【かぐや姫】川崎プリンセスグループ【倶楽部姫】11 オランダが誇る名将、リヌス・ミケルスが提唱した革命的な組織戦術・通称「トータルフットボール」の最高の体現者として知られる。 11人の中央のポジション、文字通り「心臓部」に位置し、俊足と当たり負けしない抜群のバランス感覚、 卓越した華麗なテクニック、試合の流れを読む洞察力、そしてミケルスの意思を具現化する戦術理解力と、 選手として全てにおいて秀でていた。試合中はフィールドの指揮官としてチームを牽引し 、状況に応じてフォワードから最後尾まで至るところに顔を出す 。ゲームメイクからラストパスの供給、フィニッシュまでひとりでこなしてしまうオールマイティプレイヤー。 ミケルス監督とは1965年のアヤックス時代から、FCバルセロナ、そしてオランダ代表でも共に戦っており、ミケルスの戦術の中で唯一無二の存在として君臨した。 身長176pとそれほど長身ではなく、また体重も70kgを下回る細身であり、 サッカー選手としては決して恵まれた体躯ではなかったが、類まれなる技術と強いメンタリティで体格的なハンディを微塵も感じさせなかった。 特徴的なプレーとしては、軸足の後ろ側にボールを通す「クライフ・ターン」が有名。 現代サッカーでは基本テクニックのひとつとして各クラブの下部組織などで少年たちに教えられている。 ちなみに、ジネディーヌ・ジダンの「マルセイユ・ルーレット」と混同されがちだが、全く異なる技である。 またワンタッチプレーを好み、独特のタイミングで放つパスやシュートで相手選手を翻弄した。 1974年のワールドカップ西ドイツ大会、対ブラジル代表戦で魅せたジャンピングボレーシュートは、後の「フライング・ダッチマン」の愛称に繋がっている。
1947年4月25日、第二次世界大戦後のオランダ・アムステルダム郊外(ヘームステーデ)で、父親が青果店を営む家庭に産まれた。 少年時代は店の前でサッカーの練習に明け暮れる。この頃から華奢で、周囲の大人から「この子は病気じゃないか」と心配されていた程だったが、 ヨハン少年は元気にストリートサッカーで技を磨いていった。 小さい時からアヤックスの大ファンだったクライフは、10歳の時にアヤックスの下部組織に入団。合格の可能性1%と言われた中での入団だった。 12才の時に父親が死去、その2年後に母親がアヤックスのグラウンド作業員と再婚している。13歳の時、サッカーへ専念するため学校を退学した。 ちなみにアヤックスユース時代、審判のポジショニングミスを指摘して退場処分になった事があると言う。
16歳の時にアヤックスのトップチームに昇格し、1964-65シーズンにデビュー。デビュー戦のFCフローニンゲン戦で初ゴール。 その後オランダサッカーリーグはプロ化され、クライフはオランダ2番目のプロ選手となる。 また1966年9月7日の対ハンガリー戦でオランダ代表デビュー、以降オランダを代表するスターとして世界に名を馳せていく。 アヤックスには1973年まで9シーズン以上在籍し、その間UEFAチャンピオンズカップ(UEFAチャンピオンズリーグの前身)に3回優勝、個人ではバロンドールに2回選出されている。 ちなみにクライフの代名詞である背番号「14」はアヤックス当時から好んで付けていた。当時背番号は選手固定ではなく、 毎試合前に選手同士で話し合って決めていた。ある時、主に控え選手が付ける「14」を選ぶクライフに監督がその理由を尋ねると、 クライフは「誰も付けていないこの番号を、これから自分の番号にするためだ」と言ったという。
1973年、200万ドルという当時としては破格の移籍金でスペインのFCバルセロナに移籍。 当時低迷していたクラブの救世主として、22戦連続無敗記録など快進撃の立役者となり、このシーズンのリーグ優勝に貢献した。 特にアトレティコ・マドリード戦でのゴールやアウェーサンチャゴ・ベルナベウで行われたエル・クラシコに5-0で歴史的大勝を収めた事などは語り草となっている。 その後5シーズンにわたってバルセロナに多くのタイトルをもたらした。 1974年のワールドカップ西ドイツ大会には、オランダ代表の中核として出場。「時計じかけのオレンジ」と称された完成度の高いチームの心臓として、チームを決勝戦まで押し上げた。 しかし決勝の対西ドイツ戦で、クライフは西ドイツのディフェンダー・ベルティ・フォクツの執拗なマークに遭い完全に封じ込められる。 チームとして機能しなくなったオランダは1対2で破れ、惜しくもワールドカップを逃した。しかしこの決勝戦は、 ワールドカップ史上最もスペクタクルな一戦のひとつとして現在も語られている。クライフ自身はこの大会の最優秀選手に選ばれ、 またこの年のは3度目のバロンドールにも輝いた。 4年後の1978年にアルゼンチンで開催されたワールドカップでは、欧州予選にこそ出場したものの、 当時のアルゼンチンのビデラ軍事政権に対する抗議のため大会参加を拒否。さらにその後はオランダ代表が2大会連続で欧州予選で敗退しており、 クライフのワールドカップにおける成績は、1大会のみの出場で7試合3得点に留まっている。
1979年、FCバルセロナ上層部と運営方針を巡って衝突し、クラブを退団。一時は引退を宣言するも、 アメリカ・北米サッカーリーグのロサンゼルス・アズテックスに移籍。ベッケンバウアーと共にリーグを彩った。 その後スペインのレバンテを経て、1981年に古巣アヤックスに戻り、全く衰えを見せないプレーで故郷の観客を魅了。 その後キャリア最後のシーズンをフェイエノールトで過ごし、1984年に現役を引退する。最後の2年は連続でオランダ年間最優秀選手に選ばれており、 余力を残しての引退であった。最後の試合を終えた後、ロッカールームでスパイクを無造作に放り投げ、引退の意思を示した。 翌1985年、アヤックスの監督に就任。就任時はまだ公式な指導者ライセンスを取得していなかったため、 当初の肩書きは「テクニカルディレクター」だった。3年間同クラブを指揮し、1987年にはUEFAカップウィナーズカップ優勝に導いた。 この時の教え子にフランク・ライカールト、マルコ・ファン・バステン、アーロン・ヴィンター、デニス・ベルカンプといったその後のオランダサッカー界を牽引する選手たちがいる。 1988年に監督としてFCバルセロナに戻ったクライフは、それまでの主力選手を大量解雇するなど低迷するクラブの再建に着手。 多額の費用を投じてフリオ・サリナスらスター選手たちを次々獲得していき、 在任8シーズンの間にリーガ・エスパニョーラ4連覇(1990-94)を含む数々のタイトルを獲得。1991-92シーズンにはクラブ初のチャンピオンズカップ奪取を成し遂げた。 このクライフが創り上げたチームは「エル・ドリーム・チーム」と称され、バルセロナの栄光の歴史に刻まれている。 その後
クライフはフットボールを語る際の、その独特の言い回しで数々の至言・名言を発している。 「私はフットボールを始めて以来多くの選手を見てきたが、みんな私より下手だった。私は下手な選手を誰よりも見続けてきた。だから彼らの気持ちはよくわかる。」 「ボールを回せ、ボールは疲れない」 「ワンタッチこそ最高の技術だ」 「フットボールでは100mより30mから40mを速く走ることが重要。だがもっと重要なのは『いつ』走るかだ」 「勝つときは少々汚くてもいい。だが、負けるときは美しく」 「美しく敗れる事を恥と思うな、無様に勝つことを恥と思え」 「ダメな奴らが走るんだ。相手をもっと走らせろ」 「月並みなやり方をするくらいなら、自分のアイデアと共に心中した方がマシだ」 「1-0で守り切って勝つより、4-5で攻め切って負ける方が良い」 「いくら技術に優れ、スーパースターでも…、その上には、勝者が、チャンピオンがいる…」 1974年W杯決勝戦後のコメント。「スーパースター」とはクライフ自身を指し、「勝者・チャンピオン」とは同大会で優勝したベッケンバウアー率いる西ドイツ代表チームのこと。 「大量リードの時はゴールよりも、わざとゴールポストに当てた方が観客は喜ぶ」 「だって9番といえばディ・ステファノ。10番はペレ。僕がそんな番号付けたら紛らわしいじゃないか」 どうして14番なんて番号を選んだのか?と聞かれた時のコメント。 「理想のフットボールとは、常に勝ち続けること。スペクタクルでファンタスティックなプレーで。」 「アヤックスとはサグラダ・ファミリアのようなもの。どちらも1日でできあがったわけではない。」
1983-1984シーズンに、フランス・オセールにてプロキャリアをスタート。その後、マルセイユ、ジロンディンズ、リーズ・ユナイテッドを経てマンチェスター・ユナイテッドでは3度の優勝の原動力になる。 クラブファンが選ぶ「20世紀を代表する選手」に選ばれた。 重戦車のような体でピッチを駆け回り、相手選手を威圧。しかしそのボールさばきは天才的で、技術的には完璧に近かった。 これだけなら他にも優れた選手はいるが、カントナをカントナたらしめたのはその類まれなるイマジネーションであった。 ピッチ上で彼に不可能は無く、彼の頭の中で試合をしているような、それほど他の選手に影響力のある選手だった。 ユニフォームの襟を立てる着こなしは、彼が元祖といわれる。「エリック・ザ・キング」の異名を持つ。 1997年に31歳で引退後は俳優、そしてビーチサッカーフランス代表も務める。 2002年以降、NIKEのテレビCMに出演し話題を呼ぶ。2006年にはNIKEのJOGA BONITOシリーズのCMに出演。「打て。」で視聴者に印象を残す。
1995年1月25日、クリスタル・パレス戦においてレッドカードを宣告され退場するカントナに「カントナ失せろ。 シャワーを浴びて帰れ!」と野次を飛ばしたクリスタル・パレスのサポーター、マシュー・シモンズに対して、 カントナがいきなり飛び蹴りを放った(ファンの間では「カンフーキック」「カントナキック」と呼ばれる)。 カントナは元々あまりおとなしいタイプでは無かったが、これは大きな批判を呼び、約4ヶ月間の社会奉仕活動、1年弱の出場停止処分を言い渡された。 EURO1996のフランス代表発表の際にジネディーヌ・ジダンが頭角を現してきたことや世代交代の波もあり、カントナはフランス代表から外された。 当時のフランス代表監督のエメ・ジャケは、カントナに代表落選を告げる時のことを「死ぬほど怖かった」と語っている。 ちなみにカントナ自身はこのことが影響してか、同年イングランドに帰化している。 マンチェスター・ユナイテッドの監督のアレックス・ファーガソンがアラン・シアラー獲得断念について「シアラーを獲得するにあたって、2つの問題があった。 一つは彼がPKを蹴りたがること、もう一つは背番号9番をつけたいと思っていることだ。 背番号の方はそれほど問題はなかったのだが、その頃の私のチームでPKを蹴っていたのは“カントナ”だったのだよ…。」と語った。 またファーガソンはカントナについて「確かにカントナには数えきれない程の欠点がある。 彼は人の指図を受けない人間だ。しかし、彼が我がクラブにもたらした最大の功績は、完璧を目指すならトレーニングを疎かにするなということを思い出させてくれたことだ。」 と語っている。彼の練習熱心さはベッカムを始めとするチームメイトに大きな影響を与えた。 イマジネーション溢れるプレースタイルは、ベッカムをして「一緒にプレイした中では彼がベスト。彼のようなカリスマになることが僕の夢」と言わしめた。
「世間では普通と違う人間を異常と呼ぶ。私はそう呼ばれることを誇りに思っている。」 「チームなんてどうでもいい、俺が目立てばいいんだ!」 「俺の墓石には、どんな言葉も刻んで欲しくない。まっさらな石のままでいい。俺という人間をいつまでも大きな謎につつんでおきたいんだ!」 「俺がボスだ!」 「監督やチームメイトが何を言おうが関係ないね。興味がわかないんだ。」 「フットボールで最も重要なのは、集団として何をするかだ。個人として注目を浴びたいなら、 私はテニスをやる。あるいは素敵な女性をパートナーにして混合ダブルスをやる。」 「私はサッカーに対する情熱を失ってしまいました。今までありがとう!」(引退会見にて) マンチェスターUにて、ファンが選ぶ歴代NO.1「7」に見事選ばれる。
マルコ・ファン・バステン(Marco van Basten, 1964年10月31日 - )は、オランダ・ユトレヒト出身のサッカー選手。現同国代表監督。 度重なる怪我のため選手生命は長くなかったが、スピード・パワー・テクニック・高さ・アイディア・メンタル・瞬発力・決定力とFWに必要な能力を全てを兼ね備えた万能ストライカーで、 1988年の欧州選手権、対ソ連戦では伝説となったボレーシュートを決めた。 これは後に20世紀最高のゴールと賞賛されている。ACミラン在籍時にヨーロッパ/サウスアメリカ カップやUEFAチャンピオンズカップなどのタイトルを獲得した。 1987年から在籍したACミランではルート・フリット、フランク・ライカールトらと共にオランダトリオと呼ばれ、 グランデミラン(偉大なるミラン)と称された当時世界最強チームの偉大なストライカーとして君臨した。 スパイク契約はミラン移籍後からディアドラであり、オランダ代表のチームカラーであるオレンジ色のロゴのスパイクを履いていた。ロベルト・バッジョと並び、同社の看板選手であった。
史上最高のFWの一人として多くの人が名を挙げるにもかかわらず、バロンドール最多受賞やクラブチームでのタイトルの栄光に比べると、 W杯の活躍が乏しいこと(1点も決めてない)が評価を下げていることも事実である。 彼が引退を表明した直後のシーズンにACミランのファンに「マルコのいないサンシーロは羽の無い風車だ」という横断幕が掲げられたほどである。 彼のその天才的なプレースタイルは他の追随を許さず、 イタリアのサッカーファンに『神は8日目にマルコを創造した』とまで言わしめた。愛称は「ユトレヒトの白鳥」。
長身ながら繊細なボールタッチが魅力的な万能センターフォワード。自らサイドに流れてのプレーは言うに及ばず、 下がりながらボールを受け、ラストパスを出す事もたやすくこなした。オフサイドラインをかいくぐりゴール前に飛び出すプレーも得意であったし、 ドリブルでディフェンダーを抜くこともでき、当然ながら長身を生かしたヘディングも素晴らしく、 さらに、アクロバットなシュートも決めいていた。豪快さは欠けるが、頭、両足から繰り出されるシュートは針の穴を通すように正確で、 かつ、ミドルシュート、ループシュート、ドリブルでキーパーをかわしてシュート等、得点パターンをいくつも持っていた。 自らのゴールで勝利を呼ぶ事も多かったが、マークを自分に引き寄せ周りに得点させることも多かった。あらゆるプレーの質が高く、一発で試合をひっくり返すことができた。 また、彼は執拗なきついあたりやバックチャージなどを度々受けていたが見事なボディーバランスで倒れようとはしなかったため(有名なのは1990年のトヨタカップのループシュートまでのプレーの流れ)、 そのことが怪我をまねく原因と見る人も多かった。 PKの蹴り方が独特であり、一度ジャンプしてから長めの助走をつけて蹴る(これは練習中の癖が残ったものだという)。 しかしGKに間を読まれることもあり、1992年の欧州選手権ではデンマークの名手・ピーター・シュマイケルに読み切られ止められてしまう。 オランダは彼だけが失敗し、準決勝で敗退することとなってしまった。 プロデビューは17歳のときで、先発のクライフが自ら指名して交替出場。その試合でハットトリックを達成している。 彼を史上最高のFWと評価する声は多い。 彼に憧れる選手は多く、有名な所ではティエリ・アンリ(アーセナル・フランス代表)、 アンドレイ・シェフチェンコ(チェルシーFC・ウクライナ代表)、日本では高原直泰(アイントラハト・フランクフルト・日本代表)など枚挙に暇が無い。
1995年に引退後はしばらくサッカーから離れていたが、2003年に古巣アヤックスのユースチームのアシスタントコーチに就任すると、 そのわずか1年後にはディック・アドフォカートの後任としてオランダ代表監督に就任した。 指導者としては皆無に等しい実績から、疑問を差し挟む声も少なくなかったものの、フタをあけてみればワールドカップドイツ大会予選でチェコ、 ルーマニアといった強豪と同居し「死のグループ」と呼ばれたグループ1を10勝2分けという圧倒的な成績で1位通過を果たし、日韓ワールドカップ予選敗退の悪夢を払拭した。 監督としてのファン・バステンは4-3-3システムを重用しているように、リヌス・ミケルス以来のトータルフットボールの伝統を受け継いでいるが、 最大の特徴は新しい選手の召集に非常に積極的な点である。彼はこれまでほとんど注目されていなかったオランダ3強(アヤックス・フェイエノールト・PSVアイントホーフェン) 以外のチームからも多くの選手を召集している。特に3強を脅かすクラブに成長したAZアルクマール出身の選手は今や最大勢力となり、 そこからデニー・ランツァート、ヤン・クロンカンプ(現PSVアイントホーフェン)、ヨリス・マタイセン、バリー・オプダムなどの有能な選手がブレイクするきっかけともなった。 またライアン・バベル、ヘドヴィヘス・マドゥロ といったリーグでの実績がほとんど無かった選手でも戦力になると思えば躊躇なく召集する一方で、 実績はあるが調子が悪かったり代表でのプレーの質が悪い選手(パトリック・クライファート、クラレンス・セードルフなど)は容赦なく戦力外としている。彼の下では実績は意味を成さない。
1988年、欧州選手権決勝のソ連戦に見せたシュートは伝説とも言われるワンプレーだった。 左サイドからのクロスに走り込み、ダイレクトボレーで自分とは対角のゴールに豪快にたたき込む。 しかも、ドライブがかかっていた(ファン・バステンによれば意図してかけたわけではなかったらしいが)ため、 レフ・ヤシンの後継者と呼ばれた当代屈指の名GKリナト・ダサエフですら防ぐことは不可能であった。 難易度の極めて高いプレーを、後で自分でも驚くほどいとも簡単にやってのける、それが全盛期のファン・バステンだった。 「9本のスーパーゴールと10本の平凡なゴール、どちらかを選べというなら僕は迷わず10本の方を選ぶよ」との発言からわかるように「どんなゴールだったか?」よりも「ゴールしたか否か?」にこだわっていた。 このとこを表しているのがゴール後だといえよう。 彼はゴールを決めても、チームメイトに祝福された瞬間だけ笑顔をみせ、それ以外は素っ気無い表情でジョグで自陣に戻るというのが常だった。
1988年11月16日 オランダ戦でイタリア代表デビュー。'89年4月22日ウルグアイ戦でアズーリ初ゴール。 1990年イタリア、1994年アメリカ、1998年フランスワールドカップに出場し、3位、準優勝、準々決勝進出と、いずれもベスト8に入った。 ちなみに3大会の敗退はいずれもPK戦によるもので、バッジョは3大会ともPKキッカーをつとめている。 1990年の地元開催では、司令塔にジュセッペ・ジャンニーニがいたためスーパーサブ的立場であったが、 グループリーグ第3戦目のチェコスロバキア戦において中盤から単独ドリブル突破を仕掛け、ディフェンダーを次々と抜き去り鮮烈なゴールを決めた。 これはしかし、バッジョ自身のハイライトのひとつとして考えられようが、 同じくサブメンバーから大会得点王になったサルバトーレ・スキラッチほどは注目されなかった。とはいえこの得点は、 大会のベストゴールのひとつと数えられ、バッジョはイタリア代表の新たな旗手として世界に名を知られることになった。
3大会中、最も存在感を示したのは1994年のアメリカワールドカップである。ヨーロッパ予選ではイタリアの10番、まさにエースと呼ぶにふさわしい活躍で、 さらには前年の1993年にバロンドールを受賞していたこともあって、周囲の期待は大いに高まっていた。ところが大会直前に右足に怪我を負ってしまう。 一抹の不安を抱えたまま、1994年ワールドカップを迎えた。 不安は現実となり、予選グループ初戦を落としたイタリアは、1勝1敗1分けで辛うじて決勝トーナメント進出という低調にあえいだ(当時の規定でグループ3位ながら救われた)。 気温40度を超すピッチで「ゾーンプレス」戦術が機能しにくかったことが苦戦の原因だが、 無得点と精彩を欠くバッジョへの風当たりは厳しく、地元メディアはジャンフランコ・ゾラへの交代を唱えた。 さらに屈辱的だったのは、第2戦ノルウェー戦序盤にゴールキーパーが退場処分となった際、アリゴ・サッキ監督が控えGKとの交代でバッジョをベンチに下げたことである。 試合後に監督は「(足を怪我して)走れないバッジョを人数の少なくなった状況では使いづらいから」と説明したが、エースと監督の信頼関係は微妙なものになっていった。
946 :
名無しさん@入浴中 :2006/12/12(火) 06:05:26 ID:MfJC2vzJO
話して楽しい嬢や頭がいい嬢を教えて下さい
暴露本騒動 玉置浩二だけがボコボコにされる不思議 (ゲンダイネット - 12月11日 10:00) テレビで名前が出るのが玉置浩二(48)ばかりで気の毒になる――。こんなふうに思っている人も多いのではないか。 波紋が広がる一方の石原真理子(42)の「ふぞろいな秘密」騒動。石原はこの中で13人の有名人との交際を暴露している。 本の中では実名、イニシャルの両方で表記されているが、これまでマスコミで実名を書かれたのは13人中6人。玉置のほかは吉川晃司、中井貴一、時任三郎、田原俊彦、明石家さんまである。 ドロ沼の不倫騒動を繰り広げた玉置が真っ先にやり玉にあげられたのはやむを得ないことだろう。だが、ヤジ馬根性丸出しのワイドショーが石原との関係を認めた吉川や中井らにまったく触れようとしないのは理解に苦しむところだ。 この理由がはっきりしたのは6日に行われた記者会見だった。 「会見前に各局のワイドショーは石原側にある要望を出しました。 “記者会見では交際相手の名前が出るようなきわどい質問はしないので、もっと突っ込んだ質問が出る会見後の囲み取材はなしにしてほしい”というものです。 理由は生中継した情報番組もあり、万一実名が出て問題になったら困るということだった。言うなれば、自分たちに都合のいい自主規制。テレビ局は名前を出してもトラブルにならないような人をネタにして、面白おかしくやろうと考えてるんです」(事情通) その結果、ボコボコにされているのが玉置というわけだ。後ろ盾がなさそうなタレントはイジメ放題なのに、それ以外には腰が引けるテレビ局。この体質は問題だ。
948 :
名無しさん@入浴中 :2006/12/12(火) 17:05:05 ID:rq0dVwxw0
柚っていなくなったけど上がり?移籍?
北アイルランドの貧しい労働者階級の家庭に生まれる。伝説的ドリブラー、大英帝国最高のフォワード。その容姿から愛称は『エル・ビートル』(5人目のビートルズ)。 ボビー・チャールトン、デニス・ロー等と共に1960年代にマンチェスター・ユナイテッドの一時代を築いた。北アイルランド自体は決して強いチームではなかった為、 ワールドカップなどの大きな国際舞台で脚光を浴びることは無かった。しかし、アルコールの問題(後述)で若くして代表を退いた後のワールドカップに北アイルランドは出場・活躍しており、 それさえなければ世界のヒーローとして君臨していただろう。ただ彼が代表を退いたのは英国にIRAが爆弾闘争をしかけて独立を目指していた時代であり、何らかの脅迫を受けての事であるという説もある。
1961年15歳でマンチェスター・ユナイテッドの下部組織に入団し17歳でトップチームデビュー。 在籍した11シーズンでリーグ優勝2回、1967-68シーズンには28得点を挙げ得点王に。 同年、ミュンヘンの悲劇(1958年)からのチームの復活を宣言するチャンピオンズカップ制覇の大偉業をボビー・チャールトンと共に成し遂げ、1968年バロンドールを受賞する。 キーパーまで抜き去ってしまうドリブル、絶妙のループ・シュートなど、トータル・フットボール以前のフォワードらしいフォワードとして誰もが認める存在。 また試合中に突然靴を脱いでパスをする茶目っ気(審判の判定に対する抗議とも言われる)や、 愛らしい笑顔で女性をとりこにしてしまうキャラクターでテレビにも引っ張りだこになるなど、英国においてアイドル的人気を誇り、彼を歌った曲まで発売された。
輝かしいキャリアと、サッカー選手として初めてプレイボーイ的人気を得たことで「世界最初のスーパースター・オブ・フットボール」と呼ばれるが、 その人間性は後に爵位を得ることになる盟友ボビー・チャールトンとは何から何まで正反対であった。快活で人なつっこく、誰にも愛される人柄の反面、 アルコール依存症による問題を早くから抱えていた。マンチェスター・ユナイテッドを自身の奔放な性格から窮屈になったのか「引退宣言」をして飛び出し、 また私生活でもトラブルが多く1984年には飲酒運転と警察官への暴行で逮捕された。アルコール依存症で体調を崩し、引退後は肝臓病を患い闘病生活が続き、 2002年には肝臓の移植手術を受けた。しかし酒を断つことはできず、2004年1月30日には飲酒運転で再び逮捕。二度目の離婚も経験するなど、その最晩年は孤独だった。 2005年11月25日、ロンドンの病院にて移植後の免疫抑制剤から来る腎臓の感染症が原因の多臓器不全で死去。享年59。 逝去後のイングランドで行われたリーグ戦、カップ戦全ての試合(下部組織含む)で試合前に1分間の黙祷(あるいは拍手)が捧げられ、 故郷ベルファストでの葬儀(12月3日)には10万人もの市民が参列した。葬儀では彼の愛息が「さよならは言いません。また会おう、ベルファスト・ボーイ」と語りかけ、人々の涙を誘った。 2006年11月から、一周忌を記念して特別に彼の肖像画が描かれた5ポンド札が流通することになった。 通常北アイルランド銀行で発行された紙幣はイングランドでは流通することは殆ど無いが、その功績を讃えて英国全土及びアイルランドで流通する事になっている。
「最高のレベルを極めるには、即興で創られる芸術が必要なんだ。」 「私が7人のミス・ワールドと寝たという噂があるが、そんなことはない。3人だけだ。」 「ガスコインのユニフォームの背中には“10”と書かれている。最初はポジションを表しているのかと思っていたが、後に知能指数であることがわかった。」 「チェルシーのディフェンスくらいユルユルだったぜ。」(ファンに「夕べの女はどうだった?」と聞かれ) 「Maradona good, Pele better, George BEST」ジョージ・ベストが言ったわけではないが、彼を称えるジョーク。
953 :
名無しさん@入浴中 :2006/12/13(水) 02:42:13 ID:D/mhvpyr0
姫にミルク復帰?したのか?
古代はスウェーデン・ヴァイキング(ヴァリャーグ)として主に東方で活動した。ヨーロッパ文化やキリスト教も受容し、 13世紀頃にはフォルクンガ朝が現在のフィンランドを含む地域を統一。1397年にデンマーク・ノルウェーとカルマル同盟を結んで同君連合となる。 1523年カルマル同盟から離脱し王政となる(ヴァーサ朝)。16世紀の宗教改革ではプロテスタントを受容し、バルト海地域へ進出する。 17世紀にグスタフ2世アドルフ(獅子王)の時代にバルト帝国を建国する。新大陸にも植民地を開き王国は最盛期を迎える。 1654年にプファルツ朝に王朝替えするもバルト帝国を維持。しかし18世紀初頭にカール12世はバルト海の覇権を争い、ピョートル1世の時代のロシア帝国と大北方戦争で戦って敗れ、 沿岸の領土を失ない一時没落する。18世紀後半にホルシュタイン・ゴットルプ朝のグスタフ3世が中興させるも、ナポレオン戦争の経過によって、フィンランドを失った。 1809年の革命で立憲君主制が成立、1814年にキール条約でノルウェーを併合。1818年よりフランス人ベルナドットが国王に即位しベルナドッテ朝が始まる。 ウィーン体制ではノルウェーと同君連合(1814年-1905年)を結ぶが、05年に分離。 19世紀半ばにスウェーデン王の推奨した汎スカンディナヴィア主義が頓挫し、北欧は小国化に向かう。 1932年に社会民主労働党政権となり、以降のスウェーデンは福祉国家路線が支配的イデオロギーとなった。 武装中立政策を取り、第一次世界大戦、第二次世界大戦の両大戦にも参加していないが、両大戦では義勇軍を組織していた事は事実となっている。 しかし第二次大戦の中立違反の政策は、戦中も戦後も、国内外から批判を浴びているが、 当時は連合国も枢軸国も国際法を守っておらず、一方的に批判される謂れは無く、スウェーデンの決定は彼ら自身の価値観によって決めていたのである。 デンマーク、ノルウェー、フィンランド人の反ナチス、レジスタンスを匿い、ユダヤ人を保護したことは、人道にもっとも重きを置いた決定と言える。 東西冷戦中は、ノルディックバランスを構築し、アメリカ寄りの政策と中立主義政策を行き来したが、冷戦終結後は、中立主義を放棄し、1995年に欧州連合(EU)に加盟した。
フランツ・ベッケンバウアー(Franz Beckenbauer, 1945年9月11日 - )は、ドイツ(旧西ドイツ)・ミュンヘン出身のサッカー選手。 現在、バイエルン・ミュンヘン会長、ドイツサッカー協会副会長。また、ワールドカップドイツ大会の組織委員長を務めた。 現役時代のポジションは守備的ミッドフィールダー、リベロ、スイーパー。サイドバック、サイドミッドフィールダー。ドイツサッカー界の超大物、最も有名なドイツ人の一人である。
キャプテンと監督の両方で母国をFIFAワールドカップの優勝に導いた唯一の人物。 攻撃に参加するスイーパーとしてフットボールに革新をもたらした。ピッチ上で味方の選手達を操るその威風堂々とした風格と、ドイツ国歌が、 かつてハプスブルク帝国国歌「神よ、皇帝フランツを守り給え」だったことからカイザー(皇帝)と呼ばれた。同世代のライバルにオランダのヨハン・クライフがいる。
ちなみに、同じくFCバイエルン・ミュンヘンに在籍(2002-2006)したミヒャエル・バラックは後継者との評価も高く、 ベッケンバウアーのニックネーム「皇帝」に準え、バラックは「小皇帝」と呼ばれている。
プライベートでは、2006年6月23日にバイエルン・ミュンヘンで秘書をしていた21歳年下のハイディ・ブルメスターと結婚した。 ドイツW杯期間中に結婚式を挙げたということで非常に話題になった。ちなみにベッケンバウアーにとっては、これが3度目の結婚である。 ハイディとの間には既に2児をもうけていたが、今年になって三人目を妊娠したために、W杯期間中であるにもかかわらず、大急ぎで結婚式を挙げた。 ハイディは40歳、ベッケンバウアーは61歳であった。ハイディとの間に生まれた2児、先妻との間に生まれた2児を含めると、5人目の子である。 NHKでなぜか名前がベッケン・バウアーと間に点が入って紹介された。
960 :
名無しさん@入浴中 :2006/12/14(木) 04:35:50 ID:NI8NJpbqO
ネットスケープ・コミュニケーションズ (Netscape Communications Corporation)はジム・クラークとマーク・アンドリーセンらによって設立されたアメリカの企業であった。 1994年4月4日にモザイク・コミュニケーションズ(Mosaic Communications Corporation)として設立され、 同年11月14日にネットスケープ・コミュニケーションズに社名変更した[1]。1998年、AOLによって買収された。 当初、機能に制限を設けたWebブラウザであるNetscape Navigatorを無料配布し、機能制限のない製品版の購入を促す戦略をとった。 事業が成功し、株式公開時に市場が白熱した話は有名である。この後にWorld Wide Webの利用が爆発的に拡大した。 しかし、マイクロソフト社はWindows 95の発売と同時にInternet Explorerをリリース。 Internet Explorerは当初はMicrosoft Plus!と呼ばれる有償のWindowsの機能拡張セットの一部であったが、後に単体の無償配布を開始。 Windows 95の次期バージョンであるWindows 98ではInternet Explorerを標準で搭載しており、Windowsの市場占有率の高さから自然とInternet Explorerの利用者も増えていった。
ネットスケープ・コミュニケーションズ社とマイクロソフト社のシェア争いは第一次ブラウザ戦争と呼ばれた。 しかしネットスケープ社はなおも有料販売モデルに固執しユーザーの離反を招くこととなったが、ネットスケープ社はマイクロソフトに対し不公正な競争であると訴訟を起こす。 ネットスケープ社を買収したAOL社がマイクロソフト社との間で起こしていた訴訟の和解し、AOLの子会社であるネットスケープ社の訴訟も取り下げられることとなった。 完全無料化に変更したものの既に利用者はInternet Explorerが大きく上回りウェブもInternet Explorerを対象としたものがほとんどとなり、 新バージョンを出すも欠陥が多く、Windowsとの相性の悪さ、初心者を戸惑わせる複雑な設定項目なども敬遠され、Webブラウザとしての競争力を失った。 最終的にシェアは数パーセントにまで落ち込んだ。2006年現在のNetscapeの利用率は1%未満である[2]
Mozilla Firefox という名前は、幾度かの名称変更の後に付けられたものである。 2002年9月にリリースされた最初のバージョン 0.1 は、Phoenix という名称であった。 しかし、この名称は Phoenix Technologies 社の商標権を侵害することが判明したため、変更せざるを得ない状況に追い込まれた。 こうして次項にも述べられる名称、Firebird という名称が採用されることとなった。プロダクト名としての Phoenix は放棄されるも、開発ロードマップ上は、 継続的に Phoenix という名称が使用された。バージョン 1.0 のコードネームは Phoenix である。
ユーザからどのような名称がよいかなどを投票で集め、かつ商標権に抵触しない名称を考慮した結果、2003年4月に Firebird という新名称が決定した。 しかしこの名称が新たな問題を引き起こしてしまうこととなる。Firebird という名前が、 Mozilla と同じくオープンソースで開発されているリレーショナルデータベースプロジェクトの名称であることが判明し、 同データベース Firebird プロジェクトからMozilla Organization に攻撃的な形で強い苦情があった。これを受けて Mozilla Organization は Mozilla Branding というブランディング戦略を発表した。 この戦略には、Apple Computer が同年1月に発表したブラウザ、Safari が Mozilla Organization の開発している Mac OS X 用のブラウザ Camino ではなく、 KDE プロジェクトが開発しているレンダリングエンジン、KHTML を採用したことが同じく絡んでいるとされる。 「軽量・高速性」への需要は、アプリケーションスイートとして開発されていたMozilla には満たせないものであったのだ。
ブランディング戦略により、Firebird という名前は一時的なものとなった。 しかし Mozilla 1.4 がリリースされたあとも依然として Mozilla Browser という名称変更が行われる気配がなかった。 Firebird の完成度がメインプロダクトとして機能するほど充分な状態になかったことが原因であったが、 さらに Firebird という名称が使われ続ける原因となる「事件」が起こった。Mozilla Foundation の設立である。 2003年5月末に起こった AOL と Microsoft の和解により、AOL 傘下であった Netscape と Microsoft 間で起こっていた反トラスト法訴訟などがすべて取り下げられた。 また同時に、Microsoft のウェブブラウザ、Internet Explorer を数年に渡りロイヤリティフリーで使うという契約を結んだことにより、 ブラウザを提供する Netscape の存在価値が危ういものとなった。これは Netscape のコードベースにもなっている Mozilla の存在価値をも揺るがす問題であった。 こうした事態を受けて 2003年7月、Mozilla Organization は、 AOL から資金提供を受け、Mozilla の開発を支援する団体である Mozilla Foundation を設立した。
Mozilla Foundation の設立により、Netscape が担っていた「エンドユーザへのソフトウェア提供及びサポート」という目標が Mozilla Foundation にも覆い被さることとなった。 それまで Netscape がリリースしたもののサポートを含め、Mozilla Foundation は Mozilla を今後もリリースしていかざるを得ない状況となってしまった。 これにより4月に発表されたブランディングにおける「Mozilla Firebird/Thunderbird への開発体制移行」が閉ざされてしまうこととなった。 これにより、一時的とされていた Firebird という名称を使い続けることに対する懸念が生まれた。 そのため同年11月ごろから、Firebird 開発チームが新たな名称への変更をするための動きが水面下で行われた。 商標に関するトラブルはもちろん、他のプロジェクトで使われている名称との衝突を避けるため、念入りにリサーチが行われた結果、 Mozilla Firefox という名称がこのブラウザの正式名称となることが決定し、2004年2月にはMozilla Firefox 0.8 がリリースされた。
967 :
名無しさん@入浴中 :2006/12/14(木) 19:28:02 ID:l1413fV20
こっちはジーコ こっちはフィーゴ じゃぁ、ここは? べっけんばうあー べっけんばうあー
968 :
名無しさん@入浴中 :2006/12/15(金) 01:24:05 ID:avGf3VYnO
そのまんまのまん
969 :
名無しさん@入浴中 :2006/12/15(金) 02:02:23 ID:ijj/dTuD0
ドップラケ!
970 :
名無しさん@入浴中 :2006/12/15(金) 18:31:12 ID:RTc4/VgN0
唯・・・・地雷でした。 汚いおりもの出てた。。。臭い!
971 :
名無しさん@入浴中 :2006/12/16(土) 01:02:45 ID:Vh8xn7ya0
華は、もう西のほうに帰ったのかな? ちょっと事務的なとこが残念だったな。
972 :
名無しさん@入浴中 :2006/12/16(土) 01:54:21 ID:DS2BbEcLO
りさ
973 :
名無しさん@入浴中 :2006/12/17(日) 01:13:13 ID:jX2VFcEG0
エル
974 :
名無しさん@入浴中 :2006/12/17(日) 15:23:04 ID:KnOHzXZHO
りか♪
975 :
名無しさん@入浴中 :2006/12/17(日) 16:42:07 ID:fArKYfHUO
かめ
976 :
名無しさん@入浴中 :2006/12/17(日) 16:59:01 ID:sqVSv17H0
辞めた女の子はどこに移籍しているのですか? 情報キボン
977 :
名無しさん@入浴中 :2006/12/18(月) 00:23:12 ID:883TRzsVO
またでんわします
978 :
名無しさん@入浴中 :
2006/12/19(火) 04:47:56 ID:L/u0TG4o0 ポチ♪