禁スロマラソン41km

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171( ´∀`)ノ7777さん
戦後
同年、日本の敗戦と同時に放射線障害によって血を吐いて倒れ、職を続けられなくなり、
そこで音楽を本職とすることを決意し上京。 
東京音楽学校(現東京藝術大学)学長からの誘いで作曲科講師に就任。
この作曲科では、初めて担当した芥川也寸志、黛敏郎などから大変慕われた。
特に前者の芥川は二回目の授業の後で奥日光の伊福部家を探し当て、数日逗留したという逸話を持つ。
そのほかにも教育者として松村禎三、矢代秋雄、池野成、小杉太一郎、山内正、石井眞木、三木稔、今井重幸、
石丸基司、今井聡、など多くの作曲家を育て、その傍ら、東宝の映画音楽の作曲にも携わった。
1947年(昭和22年)、33歳。『銀嶺の果て』で初めて映画音楽を担当。
この初仕事で、一見明るい場面に物悲しい音楽を付けるという音楽観の違いから監督の谷口千吉と対立した。
その日の録音を取りやめ、演奏者に帰ってもらった後、数時間議論を続けたという。
このとき仲裁をしたのが脚本の黒澤明であった。
黒澤の仲裁もあって曲はそのまま採用されたが、断片的な場面ごとではなく作品全体を見渡した結果としての
主人公の心情を表した音楽を意図した事が認められ、最終的には音楽への真摯な態度が製作側からも評価された。
1953年(昭和28年)、39歳。東京音楽学校の音楽科講師を退任。
1954年(昭和29年)、40歳。『ゴジラ』の音楽を担当。
以後、『ビルマの竪琴』や『座頭市』シリーズなど多くの映画音楽を手掛けた。
特に『ゴジラ』では、なかなか決まらず難儀していたゴジラの鳴き声の表現に、コントラバスのスル・ポンティチェロという
軋んだ奏法の音を使用することを発案したり(最終的に音響技師の三縄一郎が、テープを逆回転させるなどし、
完成させる)、劇中での秘密兵器オキシジェン・デストロイヤーを水槽内で実験するシーンでは、
弦楽器がグリッサンドしながら高音の軋んだトレモロを奏でた後でピアノの低音部がトーン・クラスターを奏する等、
映画の公開された1954年(昭和29年)にはまだ現代音楽界でも認知されていなかった手法を大胆に用いたことは、
世界的に見ても特筆に価するものだった。