ヤマギシは宗教ではなく思想だと言われているが、
厳密に言語体系化されていないと言う点でも思想といえるようなものでもなく、
要するに、企業家のオヤジが言うような「哲学」
(「経営哲学」とかなんとか)以上のものではない。
そういう中、人間誰しも持っている「良心」だとか「理想」だとか、
そういう、言ってみれば善良な人間が持つ(語弊があるが)「弱み」
みたいな部分につけこんでいるようなところは、非常に宗教に似ているし、
生産物を通して、自らの素朴な理念をひたすら拡大していこうとしているあたりは、
非常に企業に似ている。
資本主義に対するアンチとして共産主義的な生産をし、それを拡大して
彼らが言うところの革命を目しているあたりは国家に似ている
(というか少なくとも国家を意識している)。
しかし、おそらく彼らは、「ヤマギシはそのどれでもなく」、
ごくあいまいに「理想社会だ」などと言うのだろう。(「全人幸福社会」と言うらしい)
厄介なのは、上記のようなものであるにも関わらず「タテマエ」は
(また、あるいは構成員の意識も)そういう理解・認識ではないので、
宗教や思想にあるような、
厳密に体系化され、批判や読解に耐えうるような意味での「教義」「原典」もなく、
企業にあるような、従業員との契約に関わる明文化された「規定」や「社則」もなく、
また、国家にあるような憲法や法律も存在しない。
そうした一切の言語・法が不在である中、(または少なくとも恐ろしく希薄である中)
存在するのは「合議」を装った集団圧によるおぞましい権力関係のみのようだ。
(話合いではなく実のところ言語ではない権力と情動で動いているようなそれ)
そのもとで、自律的な主観、主体性といった事柄がずたずたに破壊され
ている。(彼らは「思い」と「事実」を切り離すとのことだが、
切り離せないのが生きた人間・主観・主体性なのだ。)
主体性に対する尊重が恐ろしく希薄な、また、言葉で考えることを本質的に蔑視する、
そういう意味でヤマギシというのは、きわめて日本的なカルト集団だと思うのだが、
(たぶん欧米ではこういう集団は絶対に生まれないだろうと思う)
洋の東西を問わず、主体は主体、主観は主観としてあるのだということを
悲惨なかたちで子どもや青少年が示している、そう思われてしかたがない。
「自律的な主観、主体性といった事柄がずたずたに破壊されている。」と言ったが、
子どもはおそらくそういったことに敏感であり、はっきりと拒絶反応が出ているのだが、
大人はそのことに情動面からすら気づけない。ここにとんでもない不幸がある。