禁スロマラソン41km

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169( ´∀`)ノ7777さん
この時の第2位は、伊福部と同じくほぼ独学で作曲を学んだ松平頼則であった。後に松平とは新作曲派協会を結成することになる。
同曲は翌年、セヴィツキー指揮、ボストン・ピープルス交響楽団によりアメリカで初演され、好評を得た。
なお初演の際、チェレプニン賞への応募に合わせて第1楽章はカットして演奏され、永遠に幻となった。
なお、この幻の日本狂詩曲第一楽章「じょんがら舞曲」は、日本狂詩曲のスコア浄書を手伝った、次兄・勲の追悼のために書かれた
『交響譚詩』の第二譚詩(第二楽章)にその一部が組み込まれている。
これを機に初演の年来日したチェレプニンに短期間師事する。
日本狂詩曲は大編成の大作だが、何度も演奏されやすいよう編成を考えて書くべきという
チェレプニンの意見に従い、次作として14人編成で全員ソロの小管弦楽曲『土俗的三連画』を書いた。
戦前・戦中
同年、厚岸森林事務所に林務官として勤務。この時期にアツケシザクラを発見した。
1938年(昭和13年)、24歳。以前書いた『ピアノ組曲』がヴェネチア国際現代音楽祭入選。
この時期は日本の民族音楽の他、アイヌやギリヤーク(ニヴフ)といった、
北海道や樺太の少数民族の文化に発想を求めた作品が多い。
1940年(昭和15年)、26歳。林務官を辞め、北海道帝国大学の演習林事務所に勤務。
1942年(昭和17年)、28歳。兄・勲が、東京・羽田で戦時科学研究の放射線障害により死去。
1943年(昭和18年)、29歳。勲に捧げる曲として『交響譚詩』を作曲。同曲はビクターの作曲コンクールに入賞し、
伊福部の作品として初めてレコード化されることとなった。
太平洋戦争に伴い、行進曲など軍隊のための音楽(『古典風軍樂「吉志舞」』『兵士の序楽』)や、政府の宣伝のための音楽
(『フィリッピン國民に贈る管絃樂序曲』『管絃楽のための音詩「寒帯林」』)も作曲した。
1945年(昭和20年)、31歳。帝室林野局林業試験場に兄と同じく戦時科学研究員として勤務。
放射線による木材強化の研究に携わるが、当時は防護服も用意されず、無防備のまま実験を続け、放射線障害を負うことになった。