そうね。
ジョン・K・ノイズにせよミシェル・フーコーにせよ、欧米人だからねえ。
大陸に住まう狩猟民族、そこから生まれる契約社会。
これに対して本邦は、島国の農耕民族、「和をもって貴しとす」の(汚くいえば)馴れ合い社会。
ほら、国家意識「お上」ってのがあるじゃない。
こうした風土で、支配被支配の切り口から国家権力を論じられるか?
支配被支配の関係に何らかの感情移入が出来るか?
(これがなければSMの話になんかなりやしない、言うまでもなく)
極めて疑問なのよね。
「全面的に賛成というわけじゃない」(
>>851)といったのはそういう理由から。
風土その他の背景を考慮しながら読まなければ正しくは理解できない、
>>721の「時間空間を調整」のこんどは空間のほうね。
そこで注目したいのが、
>>860の「年の差」。
年上・年下、格上・格下…
日本もそうだけけど儒教の広まった国に根付いた、序列の概念。
「力の反転」ならぬ「序列の反転」(によるSM論)が、彼等欧米人の目にどのように映るか興味あるところ。