29 :
聖徳太子:
「妙法蓮華経」という経典は、思うに、さとりに向かうあらゆる善をおさめとって、これをさ
とりを得るための一因となす実り豊かな田地であり、限りある寿命を永遠の生命に転ずる不死の
妙薬である。
釈迦如来がこの人間世界に出現された意義を述べるならば、まさしく、人びとにこの「妙法蓮
華経」を説いて、あらゆる善がさとりの一因に帰するという道理を身につけ、無二の大いなる仏
果を得させようと願われたからである。
しかしながら、人びとが過去世から積んできた善は微々たるものであり、かれらの心は無知で
あり、能力も愚かで劣り、五つのけがれがすぐれた教えを信ずる人となることを妨げ、六つの心
の覆いが智慧の眼を覆っているから、これらの人びとは、直接、一乗教の説くところの因果の大
理を聞く能力がないのである。それゆえに、釈迦如来は時宣にかなって、まず最初に、鹿野苑
(ミガダーヤ。現在のサールナート)において、声聞・縁覚・菩薩の三乗の教えをそれぞれ説き、人
びとの求めに応じた教えによってかれらにさとりを得させたのである。それ以来、如来は無相の
理を説いて、すべての人びとがこれを修めるようにすすめるとともに、ときにはまた中道を説
いて、それぞれの人を指導したのであるが、それでもなお各自の能力を考えて、三乗の教えによ
って仏果を得ることを説いて、人びとを仏道に入れるべく養育してこられたのである。
その結果、人びとは年月を経過するにしたがって、仏の教えを受けて修行したから、しだいに
かれらの了解が深まって、如来が王舎城(ラージャグリハ。釈尊当時のマガダ国の首都)で説法した
もうたとき、一大乗の教えを聞くに適する心を起すにいたり、ここではじめて、如来がこの世
に出現したもうた大いなるみこころにかなうこととなった。そこで、如来はあらゆる徳性を具え
た身体を動かし、みずから口を開いて、あらゆる善がさとりの一果に帰するという理<万善同帰
の理>を説き明かし、もって無二の大いなる仏果<莫ニの大果>を人びとに体得させられたのであ
る。
30 :
聖徳太子:2012/09/11(火) 21:45:13.03 ID:???
「妙法」というのは、原語で薩達磨(サッダルマ)という。そのうち、「妙」というのは、粗雑を
絶ったという意味のことばであり、「法」というのは、この経に説くところの、あらゆる善が一
因となってさとりの一果を得る教えのことである。すなわち、この経に説く一因によって一果を
得るという一乗の教えは、かつてその昔に、さとりの因と果に関して粗雑なものを説いたところ
の、声聞・縁覚・菩薩の三乗の教えに比べて、はるかに超えてすぐれているから、「妙」と呼ぶ
のである。
「蓮華」というのは、原語で分?利(プンダリーカ)という。この花の性質は、花と実が同時に
実ることである。そのように、この経も原因と結果が同時に成立することを明らかにしており、
それは蓮の花と同じ意味をもっているから、蓮華が譬えに用いられているのである。
「経」というのは聖教の一般的な名称であり、仏のことばをたたえる呼称である。しかしながら、
「経」というのは漢語であって、原語は修多羅(スートラ)という。「経」の意味は、「法」または
「常」という。聖人の教えというものは、時代や民俗がどんなに移り変わっても、また賢人がつ
ぎつぎと世に出ても、その教えの是非を改めることができないから、、「常」といい、人びとにと
って守るべき軌範となるものであるから「法」という。
ところで、経典の題目というものは、名づけられた理由が必ずしも同じではない。ある経典は
ただ単に教理を題名としたり、また単に譬えを題名としたりしている。ある経典は教理と譬えを
ならべて題名とするものもあり、ただ単に人名を題名とするものもあり、また人名と教理をなら
べて題名としているものもある。いま、この経は上に「妙法」といって「法」をとり挙げ、下に
「蓮華」といって、「譬え」をとり挙げている。そして、「法」と「譬え」を二つならべて題名と
するから「妙法蓮華」というのである。この題名の原語を完全に記すならば、薩達磨分?利修多
羅(サッダルマ・プンダリーカ・スートラ)というべきである。
聖徳太子著 法華義琉より