32 :
ニーチェ:
読者の皆さんも「自分も思い当たるな」とか「ああ、あいつのことだな」とすぐにイメー
ジできるのではないでしょうか。
仏教を開いたブッダはそういったものを警戒して、フラフラと旅に出て野外で生活するこ
とを選びました。ブッダは食事にあまりお金をかけませんでした。お酒にも用心しました。
欲望も警戒しました。また、ブッダは自分にも他人にも決して気づかいしなかった。
要するにブッダは、いろいろな想念に注意していたわけです。
ブッダは心を平静にする、または晴れやかにする想念だけを求めました。
ブッダは、「善意」とは、人間の健康をよくするものだと考えたのです。そして神に祈る
ことや、欲望を抑え込むことを教えの中から取り除きました。
仏教では、強い命令や断定を下したり、教えを強制的に受け入れさせることはありませ
ん。なにしろ、一度出家して仏の道に入った人でも「還俗」といって再び一般の社会に戻る
ことができるくらいですから。
ブッダが心配していたことは、祈りや禁欲、強制や命令といったものが、人間の感覚ばか
りを敏感にするということでした。
仏教徒はたとえ考え方が違う人がいても攻撃しようとは思いません。ブッダは恨みつらみ
による復讐の感情を戒めたのです。
「敵対によって敵対は終わらず」とは、ブッダが残した感動的な言葉です。
ブッダの言うことはもっともなこと。キリスト教の土台となっている「恨み」や「復讐」
といった考えは、健康的なものではありません。
今の世の中では、「客観性」という言葉はよい意味で使われ「利己主義」という言葉は悪
い意味で使われています。
しかし、「客観性」があまりにも大きくなってしまい、「個人的なものの味方」が弱くなっ
てしまうのは問題です。また「利己主義」が否定され続けると、人間はそのうち精神的に
退屈になってくるものです。
こういった問題に対して、ブッダは「利己主義は人間の義務である」と説きました。要す
るに、問題を個人に引き寄せて考えよう、と言ったわけです。
あの有名なソクラテスも、実は同じような考え方をしています。ソクラテスは人間の持っ
ている利己主義を道徳へと高めようとした哲学者なのです。
ニーチェ著アンチキリストより