【制服】吉原「CUTE/キュート」Part 22【メイド】
私が生まれたのは1986年9月のまだ残暑の厳しいときだった。
聞いた話によると、京都の盆地で生まれたらしい。
3600gで女の子にしては大きかったみたいだ。
陣痛が思ったより重かったらしいが、安産だったようだ。
「親バカ」と名前をつけてもいいような父親。
風邪ひとつひいただけで、病院へ行けだのなんだの言ったり、咳止めシロップを夜中に買いにってくれたりした。
一緒に遊んでもらった記憶がかけらしかないのはなんでだろうか。
そして、おやつには手作りのケーキやパイ、手作りの洋服を作ってくれた、
皆に自慢できるような-母親。
それだけでよかった。
それ以外なにも求めなかった。
"そのときだけ”は。
父親は私「奈津巳」が小学校に入ると職を転々とし始めたみたいだ。
京都では何か職についていたらしいが、すぐに神奈川に転居した。
そして私の知ってる限りでは、神奈川の横浜市で車の部品を作る仕事に就いたらしかった。
横浜市T区では社宅に住んでいて、友達も多かった。
当時は母も父も働いていたので、毎日日が暮れるまで遊んで、家に帰ったら誰もいない。
いわゆる鍵っ子だったが、寂しいという感情はまったく抱かなかった。
そこ以外はいわゆる普通の子供だったのだ。
奈津巳が小学校1年を過ぎたあたりから、
母親は前触れもなく精神病-分裂病-になってしまった。
もしかしたら前触れはあったのかもしれないが、私にはわからない。
後に聞く話によると、母の育った環境はものすごかったらしい。
祖母が男狂い。
父親が1年ごとにかわる生活をしていたので、引越しもしょっちゅう。
だから学校も転校ばかりで友達もできない。
そんなある日、何人目かの父親がタバコをきっかけに火事をおこしてしまった。
そのときの祖母(母の母)の言葉。
「晴代(奈津巳の母)のせいにしてしまえばいいんじゃない?まだ子供だから
許されるでしょ?」
結局火事はそんなに大きく広がらなかったみたいだが、自分のせいにされるなんて・・・。
そして母は18歳になったとたんに家を出て、風俗で働きだした。
どんな出会いだったかは聞いていないけど、母が20歳過ぎの若いときある男性に恋に落ちた。
その恋は「お金」というものでつながれていたらしい。
そしてその男性に貢ぎまくる毎日。
サラ金にも手をだした。
どんなことをしてもその男に金を使った。
そして、21歳の時身篭った。
相手は父親の認知を拒否し、母親一人で育てるつもりで産んだ。
だけど、お金も底をつき、ミルク代すらない日々。
「自分はこのまま我死してもいいけど、この子だけは・・・」
と、その子供を施設へ預けた。
「”のぞみ”といいます」と。
そしてその貢ぎに貢いだ男との間に残ったものは、借金。
どうすることもできない母。
そこで、奈津巳の父が登場する。
自己破産というものがあると、母に教え、無事自己破産が済み。
一緒に住むようになった。
体もなんども重ねただろう。
いつしか、母が24歳のとき、私、奈津巳を身篭った。
そして、母も青木から品川に名字が変わる。
幸せな人生だっただろう、この頃は。
だが、100人に1人はなるという分裂病になってしまったのだ。
このころはまだ「統合失調」という言葉はなかった。
分裂病と呼ばれていて、2000年を過ぎたあたりに「統合失調」と名前が変わった。
そのため、分裂病は「精神病者」「キチガイ」などと色々差別された。
社宅に住んでいた為、母の病気を隠すのが大変なようにみえていたのだ。
私は子供心ながらに、幻聴と会話している母親を忘れられない。
それは普通の姿とは到底かけ離れていた。
母親はにこにこと上機嫌で誰もいない空間に話かけているのだ。
おかしい、そう感じていた。
やがて父と母は離婚した。
理由は性の不一致らしいが、元々性的接触があったように見えなかったのだが・・・。
私が小学校3年生のときだった。
私は泣きじゃくる母親になにもできず、一緒に泣くだけだった。
泣いた母親を見たのは私が7歳の時に母親のお財布からお金を盗んだ時以来のことだった。
心がものすごく痛んだ。
どうすれば母は笑ってくれるだろうか。
どうしたら悲しみから救ってあげられるだろうか。
小さい私には何もできない。
元・父の進めもあり、私と母は生活保護を受けた。
父親としては、「生活費は俺は払いたくないから」という理由だったろうが・・・。
生活保護は二人で月18万円もらい、4ヶ月に一度「子供のため」と称して15万円くれるのだった。
しかし私達母娘は毎日の生活に追われていた。
お金も税金から出ているのになぜ?と思うだろう。
答えは簡単だ。
母親がギャンブル狂になってしまい、3日足らずで生活費を使ってしまうからだった。
私は当時10歳。何もできなかった。
アルバイトもできる訳がなかったし、せめてできることといえば
自分の身の回りの漫画やゲームを売って2〜3000円ばかり手に入れて、
明日への食費につなげることだった。
そのときの食卓事情はひどいものだったと、今にして思う。
お米は高くて買えないので、小麦粉を買って水で溶いて焼いたものをソースをつけて食べる。
それが毎日の夕食だった。
栄養なんて無視していた。お腹に溜まればそれでよかったのだ。
それに、私は昼間は給食があったのでなんとかなっていた。
母はそのとき何を食べていたのだろうか・・・?
きっと何も食べていなかっただろう。
母はお金が尽きるとギャンブルはしない。
しかし、月初めになってお金が入るとまたギャンブルにつぎ込んでしまうのだった。
そんな生活が2年続いた。
私は、12歳、小学校6年生にして始めて性を売った。
元々テレクラ遊びが友達の間で流行っていた。