1 :
ムラのしきたり :
2010/09/11(土) 21:23:33 ID:??? 原始共産主義=ムラ社会は、個人より集団が優先し、 擬似家族共同体の原理で動いている。日本では、この閉鎖的な ムラ社会の原理が社会全体に未だに色濃く残っている。 このムラ社会、タコツボ社会の伝統は、鎖国、幕藩体制という 閉鎖型封建社会を三百年近く続けた徳川時代に日本人の精神構造に 深く刻まれたものであろう。 しかし、人間、社会の発展、成長では、自我の形成(個の確立)を経て、 個人主義の近代社会、最後は市民社会(個人が共存を目指す社会)へ 移行するのが正常なのである。 これは会社などでも同じだ。小さな家族経営の会社、組織などでは、 公私混同、家族主義などもそれほど問題にはならないが、 会社や組織の規模が大きくなるにつれ、もっと公式の規則、透明性、 責任の明確化などが必要になるのである。 ムラ社会的原理には、責任を明確にせず、情緒的連帯に浸って、 集団に守られ、相互に甘えもたれ合うという、伝統的に日本人にとっては 捨てがたい役割があるが、逆に、異質なものを排除する排他性を持ち、 透明性を欠き、個が確立せず、国際化、情報化、近代化とは合致しないのである。 日本がより国際的にも発展、参加していくためには、日本人、日本社会が、 ムラ社会要素より脱皮、成長して、近代市民社会をもっと広げていく 必要があるのではないか?
2 :
ムラのしきたり :2010/09/11(土) 21:24:25 ID:???
★妻は“不貞婦人会”に強制加入。拒めば“村八分”の恐怖が…
岩手・多田昌義さん(仮名・34歳)郵便局嘱託
「田舎は怖いです。正直、1秒でも早く抜け出したいですね」
そう呟く多田さんの言葉に耳を疑った。なぜなら1年前、SPA!4/28号の記事
「年収100万円ライフ充実術」でUターン転職の成功例として取材したときには、
「田舎は物価も安いし空気もうまい。週末にはカヌーを楽しんでます」と満面の笑みだったからだ。
いったいこの1年の間に何があったのか?
「近隣住民とのいざこざがきっかけで、東京から一緒にやってきた妻がノイローゼ気味になってしまって…」
諸悪の根源は、地域住民たちによる婦人会の存在だという。表向きは「子供のために地域の治安を守ろう」
というものだが、その実態とは…。
「毎日、会合と称して集まっては、『出会い系サイトで誰々と会ったとかエッチした』
なんて話をしているようで。そんなところに行くなって妻に言っても、『参加しないとありもしない噂を立てられるから…』と」
治安を守るはずの婦人会が、ほとんど不貞妻たちのハッテン場。心配しつつも「ウチの嫁にかぎって…」
と妻を信頼していた多田さんであったが、昨年末に計画されたあるイベントがきっかけで、訣別を決意する。
「婦人会を仕切る会長の亭主が運送会社の社長なんですが、年末の社員旅行になぜか婦人会のメンバーも
強制参加させられるというんです。おかしいでしょ? “人の妻”ですよ? オレも行くって言ったら、
『婦人会の懇談も兼ねての伝統行事だからムリみたい。社長にも逆らえないし』って。
さすがにそんな慰安婦みたいなマネはさせられませんから、断りましたよ」
無事、婦人会を抜け出したはいいが、目を合わせれば陰口を叩かれる毎日。
奥さんは外出するのが怖くなり、家にこもりがちになったという。
夫妻への同情の念は尽きないが、田舎のルールにはかくも理不尽なものが存在するのだ。
http://www.zakzak.co.jp/zakspa/news/20100909/zsp1009091238002-n1.htm
4 :
名無しさんの主張 :2010/09/11(土) 21:50:12 ID:DC2hIyyj
日本人は扶養家族 仏教を食わさなくちゃいけないからなー
★【愛媛県警】告発警官に報復人事【ムラ社会】 2005-01-27
愛媛県警は27日、県警各署の捜査費不正支出を内部告発した生活安全部地域課
鉄道警察隊の仙波敏郎さん(55)に対し、同日付で地域課通信指令室企画主任への
異動を発令した。(産経新聞)
■これは警察という組織が共同体になっていると言う証左です。(本来は機能集団)
共同体、要するに「ムラ」社会になっていると言うことです。
■「ムラ」では、ムラの掟が重視されます。
掟に逆らった奴はもうお仕舞い。
生きていけません。
村八分にされます。
袋叩きです。
■共同体の特徴は二重規範にあります。
内の規範と外の規範がある。
■共同体において、より厳格なのは内の規範か、それとも外の規範か。
内の規範です。
ムラの掟のほうです。
■外の規範を守るために内の規範を破った場合どうなるか。
内の規範のほうが厳格なわけですから、この場合、ムラ内部において厳しく罰せられます。
■今回、内部告発をした愛媛県警の警察官が報復人事を受けました。
警察というムラ社会の掟を、外の規範を守るために破ったからです。
外の規範を守るために捜査費不正支出を内部告発をした。
ところが内の規範は「内部告発をしたらダメ」というものであった。
村八分です。
■これは警察に限ったことではありません。
他の役所でもそうです。
役所だけではない。
会社もそう。
日本が行き詰っている原因の一つはここにあると言ってもいいでしょう。
http://asatteblog.exblog.jp/1597353
6 :
名無しさんの主張 :2010/09/13(月) 20:34:18 ID:cBeXGBrA
マスコミが大衆をコントロールしている。 マスコミの影響を受けずにいられるものなど、 この世にいない。 みな、マスコミの思い通りに動かされる。 大衆は無力だ。
★村社会とは何か・・・「クローニズム(Cronyism:政権の取り巻きの重視)」・「ネポティズム(Nepotism:縁故主義)」万能の退嬰社会・・・
日本社会は大変なインフォーマル社会であり、村社会であるという。しかし、村社会の定義や
特徴についての考察を余り目にしない。ちなみに広辞苑にも「村社会」はなかった。
そこで筆者は、村社会の特徴についてランダムに箇条書きにしたうえで更に「村社会」を
定義してみようと思う。
村社会の構成員の特徴
1.お上の下に自分たちの社会があると信じている。
2.自分で考えた価値観を持てず、所属する「村」の決定した価値観に従う。
3.自らの判断を偽り、自己主張を慎むように装う。自ら考えず、目立たず、物言わずを信条とする。
4.「村」の掟やしきたりにのみに従って全ての問題の解決を図ろうとする。
5.自分たちとは異なる様々な観点を認めずに否定的に関わる。すなわち、異質をつねに排除しようとする。
6.自分の所属する村のみに通用する物差しがあり外部の物差しを認めない。
7.遠くにいる人間とのコミュニケーションが苦手である。
8.議論を嫌い陰口を好む。
9.強迫的横並び志向を有する。
村社会の構造的特徴
1.数の暴力によるボス支配と親分子分のヒエラルヒーが存在する。
2.出る杭は打たれ、常に足を引っ張り合い、互いに相手を自分のレベルにまで下げようとする。
3.排他主義に基づく「井の中の蛙」的仲間意識が存在し、自分の理解できない『他者』の存在を許さない。
4.「優れたもの」「才能がある者」に対する妬み・嫉み・ひがみなどの劣情を組織し排撃する。
逆に、「劣ったもの」と規定したものに対しては、陰湿且つ徹底的に圧迫を加える。
5.透明性にかけ、談合や地縁・血縁・コネ・情実に最高の価値を見いだす。
つまり、村社会とは、
不透明・内向型社会、異質排撃型社会、相互監視密告型社会、劣情組織化社会、固定的利益連鎖
至上主義社会、身分的上下関係墨守社会であり、さらに、論理否定型社会、技術革新拒否型社会、
学習否定型社会であって、一口で言えば陋習万能の退嬰的社会であると定義される。
http://drhnakai.hp.infoseek.co.jp/sub2-35.html
★週刊医学界新聞詳細 黒川清氏(東海大学医学部長)医学生・研修医に語る 1/2
http://www.igaku-shoin.co.jp/nwsppr/n2001dir/n2429dir/n2429_06.htm 【Q2】医療への社会の要求の高まりは感じます。なぜ日本の医療界は十分な改革に
取り組めないのですか?
--------------------------------------------------------------------------------
黒川 そういう意味では,社会の中にフラストレーションがたまっています。「医師の教育,質の管理は
どうなっているんだ?」と厳しい問いが突きつけられ,変わらなくてはいけないのに変われていないのが
現状です。これは日本固有の文化や歴史に縛られていることが原因になっています。
日本人の精神構造は徳川時代にできあがっているのですが,世界が広がった17世紀からのこの約260年にも
及ぶ時代に「外」に出られない「縦のムラ社会」ができあがってしまいました。さらに,明治維新に始まる
日本の高等教育では,「お上」の言うことを聞いて,しかも国の政策に合うような人材を養成できる教育を
めざし,ドイツ式の教育システムを導入しました。そのやり方が明治時代から今日に至るまで続いているのです。
その特徴は,教授が強大な権限を持つ縦型の階層的なシステム(講座制)にあり,そしてリサーチ
オリエンテッドです。不思議なことに,研究が第一で,次が診療,教育となっており,さらに,
明治時代からいまに至るまで大学のヒエラルキーも決まっていて,東大が一番だとみんな思っています。
そんなドイツ式のシステムは明治維新以降,日本が急速に発展するために実にうまく機能しました。
しかし,先進国の仲間入りをし,G7の一角を占めるようになったこの時代においては,すでに完全な
制度疲労を起こしていて,さまざまな悪弊を産み出しています。ところが,その内側にいる日本人の
頭の中は,あいも変わらず,明治以来の講座制と日本特有のムラ社会に規定されたままで「変わらなければ
ならないのに変われない」というジレンマを生み出しているのです。日本社会すべてに共通する問題です。
自分や家族が病気になった時に,誰に診てもらいたいですか? 本当はそれが一番大切なはずです。
しかし,そのような医師を養成するように医学部が自己変革できていません。
★週刊医学界新聞詳細 黒川清氏(東海大学医学部長)医学生・研修医に語る 2 【Q3】どうすれば日本の医療を変えられるのでしょうか? -------------------------------------------------------------------------------- 黒川 医療者がもっと「他流試合」をすることが必要です。医局に代表されるムラの中で安住している以上, 「プロ」にはなれませんし,医療の質はよくなりません。 日本では,自分が卒業した大学の附属病院でほとんどの研修医が研修を行なう。その後もその病院に残り, 教授にお仕えして,関連病院へ出たり入ったりしながらキャリアを積んでいきます。また,施設内でも 第1内科に入った人は第2内科にはいけないなど,つまり,「混ざる」こと,「他流試合」を極力避ける 仕組みになっているのです。つまり,18歳で医学部に入学したら,以降,決して外と混ざることがなく, ずっとその大学の枠の中で生きていくことになることも少なくありません。「Inbreeding=純粋培養」です。 他流試合をしないから,自分たちの医局や教授のレベルがどんなに低くてもバレないし,その内側の 人間も比較の対象がないから,問題意識も向上心も持てません。 一方米国では,医学部は4年間のグラデュエートスクール(大学院)と位置づけられており,4年制大学 (アンダーグラデュエート)を卒業していて,社会人経験を持つような人材も多く採用します。しかも, 重要なのは,例えばA大学の医学部ではA大学のアンダーグラデュエート出身の学生を,定員の2割くらいしか 採用せず,全米のさまざまな大学から学生を採用するということを意識的にやっているということです。 米国の場合,ここでまず,人材が「混ざる」。さらに,卒業すると臨床研修の施設は,全国規模の コンピュータによるマッチングで決まってしまい,ここでも同じ大学からその附属病院へは2割程度しか 進めないようになっています。ここでも「混ざる」わけです。異なる文化や価値観を持つ人々が混在する 中で「プロ」を育てることによって,社会に対する「プロ」集団としての責任を保障しようとしているのです。
★【せろん】ムラ社会について (2004-04-17 14:12:23) 1/2 text: sa10 解放された3人の人質を見て「みんなに迷惑をかけてけしからん」とか「日本の恥 をさらしやがって」とか「この場に及んでまだイラクで活動したいとは信じがたい」 というふうに思ってしまうのは、日本にはあいかわらず「ムラ社会」の思想が深く根 をはっているからだ。 日本には「回転自動ドア」なんてものを安易に受け入れる近代化はあるのに、その くせ「思想の近代化」はまだ訪れていない。「リストラ」という近代化は受け入れる が、それは「会社」という「ムラ社会」にとって都合がいいからだ。日本は「ムラ社 会」にとって都合のいい近代化は受け入れるが「ムラ社会」をやめて「新しい社会の あり方」を目指すこと、つまり「思想の近代化」はしない。 「出る杭を打たれるのは嫌だな」と思いながら「出る杭を打っている」のは本人で あることに気付かない。あるいは気付かないふりをして自分も出る杭にならない。そ うしないと成り立たないのが「ムラ社会」。「ムラ社会」が嫌になった人はムラを去 り都会に行く。地方の人が東京に行くように、スポーツ選手がアメリカやヨーロッパ に活動の場を移すように。 ムラに残る人はそれを見て「いいな」と思う。でも「自分には無理だな」と思いム ラで暮らす。なぜ無理かと言えば「自分はムラ社会じゃないと生きていけないから」。 だから「ムラ社会」は守るべきものとなる。
★【せろん】ムラ社会について (2004-04-17 14:12:23) 2/2
解放された3人の人質が「ムラ社会」に住む我々にとって「ヘン」に見えるのは、
彼らがしたことが「ムラ社会」の常識にないからである。「大リーグに活動の場を移
す」が日本のプロ野球の常識になかったように。少し前だったら「日本人選手が大リ
ーグに活動の場を移す」は十分に「ヘン」なことであっただろう。
日本には思想の近代化は訪れていない。だから日本人には西洋に対する羨望・コン
プレックスがある。しかし大リーグに活動の場を移した日本人は「思想の近代化」を
はたしたかもしれない。だから「思想の近代化」をはたしてしまったかもしれない解
放された3人の人質は、いまだ「思想の近代化」をはたしていない「ムラ社会」の日
本に戻ってきても、今は居場所がなくて気の毒だなと「ムラ社会」に住む私は思う。
http://writer.gozans.com/writer/913/48.html
★「民主主義は再生したか」 ― 長野県政と『ポスト・手続き民主主義』の行方 ―
ところがこの対策委員会というのがそもそもデタラメで、それを構成するのはその地域の
有力者とか、建設業界とべったりの議員の後援者たちとかそんな人たちばっかりなのだ。
そんな人たちはまともに地域の意見の集約なんて事はしない。「大賛成なので早く作ってくれ」
とか或いはそれが地方の田舎であれば「自分の農地の上に道路を通して欲しい(農業なんて
儲からないし自分の子供も後を継がないと言っているから出来るだけ高く買ってくれ、みたいな
背景がある)」というような意見を勝手に「地域の総意」としてしばしばデッチ上げてしまう。
じゃあ、何故道路計画に反対の意見を持つ人はそんな理不尽な話に抗えないかというと、
そこが田舎のムラ社会の特殊な事情で、地域内で力のある人・声の大きい人が強引に
流れを作るとそれに逆らう雰囲気が出来にくいというのがやっぱり大きいものとしてある。
要するにあまりそこで波風を立てて「村八分」にされたくない、というやつだ。相手が地域内の
有力者であるならなおさら、というわけ。
都市的な観点からすると少し不思議かもしれないが、田舎でムラから自立して生きるという
のは大変なことだ。いや、本当はやってみるとそれほどでもないのかもしれないのだけれども、
未だ「ゆりかごから墓場まで」様々な場面でムラとの共同作業は、やっぱり都市と比べて田舎は
物凄く多いわけで、それを考えるとムラに住む人にとってはムラ抜きの生活ということ自体、
かなり構想しにくい状況にあるのは確かなのだ。
田舎のムラ社会のこういう「同調圧力」の存在は実は周知の事実だったりする。例えば
これまで行政はこれを熟知していて計画を円滑に進める時に為にしばしば利用してきた。
地域の有力者と予め話をつけたうえで計画を作るとか。もう田舎では本当にごくありふれた話だ。
ttp://deadletter.hmc5.com/text/2002-7-07.htm
★しょせんムラ社会 [ 思い・こだわり ] 2005年12月01日
市になっても、しょせんムラ社会。
地縁血縁、コネで行政が動いているのだ。
公営住宅の入居を早くから申し込んで順番を待っている人がいるのに、
コネがあればその人をさしおいて、今日言えば明日入れるような状況。
地域の有力者が「保育園があるんやから幼稚園はなくてもいい」と言えば、その地域全
体が幼稚園廃絶に向けて動き出す。心の中で反対する人はいても、声には出さない。つき
あいが必要以上に重視される田舎では、「出る杭」になることは許されないのだ。
ちょっと話がそれるが上の話と無関係では無いと思うのでおつきあい願いたい。
ここに来る前に、市内の別の地域に住んでいたのだが、自治会の他に、子供会、老人会
などの団体があった。婦人会もその一つで、各家庭から女性が一人入って、ムラの行事の
接待や、公民館に集まっての茶話会などの活動をしていた。活動の大半は親睦を深めるた
めかおしゃべり会で、いわばムラの情報交換という名のうわさ話大会だと聞いていた。3
世代同居がほとんどを占めるそのムラで、お姑さんに言われて渋々入っている若嫁さんが
何人もいた。
入るのは任意だというので、お誘いを受けたときに断った。
夕方からの仕事をしていたので活動の為に休む気はない、と初めに言った。「じゃあ、
名前だけでも」と言われ、「名前を入れるということはその団体の一員になると言うこと。
活動に参加しないのに名前だけ入るなんて嫌だ」と言って、お引き取りいただいた。
1ヶ月経たないうちに、別の人が説得に来た。
「考えが変わってないかと思って」
「いえ、変わりません」
「みんな入ってもらってるんやけど」
「各家から一人ずつ入らなあかんというなら入ります。」
「いや、一応任意で入ってもらうというかたちになってます」
「なら、入りません。接待などで人手が必要なときは、喜んでお手伝いさせていただき
ます。でもこの団体のメンバーになる気はありませんので。いやいや入っても迷惑になるだけですから」
直接耳に入ってくることはなかったが、陰で相当言われていたと思う。
http://plaza.rakuten.co.jp/utena305/diary/20051201/
●教育の背景
(清水一郎、塾経営、「共育つうしん」52号、2000年6月掲載)
それでも私たちが、この格調高い教育基本法の理想と、その背景をなす日本国憲法の個人の
尊厳の重視とを、日々の教育・子育てのなかで実践することには、かなりの努力と勇気を要します。
世間のしがらみにとらわれてそこから抜けられない意識と、自分の心の奥にしまい込んでいる
本音との葛藤に、私たちはともすれば安易な道を選んでしまいがちです。日本国憲法や
教育基本法を貫く個人の尊厳を尊重する思想は、個人が自立した社会を前提としているように
思います。大人の間で未だ個人の自立が確立されていない日本で、健全な社会人を育成するための
営みを試みるのは、絶望的な思いすらあります。
日本が近代化されて百数十年の時間が過ぎました。敗戦により再度近代化され五十数年が
経っています。この間に公的な社会の建前は、すべて先進国(欧米)の規範で動くように
なっています。ところがいまでも、個々人が属する世間(ムラ)の掟による心理的圧迫があります。
個人の自立を建前とする国法秩序と、自立を許さないムラの掟が併存するのが日本社会です。
私たちは、このダブルスタンダード(二重の基準)の中で苦しんでいます。職場という世間、
隣近所という世間、家族親類縁者という世間など、それぞれのムラの掟と、自分の心の中の
本音や法秩序などとの板挟みに悩みます。日本社会のこの二重構造は、世代を越え子どもたちの
間にも存在していると思えてなりません。
http://www.ktv.ne.jp/~wef/kiji9.html
★村社会日本 日本のここがおかしい 上 06年11月07日(火) 08:43 学校でのいじめが再び問題になっていますが、最近ではネットを使ったいじめが多発し ているとも聞きます。ブログや掲示板に匿名で悪口を書き込んだり、携帯でひどい言葉を投 げつけるような事らしいです。大人の世界でも、職場の人間関係で悩んだ事のある人は65 %に達するとの報告があります。私はこういう現象はどうも日本独特の村社会の特徴のよう に思います。外国ではこういう話はあまり聞きません。日本人はどうみても、他人に関心が ありすぎます。週刊誌を見ても、人の噂話が満載の男性誌や女性誌が所狭しと陳列されてい ます。アメリカにもゴシップ系の週刊誌はありますが、マイナーであまり読んでいる人をみ ません。 日本は昔は農業国家で、村単位で助け合いながら生きて来ました。そうしなければ生き て行けなかったからです。ですから、お互いが全て顔見知りであり、どこの誰がどうしたと いう事は村中の人がしっていました。そして、何か不始末をしたり、ボスに睨まれたりする と、村八分にされて、誰からもつきあって貰えなくなりました。八分とは、残りの二分だけ つきあうという意味で、それは火事と葬式です。これは、いじめの原型のようなものですね。 でもこの時代は自給自足生活であり、農作業は協力しあわなければ出来ない性質の仕事です から、生きるための方策として、お互いに依存しあって来たわけです。仕事面だけでなく精 神的にまで依存する事もなかったのかもしれませんが、娯楽も何もない時代ですから、いわ ば社交だけが楽しみだったので、無理もありません。 でも時代は変わって、多くの人は都会に移り住み、形式的な村は崩壊したはずです。実 際、都会に住んでいると隣近所などと交際する必要性は殆どありません。小さい子供がいる と一緒に遊ばせてあげる相手がいる事くらいです。村では、農機具や食料その他の必需品が 足りなくなっても、すぐに買いに行ける店もなく、近所の人に借りるとかの必要性があった のですが、都会ではどこででも手に入ります。
★村社会日本 日本のここがおかしい 下
ですから、都会では濃厚な交際は不要になったはずなのですが、実際には学校と職場に
村が残りました。この新しい村でも、古い村と同じように、他の構成員に異常な関心を持ち合い、
精神的に依存しあいます。そして、何か不始末というか、気に入らないことがあると、
村八分の変形であるいじめになるのです。
まあ、日本全体が大きな村社会になっており、拉致事件や幼い子が犠牲になる事件など
があると、国民全体がものすごい関心も持つと共に、被害者に同情し、犯人に怒りをあらわ
します。これは悪い事ではありません。しかし、会社や学校でのいじめだけでなく、流行に
流されやすい国民性になり、政治的に流されると、太平洋戦争のような無謀な戦争に国民の
殆どが賛成してしまうという危険な事になってしまいます。民主主義とはそれぞれがしっか
りとした自分の意見をもった国民が、それぞれの考えで投票するから成り立つのであり、村
社会で、ボスがこうだと言えば、それに従って投票するような国民では、正しい選択はでき
ません。
結局、村社会がいまだにはびこる根本原因は一人一人の自立が出来ていないからです。
自立した人格を持てば、他人への関心は薄れ、いじめも無くなります。暴言を吐かれても、
我関せずと受け流す事ができ、自殺なんかになる訳もありません。依存的性格だと、村八分
にされてしまうと、世の中が終わった位に思ってしますわけです。
このように考えると、正しい民主主義の確立もいじめをなくすのも、個人個人が依存症
をなくして、自立して、自分の目標をたて、それに向かって進み、交際は‘水の如く淡し’
程度に留めて置く事が大事なのです。ご本人は勿論、お子さんをお持ちの方も、独立心旺盛
な、インディペンデントな子供さんになるようにして欲しいものです。政府がいくらいじめ
対策をやっても、自立した個人が出来なければ、いじめはなくならないからです。
http://www.mypress.jp/v2_writers/yuigahama/story/?story_id=1520882
20 :
名無しさんの主張 :2010/09/28(火) 19:33:50 ID:ocu4r4lT
ここは
「田舎ムラ社会から近代市民社会へ」というスレタイだけど
>>17 までのように
実際進んだのは「ムラ社会を捨てる」ってことだけなんだよね。
ようするに田舎から都市への流れの一端だけど
都市に近代市民社会があるかと言うと決してそうではない。
田舎・都会論争ではなく日本人が変わらないといけないってことなんだろうな。
>>20 会社って村社会そのものだとおもうんだよな。
日本人が集まると村ができるんだろうな。
かえるたって難しいな、今の民主主義だって別に欲して勝ち取ったわけじゃあないし。
22 :
名無しさんの主張 :2010/09/29(水) 02:16:18 ID:7aZ+Lk8k
>>21 会社や学校なんて地縁によらないムラ社会の典型だろうね。
村落共同体から解放されたいと思って都市に出て行っても結局ムラ社会に苦しめられる。
日本人はムラ社会を通じてでしか他人とかかわれないからね。
あと日本人の政治嫌いってなんとかならんのかね?
政治には関わらないことは暗に美徳とさえとられてる部分があるよね。
そんなんじゃ近代市民社会とか無理だろう。
あと、友人関係とかもそうだな。 常に連絡を取って関係を確認し合うことで互いの存在証明にしたり、 個別の関係よりも場の空気を読み合って調和を図ることとか、 そのくせ他人に対しては無関心または無礼・冷酷な態度を取るなど。 典型的なムラ社会の姿だ。
★あれこれ 弁護士 飯島奈絵
次に、感じたのはアメリカ人、そして、ここに住む日本人の方々の参政意識の高さ。
日本では、多くの国民が「政治は政治家が密室で利権がらみであれこれ決める何だか
よくわからないおどろおどろしいもの。」といった意識を持ち、政治に関わろうとしない。
露悪的にいえば、政治に関心があるのは権力意識がよほど強いか、妙に純粋で理想論
ばかりを述べる「青い」人か、宗教関係で動員がかけられた人といった意識がある。なぜ
このように違うのか。単なる「国民性」ではすまないであろう。日本人も米国の政治は
面白いと思っているのだから。違いは大統領選か?二大政党制か?
勤務先法律事務所で『民主主義』を感じたことがあった。クライアントの日本企業が
州法に抵触した。勤務先事務所は「州法の制定手続、規制方法に手続的瑕疵がある。
当該法の規制範囲は広範に過ぎる点でも問題がある。争おう。」という。しかし、
日本企業は煮え切らない。日本では訴訟を提起したということ自体、新聞沙汰になる。
人聞きが悪い。企業イメージが下がる。その上、監督官庁にたてついたら、どのような
不利益があるか。国にたてつくとの構図も企業イメージを下げる。日本企業のそんな
思考方法を説明したところ、米国人弁護士に呆れられた。「法律に瑕疵があれば、
その是正を求めることは、民主主義における市民の権利であり義務でないか。」と
言われた。やはり日本はムラ社会なのか、出る杭は打たれるのか。国は「お上」なのか。
http://www.wjwn.org/views/05summer/sakairijima.html#_ftn2
>>23 いわゆる「リア充」ってのがそんな感じだなぁ。
自主的にあれこれ行動してリアルが充実している っていうより
まわりと同調することに気をつかい、ハブられなくてすんでいる。 ってな感じだ。
26 :
名無しさんの主張 :2010/10/02(土) 01:57:20 ID:Ghg15JFt
>>25 日本のムラ社会に最大限適応してるってことか。
★新卒一括採用は合理的である - 池田信夫 アゴラ 1/2 2010年08月07日18時26分 議論の素材として、新卒一括採用は合理的であることを経済学の理論で明らかにしてみましょう。 私は『情報通信革命と日本企業』で、これを次のように説明しました: 労働者のモラル・ハザードに対して通常の市場メカニズムにおいて可能なペナルティとしては、 賃金に競争的な水準以上の効率賃金(efficiency wage)を支払い、労働者の事後的な成果が 目標を下回った場合には雇用契約を打ち切るという戦略が考えられるが、この処罰は相対的な 賃金格差によるものだから、全労働者に効率賃金を支払うことは定義によって不可能である。 ところが日本では失業率は、終戦直後の一時期を除いて世界でもっとも低いにもかかわらず、 労働者の規律は失業率の高い国よりはるかに高い。これは採用を原則として新卒に限り、 中途採用に際しては待遇がいちじるしく悪化する退出障壁によって労働者を企業に閉じ込めて いるからだ。 白紙の状態の新卒を採用して企業特殊的な技能を一から教えてゆく技能形成システムは、 長期的・年功的な雇用慣行と不可分の強い補完性を持っている。ここでは労働者は「丁稚奉公」 によって組織に対する初期投資(贈与)を強いられ、他の企業では役に立たない「会社人間」 となるため、彼の企業特殊的な人的資本への投資は埋没費用となり、退出障壁はきわめて 高くなるのである。(p.72〜3) ちょっとむずかしい表現ですが、こういう意味です:もし新卒一括採用をやめて、専門的技能のある 人を必要なとき雇うことにすると、環境が変わってその専門知識が必要なくなっても解雇できない。 新卒で「真っ白」な社員を採用し、徒弟修行でいろいろな技能を教えたほうが柔軟なローテーション ができ、社員の忠誠心も高まります。
★新卒一括採用は合理的である - 池田信夫 アゴラ 2/2
日本の企業では、先輩をまねて仕事のやり方を覚えるので、その技能は会社の外では役に立たない
ことが多い。会社の中で「下積み」が評価されないと、労働者は徒弟修行で辛抱するのをいやがり、
他の会社でも通用する専門知識を習得したら会社を辞めてしまうでしょう。こういう個人主義的な
労働者ばかりだと「すり合わせ」による品質管理ができず、競争に勝てない。
このように新卒で一括採用し、「同期」を出世競争で競わせる人事システムは、ゲーム理論でも
説明できる合理的なもので、それが一時期までの製造業で有効だったことは事実です。問題は、
それが今でも有効なのか、また製造業以外でも有効なのか、そしてこうした人事システムによって
失うものは何か、ということでしょう。
http://news.livedoor.com/article/detail/4933075/
都会と犬ども (新潮・現代世界の文学) [単行本] M. バルガス・リョサ (著), 杉山 晃 (翻訳) 内容(「BOOK」データベースより) 大人の世界に目覚める思春期の少年たち。彼らを取巻く堕落した社会。自己の衝撃的な体験を見事に昇華 させ絶讃を博したラテンアメリカ文学の旗手、’63年の傑作。厳格な規律の士官学校で起こった試験問題盗難 事件―密告、いじめ、軍事教練中の射殺…暴行、飲酒、喫煙、盗み、ばくち、カンニングなど、鬱屈しつつも 虚勢を張った粗暴な振舞いをする少年たち。弱肉強食の悲情な世界での彼らの成長過程を通して、腐敗、 堕落、暴力、不正、偽善にあえぐ現実社会を告発する! By エスパニョール二郎 (東京都目黒区) - レビューをすべて見る レビュー対象商品: 都会と犬ども (新潮・現代世界の文学) (単行本) バルガス・ジョサは実際ペルーの士官学校を卒業しているが軍人にはならなかった。この本の内容のとおり、生徒は 知性のない犬のようで教育する軍人も低いレベルなのでしょう。このように実態を暴露されては軍隊は面白くなかっ たと思います。ジョサが大統領選挙で負け、軍隊と親しくしたフジモリ政権のときジョサは軍人の仕返しを予測して、 スペインに逃げました。 この小説には士官学校の生徒として数人の若者が登場しますが、彼らの恋人の女性の名前がみな同じなので読 んでいてかなり混乱します。作家の意図が明確には読めませんが、読み終わるとなんとなく若者たちが勝手に想像 している恋人であまり明確な性格がないものとして描いたのかな?という気がします。
緑の家 (新潮文庫) [文庫] マリオ バルガス・リョサ (著), Mario Vargas Llosa (原著), 木村 栄一 (翻訳) 内容(「BOOK」データベースより) 砂の降りしきる町の娼家「緑の家」、密林に覆われた尼僧院、インディオの集落。ペルー社会の複層性さながらに 交錯する現代・中世・古代。盲目のハープ弾き、飲んだくれ、日本人の流れ者、そして女…。市民的規範には 無縁のしたたかな人物群が多様多彩に躍動乱舞する。―ラテンアメリカ文学の豊かな土壌に育くまれ、前衛的 な手法を駆使して濃密に織りなす、物語の壮大なる交響楽。 By ぽこぺん - レビューをすべて見る レビュー対象商品: 緑の家 (新潮文庫) (文庫) かなり長い。700ページほど。でもロシア文学に慣れた者なら、これくらいの長さは快楽だったりする。パルプフィクション を彷彿させるつくり。込入り、ぐちゃぐちゃ。しかしながら、ジョイスなどと違うのは、セックスのシーンが意外と少ない。 比較できるものでもないが、リョサとガルシアマルケスでは、ガルシアマルケスの方が好きである、個人的に。こっちは、 いかんせん綺麗な感じがする。「おれがいるんだから、恐ろしくて何もできっこないさ。」「世の中には地獄よりも恐ろ しいものがあるかね?」「それでも人間は懲りもせず罪を犯すんだ。恐ろしいからといって止めるもんじゃないよ、フシーア」 ちょうど、メキシコの地下鉄で、この本を読んでいるおじさんが居て、感激した。スペイン語圏では、それほど、パワーのある本なのだ。
2010年10 月 7日 (木)
2010年ノーベル文学賞はペルーのマリオ・バルガス・リョサ
と決定しました。
http://watanabeyukari.weblogs.jp/youshonews/2010/10/nobel2010-announced.html Mario Vargas Llosa(マリオ・バルガス・リョサ)は、ペルーの作家で、小説家、エッセイスト、ジャーナリスト、という
文筆業だけでなく、大統領選に出馬してフジモリ氏に破れた政治家でもあります。ノーベル文学賞には、このよう
な政治色があることが多いですよね。
受賞の理由は、 "for his cartography of structures of power and his trenchant images of the individual's
resistance, revolt, and defeat"と、「権力構造を明瞭に示し、人々の抵抗、反抗、そして敗北のイメージを鋭く
表現していること」と、やはり政治的な要素が強いようです。
リョサは、Leoncio Prado Military Academyという軍隊アカデミーでの体験を活かしたLa ciudad y los perros(The Time
of the Hero)でデビューしました。彼は大学時代にはマルクス主義を学んで共産主義を強く信じ、多くのラテンアメリカの
知識人のようにキューバ革命の支持者でした。けれども、詩人のHerberto Padillaが投獄されたPadilla事件をきっかけに
極端に左寄りの思想を捨てて自由主義に変わって行きます。
★最大の「消える高齢者」予備軍は団塊世代 Joe's Labo 2010-10-04 夏以降、全国で「消えた高齢者問題」が話題となっている。 その背景には、よく言われるように、核家族化や都市化といった社会の変化があるのは 間違いないが、実は雇用問題も無関係ではない気がしている。 というのも、たとえば大手企業などを定年退職した後で、燃え尽きちゃった人の話をしばしば 聞くからだ。 僕の知っている人でも、海外支社長まで勤めたのに、朝から酒浸りになっちゃった人もいる。 その時は単に「やること無いんだろう」くらいにしか思わなかったが、考えてみれば、 仕事以外にやることないという人生も凄い。 そういう人の存在が、どうしても消えた高齢者と被って見えてしまう。 そういう意味で、 文藝春秋10月号『「消えた高齢者」無縁社会の泥沼』(上原善広)は とても興味深い事実を示唆してくれている。 もともと消えた高齢者問題のルポなのだが、“団塊”という言葉が一つのキーワードに なっている。横浜市の民生委員の言葉は予想外だった。 「団塊世代というのは地域活動に参加しない。これはどういうことなんだか、 他の地域でも そうらしい」 家族がばらばらになったり所在不明になっちゃう老人もいるけれども、世代として異質 なのは、むしろその下の団塊だということだ。 ちなみに、この民生委員の黒田氏は78歳。自身の活動についてもこう懸念している。 「問題は継いでくれる世代があまりに少ないということ。60歳前後の 団塊世代が入らないから、このままでは70代からいきなり30代に 依頼しなければいけないかもしれない。60歳くらいの人は サラリーマン育ちが多いでしょう。だからプライドが高いんだ」
★最大の「消える高齢者」予備軍は団塊世代 2
彼らが異質なのは、日本史上で初めて、地域や家族という共同体から、終身雇用という名の
会社ムラに軸足を移したからだ。定年後の彼らの活躍に期待しているNPO等も多いが、
会社ムラで滅私奉公してきた人間に、いきなり地域ムラに参加しろというのは、意外と
ハードルが高いのかもしれない。
さて、最近の若者は組織に馴染まないとか転勤したがらないといった指摘が割と目立つが、
個人的にはそれでいいと思う。終身雇用なんてあるように見えても存在しない、あるいは
全然割に合わないシロモノになり果てているわけで、組織と一心同体化する必要などなくて
まあ日銭を稼ぐ手段程度に考えておけばよい。
それが世界標準の労働というものだ。
もし本気で仕事に一身を捧げたいと願うのであれば、与えられる仕事に満足するよう
言い聞かせるのではなく、それに値する仕事を自分で探すことだ。
ちなみに、地域も家庭もかえりみず、会社に滅私奉公した末に待っているものはなにか。
同記事には、東京郊外のニュータウンを中心に活動する「事件現場清掃会社」高江洲代表の
コメントも掲載されている。
「孤独死するのは55〜65歳くらいの、団塊とその少し後ぐらいの世代が目立ちますね」
家族という地盤があればまだいいが、それすらなかった企業戦士の行く末は哀れなものだ。
個人的には、20代の多様化には期待している。恐らく、団塊ジュニアもある程度は多様化
しているように思う。僕の同期でも「家庭なんて放置して、何が何でも会社一筋」
というのは皆無で、サラリーマンやってる奴はみんなボチボチ派ばかりだ。
良い意味でも悪い意味でも、会社というムラも希薄化しつつある気がする。
Joe's Labo 2010-10-04
http://blog.goo.ne.jp/jyoshige/e/5781c6291a7ade54127d6f71ce2a99d0
>>25 つーか、常に携帯メールやりとりしてるような連中はほとんどそう。
大学生とかの最大のステータスが携帯の登録件数だとか
一緒に昼飯を食う友人がいない学生がそれを恥じてトイレで飯を食うとかいう例は
特に典型的な事例だと思う。
さらに、それを嘆く人間も単に反発するだけで新しい関係性を模索できていない。
反「村」社会≒人間関係喪失者に近くなってる。
これは結局別の意味で村社会の住人だということでしかない。
35 :
ニート :2010/10/09(土) 06:29:30 ID:eXBbTGd3
そのためには簡単に笑わない事。 安易な笑いが社会を閉鎖する。
現在の若者の携帯メールで繋がった人間関係は、新村社会。 日本の国力低下の象徴だな。
★日本の『クソ労働環境』成立の歴史的背景と諸悪の根源 1
Kousyoublog 2009.09.29 Tuesday23:45
http://kousyoublog.jp/?eid=2409 ■諸悪の根源、日本特有の雇用契約
日本でも当然労働基準法(1947年成立)など労働法関連法が急ピッチで整備され、たとえば
強制労働の禁止(労働基準法第五条)中間搾取の排除(同第六条)など旧弊が次々と禁止
されるとともに、労働組合法(1945年成立49年大幅改正)、労働者災害補償保険法、職業安定法
(1947年成立)等が続々成立して『クソ労働環境』は劇的に改善しました。
しかし、カローシ(過労死)が世界的に知られるなど日本の労働環境は諸外国と比べると
かなりよろしくない。その原因はこの輝ける『黄金の循環』期(=高度経済成長期)にありました。
結論から言うと諸悪の根源は、日本特有の雇用契約にあります。
おなじみhamachanこと濱口桂一郎氏の著書「新しい労働社会―雇用システムの再構築へ」でも
指摘されていることですが、海外の雇用契約は職務(ジョブ)を単位として締結されるのに対し、
日本のそれは会社の中にある職務(ジョブ)を切り出さずに、会社に所属することそのものを
雇用契約にするのが特徴となっています。これを濱口氏はメンバーシップ型雇用契約と呼んでいます。
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職務を限定せず会社に所属することそのものを雇用契約とするそのやり方は社内で不足した
職務があれば即座に配置しOJTによって教育、戦力化できるため、終身雇用制度下で実に有効に
作用しました。高度経済成長下では企業は次々と親子会社が出来、いわゆる系列間での異動、
出向も出来るようになり外部の労働市場に頼らずとも内部に労働市場を作りあげました。
いわゆる日本型雇用システムというのがそれです。
★日本の『クソ労働環境』成立の歴史的背景と諸悪の根源 2 ■ムラ社会化を加速させる日本型雇用システム 折りしも日本の高度経済成長期は地方の村々が解体され少数の大都市圏へと大規模な 人口移動が起きた時期でもあります。旧来の地域、家族のコミュニティが解体され、人々の よりどころとなる共同体は会社がその役割を担うことになります。職務だけで一時的に つながる関係ではなく、メンバーとしてその労働者そのものが会社に所属し、しかも 終身雇用する訳ですから、より濃密な関係となるのはあきらかでした。 コミュニティという視点で言うならば、会社は生産のコミュニティ、家族は生活のコミュニティ と言えます。この二つはベクトルでいうと正反対に位置するものですが、高度経済成長期は 生活のコミュニティは地方からの上京組や核家族という最小化されたものとなり、逆に会社は 一日のほとんどを費やすことになり極大化されていきました。このいびつな関係を結びつけたのが 「奇跡的な経済成長」という接着剤で、ほかのあらゆるコミュニティを最低限のものとして 会社の生産活動に人生を捧げていれば、結果として収入は数倍になり人生最後まで面倒を 見てくれたのです。高度経済成長期には社葬はもちろん会社専用墓地などそれこそ死後も 面倒をみてくれた会社も多くあったといいます(→日本の多くの会社で宗教行為が行われていた のは何故か?)。そのころの名残か、労災で死亡した人の葬儀代や埋葬の費用に関する給付は 会社が受け取り人になることも出来ますしね。 千葉大学の法経済学教授広井良典氏は著書「コミュニティを問いなおす―つながり・都市・ 日本社会の未来」で高度経済成長期の様子をこう表現しました。 「コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来」(P16) 戦後の日本社会とは"農村から都市への人口大移動"の歴史といえるが、農村から都市に移った 人々は、カイシャと核家族という"都市の中の農村(ムラ社会)"を作っていったといえる。 --------------------------------- コミュニティを問いなおす―つながり・都市・日本社会の未来 (ちくま新書)
★日本の『クソ労働環境』成立の歴史的背景と諸悪の根源 3
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さて、雇用契約は労働者が労務を提供し、使用者が賃金を支払うことで成立する・・・はず
ですが、その雇用契約に付随して使用者には企業秩序定立権、懲戒権、あるいは人事権など
様々な権利が発生し労働者はそれに従う義務が生まれます。この労務と賃金の関係に付随して
使用者に発生する各種権利の理論的根拠は実は定まっていないらしく、使用者であるがゆえに
当然発生するとする固有説と労働契約に基づいて発生する契約説とに二分されているのだそうです。
使用者に発生する広範な権利は日本の労働契約の実態が「会社という共同体への人的帰属関係
との性格が強い」(水町「労働法」P154より)つまり、労働者は使用者の指揮命令に従う
ことで会社という共同体に所属する権利が与えられるというところにあると言ってよい
のではないかと思います。
で、このメンバーシップ型雇用契約は大企業だけじゃなく中小企業でも適用されてるというのが
日本全国『クソ労働環境』(って久しぶりに使った気がする)だらけにしている元凶のひとつで、
当然、高度経済成長期でも、中小企業は終身雇用、年功賃金、企業別組合の三つを特徴とする
日本型雇用システムを取っていたのは大企業だけで、中小企業は労働者を買うにふさわしい
待遇を与えられていたかというとそうでは無いようです。逆に解雇規制といいつつも比較的
自由に解雇したり、転職したり流動的な状況だったということですね。
★日本の『クソ労働環境』成立の歴史的背景と諸悪の根源 4
■日本の雇用契約と古代ローマの奴隷契約
長々と説明してきましたけど、つまり日本の雇用契約は、奇跡的な時代の名残で、仕事じゃなく
労働者そのものを買う制度になっているということですね。超経済成長社会特化型雇用契約モデル
というか。そういう意味では民法の雇用契約概念はローマ法の奴隷契約をベースに出来たのは
有名な話ですが、その原点にとっても近い由緒正しい形態かもしれない・・・というのは
ちょっと言いすぎですか。
メンバーシップ型雇用契約にはもちろん利点も一杯あるのですが、残念ながら現状では功より
罪の方が強まってきているように思えます。ただ一律に禁止するべきではなく、メンバーシップ型
雇用契約が向いている職種も沢山あるので並存した多様性の担保が重要なのだと思います。
・・・経済の黄金時代ははるか昔に終わり、バブルという一瞬の打ち上げ花火が上がった後に
残ったのは20年に渡る超長期不況と、会社をムラ社会的コミュニティ化することが出来る独特の
雇用契約システム、ムラ社会化し閉鎖空間となっている既存の企業群が打ち捨てられている
というのが現状でしょうか。
以上、専門家から見るといろいろアレかもしれないですが、そこは色々ツッコミいただければ
嬉しいです。じゃーどうするのがいいだろうか案については実は半分ぐらいは書いたんですが、
適切な内容かどうかまだ自信が無いので今回は割愛、ってそこが重要だろという話もあるけど。
よく精査してできれば近いうちにアップできればと思いますが、お蔵入りにするかもです。
とりあえず近々ということで。
Kousyoublog 2009.09.29 Tuesday23:45
http://kousyoublog.jp/?eid=2409
41 :
名無しさんの主張 :2010/10/10(日) 12:03:29 ID:kvq2fuQY
>>34 そうなんだよね、新しい関係性ができてないから既存のムラから弾かれる奴ばっかり
あらわれてる。
★異質への理解
私が貿易に携わってもう28年になります。会社員を辞めた後も貿易コンサルタントの仕事を
選んだのは自分の強みとして「外国人と仲良く仕事ができる」というのがあったからです。
外国人と話をするのは大好きで、なぜなら私は異文化に興味があり、彼らもまた「異質」を
理解しようとするからです。
Understandというのは理解をするという意味ですが、あなたの言うことや立場は理解できる、
というだけで自分が心から賛同するという意味は含まれてはいません。自分とはまったく
同じでなくても相手の存在を認める、そしてビジネスにおいてはその違いを良い方向に
生かそうという頭が次に働き始めます。
ところが、日本の場合は異質な人、違う意見を持つ人は仲間はずれにされる傾向があります。
ムラ社会、大家族主義の伝統や戦後民主主義のはき違えで何でも多数決あるいは全員一致主義
から来るのかも知れませんが、力で他人の意見を押さえつけようとする人、反論する人を
なじる人、あるいは人の顔をうかがって黙って得になりそうな方につく人、
最悪は何も考えないで支配されているだけの人が結構います。
目先の損得だけのために同質を装った集団よりも異質を有機的に組みあわせをした方が
ダイナミックな展開ができるはずです。ある意味では異質を主張し理解してもらうというのは
自己責任の世界で、ただ他人にくっついて行くだけや集団に所属しているだけで何とかして
もらえるよりは孤独感もあるかも知れません。
誰でもなれる国際人 河口容子のメールマガジン
http://tamagoya.ne.jp/mm/yoko2/076.htm
43 :
名無しさんの主張 :2010/10/12(火) 22:47:15 ID:4t3Nyx7p
近所の子供たちが、おれに変なあだ名をつけているようだ。 無職とか、敗北者に厳しい子供たちよ。
★リストラの感覚 1 住みたいところに住める俺 2010年09月20日 NZの会社に勤めだして数ヶ月経ったときに大規模なリストラがあった。特にシニアアーキテクト などの上級ポジションの人が半数以上クビになった。私を技術面接したアーキテクトも含まれていた。 このNZの会社ではリストラでクビになっても即刻辞職というわけではなく、人によって 1週間から1ヶ月ほどの引継ぎ期間を設けていた。クビになった人にはなんとも切ない期間である。 しかし案外みんな冷静に引継ぎをこなしているのが印象的であった。 これで私としては、アメリカ、カナダ、NZの会社での大規模リストラを経験したことになる。 さて、日本ではリストラなどの失職などによる自殺が増加しているといわれて久しい。 ひとつの理由として組織からの脱落感を指摘しているブログもある。 これら自殺の共通点は「組織や社会からの脱落感」ではないか。そして彼らは組織や社会や 学校という狭い世界が自分の存在意義のすべてだと勘違いしている。彼らは「組織」という 機械から外れ落ちた「1本のネジ」と同じだ。 この点は自分でも驚いたことに、自分がカナダのベンチャー企業に転職したときに強く感じた ことでもある。 カナダの会社は自分の存在意義を求めるような拠り所ではなく、誰もそんなことを期待 していないことに戸惑いを感じたのだ。自分から日本の会社を辞めておきながら、 なんともいえない寂しさを覚えたのだ。 だから組織からクビになった場合、自分の存在を見失ってしまって自殺する、という流れは 日本社会にどっぷり漬かっていれば想像に難くない。 私が経験した各国のリストラでも、泣いている人や、怒っている人もいたが、大抵すぐに 別の会社が決まるので、その後また顔を出しに来たり、営業しにくる人もいて、自殺する メンタリティとは程遠い。 総じて見ていると、日本人の私が経験したことのある精神的ストレスレベルとして近いものは、 年に一度の学校のクラス替えの感覚だ。 仲のいい仲間と一緒にいたいと思っていても、そうはいかない少しどきどきする行事である。 一方で新しい出会いが新しい発見をもたらすこともある。
★リストラの感覚 2 エンジニアは同じような業界で働くので、小さな街では前の会社で一緒だった人とまた働く なんてこともしょっちゅうである。仲のよかった、あるいは悪かった友達とまた同じ クラスになるような。 学校生活も何年もやっていると気の合うクラス、なじめないクラス、色々あるものである。 会社のメンバーのそれも似ている。 ある日本のお偉いさんと呑んでいるときに、こんな話をしたところ、 「そんなんだと会社のために一生懸命働くという感覚がなくなってしまうのではないか。」 と聞かれたのだが、これはむしろ逆だと思う。 クラスは毎年変わるが、だからといって体育祭や文化祭、修学旅行などクラス行事を 一生懸命やらない理由にはならない。やらない人もいてもいいと思うが、クラス替えが あるからやらない、という人は少ないだろう。 むしろ限られた期間だと分かっているから、この1年で精一杯やって結果を出そうと 思うことが普通なのではないだろうか。 一方で当然ながら、毎年変わるクラスに自分の存在意義を求めたり、しがみ付く人はいない。 そんな感覚で会社が回っているのである。 今となっては、こちらのほうが健全に思えてならない。 クラス替えの後に次のクラスが普通に待っているような社会が。 住みたいところに住める俺 2010年09月20日 http://remote.seesaa.net/article/163237072.html
46 :
名無しさんの主張 :2010/10/13(水) 07:19:33 ID:85hsA1yn
ずっとコピペしてる人はなんなんだ?
★トヨタに見るムラ社会の頑迷さ Joe's Labo その他 / 2010-04-05 10:47:31 トヨタのメディア対応が相変わらずらしい。要するに、不都合な情報を流される可能性のあるメディアに 対しては、貝のように口を閉ざしているということだ。 だが、きちんと対応して自分の言い分を言わなければ、「反論の意思も能力も無い」とされて一方的に 報道されるというのが世界のルールだ。特に海外メディアは容赦ないだろうから、こういう判断を している理由がまったく理解できない。 それはともかく、こういう問題においても、労使が揃って「取材拒否!」と足並みを揃えているのは こてこての日本企業らしくて実に微笑ましい。 会社の直面する問題に対して、労使ががっちりとタッグを組む構図こそ、日本型雇用の真の姿だ。 終身雇用で他に逃げ場がないのだから、こうなるのは当然。 愛社精神だのチームワークだの言われているものの正体は、 経営的な手法でも何でもなくて、 ムラ社会の副産物の一つにすぎない。 ところで、このアングルは、そのまま他の“課題”に対してもあてはまる。 たとえば、リコール問題を派遣切りに置き換えてみてほしい。派遣切りを追及され過ぎて困るのはだれか。 同一労働同一賃金が実現して困るのは誰か。 偽造請負だってそうで、これを労組が関与せずに受け入れるなんてことはありえない。 実際、この問題を追っていた某紙の記者は、松下の労組に何度取材を申し込んでも逃げられると こぼしていた。 労使対立という言葉は、こういうアングルがばれてしまうと不都合な人たちが利用しているカモフラージュ にすぎない。騙されて共産党や社民党に投票しちゃったような人は、これを機に目を覚まそう。 このままだと連合の既得権強化に利用されるか、 赤旗という名の(御利益ゼロの)お札を売りつけられるだけだ。
★トヨタに見るムラ社会の頑迷さ 2
ついでに言えば、こういう体質のトヨタがこれまでまったりと繁栄してこられたのは、大手メディア自身
もまた、強固な終身雇用システムで保護されたムラ社会だった点が大きい。
労働市場が流動化しているアメリカなら、彼らはジャーナリズムという共通のスコアカードを持っているが、
日本の記者もテレビマンも、実体としては「オラが会社が日本一」
という普通のサラリーマンでしかない。
だから、広告料という鼻薬にはだれも逆らえない。
そう考えれば、実はトヨタというのはグローバル企業でも何でもなく、ムラのメディアを上手く
コントロールしつつ、ムラ社会式に作った車をムラ社会中心に売っている巨大な一つのムラだったのだろう。
さて、ムラ社会トヨタは変われるだろうか。
言うこときかない海外メディアは一切取材お断り、という姿勢からは、
「よそもんは来るでねぇ!出てけ!」といって引きこもる村民のイメージしかわいてこない。
三河の田舎企業がグローバル企業になる日は遠そうだ。
Joe's Labo その他 / 2010-04-05 10:47:31
http://blog.goo.ne.jp/jyoshige/e/6afda6c73c8b6907138bf575586b3cb9?fm=rss
★ムラ社会
日本の会社はムラ社会です。特に大企業や役所はその傾向が強い。ムラ社会は組織としては
都合が良くても、個人に多くを要求しますので、個人を幸福にするシステムではありません。
ですから、ムラ社会のメンタリティと個人のライフワークは矛盾するのです。ムラ社会に
従順なだけの生活を送っていたのでは、ライフワークは持ちようがない。ライフワークを
持とうと思ったら、ムラ社会に掉ささなければなりません。ある程度ムラの住民から白い目で
見られることは覚悟しなければなりません。こう言えば、わかる人はわかっていただける
ことと思います。
つまり、ライフワークを持とうと思えば、他人の目を意識する精神構造を変えなくては
ならないのです。ある意味、個人主義者になる必要があります。組織に利用されずに、
かえって組織を利用するぐらいの根性も要ります。
何が言いたいのか。ライフワークを持つということは、気持ちの上ではムラ社会を卒業する
ということです。そうでなくてはとても個人のライフワークなど持ちようがないのです。
ですが、ムラ社会を卒業すると言うのは平均的な社会人にとっては大きなパラダイム・シフト
です。相当な葛藤の後にようやく卒業できる、といった代物なのです。
http://coach.client.jp/194/
★「日本的経営」の偽善 1/2 池田信夫 blog 2007-10-05 / Books 昨日の記事には、予想どおり「財界の犬」とか「違法行為を擁護するのか」などの批判が あった。そこでバランスをとって、というわけでもないが、朝日新聞の取材班の書いた 本から、御手洗氏の発言を引用してみよう(pp.97〜8)。 「キヤノンは、終身雇用という人事制度をとっている。それは終身雇用という制度が 日本の文化や伝統に根ざしたものであり、日本人の特性を引き出すのにもっとも 適したシステムだからである。」 「アメリカには[・・・]何千、何万という職能分析と給料が地域別に出ており、自分が どこに行けばいくらで雇われるかがわかるから、安心して職を変えられる。日本では、 そういう仕組みができていないのに、終身雇用をなくせなどと、学者などが軽々しく いうのは無責任だと思います。」 「セル方式[キヤノン独自の生産方式]で、延べにして2万2000人を減らした計算となるが、 増産もあったので、半分ぐらいが残り、実際に減らしたのは約1万人。[・・・]別にクビを 切ったわけではありません。外部から来ていた人が引き上げて行っただけです。」 (強調は引用者)トヨタやキヤノンは「終身雇用」や「日本的経営」を売り物にしているが、 それは派遣労働者や請負労働者を「外部から来た人」として計算に入れてないことによる 偽装終身雇用にすぎない。一時は世界から賞賛された日本的経営とは、このような 二重構造の中で、派遣労働者や下請けを人間扱いしないで維持されてきたのだ。 このように終身雇用なんて実際には存在しないのだから、それが「日本の文化や伝統に 根ざしたもの」だという御手洗氏の話も嘘である。「文化と伝統」を持ち出すのは、 現状維持したい人々のありふれたレトリックだが、戦前の日本には終身雇用なんかなく、 職人が腕一本で多くの会社を渡り歩くのが当たり前だった。現在のような雇用慣行が できたのは、1960年代以降である。
★「日本的経営」の偽善 2/2
だから問題は、このような偽装終身雇用を守ることでもなければ、朝日新聞の取材班が
主張するように「請負労働者を正社員化」することでもない。アメリカ経験の長い御手洗氏も
理解しているように、「何千、何万という職能分析と給料が地域別に出ており、自分がどこに
行けばいくらで雇われるかがわかるから、安心して職を変えられる」仕組みをつくるとともに、
社員の雇用形態を契約ベースにして多様化し、労働の流動性を高めることだ。
本書の最後に合成の誤謬というケインズの言葉が出てくるが、取材班はその意味を取り違えている。
個々の労働者にとっては、請負より正社員のほうがいいに決まっているが、失業より請負の
ほうがましだ。ところが朝日が激しくキャンペーンを張ると、企業は「コンプライアンス」対策として
請負契約を切り、請負労働者は職を失う。これは、個々の労働者にとって望ましい賃上げ
(名目賃金の硬直性)が、経済全体では失業率を引き上げてしまう、というケインズの指摘した
合成の誤謬とそっくり同じ構造である。
問題は請負契約をなくすことではなく、こうした二重構造を作り出している労働法制を改める
ことだ。具体的には、労働基準法で「企業は労働者を解雇できる」という解雇の自由を明確に
規定し、例外として解雇できない条件を具体的に列挙すること、労働者派遣法を改正して
派遣労働者を正社員に登用する義務を削除すること、職業安定法を改正して請負契約を
「労働者供給事業」の一形態として認知すること、職業紹介業を完全自由化することなどが
考えられよう。
追記:コメントで教えてもらったが、ベッカーも解雇を禁止する「テニュア」は必要ないと
論じている。本当に必要な労働者は、アメリカの企業でも囲い込んで雇用を保障する
のだから、法律で保障する必要はない。
池田信夫 blog 2007-10-05 / Books
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51292958.html
現代日本の政治形態はヨーロッパ式のものを採用してて 軍隊や医療関係はナチスドイツ式のものを根底に持ってるということだが
>担当課による粘り強い対策の結果、現在、都内に本社を置くレンタカー業者大手4社( >トヨタレンタリース、ニッポンレンタカー、オリックスルレンタカー、ニッサンレンタカー)から、 >照会文書なしで利用者情報の提供が受けられる関係が構築されており、 個人情報保護法違反だな
594 :名無しさん@十一周年:2010/11/01(月) 13:12:16 ID:u+R0nrPO0
>>1 暴力団=在日=民主党の支持基盤
611 :名無しさん@十一周年:2010/11/01(月) 13:36:27 ID:lO7a3iZv0
>>594 民潭に政権中枢が浸食されてるってことだな
タダのヤクザより性質が悪い
612 :名無しさん@十一周年:2010/11/01(月) 13:38:29 ID:Ak2Zk5aW0
>>611 民団と言っても中身は元総連だけどな。
ここまで民団の政治工作が強くなったのはそのせいだと思われる。
616 :名無しさん@十一周年:2010/11/01(月) 13:46:39 ID:F4+43YFrO
テレビは下らん芸人と、チョンタレント、韓流ドラマのオンパレード。
国営はシナチク、チョンの経済力賛美。民放の外国人株保有率は二割以上。完全に乗っ取られておる。
618 :名無しさん@十一周年:2010/11/01(月) 14:01:02 ID:ysKuvf7d0
>>616 株とは関係なしに、かつて北朝鮮をいちいち賛美名で呼び直していたころには
既に暴力的な方法で乗っ取られていた
これは、日教組、出版、芸能事務所、劇団、スポーツも同じかと
ジョンイルが拉致犯罪をゲロったためにそれ以降は中国と韓国と在日「のみ」
擁護・賛美に切り替えた(北朝鮮は韓国や在日経由でいくらでも支援可能)
55 :
名無しさんの主張 :2010/11/02(火) 02:05:14 ID:3YxI8AWK
年少者に尊敬される人間になれ。 それが最も効率よく組織を運営するコツだ。
★日本の村文化の特質 1/2 日本人と縄文体質 平貴 ( 25 埼玉 エンジニア ) 05/11/28 日本の文化に特徴的なのが「村の文化」。 この「村の文化」というのは、いわゆる、「長いものには巻かれる」ということ。 「世間体を気にする」と言うが、この世間体を気にするというときの「世間」というのは、 実は村で本当は社会ではない。だから、日本国中、どこへ行っても、顔見知りの人が いないところは、もう世間ではない。そういう意味では規則を守るのは村の中だけとなる。 だから、第二次世界大戦の時でも中国へ行ってさんざんひどいことができる。 若い女性を暴行したり、小さい子どもを虐殺したり。 彼らはすでに村の外に出ているから、世間にはいないわけで、世間の外で中国人に 対しては何やってもいいという、そういう普遍的な倫理性が働かないのが村の文化の 一つの特徴。 日本人の心性の中にこの村意識というのは、現代でも強烈に根づいている。学校や会社も 村であり、仲間内も村になる。我々、日本人はこの村から排除されることを強烈に怖がる。 いわゆる仲間外れになることが怖い訳だが、それはこの「村文化」に生きているから。 この仲間外れを怖がる傾向は現代の青少年に強く見られる特徴で、現代の若者も村文化の 中に生きている。例えば我が国の子供のいじめの問題もうつの問題も淵源はこんなところに あるという印象がある。 そして、このいじめられる人も、うつ病になる人も、みんな真面目で、ほとんど不真面目な 人はいない。 どうして、真面目な人がいじめにあったり、病気になるんだろう?辞書には、真面目は 「真心のこもった顔つき、態度」と書いてある。しかし、我々が日常的に使っている真面目 というのを考えてみると、「周りに合わせる。世間の常識に忠実に随って生きる。日本文化に 随って生きる」。こういうのを真面目と考える。
★日本の村文化の特質 2/2
すなわち、謙虚、ひかえめ、謙譲の美徳、奥ゆかしく、男は黙って、女は一歩退いて、
人に気を使って、人に合わせて、自分が我慢して、でしゃばってはいけない、いい気になっては
いけない、調子に乗ってはいけない等々、とにかく、一言で言うと「自分を殺せ」と言うのが
日本文化。だから、真面目な人ほど自分を殺している。
周りを見てみると、今の世の中、いわゆる、日本文化から見て悪い人が元気で、いい人は
あまり元気がない。病気になりがち。自分を自分で殺しているから。病は気からとは
よく言われること。
実はこの日本文化、真面目というのが、「村の文化」。出すぎた真似をすると村八分になる。
白黒はっきりさせる人は嫌われる。
村の文化の一番良い例が、村山内閣だったんではないかと思われる。あの村山内閣の時に、
阪神大震災が起きた。
その時の政府の対応にみんなが腹を立てた。一番困っている人を何で救わないんだと。
それに対して政府は言う。「従来の、慣例通りにしかできないので仕方がありません」
「全体としての救済はできますが、個々人としての救済はできません」。本当に無慈悲な
政府ということを露呈したが、実は、村の文化というのは、そういう無慈悲な文化でもある。
人間よりも組織を優先する。だから、人間を抑圧していくという文化。こういう文化が
日本文化の大勢を成している。
このような「村」を脱し、「社会」そして「人間」へと視点を広げていかなければ、いつまで
たってもこの村体質はなくならない。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=101584
58 :
名無しさんの主張 :2010/11/29(月) 14:21:15 ID:3KdpPUV5
そんじょそこらの学生や勤め人では、ムラ社会の重力圏から脱するのはもとより そのための力を蓄えるのすら非常に難しいと思う。 「脱出することを忘れて嘆くことしかしてない」のは叱咤されて然りでも 「嘆いてるのに脱出"できてない"こと」を叱責するのは酷というか、無意味じゃないかね。 まぁしかし本来の意志は「脱出」ってのを忘れないよう啓蒙するのはそれはそれで大事なことだ
でもねぇ、非常に難しいと諦めたら変わりようがないのも事実だよ。 結局、血みどろになってでも自ら切り裂いて脱出し、非ムラ的社会を創造できなきゃね。 それが無理だと嘆いているだけだったから今があるわけで。 血を流すくらいなら我慢してたほうがマシ。他人にも同様におとなしくしてるのを求める。 それが日本の大衆の伝統だからねぇ。
★必要なのは、明治維新ではなく、1940年体制との訣別逍花 提供:月明飛錫 2010年11月29日02時32分 今日、11ヶ月間続いた『龍馬伝』が、最終回を迎えた。一般的にはわりと盛り上がっていた ようだが、個人的には、いまひとつ入り込めないところがあった。 なぜなのだろうと考えてみたところ、いまの日本に求められているのは、明治維新ではないと 感じているからだ、という結論に至った。 例えば、大政奉還後、慶應3年11月に、新政府の基本方針を示すために坂本龍馬が自ら書いたと 言われている「新政府綱領八策」。日本を近代化することによって世界国家の仲間入りを果たす という、明治維新の原点が示されている。 こちらが実物の画像↓ 国立国会図書館「史料に見る日本の近代-新政府綱領八策」 簡単にいうと、第1義と第2義では人材の登用、第3義では外交、第4義では憲法の制定、第5義では 議会の設置、第6義では陸海軍の設置、第7義では近衛兵、第8義では為替レートについて 書かれている。 今の日本では、ここに書かれていることは、実現されている。少なくとも、生まれながらの 身分が問われて、何かの職業につけない人はいないはずだ。封建制から民主主義への転換は すでに終り、家父長制が強かった明治時代と比べても、いまの日本人は、はるかに自由を 謳歌している。 しかし、今の日本は閉塞感に覆われており、イギリスのエコノミスト誌に、「東のアルゼンチン になる」、「イースター島になる」と書かれても、正面切って反発する人は少ないように見受けられる。 むしろ、衰退国としての将来を、甘んじて受け入れている人が多いのではないだろうか。 日本の開国は、移民と一部の農作物の輸入を除くと、制度的にはある程度行われているといえる。 それでも日本人が内向き志向になり、リスクをとらなくなった理由は何かと考えるべきだろう。 私は、明治以降の日本には、明治維新に匹敵する転換点があったと考えている。それは、 野口悠紀雄さんのいう「1940年体制」である。
★必要なのは、明治維新ではなく、1940年体制との訣別逍花 2 終身雇用や年功序列を特徴とする日本型企業、間接金融中心の金融システム、平等主義などは、 日本特有の社会・経済システムであるとしばしば考えられている。しかしこれらは、昔から 存在していたのではなく、総力戦遂行という特定の目的のために導入された特殊なシステムだった。 それ以前の日本は、株主優先の会社、非終身雇用、直接金融中心であった。そして、第二次世界大戦に 勝つための「1940年体制」という国家総動員体制は戦後も続き、それが高度経済成長期をささえ、 さらにはそれが現在の日本経済の足を引っ張る要因になっている。これが、野口悠紀雄さんの 著作『1940年体制 さらば戦時経済』の主張だ。 戦争遂行という国策のためには、「利益」よりも「生産」が重視された。儲からないから、 兵器は作りません、では戦えない。重要な資源を国が統括して、戦争遂行のために配分した。 日本の製造業の大きな特徴である下請制度も、軍需産業の増産のための措置として導入された。 今では、大企業を中心とした企業グループが、1つの企業のようになっている。 戦後は、1940年体制によって確立された金融システムが、基幹産業と輸出産業に資金を重点的に 配分することによって産業構造を大きく変化させた。これらの金融システムは、大企業と金融機関 中心に組み立てられており、貯蓄の供給者である家計は、本来得られたはずの利子所得を得られなかった。 それでも高度成長期は、全体的に賃金水準が上昇したため、家計に経済成長の果実が還元された。 このことは「会社中心主義」につながり、多くの「会社人間」を生み出し、彼らは会社と運命共同体 となり、企業の存続が最重要の課題になった。 現代では、IT化とグローバル化で、これまでのビジネスモデルが陳腐化し、新しい産業への 人材供給、企業間での人材移動の必要性が高まっているにもかかわらず、人材の流動化を円滑に 行うような政策は実行されていない。これは、1940年体制の基本的な理念である、「生産優先主義」と 「競争の否定」から脱却できていないのが大きな理由なのではないだろうか。
★必要なのは、明治維新ではなく、1940年体制との訣別逍花 3
「生産優先主義」とは、生産力の増強がすべてに優先すべきであり、それさえ実現されれば、
様々な問題が解決されるという考えである。
「競争の否定」は、この体制が、あるひとつの目的のために国民が一致団結して働くことを
目的としているため、チームワークと成果の平等配分が重視され、競争は否定される傾向に
あることだ。産業でも会社でも、脱落者を発生させないことが重視された。
「経済成長」という総力戦でうまく機能したシステムは、「変化」に対応できず、閉塞状況に
陥っている。今の日本の将来を描くために必要なのは、「1940年体制」を脱ぎ捨てることだ。
日本が明治新国家を建設したとき、近代化を進め世界の大国と肩をならべるという目標があった。
1960年代の高度成長期にも、夢があった。
今の日本では、残念ながらそうした夢を見出せないでいる。しかしグローバルに見ると、
「古い企業から新たな企業へ」、「製造業から知識産業へ」、「組織から個人へ」の移行が
始まりつつある。
こうした環境の変化をふまえ、「生産優先主義」と「競争の否定」から訣別し、「消費者優先社会」
を実現するべきだろう。
【関連記事】
就職氷河期世代のいま〜改めて終身雇用について考えた
必要なのは、明治維新ではなく、1940年体制との訣別 逍花
http://news.livedoor.com/article/detail/5171111/?p=1
シマ社会
シマ社会(シマしゃかい)とは、沖縄県における地域社会を表す言葉である。本土における
ムラ社会に相当する。
シマ社会の功罪 [編集]
沖縄県のシマ社会は、本土の地域社会と比較して、独自の財産(法律上の位置づけは財産区や
地縁による団体)を持ったり、「字史」の編纂などを盛んに行うなど、今なお強固な
結束を誇っている。
その一方、他郷者に対しては極めて閉鎖的・排他的で、他郷者に対する差別などが厳然として
存在している。またシマ社会内部に対しても極めて抑圧的で、かつては村の掟に背いた者や
気に入らない者をリンチして殺害する事件が度々発生(サンシー事件、具志頭制縛致死事件、
糸満町集団殺人事件を参照)するなど、本土の村八分どころではない暗部も多く抱えていた。
現在でも「シマ社会の総意」に反する言動が憚られるなど、現代沖縄社会に微妙な影響を
与えているが、過去に比べると薄れつつある。特に那覇市をはじめとする都市部では
影響が薄い。だが農村部では他郷者に対しての差別は残っている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%9E%E7%A4%BE%E4%BC%9A
★特攻隊をめぐる日米の対応ー国民性の視点から 1 (2)大家族国家の強烈な愛国心 ア 大家族国家 日本人に「特攻」攻撃を可能とさせたものは何んであったのであろうか。 「特攻」攻撃開始の 契機となったのは搭乗員の絶対的不足、訓練不足による練度の低下、 その結果としての犠牲の 増大、 それに反比例する戦果の低下により「そこで、特攻、 体当りということが誰いうとなく みんなの頭に考えられるようになった」という(草鹿龍之助『連合艦隊参謀長の回想』和光堂、 1979年、293頁)。 しかし、 国民性という視点から見るならば、 「特攻」攻撃を可能とした 精神的基盤は、稲作民族の体質から生まれた大家族主義に総てが凝縮されているように思われる。 すなわち、 稲作民族が構成する水平的広がりが「ムラ社会」であり、 歴史的垂直的構成が 「タテ社会」であるといわれているが、「ムラ社会」では稲が水を必要とするところから、 水路を 通じて強く結び付けられ移動が困難なところから定住し、そこに運命共同体的な一体感が生まれ、 個人よりも集団を重視し、 個人の集団に対する忠誠心を重んじる社会制度を発達させた。 稲作によって結ばれた「ムラ社会」は閉鎖的で強い郷土意識を特徴とするが、 日本の場合は 東南アジア諸国と異なり、さらに、この「ムラ社会」に島国的特性も加わって、 一民族・一言語・ 一国家という世界史上に類を見ない極めて均質的な家族国家を形成した。
★特攻隊をめぐる日米の対応ー国民性の視点から 2
しかも、 この日本民族は欧米諸国の遊牧・狩猟民族を祖先とする国家と異なり、ある部族が
他部族を侵略して奴隷のように支配する、支配階級と支配者に生殺与奪の権を奪われた被支配階級
とからなる階級構造をもたなかった。このため被支配者の力に訴えて服従を引き出す支配体験はなく、
同質の人間のみによる「ムラ」の共同体的集団原理をそのまま国家レベルに昇格させてしまった。
また、農耕社会では狩猟社会とは異なり、 新しい技術や発想よりも経験が優先されるところ
から長老支配が生まれ、家の中では家長の絶対的な支配という家族制度が発達した。 この家長の
絶対支配、家長への服従は時代とともに変化拡大し、戦国時代には主君に対する忠誠心へと
進んだが、さらに近代明治国家が誕生する家長の支配体制は天皇に集中され、 「一国全体が
一大家族として天皇をその家族と仰ぎ奉る(陸・海軍省編『勅諭奉戴五十年を迎え奉りて』
陸・海軍省、1932年、 45頁)」と、 国民の総てが「皇祖皇宗を共同の祖先」とす天皇を国家の
家長、国民の総てが天皇の赤子とする天皇崇拝が家族意識を総動員した祖先教の形で定着した。
そして忠誠心が天皇を核とする国家に集中され、 これに島国的「ムラ」社会から生まれた強い
同族意識と同族愛が、国家への愛国心となり、この家族国家のために個人の生命を捨て得る
特攻隊を生んだのであった。
http://www3.ocn.ne.jp/~y.hirama/yh_ronbun_senryaku_totsukou_kokuminsei.htm
ひとつ言っとくけど、 たとえそれがどんな内容であったとしても、 他人の主張を丸呑みするのはそれこそムラ社会だから気をつけろよ。
Yahoo! Japan知恵袋
egaega9310さん
日本的ムラ社会の閉鎖的考えとグローバルスタンダードの思想は相反するものでしょうか?
それとも両立して、新たな概念を生み出すのでしょうか?
質問日時:2008/1/24 00:06:06.
ベストアンサーに選ばれた回答yookoophdさん
「日本的ムラ社会の閉鎖的考え」の特徴のひとつは二重規範です。すなわち、内と外で基準を
使い分ける。内は内で処理し、世間に迷惑をかけないかぎり問題なしとする。
グローバルスタンダードは、外の世界の基準として入ってきて、そのかぎりでは定着しています。
西暦と元号が良い例ですが、両立しています。
私は、新たな概念を生み出すとは思いません。徐々に外の基準が内の基準を脅かすだけです。
回答日時:2008/1/25 16:08:33
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1014435730
大学のサークルとかは典型的なムラ社会だな。 たかが四年間活動するだけの同好の集まりなのに、なぜか30歳のOBが幅を効かせていたり 毎年必ずやらなければならない伝統行事があったり、 ごくごく狭い範囲でしか通用しない「掟」が山のようにある。 しかも何も知らない新入生に対して、2〜4年生、場合によってはM1〜D3まで含めた大勢の「先輩」が プレッシャーをかけるから逆らえない。 これが自由闊達な大学の文化活動だと言うのだから笑えない。これじゃあ、ただの社畜訓練だ。
★世界に通用する教育とは何かを考える - フィンランドの教育 1
読んだものまとめブログ 2010-12-13
世界に通用するためには、専門的な力も必要ですが、それを表現するプレゼンテーション力、
自分の考えを伝える論理力、より有利に交渉するための折衝力等が重要視されています。しかし、
そういった能力は今になって急に求められ始めたわけではありません。昔から阿吽の呼吸を求める
『ムラ社会』で、掟、慣習、空気等で縛りつけて、まともに討議してこなかった閉鎖的な環境が
日本のコミュニケーション能力を低下させる原因に他なりません。今後のますますのボーダーレス、
グローバルな世界を迎えるにあたって、ムラ社会からの脱却を決意し、普遍性の高い能力を
養っているフィンランドから学ぶところは沢山あります。
受けてみたフィンランドの教育
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4163694501/sadadad54-22/ 作者: 実川真由,実川元子
出版社/メーカー: 文藝春秋
発売日: 2007/09
メディア: 単行本
1 フィンランド教育の考え方
フィンランドは人口も資源も乏しい国です。ですから個々の能力と資質を高めて一人当たりの
生産性をあげるしかなく、生き残るためには世界でも通用する普遍的な教育が重要と考えています。
その教育方針は個人に対してコミュニティ、組織、社会が行う責任があるというコンセンサスを
前提にしており、教育を取り巻く環境についても多くを言及しています。教育に対してコミュニティ、
組織、社会が権利を持ってしまえば、日本のように掟、慣習、空気等が蔓延し組織の論理優先の
息苦しいものになってしまいます。ですから、責任はあるが権利はないことを強く強調している
ところが印象的です。
★世界に通用する教育とは何かを考える - フィンランドの教育 2 2 フィンランド教育方針 ・1 学校は勉強するところである 学校とは勉強するための場所であることが徹底されています。友達との関係や、集団生活、 しつけや道徳を学ぶところ等、日本のようにあれこれ多機能を求めていないため、教育者も 生徒も学業に専念することができます。勉強することに意識が集中させることでその教育効果を 最大に引き出すことができるのです。曖昧で多くを求める教育では何が目的なのかを見失いがち になり、教える側も教えられる側もそれぞれに学校に対する目的が異なれば多くの無駄が 生じることは必至です。 ・2 義務教育にも留年がある 学費が無料ですから、留年しても家計を圧迫しません。また受験も無いためマイペースで勉強が 出来ますが、基準に達していなければ義務教育でも留年があります。そもそも段階を踏まずに 進級しても、分からないままの意味の無い時間を無駄に過ごすことになります。『知るは一時の恥、 知らぬは一生の恥』で留年は当然のことと受け止められれば、そういった理不尽は無くなる筈です。 タテマエの学歴などあっても仕方有りません。勉強したい人は、いつでもどこでも学習できる 環境がそこにあれば、真の実力が身につきます。日本のようにとりあえず進級させて落ちこぼれを 蔑み放置する仕組みは存在しません。 ・3 すぐに進学しない また、やりたいことを見つけるために、すぐに進学しません。進学はあくまで選択枝の一つです。 あせらずに進路を決めさせるために会社に勤めたり、世界を旅したり、軍隊に入ったりと学ぶこと 以外にも社会経験を積ませる環境があります。受験のハードルは低いですが、卒業までに厳しい テストが多く待ち受けています。何のために大学にいって学ぶのかを見つけてからいくため、 もともと学習意欲は高く、卒業生の質も高くなるのは当然です。日本のように大学に入ってから ウロウロするようなことはありません。
★世界に通用する教育とは何かを考える - フィンランドの教育 3
・4 求められるのは違いを刷り合わせるコミュニケーション能力
テストは基本的に論述です。知識を咀嚼して意見を書いていく能力が強く求められます。日本の
ように『19XX年に誰が何をしたか』などといったことなど覚えるには値しません。覚えるべきは
『当時の武将はなぜそのタイミングでその戦術を選択したのか』です。覚えることは重要ですが、
覚えるべきは原理原則だけでよく、詰め込んだ知識を解釈して表現する力、他人に自分の考えを
伝える力の方が大切であるという共通認識があります。そうなれば必然的にコミュニケーション
能力は育成されますし、まとまった考えを表現することで自分の認識を深く掘り下げる力も
つきます。日本のように全員に同じ答えを強要し、同じ答えが出ることに正解をつけるようでは
ガラパゴスになる温床になって当然です。
自己教育の真の方法は、すべてのことを疑ってみることである。
ジョン・スチュアート・ミル
読んだものまとめブログ 2010-12-13
http://d.hatena.ne.jp/sadadad54/20101213/1292189834
★日本の村社会の解体は案外ファシズムに繋がるのかも知れない
・なぜ日本人は自由競争も所得再分配も嫌うのか? - Baatarismの溜息通信
が面白かったのでそこからちょっと考察。
自分もここに書かれている「日本人は相互監視と相互制裁のしくみの元では集団主義的な行動を取るが、
そのようなしくみがなくなると個人主義的な行動を取る(いわゆる「旅の恥はかき捨て」)傾向がある」
と言う部分には深く同意するのだが、20年続いた不況で企業・地域コミュニティが壊れ、いわゆるここに
書かれている「内集団」が解体されつつある今、日本人の行動はどう変化していくのだろう。この理屈で
行けばますます利己的な個人主義的な行動に向かうようにも思えるが、それが自由競争や所得配分を
認める方向に結びつくとは思えないからである。
かと言って不平等な競争の元、セーフティネットも無いなかで暮らしていくのは難しい。ましてや
その中で自己の利益を最大化するために利己的な行動をし続ければ社会はぎすぎすし、治安も確実に
悪化する。そうなったときに大衆は果たして自由競争を受け入れ、所得配分を認めるだろうか。
むしろこれまでの生活を守るため万人に対して相互監視と相互制裁の徹底を望むのではないだろうか。
その先にあるものは恐らく全体主義に繋がる全国的な相互監視と相互制裁の実現とそれを可能にする
ハイテク化した権力システムの承認だろう。兆候は既に出ているような気もする。監視カメラはあらゆる
所に設置されつつあるし、携帯電話の位置情報やナンバープレート読み取りシステムなど個人の動きを
追跡する技術は着々と完成しつつあるからだ。
グローバリズムによって日本の閉鎖的なシステムは解体されると言う論調はよく聞くが、案外
上に書いたようなディストピアの方が実現する可能性は高いのかも知れない。
Fukuma's Daily Record May 24, 2010
http://fukuma.way-nifty.com/fukumas_daily_record/2010/05/post-3e29.html
村社会は永遠に不滅です。
★評価を嫌うムラ社会 1/2 坂口昌章の「j-fashion」 November 03, 2010 JFWの存亡が危惧されている。最大の要因は予算の縮小だが、本質的な問題は経済的要因 だけでなく、コレクション、展示会というイベントが機能しないことだろう。 海外のコレクションと日本のコレクションを比較すると、日本ではコレクションに対する批評、 評論、格付け、ランキング等が圧倒的に少ない。業界マスコミも単にコレクションの内容を解説 するだけであり、どのコレクションが良かったのか。どのコレクションが悪かったのかを比較 したり、ランキングを発表することはない。従って、コレクションの評論やランキングがビジネスに 影響を及ぼすこともない。 日本における唯一の評価とは客観的な売上や利益である。売上さえ上げれば、デザインをコピー しようが非難されることはない。もし、非難されるとすれば、訴訟や判決という客観的な事実に 基づいてのことだ。 このように日本社会では主観的な評価や評論はほぼ認められない。ほとんどの新聞で匿名原稿が 多いのも、事実を伝える新聞記事に主観は必要ないという考えに基づいているのだろう。 売上しか認めないのであれば、コレクションは必要ない。展示会も評価されるのは商談や 成約金額だけであり、その創造性や技術力等が評価されることはないのだ。粗悪品でもコピー商品 でも勝てば官軍なのである。経営者はデザイナーなど必要ないと考え、社内外の企画担当者や デザイナーのモチベーションも大きく下げる。そして、ファッション業界に夢を抱く若者も 著しく減少している。
★評価を嫌うムラ社会 2/2
また、正当な評価、評論、ランキングを拒否する業界には投資が集まらない。専門家が将来の
展望を予測し、それがビジネスをリードする環境があれば、投資しやすくなるだろう。しかし、
仲間うちで固まるムラ社会は、開かれた評価を嫌うのである。自分達のことは自分達が一番
よく知っている。だから口を出すな、という態度なのだ。
そうした閉塞状況を打ち破るのがジャーナリズムの一つの役割ではないだろうか。しかし、
既存のマスコミは広告スポンサーやムラの有力者の顔色を気にして、書きたいことも書けない
のである。あるいは、書きたいことなどないのかもしれない。
最近、ブログやツイッターでの意見、評論等が思わぬ影響力を持つのを見かける。そこには、
個人の主観的な評価が見られるからだ。ファッション業界も既存のプレスに依存せず、
評価システムを考え直す時期に来ているのではないか。
http://j-fashion.cocolog-nifty.com/jfashion/2010/11/post-9d41.html
77 :
名無しさんの主張 :2011/03/22(火) 21:47:33.95 ID:ETl0sAW0
村社会そのものが全体主義なんだ。本当の村社会というのは、実は無法地帯なんだ。 どういうとことが無法地帯化というと、選挙違反は当たり前で、投票に行かない だけで村八分にする。こういう日本国憲法すら通用しないような田舎がいっぱいある。 村のおきてというのは全体主義で、時にはこれに従わない人間は生命すら危険に なる。憲法すら人間の生命を大事にしているのに、村のおきては殺しも平気だ。 村のおきては、北朝鮮やヒトラードイツ同等の人類に対する人間性の犯罪なんだ。
★日本には、疑問や批判を口にする技術者を村八分にする原発ムラ
東京電力福島原発を造った大手重電の元技術者たちが事故発生以来、
インターネット放送などで自己批判と原発政策の告発を続けている。
「もっと声を大にして言い続けるべきだった」。
東芝で放射能を閉じこめる原子炉格納容器の耐性研究グループ長だった後藤政志さん(61)は話す。
1979年の米国スリーマイル原発事故などで、格納容器内が異常に高圧になるとわかり、
放射能物質ごと大気に放出する弁を付ける事になった。
「フランスは、内圧が上がりにくく、放射能物質が漏れにくい巨大なフィルター付き格納容器を造った。
われわれも必要、と議論したが、会社は不採用。コストだなと思った」と後藤さんは言う。
「高台に建てたり、防水構造にしたりしていれば。想像力が足りなかった」。
60年代、国内に技術がなく、津波を想定しない米国の設計図をコピーして
第1原発を設計した元東芝社員小倉志郎さん(69)は悔やむ。
4号機の設計にかかわった元日立グループ社員で科学ライターの田中三彦さんは今回
「政府や公共放送が危機を正しく国民に伝えていない」と感じている。
「格納容器内が8気圧になった時、普通は4気圧などと流していた。
普通は約1気圧で、4気圧とは事故に備えた設計値だ。
8気圧なら異常事態なのに、パニックにしないという配慮が多すぎる」
3人はこれまでも匿名、あるいは著作、集会などで原発の危険性を訴えてきた。
だが国や企業から返ってきたのは「冷笑だった」(後藤さん)。
東京のNPO環境エネルギー政策研究所顧問竹村英明さん(59)は
「日本には許認可権を持つ経産省、学者、電力会社などで作る原発ムラがある」という。
竹村さんによると、ムラは強力で、疑問や批判を口にする技術者を村八分にする。
3人がそうだったという。放送は、動画中継サイト「ユーストリーム」や「ユーチューブ」などで見られる。
北海道新聞
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/topic/280370.html
79 :
名無しさんの主張 :2011/03/27(日) 22:45:42.06 ID:Grez8dyo
漫才師やマスコミ 教育 特に宗教 が撒き散らす 空気 が 個を 抹殺し重大な問題をそのままにし 後に大問題を起こす
80 :
名無しさんの主張 :2011/03/28(月) 00:46:51.09 ID:iW/lKtHl
ダセえ国だよな
民度の低下
★福島県前知事「無分別が生んだ破局」 推進の経済産業省と監視役の原子力安全・保安院が非分離の異常体制
【パリ共同】福島県の佐藤栄佐久前知事は29日付フランス紙ルモンドのインタビューで、
福島第1原発の事故について、原発の運営に関わった人間の「無分別がもたらした破局だ」として
東京電力や日本の原子力行政当局を強く批判した。
佐藤氏は福島県知事時代の1998年、全国で初めてプルサーマル計画を了承。
プルトニウム・ウラン混合酸化物(MOX)燃料が福島第1原発に搬入されたが、
2002年に東電の原発トラブル隠しが発覚、了承を撤回した経緯がある。
佐藤氏は「(今回の事故で)恐れていたことが現実になってしまった」と指摘。
日本の原発行政を推進する経済産業省と監視機関の原子力安全・保安院を
分離すべきだとの声があったのに実現していないことを挙げて
「日本は民主国家だが、浸透していない分野がある。
正体不明の利益に応じて、数々の決定がなされている」と原子力行政の不透明性を暴露した。
また「今回の破局は(原発に関する)政治決定プロセスの堕落に起因している」と指弾した。
北海道新聞
http://www.hokkaido-np.co.jp/news/politics/281838.html
★原発対応遅れ、東電と経済産業省が「もたれ合いの談合ムラ」であることが背景…与野党
東京電力福島第1原発の事故で政府の初動対応が遅れた背景として、与野党内から、経済産業省と
東電との「もたれ合いの関係」を指摘する声が上がっている。大物OBが再就職しているため、
安全面での指導が甘くなったとの見方だ。国会で取り上げられそうだ。
東電は、旧通産省時代から同省OBの再就職を受け入れており、副社長を務めた元幹部もいる。
今年1月1日には、昨年8月まで資源エネルギー庁長官として同社の監督に当たった石田徹氏が顧問
に就任。野党は、自公政権時代よりも短期間で関係先に再就職したとして、「究極の天下り」と批判
したが、菅政権は、経産省があっせんしたわけではなく「天下りには当たらない」と反論していた。
こうした経緯を踏まえ、自民党幹部は「OBがいる東電は身内。厳しい監視、指導ができるわけない」
と断じ、社民党の福島瑞穂党首は「どんなに危険と指摘しても聞く耳を持たなかった」と同省と東電を
批判した。
枝野幸男官房長官は28日の記者会見で、菅直人首相が震災発生翌日の12日早朝に原発を視察した
理由を問われ「東電からも経済産業省原子力・安全保安院からも、なかなか現地の情報が入って
こなかった」と情報不足を挙げた。しかし、天下り根絶を掲げる民主党内からは、菅政権が石田氏の
再就職を認めたことを念頭に「政権が代わっても、官民癒着は続いている」(中堅)、「東電と役所の
癒着、天下りが、政府対応が後手に回った一因だ」と冷ややかな声が漏れた。
▽時事ドットコム
http://www.jiji.com/jc/c?g=pol_30&k=2011032800937
84 :
名無しさんの主張 :2011/03/30(水) 00:58:48.85 ID:aoHqMi+L
仏教による精神的統治 村に民衆をつなぎとめ 考えさせない 正確な情報を与えず 疑心暗鬼を空気 いじめ 村八 へとガス抜きさせる ブレークスルー使用としても 祖先の霊は人質 前世も 死後も管理され 苗字すら与えてもらえない封建時代 今こそ正史を学ぶべき 空気 村社会を気にしすぎる性質を 脱皮するとき
★原発共同体ムラ組織から独立分離型チェック組織へ
経産省と保安院、菅首相が分離検討の意向
菅首相は30日、首相官邸で社民党の福島党首と会談し、東京電力福島第一原子力発電所の事故に関連して、
「原子力安全・保安院の体制を含めて議論する必要がある」と述べ、経済産業省と保安院の分離を検討する考えを示した。
今回の事故を受け、原子力の安全規制を担う保安院に関し、原子力を推進する立場の経産省の外局になっていることを踏まえて
「安全面のチェックが甘かったのではないか」という指摘が出ている。民主党は、2009年の衆院選の政権公約(マニフェスト)でも、
経産省と保安院の分離を前提に「原子力安全規制委員会を創設する」としており、事態が沈静化すれば、こうした方向で議論が進むとみられる。
また、首相は福島氏に「自然エネルギーの割合を20、30、40%と広げていきたい。
自然エネルギーを応援する仕組みを考えたい」と語り、現在は9%の割合にとどまっている太陽光などの
「再生可能エネルギー」の普及に努める考えを強調した。
(2011年3月30日19時04分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/politics/news/20110330-OYT1T00801.htm
★原発ムラ一覧
電力会社(設備投資の3.5%は料金に反映できるため多大な設備投資)
マスゴミ(4媒体でトップクラスの広告主は電力会社)
原発メーカー(プラント受注がなければ企業として成り立たないほど依存)
地元首長(誘致あっ旋役)
交付金目当ての住民(遊んで暮らせるほどの年収)
御用学者(研究費と言う名のワイロ)
利権政治家(メーカー、ゼネコンからガッポガッポ)
ヤクザ(土地買収、被ばく労働者あっ旋、被ばく労働者の口封じ)
原子力保安院(そこに居て見てるだけ、あとは渡り鳥で転々)
安心してください
われわれの税金はこの村の中で清く正しく使われているようです
↑これまじか。この国オタワ。怖い怖すぎるよー
↑【東京電力】勝俣会長、中国旅行の際にマスコミ関係者の一部旅費を負担したことを認める★2 (via edieelee)
http://tooola.tumblr.com/post/4207554628/3-5
★内ごもり社会ニッポン【閉鎖型】 1 Joe's Labo 経済一般 / 2011-04-18 17:23:32 不平等社会日本―さよなら総中流 (中公新書) クリエーター情報なし 中央公論新社 先週、ドイツに出張してきたのだが、ハンブルグ商工会議所の課長さんから面白い話をうかがった。 企業フェアのようなイベントを企画して、貿易実績のあるアジア諸国の企業に参加を打診したところ、 マレーシアや中国、韓国といった国からは待ってましたとばかりに、それぞれ50社以上 のエントリーがあった。 ところが、日本からは〆切間近になって、ようやく10社ほどがエントリーしただけだったそうだ。 もちろんこれは震災前の平時の話。企業が営業を自粛する理由など何もない。 「いったい、日本で何が起こっているのか」と、親日家の多いドイツ人は本気で心配していた。 ついでにいうと、この手の話はけして珍しいものではなく、「100億規模のコンペのオファーが来たのに、 部署間でたらい回しにした挙句に不参加」なんて話は大手企業ではたまに聞く。 よく「最近の若者は内ごもりだ」という論調があるが、少なくとも海外から見れば、日本全体、 上から下まで内ごもってるように見えるらしい。 佐藤優風に言うなら、戦後日本というシステム全体が空洞化し、自壊しつつあるのだろう。 この構造について、分かりやすい形で触れているのが本書である。 本書で言うところの「ホワイトカラーの上位層」(以後“W雇上”)は、日本型雇用が保証される 二階部分と考えて問題ない。そして、そのW雇上の多くが、団塊以降の世代では親も同じ W雇上であり一種の身分制度として世襲されていると喝破する。 もっとも、それ自体はどこの国でも普通に見られる現象だ。 誰だって自分の子供の教育には金をかけるものであり、遺伝子で振り分けでもしない限り、 経済格差の影響を成績から完全排除するのは不可能だ。 問題は、曖昧な選抜基準や硬直した雇用慣行によって、その身分制度化が強化されている点にある。
★内ごもり社会ニッポン 2 W雇上の家庭に生まれ、W雇上になるのが当たり前という雰囲気の中で育つことで、何をやりたいのか という目的意識を欠いたまま、曖昧な形で選抜競争を勝ち抜き実績を作る。(中略)その結果、 “実績”は何かが出来るはずだという責任をともなう資格という意味を失い、たんなる既得権へと 変質していく。いわばW雇上の家庭に生まれたという既得権によって“実績”をつみ、そうする ことで、その“実績”自体もまた既得権化してしまうのだ。 さらに言えば、困ったことに、この疑似貴族階級は、ノブレス・オブリージュ的な階級への 責任感も持っていない。 西ヨーロッパのような明らかな階級社会であれば、たとえ競争という形をとっても、それ自体の 不平等さが目に見える。(中略)自分がその地位にふさわしい人間であることを 目に見える形で積極的に示さなければならない。 階級社会特有の「高貴な義務」という概念がそこに生まれる。 これが、社会の上位にどっかりと居座る、無責任で無反応で空虚な暗黒物質の正体だ。 普段はこれといって努力しないけれども、いざ自分の取り分が削られそうになると、マルクスから 内田樹まで総動員して屁理屈こねまくる人って、誰でも一人くらい心当たりあるだろう。 自身の生産性はまるっきり棚に上げつつ「我々には雇われる権利がある」と息巻くJALの リストラ社員が典型だ。 よく「若者の内ごもりについてどう思いますか?」という質問をされるのだが、個人的には 内ごもりなのは社会全体であり、彼ら若者は空気を読んでいるにすぎないと考えている。 日本全体が海外に目を向けていたバブル期、その流れで猫も杓子も「海外勤務希望です」と 言っていた先輩たちと、本質的にはまったく変わっていない。 変わったのは日本を取り巻く環境であり、55年体制に引きこもって見て見ぬふりをし続ける 日本が停滞するのは、ある意味で当然の結果だろう。 http://blog.goo.ne.jp/jyoshige/e/9a49c93e66421115f2537ed1664af011
★東京電力は、今の日本のマネジメントや企業風土の鏡像である 1 石川貴善 2011年04月24日08時07分 すでにスマートグリッドや発送と配電の分離といったテーマが定着していますので、そうした 制度設計の話とは別に、今回は社風や組織風土を取り上げます。連日記者会見などで見る光景に 違和感を覚える方や、重厚長大型の企業にお勤めの方の中には「ウチと似ている」と感じる ことがあるかも知れません。主な特徴として、 1)会長/社長はなかなか出てこない →トップが出てくるのは、儀式として謝るか辞任するとき 2)次第に固定化しているものの、当初会見で出てくる顔ぶれが異なる →個人に責任を負わせずリスク分散の仕組み 3)話を聞いていると、誰が決めているかわからない →国の意向か、社内での合議かわからない 4)実業団選手や新入社員がブログやSNSで「悪くない」「嫌なら電気を使うな」と反論し、”炎上”する →愛社精神の発露ですが、部門の違う社員は報道程度の内容しか知らない場合が多く、 希望的観測で社会的に理解が得られない ことが挙げられます。 筆者が気になったのは、2004年の柏崎刈羽原発の事故報告書がウィキペディアに掲載されていた内容です。 話題になることを恐れ今は削除していますが、総じて組織風土の検証の箇所で「社員がものを 言いにくい組織風土」「異常などを報告しにくい社風」から、風土改革の必要性を訴えていましたが、 社会的地位や企業規模、地域独占で不祥事があっても経営が安定していることから、変えていく 動機に乏しく実現は無理と見るのが妥当でしょう。 1)社員がものを言いにくい→物申せば損をする 2)異常などを報告しにくい→何かあっても上司も知ったことから責任追及になり、「聞かなかったこと」 になり、結果として隠す風土になりやすい
★東京電力は、今の日本のマネジメントや企業風土の鏡像である 2
3)今までのロールモデルから、基本的に総務/企画出身の部門が力を持ち、現業部門は計画通りに
実施することが善とされる環境
4)失敗事例に学ぶ習慣がない→建前で「失敗するはずはない」ため、自己暗示にかかってしまい
経験知が生かされる機会がない
5)指揮統率能力が低い→2年前の柏崎刈羽におけるポンプ室火災の対策書類の中に、原因の中で
「現場の状況把握や協力会社への指示など現場統率力の不十分さ」とあります。実際は協力会社任せで
担当者は定期的に異動するため、リーダーシップの育ちようがありませんし、”安定”が唯一の
動機の中でリーダーシップを取るタイプは新卒採用の段階で落とされるでしょう。
こうした中で、事務処理能力や調整能力が重視される風土では、非常時にあっても「予定調和の中で
計画通りに動く」ことが求められ、計数管理や発電量の管理が厳しく、現場の状況や意向など
無視されやすい風土が醸成されるのは無理からぬことでもあります。同社では社長を含め二世社員が
多いため、外部から異様に感じても慣れれば帰属主義と一体感による心地よさが醸成されています。
その要因として官公庁や大手メディアと同じで、”自社しか知らない”流動性が関係しています。
紐帯の強さと社会での相克は日本的企業で起こりやすいですが、消費者は「嫌なら買わない」
選択により、業績などで収斂されていきます。今回の事故で東京電力が社会的な反発を招いているのは、
地域独占で会社を選べないうえに、独占利益を各方面への工作やメディアへの影響力によって、
特に「ウチの論理」がグロテスクな形で顕在化したのが今回の原発事故でもあり、その鏡像が
強烈ゆえに国内外から嫌悪感を持って見られるのではないでしょうか。
http://news.livedoor.com/article/detail/5512538/
★閉じた終身雇用というムラ社会の抑圧が事件の背景だったのか? 1
ふと『東電OL殺人事件』を読み返してみた
Joe's Labo 書評 2011-05-06 19:08:54
東電OL殺人事件 (新潮文庫)
リエーター情報なし 新潮社
http://www.amazon.co.jp/dp/4101316333/ 毎日のように“東京電力”という言葉が飛び交う中で、ふと本書が頭に浮かんだ。
もう14年も前の事件だが、当時、“東電”というアングルでは事件を見てはいなかった。
というわけで、改めて連休中に本書を再読してみた感想を。
事件について簡単に触れておくと、昼間は東京電力の課長というエリート、
夜は渋谷の街角に立つ女という2つの顔を持つ女性が、安アパートの空き部屋で惨殺され
放置されていたという事件である。
「なんでそんなエリートキャリアウーマンが、夜の顔なんてもってるんだ」
というのが、当時の人の率直な疑問だったと思う。同じ疑問を抱いた著者が、被害者の
心の闇に迫るため、夜の渋谷からネパールの山奥まで駆け回って書き上げたのが本書だ。
あらためて事件の経緯には触れないが、今読んでみると、この事件にはいくつかの
コントラストがあるように思う。
東電と、渋谷の夜の世界
父親と、被害者本人
日本とネパール
東電という半官半民のインフラ大企業で課長まで昇格した彼女は、間違いなく勝ち組だ。
事実、夜の仕事の合間にさえ、異常なほどのエリート意識を垣間見せている。
★閉じた終身雇用というムラ社会の抑圧が事件の背景だったのか? 2 だが、それはタダで手にしたわけではない。いつも言っているように、終身雇用の 目に見えないコストはけして安くは無い。女性ならなおさらだ。 私は男女雇用機会均等法の施行から十年以上たった今も、女性にとって日本の会社は きつい。男性にとってもきついだろうが、女性にとってはそれ以上にきつい職場環境と なっている、そしてその状況は以前とほとんどかわらないどころか、“平等”の名のもとに ますますきつさの度合いをましているのではないか、と思わざるを得なかった。 (中略) 「私も結婚したらやめようと思って銀行に入ったわけではありません。けれど日本の企業には 結婚と仕事を両立させるシステムはあっても、出産と仕事を両立させるシステムはまだ ほとんどないんです。名の通った大企業ほど女性が長続きしないのもそのためだと思います」 (被害者と同じゼミの出身女性) 東電同期女性の証言も興味深い。 東電の面接試験を受けた時、うちは四大卒であっても女性は短大卒と同じに扱いますと、 はっきり言われました。(中略)入社してからは制服も決められた通りに着て、東大卒だと いうことはおくびにも出さず、お茶くみもしました。ずるいやり方だとは思いましたが、こういう会社 では、ちょっと目立つことをするとすぐに足をひっぱられると思ったからです。 W(被害者)さんの態度は私とは正反対でした。自分はエコノミストのスペシャリストでいくと、 堂々と言っていました。けれど、こんなにつっぱって本当にやっていけるのか、という一抹の 不安があったことも確かです。 重要なのは、それだけの負担をしつつも、父親には勝てなかったという事実だ。 被害者の父は東電で役員手前まで進んだエリート社員だった。 本書では(主流から外れる)子会社への出向や派遣留学の挫折が重要なターニング ポイントだったと示唆している。
★閉じた終身雇用というムラ社会の抑圧が事件の背景だったのか? 3
こうしていったん主流を外れてしまうと、もはや個人の努力ではいかんともしがたい
ところが、閉じた終身雇用というムラの恐ろしいところだ。
今のようにネットでいくらでも好きなことが探せて、転職もオープンになっていれば
状況も違っただろうが、80年代末ではまず無理だろう。自分を押し殺して生きるしかない。
元々押し殺して入った世界でもう一回押し殺すのだから、どこかに無理が出る。
その無理が形となったのが、もう一つの夜の顔だったのだろう。
ネパールの寒村から出稼ぎにきた男たちに、渋谷の安アパートで向き合うことで、被害者は
何を埋めようとしたのだろうか。
2000年代に入って、30代正社員のメンタルトラブル増加が問題となっている。
激しさの違いはあれど、基本的には本書で描かれた絵と同じだというのが、個人的な実感だ。
※ネパール人容疑者には高裁で無期懲役判決が下されたが、本書もたびたび指摘するように、
明らかに冤罪の可能性が高い。検察のご都合主義という点も含めて、本書の内容は
まったく色あせていない。佐野眞一の最高傑作だと思うので、未読の人にはおススメしたい。
ふと『東電OL殺人事件』を読み返してみた
Joe's Labo 書評 2011-05-06 19:08:54
http://blog.goo.ne.jp/jyoshige/e/4a066228a53bdaddbe636b215f39cf71
94 :
名無しさんの主張 :2011/05/17(火) 08:36:50.90 ID:HOHhH3kK
保守
★村社会の論理を崩す 1/2 2011年05月21日09時18分 早川忠孝 昨日の朝日新聞朝刊にすごい記事が載っていた。 15面のオピニオンに「原子力村」という特集が組まれていた。私が目から鱗が落ちたような 気がしたのは、立命館大学名誉教授の安斎育郎氏のインタビュー記事である。原子力村、 原子力村と言うから何か行政単位のような印象があったが、原子力研究者の世界が村社会であった ということが見事に浮き彫りになっている。 安斎氏は1960年にできた東大工学部原子力工学科の第1期生15人の一人だったという。 同期生のほとんどが原子力業界に進んだが安斎氏は「原子力の安全が破綻したらどうなるか」 ということに関心があり、一人だけ原子力政策を批判する立場になったそうだ。東大で研究者 だった17年間ずっと助手のままだった、主任教授が研究室のメンバー全員に安斎とは口を きくなと厳命し、後進の教育からも外された、研究費も回してくれないので髪と鉛筆だけで 出来る研究に絞らざるを得なかった、東京電力から一事研修に来ていた人は、去り際に 「安斎さんが原発で何をやろうとしているか、偵察する係りでした」と告白しました、という 安斎氏の証言は当事者でなければ語れないことばかりである。 1986年に立命館大学の教授に就任され、2008年から国際平和ミュージアム名誉館長を 務められているから学問の世界で立派な業績を挙げておられる専門の研究者だと思われる。 こういう立派な研究者が18年間も助手の座に据え置かれていたというのだから、それが如何に 理不尽なことかお分かりになると思う。 理不尽なことが罷り通る不思議な世界。これが村社会である。村の掟に背く人が徹底的に 排除される理不尽極まりない世界。 村八分と言うのは、こういうことだ。こういう閉鎖的な、風通しの悪いところで育った人は、 どこか歪なところがある。既存の原子力研究者の中に巣食ってきた「村社会の論理」を排除して いかなければ、本当の学問の発展はないのではないか。
97 :
名無しさんの主張 :2011/05/24(火) 06:28:30.07 ID:hU0Ifpbr
>閉鎖ムラ社会から近代市民社会へ これで害人に日本が荒らされる 地域のコミュニティーを破壊して 団結を削ぐのが手始め 近代市民ねーw
★記者の目:「原子力ムラ」の閉鎖的体質=日野行介/毎日新聞 1 2011-04-21 23:52:04 ◇事故の背景に、批判拒む傲慢さ 東京電力福島第1原発の事故の取材応援で、東電や経済産業省原子力安全・保安院、内閣府 原子力安全委員会の記者会見に何度も出席した。そこで強く 疑問に感じたのは、「想定外の事態」や 「未曽有の天災」という決まり文句を盾に、決して非を認めようとしない専門家たちの無反省ぶりだ。 これまで不都合な 警告や批判を封じ込め、「安全」を自明のものとして押し付けてきた業界の 独善的体質が今回の事故の背景にあると思える。 ◇言葉は丁寧だが決して非認めず 「大変なご心配をおかけして申し訳ありません」。東電の記者会見は必ずと言っていいほど 謝罪の言葉が出る。だが、「多重防護」を誇ってきたはずの 原発の安全性自体に疑問が及ぶと、 会見する幹部の態度は途端に硬くなる。言葉は丁寧だが、非は決して認めず、自分たちの言い分だけを 強調する。都合の悪い 質問には、記者をにらみつけながら木で鼻をくくったような対応をする幹部もいる。 こうした会見の模様はテレビやインターネット動画でそのまま報道され、政府の対応への不信とも 相まって、国民は「本当に大丈夫なのか」「うそをついているのではないか」と疑念を募らせている。 私は02年から3年間、若狭湾に原発15基が林立する福井県敦賀市に勤務した。「原発銀座」と 称される地域で、取材の最重要テーマが原発だった。 取材で接した原子力の技術者・研究者たちの印象は決して芳しいものではない。都合の悪い問いに まともに答えず、批判的な意見に耳を貸さない尊大ぶりが印象に残った。 高速増殖原型炉「もんじゅ」(敦賀市)の設置許可を無効とした名古屋高裁金沢支部判決(03年1月) の際には、電力会社や研究者が業界を挙げて判 決を攻撃した。判決に関する討論会で、推進派の 大学教授が専門用語を駆使して野党の国会議員をやり込めた後、会場の片隅で「素人のくせに」と 仲間内で笑い 合っているのを見た。
★記者の目:「原子力ムラ」の閉鎖的体質=日野行介/毎日新聞 2 ある地方テレビ局が数年前、原子力に批判的な研究者をドキュメンタリー番組で取り上げたところ、 地元電力会社が「原子力を理解していない」と猛烈 に抗議した。番組はこの電力会社を 直接批判する内容ではなかったが、テレビ局は広告主の抗議を無視できず、記者による定期的な 原発見学を約束した。 この件について取材した私に、電力会社の役員は「(原発が)いかに安全か理解していない。 『反省しろ』ということだ」と言い放った。その傲慢な態度は、今回の事故を巡る会見で見た 東電幹部と重なり合う。 ◇官民にまたがる狭い人脈社会 なぜ、こんな体質が醸成されるのだろうか。 原子力の技術者だった飯田哲也・環境エネルギー政策研究所長は、業界の実態を「原子力村(ムラ)」 と名付けた。大学や大学院で原子力を学んだ学生 は、電力会社やメーカーに就職したり、国や 立地自治体の技官になる。就職先は担当教官の意向で決まることが多い人脈社会で、彼らは官民に 分かれても「ム ラ」の一員として育っていく。 原発関係の事故はメディアで大きく報じられる。市民団体などの批判にさらされることも多い。 “被害者意識”から、彼らは批判を「素人の意見」だと一方的に決めつけ、独善的な専門家意識を 強めていくのだろう。
★記者の目:「原子力ムラ」の閉鎖的体質=日野行介/毎日新聞 3
原発の安全規制は、保安院と原子力安全委員会による「ダブルチェック」体制とされる。しかし
現実には十分機能していない。チェックする方も、され る方も、同じ「ムラ」の構成員なので、
業界全体の利益を守ろうという意識が働く。保安院に至っては、原発を推進する経産省に属する
という構造的問題を抱え ている。
組織の名称にしても、米国は「原子力規制委員会(NRC)」なのに、日本の機関には「規制」
ではなく「安全」が使われている。「原子力は安全」という宣伝を優先するあまり、規制や監視という
視点が欠落していたとしか思えない。
今回の事故を受け、保安院を経産省から分離する組織改革がようやく検討される見通しとなった。
必要なことだとは思うが、組織いじりだけでは専門家たちの体質を変えていくことはできない。
これまで私たちは原子力の問題を「専門家の世界だから」と、直視することを避け、「ムラ」に
委ねすぎてきた。だが今回の事故で、放射能への不安から電力不足問題に至るまで、原子力が
一人一人の生活に密接にかかわることが明白になった。もう無関心は許されない。
http://saron-kinyoubi.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-eae3.html
★どこでもムラ社会 1 ニュージーランドに行きたいです。 2007年01月26日 私が育ったのは典型的なムラ社会で、当然のように男尊女卑であり、「和」が何より重要だった。 例えば訃報を近所に伝えるとき、先ず最初にその家の家長に言わないといけない、とか、 恐ろしくどうでもいいことがルールとしてまかり通っている。普通、嫁が電話に出るけど、 言っちゃいけないのだよ。うっかり家長より先に嫁に言ったがために、「軽んじられた」と 怒った家長が葬式に出なかったり、という馬鹿馬鹿しいトラブルも現実にあるのだ。 そんなムラで、夜遅くまで私の部屋(がどこか、ムラの人は知っている)に電気が点いていると、 「女の子なのに、そんなに勉強させてどうするの」 と、母は近所の人に言われたそうだ。 「偉いねえ」という意味ではなく、出て行くだけの女の子に勉強させるなんて無駄、無分別、 というのが言外にあったので、母からは早く寝るようにと言われた。 いや、本当に勉強していたかどうかはともかく。 そんな社会で耐えるしかなかった母にとって、私を違う社会に送り出すことが唯一の望みだった、のだと思う。 市役所にでも勤めて地元の人と結婚退職する、というのが、あの辺で認められていた女の子の 生き方だったが、私が東京の大学に進学すると言っても、何も反対せずに6年間協力してくれた。 で、初めての違う社会としての大学生活。当時は「大学生はサークル」というのがほとんど 摂理だったので、私も友達と説明会に行ったりした。あぁ恥ずかしい。 そこには、東大や早慶の男子学生が女子大生を「セレクション」するというしきたりがあった。 セレクションの結果に一喜一憂する女子。男尊女卑の社会はここにも。。。とがっかりしたものだ。 (というか、そもそも団体行動ができないし)
★どこでもムラ社会 2 で、社会人になって気持ちを新たに張り切っていたら、勤務先は学閥・派閥入り乱れる激しい ムラ社会で、あらゆる人間関係がタバコ部屋で情報交換されていた。 配属された新卒10人のうち、女性は私一人。オペレーターの女性ばかりの中で、唯一技術系の 女性先輩は上司とダブル不倫し、その結果評価を勝ち得ていると所内全員が思い込んでいた。 真偽のほどは知らないが。 運悪く私がその人の捏造疑惑データを検証する羽目になり、結果、その女性先輩は異動することに なったのだけど、所内ではすっかり私が追い出したことになっていたし、当の女性先輩にも 挨拶しても厳しく無視されるという目に遭った。 その会社も結局「夫の海外赴任について行くなら辞めてください」というよくわからない理由で 退職させられた。 他社ではこういう場合に休職扱いにしてくれるところもあるそうだ。随分と男尊女卑の会社に 勤務していたんだなぁ、と思い知った。 赴任先で知り合った、他のアメリカ都市から移ってきた人の話では、「駐在員妻の会」の ヒエラルキーは壮絶らしい。 夫の勤務先が政府系、銀行、商社・・・という順で、駐妻の地位も決まるそうだ。もちろん、 メーカーなんぞは最下位。駐妻の会の暗黙のルールに従わないと、外交官妻の命によって ムラ八分にされるとか。 シリコンバレーでは技術者が多いせいかここまではいかなかったけど、やはり狭い日本人コミュニティでは、 「みんなでワラ人形を作る」といった奇怪な集いもあったりした。(五寸釘で打つタイプではなく、 かわいいマスコットを作るものだけど)
★どこでもムラ社会 3
今は長女の幼稚園でムラ社会を実感している。
長女のクラスの担任は、新人だったせいか、お母さん方から絶大な「不信感」を買っていた。
春の遠足ではバスの後部座席に座ったお母さん方が、道中ずっと担任の陰口を言っていた。
これが聞こえたのかどうか知らないけど、担任は力なく何度も「すみません」と繰り返していた。
そして夏休みにめでたく不信任案が可決され、担任は更迭、2学期からは新しい先生が担任になった。
あぁおそろしい。。。
先日の懇親会では、担任を引き摺り下ろしたお母さん方が、
「年長さんで同じクラスになったら、仲良くしてくださいね、違うクラスでもよろしくお願いします。」
と異口同音唱えているのを見て、「年長こそは、仲良くしないで済みますように!」と固く誓ったものだった。
あ、今でも仲良い人はいないけどね。
とまぁ、少ない経験を振り返って、どこに行っても、日本人はムラ社会を作るのかもしれない、
という思いが強くなった今日この頃。農耕民族だから当たり前なのかな。
ムラ社会だからこそ、助け合える利点もあるのだろうけど、私のように性質的に合わない人は、
文句言ってないでさっさと別の場所を探すしかないのだろうなぁ。
しかし、海外で長く暮らした人でも、晩年は日本に戻るという話も聞く。
まぁ、先のことを考えたって、どうせ思った通りにはならないし、今やりたいようにやるしかないか。
http://conafan.seesaa.net/article/32150743.html
★仲間うちでベッタリ固まっている経団連、日本企業は内籠りを止めよ/楽天・三木谷社長 1
http://news.livedoor.com/article/detail/5674671/ 「ガラパゴス的な物を守っている」楽天の三木谷社長が経団連を批判
2011年06月30日18時12分
経団連に脱退届けを出した楽天の三木谷浩史社長が30日、ネット番組「ニコニコ生放送」に出演し、
ジャーナリストの田原総一朗と対談した。
三木谷氏は、日本の経済界を「ガラパゴス状態」と批判。経団連の脱退理由を「仲間うちで
固まって満足している」「経団連が日本の経済界のコンセンサスだと思われなくない」と打ち明け、
保守的で電力業界とベッタリになっている経団連の体質を看過した。
田原氏との詳しいやり取りは以下の通り。
「経済界のコンセンサスではない」
―なぜ日本の経済界は出遅れているのか?
「ガラパゴス状態。サービスなり金融で世界的な企業を育てようという発想がないんです。日本の
携帯電話は世界で一番進んでいるものだったけど、結局、世界規格にならなかった。世界的な会議に
出てって発言する人がいないんですよ。個人として勝負できる人がいない。英語ができないし、
内向きにであると。G8に行くと、オバマ大統領とサルコジ大統領はファーストネームで呼び合ってるのに、
日本の総理は孤立してる感がありますよね。」
―1部上場の大企業が何で内向きなの?
「分かりやすい例を挙げると、海外のホテルのテレビはソニーやパナソニックだったのが、
今やサムスン、LGですよね。韓国勢が圧倒しています」
★仲間うちでベッタリ固まっている経団連、日本企業は内籠りを止めよ/楽天・三木谷社長 2 ―経団連の体質はどうですか? 「敵対的買収の話とか、全てにおいてガラパゴス的な物を守ろうとしていますね」 ―敵対的買収っていうけど、世界的には普通なのに日本だとハイエナ扱いですよね? 「うちがフランスのeコマースの会社を買ったわけですよ。ebayよりもamazonよりもトラフィックが多い。 叩かれるかと思ったら、『よくフランスの会社を買ってくれた』とフランス人は歓迎してくれる わけですよ。どんどん雇ってくれと。世界の中の日本というやり方でやらないとまずいと思うんですよ」 ―輸出をガンガンやってるのに、なんで鎖国してるの? 「仲間うちで固まってるのが居心地がいいので、そこで満足してしまってるんでしょうね。今回の 電力産業の問題にしても、ある経営者と話してても『電力料金がただでさえ高いのに、さらに 上げようとしていて困る』と、一対一だとおっしゃるのに、外に出ると言わない。今回、なんで 経団連に失望したかというと、僕が入会したころには、どうやって日本の競争力をあげるか ということを奥田会長もいってたわけですよ。でも、今は結果的にそうなってない」 ―日本の経団連は社会主義になってる? 「これは言うと怒られるかもしれないけど、うちの株主のファンドが経団連に行って、“日本の企業は 株主をひどい扱いしてる”と文句を言ったら、“日本の株なんて持たなければいい。株主が オンリーじゃない”と堂々と言っちゃうと。それも経団連をやめたくなった理由の一つですね」 ―三木谷さんが経団連やめたら、経団連は全く後ろ向きになっちゃうのでは? 「なぜやめたかというと、経団連が言うことは日本の経済界のコンセンサスみたいに思われて ますよね。それは違うんだと」
★仲間うちでベッタリ固まっている経団連、日本企業は内籠りを止めよ/楽天・三木谷社長 3
「私の会議の95%は英語」
―日本の技術水準は結構高いと思います。でも、なぜグローバルスタンダードにならないんですか?
「世界の通信規格を決めるような会合に行ってくれと要請を受けたことあって、なんで自分か?
と思って聞いたら、“他に行く人がいない”って言うんですよね。発言力があって英語ができる人が
いなんですよね。説得的に話せる人が少ないんでしょうね。高度経済成長期のような、“俺が
押し上げるんだ”って意気込みが足りないんじゃないですか」
―高度成長をもたらした松下幸之助さんにしてもパワーがあった。三木谷さんにもある。
でもなんでみんなないの?
「今はハングリーさも展望もない。手前味噌ですが、ベンチャー企業にしても内向きで、楽天を
グローバリゼーションしちゃおうと。三木谷にできるんだったら俺にも出来ると。うちが英語を導入して、
他もならってきていて」
―今は英語を公用語化してるんですよね?会議も英語?
「私の出る会議は95%、英語です。日本人だけでもね。そうしないと英語はうまくならないですよ。
日本人が中高大で3000時間も英語を勉強して、しゃべれないってどういうことだと。楽天が英語化で
成功する。それで他社も英語化しようとなると、それで今までの英語教育じゃダメだ。やはり世界に
向けた人材を育てるようになると。そういう流れになればいいなと思っています」
http://news.livedoor.com/article/detail/5674671/
★よそ者は信用できねぇ! 不安と猜疑心から閉ざされがちなムラ人の心
「信頼社会」と「安心社会」について
山岸俊男先生 (社会心理学者)】 テーマ:「社会の行方」と題し、信頼と社会に関する講演。
(1).一般に、アメリカ人は個人主義でワガママ。日本人は集団主義で和を重んじる
とされる。このことから、「お人よし度」は、アメリカ人より日本人の方が高いと思うかも知れない。
(2).しかし、実験の結果、アメリカ人の方が他人を信頼する心が強い(お人よしが多い)ことがわかった。
(3).この結果が導き出されたのは、一般論が間違っているからではない。日本では「信頼」と
「安心」の区別がついておらず、「安心」のことを「信頼」だと考えているからである。
日本は、「信頼社会」ではなく「安心社会」なのだ。
(4).「安心社会」とは、「同じ価値観の者同士が共同体を作ることにより、安心を得る社会」のこと。
共同体の中の者は信頼できるが、共同体の外の人間は「渡る世間のオニ」であり、信頼できない。
(5).「安心社会」では、人間は同じ共同体の人間から信頼される行動をとらないと、共同体から
追放されて酷いめにあう。このリスクがあるため、同じ共同体の中の人間は「安全な人」となり、
「安心」することができる。これはあくまで「安心」であり、「信頼」ではない。
(6).しかし、世の中のグローバル化(アメリカ化)により、「共同体にとどまるリスク」が増大。
「安心」が崩壊しつつある(終身雇用の崩壊等)
(7).こういったアメリカ的な世の中では、共同体の外にいる人間を信頼するに値するか
見極める能力、すなわち「お人よし能力」が重要となっていく。
http://a-pure-heart.cocolog-nifty.com/log/2004/05/post_1.html
108 :
名無しさんの主張 :2011/07/27(水) 22:36:29.96 ID:lemvMf0f
日本のよくないシガラミはふたつ。 ・新卒至上主義。 ・家制度的慣習(鹿児島県・沖縄県を除く農村部に多く見られる) ただし、一部の農村部(出身大学より出身高校が重視される地方)の場合、新卒と既卒を同等に扱う場合が多い。
★地域再生のカギは『よそ者』 - 安部尚登 1 北海道言論プラットフォーム 2011年08月03日 (前略) 大学生になって、高校生まで他の都道府県で暮らしていた友人が増えました。中国地方の ある県出身の友人とファミリーレストランに入った時、普段は朗らかな友人の顔が妙に緊張 しているのでどうしたのかと尋ねると、実はファミリーレストランという場所に今日初めて 来たのだ、と打ち明けてくれました。家の近くにはなかったし、大阪に行ったときに見たことは あるけど、中には入らなかった、と。とても驚きました。 先日、自分たちの住む街を、これからどんな街にしたいかを話し合う集まりに参加しました。 テーマについて話し合う前段階として、今、この街がどんな特徴を持っているかを出し合ったのですが、 私のような、大人になってからこの街にやってきた人たちがどんどん特徴を語るのに比べて、 ずっとこの街に住んでいる、いわゆる地元の人ほど、具体的な特徴が出せずにいました。 『オレ』のアクセントに地域性があることに気付かなかったように、ファミリーレストランが 日本中どこにでもあるわけではないことを知らなかったように、地元から出たことのない人は、 それが当たり前のことだから、地元の特徴に気付きにくい。『よそ』に行ったことがあれば、 当たり前だと思っていたことが実は当たり前ではないことに気付き、『よそ』にはない地元らしさに 気付く事もできます。
★地域再生のカギは『よそ者』 - 安部尚登 2
北海道各地で、地域再生のための試みがなされています。「新しい○○町はどうあるべきか、
その未来像をみんなで考えよう」というようなスローガンもよく見かけます。しかしその『みんな』が、
昔からずっとそこに住んでいる住民を差しているなら、新しい街の姿をイメージするのは、甚だ
困難なのではないでしょうか。何が『新しい』のか、何が『古い』のか、『○○町らしさ』とは何か、
ずっとその町に住んでいるということはつまり、それを判断する基準、比較対象を持たないと
いうことですから。では一体誰が、地域再生の担い手になり得るのか。
それは、他地域からその地域に移り住んできた人です。特に、転勤など自らの意志と無関係に
やってきたのではなく、その地域が好きで、住みたいと思って移住してきた人は、他地域にはない、
その地域の魅力を知っています。知っているからこそ、その地域を選んでやってきたのです。
本気で地域を新しく再生したいなら、彼らの意見を真っ先に聞くべきです。一方で、新しく移り住んで
きた人たちは地域の事情には疎いので、たとえば移住後1年未満の人、移住後1年以上5年以下の人、
移住後10年以上経過している人など、移住時期の異なる人たちから意見を求めれば、以前から
住んでいる人と新しく来た人の意識のギャップを埋めることがより容易にできるでしょう。
好んでその地域にやってきた人たちは、地域への参加意識も高いはずです。その『よそ者』たちに、
まさに『よそ者』でなくては果たせない役割を与えるなら、彼らは喜んで地域のために働くでしょう。
そして地域のために働く『よそ者』の姿は、長くその地域に住んでいる人たちにも、改めて郷土愛を
思い起こさせ、真の意味で地域が活性化するに違いありません。
北海道言論プラットフォーム 2011年08月03日
http://hokkaidogenron.ldblog.jp/archives/4049676.html
111 :
名無しさんの主張 :2011/08/07(日) 12:37:16.41 ID:kasXO+aD
無理でしょう? 寂しがり屋でメンタル弱すぎる日本人だから みんなも明日から可能な限り孤立できる?
> >198 :名無しさんの主張:2011/08/09(火) 14:17:55.62 ID:SPiHR55O > 集団嫌がらせ(村八分・集スト)が横行してるのに隠蔽されてきた地域 > > 茨 城 県 > > 広範囲ですが > > 特 に 日 立 市 ・ ひ た ち な か 市・ 東 海 村 な ど をは >じめとする > > 県北部はずっと昔から壊 滅 状 態 > > > 被害者・犠牲者は大変苦しんできました > > 住民の連絡網やまとめ役・指令組織など嫌がらせの全貌を明らかにするべき > > 通信記録などを調べればすぐ分かることが隠蔽されています > > 村八分には地域性が関わってきます > > 大きな組織力が関係していることは間違いありません
スローデスの先送り、事なかれ状態だが、事実上内部崩壊だからな。 遅くても内部だけじゃなく外的諸条件で10年以内にはスクラップ 的な動きが濃厚だ。それまでに、国民性とは社会風土、普遍的人間性 に関わる諸問題、諸特性に焦点をあてていく空気が支配的になるだろう。 そういう意味ではこのスレッドはそれにあっているね。 グローバリズム、自由と責任での切り開き社会の中で、勘違いした利己主義 だけがはびこり、ムラのもたれあい的社会構造の必然的に解体を一層早めた。 。それだけはプラスだ。 ムラを懐かしむ幼児退行はあるものの、多くのムラの慣習が惰性で残っている だけだよ。
★なぜ日本では「市民運動」が格好ワルイいのか? 原発事故以来、色々なことを考えているのだが、その一つが「なぜ日本では民意がなかなか 反映されないのだろう」ということ。泊原発の再稼働容認が典型的な例。これだけ多くの人が 反対しているのにも関らず(参照、参照)、必要だったはずのストレステストもなく、 原子力安全委員会の形だけの二重チェック(参照)で北海道知事の再稼働容認となった。 「政治家が票集めで忙しくて実際に国を運営しているのは官僚」「官僚の業界への天下りが 官民の癒着を生み出している」「マスコミはスポンサーに不利になることは報じない」などの 政府やマスコミにも大きな問題があるが、国民側にも若干問題があると思う。うまく表現するのは 難しいのだが、 ?政府は「お上」であり、市民運動とは「お上にたてつくこと」に相当する という江戸時代から続いているメンタリティが根っこのどこかにあるのではないかと思う。 それが「市民運動=左翼活動」というイメージを固定化させてしまい、「酒の場で政治を熱く 語るのは空気の読めないヤツ」という空気を作ってしまっているのではないかと思う。 私は20年ほど(右翼の国)米国で暮らしているが、この国の国民ほど政治を語るのが好きな 国民はいないんじゃないかと思うぐらい皆それぞれの意見を持っているし、市民運動はとても 盛んである。 今日も近所の市役所で開かれた会議を傍聴してきたのだが、その理由は知り合いから「市が 州の環境オタクの言いなりになって、不必要に建築基準法を厳しくしようとしているから、 それを阻止するためにも傍聴席から発言して彼らの暴挙を阻止しよう」という連絡が来たからだ。
★なぜ日本では「市民運動」が格好ワルイいのか?
こんな会議での米国市民の発言はものすごい。「州の環境オタクの言いなりになんかなってんじゃないよ。
君たち役人は僕らに雇われているんだってことを忘れてはいけないよ。市民の権利を守るために
州の役人と精一杯交渉するのが君たちの役目。それができないなら君をクビにして別の人を
雇ってもいいんだよ」という剣幕。
結果としては、市側が住民の声を聞いて折れ、より市民側の権利を尊重した法案を作り、
それを州に提出することになった。一件落着である。
ちなみに米国の場合、選挙で選ばれる市長や市会議員は基本的に薄給のボランティア(ただし
ロスみたいな大きな市は別格)。市民の代表として、市の職員に適切な人を雇い、彼らが
市民のために働くように監督・指導するのが彼らの役割。
そんな関係だからこそ「市民のための仕事が出来ないなら君をクビにして別の人を雇っても
いいんだよ」という「上から目線」のセリフが一般市民から役人に向けて発せられるのだ。
日本で市民と役人がこんな関係を持つのは簡単ではないとは思うが、少なくとも「市民運動」
「政策論議」を左翼だとか格好ワルイとか決めつけず、より多くの国民が政治(それも政局ではなく、
政策に)に興味を持ち、市民運動に参加するようになれば日本を少しづつだが良い方向に
持って行くことは十分に可能だと思うがいかがだろうか。
Life is beautiful 2011.08.17
http://satoshi.blogs.com/life/2011/08/city.html
★村八分社会における自己呈示:相互協調性の適応基盤に関する研究
Author(s): 鈴木 直人 ・ 高橋 知里 ・ 山岸 俊男
日付: Wed, 2007-08-01
Abstract:
本研究の目的は日本人の集団主義的行動の背後にあるメカニズムを明らかにすることにある。
本研究では日本社会の 構造的特徴を集団の閉鎖性にあると仮定した上で、日本型社会構造を抽象化した
村八分ゲームを日本人の参加者にプレイさせ、彼らの相互協調的自己呈示の変化 を調べた。
実験では、39名の参加者を、相互協調性尺度への回答が他者に知らされる自己呈示条件と、そのような
教示をしない自己知覚条件の2条件に割り振 り、村八分ゲームの前後での相互協調性を測定した。
実験の結果、自己呈示条件では村八分ゲーム後に相互協調性の尺度得点が上昇し、自己知覚条件では
相互協 調性が低下した。この結果は、日本人の自己認識は必ずしも集団主義的ではないが、
集団からの排除を回避する為の社会的適法方略として謙虚な自己呈示をする ということを示唆している。
http://www.vcasi.org/sites/default/files/No64.pdf
20年前から労働時間短縮、年間1800時間を目標というのが企業課題になった ことがある。当時労働組合の幹部をしていたが、執行委員会で匿名アンケート 結果について話をすると、残業のほとんどが同調したふりをする見せかけ残業だった。まだ人員合理化 雇用が年功序列・終身雇用の時で、誰かが忙しそうなら、他の誰かかが協力する ということが社会人としての不文律になっていたが、それを本心は嫌がり、 残業をしたふりをして忙しいふりをする。 保身的利己的な同調行為は、役所も大企業も同じだったんじゃないか。 そのツケは禍根を残す。 子供の育児は母親中心になり、あれもこれも危険、ちゃんということを聞きなさい、 目上の人に逆らっちゃだめ、みんなとケンカしないで仲良く、周りに溶け込みなさい。 周囲への偽装保身。父親不在、母子密着のしつけからくる人間育成は、 国民性にまで浸透した。
119 :
名無しさんの主張 :2011/09/11(日) 16:02:22.32 ID:JgSi25Gd
120 :
名無しさんの主張 :2011/09/11(日) 16:17:23.19 ID:JgSi25Gd
121 :
名無しさんの主張 :2011/09/18(日) 01:49:41.76 ID:L4bUC7Mx
>>112 しかも孤立してる人をいい意味でほっといてあげられないからなあ。
122 :
名無しさんの主張 :2011/09/18(日) 07:35:52.59 ID:aASAR6V0
昔 関西のお笑いが全国区になろうとしたとき 封建時代の宗教観に裏付けられた空気という強迫観念が 日本を衰退させるだろうな と思ったな・・・
123 :
名無しさんの主張 :2011/09/18(日) 13:51:08.87 ID:R+fnhsZI
124 :
名無しさんの主張 :2011/09/18(日) 13:52:01.88 ID:R+fnhsZI
>>121 ぼっちとか言って馬鹿にしてる人も多いぞ。
125 :
名無しさんの主張 :2011/09/18(日) 13:58:05.03 ID:R+fnhsZI
良い意味での場合も確かにあるけど、半分を少し超えるくらいは悪い意味なんだよ。 馬鹿にするとかだけじゃ無く、ひどい事を強制したり、 全然合わない集団に無理矢理入れようとしたり。 集団の価値観でしか判断出来なく、他者理解が出来無くて、 ひどい事を相手に強要しているという事自体を理解出来無かったり。 日本のそういう所もかなり問題はあるよ。
126 :
名無しさんの主張 :2011/09/18(日) 14:00:30.86 ID:R+fnhsZI
そもそも孤立という把握の仕方も間違ってる場合が多い。 あとは孤立したら悪い事が起きるとばかり考えて、 集団が悪くなるという事が念頭に無い。 実際一人でいるからといって、悪い事が起きるとは全然限らないし、 集団自体が悪くなる事は往々にしてある。
孤立している人を叩くのも「やっかみ」だと思う。 叩いている人らは本音では自分が属すその集団の空気読むのが嫌で 自由にしたい、なりたいんだよ。
128 :
121 :2011/09/19(月) 00:43:50.67 ID:+UleEYf+
>>124-125 そう、孤立している人をそのまま、違う意見を持った人として放っておいてあげられない。
集団から完全に突き放したり空気によってつくられた集団への迎合を強制したりしてしまう。
大体あなたと同じ意見です。
人はそれぞれ違う考えを持っているという前提に立てないからな。
近所は何をしているかという、昔からの覗き見、興味本位か、自分のことを どう思っているかの相互監視の習慣性は根強い。 田舎の場合は言動面でまだ顕著。都会の場合だと会社組織か、年金生活者なら なんらかの集まりとかでそういう空気が支配的になる。 自分の生存環境をどうするか、自他的公共的視点で主体的に考え、おかしな ことを指摘しあい、それぞれ意見をし、合意をし責任をもって行動するというのは、 文化的にも皆無だ。神様・仏様→天皇様→水戸黄門様→お上(政府、地方行政)→ まちのおえらいさんから言われて自動的に動く、未開地土人の階層的ロボット行動だ。 それが、自分や家族や仲間内を超えた場合の社会的行動の基本になっているぞ。
130 :
121 :2011/09/21(水) 17:38:03.88 ID:/uGx4HFE
>>129 日本人は相互監視でしか集団を維持できないのかというくらいどこでも
そんな感じになる・・・。
131 :
名無しさんの主張 :2011/10/07(金) 08:51:59.57 ID:Qpr1ECfv
日本人って集団依存症な人が多いんだよな。 それで一人一人が大切にされなくなりがち。 まあ人によるし、そうじゃ無い人もある程度はいるけど。
とにかくさっさと小さな政府にして、地方分権を完了させるべき。 アホで閉鎖的な人間しかいないクソ田舎は真っ先に潰れる。 50年もすれば、日本の地方自治体はほとんどが地方中核都市になり 掃き溜めのようなムラ社会は姿を消していることだろう。 さらに、無知で恥ずべき現在の田舎者は生きていけずに死に絶えるだろう。 よって洗練された近代社会にふさわしい、真の近代市民のみで次代の日本を 動かしていく。 臭い田舎と田舎者は歴史から退場すべし。
133 :
名無しさんの主張 :2011/10/08(土) 09:53:23.90 ID:QZOfiXYw
>>132 アホ?
欧米は日本よりもっと小規模な市町村が多い。
134 :
名無しさんの主張 :2011/10/08(土) 17:28:23.53 ID:9f8xYdkf
だからか!!イチローみたいな職人タイプで結果を残した人が、英雄扱いになるのは。
排他的な閉鎖ムラ社会なら引きこもって死んでればいいのに ぜんぜんそうじゃないのがきもすぎるんだよな 何もできないごみが何とかしろーとうぜー共産主義のニートなだけ
136 :
名無しさんの主張 :2011/10/10(月) 23:29:28.61 ID:VlUWsSkp
>>132 まあ都会生まれでも相変わらず閉鎖ムラ社会しか作れないのが日本人だけどなw
地方分権はしてほしいが田舎か都会かはあんま関係ないと思うわ。
地縁なら引っ越せば逃れられるから都会に集まるというだけで
都会だって相変わらず学校や職場で閉鎖的ムラ社会が出来て、その挙句いじめの末
転校転職なんてこともあるからな。
つまり閉鎖的ムラ社会が悪いw
ムラってのはとどのつまり土人って事だろう。
★鳥取県智頭町 日本1/0村おこし運動
概 要
智頭町が平成9年度に制度化した「日本1/0村おこし運動」とは、閉鎖的・保守的・依存的な
旧態依然とした村社会の変革を図り、また、町の活性化は集落の活性化からという視点にたって、
「これからもその集落に住もう、どうせ住むなら豊かで楽しい村がいい」を理念とするものです。
そして、こんな素朴な願いを実現するため、自分には何ができるか、何に汗が流せるか、
住民一人ひとりが無(ゼロ)から有(イチ)への一歩を踏み出そうという運動です。
つまり、智頭町内の各集落または各地区がそれぞれの特色を一つだけ掘り起こし、外の社会に
開くことによって、村の誇り(宝)づくりを推進する住民の自立と共有のマネジメントです。
小さく生んで大きく育てる
(1)村にある種をみつけよう!(種がなければ新たな種をまきましょう!)
(2)土づくりや水やりをしよう!
(3)芽が出たら大きく育てよう!
1.外の社会と積極的に交流を行うため、情報化への取り組みを推進します。(交流・情報)
2. 住民自らが一歩を踏み出す村づくりを基本理念とします。(住民自治)
3. 村の生活や文化の再評価を行い、付加価値をつくります。(地域経営)
http://cms.sanin.jp/p/chizu/kikaku/mezasu/zeroichi/
田舎やムラ社会とかいらないしというかいらないから人が減って田舎なんだけどな 田舎者の変な馬鹿や勘違いが田舎はいいところだとか意味不明に勘違いしてるのがうぜえ
140 :
名無しさんの主張 :2011/10/11(火) 01:14:41.06 ID:MdCm2unq
だーから田舎が悪いと言いたいだけならスレ違いだろうがw
『日本の都会』という田舎の事も包括した話題を語るスレだからな。田舎に限定しちゃいないの
142 :
名無しさんの主張 :2011/10/11(火) 08:23:42.77 ID:otWGafmn
田舎嫌いな奴らへ。 イギリス人は田舎をこよなく愛する国民性と言われていますから、 イギリス人はムラ社会が好きなのでしょうか? イギリスの田舎はムラ社会なのでしょうか? 僕は本当の民主主義のために、官僚に戦いを挑んだ偉人を出した街 北海道足寄町をこよなく愛しています。
偉人と出身地は関係ないんだが 偉人なら他にたくさんいるし地域エゴだろただの 本人の努力と地域関係ねーし閉鎖ムラ社会捨てた個人の行為と閉鎖ムラ社会の田舎と関係ない 官僚と戦った人を尊敬するとただの町の北海道足寄町を愛すって意味不明 閉鎖ムラ社会の田舎の馬鹿か
144 :
名無しさんの主張 :2011/10/11(火) 09:08:31.14 ID:otWGafmn
俺が言いたいのは、田舎=ムラ社会と決め付ける日本の世論が あまりにもレベルが低く、それこそがムラ社会の本質だと感じるということだ。 外国人に聞くと日本はコンクリートだらけの都会のイメージしかないが、 日本の地方の良さを知ってもらいたいだけ。 福山雅治のように情緒的な日本の地方・田舎を愛する人は知的レベルが高いと思うね。
145 :
名無しさんの主張 :2011/10/11(火) 10:23:56.10 ID:UQtkUzKD
>>144 俺もそう思うわ。
田舎で閉鎖ムラ社会が多いのは事実なんだが日本人は
社会を変えるのではなく移住によって解決してきた。
本質は閉鎖ムラ社会をつくってしまうことにあるから都会でも違う形でムラ社会ができるだけ。
★正社員の憂鬱と非正規社員の困窮(日本人の希望の無さ) 1 zokubutsuの社会的包摂ブログ 2011-05-08 サービス残業やパワハラやそれに伴うメンタルトラブルで苦しむ正社員、一方、まともな仕事につけず 生活が困窮し、家庭さえつくれない非正規労働者。なんともおかしな構図です。 問題の本丸は、日本の労働社会が「ムラ社会」的な閉鎖状態にあることにあります。 日本社会においては、「職務」で雇用主と労働者が契約するのではなく、「その組織に属すること」を 本質的な契約関係としています。雇われた労働者(新卒の学生)は、年功序列待遇・終身コミット制の もとで、専門性ではなく、「その組織の文化」を長い時間かけて叩き込まれます。30歳を過ぎた頃には、 組織内であれば基本的にどこに異動になっても職務を遂行することができる「組織内ジェネラリスト」を 目指して育成されます。このシステムは、組織内を均一に保ち、常に一定程度のパフォーマンスを 上げるためにはそれなりに有効なシステムです。 しかし、このシステムはムラ社会の外にいる人たちにとっては非常に残酷なシステムです。 もし組織文化と労働者の価値観が合わなかった時、労働者は身動きが取れなくなってしまいます。 組織を飛び出そうにも、際立った専門性は身についていないし、日本は失業時の生活保障が不十分です (この点はまたの機会に詳述します)。また、転職候補先の会社から見た場合、30歳で入社されても、 正直どう扱ってよいか戸惑うことになります。なぜなら、年功序列のもとで、何歳ならいくら、 というように決まっている一方で、「組織文化」に関しては新入社員と同じくらいのスキルしか 持っていないからです。その結果、労働者は身動きが取れなくなり、「我慢大会」的な労働人生を 送ることになってしまします。その瞬間、労働者は、精神的にはムラ社会の外に位置することに なってしまうといえるでしょう。 また、このシステムを維持するためには、組織が恒常的に拡大し続ける必要があります(この点も またの機会に詳述します)が、おそらくこれからの日本ではそれは望めないでしょう(60年代の ような異常な成長期においては維持可能でしょうが)。
★正社員の憂鬱と非正規社員の困窮(日本人の希望の無さ) 2
この閉鎖的なムラ社会を、非正規労働者の側から見たらどう映るでしょうか。彼らはまさに、
ムラ社会の外にいます。企業からすれば、年功序列待遇・終身コミット制のもとで、新しく正社員を
採用するとなると大きな投資をすることになります。また、各種保険も新たに負担しなければ
いけなくなります。自然に新規採用のハードルは大きく上がります。加えて、上で述べたように、
新卒以外の人を採用することには大きな壁があります。そんな状況で、何の専門性もない非正規労働者を
採用する気になるでしょうか。よほど組織に忠誠心がある人(湯浅誠のいう「NOと言えない労働者」、
の有力候補でしょうか)くらいしか採用しないでしょう。当然、転職力のない正社員を使ったほうが
得です。つまり、今のシステムでは、一度非正規なったらずっと非正規になるリスクが非常に高いのです。
これが最貧層の非正規労働者になるともっとひどい(この点もまたの機会に詳述します)ことになります。
以上が、非常にざっくりとしていますが、タイトルの「正社員の憂鬱と非正規社員の困窮」を
生み出している構造のエッセンスです。まさに、両者とも「希望がない状態」といえるでしょう。
そして人間は「希望がない状態」に一番絶望するのではないでしょうか。
http://d.hatena.ne.jp/zokubutsu/20110508/1304843415
情緒的な日本の地方・田舎なんてないというかそれを拒否して 閉鎖的になってる田舎とムラ社会がいらないということなんだがな まあ田舎が閉鎖的ムラ社会じゃなくなってもそういうのは当たり前であって 閉鎖的ムラ社会じゃない都市と比べる意味も別にないんだけどね
★むら社会 [単行本] 奎 山城 (著)
出版社: 碧天舎 (2005/05)
ISBN-10: 4883469786
ISBN-13: 978-4883469789
内容(「BOOK」データベースより)
小さな漁村で寺院の住職の長男として生まれた杉千紀。母のきぬは千紀が寺を継ぐことを強く望んだが、
千紀は父に宗教家としての尊敬を持てずにいた。“寺の息子”と言うだけで特殊な存在として扱われ、
閉鎖的な人生を強いる風土に耐え切れず、千紀は村を脱出した。
大都会の企業に就職し、先端技術の開発者になったにもかかわらず、結局そこも別の“むら社会”に
過ぎなかった…“むら”という名の蟻地獄。戦時下から高度経済成長へ―ある男の悲劇を描きながら、
企業に巣食う“むら社会”的体質を批判し、現代の日本のあり方に警鐘を鳴らす社会派小説!
第4回碧天文芸大賞出版化奨励作。
内容(「MARC」データベースより)
「むら」という名の蟻地獄。戦時下から高度経済成長へ-ある男の悲劇を描きながら、企業に巣食う
「むら社会」的体質を批判し、現代の日本のあり方に警鐘を鳴らす社会派小説!
http://www.amazon.co.jp/dp/4883469786
★ムラ社会が苦手 1 人生まだ半分、37才からの外国語 2011年6月11日 (土) 日本はムラ社会だ、閉鎖的だ、なんてよくいわれますが、それが心地よいと思っている人はそれほどは 多くないのではないでしょうか。 みんなと一緒、横並び、というのは競争がないぶん楽ではありますが、はみ出してしまうことを恐れながら 暮らすのは ― それを一度意識してしまうと ― 逆にストレスの多いものです。そのストレスが今度は 「はみ出しているあの人を『修正』しなければ」になってしまうと、悲劇に悲劇を重ねることに。 私は窮屈な関係が嫌いなので、団体行動がとても苦手です。旅行もツアーには入らずに行き先、宿、 移動手段をすべて自分で確保します(インターネットのおかげですけどね)。 会社では、オフィス全体での行事があってもなるべく言い訳を作って参加しません。ときには仕事を 円滑に進めるために出かけて行って、ニコニコしながらじっと時間が過ぎるのを待ってることもあります。 こんなわけですから、最近の川本さんのブログ記事は衝撃! 他人の目線が英語学習に影響を(You Can Do It!) なんと、「英語の勉強を始めたら、陰口の対象になっていた(超まとめ)」というもの。うっそー、 という感じですが、よくよく考えたらありそうな話とも感じます。 きっとご本人にとってはとてもストレスのたまる環境でしょう。だって、英語の勉強したからって 誰にも迷惑はかけません。世の中には周囲を巻き込んで迷惑をまき散らし、本人だけがご満悦、という 「趣味」はいくらでもありますが、おそらく英語の勉強は無害の極といってもよいでしょう。 なぜただの「趣味」にならないか 「一か月後に海外赴任!」とか「TOEICのスコアが昇格に影響」なんていう人たちを除けば、 英語はヨガや読書や韓流ドラマと同じく、単なる趣味です。
★ムラ社会が苦手 2
何か迷惑をこうむっていない限りは、人の趣味に文句をつけてよい理由など存在しません。家族を
顧みずにゴルフに明け暮れている部長さんがいても、それはその家族の問題です。相談を受けた
わけでもないのに「それはまずいんじゃないですか?」などと口出しするようなものではありません。
では、なぜ英語だと嫌がらせや陰口の対象になることがあるのか?
乱暴にいっちゃうと、「それだけ多くの人たちに英語コンプレックスがあるから」ではないのかな、
と思います。英語は気になる、話せないとなんだか時代に遅れている気がする、あるいは英語が
得意な人は何か特殊な才能や環境に恵まれた人に思える。
なので、「英語ができない仲間」から離れようとする人が目の前にいるのはちょっと面白くない、てな感じ?
世の中のたくさんの人たちが「英語は気になる」「でも勉強しようとは思わない」。
だからこそ、ただCDを聞き流しているだけで「自然に英語が口から出てくる!」なんていう、
はなはだ効果の疑わしい教材が評判になっちゃったりもするのでしょう。
こういう教材がよろしくないと思うのは、たまたま相性よく学習成果が出る人たち以上に、「結局
何をやってもダメだった」という無力感を味わう人たちのほうがずっと多いように思われるからです。
なにかを習得するために、まったく苦労しなくてよいなんてことが、あるはずがない(苦労を苦労と
感じなかった、ということならあるでしょう)。
でも趣味だよね
おそらく、日本人は世界中の先進国の中で、もっとも生活するうえで英語の必要度が低い国の
一つじゃないでしょうか。
生きるために必要でない限りは、やっぱり英語は趣味です。趣味である以上は、やっぱり生け花や
パッチワークやフェルト人形と変わらない。英語を陰口のタネにするのは、英語学習者が悪い
のではなくて、陰口をたたく人の心の問題です(まあ、陰口ってそういうものだけど)。
http://gogakuru.com/blog/selection/d-mate/2011/06/post-160.php
★ムラ体質の閉鎖社会 相撲協会の事件
暴力団との関係や賭博など、相撲協会の問題が連日報道されている。
閉鎖的な社会の中で、不法行為がなあなあで黙認されてきたことがよくわかる事件である。
これは相撲協会だけの問題でもないと思う。
この事件は日本の古い閉鎖社会の負の部分の象徴のような事件だと感じる。
地域社会や会社や行政や、日本のいろいろな部分で、相撲協会と同じように
閉鎖社会の中で自分たちだけのルールで物事が行われ、不法行為や犯罪も見逃されている、
そうしたことがあったのではと思う。
他の多くの日本の集団においては、外部との交流が進み、今までのような身内の理論が通用しなくなっている。
しかし、相撲協会に象徴されるような、ムラ体質の閉鎖社会が日本の中にはまだまだ残っているのも事実である。
日本の社会を進化させていくためには、閉鎖性の壁を取り払って、開かれた公正な社会をつくっていかないといけない。
そのためには、まだまだすべきことがたくさんあると思う。
片桐直哉応援ネット 2010年7月22日
http://blog.katagirinaoya.com/2010_07_01_archive.html
★日本人の常識と「ムラ社会」の形成 1 KOKKAI PRESS宇田川的ニュースのC級解説 ヒルズ族盛衰期03 2006年7月6日(木) 日本人は常識という言葉をよく使う。入社した手のころ、簡単な失敗をすると「そんなこと 常識だろ」と怒られたことも少なくない。しかし、この「常識」こそマヤカシに過ぎない。 そもそも、常識とは読んで字のごとく「一般人が通常持ちうる知識」のことをいう。しかし、 ここには「一般人」と「通常」という二つの不確定要素がある。 一般人とは何か。何を持って一般とされ何を持って一般とされないのか、その基準は あいまいである。極端な事例はわかる。精神の病気を重度に患っている方が一般でないことは わかる。しかし、その境目は見えない。だれも定義できない。 同じことは、「通常」という単語もある。何が通常で何が非常なのかはあいまいである。 常識とは、要するにわけがわからないが、その特定小集団において共通する認識でしかなく、 その小集団を出てしまえば「常識」などというものは一切通用しない。そして、大多数の日本人は そのことをわからず、自分の、または自分の属している小集団(家族やカップルという最小集団を 含めて)の常識が、世界中、下手をすれば宇宙全体の普遍の真理のように思っているのである。 たとえば、正月のお雑煮などは、地域によって持ちの形や汁の色が異なる。しかし、地域によっては それが常識であり、その地域にあっていないものは常識がい、ようするに異端とされてしまう。 正月で、多くの家庭は門松を飾る。家の玄関の横に竹と松をあしらった飾りをするのである。 しかし愛知県豊田市にはその風習(常識)がない。門松の代わりに松明をともすのである。 この地域ではそれが常識であり、門松を飾るのは非常識なのである。 なぜ、このように常識にとらわれるのであろうか。これは、日本人特有の「ムラ社会」の形成と そのムラへの帰属意識がそうさせていると考えられる。そして、もう一つは日本人に宗教感がないので、 その代わりに説明のつかないことを「常識」として片づけてしまうようになっているところもある。
★日本人の常識と「ムラ社会」の形成 2 詳細なとことは、社会学や民俗学などの教授に任せればよいが、日本人の根本的な部分にそのような 意識が流れていて、その説明のつかない部分に無理が出ている状態であることは感じ取れる。 その「ムラ社会と帰属意識」が大きく作用しているのが日本人のグローバリズム、要するに 国際化である。 日本人が国際化というとき、まずは英語ということになる。日本語は世界でも特殊な膠着語に 属する言語で、最終の意思表示を、文章の末になるまでわからない言語である。膠着とは膠で つけるという意味で、助詞または助動詞、それだけでなく、動詞や形容詞の末尾活用(五段活用など) によって、後ろに言語をつけるということのできる言語である。「〜でなくて」というように、 後ろの言語によって文脈全体を180度反対側の結論にすることができるのである。これに対して、 英語そのほかの多くの言語は屈折語、つまり、最初に意思表示をしてあとで、理由を説明する タイプの言語である。正反対のことをいうにはHoweverなどの接続詞を使うのが一般的であり、 動詞の活用も過去形ぐらいしかない。 どちらが優れているというものではない。言語である以上一長一短があるばかりか、その国の 風土や国民性、文化などに大きく左右する問題であり、優劣を語る問題ではない。ただ、 いえることは、この言語体系が文化や思考を大きく左右しているということである。 要するに、英語的発想の人は、割と白黒をはっきりつけたがるし、その結論に関して先に決める 部分が少なくない。周りに関係なく自分の意見を先に述べる、または先に結論づけて話す傾向がある。 一方日本人には、中庸を最良とする文化があり、折衷案がでやすい。結論を先延ばしにして、 なかなか結論をださない。また、優柔不断と思われるほど周りの意見をよく聞く。 このどちらがよいということはない。しかし、言語と同様にこれほど大きく違う国民性を 持つのである。 さて、国際化、グローバル化といい、英語を習得している人々も、このような思考法や思考体系 まで踏襲するわけではない。
★日本人の常識と「ムラ社会」の形成 3 日本人的な発想、日本人的な思考のうえに技術、伝達手段として英語という道具を使っているに 過ぎない。よって、英語的な会話ではなく、日本語的な会話を英語でしているだけになってしまい、 結論のない会話をしてしまうことが少なくない。 先ほど、言語や文化に優劣はつけられないといった。しかし、ことビジネスの世界では英語的発想、 英語的思考法の方が、物事スムーズに進むようである。結局は前に進まなければならず、同時に 結論を出さなければならない。そのようなときに、結論が後に来る思考法は、あまりよろしくない 場合が少なくない。とうぜんに、「怪我の功名」というようなばあいもあるが、時間の空費が あることは明白である。 せっかくであるから、日本語はその特徴を生かし、芸術などの分野では最高と思われる。結論を 出す前に修飾語をつけることができる。たとえば「白」と決定する前に「雪のような白」という ことが可能である。それだけでなく、折衷案を出したいときには最高の言語であろう。まだ結論が 決まっていないことを話すのに最高な言語なのである。 そのような話はこの辺にして、言語から来る国民性は、もう一つ重要な特性を日本人に与えている。 それは、結論をいわなくても通じる社会の形成である。それは、同じ社会状況で暮らす人間における 共通認識を重要視し、本人の自覚を即して本人以外のものは最終の結論をいわない社会を形成した のである。このことは、「自主的に処理した」要するに「第三者からの圧力を受けなかった」または 「他人の強制に従わなかった」ということを外形上つくり、外形上の対等関係を維持できる システムを構成する。 しかし、実質的に上下関係が出来上がるということができるばかりではなく、同じ環境でなければ 話が通じないために、同じ環境、同じ共通認識を持ったものだけが集まるという「ムラ社会の形成」を 促進することになる。 「ムラ社会の形成」は、共通認識のものだけが集まるという特徴を有する。このことによって、 ムラの中だけで通用する知識が横行する。これが「常識」といわれるものである。
★日本人の常識と「ムラ社会」の形成 4
そして、最も問題なのは「常識」にないことが発生した場合は、それを排除してしまうこと
である。このことにより「日本」という「ムラ社会」は、そのムラの外で起きている「常識」から
取り残されてしまい、自分たちの独善的な知識だけで世界に進出しようとする。そして、その世界
(ムラ社会の外部)進出で自分たちの常識が通用しないことを知り、大損をして、ムラに
帰ってきてより閉鎖的な社会を形成するのである。
そのような、日本ムラ社会の構成員は、逆に外の世界であるムラの外部の常識をそれまで
拒み続けてきたのであり、そのために、外部の情報に対する対処の仕方を知らない。つまり、
真偽の検査をすることなく猛進してしまうか、ハナから拒絶するかの対応となってしまい、
裏をとるとか検証するということができないのである。
そのうえ、何か事件があれば国という自分の所属する最大のムラ社会に補償を求める。
ようするに自己責任の意識はまったくないのである。
このような日本人ムラ構成員をだますのは簡単である。ムラの共通認識を持ちながら新たな
知識を出し、不安をあおり、そして盲信させればよい。一人だ加入させることができれば、
ほか全体もみな引き込んでくれるのである。
人間が集団をつくる動物である以上、ムラ社会の形成は仕方がないことかもしれない。
また、そのことに関する利点も少なくない。しかし、そのことに関する欠点も認識し、その欠点を
補う活動をしなければならないであろう。
KOKKAI PRESS宇田川的ニュースのC級解説 ヒルズ族盛衰期03 2006年7月6日(木)
http://udaxyz.cocolog-nifty.com/udaxyz/2006/07/post_b57f.html
★M&Aで「ムラ社会」をぶち壊す! 1 企業家 GUIDE 小倉正男 / 2006-04-02 日本の敵対的買収の特徴 ライブドアのニッポン放送買収劇の特徴は、第一に、裁判所がM&Aに対する過度な防衛策を許さず、 法治主義で裁いたことです。ニッポン放送がライブドアの影響を弱めるべく、フジテレビに対し 新株予約権を発行しての増資を試みましたが、東京地裁で却下されました。「経営陣の支配権維持を 主要な目的にするときは、特段の事情がない限り、商法が規定する不公正発行に当たる」という理由からです。 第二に、一応のところ公明正大にことが運んだということです。SBIホールディングス(当時 ソフトバンク・インベストメント)の北尾CEOという迫力ある人物は登場しました。しかし、 三十〜四十年ほど前のように、会社買収事件に登場しては恫喝で手を打たせる児玉誉士夫(こだまよしお、 「財政界の黒幕」と呼ばれ、ロッキード事件の被告にもなった)のような人物は現れませんでした。 殺傷ざたも起きませんでした。 また、ポイズンピル、ホワイトナイト、焦土作戦など「敵対的M&A防衛策」がマスメディアで 大きく騒がれました。ただ、ポイズンピルなどテクニック的な防衛策では有利に事を運ぶのは困難だと 明らかになった。しかも今回の最大の防衛策の要、北尾氏は使用した側にも副作用という毒をもたらす かもしれません。効き目が強すぎるだけに、追い込まれた最後の最後でしか使えません。 そして何よりこの事件で明らかになったのは、アメリカ型資本主義と日本型資本主義のギャップ でしょう。アメリカは会社を表現するのに、株主の会社、お客の会社であると言う意味で「ユア・ コーポレート」という言葉を使います。しかし日本の場合、あくまで従業員と経営者の会社である ことを表現するため、「わが社」という言葉を用いる。株主=ソトはいまでも付け足しにすぎない のでしょう。株主主権のアメリカ型資本主義の流入は、閉鎖的・非効率な「ムラ=ウチの論理」の 日本型資本主義に、大きな風穴を開けました。そして両者のギャップを認識させました。
★M&Aで「ムラ社会」をぶち壊す! 2 M&Aが日本の「ムラ社会」を崩していく ただ、「ムラ=ウチの論理」は依然健在です。例えばフジテレビがニッポン放送株に対しTOBを 行った際、講談社など大手企業が「つきあいだから」といって、TOBに応じていました。 ライブドアの参戦でニッポン放送株の市場価格は急上昇しているにも関わらず、それよりも安い 買い付け価格五千九百五十円でフジテレビにニッポン放送株を売ったのです。 また、ニッポン放送の社員が、「(堀江貴文ライブドア社長は)リスナー(ラジオの聞き手)に 対する愛情が全く感じられない」と反発し、全員一致でライブドアの経営参画反対の声明文を発表 したのも、いい例でしょう。これまで経営者と社員を重視して、お客を意識してこなかった 日本企業が、突然公共性やリスナーを大切にすると発言した。これは、現存の経営者を守るための ものとしかいいようがありません。ニッポン放送が、ライブドアの経営参画の可能性が高まった 三月、労働組合を結成する方針を表明したのも同様の理由からでしょう。「ウチ」の経営者と 対抗して組合をつくるのではなく、「ソト」の株主に対抗するために組合を作ろうと言うんですよ。 日本の企業は「ウチ」の共同体であることを再確認しました。 政治家の発言も「ムラ=ウチの論理」を匂わせるものがありました。ある有力議員がホリエモンに 対して、「カネがあればなんでもできるというのはおかしい。カネで会社を買収するのはいかん」 などと発言したのです。政治家、権力が民間のことについて軽々に発言してよいのか。しかし、 商法で違法性がないと認められているM&Aに対し、感情的な次元、好き嫌いの次元で是非を 論じるのはどうかと思いました。友好的であれ、敵対的であれ、M&Aは一般化しており、それを 「あれはよい」、「これは悪い」と政治家、権力が介入するのは中世というか近代以前のやり方に みえないでもない。また、外資=ソトが少しでも絡むとすぐ「ハゲタカ」論が出るが、これも幕末の 攘夷論の蒸し返しに近い。ウチ=被害者で、ソト=加害者という被害者意識を持ち続ける、そんな ひ弱なことでよいのでしょうか。ムラ=ウチの論理の相変わらずの“健在”ぶりには落胆させられます。
★M&Aで「ムラ社会」をぶち壊す! 3
買収劇の現象から本質をどうくみ出すかが大切です。様々な形で規制や先送りをし、M&Aを
滞らせるか。それとも日本の資本主義の進化要因にするか。世論の動向に大きく左右されるとは
思いますが、私自身は、M&Aを日本の資本主義の進化の一因にしたい。経済に関わる者として、
今回の教訓を、より企業が発展できる資本主義のインフラ作りに生かすべきだと考えています。
企業家 GUIDE 敵対的買収から会社を守る方法 第4回:M&Aで「ムラ社会」をぶち壊す!
小倉正男 / 2006-04-02
http://kigyoka.com/public/guide/detail.jsp?susui=37&p=1
★「無縁社会」「孤族」を嘆く前に知るべき社会資源 1 All About>健康・医療>健康管理>ストレス>ストレス発散・解消法 大美賀 直子 更新日:2011年10月03日 イエ、ムラ、カイシャの縁が薄れていったわけ 流行語ともなった、現代社会を象徴する言葉「無縁社会」。NHKでは同名のドキュメンタリー番組内で、 自殺等で死亡した人の中には身元が分からず遺体の引き取り手のない「無縁死」が3万2千件にも上る、 という現実を報じました。また、朝日新聞では単身世帯の増加と超高齢化社会の到来を迎え、 「個」に生き「孤」の問題と向かい合う人々の現実を「孤族の国」と題してシリーズ化し、 報道しています。 印象的なキーワードで現代の問題点を指摘することは、報道の特質であり、意義のあることだと思います。 ただ、「無縁社会」「孤族」という言葉からは、家族や地域、仕事との「縁」を失えばたちまち 孤独になり、誰に頼ることもできないような非常に閉塞的で虚無的なイメージを受けてしまいます。 旧来の「縁」に頼りたくない人が増え、孤独のうちに老いや死の問題に直面する人が増えていることは 事実です。しかしそれはそもそも、旧来の「縁」に頼ることより、個としての自分を守りたい、 高めたいと願う人々が増加したことの表れでもあると思うのです。 旧来の縁を薄くさせてきた社会の変遷 戦後日本は、政府と銀行、企業が相互に支え合って経済成長を成し遂げてきました。 会社組織に所属し、労働力の担い手となる男性は終身雇用制と年功序列制度の恩恵により安定収入を 享受できました。同時に会社組織に自分のアイデンティティを同化させ、週末まで会社との縁を 重んじる男性が増えてきたのです。一方で家庭では専業主婦である妻が家事、育児、介護の労働を 一手に担い、近隣や縁者との相互扶助など、家庭と地域の献身的な奉仕に従事してきたのです。 ところが、このような典型的な日本型社会は90年代に入って変わり始めました。その背景には、 雇用システムの変化と働き方の多様化、都市化社会の進展、女性の意識変革と社会進出、 情報化社会の進展などが大きく影響しています。
★「無縁社会」「孤族」を嘆く前に知るべき社会資源 2 社会の変容に伴って人々の生き方、家庭のあり方への意識も多様に変化し、イエ、ムラ、カイシャの 「縁」を重視しない「個」を重視した生き方が徐々に増えてきました。「無縁社会」「孤族」 という負の局面も、まさにその流れのなかで顕在化してきたものです。 「個」を重視した生き方が増えているわけ 従来型の「縁」からの離脱者が増えたのは、そこに不自由さがあり、「使い勝手」が悪くなった からでしょう。 イエ、ムラ、カイシャの縁に属せば、何かのときに扶助してもらえる安心感はたしかにあります。 しかし、「長男」「嫁」「上下」等の役割に束縛され、個人の望みなど聞き入れられない息苦しさが あります。個性ではなく社会的評価で人が判断され、不条理な因習にも盲目的に従わなければ ならない不自由さもあります。一見温かく見える関係も、内実は序列構造や競争意識が渦巻き、 身の置き所のない窮屈さを抱える人も多いはずです。 「個」を重視して生きる人が増えたことは、従来の社会の不の局面から解放されたいと願う人が 増加していることの証左でもあります。とはいえ、その生き方は甘いものではなく、「人生晩年 での孤独」という課題があることが近年になって露呈してきたということなのでしょう。 たしかに、「無縁社会」「孤族」という負の側面だけを見れば、「個」で生きることは恐ろしい ことに思えます。しかし、そこを拡大視して警告を発し続けたとしても、元のままの「縁」に 戻りたい人がどれだけいるでしょうか? むしろ、課題があるなら整理し、従来の縁を 「使い勝手」のいいものに変えていくこと、または他の縁の利用を考えていくことが大切 なのではないでしょうか。 問題に嘆かず、できることを積極的に考えよう 実際に今、イエ、ムラ、カイシャの縁に頼れない、頼りたくない人でも、「無縁社会」「孤族」と 嘆かずに「できること」はたくさんあるはずです。
★「無縁社会」「孤族」を嘆く前に知るべき社会資源 3 たとえば、単身者にとって老いと死の問題はかならず直面する課題です。それなら、元気なうちから 単身者が利用できる地域のサポートサービスや介護、医療、葬儀等の情報を集めておくことが 必要になるでしょう。有事のときには安心して支え合える人間関係を築いておき、いつでも 連絡できるつながり先、サービス、介護の情報、死後の準備を前もって考えておくことも 求められるはずです。 地域の因習を嫌い、関わりを避けてきた人には、災害等の有事の際に、身近な援者を見つけにくい という課題があります。したがって、日ごろから地域の「利点」にも目を向け、新たな関係づくり への努力をすることが課題になります。自治会活動やサークル活動に抵抗があるなら、まずは 最低限、住居の大家さん、管理人とだけでもコミュニケーションを築く、いざというときのために 自治会事務局の連絡先を控える、地域に常連の店(日用雑貨屋、喫茶店、飲み屋、スポーツ店など) をつくることでも、地域との重要なつながりの構築になると思います。 また、会社組織に所属していない人には、同業者や同じ労働形態の人が悩みを相談できる組合が あります(インターネットから申し込みできます)。さらに、失業、生活苦、身寄りのなさなど 多様な問題が複合して孤立感を深めている場合には、まずは地域の社会福祉協議会に連絡して みることです。 窓口では事情を受け止めて総合的に相談に乗ってもらえますし、必要に応じて個々の問題の 専門的な機関を紹介してもらうこともできます。それにも抵抗があるなら、悩み相談の電話窓口が さまざまな機関で開かれています(インターネットの「電話相談」で検索してみてください)。 ちなみに、急激な少子高齢化社会が進む中で、単身生活者、単身高齢者は激増していく傾向に あります。単身者の安全を確認し、サポートする公的サービスやビジネス、単身者同士がつながり、 情報交換する場へのニーズは、今後ますます高まっていくでしょう。
★「無縁社会」「孤族」を嘆く前に知るべき社会資源 4
見つけるべき社会資源、つくるべき社会資源
人々が個々のニーズを充足するため、問題を解決するために利用できる有形無形のあらゆる
もののことを「社会資源」といいます。
社会資源とは公的サービスだけでなく、友人、家族、地域の人、店やグループ、さまざまな
消費サービス、趣味など、身近にあるどんなものでも対象になります。さらに、社会資源を発掘し、
つながれる自分の能力もまた、立派な「内的資源」なのです。
私たちは、生きているだけで既にたくさんの社会資源とつながっており、求めればさらに多くの
社会資源に出会えます。さらに、一度あきらめたイエ、ムラ、カイシャの縁もよりよく変えて
いくことができるはずなのです。旧来の縁とつながれないという現象面だけを捉えて、「無縁社会」
「孤族」という言葉だけが独り歩きしてしまうと、問題の本質が見えなくなってしまいます。
むしろ、私たちはすでにある社会資源を強化しよう、新たな社会資源を貪欲に探そう、まだない
社会資源はつくっていこう、という積極的な発想を持って生きるべきなのではないでしょうか。
そうした姿勢を持てば、人がみな自分らしく、自由に自分らしい人生を生きていける社会が
実現できるのではないかと思います。
All About>健康・医療>健康管理>ストレス>ストレス発散・解消法
更新日:2011年10月03日 大美賀 直子
http://allabout.co.jp/gm/gc/385475/
>>145 移住元と移住先の顔ぶれが変わらないと村社会もそのまま移転するんだよね
いやぁ、東京の海っぺりだけど、村社会の影響が残ってるね。ただ、3世4世となるとだいぶ薄まるね
(ただ、新興宗教が絡んでいたりするからやっかいで)
田舎や村社会なんていらねーどんどんつぶせ
166 :
名無しさんの主張 :2011/10/24(月) 07:15:46.06 ID:sKnLAfTK
村社会は不要だが、田舎は必要。 田中康夫は正しい。
168 :
名無しさんの主張 :2011/11/17(木) 19:14:46.59 ID:2RJTGNBA
村社会じゃ無い田舎なら良いんだけどな。 そういう田舎もある事はある。 ただ、日本の近現代史的に言うと、 日本の農村は法律その他の制度仕組み、 社会の有様に大きく影響を与えるレベルで村社会であった。 そして、田舎なり田舎から出てきた人が多い地域や組織では、 今でも村社会的な側面が大きい。
169 :
名無しさんの主張 :2011/11/19(土) 01:03:15.15 ID:H012l+8E
日本人にはある種「ムラ社会」をつくる才能が備わってるからなあ・・・。
170 :
名無しさんの主張 :2011/11/20(日) 12:37:35.73 ID:lHWKQWX1
まあそこら辺は完全にでは無いけど、 時と共にムラ社会問題が解決する側面もあるんじゃないかな。
171 :
名無しさんの主張 :2011/11/20(日) 12:40:42.99 ID:lHWKQWX1
ムラ社会の問題と言えば、給食強制制度もムラ社会的だな。 時と共にって書いたけど、行きつ戻りつの波はあるかもしれない。 ここ10年くらいの学校の制度は、部分的には良くなってるけど、 よりムラ社会的になってる所がある。ゆとり教育でも脱ゆとりの今でも。
172 :
名無しさんの主張 :2011/11/20(日) 13:19:38.61 ID:lHWKQWX1
給食は食糧難の地域の場合は学校で必修的にするのも良いけど、 そうじゃ無い場合は他の選択肢含め選べるようにした方が良い。
173 :
名無しさんの主張 :2011/11/20(日) 13:33:22.91 ID:7hfgAtJJ
福祉国家で、保険強制で、経済的自由がそれほどない国でも ムラ社会じゃない国もあるね。 スウェーデンとか個人主義の最たる国だ。
174 :
名無しさんの主張 :2011/11/20(日) 13:41:03.54 ID:K+v+xI0e
江戸時代に成立した封建制度の名残 宗教観 檀家制 農業のあり方 農協 役所 郵便局の宗教の世襲 コネ 公的機関まで村社会だから なかなか難しいだろうな
どこの国の集団も、立派な村社会だろ
ルールが多いか、少ないか、成文化されてるか、されてないか程度の差しかない
個人が集団に勝てるわけない以上、集団で利益を守るしかないんだよ
そして、集団を維持するには、ルールと破った場合の制裁が必要になる
そりゃ、ルールなんて、いくらでも変えていけばいいけどさ
強集団のルールに従おうぜという
>>153-156 みたいな人が
日本で識者として威張ってるのをみると悲しくなる
日本のルールを世界のルールにしてやんぜって人が現れないのが問題じゃね
★日本の民主主義はムラ社会の延長 ものごとが決まらない 1 タテ・ヨコ・ナナメの世界と日本 今回福島原発事故とそれへの対処は、日本社会の本質を露わにした。 まず上の方について言えば、国とか東電とか大きな組織を動かしていく識見(原発についての 技術的な知識のことを言っているのではない。危機の際、現場に出かけて作業を阻害することは 控えるとか、社会への説明の仕方を心得ているとか、リーダーとしての心得のことを言っている) のある日本人が本当に少ないということがある。 日本が工業化、都市化、近代国家建設に踏み切ったのが僅か150年前だから、農耕共同体の 内部調整・協力を重んずるやり方がまだ社会の主流として残っている。米国では民主主義は 多数決の原則とのセットで運営されているから、重要な方向転換を迅速に成し得る。ところが 日本の民主主義は、徹底的な利害調整と平等性の確保という古来からのムラ社会の仕来たりで 運営されているから、戦略的な決定を速やかに行えない。 戦後、アメリカに言われて「民主主義」という言葉を殊更使うようになったのに、内容をすり替えたのだ。 そして、徒競走で順位をつけることさえ控える極端な平等主義が学校教育で強調されたことも、 日本をリーダーの出て来にくい社会とした。 周囲の情勢をきちんと判断して正しい処方箋を社会に提示するより、ムードを読んでそれに 乗っていくことが良いとされる学級委員のようなポピュリズムが良いとされ、それを無責任な マスコミが煽っていく――戦国時代のムラでこんなことをやっていたら、外敵に蹂躙されて しまったろうが――これが今の日本社会である。 リーダーに背骨が通っていないとならば、各省、各組織は相争い、問題が起これば責任の 押し付け合いをするだけで、新しい大きなことは何も起こらない。そして各組織の中もいくつかの たこつぼ集団に分かれている。たとえば東電内部では、東大の原子力工学出身者が閉鎖的な エリート集団を作って部外からの干渉を許さないところがあるから、組織が組織として動かない。
★日本の民主主義はムラ社会の延長 ものごとが決まらない 2 外部を見ることなく、組織内の論理――現在の社内のヒエラルキー・利権構造を守るためには どうしたらいいかという論理――だけでしか行動しない社会は、自滅する。外部を見ていないから、 自分を守ろうとしても破滅するのだ。 例えばドイツと組んでソ連に対抗しようとした戦前の平沼内閣は、その他ならぬドイツとソ連が 手を結ぶという「想定外の」展開に、「欧州の情勢は奇奇怪怪なり」という情けない声明を発して 総辞職するしかなかった。そして、陸軍は中国での既得権益を捨てようとはせず、海軍も多額の 予算を費消していた以上、開戦への動きを身を張って止めることはしなかった。 日本はこうして、強大な軍隊を持つ近代国民国家の取り扱いを間違え、かえってその軍隊のために 滅びた。今また原発という巨大な技術体系の扱いに失敗している。日本社会の仕組みは、産業革命が 生んだ巨大な生産力、「国民国家」という強力な集税装置が可能とした軍事力、そして中産階級化 して権利意識を具えた無数の選挙民をうまく調整していけるものになっていないのである。 自縄自縛・自滅の構造 原発の問題は、このような自縄自縛の構造が戦後も生きていることを示してくれた。今回の 福島原発事故が明らかにしたように、狭い日本に50基以上もの原発を置くことは無謀なのだ。 地震、津波は防げても、テロや隕石の落下は防げない。 ところが一旦原子力発電に発電の30%もを依存してしまうと、国内のベクトルは全部原発維持の 方に向いてしまう。経済界は原発に異存がないようだし、原発が立地する地方自治体は膨大な 助成金なしには予算が組めない。地元の雇用も、原発に大きく依存してしまう。学界、マスコミには 電力会社から多額の研究費や謝金、そして広告費が出るので、原発廃止を唱えにくい。
★日本の民主主義はムラ社会の延長 ものごとが決まらない 3
このような無責任体制が、カネでなんとか一つにまとめられている。平時には、これはシステム
としてちゃんと動いているように見えるが、今回のような非常時には馬脚を現すのだ。
日本人は古来、外国人が作り上げた国際的枠組みのなかで生きてきたし、抽象的な思考が苦手
だからシステムとか枠を自ら作ることも下手だ。枠を提供されると、それをベースに権益構造を
作り上げてしまい、問題が起きると、その枠を改造しようとするよりは、運悪く責任者の
地位にいる者に問題の責任を背負わせて、すまそうとする。枠が同じままだから、同じ問題が
繰り返されるのだ。
タテ・ヨコ・ナナメの世界と日本 BLOG 東京財団
投稿者: 河東哲夫 日時: 2011年07月09日
http://www.tkfd.or.jp/blog/kawato/2011/07/post_206.html
なんだかんだ言ってもムラ社会がいいと思ってる人が多いから困る。 ムラ社会賛成者って他人のことがもの凄く気になる傾向が強い。 要するに僻み・妬みなどの嫉妬心が異常に強いのである。 「みんな同じじゃなきゃダメ」という思想を強く持っている。 仕事ができる、異性にもてる、などは恰好の僻みの対象となる。 こういった傾向のある人間との付き合いはホドホドにしておかないととんでもないことになるが、 何と言ってもこういう人間が社会には多すぎるのである。 会社など職場の人間関係のトラブルもその根底のほとんどは嫉妬からきている。 政界などは嫉妬の渦で動いているというのは有名な話しでもある。 日本はムラ社会が長かったためかどうも個人主義への移行が難しい。 とにかく「出る杭は打つ」「成功者は徹底的に叩く」という文化がまだ根強く残っているのである。
>>179 同意。
そしてその村社会や嫉妬を作り出し維持しているのは
他人が許せないその人ら自身である。
>>180 まさしく・・・
そしてそれに気が付かない人間が多いのである
おっとこのぐらいにしておこう
★日本という国は,巨大な田舎社会=ムラ社会だ.
低下低下=てげてげ 2009/01/29(木)
都会は人間関係が希薄だ.隣人がどんな人なのか?
全然分からない.電車に乗っても全員が知らない人だ.
田舎は人間関係が濃厚だ.隣近所なら財布の中まで分かる.田舎でバスに乗ると,全員が顔見知りだ.
田舎は “等質社会” だ.誰も奇抜なことはせず,皆が同じような生活をしている.異質な人間は嫌われる.
都会は “異質社会”だ.異質な人間が田舎から出てきているから,変人奇人が多い.楳図さんみたいな.
しかし都会に住む人の多くは田舎から出て来ている.彼らの “心情” は田舎人のままだ.
この都会に住む田舎人は異質な人間を嫌う.奇抜なことをする人間を排除しようとする.
この「異質な人間を排除する原理」で叩かれたのが楳図さんだ.
「排除の原理」は,すべての異質人を排除するわけではない.
たまたま客人として田舎に来た人間は歓迎される.
これを柳田国男は “稀人歓迎 (まろうどかんげい)” と名づけた.変人でも奇人でも,
稀(まれ)に来る人間は大歓迎されるのだ.
では,どんな場合に異質な人間は排除されるのか?
それは,「田舎」に住み着くと決まった時からである.
サイン会なら武蔵野市の例の住民も排除はしない.
しかし,楳図さんは奇抜な家を建て,住み着こうとしたから,「排除の原理」が働き叩かれたのだ.
もう一人,猛烈に叩かれている異質な人間がいる.
朝青龍だ.この横綱は,土俵上でガッツポーズはするは,挨拶もなしにモンゴルに帰ってしまうはと,
伝統を守らない異質な人間だ.
日本という国は,巨大な田舎社会=ムラ社会だ.
ムラはムラの伝統を守らない異質な人間を排除する.
この「排除の原理」によって,おそらく,朝青龍は…,
“日本という巨大なムラ社会” を去ることになるだろう.
http://grnba.com/iiyama/more6.html
184 :
名無しさんの主張 :2011/12/10(土) 18:54:29.55 ID:3tsLoFdK
★村社会の規則 1 ワタシの見たニッポン 上海 惠過柔 それは今学期ももうすぐ終わるという頃でした。佐藤先生のゼミに参加したみんなで 期末テストの前に、一緒にどこかで飲もうということになりました。 コンパという形でお互いの友情を深め、いろいろな思い出を作るということが狙いです。 他の先生のゼミに参加した学生達も、殆どこのようなイベントをやっているようです。 一般的に先生はゼミの中で一番活動的な学生に幹事役を頼んで、コンパの準備をさせます。 私は子供のことが心配だったので、コンパに参加したくはありませんでした。そのことを 正直に佐藤先生に話したところ、先生は「参加しなかったら『村八分』にされるかもしれないよ。 『村八分』にされたらどうする?」と言いました。 私は初めて『村八分』という言葉を聞いたので、それがどういう意味を表すのかわかりませんでした。 先生は私の表情に気付き、その言葉の意味を説明してくれました。 「『村八分』というのは、仲間はずれにされるという意味なのだよ。もともと日本社会の中で 生活するには村の規則に従うことが必要とされるんだ。規則を守らないと他の人が付き合って くれなくなるのだよ。まぁ、火事と葬式は例外だけどね。」 なるほど、と私は思いました。このようなイベントは一学期に一回しかないものだし、 と思った私は結局参加することにしました。 この経験を通じて、私は日本人のよく言う、「村社会」という言葉の意味を理解できるように なりました。それは昔の農村社会から継承された慣習で、村の中には共同防衛、相互援助、および 交際支援といった機能を持っている組織があり、村人の行動もその慣習と規則に従って行われるわけです。 各村にはそれぞれ異なる慣習が存在して、誰かがそのような規則や慣習を守らない場合、 村人はお互いに約束して、その人およびその家族を敬遠し、付き合わないことにしたのです。 しかし、その罰には限界が設けられています。すべての面でその人との付き合いを断る というわけではなく、火事と葬式はその例外とされていました。
★村社会の規則 2 その理由ですが、火事は関係を絶っていても他人にも影響を及ぼすものですし、葬式は制裁 されている人自身が亡くなった場合、その制裁は自動的に終了する、ということにしたためです。 このような制裁は「ある人の存在を完全に無視してしまう」ものですので、とても日本的と 言えるでしょう。昔の日本の村(家庭)には「冠、婚、葬、病、出生、祭、旅、建築、水難、火事」 という十項目の大きなイベントがありました。 普通の家庭では、そういう行事があると、親戚や近所の人に手伝ってもらったり、関わりある 人たちを誘ったりしてきました。 ましてや昔のような交際範囲のとても狭い社会では、親戚や同じ村の人々は生活していく上で 大変重要な相手でした。 このことはとても自然なことです。おめでたいことがあったとき、祝ってくれる人がなかったら とても寂しいですし、災難に遭った時に助けてくれる人がいなかったら悲惨なものです。 『村八分』といっても、村から追放されない限りは完全な排斥とはなりませんので、そこに 日本的な温情が見られると言う人もいます。でも私は逆に、それはまさに日本社会の冷たい、 そして閉塞的な一面を反映しているものではないかと思うのです。 村は国の法律に制限される以上、その人がどんなに村内の規則に反したと言っても、ただ村の 規則に違反しただけであり、その人の財産の没収や追放といった権限が村に与えられていないのは、 当然だと思うからです。 もう一方で、大多数の規則に賛成しないということだけで、周りが団結して制裁や圧力を 与えたりするのは、集団主義になりかねないことの根源となるのではないでしょうか。 しかしよく考えれば、『村八分』という現象も理解できないとは言えません。なぜかというと、 その様な集団主義は、多数による少数への圧迫によって実現されるもので、集団を構成する人達 すべてが、集団の規則に100%賛成するということは有り得ないでしょうから。 実は、日本にいる外国人にとって今の日本での居住状況はとても興味深いものなのです。 ほとんどの外国人は日本の地域社会の外にいます。
★村社会の規則 3 日本では「町会」といった組織があり、毎年会費を払い、周知事項などは「回覧版」という形で 各家庭に伝達されます。毎年行われている盆踊り等のお祭りは、町会が開催する行事の主なものです。 また、町会は各種のボランティア活動や子供達の旅行をも組織・実行しています。しかし、 そういったイベントに参加する外国人は少ないですし、同時に町会も外国人を誘うことは ほとんどないのが現状です。 うちの子供が一年生の時、町会に属する児童会の担当者が時々うちに来て、児童会の参加を 勧誘したことがあります。子供のために、当時の私は躊躇なくすぐ参加することにしました。 また、児童会が企画した旅行に、私は子供を連れて参加しました。ところが、町会の会長さんや 他の何らかの職位についている町会の役員さんたちは、私たちに非常に冷たかったのです。 実際問題、このような旅行は個人で旅行に行くよりちっとも安くないのです。お金を多く 出したにもかかわらず、他人に支配されたり冷遇されたりするというのは、当然私には 納得できないことでした。 後で何人かの知り合いの主婦に、「なぜ、あの人を会長に選んだの?」と聞きました。私の 思惑とは裏腹に、その主婦たちは口を揃えて「会長ってすごくいい人ですよ!」と答えました。 同じ人間でありながら、こんなに違う印象を与えられるものでしょうか。原因は一つだけ 考えられます。つまり、あの会長はわざと私たちを苛めていたのです。結局、私は自分の 子供をその児童会から退会させました。 私の近くに住んでいた留学生の子供たちも児童会に参加していませんし、町会からも何の 連絡もないようです。近年、賃貸住宅が多く建てられて、そこに住む人が多くなってきました。 その人たちのほとんども町会に参加していないそうです。
★村社会の規則 4
『村八分』という現象もそこに元から住んでいる住民の範囲内だけの存在になりつつあります。
しかし、大学や、会社、そして一定の数の日本人の心の中には、そういう慣習はまだ根強く
生きていると思われます。
個性を発揮すると、集団の外に排斥されるのではないか、ということを心配している日本人は
まだまだたくさん存在しています。このことが、個人主義が日本社会で健康に成長できない
原因の一つではないかと私は考えます。
ワタシの見たニッポン 上海 惠過柔
http://www.cns-fuso.co.jp/inpaku/02mita/mit-095.html
188 :
名無しさんの主張 :2011/12/10(土) 19:18:10.80 ID:EUqlFiky
日本は巨大な村だ。郡上に桜を見に行ったとき、私は白鳥コダラのローソン で カップラーメンしかかわずに1時間店にいたら 店長にパトカー 呼ばれた。「うざい」という理由で。そのあと二日町公民館にいくと 「よそものがきた」と老人にパトカー呼ばれた。ひどい目にあった。
189 :
名無しさんの主張 :2011/12/11(日) 11:38:56.72 ID:QL34E+ur
「旧あいおい損保」(合併後「三井住友あいおいニッセイ同和損保」)を裁く!「旧あいおい損保」の「保険金不払い」にあった全国被害者の皆さん! 大至急、「被害状況を書き込ん」で下さい!「旧あいおい損保」の被害者全員、3万人規模の抗議をしよう!金融庁その他、監督行政諸官庁の行政指導、処分不作為、 業務怠慢、無能さを合わせて暴露し、社会問題化しよう!「旧あいおい損保」は損保保険業者として事業展開しているが、「保険料収入」のみを稼いで、 「被害者への損害賠償保険金支払い義務」を全く果たしていない。「保険金支払いを最大限しないことを会社目標にしている」且つ、平然と居直っている。 「旧あいおい損保」は「悪徳詐欺保険会社」である。被害者全員で徹底して糾弾すると共に、「旧あいおい損保」の「不買、不契約運動」をこれから全国展開しよう! 現在の加入者は即刻、他社へ契約変更を!これからの加入予定者は「旧あいおい損保」には絶対、入らない事です!理由は「任意自動車保険料」だけをかき集め、 「被害者への保険金支払い」を全くせず、顧客対応も最悪な会社である。「保険料搾取の詐欺会社」である。こんな会社を事業存続させてはいけない。
190 :
名無しさんの主張 :2011/12/11(日) 15:34:11.26 ID:3v9rQ4+g
東大に入っただけで終わる人たち
まぐれで入ってついていけない
「講義の内容が高度すぎて理解できない科目がある」を挙げた学生が約49%も
いる。<約5人に一人の学生が授業の内容についていくのに困難を感じており、
これも学生の悩みや不安の種となっている>というのだ。
「周りは開成(東京都)、灘(兵庫県)、筑駒(筑波大学附属駒場、東京都)などの
"メジャーリーガーばかりですが、僕は地方無名校という"3Aマイナー"の選手。
同じグラウンドで戦えるはずがないのに、たまたまホームランを打って
メジャーに来てしまった。早稲田に行っていれば、と後悔しました」
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/328
住む理由も行く理由もないから人が減ってる田舎や田舎の馬鹿もどうせなくなるから本来どうでもいいんだが 閉鎖的だから何もわからないんで田舎を残すべきだという変な勘違いしてる田舎の馬鹿が意味不明でうざい
★日本、よいしがらみ 悪いしがらみ ブックレビュー 1 Cegedim BRAIN, UBブックレビュー 2003/03/18 北原 秀猛 日本、よいしがらみ 悪いしがらみ 著 者:アレン・S・ミラー、加茂 美則 出 版 社:日本経済新聞社 定 価:1,600円(税別) ISBN:4−532−31020−2 Alan S.MillerはUCLA歴史学部卒、現在北海道大学院文学研究科教授。賀茂美則氏は 東大文学部卒、現在ルイジアナ州立大学部准教授である。 日本の21世紀は、どのような時代になるのだろうか。そして、いま、どのような変化が、 どういうふうに日本を襲おうとしているのだろうか。本書は、これらの問題の根源である 「社会的・経済的な変化」に焦点を当てている。現在起きている変化は、日本社会をこれまでの ような「きわめて秩序立ったもの」から「これまで以上に個人の自由を許容するもの」へと 変えつつある。日本ほど社会秩序が大事にされる国はない。日本ほど社会関係と社会的な義務が 強力な国はない。日本人は皆、複雑な社会のルール、義務、そして人間関係のしがらみに がんじがらめにされている。あえて言うなら、この「しがらみ」こそが、伝統的な日本社会と それを定義づける特徴の要とも言うべきものなのだ。日本はどうやって日本でありつづけるのだろうか。 強制的な人間関係と現状への安住につながる「悪いしがらみ」を破壊する一方で、日本社会の 競争力向上と安定につながる「よいしがらみ」を残すことは可能なのだろうか。本書はこうした 問に答える。本書はアレン・S・ミラー氏が第1、2、3、5、6章を英語で執筆し、賀茂氏が 日本語に訳すと同時に手を加えた。第4章は賀茂氏が執筆し、ミラー氏が手を加えた。 21世紀を迎えた現在、これまでのルールが非常に速いスピードで変化している。新たな国際規範、 新たな技術、そして経済的・人口学的な変化が絶え間なくもたらす影響のせいで、これまでのように 日本人が森へ帰ることはだんだん難しくなってきた。これまで外界から日本をさえぎって身の 安全を守ってきた木々は、いまとなっては邪魔になることの方が多いのである。日本はいま、 変わらなければならない時期にきている。
★日本、よいしがらみ 悪いしがらみ ブックレビュー 2 「紀元前1万年から1750年まで、人類の生活はほとんど変わらなかった」と論じるのは あながち誇張とは言えない。しかし、18世紀になって人類の歴史を一変するような2つの 出来事が起こった。ジェームズ・ワットによる蒸気機関の発明と、西ヨーロッパ全域で起こった 農業生産性の飛躍的な向上である。この結果もたらされたのが「産業革命」であり、この変化は 現代社会にもひき続き影響をもたらしている。 近代都市社会の特徴としては、これまでの研究から次の3つを挙げることができる。 1.近代都市社会での生活は、伝統的な小規模コミュニティの生活に比べて不安定である。 2.近代的な社会関係、特に都市住民における社会関係は、小規模かつ安定したコミュニティに おける社会関係よりも弱い。 3.大都市部では匿名性が強いので、1人ひとりの行動を監視し、罰を与えるのが難しい。 この3つの特徴は、数多くの実証研究によって裏づけられている。 アメリカで最も重要な社会的価値は「個人の自由」だが、これを強調しすぎるあまり、施行すれば 必ず社会のためになると圧倒的多数のアメリカ人が信じている法律(例えば銃規制や児童ポルノ 規制など)を作るにも大きな困難が伴うのだ。アメリカは、飛びぬけて高い犯罪率という対価を 払う一方で、「個人の自由を尊重」するという利益を被っている。日本では「秩序と同調性」を 重視する。その結果得られたのが安全でスムーズに運営される社会だが、その一方で、伝統的でない やり方を追求する者は許容されない。実際、日本人ノーベル受賞者のうち多くが、海外、特に アメリカの研究機関で働いていた経験をもっている。 アメリカ社会では人生の選択肢に事欠かない。人々は、置かれた状況が気に入らなければ、比較的 簡単に他の選択肢に乗換えることができる。だからアメリカ人は、仕事や学校、専攻、時には 友人や配偶者も比較的簡単に替えてしまう。しかし、日本の社会はこういった変化を歓迎する ようにはできていない。学生は学校や専攻を簡単には替えられないし、労働者は職場を簡単には 替えられない。
★日本、よいしがらみ 悪いしがらみ ブックレビュー 3 学校のクラブや大学のサークルに入るという一見簡単そうなことすら、コミットメントを 意味しており、そこから簡単に抜け出すことはできない。この依存が義務につながり、ひいては (可視性の程度によるが)同調性につながることが見てとれる。そして、この同調的行動は 「自発的なものではない」ということだ。 企業内部で起こるホワイトカラー犯罪に関して言えば、「選択肢の不足」と「相互依存」という 事実は、それを断れば解雇されるかもしれないという恐れから、従業員が違法な行為に異を 唱えることをほぼ不可能にする。一方、地位の高い人同士の関係(多くの場合、一流大学出身者で 占められるが)が奨励され、彼らに利益を与えるような暗黙の合意が生まれる。こういった 行為に参加しない人は、出世コースから外されてしまうため、社会的な成功は覚束ないであろう。 これは、「悪いしがらみ」の一例である。 日本が経験するだろう変化のほとんどは、人口学的あるいは経済的な変化によって引き起こされて いる。したがって、この変化がよいか悪いかを議論しても無駄である。いま本当に必要とされて いるのは、この変化がいかに大きな影響をもたらすのかを理解することである。日本は人間関係に 基づいた社会だが、人口学的・経済的な変化のせいで、その根幹をなしてきた人間関係のしがらみを、 いままで通りに維持することはもはやできなくなりつつあるのだ。もっと重要なのは、社会の 一部分で起こった変化が、しばしば社会全体に波及することである。 アメリカでは小さい頃からしつけを厳しくする傾向があるし、両親とは別の部屋にあるベビーベッドに 寝かすことが多い。母親がいつもそばにいなくても大丈夫だと子供がわかるようになるまで、 泣かしっぱなしにしておくことも多い。親鳥がひな鳥を巣から追いやり、無理やり飛び方を 覚えさせるのと似ている。社会化の目的は、独立した人格を育てることなのだ。アメリカでは、 きちんと社会化された子供は、自分に対する自信と自尊心を持つようになる。 社会構造が急速な変化を遂げる一方で、それに伴う価値観(文化の一部)がその変化について いけない場合、この文化的遅滞は、社会化によってさらに長期化するということだ。
★日本、よいしがらみ 悪いしがらみ ブックレビュー 4 社会化のプロセスのなかには、これまで何世代にもわたって繰り返されてきた「パターン」があり、 このパターンをよく考えずに繰り返すと、時代遅れの文化が再生産されてしまうということだ。 簡単な例として、日本の親が知らず知らずのうちに口にする、「男の子なんだから、もっと しっかりしなさい」というパターン化されたフレーズを挙げることができる。この反語は「女の子は しっかりしなくてもよい」であり、女性の労働参加が当然と考えられるようになった現代において、 子供、特に女の子はマイナスの影響を与えることになる。 昨今では、「規制緩和」が日本の政治・経済コミュニティにおける流行語だが、規制緩和しなければ ならないという点においては誰もが同意しており、唯一の問題は、そうした変化をいつ、どのように して行うかである。しかし、規制緩和とは、正確に言えば何を示しているのだろうか。一言でいえば、 企業と産業全体が開かれたマーケットで競争しなければならないということだ。言い換えれば、 社会的なネットワークがその価値を減じ、技術革新と競争力がその価値を高めるということである。 皮肉なことに、日本はいま自分自身の成功の犠牲になっている。自分たちが作り上げた社会構造は、 日本という国を近代的、かつ成功を収めた社会に変えたが、低い出生率と経済的な豊かさは、 子供たちから長期にわたるコミットメントや同調的な行動への興味をなくさせているのだ。 さらに、日本を取り巻く世界があまりにも急激な変化を遂げたため、国内で信頼に足る製品を 作っている会社でさえ、もはや成功は保証されない。こういった会社ですらも、これからは 革新的な製品を作って世界中に売っていかなければならない。 一般的に人に対する信頼という面で、日本人とアメリカ人を比べると、アメリカ人は、ある人の 信頼を推し量るために、どんな情報であれ使えるものは使おうとする。また、アメリカ人は、 人を信頼しやすい一方で、とても用心深い。アメリカ人は他人が信頼できるかどうかを判断する ために、評判や特定分野における知識、そして親類の意見などを情報として利用するが、日本人は こういった情報を真剣に扱わない傾向がある。
★日本、よいしがらみ 悪いしがらみ ブックレビュー 5 アメリカ人は、他人を信頼する傾向が強い一方、用心深くなければならないと強く感じている ということだ。その反面、日本人は、他人を信頼するわけでもなく、用心深いわけでもない。 アメリカの家族においても上下関係は存在する。ただし、それは性別や年齢によって与件的に 決まってしまうものではなく、一つひとつの課題に関しての知識や経験などに基づいて決まる ものである。社会学的用語で言えば、「普遍的(universal)」な基準ではなく「個別的(specific)」 な基準に基づいて決まる。つまり、株式投資に関しては「お父さんが一番」かもしれないが、 インターネットに関しては「娘が一番」かもしれない。だから、娘が上下関係の一番上にきて、 それを他の家族が認めることもある、ということなのだ。何に関しても「お父さんが一番」である (あった)日本とは大きな違いがある。日本人が家族生活を通じて学ぶもう一つの価値に、 集団を個人に優先させるということがある。日本で「家族のために我慢しなさい」というのは、 昔からの定番ともいえるセリフである。 日本の社会は、これまで長い間、長期にわたる社会関係を奨励し、かつ、それに報いることを 非常に重視してきた。日本社会にユニークな点というものがあるとすれば、この事実こそ、その 中心をなすものであると思われるほどだ。日本社会は、他人との関係に新たに入っていこうとする場合、 その集団に全面的に身を任せるものと思われ、その集団から抜けたり、所属を変えたりすることは ないと思われている。だからこそ、日本において重要な社会的価値のなかには、忠誠、信頼感、 同調性などが含まれている。 ある国の価値観が時代とともに変化する場合、次の3つの理由が考えられる。 1.「時代効果(period effect)」である 2.「年齢」に関連するものがある 3.年齢と時代の両方を組合せたものができる 本書を通じて主張してきたポイントは次の4つの大きな領域にまとめることができる。
★日本、よいしがらみ 悪いしがらみ ブックレビュー 6
1.伝統的な社会関係と社会的な義務を維持し、強化する
2.人々の行動の可視性を高いレベルに保つことで、社会に対する破壊的行為を最小限に抑える
3.強制に基づいた人間関係や社会的な義務を取り除く
4.機会と選択肢を増やす
以上が本書の概要である。日本が世界から見て、なぜ孤立化してきたのか、一番大きな原因は、
本書の最初にも書かれているが、「これまで外界から日本をさえぎって身の安全を守ってきた木々は、
いまとなっては邪魔になることのほうが多いのである」とあるように、冷戦構造が解け、各国の
国境がなくなり、EUの誕生をみたように、グローバル化の市場の環境下において、いまだに
日本は1940年(昭和15年)体制をいまだに引きずっているのである。すなわち、戦時統制経済
のために総ての資源を集中させ、そこには、さまざまな業法や規制が設けられた。そして、官僚機構は
既得権益を温存し、緒官庁は規制をもとに業界に圧力をかけ、大きな権限を行使する、といった
体制がいまだに続いているのである。本書のなかにも書かれているが、例えば、規制緩和について
「企業と産業全体が開かれたマーケットで競争しなければならない」とあるが、実際は規制で
がんじがらめになっているのが実情である。現在検討が加えられている“特区”でも事前に官庁側から
横槍が入るのである。これでは、技術革新を含めた真の競争力は育たない。結果、世界49ヶ国中、
競争力が30位といった体たらくの状態になるのである。
野口悠紀雄氏が述べているように「日本経済に将来の展望を開く基本的道は、40年体制からの
脱却である」真の構造改革とは、そういうものでなければならない。21世紀を迎えた今日、
これまでのルールが非常に速いスピードで変っている。この現実を知ることだ。
北原 秀猛
http://www.utobrain.co.jp/review/2003/031801/
★「ムラ社会」からの脱却
正義と微笑 2011-11-26
何回かここに書いているように、共同体主義(コミュニタリアニズム)に共感するところが多い。
コミュニティの崩壊が、問題の根っこにある。現代社会が抱える病理の一因になっている。
漠然とではあるが、そう考えている。だからこれからの課題は、コミュニティが果たしていた
役割を分析し、それをいかにして取り戻していくかだと思っている。
だけど、考えてみれば、コミュニティなんてものは、既に存在しているんじゃないのか?
しかも、克服すべき課題として……。
論理ではなく空気が優先され、馴れ合いで、本音を言わず相互監視を続ける……。俺の大嫌いな
日本社会は、まさに「共同体」そのものではないか。風通しの悪い日本企業、ゴシップ大好きな
地域社会、陰湿な教室。「共同体」は、うんざりするほど、そこかしこに溢れている。
それを理想化して語る人たちも多いが*1、俺にはむしろ、打破すべき課題に思える。
多分、俺が理想とする「共同体」と、現実にここにある「共同体」は似て非なるものだろう。
日本に存在しているそれは、「ムラ社会」っていうんだよ。俺が理想としているのは、そんな
もんじゃない。「ムラ社会」なんて原始的なものはむしろ、壊したほうがいいような気すらする。
単に「コミュニティの再生」だけを掲げていてもダメなようだ。コミュニティの内実が問われる。
正義が守られ、信頼に裏打ちされた共同体、そういうものを目指そう。下らない掟や空気に
支配された、窮屈なムラ社会などではなく。自由な人々による、開放的な、正義の守られる、共同体。
こういう「理屈」、かっこよく言えば「思想」や「論理」や「言論」なんだけど、そういうのが
軽視され、空気や馴れ合いで物事が動いていくのも、日本社会の悪いところだよね。
http://d.hatena.ne.jp/numb_86/20111126/p1
★少数派 1 アンサイクロペディア 概要 好きなものは好きだし、嫌いなものは嫌いである。正しいことを正しいと言い、間違っていることは 間違っていると言うべきである。たとえ親友のあなたが「カラスは白く、白い馬は馬じゃない」と 言ったって、私はあくまで「白いのもいるけど、やっぱり普通カラスは黒いし、白くったって馬は馬だ」 と言うのである。たとえ誰の発言であろうと、みんながその意見に賛同しているとしても、本心が 反対であれば、あくまで反対の意見を貫き通すべきである(もちろん、本心から賛成であればあえて 反発する必要もない)。 たとえみんなが渡っていたって、やはり赤信号は危ないから渡っちゃダメ なのである(少なくとも道路交通法上は)。 またあなたが、「あなたはマジでカスだ」と思う のならば、その思いを伝えるべきである。あなたが正しい、賛成と思うことは、進んでやった方が 良いのだ。 もしあなたが、イラク戦争を止めようとしたいのであれば、イラクかアメリカに 何らかの攻撃を与えても良いのである。それをあなたが正しいと思うのならば。 その結果として、 たまたま多数派(Majority)からあぶれてしまっただけであって、別にそれが悪いなどと言うことは 決してないのである。他人は他人、自分は自分でマイペースに過ごしていればそれでいいのである。
★少数派 2
日本の少数派
古来よりムラ社会である日本において、集団の不文律すなわち空気が読めないことは社会的欠陥
として忌み嫌われており[不要出典]、みんながすることをしなかったり、逆にみんながしないことを
したりなどの行動が往々にしてコミュニティからの迫害を招く結果となる事が多い。そのため自分が
いわゆる少数派であることをカミングアウトするには非常に勇気が要るとされており、そこを逆手に
とって、あえて少数派を自称することによって世間の注目を集めようとする手法が1990年代後半から
隠然たる流行の兆しを見せ始めた。これがいわゆる中二病であり、その蔓延と共に日本の公衆道徳が
乱れ始めたとする意見が一部において提唱されているが、しょせん少数派についての少数派の
意見など誰も気にしないのであった。また、あえて少数派を自称することによって世間の注目を
集めようとする手法の流行によって少数派の数が急増するとそれが多数派となるので、
国民性・民族性を変えないといつまでたっても日本はムラ社会のままである。
アンサイクロペディア
http://ansaikuropedia.org/wiki/%E5%B0%91%E6%95%B0%E6%B4%BE
★日本社会は「ムラ」社会の連鎖
白夜の炎 2011年11月24日
日本社会はムラの連鎖でできている。
原子力ムラはその一つだ。
企業の経営者も同じ。業界ごと、地域ごと、年代ごとにムラができている。
この村の基盤には出身の地域と学校−両者は当然重なることも多い−がある。
同窓生、地域。そこでの先輩−後輩の関係。
そして何より日本では人間関係をこえて人々を拘束する普遍的理念、規範が存在しない。
先輩に言われたことをきちんとやる。役所では先輩上司のいったことをきちんとやるのが「正しい」。
企業も同じ。
結局、企業村、役所村。企業社会と言われた高度成長期の日本が、不況の中で企業社会が
崩壊しつつある中で、従業員の方は企業村の庇護がなくなってしまった。
しかし経営者は依然として村の中で福副と生きているのだ。
経営者、それも規模が大きいところ。
役所。
そして社会全体としては、ムラが消えていき、市民社会が未形成の中で、市民がバラバラに
競争の中に「自己責任」で放り出されていく中、「エリート」層だけがぬくぬくと生きていける
存在として倫理的規範なき「ムラ」社会が存続し続けているのである。
http://blog.goo.ne.jp/baileng/e/0e6e42cb1dee7ef9d59e04bd272a98f4
ムラやムラ社会とかいらない
★なぜ私はオーストラリア移住を選んだのか? 1 (2000年4月18日) 「なぜ君はオーストラリアに移住するの?」・・・外国に移住する人なら誰でもそうでしょうが、 私もこれまで何百人から異口同音に聞かれました。私の場合、答えは至極簡単、「奥さんと 一緒に暮らしたいから」です。シドニーの街中のマンションの一室で部屋をきれいに掃除して 待っていてくれる妻の存在は、確かに移住を決意する最大のきっかけとなりました。 でも極端な話、仮に妻との出会いがなくても私はおそらく海外移住という道を選んでいただろうと 思います(移住先がオーストラリアかどうかは分かりませんが)。なぜなら、それが私という 人間の生き方を最も素直に表現する道だと思うからです。 「初心忘るべからず」という言葉がありますが、移住を半月後に控えた現時点で海外移住の 「初心」をまとめておきたいと思い、この文章を書き上げました。これから始まる新しい生活が より心豊かなものになるように、そして自分を見失いそうになった時にいつでも振り返ることの できるように・・・ その一:日本の「ムラ社会」を離れても生きられることを実証したい 私は小学校高学年から高校の終わりまで、ずっといじめられっ子でした。今でこそいじめは 大きな社会問題となり、被害を受けた子に様々な救いの手が差し伸べられるようになりましたが、 私がいじめられていた1980年代は、「いじめられるヤツは自分が弱いからだ、力ではね返せ」 といわれる時代でした。一方いじめの内容は年々悪質化し、いじめをやめさせられるような 力量のある先生はめったにいませんでした。そんな時代だったので、私は孤軍奮闘、 というよりひたすら耐え忍びながら日々を送らざるを得ませんでした。
★なぜ私はオーストラリア移住を選んだのか? 2 私が受けた数々のいじめの中でも最もシビアだったのは、高校時代に受けた「シカト」、 つまり集団無視というやつでした。なにしろクラス全員が「アイツとは口をきくな」と示し合わせて いるわけですから、私は毎日、朝の8時10分から午後3時30分まで、クラスの中では一言も 口をきいてもらえませんでした。高校二年の秋に京都・奈良に修学旅行に行ったのですが、 その時などは紅葉の美しい京都の街を二泊三日、楽しく談笑するクラスメートを横目に 一言も口をきかずに独り寂しく集団の末尾にくっついて歩いたのです。担任の先生に救いを 何度か求めたのですが、「今時の子は先生がいじめをやめろといっても素直に聞くような 輩じゃないから」と全然助けてもらえませんでした。そんな生活が二年も続き、私は 登校拒否になりました。自宅とか学校の図書室に引きこもる毎日、授業には3分の1近く欠席し、 確か出席日数もぎりぎりだったと記憶しています。幸いにして、高校卒業以降はいじめに 遭うことはなくなりましたが、この経験は強烈な原体験として、私の心に深く刻まれています。 私がいじめに遭った時の周囲(先生や親)の判断は、「いじめられる側の私に問題がある」 もしくは「いじめる側のグループの首謀者に問題がある」のどちらかでした。そして彼らが 描く処方箋は、たいてい「私が自己主張を慎んで、皆の話をよく聞くようにすれば、仲間に 入れてもらえるだろう」という類のものでした。しかし私は度重なるいじめの原体験から、 この問題は個人の責に帰すだけで済むほど単純な問題ではないのだと思うようになりました。 それはむしろ日本人が構成する集団の性質自体に問題がある、さらに言えば「ムラ社会」とか 「会員制クラブ」などという言葉に象徴される、日本社会の構造そのものに問題がある、 と思うようになったのです。
★なぜ私はオーストラリア移住を選んだのか? 3
日本の社会とは、一言で言えばパイナップルのようなものだと思います。つまり、内側は
蜜のように甘く、外側はトゲトゲしい。日本人社会では、一旦集団の中に入ってしまえば、
熱い信頼で結ばれ、お互いを思いやる居心地の良い暮らしが保証されています。ところが、
なんらかのきっかけで集団の外に置かれてしまった瞬間、集団は差別意識を剥き出しにして
個人に襲いかかってきます。私がシカトを受けたことが良い例ですが、往々にして人間扱いさえ
受けられなくなります。要するにムラ社会なんですね。ムラ社会では、集団を離れて個人で
生きていくことは非常に難しい。個人が集団に属して一生を送ることに誰も疑問を抱かない。
いや疑問を抱いても、集団の外に放り出されるのが怖くて誰も逸脱行動をとろうとはしない。
例えば、私をシカトしたクラスメートの中にもシカトに疑問を抱く者はいたでしょうが、だからといって
私の側に立てば集団から放り出されて自分もシカトされる、それが怖いから不本意ながら
シカトに加わる・・・日本社会では、学校、職場、業界と各層でイジメが横行しているようですが、
その基本構造は結局同じで、ムラ社会特有の排除のメカニズムと、個人の自由行動を統制する
メカニズムが働いているんだと思います。
(注)私は日本のムラ社会それ自体が悪だと言っているわけではありません。ムラ社会にも
良い面がたくさんあり、その中で幸せに生きていくこと、自己実現することは十分可能です。
私が問題にしたいのは、ムラ社会では集団の外に置かれてしまった個人に対して差別的・
暴力的になること、そして彼らを救済するメカニズムがないことであり、さらに現代の日本では
ムラ社会の歯止めとなる思想(人権、法の支配、多元主義等)が十分に根づいていないことです。
(後略)
http://www.manachan.150m.com/j_sydney_cover.htm
田舎のカスとかいらねーどんどんつぶせ
田舎やムラ社会とかいらない
★お家大事(抜粋)
住まいの水先案内人 ブログ 2011年11月10日
一昨日来、オリンパスの話が紙面を賑わせています。
この話を聞いていると、なぜか「お家大事」「お家のために」という江戸時代の武家社会の因習を
思い返してしまいます。また、戦後、家族主義が日本的経営の根幹の一つであると言われたことが
ありましたそんなことも思い出してしまいます。
人は、会社に帰属しているのではなく、「会社」という名の「家」あるいは「藩」に帰属して、
その「家」または、「藩」の為なら何でもする。
なぜなら、その「家」または「藩」が無くなれば、自分も路頭に迷うのだから。
まぁ。そんな時代がかった意識は無いにしても、似たような感覚は、会社員であれば、誰しも
持っているのではないでしょうか。
だから、知らない振りをする。内部告発なんてとんでもない。我が身かわいさは会社かわいさ。
その感覚のふくれあがったものが、「ムラ社会」。
原発村に、電力村の生態は至極明らかになりました。そこに巣くう人たちは、それが二次下請け、
三次下請けであれ、やはりそのムラ社会の掟を無視してはやっていけない。
出る杭は打たれるのではなく、叩かれ、つまみ出される。言い換えれば路頭に迷う。
そこには、自由に往来できない労働市場の閉鎖性といいつつ、実はそれを作っているのは、
村社会、家社会を何よりも大事にする日本人の内向き指向が根底にあるのだろうと思います。
「お家大事」・・・
でも人々が「お家」から大量にはじき出された時代が過去にありました−大リストラ時代
そして今、その「家」に囲われない人たちが大勢いる日本。−非正規雇用など
http://adsd.sblo.jp/article/50136962.html
一切役に立たないムラ社会のカスがいらなさすぎる
★閉鎖的なムラ社会から 、オープンで競争的なマーケットに
不正会計・粉飾決算のリスクが高まっています
粉飾決済事件が続くのは偶然ではありません
カネボウ事件、ライブドア事件など、近年、大型の粉飾決算事件が続いておりますが、
これは偶然ではありません。
規制緩和の流れの中で、自由な競争市場を実現するためには、その前提としてオープンな
情報開示が不可欠です。情報をもとに投資家や消費者が企業を選択するためです。
日本の経済構造が、閉鎖的なムラ社会から 、オープンで競争的なマーケットに
変貌する時代にあって、正確で誠実な情報開示は企業の根幹に関わるテーマとなりました。
従来は暗黙のうちに不問に伏されていた不正会計・粉飾決算は、経営環境の激変によって、
決して許されない時代に突入したのです。
相次ぐ監視強化と厳罰化
2004年4月
監査法人を監視・監督する公認会計士・監査審査会の設置
2005年4月
虚偽の有価証券届出書の提出に課徴金制度を導入
2005年7月
証券取引等監視委員会が「課徴金調査・有価証券報告書等検査室」を設置し、有価証券報告書の検査体制を大幅に強化
2005年12月
有価証券報告書の虚偽記載についても課徴金制度を導入
2006年6月
有価証券報告書の虚偽記載に対する罰則の上限を、懲役5年から懲役10年に引き上げる金融商品取引法が国会で成立
エフ・アイ・藤本公認会計士事務所
http://www.fifujimoto.com/service.html
★自治会費払わぬなら仮設住宅出ろ
仮設住宅の件。 ‐ おしどりマコ・ケン(抜粋)
要点を書きます。
1.仮設入居は8月10日に入居。100世帯。
1−2.自治会は8月21日に設立。自治会費は毎月2000円となる。
2.Mさんは、自治会費は月に数百円程度のものではないか、毎月2000円×100世帯の
月20万円の内訳を知りたいと請求。
3.自治会は、自治会費の月2000円の内訳は、仮設住宅の街灯の電気代、集会所の電気代、
集会所の水道代、合弁処理浄化槽の電気代、と口頭で回答。
4.Mさんは、それは自治会費ではなく共益費ではないか、そして本当に月20万円も電気代などが
かかるものかどうか、口頭ではなく、文書で内訳を知りたいと請求。
5.自治会、村役場は口頭での説明のみ、自治会費を支払うよう請求。
6.1回目の自治会費を支払った方々に領収書が出てないことがわかる。 (これは、私も仮設住宅に
お住まいの別の方にも伺いました。同じ仮設住宅にお住まいのTさんも、再三、自治会費の領収書を
請求したがもらっていない、とのこと。東京電力の賠償請求にも領収書があれば請求できるし、
自治会費の金額が大きいので領収書が欲しいのだが困っている、とのこと)
7.Mさんは、きちんとした金額の明細も無い、領収書も出ないでは自治会費は支払えない、
明細を出してほしい、領収書もほしい、そうすれば自治会費を払う、と交渉する。
8.そのうち、支援物資や村の広報が届かなくなる。
9.Mさん、仮設住宅はずっと住むものではなく、いつかは引っ越すので、うやむやに毎年
繰り越すのではなく、自治会費の月2000円×100世帯の明細はきちんと出してほしい、
年間240万円にもなるのだから、明細をきちんと出し、月2000円の根拠を知りたい、と請求。
10.12月28日に配達証明で飯舘村の顧問弁護士から、「自治会費を支払わないので1月末までに
仮設住宅を出るように」と退去請求書が届く。
うーんと、Mさんの請求はわりとおっしゃる通りだと思うんだけどな? 明細や領収書が無いと、
自治会費の月2000円は高額なので納得して支払えない、ということだよね?
マガジン9 2012年02月24日
http://magazine9.jp/oshidori/120222/
212 :
名無しさんの主張 :2012/02/26(日) 22:35:00.70 ID:aWt8XvHn
はよ家帰って乳でも揉んどけ!
◆「ステマ」とは 「ステルスマーケティング」の略。消費者に宣伝と気づかれない形で広報を行うこと。 特にインターネット上でブログや掲示板、ツイッターなどを用い、企業側の人物が単なる 1ユーザーのふりをして特定の商品やサービスを賞賛する「やらせ」の書き込みを行うものが多い。 アメリカなど一部諸外国では法により規制されている。
★日本人の宗教観(抜粋)
習俗に見られる宗教観
習俗に見い出される日本人の宗教観について検討しておこう。
近代的ビルの屋上に祭られている鳥居、ここには近代合理主義としての科学信仰と、
半ばアクセサリー化した非合理的なものの同居が見られる。また「死ねば仏」という、
死者儀礼には祖霊信仰が影を宿している。
「穢れ」と「言霊」という神道的思想について、伊沢元彦氏は「穢れと茶碗」において
面白い考えを述べている。
氏によれば、日本人は他人が使った箸や茶碗をきたないと思うのは、「穢れ」の感覚に
よると言う。熱湯や洗剤でどんなに消毒してあっても、きたないと思うのである。
受験生のいる家庭で「すべる」という言葉を使わないのも、言霊信仰によって、口に
出したことは実現すると考えられていると指摘する。
そう言えば、テルテル坊主を軒先につるして、明日天気になあれ、と言葉をかけるのも
無意識化された言霊信仰ともいえる。
閉鎖的で権力に弱い国民性
日本人の宗教観を考える場合、日本人の国民性についても考察しておく必要がある。
小さな島国で稲作を中心とした生活風土、それによってもたらされた閉鎖的な「ムラ社会」が、
世間を気にする「恥の文化」(ルース・ベネディクト)を形成したのは道理であろう。
そこに「ことあげ」を嫌い、和を尊ぶ国民性が育まれ、外面的秩序が重んじられる。
こうして権力に従順な日本人の国民性が形づくられたと考えられる。
理屈を嫌い、義理人情の浪花節に涙し、演歌の世界に感情移入する、親分子分の国である。
強者に諂い、弱者には威張り散らす国民性がうかがわれる。是は是とし、非は非とする論理を
欠いているからである。島国に閉じこもり、身近な人間関係だけがすべてという視野の狭さは
日本人最大の欠点である。
http://homepage2.nifty.com/path/shukyo.html
215 :
名無しさんの主張 :2012/03/04(日) 21:43:01.06 ID:iy/dVEDW
>>21-23 >>121 何かと言えば「マズくしたくない」とか言っているけど、相手の反応を気にしているだけだもんな
マズくしたくないためにどう誤解されたことを弁解して誤解を解こうとは、筋道立てて考えようとはしないもん
>>77 >>125 整列させて挨拶やお辞儀の仕方を強要させて、何度もやり直しさせるのもタダの粗探しだもんな
OKサインを出すのは何がベターで何が妥当かが見つかったからではなく、気が済んだからだよ
それが出来たか出来なかったかなんていうのは本当はどうだっていいんだからね
216 :
名無しさんの主張 :2012/03/05(月) 14:40:05.80 ID:HLPq6gZ2
「閉鎖的ムラ社会から近代市民社会へ」なんて無理だね。 時代は逆の方向に向かっている。 「下流社会」(三浦展)という本の中に、こんなことが書かれている。 東京近県の市では、東京にほとんど行かなくても済むくらい地域社会が完備してきている。そして一部のエリートを除いて、東京にほとんど行かないまま人生を過ごす人が増えている。 学校も就職も、地元で選ぶ。さらには結婚相手も地元で見つける。東京に通勤通学するのは一部のエリートだけ。 そして結婚したあとも親元の近くに住む。兄弟も近くに住む。将来的にはいとこ同士も近所になるだろう。 こうなってくると、まさに昔のムラ社会の復活である。 こんなことが書かれていた。 つまり、「新しき村」である。
217 :
名無しさんの主張 :2012/03/05(月) 20:59:22.15 ID:QOLtL5PU
自分が今いる以外の外の世界を知らないから、ヨソも同じトコのように言って来る奴いない? 又、世間離れした狭い世界を基準に「社会」とか「世の中」とか いつまでもいないいつかは離れるトコで「一生」とか「人生」とかぬかして来ないか? そんなこと言うそいつの人生観って何? 狭い世界のわずかな出来事で物事決めつけんなっつうの!しかも人の入れ替わりの激しい場所で ソイツ自身も相手もいついなくなるのかわかんないのにwww
218 :
名無しさんの主張 :2012/03/06(火) 00:48:09.48 ID:/Z9IQkZm
>>217 誰の話をしてんだ?
>>自分が今いる以外の外の世界を知らないから、ヨソも同じトコのように言って来る奴いない?
又、世間離れした狭い世界を基準に「社会」とか「世の中」とか
いるだろうね。
方言しゃべってるくせにそれが標準語だと思いこんでいるやつとか。
一生その地で暮らす人ならば、それでかまわないだろ。
>>いつまでもいないいつかは離れるトコで「一生」とか「人生」とかぬかして来ないか?
離れるんだったらいいじゃないか。
その地を離れれば、その人も目覚めるだろ。
何が問題だ?
★『日本人の英語はなぜ通じない?』 1 MICKEYさんの日記より転記させていただきました。(^^) MICKEYさんのHPはこちら♪ アメリカで育った帰国子女のMICKEYさん。ご自身の経験に基づくコミュニケーションの大切さが、 具体的に紹介されています。英語は「知っている」だけでは使えないものなんですね。 --------------------------------------------------------------- 日本人の英語はなぜなかなか通じないのでしょうか? …それは日本人が悪いのではなく、半分は日本という国土に原因があるように思えてなりません。 すなわち、他国の人とは英語力以前に、コミュニケーション能力に雲泥の差があると感じるのです。 世界から日本を見ると、日本は何と珍しい国なのでしょう! 髪の毛はみんな黒、目は黒、話す言葉は(アイヌ語を除いて)日本中どこへ行っても日本語。一般的に 宗教の違いには無頓着、おまけに島国で他国と隔たっている…。こんな場所では、コミュニケーション 能力も自己表現力も上達するほうがおかしい! 私の通ったNYの小学校は20名前後のクラスでしたが、覚えているだけでもアメリカ人、フランス人 イタリア人、スペイン人、ヒスパニック、アフリカンアメリカン、ユダヤ人、インド人、中国人、 韓国人、そして日本人と、何カ国もの子供が共に学び、遊んでいました。 髪の毛は金髪、赤、茶色、グレー、黒、ストレート、カーリー、ボールドなど。目はブルー、グリーン ブラウン、ベージュ、グレー、そしてブラック。王冠のエメラルドや、海の底を固めたように美しい瞳 を持つ人たちが世の中にいる事を知りました。 もちろん、話す言葉も色々、好きな食べ物や生活習慣も宗教も違う。だから学校ではクリスマス(キリ スト教)を祝い、ハナカ(ユダヤ教)を祝い、アジア人と共にお正月を祝う。セサミストリートも、 英語の日もあればスパニッシュの日もあります。(それを知らず、友達に注意されるまで私は水の事は 英語で”アクア”と言うのだと信じていました。)
★『日本人の英語はなぜ通じない?』 2 そんな中での生存競争は大変です! カラフルな20色のクレヨンの中で、自分の色をアピールしていかないと使ってもらえないからです。 “自分はこんなにステキな色なんだよ”と自己をアピールする力を身につけていく。 また、”あなたとはこんな所が違うけど、こんな所は似ているね”と、違う人を見る事で自分を知り、 自分と他人を冷静に見つめ、違いを認め合った上で仲良くしていく方法を見出していく。 これがすなわち、コミュニケーションのスターティングポイントではないでしょうか? 大学の時、日本の一流大学のTOEFL580点取っている留学生がいましたが、かわいそうに英語が通じず ホームシックになってしまいました。 一方、彼女より単語力は明かに少ないスエーデンの留学生はすぐに友達が出来て、楽しいキャンパス ライフを過ごしていました。 英語が通じない・・・それは英語力以前にコミュニケーション能力に問題があったのです。(ちなみに スエーデンの子は小学校から英語を劇遊びで学んでいました) 私がラボTになる前、他の英語教室の教育システムがやたらに「薄っぺらく」感じました。その時はまだ 何が「薄っぺらく」て、どうして自分はラボTになったのかよくわかりませんでした。 でも、このようなコミュニケーション能力を英語と同時に身につけるラボの教育法は、少なくともその時 の私に「薄っぺらさ」を感じさせなかった理由の一つになっていたのだと思います。 --------------------------------------------------------------- ここからは、上記の「日本人の英語はなぜ通じない?」を思う背景として、やはり日記を書いていらした ものを転載させていただきます。
★『日本人の英語はなぜ通じない?』 3 --------------------------------------------------------------- 皆さん、「帰国子女」と聞くとどういうイメージがありますか? 外国語が出きる、垢抜けてる(?)、明るい性格、積極的、人とちょっと違う、…などでしょうか? わりといいイメージが多いように思います。(私がそうだという訳では全くありません!) 実は…私は帰国子女で良い思いをした事はないのですよ。 時代もあったのでしょう、まだ$1が250円〜300円の時代です。日本企業もN.Y.と言えども 今のように海外進出していませんでした。ですから、当然 帰国子女の数も今より圧倒的に少なく、 「帰国子女」と言う言葉さえあまり知られていませんでしたし、「帰国子女受入校」なんてものは ほとんどありませんでした。そんな日本に帰国した帰国子女達は ― 社会に受け入れられなかったのです。 多くの友人が「違う」ということで仲間はずれにされ、先生から嫌われて、海外へ戻ったり … 自ら命を絶ちました。 「がんばろうね」と励ましあった友人が、次の週末にはその子のお葬式で − 。 他国では受け入れられたのに、日本人でありながら自国に受け入れられず散っていく友 − 。 ほほをつたう一本の涙と、「どうして…」の疑問だけが 心の中で行き場を失い、ただ無気力に 横たわっていました。 でも、私はとても恵まれていました。海外の事は絶対喋らない、英語の時間はJapanese-Englishで発音 する、等の目立たない努力はしましたが、学校の友達は私の味方でした。新任の英語教師から、正解でも 0点をつけられたり、トイレに落されたり(いや〜ん汚〜い)、男子生徒が「先生に英語聞くよりMICKEY さんに聞いたほうがわかる」などとんでもない事を言って、私が先生からひっぱたかれたりする事はあり ましたが、なぜか私は先生を責める気にはなりませんでした。そして、日本人を嫌いにもならず、自分の 生い立ちを恨むこともなく、「いつかは理解してもらえる時が来る」と信じていました。 楽観的だったのか、心がマヒしていたのか…(^^;
★『日本人の英語はなぜ通じない?』 4
そのようなことがあってTVでも取り上げられるようになり、又日本の海外進出に伴い帰国子女受け入れ体制も
整ってゆき、現在に至っています。
そして今、私もこの歳まで図々しく生きのびているわけです。
こんな経験から、日本人に対して感じる事は沢山あります ―
アウトサイダーとして、そして日本人として。
「日本人の英語はなぜ通じない?」は、その中のほんのひとつに過ぎませんが、でもこれは私の大好きな
日本人へ「ぜひ聞いてもらいたい、そしたら日本人てもっと素敵な人になる!」という想いがこめられて
います。
コミュニケーション下手でありながら、奥ゆかしさや思慮深さをあわせ持つ日本人。決して慢心せず、
努力をし、工夫と協調性のある日本人。
そんな日本人が私は大好きで、自分が日本人である事を誇りに思います。
帰国子女であることを隠さないと生きてこれなかった昔がうそのように、今では私の図々しくも偉そうな
意見に心を開き、メッセージを寄せてくださる沢山のテューター達、ラボママ・ラボパパ、そして
ラボセンターの方々がいらっしゃいます。 − 生きてて良かった − !
”Where There Is A Will, There Is A Way."
私のモットーです。今大変でも、諦めなければ必ず道は開けるから ― 。
今日は 重めのお話にお付合い頂き、ありがとうございました。
---------------------------------------------------------------
ラボ式英語習得のススメ
http://www.labo-party.jp/hiroba/top.php?PAGE=dreamshop&MENU=UPAGE&UP_ID=3280
★日本のムラ社会を打破せよ(抜粋) 1 Tech-on! 2012/02/06 07:00 ムラの権益を守ることを優先する日本社会 だが、成果を発表してしばらくは、学会でかなりいじめられたようだ。当時の研究者が数十年 築いてきた研究成果を否定するものだったからである。宮田氏は当時をこう振り返る。 「誰も現象を知らなかったから、私がたまたま叱られたんですね。日本だけではなく、世界中が 現象の理解を誤っていたんです。非線形現象であることを私が発見して、設計法まで昇華した。 30歳代は、この設計法を世界中に広めていました」 宮田氏は、日本の学会がムラ社会だと指摘する。ムラ社会は独特な風土を持っており、調和を 乱さないこと、ムラの権益を守ることが優先される。だから、異能が入り込むことを拒む風土がある。 「企業も同じです。経団連ムラ、鉄鋼ムラ、電機ムラ、自動車ムラ…。特異な能力を持った人を 育てようとしていません」と、宮田氏は話す。 近年の日本では、個々の技術力は高くても、それを世界的なビジネスに昇華する例が少ない。 今をときめく米Apple社は優れた製品づくりだけではなく、ビジネスモデルにも踏み込んだシステム的 発想で新たな製品モデルを提案している。日本のムラ社会の中では、Steve Jobs氏のような ビジネス全体のアーキテクチャを考え、システムをデザインする人材が育たないというわけだ。 「日本は、『ものづくり』より、もっと上流で勝負しなければなりません。それは、ビジネスの コンセプトやモデルをデザインすることです。そのためには、アーキテクチャを考えられる人材を 育てる必要がある。でも、企業はそれに気が付いていないのではないでしょうか」と、宮田氏は主張する。
★日本のムラ社会を打破せよ(抜粋) 2
誰もやらないなら、自分が手本を見せる。それが宮田流の真骨頂だ。今、進めている東日本大震災の
被災地復興プロジェクトもその一つである。宮田氏は、アーキテクチャやデザインの構築を、非線形の
連立方程式を解くことだと定義する。船舶の設計は、速度や旋回性能、安全など複数のパラメータから
成る連立方程式を解くことだ。目的に応じて、パラメータのバランスを考えながら解答を考える
必要がある。これと同じだといういうわけだ。
「産業が被災しているので、雇用が大きな問題になります。それを復活させれば、生活の
基本ができる。特に製造業の復興が大切でしょうね。そういうことをまとめて一緒にやらずに、
単に元の姿に戻すだけでは、格差をなくすという議論だけで終わってしまう」
高い山に登るから、さらなる高みを望む
東日本の復興は、失った社会インフラを原状回復するだけではなく、復興事業を通じて何か
新しいものを生み出す起爆剤になってほしい。新しいことを試す絶好の機会でもある。挑戦を
惜しまず、思い切ったプロジェクトを提案することで、関連する日本の企業もムラ社会から
脱皮できるだろう。多くの企業や自治体が参加して、日本発の新しい地域社会のありかた、
新しい社会モデルを提案できれば、そのモデルはアジア諸国をはじめとする海外でも適用できる
かもしれない。
宮田氏は、2012年春に東大を定年退職する。それを機会に、シンクタンク的な役割を果たす
会社を立ち上げ、自らモデルを提案し実践する活動を始めようと考えている。
Tech-on! 2012/02/06 07:00
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20111220/202834/
225 :
名無しさんの主張 :2012/03/25(日) 13:42:59.18 ID:2p7dtZ4e
ムラ社会というのは、実はナチスのヒットラー、スターリンにも勝るとも 劣らない世界でももっとも危険な邪悪な全体主義なんだ。江戸時代には 1000万人もの子供を間引きとして虐殺してきた。あの第二次世界大戦 でも1500万以上もの虐殺をしてきた。陸軍や海軍の協調性のなさだって これはムラ社会の典型例なんだ。日本の戦争犯罪の元凶は天皇制ではなく、 ムラ社会なんだ。これほどひどい殺人鬼も世界には稀にしかいない。 このムラ社会という殺人鬼が生きている限り、日本はまた再び世界中を敵に まわす可能性だって否定できないんだ。
226 :
名無しさんの主張 :2012/03/25(日) 14:14:32.04 ID:iJhVk225
なんで? 結局、人が多くなったからムラ社会的やり方ではやっていけない、 昔ながらの古いやり方を一掃して欧米化しようってこと? 日本人が反発して当然、 日本人らしく近代化することはできないのか
227 :
名無しさんの主張 :2012/03/25(日) 15:48:53.74 ID:4AAtcuvg
228 :
名無しさんの主張 :2012/03/25(日) 15:58:29.55 ID:iJhVk225
奇跡を起こすための実験台ですか
【掟破りは】 原子力ムラの復讐 【許さない】 1
ドイス第2公共放送ZDF制作 ZEFzoom/ Die Fukushima-Luge, フクシマの嘘
http://www.youtube.com/watch?v=1uSoOrcqdmg Yukitero Naka:
日本ではその影響力の強いグループを呼ぶ名前があります。原子力ムラ、というのです。
彼らの哲学は、経済性優先です。この原子力ムラは東電、政府、そして大学の学者たちでできています。
彼らが重要な決定をすべて下すのです。
私たちは東京で菅直人と独占インタビューした。
彼は事故当時首相で、第二次大戦以来初の危機に遭遇した日本をリードしなければならなかった。
彼は唖然とするような内容を次々に語った、
たとえば首相の彼にさえ事実を知らせなかったネットワークが存在することを。
マスメディアでは彼に対する嘘がばらまかれ彼は辞任に追い込まれた。
彼が原子力ムラに対抗しようとしたからである。
Naoto Kan:
最大の問題点は、3月11日が起こるずっと前にしておかなければいけないものがあったのに、
何もしなかったことです。
原発事故を引き起こした引き金は津波だったかもしれないが、当然しておくべき対策を
しなかったことが問題なのです。この過失は責任者にあります。
つまり、必要であったことをしなかった、という責任です。
では原発事故の原因は地震と津波ではなかったのか?
原子力ムラの足跡を辿っていくと、嘘、仲間意識と犯罪的エネルギーの網の目に遭遇する。
調査は二つの大陸にまたがった。まずカリフォルニアに飛んだ。目的地はサン・フランシスコである。
私たちはある男性と話を聞く約束をしていた。彼は長年原子炉のメンテナンスの仕事で
フクシマにも何ども来ており、かなり深刻なミスや事故を東電が隠蔽するのに遭遇した。
福島第一原子炉は70年代初めにアメリカのジェネラルエレクトリック社が建設し
それ以来アメリカのエンジニアが点検を行なってきた。そしてフクシマでは何度も問題があった。
【掟破りは】 原子力ムラの復讐 【許さない】 2 東電は、点検後、なにをあなたに求めたのですか? Kei Sugaoka:亀裂を発見した後、彼らが私に言いたかったことは簡単です。 つまり、黙れ、ですよ。何も話すな、黙ってろ、というわけです。 問題があるなど許されない。日本の原発に問題など想定されていない。アメリカのエンジニア、 ケイ・スガオカ氏もそれを変えようとすることは許されなかった。 1989年のことです、蒸気乾燥機でビデオ点検をしていて、そこで今まで見たこともないほど 大きい亀裂を発見しました。 スガオカ氏と同僚が発見したのは、それだけではない。 原子炉を点検している同僚の目がみるみる大きくなったと思うと彼がこう言いいました。 蒸気乾燥機の向きが反対に取り付けられているぞ、と。 もともとこの原発の中心部在には重大な欠陥があったのだ。スガオカ氏は点検の主任だったので 正しく点検を行い処理する責任があったのだが彼の報告は、東電の気に入らなかった。 私たちは点検で亀裂を発見しましたが、東電は私たちにビデオでその部分を消すよう注文しました。 報告書も書くな、と言うのです。私はサインしかさせてもらませんでした。私が報告書を書けば 180度反対に付けられている蒸気乾燥機のことも報告するに決まっていると知っていたからです。 では、嘘の文書を書くよう求めたわけですか? そうです、彼らは我々に文書の改竄を要求しました。 スガオカ氏は仕事を失うのを恐れて、10年間黙秘した。GE社に解雇されて初めて彼は沈黙を破り 日本の担当官庁に告発した。ところが不思議なことに、告発後何年間もなにも起こらなかった。 日本の原発監督官庁はそれをもみ消そうとしたのだ。
【掟破りは】 原子力ムラの復讐 【許さない】 3 2001年になってやっと、スガオカ氏は「同士」を見つけた。それも日本のフクシマで、である。 18年間福島県知事を務めた佐藤栄佐久氏は当時の日本の与党、保守的な自民党所属だ。 佐藤氏は古典的政治家で皇太子夫妻の旅に随行したこともある。 始めは彼も、原発は住民になんの危険ももたらさないと確信していた。 それから、その信頼をどんどん失っていった。 Eisaku Sato: 福島県の原発で働く情報提供者から約20通ファックスが届き、その中にはスガオカ氏の告発も 入っていました。経産省は、その内部告発の内容も確かめずにこれら密告者の名を東電に 明かしました。それからわかったことは、私も初めは信じられませんでした。 東電は報告を改ざんしていたといういうのです。それで私は新聞に記事を書きました。 そんなことをしていると、この先必ず大事故が起きる、と。 それでやっと官僚たちもなにもしないわけにはいかなくなり17基の原発が一時停止に追い込まれた。 調査委員会は、東電が何十年も前から重大な事故を隠蔽し安全点検報告でデータを改竄してきたことを 明らかにした。それどころか、フクシマでは30年も臨界事故を隠してきたという。 社長・幹部は辞任に追い込まれ、社員は懲戒を受けたが皆新しいポストをもらい、誰も起訴されなかった。 一番の責任者であった勝俣恒久氏は代表取締役に任命された。彼らは佐藤氏に報告書の改竄に対し 謝罪したが、佐藤氏は安心できず、原発がどんどん建設されることを懸念した。 そこで佐藤氏は日本の原発製作という「暗黙のルール」に違反してしまった。 2004年に復讐が始まった。
【掟破りは】 原子力ムラの復讐 【許さない】 4
Eisaku Sato:
12月に不正な土地取引の疑いがあるという記事が新聞に載りました。この記事を書いたのは
本来は原発製作担当の記者でした。この疑惑は完全にでっち上げでした。弟が逮捕され、
首相官邸担当の検察官が一時的に福島に送られて検事を務めた。彼の名はノリモトという名で
遅かれ早かれ、お前の兄の知事を抹殺してやる、と弟に言ったそうです。
事態はさらに進み、県庁で働く200人の職員に圧力がかかり始めました。少し私の悪口を
言うだけでいいから、と。中には2、3人、圧力に耐え切れずに自殺をする者さえ出ました。
私の下で働いていたある部長は、いまだに意識不明のままです。
それで、同僚や友人を守るため、佐藤氏は辞任した。裁判で彼の無罪は確定されるが、しかし
沈黙を破ろうとした「邪魔者」はこうして消された。これが日本を牛耳る大きなグループの
復讐だった。そしてこれこそ、日本で原子力ムラと呼ばれるグループである。
Naoto Kan:
ここ10-20年の間、ことに原子力の危険を訴える人間に対するあらゆる形での圧力が
非常に増えています。大学の研究者が原発には危険が伴うなどとでも言おうものなら
出世のチャンスは絶対に回ってきません。政治家はあらゆる援助を電力会社などから
受けています。しかし、彼らが原発の危険性などを問題にすれば、そうした援助はすぐに
受けられなくなります。反対に原発を推進すれば、多額の献金が入り込みます。それは
文化に関しても同じでスポーツやマスコミも含みます。このように網の目が細かく
張りめぐらされて原発に対する批判がまったくなされない環境が作り上げられてしまいました。
ですから原子力ムラというのは決して小さい領域ではなくて、国全体にはびこる問題なのです。
誰もが、この原子力ムラに閉じ込められているのです。
ドイス第2公共放送ZDF制作 ZEFzoom フクシマの嘘 Die Fukushima-Luge
http://www.youtube.com/watch?v=1uSoOrcqdmg
233 :
名無しさんの主張 :2012/03/30(金) 23:59:55.09 ID:SNI6rw+7
234 :
名無しさんの主張 :2012/04/07(土) 07:06:18.88 ID:UAurBfRx
結局日本は各分野あまりに閉鎖的な側面が多いんだよな。 今は以前よりマシとはいえ、教育や就活やブラック企業等々、 まだまだ問題ある所が多い。
235 :
名無しさんの主張 :2012/04/09(月) 21:54:19.84 ID:3kr12P3s
>>234 閉鎖的な風習を引き摺った連中にとって日本人の心得って何?
国旗の日の丸?国家の君が代?国技の相撲?盆と正月?武士道?軍国主義(天皇制)?
古事記?和の作法?米?富士山?鶴?桜?八百万の神?
外来種を和製に組み替えたモノが溢れて、連中もそれ等に頼って今の日本を過ごしているのにね・・・
というよりも、何事もないようにする事なかれ主義や、同調意識のない者を村八分にするムラ社会の陰湿な風習や、
馴染みのないモノに寛容のない島国根性の心の狭さを蔓延らせているようにしか見えんwww
236 :
名無しさんの主張 :2012/04/17(火) 11:06:03.98 ID:4Uflu3QY
閉鎖的と言う言葉に語弊がある。 例えば、ラテン系の国(特にフランス)は日本より遥かに閉鎖的なんですが、 一方、近代的市民社会であるとも言われています。 日本は閉鎖的なのではなく、個人の権利意識が薄い。 フランスはフランス革命によって、個人のより多くの自由を獲得しました。 フランス人は閉鎖的ですが、傍若無人で他人のことにあまり干渉しません。 日本人は他人のことを詮索し、すぐに首をつっこんできます。 実際、日本人のほうがよくしゃべる人が多いですよ。 日本社会で、欧米人的な人は、コミュニケーション能力がないと見なされ、 欧米社会では、日本でコミュニケーション能力がある人が、コミュニケーション能力が ないと見なされることがあります。 日本は閉鎖的なのではなく、雰囲気で行動し、回りに染まるんですよ。 これは、ハイコンテキスト社会の特徴ですね。
★「独立した個人」を本気で実現させるために 1 日本のこれまで 人というものは他者と同じ部分も持ち得れば、異なる部分も持ち得ます。ところが、考えてみれば こんな至極当然のこのことが、日本ではこれまで当然視されてきませんでした。多くの、または 重要な部分で同じであることが当然とされ、半ば強制させられてきたのです。 その理由は諸説ありますが、有力な説としてまず日本が農耕社会という集団的社会であったことが 挙がっています。また日本が広すぎず狭すぎない海で外国と接しており、外国文化と過度の緊張も なかったかわり、日本に変革の必要があったときにうまく外国がからんでいた、と主張する人もいます。 いずれにせよ、私たちが生まれたときには既に同質的な社会(ムラ社会)が存在し、それに巻き込まれる こととなってきたのです。「村八分」「非国民」といった言葉が現代に至るまでどんな使い方を されてきたかを考えれば、それは明らかでしょう。 同質的な社会では人は同質的に育つ傾向があるでしょうが、同質的でない人でもその大半は、 ある程度努力すれば同質的になれます。つまり、世間をうまく渡っていくことができてしまいます。 ですがこのことは同質的になっていない少数の人々に対し「本人の努力不足」と決め付ける傾向を 生みました。しかし、環境や資質により、同質化が難しい、あるいはできない人は存在します。 障害者のように、違いが大多数にとって分かりやすいものであればまだ対策もとられ得ますが、 彼らですら生きることができなかった時代もありました。ましてそれ以外の人々・・・例えば性格的に 集団生活に向いていなかったり、センスがにぶかったり、また集団維持には危険な思想を持ったり といった人々は、自分の素を殺して生きるほかなかったのです。 1947(昭和22)年に施行された日本国憲法は、そうした社会を変え得るきっかけとなりました。 しかし、日本の大多数を占めていた農民がサラリーマンに移行し地域軽視の傾向が出ても、戦前から 続くムラ社会的な考え方は色濃く残ったうえ、会社でムラ社会の考え方を採用してうまくいくようになり、 また会社ではサービス残業をはじめとする残業時間がすさまじく多かったため余裕のある時間に物事を じっくり考える余裕もありませんでした。
★「独立した個人」を本気で実現させるために 2 学校もその制度こそ変わったものの、教育現場では逆にムラ社会を助長するような内容となり、 日本の社会を変える担い手とはなりませんでした。 変化の兆しが現れたのは1980年代です。転職がだんだん一般的になり、知価革命という言葉が もてはやされるなど、ムラ社会の論理だけではやってゆけない萌芽がみられたのです。そして90年代、 バブルが崩壊し、企業がコスト削減のため人減らしや人件費カットに走った結果、それまで事実上の 終身雇用など企業に丸投げされてきた雇用対策や福利厚生が、戦後初めて真剣に議論されるようになり、 日本史上初めてムラ社会を基盤としない社会が誕生する可能性が高まったのです。それでも「終身雇用 時代はよかった」などとムラ社会を回顧する人もいるように、我慢して会社人間になり上意下達に 徹すれば将来いいことがある、という旧来の図式を安易に持ち出す人も、若者を含めて未だに よくみられるのも確かです。 個人の独立性の大切さ 自分が自分らしく生きることは悪いことなのでしょうか。集団や社会が当然とすることに対し、個人は それに迎合すべきなのでしょうか。集団や社会は個人より上位なのでしょうか。そうだというのなら、 「人の命は地球より重い」「生きてこそ」とか「命あって」といった考え方は間違いということになります。 個人を抑圧することは死につながりかねないからです。「集団や社会の意向に沿わない限り」という 但し書きが必要なようでは、一般論とはいえません。 ここで、日本国憲法の次の条文をみてみましょう。 第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、 公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。 第25条 @すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。 A国は、すべての生活部面について、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に 努めなければならない。
★「独立した個人」を本気で実現させるために 3 <他に、第11条(基本的人権の享有)、第14条(法の下の平等)、第19条(思想・良心の自由)も参照> 「憲法は国や地方公共団体を規制するものなんだから、こんなことを掲げても社会に対しての拘束力はない」 という声が聞こえてきそうです。確かに拘束力はありません。しかしそんなに個人を集団や社会に従わせた ければ、本来そういう法令を整備すればいいはずです。でも、こんな憲法の条文があるのに、そんな 法令制定は可能でしょうか? いえ、できるはずはありません。 13条の「公共の福祉に反する」とは「集団や社会の意向に反する」ことも含むでしょうか? 決してそんなことはありません。 25条の「健康」とは何でしょうか。この憲法の公布が1946(昭和21)年11月ですが、同じ年の 6月にニューヨークで開かれた国際保健会議での採択をもとに1948年、世界保健機関(WHO)は 健康を定義し、日本政府も1951(昭和26)年これに基づいて健康を 「健康とは、完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病または病弱の存在しない ことではない」 (Health is a state of complete physical,mental and social well-being and not merely the absence of desease or infirmity.) と定義し官報に掲載しました。ということは、「精神的にも健康でないと健康とはいえない」という ことが、憲法起草時点では前提ではなかったものの念頭に置かれていた可能性があり、後に日本政府も 現憲法のもとでこの考え方を認めた、ということになりましょう。 つまり、政治や行政は「個人が社会や集団に迎合する必要はない」と認めたということになります。 個人が独立した存在であることは、ここに妥当とされたわけです。ここでいう独立とはもちろん、 個人が集団や社会の中にいてはいけないという意味ではありません。 もし社会や国が、事実上多様性を否定するようなことがあっても、憲法25条により、誰でも堂々と 暮らすことができます。それは本人にとっては、社会や国からの慰謝料で暮らしているようなものです。 多様性の否定はそれだけコストが高くつくのです。
★「独立した個人」を本気で実現させるために 4 独立性を妨げるものは何か すると、いったいなぜ戦後日本において、個人の独立性が反故にされてきたのでしょうか。 最大の理由は、目の前の現実があまりにも同質的だからでしょう。現にみんなそうしているのであれば、 自分もそうするのが当たり前、と思ってしまうことはある意味自然なことです。しかし、それにかまけて、 いつまで経っても「違い得る状況」「違い得る人」に思い至らないようでは、単に思考力が欠如した だけの人間にすぎません。 このこととも関連しますが、もうひとつ「物事を客観的にみる姿勢の欠如」を挙げておきましょう。 欠如しているからこそ「同じとは限らない」ことに思い至らないのですから。そういえば日本は有数の 地震国ですが、明治時代に地震学が入ってくるまで、ついに地震についての研究はないままだったと 聞きます。客観性の欠如はおそらく国民性に相違ありません。 こうみてくると、物事を客観的にみたうえで思考する姿勢を広めること、特に人についてどう自然に 違い得るかを広めることが欠かせないとわかります。 反「シン・ジョ・ジョーでパッ!」(「反『シン・ジョ・ジョーでパッ!』運動」も参照のこと) 「人を客観的にみる」ことについて、もうすこし具体的にみてみましょう。 人を客観的にみようとするとき、その目を曇らせるものが3つあるのではないか、と私は考えます。 まずはじめは「信用」です。信用が大切でないとは私は申しません。しかしその中身は時に、同質的な 「普通」の人であることになったり、ひどい場合は単なる好き嫌いになったりします。これは 「自分も相手も『普通』の範疇だから安心だ」という心理がはたらくからです。そんな薄っぺらな 「信用」に化けていないかときどき確認しないと、人の多様なあり方に否定的になってしまいます。 2つ目は「序列」です。職場での業務上の命令系統ならばむしろ必要なことです。しかし日本では、 プライベートなど業務を離れた場でも肩書きが大きくものをいううえ、場だけではなく業務上以外の 内容でも目上に従うのを当然とみる人が少なくないのではないでしょうか。
★「独立した個人」を本気で実現させるために 5
そして3つ目は「常識」です。常識という言葉は
「健全な一般人が持っている、または持つべき、普通の知識や思慮分別。」(岩波国語辞典・第六版)
のように、「客観的にみて持っている」という意味と「持つべき」という意味とを持っていますが、
実際にはこの2つが渾然一体となった使い方をされているのが実情でしょう。これも同質的社会である
立派な証拠です。もし物事を客観的にみようとする意思があるのなら、2つの意味が混同されやすい
「常識」という言葉は使わず別の言葉で言い換えたり、きちんと説明したりしようとすることでしょう。
しかし「常識」という言葉は安易に使われ続けています。そう、この世には「常識バカ」が大勢いるのです。
「信用」「序列」「常識」・・・日本では、この3つのうち少なくともどれか一つが当てはまって
いる人、またはその人の言動は、そうでない人よりもはるかに受け入れられやすいと思われます。
一旦当てはまればたちどころに、思考という客観的な検証が不要となるとは、恐ろしいことです。
この現象のことを私は「シン・ジョ・ジョーでパッ!」と表現しています。真に人の多様性を
認めようとするならば、反「シン・ジョ・ジョーでパッ!」でなくてはならないのです。
http://homepage2.nifty.com/indep/main1.htm
★談合 1 またまた問題になってますね。 それにしてもなかなかなくならないものです。 "談合は日本の文化だ"と主張する向きもあるようですが、確かに根深いものだと思います。 それどころか大切に継承すべき伝統にまでなっちゃいそうな勢いです。 でも本当にそうなんでしょうか。 検証してみたいと思います。 そもそも談合とは 相"談"して意見を"合"わせる。 そのこと自体別に悪いことではないはずです。 和をもって尊しとする日本社会では話し合ってみんなが納得できるように決めるのは大切なことです。 ただし仲間内だけで仲良くすることは、その外部社会にとっては往々にして迷惑以外の何者でもない場合も多々あります。 一致団結するとパワーが得られますが、その勢いだけで突っ走られると厄介です。 暴走族などその典型ですね。 バルバルドドドパッパラパーと公道で気勢を上げるおかけで、その後ろは決まって大渋滞です。 そこで、暴走族を卒業した若者が建設会社に就職して公共工事担当の営業に回されたとしましょう。 つなぎの派手な特攻服から、きりっとネクタイを締めたセールスマンに大変身です。 が、やることは同じなんですね実は。 要は仲間内だけで仲良くすること。 仲間みんなに気を配り一人の裏切り者も出さないこと。 そして、仲間みんながハッピーになれるようにすることなんです。 違うのは、公道でこれ見よがしにバルバルやるのと密室で隠れてコソコソやることぐらいでしょうか。 暴走ヤンキーも建設営業マンも どちらもそれが悪いことだとは知っています。 でも一方は悪に酔いしれ、他方は理論武装で必要悪と呼び変えます。
★談合 2 赤信号、皆で渡れば怖くない vs 赤信号、青だと思えば怖くない そんな対比でしょうか。 どちらも、どんなに世間から批判されても一向にこたえないのは同じです。 で、今度は 暴走ヤンキー -> 建設営業マン -> 業界世話役 と出世した彼が 官製談合容疑でとうとう逮捕されてしまった場合を考えてみましょう。 関与した知事や土木部長の名はぺらぺらしゃべりますが会社の組織としての関与だけは一貫して否認します。 自分が防波堤となり、これ以上業界に累が及ばないようにとの一心で司直の手に身をゆだねたのです。 出所後の身の振り方も既に決まっています。 「パパ、何か悪いことしたの?」 自宅で父親の顔写真が映っているTVニュースを指差す子どもに 「ちがうのよ」 母親が優しくこうたしなめます。 「パパは何も悪いことしてないけど、みんなのために身代わりになったの」 「へぇーーー・・・パパって凄いんだ!」 「そうよ。あなたも大きくなったらパパみたいな立派な人間になるのよ」 「うん!!」
★談合 3
そう。
美学ですらあるのです。
業界内部でしか通用しない、でもそれで必要十分な美学です。
なんだかんだいっても世間はすぐに忘れます。人の噂も七十五日。
たとえ改心しても褒めてくれも再就職先を斡旋してもくれません。
でも一身に尽くしてきた業界だけはその恩を決して忘れないのです。
つまり談合とは
価値観と利害を共有する仲間内の義理と人情で成り立っているのです。
そして世間を敵に回しても仲間さえ助けてくれれば十分に生きてゆけるのです。
いっそ幸せにすらなれます。
つまりムラ社会です。
極めて日本的な現象といえるでしょう。
その意味で談合は文化だとする主張にも多分の真実を含んでいると思われます。
しかし"文化"とは、第一義的に不特定多数に何らかの価値を付与するものでなければなりません。
談合はその点が根本的に欠落しています。
納税者の犠牲の上に、ごく一部の者(業界ムラ)しか談合の恩恵にあずかることはできないのは自明のことです。
よって談合は文化などではなく、悪しき慣習(悪弊)とするのが正しい解釈です。
談合は文化などと開き直っている人は心から反省しましょう。
悪いことは悪いのです。
http://higawari.qee.jp/fictions/fiction534.html
245 :
名無しさんの主張 :2012/05/06(日) 01:08:00.04 ID:E53vvqV2
ドイツ、オランダ 物づくり重視だからこそ解雇規制緩和によって同一労働同一賃金とワークシェアリングを目指す 移民受け入れは、全体を見れば、デメリットよりもメリットのほうが大きかった。 最低生活保障制度あり 結果、競争力向上 日本 物づくり重視と言いつつ非正規拡大によって若年層への負担増 同一労働同一賃金もワークシェアリングも否定 その分なぜか借金しまくった世代が高額年金受給 かといってBIも拒否、最低生活保障制度なし 不景気も少子化もなぜか若者のせい 結果、競争力低下、20年不景気継続
246 :
名無しさんの主張 :2012/05/06(日) 15:40:11.02 ID:SN3NeycT
もっとムラ社会の持つ危険で邪悪な凶暴性について意見はないのか 第二次世界大戦だって、天皇制が犯したというよりは、ムラ社会が起こした 出来事なんだ。このムラの中では「集団性」があるように見えるのだが、実際 には世界中のどこにも味方もいない、孤立した異常な世界であることを認識 してほしい。日本が核攻撃されたのも、この孤立した空間だからこそされた こと。また、ムラの中では何かあれば、誰かを生贄にするという風習がある。 「誰が悪い」の論理はこうしたムラの理論。戦後の戦犯バッシング自体が、 この無責任の生贄の儀式そのもの。
★世界で勝負する、猫ひろし氏の「個の力」を見よ(抜粋) 1 (略) 先ほど、60分間のランニングを終えて、ふと思い出した。 お笑い芸人の猫ひろし氏が、今年夏にロンドンで開催される五輪に、男子マラソンの カンボジア代表として出場することに関して、日本で議論が起こっている。 完全に個人的な感想であるが、私は心から猫さんのことをうらやましく思っている。 陸上競技に勤しんでいた中高時代、私も本気で五輪を目指していた。同じランナーとして、 ぜひ頑張ってほしいと思っている。 そもそも、アスリートとして五輪出場を実現できなかった私のような負け犬に、猫さんの 行動を批評する資格などないと思っている。もし私の父親が生きていたら、いつものような パンチが飛んできたことだろう。 「だったら、お前が走れ!!」 まったく、その通りだ。五輪にも出ない、出たことがない、ましてや真剣に走ったり、 一つの壮大な目標を実現するために、犠牲を払ってでも汗を流したことのないような人間に、 猫さんについてとやかく言う資格は限りなくゼロに近い、というのが私の根本的なスタンスだ。 (略) 「グローバリゼーションと国家」から猫氏の行動を考える 猫さんの五輪出場に関して、議論を大まかに色分けすると、以下のように総括できると思う。 反対派は「カンボジアに住んでいないのに、代表として出ていいものか」、「売名行為以外の なにものでもない。カンボジア国民に失礼だ」というものだ。賛成派は、「猫氏は実際にタイム改善の 努力をしているのだから良いのでは」、「カンボジアと日本の架け橋になってほしい」というものである。 なかには、カンボジア国籍やオリンピック出場権取得の方法を疑問視する声もある。「国籍取得と 五輪出場権をカネで買ったのではないか」という、確かな根拠の無い、誹謗中傷に近い批判もある。 猫さんの国籍取得の方法や五輪出場権取得の方法などについては、背景が定かではないので、 踏み込んで議論をしない。ここでは、「グローバリゼーションと国家」という視点から、海外に住む 人間としてこの問題を考えてみたい。
★世界で勝負する、猫ひろし氏の「個の力」を見よ(抜粋) 2 国籍と愛国心の関係 海外で暮らしていて感じるのは、国籍変更なんて当たり前だということだ。 「日本国籍を捨てたから日本を愛せない」、「日本国籍を堅持しているから、日本を愛している」 というロジックは全く成り立たないし、時代錯誤もいいところだと思う。 私の中国の友人で、フットワークを軽くして、多くのことを成し遂げるために、国籍をアメリカや イギリス、シンガポールやカナダに変更して、「祖国が国際社会で輝けるために」努力をしている 人はたくさんいる。 彼らは皆こう語る。「私には祖国が二つあるんです」と。国籍は変わっても、心の軸足は常に 生まれた国にあり、二つの祖国のために、架け橋になるために汗を流すということだ。これが 売国行為だと言うのであれば、その理由をぜひ教えてほしい。 私は昨年度、台湾で『愛国奴』という本を出版した。私が「愛国奴」に下した定義は、「知らぬ間に 御国を売っていく人たち」だ。無責任に、何の根拠もなく他国やそこの人たちに誹謗中傷を与え、 結果的に国家社会の利益・イメージを損なう言動をしている人たちのことを指す。日本で、ただ 感情に任せて、「中国人は出ていけ」、「外国人は引っこんでいろ」と罵倒したり、中国で、 「愛国無罪」を主張し、日本の大使館やレストランにモノを投げつけたりする人は、典型的な 「愛国奴」である。 私にも二つの故郷がある。人生の原点・伊豆と、成長の原点・北京である。 伊豆に対しては言うまでもないが、己に真の意味での自信と愛国心を獲得させてくれた北京には 本当に感謝している。人間は外を向いて、外に出てみて初めて祖国を愛するようになるものだと知った。 日本に閉じこもっていては見えない日本があることを教えてくれた。
★世界で勝負する、猫ひろし氏の「個の力」を見よ(抜粋) 3 私は「愛国奴」にはならない 私は北京の長期的な発展のために、北京の人たちが豊かに暮らせるように、命がけで取り組む 用意ができている。 「そんな時間があったら日本のために汗をかけ!」と、反論をする方もいるだろう。ただ私から 言わせれば、国際社会で日本人の存在感を表現しながら、外国の発展を促し、且つ祖国との接点を 見出し、両者が有機的に、一緒に成長していけるような時空を深化させるべく汗を流すことこそが、 結果的に日本の発展・繁栄に寄与することになると信じている。 それに、私は「愛国奴」にはなりたくない。狭隘な愛国心からは、何も生まれない。 国籍や祖国についてのアイデンティティは、閉ざされたものではなく、開かれたものであるべきだ。 倫理観から、猫さんのことを否定する意見には、違和感を禁じ得ない。私も尊敬するアスリートの 為末大さんは自らのツイッターで、示唆に富むコメントをしている。 「日本では、特に五輪が近くなると殺気立った人達が出てきて、なんだか出兵する一等兵の 気分になる。正直危ないなと感じる事もある。」 「移民がいない国というのはもう先進国では珍しくなっていて、次の世紀のスポーツ倫理の 争点の一つは、国のアイデンティティとしてのスポーツだろう。」 猫氏の行動はポジティブ 「グローバル化と日本人」というテーマは、我々が避けては通れないものである。 私は、国力とは最終的に、一つの国家社会が、どれだけの「個」を世界に輩出できたかで量られる ものだと思っている。世界で勝負する日本人があまりにも少ないなか、猫さんの行動はポジティブだと思う。 「国籍をどこに置くか」というのは究極的には個人の問題だ。法治国家であれば、合法か違法で あるかが、唯一の判断基準であるべきだ。倫理の問題に帰結するのは的を射ていない。 アメリカの著名なコラムニストであるトーマス・フリードマンが主張するように、世界は “フラット化”していく。日本人も、個別な案件に喜怒哀楽を以て反応するだけではなく、これを 機会に、日本人として世界で勝負していくためのマインドセットを“フラット化”するべき ではないだろうか。
★世界で勝負する、猫ひろし氏の「個の力」を見よ(抜粋) 4
「個の力」でねじ伏せてみせる
私自身は、「個の力」を鍛えることを怠らず、国際社会という舞台で「日本人としての生き様」を
世界の強者たちに見せつけてやりたい。中国語で中国人をねじ伏せてみせる。英語でアメリカ人を
ねじ伏せてみせる。日本人は世界ではバカにされることが多い。そんな場面で悔しいと思わなければ
男じゃない。
今日もこれからデンバーでの国際会議が始まる。日本人が国際社会で、誇りを持ってのびのびと
生きられるように、献身していく覚悟はできている。
ランニングもやった。腹筋もやった。気合が入ってきた。今日も思う存分暴れてきたい。
だったら、お前がやれ!!
DIAMOND ONLINE
加藤嘉一の「だったら、お前がやれ!」 思考停止のニッポンをぶった切る 【第6回】 2012年5月7日
http://diamond.jp/articles/-/17936
★人間関係が超濃ゆい「監視ムラ」 1 地方自治"腰砕け"通信機 【第46回】 2012年5月23日 相川俊英 大都市で生活していたAさんは、郊外の集落に転居した。ある社会的な事業を展開させるため、 まとまった土地が必要となったからだ。Aさんにとって縁もゆかりもない地域だったが、 理解ある地主さんと知り合い、思い切って決断した。 その後、新たに畑と作業場を借り上げ、仲間たちと野菜作りに挑むことにした。地主さんの尽力で その手当も順調に進み、賃貸契約に漕ぎ着けた。 長年、温めていた夢が実現に向けて前進するとあって、Aさんは嬉しさでいっぱいだった。 1日でも早く野菜作りに取りかかりたい。そんなはやる気持ちを抑えることができなかった。 隣近所に挨拶をする前に、ちょっとした荷物を運び込むことにした。作業が一段落したら、 きちんと挨拶周りしようと思っていた。ところが、この判断が甘かった。思いもかけぬ事態となり、 地域を揺るがす大問題にまで発展してしまったのである。 荷物を運ぶ物音を聞きつけた近所の人が姿を現し、血相変えてやってきた。そして、挨拶する Aさんにこう詰め寄ったという。 「何をしているんだ? ムラ(いわゆる町内会)の許可を得てやっているのか?」 わけがわからないAさんがきょとんとしていると、近所の人は「ムラのしきたりも知らないのか? ここではムラの許可がなかったら、引っ越しはできない」と言い放ったのである。その凄まじい 剣幕にAさんは返す言葉を見い出せず、ただただ唖然とするばかりだった。 結局、わけがわからぬまま搬入作業を中止し、すごすごと退散するしかなかった。まるで自分が、 重大な犯罪を犯したような錯覚にさえ陥った。もちろん、畑や作業場の所有者ときちんと 賃貸契約を結んでおり、手続き上の瑕疵はない。
★人間関係が超濃ゆい「監視ムラ」 2 実は許されざるフライングだった? ムラへの根回し前に引っ越し作業 Aさんは地主さんの元に駆け付け、ことの顛末を伝えた。地主さんは表情を曇らせた。 困惑し切ったその顔を目にし、Aさんは自分が容易ならざる事態を引き起こしたことを痛感した。 地主さんが隣近所にAさんのことを伝える前に、Aさんは引っ越し作業に及んでいた。つまり、 順番が逆になっていた。これが地域にとって「許されざるフライング」となり、猛反発を呼んだ のだという。 騒動の舞台となった自治体は、古くから集落が形成された純農村地帯。都会とは異なり、隣近所の 付き合いはもともと濃密である。そこに洪水などの災害に見舞われてきた地域事情も加わり、住民同士の 絆は一般の農村部よりさらに強固になり、互いに助け合う「共助」の精神に溢れた地域となっていた。 住民による共同作業はもちろん、それ以外にもたくさんのしきたりが受け継がれ、さらには新たに 加えられたりしていた。 そうしたムラのしきたりの中でとりわけ厳格なのが、新たにムラの住民になる場合だった。 この地域では、「披露金」という独特のしきたりが存在していた。他所から転入する場合、 ムラの人たちに飲食の場を提供し、「仲間入りを認めてもらう」というものである。 新参者自らがお披露目会を設定し、出席者への土産品も用意する。地域から外に出ていった人が 戻ってくる場合も対象になるという。費用の相場は、20万円。半端な額ではない。それどころか 引っ越しで物入りのときなので、大変な負担と言える。 それでも「ノー」とは言えないようだ。「ノーと言ったら、どうなるのか?」と地主さんに 尋ねたら、返ってきたのは「そうした事例はない」という言葉だった。 披露金というしきたりがあるため、「都会で最近よくある孤独死や孤立死は我々の集落では あり得ない」(地主の話)という。地域にどんな人が住んでいるかは、住民全員が互いに熟知 しているからだ。都会の冷え切った人間関係と正反対の濃密な関係が構築されている。こうした ムラ社会である。知らない人物が挨拶もなく、いきなり荷物を運び入れることは許されない という認識だった。
★人間関係が超濃ゆい「監視ムラ」 3
むしろ閉鎖的になり転入者を遠ざける しきたりに縛られた前近代的なムラの行方
地域住民の絆を固めるしきたりは、プラス面だけではない。外から入るには敷居が高く、
結果的に転入を阻んでいる面もある。つまりは閉鎖的なのだ。
また、細かなしきたりが多く、息苦しさを感じている人も少なくないようだ。葬式はムラの
当番が取り仕切り、結婚式にはムラのメンバーが必ず出席する。地域の共同作業があり、不参加の
場合は罰金(1000円〜2000円)を取られる。寄り合いへの不参加も同様(100円)だ。絆を
深めて助け合うのは大切だが、度を越すと窒息しかねない。
騒動が起きた地域でも少子高齢化が進み、かつての勢いを失っているという。このため、Aさんの
理解者である地主さんは、「外から人が来るようにしないと地域は活性化しない。それには、昔からの
ムラのしきたりを何とかしないといけない。そう訴えているが、なかなか聞き入れてもらえない」と、
危機感を募らせている。
さて、Aさんの騒動の顛末はどうなったのか。ムラの寄り合いが開かれ、Aさんを受け入れるか
どうか激しいやり取りとなったという。「(畑などの賃貸)契約の間、様子を見て(ムラの
一員として受け入れるか)判断する」という結論になったそうだ。
地域住民の絆を深めることは、確かに重要だ。しかし、同時に絆の輪を広げることにも力を
注ぐべきなのではないか。もちろん、それは国レベルでも同様だ。
地方自治"腰砕け"通信機 【第46回】 2012年5月23日 相川俊英
http://diamond.jp/articles/print/18900
★前近代社会と近代社会 1 社会時評/書評 2011-08-29 昨日のエントリで日本は<自分の頭でものを考える>ことが少ないので近代社会になっていない という問題がずっと論じられてきたと書いた。 以前のエントリで<意味と強度>という視点は現代の社会を考える上で有用だろうと書いた。 またリベラリズム(やそれに対するコミュニタリアンの批判)について繰り返し書いている。 この3つは深くつながっている。このつながりについて自分の考えを非常に大雑把にまとめる と以下のようなものだ。 ・前近代…人びとは<自分の頭でものを考える>必要がなかった。他人が<意味>を考えてくれ、 それを押付けていた。押付けられた人びとも疑問も持たずに受け入れていた。この"他人"が ムラ社会。人びとはムラ社会が提供する<意味>をそのまま受け入れ、つらく退屈な日常でも 疑問を持たずに過ごし、たまの祭で<強度>を得ていた。 ・近代…明治以降の「近代化」という政策にしたがい、ムラ社会が崩壊し、<意味>が供給できなくなった。 天皇制(国家)・会社・学校といった集団が、代わりに<意味>を供給してきた。この<意味> (例えば「欧米に追いつけ追い越せ」、「いい学校、いい会社」)の供給により、日本は工業化に 成功した。しかし、脱工業化とともに<意味>も崩れ、会社や学校の代わりになる集団もなくなった。 「近代化」自体が<自分の頭でものを考える>市民というフィクションのもとに成り立つものだが、 今に至って本当に<自分の頭でものを考える>必要が出てきた。それぞれ考え方(意味)の違う 人びとが、互いの違いを認めて、社会を成り立たせることが求められるため。しかし、日本の 教育は工業化時代の教育から変わっていない。工業化時代の教育は<自分の頭でものを考えない> 人間を育てる教育。なぜなら、工業化社会はつらく退屈な日常でも、学校・会社の言う通りに 疑問を持たず勉強し、働く人間が必要だから。政府は「ゆとり教育」で工業化時代の教育から脱出 しようとしたが、失敗した。<意味>を失った人びとは<強度>を求める行動を繰り返すようになる。
★前近代社会と近代社会 2
・リベラリズム…前近代の<意味>の押付けを批判し、「人びとが(他人の自由を侵害しない限り)
自由に考え、自由に行動できるような社会」を目指す動きの中で生まれた。よって、リベラリズムは
近代社会=<自分の頭でものを考える>考え方の違う人びとで成り立つ社会を当然の前提にしている。
なお、コミュニタリアンは「<意味>の押付けといっても、人びとが所属する集団(の<意味>)から
完全に自由であるということはあり得ない」とリベラリズムを批判する。「むしろ所属する集団
(の<意味>)にしたがった方がよい」と主張する。
社会時評/書評 2011-08-29
http://d.hatena.ne.jp/yuki_takao/20110829/1314583681
256 :
名無しさんの主張 :2012/06/23(土) 22:21:11.77 ID:54pDTMl5
257 :
名無しさんの主張 :2012/06/24(日) 12:54:07.24 ID:8qQ9Nr4K
教育と経済・社会を考える 第12回「暗黒の情報社会と教育」 P.48〜49
http://www7.ocn.ne.jp/~mfukuda/edu_eco.html 人間の圧倒的多数派は自由にはなろうとせず、権威や多数派に縛られる「ロボット的人間」として生きることを望む生き物である。
それは、自分を脅かす強大な敵から身を守る(あるいは、安心感を得る)ために、自分で情報を集め、考え、決断し、行動し、
その結果に責任を持つという困難で面倒な作業から逃げて、権威に依存する(あるいは、多数派に同調する)ことによって身を守る
(あるいは、安心感を得る)という安易な道を選び、自由から逃走しているからである。
短期的で狭い視野には、それが自分の利益を極大化する行動だと思えるのである。
また、人生の目的は自分の遺伝子を残すこと以外にはなく、人間は死ぬために生きているという冷厳な現実を直視することを避け、
権威が与えてくれる生きがいや死後の世界での救いという幻想にすがり、自由から逃走しているのである。
さらに、専門分野の「細分化」が進み、世界の全体像を把握することが困難な状況で、
世界のどこをどのように変えれば自分たちが救われるのか分からないと感じている人々は, 世界の全体像に関する単純明快な説明を与え,
全ての問題を解決してくれる改革の方法を示してくれる全知全能の救世主を渇望し、自由から逃走しているのである。
自由から逃走した人々は、「権威への依存」という「バカの壁」の中に閉じこもるか、
「多数派への同調」という「粘土製の繭」……に包みこまれるかして、外の世界が見えなくなり、
外には別の世界があるということが分からなくなる。
つまり、原理主義的な一元論に陥る。
「自由からの逃走」が、権威者・権力者、組織、宗教、慣行・慣習、道徳、常識、世論、思想、科学的方法・理論、教育、
神話・物語・小説・映画・漫画、マスコミ、広告などによる人間の思考と行動の支配を生み出してきた。
258 :
名無しさんの主張 :2012/06/24(日) 13:11:27.68 ID:8qQ9Nr4K
教育と経済・社会を考える 第13回「日本の特殊性と教育」 P.13〜14
http://www7.ocn.ne.jp/~mfukuda/edu_eco.html 「世間」に属する人々は、「人は、ある場面では「おのずから」そうするものだ、それが人というものだ」という「事実・価値混同型人間観」を持っている。
人はそうすべきだから、自分もそうするのではなく、人はそうするものだから、自分もそうすると考える。
「事実・価値混同型人間観」の下では、価値観が事実の中に埋没して、隠されてしまって、それに対する批判的検討が困難になる。
批判的検討が困難なために、多数の人々がそうしているという事実に自分も拘束されてしまう。
このようにして、単なる事実に過ぎないものが人々を拘束する力を持ち、同調行動を促すことを、
日本では、「世間体を気にする」、「世間様に顔向けできない」、「場の空気を読む」と表現している。
「事実・価値混同型人間観」にしたがうと、ある場面で「おのずから」そうしない者は人ではないもの(「人でなし」)だということになってしまう。
その結果、「世間」の他の人の行動様式に疑問を持つ人や、別の「世間」に属する人が、ある場面で「おのずから」そうしないと、差別やいじめの対象になってしまう。
「人でなし」だから、何をしても良いということになってしまうのである。
また、差別やいじめの対象にされることを恐れて、必死になって、「世間体を気にし」、「場の空気を読んで」、「おのずから」そうするとされていることをしようとし、主体性を失うのである。
明文化された「規範」に支配されている社会……では、「規範」に反しない限り、原則として何をしても自由である。
しかし、……「事実・価値混同型人間観」に支配されている「世間」では、下手をすると、言動の全てが「世間様」「空気」に支配され、自由を完全に失ってしまう。
259 :
八尾市クリスタル通り :2012/06/24(日) 21:24:08.00 ID:cI9W1PyS
あなたが今、何か少し動いたそのすぐあとに 「ピクッ」 とかすかに床から 伝わってきます。 室間添随症(しつかんてんずいしょう) アパートや低家賃のマンションなどに住む引き篭りや準引き篭りの状態にあ る人間が隣接する他の部屋の住人たちに自分の引きこもりの状態を悟られま いとしてそれら他の部屋の住人の動作のタイミングや生活パターンに自らの 動作や生活パターンを極力同調させながら日々の生活を送ろうとする症状。 日本のアパートやワンルームマンション、ウィークリーマンションなどの入 居者、利用者の約4人に1人はこのような状態にあると言ってよい。 ビジネスホテルも例外ではない。 これを「引き篭り」の「付き動き」と呼んでいます。 これが日本の、日本国民の不の実像である。
,.、ゝ 〜-≦仁 かつや岡田法律上の原因がなく日本国が締結した条約を遵守できないかつや岡田? 、f巛彡vy ヾ 日本国が締結した条約を遵守できないかつや岡田? /^ ⌒ゝ巛彡 ヽ かつやまさにすみやかに知事へ届出する義務を負担する? 〃 イ巛彡 > かつや二十四時間以内に締約国に通知する / _ _,,,,,,_ ソ巛彡 彡 日本をあきらめないかつや犯罪収益の事実の発生原因の説明責任を? .|!_ニ_ ".━- 》巛彡 < 日本人にはちからがある? | ∫从Y 彡 日本をあきらめない? ', 、_,,_ ∬_ノ 〆 かつや第三者に対して有する損害賠償の請求権を取得する ', _ _ ミ三从 国際法をもってかつや説明責任を果たす? ' ご”'' ィ彡 |≪ まさに、説明責任義務を果たさない職務執行行為と野呂知事の意見? ヽ ,;彡' |三ヽ 国連に二十四時間以内に書面をもって通知する ,ィヘ'''''''' ´ /三三ニ、 _,.イ三|!ミ /三三三三ヽ イ三三/!| /三三三三三三≧、 /三三三| |` イ/三三三三三三三三≧、 /三三三三.! \ / /三三三三三三三三三三ト,
●「いじめ」隠しを行う「ムラ社会」 上 『かながわ西方見聞録』 平成6年4月。相模原市内から津久井町立中野中学校に二年生の男子生徒が転入 してきた。 ボーイスカウトに参加し、野外活動が大好きだったというこの男子生徒は、緑多い 湖畔の町での新生活への希望で胸を膨らませていた。 ところが、この中野中学校は荒れていた。 消火器が屋上から落とされる、窓ガラスは割られる、生徒の校内での喫煙も公然と 行われ、校内暴力で負傷した教員も……。 この男子生徒が初めて登校した始業式の日。補導歴もある者も含む複数の同学年の 生徒に取り囲まれ、威嚇された。 もともと、津久井では、他の土地から来る人間を「旅の者」と呼んで、必要以上に 警戒する排他的な体質があるという。転校生を威嚇した生徒たちも、そのような 大人たちの姿を見て育った筈である。 それ以後、教科書に落書きをされる、椅子を運び出される、偽のラブレターを渡される などの嫌がらせを被り、殴る蹴るなどの暴行を受けることも度々であった。 夏休みを前にした7月。数名の男女生徒からマーガリンを机に塗られた。 その日の夕方、この男子生徒は自宅で首を吊って、若すぎる命を自ら絶った。 しかし、学校と町の教育委員会は、外形的事実は認めながらも、自殺との因果関係は 認めようとはせず、「単なる成長過程」であると公言した。 自殺した生徒の両親と支援団体「子供とともに育つ会」は真相の解明を町に求めるが、 納得のいく回答は得られずに、ついに平成9年5月に横浜地裁に県、町それに同級生の 男女生徒10名を相手どって、訴訟を起こした。 被告人として、法廷に立ったある女子生徒は、苛めていた別のクラスの女子生徒に 自殺した男子生徒宛の偽のラブレターを強制的に書かせたが、もらった生徒が気に していないかのように破り捨てたのが悔しくて、机と椅子を教室の外に持ち出して やったと証言した。自分がやったことは「いじめ」とは思わない、自殺した時も、自分の せいとも思わなかったと言う。 また、事件当時の斉藤弘校長は、調査報告書に「愛されたことのある人は自ら死を 選ばない」と記し、飽くまでも家庭内の問題として処理しようとしていた。
●「いじめ」隠しを行う「ムラ社会」 下
「子供が悪くなるのは、大人が悪いからだ」
一見、手垢のついたような決まり文句だが、津久井町はそれがまんざら嘘でもない
ということを示唆してくれる。
「いじめ」の形態は、別の「いじめられっ子」である生徒にラブレターを書かせたり、
マーガリンなどの食品を使うなど、極めて陰湿で現代的なものである。一昔前ならば、
男ならば一対一で決着をつける暗黙のルールのようなものが、例え「不良」と呼ばれる
子供たちの間でも、いやむしろそういう子供たちの間の方に濃厚に残っていたが、
それすらもない。しかも、自分たちの行為が原因で命を絶つ級友がいても、全く悔悟の
念を見せない。
子供たちの道徳心の向上を阻害するような俗悪な情報が蔓延している現実、それらが
ダイオキシンなどの公害と同様に、緑多い山間部にも容赦なく浸透していることは先ず、
我々、活字を情報伝達の手段として生きる者たちは認識しなければならない。そして、
俗悪なる情報と断固戦う毅然たる意志をも養わなければならない。
加えて、子供たちを導く筈の大人たちが、前近代的な「ムラ社会」のしがらみの中で、
保身にのみ汲々としている現実。
事件当時の渡辺貞雄教頭は、天野望町長と親しい関係にあるという。それが証拠か、
事件後、相模湖町の桂北小学校、津久井町の青野原中学校の校長を歴任している。
「教育行政法」第4条によれば、教育委員も町長が任命した人達である。
生徒が自殺した日の翌日、校長は全校生徒に対して「マスコミには何も話さないように」
と指導した。
「ムラ社会」が「いじめ」隠しに有効に機能しているのであるが、果して、それは
「津久井町」という特定の地域だけの問題であろうか。
『かながわ西方見聞録』
http://www.japanpen.or.jp/committee/kankyou/kankyou03.html
263 :
名無しさんの主張 :2012/07/06(金) 23:26:41.77 ID:k+KnyHVz
○▼△ 郡山市スレッド Part119△▼○ 200 名前:ゆきんこ 投稿日: 2012/07/06(金) 20:06:18 ID:ZkzxoniQ [ i121-119-16-190.s05.a007.ap.plala.or.jp ] 大きなことを成し遂げるために、力を与えてほしいと、神に求めたのに、 謙虚を学ぶようにと、弱さを授かった。 より偉大なことができるようにと、健康を求めたのに、 より良きことができるようにと、病弱を与えられた。 幸せになろうとして、富を求めたのに、 賢明であるようにと、貧困を授かった。 世の人々の称賛を得ようとして、成功を求めたのに、 得意にならないようにと、失敗を授かった。 人生を楽しもうと、たくさんのものを求めたのに、 むしろ人生を味わうようにと、シンプルな生活を与えられた。 求めたものは一つとして与えられなかったが、願いは全て聞き届けられた。 神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、全て叶えられた。 福島県民はあらゆる人達の中で、もっとも豊かに祝福されたのだ。
264 :
名無しさんの主張 :2012/07/07(土) 10:30:24.92 ID:BnD6iPnw
IFSA主張の「いじめの根因は日本のムラ社会に」。都留文科大教授の調査とも符合
http://abelabo-ifsa.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/ifsa_a6fa.html <抜粋>
学級・学校・教育界・行政・日本社会全般に蔓延し、ますます主流を張るムラ意識。
「ルールが示されない学級では不安定な状態を避けるため、3〜4人の小集団が多数生まれる。
河村教授はこれを『不安のグルーピング』と呼ぶ。
この小集団は排他的で、共通の秘密や共通の敵(いじめの標的)を作り出すことで結束を強める」
学校でのいじめは、単なる教育問題ではなく、日本社会論・日本人論の範疇にあるということである。
子どもばかりか、教師までもがムラ意識に最大の価値を置いているのだから、どうしようもない。
いじめを認識していながら、「場の雰囲気」を大事にし、表面的で気持ちの悪い仲間意識醸成にみずからも手を貸す。
学級の子どもたちをも含めた仲間(ムラ)から、チクッたと指弾されることを、教師も極度に怖れる。それは共同規範に抵触する、と勝手に幻想するからだ。
議論を公にすることほど、卑怯なものはないのだと。
265 :
名無しさんの主張 :2012/07/07(土) 10:31:03.44 ID:BnD6iPnw
いじめ問題の背景には、近代化に反比例し、前進一途の「ムラ社会化現象」が横たわる
http://abelabo-ifsa.cocolog-nifty.com/blog/2006/11/post_5e60.html <抜粋>
子どもたちは、ムラ社会が要求してくる「意識せざる息苦しさ、酸欠状態」に、実はアップアップに違いない。その投影こそが、いじめのmajority化。
子どもたちは、ムラから疎外されるのが怖くて仕方がないのだ。朝から晩まで、そのことをpriority1に考えるしかないように、フレームワークが出来上がってしまっている。
クラスでいじめが猛威を振るっているとして、少しでもそこへついている姿勢を見せなければ、ムラからはじかれる。ましてや、いじめへの批判的視点など、おくびにも出せない。
その結果、いじめはますますmajorityへと上り詰める。
これは社会学の教科書的常識だが、ムラの維持には共通の敵もしくは悪罵の対象が不可欠。それが、味方確認・踏み絵としての「いじめ」であるのは、言うまでもなかろう。
個の確立を謳ったはずの戦後教育が、いつしかムラ意識を推奨してはencourageしているという逆説。
しかも、助け合いと干渉というムラの両面、その一方のみを肥大化させてのこと。悲劇化しないはずがない。
266 :
名無しさんの主張 :2012/07/07(土) 10:32:58.45 ID:BnD6iPnw
267 :
名無しさんの主張 :2012/07/07(土) 10:33:52.91 ID:BnD6iPnw
「いじめの社会理論」書評
http://d.hatena.ne.jp/essa/20070108/p1 学校という、全面的な関与を強要される空間においては、そのような独特の秩序や倫理が集団的に自然発生する。
教育関係者は、その秩序自体には問題が無いとして、むしろ、これを「きずな」という言葉を使って積極的に評価する傾向がある。
従って、いじめの対策においては、この生徒同士の「きずな」を壊さず、それを軌道修正することで対応しようとする。
明確な暴力行為があったとしても、警察や司法の介入を求めることは、この「きずな」の運用においては、致命的な失敗であり、学級運営にとって致命的な汚点であると見なしがちである。
つまり、学校というシステムの中に外部の価値観が介入してくることを嫌う傾向があるということだと思う。
それによって、当初の小さな暴力が見逃されることが、小さな「祝祭」を生み、それが自分たちの心理的安定につながることを発見した加害者が、そこに依存する傾向を強め、暴力を激化させることになる。
教育関係者が生徒同士の「きずな」に依存した学級運営を行なう為に、外部の介入を避け、事なかれ主義で小さな問題を内々に処理しようとすることは、嗜癖的暴力のきっかけとなりやすい。
いじめ問題は、共同体的学校運営という、現在の教育システムが依存している所を根に持つので、解決が難しいのである。
★刑務所のように閉鎖的な日本の学校教育 1 いじめ防止策と教育委員会の詭弁 生きた経済ブログ 2012年7月 5日 (木) (抜粋) 教育委員会という組織も、いじめ事件を隠蔽することだけに躍起になっているようにしか見えず、 本当にいじめを無くす気など、さらさら無いように見える。 奇しくも大津市の女性市長は当人も子供時代にいじめを経験し自殺を考えたこともあるという 理由から「いじめの無い大津市」というものを目標に掲げていたそうだが、そんな目標は、当の 教育委員会にとっては馬耳東風であったらしい。 教育委員会いわく、「自殺の練習をさせられていたとの確証は得られなかった」「いじめと 自殺との因果関係は判断できない」ということらしいのだが、常識的な視点で観れば、誰が見ても 「いじめ」を理由とした自殺としか考えられない。 遺書が無ければ、自殺の原因は断定できないということなのかもしれないが、こういった詭弁を 放置しておくと、仮に遺書が有ったとしても、「その遺書の内容が本当だとは限らない」という ことになってしまいかねない。 そもそも、事件が起こった当初から15人もの生徒が「自殺の練習をさせられていた」とアンケートで 回答しているのだから、因果関係の有る無いに拘わらず、世間から「自殺の原因はいじめだ」と 疑われるようなことを無くすべく努めるのが、教育委員会の仕事だろう。口先だけで「いじめを 無くそう」などという綺麗事を言っているだけでは、何の解決にもならないのである。 皮肉なことに、現在の教育委員会の教育姿勢は、いじめによって自殺した生徒ではなく、いじめを 行っていた生徒達を庇うという構図になってしまっており、その構図は恰も、暴力団にヘコヘコと 媚びを売り、間接的に犯罪に加担している取り巻きのようですらある。 現代の中学生の陰湿ないじめ行為というものは、ある意味で暴力団よりも性質(タチ)が悪い かもしれない。遊び感覚で他人を傷付け自殺に追い込んだとしても、教師や教育委員会が庇ってくれる (隠してくれる)のだから、自分自身を律することのできないヤクザ紛いの生徒にとっては、 まさにやりたい放題である。
★刑務所のように閉鎖的な日本の学校教育 2
無論、いじめ問題というものは、もっと根が深いものである。単に暴力的な生徒がいるという
だけの問題ではなく、家庭の事情や生い立ち、ストレスや劣等感、そういった様々な負の感情が
引き金となって発生するものでもある。性善説的な立場に立てば、「いじめ」という行為が生まれる
こと自体が、人間社会の悲劇であるとも言える。
しかし、だからといって性善説的な考えでは、いじめ問題を解決することはできない。
いじめ行為を人為的に無くすことが難しいのであれば、採るべき手段は、次の2つになる。
1、いじめ行為を行った生徒には徹底的に厳罰を与える。
2、いじめは無くせないという前提に立ち、教育制度を改める。
1は、いじめを行った人間は、たとえ未成年であろうと全国に名前と素顔を晒し懲役刑にする。
そういった厳罰を与えれば、いじめを行おうと考える生徒は激減するだろうし、どんなにいい加減な
親でも「いじめはするな」と子供に注意するだろう。しかし、こういった手段は、世間一般には
あまり受け入れられそうにないし、冤罪を生む可能性もあるので私も反対だ。
2の場合は、いじめを絶対的に回避するために、学校という制度自体を無くすことを意味する。
学校内という閉ざされた空間でいじめが発生し、逃げ場がないのであれば、その逃げ場を
作ってやればいい。そう、学校に行かずとも、教育を受ける場を与えてやればいいのである。
これができれば、いじめによる自殺は綺麗サッパリ無くなる。この件については、以前にも
書いたことがあるので、下記の記事も参照していただければと思う。
【関連記事】いじめによる自殺を無くす唯一の方法
http://freedom-7.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-1a98.html 日本の教育委員会にとっては、生徒達が互いに傷付け合い、罵り合うという「いじめ」行為は
有ってはならないものなのかもしれないが、いじめの被害にあっている生徒にとっては、そのような
教育委員会の体制自体が有ってもらっては困るものである。
★刑務所のように閉鎖的な日本の学校教育 3
教育委員会にとっては、現在の教育制度を改めるということは死活問題にも成りかねないので、
とにかく波風立てずに現状の教育制度を維持したいのだろうと思う。学校というものが、どんなに
理想から掛け離れた場所に落ちぶれていようが、あくまでも理想的な教育環境であることをアピール
したいのだろう。
しかし、いじめ等の不都合な問題を隠蔽することによって、現在の教育環境を飾ろうとするのは
いただけない。現在の教育制度を維持したいのであれば、本当に理想的な教育環境を構築することを
目標に据え、いじめ問題の解決にも前向きに取り込んでいくことこそが求められる。
現在の公立学校の教育体制は、いじめを発見した教師を評価するというものになっておらず、
どちらかと言えば、いじめが無いことを評価するという事勿れ体制になってしまっている。そんな
官僚的な組織が取り仕切っている無法地帯のような場で教育を受けさせられる真面目な生徒は
堪ったものではないだろう。
特に公立学校では、基本的にどんな生徒であっても辞めさせることができない。いじめの加害者を
退学にすることができないだけでなく、いじめの被害者も学校を辞めることができない。これでは
まさしく、刑務所である。
「刑務所はオーバーな表現だ」と言う人がいるかもしれないが、追いつめられた生徒は『自殺』
という最悪の選択をするしか、いじめから解放される手段が無いと考えたのだ。それはなぜか?
少なくとも、その自殺した生徒にとって学校は刑務所に近い場所だったということであり、
“自殺を選択した”という事実自体がそのことを如実に物語っている。
刑務所のような現在の教育環境を改めない限り、いじめ問題は決して無くならない。野口悠紀雄氏の
『1940年体制』ではないが、教育の場に戦時経済体制を敷いたことによって、教育の自由が
失われてしまったことが、いじめ問題の遠因になっていると言えるのかもしれない。
いずれにせよ、教育委員会自身が現在の事勿れ主義を改めない限り、いじめ問題は一向に解決に
向かわないということである
http://freedom-7.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-c5f5.html
★逃げ道のない日本の学校のいじめシステム 上 あこがれの日本へ…でも嫌な予感が… ところが、私が10歳になったとき、父の仕事の関係で日本に帰ることになりました。 あれほどあこがれていた日本、そこへいざ帰るってなったら、嫌な予感がしてね、日本に 帰りたくないって、泣いたんだけど…。何か胸騒ぎに近いような不安を感じて、アメリカに 残りたいと命がけでダダをこねる自分がいました。両親に、「すぐにアメリカに戻るんだから」と、 「ちょっとの間だから」と説得され、半分騙し騙しのカッコウで、日本に帰りました。 でも、やっぱりその不安が的中してしまいました。 日本でいじめに直面 日本に帰って、奈良の田舎のまったく普通の小学校に通いはじめました。が、そこで 日本によくある陰湿でしかも巧妙ないじめに直面しました。昨日の友は今日の敵、みたいな いじめ方で、さっきまで気持ちが悪いほど優しかった友達がクラスの女王だか大将だかの 命令でいきなり「大嫌い、死ね」とか殺人的な勢いでけなすんです。もうそれはサイコの サスペンス映画も色あせるほど右を向いても左を向いて真っ暗、悪夢のような日々でした。 クラスの中に王国が出来あがっていて、その厳しいルールにそむいたら自分達も生きて いけないと思うからみんな盲目的にそのクラスのリーダーに服従するんですね、もう恐怖から。 友達が好きだから一緒にいるんじゃなく、そうしないと排除されてしまうから。誰でもいい、 ふりでもいい、一緒にいて、でないといじめられる。これは牢獄の中の社会と一緒なんですね。 私はそのルールの基本も分かってなかったから、異端者として標的にされました。無視され 騙され笑われ石を投げられ。それもあからさまにではなく、先生や他の生徒がいない時に。 アメリカの学校ではこんなに出来あがったいじめのシステムみたいのはなかった。というか いじめを必要としているシステムといえます、日本の学校って。
★逃げ道のない日本の学校のいじめシステム 下
小学校を卒業するまでほとんどいじめられ、振りまわされました。日本の子供社会の
恐ろしさを知り、枠にがっちりはめられて何もみようとしない大人社会のいくじなさを知り、
自分のなかで、日本という象徴的な故郷がガラガラと崩れ去りました。あまりの幻滅に
すっかり日本が嫌いになりましたね。ことあるごとに自分の中て゛アメリカと日本を比較して
日本のアカン所を探そうとして躍起になってました。テレビを見てる時も外にいる時も
アメリカではこうだったああだったのにとくらべてばかりいて、どこにいても自分の内側では
二つの故郷が戦争状態にいました。寝ても覚めても、四六時中。しかもそれから何年も。
日本の学校で思うこと
思うに、日本人には両親からのコンディショニングをみるよりも、学校でどう生きねば
ならなかった事を見た方が色々出てくるんじゃないかと思います。家庭内のドラマより強烈に
植え付けられるものってあったと思います。そこで麻痺したり凍りついてしまった感情とか。
西洋での学校社会はもっと淡白なもので、日本みたいに一丸になって何かをするという
家族的というか軍隊的な要素はあまりなかった。家族が生活の中心だから。でも日本の学校は
第二の家庭生活のようで、だから学校で排除されたら生死に関わってくる感じですよ。
一日のほとんどを学校で過ごし、給食やら掃除やらで常に集団行動をとらされ、遠足や運動会
その他でお互いの親睦を深める事を強要されます。感情表現さえも自分のものではなく、
クラスの雰囲気で決める..。学校という「昼間の家庭」にいる子供は自分の安全を確保するために
1人きりで右往左往しなければならなく、みんなよるすべのない孤児みたいに不安定でした。
すくなくとも私のいた学校はそうだったと思います。
サリタのヒーリングジャーニー
http://now.ohah.net/faree/sarita1.html
●「小学校がいじめ隠ぺい、転校も拒否」人権救済申し立て 神戸
2007年4月20日(金)11:48
神戸市内の市立小学校でいじめを受けたのに、学校や市教委が事実を認めず人権を
侵害されたなどとして、市内の中学一年の男子生徒(12)と小学三年の女児(8つ)、
両親の四人が十九日、兵庫県弁護士会に人権救済を申し立てた。男子生徒は、複数の同級生から
金銭をたびたび要求され、自宅から黙って計五十六万円を持ち出し、同級生に渡したという。
両親は「学校や市教委は、いじめの事実を隠ぺいしている」と主張している。
申立書などによると、男子生徒は小学五年の二〇〇五年五月ごろから、同級生の男女に
学用品や机に落書きをされ、教室などで暴行を受けた。手足に軽傷を負い、「死ね」「消えろ」
と言われることもあった。
さらに男子児童七人は金を要求。男子生徒は、父親が収集していた旧札を自宅から持ち出し、
額面で計五十六万円を児童らに手渡した。
男子生徒は担任や教頭にいじめを報告したが、学校側は対応しなかった。一方、女児は
小学一年の同年六月ごろから、同級生に仲間外れにされるようになった。担任教諭に報告したが、
言い分を聞いてもらえず、逆にしかられ、顔を殴られたこともあったという。
両親は二人の転校を決意したが、学校側は「いじめを理由に転校はできない」と説明。
市教委も取り合わなかった。
〇六年四月、代理人の弁護士が学校側に出向き、ようやく転校が決まった。金を要求した
児童七人のうち二人とは和解が成立。十数万円が返済され、謝罪も受けた。
両親は「学校側はいじめの存在を認識していたのに、加害児童の両親らに説明もしなかった。
市教委も学校から報告を受けているのに、人権侵害行為を放置した」と訴えている。
市教委指導課の林弘伸課長は「関係児童や教員に対する聞き取り調査を行ったが、
いじめの事実は確認できなかった」とコメントしている。
http://news.goo.ne.jp/article/kobe/region/T20070420MS01071A.html?fr=rk
<自殺者が絶えない2ちゃんねる> 誰しも、他人から罵倒されれば憤るものです。 しかも、相手が匿名で人数すら分からないのであれば、冷静に話し合って怒りを静める事もできません。 PCの電源を切っても、その感情は中々鎮まらぬものです。 誰しも、他人からストーキングされれば、恐怖に駆られます。 ひとたび個人情報を収集され始めれば、PCの電源を切っても、その恐怖から逃れる事はできません。 これらが高じれば 「自分の知らぬ間に、何を言われているか分からない」 「自分の知らぬ間に、個人情報が調べ上げられているかも知れない」 という苛立ちと不安感から、片時もネットから目を離せなくなってしまいます。 ネットが気になって、日常の業務すらまま成らなくなります。 ましてや、その罵倒やストーキングの相手が悪質な2ちゃんねらーで、大勢の人がロムしている2ちゃんねるで行われたのであれば、その心労は想像を絶するものがあります。
事実、2ch被害者の多くは、“集団リンチ”と“集団ストーキング”を受けるようになってから、正常な日々を送る事が出来なくなっています。
四六時中、中傷とストーキングを受ける身では、落ち着いて勤務に励む事もできないのです。
ゆえに、多くの被害者は休職し始め、最悪、自殺してしまう者もいます。
私たちが確認できた内、2ch被害者の中で自殺した(殺された)人は二人います。
一人は、宗教団体・霊波ノ光の在日韓国人女性。(2003年11月1日に自殺)
一人は、ネット詩人で、心の病を抱えていたナコ女史。(2002年8月15日に自殺)
ttp://resistance333.web.fc2.com/newpage10.htm
276 :
名無しさんの主張 :2012/07/08(日) 23:44:27.48 ID:wGmMzFyX
文科省と日教組が、学校をムラ社会にした。 ムラ社会は明確な規則と、規則違反者に対する罰則ではなく、 周囲への同調(空気を読む)と私的制裁(いじめ)により、秩序を保つ。 明確な規則に支配された近代社会では、規則に反しない限り、何をしても自由。 ムラ社会では、不明確な空気に支配され、空気に反することにおびえ、 自由をほとんど失ってしまう。 学校からいじめをなくすためには、学校を明確な規則に支配された近代社会に変えることが必要。
★いじめ抗議 大津市 大“散歩”会 【日時】7月14日(土)・15日(日) 両日午前10時〜2時間程度 【場所】大津市立皇子山中学校前〜滋賀県警大津警察署 ・集合は皇子山中学校前に午前10時 ★いじめ隠ぺいの撲滅を目指した市民によるデモ 【時間】7月17日10時から30分 【場所】大津地方裁判所にて ★イジメを無視する日教組教育を許さないぞ!デモ@大阪★ 【日時】7月22日(日)13時30分集合・14時出発 【場所】大阪市西区・靭(うつぼ)公園東園
★大人の価値観では子どもは救われない(抜粋) 1 録画人間の末路 2012-07-10 いじめのキッカケは、今だからこそ書きますが、わたしの名前が変わっていたことでした。ですから たまに言われる「DQNネームはいじめの原因になる」という説にも言いたいことはあるのですが、後にして いじめのことを書きましょう。 忘れもしない小学一年生の時。当然誰も漢字なんてほとんど読み書き出来ませんから、名前は名札や 机にひらがなで書かれます。わたしの名前はお坊さんが考えたもので、少し仏教っぽい読み方をします。 漢字で書けば普通なのですが、ひらがなで書くと、少なくとも六歳児には異質な名前に見えるものでした。 「ヘンな名前」そう目を付けられたときに、その後の人生は決まりました。しばらくして、ただ名前を ヘンと言うだけでなく、汚らしい意味での言い換えが行われるようになりました。仮にも自分の名前 です。汚い言い換えをされたら子どもだって不快です。そのうちにわたしは腹を立てて怒るようになり ・・・いじめが始まりました。 主な内容は、集団で暴行を加えられるというものです。少なくとも3人がかり、多ければ15人程度。 もっと多かったかも知れません。その具体的なやり方は前に書きましたから省略します。日々死にに 学校に通っているような危険を感じるものでした。 もちろん暴力的いじめだけでは済みません。いやがらせのいじめも多く受けました。ノートや提出した プリントを勝手に黒板に貼られたり、落書きされたりはしょっちゅう。問い詰めようとするといじめ側は 実にいやらしい表情と首の動きをしながら「証拠は〜?」の大合唱、これは前にも書きましたか。 時々破壊衝動もおぼえましたが、残酷にはなりきれませんでした。一度、交通事故で二週間ほど入院し、 やっと学校に出てこられたことがありましたが、靴はゴミ箱に捨てられ(ただし、用務員さんが回収 していたので難を逃れましたが)、置いてあった教材は壊され、落書きだらけになった机の上には ご丁寧にも花が飾ってありました。
★大人の価値観では子どもは救われない(抜粋) 2 教師がこういった行為を知らないわけではありませんでした。が、なんとかしようと機会を設けたのは せいぜい小学校3年生くらいまで。それ以降は担任教師もいじめ問題に踏み込むことはなくなって いきました。小学校を卒業するとき、わたしは別の中学に進学したいと相談しましたが、受け入れて もらえませんでした。そしてわたしの恐れていた通り、他校の児童分増えた生徒、それに先輩後輩の 上下のつながりにより、集団暴行に参加する生徒は学年をまたぐようになり、数は増えていじめは エスカレートしていきました。 「学校における活動を一所懸命やったりして友達を作ればそこまでいじめは拡大しないはず」そう思う 人もいるかも知れません。が、そんな簡単にいじめがなくなれば苦労はしません。わたしは、 いじめ対策というだけではありませんでしたが、今思うとよくもまぁそこまでと思うほど当時 いろいろやっています。得意の野外活動の知識と技術が生かせる行事では珍しくリーダーを勤め、 他班のフォローまでやってました。百人一首のかるた取りなら校内で無敵でした。いじめに決して 参加しない、休日には一緒に遊ぶ程度には仲の良い友達も少なくはなかったと思います。彼らとは 未だに親交がありますから。 それでも、いじめは別だったんです。何をやってもいじめ側に言わせれば「生意気」「粋がっている」 行動に過ぎなかったのです。「粋がるのも、いーかげんにせーよー」と歌うように棒をたたきつけてくる 様は忘れられません。学校でのわたしへのいじめは、一部の生徒にとって普段の活動の一つにまで なっていっていたのです。 中学校時代の教師たちは、わたしへのいじめがあることを知りながら積極的に黙認していました。 相談をしても、返ってくる答えは異口同音に「大変だろうが、あと二年(一年)で卒業できるんだから、 それまでは頑張って学校に来い」。まとめればこう言っているだけです。学校外の大人も大して 変わらず、ただ話を聞いて似たような返事を返し、それで終わり。何もしてくれません。ただ、 中一の時の担任だけは別の答えでしたが、それは「いじめられるお前が悪い」という、生涯忘れない 最悪の返答でした。
★大人の価値観では子どもは救われない(抜粋) 3 わたしの訴えがどれだけ軽く扱われ、無視されたのかは後日分かりました。暴行で床に投げつけ られたとき、頭を強く打ったことがあります。そのショックで目の前がチカチカしてよく見えなくなり、 さらには貧血を起こしたように気持ちが悪くなって立てなくなってしまいました。そんな状態で 床で横になったままのわたしを、次の授業の担当教師は引っ張り上げて起こし、座席に座らせました。 とても頭を垂直の状態に保つことなどできず、そのまま机に伏して気を失ったような覚えがあります。 幸い目が覚めた後は目も治っていて、気持ち悪さも収まっていました。自分でも大丈夫だと思って 医者にも行かずにすませてしまいましたが、後で考えたら危険な状態でもおかしくなかったのです。 いじめの事実を知りながら立てなくなっているわたしを大して気にも留めなかった教師。おそらく 「また殴られて泣いてるんだろう」程度にしか思っていなかったのでしょう。 自殺した生徒は、泣きながら担任に訴えたという情報もあります。おそらく最後には担任が自分の 味方どころかいじめ側に荷担する敵であったことに絶望したのでしょう。最大の責任は担任にあります。 わたしとの違いは、大人に救いを求めていた彼と、早い段階に絶望して何も期待しなかったわたし、 が一番大きかったように思えます。 子どもの価値観は大人とは違うのです。大人の価値観では子どもを救うことは出来ません。もっとも 違うのは「時間の観念」です。中学は三年間。大人から見ればたかが三年、担任期間にいたっては たったの一年間ですから、大人から見ればほんのわずかな期間。そのためにいじめ対策などしても 意味がないと思ってしまうことは有り得ます。いじめられる子さえ卒業まで我慢してくれれば、 一番楽で問題がない。慣れてきた教師はそんな思考に陥ってしまうでしょう。すくなくともわたしの 中学時代に説教してきた教師たちの考えはその類でした。
★大人の価値観では子どもは救われない(抜粋) 4
一方、教育委員会の方は、以前は少し期待していたのですが、結局やっていることといえば現場の
教師や校長を呼び出して文句を付けるだけ。期待するだけ無駄でしょう。
いじめられる側として言わせていただけるのなら、一番いいのはいじめる人間が同じ学校から
いなくなることでした。次善の状態は自分が他の学校へ逃げることです。それが出来るようにする
べきでしょう。ただ、大人には、教師ではその権限が与えられたとしても実行できる勇気はないでしょう、
目立つことをして後で責任を取らされるくらいなら、隠してしまおうとするからです。いじめの隠蔽が
多発し、ますます悪くなります。出来るとしたら同じ子どもです。クラス担任となった教師は、
万が一の時は責任を取る側となったうえでクラスに一人、学級委員長などにいじめる人間を追放できる
権利を与えるのです。その行使した権利は内申書で評価の対象となるようにします。見過ごせない
ほどのいじめを行った人間は、その悪行ゆえに学校を追放されるのです。もちろんそれによって
いじめた人間はレッテルを貼られ、一生を左右されるかも知れません。が、いじめを放置すれば
いじめられる側が一生を左右されるのです。どちらかが後の人生を苦労しなければならないとしたら、
それは加害者がなるべきでしょう。いじめの世界は「いじめをなくそう」「みんなで仲良く」なんていう
甘い世界ではありません。子どもにとってはあまりに長い時間を、どこよりもつらい、命の危険や
将来を棒に振る可能性もある地獄で過ごさせかねないものなのです。
録画人間の末路 2012-07-10
http://blog.goo.ne.jp/krmmk3/e/03929b918d23587eb31d7e431a0b75f1
一つだけ分かったのは、日本人=頭の悪い人種であること 理由は、世間等の周囲に同調しすぎて自らを失う人が多いか 自らの信じた道に集中しすぎて周りが見えない人が多いと極端。
★教育関係者ムラの生活・安全が一番
2012年07月20日17時12分 “日教組のドン”輿石氏、トンデモ発言!いじめの責任追及を妨害か
民主党の輿石東幹事長が、大津市の男子中学生自殺問題で、責任追及を妨害するような発言をした。
輿石氏は元小学校教師で、日本教職員組合(日教組)の支持を受けて連続3回当選しており、
「日教組のドン」とも呼ばれている。
問題発言は、19日の記者会見であった。輿石氏は自殺問題について「非常に残念なことだ」
といいながら、「学校が悪い、先生が悪い、教育委員会が悪い、親が悪い、と言っている場合じゃない。
みんなできちんとやっていかなければならない」と語ったのだ。
日本教育再生機構理事長で、高崎経済大学の八木秀次教授は「信じられない発言だ。尊い人命が
失われており、再発防止のためにも、どこに問題や責任があるのかを徹底的に追及すべきだ。
輿石氏の発言は、仲間内の学校や教員委員会をかばい、激しい人権教育を行っていた日教組の
問題を隠蔽するつもりではないのか」と批判している。
http://news.livedoor.com/article/detail/6776277/
★姿隠す担任教師 学校側は「本人が批判の矢面に立てば、何をしゃべるかわからない」
2012/07/21(土) 21:15:34.34
滋賀県大津市で昨年10月、市立中学2年の男子生徒(当時13歳)がいじめを苦に自殺したとされる事件は、
騒動になって以降、担任教師の男性は表に出なくなっている。最大の問題は、この担任教師の教育的無関心
が事件の背景にあることを知りながら、彼の存在をひた隠しにしようとする学校と教育委員会の姿勢にある。
学校側には「本人が批判の矢面に立てば、何をしゃべるかわからない」(前出の学校関係者)との危惧が
あるようだが、そうした学校の隠蔽体質を、なぜ教育委員会が許しているのか。
「説明会見に出ている市教委の沢村憲次・教育長は、2代前の同校の校長だったんです。彼にとっては、
同校は身内みたいなもの。客観的な対応なんてできるはずがありません」(PTA関係者)
教育委員会は担任教師について、「生徒のトラブルは、生徒指導の教員などを交えて3、4人で協議した
という報告書があるので、担任に任せっきりにしていたわけではない。骨折の事件(昨年夏、柔道の授業中に
生徒の怪我を放置した疑い)については把握していない」と述べている。
そうした対応を見ると、生徒を第一に考えるという教育者として大切な部分が決定的に欠けているのでは
ないかと思わざるを得ない。守りたいのは生徒ではなく、学校と教師の体面だけなのである。
▽NEWSポストセブン
http://www.news-postseven.com/archives/20120721_130836.html
★正義や社会全体の利益より閉鎖的な小集団の和を優先する日本 1 竹原信一氏・特別寄稿 2011年8月12日 07:00 国家の姿は国民のこころ 日本人は批判されることをひどく嫌います。ですから、どのような場面でも批判される 可能性のある言葉を避け、当たり障りのないあいさつで自分を「世間」からガードします。 印象にも記憶にも残らない、良い話のような気はするが、何を言ったのかわからないのが 良いあいさつ、とにかく「和」が何にも増して大切なのです。 日本人が恐れている「世間」とは、身内の外側に居る、どちらかと言えば悪い噂の大好きな、 自分の値打ちを勝手に決めつける非常に怖い存在です。この「世間」は、役所や既得権益とも 心理的につながっています。日本人のほとんどが、このような「世間」に怯えながら暮らして います。すべての判断に「世間」が入り込みます。「世間」に対しては良くも悪くも 目立ってはいけない。支配する側にとって、実に都合の良い心理状態です。 しかし、集団になれば事情が異なります。 集団の仲間を「みんな」と呼び、それが犯罪であっても「みんな」の利益ために犠牲を 引き受ける者が賞賛されます。たとえば自治労、この組織には「組合犠牲者救援規則」なる ものが存在し、「組合の利益に沿ったことであれば、そのために服役することになった場合でも 組合が損失を補てんする」という規則を持っています。「組織のためなら服役も辞さない」 まるで強盗団です。自治労は、犯罪予備集団と言っても過言ではありません。この体質は 自治労に限らない。警察も、検察も、裁判所もせっせと裏金作りに精を出しており、それを 告発した人間を逮捕、投獄してきました。泥棒をやめるつもりはありません。「国を食い物 にする互助会」それが公務員組織の本質です。
★正義や社会全体の利益より閉鎖的な小集団の和を優先する日本 2 この様な組織が選挙事務をやり、予算を作り、法律を作り、裁判までしている のですから、日本がまともな国であろうはずがありません。 実は、この事情は民間企業でも、その他の集団でも同様です。この国では、身を挺して 仲間の利益を守るのは、それが犯罪であっても美徳とされます。仲間のために全体を 裏切るのが「日本流 和の文化」です。 「みんながやらないのは正しくない。みんながやれば構わない。みんなが褒めるからやっちまえ。 どうせみんな、みんなの責任だ」。全体をこんな心理が支配していると言っても良いでしょう。 世間や批判を恐れる臆病な善人たちが、仲間のために身を挺して悪事を働き、仲間が彼を守り 「和」を守る。日本のあらゆるところがこの仕組みで動いているのがわかります。すなわち、 日本は国家と言うよりも、いわば組合(ギルド)の寄せ集めでしかないのです。 日本人、とくに政治家は同時に複数の「ギルド」に参加していて、その時々の都合で正反対の 見解を表明することすらできます。「個人としては反対だが、立場があるから不正な世論操作に 加担する」など、成り行き次第で正反対の集団に身も心も売り渡す、実に不思議で節操の無い 生き物です。それから、選挙は候補者が多数のギルドから支持を取り付ける競争です。当選した 者は新たなギルドを守る。だから国民は政治家に大した期待もしていないし、騙されることにも 慣れていて、表立って怒りもしない。ここでも「和」の精神です。
★正義や社会全体の利益より閉鎖的な小集団の和を優先する日本 3
原発や放射線被害に関し、政府や保安委員、電力会社がテレビ局、新聞社などと共に組織的に
国民を欺いてきたことが明らかになってきています。それでも嘘を止めようとはせず、より
たくさんの嘘で、嘘がなかったことにしようとしています。
政府見解も道理が通らずあやふやなのも、数多くの利権集団が連携して政治家を騙し続けて
いるせいに違いありません。政治家自身も、その時々で都合の良い集団の嘘に乗ることで
精神のバランスを保っている。
すなわち、日本の集団には仲間の輪を壊すようなリーダーはいらない。そもそも存在する
ことができない。
日本に戦争を始めさせたのも小集団の「和」でありました。理念も道理も国民の安全も
関係なしに「小集団の和」を理由に物事が決まってしまう。それがこの国、日本です。
私たち国民も小集団の「和」に良心を貢ぐのに慣れてしまいました。
このように、国民全体を裏切る国家の姿は私たち自身の心の姿なのです。
前阿久根市長・竹原信一が語る「ひどすぎる国家のしくみ〜その4」
http://www.data-max.co.jp/2011/08/post_15933.html
★藩に従属させるため農民の移動を禁じた江戸時代と同じように、学校選択の自由を国民に与えず いじめにあっても転向を認めない、閉鎖的で流動性のない日本の学校システム 1 デヴィ夫人に届いた“いじめ”被害者家族からの手紙。次々と過去のいじめが明らかに。 [2012/07/25] 大津の“いじめ事件”についてブログで率直な意見を述べるデヴィ夫人。彼女へ読者から一通の手紙が 届いた。夫人はその内容をブログで取り上げているが、そこに綴られた“いじめ”に対する学校の対応は 自己保身そのもので、大津での件を思い起こさせるものだ。 デヴィ夫人はこれまで大津の“いじめ事件”についてブログ『デヴィの独り言。独断と偏見』で何度も 取り上げて、歯に衣着せぬ言葉で持論を展開してきた。7月22日に「ヤクザ顔負け、悪魔のような少年達」 と大津だけでなく全国で明らかとなった“いじめによる自殺”の実態を紹介しているが、読んでいて 心が痛む。 その夫人に弟がいじめにより不登校となった経験を持つ読者から手紙が届いた。デヴィ夫人は23日に その内容を「心ふるえ 胸ふさがる 手紙」として紹介している。それは11年前の出来事だが、学校側の “いじめ”に対する認識の甘さや不適切な対応は、今回の大津いじめ事件よりもずっと以前から存在する ことが分かるものだ。 手紙の概要はこうである。弟がいじめによって不登校となり母親が教師と話し合うが解決せず、 転校を考える。ところが校長が転校を認めない。その理由は「転校の理由を“いじめが原因”と 書いては困る」という信じられないものだった。
★藩に従属させるため農民の移動を禁じた江戸時代と同じように、学校選択の自由を国民に与えず
いじめにあっても転校も認めない、閉鎖的で流動性のない日本の学校システム 2
しかもそれまで転校受け入れを快諾していた私立学校側も、「現時点の校長の許可がないと転校
できません」と態度を一変させたのである。学校同士で内通していたとしか思えない。それでも、
周囲の助力もありなんとか近くの学校への転校を許可されるが、理由については『障害があるため』と
書くことを条件にされたという。
弟は転校して通学することができたが、ある日、母親が2階から飛び降りた。母親は「いじめをした
親たちと先生たちからの報復」が原因でノイローゼになっていたのだ。幸い母親は命はとりとめたが、
今も精神的に回復していないという。その後は事態を悪化させることを避けて家族は口を閉ざした
のである。せめてもの救いは弟が苦しい気持ちを乗り越え、成人し、難関大学を突破したことだった。
ここでは概要として学校側が自己保身のみを考えて、いじめを受けている生徒や家族の気持ちを無視
している部分を取り上げた。手紙にはさらに具体的にいじめの実態や母が受けた報復、そして家族の
苦悩も書かれている。
手紙を送った読者は「大きな組織や、権力のある方の言葉が正しいとは限りません。自心の良心に
直接語りかけて下さった、ブログでのデヴィ夫人の言葉に感謝しています」と結んでいた。
大津市の件から各地での“いじめ”の実態が明らかになる中で、政府もいじめ問題に取り組む
支援チームを設置するという。一時期に比べて“いじめ問題”も報道が減ってきたようだが
デヴィ夫人はさらに追及していく姿勢だ。
(TechinsightJapan編集部 真紀和泉)
http://news.mynavi.jp/c_cobs/news/techinsight/2012/07/post-3571.html
★本当は恐ろしい日本の道徳/河野哲也 1 ちくま新書からこのたび出版された拙著では、新しい道徳教育のあるべき姿について論じた。 この本のなかで私は、自分が従来の徳育に感じてきた二つの「なぜ」に答えようと試みた。 ひとつ目の「なぜ」は、「どうして日本の道徳教育は、こんなにも辛気臭く、説教臭いのか」 というものである。 たとえば、中学校の指導要領に見られる「道徳的」価値のいくつかを列挙してみよう。 「礼儀」「感謝」「公徳心と社会的連帯」「勤労と奉仕の精神」「父母・祖父母への敬愛」 「社会の一員としての自覚」「日本人としての愛国心」。 私の感覚からすれば、見るだけで鬱陶しくなる言葉ばかりが並んでいる。全く聴く気に なれない授業になりそうだ。 道徳教育は、「道徳」の時間のなかでだけ行われるものではない。石原千秋が『国語教科書の 思想』(ちくま新書)で見事に分析している通り、戦後、日本では、国語教育が道徳教育の 役割を担ってきた。特定の人物像を理想像に据えて、それを目指すというパターナリスティックな 徳育だ。さらに石原によれば、近年、『心のノート』という「不気味な『道徳教育』の冊子」が 作られ、「明らかに権力に都合のいい内面の共同体を作りだそうとする」意図が窺えるという。 石原の指摘には全く同意できる。 日本の道徳教育が胡散臭いのは、単純に言って、個人の尊厳、各人の自由、人間の多様性を 軽視しているからだ。個人を尊重しない道徳教育は、結局は、集団への帰属と貢献ばかりを 強調する全体主義的強制と変わらなくなる。 二つ目の「なぜ」は、組織不正の問題だ。バブル崩壊以後、組織的な不正・不祥事はひっきり なしにマスコミをにぎわし、深刻な社会不信をまねいてきた。組織不正とは、問題が一部の 悪意ある人間によって引き起こされたのではなく、組織構造や業務のあり方全体に起因している 不正をいう。個人としては小さな犯罪さえ起こさない人たちが、組織人としては驚くべき数の人に 危害を与え、人の命を奪うことさえある。さらに、その罪にまったく無頓着であることも多い。 侵略戦争、奴隷制、民族虐殺、差別、搾取。人間の巨大な罪のすべては、集団行動の産物である。 なぜ、「善人」の集団から巨悪が生じるのか。どうすればそれを防げるか。
★本当は恐ろしい日本の道徳/河野哲也 2
これまでの倫理教育は、個人の行動に焦点を当てていた。しかし、自分の所属する集団を
道徳的に善きものにしていくという組織作り・社会作りの視点がなければ、集団の悪は
決して防げない。
以上の二点、すなわち、「個人の尊厳」と「善き集団形成」が拙著での道徳教育の原則と
なっている。そして、「現代社会における道徳教育とは、リベラルな民主主義社会を維持し、
発展させる働きを担う主権者を育成することだ」と結論した。あるべき道徳教育とは、
民主主義の主権者を育成することである。
民主主義は、単なる政治制度ではない。それは、道徳性を中核にした思想運動であり、
他者との共同の範囲を拡大して、より多くの人々を包括する社会を作ろうとする道徳的実践
である。民主主義が進歩するのは、これまで社会の傍流に属し、不当にその利益が無視
されてきた人びとへの共感によってである。
私見によれば、日本人は、しばしば、弱肉強食的な考えを好み、権力主義的な傾向を強く
持った人々であり、他者への共感と想像力に甚だしく欠けている。日本人の同調志向や協調性は、
その権力主義から理解されるべきである。だが、それは、おそらく、彼・彼女らの向上心と
勤勉さの裏返しでもあるのだ。しかも、明治以来の立身出世的な教育指針が、この傾向を
後押ししてしまっている。教育者たちはこの逆説に無自覚だ。
日本の子どものための道徳教育は、個人の存在をそのままに肯定し、人間を包み込む
(インクルードする)姿勢に立脚すべきである。この社会では、そうした共感の制度化としての
民主主義の価値を、繰り返して、強く主張する必要がある。
(こうの・てつや 立教大学文学部教授)
『道徳を問いなおす リベラリズムと教育のゆくえ』 詳細 河野哲也 著
http://www.chikumashobo.co.jp/blog/pr_chikuma/entry/593/
サルを完全に破壊する実験って知ってる? まずボタンを押すと必ず餌が出てくる箱をつくる。 それに気がついたサルはボタンを押して餌を出すようになる。 食べたい分だけ餌を出したら、その箱には興味を無くす。 腹が減ったら、また箱のところに戻ってくる。 ボタンを押しても、その箱から餌が全く出なくなると、サルはその箱に興味をなくす。
★脱原発、いじめ、閉鎖村社会からの脱却、社会のシグナル。 (抜粋) 1 いじめと脱原発が、社会のニュースになっている。いじめは、学校という閉鎖社会のなかで、 行き場のない感情の乱れが、いじめという形で、発散される。学校という閉鎖社会、隠ぺい体質、 子供という大事な命が、学校という教育村社会のなかで、犠牲にあっている。原発、これも、 電力業界という特権社会の中で、自らの利権をまもろうとしている。学校という言葉を電力業界、 電力事業、原発事業という言葉に置き換えるとそのまま、同じになる。原発事業という閉鎖社会、 隠ぺい体質、人の命という大事な命が、原発とういう原子力業界の村社会のなかで、犠牲にあっている。 考えてみれば、なぜいじめがあるのか、簡単である。集団で30人なら30人を一つのクラスに 閉じ込めるからである。そこに、担任をもうけ、ひとつの組織にしているからである。それが ひとつの逃げることができない組織となる。ある意味、檻の中と同じである。 したがって、閉塞した状況で、人がいらだち、不満があれば、その内部にエネルギーがたまる。 もし、組織が外部とつながっていなければ、その内部にたまったいら立ちや不満は、その組織の 外に発散できず、内部で処理しようとする。その標的が、弱い人に当てられるのは、当然。 いじめは、閉塞した組織の中では、当然に起こっていると考えるべきである。檻の中、軍隊の組織、 村社会、陰湿ないじめが、どこでも横行する。なぜなら、人の内部にたまった不満やいら立ち、 心の乱れは、沈静させないと、耐えられないからである。 当然に、組織であるから、管理体制を疑われる。内部にたまったエネルギーをそのまま放置 すれば、どうなるか、暴動がおきる。学校でいえば、学級崩壊である。それを阻止するには、 力が必要である。暴動を鎮めるには、どこの国でも軍隊が出動する。学級崩壊するエネルギーが、 外圧で押さえられたら、その沸騰するエネルギーは、その学級内で処理されようとする。その餌食 となるのが、弱者である。ガス抜きをしている。それで、全体のバランスを取ろうとしている。
★脱原発、いじめ、閉鎖村社会からの脱却、社会のシグナル。 (抜粋) 2
したがって、教育という大きな組織の中では、全体が調和を持たせなくてはならない、美辞麗句の
スローガンに反したことがあってはならない。だから、隠ぺいする。隠ぺいしなければ、自分が
やられる構造になっている。
この村社会的な構造が、行き詰っている。ネット社会や情報化社会で、従来、隠されてきたものが、
見えてきたのである。村の隠ぺい体質、人間社会の暗部が、表面化してきたのである。打破するのは、
組織のタガを外すしかない。いじめであれば、学級という一つの組織単位を外し、学年という大きな
くくりの中で、自由に教室を選ばせることしかできない。ある意味、大学のような環境にして
あげないと、いじめはなくならない。被害者も加害者も不幸である。
いじめと脱原発は、根っこは、同じである。それに対して、大きなうねりがあがっている。
日本を駄目にしているのは、そういった村社会の日本的な陰湿ないじめ体質だと感じている。
経済が動かないのは、流動性がないからである。デフレの中で、硬直しているからである。
地方が動けないのは、お金が回っていないからである。それは、完全に縦割り行政の弊害があって、
お金に条件がつくからである。資産デフレを脱却するには、赤字国債か政府紙幣しかないのが
わかっているが、それが、できない。だから、消費税をあげる。
(後略)
秋山なおのブログ 2012-07-17
http://ameblo.jp/nao-fm505/entry-11304667504.html
創価 死ね 創価 死ね 創価 死ね 創価 死ね 創価 死ね 創価 死ね 創価 死ね 創価 死ね 創価 死ね 創価 死ね 創価 死ね 創価 死ね 創価 死ね 創価 死ね 創価 死ね 創価 死ね 創価 死ね 創価 死ね 創価 死ね 創価 死ね 創価 死ね 創価 死ね 創価 死ね
★親族による連帯福祉の強制か、独立した個人単位での支援か? 1 本当に生活保護を受けるべきは誰か―片山さつき(参議院議員)、城 繁幸(Joe's Labo代表取締役)、 赤木智弘(フリーライター):前編 2012年07月17日 11:36 月刊誌『Voice』 “河本問題”に寄せられた声 片山: 近年、生活保護の急増が社会問題になっています。2008年には151万人だった受給者が2011年 には210万人、総受給費も2008年の2.7兆円から、2012年度予算では3.5兆円に増えています。 そうしたなかで、タレントの河本準一さんの母親が、生活保護を長年にわたって受給していたという 報道がありました。私は自民党「生活保護に関するPT」のメンバーであり、この問題を看過できないと 思ったことから、厚生労働省の生活保護担当課長に調査を依頼し、その旨をブログで発表しました。 そうしたところ、数百件にも及ぶすさまじい反響が来るようになったのです。 その内容の大半が、「年収ウン千万円の一人息子が親を養わないなら、誰でも生活保護がもらえる ことになる。おかしい」「本当に困窮していない人に生活保護を支払うのなら、税金を払いたくない」 という、社会的不公平に対する抗議でした。 経済的困窮者に対して、民法877条では「親族の扶養義務」を定めています。多くのテレビ番組に 河本さんの「生活の贅沢さ」を示す証拠が残っており、母親を養えないわけがない。指摘を受けて 河本さんは一部を返還すると発表しましたが、やはりこうした行為は、社会常識に反するように思います。 赤木: 目下のところ、「親族の扶養義務」が論点になっていますが、私はその流れに違和感を 覚えます。もしそれを定めてしまえば、親族全員が貧乏だけど一所懸命頑張って成功した人が、 全員を養わなければならなくなる。一方、周囲がみな、ある程度裕福な家庭の人は、稼いだお金を 自由に使えます。こちらのほうが不公平ではないでしょうか。
★親族による連帯福祉の強制か、独立した個人単位での支援か? 2 片山: もちろんそれも含めて、生活保護に関する矛盾は昔からいくつもあります。たとえば、 在日外国人にも支払うか、否かという問題です。それでも1990年代までは全体の総額は1兆円台半ばで、 矛盾を残したままでも制度が回っていくレベルでした。ところが3兆円を超える規模になると、 もはや看過できなくなる。河本さんのように扶養能力が十分にある人の家族にまで支給しなければ ならないとなれば、もう制度自体が成り立たず、本当に困った方に届かなくなります。 城:現行の生活保護制度の問題は、大きく分けて三つだと思います。 一つ目は働くインセンティブがないため、受給する立場になった人がそのまま閉じこもって出て こないこと。二つ目は、十分に受給資格があるのに、自治体の“水際作戦”で却下されてしまう 「漏給」の問題。日弁連の2006年の調査では、行政が不正に断ったと思われるケースのうち、 もっとも多いのが子供の扶養義務を盾にとったものでした。なかには断られた人が餓死するケースも あります。 三つ目は年金制度との整合性の悪さ。国民年金の基礎年金が月6万5,000円程度なのに対し、生活保護が 14万円程度であるのはバランスを逸している。生活保護の議論をするにあたっては、この三つをトータルで 考えることが重要であり、そこをなおざりにして親族の扶養義務の強化にだけ焦点を当てるのは、家族の つながりを規定した「明治民法」の価値観に戻るような議論といわざるをえません。 片山:しかし、いまでも日本人の65人に一人が受給しています。もちろんすべてが不正受給者とは いいませんが、65人といえば、「2クラスに一人か二人」がもらっているということです。私に 寄せられる意見も、初めは河本さんに批判的なものが多かったのが、身近な人の例を告発する具体的な 内容が増えてきています。 今回のケースが「正当な受給」だとテレビで発言する弁護士やコメンテーターにつられて、生活保護に 便乗する人が増えてしまい、「クラスに4人、5人」などということにならないために手を打つべき、 というのがわれわれの主張です。
★親族による連帯福祉の強制か、独立した個人単位での支援か? 3
城:それは正論ですが、いま進もうとしている方向は、本当に妥当なのでしょうか。私は「ワカモノ・
マニフェスト策定委員会」のメンバーとして、今回の「社会保障と税の一体改革」について、
数多くの有識者にヒアリングを行なってきました。しかしその過程で、生活保護問題について
「親族の扶養義務を強化すべき」という意見を述べたのは、保守からリベラルまで、一人もいなかった。
赤木: 河本さんの場合も、彼が親を養う義務を負うのでなく、芸能人としての所得からきちんと
税金を払い、その税金を国が再配分するかたちで扶養するのが正しいのでは。
城:それが先進国の基本です。ビル・ゲイツ氏の父親や兄弟でさえも、もし貧乏になれば生活保護が
もらえます。「ゲイツ氏が養わないのは、けしからん」という話を、アメリカ人がするわけがない。
基本的に社会保障は、家族から切り離したうえで同じサービスを法的に受けられるようにするもの。
その原資は、所得税における累進課税のようなかたちで、それぞれの能力に応じて負担する。運用上、
いまの生活保護制度においては、親族の扶養義務は要件に入っていません。その流れを切ってまで、
なぜ戦前の価値観に戻そうとするのか。
離婚や別居をしたほうが得!?
片山: しかし、育ててもらった親に対する恩を子供に求めるのは、おかしな話でしょうか。民法の
扶養義務も、「直系(親子)と兄弟姉妹」と、「三親等以内のほかの親族」は分けて考えられています。
みたことのない人を養えとまではいっていません。支払い義務についても、能力に応じて「月に3万円
くらいなら」などと変えればいい。
もちろん、なかには「親からDV(家庭内暴力)を受けた」「私は育ててもらっていない」という人も
いるでしょうが、それは「親子関係が破綻している」という扱いにすればよいでしょう。
(後略)
http://blogos.com/article/43262/
299 :
名無しさんの主張 :2012/10/20(土) 19:33:48.56 ID:Qy9GckJp
★談合文化論 何がこの国の「社会」を支えるのか 1/2 宮崎学/著 出版社名 : 祥伝社 出版年月 : 2009年9月 [目次] 土建屋の逆襲;日本の基層社会で起こっていること; 日本に「自由社会」などない; 談合の起源; 官製資本主義が談合を生んだ; 近代法とともに談合が生まれた理由; 官僚文化と土建文化の接点で; 顔役、金筋、新聞屋;談合文化が高度成長をもたらした; 談合を変えた田中政治;自治型談合から 癒着型談合へ;談合の復活が日本を救う; 日本に本当の自治社会をつくるために [出版社商品紹介] “突破者”による「談合」擁護論であり、「談合」を通じた日本文化論。
300 :
名無しさんの主張 :2012/10/20(土) 19:34:51.48 ID:Qy9GckJp
★談合文化論 何がこの国の「社会」を支えるのか 2/2
出版社・メーカーからのコメント
土建の現場を知り尽くしたアウトロー・宮崎が世に問う! 日本が日本であるために必要な
「法を超えたもの」とは。 「談合は悪」――なのか? この国に流れつづける「話し合いの文化」
談合とは、徳川時代まであったムラの自治に根ざしたもので、自治を運営する自分たちの掟をつくり、
それにもとづいて自己統治していくうえでおこなわれた構成員全員による話し合いのことであった。
近代になってからムラの自治は奪われ、国家行政に組み込まれたが、社会の基層には談合文化が残った。
日本は建前上「法治国家」になったが、社会のトラブルが司法の場に持ち込まれて、それを一つ一つ
解決していくことを通じて法が具体的に形成されていく、というヨーロッパ近代では成立した過程が
日本近代では成立しなかった。問題が発生した具体的な現場で、公式のルートには乗らない非公式な
話し合いで解決されてきたのである。(本文より) 談合の歴史を見ることで、この国の姿が見えてくる
(本書の主な内容)
■「一般競争入札」は土建屋に何をもたらしたか
■土木王国=田中角栄政治を崩壊させた小泉改革
■なぜ「談合坂」という地名があるのか
■明治政府の殖産興業が「土木建設請負業」を生んだ
■戦時統制経済と高度成長経済はつながっている
■「単なる談合なら無罪である」という地裁の判決
■「談合文化の否定」はアメリカからやってきた
http://www.e-hon.ne.jp/bec/SA/Detail?refISBN=4396613431
★教育サービスの消費者たる生徒・保護者に選択させず、一度割り当てられた学校から逃げられない日本の教育システム
「死ね」「ブス」中2女子に中傷手紙100通…保護者は被害届提出、転校を希望するが市教委が拒否
2012/10/25(木) 12:07:01.67
福山市の市立中2年の女子生徒(13)が、校内で誹謗(ひぼう)中傷の手紙を約100通送りつけられるいじめに遭い、
保護者が福山東署に被害届を出したことが23日、分かった。同署は広島県迷惑防止条例違反(嫌がらせ行為の禁止)の
疑いで捜査している。生徒側は転校を希望しているが、市教委は認めていない。
学校や関係者によると、昨年9〜12月、女子生徒の友人の靴箱に生徒宛ての手紙がほぼ毎日、1〜5通入れられた。
送り主はいずれも匿名で「死ね」「うちをおこらせたらぜっこうとぼうこう」「ブス」などと書かれていたという。
女子生徒は10月に他クラスの担任教諭に相談。学校はいじめと判断し、全校集会を開いて他人を中傷する手紙を
送らないよう指導した。年末に手紙は途絶えたという。
だが保護者によると、その後も無視や悪口は継続。女子生徒は今年9月ごろから教室に入れなくなり、他の部屋で自習や授業を
受けているという。保護者は「学校の対応では問題は解決しない」として、9月中旬、手紙のいじめについて被害届を出した。
また、保護者は学校に転校を希望。市教委職員とも話し合ったが「現在の学校で頑張ってほしい」と言われ、現時点で
認められていないという。
市教委は中国新聞の取材に対し「市教委、学校、保護者で協力して解決し、安心して学校で過ごせる状況をつくるほうが
生徒のためになる」と説明している。2学期に入って実施した生徒アンケートで「女子生徒が他生徒の宿題をやらされている」との
回答を複数得ており、当事者に話を聞くなどして事実確認を進めているという。
ソース:
http://www.chugoku-np.co.jp/News/Tn201210240026.html
★脱出を許さない角田被告らの支配、閉鎖空間での集団生活に閉じ込め
2012年10月27日(土)15:11
兵庫県尼崎市の連続遺体遺棄・行方不明事件で、ドラム缶遺体事件の主犯格とされる 角田 ( すみだ )
美代子被告(64)(傷害致死罪などで起訴)らが、集団生活から逃げ出した男性(54)を連れ戻す
際の具体的な状況が、追跡に同行した知人男性の証言でわかった。
ベランダに干された洗濯物の特徴を見分け、長時間張り込むなど、 執拗 ( しつよう ) に追跡。
脱出を許さない角田被告らの強力な支配ぶりが明らかになった。
男性は、角田被告の義妹・三枝子被告(59)(窃盗罪で起訴)の夫の弟で、昨年夏に岡山県備前市の
海に遺体を遺棄されたとみられる。知人は、角田被告らが暮らしていた尼崎市の賃貸マンション近くに住み、
角田被告宅にも出入りしていた。
知人によると、男性は2002年頃、集団生活から逃げ出し、東京都豊島区に身を隠した。知人は
05年頃、角田被告に「東京まで捕まえに行く。一緒に来て、(尼崎に戻るよう)男性を説得してくれないか」
と頼まれ、断り切れなかったという。
ワゴン車に角田被告や三枝子被告、角田被告の義理の娘の 瑠衣 ( るい ) 被告(27)(窃盗罪で起訴)、
李正則受刑者(38)(死体遺棄罪などで服役)ら6〜7人と同乗し、東京に向かった。角田被告らは、
あらかじめ男性の居場所を割り出していたとみられ、喫茶店で地図を広げ、「この辺だろう」と話し合った。
その後、李受刑者らが周辺にある住宅のベランダを見て回り、洗濯物の干し方を確認。「(男性は)
しわまできっちり伸ばすタイプや。この部屋ちゃうか」と、あるアパートに目星を付け、建物の陰で
夕方まで張り込んだ。
読売新聞) 2012年10月27日 15時11分
http://news.goo.ne.jp/topstories/nation/915/8d65ab6da404f7991a9ddf993a0d8f0f.html
★閉鎖的な教育関係者ムラの隠蔽体質
大津いじめ資料「黒塗り」…第三者調査委が批判
大津市でいじめを受けた中学2年男子生徒が自殺した問題の原因を究明している市の第三者
調査委員会(委員長=横山巌弁護士、委員6人)で、委員が調査のために市教委から取り寄せた
関係書類に多数の「黒塗り」があることがわかった。市教委が委員に渡す前に不都合な部分を
隠した可能性があり、委員の間では「真相究明を妨げようとする隠蔽行為だ」という批判の
声が上がっている。
同委では、市教委側に自殺問題に関する生徒指導関係書類などの資料提出を随時求めているが、
渡された書面には個人名だけでなく文章の一部にも多くの黒塗りがあり、事実を確認できない
部分があるという。
委員の一人、尾木直樹・法政大教授は28日夜の第7回会合の後、報道陣に対し「いじめに
関する教諭らの踏み込んだ発言の記録があっても、黒塗りになっていると、追跡調査もできない。
何の権限があって隠すのか」と市教委側を批判。また、一部の学校関係者が同委の聞き取り
調査に応じないケースもあるといい、同委は市教委などに対応を見直すよう求める考えだ。
一方、同委はこの日、男子生徒の父親から家庭状況などについて尋ねたという。すでに
教諭約20人から聞き取りし、現在は、生徒の同級生約20人への調査も始めている。
(2012年10月29日 読売新聞)
http://osaka.yomiuri.co.jp/e-news/20121029-OYO1T00363.htm?from=main3
★親の知る権利確立を 大津中2自殺遺族、文科省へ要望
京都新聞 2012年10月30日(火)15時59分配信
大津市で昨年10月に自殺した中学2年の男子生徒=当時(13)=の父親(47)が
30日、文部科学省を訪れ、学校が行ったアンケート結果の開示など「親の知る権利」の
確立を求める要望書を提出した。
要望書では、全国のいじめを苦にした子どもの自殺で、学校のアンケート結果が遺族に
ほとんど開示されず、学校はいじめに関する情報隠しを繰り返してきたと指摘。大津市の場合も
学校がアンケート結果を外部に開示しないよう遺族に確約書を書かせたり、市に情報公開請求
しても一度は全面非開示の決定が出たことなどに触れ、「学校、教育委員会の隠蔽(いんぺい)
体質は何も変わっていないという気持ちになる」としている。
その上で、いじめを根絶し悲劇を繰り返さないためには、真相を明らかにして学校で何が
起きているのかをはっきりさせることが大切だと述べ、「保護者が学校の持っている情報の
開示を求め、教諭と情報を共有できる仕組みが必要」と訴えている。
この日は、父親が同省の布村幸彦初等中等教育局長に要望書を手渡した。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20121030-00000017-kyt-l25
★「若者を海外へ送り出そう!」『君は、こんなワクワクする世界を見ずに死ねるか!?』(抜粋) 1 著者田村耕太郎さんのお話です。 東京プレスクラブ 2012年11月07日 11:36 (前略) [日本の情報はリスキー(北朝鮮並み)・グローバルでない・記者クラブ制度・広告に弱い] 日本だけの情報に限ると非常にリスキーであるということです。 オリンパスの件もありますし、記者クラブ、広告に弱い体質、そしてやはり日本語の壁、そういった 物があって情報が北朝鮮並み、重要情報に限っては北朝鮮並みで北朝鮮よりたちが悪いのは情報が 自由にあるように見えるので、そういう意識をみんなが持ちにくいということがあります。 ちなみに全世界にある情報のなかで日本語になっている情報って、推測の仕方が難しいですけど 何パーセントぐらいだと思いますか ? 2パーセントぐらいですね。98パーセントの情報が日本語になっていないということでやはり 日本だけの情報に限ると非常にリスキーであります。 [自立・責任・決断] これは本当に海外に住まわれている方がたくさんいらっしゃるので、こんなこと言うのは恥ずかしい のですけれども、学生向けですから我慢して聞いていただきたいんです。日本の外と日本の中を ざっくり分けるなら、どういう世界があるかというと、この三つがあるかないかなんです。 日本はこれがない方が良いという社会であって、日本の外でこれがないとやっていけない、 だれも助けてくれない。 まあ、いわゆる村社会というやつです。 パイがどんどん増えていて、やはりどちらかというと多様性を排除していく、協調と多様でない 純粋培養みたいな物を強めていくことによって日本は強くなってきました。戦後の話しです。
★「若者を海外へ送り出そう!」『君は、こんなワクワクする世界を見ずに死ねるか!?』(抜粋) 2 しかしながら生物がこれだけ多様であるということは皆さんには釈迦に説法ですけれども、何か 激変があった時にどれかが生き残るように多様性を持っているといわれているんですけれども、 今日本は純粋培養を進めてきて村社会でみんなの空気を読んで自律的に決断がない方が出世に有利、 社会的地位が高まるなど、そういうことがあったと思います。しかし外に出ると、これ [自立・責任・決断]がないとやっていけない。 そして日本も、もうパイが縮まる世界。 村社会が我々を守ってくれるということが地域社会も国も企業もそういう前提が中々成り立たない。 もちろん政治家も割り振りがあってやっているわけではなくて、守る力はもうないことは 皆さんおわかりだと思うんです。 けれどもそれを全国民に対して言えませんから「やります・守ります・これをしてさしあげます」 みたいな事をずっと言っているわけです。しかし企業だって定年まで皆さんを雇用して今度は 定年後、年金がバトンタッチして死ぬまで面倒をみるということは非常に考えにくいわけです。 [日本にしかいられないリスク ・負担が増える中、世界中の同世代と仕事を奪い合う時代 ・世界の同世代は英語ができる・どこでも働けるサバイバル能力身につけている ・安全保障は経済と財政の変数 ? ] これも釈迦に説法でざっとやらせていただきます。 これは若者向けに描いたんですけれども、これからは負担が増える中、テクノロジーによって、 消される仕事を世界の同世代と奪い合う時代になる。 世界の同世代は良いか悪いかは別にしても結構英語ができる。 どこでも働ける能力をつけておかないとやはり厳しい。
★「若者を海外へ送り出そう!」『君は、こんなワクワクする世界を見ずに死ねるか!?』(抜粋) 3
(中略)
まあとにかくこの本にも書いてあって学生にもいったんですけれども、バブルを経験した方が
良いと、縮小するパイの中で縮小する考えの中で安定していても、それはもう若者らしくないと
発想を拡大させた方が良い。いろいろな人と議論をしたんですけれども日本は安全かという
議論をしたんです。
今一番危険なところといわれているシリアですけれどもシリアで騒乱が起こってから死んだ人は
2万人です。
しかし御存じの通り日本は 3万人が公式統計で自殺していますけれども警察が自殺と断定しない
ものも含めると10万人といわれてますね。
バグダットで殺されたアメリカ兵今までで6000人だそうです。
まあバグダットやシリアとどちらが危険か話しをしたんですけれど、やっぱり安定して治安は
良いですけれども、ずっとデフレが続いている中にいて空気を読みあって村社会みたいな
暮らし方をしていると、別な意味の危険があるんじゃないかという風に思います。
(後略)
著者田村耕太郎さんのお話です。 東京プレスクラブ 2012年11月07日 11:36
http://blogos.com/article/49773/?axis=&p=6
★都市的な自由度が少なく閉鎖的で、世界に遅れた日本のサービス 1
今回、日本で感じたこと −一歩踏みだすと、まったく新しい世界が開けてくる(抜粋)
小林恭子の英国メディア・ウオッチ 2012年 11月 16日
http://ukmedia.exblog.jp/18797032/ 日本帰国中に、メディアの研究会で話していたところ、「日本のメディア(新聞界)は、
外に住む人からすれば、どう見えるか」と聞かれた。
普段私は日本に住んでおらず、日本のメディアを詳しくウオッチングしているわけでも
ないので、十分に論評できるほどの事実をつかまえていないと思っている。
しかし、印象論のレベルで言えば、「これはもしかして、まずいのではないか?」と
思ったことはある。今回、特にそれを感じた。
その印象をまとめて見ると、「いくつかの小さなことが日本で起きていない、あるいは
非常に小規模でしか、起きていない。一つ一つは、ある意味ではたいしたことはないが、
総合すると、これだけ知的レベルが高い国民がいる先進国としては、非常に残念な状態と
なっている」。私はこうした状況に、愕然としている。
英国は日本からすると、別世界の感がある。言語も文化も、歴史も地政学的条件も違うから
確かに別世界だけれども、あえて、この「別世界ぶり」を書いたほうがいいのかなと思った。
日本が英国たれ、と思っているわけではない。住むほどにこれほど違う国もあるかなと
思うほど、異なる二つの国。日本が英国の模倣をする必要はなく、「英国=日本が理想と
するべき国」とも思っていない。
しかし、いつぞやの「ハイテク日本」が「時が止まった昔の国」に見えてしまう部分があって、
「これは、やばいぞ」と思わざるを得なかった。
日本で起きていない、あるいは非常に小規模でしか起きていない「いくつかの小さなこと」、
「一つ一つは、ある意味ではたいしたことはないが、総合すると非常に残念な状態」と
私が思うことを、いくつか、挙げてみたい。
(1)カード決済ができない店舗が、いまだに結構ある
(2)ATMが24時間体制になっていない
(3)海外で作ったカードを使えるATMが限られている
(4)プリペイドの携帯電話が多くない
★閉鎖的で都市的な自由度が少なく、世界に遅れてきた日本のサービス 2 日本に住んでいる人からすれば、(1)から(4)についてあまり不便さを感じないかも しれないし、「関係ない」と思われるだろうか? そんな方には、ある人による都市の定義を紹介したい。 フィンランド・ヘルシンキで会った、ソマリア人の移民の男性と話していたときだ。 「都市の特徴は、無名でいられること」と言われ、どきっとしたものだ。 人口が極度に少ない、ある小さな村のことを考えてみよう(あくまで例として)。誰もが 誰もを知っている。良くも悪くも互いの行動を知っている、ある意味では監視して・されている。 無名では生きられない。ところが都市には、顔を見ても誰かを識別できないほど色々な 人が生きている。 村では派手と見られる服装をしたら、親戚や親が何か言うかもしれない(言わないかも しれないが)。ところが都市では、他人は眉をつり上げることさえしない。自分で行動に 責任を持つならば、どんな風に生きても誰にもうるさく言われない。ロンドンに住んでいると、 この「無名で生きられる自由」を感じる。 そこで、メディア、デジタル面の話になる。 (5)英国では、自由に生きるあなたのニーズを満たし、知識を与え、楽しませ、いつでも、 どこでも情報(あるいは娯楽)が受け取れるように、メディア同士が競争をしている。 冒頭の話に戻れば、「日本の新聞界は、外から見ると、どうか?」と聞かれ、私は、「日本の メディア組織は、現状維持と組織を守ることを非常に重要視しているように見える」と答えた。 英国の場合、民間企業であれば、利益を上げることが目標ではあるのはもちろんだが、 具体的には、(お金のことを考えつつも)利用者の利便性、自由度(=選択肢)を増大させ、 自分たちのサービスを使ってもらえるようにする、つまりは、「利用者の心をつかむ」ことに、 血道が注がれている。 日本の場合は、「組織維持、現状維持」のほうに傾いているように見えるが、いかがであろうか。
★閉鎖的で都市的な自由度が少なく、世界に遅れてきた日本のサービス 3 英メディアは、まず利用者のほうを向いている感じがする。利他的ということではなく、 「市場」がそうする。競争が働くので、一社が便利なサービスをしたら、他者も同様のサービスを 開始しないと、出遅れる(こうした市場中心主義への反対論も根強い。「占拠」運動はその1つだろう)。 (6)金持ちでなくても一定の質のサービスが受けられるように工夫されている 例えば、テレビのオンデマンド・サービスのことだが、これは1週間以内に放送された番組を 無料で何度でも視聴できる仕組み(=見逃し番組再視聴サービス)。この件については前にも 何度も書いているが、日本ではNHKなどもやっている。米フールーも利用できるように なっているが、有料である。 色々な規制やしがらみなどがあって、有料になっていることは理解できる。 しかし、英国ではBBCや民放テレビがこれを無料で提供している。 不思議に思われるかもしれないが、テレビのオンデマンドサービスが無料で使える状態と いうのは、視聴者に大きな自由感、解放感を与える。まるで「別世界」である。誰にも気兼ねなく、 自分の好きなときに、好きな番組を、好きなプラットフォームで見れるのだ。テレビの前に 張り付いていなくてもよいし、自宅に録画機を持つ必要もない。テレビ局が自社でコンテンツを 維持してくれている。 例えば1ヶ月1000円を切るほどの利用料が、果たして高いかあるいは手ごろかといったら、 「それほど高いとは思えない」という人が案外、いるかもしれない。しかし、ちょっと想像 して見て欲しい、これがまったく無料になった状態を。 無料ということは、オンデマンドサービスが社会の基盤として提供されていることを示す だろう。一部の人向けに、「プラスアルファ」として有料で提供されるのではない。 「基本」として、誰にでも提供されている。この意味は大きいと思う。
★閉鎖的で都市的な自由度が少なく、世界に遅れてきた日本のサービス 4 (7)大部分の新聞の記事が過去記事も含め、ネットで無料で読める 経済紙フィナンシャル・タイムズや一般紙でもタイムズは、電子版を有料課金制にしている のだけれども、そのほかの新聞はPCをつければ、無料で原則すべてが読める。 英国の新聞界は紙の部数がどんどん減っていて、台所事情は非常に苦しい。携帯機器用アプリを 有料化するなど、苦心の策を講じているが、いったんPCをつけて、ブラウザーで該当新聞の ウェブサイトに行けば、すべてが無料で読めるのである。 自殺行為?確かにそうかもしれない。でも、取材や執筆に時間をかけた新聞の記事をネット上で 誰でもすべてが読める状態にすることで、いかに市民の知的議論が深まることか。「民主主義社会」 という言葉を持ち出さずとも、計り知れない好影響があることは想像できるかと思う。 一方の日本の大手新聞の場合、ネット上には十分に記事が出ていない感じがする。先日、 ある新聞の電子版を購読しようとしたら、紙を購読していないとだめと分かった。紙を守りたい のは理解できるが、がっかりしてしまった。読者(=私)が読みたい方法(電子版のみ)での 購読の選択肢がないとはー!選択肢が狭められることは、自由度がせばめられることと同じだ。 売店に行って、新聞を紙で買うか、あるいは、定期購読者=契約者にならないと、十分に 新聞が読めないのだ。これがとても旧式に映ってしまう。「公共空間(=ネット空間)に高品質の 論考を出す」という面での責任はどうなるのだろう?(無料で新聞が読みたかったら図書館に 行けばよいというのは、やや酷だろう。家の隣に図書館があればまだいいかもしれないが、 知識への渇望は開館している時間のみには限らないし、ネットで情報を取ることがますます 主になっている現在、この公空間に十分に出さないのはまずい感じがする)。 ほかにもいろいろと目に付くことはあるけれども、いろいろなサービス形態が「日本に住む 日本人」をもっぱら対象にしており、「ふらっと、自由に」かつ「無名」のままでは、サービスが 利用できるようにはなっていないようだ。つまるところ、「閉じている」感じがする。窮屈な 感じもし、自由度が少ない感じもする。
★閉鎖的で都市的な自由度が少なく、世界に遅れてきた日本のサービス 5 (8)アマゾンのサービスが日本独特になっている まず、最も話題になっている、アマゾン・キンドルの件がある。 もろもろの理由で、これまでに参入できず、いよいよ始まることになった経緯は、理解できる。 それに、現時点で電子書籍端末には興味がない人がたくさんいるだろうことや、今後も大規模には 広がらない可能性もまた、理解できる。 それにしても、である。まず、米国でキンドルが発売されたのが2007年末。英国を含む 諸外国で販売されたのが、2009年である。日本はさまざまな理由から、2012年末からと なった。この間、諸外国と比較しても、導入までに3年のギャップがあった。デジタルの世界で、 3年はかなり長い。 50年、100年単位で物事を考えたら、3年は短い。でも、この間に、米英では自費出版で ベストセラーを出す人が続々生まれている。実際に使って見て、分かったこと、分からなかったこと、 いろいろあるだろう。この間の知識や運用の経験・情報の蓄積はかなり大きいのではないだろうか。 それに、実際に導入されていないと、この間、電子書籍端末にかかわる議論や商戦に、日本や 日本のメーカーは、そして、日本に住む人の多くが本気では加われないことになる。 これを私は悔しく思う。 そして、止めを刺すのが、アマゾンで販売されている本の価格に自由度があまりないことだ。 普通、英米でアマゾンを使って本を買う一つの醍醐味は、あるいはほとんど唯一の醍醐味は、 配達の速さよりも、値段である。アマゾンで買うと、書店で買うよりもはるかに本が安いのである。 日本語キンドルの開始で、この状況は日本でも変わるだろうが、アマゾンで「本を半額以下で 買えた」という喜びを享受できない状態というのは、これまた悔しい感じがするー。 このために、書店が大打撃を受けて、閉店に追い込まれるといった問題もあるだろうから 単純な話ではないだろうが、どうも、出版社やそのほか、本を売る側の都合が大きな幅を 利かせていたように見える。つまり、購買者としての国民が十分な利を得ていないのではないか という点が、心配なのである。
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それでは、一体どうしたらいいのか?という話になるが、とにもかくにも、読者、視聴者、
利用者の利便がもっと反映される社会になって欲しいと願っている。
選択肢が幅広く、(より)自由な社会、かつ貧乏でも同等のサービスが受けられる国になって
欲しいと、遠い国から思っている。勇気を持って一歩を踏み出せば、貧富の差や居住地の違いに
関わらず、すべての人が享受できるサービスが実行できるのではないか。
小林恭子の英国メディア・ウオッチ 2012年 11月 16日
http://ukmedia.exblog.jp/18797032/
★終焉に向かう戦後日本の閉鎖タコツボ型雇用制度 1 苦境の電機産業に見る、日本型雇用の終焉 シャープやルネサスで希望退職者が殺到する矛盾 2012/11/26 11:32竹内 健=中央大学 理工学部教授 「ルネサス エレクトロニクスの早期退職で、募集人員5000名に対して7511人が応募」 「シャープは希望退職者を2000人募集したところ、2960人も集まり締切を前倒しに」 電機メーカーの多くは経営が厳しい状況で、転職は難しい。それでもなぜ、多くの従業員が 希望退職に応募するのでしょうか。希望退職者の中には、退職後の転職先も決まらないまま、 退職を申し込んだ人も数多く居るようです。 日本の終身雇用、年功序列の人事制度は、普段は少ない給料でコツコツと働きながら、 退職の際に、退職金という形でお金を受け取る制度です。早期退職の希望者が多いのは、 会社が潰れて、退職金が払えなくなる前、できるだけたくさん退職金を受け取れるうちに、 辞めるということでしょう。 本来は賃金でもらうべきお金を退職金で支払う制度では、これが合理的な判断でしょう。 しかし、仕事の機会という意味では、転職は、事業が好調な時にする方が有利。業界が好調 であれば、仕事の機会も多いし、今までの経験を生かしたステップアップも可能でしょう。 不況で、市場に仕事が無い時に、仕事を辞めて新しい仕事を探すのは、非常に大変です。 技術や市場が急速に変化し、事業の栄枯盛衰が当たり前にもかかわらず、人事制度は終身雇用を 前提としている。この矛盾が一気に噴き出した感があります。今後は、企業が現在のような 終身雇用、年功序列の雇用制度を維持することは難しいでしょうし、個人としても、自分で 考えて生き残りを図るしかない。 私が東芝に就職したのは1993年です。当時は、日本の電機メーカーの間での転職は厳禁と 言われていました。真偽はわかりませんが、電機業界では各企業の人事部が連携し、相互に 転職ができないようになっていると、噂されたものでした。
★終焉に向かう戦後日本の閉鎖タコツボ型雇用制度 2 転職を禁じるということは、逆に言うと、それだけ電機メーカーが盤石だったということ。 従業員の一生の雇用を保証できると、会社も社員も思っていました。当時は、金融バブルが 崩壊し、護送船団と言われていた、日本の金融業界で倒産や統合が相次ぎました。 大手の証券会社や銀行が倒産することはあっても、どこか、他人事。電機業界は不動産投資 などに手を出さなければ大丈夫だろう、と思われていたのかもしれません。それが、DRAMで 韓国のSamsung Electronics(三星電子)などに負けた1990年代の後半になると、日本の電機 メーカーでも不採算事業の撤退がはじまり、日本企業の間での転職は頻繁に行われるように なりました。 それでも、外資系企業に移る技術者には、冷たい視線を浴びせる風潮がありました。露骨に 「裏切り者」と罵る人も居たように思います。ところが、今では、電機メーカーの多くは 経営危機に陥り、希望退職を募るところまで追い込まれました。 むしろ、外資系企業でもどこでも、従業員が移れるところがあったら、移ってほしいという 状況です。そして、シャープに対する台湾Hon Hai Precision Industry(ホンハイ)の出資の ように、外国企業の出資がなければ、日本企業が延命することさえ難しいケースも出てきています。 この20年ほどを振り返ると、会社が盤石だと思えていたのは、幻想だった。もちろん、 電機メーカーの中にも社会インフラ事業に舵を切った日立製作所・三菱電機や、東芝のように、 時代の変化に応じて中核事業を変え、逞しく生き残っている企業もあります。でも、こうした 企業も次の10年、20年の間に、今の形で事業を継続できている保証はありません。 どんな大きな企業であっても、「絶対に大丈夫」「一生を保証」などないのです。むしろ、 社員が「自分の会社は大丈夫」と思った時には、会社は衰退の危機にあると思った方が良い のではないでしょうか。
★終焉に向かう戦後日本の閉鎖タコツボ型雇用制度 3
では、企業が好調の時に転職するとどうなるか。現在の日本の企業では、自己都合で退職
すると、ほとんど退職金を貰えない場合も多いのです。自分で勝手に辞めるんだから、退職金
として積み立ててきたお金もチャラ、というわけです。
勤務年数に応じて退職金が決まる制度では、転職先でも大した退職金を貰うこともできず、
結局、損になります。また、以前は、電機メーカーを辞めるのは「不安定」な生活になると
思われていました。
ところが、転職を経験した方の中には、あの時に移って良かった、と思われている方も多い
のではないでしょうか。会社は倒れる時はあっという間ですが、内部に居れば、「そろそろ、
まずそうだぞ」とかなり前に気付くもの。
自分の直感で、「ここに居てはマズイ」と思ったら、移る。金銭的には、一見、損に見えても、
長期的には「損して得を取る」ような転職も必要ではないでしょうか。
竹内 健の「エンジニアが知っておきたいMOT(技術経営)」 2012/11/26 11:32
http://techon.nikkeibp.co.jp/article/COLUMN/20121126/252632/
★円安では完治しないガラパゴス症候群 1 斉藤洋二 ネクスト経済研究所代表(2012年12月27日) 過去半世紀、自動車産業と共に日本経済を牽引してきた家電産業が苦境に陥っている。その主役である ソニー(6758.T: 株価, ニュース, レポート)、パナソニック(6752.T: 株価, ニュース, レポート)、 シャープ(6753.T: 株価, ニュース, レポート)の3社は2012年3月期に合計で約1兆6000億円 という巨額の最終損失を計上。13年3月期も、テレビや液晶パネルの不振により、パナソニックと シャープは2期連続の大幅赤字へと見通しを下方修正。残るソニーは黒字維持を予想するが、 フィッチ・レーティングスは11月にパナソニックもろともその長期信用格付けを「投機的」と される水準に引き下げた。 この3社合計の時価総額は、5年前の16兆円水準から2.5兆円程度(12月27日終値ベース)へと 細っている。経営トップ自らが「デジタル家電分野の負け組」と称する日本勢とは異なり「勝ち組」と される韓国のサムスン電子(005930.KS: 株価, 企業情報, レポート)(時価総額17兆円)や、 シャープとの提携交渉が長期化している台湾の鴻海精密工業(2317.TW: 株価, 企業情報, レポート) (同3兆円)には、大きく水をあけられてしまった。 日の丸家電産業の惨状の背景には、技術水準で追いつかれたこと、M&Aによる合従連衡が進まなかった こと、米ゼネラル・エレクトリック(GE)(GE.N: 株価, 企業情報, レポート)が家電分野を徹底的に 圧縮しエネルギーなどに注力したような業務ポートフォリオの見直しが不十分だったことなどがある。 さらに、「円高」だ。国際決済銀行(BIS)によれば、1970年1月を100とする実質実効為替 レートは2012年11月時点で日本円が180に上昇したのに対して、米ドルは66、韓国ウォンは 60である。事実上のドル・ペッグを採用してきたアジア通貨に対して、日本の通貨高は突出している。 技術力などに絶対的な格差があったときならばいざ知らず、すでに東アジアの経済が離陸した現在、 一般労働者の賃金がおおよそ韓国・台湾の2―3倍、中国(上海)の9倍である日本企業が同じ 土俵での体力勝負に立ち向かえなくなるのはやむを得ない。
★円安では完治しないガラパゴス症候群 2 とはいえ、いくら円安を望んでも、変動相場制下における為替調整機能の発揮など期待通りにならない ことは40年の歴史に学んだ通りだ。また、そもそも円安だけでは、国内における高いエネルギー価格、 高い法人税、そして諸外国との競争環境の劣後など、製造業ひいては日本経済が直面する根本的問題を 解決できるとは言い難い。 <日本はアジアで失速した一羽の雁> 1960年代初頭に注目された「雁行形態論」は、リーダーが群れを率いて飛ぶ雁(がん)の姿から 名付けられた。この東アジア経済の発展モデルは、日本が産業発展を切り開き、低付加価値・低技術の 産業を他の国へ順次移転させてゆくプロセスを示唆したが、現実に日本から四小龍(シンガポール、 韓国、台湾、香港)へ、そしてその次の段階において東南アジアや中国沿海部など安価な労働力を 有する地域へと産業は移転された。 93年の世界銀行調査報告書は、この成果を「東アジアの奇跡」と呼んだ。次の段階において、 日本経済が停滞し存在感が希薄化する一方で、東アジア経済はアップル(AAPL.O: 株価, 企業情報, レポート)の製品が中国(広東)で台湾企業により生産されるように、ITなど新興分野において、 米国、中国、四小龍、そしてアセアン諸国との地域分業体制へとシフトした。 この20年で、東アジアは通貨危機を乗り越えて一段の飛躍を遂げ、07年の世界銀行調査報告書は これを「東アジアのルネッサンス」と評価したが、その過程において、「世界の工場」となった中国を 中心とした大中華圏が形成され、日本は先頭を切る飛雁から一転して失速した一羽の雁となり、 その群れに飲み込まれた。 この間、「日本のガラパゴス化」が指摘されてきた。エクアドルの沖合い900キロにあるガラパゴス 諸島は1835年にダーウィンがピーグル号で訪れ「進化論」を着想したといわれる場所。大陸から 隔絶され「特殊進化」した生物は「一般進化」したものと比べ外敵への適応力が弱く、絶滅の危機に 晒されることに由来する。
★円安では完治しないガラパゴス症候群 3 日本の技術力は高機能の携帯電話、耐震構造の建築技術などに見られる通り、その先端性の例は 枚挙にいとまがない。しかし、世界の標準仕様に照らせば特殊仕様になっていることから国際的には 汎用性に欠ける。さらには海外へ輸出する場合は、品質をわざわざ落としたものとせざるをえない という皮肉な結果にもなっている。 一方、ヒト・モノ・カネの流入に対してはアレルギー反応を起こし、また若者の海外への興味が 薄れるなど、日本人の内向き志向すなわちガラパゴス化が様々な場面において成長の阻害要因と なっており、今後「脱ガラパゴス」が日本経済発展の鍵となるのではなかろうか。 日本は輸出立国と常々言われてきたものの、企業活動の実態は、一部の産業を除けば生産拠点の 海外シフトが遅れ、また国内市場でのパイを奪い合って生き残りを図ってきた。これは日本が 地理的に隔絶されていることや、長い鎖国政策により特殊進化してしまった結果とも言える。 世界的にボーダレス化が進む中、生産・消費両面において、急激に成長するアジアとの垣根を 低くし共生を図ることが、適者生存の生物界のルールに適うものと言えよう。 <「リオリエント」の時代に乗り遅れるな> 現在、東アジアにおける地域共同体については、通貨、財政、政治と統合のステップを進める欧州を 参考としつつ、そのあり様が種々構想されている。しかし、北大西洋条約機構(NATO)と 欧州連合(EU)が一体的に東へと拡大し巨大な市場を築いた欧州と前提条件が異なっており、 その道のりは一段と困難となるだろう。 なぜなら政策研究大学院大学の白石隆学長とハウ・カロライン京都大学東南アジア研究所准教授が 共著「中国は東アジアをどう変えるか」で説いているように、東アジアの地域システムは、米国の ヘゲモニーの下で運用されてきた「安全保障システム」と、中国を中核とした「通商システム」 という二元性の故だ。
★円安では完治しないガラパゴス症候群 4
その結果、軸足をアジアに移した米国と海洋権益を主張する中国との構造的緊張は南シナ海や
東シナ海での領土問題に見られる通りで、今後も東アジアの共同体構築を阻害するだろう。とはいえ
現在、東アジアのGDPは、インドをも含めるとすでに世界の25%以上を占め、2050年には
50%以上に達するとも試算される。それは18世紀、ムガル帝国と清朝が隆盛であった頃に
匹敵するものであり、「リオリエント」(東洋への回帰)と言われもする。この地域の発展性は
日本が看過するには大きすぎる。
翻って日本は、2055年には人口が9000万人を割り込む見通しであり、国内市場は縮小する。
一方で、日本の貿易総額に占める自由貿易協定(FTA)相手国の割合は19%にとどまり、
30%を超える欧米や韓国などに比較するとその自由化の進捗は遅く、日本企業は不利な
競争条件下に置かれている。
したがって、世界貿易機関(WTO)で新多角的貿易交渉(ドーハ・ラウンド)が休止状態に
陥っている現在、日中韓が交渉開始を決定したFTAや経済連携協定(EPA)、あるいは
環太平洋連携協定(TPP)など様々な自由貿易交渉の戦略的取り組みは喫緊の課題である。
それは、「脱ガラパゴス」へと日本の背中を押してくれるはずだ。
http://jp.reuters.com/article/jp_forum/idJPTYE8BQ04K20121227
★アジアのガラパゴス「日本村」
大津氏の中学校での苛め問題は、学校や市が当初言明していたよりも遥かにひどい実体であったようだ。
しかも、問題隠しの実態が原発事故の場合と似通っているように、小生には思われる。
「原子力村」という表現には、日本の原子力行政の閉鎖性が端的に示されている。「村社会の独特の
色彩をもち、利権に群がる排他的利益集団という面を揶揄して『村』がつけられている」と、Wikipedia には
書かれている。同様の表現に「金融村」があるとも、Wikipedia は指摘している。
では、教育はどうであろうか? これも、やはり日本という村社会独特の色彩に満ちていよう。
東大や国立大学医学部を頂点とし、官僚に都合の良い教育制度; 「漢文」がその代表であるような閉鎖性を
助長するカリキュラ; 使いものにならない高校英語 ── 「日本村」独特の色彩を保ち続けているものは、
枚挙に暇がない。
その影響は実際に大きなものとなっていて、そのような環境で教育を受けて不本意にも負け組みに
回ってしまったと思しき若者たちは、インターネットのニュースのコメント欄に排他的民族主義的な
不快極まる書き込みをしている。そのような排他的な感情は、日本という村社会の中ではマイナリティー
である人々へ向けられたものである。そのような排外的な感情が「学校」という村社会の中で働くと、
苛めになるのである。
奇しくも最近、昨年度のスマートフォンの輸出がゼロであったとの記事を目にしたが、これなども
日本がアジアのガラパゴス諸島であり、その閉鎖性から脱却できないことを示していないであろうか?
春日塾のブログ 2012年7月17日 (火)
http://kasugajuku.cocolog-nifty.com/blog/2012/07/post-4d5e.html
★『村社会』からの脱却の必要性
For The Good Times 2011年7月1日
先週の日曜日に結婚披露宴に招待されスピーチをしました。
新郎は米国に留学して、斬新な運動理論を習得した運動学の専門家で、新婦は5歳の時から
大学まで米国の学校教育を受けた国際的なカップルでした。
私は、日本は世界に誇るべく素晴らしい面が多々ある反面、本当の意味で『世界の一員』に
なるために変えなければならない面が有ると思います。
変えなければならない最たる面は、日本社会の『閉鎖性』で、その根幹をなしているのは、
『全体の利益より自分の属している世界の利益を重視する』云わば『村社会』的な部分だと考えます。
子供のイジメ問題、学閥、大人の世界の派閥などは、この『村社会』的な発想に基づいており、
残念ながらこの『村社会』的な発想と行動基準は、日本の社会全体に蔓延しています。
現在の日本社会に閉塞感をもたらしている大きな要因の一つも、この『村社会』的な考え方です。
日本の閉塞感を打破するためには、『村社会的な視点』から脱却して、複数の文化を理解している
人間が一人でも多く立ち上がる必要があります。
変化は急務です!しかし、『村社会』の温床に浸りきっている政治家に日本社会を変化させることは
期待できません。
この度結婚したカップルのような複数の文化を理解できる人間たちは、傍観者になることなく、
日本を変えられるのは自分たちだと思って欲しいと思います。
私も自分の体験を通じていろいろなことを述べさせて頂きます。
披露宴のスピーチでも述べましたが、我々の力でこの閉塞感を打ち破り、日本を自他共に
認められる本当の意味での世界の一員にしていきましょう。
http://www.ryotokura.com/culture/%e8%a4%87%e6%95%b0%e3%81%ae%e6%96%87%e5%8c%96%e3%82%92%e7%90%86%e8%a7%a3%e3%81%99%e3%82%8b%e9%87%8d%e8%a6%81%e6%80%a7/
★大津・中2男子 いじめ 自殺の原因 第三者委最終報告
東京新聞 2013年2月1日 朝刊
二〇一一年十月、大津市皇子山(おうじやま)中二年の男子生徒=当時(13)=が飛び降り
自殺した問題で、市の第三者調査委員会は三十一日、自殺の直接の原因はいじめだったとする
調査報告書を越直美市長に提出した。市教委はこれまで「いじめと自殺の因果関係は判断できない。
家庭にも問題がある」としていたが、報告書は「家庭の問題は自死の要因とは認められない」
と断言、市教委の主張を否定した。
報告書では自殺の約一カ月前から、同級生二人=ともに(15)=から計十九件のいじめを
受けたと認定。同級生らがハチの死骸を食べさせようとしたり、教室の窓辺で自殺の練習を迫ったり、
自宅の勉強部屋を荒らしたことなどで、文部科学省が定義するいじめの要件にすべて該当すると指摘。
男子生徒は、自殺で「暗いいじめのトンネルを抜けようとした」と結論づけた。
教員間の連絡体制にも問題があったと指摘。担任がいじめを認識できる状況にあったのに
「発見を見逃し、遅らせ、自死を防げない結果となった」と過失を認定、学校と市教委に、
再発防止に努めるように求めた。
二人と一緒にいじめに加わっていたと遺族が主張し、滋賀県警が昨年十二月に書類送検した
別の同級生(15)については、加害者との認定はしなかった。
越市長は会見で「学校、教委で隠蔽(いんぺい)とされる行為や責任転嫁があったことをおわびする」
と謝罪。今後、国や県に報告書を提出し、いじめ対策の充実を求める。いじめ調査をする常設の
第三者機関の設置も検討する。
市教委の松田哲男・教育長代理は「内容を真摯(しんし)に受け止めたい。いじめが自殺の
一つの要因だと思っているがもう少し内部で検討を進めたい」と話した。
自殺した生徒の父親(47)は会見で「息子は学校に見殺しにされた。いじめに不安を
抱える子がいない学校にしていくための報告書になれば」と述べた。
http://www.tokyo-np.co.jp/article/national/news/CK2013020102000106.html
★「息子は学校に見殺しにされた」自殺した生徒の父親会見 1 大津市で2011年10月、市立中学2年の男子生徒(当時13)が自殺した問題で、 市が設置した第三者調査委員会が越直美市長に報告書を提出したことを受け、自殺した 男子生徒の父親が記者会見した。父親の発言は以下の通り。 ◇ このたび、私の息子の自殺事件に関して、昨年8月25日より約5カ月にわたる調査を終えて、 本日、第三者調査委員会、並びに越市長より調査報告書を受け取ることができました。 息子が亡くなってから10カ月以上の時間が経過してからの調査であり、夏の暑い時期から 長期間にわたり、本来のお仕事の時間を割いて私どもの息子の調査に携わっていただき改めて 感謝申し上げます。本当にありがとうございました。 そして、私どもの希望を全て反映した形でこの第三者調査委員会を組織していただいた越市長を はじめとする大津市役所の方々。滋賀県警の調査にもご協力いただきながら、この第三者調査委員会の 調査にも進んでご協力いただきました同級生の方々と保護者の方々に対して、この場をお借りして 感謝を申し上げたいと思います。本当にありがとうございました。 今回ここまでたどり着くことができたのは、中学校の生徒さんたちが書いてくれたアンケートの おかげです。息子は本当に喜んでいると思います。そして皆さんに天国から今「同級生の人たちに 助けてもらった。ありがと」と言っていると思います。 口をきくことができなくなった息子と、日本全国で今現在もいじめに苦しんでいる子ども、そして 息子と同じように死を選んでしまった子どもたちに代わって本当に必死に、そして丁寧に調査を していただいたと感じております。 先ほど、委員の先生方から説明を受けながら調査報告書を読ませていただきました。 率直な感想といたしましては、「やはり息子は学校に見殺しにされたのだ」ということです。 滋賀県警で押収された資料を初めて目にした時、子どもからはいくつものサインが出されていた ことを知りました。しかし、それに対して現場の先生方は気付かなかった? 気付いていたが 問題視しなかった? 気付いていたが見て見ぬふりをしていた?
★「息子は学校に見殺しにされた」自殺した生徒の父親会見 2 おそらくどれも当てはまると、先生方はおっしゃられると思いますが、私は見て見ぬふりを していたとしかとれません。 息子から発せられていたいくつものサインにどうして気付いてくれなかったのか。どうして 私たち親に伝えてくれなかったのか。 ここ数日来、息子が亡くなる直前のことを思い返していました。 なぜ学校に相談に行った時に息子の周りに起きている情報を伝えてくれなかったのか。 些細(ささい)な情報でもいい、少しでもそれらが聞けていれば息子を助けることができた のではないのか? 担任の教諭は私に言いました。「過去にいじめにあったことがある」と。であればなおさら息子の 置かれていた状況はご自身の過去の体験から想像できることは明白だったはず。なのにどうして 息子を助けてくれなかったのか。子どもの命を預かっているといった意識が全く欠けているのではと 思わざるを得ない。 息子が亡くなってから本日までの学校・教育委員会の対応を振り返って感じることは、常に 後手後手の対応であり、自らを律するといった姿勢は全く感じなかった。 「家庭の問題に原因がある」とマスコミに公言されても、「学校に問題があった」として今回 でてきたような学校内での教師の対応の不手際について遺族が知る前に自ら報告をしていただく ことはなかった。 事実がマスコミなどから明らかにされてからそれを釈明していく姿しか見せてもらえなかった というのが実感です。 県警の強制捜査が入らなければ、事実を明らかにすることはできない。真に中立的な第三者調査委員会が なければ真相の究明はできない。自ら不利になるような事実を公表することはしない。 これが今の学校・教育現場の現状であることがわかりました。 ここ数日来問題となっている体罰問題についても同様です。学校で意図的に隠蔽(いんぺい)されれば、 保護者は何が学校で起きているのか知る由がない。組織的に隠されれば、その市の首長・議員の方でも 学校内の情報を手に入れることができない。自ら公言してくれなければ事実が明らかにされることはない。 全く見えない。それが学校現場の現状なのです。
★「息子は学校に見殺しにされた」自殺した生徒の父親会見 3 「隠蔽(いんぺい)さえしていれば学校が問題視されることはない」。これが学校現場での定石なのです。 今回、滋賀県警や第三者調査委員会にここまでしていただいている大津のケースはとてもまれなのです。 学校・教育委員会についての可視化は、今後絶対に必要なことだと考えます。 本日手渡された 報告書は200ページを超える膨大なものでありました。委員会の先生方が、大津だけの問題として ではなく、日本全国の学校現場に対して提言をし、今の教育現場を改善していきたいのだという 強い思いが込められた報告書だと思います。 ここに書かれている提言については、学校関係者をはじめ、教育委員会、各行政機関、文部科学省、 そして日本全国の生徒の方々や保護者の方々に広く読んでいただき、今抱えている教育現場における 「いじめ問題」について深く考えていただきたい。 そして本日より、1人として尊い子どもの命が失われることのない世の中、「いじめ」に不安を 抱えて学校に行く子どもがいない学校にしていくための報告書にしていただければ幸いです。 必ずそうあってほしいと強く熱望いたします。 この第三者調査委員会の報告書を受けて、学校・教育委員会は何を非と感じ、そこにはどのような 責任があり、そして何を反省しなければならないのかはっきりと明言して答えていただきたい。 そしてそれを踏まえて今後どのような改善が必要なのか公言していただくことを強く要望いたします。 それができない限り、子どもとの信頼関係を取り戻すどころか、教育者としては失格だと考えます。 そして出された報告書が今後のスタンダードなものとなり、いまだに未解決な日本各地のいじめ問題に 流用されることを切に望みます。 そして何度も申し上げますが、「いじめ」とは常に「死」につながる危険な行為であること、 「犯罪」であることを、教師といじめを行っている子どもたちは認識してください。
★「息子は学校に見殺しにされた」自殺した生徒の父親会見 4
物理的な暴行や傷害だけで無く、精神的な苦痛を与える無視や暴言、誹謗(ひぼう)中傷についても
死に至らしめることを学校現場で教師の方々は教えてください。子どもたちと一緒になって、
いじめの無い、世界中で一番安全で、安心のできる場所にしてください。
本日第三者調査委員会より報告書はいただきましたが、まだ裁判は続いております。今後司法の場で、
今回出された委員会の報告書を受けて、「いじめと自殺には因果関係があるのだ」との見解をはっきりと
判決にて明言していただくことを望みます。
いじめと自殺には必ず因果関係があるのだとした見地に立たない限り、決して真の改善策は
打ち出せないと考えているからです。
最後にマスコミの皆様にお願いです。今回この報告書の内容を広く日本全国の方にお伝えして
いただきたい。何が問題で何が原因なのか。この大津のいじめ問題をただの取材のネタとして取り扱う
のではなく、ジャーナリストとしてこの問題をどのように伝えていけばいじめ問題は無くなるのか。
各社の考えをしっかりと持った上で、今回委員の先生がこの問題に向き合っていただいた同じ姿勢で
取り扱っていただきたい。
マスコミの方にはその役割があると信じています。政治だけでは解決できない。司法だけでも
解決できない。マスコミの力が必要なんです。今後も一緒になってこの問題解決に当たって
いただければ幸いです。
子どもたちを助けてあげてください。本当にありがとうございました。
朝日新聞 2013年1月31日22時46分
http://www.asahi.com/national/update/0131/OSK201301310073.html
【自殺報告書】大津市だけの課題ではない 1 高知新聞 2013年02月02日08時08分 大津市の中2男子自殺で、市の第三者委員会が、いじめを自殺の直接的な要因と認める 最終報告書を市に提出した。 調査委員会による児童生徒の自殺の報告書は、いじめとの因果関係をあいまいにする例が多く、 再発防止につながりにくかった。「被害者の視点」を重視し、粘り強く真相に迫った大津市の ケースは、自殺の背景調査の在り方に一石を投じるものだ。 学校でいじめが起きる背景には共通点が多い。提起された課題を各学校のいじめ対策に生かしたい。 大津市の第三者委は、関係者56人への62回に及ぶ聞き取りと膨大な資料を基に、「自殺する前の 約1カ月間に、仲のよかった同級生2人から19件のいじめを受けた」と認定。複数の教員がいじめの 可能性があると判断しながら、学校がいじめと認知できなかったことに、強い疑問を呈した。 教員に対する、「一つの問題を『担任まかせ』にするのではなく、みんなで考え解決する職場づくりを 目指したい」という提言は、再発防止へ教育現場全体が共有すべき教訓だろう。 第三者委はここ数年、各地で設置され始めているが、委員の氏名すら公表されないなど 「公正中立」が疑問視される例もある。委員の人選などで遺族側に配慮した大津市の対応は異例といえ、 公平性の確保でもモデルケースとなり得る。
【自殺報告書】大津市だけの課題ではない 2
一方で、調査には限界もあった。市が自殺原因を考察するため第三者委を立ち上げたのは昨年8月だ。
この時点で、2011年10月に生徒が自殺してから既に1年近くがたっていた。
事実関係の正確さが問われる調査において、対応の遅れは大きな障壁となる。今後、第三者委を
設置するケースは増えていくとみられている。より早い段階で真相究明に着手するためには、
学校や教育委員会が「事なかれ主義」と決別できるかが問われてくる。
大津市の男子自殺が社会問題となったことなどを受け、文部科学省と警察庁は、犯罪行為を伴う
いじめに連携して対応していくことを確認した。政府は「いじめ防止対策基本法(仮称)」の成立を
目指している。高まった関心を一過性のものにしてはならない。
「いじめとは常に死につながる危険な行為であり、犯罪であることを認識してほしい」―。
自殺した生徒の父親のコメントを胸に深く刻みたい。
高知新聞 2013年02月02日08時08分
http://www.kochinews.co.jp/?&nwSrl=298435&nwIW=1&nwVt=knd
330 :
名無しさんの主張 :2013/02/05(火) 02:57:03.86 ID:Uwtd3xWQ
体罰問題も村社会が引き起こしたとも言えるな
331 :
名無しさんの主張 :2013/02/05(火) 13:52:19.70 ID:AkB/Vpa7
常連客が作ってしまう、群れ→村
★合理性を重視しない日本の組織には見切りを付けたい 1 風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る 2013-02-25 ■日本航空の再生・再建についてのお話 先週金曜日(2月22日)に、私の会社が所属する、国際企業法務協会*1の月例会において、 日本航空の更生・再建に関わった、同社法務部の小林部長のお話があって、非常に面白かった。 日本航空と言えば、一時期は再建は不可能とみる人も少なくなかったし、再建されたとしても、 当面国営航空会社(100%国営化)としてしかその名を残すことは難しいと思われていた (失礼ながら私もそう思っていた)。ところが、蓋を開けてみると、上場廃止からわずか 2年8ヶ月で再上場をはたし(史上最短)、再上場後初の決算である、平成24年9月期 中間連結決算では、営業利益で過去最高を更新したというのだから驚きだ。 ■経営組織・人事制度の改革 いくつもあった興味深い施策のお話の中でも、特に印象的だったのは、新しい経営組織と人事制度に まつわるエピソードだ。かつての日本航空と言えば、職種別に存在する労働組合の力が強大で リストラはもちろん労働条件の切り下げはいっさいできず、官僚的な年功序列で大量の役職者が 滞留していて、上位の役職者は実力より派閥内の論功行賞で決まる、というようなことが (特に業績が悪化して以来)盛んに取りざたされていた。 プレゼンターの小林部長は、ずっと前からこのような状態を改革したいと考えていながらどうしても 出来なかったのが、今回のように本当に『日本航空』の名前が消えてしまうというかもしれないという 瀬戸際で、やっと改革が実現できたと感慨深げに語っていたのが大変印象的だった。これほどの 改革ができるのなら、会社がつぶれかかるのも悪い事ばかりではないというのは本音だろうし、 それはまた、今まで如何に改革が進まなかったかという苦い思いの裏返しでもあるだろう。
★合理性を重視しない日本の組織には見切りを付けたい 2 ■つぶれる間際まで改革はできない いずれにしても非常に面白い話ではあるのだが、私はそれを少し複雑な心境で聞いていた。 旧来の日本の組織というのは、結局ここまで追い込まれないと変わらないということをあらためて 見せつけられた気がしたからだ。輝かしい栄光に包まれた日本航空がまさかつぶれてしまうような ことになろうとは、全盛期を知る私にとってはとても信じられないものを見る思いだったが、今の 日本では、過去の栄光が如何に華やかでも、つぶれてしまったり、身売りしたり、存続ギリギリ という企業がすごく多い。しかも、自主的な経営改革も組織改革も進まず、まったく展望が 見えない企業があまりに多い。このような見た目は生きているように見えるが実質的には死んでいる 企業を称して、ゾンビ企業と呼ぶ人がいるが、まさに言い得て妙だと思う。こういう企業では 『合理性』や『理性』は消え失せ、自力で生きることはできないため、目先の存続のために他者 (政府、グループ企業、従業員等)の生き血を吸い、肉を食らい尽くす。そのような状態で 長らえることに比べれば日本航空など、幸福な一例と言えるのかもしれない。 ■日本は近代化に失敗したまま 今の私は、ゾンビ状態の企業を内側から見る機会に恵まれ(?)ているため、ここで何が起きているか しっかりと観察することができる環境にいるが、日本人がつくる組織というのは、企業でも政府でも 官僚組織でも、旧帝国陸海軍となんら変わらないことを身を切られるような思いをしながら再確認 しているような気がする。3.11以降の原発事故をめぐる一連の騒動、政府や官僚の利己保身と 利益誘導ばかりの行動パターン、空気と煽動に支配された選挙などを見て、評論家の大塚英志氏が 最近また『日本は結局近代化に失敗したまま』と繰り返し主張しているようだが、企業経営を内側から 見てみていても、まったく同じことを感じてしまう。例えば、補給も確保せずに、将兵を戦線に 送って大量の餓死者を出したインパール作戦を指揮した旧帝国陸軍の牟田口中将のことを調べていると、 ほとんど同じようなメンタリティーの持ち主を現行の組織の中にもいくらでも見つけることができる。
★合理性を重視しない日本の組織には見切りを付けたい 3 残念ながら一度は世界を席巻したはずの日本企業の内側も、実情は昭和初期の頃の組織とほとんど 変わりないと言うしかない。 ■日本の組織は合理性を重視しない これも社会学者の宮台信司氏の受け売りということになろうが、本当に日本の組織には、構造的に 『合理性を重視しない』という特性が織り込まれているとしか思えない。誰が責任者かまったく わからない。結果責任という意味では、何であれ経営者に責任があるということになるはずだが、 責任を追求すること自体がタブーとされる空気でもあるかのようだ(オリンパスの例などまさにそうだ)。 そもそも誰が責任者なのかわからないことのほうが圧倒的に多い。合議で決まった後に、一人一人に 意見を聞いてみると、『空気にあらがえないから何も言わなかった』『とても言い出せる空気では なかった』と口を揃える。中期経営計画等で何かを決めたところで、その通りに遂行されないことは 誰もがわかっている。では、何のためにそれを作るのかと言えば、習慣になっているからという 程度のことでしかない。(いわば、お正月なのだからお餅を食べてお屠蘇を飲もうマインドとさほど 変わらない。)変わる可能性があるとすると、唯一、日本航空のように会社がつぶれかかった 瀬戸際ということになるが、それでも変わらない会社のほうが実際には多いのではないか。 ■唯一多少違っていた自動車会社 今にして思えば、自分のキャリアの中で唯一、多少なりとも他とは違っていたのは、最初に入った 自動車会社だった。あくまで私が体験した範囲では、という前提だが(実際、部署によってかなり 大きな違いがあったようだが)、そこでは、仕事の場での決定と施行については、皆、非常に 合理性にこだわっていた。企画や計画の策定にあたっても、非常に現実的かつ合理的だし(抽象性は 排除されるし)、一度決めたら、妥協は許されず、愚直に実行することが求められる。言い訳は 一切通用しない。出来るかできないか、やるかやらないか、その中間はない。普通の日本人の 常識から言えば、明らかに『非常識』と感じられる行動特性がそこにはあった(そして、業績は 他社と比べると圧倒的に良い。)
★合理性を重視しない日本の組織には見切りを付けたい 4 それは、その後他の業種、他の会社を経験するようになってやっとわかったことだ。 『そこまで人を追いつめなくても・・』『言い訳にも多少の理はある』『そこまで突き詰めると スピードが落ちてしまうのでは?』等、普通の日本人の常識をそれなりに刷り込まれた私には、 やはり非常に違和感があった。だが、最初の会社ということもあり、それが普通なのかと思っていた。 いわゆるブラック企業と、境界線はかなり近かった印象もあるが、『合理性』にはこだわりがあった。 出来ない事ではなくて、本当に出来ることしか目標には据えられなかった(もちろんそれでも 目標は非常に厳しかった。)明らかに、『日本離れ』しているといつも感じていた。 ■小さな組織単位なら改革の余地はある その経験があるから、国というような大きな括りでは無理でも、企業組織(できれば小さいほうがいい) 単位くらいでなら、こういう日本離れした社風を作ることで、成功することができる可能性はあると 今でも思えるし、その点は悲観していない。だが、一旦『日本の組織の常識』が染み付いてしまうと、 これを変えることはすごく難しい。残酷なようだが、やはり若くて頭が柔軟なうちにきちんと 教育しないことには、身に付かないのかもしれない。私の先入観も多分にあるが、既存の日本の 大企業の大部分が望み薄に見えてしまうのも、『日本の組織の常識』が浸透しすぎていて、今だに 日本の経営者や上級役職者はさほど仕事がないのに権限は強く、そのわりに責任は取らず、 居心地のいいポジションを守ることばかりに汲々としている事例が多過ぎるからだ。
★合理性を重視しない日本の組織には見切りを付けたい 5 ■日本の旧来の常識につきあう暇はない 明治の元勲大久保利通は、若い頃、島津久光に取り入るために囲碁を覚えたというエピソードがあるが、 かつて私が最初に社会人になった頃など、この種の心得は多かれ少なかれ常識だった。ゴルフ、麻雀、 カラオケ、囲碁、将棋、果ては詩吟や長唄なんていうのまであった。仕事ができるというのはこういう スキルで上司に取り入り、客に気にいられ、空気を読むことにたけていて、人間関係を良好に保つ ことができる、ということを意味した。自分が目立ちすぎて他人から嫉妬されないようにする、 というのも重要な教えだった。田中角栄元首相など、地元の後援者の家族や親族の構成まで赤鉛筆 片手に日々一生懸命覚えていたという。こういう類いのスキルに長けていなければ、仕事の成果を 得ることなど期待できないし、小賢しい業務上の合理性ばかり振り回すのは『子供の所行』という のが常識だった。こんなメンタリティーは基本的には変えることは難しい。少なくとも、もう 変えることは無理と考えて、それでも出来ることを考えた方が生産的と言わざるをえない。 ■開き直り 良い悪いではなく、現実的に自分の残された時間を少しでも有効に使うには、次のように開き直る ことが賢明だと思うようになってきた。 1. 日本全体(会社全体等でもそうかもしれない)を一度に良くする というようなことを語ることは意味がないのでやめる 2. 他人(政治家、政府、官僚、経営者等)にお願いしたり期待することは 効果がないからやめる 3. 自分で掌握できる範囲で、自分自身ができることを最大限やる
★合理性を重視しない日本の組織には見切りを付けたい 6
■本当に賢明なのはどちらなのか
最近、同様の考えを語る人がすごく増えている。先週の記事で取り上げた、思想家の東浩紀氏、評論家の
岡田斗司夫氏も実は対談の最後に同様な覚悟を語っていた。私塾のようなものを作って教えている
人も実に多い。組織で勝ち上がるために『日本の常識』の達人になって、その組織のトップグループに
入って、やりたいことをやれるまで我慢する、というのでは、自分がトップに立っても、語るべき
言葉の蓄積もなければ、情熱もしぼんでなくなってしまうだろう。結局、その地位と権利を守ることに
汲々とすることになってしまいかねない。それよりも今は、自分と価値観が共有できる人とともに、
語るべき思想、かたるべき言葉を積み上げていけるような実践をすることのほうが、将来投資としては
質が高い。しかも、そのためにこそ、インターネットは非常に役に立つインフラとして最大活用
できるはずだ。そういう意味ではかつてないほどにインフラは充実している。そして、日本航空の
小林部長のように、チャンスが巡ってくれば自分が蓄積してきたものを一気につぎ込んで、所属する
組織そのものを蘇らせるようなこともできるかもしれない。
風観羽 情報空間を羽のように舞い本質を観る 2013-02-25
http://d.hatena.ne.jp/ta26/20130225
★「内部告発後に解雇、不当」 大王製紙元社員 地位確認求め提訴へ
内部告発後に降格処分となった末に解雇されたのは不当だとして、
大王製紙(愛媛県四国中央市)の元課長の男性(50)が、
社員としての地位確認や慰謝料などを求める訴えを東京地裁に起こす方針を固めたことが17日、
関係者への取材で分かった。
関係者によると、大王製紙経営企画部に所属していた男性は昨年12月、
タイの現地法人で重大な法令違反がある▽中国の現地法人でも設立の手法や手順に不備がある
−などとする内部告発の書面を金融庁や東京証券取引所に提出した。
その後、男性は今年1月1日の辞令で人事部付けに異動。
2月1日には「業務上知り得た秘密を漏らした」などとする理由で役職を降格となり、
北海道赤平市にある関連会社の営業所長として転出する辞令が出た。
男性は2月1日以降、出社を拒否し、3月11日付で無断欠勤を理由に懲戒解雇となった。
男性側は「コンプライアンス違反が目に余るために内部告発を行った」と主張。
「告発行為を理由とした処分であることは明白であり、公益通報者保護法にも抵触する」として、
大王製紙側が行った降格処分や人事異動は不当だとしている。
大王製紙は「個人情報につながってくるので、詳細は話せない」などとしている。
産経新聞
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130318/trl13031802210000-n1.htm
★内部告発者 1 政治経済のリアルワールド〜梅澤くんでも解る世界事情〜 2011年05月23日 亡き筑紫哲也氏の番組で東電の日系アメリカ人技術者の内部告発を取り上げた報道があります。 巻末にURLがありますのでご覧ください。 この内部告発という問題を見る限り、日本の現在のシステムが立ち行かなくなった原因が明らかに なっていると思われるのです。 今回の東電という日本の産業界の頂点に君臨する組織が、いかにして現在のような事故を引き起こし、 さらにそれに適切に対応する事が出来ず、もがき苦しんでいるのか、さらに自分がもがき苦しむのは 自業自得であり、勝手にやってろとなるのですが、それにより、国民に対してもあまりに多くの 犠牲を強いているという現実が、現在の日本のすべての問題を東電はあぶり出していると思えるのです。 日本で内部告発の問題が顕著になったのは、ビッグバンという金融自由化が行われた後からなのです。 それまでの日本社会では内部告発というのはタブーであり、その行為は道徳、倫理に触れる裏切り 行為であるとされていたのです。 それがなぜ、金融自由化と共にそのような事が行われる様になったのか。 それは株式資本主義社会では、ある意味至極当然の事なのですが、日本は未だ近代と言える社会構造に なっていない為、欧米でいうコンフリクトインタレス(利益相反)という概念がまるで無いせいなのです。 この利益相反とは判り易く言うと、小売りの店舗の役員が問屋の役員も兼ねるような事をいうのですが、 日本では驚くべきことに一部上場の大企業でさえ、皆平気でこのような構造をもっているのです。 つまり、小売りの利益と問屋の利益は相反するわけですが、相反する企業に同じ人間が役員に収まる と言う事は、欧米社会では考えられない、商業倫理違反であるわけですが、そういう私も長い間 そのような会社を経営していました。 それは日本社会では当たり前の事であったからです。 さらにそれを官僚が天下りで拍車を掛けます。 監督官庁の役人が監督先の民間へ天下りするなど、もっての他であるのです。 そこに株式資本主義の権化である、国際金融資本が乗り込んできたわけですが、株主の不利益は 内部告発をしても排除するというのは当然であったわけです。
★内部告発者 2 日本が国家としての形態を整えたのが明治維新であったわけですが、当時、脱亜入欧政策により アジアでは唯一国家(タイ王国も)という中央集権体制を作る事に成功したのです。 その後、日本人のアイデンティティーは、それまでの村社会という共同体から国家という共同体に 属するようになったのです。 それが第二次世界大戦終了まで続く事になるのですが、人間は共同体に属していないと存続が 難しいのです。 敗戦と共に解体されてしまった国家の変わりに日本人が求めた新しい共同体が「会社」 であったわけです。 かくして米ソの冷戦構造の漁夫の利を得た日本は、この会社という共同体の中で企業戦士として 世界を席捲する大成功を収めて行ったのです。 若い世代は御存知ないと思いますが、一時期日本人はエコノミックアニマルと蔑まれた事さえ、 やっかみであろうと意に介さず突き進んできたわけです。 しかしここで日本は、世界からみると、とても奇異な国家になって行ったのを気が付かなかった のですが、それは企業の単身赴任の問題や終身雇用制やサラリーマンという職種の誕生や 専業主婦という職業の誕生です。 専業主婦という職業というと奇異に聞こえるかもしれませんが、人類の長い歴史からすると、庶民の 女性が主婦業だけで生活できるという時代は日本のこの時代が初めてではないかとされています。 そして定年までひとつの会社を勤め上げ、退職金をもらってのリタイヤとなるわけです。 単身赴任も日本では当たり前だった制度ですが、おそらく欧米にしてもアジアにしても民主主義を 標榜する国家では有得ない制度であったと思われます。 この様な制度の中から企業戦士と言う言葉が生まれて来たのです。 企業に属する事は、正に企業という軍隊に属し、ライバル企業との競争は戦争であるという規範に なったのです。 戦争であり、軍隊であれば、妻子を残し夫は単身で戦場(職場)へ向かうのが当たり前である、 という事です。 そこから日本では、企業の内部と、外界との二重規範が存在する国家になってしまったのです。
★内部告発者 3
さすがにバブル崩壊からの日本崩壊過程を経験してきた若い人達の間では少なくなってきた
規範ですが、今なを、日本という国家の中枢を占めているのが、これらの二重規範であるのです。
これは国家の法律より企業内の規律が優先するという、深刻な二重規範なのです。
これは官僚の世界もまったく一緒で、霞が関の規範がすべてに優先しているのです。
霞が関に至っては憲法にさえ優先しているといっても過言ではありません。
今回の東電や霞が関の事故後の対処などを見る限り、まさに国の法規より企業、官僚の規範が
優先するという、二重規範の害毒が蔓延してしまっているのが顕著なのは誰の目にもあきらか
でしょう。
告発したGEの日系技術者は米国では当然である内部告発をGE本社へ通告しますが、GE本社は
まったく受け付けず放置したといいます。
日本の原発など自分達の利益さえあれば後はどうでもいいという態度だったと想像します。
おそらくケイ・スガオカという日系人の告発にGE本社は「ジャップなんかどうなってもいいんだ。
首にするぞ!」と脅したでしょうが、それにもめげず告発したケイ・スガオカ氏のそれは、
やはり日系の血がそうさせたのではないか推測します。
しかしそれに対する日本側の対応が、原子力安全・保安院は、内部告発者を保護するどころか、
ケイ・スガオカ氏の実名を東電側に通報。
彼は命の危険を感じるほどの圧力にさらされることになってしまったのです。
まさにすべてが共犯者たちであり、この内部規範だけで日本を牛耳る輩を一掃しない限り、
この国に最早未来はあり得ないのです。
http://youtu.be/fBjiLaVOsI4 政治経済のリアルワールド〜梅澤くんでも解る世界事情〜 2011年05月23日
http://blog.livedoor.jp/jproject/archives/51789972.html
342 :
山梨のしきたりはカルト :2013/03/21(木) 21:42:06.39 ID:OuJgTjGA
これぞ山梨、癒着隠蔽社会主義を地で行く反社会的県民性。
多くの山梨土着民にはこれが当然のことなんでしょ?
9 名前: 名無しさん@レベル300 投稿日: 2013/03/19(火) 01:00:01.02 ID:GBTdSn2f
【社会】「携帯履歴提出を」内部告発者捜し「処分するつもりだった」…山梨の消防
http://uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1363618769/ 「携帯履歴提出を」内部告発者捜し…山梨の消防
読売新聞 3月18日(月)22時18分配信
山梨県甲州市の東山梨消防本部が、職員の情報提供から不祥事が報道されたとして、
全職員に個人の携帯電話の発信履歴明細を提出するよう求めていたことが18日、
同本部への取材で分かった。
同本部は「告発者を処分するつもりだった」としており、
識者からは「告発者を保護する公益通報者保護法の趣旨を
理解していない」との批判が出ている。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20130318-00001087-yom-soci 同本部などによると、男性職員が同市内の観光果樹園でアルバイトをし、
副業を禁じた地方公務員法に違反したとして1月下旬に訓告処分を受けた。
処分は未発表だったが、地元テレビ局が2月14日に報じたため、
楠照雄消防長は翌15日、全職員を集めて「告発者に転職を勧める」と述べたうえ、
今月12日には「通話履歴を調査する。行為者以外の職員は身の潔白を証明するいい機会」
という内容の文書を配布した。
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最終更新:3月18日(月)22時18分
★ホリエモンと一票の格差に見るルール皆無の日本社会 1 つぶやきかさこ 2013年 03月 27日 日本は法治国家でも契約社会でもない。 その時々の権力者の気分によって、 法はいくらでも恣意的に解釈され、 ルールを適用したり適用しなかったりし、 事前の契約もなく、契約したところで平然と反故される。 ホリエモンが仮釈放されたが、 なぜホリエモンが逮捕されて、 日興コーディアル証券の経営幹部は逮捕されなかったのか。 粉飾決算だとかいって、 検察が大々的にライブドア、ホリエモン狙い撃ちで、 強制捜査をしたわけだが、 その当時、新興市場のベンチャー企業に過ぎない、 ライブドアの50億円不正会計どころか、 東証1部の証券会社が187億円にのぼる不正会計を行っていた。 しかしその証券会社の経営幹部が、 ホリエモンのように逮捕されることも収監されることもない。 社会的な影響度で考えれば、 新興市場ではなく東証1部企業、 しかも株式を取り扱う証券会社が、 不正会計を行っていたなんて、 言語道断、許されない犯罪行為のはずなのに、 上場廃止されることもなければ、 経営幹部が逮捕されることもなかった。 しかし日興の1/4程度の不正会計なのに、 ライブドア社長は逮捕されるという、 極めて不公平・不可思議、恣意的といえる刑罰が行われた。
★ホリエモンと一票の格差に見るルール皆無の日本社会 2 そういえばつい昨今では、 野村證券が増資インサイダーをしていたことが発覚した。 証券会社として株式市場の信認を揺るがす重大犯罪なはずだが、 こちらもトップが単に辞任しただけで、 ホリエモンのように逮捕されることも収監されることもない。 なぜホリエモンだけが逮捕され、 証券会社の不正は刑事罰が課されないのか。 端的にいえば権力側にとって気に食わない奴は、 10kmのスピードオーバーだろうが刑務所にぶちこみ、 40kmものスピードオーバーした違反者がいても、 権力側の「お友達」なら何のお咎めもなく済まされる。 こんなんだったら法律なんてあってもなくても同じだ。 一票の格差問題もひどい。 国を運営する上で最もベースとなる憲法に違反しているのに、 無効にならないというのはどう考えてもおかしい。 無効判決を出さなかった裁判所は、法の番人にもかかわらず、 「憲法に違反してもいいですよ」とお墨付きを与えたようなものだ。 だったら憲法なんていらないじゃんって話だ。 日本社会は明文化された法やルールや契約に沿って、 それを厳格かつ適正に運用するという観念がまるでない。 今、「ノマドと社畜」という本を読んでいるのだが、 非常におもしろい指摘をしている。
★ホリエモンと一票の格差に見るルール皆無の日本社会 3 ・・・指摘している内容の概略・・・ 日本にフリーランサーが根づかないのは契約社会でないから。 イギリスなどでは契約が社会に根づいており、 仕事の発注元と仕事を請け負うフリーランサーが、 仕事内容などについてことこまかく契約を結ぶ。 客先で他の人の仕事を無償で手伝ったりすることはあり得ないし、 ましてや雇う側が取り決め以外の仕事を押しつけたり、 無理なことを要求した場合には裁判になる。 ・・・・・・ 私が2年前に書いて1万リツイート以上された記事、 「サラリーマンは自営の気持ちがわからない」でも指摘したが、 日本はあいまいな頼み方が多く、 仕事範囲やその対価が判然としない。 不正会計を行った企業への刑罰しかり、 憲法違反の選挙をめぐる対応しかり、 仕事の発注の仕方とってもしかり、 明文化されたルールがあっても、 その通りに運用するとは限らず、 その時々で立場が強いものが恣意的な解釈を行う。 法も契約もルールもみんな建て前のお飾りに過ぎず、 実際な建て前無視で権力側の都合のいいように、 物事が推し進められている。
★ホリエモンと一票の格差に見るルール皆無の日本社会 4
結局、日本は未だ法も契約もルールもないムラ社会なんだと思う。
グローバル化の波が押し寄せても競争に勝てるわけがない。
だってルールがないんだから。
同じ土俵に立てないわけです。
だから日本だけガラパゴスだなんていって取り残される。
今のようにとりあえず建て前だけルールを整備しても、
ルール違反を恣意的にスルーする運用が行われているのでは、
ルールの意味をなさない。
選挙にしても犯罪者への刑罰にしても、
仕事の発注の仕方にしても、
きちんとルールにのっとって、
公平・公正に運営しなければ、
社会の歪みや閉塞感はどんどん高まっていってしまう。
まともなルールの運用を。
いい加減、日本も近代国家に生まれ変わるべきだと思う。
http://kasakoblog.exblog.jp/20010584/
八巻正治教育学博士の活躍の一端として本の紹介をするね。 八巻 正治・八巻 益恵 共著の名作 書籍名君は麦畑の風の中を−さわやか福祉へのまなざし 著者名八巻 正治・八巻 益恵 著者紹介 夫 八巻正治:順天堂大学、青山学院大学、東洋大学、立教大学大学院卒。ラブリー・チャペル牧師。 妻 八巻益恵:東京基督教短期大学、玉川大学卒。ラブリー・チャペル福音伝道師。 発行社樹心社 総頁数202 定価・頒価1600 発行日平成04年05月20日 1992
★世田谷保健所が内部告発情報を漏洩 業者、告発者を即日解雇
MSN産経ニュース 2013.4.20 01:30
内部告発を受け弁当製造配送業者の抜き打ち検査を行った世田谷保健所(東京)が業者側に告発
の事実を漏らし、通報したパート勤務の女性(55)が検査当日に解雇されていたことが19日、
関係者の話などで分かった。公益通報者保護法のガイドラインは、告発に伴う調査について
「通報者が特定されないよう十分配慮する」と規定。消費者庁消費者制度課は「告発者が容易に
特定される情報の漏洩は、規定に抵触する可能性がある」としている。
女性は解雇無効などを求める訴えを東京地裁に起こしている。訴状などによると、女性は弁当製造の
衛生管理に問題があるとして昨年12月上旬、世田谷保健所に通報。保健所は同月下旬に抜き打ち
検査に入った。業者側は検査終了後に内部告発者を調べ、事実を認めた女性は即日解雇された。
取材に対し業者側は「以前から女性の勤務態度には問題があり、解雇は適法」と主張した上で、
内部告発を把握した経緯については「保健所の検査員から聞いた」と説明。女性も「検査員が
業者側に話しているのを見た」としている。
同保健所は「個人情報に関わるため答えられない」としている。
「公益通報支援センター」(大阪市)の事務局長、阪口徳雄弁護士は「小さい事業所なら、氏名を
言わなくても告発者が特定されやすい。告発対応に慣れていない機関にありがちな、お粗末な調査だ」
と指摘。「告発者を守る意識が社会で徹底されなければ、公益通報制度は機能しない」と訴えている。
◇
公益通報者保護法 一定の要件を満たす内部告発を「公益通報」と位置づけ、告発者に不利益な
処分を下すことを禁じる法律。三菱自動車のリコール隠し、雪印食品の牛肉偽装などが内部告発で
明らかになったことを受け、平成18年4月に施行された。一方、消費者庁の調査では告発をためらう
理由として「職場に通報を知られる不安」が最も多く挙がり、制度運用に課題を残している。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/news/130420/trl13042001310001-n1.htm
349 :
髪 :2013/04/23(火) 09:08:21.11 ID:sI8WsXGi
欧米の市民社会を考える場合、唯一神Godとの関連性も省みられるべきでしょう Godと個人の一対一の対峙のなかで、その肯定・否定あるいは超克により市民が生まれたものと考えます ひるがえって、本邦は神様仏様キリスト様、山の神あれば海の神ありの多神教の国です 従って、日本においては日本型の近代市民社会の成立しか望めないのが現状でしょう それは、各人が神(仏の心と鬼の心)に成るということ 別の言い方でいえば、各人がムラの村長(むらおさ)に成るということです 自らが神であるということは、緊張をともなうことですし孤独を味わうこともあるでしょう しかし、それは欧米市民とて同じことではないでしょうか? 神を信仰する市民は、常にGodの監視下にあるということで緊張しているでしょうし 神観念を否定・超克した市民は、Godの庇護を受けられないという点において 緊張状態のうえに孤独も感じているでしょう そういう緊張感・孤独感に耐えられない者は、従来どおり ムラ社会の集団主義・相互依存の中で生きていくしかありますまい
350 :
髪 :2013/04/23(火) 09:09:21.54 ID:???
無論、生身の人間という実体にはなんら変化は無いわけですから 食わなきゃ飢えるし、寿命を迎えれば死ぬし、個人の能力の限界はあるわけです また、個人的迫力の違いからくる、上級神・下級神の格差は残るでしょう ですが、それは欧米市民社会とて同じことでは?、強い市民もいれば弱い市民もいるということで 具体的なあらわれかたとしては お互いの人格(神格)をおそれ敬い、紳士的に、あるいは礼儀をもって 関係性を築きあうというのが理想的でしょうな また、神なのですから、必要であれば自己の主張を堂々と述べるくらいのことはできないといけませんね 内心不満ながらも、「みなさんのおっしゃるとおりです」などと付和雷同するのはムラビトの証でしょう 年長者が、後輩・若輩を邪険にあつかう(例・シゴキ)などというのは ムラ社会の弊風のひとつでしょう 個人的には 実力もねえくせにイキがってる小僧は、ドヤシつけて脅しつけて性根叩きなおすつもりですし 大した場数も踏んでねえのに年上というだけでナメてくるオヤジは、威嚇・恫喝してビビらせてやるつもりですが まあ、命がけです 後段、余計な一文でしたな
351 :
髪 :2013/04/23(火) 09:10:08.79 ID:???
喫緊の課題は、欧米とくにアメリカの「パックス・アメリカーナ」を維持せんがための TPP戦略への対処となるでしょう 参加・不参加を問わず、日本は再び「開国」を迫られるのではないでしょうか? 日本は、外圧でしか変われないと言いますし アメリカからの交渉攻勢、勃興するアジア諸国経済に対抗していくには 日本国民それぞれが精神的にタフになっておく必要性があるのではないでしょうか?
352 :
髪 :2013/04/23(火) 09:10:53.48 ID:???
端的に言うと、日本人ひとりひとりが現人神になることによって 日本型の近代市民社会が創出しうるのではないか?、ということです ↑上記は、心理的側面を述べたものであり 従って、社会的側面・組織的側面で具現化する方法論は、私も持ち合わせてはおりません 課題でしょうな
353 :
髪 :2013/04/23(火) 09:11:41.45 ID:???
>>349-352 ↑
こんなこと書いてると、私もどこかの勢力から消されるかもしれないわけでしてw
以上の論旨に承服できないという方は
一精神病者の妄言として読み流していただきたいものです
354 :
髪 :2013/04/28(日) 04:02:11.79 ID:eJAeZJ6i
蛇足ですが、このスレの展開を眺め見るところ ヒト様や有識者・ニュースからの文章を引用する流れのようですが さながら、名無しのムラビトたちが神輿(コピペ)を担いでいるサマは 没個性・権威主義的・他力本願的・独創性の欠如をしめしており スレの進行そのものがムラ社会の様相を呈しているように 見受けられるわけです 蛇足の蛇足ですが、この板はageで書き込まないとIDがでないようですから ageで書き込みさせていただきました
356 :
名無しさんの主張 :2013/04/29(月) 10:37:41.20 ID:5N6kfx7b
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357 :
髪 :2013/05/14(火) 12:27:23.07 ID:lw1f6p9S
私見・ムラ社会の功罪(一枚の紙の表と裏) わが国が、一億三千万の人口を二十数万足らずの警察力でもって、これだけの治安をカバーできているのは 科学的捜査手法の進展や監視カメラ網の拡充によっての検挙率につながりやすいという抑止効果のほかに ムラ社会による個人の拘束という側面があるでしょう 例えば、ある会社の個人が犯罪を犯し、それが社名を含めて報道された場合、会社の看板にドロを塗るということですから その個人は、法的処罰及び社内懲戒という懲罰を受けるだけでなく 「アイツのせいでオレらまで取引先に顔を出しづらくなったぞ」というかたちで 社内でも白い目で見られるようになり、社内での村八分の孤立に追い込められ居づらくなるでしょう 会社という名のムラ(集団)から、孤立または排除されることは恐怖心につながるのではないでしょうか? このことは、今の若い人たちにも受け継がれていることでして 「シカトされる」「ハブられる」、その結果「ぼっちになる」という恐怖が 少なくとも仲間内の信義を裏切らないという行動抑制につながっていると思われるわけです 以上のように、犯罪など反社会行為に対して一定の抑止力を持つ点がムラ社会の功の部分といえましょう 対して、ムラ社会の罪の部分は一言でいうと隠蔽体質につながりやすい、ということでしょうか ある組織の特定個人が罪科を犯したときに、組織の体面を守り責任者の責任追及をかわすために 組織ぐるみ、いわば組織の個人全体が、あったことをなかったことに、またはなかったことをあったことにして 事実を覆い隠し、集団として共犯関係になってしまうということです また、ある組織が組織ぐるみで罪科を犯しそれが明るみになった場合、組織の名誉を守るために 特定個人に責任の全てを押し付けて、辞任なり自殺なりに追い込むのも隠蔽工作の手法のひとつでしょう これらのことは、表裏を成していると考えられますので、功の部分だけを伸ばし罪の部分だけを消し去るというのは 事実上困難と言わざるをえないのではないでしょうか
358 :
髪 :2013/05/14(火) 12:28:29.65 ID:lw1f6p9S
私見・「カミの目」と「ヒトの目」にみる近代(市民)社会の脆弱性 先に私は、欧米市民社会はカミGodとの関連で考えられるべきだと指摘してみたわけですが 一見、強そうに見える欧米市民は個人としてはGodからの恵みを期待しGodからの罰を怖れていると思われます そういう個人の内心からGodが消失し、カミの目を怖れなくなればどうなるのでしょうか? おそらく、アノミー?と言いますか、一種の心理的無秩序状態になるのではないかと想像します ドラッグ使用・エログロナンセンス・銃乱射などにみられる銃犯罪の多発などがその病巣の表れと思われます そこには、従来型のコミュニティ(←日本におけるムラにあたるものでしょうか?)の損壊も関わっていると推察されますが 私には在外経験などは無いので、アメリカなどのコミュニティの実態も知りえない立場ですから語る資格は無いでしょう 対して日本は、世間様の目(世間体)を気にせざるをえないムラ社会であったわけですが 大抵、会社というムラに所属している一方でありながら、都市化による市民感覚と地域住民という意識の欠如の影響で ヒトの目を気にならなくなった個人が、やはり心理的無秩序状態になり傍若無人な行動にでるのは当然の帰結です 卑近な例を挙げますと、通勤用電車内での飲食や化粧なおし・ケータイに視線を落としながらの歩行や暴走自転車などの 交通マナーの悪さなどにみられるのではないでしょうか
359 :
髪 :2013/05/14(火) 12:29:29.83 ID:lw1f6p9S
私見・市民と規範 農村で生まれ育った人は、村の掟・しきたりに疑いを持つことは少ないでしょう 代々受け継がれてきた慣習の中に生き、ほかの世界を知らないなら尚更です では、市民の規範に対する態度とは? ルールに渋々従うという受動的態度は市民のそれではありませんね 市民の自覚を持つのであれば、ルールは率先して守らねばなりません また、法やルールというものは、時代の変遷にともないしばしば陳腐化するものですから その際には、ルールの改変を求めて声を上げることも市民に求められる姿でしょう 対比でいうならば、規範について ムラ社会は、消極的・受動的・保守的 であり 市民社会は、積極的・能動的・進取的 であると思えます またまた蛇足ですが、ルールというものが組織のあり方を規制するのであるのならば ルールの改変を行うことで組織の変革を行いうるのもまた可なり、といえないでしょうか? この場合のルールとは成文法のようなものだけではなく 組織内部の人々が心理的に共有する内的規範も含まれうるでしょう
360 :
髪 :2013/05/14(火) 12:30:57.29 ID:lw1f6p9S
と、まあムラ社会に対して手厳しいことを書き込みすぎた部分があるので その長所短所を記して、一旦締めくくりとさせていただきます 長所 1・組織内部の団結力・結束力の強さでしょう 2・相互扶助・お互いの足らざるところを補い合い助け合える点でしょう 義理人情・親身親切のような言葉に表される点です 3・農耕民なのですから、狩猟民・牧畜民に比べて殺傷沙汰を嫌う平和的精神にあるでしょう 短所 1は組織力は強くても、部外者に対して排他的・攻撃的になりうる危険性をはらんでいる点 そして、組織の論理を優先したために個人の意見を圧殺するであろうところ 2は相互扶助が相互依存に転化すれば、互いにもたれあう甘えにつながりうるということ そこには無個性と責任を曖昧にしたための決断力・行動力の不足が生じやすいであろう点 3は平和的ということは戦下手ですから、イザという時にヒステリー調にながれるのではないか ゆえに、理知的に駆け引き上手に徹して勝利を得ることができないであろうということ また、平和的に波風立てずの態度では 結論を明確にしたがるであろう欧米人と交渉する際に不利にはたらくのではないかという点 長所を伸ばし、短所に至らぬように留意するのであれば 日本人の特質もあながち捨てたものではないと思えますがいかがでしょうか?
361 :
名無しさんの主張 :2013/05/17(金) 02:19:27.54 ID:iytuvaLM!
犯罪を捜査するのは警察の仕事。ムラ社会の仕事ではない。
362 :
名無しさんの主張 :2013/05/17(金) 02:21:38.58 ID:iytuvaLM!
あと、不倫 (犯罪ではなくむしろ文化) ごときで警察が処分されるのは、立派な人権侵害だな。 個人的な問題と社会的契約を混同するのがムラ社会の悪い点だ。
★ムラ社会を考えた時に、次におこすべき行動 1 一年で会社辞めたゆとり新卒ブログ 2012.07.29.Sun 歴史や社会なんかの時間に、「ムラ社会」っていう言葉を初めて知って。 けど、例えば空気を読まない人間を村八分にするみたいな話って、普通の生活しててもうないじゃん。 少なくとも都会ではありえないし、個人主義ってのが浸透してる。 と、思ってました。 この「ムラ社会」って、実は日本企業という組織で根強く息づいてるんだよね。 銀行に就職して強烈に感じたのが、この「ムラ社会」だった。 僕ははっきりと自分の意見があって、何をやるにしても自分なりにこうやってみたいっていうのが あるんだけど、それってムラ社会では全く歓迎されない考え方なんだよね。 生意気とか、空気を読めとか言われる。それって要するに 「みんなこれに従ってやってるんだから、お前も従え」っていう理不尽な強制力でしかない。 けど、建前上は、「自分の意見をしっかりいいましょう」になってる。 もうね、アホかと。 「お前らは奴隷なんだから給料が欲しけりゃ黙って従ってればいいんだよ!」 とはっきり言ってくれればこっちもスッキリするんだけどなぁ。 労働環境の改善のために、きちんと意見を言っていきましょうと上っ面では聞こえの良いことを 言っておきながら、いざ発言すると、「なんだこいつ…」感が半端ない。 西洋の社会制度では、「法と契約」が労働の基本概念だから、個人と企業の間で、利害関係が はっきりしているんだよね。 つまり、契約書に載ってないことは、一切やらない。むしろ、やってはいけない。 なぜなら、それは他の労働者の仕事を奪うことになってしまうから。 そして、企業は給料を従業員にくれてやってる立場だけど、 こっちは時間を削って働いてやってる立場なんだよね。 けど、ムラ社会の日本企業では、そうはいかない。 良く言えば、全員で助け合う。悪く言えば、無限に労働を課せられる。
★ムラ社会を考えた時に、次におこすべき行動 2 だから、能力が高い人ほど、損なんだよね。 僕は仕事は早く効率良く終わらせて定時に帰りたい派なんだけど、それをやっても、 「仕事早いねーじゃあこれもやって」となって、永遠に一日が終わらない。 期待されてるとか、評価されてるとか、 会社側は都合の良い表現をしてくるけど、だったらせめて給料あげろと。 日本人はだらだら仕事をするって言われるけど、そりゃそうなるわ。 ちょっとでも早く仕事を終えると、同じ給料で他人より多く働かされて、まして仕事に 終りが見えない。 そんな無限地獄のような状況で、どうやってやる気を出せと言うんだろう。 もし日本企業で自分の意見を通したいと思ったら、 最初は組織に従順な犬の振りをして、よく働いて、認められて、地位や権力を持ってからに なるんだろうね。 それが本音と建前っていう日本のムラ社会のあり方なんです、と。 けど、そんな悠長なこと言ってられるんだろうか。 自分で言うのもなんだけど、若いうちの感性って、すごく大切だと思う。 若いうちは経験を積め、苦労をしろっていうけど、それは日本全体が右肩上がりの成長をしていた 頃の、一つの成長パターンであって、今それをやってうまくいくとは、ちょっと思えない。 そもそもこの言葉の通りにやって利益を得るのは、雇う側の人間だしね。 そして、この「暗黙の空気」を黙って飲み込める人間が、社会人として立派であるっていう何の 根拠もない価値観に惑わされて、今の若い人達は荷を背負わされてるように僕は思えるんだよね。 けどそんな価値観って、単純に感覚がマヒしてるだけじゃないのかなぁ。 現に、僕がいた職場で、心から笑顔で働いてる人はいなかった。 みんな何かに耐えるように、黙々と仕事をこなす日々。すごいよ。よく働いていられるなぁと思う。
★ムラ社会を考えた時に、次におこすべき行動 3
そんでね。
若い人達も別に馬鹿じゃないから、
今まで書いてきたような内容って、みんななんだかんだわかってる。
それでもオッサン連中の言うこと聞いて働いてるのは、
じゃあ辞めてどうするの?っていうこの一点なんだよね。
やりたいことがない。企業に勤めるほかにお金を稼ぐ手段がない。
これが、僕ら世代の人間に与えられた課題なのかなぁって思う。
やりたいことを見つけなきゃいけないんだよ。
これまでの企業の慣習、みんなに合わせてればそれでいいんだっていう責任放棄、思考停止の
やり方だと、労働力を搾取される人生しか、もう残ってない。
自分はこれをやりたいんだ!!って強く主張して、周囲の反対を押し切ってでも成し遂げたい、
自分っていう主体を持って生きていかなきゃ、金が欲しけりゃしんどくても働けっていう、
家畜みたいな扱いを受けても反論できないんだよね。
自分を強く訴える人生には、リスクもあるし、お金も手に入らないかもしれないけど、
自己実現できたっていう、何よりも代えがたい強い達成感が待ってるはずなんだよね。
経済が高度成長していた頃は、逆にこんな発想は間違ってた。間違ってたというか、そんなこと
考えなくても、企業の言うとおりにやってれば、幸せになれたんだよね。
これからは、今までごく一部の人しか達成してこなかった、強い主張を持つ自分っていうものを、
みんなが実現していく時代になる。
より高次の欲求を実現するっていうかな。
経済は下降してるのかもしれないけど、
日本は間違いなく次のステップに進んでるなって、感じる。
一年で会社辞めたゆとり新卒ブログ
人として自然な生き方を目指す
http://hjkd8yg.blog.fc2.com/blog-entry-65.html
367 :
髪 :2013/06/14(金) 06:44:44.48 ID:TeA8HZoN
検挙・送検するまでが警察の仕事ですね、検察は起訴・不起訴を判断するのでしょう そして、裁判にて有罪・無罪の審理がくだされるわけですね しかし、不起訴・無罪となったとしても、ムラ社会の村八分の懲罰から逃げられないこともありうるわけです 妥当性に疑義はありますが、きんもーっ☆事件を例にとってみましょう Kの行いは、不特定多数に対する名誉毀損または侮辱罪にあたるのではないかと思われますが 仮に、あの写真の中の個人が訴えをおこしても、警察も検察ものらりくらりとかわして 門前払いあつかいにして、刑事事件として立件するのは事実上困難であったとも思われます このような時に村八分の論理が作用し、この場合、まずネットムラにて「祭り」となって炎上して 追い詰めて、続いて現実社会にてKを追い詰めて社会的に抹殺するにいたったわけです このように、伝統的にお上(治者階級であった武士)を限定的にしか信用しない・アテにできないムラにとって 村八分とは秩序維持を含む自治のための便法として機能していたと考えられます 今の言葉で言うと、「村八分」とは「社会的制裁」と言い換えられましょう なお、「村八分」と西洋における「私刑」(リンチ)との相似と差異にも興味がわくところでありますが 私には分かりかねる点ですので、どなたかお詳しい方にご教示いただけるならば幸いです
368 :
髪 :2013/06/14(金) 06:45:50.53 ID:TeA8HZoN
また、村八分とはなにも罪科を犯した者だけに課されるわけではありません 例えば、霞ヶ関ムラにおいては、役所の論理(オキテ)に従わない改革志向の官僚は 大臣官房付などの無役の閑職に配属されて、事実上、官僚社会から締め出されて いずれは辞職を余儀なくされるでしょう 官僚たちは、そのような行いに痛痒を感じることは無いでしょう なぜならば、日本の組織においては、ムラの論理(オキテ)こそが「正義」であり それに従えない者は非常識とされ、自動的に「悪」や「部外者」「異端者」にされてしまうのですから またまたまた蛇足で我ながら失笑モノですが 私が常日頃思っているのは(←思っているだけで正しいわけではありません) 「大陸は直接殺す残酷さ、日本は自殺に追い込む残酷さ」 ということです
★〈ムラ〉社会批判概論―日本が原発から脱却できない理由(わけ)[上] [Criticism] 1 北野慶です。 2012-12-25 18:43 〈ムラ〉社会とは? 〈ムラ〉は、恐らく江戸時代の村落共同体にその源を発し、先の戦争中に隣組組織として強化され、 戦後も社会のあらゆる領域で受け継がれてきた日本独特の社会システムである。〈ムラ〉はある 共同利益によって結ばれ、組織員に組織への無私の絶対的服従を課し、組織員の内発的思考と 自発的行動を抑制し、そのムラ独特の「空気」に馴染みそれを「読む」ことを暗黙の了解事項とし、 集団的規律から逸脱した者は徹底して排除し抹殺する非民主的システムである。 3.11によって暴かれた〈原子力ムラ〉は、こうしたあまたある〈ムラ〉のひとつ、その最も グロテスクな〈ムラ〉のモンスターに過ぎない。この国には様々な〈ムラ〉、〈国会ムラ=別名永田町〉 〈官僚ムラ=別名霞ヶ関〉をはじめ、〈マスコミムラ〉〈教育ムラ〉〈医療ムラ〉〈ゼネコンムラ〉 〈芸能ムラ〉〈司法ムラ〉〈警察ムラ〉〈会社ムラ〉〈組合ムラ〉〈ヤクザムラ〉等々、そしてこうした ムラを再生産していく〈学校ムラ〉までがあり、ほとんどの国民がひとつないしは複数の〈ムラ〉に 属している。それらいっさいの〈ムラ〉から自由なのは、年金生活者、失業者、ホームレス、自由業者 等々が考えられるが、そうした人々も、ともすると〈老人会ムラ〉〈○○業界ムラ〉などに属する ことになったり、あるいは〈○○趣味の会ムラ〉〈○○ファンクラブムラ〉など別のカテゴリーの ムラに自ら所属することもありうる。こうして日本社会の津々浦々までにはびこった〈ムラ〉から 自由になるには、〈世捨て人〉にならなければならないのではないかと思われるほどだ。
★〈ムラ〉社会批判概論―日本が原発から脱却できない理由(わけ)[上] [Criticism] 2 〈ムラ〉社会を支える〈学校ムラ〉 上述したように、これらの〈ムラ〉の構成員を年々補充し、良質な〈ムラ人〉を供給しているのが、 〈学校ムラ〉である。この国においては学校こそ、ある意味〈ムラ〉の縮図であり、〈ムラ人〉 養成機関である。 学校の児童・生徒たちは、たまたま同じ地域に生活しているというだけで同じ学校に通わされ、 生まれた年度によって学年分けされ、適当にクラス分けされた教室という空間で、30〜40名 単位での共同生活を強いられる。 しかも、そこでは子どもたちの個性を伸ばし、自分の頭で物事を論理的・理性的に考え、自らの 責任の下に行動する人間になる訓練が積まれるのではなく、むしろそれとは正反対の、没個性的で、 自分の頭で考えず、〈場の空気〉を読んで大勢に流される非主体的・受動的な奴隷になる訓練が なされる。 〈戦後民主教育〉は一見〈民主的な教育〉のように思われるが、実際は日教組という〈組合ムラ〉と 教育委員会・校長に支配・管理された〈教育ムラ〉に二重に属する教師たちによって、平等主義の 名の下に没個性的な画一教育がなされ、〈美しい友情〉〈クラスの団結〉といった名の下に、 生徒たちをクラスを単位とする集団主義でがんじがらめに拘束する装置に過ぎなかった。 1970年代以降、次第に悪質化・陰湿化していった〈いじめ〉は、こうした〈戦後民主教育〉の 没個性教育・集団主義教育が生み出した必然的帰結であった。
★〈ムラ〉社会批判概論―日本が原発から脱却できない理由(わけ)[上] [Criticism] 3 学校の〈いじめ社会〉化は、児童・生徒に対するこうした没個性化・集団主義化をさらに強化した。 江戸時代の村落共同体が、異端者を〈村八分〉にして徹底的に〈しかと〉したように、いじめの ターゲットとなった子どもを徹底的にしかとし、あるいは暴力的制裁=リンチを加えて精神的・ 肉体的に抹殺を図る。しかも、〈ムラ〉は治外法権化し、いじめ加害者が法的に罰せられることは 希だ。さらに絶望的なのは、こうした〈学校ムラ〉の暴走を、〈教育ムラ〉がすっぽり包摂して 社会から防衛していることである。 このような〈学校ムラ〉で〈教育ムラ〉に属する教師たちによって「教育」された子どもたちが、 先進国の自立した大人=民主主義を身につけた市民へと成長することを期待するのはほとんど 絶望的だ。そればかりか、上述したように〈学校ムラ〉で育った子どもたちは、この国にはびこる 〈ムラ社会〉の様々な〈ムラ〉の立派な構成員として巣立っていく。かくして〈いじめ社会〉の 社会化が図られる。 〈学校ムラ〉が様々な社会に存在する大人たちの〈ムラ〉の縮図であることは、〈原子力ムラ〉を 例にとって見れば一目瞭然だろう。〈原子力ムラ〉は治外法権によって法の支配を免れ、社会から 隔絶された〈ムラ〉の中でやりたい放題の無法行為を繰り返し、挙げ句の果てに露呈した犯罪行為も、 〈警察ムラ〉や〈司法ムラ〉から摘発されたり裁かれることがない。まさに、〈学校ムラ〉に おけるいじめ犯罪の構図そのものである。
★〈ムラ〉社会批判概論―日本が原発から脱却できない理由(わけ)[上] [Criticism] 4
〈戦後〉〈ポスト戦後〉を貫く〈ムラ〉
〈ムラ〉は戦後社会の中で民主的装いを凝らして生き続けてきたが、1990年代に最終的に
〈戦後社会〉が終焉し、脱資本主義社会へと変移していく中でも生き続けている。
例えば、かつて〈戦後社会〉では、労使の関係は〈会社ムラ〉の中でそれと部分的に利害対立する
〈組合ムラ〉との拮抗関係を通して解決されるという、一見民主的手続き経ていたが、現在では
〈会社ムラ〉の外に放り出された派遣労働者等非正規雇用労働者が、個に分断された全く無権利な
奴隷状態の中で資本への絶対的服従を強いられている。本来〈ムラ〉の外にはじき出された個人は、
〈ムラ〉の軛から解放され、自立した主体を確立して、利害対立する者に毅然として対峙しうる
はずであるが、前述したように〈学校ムラ〉でそのような人間が本来持っている人間性を根こそぎ
去勢された〈個〉は、惨めな奴隷状態に自ら進んでつながれることによってかろうじて生存の
許しを請うまでに、〈奴隷としての主体〉さえ簒奪されている。
(続く)
北野慶です。 2012-12-25 18:43
http://kei-kitano.blog.so-net.ne.jp/2012-12-25
373 :
名無しさんの主張 :2013/07/02(火) 22:30:58.18 ID:ZoBZxY+J
>大阪府三島郡島本町の小学校や中学校は、暴力イジメ学校や。 島本町の学校でいじめ・暴力・脅迫・恐喝などを受け続けて、心も身体も壊されて廃人同様になってしもうた僕が言うんやから、 まちがいないで。精神病院へ行っても、ちっとも良うならへん。教師も校長も、暴力やいじめがあっても見て見ぬフリ。 そればかりか、イジメに加担する教師もおった。 誰かがイジメを苦にして自殺しても、「本校にイジメは なかった」と言うて逃げるんやろうなあ。 島本町の学校の関係者は、僕を捜し出して口封じをするな >島本町って町は、暴力といじめの町なんだな 島本町は日本の迷惑!
374 :
名無しさんの主張 :2013/07/12(金) 17:41:54.97 ID:Rw/xLrtC
おいおまえら 人生相談があるんだが
>>225 > 江戸時代には
> 1000万人もの子供を間引きとして虐殺してきた。
これは今でいう堕胎だから。まだそんな技術がなかったというだけの話。
その時代に対して短絡的に価値判断するのは、現代で言えば堕胎を絶対に許さないカルト宗教並の思想。
村の様な人間集団維持するには、性欲を無理矢理我慢させるのは不可能に近い。
誘惑に陥らないように祈りなさい
日本の特徴は恩を仇で返すこと
★ニューヨークと東京の違いA:日本はムラ(村)社会 1 ウォールストリート滞在記 2012-09-01 16:57:52 前にも書いたように、東京の生活に慣れていると、ニューヨークは不便だなと感じることがよくある。 でも、どうして、世界一便利で住みやすい東京ではなく、ニューヨークが世界一の都市なのかと考える。 馬鹿らしいと思われるかもしれないが、結構本気で思う。 分別とリサイクルがかなり進んで、ゴミは処理されどこでも綺麗な街並み。 家賃も世界の主要都市の中では東京は既に安く(ニューヨークや香港は東京の約1.5倍)、 手入れが行き届いているし、何か問題があればすぐに解決してくれるマンション。 どこの店でも、笑顔でサービスしてくれる飲食店。マックの可愛いアルバイトの笑顔が0円なんて、奇跡だ。 いつも時間通りに来て、遅れる時はアナウンスしてくれる地下鉄。 スラリとした綺麗なフライトアテンダントが接客してくれる飛行機。もちろん、遅れた時は 丁寧な対応と「申し訳ありません」の言葉。 24時間、常にお酒も弁当も、日用品も、大人の絵本も買い物ができるコンビニエンスストア。 他にもロンドン、シンガポール、香港には行ったことがあるが、どう考えても、東京が一番綺麗で、 便利で、生活しやすい。 しかし、東京は残念ながら、1位ではない。 直近の世界の都市指数ランキングだと、 1位:ニューヨーク、2位:ロンドン、3位:パリ、4位:東京、5位:香港となっている。 (A.T.Kearney Global Cities Index, 2012)
★ニューヨークと東京の違いA:日本はムラ(村)社会 2 日本には地震をはじめとした天災があり、少し敬遠されるのは分かるが、もっと他の理由がある 気がする。 この半年間、ニューヨークに住みながらずっと考え続けていた。 そして、最近やっと分かってきた。 一言で言えば、日本は「ムラ(村)社会」なのだ。 日本という国は、日本人にとっては、非常に便利で生活しやすい。 しかし、日本人以外の人にとってはどうだろうか? おそらく、外国人にとって日本は、興味がありながらもすぐにはなじめない国と文化な気がする。 その背景には、日本語という複雑な言葉、島国という地理、長い間の伝統と戦争が重なった歴史など、 多くの理由があると思うが、結果として日本は、小さな組織でも大きな組織でも、「ムラ」という 独特な排他的文化を形成している。 小さなムラの例は、企業の中を見ればいくらでも見つかる。 同じ会社の中で外国人と日本人のチームがなかなか相容れないのはひとつの例だと思う。近年、 日本企業はグローバル化しようとする中で、海外の企業を買収したり、CEOが外国人に替わったりなど、 外国の文化が社内に混ざることが多くなってきた。そうすると、もちろん外国人のチームと日本人の チームが共存することになるが、上手くいかず、対立が生まれることが多い。例えば、日本では、 仕事がなくても色々と気を遣って日本人は会社から帰らない。しかし、外人は、定時にすぐに帰る。 「定時の5時にあがるなんて、なんて外人達は仕事をしないけしからん奴らなんだ」と考える。 ここでお互いにすれ違いが生まれる。
380 :
名無しさんの主張 :2013/08/17(土) 20:50:30.24 ID:xrYNrgYO
ジャップは狗以下だな
★ニューヨークと東京の違いA:日本はムラ(村)社会 3 大きな組織のムラの例は、日本の教育システムや政治、選挙等が挙げられる。例えば、実際外国人と 話す英語力が一切伸びない日本の英語教育。日本人が英語が弱いことに気づきながらも、未だに 大学入試をはじめとして、テストで点数をとって良い大学に行く為だけの教育は、何も変わらない。 政治や外交においても、排他的で変わろうとしない「ムラ」感は強い。 それに対して、ニューヨークという都市は、移民が集まって生まれたアメリカの歴史を背景として、 多くの文化を受け入れる器がある。 ここに集まってきた人は、アメリカ人だろうが、メキシコ人だろうが、中国人だろうが、 日本人だろうが、どこの国の人でもそれぞれの居場所を見つけることができる。 また、この街は、周りの目を気にしなくていい。これも、魅力的な理由だと思う。 破けた服を着ているホームレスも、ブルーカラーと呼ばれる労働者も、ドレスアップをしたマダムも、 ウォールストリートのバンカー達も、貧富の差こそあれ、自由に暮らし、同じ空気を吸っている。 ニューヨークに来てみると、日本は窮屈だなと思うことがよくある。 例えば、日本の中になんとなくある、人の目を気にして外に出掛ける時はお洒落をしていきなさい、 というのは少し苦手だ。 お洒落をしたい人はしたらいいし、したくなければしなくていい。 別に、自分がそんなことは決めるべきであって、周りの空気でやらされることでもない。 もうひとつ、先輩が後輩に対して威張るのも苦手。 いつだったか、先輩が後輩に飯をおごるのは、いばり賃を払っているのだと聞いたことがある。 なるほどと思って、納得が言った。 なら、いばらなくて、おごる先輩はもっとかっこ良くないか??
★ニューヨークと東京の違いA:日本はムラ(村)社会 4
日本人にとって究極に便利で過ごしやすい東京に対し、ニューヨークは世界中の人々や文化を
受け入れる都市。
僕は日本が好きだし、東京は世界一快適な街だと思うし、ニューヨークは一生を過ごす場所では
ないとも感じる。
しかし、ニューヨークの色々な人種・国籍を受け入れる懐の深さと、周りを気にしなくていい
自由な空気は、東京にはない。
そして、この懐の深さと自由な空気によって世界中の人々が集まってくることこそが、ニューヨークを
世界一の都市にしている理由だと思う。
日本のムラ社会が一方的に悪いとは思わない。
実際に、この団結力で、日本は一時世界のトップまで辿り着いた。
しかし、もう、ムラ社会の結束のみで、日本が世界の上位に立ち続けることは難しくなってきている。
過去の栄光にすがるのではなく、そのことに気づき、認め、多くの事を不合理に抑圧している
ムラ社会からは卒業しないと行けない気がする。
今日の言葉
チャレンジして失敗を恐れるよりも、何もしないことを恐れろ。
(本田宗一郎)
ウォールストリート滞在記 2012-09-01 16:57:52
http://ameblo.jp/wallstreet-life/entry-11343432132.html
知らない人と共存できる社会が、日本には欠けている
★五輪で高まる外国人観光客への期待。だが日本は本当に観光立国を望んでいるのか? 1 ニュースの教科書 2013年9月21日 日本政府観光局(JNTO)は9月18日、8月の訪日外国人客数を発表した。日本を訪れた外国人客数の 推計値は90万7000人となり、前年同月比で17.1%の増加となった。8月としては過去最高水準。 7月に政府がビザ(査証)の発給要件を緩和した東南アジアからの観光客が増加したほか、円安で 日本の割安感が高まったことなどが影響した。政府は年間の訪日外国人数を1000万人にするという 目標を掲げているが、その実現が視野に入ってきた。 日本では2020年の東京オリンピック開催が決まったこともあり、外国人観光客の増加に対する 期待が高まっている。政府目標である1000万人達成が視野に入ってきたことは喜ばしいことだが、 もし本当に観光立国を目指すのであれば、この数字は国際的に見てあまりにも少なすぎる というのが現実だ。 世界の主要国が受け入れている観光客数は日本とは比較にならない。英国は毎年3000万人、 米国や中国は6000万人、フランスにいたっては8000万人もの観光客が訪れる。主要国(米国、英国、 フランス、ドイツ、日本、中国)はすべて1000万人規模の巨大都市を擁しており、長い歴史と 文化を持っている。こうした国のほとんどが観光大国なのだが、ただ一 つの例外が日本なのである。 世界屈指の経済力と歴史、文化を持った国で、数百万人しか観光客が訪れないというのは、 グローバルに見て異常な状況といってよい。
★五輪で高まる外国人観光客への期待。だが日本は本当に観光立国を望んでいるのか? 2 その理由はおそらくソフト面にある。外国人観光客対策というとすぐに英語というイメージに なるが、中国やフランスなど英語があまり通用しない国が観光大国である事実を考えると、言葉の 問題ではなさそうだ。世界経済フォーラムでは世界各国の旅行・観光競争力ランキングを発表 しているが、国民の観光との親和性といったソフト面は77位と悲惨な結果となっている。 日本の宿泊施設では、夜間の出入りができなかったり、食事の時間が制限されるところも多い。 レストランなどでも外国人客が来ると言葉が出来ないからといって立ち往生してしまう店員は 少なくない。まったく外国語が話せなくても、臆することなく「これがお勧めです」と身振り手振りで コミュニケーションする中国の店とはだいぶ様子が異なっている。日本社会そのものの特質として、 生活習慣が異なる人が来ることをあまり想定していないのだ。 最近では、北海道で講師として招かれ来日したニュージーランドのマオリ族の女性指導者が、 アゴにある入れ墨を理由に温泉の入浴を断られるという出来事があった。菅官房長官が「外国の 文化に対して敬意を払う必要がある」と異例コメントを行っている。この女性は、北海道で開催 されていたアイヌ語の復興を目指すイベントで講師として呼ばれていた人物で、日本文化の象徴である 温泉を体験しようと入浴施設を訪れていた。
★五輪で高まる外国人観光客への期待。だが日本は本当に観光立国を望んでいるのか? 3
ひとつひとつの出来事は小さなことでも、こうした事例が積み重なってくると、最終的には
訪日客数にボディーブローのように効いてくることになる。日本以外の主要国は、皆、観光立国
として成功しているわけだが、外国人との軋轢を乗り越えて今の状況を実現している。日本が
本当に観光立国を目指すのであれば、同じように軋轢を乗り越えるための努力が必要であり、
これは市民レベルの課題でもある。
これが実現できるのであれば、ビジネスにおけるグローバル化の問題もスムーズに解決できる
可能性が高い。ただ本当に日本人がこうした社会を望んでいるのか、もう一度自問自答する必要がある。
外国との積極的な交流を望まないのであれば、ある程度の貧しさを受け入れる勇気も必要となって
くるはずだ。オリンピックの東京開催はこのことを再考するよいきっかけといえるかもしれない。
ニュースの教科書 2013年9月21日
http://news.kyokasho.biz/archives/16937
★半沢直樹をキャリアデザイン的に検証する 1 Joes's Labo 2013年9月25日 TBSドラマ『半沢直樹』が社会現象と言えるほどの盛り上がりを見せました。 最終回の瞬間最高視聴率46.7%、全回の平均視聴率でも42.2%という 平成ドラマ史上No1となる数字(共に関東地区)を叩き出したことからも、 盛り上がりの凄さがうかがえます。 ただ、盛り上がった半面、色々な疑問を持った人も多いはず。 筆者自身、以下のような質問をちょくちょくされています。 「なぜこれほど盛り上がったのか?」 (ちなみにTBS今クールの主力ドラマは木曜日の『ぴんとこな』だった!) 「ああいうサラリーマンは許されるのか?」 「衝撃のエンディングにはどういう意味があるのか?」 ええ、もちろんこれらは人事の範疇なので、すべて人事的に解説可能です。 確かに作品としては純エンタメですが、半沢直樹を人事的に紐とけば、 そこに現れるのは生々しいまでのリアルです。ファンはもちろんのこと、 ドラマ未視聴という方も、そこから学べるものは大きいでしょう。 なぜ半沢直樹は支持されたのか 半沢の魅力については、既に色々な人によって語られ尽くされた感があります。 曰く、堺雅人や香川照之の熱演が凄い、いやむしろ黒崎検査官、浅野支店長、 小木曽人事部長といった超個性的なバイプレイヤーががっちり固めているからだ、 いやいや、福澤プロデューサーの演出こそ肝だetc…… そのどれにも同意しますが、本ドラマが社会現象とまでなった本当の理由は、 全く別のところにあるというのが筆者の意見です。
★半沢直樹をキャリアデザイン的に検証する 2 では、それは何でしょう?それを解説する前に、もしこんな半沢直樹がいたら どういうドラマになっていたか想像してみてください。 ・入社3年で辞める半沢直樹 ・ヘッドハンターから提示された年俸を手に上司と年俸交渉しようとする半沢直樹 ・出向させられそうになると東京管理職ユニオンに個人加入して団体交渉を要求する半沢直樹 ・辞めて外資に転職した後に「いやなら辞めればいいじゃん」と達観する半沢直樹 全然おもしろくなさそうですね。というかドラマになってない。 そう、半沢直樹の本質とは、日本型雇用の特徴である閉じた組織の中で、 個人が組織の理不尽と戦う姿にこそあるわけです。 筆者が常に説明しているように、日本型雇用というのは2、30代は生産性以下の 給料に甘んじつつ、40代以降に出世によって報われるというシステムです。 社員は「イヤな上司がいようが転勤残業続きだろうがなかなか逃げ出せない」 というデメリットを甘受しつつも、 「40歳以降に出世して楽ちんできるし、65歳までばっちり雇用も保証されるかも」 というバクチに人生を張っているようなものですね。 ところが、90年代後半から、どうやらほとんどの人にとって、このバクチは分が悪い ものとなっています。特に採用数が例年の三倍近いバブル期入社者は悲惨で、 ただでさえ減らされているポストの空きを巡って熾烈な椅子取り競争が行われて います。筆者の感覚で言うと、半数以上は出世とは無縁なヒラ社員のまま定年を 迎えることになりそうです。
★半沢直樹をキャリアデザイン的に検証する 3 とはいえ、今まで一社に特化して育てられた以上、そうやすやすとは転職できません。 やはり終身雇用を維持している他社も、中途でおじさんなんて採ってくれません。 35歳を過ぎて「このままこの会社に残ってもヤバいかも」と気付いても、多くの人は 今さら逃げ場なんてないんですね。 そうはいっても会社は終身雇用を維持するため、様々な無理難題を吹っかけて きます。九州の事業所に空きが出たから転勤しろ、次は北海道に行け、もっと残業 しろ有給使うな、そして最後は出向したまえお疲れさん…… 現在40代後半のバブル世代、そしてアラフォーの団塊ジュニア世代にとって、 こういう状況はけして人ごとではないでしょう。きっと誰だって一度くらい 「いい加減にしろよ!」と叫びたいと思ったことはあるはずです。 そんな中、実際に社内で雄たけびを上げ、嫌な上司に倍返ししてくれる爽快な キャラがいたら、どう思うでしょうか?きっと手を叩いて応援するはず。 これが、筆者の考える半沢直樹の支持された理由ですね。 一言で言えば、出世や安定雇用といった夢だけが消え去り、長時間労働や全国転勤 といったリアルだけが残った今の大企業の中で、それでも前を向いて戦い続ける姿が、 多くの同世代の心の琴線に触れたのでしょう。 誰もが会社のために一生懸命に働けば、まあ100%満足とは言わないけれども 幸せになれた時代、多くの人は島耕作の中に自分の分身を見たはずです。 でも、普通に働こうとすることすら、ともすれば難しい今の時代、多くの人は 半沢直樹の中に自分の願望を見ているはず。
★半沢直樹をキャリアデザイン的に検証する 4
「ヒーローは常にその時代を背負っている」というのが筆者の持論です。
筆者には、半沢直樹のブームが盛り上がる陰で、終身雇用の崩れ落ちる音が
聞こえてくるような気がします。
※本作の成功のもう一つの要因としては、原作執筆時(2003年)とドラマ(2013年)
の間に10年ほどのブランクがある点も大きい。この結果、当時40歳前だった
バブル世代を描いたドラマが、結果的に現在の団塊ジュニアと被ることとなり、
2大ボリュームゾーンを取り込める結果となったわけだ。
以降、
三分でわかる半沢直樹
ああ見えて実は一線を越えていない半沢直樹
半沢が出向させられた理由とは
※詳細はメルマガにて(ビジスパ・夜間飛行・BLOGOS)
Joes's Labo 2013年9月25日
http://jyoshige.livedoor.biz/archives/6830931.html
392 :
名無しさんの主張 :2013/09/25(水) 22:16:19.57 ID:qrTWPdhh
★で長々と書き込みするやつはなんなの? ここは村社会反対スレなのか?
旧態依然とした日本の慣習を批判するスレかと
日本はコンプレックスの塊、被害者意識丸出し お家芸醜い顔も見飽きた
395 :
名無しさんの主張 :2013/11/02(土) 18:32:32.50 ID:uSpszc/C
>>384 その共存も行き過ぎると村社会になるんだけどな
よく言われているような公共的な意味ならそういう所は確かに欠けている場合が多いとは言えるけど
村社会になる共存っていうのは
みんな仲良くとか違いを無視し全体主義的になるとか
色々な意見が対立しているのは個人の尊重でもあるという事が分からず
議論や論争の否定をしたりとか
要は一人一人に対する理解が無い共存
396 :
名無しさんの主張 :2013/11/03(日) 03:08:09.37 ID:vrU8/pDO
397 :
名無しさんの主張 :2013/11/03(日) 03:11:26.21 ID:vrU8/pDO
398 :
名無しさんの主張 :2013/11/03(日) 03:13:53.79 ID:A1Msljr6
ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。 ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。 ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。 ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。 ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。 ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。ひんがら目気色悪すぎこっち見んな死ね。
★村社会の亡霊 1 日本について考えるブログ 2010/08/08 21:27 少し前まで多忙を極め,日常でどんなニュースが報じられているのか全く気にする余裕が なかったのだが,ようやく落ち着いてここ1週間はのんびり過ごすことができた.と, ずいぶんと嫌な事件ばかりじゃないか. 子供への虐待とか,産んだ子を殺してしまう若い母親が最近ニュースに上ることが実に多い. こういう事件を知るたびに,社会が包容力をなくしているなぁ,と思うと同時に,その 身勝手さの根底には何があるのか考えてしまう.「人と人の心の絆」なんて言葉は日本人が 大好きな言葉なのだが,形骸化も甚だしい.地方によってはまだ豊かな人間関係はしっかりと 存在し,人が自然体で所属できるようなコミュニティはあると思うが,一方で,そういうものが 無い場所にはもう全く無いのだろう. それにしても,「おい父親,お前はこの状況をどう思ってんだ!?」と聞きたいのは僕だけか!? **** コミュニティというのは,自身と他者が関わり合うこと無しには成立しない.これが減っている というのは,他者と関わりあうことが面倒であったりつまらないとか,そういうこと自体が もう無理という感覚だろう.これらが社会の中で増えているのだと思う.
★村社会の亡霊 2 JPOPによく「言葉が無くても通じ合える」「言葉は要らない」のような歌詞が登場するが, こういう感覚はおそらく日本では一般に肯定され,美しいと感じる人も多いように思う... (そういえば,「J-POPの歌詞における「何か」の探され率は異常」という2chのスレッドが あるので,暇な方はどうぞ.ツボにはまると笑が止まりません... コチラ→ http://404nots.blog88.fc2.com/blog−entry−1039.html 話が脱線した. で,言葉が無くても通じ合える,というのは普通ありえないだろう,と僕は思うのだ.それは 読心術を持った人同士か,そうでなかったらはじめから同じ考えを持つ人同士か,どちらかである. 僕はどうしても現代日本人というものを考えるときに,過去の農村における村的な共同体社会を イメージして物事を考えてしまう.江戸時代の士農工商のうち約80%強が農民だ.10%が 支配階級である武士,残りが工商人.すごく乱暴な言い方をすると,私たち日本人の血の80%が 農民の血なのだ. この農民が暮らしていた村社会は,やはり現代の言葉で語るならとても特殊である. 村社会の特徴を少しまとめてみると, (1)支配階級である士族に従属する依存性 (2)自然信仰に基づいた人間は無力であるという思想,自身を常に矮小であると認識させる信仰 (3)村間の人的交流が制限されたコミュニティの閉鎖性 (4)ほぼ同一の思想を共有した共同体を継続するための様々な掟や通過儀礼,そしてその結果 生まれる洗脳
★村社会の亡霊 3 「矮小」「閉鎖」「洗脳」「従属」などよくない言葉が並んでしまったが,僕は別に村社会を 批判したいのではない.ただ残念ながら,民主主義社会のポジションから眺めると,どうしても このような言葉が適当だと思ってし舞わざるをえない.そしてこれらの言葉は,現代日本社会を 考える際のキーワードとなる. 現代日本は制度上民主主義国家となり,一人一人が自由に考え発想して生きていける社会の 枠組みは獲得した.しかしそのような社会のあり方がいかに村社会と相容れないものか, 上の特徴と比較したら分かるだろう.しかも歴史を考えると,農民が苦しみの末に革命を 起こして現代の社会制度を勝ち取った,わけでもないのだ.つまり民主主義社会なんだという 自覚は希薄なはずである. 現代では,共通の価値観を持つために過去の村社会を模倣したコミュニティを形成しても 意味がない.なぜならもはや過去の村を形成するにはあまりに思想の一致性が不完全すぎるし, それを教育する場もないし,社会制度だって当然全く合致しない.それでも人々は「同じ」 であることをいまだに求めている.同じであって初めて自分が肯定され受け入れられ, 安心するのだ.だから非常に問題がこじれている. もし,誰も自分の気持ちを分かってくれない,誰も理解者がいない,自分と同じ考えの人が いない,と感じているとても孤独な現代日本人がいたとしよう.そういう人が村人気質を 強く持っていたなら,例えばこうなる....
★村社会の亡霊 4 理解者と出会うためにどう道を切り開こうかとか,どう伝えようかと考えるより,妥協して どこに従属すべきか考える(1).自分は何もできない駄目人間だと思う(2).自分と全く 違う価値観の人から何か学ぼうとか,その中に何か希望はないかと探すより,自分の考えを 強く正当化し,自分を信じる唯一の自分だけを拠り所とする頑固さが出てくる(3).そして 唯一の村構成員である「自分」の中だけで掟を作り,選択肢を減らし,その掟にしたがって 一人納得して行動を開始する.これでいいんだ,と. この状況で,生物が本来的に持っているだろう攻撃性や逃避行動などと結びつくと,最近よく 報道されるとても悲しい犯罪となって表出するのじゃないだろうか... 以上,一般にはあまり語られない角度から考察してみたが,これを回避するには私たちが 現代の社会制度に合致した思想の持ち主へと変化し順応して行く,これが最善の方法がない のではないかと思う.とすると,まだ時間がかかるだろう. ・・・ちょっと村について悪く書きすぎた.僕の知識の範囲内での村の美しき世界について, そのうち書こうと思います. 日本について考えるブログ 2010/08/08 21:27 http://erisabeth.blog123.fc2.com/?mode=m&no=372
403 :
名無しさんの主張 :2013/11/09(土) 18:13:17.34 ID:rbp5ZfpO
ムラ社会は善悪判断が無く空気と伝統で判断したり 善悪意識の欠如っていうのもあるけど 他板でネットなり2ちゃんがそうみたいに言ってる人がいたけどそれは違う所も多いな 批判否定が多い場合でも空気では無く善悪で判断している人も多い あるいは単純に学問でよくあるような批判否定の場合も
404 :
名無しさんの主張 :2013/11/09(土) 18:14:44.21 ID:rbp5ZfpO
批判や否定にも良し悪しやTPOはあるけど ほぼ常に批判否定するなとか多くの批判否定そのものを上から抑圧的否定するっていうのも ムラ社会的な抑圧と言える
405 :
名無しさんの主張 :2013/11/10(日) 03:12:47.70 ID:DTduaEz/
2ちゃんにもムラ社会的な考え方の人は普通にいる。ていうか多い その代わりそうでない人間も発言できるからね 現実のムラ社会では発言そのものが様々な要因で封じられる
現実社会=表のムラ社会=掟にこだわる封建社会=醜い建前を並べる場 2ちゃんねる=裏のムラ社会=ガス抜きのための無礼講の場=醜い本音を並べる場 どちらも西洋的な近代市民社会とは似ても似つかない
★みずほ銀行の不正融資やホテルの食材偽装表示にある「日本の病」 1 田原総一朗 公式ブログ 投稿日: 2013年11月11日 2002年、僕が塾頭となって「大隈塾」を母校の早稲田大学に開設した。60代の後半くらい からだろうか、母校のために何かできないかと考えるようになったからだ。さまざまなゲストに 来ていただき、学生、あるいは社会人の塾生たちに講義をしてもらっている。こうした経験は、 若者たちの血となり肉となるだろう。 時には僕も、彼らの前で話をすることがある。先日は、いま世間を騒がせている、みずほ銀行の 不正融資や食材偽装表示をテーマにして話をした。テレビでは毎日のように、大企業のお偉方が 謝罪会見する場面が、繰り返し放送されている。なぜこのような不祥事は、なくならないのか、と。 僕は、ひとことでいえば、「空気」のせいだと考えている。組織内で流れる空気に、多くの人は いつしか慣れてしまう。暴力団への融資、食材の偽装表示、客観的に見ればいけないことはわかって いる。だが、その空気の中にいると、誰も「やめよう」と言えなくなってしまうのである。
★みずほ銀行の不正融資やホテルの食材偽装表示にある「日本の病」 2 彼らはまた、謝罪の仕方も下手だ。当初、みずほ銀行は、「頭取は把握してなかった」と弁明 していた。阪急阪神ホールディングスの社長は、偽装ではなく「誤表示」だと説明した。彼らは、 心底責任を感じていないのだ。ずっと会社がやってきたことが、「たまたま」自分が社長である ときに、発覚してしまった。「ついてない」くらいにしか、思っていないのだ。 独自の視点からの日本人論を展開した山本七平さんは、著書『空気の研究』で日本人の持つ この特質を見事に指摘している。 住友銀行(現三井住友銀行)の当時の頭取、磯田一郎さんが、世界的なコンサルティング会社 マッキンゼーに組織改革の依頼をした。当時、取材をしていた僕は、磯田さんにこう言った。 「外国のコンサルティング会社に頼まなくたって、自分たちでできるんじゃないですか」すると 磯田さんはこう答えたのだ。「日本の会社は話し合いを何度しても、前と同じようなことを ぐるぐる話しているだけなんだ」いわゆる「小田原評定」だ。 そして磯田さんはこう続けた。「外国の名の通ったコンサルティング会社の言うことなら、 みんなが従う」日本人が変わるには、今も昔も「外圧」が必要なのだ。
★みずほ銀行の不正融資やホテルの食材偽装表示にある「日本の病」 3
安倍内閣が法制化を進めていたのが、「社外取締役」義務化だ。事態を客観的に見ることができ、
左遷などを恐れず発言できる存在が組織には必要である。つまり、空気を破る「外圧」が必要
なのだ。社外取締役が、そうした存在になる。
ところがこの社外取締役義務化の法制化は、経団連などの反対で流れてしまった。組織全体が
腐っていくことに気付かず、空気を乱さないことを大事と考え、それが心地よいと考える。
そんな経営者がいまだに多いということだろう。そのなれの果てが、いま続けて起きている、
大企業の不祥事なのだ。
僕は講義で塾生たちに言った。「空気を乱すことを恐れるな」。大隈塾で学んだ若者たちが、
きっと日本を変える原動力になる、と僕は信じてやまないのである。
田原総一朗 公式ブログ 投稿日: 2013年11月11日
http://www.taharasoichiro.com/cms/?p=1145
411 :
名無しさんの主張 :2013/11/12(火) 23:48:15.53 ID:nGSQ0H54
今回の消費増税の大義名分は「社会保障政策との一体改革」が条件の筈。それに加えて「政府、行政(国会議員、公務員)」の「身を切る改革」が 同時進行条件だった筈が約束違反ではないか?「増税の前にやるべき事があるだろう(まずは、隗より始めよ!)」と云う国民の声がわかっているのか? (1)国会議員歳費¥1億円強/年間を75%削減、議員数1/2削減(2)公務員給与30〜50%削減、公務員数1/2削減(3)天下り禁止(4)行政官庁1/2へ削減廃止 (5)規制行政撤廃 (「規制緩和」でなく「規制撤廃」)(6)保護政策、利益誘導政策、既得権益、特定産業、団体への利益供与禁止、族議員活動の禁止 (7)企業団体政治献金の禁止、等 「安倍内閣」は国民との約束を守らないつもりか?それでこのまま「安倍政権」が続くと考えていれば大馬鹿野郎だ!! 安倍、福田、麻生、鳩山、菅、野田と同じ嘘つき、信用ならないろくでもない政治家達だ!!自民党は次回の選挙で悲惨な結果になる事、間違いない。
★博士課程の方々、あなた達は国や社会に見捨てられた民「棄民」です。 1
自分の人生は自分で切り開きましょう。
うさみのりやのブログ 最近は徐々にミリオタ化 公開日: 2013/11/14
さて先日twitterで大卒と博士課程卒の進路を端的に示した以下の図を紹介したところ結構な
勢いで広がっていきました。
皆さんご存知の通り、日本では多くの学生は
<みんなで高校まで一緒に進学 ? みんなで一斉にセンター試験 ? みんなで一緒に大学の
大部屋授業 ? 大卒or院卒でみんなで一斉に就活>
という超ガラパゴスなキャリア経路をたどるわけです。そんな中博士課程に行く人は正直、
院卒時点で就活が上手く行かなかったという人が2/3 or マジで研究したいことがあったという
人が1/3、というところでしょうか。そして前者の2/3にはとてつもなく残酷な現実が卒業後
襲ってきて、半分以上のケースで「無業」「非正規」「自殺」という三つのいずれかにたどり
着くわけです。(参考までにアメリカの就活というのはこんな感じ)
http://blog.btrax.com/jp/2012/02/02/get-job-america-eight-important-things/
★博士課程の方々、あなた達は国や社会に見捨てられた民「棄民」です。 2 あまり海外との比較でモノを語りたくないのだけれど、日本人だと仕事以外の異業種交流会的な 場で始めて挨拶する時も「私は○○社の○○というものでございます。今は○○という仕事を しております。」という挨拶をするわけですが、これが欧米人だとひっくり返って「私は○○ といいます。○○が出来て、○○という実績があります。(今は○○っていう会社にいるん だけどね)」、というような挨拶の仕方をします。日本人の場合はその人が今所属している 組織で人の価値や信頼度を測り、一方で欧米ではその人のスキルとこれまでの実績・業績で 人の価値や信頼度を測るわけです。0か100かではなく、あくまで傾向の問題ですがね。 だから向こうでは人の特性を図るような手法が発達して、日本ではなかなか浸透しない。 採用面接もその人が何が出来るかなんか実際のところほとんど関係ない。「伸び代」という 謎の言葉の下に社畜属性のみが審査される。こんな2chのスレッドもありますしね。
★博士課程の方々、あなた達は国や社会に見捨てられた民「棄民」です。 3 そういう「組織(≠チーム)を重んじる文化」があるが故に、多くの大学生がファーストキャリア で権威のある大企業を志向すると思うんですね。そして競争が過剰になり、その競争に敗れ 道から外れてしまうと二度と戻って来れない。みんな一斉で一度のチャンスしかないのだから。 博士課程まで行ってスキルを身につけた人がここまで就職に苦しむのは、「こいつは就活に 失敗した、コミュニケーション力に難がある問題児ではないか」、という逆の所属レッテルから 審査が始まるからだと思うんですよね。口では「異端児よ来い!」なんて言っている会社も、 面接している側が普通の社会人生活を送ってきた規範者なんですから、結果としては規範者が 採用されますよね(笑) かくの如く社会制度はムラ文化的で、閉鎖的な日本ですが、一方でネットは本当にオープンで フェアな世界と感じます。ブログを書いていても思うのが、「この人はどういう背景があって、 どんな主張をするんだろう」と能力と経歴をバランスよく見てくれる。僕の「元公務員」という 経歴は正直民間企業で就職活動するにはコンサルなど一部の業界を除いてはかなり不利なのだ けれど、ここでの情報発信の中身と質を見て声をかけてくださる人が沢山いる。ネットという 空間では自分の知識や出来ることや能力を最大限見える化できますからね。
★博士課程の方々、あなた達は国や社会に見捨てられた民「棄民」です。 4
そんなわけで、博士課程まで行っちゃった人、もう貴方は道から外れた人で、もう二度と戻れ
ません。覚悟を決めて自分をさらさないと、お先真っ暗ですよ。今のうちに自分のメディアを
持って、自分の能力を見える化して、自分のキャリアを切り開きましょう。じゃないと社会に
貴方達全員を受け入れる居場所はありません。
貴方達は国や社会に見捨てられた民、棄民なんです!
超ガラパゴスな日本型キャリアシステムから外れたのですから、貴方には自由があります。
その機会とこれまで培った能力を生かして、自分の人生は自分で切り開く努力をしましょう。
それは必ず報われます。
ではでは今回はこの辺で。
うさみのりやのブログ 最近は徐々にミリオタ化 公開日: 2013/11/14
http://usami-noriya.com/?p=2740
日本原人って世界的に見ても最底辺最悪な民族
417 :
名無しさんの主張 :2013/12/01(日) 18:35:11.18 ID:shA0Zcir
「安倍政権の特定秘密保護法案」は「どうしてそんなに急ぐのか?」不思議でならない。 福島原発事故後の復興、賠償、汚染水、除染問題、社会保障制度改革、国会と行政の身を切る改革等々、は 「どうしてそんなに遅いのか?やる気はあるのか疑わしい?」「故郷を奪われ、命を落とし、家族バラバラ、放射能被害 にあっているにも関わらず3年たっても仮設住宅のまま」「安倍内閣、政府、国会議員」は一体何をやっているのか? 「特秘法案成立」を急ぐ「数の力」を悪用する「安倍政権」の「素顔」が明確になった。「安倍政権打倒」を即刻始めよう! 全国民は土日祭日を重点的に自民党、公明党議員宅、国会議事堂、県庁、市役所等に集結し、「安倍政権打倒」の行動を起こそう!
★海自、いじめ自殺内部告発者の懲戒検討 文書持ち出し問題視 1 朝日新聞 DIGITAL 2013年12月8日05時44分 【高野遼】海上自衛隊の護衛艦「たちかぜ」乗組員の自殺に絡み、「いじめを示す調査文書が隠されている」と内部告発 した3等海佐(46)に対し、海自が懲戒処分の手続きを始めた。遺族らに「捨てた」としていた海自は告発後、原本が 見つかったと謝罪していた。特定秘密保護法で行政機関の情報隠しが懸念される中、秘密でもない文書への内部告発まで 萎縮させる隠蔽(いんぺい)体質が、改めて浮かび上がった。 3佐は2008年の告発時、調査の関連文書のコピーを証拠として自宅に保管していた。海自はこれを規律違反だと主張。 3佐は「正当な目的であり、違反にあたらない」と争う構えだ。内閣府の審査会は今年10月、「不都合な事実を隠蔽しよ うとする傾向がある」と海自の姿勢を厳しく批判。海自の現役事務官も、遺族が国を相手に起こした損害賠償請求訴訟で 「上司から文書を『捨てろ』と命じられた」とする陳述書を提出している。 海自は乗組員が04年に自殺した直後、「たちかぜ」の乗組員190人にいじめの有無を尋ねたアンケートを実施。 しかし遺族が05年に情報公開請求すると、原本は破棄したと答えた。3佐は当時、遺族の訴訟を担当。職場に原本が あると知り、08年に防衛省の公益通報窓口に告発したが、海自は認めなかった。 このため12年4月、「海自は文書を隠している」とする陳述書を東京高裁に提出。海自が再調査し、破棄は撤回された。 海上幕僚監部広報室は朝日新聞の取材に対し、「個人のプライバシーを侵害する恐れがあるため回答を控える」としている。
★海自、いじめ自殺内部告発者の懲戒検討 文書持ち出し問題視 2
◇
〈「たちかぜ」乗組員の自殺〉 2004年10月、乗組員(当時21)が東京都内で電車に飛び込み自殺した。
遺書には先輩隊員から暴行を受けたと記されており、後輩隊員らがエアガンで撃たれたり、アダルトビデオの買い取りを
強要されたりしたことが発覚。遺族は「先輩隊員のいじめが原因」と約1億3千万円の賠償を求めて提訴した。
横浜地裁は11年1月、いじめを認め、国と先輩隊員に計440万円の支払いを命じた。遺族が控訴し、訴訟は継続中。
2013年12月8日05時44分 朝日新聞
http://www.asahi.com/articles/TKY201312070406.html
420 :
名無しさんの主張 :2013/12/13(金) 16:05:07.02 ID:4v+jNi4s
北川 本波 横浜湖 栃木 靖国
421 :
名無しさんの主張 :2013/12/16(月) 17:23:30.35 ID:PnPKLBRg
平成25年末。26年新春。
★「おだやかな日常」:日本ムラ社会への異議申し立て 1 大江戸時夫の東京温度 2013年1月 3日 (木) 映画『おだやかな日常』は、あの忌まわしい緊急地震速報のチャイム音から始まります。 3.11およびアフター3.11を題材にしたこれまでの映画の中では、最も感銘を受けました。 また、あの頃の記録的意味合いからも、非常に意義のある作品です。 直截に被害状況や現地を描写するわけではなく、二人の女性とその周囲の人々を通して、 この大災害(=主に原発事故)がもたらしたあれこれを描くのですが、シリアスでデスパレートで、 終始胸が苦しかったです。それは、あまりにも身近というか、「私たちの記録」と言いたいほど、 2011年春の日本人の記憶や気分や感情を映像に定着させているのです。 しかし本作では災害自体よりも、災害によってあぶり出された日本社会の「病い」を、 より克明に描写していきます。 全体主義の恐怖と、日本社会が実は民主主義の衣をまとった 全体主義=ムラだということを、これでもかと叩きつけます。男社会も女の社会も同様に 歪んでます。そこでは突出した個人はおろか、個人の自由な意思や真実が、「出る杭」として 叩きつぶされていきます。
★「おだやかな日常」:日本ムラ社会への異議申し立て 2
マジョリティーと言う名の暴力。こういう国民は政治家にとって、誠に扱いやすいもの
でしょう。たやすく誘導できてしまう。もっとも、この国では政治家もアレなんで、
国民をうまく操作などできていません。そういう意味では、バランスが取れているって
言うことができるんでしょうかね。
ある意味、過敏なまでに放射能を恐れるようになった女性の描写としては、園子温の『希望の国』の
戯画化した描写よりもしっくり来ましたし、より迫るものがありました。
ラストあたりに垣間見られる「希望」のかけらは、作劇としては甘っちょろい気もしますが、
これがあって良かった。これがないと、あまりにも辛すぎます。そんな暗いばかりの映画は、
時を経て残っていかないのです。このラストがあったからと言って、本作の問題提起が弱まるって
ことはないのです。「見て見ぬふり」をして、何もなかったかのように「おだやかな日常」を
送ることの欺瞞と狂気を、我々は自らの問題として問いかけねばならないのだと思います。
大江戸時夫の東京温度 2013年1月 3日 (木)
http://oedo-tokio.cocolog-nifty.com/blog/2013/01/post-eb16.html
謙虚さと反省を知らず、ひたすら孤立化の道を進むダウン症日本民族 今こそ畜生たちの殲滅の時
★「社員は家族です」という経営者の甘え 1 会社はあくまでも「取引先」でしかありません。 日野 瑛太郎 :ブロガー 2014年01月16日 こんにちは。「脱社畜ブログ」管理人の日野瑛太郎です。 ビジネス雑誌などを読んでいると、たまにインタビューなどで「社員は家族です」といった 発言をする経営者を見掛けることがあります。 こういうことを言う経営者は、おそらく「うちの会社は、社員一人ひとりを家族のように大切に する会社です」ということをアピールしたいのでしょう。社員の側からすれば、会社がそんなふうに 自分たちを大事にしてくれるというのであれば、心強いということになりそうです。 でもこの言葉、本当にそのまま好意的に受け取ってしまってよいものなのでしょうか? 「社員は家族です」と社長が言っている会社にかぎって、実は連日深夜まで残業させられたり、 有給休暇が全然とれなかったりすることが多かったりもします。一部では、「社員は家族です」 という言葉は、「アットホームな職場です」という言葉と並んで、ブラック企業を強く推定させる ワードだから気をつけなければならない、とさえ言われています。 そこで連載5回目の今回は、この「社員は家族です」という言葉の真意を探り、そこから会社との切な付き合い方について考えてみたいと思います。
★「社員は家族です」という経営者の甘え 2 相手を「身内」だと思うことから甘えが始まる 「社員は家族です」という考え方に賛成できないのは、このような考え方によってどこまでも社員が 「身内扱い」されてしまう点にあります。 実際の家族でもそうですが、「身内」にはどうしても「まあ、いいか」という甘えの気持ちが 出てしまうものです。 たとえば、あまり楽しい例ではありませんが、子供が親の財布からおカネを盗んで遊びに使って しまったとします。これが親子の関係でなければ、ただちに警察に届けて犯人を逮捕してもらいたい、 という話になると思うのですが、盗んだのが「身内」の場合は、ここまで厳しく追求しようとは あまりしません。盗みを働いた子供も、相手が親という「身内」だからおカネを盗ったのかもしれません。 相手が「身内」だと、相手が「他人」の場合に比べて、約束やルールを守ることについての意識が 緩みがちになってしまいます。 これは会社と社員の場合であっても、同じです。
★「社員は家族です」という経営者の甘え 3 社員を「身内」のように考えていると、「今は会社が大変なときだ、だから残業代を払うのは 勘弁してほしい」であるとか、「このプロジェクトがコケると会社が傾く、悪いがこれから1カ月、 休みはないと思ってくれ」といったような、約束の範囲を超えたむちゃな要求が飛び出すように なります。 本来であれば、「残業代は払えない」であるとか「1カ月は休みなく働いてくれ」というのは、 完全にルール違反です。会社には社員にそこまで要求する権利はありませんし、社員も別に そんな要求に応えなければならない義務はありません。それでもこういうむちゃな要求をして くるのは、「身内」だから多少のルール違反でも大目に見てもらえるのでは、という甘えが あるからではないでしょうか。 「社員は家族です」という言葉は、裏を返せば「身内なんだから、多少のむちゃや約束破りも 大目に見てよ」ということでもあるわけです。
★「社員は家族です」という経営者の甘え 4 「社員=家族」なら社員に会社から逃げ出す自由はない 「社員は家族」という考え方が大きく問題になるのは、会社の業績が悪くなってしまったときです。 家族は基本的に、辞めることができません。 養子縁組であるとか勘当のような例外はあるにせよ、基本的に家族はずっと家族です。 磯野家の家計状態が悪化したからといって、磯野家を辞めて家計に余裕がありそうな中島家の 家族にしてもらおう、というわけにはいかないのです。問題が発生したら、家族は団結してその 解決にあたらなければなりません。 これは、会社が社員を「家族」と呼ぶ場合にも、そのままあてはめられてしまいます。 会社の業績が悪化しているのであれば、「家族」である社員は一丸となって、会社を立て直す ために各自必死に働くことが求められます。 緊急事態ですから、プライベートなんて二の次です。間違っても「未来のない会社にはさっさと 見切りをつけて転職しよう」なんて考えてはいけません。家族なんですから、会社が潰れるなら 潰れるそのときまで、会社のために尽くし続けなければならないのです。
★「社員は家族です」という経営者の甘え 5 「社員は家族」と考えることは、社員を家族のように大事にするという一方で、会社が危ない ときには社員に会社と運命を共にすることを強要しているということでもあります。 日本経済が右肩上がりで成長していた時代だったら、会社と一蓮托生でも幸せになれたかも しれませんが、今やどんな大きな企業であっても将来のことはわかりません。そんな時代に、 運命共同体として会社と緊密な関係を築いてしまうのは、ものすごく危なっかしいと感じて しまうのは僕だけでしょうか。
★「社員は家族です」という経営者の甘え 6 会社はあくまで「取引先」、状況次第でいずれ別れるときもくる これからの時代、会社との付き合い方は冷静に考える必要があります。 時には会社にコミットするのもいいでしょうが、それでも自分の中のどこかには、会社と自分の 関係を客観的に判断する視点を持ち続けるべきです。第2回でも書いたように、自分はあくまで 「雇われにすぎない」ということを忘れてはいけません。会社の将来が危ないのであれば、 経営者と同じようにプライベートを返上してそれを立て直そうとするのではなく、新しい 働き先を探すようにしたほうがはるかに健全です。 お勧めなのは、勤め先の会社を「取引先」だと考えることです。自分を個人事業主であると 仮定して、今の勤め先の会社と取引をしているのだ、と考えながら働くようにすると、会社と 適切な距離が保てるようになります。
★「社員は家族です」という経営者の甘え 7 もちろん「取引先」とは誠意を持って接しなければなりませんが、それでもずっと運命を共にする 必要はありません。時間が経てば、お互いに状況は変化します。お互いのためにならないと思ったら、 そのときは別々の道を行けばいいのです。 取引先の業績が悪いというのであれば、新しい取引先を探す(転職する)のは普通のことです。 間違っても、会社と心中するなんてことはありえません。 このような考え方は、一見、冷徹なように思えるかもしれませんが、会社と社員がお互いに適切な 距離を保つことは、経営者と社員双方が「甘え」の気持ちを持たなくなるという点でも意義があります。 家族のような身内だと、どうしてもなあなあになってしまい、お互いに約束が守れなくなったりする ことがありますが、「取引先」は完全な他人ですから、約束はしっかり守らなければなりません。 残業をすれば当然、残業代は払われますし、一方で社員の側も、給料の額に見合うだけの仕事を きっちりと果たす責任があります。 お互いに「よい関係」であるためには、距離は近すぎてはいけないのです。
★「社員は家族です」という経営者の甘え 8
会社と「取引先」として付き合うために
それでも多くの会社は、社員に対して会社との距離を縮めることを強要してきます。最後に、
そういった強要に打ち勝って、会社と「取引先」として付き合う心を忘れない方法を紹介しましょう。
いちばん手っ取り早いのは、転職サイトに登録することです。
別に、本当に転職しろと言っているわけではありません。ただ、「転職する未来だってある」という
ことを意識できれば、それで十分です。転職サイトで求人を眺めているだけでも、今の会社でずっと
働くだけが未来ではないんだ、ということがよくわかります。本当に転職したいと思ったら、
そのときは本腰を入れて会社を探せばよいでしょう。
あるいは、規模は小さくてもよいので、会社とは関係ない自分のためのビジネスを始めてみるのも
お勧めです。
そういうビジネスで本当に満足行くだけのおカネを得ることは、決して簡単ではないですが、少なくとも
チャレンジするだけで「今の会社がすべてではない」ということは意識できるようになります。
みなさんが、会社とうまく距離を保ち、健全な関係を維持できることを祈っています。
※書籍『あ、「やりがい」とかいらないんで、とりあえず残業代ください。』?刊行記念キャンペーン
開催中です!?詳しくはコチラから!
http://toyokeizai.net/articles/-/28268
434 :
名無しさんの主張 :2014/01/21(火) 15:44:31.74 ID:6wvwq1R4
カラオケカバー 獄中アイフォン カラアゲ カラハゲフォン ぺヤングヤキソバin博多
★訪日外国人1000万人時代が到来。だが日本は本当に観光立国を目指しているのか? 1 ニュースの教科書 2014年1月23日 政府観光局は2014年1月17日、2013年の訪日外国人数が1036万人だったと発表した。過去最多 だった2010年の861万人を大幅に上回った。日本政府は訪日外国人旅行者数を1000万人とする 目標を立てており、昨年12月にこれを達成した。最終的な訪日外国人数が発表されたことで、 あたらためて1000万人来日時代に入ったことが確認された。 とりあえず日本政府による外国人観光客誘致の最初の目標はクリアしたわけだが、重要 なのは今後の展開である。 このところ日本は輸出の減少と輸入の拡大が続いており、慢性的な貿易赤字体質となっている。 この傾向は今後も続く可能性が高く、輸出で外貨を稼ぐという時代は完全に終了したと考えてよい。 外国人観光客を積極的に誘致するという目標を政府が掲げているということは、観光を大きな 産業に育て、外貨獲得や雇用拡大の手段にするということを意味している。だがグローバルに 見た場合、1000万人という数字は観光業としてはあまりにも小さすぎるというのが現実である。
★訪日外国人1000万人時代が到来。だが日本は本当に観光立国を目指しているのか? 2 一般に観光業が盛んな国というのは、長い歴史があり、1000万人規模の大都市を擁している ことが多い。日本はこの条件を満たしているのだが、日本が受け入れる外国人観光客の数は、 同じ条件の諸外国と比較すると異常に少ない。英国は毎年3000万人、米国や中国は6000万人、 フランスにいたっては 8000万人もの観光客が訪れている。これほど観光客が少ないのは実は 日本だけなのである。 地理的条件が不利であることをその理由にあげる人も多いが、場所が近い中国が日本の6倍もの 観光客を受けれている事実を考えると、それはあてはまらない。やはり潜在的な集客力に 比べて、実際の成果が追い付いていないと考えるべきだろう。 もし日本が本当に観光業を大きな産業に育てようというのであれば、この規模では国際競争力 という観点でまったくお話にならない。少なくとも3000万人以上の訪問がなければ、観光という 世界マーケットで一定の影響力を持つことは難しく、日本経済に対しても目立った効果はない だろう。だが今後、数倍の外国人観光客を本気で受け入れるとなると、国内でもそれなりの 覚悟が必要となってくる。
★訪日外国人1000万人時代が到来。だが日本は本当に観光立国を目指しているのか? 3
1000万人程度ではあまり意識されなかったかもしれないが、これが3000万人、5000万人と
なってくると、それに比例してトラブルも数多く顕在化してくることになるからだ。
日本人の中で、ホンネの部分では外国人に来て欲しくないと思っている人はかなり多いと
考えられる。1000万人では大きな問題にはならないが、3000万人になるとこれは確実に大きな
障害となる。国際化というとすぐに英語という短絡的な発想になりがちだが、問題の本質は
そこではない。
まったく異なる思考回路や価値観の人間が存在するということを前提に物事を考えるという、
ムラ社会では経験したことのない行動様式が求められることになる。また外国人向けにビジネス・
インフラを整備するとなると、場合によっては既存の産業が衰退するところもでてくる。
こうした部分での利害調整もより面倒になってくる。
日本が持つ潜在力を生かして、大量の外国人観光客を受け入れることができれば、今後縮小が
続く日本経済に確実にプラスの影響を与えることができる。しかし、それは中途半端な体制では
実現することはできない。外国人観光客を本当に増加させ、観光を基幹産業の一つとして育てる
つもりがあるのか、そして、そのデメリットも含めて受け入れる覚悟はあるのか、日本人は
決断しなければならない時期に来ている。
http://news.kyokasho.biz/archives/21232
438 :
名無しさんの主張 :2014/02/04(火) 20:55:14.25 ID:++q9hFMW
チャイニーズ空気プレン 沖縄海中華焼きそば チャイニーズ空気プレン 沖縄海中華焼きそば レディオスペシャル チャイニーズ空気プレン 沖縄海中華焼きそば チャイニーズ空気プレン 沖縄海中華焼きそば
★臨床改ざん疑惑、厚労省が告発者名を漏洩 研究責任者に
アルツハイマー病の治療法確立を目指す国家プロジェクト「J―ADNI(アドニ)」を巡り、
厚生労働省が臨床研究データの改ざんを指摘する実名入りの内部告発メールを無断で
告発対象の研究チームの責任者に転送していたことが分かった。
内部告発者の人権を著しく損なう行為で、国家公務員法(守秘義務)や内規に触れる可能性もある。
厚労省が国家プロジェクトを守るため疑惑をもみ消そうとしたとの疑念も招いており、
厚労省の調査への信頼が揺らぐのは必至だ。
厚労省認知症・虐待防止対策推進室によると、担当専門官に「改ざんが数十例ある」
というメールが届いたのは昨年11月18日。J―ADNI事務局側がデータの書き換えを
指示した文書と、その通りに書き換えられた検査記録が添付されていた。
専門官は翌日、「研究チーム内で対処すること」と判断し、代表研究者の岩坪威東大教授に
そのままの文面と添付資料をメールで送ったという。
(以下ソース)
http://www.asahi.com/articles/ASG1K4DFCG1KUUPI11B.html
★厚労相、内部告発として扱わず臨床改ざん調査消極的
2014年1月28日23時10分
厚生労働省がアルツハイマー病研究の国家プロジェクト「J―ADNI(アドニ)」のデータ
改ざんを指摘する内部告発メールを研究チーム責任者に漏洩(ろうえい)した問題で、
田村憲久厚労相は28日の記者会見で「告発として受け止めると、厚労省も調査に
入らなければいけなくなる」と述べ、内部告発として扱わない考えを示した。
内部告発として受理すると、厚労省は公益通報者保護法施行に伴って政府が定めた
ガイドラインなどに従い、告発内容を調べなければならない。厚労相発言は国費
約30億円が投入される国家事業の疑惑解明に後ろ向きな姿勢を示すとともに
公益通報制度の根幹を揺るがすものだ。
厚労省はメールに加え告発者と2度面談し、改ざんの訴えを聞いた。
告発者は朝日新聞の取材に「私は証拠書類を添えてデータ改ざんを内部告発したが、
厚労省はもみ消そうとしている」と話す。
http://www.asahi.com/articles/ASG1X519FG1XUUPI001.html
★英語コミュニケーションはなぜ上達が難しいのか(その1) 1 --- 江本 真弓 今やどこでも英語を話す世界 年末年始にドイツ・オランダに滞在し、今更ながら国際言語としての英語の存在を実感した。 同時に、日本人もいい加減に英語コミュニケーション力を向上させなければ、世界から 取り残される恐怖を感じた。そこで、日本人が、英語コミュニケーションが苦手な原因と、 その克服について考察をしてみた。 一緒に過ごしたイギリス人・ドイツ人・オランダ人達との共通言語が英語というだけではない。 彼らは仕事で、プライベートで、当たり前にダイナミックに世界を動き回り、様々な人種・ 国籍の人達と英語という共通言語を通して情報と意見を交換し、その情報と意見を更に お互いに交換する。圧倒的な迫力だ。ドイツ・オランダでは今や小さな街でも英語が通じる。 この街も良いよ。この季節なら面白いフェスティバルがあるのに。これを食べなきゃ。 これを飲まなきゃ……。ああ人生は短すぎる。
★英語コミュニケーションはなぜ上達が難しいのか(その1) 2 筆者の英語コミュニケーション力発展の軌跡 著者は1990年代前半にロンドン大学に留学し4年滞在した。渡英当初は英語が全く話せなかった。 常に日本人同士で群れる日本人になるのも嫌だったが、最初から外人集団には入れるわけもない。 どうしたものかとうろちょろしていたら、海外育ち日本人学生と出会えた。親の仕事で人生の ほとんどを海外で過ごしてきた現地校出身の彼らは、「日本から来た日本人」に懐かしみを 込めて親しくしてくれた。彼らから色々な場面の現場で、英語でのいい方、振る舞い方、日本人に 重要な上達のコツを教えてもらえたことで、筆者の英語コミュニケーション力は発達するようになった。 とはいえもちろん一足飛びに話せる程甘くはない。初めは寮の料理清掃スタッフを相手に会話量を 増やす。彼らの多くは移民者で、英語が話せない苦労を分かち合えた。次に香港系やアジア系。 当時はベルリンの壁崩壊直後で東欧系の学生達も多く、英語と西側文化にまだ馴染んでいなかったが やる気に満ちていた彼らともやがて親しくなり、更にヨーロッパ各国留学生達とも仲良くなった。 シャイでヒネたイギリス人とも、馬が合うようになった。卒業後は帰国し、その後ボキャブラリーは 増えないが、世界中の友人を通して新しい友人も増え、交流が続くにつれ筆者の英語コミュニケーションは より洗練されてきた。
★英語コミュニケーションはなぜ上達が難しいのか(その1) 3 日本人が英語コミュニケーションの向上が難しい原因 しかし大学留学生でも、英語コミュニケーション力を身に付ける日本人は、残念ながら少数派だ。 なぜ日本人にとって、英語コミュニケーション力を身に付けることがこんなにも難しいのだろうか。 日本語の特殊性と日本の受験英語の読み書き偏重がしばしば指摘されるが、それだけであれば 時間をかければ乗り越えられる。英語脳や英語舌説は迷信。日本人には、英語コミュニケーション力 向上への前向きな取り組みを妨げる「心理障壁」があるのだ。 イギリスでの大学留学時代を思い返すと、日本人留学生は外国人集団に馴染む日本人と、そうでない 日本人に分かれた。もちろん後者が多い。後者にも2つのタイプがあり、授業以外では常に 日本人同士でいる日本人と、常に一人でいる日本人。どちらも当然英語コミュニケーションは 伸びなかった。 自国出身者と仲良くするのは他国留学生も同じだった。だが彼らは他国の人間とも交流し、 英語も上達した。一方日本人の集団には、独特な2つの特徴があった。まず日本人同士で、 「自分は英語を話せているフリ」をする。次に本当に話せる日本人は別格視する、筆者が 海外育ち日本人たちと仲良くなりだした頃、その何人かが筆者のところにきて、言ったものだ。 「あなたは彼らとは違うのだから、彼らと付き合ってはいけない」。
★英語コミュニケーションはなぜ上達が難しいのか(その1) 4
当時は典型的な日本人のムラ意識とスルーした。がよく考えれば「自分は英語を話せているフリ」
だの「既に話せる人を別格視」だの、変な話だ。英国大学への留学生であるからには、外国人との
英語コミュニケーション力を身に付ける事は皆の共通目的だ。なのになぜ、日本人の仲間内で
「英語を話せているふり」をしなければいけないのか。既に英語が話せる日本人に教え乞う
のではなく、別格視して近づかないのだろうか。更に近づこうという仲間の足を引っ張ろうと
するのだろうか。
目的に対して最も非合理的な選択をする場合、たいていは何か合理的選択を妨げる「心理障壁」が
あるものだ。これについて最近「これだ」と思い当たった言葉があった。公共交通機関での
幼児の是非をめぐって、しばしば指摘されている言葉だ。
江本 真弓
江本不動産運用アドバイザリー 代表
http://agora-web.jp/archives/1580267.html
445 :
名無しさんの主張 :2014/02/09(日) 03:13:27.67 ID:rl/CSST0
★英語コミュニケーションはなぜ上達が難しいのか(その2) 1 --- 江本 真弓 日本の「不寛容社会」に縛られる日本人 最近「日本は弱者に厳しい不寛容社会」という言葉を耳にする。最近公共交通機関での幼児の 是非をめぐってしばしば耳にするようになった言葉だ。 「他人に迷惑をかけない」主義日本では、赤ちゃんを連れた母親、身体障害者等他人に迷惑を かけざるを得ない弱者は、排除されるべき者として攻撃を受ける。 ところが日本のこの健常な強者も、英語コミュニケーションの初期段階では、弱者にならざるを 得ない。簡単な言葉が通じさせられない。何度も聞き返される。マナーを外す。相手に迷惑を かける。英語学習の一時期は、誰でも公共交通機関での赤ちゃんと母親立場だ。 「他人に迷惑をかけたくない」日本人は、だから初期段階では、上手く話せないという理由で、 外国人相手に話すことに苦手意識を持つ。「外国人に話しかけられて頭が真っ白」とは日本人は 当たり前のように言うが、そのような緊態が生ずることは、本来おかしい。
★英語コミュニケーションはなぜ上達が難しいのか(その2) 2 だからと日本人同士でいれば、そこは弱者が攻撃される日本の「不寛容社会」。「弱者」の 立場である「英語コミュニケーション初期段階」であることを、さらけ出せない。明らかに レベルの高い出来る人は、「別の存在」に神格化しておく。意識はそのままで無理に日本人社会と 距離を置いても、「他人に迷惑をかけたくない」日本人意識が強い間は友達を作れないから、 英語コミュニケーションは上達できない。全くこれでは英語も英語コミュニケーションも 上達できるわけがない。 つまり日本人は、日本の「不寛容社会」が作り出す、過剰な「他人に迷惑をかけられない」 「攻撃される弱者にはなれない」恐れが「心理障壁」として立ちはだかり、英語コミュニケーションの 最初の一歩を乗り越えられないわけだ。なんて大変な日本人。 もちろん英語コミュニケーション向上への最初の1歩を歩んでも、その先にも日本人特有の 大きな障害が待ち受けている。自己主張に慣れておらず依存が強い日本人は、相手から聞かれた 事に答えることはできても、自分から話を展開して相手を惹きつける事が難しい。ただこれは 英語コミュニケーションの数を重ねれば、改善していく。
★英語コミュニケーションはなぜ上達が難しいのか(その2) 3 それでも日本ももはや英語から避けて通れない 日本人が日本の「不寛容社会」から受ける「心理障壁」のせいで英語コミュニケーションの 習得が難しいからといって、ミラクル高度経済成長もミラクル電化製品を次々打ち出した 神話時代の終焉した日本をいつまでも特別視してくれるほど、世界も甘くない。 くどいようだが今の国際社会での英語は、単なるアメリカ人やイギリス人の言語ではない。 母国語に関係なく誰もが対等に話すための言語だ。世界はいまや、単なる見聞の場ではなく、 英語を介して対話と議論を広げるコミュニケーションの場だ。それも特別なエリートだけではなく、 街の市民の誰にとっても、だ。日本人がそのコミュニケーションの和に加われなければ、 世界の流れと関心から取り残されるだけだ。筆者もそうだが、世界のどこでも英語で通じる 世界を知った世界の人間にとって、英語が通じない世界はもはや耐え難いストレスなのだ。 2020年には東京オリンピックが開催される。それだけではない。少子高齢化の急激な進行で、 既に1千兆円を超える借金大国日本は今後、国内だけでは現在の社会経済規模を支える事は 出来なくなる。それでも社会経済を発展させるには、世界との関係が欠かせない。
★英語コミュニケーションはなぜ上達が難しいのか(その2) 4 一人でも多くの日本人が、世界の英語コミュニケーション和の中に加わる事は、世界の中での 新たな日本の存在感を作るだけではない。日本人の一人一人が、世界との繋がりを確認する ことで、新たな世界を広げ、これからの日本の諸問題に立ち向かう原動力を得ることができるのだ。 日本人同士で気楽に自発的に、英語で話す場を増やそう ではどうすれば「心理障壁」を乗り越えて、日本人が英語コミュニケーションを上達させる ことができるのか。 筆者の経験から言っても、基礎の英語単語力と文法力はある日本人は、英語コミュニケーションの 量さえ確保できれば、必ず上達する。更に言えばやはり、最初のうちは同じ文化背景を持ち、 微妙な感覚やニュアンス、間を共有できる日本人同士での英語コミュニケーションのほうが、 会話を続けやすい。つまり日本人に対する「心理障壁」の方が乗り越えやすい。
★英語コミュニケーションはなぜ上達が難しいのか(その2) 5 だから月並みなようだが、日本人同士で気軽に英語で話をしてみる場を増やすことが、最も 効果が高い。既に一部の日本の新鋭企業では英語が社内公用語に採用され、英会話教室や 英語サークルも盛んだが、限定された場では新たなムラを作り、教えられたり仕切られたりでは 依存が残る。そうでなく、教えられたり仕切られたりすることなく、他人の評価の目を気にする ことなく、手持ちの語彙と文法で、自発的に英語での意思疎通に挑戦出来る場が望ましい。 そして自発的に会話をリードする意欲が大切だ。 とにかく安心して「たどたどしくも自発的に英語で会話をつなげる時期」を経れば、誰でも 英語コミュニケーションは上達する。筆者でさえ、上達した。子供の成長と同じだ。この一歩 さえが踏み出せれば、その先には広い世界が開ける。 これは次世代なんて悠長な話しではなく、全ての大人の日本人に提案したい。一人一人が自らの 「心理障壁」を乗り越える機会として。もし、それでは今度は英語の話せない日本人が虐められる と思うなら、その時こそ「不寛容な日本」を問題にすればよい。
★英語コミュニケーションはなぜ上達が難しいのか(その2) 6
普通に英語が通じることが最大のおもてなし
2020年東京オリンピックに向けて、「おもてなし」がさかんに言われる。しかし日本に来た
外国人に対しての最大の「おもてなし」とは、英語でコミュニケーションがとれることだろう。
なにしろ言葉が通じないストレスは、日本人こそよく知っての通りだ。
別に流暢に日本文化や政治社会を説明する必要はない。道で迷っている外国人に道を説明する。
近くの美味しいレストランや居酒屋を教えてあげる。赤ちゃんをあやしてあげる。レストランや
居酒屋で美味しいメニューを教えてあげる。そういう普通の気遣いができた上でこその、
日本の「おもてなし」だろう。
筆者は先日オランダの小さな街のレストランで、素敵な経験をした。オランダらしい食事を
食べたいという筆者の希望に、オランダ人の若いウェイトレスが、オランダ語のメニューを
簡単な英語で説明をしてくれていたのだが、途中で言葉に詰まった。と、彼女は店内を振り向き、
他の客達に向かってオランダ語で何かを叫んだ。オランダ語は判らないが彼女が何を言ったかは
判った。「このメニューを英語でどう言えばよいかわかる人いますか?」店内のあちこちの
テーブルからメニューを説明する英語の声があがったからだ。すっかりオランダ人に好感を
持ったことは、言うまでもない。
江本 真弓 江本不動産運用アドバイザリー 代表
http://agora-web.jp/archives/1580268.html
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453 :
名無しさんの主張 :
2014/02/11(火) 18:26:49.27 ID:zwY+D+Kb >>1 漆間巌警察庁長官が「捜査費」で宴会を開いていた!
http://incidents.cocolog-nifty.com/the_incidents/2005/09/post_cc21.html 漆間巌(うるま・いわお)警察庁長官(60歳)が愛知県警察本部長時代
(1996年8月20日〜1999年1月8日)、「捜査費」(国費)で宴会を開いていたことが、
筆者が情報公開法により入手した「3月分捜査費明細書」という文書からわかった。
「捜査費」はその名前のとおり、「捜査」に使う費用。それが漆間本部長(当時)らの飲み食いに
使われていたとなれば、国民から強い批判が巻き起こるのは必至だ。
漆間本部長(同)が「本部長激励慰労」なる宴会を開いていたのは、
「平成9年(1997年)3月6日」。場所は「名城会館」(名古屋市北区・現在は存在しない)で、金額は「150,000円」。
このような宴会が「捜査費」でまかなわれているのは違法ではないのか。
愛知県警総務部会計課は、次のとおり説明する。
「捜査費の激励慰労費は、捜査活動に要する経費のうち、長期にわたる重要事件および
困難な重要事件の捜査等に従事する捜査員等に対する簡素な激励のための経費です」
あくまでも「捜査」にかかる「経費」だから、違法ではないということらしい。
しかし、いくら「激励」という名目があっても、身内の飲み食いが税金で支払われなければならない理由はない。
財務省主計局は、こう話す。
「警察庁から『激励慰労費は、単純な飲み食いとは違い、現場の捜査員の率直な意見交換に必要な経費』と説明されています」
だから「経費」として認め、予算をつけているということらしい。
しかし、「飲み食いしながらでなければ、率直な意見交換ができない」などという理屈は、税金支出上、
絶対に認めるべきではないし、そのような組織が捜査しているから、検挙率が26.1%(2004年)と低迷しているのである。
筆者は漆間長官にもインタビューを申し込んだが、
「個別案件についての長官へのインタビューは応じておりません」(警察庁広報室)と拒否された。