【有意義な日を】禁スロマラソン40km【過ごそうよ】

このエントリーをはてなブックマークに追加
462( ´∀`)ノ7777さん
相撲時代に毛筆の訓練を受けたために、能筆としても知られていた。
サインの筆跡を似せるほど力道山に傾倒し、日本プロレス時代に交付されたプロレスラーのライセンス証を、
後年になっても肌身離さず持ち歩いていたという。
「力道山先生の頃の本格的なプロレスを復活させるのが夢」「統一コミッショナーの下、プロレスに
ライセンス制度を復活させるべきだ」というような発言もしている。
全日本プロレスを離脱してフリーとして渡米した理由を「前座扱い」としていたが、
親しいプロレス関係者には、日本プロレスのレフェリーだった沖識名がハワイへ帰国する際に、
全日が「ありがとう興行」を実施したのに売上から餞別を一切渡さなかった
(松岡巌鉄と上田がファイトマネーの中から餞別を渡した)事が最終的なきっかけだったと語り、
後にその逸話はプロレス雑誌に紹介された。
アナウンサーの徳光和夫とは、お互いの若手時代から親しく、徳光は上田のことを「馬さん」と呼んでいる。
上田が大事故による障害を負った後に日本テレビの『24時間テレビ』に出演した際、
徳光が「馬さんもこんな辛いことになってしまって……」と語りかけると、上田も眼を潤ませながら
「徳光さん、私は大丈夫です。元気ですよ」と応じた。
ライバルを問われると「お客さん」と答えた。
観客の目を意識できないものは評価されないプロレスの世界において、まったくの正論である。
場外乱闘時に逃げ遅れた観客の老婆を見て乱闘をやめたり、タイガー・ジェット・シンが暴れている時に周囲の
(無関係の)一般人が近づくのを必死になって制止したことがある。
徹底したヒールキャラを通していたため、親類の幼い子供から「おじちゃんは家に来ないで!」と言われたことがあるらしい。
プロとしてヒールを演じていた上田は後に「あれが精神的に一番辛かった」と述べたという。
しかし、現在行っている施設慰問は現役当時から続けているもので、訪問先では「上田のおじちゃんが来た!」
と子供たちに大喜びで迎えられていたという。
施設慰問のことを取材したマスコミが「このことを記事にしてもいいか?」と聞いたら上田は
「そんなことしたら俺の悪役のイメージが壊れるからやめてくれ」と断った。