いじめに関して

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439名無しさんの主張
『いじめの社会理論』(柏書房)より
http://bookweb.kinokuniya.co.jp/htm/4760120882.html
http://www.amazlet.com/browse/ASIN/4760120882/
http://www.esbooks.co.jp/books/detail?accd=30855241
「大人たちは『子ども』のいじめを懸命に語ることで、実は自分たちのみじめさを語っているのかもしれない。私たちの社会では(国家権力ではなく)中間集団が非常にきつい。そこでは『人間関係をしくじると運命がどうころぶかわからない』のである。
この社会の少なくとも半面は、普遍的なルールが通用しない有力者の『縁』や『みんなのムード』を頼らなければ生活の基盤が成り立たないようにできている。会社や学校では、精神的な売春とでもいうべき『なかよしごっこ』が身分関係と織り合わされて強いられる。
そしてこの生きていくための『屈従業務』が、人々の市民的自由と人格権を奪っている。大人たちは、このような『世間』で卑屈にならざるを得ない屈辱を、圧倒的な集団力にさらされている『子ども』に投影し、安全な距離から『不当な仕打ち』に怒っている。
『子ども』のいじめは、自分の姿を映し出すために倍率を高くした鏡として、大人にとって意味がある。わたしたちはその投影をもう一度自分たちの側に引き受け、美しく生きるためには闘わなければならないことを覚悟すべきである。
 問題はわたしたち自身だ。」
440名無しさんの主張:04/12/05 01:00:13
「(学校の)制度・政策的ディテールは、生徒を全人的に囲い込み、『かかわりあい』を無理強いするように考え抜かれている。
つまり学校は共同体であるとして、生徒が全人的に交わらないでは済まされぬよう、
互いのありとあらゆる気分やふるまいが互いの立場や命運に大きく響いてくるよう、
制度的・政策的に設計されている。
 学校では、これまで何の縁もなかった同年齢の人々を朝から夕方までひとつのクラスに囲い込み、さまざまな「かかわりあい」を強制する。
たとえば、集団学習、集団摂食、掃除などの不払い労働、雑用割当、学校行事、部活動、各種連帯責任などの強制を通じて、
ありとあらゆる生活活動が小集団自治訓練となるように、しむけられる。(中略)
 このようにありとあらゆる生活活動を囲い込んで集団化する事細かな設計は、ありとあらゆることで「友だち」とかかわりあわずにいられず、
自分の運命がいつも「友だち」の気分や政治的思惑によって左右される状態をもたらす。
そしてあらゆる些末な生活の局面が、他者の感情を細かく気にしなければならない不安な集団生活訓練となる。
生存や立場が賭けられた利害の関連性は非常に密になり、生活空間はいじめのための因縁づけ・囲い込みの資源に満ちる。
こういう環境では迫害に対して身を守るのが困難になり、そのためのニーズが大きくなる。
つまり共同体主義の学校は、身の安全をめぐる利害関係を構造的に過密化する。
「生き馬の目を抜く」ように、いつなんどき「友だち」に足をすくわれるかわからない過酷な環境ではじめて、
「みの安全」「大きな顔をしていられる身分」といった希少価値をめぐる、人間関係の政治が過度に意味をもつようになる。
学校が全人的な「共同体の学び」となるよう意図された制度・政策的空間設計が、集団心理-利害闘争の過酷な政治空間を生み出す。
 以下では典型的な事例をもとに、赤の他人と一日中べたべた共同生活することを強いる学校制度のもとで蔓延しがちな、
集団心理-利害闘争の政治空間を分析しよう。」
441名無しさんの主張:04/12/05 01:00:54
「学校に集められた若い人たちは、少なくともそれだけでは赤の他人であるにもかかわらず、深いきずなで結ばれているかのようなふりをしなければならない。
学校では「みんな」と「なかよく」し、その「学校のみんな」のきずなをアイデンティティとして生きることが無理強いされる。
すなわち学校では、だれが大切な他者でだれが赤の他人なのかを、親密さを感じる自分の「こころ」で決めることが許されない。
逆に親密さを感じる「こころ」が学校によって強制される。(中略)
 学校の「友だち」や「先生」に親密さを感じない「こころ」の自由はない。
生徒は学校に強制収用され、グループ活動に強制動員され、いじめや生活指導で脅されながら、
「親密なこころ」をこじり出して群れに明けわたす「こころ」の労働を強制される。(中略)
生徒は(スチュワーデスのように感情労働職を選択して対価として賃金を得ているわけではなく)、義務教育によって学校に強制収容され、
いじめや生活指導で脅されながら「親密なこころ」をこじり出して群れにあけわたす精神的な売春とでもいうべき労働を無理強いされる。
したがって生徒は、感情労働者ではなく感情奴隷であるといえる。
生徒の境遇は、感情労働者であるスチュワーデスよりも性奴隷としての従軍慰安婦に近いといえるかもしれない。
学校に強制収容されて、たまたま同じクラスに配属されただけの者と「親密な友だちとして共同生活」をさせられる強制労働は、
拉致され従軍慰安婦にされて皇軍兵士と「愛しあわされる」強制労働と同形である。
従軍慰安婦にされた女性に兵士と「なかよく」しない自由がないように、生徒にされた若い人にも、
「友だち」や「先生」に親密さを感じない「こころ」の自由はない。」
442名無しさんの主張:04/12/05 01:01:57
「学校の集団生活では人間関係が生活の焦点となり、生徒たちはたがいの「こころ」を気にしながら群れて生きる。
学校共同体にいきわたる秩序は、その場の雰囲気を超えた普遍的なルールや正義による秩序ではなく、
「まじわり」「つながり」あう各人の「こころ」や「きもち」が動きあうこと(を問題にすること)がそのまま秩序化の装置となるようなタイプの秩序である。(中略)
「こころ」や「きもち」が普遍的な正義の機能的等価物となり、秩序化の原理として流用されるということは、「こころ」が政治的な道具となることを意味する。
過酷な集団心理-利害闘争を生き延びるためには、自己の利益にかなった仕方で真に迫った雰囲気を醸成し上手に他人を巻き込んだり、迫力で相手を圧倒したりすることが強いられる。
「こころ」は保身や生存のための集団心理-利害闘争の器官としてすり切れるまで活用される。(中略)
学校では、選択の余地のない特定の「なかま」集団の共生が善い生であると前もって決められており、それがどんなに醜悪に感じられても、与えられた「みんな」の共生のスタイルを生きなければならない。(中略)
「こころ」の秩序空間においては、他人に咎をつきつけたり、いいわけをしたりする政治闘争は、行為が法や正義にかなっているかどうかではなく、もっぱら「こころ」を問題にすることによってなされる。
たとえば「あいつはムカツク」とか「ジコチュウ」といった告発は、行為ではなく「こころ」を主題とした告発である。
「こころ」を秩序化の原理とした生活空間では、いつも他人から「こころ」をあげつらわれ、互いの「こころ」を過度に気にし、不安な気分で同調しなければならない。
「こころ」や「きもち」に準拠してクレイムをつける場合、攻撃する側は、気にくわない者に対して攻撃点をどこにでも見出すことができる。
攻撃される側は、あらゆる方向から「こころ」を見られ、自分の「こころ」に反応する他人がどういう悪意をもつかわからず、それにより自分の運命がどう転ぶかわからない不安を全方位的に生きる。
そして弱者は「友だち」に対してひたすらビクビクと「反省」の身振りをするのだが、それが強者にはもっぽう面白いのである。」
443名無しさんの主張:04/12/05 01:03:26
「さらに自分で友を選択して親しみが湧いてくる以前に、強制的にベタベタさせられて政治的に「なかよくする」生活環境は、個として親密性を築く能力を破壊する。
そしてしばしば、自分は本当は誰が好きで、誰がなぜ憎いのかがわからなくなり、その情動判断を場の雰囲気に代替させるようになる。
数分前になかよくしていた「ともだち」が「みんな」からうとまれはじめると、半分は保身から、半分は本当に「なぜかいじわるな気持ち」になり、「みんな」といっしょに蹴っていた、といったケースは枚挙にいとまがない。
 自分がいじめグループの標的となるやいなや、今まで仲のよかった「友だち」が見てみぬふりをしたとか、手のひらを返したようになったとか、攻撃の先方に転じたといったことは、よくあることだ。(中略)
 こういう場合、いじめ被害者はよく「なかよくできなくてごめんなさい」と泣く。そして、裏切り迫害する「友だち」に「なかよくしてもらおう」と必死になる。
学校の弱者は「みんなとうまくやっていけるように自分の性格を変えなければ」と思う。」
444名無しさんの主張:04/12/05 01:10:54
「『友だち』の地獄」(『世界』12月号)http://www.iwanami.co.jp/sekai/
「 中間集団全体主義社会において、人々を直接的に苦しめる主要な力は、国家権力や市場の貧困化力ではなく、なによりもローカルな秩序の作用であり、
「人間関係をしくじると運命がどうころぶかわからない」不安や、自分自身を嫌悪してしまいそうなしかたで自分を変えてしまう場の変形力である。
 群れを生きている中学生によくある情景はこんなものだ。みんなが「あの人ムカつくね」と言って盛り上がっていると、自分ひとりでは決してそんな気持ちにならないのに、それが「うつって」しまって内側から意地悪な気持ちになってしまう。
それは勢いづくととまらない。一人になるとそういう自分が嫌になることもある。こういった、内側から自分を変えてしまう場の変形力が中間集団共同体にはある。
「貧しさに負けた、いや世間に負けた」というときの「世間」とは、このような場の変形力をもって内側から個を侵食する作用が脅威や不安として現れる社会なのである。」
445名無しさんの主張:04/12/05 01:11:40
「この作用は、自分に対する不信感や嫌悪感や、場の成り行きに対峙する自己であることへのなげやりさを蓄積させる。
自己信頼が希薄な「しめやかな激情」は、みんなのノリとして成型されやすく、桜吹雪のような集団の迫害性を再生産する。
コイツと自分との関係でほんとうにコイツが憎いという根拠のある自分を信じてもいないけど、とりあえず自分もいろいろ嫌な目にあってたまらない気分だから、
その場のノリでむかついてどうしようもないから、コイツをネタにして成り行きまかせだ。
自分の一貫性を信じることはできないけど、是非もなく「いま・ここ」をみんなで生きる。
この「いま・ここ」の主人は自己ではなく、受苦の共同体に沸き立つ場のノリである。
 ここで問題にしているローカルな秩序を規範的言明で表すとすれば、「ノリは神聖にして犯すべからず」となる。(中略)
このタイプの小社会には厳しい身分秩序がある。
被害者が楽しそうに微笑んでいるのを見かけただけで、いじめグループは「ゆるせない!」と激高し、そういう態度をとられた「不正」に対する被害感でいっぱいになる。(中略)
「いじめ被害者が楽しそうに微笑んだり、人並みの自尊感情を持って「よい」わけがない。
それは「われわれ」の生き生きとした「いま・ここ・を・ともに・いきる」に対するひどい侵害であり、いわば「態度罪」あるいは「表情罪」にあたる。(中略)
 自分で友を選択して親しみが湧いてくる以前に強制的にべたべたさせられる人たちは、愛や信頼や倫理や美やきずなやよろこびに関して、自分にフィットした生のスタイルを模索しつつ成長することが不可能になる。
そのかわり、それがどんなに酷くむごいものであっても、それが「みんな」の「いま・ここ」の「かかわりあい」であればしがみつく習性を身につけてしまう。
そしてしばしば、自分は本当は誰が好きで、誰がなぜ憎いのかがわからなくなり、その情動判断を場の雰囲気に代替させるようになる。」