●日本の未来は【集団主義】より【個人主義】●pt12

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347名無しさんの主張:2010/07/07(水) 19:26:39 ID:7TTfEGVB
結局ゆとり教育も集団主義だったんだよな。
みんな同じという発想が強いという点が。
勿論昔から今も程度の差こそあれ、日本の教育は集団主義的だが。
348名無しさんの主張:2010/07/07(水) 23:53:08 ID:???
いわゆる「集団的自我」ですよ。
349名無しさんの主張:2010/07/08(木) 15:05:35 ID:FJhmYxbP
ゆとり教育というより奴隷化教育の気がしてならないけれど。
明治の頃のエリートは天下万民のために私を捨てられる人、
今は権力を得てほかから搾取する人になっている。

アメリカも経済破綻しそうだし日本が自立できれば
新しいビジョンやゴールを模索できるんじゃないだろうか。

http://www.youtube.com/watch?v=lavSIQV2CnE&feature=PlayList&p=7429B962FC9D40B1&playnext_from=PL&index=0&playnext=1
350名無しさんの主張:2010/07/08(木) 17:43:15 ID:???
まず社会という「器」が先にあって各成員はそれに沿う形で存在できる。
これは社会の一形態であり、これ自体が絶対悪というものでない。
社会が十分な富を得、各成員にそれなりに分配できていれば安定する。
問題はそれが揺らいだ時だ。

社会が先にある場合、それに沿う存在形式は画一化されたものになりやすい。
情勢が変わって社会構造が陳腐化しても社会は天与の存在なため変革が難しく、
しかも画一化された成員は情勢の変化に対処するスキルを持たないという結果を招く。
またそういう社会では各成員に主として器に従う訓練が施されるため、
既存の社会規範を自らの血肉とし、それを絶対善と疑わない規制派が多数育成される。
そしてそこから漏れた者も同様に個としての訓練を受けていないがために、
矮小な仲間内に閉じこもって外部を無視・敵視するだけで変革の力になりえない。
挙げ句の果てに繰り返されるそういった「自称正義」勢力同士の内輪もめ。

自分自身の中のそういった部分を見すえることも必要だな。
あと身の回りの関係の中できちんと実践しないとな。
これはけっこうきついぞ。端から文句言ってるのは楽だが。
351名無しさんの主張:2010/07/08(木) 18:27:40 ID:???


社会が存在すると観念できる奴は,

神が存在する,国家が存在すると,観念できる連中と全く同じ

きもい。
352名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 12:19:45 ID:hBFj7uA+
個人主義者は個人の主観や個体から認識を始める。
だから「個人」主義だ、認識論の問題で、自分だけが尊いという意味ではない。
抽象概念より具体的な個体を優先するという意味である
様々な主観的に認識された現象を通して結果として単純から複雑へと抽象概念を身につけてゆく
今日的な意味での「平等」や「自由」はこの思想以外に生み出しえなかった
なぜなら経験論は観念に生得的なものを一切認めないからであり、
あらゆる悪・徳の観念も個人の能力も経験から生み出され
貴族・王族でも平民でも皆同じスタートライン立たせるからだ。

その意味で、中国人、朝鮮人は〜であるとかそういう一絡げのやり方をするものは
個人主義者ではないだろう。最初から何らかの抽象的観念を前提としているからだ。
これは抽象が先か個別が先かという議論ではない。
相対主義とイデアとか、普遍論争とか、経験か先か理性が先かとか
古来から同じような議論がなんどもぶり繰り返されて、うやむやに終わっている
事実として相互作用しているからだろう。しかし両者の統合は成功したとは言えない。
最終的にマルクス主義者らのように自由意志を認めない決定論的世界観、全体主義思想を産み出してしまった。
353名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 12:20:45 ID:hBFj7uA+

中国人や韓国人、--ユダヤでも黒人でも、劣った凶悪な人種として一絡げにし、敵視し排除しようとする人たちは、
対する良心的な日本人という抽象像を当然、前提にしているのだ。
しかし、様々な仕方で「自分」は他人と違って優越になりたがり下層を見下し搾取し、
自分の社会的地位を上げたり確認することに汲々としているのは我々が直面している明らかな社会の現実だ。
抽象概念としての朝鮮人や中国人が凶悪ならば抽象概念としての日本人は善良であるはずである。矛盾はないのか?

だから、個人より集団の論理を優先することを主張する「集団」とは
弱者を守り助け合い、よりみんながより善く生きたりするためではないことがわかる。
集団とは何なのか、集団は集団と自分とを同一視する、自分の利害を共通にした集団は自分のことのように考え
利害と関係ない、むしろ対立する個人や集団はすべて一絡げにして敵対しようとする。
逆説に思えるが、つまり集団に所属しあるいは統制することは「自分だけの利益(快楽)」を追求することと矛盾しない。
だから一方では凶悪な外国人に対して善良な抽象的日本人になり、一方では集団内の誰かを奴隷化、
犠牲にして利益をむさぼっても平然としていられる具体的個人になることが可能になる。
354セニョール・旋風児・イガラシ ◆40WnEtzSeY :2010/07/10(土) 18:46:21 ID:S4flD16r
>>352
マルクスは別に全体主義者でもない。

個人主義を守るために、階級という先天的かつ人為的な差別を一切なくそうとした。
その発端はイギリスの階級社会だ。

格差が固定化しないように、生まれた時点で差別によるフライングなしに、公平な競争ができる社会であるべきだ。


355名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 18:59:24 ID:Bn/hxT+0
>>354 自分はマルクスの教えをあまり知らないので、聞きたい。
階級を無くそうとする意図はわかるんだけど、その、経済市場を
管理する側(政府)に独裁しないという良心を持った政治家が
永遠に就きつづけることが保証されないと、結局、
「管理する側」と「管理される側」の階級になってしまうん
じゃないの? 
356セニョール・旋風児・イガラシ ◆40WnEtzSeY :2010/07/10(土) 19:12:54 ID:S4flD16r
>>355
だから最終的に行き着くところは、「世界革命論」という思想が出てきたわけですよ。
国家(政府)によって管理されるというシステムから脱却するために、国を超えて財産を共有しようとする思想に行き着くでしょ。

これはとうてい無理な話なわけだけど、管理する側が独裁しないようにするためには、管理される側が監視しつづければよいわけですよね。
国民の自由を保障しつつ、国民が行政を監視するシステムを作り、為政者と庶民の信頼関係を築いたために、
北欧諸国は完全な共産主義にならず、かつ、階級による格差もない成功した国になったのではないの?







357名無しさん@そうだ選挙に行こう:2010/07/10(土) 20:04:36 ID:Bn/hxT+0
>>356 マルクスが指摘した資本主義の欠点(労働者の労働からしか
インセンティブは生まれない→搾取)については、確かに的を得ている
部分はあるのでしょう。管理される側の監視というのは、つまり民主主義ですね。
資本主義の枠組みの中で、税による所得の再分配の方法について、各国では模索していて、
欧州では割と上手くいっているところもあるんでしょうね。
20世紀を経て「完全な共産主義の失敗」「完全な資本主義の失敗」が出揃って、
ようやくその中間をマジメに模索する時期にきたんでしょうが、まだ
日本は「高度経済成長期の高揚感」の幻想を引きずっている世代が上にいて、
政治家が経済成長と連呼すれば、大喜びする。若者の感覚とは違う気がする。
経済成長は重要だが、必ずしも経済成長=個人の幸福ではないという反省からスタートしないと、
日本は文化・芸術などの新しいステージにはあがれないでしょうね。
358357:2010/07/10(土) 20:09:24 ID:???
2行目修正 インセンティブではなく、利益ですね。
359名無しさんの主張:2010/07/12(月) 01:06:17 ID:???
>>354
マルクスは個人を否定しているから、個人主義者でも無いな。
搾取には否定的だったが、だからと言って個人を尊重していた訳じゃ無い。
集団主義者では無かったとしても、全体主義者とは言えるな。

格差が固定されないというのは重要だが、
だからと言って、社会を真っ平らにして競争というのは公平でも何でも無いし、
個人や人間的なものの否定になるし、良い事では無いよ。
格差が固定されないようにするには、収入が低くても進学出来る制度を構築すると共に、
学歴差別を止めさせるようにするのが一つの良い方法。
あとは労働形態によらず待遇や社会保障をちゃんとしたものにする事。
これだと個人の尊重になる。

>>356
市場全体を管理するという発想自体、どんなに善意の人が上に立っても、
チェックが出来ていたとしても、上手く機能しないと共に自由の否定、個人の否定になるよ。

北欧は上手く行っているように見えても、
特にスウェーデンはモラル崩壊が激しいし、治安も悪い。
結局そこでの自由は、ほぼ何でもアリの自由の意味になってる。
個人の尊重って言うのはそういう自由を認める事とは違う。

管理する側が独裁しないようにと言っても、チェック出来ていても、
そういう管理システム自体が独裁的になるんだよ。
別に何でも自由の経済が良いとか言ってる訳じゃ無いけどな。

経済的には、北欧は人口が少ない状態で経済力を維持するための苦肉の策と言える。
日本が真似して上手く行くようなものでは無いよ。
社会の制度にしても経済の制度にしても、真似すれば、
社会的影響は個人の尊重という事から言うとマイナスになる要素が多くなるよ。
360名無しさんの主張:2010/07/12(月) 10:42:34 ID:0YUNqyXR
脱線した論点になるが、
マルクスが個人主義者かどうかは本人に「個人主義者なんですか」と聞いてみない限りわからない

ただし一般的なマルクス主義者の主張はこうである
歴史には法則がありその法則は人間の意思によって変えることはできない、
たしかに社会主義が天才の指揮による労働運動の予想外の拡大で早く到来することはあり得る、逆もありえる。
しかし、法則という土台を揺るがせたのではないだろう。
人間の性格は物質的因果によって決定づけられ、それを乗り越えることはできないからだ(自由意志の否定)
マルクスの青年期の草稿に人間は共同生活をし共同的労働を通して自己を完成させる類的存在との記述がみられる。
この見解は後に捨て去ったかは知らない、だがクレプスカヤやマカレンコは彼らの史的唯物論、
弁証法的世界観を元に必然的に個人の共同・集団化、集団主義教育を理論化したのである
彼らの理論は日本の教育制度にも影響を与えていて、班単位の学級運営もその反映の一つである。
(原武史の滝山コミューンに詳しい)

人間は社会的動物で孤独は許されず、共同生活を営まなければ個性を開花できないという。
したがって個人の個性を存分に開花させるには究極的には、
生産手段の共有化だけでは足りず、私有財産の没収、結婚制度・家族関係の否定、寮などへの共同生活の強制まで行うのだ。
そして、それは社会主義国家によってある程度まで実践されてしまったのだ。
国家やユートピアに書かれている、すみずみまで個人が管理された社会への欲求は潜在的に大勢の人間の欲望の中にある。
彼らは、プライーベートの一切ない共同生活の強制により生活を平均化・画一化されられ、
指導者への追従、多数者(平均人)の専制、弱者への迫害が行われることなど想定しないのか。
人間が物質的因果の操り人形にされ自由意志を認めない社会がなぜ個人の個性を開花できるのか。
観念から始まり個物を重視しない個性とはなんなのか?
彼らはまぎれもなく集団主義者である。
361名無しさんの主張:2010/07/12(月) 18:55:58 ID:???
おそらく個人と社会(集団)というのは永遠に求め合い、対立するもの。
両者を完全に統合あるいは分離する方法はない。
各自が永久に監視し、論議し、争い、妥協し続けるしかないのだろう。
「完璧がある」と信じた時点で悲惨な結果を招くだけのことじゃないか。
理想社会とかユートピアってのは「神の国」の翻案でもともと無理があるんだよ。
362名無しさんの主張:2010/07/13(火) 04:55:22 ID:OR3dJg+c
個人主義か集団主義か、このような議論は、
究極的には理性が先か経験が先かという認識論(主観)、
実在に対する個物といった存在論(客観)に到達し、決して融和できないアンチノミーに陥っている。
要するにどちらも正しい。集団がいなければ個人も成り立たないし、個人がいなければ集団も成り立たない、
中庸が一番善いのは誰もが分かっている、そんなのは2000数百年も前に結論が出されている。
しかし、人は多様な経験の積み重ねによって両極端を十分に知らなければ何が真ん中か妥当か判断できるだろうか?

たった60年前、人類は民族殲滅という史上最悪の犯罪を犯した。たった60年前の出来事なのだ。
民主主義、自由主義も、人権も確立され、未開の時代はとうに過ぎ去ったはずの時代にだ。

あれもこれもではなく、あれかこれかにしろといったキルケゴールは印象深い。
したがって抽象概念、集団を一旦退け、具体物・個人から認識を始める個人主義を選択する。
もちろん経験で何もかも解決できるとは思わない。懐疑論に陥ることもあるだろう。
それでも偏見を避けるためには独断ではなく経験に頼るほうがましなのだ。
363名無しさんの主張:2010/07/13(火) 15:08:12 ID:???
一個体・一世代で系統発生できると考えるのは愚かなことだ。
集団主義は繰り返し敵の殲滅を図って死体の山を築き合った。
その後で人はいつも一旦は反省し、時が経てばそれを忘れて同じ行為を繰り返す。
過去の経験は十分な実感を伴わず、どうしてもその極端を自ら経験したいらしい。

さて、個の極北は何をもたらしたのか、そしてまたもたらすのか…
364名無しさんの主張:2010/07/17(土) 04:31:55 ID:J0gzxHYj
最近惨敗した民主党の政策に選択的夫婦別姓が挙げられていた。
民主党に限らす特定の思想的立場の者は、つまり左翼(社会主義者)は、夫婦別姓を主張することが多い。
それに対して自称保守(民族・国家主義者)は、家族の絆、共同体を解体する危険思想だとして批難する。ありがちな構図だ。

個人主義の立場であれば夫婦同姓・別姓をあえて主張するような問題ではない。
そんなものは個人を平均化・画一化させようとする
「大衆」という人間の態度の喫緊の問題の前にはどうでもいいことだからだ。
またキルケゴールの言葉を借りれば自己を確立するには苗字などという抽象的観念よりも、
個別的・具体的な「この私の存在について探求しなければならない」からである。
経験論は客観的真理の確立を目指す帰納法でキルケゴールのように自分の内面の真理を探求する思想的立場ではないが、
先も言ったとおり、個別的・具体的な認識から出発するので、両者の個人主義はまったく背反するものに見えて無視できない繋がりがある気がする。
365名無しさんの主張:2010/07/17(土) 04:33:35 ID:J0gzxHYj
中韓は夫婦別姓だ、彼らの行為の動機は血統主義、男尊女卑に根ざしている。
別姓がすなわち個人の尊重、男女平等とは限らない。
しかし、我々は自由で多様な生活、男女平等を達成する観点から夫婦別姓を主張しているのだ!そのように叫ぶだろう。
別姓で多様な生活が可能と言うが具体的に別姓となったという満足感以外に何のメリットがあるのかわからない。
姓は戸籍上の話で、通名を名乗ることを束縛するものではないからだ
苗字(姓)そのものが排他的な集団としてのまとまりをつくろうとする観念が生み出したのではないのか?
それなら個人重視の根拠として、姓そのものを消滅させる自由までと主張する者がいてもおかしくはない。
急進性の一方では混乱を避け秩序を守ろうとする保守的な態度にとどまらせているのかもしれない。

ヘーゲルは客観的な法と主観的な道徳が融和される国家において人倫が完成されるとした。
確かに法も道徳も両立しなければまともな社会生活は営めないだろう。
マルクス的に言えば人間が類的存在になることである--彼らが好きな世界市民という言葉はその言い換えである。
要するに、彼らの主張は人間の個性を開花させるには、個人を家族、市民社会という排他的集団に閉じこもらせるのではなく
より抽象的な大きな枠組みの中に取り込まれなければならない
この欲求こそに夫婦別姓をしようという主張の本質が隠されていると見る。
別姓によって女性の男性への従属への開放・自立を促したり
自由で多様な生活を認めるためではない、個人を家畜的賎民集団に服従させるためなのだ。
個人に家族や村落共同体という余計な緩衝材を介させず、直接、国家や世界市民という抽象的集団に結びつけるのだ
したがって家族という基礎的集団を重視しつつ愛国を謳う通俗的な右翼たちよりも
その平均化・画一化の強制、絶対者への服従の一方での弱者への迫害、全てにおいて全体主義傾向が強力である。
366名無しさんの主張:2010/07/17(土) 04:50:21 ID:J0gzxHYj
>>363

>>363
極端な個人主義は、ただ、自己が独我論や懐疑論の闇に陥っていくのみで
誰に何の影響を与えるのだろうか。シュティルナーは「僕は何者にも無関心だ」といった。
集団という観念そのものを否定するのだ。
したがってユダヤというだけで民族絶滅させるような馬鹿げた行為は起こさないだろう。
367いきがりヒキ! 変相職人の時間だ:2010/07/19(月) 13:38:06 ID:T/M+oSrN
計札= 群れが 生命線。    群れこそ命。    隠蔽にも大活躍。。群れが。

さぁ          ↑   弱者が強者にかつためには弱者の戦い方

をする必要がある。  w 杯で  ジャポネーゼは それを証明した。

たくさんの 運を必要とするが  強運の者がいればおk。
 
368名無しさんの主張:2010/08/01(日) 01:58:36 ID:flUxn63q
欧米も集団主義。しかし、欧米人は個人の「目的」を同じくする者同士が
群れている。日本人は与えられた場にいる人間が目的と無関係に群れている。
369名無しさんの主張:2010/08/01(日) 02:09:09 ID:flUxn63q
日本人は行動に「意図」「意味」「目的」「理念」がない。
欧米は行動の基準になる理念がある。
日本の国旗には理念がない。建国っていう
考え方がないから。欧米の国旗には理念・意味がある。例えば、フランスは自由平等博愛とか。
国ってのは自分たちでたちあげ、つくりあげるものだからな。
370名無しさんの主張:2010/08/01(日) 04:18:14 ID:7WbQAbbn
>>369
欧米に住んだことあんのか

金、金、金、目的ははっきりしてるけど

欧米は糞だ
371名無しさんの主張:2010/08/01(日) 12:32:22 ID:flUxn63q
>>370
金がどうとかはしらねーよ。そんな話してないからw
経済優先なのはどこの国も同じだろ。

個々人で同じ「目的」を持った人間同士が群れてるって話。
理念や目的があってそれを達成するためにどうするか集団で議論したり
するというのは割と欧米文化としてあるだろ、日本よりは。
どちらも「集団主義」といえるかもしれないが、その集団の在り方が
日本と欧米で違うだろという話。
372名無しさんの主張:2010/08/01(日) 22:43:19 ID:???
>>368
欧米は個人主義がベースになってる。
その上で集団主義的な人が集まって集団主義的になる事はあるが。
あと、個人を尊重している集団なら集団主義では無いよ。
373名無しさんの主張:2010/08/02(月) 04:11:53 ID:6rd+8Ipl
集団主義者の聖典としてプラトンの国家を上げたい。
ポパーの言うように集団主義のあらゆる源流思想はこの著書にあると思われるからだ
(プラトンが諸悪の根源という意味ではない)

要点をあげると、
この著書では理想の国家が対話を通じて語られている、
その国家では個人が私有財産をもつことは許されない、男女は別々に寮などで共同生活を営み、家庭を作ることを許されない、
生殖の必要に応じて、つまり性交のためにだけ
男女は出会う、平等は存在しない、優秀な男だけに性交が許され、多くの優秀な女と寝て多くの子どもを作ることを推奨される。
子供たちは生まれたと同時に両親から引き離され、社会全体で育てられる。
そして知的障害などの劣ったとされる子供は間引きされる。音楽とスポーツに優れたものは特に重視される。
その他にも憎悪で吐き気をもよおすような極端な国家論が続くが、徹底して社会の個人への優越が貫徹されている。

マルクスを読むまでもない、
社会主義者はなぜこうも家族を嫌うのか、社会主義国家の狂信的でさえあったスポーツ崇拝はどこから来るのか。
優生学の源流はどこにあるのか。
そして保守主義者はなぜ民主党の「選択的夫婦別姓」「子供は社会で育てる」という
思いつきの言葉にあれほど敏感に反応するのかこの著書で十分に理解できるだろう。
374名無しさんの主張:2010/08/02(月) 04:46:52 ID:6rd+8Ipl

デカルトは認識論におけるプラトン主義の復活だが、だからといって
彼の思想が危険な全体主義者には思えない。
自由と平等という、個人主義思想の根幹をなしているのがロックだが、
彼は個人主義とは相容れない、カルヴァン派の決定論を説く敬虔な清教徒だった
〜の国は個人主義だとか、誰彼のせいで全体主義が生み出されたという発想は誤っているし。
それそのものが具体物、個物を重視する個人主義の発想ではない。
その思想を支持する大勢の人間がいたからこそ古典が残ったのだ。
375名無しさんの主張:2010/08/02(月) 05:14:19 ID:6rd+8Ipl
個人主義とは自分だけの利益を追求し集団を無視し、好き勝手に行使できるという意味ではない
独断的な理性に頼らず、抽象観念を退け、具体的なもの個物的なものから認識を始めるというただそれだけの姿勢である。
しかし、そこから個人の主観的経験が重視され、直感や理性をつねに懐疑する姿勢は突き詰めれば
人間の観念は生まれたときは白紙状態とされ、そこから近代的な自由や平等という概念が始まっている。
376名無しさんの主張:2010/08/02(月) 14:50:21 ID:6rd+8Ipl
集団主義者の特徴

■暴力的、排他的、序列的
・みんなが同じことをしているとき一人だけ違うことをしている人間がいると無性に腹が立つ。
・過去にあるいは現在進行形で弱いものいじめをやった経験がある。
・お客様は神様だと思い、人と人の関係ではなく
自分の欲望を満足するための道具だと思い、店員にどんな無礼をしても許されると考える。

■権威主義・画一的、他人指向型
・ダイエット本・成功哲学・自己啓発本・ビジネス本が好きでベストセラー小説はかかさず買っている
・酒タバコギャンブルの気晴らしのほかはなんの個性も趣味もない、定年後の目標は夫婦で百名山を制覇すること。
・ミシュランガイドに載った店にいきたい・ブランド物に身を包むと自分が偉くなったような気がする

■外向性至上主義、連帯感・一体感、共感、同調の重視
・WBCの日本の優勝は最高に盛り上がった・応援しないやつは非国民で絶対許せない。
・サラリーマン川柳には共感しなければならないと思う
・人ごみの中に入ると安心する・行列を見ると無意識に並んでしまう。
・内気で大人しい人は見下してしまう。苛めたくなってくる

■自分の快楽と不快が善悪の基準
・「他人さまに迷惑をかけるな」が口癖だが単に自分と集団の利害が一致している事柄においてであり
自分の快感を満足させるためなら他の人間を道具にしても一向にかまわない
困難に打ち勝とうとする義務感を持たず自分の肉体的快楽だけに忠実な畜生である。
・自転車や傘ぐらいなら盗んでも許されると思っている

■非合理的
・占いや血液型診断は当たると思っている ・縁起を担いだりジンクスを気にする。
・「健康食品」を摂取すると健康になれると思っている・サメやゴマのサプリメントを常飲している。
・今年の目標はダイエットで、納豆やバナナなどは必ず試してみた。
・新型インフルエンザが流行したとき不安でマスクを買い占めに行ってしまった
377名無しさんの主張:2010/08/03(火) 01:21:52 ID:???
>>376
・あいさつに異常にこだわる

これも追加キボンヌ
378名無しさんの主張:2010/08/03(火) 22:02:14 ID:R3u5KhOJ
俺はあいさつは毎日必ずする。
なぜならあいさつをしなければ他人とつながりあうなんのきっかけも掴むことができず。
相手の機嫌や本性もわからない不安感から打ち解けられないだろうから。

あいさつの目的とは当然、つながりあいたい人や集団に対し、自分はあなたの敵ではない立場だと表明し、
素性の知れない不安な感情をお互いに排除することにある。だからその目的を達成するために挨拶をする
トイレ掃除の目的はトイレを掃除して清潔に保つことにある。だからその目的を達成するためにトイレ掃除をする。
手段によって目的が達成されるだけであり、意図せざる副用を期待するために行うのではない。

彼ら(集団主義者は)そのいわゆる手段を目的にするという傾向が確かにある。
もちろん俺は趣味などの個人的で非生産的行為を指しているのではない。もっと政治的で誰もに影響を及ぼす事柄だ。
素手でトイレ掃除をすることによって「青少年の道徳心の向上を図る」という運動を行っているある団体がある。
なぜなら他人の嫌がることをやることで心まで磨かれるからだという、実際達成感はあるのかも知れない、一時的だろうが。
訪ねてみたいものだが、汚物回収業者や屠殺業者は清廉潔白なのか。
うがって考えれば彼らの中に職業蔑視の考えも孕まれているのではないのか。
事実彼らは毎日それ(素手でトイレ掃除)を行わない。他人にアッピールするときにだけそれを行う。
俺は今まで旋盤やプレスなど「人の嫌がる仕事」をやってきたので彼らの行為を躊躇なく批判できる
道徳とはなんなのか?断言する、すべての徳の本質は「誰も他人に危害を及ぼさない」ことである。
彼らが道徳はなにかと尋ねられれば、それは義務感だとか、その他の曖昧な修飾された言葉でで誤魔化すのなら、
道徳とは他人を取り入れ支配するための口実にすぎない。
379名無しさんの主張:2010/08/04(水) 09:46:48 ID:u/ln1/Og
俺は内面からの徳を行なおうという動機を否定しているのではない。それは大いに推奨されるべきである。
だが、内面からの義務感が「結果」として他人を取り込み支配するという口実として使われたのなら道徳ではないといいたいんだ
オルテガは貴族とは自分に対してあえて多くの困難を課すものだといった
その点では彼の倫理観はカントの義務論に従っている、教科書的に言えば定言命法というものだ。
したがって困難とは他人を幸福にすることである。利他的になることである。無人島で倫理を考えても仕方ないように
義務感を引き起こす善悪とは他人の存在を前提としなければ成立しないのであるから。

大衆(集団主義者)はその逆で自分に困難や義務を背負いこまず
ただ自分の肉体的快楽に忠実なだけの畜生だとした。
380名無しさんの主張:2010/08/04(水) 13:08:15 ID:u/ln1/Og
(現代の危機は)凡庸な精神が、自己の凡庸であることを承知の上で、
大胆にも凡庸なる者の権利を確認し、
これをあらゆる点に押し付けようとする点にある。
他人と違うのは行儀が悪いのである、大衆は全ての差異、秀抜さ、
個人的なもの、資質に恵まれたこと、
選ばれたものを全て圧殺するのである
みんなと違う人、みんなと同じように考えない人は、
排除される危険にさらされている。
このみんなが本当の《みんな》でないことは明らかである。
《みんな》とは、本来、大衆と、大衆から離れた特殊な少数派との
複雑な統一体であった。いまでは、みんなとはただ大衆をさすだけである。

オルテガ・大衆の反逆から
381名無しさんの主張:2010/08/04(水) 13:37:45 ID:u/ln1/Og
http://www.youtube.com/watch?v=z3b8dED5Qcs
http://www.youtube.com/watch?v=rh3lPqmU874&feature=related

マニアック・オタク的な物事への憎悪を強烈に感じる。理由などどうだっていいのだ。
ただ、みなと同じでないものが共同体へ入り込むことが許せないのだ(あの人口過密で人の入れ替わりも激しい東京で?)
付近にラブホテル・パチンコ・ヤクザの事務所が作れれようとしているとき
これほどまでの反対運動が起こったろうか?
射幸心・暴力・性欲など大衆の本能欲求を追求するものは異質ではないとみなしているのがわかる。
382名無しさんの主張:2010/08/04(水) 13:53:15 ID:u/ln1/Og
ならサバイバルゲームは他人を殺したいという
大衆の「暴力欲」に基づいており住民は寛容になるのではないのかという疑問が生じるだろう。
サバイバルゲームは他人に暴力を振るいたいという欲求からではない
彼ら住民が大好きな山登りや温泉旅行とおなじ同じ単なる趣味や気晴しに過ぎないという仮定もできる
ただそのコミュニケーションの手段が銃を持ち撃ちあうという彼らの想定しない異端的なもので許せないのだ。
実際、彼らの顔を見る限り、内向的でおとなしそうな人たちが多い。
その要素もまた彼らの憎悪心に火をつけるのだろう
383名無しさんの主張:2010/08/04(水) 14:22:49 ID:???
まあオルテガも今読むとちょっと電波入っているけどなw
あんまり時代や世相にマッチしてないっていうか。
384名無しさんの主張:2010/08/04(水) 15:02:32 ID:u/ln1/Og
俺も大衆化を防ぐためにヨーロッパ統一国家の建設なんて虚妄だと思う
彼の特質すべき概念は諸悪の根源を
善良な庶民、普通の人とされてきた類型に求めたこと
むしろ科学者こそもっとも大衆的であるとまで言い切っている。
大衆はニーチェのヘールデ(畜群)とも重なるが宗教批判はなく
大衆を社会階層でも、特定の集団に所属していることでもなく
個人の精神的態度から説明しようとしている。
385名無しさんの主張:2010/08/04(水) 16:58:12 ID:???
オルテガは不断の努力とか言っていたように記憶しているが、
努力が報われないのが今の日本なわけで・・・。
仕事しながら高度な資格試験に挑戦するのも、それが精神的に貴族かって言われたら違うだろうし。

科学者が大衆的っていうのは同意だな。
昔と比べて30キロは太ったであろう知人の医者が
「俺らサイエンスに関わるものは〜」
「これからは俺らが○○県の医療を支え〜」
とか言っているのを聞いてオルテガを思い出したことがある。
ちょっと違うかもしれんがw
386名無しさんの主張:2010/08/06(金) 18:40:50 ID:???
>377
日本の集団主義が「あいさつに異常にこだわる」のは仲間内だけ。
個としての関係があいまいだから、それを形式的・様式的に確認して安心する。
逆に、場を共有するだけの他人や利害関係の薄い知人なんかは無視する。
場合によってはその存在をストレスと感じて敵視するケースすらある。
387名無しさんの主張:2010/08/10(火) 19:21:48 ID:5rXK9RfP
たとえ結果的に報われなかったとしても困難と義務を自らに課し続けるのが貴族であり
貴族か大衆かを区別するのは
何らかの金持ちとか特権階級に所属しているとか人種とか性別とか年齢とか
知能水準とかそういう一絡げの抽象観念からではない、(彼は抽象観念を嫌う個人主義者であるから)
肉体的快楽を追い求めるだけにしか興味がなく
なんの義務も困難も課さない堕落した精神的事実である。
(しかし彼は貴族性はある程度知能と階級に比例していることをある箇所でうっかり吐露してしまっている。)

努力が報われるべきであるのは当然だ、努力が報われないようにガラスの天井を作ったり、
自分の快楽のために他人を妨害するのは許されない。
俺は義務論者でも功利主義論者でもないが、オルテガの言っていることは大体こういう事だと伝えておく。
388名無しさんの主張:2010/08/10(火) 19:36:10 ID:5rXK9RfP
マーク・トウェインの「不思議な少年」は
大衆人の権威主義的性格、付和雷同性が鋭く描かれている。
これがかかれた50年後、大衆人によって人類史上最大の野蛮が行われることを
彼とその読者の他にどれほどの人間が予想したろうか。

(村の無法者たちが大暴れし老女を災いを招く魔女として
吊るし上げ村人はその無法になんの抵抗もできずににつき従う場面)

結局彼らは絞首刑にした。
私も心の中では済まないと思いながら、やはり一緒に石を投げた。
「もっとも、投げないものは一人もいなかったのであり、
しかも、お互いそれぞれ隣の人間に目を光らせているのだ。
もし私だけが石を投げなかったとなれば、もちろんすぐにでも見られて、
みんなの噂になったであろうことは疑いない・・・・・・」
----------------------------------
ところがまたサタンが大笑いをして言うのである、
「そうだとも。君のことを笑ったんだよ。だって考えてもみろ、君はね、
他人にどう言われるか、そればかりびくびくして、現に心の中じゃ、
いやだ、いやだと思いながら、あの女に石を投げたんじゃないかね」
「そうさ、あそこには六十八人の人間がいただろ、そのうち六十二人までは君と同じだった。
石なんか投げたくなかったんだよ」
http://17.media.tumblr.com/10021207_500.jpg
389名無しさんの主張:2010/08/10(火) 20:17:46 ID:5rXK9RfP


フロムの事由からの逃走、正気の社会、オルテガの大衆の反逆と個人と社会、
リースマンの孤独な群衆などの著書をむさぼり読んだ。
それらの著書によって連帯主義の論理を振りかざす人間たち(民族・国家主義者、社会主義者)
が助け合いやみんなの力などという聞こえのいい言葉で着飾り
その本心はそれらが自分が集団を思い通りに支配するための口実でしかない欺瞞であることに気づかせてくれた。

たしかに集団がなければ人間は生きていけない、しかし、その逆もそうだろう。個人がいなければ集団も存在できない
それらは事実相互作用しているものだ。
国家という大きな枠組でなくてもいい、世の中には生長の家、創価学会、民青などたくさんの相互扶助団体がある
なぜ所属するのか?
個人が集団に依存することは集団の力によって既得権益を作りあげ、
敵の攻撃から守られることでもあり安心でき、心地よいことだからだ。
だが集団という意思に個人が異論を唱えることは許されないために結果的に不自由と束縛を強制され
集団ではなく自分が「善く生きる」ために重要な判断をせずに生きなくてはならない。

そのような集団に依存せず、自分にとって何が良いのか悪いのかを自分で判断し行動する人間は
当然自分の精神的、身体的能力をフルに使う。
それが人間という存在をより豊かなものにしてくれる個性という原動力なのだが
大衆は意思決定という自由の労力と苦痛に耐えられず自ら集団の絶対的権力に服従し画一化する。
390名無しさんの主張:2010/08/10(火) 20:22:19 ID:5rXK9RfP

○それが個性という人間という存在をより豊かなものにしてくれる原動力なのだが
391名無しさんの主張:2010/08/12(木) 10:12:47 ID:???
まぁ、西洋も人によって無神論者だったり、ヒンドゥー教徒であったり、カトリックであったりする
日本が考えている以上に自由と個人主義の定着が強い。
日本では例えば、○×に入っていないというだけで、
置き去りにされたり、集団からフェードアウトされてしまう実態がある。
日本は世界でも例を見ないほど集団主義。これは中華も韓国も同じ傾向がある。
392名無しさんの主張:2010/08/12(木) 11:54:53 ID:???
日本の教育体制からして集団主義の所が多いから、
集団主義以外のものを理解するのが難しい現状がある。
勿論人によるし、学校にもよるが。

今度デジタル教科書を全小中学生に配布して、
それで授業をしようって案が持ち上がっているけど、これも集団主義的。
家庭の教育方針を無視しているし、教育には様々な方法や、
人によって合う合わないがあるという事が分かっていない。
集団主義的な仕組みを教育するという事にもなるだろう。
まだ決まってはいないから廃案の余地はあるから、こういう案は止めた方が良いと思うが。
日本の教育のこういう所は一向に良くならないな。
393名無しさんの主張:2010/08/12(木) 13:58:50 ID:tKxnP1vI
というか全国でほとんど同じ教科書使ってるってのがもうね・・・

教科書の多様性が無さ過ぎ。
394名無しさんの主張:2010/08/13(金) 01:36:47 ID:l8QH0GpX
てす
395名無しさんの主張:2010/08/26(木) 10:31:11 ID:CYAP4ymI
結局、集団主義で何かを解決しようっていう考えは、
悪いもので悪い事を解決しようって事なんだよな。
結局、解決になってない。
396名無しさんの主張
>>23
銃社会はロクなことないと思うよ

仮にありえるとしても、日本刀社会だと思う