その日かすみはうっかり寝坊してしまった。
朝食もとらず、眠気覚ましにコーヒーだけ飲んであわてて登校した。
かすみはいじめられっ子だった。3年生で同じクラスになったさやかたちに目を
つけられて、いろんないやがらせをされてきた。が、今はいじめられっ子なりに
安定した関係が出来ていて、友達が作れないかすみにとっては、わりと人気者の
さやかのグループにくっついていられるのは決して悪くない環境だった。
2時間目が終わって、かすみはトイレが気になりはじめた。そういえば朝トイレに
行っていない。コーヒーの利尿作用も予想外だった。今はさやかに宿題のことを
頼まれているのでトイレに行けそうにない。
結局その休憩、かすみはトイレをあきらめた。
次の時間は体育だった。寒いので着替えの時さやかたちは不機嫌だ。
こんな風向きの時にトイレに行きたいと言ったらどんな目にあうか分からない。
かすみも着替えて体育館に向かった。オシッコを我慢しながらの体育だったが、
かすみは平気だった。実はかすみはオシッコに関しては相当我慢強いのだ。
これには理由がある。
実は4年生の頃、さやかたちにさんざんトイレを我慢させられたことが
あったのだ。そんな日々が続くうちに鍛えられていったようだ。
やがてトイレ我慢のいじめはなくなったが、弱みを見せるとつけ込まれることが
経験で分かっていたので、その後も我慢できるときはトイレに行かないように
していた。
そうしているうちにかすみは家に帰るまでトイレを我慢するのが普通になってきた。
帰り道に感じる下腹部の重みが快感に思えるようにまでなってしまった。
一方で本当にヤバイ時にさやかたちに邪魔されることもなくなったので、
そんなときは安心してトイレが使えるようになった。おかげで泊りがけのキャンプや
修学旅行も無事にすごせた。そのうちに昔のように朝は水分を控えるという対策も
あまり気にしなくてよくなった。今日のように朝トイレに行かずに家を出るなんて
当時はありえないことだった。
昼は運悪く給食当番だった。手際が悪く、とうとうトイレに行けずじまいだった。
以前は食事の真っ最中にトイレに駆け込んだりしていたものだが、今は平然として
食事ができた。朝もトイレに行っていないというのに。でも、この昼休みのうち
には絶対トイレに行っておかないとヤバイ理由がある。
「じゃ頼むね」
さやかが牛乳を寄越した。5年生から続いている今の担任は、給食を残させて
くれない。パンが食べきれない子は机の中に隠してカビだらけにしたこともあった。
さやかは牛乳が苦手なので、かすみが飲んでやることになっている。これは
いじめられっ子のかすみがさやかたちと付き合うギブアンドテイクのひとつだった。
最初はトイレ我慢のいじめがバージョンアップで再開したのかと思ったが、
さやかにそのつもりはないようだし、美由紀や照美もイジメのアイデアに
取り入れたりはしなかった。
牛乳200mlを余分に摂っても、今のかすみなら何とか家までもつ日が多い。
しかし今日は朝からトイレに行ってない。昼に行きそびれると5時間目の間
我慢するのはきっと無理だろう。
「かすみ、悪いけどこれもいい?」
「私もー」
美由紀と照美まで牛乳をまかせて来た。なるほど今日は寒い。それで飲みたく
ないのだろう。立場の弱さが辛い。もっともこれだけ飲んでも家まで我慢する
わけじゃないからお安いご用だ。余分にさらに2本を飲み干そうとした時、
「こら!桐野何してる!」と担任の声。
残せないからと言って他人に押し付けてたのを見咎めて、担任はかすみたちを
呼んで説教をはじめた。こってりしぼられたあげく、罰として後片付けは
お前らでやれと怒鳴られた。かすみは元々給食当番だったのでいいが、
さやかたちはひどく不機嫌になっていた。もう掃除時間に食い込んでいたが、
4人で食器を運ぶため何往復かしなくてはならなかった。
いくら叱られても牛乳がさやかたちに戻るわけではない。
もう飲んでしまったものはどうにもならない。
かすみはどうしても5時間目の前にトイレに行かなければと思っていたが、
さやかたちは昼休みに見るつもりだった写真が張り出してある踊り場に向かっていた。
さやかたちの機嫌は最高に悪い。ここでトイレに行きたいとは言い出せない
雰囲気だった。そもそも4年生の時トイレを邪魔されるようになったのは、
さやかたちに誘われるのをトイレに行きたいと断ったのがきっかけだったのだ。
「かすみ、トイレ行きたくないの?」
途中でトイレの前を通ったとき、照美が聞いてきた。
さやかはトイレに寄ってたら写真を見る時間がなくなりそうで無意識に眉をひそめた。
「行きたくないよ」
さやかの表情を敏感に読みとって、かすみは心にもない返事をしてしまった。
もうトイレに行けない。5時間目の間じゅう我慢しなくてはならない。
オシッコ我慢にはかなり自信がついていたかすみだが、今の状態で1時間、
しかも800mlも水分を追加してというのは全く未知の領域だった。
「あああ…っ」
5時間目が始まって10分もしないうちに、かすみはものすごい尿意に責めたてられていた。
800mlが確実に膀胱に向かっているのだ。我慢に全神経を集中させる。
寒い日だというのに、かすみの顔はじっとりと汗ばんで紅潮している。
今までにないほど膀胱がふくらんでいくのが感じられる。息が荒くなる。
あと30分以上も耐えなければならない。
体を前に倒す。椅子によりかかる。左手は膝の上より股間にある時間のほうが
長い。両足はせわしく揺れ続けている。誰がどう見てもオシッコ我慢の姿だ。
さいわいかすみの席は最後列の端なので隣にいる美由紀しかかすみの異変に
気付いてない。
美由紀はこれまでに何度もかすみにオシッコを我慢させてきたが、かすみがこれほど
あからさまな我慢のしぐさを見せるのははじめてだった。
時々うめき声も聞こえる。たまに顔をあげるが、見ているのは黒板ではなく時計だろう。
見ている美由紀の方が辛いくらいだった。美由紀はかすみが朝から一度も
トイレに行っていないのは知らなかったが、800mlもの牛乳を飲んだというだけでも
尿意のものすごさは見当がつく。
かすみはこのまま次の休憩まで我慢するつもりなのだろうか?
気分が悪そうだと言って保健室に連れていくフリしてトイレに行かせてやろうと
思ったが、自分は保健委員ではないし、給食の事で担任は自分やかすみを
よく思ってないので逆効果なのは見当がつく。
こればかりは変わってやれるものではないし。
美由紀はかすみにトイレに行かせてもらえば、とささやいてみたが、
必死な顔で「あと15分」とつぶやいている。休憩まで我慢する気らしい。
5時間目終了まであと3分。どうやらかすみは耐えぬきそうだ。美由紀も
ドキドキしながら時計の残り秒数とかすみの姿を見比べていた。あと30秒…
あと29秒…あと28秒…
担任の話しぶりでは、ここままでは時間通りに終わるのかあやしい。
美由紀は心配そうにかすみを見る。かすみは両手をあそこに当てて、上体をときどき
前後に揺らしながら、真剣な目で時計を睨んでいる。
チャイムが鳴った。他の教室からざわめきが聞こえる。
かすみは大丈夫だろうか。このままでは他のクラスに先を越されてしまうし、まともに
廊下を歩けるのかもあやしそうだ。担任はまだ話し続けている。
物語の主人公の精神的苦痛は肉体的苦痛より大きかったのだ、とか言っている。
小説なんかより今のかすみの肉体的苦痛と精神的苦痛のほうがずっと生々しく
伝わってくる。それにしても長い。もう休憩に入って3分になる。かすみは目を
パチパチさせて辛さに耐えている。
「このまま6時間目と続ける」
担任がぶっきらぼうに言い放った。猛烈なブーイングの嵐。
かすみの表情に一瞬気弱なものがのぞいたように見えた。
男子の誰かが「トイレはー?」とぼやいている。
「トイレに行きたい人はいるか?」
なにをのんきな。かすみがどんなに我慢してるか知らないで!
結局、すぐにトイレ休憩は確保された。
といっても、かすみには何の救いにもならなかったのだが。
担任が「トイレに行きたい人はいるか?」と問いかけた時、もうかすみの
出口は最後の戒めが切れてしまっていた。
特に手をあげる生徒がいなかったので、担任は再び授業を始めた。
雑音がおさまった教室で、やっとシューという音が目立ちはじめた。
音はだんだん大きくなったが、誰も何の音か分からなかった。
かすみと美由紀を除いて。しばらくしてかすみの前の席の女子が
足元の水溜りに気付いた。
かすみは激しい尿意との戦いでゆでだこのように耳まで真っ赤になって
放心していた。放水は何分間続いただろう。おもらしで騒ぎになりはじめても
いっこうにかすみからあふれる熱湯は止まらなかった。
かすみは何人もの机の下を浸水させる信じられないほどの水溜りを作ると
クラスメイトたちが騒ぐ中放心を続けていた。