の意識に上らない遠いところにとどまったままである。

///// 神経症と人間的成長 ///
599 ◆4otEyhoCdw :2013/11/07(木) 20:37:51.86 ID:ufrqFF5+
 
/// 緊張緩和の一般的手段 16 ///////////

 これと同じ効果は、もちろん原因と結果を切り離す仕方によっても得られる。原因と結果を
つなぐ橋を断ち切ることによって、彼は心内のいくつかの力のもつ強さや関連性に気づかずに
済む。ある重要な、よくある引用例では、この人は一連の復讐的衝動を時々強く経験して
いたが、その復讐的衝動の動因力になっているのは、自分の誇りが傷つけられたことと、その
傷ついた誇りを回復したいという欲求とであることを、理性の上でさえ理解することがむずかし
かった。そしてこの関係がはっきり分っても、それはやはり何の意味ももたないままである。

///// 自己実現の闘い ///
600 ◆4otEyhoCdw :2013/11/07(木) 20:45:38.39 ID:ufrqFF5+
 
/// 緊張緩和の一般的手段 17 ///////////

また、彼は自分が厳しい自己叱責を行なっていることをかなりはっきりと感じており、このような
破壊的な自己軽蔑が表現されるのは、自分が自らの誇りの幻想的な命令にそえないためである
ことを、多くの詳しい例を見て知っていただろう。しかしここでもまた、彼の心は無意識の
うちにこの因果関係を分離する。その結果、自分の誇りの強さも、誇りと自己軽蔑の関係も、
せいぜいのところ、漠然とした理論的考察にとどまり――そのため、彼は自分の誇りに取り組む
必要がなくなる。誇りは依然として勢力を保ち、何の葛藤も現われないので、緊張は高まらず、
彼は見せかけの統一感を保つことができる。

///// 原著 1950年発行 ///
601 ◆4otEyhoCdw :2013/11/07(木) 21:06:45.00 ID:ufrqFF5+
 
/// 緊張緩和の一般的手段 18 ///////////

 以上、心の見せかけの平静さを保つための試みとして三つのものを述べたが、それらに
共通するものとして、神経症的構造を破壊する可能性のある要素を、取り除こうとする性質
がある。すなわち、真の自己の除去、あらゆる種類の内的経験の除去、(もし気づけば)
均衡を破壊するような関係の除去である。今一つの手段である自動的統制にも部分的には
これと同じ傾向がある。その主な機能は感情を制限することである。

///// Neurosis and Human Growth ///
602 ◆4otEyhoCdw :2013/11/07(木) 22:04:23.08 ID:ufrqFF5+
 
/// 緊張緩和の一般的手段 19 ///////////

今にもばらばらになりそうな構造においては、感情はわれわれの内部の、言わば抑制の
きかない基本的な力であるから、危険の根源である。私がここで語っているのは、衝動的
行動や怒りや興奮の爆発を、もし抑えようと思えば、抑えることができる意識的な自己統制の
ことではない。自動的統制体系は、単に衝動による行動や感情の表現を抑制するだけでなく、
衝動や感情そのものを抑える。それはちょうど盗難や火災の自動警報器のように働き、
望ましくない感情が起こった時に(恐怖の)警報を鳴らすのである。

///// Karen Horney ///
603 ◆4otEyhoCdw :2013/11/07(木) 22:26:42.27 ID:ufrqFF5+
 
/// 緊張緩和の一般的手段 20 ///////////

 しかし、この試みはこれまでの他の試みとは対照的に、その名の示すように、やはり
統制体系である。もし自己疎外や精神の断片化のために、有機的な統一感情が欠けている
とすれば、われわれ自身の矛盾した諸部分を統合するために何らかの人為的な統制体系が
必要なのである。
 このような自動的統制は、恐れ、心の傷、怒り、喜び、愛情、興奮など、あらゆる衝動や
感情にまで及ぶことができる。広範な統制体系に対応する身体的な表現は、筋肉硬直であって、
便秘、歩き方、姿勢、表情の硬さ、呼吸困難などに現われる。統制そのものに対してどのような
意識的な態度をとるかは人によって様々である。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///
604 ◆4otEyhoCdw :2013/11/08(金) 23:25:30.40 ID:4AzMOn71
 
/// 緊張緩和の一般的手段 21 ///////////

ある人々はかなり生気があって、統制が加えられると苛立だしく思い、少なくとも時々は、
はめをはずし、心から笑い、恋愛し、何かに熱中してわれを忘れることができればどんなに
よいだろうと心から思う。また、他の人々は、いろいろな仕方で示される、多少ともあからさまな
自尊心によって、統制をいっそう強めている。それは威厳、平静、禁欲主義、仮面をかぶっている、
ポーカーフェイスである、「現実的だ」、「感傷的でない」、「感情を外に表わさない」という
ように呼ばれるだろう。
 他の型の神経症では、統制がもっと選択的な仕方で働く。この場合、ある感情は統制されずに、
奨励されることさえある。そこで、例えば、自己縮小的傾向の強い人では、愛やみじめさの感情が
誇張される傾向があり、統制は、主として、疑惑、怒り、軽蔑、報復といった敵意の感情の
全領域に加えられる。

///// アカデミア出版会 ///
605 ◆4otEyhoCdw :2013/11/08(金) 23:36:00.77 ID:4AzMOn71
 
/// 緊張緩和の一般的手段 22 ///////////

 もちろん、感情は、他の多くの要因、例えば、自己疎外や、感情を禁じる誇りや、自己欲求阻止
などのために、平板になったり、抑制されたりするだろう。しかし、感情を監視する統制体系は、
これらの要因よりさらに強く働いており、このことは、多くの場合に、統制が弱まりそうだと
予想するだけで恐怖の反応が起こることを見てもよく分る。例えば、眠りに落ちる時、麻酔を
かけられる時、酒に酔う時、寝椅子に横になって自由連想をする時、スキーで丘を自由に滑り
降りる時などに恐怖を感じる。

///// 邦訳 1986年10月発行 ///
606 ◆4otEyhoCdw :2013/11/08(金) 23:47:36.64 ID:4AzMOn71
 
/// 緊張緩和の一般的手段 23 ///////////

感情――同情、恐怖、暴力のいずれであっても――が統制体系に浸透してくると、恐慌状態が
引き起こされるだろう。これらの感情は、神経症的構造に特有なあるものを危うくするもの
であるから、人はこれらの感情を恐れ、拒否しようとして、このような恐慌状態を引き起こす
のであろう。しかし、単に自分の統制体系がうまく働いていないと気づくだけで、恐慌状態に
なることもある。このことが分析されれば、恐慌状態はおさまり、その時初めて、それぞれの
感情や、それらの感情に対する患者の態度について研究が可能になる。

///////// 対馬忠監修 ///
607 ◆4otEyhoCdw :2013/11/08(金) 23:57:32.06 ID:4AzMOn71
 
/// 緊張緩和の一般的手段 24 ///////////

 ここで最後に挙げる緊張緩和の一般的手段は、精神の至上性を神経症者が信じていること
である。感情は――気まぐれであるから――統制されねばならぬ危険なものであるが、それに
引き換え、精神――空想や理性――は小瓶から現われ出た魔王のように拡大される。こうして
実際に、もう一つの二元論が創造される。この二元論はもはや精神と感情ではなく、精神対
感情である。精神と自己ではなく、精神対自己である。しかし、この断片化作用も、他の
断片化作用と同じように、緊張を緩和し、葛藤を隠し、見せかけの統一を確立するのに役立つ。
それは三つの方法で行なわれる。

///// 藤沢みほ子、対馬ユキ子訳 ///
608 ◆4otEyhoCdw :2013/11/09(土) 07:46:38.80 ID:UFjGa+qz
 
/// 緊張緩和の一般的手段 25 ///////////

 第一に、精神は自己の傍観者になることができる。鈴木大拙が言うように、「知性は結局は
傍観者であって、知性が何かの働きをする時、それは良かれ悪しかれ、雇われた者として
働くのである」。神経症者の場合には、精神は決して自分のことを心配してくれる親切な
傍観者ではない。精神は多少とも彼自身に興味をもち、多少ともサディズム的であるが、
まるで偶然落ち合った見知らぬ人を眺めているように、常に彼とは隔絶した存在である。
時には、この種の自己観察がまったく機械的、表面的なこともある。その場合、患者は出来事や
活動や症状の増減については多少とも正確に報告するが、こうした出来事が自分にどういう
意味をもつか、また、それに対して自分がどういう個人的反応をするかには触れない。

///// 神経症と人間的成長 ///
609 ◆4otEyhoCdw :2013/11/09(土) 08:02:19.56 ID:UFjGa+qz
 
/// 緊張緩和の一般的手段 26 ///////////

彼はまた、自分の精神過程に強い興味をもっており、あるいは、分析期間中に、興味を
もつようになることがある。しかし、彼のそうした興味は、むしろ昆虫学者が昆虫の働きに
魅せられる時のように、自分の観察の機敏さや自分の精神過程の働きの仕組みを眺める
喜びなのである。分析家は、患者のこの熱心さを見て、自己に対して真に興味をもって
いるものと誤解して、同じように喜んでしまうことがある。しかし、しばらく経った後で
初めて、分析家は、患者が、自分の発見が自分の人生に対してどんな意味をもつかに全然
関心をもっていないことに気づく。

///// 自己実現の闘い ///
610 ◆4otEyhoCdw :2013/11/09(土) 08:20:55.10 ID:UFjGa+qz
 
/// 緊張緩和の一般的手段 27 ///////////

 自己から切り離されたこのような関心は、また、公然とあら探しをしたり、陽気で、
サディズム的なものになることもある。こうした場合には、この関心は能動的と受動的との
両方の仕方で外在化されることが多い。彼は言わば、自分自身に背を向けながら、他人や
他人の問題を――やはり同じく切り離された、無関係な仕方で――観察するのにきわめて
機敏である。あるいはまた、自分が他人から嫌悪と喜びの入り混じった目で観察されている
ように感じる場合もある。この感情は、偏執狂的な状態にある人に特に目立って見られるが、
決してそういう人だけに限られるわけではない。

///// 原著 1950年発行 ///
611 ◆4otEyhoCdw :2013/11/09(土) 16:55:02.40 ID:UFjGa+qz
 
/// 緊張緩和の一般的手段 28 ///////////

 自分自身の傍観者であるということがどのような性質のものであろうと、彼はもはや
内的葛藤には参加せず、自分の内的な問題から自分自身を切り離してしまっている。「彼」
とは、観察している彼の精神であり、そのようなものとして統一感をもっているものなのだ。
つまり、その時彼のなかで生き生きと感じる唯一の部分は彼の脳なのである。

///// Neurosis and Human Growth ///
612 ◆4otEyhoCdw :2013/11/09(土) 17:13:54.80 ID:UFjGa+qz
 
/// 緊張緩和の一般的手段 29 ///////////

 第二に、精神はまた調整者としても働く。この機能についてはわれわれは既によく知って
いる。われわれは、空想が、理想像を創造すること自体にも、また、こちらを消し、あちらに
スポットライトを当て、欲求を徳に変え、可能性を現実性に変えるという誇りの絶えざる
働きにも作用していることを見てきた。同じように、理性も、合理化過程においで誇りの
ために役立つことができる。この時、どんなものも、道理にかなった、もっともらしい、
合理的なものに見えたり、感じられたりする。――神経症者が無意識のうちに行動の前提
としているものから見れば、確かにそうである。

///// Karen Horney ///
613 ◆4otEyhoCdw
 
/// 緊張緩和の一般的手段 30 ///////////

 精神のこの調整機能はまた、何らかの自己疑惑を取り除くことにも作用し、構造全体が
不安定になるにつれて、いっそうこの働きが必典となってくる。そこにあるのは、患者の
言葉を引用して言えば、「狂信的な論理」、つまり、ふつう絶対に誤りがないという揺るぎない
信念にともなう論理である。「私の論理の方がまさっている。なぜなら、私の論理こそ唯一の
論理なのであるから。同意しない人は愚か者だ。」このような態度は、対人関係においては、
傲慢な独善に見える。

///// The Struggle Toward Self-Realization ///