124 :
八幡和郎 『遷都』:
第一に指摘すべきことは、政府機関とその活動の異常な東京集中である。
しばしば指摘されるのは中央集権制である。確かにアメリカや西ドイツに比べれば
その通りなのだが、国際的にみてそれほど極端な中央集権ぶりとも思えない。
むしろ目立つのは、中央政府機関がほとんど東京に集まっていることである。
どこの国でも、首都機能が一都市にすべて集中いるということはなく、
多かれ少なかれ「分都」的措置がとられている。
たとえば西ドイツでは第五章で紹介するように、連邦銀行がフランクフルト、
環境庁が西ベルリンに置かれている。
ところが日本では、大阪に造幣局があるくらいで、各省の出先機関の権限も弱い。
また中央省庁から地方へ出向いた方が合理的な場合でも、
ことあるごとに地方自治体職員や民間人のほうが上京する習慣になっており、
また地方がそうすることの熱意が、評価の対象にされがちである。
(少なくとも地方はそう信じている)
ヒアリング(役所が企業、団体、他の役所から説明を受けること)をする
中央省庁の役人が二人で、されるサイドの地方の自治体や企業が数十人というような場合に、
どうして二人の方が東京を動かず、
数十人の方が東京に長期間泊まりこまなければならないのか。
重ねた名刺の暑さで計られた熱意でプロジェクトの採用が決まるというのは
合理的な習慣と言えるであろうか。
江戸時代の参勤交代感覚の残滓が東京と地方の双方にある。
さらに中央省庁が東京の企業には細やかな配慮をするが、地方の企業や地方自治体には
そうでもないということもある。
政府活動の地方への実施、政府機関の地方移転につおて霞ヶ関や丸の内では
「企業にとって不便」と心配する人も多いが、
それは現在、関西その他の地方の企業が被っているにも関わらず、
霞ヶ関が無関心でいる事態と同じである。関西や名古屋に遷都すれば、
現在の通産省と東芝、日産の関係と、松下、トヨタとの関係が逆転するだけのことである。
第二に、政府が関与する日本一、日本唯一のものの原則東京主義ということがある。
全国的な公的施設の設置、イベントの開催は原則東京ということになっており、
地方でというばあいは、必要性についてそれを主張する側に挙証責任があったり、
地元の熱意や負担を要求される。
東京と地方が対当の立場で誘致合戦をするということはまずない。
1986年の先進国首脳会議は、京都の熱心な誘致活動にもかかわらず東京で開催されたが、
このとき東京は誘致活動したわけではない。あるいは地方に研究センターを設立しようとすれば
地元の企業に負担を求められるが、首都圏では決してそう言うことはない。
国の施設を誘致するために、地元の地方自治体が用地の心配までしなくてはならないは、
東京周辺の同様のケースとバランスを欠く。
政府は東京で税金を集めて地方に投入しているではないか、という反論がありそうだが
二つの意味で留保しなくてはならない。第一はたとえば東京会議を開催すれば
政府が支出するのはコーヒー代程度である。しかし地方から出張する方では、
高い旅費を払い、さらに東京でかなり多額の消費をする。うっかりすると、
表面上は航空機のチケット代などとして地方での公的支出に計上されているが
そのほとんどの部分は東京に送られてるのだ。
また地方に落ちる財政資金は、農業や公共事業を含めて社会政策的な色彩の強いものが主体で
将来性のある分野では「大事なことだから東京で」ということになる。
明治政府が積極的に有望分野を地方に展開したのと好対照である。
こうしたメカニズムをとおして「東京ではますます仕事が増えるが生活条件が良くない」
「地方では生活条件がどんどん良くなるが仕事がない」という状況が増幅される。
「都市は地方に搾取されている」というのは伝説である。
第三に指摘すべきことは中央政府であるとともに江戸藩であった徳川幕府の体質を受け継いだ
「東京の問題解決は国が対処、地方の問題は地元の責任」という奇妙な分担関係である。
成田空港と関西新空港に対する違いを見てもわかるとおりである。
何かの施設を関西や九州に設置するときには
「地元の関係府県で地点について合意ができれば」
という条件がつくが、関東では埼玉と千葉が争ってもくにがどちらか決めてくれる。
霞ヶ関は日本政府であると共に「関東州政府」としての機能を果たしているが、
「近畿州政府」や「九州州政府」の機能はどこももっていない。
美術館が典型だが、同種の施設でも東京では国立、
地方では県立のケースということも多い。東京には国立美術館、国立西洋美術館、
国立科学博物館、印刷局記念館、NHK放送博物館、憲政記念館、交通博物館、
逓信総合博物館、電気通信科学館など、
政府かそれに準じた機関によって設置された観光資源が多いが、地方にはほとんどない。
東京が国民にとって一番便利という反論があるかも知れないが
全国的な人口分布のバランスや交通の便からいえば、むしろ中部か関西の方が便利である。
それにこうしたものは、相互に近くにある必要もなく、
九州、沖縄、北海道を含めた全国各地に分散すべきものである。
■寺谷一紀が東京を蹴ったワケ 〜東京がでっち上げる偽りの大阪像〜 (産経新聞8/19夕刊コラム)
「大阪はね、ゴミゴミした街だと決まっているんだよ。映像をかえなさい」
上司であるプロデューサーのIさんが、眼鏡の奥の鋭い目を光らせて言いました。私は、
開いた口がふさがりませんでした。平成元年の出来事です。
その当時、私は東京の報道局で、ディレクターとして、短いドキュメンタリー番組の制作
をまかされていました。大阪で「花の万博」が開かれるということを紹介する企画で、総合
テレビの全国ネットの番組です。私は、大阪の良さを全国にアピールする良い機会だと
思い、大阪の美しい映像をふんだんに使いました。中ノ島から大阪ビジネスパーク、ベイ
エリアまで、それはまさに「水の都大阪」をイメージした、渾身の力作でした。
その映像に、NHKの中枢たる東京報道局の上司が、いきなりクレームをつけたのです。
大阪のイメージに合わないから、通天閣や道頓堀といった、もっとわかりやすい映像にし
ろという、まるで情報操作まがいの命令です。私はこの瞬間、東京のマスコミの、大阪に
対する偏見と、ある種のコンプレックスを感じずにはいられませんでした。
そうです。東京は大阪が嫌いなのです。逆もまた真ですが、前者の方がタチが悪い。情
報のほとんどが、東京から発信されているからです。大阪といえば通天閣とタコ焼き、いつ
からそんな偏った大阪像が定着したのでしょうか。もちろん、通天閣もタコ焼きも大阪の大
切な文化ですが、ごく一部に過ぎません。そればかりを強調して伝えるのは誤りです。
とりわけテレビの影響力は絶大です。関西以外の人が大阪に抱くイメージは、一昔前の
外国人が、日本をフジヤマ、ゲイシャの国だと勘違いしていた状況に似ています。あえて
そういう「幻想」を作り上げているのです。
歴史的にも、文化的にも、都市機能という点でも、大阪や関西の実力は相当のものです。
その全体像を伝えず、ただ闇雲に東京を賛美する。そんな一部のテレビメディアこそが、
日本の一極集中の元凶ではないでしょうか。
寺谷一紀(てらたに いちき)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E8%B0%B7%E4%B8%80%E7%B4%80
団体活動などでも、しばしば関東支部と全国本部の区別があいまいである。
東京商工会議所と日本商工会議所の事務局は同じであるし、
経団連は日本経団連なのか関東経団連なのかあいまいである。
同種のイベントでも東京では全国から集めた会費で実行、地方では地元会員の拠出であることが多く
地元の会員の大きな不満を招いている。
東京それ自体が経済最大都市でかつ関東地方という最大のブロック都市であることも
こうした傾向を助長している。ボン、キャンベラ、ワシントン、ローマなどは
いずれも経済の中心地でないので吸収力が弱い。
第四番目に国土の広さ、人口や経済の規模という観点からはどうか。
日本の国土が狭いから中枢圏域はひとつで十分というような人もいるが、
それは全くの誤った認識である。たとえば、東京大阪間はパリ・ロンドン、
パリ・ボンまでの距離よりも長いし、東京福岡間はパリ・ベルリンに匹敵し、パリ・ローマ、
パリ・マドリードともそれ程違わず、札幌那覇間は瀋陽・広州、
ボストン・ニューオーリンズ、パリ・イスタンブール、ロンドン・アテネとほぼ同じである。
違うのは都市と都市の間に海があるか森林や砂漠があるかということである。
人口や経済規模でいっても日本はヨーロッパの国を数カ国併せたのと同じくらいである。
日本は西ヨーロッパとか中国とかアメリカといったものと同格の「大陸」であり「世界」である。
それをフランスやイギリスが一極集中だということと同一視して比較するのは、
ナンセンスというものである。
一極集中の原因となったのは人為的に造られた放射線型国土構造である。
新幹線はひたすら東北から関西に行くのに遠い東京まわりで、しかも上野で降りて
山手線に乗り換え、満員電車で重い荷物を抱えて東京駅まで来なくてはならない。
東京を素通りすることは厳しく拒否されている。網目状の交通網は無駄が大きいというので
ハブとなる都市が必要だというが、ハブとして必要な条件は、
あまり遠回りにならない位置にあることと、素通りが容易なことである。
東京は地理的にも悪く、成田羽田、東京駅上野駅というふうに
空港やターミナルが分かれており、ハブとして失格である。
新幹線・高速道路・航空路の東京中心の整備は、「東京圏の拡大」により地方に便益を与えたが、
依存性を増大させることによって情報発信源、流通拠点の一極集中を加速した。
書籍は戦前の検閲制のなごりもあって、他の地方で出版された本も一度、
東京に運ばれてから地方に運ばれる。テレビが東京をキー局にして整備されたことは、
大きな影響を与えた。テレビ以前の時代は地方の情報発信機能も健在だったが、
これで情報の発信源が東京に集中した。民放については当初、
関西もかなり強力であったことを考慮すれば、NHKの役割が大きい。
そこで、企業は東京で話題にならないと全国的に売れないので、
販売拠点を東京に置かざるを得ない。これらの諸点はとくに関西の地盤沈下の原因として重要である。
国際化というのは、全国各地がそれぞれ海外と直接接触するようになるということであるから、
本来は一極集中を緩和する要因になるはずである。しかし、国際航空網が政策的にも東京中心に整備され、
政府による会議、イベント開催の東京への極端な偏在もあって、ホテル、通訳などの関連サービス業も
東京中心に発展した。
133 :
名無しさんの主張:2006/08/21(月) 21:12:24
★スクープ!田舎者とうんこ こんなにある共通点★
・社会の寄生虫である
・すぐムキになる
・中身がないので言葉で自分を飾り立てて立派に見せようとする
・自己解決をすぐ諦め親や他者にすがる
・努力不足を認めずすぐ社会のせいにし、自らを社会の被害者だと信じて疑わない
・自己主張とわがままを履き違えている
・こんな田舎いつでも出て行ってやると言うが絶対出て行かない
・まともな職がなく都会に出られなかった残りかすしかいない
・親や周囲の人間を不幸にするのが得意
・自分が攻撃されると他者に標的を逸らさせようとする
・都合の悪い話題になると話のすり替えを試みる
・自分の置かれた立場に鈍感である
・前頭葉が退化してるので自分で物事を判断できない
・コミュニケーション能力が低いのでどんな社会になってもオチコボレの域を脱せないことがわかっていない
・社会のオチコボレなのは本能的に感じているので、実は民主主義が嫌い
・人生上の過ちを過ちとして受け入れず次に生かそうとしない
・言葉につまると生んだ親が悪いとすぐ言う
・まともな恋愛をしたことがないので他者への思いやりに欠け自己中である
・厳しい現実を突きつけられると陰謀論を唱え、周囲の恐怖を煽ろうと試みる
・ただれた寄生虫ライフをずっと続けていけると未だに妄想している
・いずれ誰かが何とかしてくれると甘い期待を持つ
・自らの「責任」「負担」は忌避するが、他人にはそれを厳しく求める
・自己弁護のはずが、いつの間にか日本崩壊待望論になっている
・立場の危うさを指摘されると、相手を同類認定しその範疇に取り込もうとする
・自分の物と他人の物の区別ができない
・多様な価値観が理解できず自分の価値観が正しいと思い込んでる
134 :
名無しさんの主張:2006/08/21(月) 21:24:41
東京は十分なインフラ整備ができたから、もうそろそろいいだろう。
これから地球温暖化も進行するだろうし、仙台に遷都してみてはどうだろう?
で、100年ごとに遷都していけば、日本各地の経済が活性化する。
政府自身の東京でのイベント開催の能力も非常に低い。
たとえば警察庁は、
東京周辺以外では要人警護体制を十分にとるのは困難だとすることが多く、
外務省や通産省などの地方での会議開催能力も不足しており、
それを向上させようという努力も十分だとは言えない。
外国株の上場は大蔵省が東京証券取引所しか認めないし、金取引なども同様である。
(債券先物取引市場が大阪にも設置されることになったことは喜ばしい)。
四十七都道府県体制というのが、
東京一極集中の極めて大きな要因になっていることも見逃せない。
第十章で論ずるように、サイズのそろった、
しかも比較的小さな四十七の都道府県に日本を分割したのは中央集権体制には便利だが、
地方自治には向かない。東京だけを別格にして、残り四十六道府県を平等に扱うことになり、
地方中核都市は育たず、東京幕府と四十六の小藩のような様相を示している。
西ドイツのバイエルンとか、
アメリカのカリフォルニアにあたる強力な存在が地方自治体としてないのだ。
第五は、日本人のメンタリティと社会制度からくる問題である。
日本人の伝統的なメンタリティとして「都で栄達」を指向する傾向を否定できない。
また情報発信機能の東京集中と、公的イベントの東京集中などによって
国際的に東京だけが有名だという事実は、内外でのブランド・イメージに差をつけた。
地方本社だと国内の販売に不利だとか、海外での資金調達などの際に
ローカル企業だと誤解されるというので、東京に本社を移した企業もある。
「腹を割って話す」ことを含めたフェース・ツー・フェースの過度重視、
書類のやり取りによる事務処理能力の未熟さ、
「足を運んで熱意をみせる」ことへの評価なども、一極集中要因になっている。
なぜIBM本社がニューヨークから離れた郊外にあるのに、
日本IBMが都心の六本木にあるのかといえば、
アメリカでは電話や書類のやり取りですむことが
日本では直接会わなくてはいけないという以外に説明がつかない。
とくに公的機関がこうしたことを要求するという前近代的な体質を保持しているとすれば、
許されることではない。さらに企業、官庁が本社、採用地において再就職を含めた
終身雇用を事実上保障しているため、東京本社の企業の社員、中央官庁職員は、
東京にマイホームを持たざるを得ない。
このため、住宅取得価格の高騰が東京集中抑制要因として働かないことになっている。
この点はのちにも述べるが、非常に重要である。
第六に、これまで副都として機能をかなり分担してきた関西の地盤沈下は、
一極集中の結果であるととともに原因でもある。これには、前述の一般論に加え、
政府の副都への配慮の喪失ということも大きい。
明治以来、大阪、京都に「府」という名称が与えられてきたこと、
天皇陛下の即位式が京都で行ってきたことに象徴されるように、
政府は関西の副都としての正確を尊重してきたが、
東京への中枢管理機能一極集中こそ合理的だという
「新全総」が出された昭和四十年代ごろから、急速にそうした配慮を喪失している。
ともかく、関西系企業の東京移転というもっとも重要な東京一極集中に対し、
これを阻止するための対策としてなしうることはいくらでもあったはずだが、
なされなかった。現在でも関西や名古屋、あるいはブロック中心都市の振興についての
施策は各省庁ともほとんどゼロと行ってもよく、むしろ場合によっては、東京と同じように
「集中排除」の対象にすらなっている。東京以外の四十六道府県を東京中心の
放射線上でとらえる思想では、関西や名古屋が他の県庁所在地より力があるのは
むしろ目障りなのかもしれない。
以上の分析から明らかな通り、東京一極集中というのは、明治体制とか戦時体制より
はるかに以前の徳川幕藩体制以来の社会風土に原因を求められる物である。
明治政府などは中央政府としての高い意識で全国にまんべんなく配慮を及ぼしたともいえ、
むしろ戦中戦後体制こそ矛盾に満ちた新幕藩体制というべきものだといえなくはない。
これは、霞ヶ関の個々の公務員とか省庁、
あるいは特定の政治家とか政党の問題といったことより遥かに根の深い問題である。
たとえば、外国では政党の全国大会を全国各地の持ち回りで開くが、
日本では自民党から共産党まですべて東京で開催する。大物政治家のほとんどは、
選挙の投票も地元でなく東京でするし、引退しても東京に住む。
あるいは、各省庁の幹部職員もそのほとんどが東京で再就職し、そこへ永住する。
当然、政治家も公務員も不動産をそこで所有している。
意識の上でも個人的利益についても東京市民である人ばかりによる政治や行政は、
やはり歪みを生むのではないか。