自由主義者の「イスラーム国」論・再び〜異なる規範を持った他者を理解するとはどういうことか - 中東・イスラーム学の風姿花伝
http://chutoislam.blog.fc2.com/blog-entry-219.html (一部抜粋文 本文はソースをごらんください)
今日の『朝日新聞』に、「イスラーム国」についての識者の発言が載っていました。
特に、「イスラーム国」に関して、当事者でもある、中田考さんの発言が注目されます。
まず、私は、世界にはこのような多様な考え方があるということを知ることは大切だと思います。
そもそも新聞とは、その厳しい制約条件から、中立的でも、客観的でも、卓越的でもあり得ないものである以上、
様々な意見が、さほど正確なフィルターなしに載ってしまっても、やむを得ないものだと思います。
重要なのは、「朝日に載ったから正しい」などと思わないことです(その逆に「朝日に載ったから間違い」と思う必要もありません)。
朝日や岩波に載った、ということのみをとって、その意見が真であるとか権威的であるとか、特に知識業界に身を置く人たちが思う状況がかつてありました。
朝日に載った意見に反対すると学界で干されて大学で就職できなくなってマスコミ全般から干される、という恐怖を抱かざるを得ないような自縄自縛の状況がありました。
しかし、それは過去のものです(と思いますが、そうではない業界がまだあるということも伝え聞いてはおりますがここでは等閑視しておきます)。
朝日新聞を批判したり、あからさまに意見が違ったりすると朝日新聞の紙面に載らなくなることは確かですが、長い話を短くすると、一私企業のやることなので、
あまり気にする必要はないのではないでしょうか。
ですので、いろんな意見がこの世にはあるんだなーと思いつつ、どこがおかしいか、自分の頭で考えられるようになればいいのではないかと思います。
もちろん「おかしい」というのは特定の基準を定めたうえで言えることです。
この世の中にある基準は一つではありません。
そして一番重要なのは、複数の基準が世界には存在することを認めたうえで、自分が属す社会・政治共同体ではどの基準が適用されるべきなのか、よく考えることです。
それは自分が生きていく社会を選び、その社会を自分も一員としてどう形作っていくかを主体的に考えて、発言し、行動していくことの、第一歩です。
自分が属すと決めた(あるいは生まれ落ちて育ってそこ以外に行く場所がない)社会の基準を、さらに磨いていく営為に参加することで、われわれは本当の意味で社会の一員となるのです。
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