多値論理 もう1つの手法として、多値論理を使う方法がある。 「砂山」か「砂山でない」かという2つの論理状態の代わりに、例えば「砂山である」/「不確実」/「砂山でない」という3値の体系を用いる。 しかし、3値体系はこのパラドックスの真の解決策ではない。なぜなら「砂山である」と「不確実」の境界、「不確実」と「砂山でない」の境界という問題が依然として残っているからである。 ファジィ論理であれば、論理状態の連続的な変化を扱える。 例えば、「砂山である」/「ほぼ砂山である」/「一部砂山である」/「少し砂山である」/「砂山でない」といった状態にさらに中間の無数の状態があると考えるのがファジィである。 従ってファジィ集合論を使えば、砂山のパラドックスは単に「砂山である」から「砂山でない」へと連続的に状態が変化しているものとして表される。
履歴現象 この関数は、どのようにして現在の状態になったかに依存する多値関数である もう1つの手法として履歴現象、すなわち砂の集合体がどういう形で始まったかという知識を使う手法がある。 ある量の砂が最初からあれば、それは砂山と呼ばれる。 (それ以前の状態は問わない)大きな砂山(明らかに砂山と呼べる量)が少しずつ削られていったとして、数粒の砂にまで減ったとしても「砂山状態」という属性は保持される。 一方、砂粒を少しずつ集めて同じ量になったとする。 この場合は出発地点が異なるため、砂山とは見なされない。 この手法が暗示しているのは、「砂山」という言葉の意味は系の状態量ではないということである。 砂の集まりが「砂山」か否かには、その履歴が関与する。
集団的合意 集団の合意によって「砂山」という言葉の意味を決めることもできる。 この手法は、砂粒の集まりがどれだけの量になれば「砂山」と呼べるか、集団の各人の大半が納得する定義を決定することである。 言い換えれば、集団の各人の考え方の分布の期待値で「砂山」の意味を確率的に決めるといえる。 例えば、ある集団では次のように決めるかもしれない。 一粒の砂は砂山ではない。 大量の砂粒は砂山である。 この2つの極値の間で、その集団の各人は必ずしも個々の量の砂を砂山と呼ぶか否かについて合意できているとは限らない。 各人の意見を集約すれば、明確に「砂山」か否かが決定されるのではなく、ある量の砂についてそれを「砂山」と呼ぶ確率が 0 と 1 の間の何らかの値に定まるだけである。 この手法は用語の意味をしっかり定義するという点で便利である。 明確な言葉は、その言葉の使用が妥当かどうかを他人が納得できる機構を持っている。 曖昧な言葉はそのような機構を持たない。 ある人が身長2メートルの男の背が低いと言った場合、その人はプロのバスケットボール選手を基準としているのかもしれない。 曖昧な言葉は合意が形成されている場合には便利だが、その範囲外の使い方をすると混乱を生じさせる。 砂山のパラドックスは単に、人が曖昧な言語をどのように使うのかについての論理的分析を示したものである。 それは、曖昧な言葉の定義に万人が合意すると仮定することが誤謬であることを示している。 ある人々はその使い方を正しいと判断したとしても、万人がそれに合意するわけではない。 合意形成の手法は「砂山」の定義を主観的な定義から客観的な定義に変えるものである。
つ旦
現象意識のパラドックス 心身問題に関わるパラドックス。 デカルトの時代以来続く、心的なものと物理的なものとの間の相互作用に関わる困難についてのパラドックスの現代版。 これは、現象意識やクオリアと呼ばれる意識の主観的側面を物理状態と分けて考え、かつ物理的なものが因果的に閉じていると仮定すると、現象意識やクオリアについてなされる判断や報告には現象意識やクオリアが因果的に全く関わっていないという事になる、という問題。 クオリアの問題に関する物理主義的立場に関して、直感的に最も疑わしさを与える論証が哲学的ゾンビまたは逆転スペクトルといった想像可能性にもとづいた議論であるのに対し、二元論的立場を最も疑わしくさせる論証は、因果と関わるこの現象判断のパラドックスの議論である。 この二つの問題は、一般に互いに対になって語られる。
応答 このパラドックスに対する反応は、様々である、以下代表的なものを挙げる。 ■ゆえにクオリアに対して二元論を取ることはできない 主に物理主義と呼ばれる立場からの応答。 脳と物理的に相互作用しないモノについては、そもそも語る事も気づく事もできない。 それゆえクオリアの存在論に関して二元論的立場をとることは根本的な矛盾をはらんでおり、そうした立場を意味ある形で成立させることはできないと主張する。 ■このジレンマを解決することはできない、つまり意識の問題は解けない 主に新神秘主義と呼ばれる立場からの応答。 ■自然の基本的な構造の現れである 主に自然主義的二元論と呼ばれる立場からの応答。 脳は現象的意識と相互作用することでそれについて語っているのではなく、気づき(アウェアネス)をともなうある機能的状態に対しては現象意識が自然に伴う、そういう自然の構造がこの宇宙にはあるのだと主張する。 (意識と認知のコヒーレンス) ■物理領域は因果的に閉じていない 主に相互作用二元論と呼ばれる立場からの応答。 因果的な閉鎖性の破れを主張する。 閉鎖性の破れる場所として、量子力学の確率過程を考えている場合が多い。 (量子脳理論)
アビリーンのパラドックス ある集団がある行動をするのに際し、その構成員の実際の嗜好とは異なる決定をする状況をあらわすパラドックスである。 集団内のコミュニケーションが機能しない状況下、個々の構成員が「自分の嗜好は集団のそれとは異なっている」と思い込み、集団的な決定に対して異を唱えないために、集団は誤った結論を導きだしてしまう。 アビリーンのパラドックスは「事なかれ主義」(rocking the boat)集団思考の一例としてしばしば言及される。
起源 このパラドックスは、経営学者ジェリー・B・ハーヴェイが著書『アビリーンのパラドックスと経営に関する省察』で提示したものである。 現象の名称は、この現象を説明する小話の中でハーヴェイが用いた町の名にちなむ。 以下はその要旨である。 ある八月の暑い日、アメリカ合衆国テキサス州のある町で、ある家族が団欒していた。 そのうち一人が53マイルれたアビリーンへの旅行を提案した。 誰もがその旅行を望んでいなかったにもかかわらず、皆他の家族は旅行をしたがっていると思い込み、誰もその提案に反対しなかった。 道中は暑く、埃っぽく、とても快適なものではなかった。 提案者を含めて誰もアビリーンへ行きたくなかったという事を皆が知ったのは、旅行が終わった後だった。
集団思考 この現象は、集団思考のひとつの形であるといえる。 社会心理学が扱う、社会的一致や社会的影響の理論から容易に説明ができる。 人はしばしば、集団の流行から外れることを嫌うのである。 同様に、心理学の観点からも間接的なきっかけと隠れた動機が人の立場や行動の背後にあることが観察されている。 しばしば、社会的な抑制要因が個人がその欲求を通すことを思いとどまらせてしまう。 この理論の要点は、集団の抱える問題は「不和」から生じるのと同様に「同意」からも生まれるということである。 多くの社会科学者に受け入れられており、個人と集団の関係をめぐる理論を補強している。
理論の応用 この理論は、経営におけるまずい決定、とくに「委員会」での決定を優先する発想を説明するのにも使われる。 コンサルタントによる実務的ガイダンスと同様、経営学の研究と実践でも、構成員の議論を通して集団の決定をなすときには互いに「われわれはアビリーンに向かっているのか?」を問い直さなければいけないと記している。
あと17レスで圧縮対象になってしまう 名残惜しい!あ、他スレ(ry
テンニースは、あらゆる社会的相互作用や集団を人間の思考と意思とがつくったものとして考え、そのなかで実在的・自然的な本質意思(Wesenwille)と 観念的・作為的な選択意思(Kürwille)とを区別し,前者にゲマインシャフト、後者にゲゼルシャフトという集団類型をたてた。その区別は形式的類型にとどまらず、 彼の歴史的発展構想においてゲマインシャフトからゲゼルシャフトへと定式化されることになった。
ゲマインシャフトからゲゼルシャフトへの流れの中でネット文化勃発。逆の流れが生まれてきてるんじゃないかとふと思ったり。
ヤバい!社会学忘れてしまったw
>>14 で言ってることは理解できるが
>>15 は密告せよ!さもなくば「イジメを止めない奴もイジメっこだ!」(
>>1 )のようで違和感。
>>1 でああ言われているのだから、別の表現にすればいいのにと思う。
↓のレスを書いた人は何がしたかったのだろう? 104 名前:名無しさんの主張 [] 投稿日:2010/03/03(水) 01:21:15 ID:SmTagJYR てす 105 名前:名無しさんの主張 [] 投稿日:2010/03/04(木) 23:48:24 ID:xrZ4bl49 さらしあげ 106 名前:名無しさんの主張 [] 投稿日:2010/03/08(月) 18:07:10 ID:p/3TvRe4 訓告さらしあげ 107 名前:名無しさんの主張 [] 投稿日:2010/03/09(火) 17:38:30 ID:hSxf94M6 見張り順番待ちやろうあげ 108 名前:名無しさんの主張 [] 投稿日:2010/03/09(火) 18:12:11 ID:jIL6RHtZ なんで共犯で逮捕されなかったんだろう 120 名前:名無しさんの主張 [] 投稿日:2010/03/16(火) 10:43:31 ID:dIpUx1is 見張り晒しage 123 名前:名無しさんの主張 [] 投稿日:2010/03/27(土) 00:23:44 ID:DvSvZ3ze 訓告皿仕上げ
スレを読んでいないんじゃないかと思える。
つ旦
きゅうけい
ローマ人への手紙 2:1だから、ああ、すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めている。さばくあなたも、同じことを行っているからである 人を裁く仕事に就くためには頑張って司法試験に受かりましょう。 凡人は過ちを犯しがちだ。
強迫性障害の治療は、薬の処方も重要ですが、認知行動療法などで行われる暴露療法が有効です。 暴露療法では、強迫観念、儀式的行為、不快感を引き起こす状況や人物に直面させます。 そしてその中で、強迫的な行為をしないように努力することで、不快感や不安は次第に薄れていきます。 そうすることによって、不快感をなくすために儀式的行為は必要ではないということを、本人自身が認識するようになります。 この方法はいったん習得すれば、治療の終了後もそれほど努力せずに日常的に自分で継続して実施していくことができるため、 改善効果は長期にわたって持続します。
ガラテヤ人への手紙 6:3もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者であるように思っているとすれば、その人は自分を欺いているのである。 6:4ひとりびとり、自分の行いを検討してみるがよい。そうすれば、自分だけには誇ることができても、ほかの人には誇れなくなるであろう。 6:5人はそれぞれ、自分自身の重荷を負うべきである。
ほうほう
発見!
>>19 部外者がこういうことを無責任に言うべきではないな
連帯責任論は気持ち悪い
おやすみなさい
料金紛失トリック 料金紛失は実際にお金が消えたわけではないのに、表れる金額に対して意味のない計算を行い、あたかもパラドックスが生じているかのように主張する詭弁。 内容 ある3人が食堂で食事をし、1人1000円ずつ合計3000円を払ったが店主が料金をサービスし、給仕に対し3人に500円を返すように命じた。 しかし給仕は3人に対して500円を返したのでは均等に分けることができないため、その500円から200円をこっそり盗んで自分のふところに入れ、均等に分けることのできる300円だけ客に返した。 300円を返してもらったから客3人が、それぞれ支払った金額は1000円から100円差し引いた900円になり、合計すると2700円になる。 それに給仕が盗んだ200円を加えると2700 + 200 = 2900円となるが、差額の100円はどこにいったのだろうか?
トリック 客、店、給仕の間のお金の状態を(客、店、給仕)=(100, 27, 6) のように略記する。例ではそれぞれ客は100=10000円、店は27= 2700円、給仕が6=600円を持っていることを表す。 (30, 0, 0):払う前 (0, 30, 0):客が店に3000円を払う (0, 25, 5):店が給仕に500円を返すように渡す (3, 25, 2):給仕が200円を横領して300円だけ客に返す 300円を返してもらったから客3人が払ったのは2700円になる:30-3= 27= 払うべき金額 (25)+くすねた金額 (2) 2700+200=2900(円)=払うべき金額 (25)+くすねた金額 (2) ×2 3000(円)=30=払うべき金額 (25)+おつり (3)+くすねた金額 (2) 2700円は「払うべき金額+給仕がくすねた額」であり「払うべき金額+おつり」ではないのでくすねた200円を足しても3000円にはならない。 払った額+盗られた額=全額と短絡しがちなところが盲点である。 上記を踏まえ、諸データと各アクションごとの各人の資産推移を計算式を使って、以下のようにまとめる。 客の資産の推移−2700円=−3000+300 店の資産の推移 2500円=3000−500 給仕の横領分 200円=500−300 本来の食事の料金 2500円 (誤った料金) (3000円) 客の支出は、本来の食事の料金に給仕の横領分を合わせたものとわかる。 (店の収入は、本来の食事の料金と変わらない)
これと似た話。 落語「壺算」 二荷入りの水がめを買いたい主人公の吉公。 しかし、この男は「黙っていた方が利口に見える」とまで言われるドジ。 おかみさんに言われ、買い物上手と言う兄貴分の所へ協力を求めに訪れた。 そんな吉公の頼みを、快く引き受けた兄貴分。 だが、瀬戸物屋を訪れた彼が目をつけたのはなぜか半分の一荷入りの水がめだった。 このかめの値段は、本来三円と五十銭だったのだが、兄貴分は瀬戸物屋を太鼓持ちも顔負けの口調でおだて上げて五十銭値引きさせてしまった。 そして、何度も文句を言いかける吉公を制し、兄貴分は一荷入りを買い求めて店を出てしまう。 吉公が「俺の買いたいのは二荷入りの壷」と文句を言うと、兄貴分は任せておけと言いなぜか瀬戸物屋へ引き返してしまった。 「実は手違いがあったんだよ。こいつの買いたかったのは二荷のかめなんだが、コイツが度忘れして一荷入りの水がめを買っちゃったんだ」
瀬戸物屋に二荷入りの値段を訊くと「さっきの一荷入りが三円五十銭ですから、二荷入りは丁度倍の七円…あれ?」 さっき五十銭値引きしたせいで、結局一円の開きが出てしまったのだ。 がっかりする瀬戸物屋に、さっきの一荷入りを元値の三円で下取りさせる兄貴分。 「さっきの一荷入りを下取って三円、最初に渡した三円を足して六円」と言い、二荷入りを持って出て行こうとした。 何かおかしいと思い。慌てて呼び止める瀬戸物屋。 それに対して兄貴分はさっきと同じ話を繰り返した。 また慌てて呼び止める瀬戸物屋、とうとう堪忍袋の緒が切れた風を装い、兄貴分は「算盤使って確かめてみろ!」と一喝。 言われたとおりに勘定してみると、確かに計算はあっているのだが手元を見るとやはり三円足りない。 とうとうパニックになった瀬戸物屋が「一荷入りも持って行ってください」 兄貴分が「二つもいらないんだ」と言うと、瀬戸物屋が大きな声で一言。 「お金も返すから!」
>>967 そうですよ。
旧約の神は恐いです。
旧約は裁きの神、新約は許しの神と教わった記憶が…。
違ったかな?
>>967 ヘーゲルですか。
私も今回読み直し、改めて難しいな〜と思いました。
でも面白いw
実は今まで「ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛翔する」の意味が分からなかったのですが、昨日やっと分かりました!
<法哲学>の一節
哲学がその灰色を灰色と描き出すとき、生の姿はすでに年老いている。
そして灰色を灰色に描き出すことによって、生の姿は若返らされることなく、だだ認識されるだけである。
ミネルヴァの梟は迫り来る黄昏に飛翔する
<意味>
真の認識は、事柄の矛盾が次第に明らかになる時節の到来を待って、つまり「迫り来る黄昏れ」を待って初めて獲得できるのだ、とヘーゲルは考え、それを飛び立つフクロウに喩えた。
ミネルヴァとはローマ神話の神で、知恵と工芸を掌る。
ヘンペルのカラス 全称命題 ヘンペルのカラスとは、カール・ヘンペルが提出した、科学における対偶論法による帰納的実証の、直観との相違を指摘した問題である。 「カラスのパラドックス」とも呼ばれるが、パラドックスとして扱うべきかどうかには異論もある。 「ヘンペルのカラス」は「カラスは黒い」ことを証明する以下のような対偶論法を指す。 全称命題「全てのカラスは黒い」という命題は、その対偶「黒くないものはカラスでない」と同値であるので「カラスは黒い」ことを証明するには「黒くないものはカラスでない」ことを証明すれば良い。 そして「黒くないものはカラスでない」という命題は、世界中の黒くないものを順に調べ、それらの中に一つもカラスがないことをチェックすれば証明することができる。 こうして、カラスを一羽も調べること無く「カラスは黒い」という事実が証明できる。 これは日常的な感覚からすれば奇妙にも見える。 こうした、一見、素朴な直観に反する論法の存在を示したのが「ヘンペルのカラス」である。 「ヘンペルのカラス」は対偶論法の間違いを指摘している、との解説がなされることがあるが、本来はそうではない。 合理的・論理的でないのは人間の直観の方で、対偶論法にしろ「ヘンペルのカラス」にしろ論理学的には何の問題もない論法である。 つまり正しくは「ヘンペルのカラス」は人間の直観の危うさの方を指摘した論法である。
なぜ直観に反するか 「ヘンペルのカラス」が直観に反する理由の一つとして「黒くないもの」の数が想像を絶して大きいことが挙げられる。 ある命題について、それが真であることを確かめるには個々の事例を全て調べ尽くすことができればよい。 命題の正しさの信頼度合は、調べた事例の全事例に対する比率に一致する。(確証性の原理) しかし「黒くないものはカラスではない」という命題の真偽を調べる場合「黒くないもの」の数は極めて大きいので「黒くないもの」を全て調べることは事実上不可能である。 すなわち、ヘンペルの論法に従って「カラスが黒い」ことを証明するのは不可能であるから、あたかもヘンペルの論法自体が誤りであるかのように思われるのである。 実際「黒くないもの」の数がもっと常識的な数であれば、ヘンペルの論法も不自然には感じられない。
直観主義論理との関係 以上の説明で分かるように、対偶論法を用いると日常の感覚とは相反する帰結が得られる。 特に、宇宙には無限に「黒くないもの」があるとすれば、実際にヘンペルの論法を証明に用いることはできなくなる。 「黒くないものはカラスでない」ことを証明するために「黒くないもの」を順に調べようとしても、その作業は永遠に終わらないからである。 ゆえに、ヘンペルの論法はこの場合には適用できない。 通常の論理学では、この作業が仮に不可能であってもヘンペルの論法は正しいと認めている。 従って、実際には証明の遂行ができなくても「論理的には正しい」ということになり、感覚的には奇妙な結論が得られる。 そこでこうした超越的な操作や奇妙さを取り除いた、より「直観に合致する」論理学が、通常の論理学とは別に構築された。 ヘンペルの論法の核心部分である対偶論法が原因であるとする考えから、対偶論法を認めない、という立場をとったのが直観主義論理学である。 すなわち、直観主義論理は対偶論法から演繹される事実を普通の論理学体系から取り去ったものであり、日常の感覚と論理学上の帰結を合致させたものである。
抜き打ちテストのパラドックス 先生は、学生たちに抜き打ちテストを行うために、彼らの前で次のように宣告した。 「来週の月曜日から金曜日までのいずれかの日に抜き打ちテストを行う」 これを聞いたある学生は次のように推論した。 「抜き打ちテスト」という言葉を論理学的に推論しやすくするため「ある日にテストが行われることが、前日までには予測できないテスト」であると定義する。 すると、次のように推論できる。
1.まず、金曜日に抜き打ちテストがあると仮定する。 すると、月曜日から木曜日まで抜き打ちテストがないことになるから、木曜日の夜の時点で、翌日が抜き打ちテストの日であると予測できてしまう。 これは、先ほどの「抜き打ちテスト」の定義に矛盾する。 よって、金曜日には抜き打ちテストを行うことができないということが分かる。 2.次に、木曜日に抜き打ちテストがあると仮定する。 すると、月曜日から水曜日まで抜き打ちテストがないことになるから、水曜日の夜の時点で木曜日か金曜日のどちらかの日に抜き打ちテストがあることが予測できる。 しかし1.により金曜日には抜き打ちテストがないことが既に分かっているので、翌日(木曜日)が抜き打ちテストの日であると予測できてしまう。 これも、先ほどの「抜き打ちテスト」の定義に矛盾する。 よって、木曜日にも抜き打ちテストを行うことができないということが分かる。 3.以下同様に推論していくと、水曜日、火曜日、月曜日にも抜き打ちテストを行うことができないということが分かる。 したがって「先生はいずれの日にも抜き打ちテストを行うことができない」という結論になる。
そして、抜き打ちテストが予告された週になった。 木曜日まではこの学生の予想通りに抜き打ちテストは行われなかった。 しかし、金曜日になって先生が「では、今から抜き打ちテストを行う」と宣告したのである。 すかさずこの学生が立ち上がり、前記の推論を述べて抜き打ちテストを行うことができないことを説明した。 すると、先生はこう反論した。 「君は今日抜き打ちテストが行われないと思っていた。ならば抜き打ちテストは成立しているじゃないか」 学生は唖然とし、首をかしげたまま抜き打ちテストを受けることになった。 以上が「抜き打ちテストのパラドックス」である。
論点 このパラドックスには、いくつかの論点が含まれている。 まずは、先生が宣告した内容が証明も反証もできない「決定不能な命題」であることである。 その内容が真であるとして推論を行うと何らかの矛盾が導かれるのであるが、抜き打ちテストが成功したことから、一見矛盾がないように見えてしまうのである。 その原因は「抜き打ちテスト」という言葉の意味のすり替えにある。 「抜き打ちテスト」の一般的な意味は「いつ行われるのか、直前まで分からないテスト」である。 学生はこれを論理学的に定義するため「抜き打ちテスト」を「ある日にテストが行われることが、前日までには予測できないテスト」と定義した。 この定義から、論理学的に「どの日にも抜き打ちテストを行うことはできない」と結論することには矛盾はない。 しかし、先生が生徒に反論して決行した「抜き打ちテスト」の意味は先ほどの論理学的に定義された意味ではなく「論理学的に『抜き打ちテスト』が行えないことが証明される日に行われたテスト」という意味である。 論理学を逆用する形で、論理学から逸脱したものに意味をすり替えられているのである。 つまり、先生が行った「抜き打ちテスト」は論理学からの逸脱があるため、論理学的に証明することも反証することもできない「決定不能な命題」なのである。
また、そもそも「抜き打ちテスト」を学生のように「ある日にテストが行われることが、前日までには予測できないテスト」と定義すると 「来週の月曜日から金曜日までのいずれかの日」に限らず、期限を区切った場合にはすべて同様の証明で「どの日にも抜き打ちテストを行うことはできない」という結論が論理学的に導き出されてしまう。 また特に期限を区切らずとも、暗黙のうちに「学生がその学校に在学している間」という期限が存在するため、先ほどと同じくどの日にも抜き打ちテストを行うことはできないので、学生の定義による「抜き打ちテスト」が行われることは論理学的には絶対にないのである。 従って学生の「抜き打ちテスト」の定義は論理学的には誤っていないが、実際には行うことが不可能なテストであり、論理学とは別の現実的なところで誤っているのである。 結論として「抜き打ちテスト」という言葉に対して、学生が論理学的には誤っていないが現実的には誤っている定義をしてしまったところに問題があったと言えるのである。
いや〜、ここまで来ましたか! 感慨無量だなw では、最後にまとめておきますか。
自然法と法実証主義 自然法とは、事物の自然本性から導き出される法の総称。 法実証主義は、実証主義を法学に応用した考え方で、経験的に検証可能な社会的事実として存在する限りにおいての実定法のみを法学の対象と考える。 正義・道徳といった形而上的な要素と法の必然的連関を否定し、規範と事実の分離を法の探求における前提とするため、自然法学と対置される。 自然法の法源は、神、自然ないし理性である。 自然法の法源が制定法や判例法でない以上、その認識手段が常に問題となる。 法実証主義には、それが正義や善といった価値から法を切り離してしまう。 法秩序とは、「当為」から独立した、いわば純粋に形式的なカテゴリーだからである。 法の効力は強制の有効性を前提としており、法的強制は実定法に違反することを前提とする。 法が有効であるための規準に付随して、法秩序の内部で法が設定されるための規準が必要となる。 「当為」が法の根拠になる自然法論に対し、法実証主義は当為によって存在を規定することを全面的に放棄している。 ヒュームを引き継ぐ英米系の法実証主義は、法の存在条件を社会的事実に求め、価値の問題を「あるべき法」を探求する正義論へと留保する。 しかし、カントを引き継ぐ大陸系の法実証主義は、ケルゼンに見るように法の内的体系性において法の「規範性」を強調する。
道徳についてのまとめ 道徳的規範には、どの文化にも共通の部分と、習慣や慣習的規範のように文化によって大きく異なる部分とがある。 多くの文化では、道徳的規範と慣習的規範が意識して区別されることが少ない。 道徳的規範は、それぞれの地域の生態的状況や歴史の影響を受けている。また、社会的状況や時代精神の影響によって変化する。 人は何が道徳的で、何が非道徳的なのかを判断することができる。 道徳心理学者と道徳哲学者は、何が道徳判断を導いているのか議論を続けているが、道徳判断は理性の産物であり、子供は経験と学習によって理性的判断を発達させると考えた。 また、認識直観主義の心理学者は、道徳判断が自動的に瞬時に行われ、理性よりも直観と感情に密着していると仮定した。 道徳判断は、社会的認識、特に心の理論を利用しているようである。 人間の道徳判断は、常に一貫しているわけではない。わずかな状況設定の変化によって、人は功利主義的な判断と非功利主義的な判断の間で揺らぐ。
>>963 私もちょっと名残惜しいなw
なかなか楽しかったし、すごく考えた。
板の趣旨に合っていたかは分からないけどw
次は教育問題について考えようかな。
では皆さん、ありがとうございました。
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