【有意義な日を】禁スロマラソン40km【過ごそうよ】

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464( ´∀`)ノ7777さん
筆まめという一面もあった。
日本プロレス時代に長期海外遠征を行った際には、親しい記者などに、
丁寧な文体で書かれた近況の手紙を、定期的に送っていたという。
上田が新日正規軍から離れ(前述)セミリタイヤ状態となった後、新日本は「ニューリーダー対ナウリーダー」
という世代闘争に入ったが、ある時上田が突如会場に現われ「何がニューリーダーだ、お前らの立場を考えろ」
というマイクアピールを行った。
このもようは「言いたい事だけ言って上田は去っていった…」という見出し付きで、当時の週刊プロレスの表紙を飾った。
後日の同誌のインタビューでは「団体に育ててもらい、今も世話になっている身で、それに刃向かうべきではない」
とニューリーダーの姿勢を批判、さらに「そんな人間を勘違いさせる、おたくらマスコミも悪い」とも語っていた。
密告事件
力道山が亡くなった後の日本プロレス末期に、不透明な経理に不満を抱いていた馬場・猪木ら選手会一同は、
一部幹部の退陣を要求しようと密かに画策していた。もし要求が受け入れられない場合は、選手一同が退団する
という嘆願書に全員がサインをしていたという。
ところが、仲間だと思っていた上田が「猪木が日本プロレスを乗っ取ろうとしている」と幹部に密告したため、
慌てた幹部連中の懐柔工作によって選手達は次々と寝返り、猪木のみが孤立し選手会を除名され、
日本プロレスから永久追放される事件が起きた。
一方で、猪木と腹心の仲でありサイドビジネスの手伝いもしていた経理担当の某氏が、不透明な小切手を切ったり、
猪木を社長に祭り上げて日本プロレスの経営権を握ろうと画策しているかのような動きを見せたため、
この事に気付き危機感を持った上田が馬場に相談したのが発端であったともいわれている。
当時の日本プロレスは暴力団との関係が取り沙汰されたり(ただし当時の「興行」は良くも悪くも現在の価値観で言う
暴力団の影響を免れることは有り得なかった)、ドンブリ勘定の資金管理など闇の部分が存在したのは間違いない。
猪木自身は自著である『アントニオ猪木自伝』の中でこの件について触れ「経営陣の不正を正したかった事に嘘はない」
としているが、誤解を与える行動があったのは事実で100%非がないとは言い切れない。