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380名無しさんの主張
3つの新聞読者グループ

すなわち、ほかならぬジャーナリストの仲間の中では、新聞を国家の中での「国家」と好んで表現する習慣がある。
事実、新聞の意味はなんといっても、じつに巨大なものである。新聞は一般的にいって、いくら高く評価しても
過大評価されるということはありえない。なにしろそれは現実に、相当の年配になった人々に対し、
教育の延長という働きをするからである。
新聞の読者はその際、一般に三つのグループに分類される。
すなわち、第一は読んだもの全部信じる人々、
第二はもはやまったく信じない人々、
第三は読んだものを批判的に吟味し、その後で判定する頭脳をもつ人々、である。

アドルフ=ヒトラー著 「わが闘争」
381名無しさんの主張:2010/01/10(日) 18:11:31 ID:AvckyGnP
第一のグループは数字の上からは、けたはずれの最大のグループである。かれらは大衆からなっ
ており、したがって国民の中では精神的にもっとも単純な部分を表している。しかしかれらを
職業でもって示すことはできず、せいぜい一般的な知的程度で示すことが出来るだけである。自
分で考えるだけの素質もなければ、またそのような教育も受けていない人々は、みなこのグルー
プにはいる。そしてかれらは半ば無能から、半ば無知から白地に黒く印刷して提供されたものを
全部信じる。さらに、たしかに自分の頭で考えることもできようが、それにもかかわらず、考え
ることの単なる無精さから、他人はきっと正しく頭を働かしたに違いなかろう、とつつましく仮
定して、その他人がすでに考えたことをありがたく全部そのままもらってしまうような、無精者
もまたこのグループにはいる。ところで、大衆を意味するこれらすべての人々にとって、新聞の
影響はまったく驚くべきものであるだろう。かれらは提供されたものを自分で吟味する境遇にも
ないし、またそんな意思もないので、あらゆる時事問題に対するかれらの一般的態度というもの
は、ほとんど例外なく他からの外的影響に還元できるのである。このことは、かれらの啓蒙が、
真剣で真理を愛する方面から企てられるならば有利であるだろうが、しかし人間のくずや、うそ
つきがこれに手を出す場合には害悪となる。
382名無しさんの主張:2010/01/10(日) 18:19:19 ID:AvckyGnP
第二のグループは数ではまったく決定的に少なくなる。かれらの一部は、最初は第一のグルー
プにはいっていたが、長い間の苦い幻滅を経験した後いまや反対側に移って、ただ印刷されて目
に映るものならばなんでも、もはや全然信じなくなってしまった分子から構成されている。かれ
らは新聞という新聞を憎み、およそ読まないか、あるいは、その内容がかれらの意見からすれば、
まったくうそと、事実でないことだけで構成されているにすぎないのだから、例外なしに、そう
した内容に憤慨するかである。なにしろ真実に対してもつねに疑ってかかるだろうから。これら
の人々はきわめて取り扱いがむずかしい。かれらはそれゆえ、あらゆる積極的な仕事に対しては
だめな人間である。
383名無しさんの主張:2010/01/10(日) 18:31:29 ID:AvckyGnP
最後に第三のグループはけたはずれて最小のグループである。かれらは生まれつきの素質と教
育によって自分で考えることを教えられ、あらゆることについてかれ自身の判断を形成すること
に努力し、また読んだものはすべてきわめて根本的にもう一度自己の吟味にかけて、その先の結
論を引きだすような、精神的にじつに洗練された頭脳をもった人々からなり立つ。かれらはいつ
でも、自分の頭をたえず働かせながらでなければ新聞を読まないだろう。だから、編集者の立場
は容易ではない。ジャーナリストはこのような読者を実際括弧つきでしか愛しはしない。
 この第三のグループに属する人々にとっては、新聞がでっち上げうるナンセンスもほとんど危
険がないか、あるいは意味があるとさえも考えられる。とにかく、かれらはたいてい生活の過程
の中でジャーナリストなどは通例として、真実をたびたび語るにすぎない詐欺師とみなす
ことに慣れてしまっている。しかし残念なことは、このようなすぐれた人間の価値が、まさにか
れらの知能にだけあるにすぎず、その数にはないことである。−このことは賢明であることに
意味がなく、多数がすべてであるような時代における不幸なのだ。大衆の投票用紙があらゆるこ
とに判決を下す今日では、決定的な価値はまったく最大多数グループにある。そしてこれこそ第
一のグループ、つまり愚鈍な人々、あるいは軽信者の群衆なのである。

アドルフ=ヒトラー著 「わが闘争」