【有意義な日を】禁スロマラソン40km【過ごそうよ】

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463( ´∀`)ノ7777さん
また茅ヶ崎のダウン症の子供たち向けに焼き物を作ることを通して、コミュニケーション能力を教えている
施設の遠足会には「荷物持ちのおじちゃん」として参加。川原でのバーベキュー等でも活躍。
以上のことから家族にアンチファンからの危害が及ぶことを懸念して、アメリカ・フロリダ州
ペンサコーラに移住していた時期がある。
入場時には、スポンサーであるキャピタルエース(合同商事)のジャージを永年着用していた。
自身の隆盛期が過ぎた頃に、海外で顔にペイントをし「テング」のキャラクターとリングネームでも活躍していた。
なお日本では全日で一回だけ、ザ・グレート・カブキとのシングルが組まれた際にこのキャラクターで試合をした。
引退のきっかけとなった交通事故で、運転していたIWAジャパンの営業部員は死亡した。
その話を聞き「俺が死ねばよかった。なんで人生まだこれからの若いやつが死ななきゃならないんだ」と号泣したという。
交通事故の直後は首から下が動かない状態であったが、リハビリを経て、プロレス会場に車イスで来場できるほどまで回復した。
また、往年のファンのために来場時にはトレードマークの金髪に染めている。
外人レスラーのギャラが日本人レスラーより極端に偏っていたことに警鐘を鳴らしていたことでも有名で、
上田のギャラは相方のタイガー・ジェット・シンと比べ物にならないくらい安かったという。
上田馬之助はSWSが失敗した原因について、「(SWS移籍前の天龍の全日本最後の試合で)
最後に鶴田にピンフォール負けを喰らった奴の試合なんて誰が見るの?」と語っていた。
5歳のときに手品師のまねをしようとして左耳に大豆を入れたのが原因で鼓膜を失い、
それ以降左耳は全く聞こえない状態だったという。
また右耳もその後中耳炎を患ったため聴力が低下しており、聴力にかなりのハンデがあったが、
現役時代はそのことを伏せて戦っていた。
深夜、出待ちの中学生に隠し撮りをされたことがあった。
気付いた上田は「こら!」と叱ったが、少年の自宅に「必ず息子さんをお返しします」と電話した上で、
「写真を撮りたいときはな、まず相手の人にお願いするんだぞ」と優しく諭し、
その場で書いたサインを持たせて家まで送り届けたという。