【有意義な日を】禁スロマラソン40km【過ごそうよ】

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155( ´∀`)ノ7777さん
もっとも、難しければ無理をせず、フライパンを傾けながらフライ返し一本で返す方が簡単かつ確実である)。
ただしフライパンは鉄板より厚さが薄く、より直火に近いため、強火にしすぎると中まで火が通る前に
表面が焦げやすくなる。
そのためコテ等で圧縮して早く焼き上げてしまいたくなるが、これは逆効果である。
焦げ付きを防ぎ、かつしっかりと中まで火を通すためには、蓋をして焼く事が好ましい。
こうすれば、最大限の火の通りを期待できる。
ある程度形が出来上がってきたら箸を突き刺し、ドロドロの生地がついてこなかったら頃合である。
それ以降は蓋をせずに両表面をカリッと焼き上げれば、中はふわっとしたままの、絶妙な焼き上がりのお好み焼きが出来上がる。
頻繁にひっくり返す焼き方はかえって良くない。店では二回程度で済ませてしまう場合がほとんどである。
広島風お好み焼き
成り立ち
主食の米が不足した戦争時代に子供のおやつだった一銭洋食を元に野菜などを増やしたものがお好み焼きの始まり。
2006年現在、広島市だけで800軒以上(1992年中国新聞調べからの推定)、広島県内には2000軒あるといわれる。
1950年頃に発生した屋台街(後にお好み村になる)で開業したみっちゃんの井畝満夫と善さんの中村善二郎が
広島風お好み焼きの元祖と言われている。1950年当時のお好み焼きはねぎ焼きに近い物であった。
戦争や原爆で夫を亡くし、自宅の土間を改造して店を始めた女性も多く「〇〇ちゃん」という屋号が多いのはその名残りである。
また、1963年に中国地方を襲った昭和38年1月豪雪で、中国山地の農村から一家で離村し、
高度経済成長期の広島市に移住した農家の主婦が開業した例も多い。
現在も町の小さなお店に、老婦人が一人で焼く店舗が残るのはこの理由もある。
昭和40年代頃までは、家から卵や肉をお店に持っていって入れてもらう事が出来た。
現在は卵や肉は、基本で入っている場合が多いが、昔は野菜とそばだけ、あるいは野菜だけも珍しくはなかった。
この頃の野菜だけの値段は250円程度だった。
またお店で食べず、家に持って帰る場合は家から平らな皿を持っていった。