禁スロマラソン41km

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175( ´∀`)ノ7777さん
戦後
同年、日本の敗戦と同時に放射線障害によって血を吐いて倒れ、職を続けられなくなり、
そこで音楽を本職とすることを決意し上京。 
さらに『空の大怪獣ラドン』では、ピアノ内のピアノ線を直接ゴムのバチで叩いたり、『キングコングの逆襲』では、
同じくピアノ内のピアノ線を100円玉でしごくという奏法を使用している。
1950年代の一時期には、東宝に所属している俳優陣に対し、音楽の講義も行っている。
この時の教え子に宝田明や岡田真澄などがおり、宝田はその後も伊福部を慕っていることを、
映画の打ち上げ会や書籍などで語っている。
一方そのような映画音楽内での実験的な音響とは別に、演奏会用純音楽では調性と乖離する
世界の現代音楽の動向とは距離を置き、『シンフォニア・タプカーラ』などの代表作をこの時期生み出しながら、
オスティナートを基本とする自己の作風を貫き通した。
そのために戦後の一時期は退嬰的との不遇な評価に置かれるが、『ピアノと管絃楽のためのリトミカ・オスティナータ』
などに代表されるその反復語法ゆえにミニマルミュージックの開拓者の一人であるテリー・ライリーが表敬訪問するなど、
前衛の停滞以降は再評価が進んだ。
1974年(昭和49年)、60歳。東京音楽大学教授就任。
1976年(昭和51年)、62歳。同大学長就任。
1987年(昭和62年)、73歳。同大民族音楽研究所所長を経て、同大名誉教授。晩年は東京都世田谷区に居住した。
管弦楽曲、バレエ音楽、歌曲、室内・器楽曲など数多くを作曲。主な著作に『管絃楽法』、『音楽入門』などがある。
特に『管絃楽法』は上下巻1500ページ強にもおよび、半世紀を経た今でも日本の作曲教育の名教科書として使用されている。
一時期絶版となるも、伊福部自身による晩年の改訂作業を経て2008年(平成20年)に改訂版が出版され、再び入手可能となった。
晩年
晩年は旧作の改版も多く手がけ、デビュー作の『ピアノ組曲』に77歳になってオーケストレーションを施した『日本組曲』をはじめ、
年を重ねてからも大作を書く筆は衰えなかった。
この時期の改作としては、野坂惠子が開発した二十絃箏や二十五絃箏など箏の改良楽器およびその合奏のための作品が多い。