【かぐや姫】川崎プリンセスグループ【倶楽部姫】13

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308名無しさん@入浴中
9歳から12歳の間に51回も逮捕され、遂にニューヨーク州でも最悪の少年が収容されるトライオン少年院に収監。そこでボクシングと出会う。
その後、その才能が名トレーナー、カス・ダマトの目に留まり少年院から救い出され、ボクシングの英才教育を受ける事になる。
まずはオリンピックを狙いアマチュアの試合に出場しているが、
国内予選の最終選考会の決勝戦でダウンを奪いながらも判定負けを喫しオリンピックへの参加は叶わなかった。
タイソンのようにポイントではなくノックアウトを狙うファイタースタイルの選手はポイントゲームであるアマチュアボクシングには合わない面もある
309名無しさん@入浴中:2007/07/23(月) 07:28:25 ID:g+TLTfXh0
1985年3月6日、18歳にしてプロデビューしヘクター・メルセデスに1RTKO勝ちで初戦を白星で飾る。
この年、11連勝を飾った直後トレーナーのカス・ダマトが死去。
その後、通算28連勝し1986年11月22日、29戦目にしてトレバー・バービックに2RTKO勝利し、
WBC世界ヘビー級王座を獲得。史上最年少(20歳5ヶ月)で、世界王者となる。
翌年、1987年3月7日にはジェームス・スミスに判定勝ちし、WBA世界ヘビー級タイトルを獲得。
さらに同年8月、トニー・タッカーに判定勝ちしてIBF世界ヘビー級タイトルを獲得して3団体統一に成功。
1988年2月に、元ファッションモデルで女優のロビン・ギブンスと結婚。だがすぐに離婚した。
通算9度の防衛に成功することになるが、1988年に行われたマイケル・スピンクス戦後、
カス・ダマトがその生前絶対に組んではいけないと言っていたドン・キングにプロモートを受けるようになってからは精彩を欠くようになる。
310名無しさん@入浴中:2007/07/23(月) 07:29:19 ID:g+TLTfXh0
一般的にこの1988年までがタイソンの絶頂期と言われている。
この年の後半、ダマトの死後からそのボクシング理論を引き継いでタイソンに教えていたケビン・ルーニーを突然解雇。
マネージャーのビル・ケイトンも解雇し、ダマトが残したチームはバラバラとなる。
家族同然だったルーニーはボクシングのトレーナーとしてだけでなく、タイソンのモラルや私生活の監視役でもあった。
 新しいチーム態勢ではタイソンの周囲に金目当ての「イエスマン」ばかりが集まり、タイソンの私生活は急激に乱れる。 
離婚騒動、自殺未遂、訴訟沙汰、交通事故、放蕩、練習不足、度重なった試合の延期…
タイソンの周辺が急におかしくなりリング外でのトラブルの話題が増えていく。 
311名無しさん@入浴中:2007/07/23(月) 07:30:00 ID:g+TLTfXh0
案の定、プロ入り以来初めての長期ブランクを経た1989年のフランク・ブルーノ戦では、別人のような緩慢で雑なボクシングを披露した。
このブルーノ戦はそれでも勝ったがまともにカウンターを貰い初めてグラつく姿も見せている。
タイソンの兄弟子ホセ・トーレスはこの試合を見て「カスが教えたものは全て失われていた。
左右への動き・コンビネーション・タイミング・忍耐、何もかも・・」というコメントを残している。
次戦のカール・ウイリアムス戦では、わずか1Rのフック一発で試合が決したため目立たなかったが、その動きにかつての切れはなく、
生放送では解説の浜田剛史がタイソンのボクシングに首を傾げるような発言をしている。 
312名無しさん@入浴中:2007/07/23(月) 07:30:41 ID:g+TLTfXh0
 次戦、タイソンは試合を急にキャンセル(ドノバン・ラドックとの防衛戦が決定していた)するなど相変わらずゴタゴタが続き、
1990年2月11日に日本の東京ドームでジェームス・ダグラスに10ラウンドKO負けしてタイトルを失う。
 これがタイソンのキャリアにおける初黒星だった。さらにタイソンの転落は続く。
1991年にディズィリー・ワシントンをホテルの一室でレイプしたとして1992年に刑務所へと収監された
(この事件に関してケビン・ルーニーはタイソンがハメられたと見解を出している。