176 :
木瓜@( ゚-゚)y-~~ ◆BOKE/2QAEY :
最近雑誌『世界』で2ちゃんねる批判を展開したと言う
北川暁大氏の『責任と正義 - リベラリズムの居場所』という本を読み出したのだが、
なんかいいっすねー。まだ少ししか読んでいないけど。
本質主義を厳しく斥けあらゆる事象を社会的歴史的文脈で捉えなおすと言う
昨今の社会学説に限らず思想全般を席巻している潮流及び言説それ自体が
権威的機能を発揮している、と言う逆理を指摘する下りは胸がスキッとした。
本音のところでは、ポストモダニズムの術語を金科玉条のごとく振りまく連中に
本当懲りていたと思うんだ、北川氏も。
北川氏は1971年生まれ。
こういう思想に至ったのはすぐ上の世代がスキゾ君ばかりで辟易した
最初の年代だからだろうかね。
スラヴォイ・ジジェクの引用も素敵。書き込んじゃえ。
「<カルチュラル・スタディーズ>は、伝統的な哲学的普遍主義を批判するにも
かかわらず、実際にはある種の代用哲学として機能している。」
そのとおりだよ。
人間の認識のあり方からして普遍主義を退けることは不可能である故に
普遍主義的思考を投げ捨てるのではなくて
いかにうまくその思考と付き合っていくかを考えていくしか現実的でない。
夢想を排斥することが現実的なのではなく、
よりよい夢想を編み出すことが現実的なのだ。
× 北川暁大
○ 北田暁大
…ス、スマヌ
178 :
木瓜@( ゚-゚)y-~~ ◆BOKE/2QAEY :04/02/02 23:30
これも置いておこう。
〜 北田暁大インタビュー 〜
『2ちゃんねるに《リベラル》の花束を』
http://media.excite.co.jp/book/interview/200311/ 北田 …やっぱり2ちゃんがつまらなくなっているように思うんです。
2ちゃんの面白さって、もともとは、学級委員みたいな存在を嗤うような
アイロニカルなコミュニケーションにあったんじゃないかと。
ところが、そういう皮肉さみたいなものが少しずつ摩滅してきて、
《繋がり》の持続だけを求める形式主義的な傾向が強くなった。
そこに「嫌韓」とか「反サヨ」とか分かりやすいロマン的課題が流れ込んできてしまって、
いつのまにか自分が正義の人、学級委員長になってしまっている。
他人の自意識をせせら笑う皮肉屋自身が、
誰よりもナイーブに自意識を肥大させているという感じでしょうか。
179 :
名無しさんの主張:04/02/02 23:37
>>176 え〜と、分からないところは
本質主義を斥ける事が権威的機能になるのが逆理になるのか
と
スキゾって何?
こないだ新聞で世界の中で日本を考える時
理想こそが現実であるってあったなー
そうゆう解釈でいいの?
180 :
木瓜@( ゚-゚)y-~~ ◆BOKE/2QAEY :04/02/02 23:51
>>179 スキゾはパラノと対比される精神医学の用語で、
パラノが偏執的な精神のあり方を表現するとすれば
スキゾはこうした偏執的なあり方のない滅裂な思考を表現する、
と言っていいと思います。
パラノが何らかの権威を要請する思考であって
パラノはその権威から「逃走」する思考である、という文脈で
主に80年代に流行った思想ですね。
で、その文脈で、
>本質主義を斥ける事が権威的機能になるのが逆理になるのか
ということですが、
あらゆる権威には普遍で不変のイデオロギーが担保としてあるということで
その担保をここでは「本質」と読み替えて結構です。
つまり、権威的思考を否定するのにその思考法のご本尊としてある
「本質」を否定する思考そのものが権威的になっては
元も子もないでしょう?ということですね。
北田氏はこの思考法のある種の典型としてマルクス主義運動も挙げていますが。
まあマルクス主義に限らず、何らかの「抵抗」運動に多かれ少なかれ含まれている
逆理と言ってもいいかもしれません。
>こないだ新聞で世界の中で日本を考える時
>理想こそが現実であるってあったなー
うーん。その新聞を読んでいないのでなんとも言えませんね。
安易に批判的考察を加えずに理想を掲げてしまっては
たんなる狂信と変わらなくなりますから。
× パラノはその権威から「逃走」する思考である、
○ スキゾはその権威から「逃走」する思考である、
182 :
名無しさんの主張:04/02/03 00:05
>>180 ちょっと思うところがあったので、お暇だったらご回答を・・・。
180の>本質主義を斥ける事が権威的機能になるのが逆理になるのか
って部分なんですけど、これって昨今の「共同体批判」を例にとると
「共同体に依存する人間を批判する事によって、
結果的に共同体に依存してしまってる人間になってるヤツ」の事に当たるんですかね?
あと、
>>176の
>夢想を排斥することが現実的なのではなく、よりよい夢想を編み出すことが現実的なのだ。
の件は、
理想をあきらめて現実だけを掲げるのではなく、
現実から逃避して理想に逃げ込むことでもない。
理想と現実の相克に苦しみながら、よりよい「現実」を実現させるための「理想」を模索し、
現実と戦っていかなければいけない。
見たいな解釈でいいのですかね?
30年ばかり生きていますが、「相対化のための相対化」
「ためにするための相対化の否定のための「相対化の相対化」による現実路線、保守回帰」
(ちなみに後者に当たるのが小林よしのりだと思ってます)
にいい加減疲れてきまして・・・。
俺もそろそろ時代の証言者となった時、
次世代にどういう語り口調で何を言えばいいのかを考えようと思ってまして。
・・・なんだか、わかりませんね。駄文ですいません。
183 :
木瓜@( ゚-゚)y-~~ ◆BOKE/2QAEY :04/02/03 01:51
>>182 お返事ありがとうございます。
>昨今の「共同体批判」を例にとると
>「共同体に依存する人間を批判する事によって、
>結果的に共同体に依存してしまってる人間になってるヤツ」の事に当たるんですかね?
この例は、共同体に依存する人間を批判するあまり
そうした批判をすること自体が批判する人のアイデンティティになってしまうと
共同体に依存する人間がいない限りその人の存在意義もなくなり
結果共同体に依存する人間に依存してしまうという、
ある種の逆理を表現しているとは思います。
ただ、私の述べたことはあなたの述べたことと同じように逆理を言い表しているものであっても
述べられているテーマに関してちょっと異なっていると思います。
本質主義を否定する思考それ自体が権威化する事態を一言で要約すると
「相対主義が絶対主義化すること」と言ってもいいかもしれません。
例えば、「自由」や「人権」」と言った概念を近代ヨーロッパにのみ通用するイデオロギーと捉えて
単なる夢想であると考え斥ける思考ですね。
しかし、こうした理想を解体し尽くしイデオロギーを否定し
たとえ「自由」や「人権」といった概念が局所的にしか妥当しない理想であったことを暴露しても、
およそ人間の認識のあり方として理想を掲げイデオロギーを抱え続けなければならないことは
否定できないのではないかと私は考えるのです。
適例かどうかはわかりませんが、
例えば、いったい身長何cmからが普遍的に背が高いと承認されるのか?なんてことを議論しても
とてもじゃないけど万民が同意することはできないですよね?
しかし、万民が納得できるような「〜cmからが高い」は無くても、
人間の認識のあり方に組み込まれている「高−低」という物差しそのものを否定し無化することはできません。
先に挙げた所謂「相対主義」は、万民が納得できる「高さ」がないから
「高さ」なんて物差しは無くしてしまえ、と言っているようなものだと考えるのです。
「高−低」、あるいは「善−悪」といった認識に本来的に備わる物差しは
およそ認識がある限り否定し無化することができるような代物ではありませんからね。
184 :
木瓜@( ゚-゚)y-~~ ◆BOKE/2QAEY :04/02/03 01:53
以上のことから
>理想をあきらめて現実だけを掲げるのではなく、
>現実から逃避して理想に逃げ込むことでもない。
>理想と現実の相克に苦しみながら、よりよい「現実」を実現させるための「理想」を模索し、
>現実と戦っていかなければいけない。
>見たいな解釈でいいのですかね?
の件ですが、そのとおりとお答えします。
いくら「理想」から逃避しても、人間の認識のあり方からして
逃避しきれるものではないですから。
>30年ばかり生きていますが、「相対化のための相対化」
>「ためにするための相対化の否定のための「相対化の相対化」による現実路線、保守回帰」
>(ちなみに後者に当たるのが小林よしのりだと思ってます)
>にいい加減疲れてきまして・・・。
>俺もそろそろ時代の証言者となった時、
>次世代にどういう語り口調で何を言えばいいのかを考えようと思ってまして。
>・・・なんだか、わかりませんね。駄文ですいません。
いや〜分かりますわ。
先に描いた本質を否定する者達がどのような思想に至るかというと
あくまで本質を否定し続け、例えば国民国家概念の解体やら、
フェミニズムのように男性性−女性性などの概念を解体やらを
試み続ける側(こうした思考はポストモダニズムの中でも「文化左翼」と言われるらしいです)になるか、
あるいはあなたの指摘するように簡単に現実に阿る保守的な態度になるかに分かたれますね。
後者については
>>178の北田氏の語る事態にも繋がると思います。
つまり、
「他人の自意識をせせら笑う皮肉屋自身が、
誰よりもナイーブに自意識を肥大させているという感じ」になりますかね。
生徒会によくあるみんな明るく・仲良く・美しくという胡散臭い民青ノリをぶち壊すために
そういったスローガンよりもさらに胡散臭いウヨ思想を身に着けてしまうというアイロニー、
なんて例えを私は考えちゃいましたが。
185 :
木瓜@( ゚-゚)y-~~ ◆BOKE/2QAEY :04/02/03 01:54
「相対化のための相対化」という言葉は、私の批判する事態をよく言い当てていると思います。
中心にいるのではなく周辺にいて中心を観察し、批判・あるいは皮肉し続けることには
周辺者にふさわしい慎ましさで臨む限り 中心の補強のためにも意義のあることでしょう。
ところが、この中心−周辺が転倒され周辺であること自体が目的になってしまうと
中心−周辺の図式が失われることになるのですから
どのようにしてもその試みは失敗しますね。
うーん。私もなんだか混乱してきちゃいました。
術語を金科玉条のごとく掲げる連中を批判した私自身が
術語をふんだんに使い説明せざるを得ないというこのアイロニーw
悪気は無いから許してね。簡単に分かりやすく書くことよりも
正確に書きたいからこうなっちゃうのです。
今日はこれまで。
おやすみなさい。