売春防止法および社会通念は、男については「買春する男」「買春しない男」
を全く区別していないのに対し、女性については「売春婦」「善良な一般婦女子」
の厳格な二分論を前提としている。「善良な一般婦女子」は厳格に社会の善良な
性道徳に則って行動するものであって、「売春婦」のように「性道徳に反し、
社会の善良の風俗をみだす」行為をするような「性行」を有していてはいけない
のである。この区別は絶対的で中間は存在しないのである。不倫をする失楽園妻も
道徳的に非難はされうるが、金で身体を売らない限り、「一般婦女子」の地位を
維持しうるのである。
そして「売春婦」は「一般婦女子」と違って既に道徳的に堕落した
存在であり、人間としての価値も低く、男性から一般婦女子と同程度の
性的侵害行為・強かんや暴力を受けたとしても、甘受すべきものとされ
ている(「ホテトル買春男性死亡事件」裁判判決は「『ホテトル嬢』と
して...売春することを約して、A(買春客)から高額の報酬を得ており、
...通常の性交及びこれに付随する性的行為は許容していたものといわざるを
得ないから、被告人の性的自由及び身体の自由に対する侵害の程度に
ついては、これを一般の婦女子に対する場合と同列に論ずることはできない」
としている。
こうした「売春婦」と「一般婦女子」との性的二重基準があるからこそ、
それを打ち砕こうとして「セックス・ワーク論」や「性業論」が唱え
られるのである。その含意には宮台真司の言うような、「ポストモダン」
な「まったりとした自己決定」論よりもはるかに深いものがある
(そもそも「自己決定」は近代的「主体」観念の核心部分であり、楽観的に
「自己決定権」を擁護する宮台は近代主義者に他ならない。しかも、
近代が常に性を抑圧してきたというフーコーの言う「抑圧仮説」に立脚する
素朴な近代主義者である)。
買売春の法的規制問題を考えるにあたり、二つの二重基準を区別するのには
大きな意味がある。この区別から明らかなのは現行売春防止法が、買売春を
法的に禁止しているのではないという誰にとっても自明のことである。
売防法が売春行為を法的に規制しているのは、「より安全で、快適な買春」を
提供するためなのだ。どんな男でも安心して買春できる環境を整えること。
これが売防法の目的なのである。「バイボウホウ」は「売防法」ではなく、
むしろ「買防法」(買春防衛法)と呼ばれるべきものなのだ。これを見誤っては、
買売春の法的規制問題を考察することはできない。
「すべての人が自由・平等であるべきだ」という人権は普遍的かつ唯一の
ものであるが、そうした人権を様々な人々が追求していくスタイルには多様な
ものがありうる。というより、多様にならざるをえない。とりわけ、支配され、
虐げられ、貶められてきたマイノリティの闘いには唯一のモデルというものは
ない。権力は支配される人々を多様化しつつ(妻=「一般婦女子」と「売春婦」
など)、多様な方法で支配する。権力と闘う者自身がある種の権力として抵抗を
受けることもあろう。だからこそ、闘い方も多様にならざるをえない。しかし、
それは個別的な闘いが連帯できる可能性を否定するものではない。権力との闘いの
中で安易に自己を正当化せず、あらゆる権力への抵抗の正当化という人権理念の
共有を目指していく中で、共感、とりわけ虐げられ貶められた者が持つ「痛み」の
共感を作り出していく可能性は閉ざされてはいないと信ずる。
性をめぐる自由と権利をすべての人が当たり前に享受するための技法は何か。
どうしようもない自分のセクシャリティから目を背けず、すべての人の自由な
生き方を想像/創造していくこと。この問題について、わたしが思考を費やしたい
のはそれだけである。
では、現在、買売春に関して法的に求められていることは何か。それは第一に、
「売春」または現在はやりの言葉で言えば「風俗」産業に従事する女性の
「人としての尊厳」と権利を守ることである。それを行うのに「性業」ないし
「セックス・ワーク」を合法化すべきか否かは全く別問題である。売防法は
そもそも「安全」で迷惑にならない「売春」は禁止・処罰の対象としていない。
社会的に迷惑で、危険で、不衛生な「売春」行為を禁止しているにすぎない
のである。つまり既に大部分の「健全な売春」は合法化されており、その他の
一部の「売春」のみが非合法にされているだけなのだ。これも誰でも知って
いることである。
問題とすべきなのは、まず第一に、「保護」という名目で国家が「売春」に
従事する女性を恣意的に支配し(いわゆる「手入れ」が恣意的なのは誰も
否定できないだろう)、それによって売春業者(経営者)による従事女性に
対する恣意的支配・搾取・暴力などが放任されていることである(賃金の
未払いや「講習」という名のレイプなど、風俗店における経営者・スタッフに
よる被害について風俗の女性の声を参照)。特に「迷惑で、危険で、不衛生」だ
として差別されている女性たち(裁判所によってソープ嬢よりも価値が低いと
判断されたホテトル嬢や街娼、とりわけ在日外国人女性の街娼など)の尊厳と
権利をどのように保障していくかが問題である。
第二に、これまで全く問題にされてこなかった「買春」行為、男のセクシャリティ
を議論の俎上に載せることである。それを議論せずに、買春行為の処罰の是非を
論ずることはできない。
現在、子どもへの買春行為を禁止する法案が作成中であるが、これに対する批判的意見も
「子どもの性的自己決定権」を侵害するものであってはならないという観点からのものに
止まっているように思う。淫行処罰条例、買春禁止法案論議の中でも、実は「買春」とは
何かがほとんど議論されていない。強姦なのかそれとも単なるサーヴィスの消費行為なのか。
成人女性に対する買春行為と子どもに対する性的虐待とは区別されるべきものだが、
女性=子どもが相手方との同意(自己決定)により対償を受けることを条件に性交する
場合に、その相手方の買春行為を犯罪として処罰の対象とするのか、という難問が
どうしても残る。「子どもの性的自己決定権」派が、子どもの自己決定の観点からのみ
この問題を考えるだけでは、この問題を解明し、それに法的回答を与えることは困難であろう。
「性的な欲望」の煽動を通じて、男、女(一般婦女子/売春婦)といった区別が生産・再生産
されていく。その仕組みをうまく維持しようとしているのが売防法なのだ。買春したいという
男の欲望を掻き立て、売春に従事する女性を提供し、安全に「買春」する条件を整備する。
それが売防法の行っていることなのだ。だから、売防法が保護しようとしているのは女性
なのではない。男のセクシャリティなのである。そこまでして社会が必死になって保護
しなければならない男のセクシャリティとは何なのか。これを論じなければならないの
である。そうしてこそ、男のセクシャリティと性的自己決定権のために提供されている
女性の尊厳と権利を守る方策を考えていくことが可能となるのではないか。
最後に、これほどまでに膨大な性商品情報が溢れかえりながら、ほとんど
全く知られていない「風俗」と呼ばれる「売春」に従事する女性の肉声、
「買春する男性」たちの声を直接かいま見てみよう。
彼女たちや彼らの日常的な声、ホンネから明らかになるものは何だろうか。
まず、「風俗」で働く女性たちが、普通の女性に他ならないという、これまた
当たり前のはずのことだ。笑いもすれば、泣きもする。恋もすれば、傷つきもする。
ごくごく当たり前の女性だ。客であろうと好きな客と嫌いな客がおり、金をもらえば
誰でも良いと言うわけではないし、かといって仕事なのだから最低限きっちりとこなす。
普通の「職業」を持った女性である。
人はそもそも、誰かに傷つけられたり、汚されたからといって、その尊厳を失うことは
ない。すべての人は自由で平等であるべきなのだ。傷を背負いこんでいる彼女たちの
尊厳をまもることにこそ、人権の意義があるのである。これ以上何か彼女たちについて
多言を弄する必要があるだろうか。「性業」論や「セックス・ワーク」論は、こうした
当たり前のことを当たり前に言うために発明されたものにすぎない。
「セックス・ワーク」論が第一に要求しているのは、「売春」の合法化ではなく、
「売春」に従事する女性たちにも、一般のサラリーマンや「一般婦女子」に認め
られているような「個人の尊厳」「人権」を平等に保障することである。根本問題は
買売春の合法化そのものとは別の次元にあるというべきである。女性の人権侵害と
いう観点から買売春そのものの合法化に反対したとしても、現実に買売春の場で
行われている「売春」従事女性に対する人権侵害を非難することは可能であり、また、
そうすべきなのである。
妻あるいは恋人、娘、「OL」、生徒・学生、「売春」従事女性、それそれの女性が
男性主義的な性の二重基準によって分断され、それぞれ独自の論理=規範により
制約され、男性一般(夫・恋人、父親、上司・同僚・取引先、客・経営者)による
恣意的支配・暴力に服従させられている。そうした女性の類別化を通した女性に対する
支配・暴力から女性を解放することが必要なのだ。そういった意味でバイボウホウに
変わるべき法律は女性一般の人権保障を目的とした「性支配=暴力禁止法」といったものに
なるはずである。
「性支配=暴力禁止法」が禁止の対象とするのは、夫であれ、客であれ男一般による
女性一般、子ども、性的マイノリティ(「性転換者」、同性愛者)への暴力・恣意的支配で
ある。「性支配=暴力禁止法」の次元では、そうした暴力・恣意的支配に「買春」が入るか
否かという問題は、夫によるレイプが法的処罰の対象となるか否か、という問題と同様に
ある意味で陳腐化するともいえる。あらゆる性的関係における性暴力が法的制裁の対象と
なるのであれば、男性主義的な性の多元的基準のもとで区別されていた妻に対する性的行為と
「売春」従事女性に対する性的行為との区別自体が意義を失う。すべての女性に対する
あらゆる性暴力から、すべての女性が平等に解放されるべきなのだ。これは買売春の合法化論
ではない。個別的な対償の供与も扶養も経済的保護・依存による男性への女性の服従の正当化を
もたらし、女性への恣意的支配・暴力を放任するという仕組みを有していることにはかわりない
ということを述べているだけである。ここまで「買春」を(性暴力・支配一般の中で)相対化して
良いものか、否かについては今後の議論により明らかにされていくべきものである。
「買春する男」たちはどうか。ある女性たちが本に書いたように「買春する男」
は、買春行為をマスターベーションと同じ様なものとしてしか見ていないとも
いえよう。しかし、「買う作法」、女性と上手くつきあう方法について
まじめに考え議論する姿も見えてくる。数多くのソープ経験をもつ男性も、
「気に入った娘」がいたからその娘が辞めるまでその店に通ったといっている。
ここから読みとるべきことは、「買春」が良いか悪いかではなく、自分の
セクシャリティを語る行為が自己の主体性へのまじめな考察と関わっていると
いうことである。「買春」をしていながら相手の女性に良い男性だと思われたい、
自己の主体性への尊敬を勝ち取りたいという「人間的欲望」がかいま見えるの
である。これを愚かしいと思うか、意外とまじめだと思うかはさして問題では
ない。自己のセクシャリティについて語ることを恥だと思いながらも、
溢れかえる若い女性のヌードや、目の前の女性たちの身体を性的な対象として
欲望している多くの男性から見れば、「買春」について公然と語る彼らは
いさぎよい存在だと感じられるかも知れない。
現在のわたしにはそうした批判から自己を防衛することが、経験的に
困難である。わたし自身の経験を反省すれば様々なことに思い至る。
これはフェミニズムを理論として頭では知っていても、心というか、
身体的には理解できていないということだろうか。いや、フェミニズム
自体が、支配され傷つけられ、また傷つけられてきたことに気づく
チャンスすら奪われてきた女性たちの思想であり、運動であるという
ことに関わっているのだろう。