禁スロマラソン41km

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168( ´∀`)ノ7777さん
なお、コープランドからは「面白いのでぜひ演奏したい」という返信があったが、スペイン内戦のため
手紙が途絶えたという。
この時期、後に作曲家となる早坂文雄と知り合う。
三浦、早坂らと「新音楽連盟」を結成し、当時の最先端の現代音楽作品を演奏していく傍ら、
独学で作曲法を習得していき、
伝統的な日本の音楽に根ざした作品造りに取り組んだ。
デビュー作・日本狂詩曲
1935年(昭和10年)、21歳。
大学を卒業後、アメリカの指揮者フェビアン・セヴィツキー(クーセヴィツキーの甥)の依頼により『日本狂詩曲』
(当初全3楽章)を作曲し、ボストンへ送る。
同年、パリでアレクサンドル・チェレプニン賞が催されると、審査員の中にモーリス・ラヴェルの名を見つけ、
ラヴェルに見てもらいたいという一心で、『日本狂詩曲』を賞の規定に合わせ第1楽章「じょんがら舞曲」
をカットして応募する。
結局ラヴェルは病気のため審査員を降りたが、チェレプニンを初めジャック・イベールやアルベール・ルーセルといった
フランス近代音楽を代表する作曲家たちが審査にあたった。
このコンクールは日本人に対して開かれたコンクールだが、審査会場はパリであった。
パリへ楽譜を送る際、東京からまとめて送る規定になっていたため伊福部の楽譜も東京へ届けられたが、東京の音楽関係者は
その楽譜を見て、平行五度などの西洋音楽の和声の禁則を無視し、その場の日本人にとって下衆に見えた日本の伝統音楽のような
節回しが多いこと、当時としては極端な大編成である編入楽器多数の三管編成オーケストラが要求されていたこと、
北海道の厚岸町から応募してきたこと、との理由から、相当の驚きと困惑があったと言う。
とくに1.の理由により「正統的な西洋音楽を学んできた日本の中央楽壇にとって恥だから、伊福部の曲を応募からはずしてしまおう」
という意見も出たが、「審査をするのは東京の我々(その場にいた日本人)ではなくパリの面々だし、応募規程を満たしているのに
審査をはずす理由もなく、せっかく応募してきたのだから」という理由で、伊福部の曲も無事パリの審査会場へ届けられた。
結果は伊福部が第1位に入賞し、世界的評価を得ることとなった。